東南 とうなん アジア
国家 こっか
面積 めんせき
• 合計 ごうけい
4,545,792 km2 人口 じんこう
• 合計 ごうけい
641,775,797人 にん • 密度 みつど
140人 にん /km2 等 ひとし 時 とき 帯 おび
東南 とうなん アジア (とうなんアジア、英語 えいご : Southeast Asia, Southeastern Asia )は、アジア のうち南シナ海 みなみしなかい 周辺 しゅうへん に位置 いち している国々 くにぐに を指 さ す地域 ちいき 区分 くぶん である。インドシナ半島 いんどしなはんとう 、マレ まれ ー半島 はんとう 、インドネシア諸島 しょとう 、フィリピン諸島 しょとう アジアと島嶼 とうしょ 部 ぶ 東南 とうなん アジア に分 わ けられる。
国連 こくれん による世界 せかい 地理 ちり 区分 くぶん [1]
東南 とうなん アジアという用語 ようご は比較的 ひかくてき 新 あたら しく、初出 しょしゅつ は1830年代 ねんだい である。当時 とうじ の地理 ちり 学 がく や歴史 れきし 学 がく が国家 こっか 論 ろん や支配 しはい 論 ろん に偏 かたよ っていたこともあり、当初 とうしょ は考古学 こうこがく や民族 みんぞく 学 がく 用語 ようご としてのみ普及 ふきゅう した[2] 。地理 ちり 概念 がいねん として一般 いっぱん 化 か したのは、1942年 ねん に連合 れんごう 国 こく 軍 ぐん が「東南 とうなん アジア司令 しれい 部 ぶ 」をセイロン に設置 せっち し、戦後 せんご 処理 しょり を進 すす める連合 れんごう 軍 ぐん の作戦 さくせん 領域 りょういき 名 めい として政治 せいじ 的 てき にも公式 こうしき 化 か されるようになってからである。ただし、現在 げんざい でもイギリス英語 えいご やフランス語 ふらんすご では、東南 とうなん アジアという概念 がいねん に島嶼 とうしょ 部 ぶ を含 ふく めないことが多 おお い[3] 。日本 にっぽん の旅行 りょこう 案内 あんない 書 しょ などでは「香港 ほんこん ・マカオ ・台湾 たいわん など」を含 ふく めていることもあるが、通常 つうじょう は東 ひがし アジア の扱 あつか いとなる。
東南 とうなん アジアの地図 ちず
東南 とうなん アジアの範 はん 域 いき
国際 こくさい 連合 れんごう によるアジアの地域 ちいき の分類 ぶんるい 東南 とうなん アジア
平均 へいきん 気温 きおん 25度 ど 以上 いじょう で、大 だい 部分 ぶぶん がケッペンの気候 きこう 区分 くぶん でいう熱帯 ねったい [注釈 ちゅうしゃく 1] であり、熱帯 ねったい 特有 とくゆう の急 きゅう な雷雨 らいう 、スコール が雨季 うき に多 おお く見 み られる。湿潤 しつじゅん 熱帯 ねったい に属 ぞく する島嶼 とうしょ 部 ぶ では一年中 いちねんじゅう 降水 こうすい 量 りょう が多 おお いが、大陸 たいりく 部 ぶ やインドシナ半島 いんどしなはんとう はモンスーン [注釈 ちゅうしゃく 2] の影響 えいきょう を受 う けてサバナ気候 きこう となり、雨季 うき と乾季 かんき がはっきりしている。
熱帯 ねったい 雨林 うりん
フィリピン諸島 しょとう からボルネオ、スラウェシの北半 きたはん 、ジャワ西部 せいぶ 、スマトラにかけての島嶼 とうしょ 部 ぶ 、アラカン地域 ちいき 沿岸 えんがん 、マレ まれ ー半島 はんとう 西岸 せいがん 。常時 じょうじ 25℃を上回 うわまわ る高温 こうおん と、年間 ねんかん 2000 mmから4000 mmの多雨 たう で、植物 しょくぶつ の宝庫 ほうこ 。
熱帯 ねったい 高地 こうち
