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阿倍あべ

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安倍あべ (貴族きぞく)から転送てんそう
阿倍あべ安倍あべ
氏姓しせい 阿倍あべしん
のち阿倍あべ安倍あべ朝臣あそん
始祖しそ だい彦命
こうもと天皇てんのうだい1皇子おうじ
阿倍あべだい麻呂まろ
種別しゅべつ すめらぎべつ
ほんぬき 大和やまとこく十市とおいちぐん阿倍あべ
著名ちょめい人物じんぶつ 阿倍比羅夫あべのひらふ
阿倍倉梯麻呂あべのくらはしまろ
阿倍あべ主人しゅじん
阿倍仲麻呂あべのなかまろ
安倍晴明あべのせいめい
安倍あべやすしおや
安倍あべゆう
後裔こうえい ぬのぜい
引田ひきた
土御門つちみかど公家くげ
倉橋くらはし公家くげ
繁原しげはら地下ちか
大黒家だいこくや地下ちか
雅楽ががく安倍あべらく
など
凡例はんれい / Category:

阿倍あべ(あべうじ、のち安倍あべ)は、「阿倍あべ安倍あべ)」をとする氏族しぞく

こうもと天皇てんのう皇子おうじだい彦命祖先そせんとするすめらぎべつ氏族しぞくである。飛鳥あすか時代ときよから奈良なら時代じだい大臣だいじんきゅう高官こうかん輩出はいしゅつする。平安へいあん時代じだい以後いごは「安倍あべ」としょうする。

阿倍あべ安倍あべ[編集へんしゅう]

阿倍あべ上古じょうこ - 奈良なら時代じだい[編集へんしゅう]

けいぎょう天皇てんのう一人ひとりである高田たかだひめちち阿部あべごとであるとされ、またつぎたい天皇てんのう阿倍あべなみのべうりがいたといわれているが、歴史れきしじょうはっきりとした段階だんかい活躍かつやくするのはせん天皇てんのう大夫たいふ政官せいかん)であっただい麻呂まろ麻呂まろとするせつもある)がはつである。だい麻呂まろ大伴金村おおとものかなむら物部麁鹿火もののべのあらかび蘇我稲目そがのいなめ地位ちい重臣じゅうしんであったとわれている。推古天皇すいこてんのう時代じだいには蘇我馬子そがのうまこ側近そっきんとして麻呂まろ登場とうじょうしている。

大化たいか改新かいしんしん政権せいけん左大臣さだいじんとなったのは、阿倍倉梯麻呂あべのくらはしまろうち麻呂まろとも)であった。阿倍あべには『日本書紀にほんしょき』などでも外国がいこくへの使者ししゃなどに派遣はけんされる人物じんぶつおおく、倉梯くらはし麻呂まろ家柄いえがらのみならずそれなりの見識けんしきわれてしん政権せいけん参加さんかした可能かのうせいたかい。また、倉梯くらはし麻呂まろむすめしょうあしひめ孝徳天皇こうとくてんのうとなって有間皇子ありまのおうじんだとされており、またもう一人ひとりむすめたちばなひめ天智天皇てんぢてんのうになるなど、当時とうじ阿倍あべ勢力せいりょくうかがえる。

その阿倍あべ一族いちぞく分立ぶんりつして「布施ふせしん」・「引田ひきたしん」(ともにのち朝臣あそんせいける)などに分裂ぶんれつしていった。だが、引田ひきたしんひきいる阿倍比羅夫あべのひらふひとし明天めいてんすめらぎつかえて将軍しょうぐんとして活躍かつやくし、布施ふせしんひきいる倉梯くらはし麻呂まろ息子むすこ主人しゅじん635ねん - 703ねん)は大宝たいほう律令りつりょうした最初さいしょ右大臣うだいじん任命にんめいされた。その布施ふせ主人しゅじんは「阿倍あべ朝臣あそん」のせいをあたえられ、つづいて引田ひきた朝臣あそんでも比羅夫ひらふ息子むすこたちたいして同様どうよう措置そちられた。遣唐使けんとうし留学生りゅうがくせいとしてとうわたったなか麻呂まろ比羅夫ひらふまご船守ふなもり息子むすこであるとわれている。以後いごしゅとして主人しゅじん比羅夫ひらふ末裔まつえいが「阿倍あべ」としょうすることになった。だが、中納言ちゅうなごん薨去こうきょした主人しゅじんこうにわ659ねん - 732ねん)がぬと、藤原ふじわらなどの新興しんこう氏族しぞくされて低迷ていめいする。だが、藤原ふじわら武智たけち麻呂まろ夫人ふじん豊成とよしげなか麻呂まろ兄弟きょうだい生母せいぼ)や藤原ふじわらりょうつぎ夫人ふじん美奈みななどの有力ゆうりょくしゃ夫人ふじんしている。

