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幕末ばくまつ太陽たいようでん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
幕末ばくまつ太陽たいようでんから転送てんそう
幕末ばくまつ太陽たいようでん
監督かんとく 川島かわしま雄三ゆうぞう
脚本きゃくほん 田中たなか啓一けいいち
川島かわしま雄三ゆうぞう
今村いまむら昌平しょうへい
製作せいさく 山本やまもとたけし
ナレーター 加藤かとうたけし(クレジットなし[1]
出演しゅつえんしゃ フランキふらんきさかい
ひだり幸子さちこ
南田みなみだ洋子ようこ
石原いしはら裕次郎ゆうじろう
芦川あしかわいづみ
梅野うめのやすしやすし
岡田おかだ真澄ますみ
二谷にたに英明ひであき
小林こばやしあさひ
音楽おんがく まゆずみ敏郎としお
撮影さつえい 高村たかむらくら太郎たろう
編集へんしゅう 中村なかむらただし
製作せいさく会社かいしゃ 日活にっかつ
配給はいきゅう 日活にっかつ
公開こうかい 日本の旗 1957ねん7がつ14にち
日本の旗 2011ねん12月23にち(デジタル修復しゅうふくばん
上映じょうえい時間じかん 110ふん
製作せいさくこく 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
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幕末ばくまつ太陽たいようでん』(ばくまつたいようでん、しん字体じたい幕末ばくまつ太陽たいようでんとも表記ひょうき)は、1957ねん昭和しょうわ32ねん)7がつ14にち公開こうかいされた日本にっぽん時代じだいげき映画えいが監督かんとく川島かわしま雄三ゆうぞう主演しゅえんフランキふらんきさかいモノクロスタンダード(1.37:1)、110ふん

古典こてん落語らくご世界せかいかんれた異色いしょくコメディ映画えいがで、幕末ばくまつ品川しながわ宿やど舞台ぶたいこるさまざまな出来事できごとが、グランド・ホテル形式けいしきえがかれる。だい31かいキネマ旬報きねまじゅんぽうベストテン(1957年度ねんど)で日本にっぽん映画えいが部門ぶもんだい4選出せんしゅつされたのちも、時代じだいわず観客かんきゃく支持しじており、川島かわしま代表だいひょうさくとみなされているだけでなく、日本にっぽん映画えいが史上しじょう名作めいさくかぞえられる。

フランキふらんきさかいえんじる主人公しゅじんこうはしるラストシーンで、かれがそのままスタジオをし、(製作せいさく当時とうじの)現代げんだい街並まちなみをはしける、という演出えんしゅつ構想こうそう川島かわしまっていたが、現場げんば反対はんたい却下きゃっかされた(後述こうじゅつ)。

ストーリー[編集へんしゅう]

佐平次さへいじ高杉たかすぎ[編集へんしゅう]

(※タイトルバックにおいて、製作せいさく当時とうじ品川しながわ宿やど京浜けいひん国道こくどうはちやまきょう周辺しゅうへんおよび、品川しながわきょうどお様子ようす紹介しょうかいされ、ナレーションで「いまは、北品川きたしながわカフェーまちばれる16けん特飲街とくいんがい売春ばいしゅん防止ぼうしほう施行しこうのため、閉鎖へいさ余儀よぎなくされている」と、舞台ぶたい歴史れきしてき経緯けいいつたえられる。)

文久ぶんきゅう2ねん(1862ねんまつ品川しながわ宿やどろう相模さがみまえで、イギリスじん長州ちょうしゅうはん小競こぜいとなる。そのさい藩士はんしこころざしどう聞多のふところからきむそう西洋せいようしき懐中時計かいちゅうどけいち、とおりかかった佐平次さへいじという町人ちょうにんおとこがそれをたまたまひろう。佐平次さへいじ仲間なかまれ、懐中時計かいちゅうどけい使つかって金持かねもちをよそお相模さがみはいり、派手はであそんでいし、仲間なかまかえしてそのまま居座いすわる。

一方いっぽうれっ遊女ゆうじょ・こはるの部屋へやにもうひとりの居残いのこおとこがいた。長州ちょうしゅう藩士はんし攘夷じょうい志士しし高杉たかすぎ晋作しんさくであった。高杉たかすぎこころざしどう仲間なかまとともに、御殿山ごてんやま建設けんせつちゅう英国えいこく公使館こうしかん計画けいかくしていたが、建物たてもの間取まどりがわからないために頓挫とんざしかかっていた。高杉たかすぎ佐平次さへいじ懐中時計かいちゅうどけいっているのをかける。時計とけいはもともと高杉たかすぎ私物しぶつで、金策きんさくのためにこころざしどうわたしていたものだった。時計とけいれなかったことをこころざしどうからいていた高杉たかすぎは、時計とけいをそのまま佐平次さへいじおくる。