パマス(南 みなみ スマトラ州 しゅう )、ミナンカバウ(西 にし スマトラ州 しゅう )などのスマトラ背 せ 梁 はり 山脈 さんみゃく の中 なか の盆地 ぼんち は、1500メートル前後 ぜんこう の高度 こうど で、湿度 しつど が高 たか いが冷涼 れいりょう な気候 きこう 。古 ふる くから人 ひと が居住 きょじゅう し、集約 しゅうやく 的 てき 稲作 いなさく が行 おこな われている。
沿岸 えんがん 低地 ていち
熱帯 ねったい 雨林 うりん 帯 たい の沿岸 えんがん は、砂丘 さきゅう 以外 いがい は泥炭 でいたん 林 りん とマングローブ 林 はやし で農業 のうぎょう に不適 ふてき であるが、砂丘 さきゅう 地帯 ちたい とともに漁業 ぎょぎょう ・海運 かいうん の基地 きち である。
サバンナ平原 へいげん
大陸 たいりく 東南 とうなん アジアでは、乾 かわ いた北東 ほくとう モンスーンの影響 えいきょう で、冬季 とうき には強 つよ い乾季 かんき があり、雨季 うき に茂 しげ り乾季 かんき に落葉 らくよう する雨 あめ 緑林 りょくりん が多 おお い。ビルマ平原 へいげん では、南西 なんせい モンスーンの影響 えいきょう で乾燥 かんそう 地帯 ちたい になる。古 ふる い時代 じだい から平原 ひらはら 畑作 はたさく が進 すす み、周 まわ りの山地 さんち からの流水 りゅうすい を利用 りよう した灌漑 かんがい が発達 はったつ している。東北 とうほく タイのコラート平原 へいげん 、カンボジア平原 へいげん では、雨季 うき と乾季 かんき の降水 こうすい 量 りょう に差 さ があるが、雨 あめ 緑林 りょくりん が形成 けいせい される。夏季 かき には長期 ちょうき に降水 こうすい があり、天水 てんすい 稲作 いなさく が広 ひろ がっている。
デルタ
三 さん 大 だい デルタ(イワラジ、チャオプラヤー、メコン)はサバンナ気候 きこう である。乾季 かんき にはほとんど降雨 こうう がない。しかし、雨季 うき には河川 かせん が洪水 こうずい を引 ひ き起 お こすほどである。
東南 とうなん アジアに属 ぞく する国家 こっか を、英語 えいご 表記 ひょうき 順 じゅん に国名 こくめい - 首都 しゅと の順 じゅん で表記 ひょうき する。
東南 とうなん アジア諸国 しょこく の各国 かっこく の歴史 れきし については、以下 いか を参照 さんしょう 。
インドネシアの歴史 れきし - カンボジアの歴史 れきし - シンガポールの歴史 れきし - タイの歴史 れきし - フィリピンの歴史 れきし - ブルネイの歴史 れきし - ベトナムの歴史 れきし - マレーシアの歴史 れきし - ミャンマーの歴史 れきし - ラオスの歴史 れきし - 東 ひがし ティモールの歴史 れきし
東南 とうなん アジアの歴史 れきし は、各国 かっこく の歴史 れきし として著述 ちょじゅつ されることが多 おお い。しかし特 とく にマレ まれ ー半島 はんとう および島嶼 とうしょ 部 ぶ では、各国 かっこく の領域 りょういき は19世紀 せいき から20世紀 せいき 初 はじ めにかけて、欧米 おうべい 列強 れっきょう が植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ に基 もと づき東南 とうなん アジアを分割 ぶんかつ した結果 けっか 生 しょう じたものが後 のち に独立 どくりつ 国家 こっか として認 みと められたものであり、政治 せいじ 的 てき 色彩 しきさい が非常 ひじょう に濃 こ いといえる。