安倍あべ平安へいあん時代じだい[編集へんしゅう]

阿倍あべ」がいつごろから「安倍あべ」とあらためたかには諸説しょせつあるが、平安へいあん時代じだい初期しょきのべれきひろしひとし年間ねんかんせつ有力ゆうりょくであるとわれている。この時期じきには安倍あべあにゆう( ? - 808ねん主人しゅじん玄孫げんそん平城ひらじろ天皇てんのう時代じだい参議さんぎ)、あんひとし793ねん - 859ねん引田ひきたしんけい傍流ぼうりゅう仁明天皇にんみょうてんのう時代じだい大納言だいなごんみぎ近衛このえ大将たいしょう)という二人ふたり有力ゆうりょく高官こうかんしている。だが、その活躍かつやくはやはりあにゆうの6代目だいめ子孫しそんとされている安倍晴明あべのせいめい活躍かつやくする平安へいあん中期ちゅうきにまでってしまう。

陰陽いんようどう安倍あべ[編集へんしゅう]

平安へいあん中期ちゅうき以降いこう安倍あべ安倍晴明あべのせいめい輩出はいしゅつした系統けいとう主流しゅりゅうとなり、中世ちゅうせいからは土御門つちみかど名乗なのり、代々だいだい陰陽いんようどういえとしてられるようになる。

ただし、実際じっさい晴明せいめい系統けいとう阿倍あべ本流ほんりゅうであるかは不明ふめいである。摂津せっつこく出身しゅっしんというせつから、阿倍あべおなじくだい彦命とする難波なんばすん、あるいはきち吉志きしといった渡来とらいじん系統けいとうしょうした安倍あべ出身しゅっしんではないかという指摘してきもある。

安倍あべ[編集へんしゅう]

平安へいあん時代じだい中期ちゅうき[編集へんしゅう]

安倍晴明あべのせいめい以後いご安倍あべ賀茂かもとともに陰陽いんようどうことに天文てんもんどうつかさどった。しかし、官位かんいてきにははれあきら息子むすこ吉平きちへい954ねん - 1027ねん)もごくくらいしたがえよんじょうであって、先祖せんぞであるあにゆうくらべれば格下かくしたであるのは明白めいはくである。その吉平よしだいら長男ちょうなんどきおや天文てんもん密奏みっそう宣旨せんじ授与じゅよしゃ次男じなんあきらおや天文てんもん博士はかせ、3なんたてまつおや天文てんもんけん博士はかせと、天文てんもんどうかんする地位ちい独占どくせんした。以後いご代々だいだい天文てんもん博士はかせ陰陽いんようあたまにんじられたが、その一方いっぽうでその地位ちい学説がくせつめぐ一族いちぞくあいだ対立たいりつ激化げきかしていき、ときおやゆうぎょうとしそんたいおやがれた嫡流ちゃくりゅうにあたる家系かけいぞくに「たいおやりゅう」)、おなじくときおやくにずいとしそんはれみちがれた家系かけいおなじく「はれみちとう」)、ときおやおとうとたてまつおやとしそんそうあきらおよびそのこうけんがれた家系かけいおなじく「そうあきらりゅう」)の3系統けいとう分立ぶんりつしてはげしくあらそった。

平安へいあん時代じだい末期まっき - 鎌倉かまくら時代じだい[編集へんしゅう]

