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東南とうなんアジア

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南東なんとうアジアから転送てんそう
東南とうなんアジア
Location of 東南アジア
国家こっか
面積めんせき
 • 合計ごうけい 4,545,792 km2
人口じんこう
 • 合計ごうけい 641,775,797にん
 • 密度みつど 140にん/km2
ひとしときおび

東南とうなんアジア(とうなんアジア、英語えいご: Southeast Asia, Southeastern Asia)は、アジアのうち南シナ海みなみしなかい周辺しゅうへん位置いちしている国々くにぐに地域ちいき区分くぶんである。インドシナ半島いんどしなはんとうマレまれ半島はんとうインドネシア諸島しょとうフィリピン諸島しょとうアジアと島嶼とうしょ東南とうなんアジアけられる。

国連こくれんによる世界せかい地理ちり区分くぶん[1]

概要がいよう

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東南とうなんアジアという用語ようご比較的ひかくてきあたらしく、初出しょしゅつは1830年代ねんだいである。当時とうじ地理ちりがく歴史れきしがく国家こっかろん支配しはいろんかたよっていたこともあり、当初とうしょ考古学こうこがく民族みんぞくがく用語ようごとしてのみ普及ふきゅうした[2]地理ちり概念がいねんとして一般いっぱんしたのは、1942ねん連合れんごうこくぐんが「東南とうなんアジア司令しれい」をセイロン設置せっちし、戦後せんご処理しょりすすめる連合れんごうぐん作戦さくせん領域りょういきめいとして政治せいじてきにも公式こうしきされるようになってからである。ただし、現在げんざいでもイギリス英語えいごフランス語ふらんすごでは、東南とうなんアジアという概念がいねん島嶼とうしょふくめないことがおお[3]日本にっぽん旅行りょこう案内あんないしょなどでは「香港ほんこんマカオ台湾たいわんなど」をふくめていることもあるが、通常つうじょうひがしアジアあつかいとなる。

地理ちり

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東南とうなんアジアの地図ちず
東南とうなんアジアのはんいき
国際こくさい連合れんごうによるアジアの地域ちいき分類ぶんるい
  東南とうなんアジア

気候きこう

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平均へいきん気温きおん25以上いじょうで、だい部分ぶぶんケッペンの気候きこう区分くぶんでいう熱帯ねったい[注釈ちゅうしゃく 1]であり、熱帯ねったい特有とくゆうきゅう雷雨らいうスコール雨季うきおおられる。湿潤しつじゅん熱帯ねったいぞくする島嶼とうしょでは一年中いちねんじゅう降水こうすいりょうおおいが、大陸たいりくインドシナ半島いんどしなはんとうモンスーン[注釈ちゅうしゃく 2]影響えいきょうけてサバナ気候きこうとなり、雨季うき乾季かんきがはっきりしている。

環境かんきょう分類ぶんるい

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熱帯ねったい雨林うりん
フィリピン諸島しょとうからボルネオ、スラウェシの北半きたはん、ジャワ西部せいぶ、スマトラにかけての島嶼とうしょ、アラカン地域ちいき沿岸えんがんマレまれ半島はんとう西岸せいがん常時じょうじ25℃を上回うわまわ高温こうおんと、年間ねんかん2000 mmから4000 mmの多雨たうで、植物しょくぶつ宝庫ほうこ
熱帯ねったい高地こうち
パマス(みなみスマトラしゅう)、ミナンカバウ(西にしスマトラしゅう)などのスマトラはり山脈さんみゃくなか盆地ぼんちは、1500メートル前後ぜんこう高度こうどで、湿度しつどたかいが冷涼れいりょう気候きこうふるくからひと居住きょじゅうし、集約しゅうやくてき稲作いなさくおこなわれている。
沿岸えんがん低地ていち
熱帯ねったい雨林うりんたい沿岸えんがんは、砂丘さきゅう以外いがい泥炭でいたんりんマングローブはやし農業のうぎょう不適ふてきであるが、砂丘さきゅう地帯ちたいとともに漁業ぎょぎょう海運かいうん基地きちである。
サバンナ平原へいげん
大陸たいりく東南とうなんアジアでは、かわいた北東ほくとうモンスーンの影響えいきょうで、冬季とうきにはつよ乾季かんきがあり、雨季うきしげ乾季かんき落葉らくようするあめ緑林りょくりんおおい。ビルマ平原へいげんでは、南西なんせいモンスーンの影響えいきょう乾燥かんそう地帯ちたいになる。ふる時代じだいから平原ひらはら畑作はたさくすすみ、まわりの山地さんちからの流水りゅうすい利用りようした灌漑かんがい発達はったつしている。東北とうほくタイのコラート平原へいげん、カンボジア平原へいげんでは、雨季うき乾季かんき降水こうすいりょうがあるが、あめ緑林りょくりん形成けいせいされる。夏季かきには長期ちょうき降水こうすいがあり、天水てんすい稲作いなさくひろがっている。
デルタ
さんだいデルタ(イワラジ、チャオプラヤー、メコン)はサバンナ気候きこうである。乾季かんきにはほとんど降雨こううがない。しかし、雨季うきには河川かせん洪水こうずいこすほどである。