東南 とうなん アジアの歴史 れきし は、そのような政治 せいじ 的 てき な現代 げんだい 国家 こっか の歴史 れきし を離 はな れ、伝統 でんとう 的 てき な政治 せいじ 圏 けん 、つまり、政治 せいじ 的 てき ・文化 ぶんか 的 てき 中心 ちゅうしん 都市 とし とその周辺 しゅうへん の圏 けん 的 てき な空間 くうかん の歴史 れきし 、別 べつ な言葉 ことば で言 い えば歴史 れきし 圏 けん を対象 たいしょう とするものである。また、元来 がんらい この地域 ちいき は封建 ほうけん 主義 しゅぎ 、中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 、皇帝 こうてい 専制 せんせい とは違 ちが った、マンダラ論 ろん といった説 せつ で解 と き明 あ かされる重層 じゅうそう 的 てき な権力 けんりょく 構造 こうぞう がみられた地域 ちいき であることも近年 きんねん では重要 じゅうよう 視 し されている。また日本 にっぽん との関係 かんけい も、一部 いちぶ の先住民 せんじゅうみん が渡来 とらい したことや太平洋戦争 たいへいようせんそう において各国 かっこく に進入 しんにゅう し、その後 ご 高度 こうど 経済 けいざい 成長 せいちょう 期 き に多数 たすう の企業 きぎょう が進出 しんしゅつ するなど、非常 ひじょう に深 ふか いものがある。
東南 とうなん アジアの人類 じんるい 文化 ぶんか は、2~3万 まん 年 ねん 前 まえ の後期 こうき 旧石器時代 きゅうせっきじだい から始 はじ めることができる。それは、大陸 たいりく 部 ぶ でも島嶼 とうしょ 部 ぶ でも洞穴 どうけつ や岩 いわ 陰 かげ で人間 にんげん が生活 せいかつ した痕跡 こんせき を得 え られるからである。
大陸 たいりく 部 ぶ では、ベトナム北部 ほくぶ のソンヴィー文化 ぶんか 、ホアンビン文化 ぶんか 、バクソン文化 ぶんか 、ダブート文化 ぶんか とたどることができる。ソンヴィー文化 ぶんか は、礫 つぶて の周囲 しゅうい を打 う ち欠 か いた石器 せっき を主 おも とする。旧 きゅう ヴィンフー 省 しょう のソンヴィー遺跡 いせき で発見 はっけん され、放射 ほうしゃ 性 せい 炭素 たんそ 年代 ねんだい 測定 そくてい では2万 まん ~1万 まん 2000年 ねん 前 まえ である。磨 すり 製 せい 石器 せっき を伴 ともな わないことから旧石器時代 きゅうせっきじだい に属 ぞく する。次 つぎ にホアビン文化 ぶんか は、ベトナムホアビン省 しょう の洞窟 どうくつ ・岩 いわ 陰 かげ 遺跡 いせき 群 ぐん から名 な づけられた文化 ぶんか 。原初 げんしょ 的 てき な形態 けいたい の石器 せっき に加 くわ えスマトリアスなどの進 すす んだ形態 けいたい が特徴 とくちょう であり、部分 ぶぶん 的 てき に磨 すり 製 せい した石器 せっき も現 あらわ れる。食料 しょくりょう 残滓 ざんし に貝殻 かいがら (淡水 たんすい のタニシ やカタツムリ )、獣 しし 骨 こつ の層 そう が伴 ともな う。
年代 ねんだい 測定 そくてい では、ほぼ1万 まん 1000から7500年 ねん 前 まえ で、中 ちゅう 石器 せっき 文化 ぶんか に位置 いち する。この文化 ぶんか は大陸 たいりく 部 ぶ 全域 ぜんいき からマレ まれ ー半島 はんとう 、スマトラ島 すまとらとう まで広 ひろ く分布 ぶんぷ する。ランソン省 しょう バクソン山地 さんち に見 み られるバクソン文化 ぶんか は、刃 は 部 ぶ 磨 すり 製 せい 石斧 せきふ が主体 しゅたい である。時 とき によって土器 どき を伴 ともな う。タインホア省 しょう タブート 遺跡 いせき は、淡水 たんすい の大 おお きな貝塚 かいづか 遺跡 いせき で、石器 せっき の変化 へんか はあまり見 み られないが、重要 じゅうよう な変化 へんか は土器 どき の出現 しゅつげん である。全体 ぜんたい の形 かたち が分 わ かるものは少 すく ないが、そこの丸 まる い深 ふか 鉢形 はちがた である。