うけたまわ寿ことぶきひさしらん源平げんぺい合戦かっせん当時とうじ陰陽いんようあたま安倍あべやすしおや吉平よしだいら玄孫げんそんにあたる、1110ねん - 1183ねん)はせいよんじょう息子むすこひろし1136ねん - 1199ねん)はせいよんにまで昇進しょうしんしている。だが、はれどうこうけんおよびその子弟してい自己じこ家系かけいせつをもってたいおや親子おやこはげしく対立たいりつつづけ、そのもその3系統けいとうなかからも分裂ぶんれつするうごきがつづいた。分裂ぶんれつ長期ちょうき背景はいけいとして、こよみどう業務ぎょうむ中核ちゅうかくであったみやつこれきこよみ作成さくせい)は共同きょうどう作業さぎょう必要ひつようとして嫡流ちゃくりゅう作業さぎょう主導しゅどうけん発揮はっきするがあるのにたいして、天文てんもんどう業務ぎょうむ中核ちゅうかくであった天文てんもん密奏みっそうかんさるしゃ個人こじん作業さぎょうであったためにかくりゅう競合きょうごう関係かんけいおちいったこと、ひろしもと2ねん1244ねん)に嫡流ちゃくりゅう内部ないぶ当主とうしゅあらそいで安倍あべぎょうひろしひろ曾孫そうそん)がおとうと一族いちぞく殺害さつがいされ、嫡流ちゃくりゅうおもだった人物じんぶつ処分しょぶんされて一時いちじてき人材じんざいがいなくなったことなどがげられる[1]

南北なんぼくあさ時代じだい[編集へんしゅう]

南北なんぼくあさ時代じだい登場とうじょうした安倍あべゆう晴明せいめいから14代目だいめたいおやから8代目だいめ)は、ついに公卿くぎょうであるしたがえにまでたっした。安倍あべ一族いちぞくとしては500ねん以上いじょうえてなかったことであり、その職掌しょくしょうがらからときにはおそきらわれる立場たちばにあった陰陽いんよう公卿くぎょうになったことは当時とうじとしては衝撃しょうげきてき事件じけんであった。

たいおやには九条くじょうけんゆうには足利あしかが義満よしみつという政治せいじてき後援こうえんしゃがいたからこそここまでの昇進しょうしんいたったという意見いけんもある。だが、たいおやたいら衰亡すいぼう以仁王もちひとおうらん予言よげんし、ゆう明徳めいとくらんおうながらん予言よげんしたともわれており、占星術せんせいじゅつ陰陽いんようどうにおいても特筆とくひつした才能さいのうがあったとする記録きろくのこされている。けん義満よしみつかれらのそうしたたか能力のうりょく評価ひょうかしたからこそ、その昇進しょうしんを援けたのである。

土御門つちみかど[編集へんしゅう]

室町むろまち時代ときよ - 安土あづち桃山ももやま時代じだい[編集へんしゅう]

一般いっぱんてきには(専門せんもんしょなかにも)「土御門つちみかど」の安倍あべゆうもとめ、ゆうを「土御門つちみかどゆう」と呼称こしょうすることがおおい。だが、ゆうが“土御門つちみかど”を名乗なのったとする記録きろくとう土御門つちみかどにも存在そんざいせず、確実かくじつに「土御門つちみかど」を名乗なのったとえるのは、その曾孫そうそんにあたるゆうせん室町むろまち時代ときよ中期ちゅうき - 後期こうき以後いごであるとかんがえられている。

当初とうしょは「ゆういちだいかぎりの公卿くぎょうという条件じょうけんであったものの、実際じっさいにはゆう晩年ばんねん足利あしかが義満よしみつゆう長年ながねん功労こうろうむくいて嫡男ちゃくなんゆうもり公卿くぎょう昇進しょうしんさせ、そのゆうゆうせんとその嫡流ちゃくりゅう公卿くぎょうのぼった。かくしてゆう家系かけい堂上どうじょう半家はげ)の資格しかくることになり、やがてゆう以来いらい代々だいだい当主とうしゅ屋敷やしき土御門つちみかどにあったことから、「土御門つちみかど」を名乗なのることとなり、安倍あべとは一線いっせんかくして陰陽いんようとしての公的こうてき職務しょくむすべ安倍あべせい土御門つちみかど賀茂かもせい勘解由小路かげゆこうじ仕切しきることとなった。