国名こくめいリスト

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東南とうなんアジアにぞくする国家こっかを、英語えいご表記ひょうきじゅん国名こくめい - 首都しゅとじゅん表記ひょうきする。

自治じち地域ちいきおよ特別とくべつりょう

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東南とうなんアジアの歴史れきし

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東南とうなんアジア諸国しょこく各国かっこく歴史れきしについては、以下いか参照さんしょう

インドネシアの歴史れきし - カンボジアの歴史れきし - シンガポールの歴史れきし - タイの歴史れきし - フィリピンの歴史れきし - ブルネイの歴史れきし - ベトナムの歴史れきし - マレーシアの歴史れきし - ミャンマーの歴史れきし - ラオスの歴史れきし - ひがしティモールの歴史れきし

東南とうなんアジアのげん歴史れきし

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東南とうなんアジアの歴史れきしは、各国かっこく歴史れきしとして著述ちょじゅつされることがおおい。しかしとくマレまれ半島はんとうおよび島嶼とうしょでは、各国かっこく領域りょういき19世紀せいきから20世紀せいきはじめにかけて、欧米おうべい列強れっきょう植民しょくみん主義しゅぎもとづき東南とうなんアジアを分割ぶんかつした結果けっかしょうじたものがのち独立どくりつ国家こっかとしてみとめられたものであり、政治せいじてき色彩しきさい非常ひじょういといえる。

東南とうなんアジアの歴史れきしは、そのような政治せいじてき現代げんだい国家こっか歴史れきしはなれ、伝統でんとうてき政治せいじけん、つまり、政治せいじてき文化ぶんかてき中心ちゅうしん都市としとその周辺しゅうへんけんてき空間くうかん歴史れきしべつ言葉ことばえば歴史れきしけん対象たいしょうとするものである。また、元来がんらいこの地域ちいき封建ほうけん主義しゅぎ中央ちゅうおう集権しゅうけん皇帝こうてい専制せんせいとはちがった、マンダラろんといったせつかされる重層じゅうそうてき権力けんりょく構造こうぞうがみられた地域ちいきであることも近年きんねんでは重要じゅうようされている。また日本にっぽんとの関係かんけいも、一部いちぶ先住民せんじゅうみん渡来とらいしたことや太平洋戦争たいへいようせんそうにおいて各国かっこく進入しんにゅうし、その高度こうど経済けいざい成長せいちょう多数たすう企業きぎょう進出しんしゅつするなど、非常ひじょうふかいものがある。

石器せっき時代じだい

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東南とうなんアジアの人類じんるい文化ぶんかは、2~3まんねんまえ後期こうき旧石器時代きゅうせっきじだいからはじめることができる。それは、大陸たいりくでも島嶼とうしょでも洞穴どうけついわかげ人間にんげん生活せいかつした痕跡こんせきられるからである。

大陸たいりくでは、ベトナム北部ほくぶのソンヴィー文化ぶんか、ホアンビン文化ぶんか、バクソン文化ぶんか、ダブート文化ぶんかとたどることができる。ソンヴィー文化ぶんかは、つぶて周囲しゅういいた石器せっきおもとする。きゅうヴィンフーしょうソンヴィー遺跡いせき発見はっけんされ、放射ほうしゃせい炭素たんそ年代ねんだい測定そくていでは2まん~1まん2000ねんまえである。すりせい石器せっきともなわないことから旧石器時代きゅうせっきじだいぞくする。つぎホアビン文化ぶんかは、ベトナムホアビンしょう洞窟どうくついわかげ遺跡いせきぐんからづけられた文化ぶんか原初げんしょてき形態けいたい石器せっきくわえスマトリアスなどのすすんだ形態けいたい特徴とくちょうであり、部分ぶぶんてきすりせいした石器せっきあらわれる。食料しょくりょう残滓ざんし貝殻かいがら淡水たんすいタニシカタツムリ)、ししこつそうともなう。