あるよる佐平次さへいじは、勘定かんじょうりに妓夫ぎふ喜助きすけに「無一文むいちもんだ」とかす。楼主ろうしゅ伝兵衛でんべえいかり、佐平次さへいじに「居残いのこり」をいいわたし、代金だいきん支払しはらいの目処めどがつくまで行灯あんどん部屋へや物置ものおき)にめた。佐平次さへいじ給仕きゅうじ幇間ほうかんのまねごとをして座敷ざしきから座敷ざしきわたあるいてかねかせぎ、かれきゃくをあしらうあいだからだやすめる女郎じょろうたちに感謝かんしゃされるようになる。

としれ(西暦せいれきではとしけて1863ねん)。佐平次さへいじ掃除そうじのために高杉たかすぎらの部屋へやはいり、たどん片付かたづけようとするが、はげしい調子ちょうしめられる。それはたどんではなく、ちのために用意よういされた手製てせいだまであった。佐平次さへいじぬすきによってかれらの計画けいかくをなんとなくるようになる。

おひさと徳三郎とくさぶろう[編集へんしゅう]

英国えいこく公使館こうしかん建設けんせつ従事じゅうじする大工だいく長兵衛ちょうべえは、相模さがみ借金しゃっきんをしており、担保たんぽとしてむすめ・おひさをあづけていたほか、仕事しごとえるたびに大工だいく道具どうぐ相模さがみいてかえることをめられていた。おひさは飯炊めしたきや風呂ふろきといった女中じょちゅう仕事しごと専念せんねんしていたが、期日きじつまでに借金しゃっきんかえすことができず、おひさは女郎じょろうになることがまる。おひさにれていた相模さがみ息子むすこ徳三郎とくさぶろうは、女郎じょろうになるまえ婚約こんやくすればすべてが帳消ちょうけしになるとかんがえ、佐平次さへいじじゅうりょうわたし、仲立なかだちをたのむ。佐平次さへいじ高杉たかすぎからもらった懐中時計かいちゅうどけい徳三郎とくさぶろうわたし「これを質入しちいれすれば身請みうけするだけの大金たいきんになる」とむ。徳三郎とくさぶろうみせ途端とたん伝兵衛でんべえ鉢合はちあわせし、さらに時計とけいぶたひらいて内蔵ないぞうオルゴールってしまう。時計とけいのことを以前いぜんからっていた伝兵衛でんべえ徳三郎とくさぶろう魂胆こんたん見抜みぬいていかり、徳三郎とくさぶろう土蔵どぞう座敷牢ざしきろうめてしまう。おひさは父親ちちおや大工だいく道具どうぐ使つかって救出きゅうしゅつこころみるが露見ろけんし、ともに座敷牢ざしきろうめられる。

ここまでの様子ようす見届みとどけた佐平次さへいじ長兵衛ちょうべえにかけい、おひさの解放かいほう約束やくそくするのとえに、英国えいこく公使館こうしかん絵図えずめんれる。佐平次さへいじ高杉たかすぎらに絵図えずめんり、またももうける。高杉たかすぎらが小舟こぶねちに出発しゅっぱつするよる佐平次さへいじ徳三郎とくさぶろうとおひさをれてきてふね同乗どうじょうさせ、させる。

佐平次さへいじもく兵衛ひょうえ[編集へんしゅう]

御殿山ごてんやまがり、女郎じょろうきゃくたちがすずなりになって見物けんぶつするのを尻目しりめに、佐平次さへいじは「ここらが潮時しおどきだ」とげるための荷造にづくりをはじめる。そこへ喜助きすけんできて「こはるのきゃくもく兵衛ひょうえ大尽だいじんが『こはるをべ』と大騒おおさわぎしている」と報告ほうこくし、佐平次さへいじ対応たいおうたのむ。嫌気いやけした佐平次さへいじもく兵衛ひょうえに「こはるは急死きゅうしした」とげ、座敷ざしきる。

寝静ねしずまる女郎じょろう妓夫ぎふたちを見届みとどけ、佐平次さへいじ相模さがみる。すると提灯ちょうちんったもく兵衛ひょうえけ「はか案内あんないしろ」と佐平次さへいじう。佐平次さへいじはしかたなくちかくの墓地ぼちもく兵衛ひょうえれてき、適当てきとう石塔せきとうして「こはるのはかだ」とおしえた。もく兵衛ひょうえ一心いっしんおがむが、ふとかおげると、「享年きょうねんさい」となっていた。「墓石はかいしいつわると地獄じごくちねばなんねえぞ」とおこもく兵衛ひょうえ尻目しりめに、佐平次さへいじは「地獄じごく極楽ごくらくもあるもんけえ。おれはまだまだきるんでえ」と台詞せりふき、東海道とうかいどうまつ並木なみきってった。