厚手 あつで 軟質 なんしつ で無 む 文様 もんよう 、叩 はた き締 じ め技法 ぎほう で叩 たた く棒 ぼう に巻 ま いた繊維 せんい の跡 あと が全体 ぜんたい についている。この技法 ぎほう は中国 ちゅうごく から南下 なんか した。放射線 ほうしゃせん 炭素 たんそ 年代 ねんだい では約 やく 6000年 ねん 前 まえ である。ゲアン省 しょう クインヴァン 遺跡 いせき は海 うみ の貝 かい からなる大 おお きな貝塚 かいづか で、大 おお きな石 いし を打 う ち割 わ った石器 せっき や少量 しょうりょう の全 ぜん 磨 すり 製 せい 石斧 せきふ 、粗雑 そざつ な尖 とんが 底 そこ の土器 どき を伴 ともな う。放射 ほうしゃ 性 せい 炭素 たんそ 年代 ねんだい は4700年 ねん 前 まえ である。
東南 とうなん アジアは基本 きほん 的 てき に多 おお くの民族 みんぞく が農耕 のうこう 民族 みんぞく である。ベトナムでは4000年 ねん ほど前 まえ から農耕 のうこう を始 はじ め、現在 げんざい のタイ王国 おうこく の周辺 しゅうへん でも紀元前 きげんぜん 300年 ねん 頃 ごろ には農耕 のうこう が始 はじ まっていた。カンボジアでも4世紀 せいき 頃 ごろ にもなると、東南 とうなん アジア有数 ゆうすう の稲作 いなさく 地帯 ちたい となっていた。現在 げんざい でも東南 とうなん アジアは世界 せかい 有数 ゆうすう の農業 のうぎょう 国家 こっか 群 ぐん である。
中国 ちゅうごく 、インドの影響 えいきょう と伝統 でんとう 的 てき 国家 こっか の成立 せいりつ [ 編集 へんしゅう ]
東南 とうなん アジアは、(フィリピンを除 のぞ き)中国 ちゅうごく とインドの交易 こうえき ルートの中 なか 間 あいだ 地帯 ちたい にあり、中継 ちゅうけい 点 てん として古 ふる くから発展 はってん し、中国 ちゅうごく ないしインドからの文化 ぶんか 的 てき 影響 えいきょう 下 か のもとに各地 かくち に伝統 でんとう 的 てき 国家 こっか が成立 せいりつ することになり(インド化 か )、その後 ご 、それぞれが独自 どくじ の歴史 れきし 的 てき 発展 はってん を遂 と げた。古代 こだい インド人 じん は、この地 ち を「黄金 おうごん 州 しゅう 」ないし「黄金 おうごん の地 ち (スヴァルナブーミ/スワンナプーム(सुवर्णभूमि/สุวรรณภูมิ))」と呼 よ び、中国人 ちゅうごくじん は「南海 なんかい 」と称 しょう していた。
東南 とうなん アジア海域 かいいき の政治 せいじ 勢力 せいりょく は、扶南 を経由 けいゆ して中国 ちゅうごく 南朝 なんちょう の各 かく 朝 あさ と交渉 こうしょう してきたが、6世紀 せいき の前半 ぜんはん には、南シナ海 みなみしなかい 、マレ まれ ー半島 はんとう 、マラッカ海峡 かいきょう 、ジャワ島 じゃわとう 、バリ島 ばりとう にそれぞれ国 こく が形成 けいせい され、中国 ちゅうごく 南朝 なんちょう [注釈 ちゅうしゃく 3] と直接 ちょくせつ 交渉 こうしょう をもつようになり、積極 せっきょく 的 てき に朝貢 ちょうこう するようになった。しかし、中国人 ちゅうごくじん の東南 とうなん アジアに対 たい する認識 にんしき は、依然 いぜん として島嶼 とうしょ 部 ぶ または大陸 たいりく 部 ぶ 沿岸 えんがん の港 みなと 市 し 国家 こっか 群 ぐん の世界 せかい であった。