年代ねんだい測定そくていでは、ほぼ1まん1000から7500ねんまえで、ちゅう石器せっき文化ぶんか位置いちする。この文化ぶんか大陸たいりく全域ぜんいきからマレまれ半島はんとうスマトラ島すまとらとうまでひろ分布ぶんぷする。ランソンしょうバクソン山地さんちられるバクソン文化ぶんかは、すりせい石斧せきふ主体しゅたいである。ときによって土器どきともなう。タインホアしょうタブート遺跡いせきは、淡水たんすいおおきな貝塚かいづか遺跡いせきで、石器せっき変化へんかはあまりられないが、重要じゅうよう変化へんか土器どき出現しゅつげんである。全体ぜんたいかたちかるものはすくないが、そこのまるふか鉢形はちがたである。厚手あつで軟質なんしつ文様もんようはた技法ぎほうたたぼういた繊維せんいあと全体ぜんたいについている。この技法ぎほう中国ちゅうごくから南下なんかした。放射線ほうしゃせん炭素たんそ年代ねんだいではやく6000ねんまえである。ゲアンしょうクインヴァン遺跡いせきうみかいからなるおおきな貝塚かいづかで、おおきないしった石器せっき少量しょうりょうぜんすりせい石斧せきふ粗雑そざつとんがそこ土器どきともなう。放射ほうしゃせい炭素たんそ年代ねんだいは4700ねんまえである。

農耕のうこう

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東南とうなんアジアは基本きほんてきおおくの民族みんぞく農耕のうこう民族みんぞくである。ベトナムでは4000ねんほどまえから農耕のうこうはじめ、現在げんざいのタイ王国おうこく周辺しゅうへんでも紀元前きげんぜん300ねんごろには農耕のうこうはじまっていた。カンボジアでも4世紀せいきごろにもなると、東南とうなんアジア有数ゆうすう稲作いなさく地帯ちたいとなっていた。現在げんざいでも東南とうなんアジアは世界せかい有数ゆうすう農業のうぎょう国家こっかぐんである。

中国ちゅうごく、インドの影響えいきょう伝統でんとうてき国家こっか成立せいりつ

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東南とうなんアジアは、(フィリピンをのぞき)中国ちゅうごくとインドの交易こうえきルートのなかあいだ地帯ちたいにあり、中継ちゅうけいてんとしてふるくから発展はってんし、中国ちゅうごくないしインドからの文化ぶんかてき影響えいきょうのもとに各地かくち伝統でんとうてき国家こっか成立せいりつすることになり(インド)、その、それぞれが独自どくじ歴史れきしてき発展はってんげた。古代こだいインドじんは、このを「黄金おうごんしゅう」ないし「黄金おうごん(スヴァルナブーミ/スワンナプーム(सुवर्णभूमि/สุวรรณภูมิ))」とび、中国人ちゅうごくじんは「南海なんかい」としょうしていた。

東南とうなんアジア海域かいいき政治せいじ勢力せいりょくは、扶南経由けいゆして中国ちゅうごく南朝なんちょうかくあさ交渉こうしょうしてきたが、6世紀せいき前半ぜんはんには、南シナ海みなみしなかいマレまれ半島はんとう、マラッカ海峡かいきょうジャワ島じゃわとうバリ島ばりとうにそれぞれこく形成けいせいされ、中国ちゅうごく南朝なんちょう[注釈ちゅうしゃく 3]直接ちょくせつ交渉こうしょうをもつようになり、積極せっきょくてき朝貢ちょうこうするようになった。しかし、中国人ちゅうごくじん東南とうなんアジアにたいする認識にんしきは、依然いぜんとして島嶼とうしょまたは大陸たいりく沿岸えんがんみなと国家こっかぐん世界せかいであった。