まぼろしのラストシーン[編集へんしゅう]

脚本きゃくほん段階だんかいでは、上記じょうきのラストシーンにつづき、墓場はかばのセットがまれているスタジオ(と観客かんきゃくかる状況じょうきょう)を佐平次さへいじはしけ、さらにスタジオのとびらけてそとし、タイトルバックに登場とうじょうした現代げんだい(1957ねん)の品川しながわいたり、そこにそれまでの登場とうじょう人物じんぶつたちが現代げんだい格好かっこうをしてたたずみ、ただ佐平次さへいじだけがちょんまげ姿すがたはしっていく、というあんがあった(採用さいようされなかった経緯けいい下記かき)。

キャスト[編集へんしゅう]

  • 相模さがみ楼主ろうしゅ伝兵衛でんべえ金子かねこ信雄のぶお
    相模さがみ主人しゅじん番頭ばんがしらがりの婿養子むこようしである。
  • たつ山岡やまおか久乃ひさの
    伝兵衛でんべえつまで、徳三郎とくさぶろうはは
  • 徳三郎とくさぶろう梅野うめのやすしやすし[2]
    相模さがみ若旦那わかだんなで、おたつ息子むすこ伝兵衛でんべえとはのつながりがない。おひさにみ、計画けいかくおうじる。
  • 番頭ばんがしらぜんはち織田おだ政雄まさお
  • 若衆わかしゅ喜助きすけ岡田おかだ真澄ますみ
    相模さがみ妓夫ぎふのひとり。佐平次さへいじにつく。品川しながわ女郎じょろうんだちちなしで、佐平次さへいじに「日本人にっぽんじんばなれしたかおだ」とからかわれる。

スタッフ[編集へんしゅう]

デジタル修復しゅうふくばんスタッフ[編集へんしゅう]

製作せいさく[編集へんしゅう]

企画きかく[編集へんしゅう]

ほんさく冒頭ぼうとう表示ひょうじされる「日活にっかつ製作せいさく再開さいかいさん周年しゅうねん記念きねん」とは、戦時せんじちゅう企業きぎょう整備せいびれい(1942ねん)によって製作せいさく部門ぶもんが(だい映画えいが新興しんこうキネマとともに)大映だいえい合併がっぺいしたことで配給はいきゅうせんもん会社かいしゃとなっていた日活にっかつが、戦後せんごの1954ねん日活にっかつ撮影さつえいしょ再興さいこうしたことで自社じしゃ作品さくひん製作せいさく再開さいかいしてから3周年しゅうねんという意味いみである。新生しんせい日活にっかつ撮影さつえいしょ再開さいかいさいし、おも技術ぎじゅつ部門ぶもん東宝とうほうから、監督かんとく部門ぶもん松竹しょうちく大船おおぶね撮影さつえいしょからそれぞれいた。ほんさくをまかされた川島かわしま雄三ゆうぞうもまた、松竹しょうちく大船おおぶねからの移籍いせきぐみ西河にしかわ克己かつみ鈴木すずききよしじゅん今村いまむら昌平しょうへいなどがいる)であった。

脚本きゃくほん[編集へんしゅう]

脚本きゃくほん原作げんさくはなく、田中たなか啓一けいいち山内やまうちひさ変名へんめい)、ほんさくのチーフ助監督じょかんとくつとめた今村いまむら昌平しょうへい川島かわしまの3にん共同きょうどうでオリジナル脚本きゃくほん執筆しっぴつした。落語らくご居残いのこ佐平次さへいじ』から主人公しゅじんこう拝借はいしゃくし、『品川しながわ心中しんちゅうの』『三枚さんまい起請きしょう』『見立みたて』など、遊郭ゆうかく妓楼ぎろう舞台ぶたいにした落語らくご演目えんもく要素ようそ随所ずいしょりばめられ、英国えいこく公使館こうしかん事件じけん題材だいざいくわえられた。

日活にっかつ当初とうしょ文芸ぶんげい映画えいが新国劇しんこくげきとの合作がっさくおもとしたが、1956ねんに『太陽たいようぶし』をだいヒットさせると、どうさく出演しゅつえんによりしん時代じだいのスターとなった石原いしはら裕次郎ゆうじろうらが主演しゅえんする若者わかものけの作品さくひん量産りょうさんする路線ろせん転換てんかんした。『太陽たいようぶし』など一連いちれんの「太陽たいようぞく映画えいが」にたいする世間せけん風当かぜあたりはつよく、日活にっかつ内部ないぶでもこの路線ろせん拒否きょひする傾向けいこうつよかった。そんななか川島かわじまらが会社かいしゃ提出ていしゅつした脚本きゃくほん幕末ばくまつの「太陽たいようぞく」を意識いしきさせるものであり、以後いご映画えいが完成かんせいするまでのあいだ川島かわしま日活にっかつ上層じょうそうとの軋轢あつれきえなかったという。