4世紀 せいき 末 まつ からインド思想 しそう が、東南 とうなん アジアの王権 おうけん システムそのものに影響 えいきょう を与 あた えた。4世紀 せいき から6世紀 せいき にかけて、東南 とうなん アジア各地 かくち に南 みなみ インド系 けい のアルファベットを用 もち いた碑文 ひぶん 群 ぐん が出現 しゅつげん してくる。島嶼 とうしょ 部 ぶ では4世紀 せいき に東 ひがし カリマンタンのクタイ王国 おうこく からムーラヴァルマン碑文 ひぶん 、西 にし ジャワのボゴール周辺 しゅうへん からブールナヴァルマン碑文 ひぶん が出土 しゅつど する。メコンデルタでは5~6世紀 せいき には、「扶南碑文 ひぶん 」と総称 そうしょう される碑文 ひぶん 群 ぐん が出土 しゅつど する。またオケオ をはじめとする各地 かくち で発見 はっけん されるインド系 けい の神像 しんぞう 、仏像 ぶつぞう はインド思想 しそう の大 だい 規模 きぼ な流入 りゅうにゅう を証明 しょうめい している。
欧米 おうべい 列強 れっきょう による植民 しょくみん 地 ち 化 か [ 編集 へんしゅう ]
19世紀 せいき 、東南 とうなん アジア諸国 しょこく では欧米 おうべい 列強 れっきょう による植民 しょくみん 地 ち 化 か が進 すす められた。以下 いか に見 み るように各地 かくち によってさまざまな支配 しはい 体制 たいせい がとられたが、共通 きょうつう 点 てん として「二 に 重 じゅう 経済 けいざい 」、「複 ふく 合 あい 社会 しゃかい 」、「分割 ぶんかつ ・間接 かんせつ 支配 しはい 」の三 さん 点 てん がしばしば挙 あ げられる。すなわち、近代 きんだい 資本 しほん 主義 しゅぎ 経済 けいざい と伝統 でんとう 的 てき 農業 のうぎょう 経済 けいざい の併存 へいそん 、民族 みんぞく 的 てき 多様 たよう 性 せい に基 もと づく社会 しゃかい 構成 こうせい 、旧 きゅう 支配 しはい 層 そう による秩序 ちつじょ 温存 おんぞん とそれを利用 りよう した分割 ぶんかつ ・間接 かんせつ 支配 しはい の三 さん 点 てん である。
地域 ちいき 別 べつ に植民 しょくみん 地 ち 化 か の特徴 とくちょう を見 み ていくと、まずジャワ・スマトラ周辺 しゅうへん (大 だい スンダ列島 れっとう 南部 なんぶ )では、19世紀 せいき 初頭 しょとう には特定 とくてい の港湾 こうわん や沿岸 えんがん 部 ぶ などのみが支配 しはい されていたが、次第 しだい にイギリス ・オランダ 間 あいだ の支配 しはい 権 けん 競争 きょうそう が激 はげ しくなり始 はじ めた。オランダ政府 せいふ は、ジャワ島 じゃわとう でサトウキビ 、コーヒー 、タバコ などを強制 きょうせい 的 てき に栽培 さいばい させ、現地 げんち の農民 のうみん は搾取 さくしゅ によって貧窮 ひんきゅう に追 お い込 こ まれた。それに伴 ともな い、各地 かくち で抵抗 ていこう 戦争 せんそう が19世紀 せいき 末 まつ から20世紀 せいき 初頭 しょとう まで頻発 ひんぱつ した。
ボルネオ島 とう 北部 ほくぶ ・西部 せいぶ では、ブルネイ のスルタンが、部族 ぶぞく 反乱 はんらん の鎮圧 ちんあつ 者 しゃ に褒美 ほうび として地方 ちほう 統治 とうち 権 けん を与 あた えていたことから、現在 げんざい のサラワク州 しゅう に白人 はくじん 王 おう による国家 こっか ・サラワク王国 おうこく が成立 せいりつ し、また現在 げんざい のサバ州 しゅう はシーク教徒 きょうと 保護 ほご 名目 めいもく で乗 の り込 こ んだイギリスによって植民 しょくみん 地 ち 化 か された。ボルネオ島 とう 南部 なんぶ では、客 きゃく 家 か によるアジア初 はつ の共和 きょうわ 国 こく である蘭 らん 芳 よし 公司 こうし が存在 そんざい していたが、蘭 あららぎ 芳 よし 公司 こうし の対外 たいがい 政策 せいさく は清 きよし 王朝 おうちょう の権威 けんい を利用 りよう したものであり、アヘン戦争 せんそう で清 きよし が敗 やぶ れるとオランダに攻 せ められ滅亡 めつぼう した。