4世紀せいきまつからインド思想しそうが、東南とうなんアジアの王権おうけんシステムそのものに影響えいきょうあたえた。4世紀せいきから6世紀せいきにかけて、東南とうなんアジア各地かくちみなみインドけいのアルファベットをもちいた碑文ひぶんぐん出現しゅつげんしてくる。島嶼とうしょでは4世紀せいきひがしカリマンタンのクタイ王国おうこくからムーラヴァルマン碑文ひぶん西にしジャワのボゴール周辺しゅうへんからブールナヴァルマン碑文ひぶん出土しゅつどする。メコンデルタでは5~6世紀せいきには、「扶南碑文ひぶん」と総称そうしょうされる碑文ひぶんぐん出土しゅつどする。またオケオをはじめとする各地かくち発見はっけんされるインドけい神像しんぞう仏像ぶつぞうはインド思想しそうだい規模きぼ流入りゅうにゅう証明しょうめいしている。

欧米おうべい列強れっきょうによる植民しょくみん

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19世紀せいき東南とうなんアジア諸国しょこくでは欧米おうべい列強れっきょうによる植民しょくみんすすめられた。以下いかるように各地かくちによってさまざまな支配しはい体制たいせいがとられたが、共通きょうつうてんとして「じゅう経済けいざい」、「ふくあい社会しゃかい」、「分割ぶんかつ間接かんせつ支配しはい」のさんてんがしばしばげられる。すなわち、近代きんだい資本しほん主義しゅぎ経済けいざい伝統でんとうてき農業のうぎょう経済けいざい併存へいそん民族みんぞくてき多様たようせいもとづく社会しゃかい構成こうせいきゅう支配しはいそうによる秩序ちつじょ温存おんぞんとそれを利用りようした分割ぶんかつ間接かんせつ支配しはいさんてんである。

地域ちいきべつ植民しょくみん特徴とくちょうていくと、まずジャワ・スマトラ周辺しゅうへんだいスンダ列島れっとう南部なんぶ)では、19世紀せいき初頭しょとうには特定とくてい港湾こうわん沿岸えんがんなどのみが支配しはいされていたが、次第しだいイギリスオランダあいだ支配しはいけん競争きょうそうはげしくなりはじめた。オランダ政府せいふは、ジャワ島じゃわとうサトウキビコーヒータバコなどを強制きょうせいてき栽培さいばいさせ、現地げんち農民のうみん搾取さくしゅによって貧窮ひんきゅうまれた。それにともない、各地かくち抵抗ていこう戦争せんそうが19世紀せいきまつから20世紀せいき初頭しょとうまで頻発ひんぱつした。

ボルネオとう北部ほくぶ西部せいぶでは、ブルネイのスルタンが、部族ぶぞく反乱はんらん鎮圧ちんあつしゃ褒美ほうびとして地方ちほう統治とうちけんあたえていたことから、現在げんざいのサラワクしゅう白人はくじんおうによる国家こっかサラワク王国おうこく成立せいりつし、また現在げんざいのサバしゅうはシーク教徒きょうと保護ほご名目めいもくんだイギリスによって植民しょくみんされた。ボルネオとう南部なんぶでは、きゃくによるアジアはつ共和きょうわこくであるらんよし公司こうし存在そんざいしていたが、あららぎよし公司こうし対外たいがい政策せいさくきよし王朝おうちょう権威けんい利用りようしたものであり、アヘン戦争せんそうきよしやぶれるとオランダにめられ滅亡めつぼうした。

フィリピン諸島しょとうでは、族長ぞくちょうラプ=ラプたくみな戦術せんじゅつにより一旦いったんマゼラン軍隊ぐんたいやぶったが、次第しだいにスペイン勢力せいりょく浸食しんしょくされ、ブルネイの敗北はいぼくでイスラムの権威けんいよわまったことがそれを決定けっていづけた。スペイン統治とうちでは、スペインひと中心ちゅうしんとしただい土地とち所有しょゆうしゃした小作こさく農民のうみん過酷かこく労働ろうどういられるアシエンダせい横行おうこうしていた。新興しんこう地主じぬし知識ちしきじん階級かいきゅうはこうした社会しゃかい矛盾むじゅん反抗はんこうし、フィリピン同盟どうめい1892ねん結成けっせい)などの民族みんぞく主義しゅぎ運動うんどうこした。1898ねんべい西にし戦争せんそう勝利しょうりしたアメリカ協力きょうりょくしたエミリオ・アギナルドはフィリピンの独立どくりつ宣言せんげん発表はっぴょうし、初代しょだい大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。しかしその領有りょうゆう主張しゅちょうするアメリカに弾圧だんあつされ、アギナルドはらえられた。