だが、その初代しょだいであるゆうせん応仁おうにんらん以来いらい混乱こんらんけ、領地りょうちである若狭わかさこく名田庄なたしょう現在げんざい福井ふくいけん大飯おおいぐんおおいまち)に下向げこうした。有春ありはる若狭わかさ一生いっしょうごし、以後いご若狭わかさ定住ていじゅう常態じょうたいとなる。まご土御門つちみかどゆうおさむ1527ねん - 1577ねん)は、えいろく8ねん1565ねん賀茂かも独占どくせんしていたこよみ博士はかせはじめて兼任けんにんした。その息子むすこ土御門つちみかどひさおさむ1560ねん - 1625ねん)は若狭わかさから戦乱せんらん収束しゅうそくした一時いちじもどったが、関白かんぱく(のち太閤たいこう豊臣とよとみ秀吉ひでよし治世ちせいでは秀次しゅうじ事件じけん豊臣とよとみ秀次しゅうじとその近臣きんしん粛正しゅくせい)および陰陽いんよう追放ついほう政策せいさくまれて一時いちじ失脚しっきゃくする。

江戸えど時代じだい[編集へんしゅう]

ひさしおさむ江戸えど幕府ばくふひらいた徳川とくがわ家康いえやす重用じゅうようされたため、朝廷ちょうていにも復帰ふっきゆるされ、梅小路うめこうじだい邸宅ていたくあたえられた。その息子むすこ土御門つちみかどやすしじゅう1586ねん - 1661ねん)は天文てんもん博士はかせとして衰退すいたいした家名かめい再興さいこう尽力じんりょくし、公卿くぎょうとしてしたがえにまで昇進しょうしんした。またおとうとたいきち独立どくりつさせて倉橋くらはし創設そうせつした。さら朝廷ちょうてい陰陽いんようりょう長官ちょうかんたる陰陽いんようあたまめぐ安倍あべ土御門つちみかど)と賀茂かも(この時代じだい庶流幸徳こうとく[ちゅう 1])のあいだでの長年ながねん確執かくしつは、さいわい徳井とくいともでん天和てんわ2ねん1682ねん)に35さい夭折ようせつしたことで、土御門つちみかどやすしぶく1655ねん - 1717ねん)が陰陽いんようあたまにんじられて、以降いこう陰陽いんようあたま安倍あべ土御門つちみかど独占どくせんすることで決着けっちゃくすることとなる。たいぶく天和てんわ3ねん1683ねん)、全国ぜんこく陰陽いんよう支配しはい任免にんめん土御門つちみかど独占どくせんとすることに成功せいこうして、土御門つちみかど唯一ゆいいつ陰陽いんようどう宗家そうけとして全盛期ぜんせいきむかえる。さらにたいぶくは、神道しんとういえ山崎やまざき闇斎あんさい師事しじして、陰陽いんようどうたれ神道しんとう融合ゆうごうした土御門つちみかど神道しんとう創設そうせつした。だが、江戸えど幕府ばくふ天文てんもんかた主導しゅどうした改暦かいれき貞享ていきょうれき)に成功せいこうすると、改暦かいれき権限けんげんめぐって幕府ばくふ天文てんもんかた)と朝廷ちょうてい土御門つちみかど)のあいだ対立たいりつしょうじるようになった。たいぶく末子まっしやすしくに1711ねん - 1784ねん)は、在野ざいやこよみさん協力きょうりょくたかられきれき制定せいていし、改暦かいれき権限けんげんふたた土御門つちみかどもどすことに成功せいこうした。しかしながら、たかられきれき評判ひょうばんわるく、その寛政かんせいれきおよび天保てんぽうれきへの改暦かいれきはいずれも幕府ばくふ天文てんもんかたによって主導しゅどうされることとなった。

江戸えど土御門つちみかどはかおおくが京都きょうと真如堂しんにょどう梅小路うめこうじ梅林寺ばいりんじにある[2]

明治めいじ以降いこう[編集へんしゅう]

明治維新めいじいしん混乱こんらんじょうじて、とき当主とうしゅ土御門つちみかど晴雄はるお1827ねん - 1869ねん)はきゅう幕府ばくふ天文てんもんかた接収せっしゅうして、天文てんもん観測かんそく地図ちず測量そくりょう権限けんげん手中しゅちゅうおさめた。これによって、西洋せいよう近代きんだいてき天文学てんもんがく事実じじつじょう排除はいじょされるという「逆転ぎゃくてん現象げんしょう」がしょうじた。さら晴雄はるお西洋せいよう太陽暦たいようれき(グレゴリオれき導入どうにゅううごきをさっして、太陽暦たいようれき導入どうにゅう阻止そしして従来じゅうらい太陰たいいん太陽暦たいようれき維持いじはかるために明治めいじ改暦かいれき提唱ていしょうした。しかし、晴雄はるお急逝きゅうせいにより挫折ざせつした。