フィリピン諸島 しょとう では、族長 ぞくちょう ラプ=ラプ が巧 たく みな戦術 せんじゅつ により一旦 いったん はマゼラン の軍隊 ぐんたい を破 やぶ ったが、次第 しだい にスペイン勢力 せいりょく に浸食 しんしょく され、ブルネイの敗北 はいぼく でイスラムの権威 けんい が弱 よわ まったことがそれを決定 けってい づけた。スペイン統治 とうち 下 か では、スペイン 人 ひと を中心 ちゅうしん とした大 だい 土地 とち 所有 しょゆう 者 しゃ の下 した で小作 こさく 農民 のうみん が過酷 かこく な労働 ろうどう を強 し いられるアシエンダ制 せい が横行 おうこう していた。新興 しんこう 地主 じぬし や知識 ちしき 人 じん 階級 かいきゅう はこうした社会 しゃかい 矛盾 むじゅん に反抗 はんこう し、フィリピン同盟 どうめい (1892年 ねん 結成 けっせい )などの民族 みんぞく 主義 しゅぎ 運動 うんどう を起 お こした。1898年 ねん の米 べい 西 にし 戦争 せんそう に勝利 しょうり したアメリカ の協力 きょうりょく の下 した 、エミリオ・アギナルド はフィリピンの独立 どくりつ 宣言 せんげん を発表 はっぴょう し、初代 しょだい 大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん した。しかしその後 ご 、領有 りょうゆう を主張 しゅちょう するアメリカに弾圧 だんあつ され、アギナルドは捕 と らえられた。
マレ まれ ー半島 はんとう は1511年 ねん のポルトガルによるマラッカ征服 せいふく を期 き に植民 しょくみん 地 ち 化 か され、のちにイギリスのものとなった。シンガポールはイギリスの貿易 ぼうえき ・軍事 ぐんじ の拠点 きょてん として繁栄 はんえい した。
カンボジアは前 ぜん 世紀 せいき からベトナム・タイ両国 りょうこく からの激 はげ しい圧迫 あっぱく に悩 なや まされ、幾度 いくど も国土 こくど 消失 しょうしつ の危機 きき があったために、メコン川 がわ を境 さかい に国土 こくど が両国 りょうこく に分割 ぶんかつ されることを恐 おそ れたアン・ドゥオン 王 おう とノロドム 王 おう により、自 みずか らフランスの保護 ほご 国 こく となった。
ベトナムは、最後 さいご の王朝 おうちょう である阮朝 の建国 けんこく の際 さい にフランスを始 はじ めとする勢力 せいりょく の助力 じょりょく を得 え たことが後 のち に仇 かたき となり、一部 いちぶ はフランスの保護 ほご 国 こく 、また一部 いちぶ は直轄 ちょっかつ 植民 しょくみん 地 ち となっていった。
ラオスでは、タイの隷属 れいぞく 化 か にあったルアンパバーン、ヴィエンチャン、チャンパサックの各 かく 王国 おうこく が仏 ふつ 泰 たい 戦争 せんそう の結果 けっか としてフランスの領土 りょうど となっていった。
ミャンマーは、三 さん 度 ど に渡 わた るイギリスの侵略 しんりゃく (英 えい 緬 はる 戦争 せんそう )を受 う け、英 えい 領 りょう インド帝国 ていこく の一 いち 州 しゅう に組 く み込 こ まれた。
タイは、イギリス、フランス の侵略 しんりゃく に悩 なや まされるが、政治 せいじ や教育 きょういく などの近代 きんだい 化 か 政策 せいさく と巧 たく みな外交 がいこう 、領土 りょうど 割譲 かつじょう といった代償 だいしょう によって、東南 とうなん アジアで唯一 ゆいいつ 独立 どくりつ を保 たも ち、英 えい 仏 ふつ の緩衝 かんしょう 国家 こっか となった。