マレまれ半島はんとうは1511ねんのポルトガルによるマラッカ征服せいふく植民しょくみんされ、のちにイギリスのものとなった。シンガポールはイギリスの貿易ぼうえき軍事ぐんじ拠点きょてんとして繁栄はんえいした。

カンボジアはぜん世紀せいきからベトナム・タイ両国りょうこくからのはげしい圧迫あっぱくなやまされ、幾度いくど国土こくど消失しょうしつ危機ききがあったために、メコンがわさかい国土こくど両国りょうこく分割ぶんかつされることをおそれたアン・ドゥオンおうノロドムおうにより、みずからフランスの保護ほごこくとなった。

ベトナムは、最後さいご王朝おうちょうである阮朝建国けんこくさいにフランスをはじめとする勢力せいりょく助力じょりょくたことがのちかたきとなり、一部いちぶはフランスの保護ほごこく、また一部いちぶ直轄ちょっかつ植民しょくみんとなっていった。

ラオスでは、タイの隷属れいぞくにあったルアンパバーン、ヴィエンチャン、チャンパサックのかく王国おうこくふつたい戦争せんそう結果けっかとしてフランスの領土りょうどとなっていった。

ミャンマーは、さんわたるイギリスの侵略しんりゃく(えいはる戦争せんそう)をけ、えいりょうインド帝国ていこくいちしゅうまれた。

タイは、イギリス、フランス侵略しんりゃくなやまされるが、政治せいじ教育きょういくなどの近代きんだい政策せいさくたくみな外交がいこう領土りょうど割譲かつじょうといった代償だいしょうによって、東南とうなんアジアで唯一ゆいいつ独立どくりつたもち、えいふつ緩衝かんしょう国家こっかとなった。

このような植民しょくみん支配しはい確立かくりつ現地げんちみん反発はんぱつまねき、19世紀せいきまつから20世紀せいきはじめにかけて、遅速ちそくがあるが東南とうなんアジア世界せかいにナショナリズムのまれてきていた。

太平洋戦争たいへいようせんそう

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東南とうなんアジア」の呼称こしょうひろもちいられるようになったきっかけは、1942ねん連合れんごうこくぐんが「東南とうなんアジア司令しれい」を設置せっちしたときである。日本にっぽんぐん作戦さくせん区域くいきであるイギリスりょうビルマおよびマラヤ、フランスりょうインドシナ、オランダりょうひがしインド、アメリカりょうフィリピンの4植民しょくみんおよびタイ王国おうこく包括ほうかつするような概念がいねんがなく、このときに「東南とうなんアジア」なる用語ようごげられた。さらに、太平洋戦争たいへいようせんそうのちには、戦後せんご処理しょりすすめる連合れんごうぐん作戦さくせん領域りょういきめいとして政治せいじてきにも公式こうしきされることになった。こののち米国べいこく中心ちゅうしんとする「東南とうなんアジア」研究けんきゅうしゃたちによってひろもちいられるようになり、やがて一般いっぱんてきにも使つかわれるようになった[4]。なお、戦中せんちゅう日本にっぽんにも「東南とうなんアジヤ」の呼称こしょうもちいる研究けんきゅうしゃがいたが、戦前せんぜん戦中せんちゅう日本にっぽんにおいては、現在げんざい太平洋たいへいよう地域ちいきふくめて「南方なんぽう」や「南洋なんよう」とことおおかった。

だい大戦たいせん終結しゅうけつ独立どくりつのなかで

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地域ちいきてき枠組わくぐみとしての「東南とうなんアジア」は連合れんごうこくからまれた概念がいねんだったが、だい大戦たいせん植民しょくみん主義しゅぎたいする抵抗ていこうなか現地げんち定着ていちゃくしはじめる。1947ねん自由じゆうタイ運動うんどうフランスりょうインドシナ独立どくりつ支援しえん組織そしきとしてざいタイベトナムじん共産きょうさん主義しゅぎしゃラオスどく立派りっぱ亡命ぼうめい政府せいふとともに結成けっせいした組織そしき東南とうなんアジア連盟れんめい(Southeast Asian League)を名乗なのる。1954ねんには西側にしがわ諸国しょこくはんきょう軍事ぐんじ同盟どうめいとして東南とうなんアジア条約じょうやく機構きこう結成けっせい。1961ねんにはマラヤ連邦れんぽう、フィリピン、タイのさんこく地域ちいき協力きょうりょく機構きこうとして東南とうなんアジア連合れんごう(ASA)が発足ほっそくする。これらの枠組わくぐみは政変せいへん冷戦れいせん独立どくりつ運動うんどうたいするかんがかたちがいでたびたびらぎつつも、きゅう宗主そうしゅこく宗教しゅうきょう枠組わくぐみをえて東南とうなんアジア域内いきないでの協力きょうりょく体制たいせいはぐく機運きうんになった[5]