王政おうせい復古ふっこなみにより以上いじょうのような逆転ぎゃくてんもひとときはあったものの、政府せいふだい方針ほうしんである富国強兵ふこくきょうへいのためには、近代きんだいてき天文てんもん測量そくりょう陸海りくかいぐん円滑えんかつ運営うんえいかせず、また西洋せいよう近代きんだい国家こっかするため合理ごうり主義しゅぎもとづく迷信めいしん排斥はいせき家学かがく廃止はいし方針ほうしんから、陰陽いんようどう陰陽いんよう世襲せしゅう近代きんだいさまたげとなる旧弊きゅうへいであるという認識にんしき政府せいふつようになり、陰陽いんようりょう解体かいたいされるながれとなった。晴雄はるお嗣子しし養子ようしはれさかえ幼少ようしょうであることをさいわいに、明治めいじ3ねん1870ねん)に陰陽いんようりょう廃止はいし陰陽いんようどう公的こうてき分野ぶんやからの排除はいじょおこなわれて、つづいて天文てんもんこよみさん分野ぶんやだい学校がっこう天文てんもんれきみちきょく海軍かいぐん水路すいろきょく文部省もんぶしょう天文てんもんきょく天文台てんもんだい移管いかんされることとなった[3][4][ちゅう 2]

はれさかえ以降いこう土御門つちみかど東京とうきょう移住いじゅうし、華族かぞく制度せいど導入どうにゅう子爵ししゃくじょせられている。また、倉橋くらはし土御門つちみかどひさおさむ末裔まつえい安倍あべ庶流)も子爵ししゃくじょせられている。

大正たいしょう4ねん1915ねん)、土御門つちみかど保有ほゆうしていた天文てんもん記録きろく当主とうしゅ日記にっきなどがみや内省ないせい献上けんじょうされて、そのおおくが現在げんざいでも宮内庁くないちょうしょりょう保管ほかんされている。

末裔まつえい[編集へんしゅう]

安倍晴明あべのせいめい男系だんけい血脈けちみゃくは、宇多うたはじめ綾小路あやのこうじ倉橋くらはし養子ようしとなった倉橋くらはしゆう1738ねん - 1784ねん)と、その息子むすこ土御門つちみかど養子ようしとなった土御門つちみかどやすしさかえ1758ねん - 1806ねん)のだい断絶だんぜつしており、現在げんざい土御門つちみかど倉橋くらはし当主とうしゅはいずれもさら養子ようし相続そうぞくかえした結果けっか戦国せんごく時代じだい安倍あべ当主とうしゅ土御門つちみかどゆうおさむからかぞえてともに4かい女系じょけい婿養子むこようし)をている[ちゅう 3]

一方いっぽう土御門つちみかどゆうおさむむすめ勧修寺かんしゅうじはれゆたかつま土御門つちみかどやすしぶくむすめ倉橋くらはし泰章やすあき土御門つちみかどひさおさむから5代目だいめ男系だんけい子孫しそん)のつま、さらにその泰章やすあきむすめ萩原はぎはらいんりょうつまになり、みなのこしているため、勧修寺かんしゅうじ萩原はぎはらをはじめとするいくつかの堂上どうじょう公家くげ華族かぞく子孫しそん、およびげん皇室こうしつに、女系じょけい安倍晴明あべのせいめい血脈けちみゃくがれている。

おも人物じんぶつ[編集へんしゅう]

系図けいず[編集へんしゅう]

  • 不明ふめい箇所かしょおおいため、一部いちぶ推定すいていによる。
こうもと天皇てんのう
 
 
 
だい彦命
 
 
 
たけ渟川別命べつめい
 
 
 
ゆたかかん別命べつめい
 
 
 
かみなり別命べつめい
 
 
 
阿倍あべおもね加古かこ
 
 
 
阿倍あべ大籠おおかご
 
 
 