このような植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい の確立 かくりつ は現地 げんち 民 みん の反発 はんぱつ を招 まね き、19世紀 せいき 末 まつ から20世紀 せいき 初 はじ めにかけて、遅速 ちそく の差 さ があるが東南 とうなん アジア世界 せかい にナショナリズムの芽 め が生 う まれてきていた。
「東南 とうなん アジア」の呼称 こしょう が広 ひろ く用 もち いられるようになったきっかけは、1942年 ねん に連合 れんごう 国 こく 軍 ぐん が「東南 とうなん アジア司令 しれい 部 ぶ 」を設置 せっち したときである。日本 にっぽん 軍 ぐん の作戦 さくせん 区域 くいき であるイギリス領 りょう ビルマおよびマラヤ、フランス領 りょう インドシナ、オランダ領 りょう 東 ひがし インド、アメリカ領 りょう フィリピンの4植民 しょくみん 地 ち およびタイ王国 おうこく を包括 ほうかつ するような概念 がいねん がなく、このときに「東南 とうなん アジア」なる用語 ようご が取 と り上 あ げられた。さらに、太平洋戦争 たいへいようせんそう 後 のち には、戦後 せんご 処理 しょり を進 すす める連合 れんごう 軍 ぐん の作戦 さくせん 領域 りょういき 名 めい として政治 せいじ 的 てき にも公式 こうしき 化 か されることになった。この後 のち 、米国 べいこく を中心 ちゅうしん とする「東南 とうなん アジア」研究 けんきゅう 者 しゃ たちによって広 ひろ く用 もち いられるようになり、やがて一般 いっぱん 的 てき にも使 つか われるようになった[4] 。なお、戦中 せんちゅう 期 き の日本 にっぽん にも「東南 とうなん アジヤ」の呼称 こしょう を用 もち いる研究 けんきゅう 者 しゃ がいたが、戦前 せんぜん 、戦中 せんちゅう の日本 にっぽん においては、現在 げんざい の太平洋 たいへいよう 地域 ちいき を含 ふく めて「南方 なんぽう 」や「南洋 なんよう 」と呼 よ ぶ事 こと が多 おお かった。
第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん の終結 しゅうけつ と独立 どくりつ のなかで[ 編集 へんしゅう ]
地域 ちいき 的 てき 枠組 わくぐ みとしての「東南 とうなん アジア」は連合 れんごう 国 こく から持 も ち込 こ まれた概念 がいねん だったが、第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 後 ご は植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ に対 たい する抵抗 ていこう の中 なか で現地 げんち に定着 ていちゃく しはじめる。1947年 ねん 、自由 じゆう タイ運動 うんどう がフランス領 りょう インドシナ の独立 どくりつ 支援 しえん 組織 そしき として在 ざい タイベトナム人 じん 共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ やラオス独 どく 立派 りっぱ 亡命 ぼうめい 政府 せいふ とともに結成 けっせい した組織 そしき が東南 とうなん アジア連盟 れんめい (Southeast Asian League)を名乗 なの る。1954年 ねん には西側 にしがわ 諸国 しょこく の半 はん 共 きょう 軍事 ぐんじ 同盟 どうめい として東南 とうなん アジア条約 じょうやく 機構 きこう が結成 けっせい 。1961年 ねん にはマラヤ連邦 れんぽう 、フィリピン、タイの三 さん か国 こく の地域 ちいき 協力 きょうりょく 機構 きこう として東南 とうなん アジア連合 れんごう (ASA)が発足 ほっそく する。これらの枠組 わくぐ みは政変 せいへん や冷戦 れいせん 、独立 どくりつ 運動 うんどう に対 たい する考 かんが え方 かた の違 ちが いでたびたび揺 ゆ らぎつつも、旧 きゅう 宗主 そうしゅ 国 こく や宗教 しゅうきょう の枠組 わくぐ みを超 こ えて東南 とうなん アジア域内 いきない での協力 きょうりょく 体制 たいせい を育 はぐく む機運 きうん になった[5] 。