アセアン(ASEAN)成立せいりつ以後いご東南とうなんアジア諸国しょこく協調きょうちょう体制たいせい

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1967ねん8がつには、インドネシア・マレーシア・フィリピン・シンガポール・タイの5かこくによって東南とうなんアジア諸国しょこく連合れんごう(アセアン)が成立せいりつ当初とうしょは、冷戦れいせん構造こうぞうとの自律じりつてき関係かんけいおよび地域ちいき紛争ふんそう自主じしゅてき平和へいわてき解決かいけつ目的もくてきとしており(とはいえ、加盟かめいこくはいずれも反共はんきょうであった)、とりわけ1975ねんサイゴン陥落かんらく以後いご緊張きんちょう関係かんけいったことで、国際こくさい社会しゃかいでも注目ちゅうもくびるようになった。そのは、各国かっこく強権きょうけんてき経済けいざい開発かいはつ背景はいけいとした経済けいざい関係かんけい緊密きんみつともない、貿易ぼうえき資源しげん技術ぎじゅつなどを中心ちゅうしんとした域内いきない経済けいざい協力きょうりょく枠組わくぐ整備せいび域内いきない特恵とっけい制度せいど拡充かくじゅう関税かんぜい引下ひきさげなど)がすすめられるようになった。

1986ねんのフィリピンの2がつ革命かくめい1998ねんスハルト辞任じにんなどにられる東南とうなんアジアの民主みんしゅ運動うんどう急速きゅうそく進行しんこうし、東南とうなんアジアしょ国家こっか自国じこく政治せいじてき文化ぶんかてき国民こくみん形成けいせいうごきをはやめている。1990年代ねんだい以降いこう政治せいじてき大衆たいしゅう主義しゅぎ民衆みんしゅうてき文化ぶんかナショナリズム構築こうちくながれが顕著けんちょになった。とく1999ねんのカンボジア加盟かめいによるASEAN10成立せいりつは、国際こくさいてきおよび東南とうなんアジア諸国しょこくあいだ相互そうご国家こっか領域りょういき確定かくていし、承認しょうにんされた。1999ねん以降いこう東南とうなんアジア研究けんきゅうは、東南とうなんアジアしょ国家こっか形成けいせい過程かてい中心ちゅうしんえるようになった。

言語げんご

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東南とうなんアジアを舞台ぶたいとする作品さくひん

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東南とうなんアジア諸国しょこくにて創作そうさくされたものをのぞく。

ベトナム戦争せんそうあつかった映画えいが参照さんしょう

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ さい寒月かんげつ平均へいきん気温きおんが、摂氏せっし18以上いじょう地域ちいき
  2. ^ 夏季かきには南西なんせいモンスーンが、冬季とうきには北東ほくとう北西ほくせい)モンスーンが多雨たうをもたらす。
  3. ^ 南朝なんちょうりょうたけしみかど(502~549)の治世ちせい

出典しゅってん

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  1. ^ United Nations Statistics Division- Standard Country and Area Codes Classifications (M49)
  2. ^ 桃木もものき (1996) p.30
  3. ^ 桃木もものき (1996) p.2
  4. ^ 池端いけはた(1994: 3-7)
  5. ^ 古田ふるた,p213-215

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 池端いけはた雪浦ゆきのうら(1994)「東南とうなんアジアへのアプローチ」池端いけはた雪浦ゆきのうらへんわる東南とうなんアジアぞう山川やまかわ出版しゅっぱん.
  • えいつもるあきら(1977)『東南とうなんアジアの歴史れきし 新書しんしょ東洋とうよう (7)』 講談社こうだんしゃ.
  • 桃木もものきいたりろう(1996)『歴史れきし世界せかいとしての東南とうなんアジア』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ ISBN 978-4-63-434120-3
  • 古田ふるた元夫もとお (2021). 東南とうなんアジア10こう. 岩波書店いわなみしょてん. ISBN 978-4-00-431883-5 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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  • ウィキボヤージュには、東南とうなんアジアかんする旅行りょこう情報じょうほうがあります。