阿倍あべしのぶこく
 
 
 
阿倍あべだい麻呂まろ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鳥子とりこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
うち麻呂まろ
倉梯くらはし麻呂まろ
 
 
 
 
 
 
引田ひきたけい
比羅夫ひらふ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
布勢ふせけい
主人しゅじん
しょうあしひめ
孝徳天皇こうとくてんのう
たちばなむすめ
天智天皇てんぢてんのう
宿やど麻呂まろ
 
 
 
船守ふなもり
 
 
 
やす麻呂まろ
えき麻呂まろ?)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こうにわ有間皇子ありまのおうじ
 
 
 
駿河するがしまなか麻呂まろおび麻呂まろひがしじん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
しま麻呂まろじん沙弥さや麻呂まろ
 
 
 
いえ麻呂まろおとうととう女子じょしひろし麻呂まろ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
うるちちゅう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
黒人こくじんともじょう藤原ふじわらない麻呂まろあんひとし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
みちもり美奈みな
 
 
 
だかとみ麻呂まろぬし貞行さだゆきそうこう清行きよゆき
 
興行こうぎょう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あにゆう
 
 
 
 
 
 
 
 
たくりょうさんとら
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(2だいりゃく[5]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠頼ただよりとなりりょう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
はるざい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠良ただよし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
えきざい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
たよとき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
はれあきら
 
 
 
 
 
 
 
 
 
奥州おうしゅう安倍あべ
安東あんどう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉平きちへいよしあきら
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
どきおやあきらおやたてまつおや
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ゆうぎょう
 
 
 
しんむね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
たいちょう
 
 
 
そうあきら
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
たいおや
 
 
 
こうけん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
土御門つちみかど
倉橋くらはし

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 土御門つちみかどひさおさむ時代じだいに、いえ以来いらい陰陽いんようどう宗家そうけ双璧そうへきであった賀茂かも嫡流ちゃくりゅう勘解由小路かげゆこうじ断絶だんぜつし、わって江戸えど時代じだい初期しょきには賀茂かも庶流にあたる幸徳こうとくこよみどう家柄いえがらとして台頭たいとうした。
  2. ^ よって、この時点じてん土御門つちみかど倉橋くらはし家学かがく陰陽いんようどうからはなれ、そもそも陰陽いんようなる役職やくしょく公的こうてき存在そんざいせいうしなったうえ戦後せんごてんしゃ土御門つちみかど神道しんとう再興さいこうされたが、土御門つちみかどげん当主とうしゅ一切いっさい関与かんよしない姿勢しせいでいるため、明治めいじ以降いこう現代げんだいにおいて「陰陽いんよう」、「陰陽いんようどう宗家そうけ」などといった役職やくしょく存在そんざいせず、民間みんかんてき存在そんざい有無うむべつとして、公的こうてきには現存げんそんしない。
  3. ^ よって、安倍晴明あべのせいめい男系だんけい直系ちょっけい末裔まつえい信憑しんぴょうせいのある公的こうてき系譜けいふ史料しりょうにおいては、現存げんそんしない。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 赤澤あかざわ春彦はるひこ 2011 - だいだいしょう鎌倉かまくらにおける安倍あべ動向どうこう
  2. ^ 安倍晴明あべのせいめい子孫しそんはかピンチ 京都きょうと連絡れんらくれずてら供養くよう. 京都きょうと新聞しんぶん. (2017ねん2がつ11にち). http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20170211000098 
  3. ^ 国立こくりつ天文台てんもんだいれき計算けいさんしつ. “こよみWiki/歴史れきし/明治めいじ以降いこうの頒暦”. 2019ねん10がつ9にち閲覧えつらん
  4. ^ 天文てんもん玩. “東京とうきょう天文台てんもんだい明治めいじ前期ぜんきあゆ”. 2019ねん10がつ9にち閲覧えつらん
  5. ^ はるざいあにゆうとする系図けいずもある。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 赤澤あかざわ春彦はるひこ鎌倉かまくらかんじん陰陽いんよう研究けんきゅう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2011ねん 
  • 斎藤さいとう英喜ひでき陰陽いんようたちの日本にっぽん角川かどかわ学芸がくげい出版しゅっぱん角川かどかわ選書せんしょ546〉、2014ねん 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]