アセアン(ASEAN)成立 せいりつ 以後 いご の東南 とうなん アジア諸国 しょこく の協調 きょうちょう 体制 たいせい [ 編集 へんしゅう ]
1967年 ねん 8月 がつ には、インドネシア・マレーシア・フィリピン・シンガポール・タイの5か国 こく によって東南 とうなん アジア諸国 しょこく 連合 れんごう (アセアン)が成立 せいりつ 。当初 とうしょ は、冷戦 れいせん 構造 こうぞう との自律 じりつ 的 てき 関係 かんけい および地域 ちいき 紛争 ふんそう の自主 じしゅ 的 てき 、平和 へいわ 的 てき 解決 かいけつ を目的 もくてき としており(とはいえ、加盟 かめい 国 こく はいずれも反共 はんきょう であった)、とりわけ1975年 ねん のサイゴン 陥落 かんらく 以後 いご の緊張 きんちょう 関係 かんけい を乗 の り切 き ったことで、国際 こくさい 社会 しゃかい でも注目 ちゅうもく を浴 あ びるようになった。その後 ご は、各国 かっこく の強権 きょうけん 的 てき な経済 けいざい 開発 かいはつ を背景 はいけい とした経済 けいざい 関係 かんけい の緊密 きんみつ 化 か に伴 ともな い、貿易 ぼうえき ・資源 しげん ・技術 ぎじゅつ などを中心 ちゅうしん とした域内 いきない 経済 けいざい 協力 きょうりょく の枠組 わくぐ み整備 せいび (域内 いきない 特恵 とっけい 制度 せいど の拡充 かくじゅう や関税 かんぜい 引下 ひきさ げなど)が進 すす められるようになった。
1986年 ねん のフィリピンの2月 がつ 革命 かくめい 、1998年 ねん のスハルト 辞任 じにん などに見 み られる東南 とうなん アジアの民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう が急速 きゅうそく に進行 しんこう し、東南 とうなん アジア諸 しょ 国家 こっか で自国 じこく の政治 せいじ 的 てき 、文化 ぶんか 的 てき な国民 こくみん 形成 けいせい の動 うご きを早 はや めている。1990年代 ねんだい 以降 いこう 、政治 せいじ 的 てき 大衆 たいしゅう 主義 しゅぎ や民衆 みんしゅう 的 てき な文化 ぶんか ナショナリズム構築 こうちく の流 なが れが顕著 けんちょ になった。特 とく に1999年 ねん のカンボジア加盟 かめい によるASEAN10 の成立 せいりつ は、国際 こくさい 的 てき および東南 とうなん アジア諸国 しょこく 間 あいだ 相互 そうご で国家 こっか 領域 りょういき が確定 かくてい し、承認 しょうにん された。1999年 ねん 以降 いこう の東南 とうなん アジア史 し 研究 けんきゅう は、東南 とうなん アジア諸 しょ 国家 こっか の形成 けいせい 過程 かてい を中心 ちゅうしん に据 す えるようになった。
東南 とうなん アジア諸国 しょこく にて創作 そうさく されたものを除 のぞ く。
ベトナム戦争 せんそう を扱 あつか った映画 えいが も参照 さんしょう 。
^ 最 さい 寒月 かんげつ の平均 へいきん 気温 きおん が、摂氏 せっし 18度 ど 以上 いじょう の地域 ちいき
^ 夏季 かき には南西 なんせい モンスーンが、冬季 とうき には北東 ほくとう (北西 ほくせい )モンスーンが多雨 たう をもたらす。
^ 南朝 なんちょう 梁 りょう 武 たけし 帝 みかど (502~549)の治世 ちせい
ウィキボヤージュには、東南 とうなん アジア に関 かん する旅行 りょこう 情報 じょうほう があります。