キャスティング・撮影さつえい[編集へんしゅう]

  • 高杉たかすぎ晋作しんさくやく本来ほんらい三橋みつはし達也たつや予定よていされていたが、かれほうからことわったため、太陽たいようぞく象徴しょうちょうてき役者やくしゃであった石原いしはら裕次郎ゆうじろうえんじることになった。
  • ほんさく冒頭ぼうとうタイトルバックのナレーションをつとめたのは加藤かとうたけしである。かれはフランキーさかい親交しんこうふかく、本編ほんぺんにも出演しゅつえんしたかったそうだが、スケジュールの都合つごうでナレーションのみの参加さんかとなったという[1]
  • 小沢おざわ昭一しょういちえんじる貸本かしほん金造きんぞうかわちるシーンで、本物ほんものねこ死骸しがいいている。このねこはかつて撮影さつえいしょ小道具こどうぐ部屋へやわれていて、ねこきの小沢おざわは、部屋へやまえとおるたびにそのねこあたまでるなどしてしたしんでいたが、ほんさく撮影さつえいにたまたまんでしまい、そのねこと「共演きょうえん」することとなったものである。小沢おざわ晩年ばんねんいたるまで、そのねこれいわせていた[3]
  • 上記じょうきの「まぼろしのラストシーン」は、川島かわしま雄三ゆうぞうがかねてからいていた逃避とうひ願望がんぼうおよび、それとは相反あいはんするかたち佐平次さへいじたくした力強ちからづよさが時代じだいけていくことを表現ひょうげんする、ほんさく象徴しょうちょうするシーンになるはずだったが、演出えんしゅつがあまりに斬新ざんしんすぎたために、現場げんばのスタッフやキャストからは「意味いみからない」と反対はんたいこえした。川島かわしまみずからの理想りそうぞうとまでなしていた佐平次さへいじやくのフランキーさかいまで反対はんたいまわり、結局けっきょく現場げんばこえしたがわざるをなかった(フランキーさかい後年こうねん「あのとき監督かんとく賛成さんせいしておくべきだった」とかたっている)。
    このシーンあんについては、川島かわしま日活にっかつたいするいかりが「げ」というかたちあらわれたとするせつ、「サヨナラだけが人生じんせいだ」という言葉ことばのこした川島かわしま人生じんせい哲学てつがく反映はんえいされたとするせつ、あるいは故郷こきょうおそれやまたいする嫌悪けんお畏怖いふなど諸説しょせつがある。実際じっさい採用さいようされたシーンも、まぼろしとなったあんも、それまでの軽快けいかいなタッチとはことなり、墓場はかばが「陰鬱いんうつで、嫌悪けんお恐怖きょうふいだかせる存在そんざい」としてえがかれ、そこから逃避とうひする、という演出えんしゅつてん共通きょうつうしている。
    佐平次さへいじ懐中時計かいちゅうどけい修繕しゅうぜんする能力のうりょくゆうしており、これが時間じかん超越ちょうえつ暗示あんじする伏線ふくせんであった可能かのうせいがある。

公開こうかい[編集へんしゅう]

川島かわしまほんさく最後さいご日活にっかつから東京とうきょう映画えいがへと移籍いせきすることになった。記念きねん作品さくひんとしてシリアスな大作たいさく期待きたいされたにもかかわらず喜劇きげき映画えいがとなったことや、石原いしはら小林こばやしあさひなどのスター俳優はいゆうわきまわけい喜劇きげき人気にんきはくしていたフランキふらんきさかい主役しゅやくえたことおよび、品川しながわ宿やどのセット予算よさんなどの制作せいさく問題もんだいによって、会社かいしゃ現場げんば軋轢あつれきしょうじたこと、そして川島かわしまがかねてからいていた待遇たいぐう不満ふまんなどがかさなってのこととされる。

修復しゅうふくさい公開こうかい[編集へんしゅう]

日活にっかつが2012ねん創業そうぎょう100周年しゅうねんむかえることを記念きねんして、それに先立さきだ2011ねんに、日活にっかつ東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんフィルムセンター共同きょうどう事業じぎょうとしてほんさくのデジタル修復しゅうふく作業さぎょうおこなわれた。修復しゅうふくさいほんさく録音ろくおん担当たんとうした橋本はしもと文雄ふみおが、「録音ろくおん修復しゅうふく監修かんしゅう」の肩書かたがき参加さんかした。

このデジタル修復しゅうふくばん同年どうねん世界せかい各国かっこく巡回じゅんかい上映じょうえいされた[4]日本にっぽんでも一般いっぱん公開こうかいされた[1][5]のち、12月より日本にっぽん全国ぜんこくでも順次じゅんじ公開こうかいされた。

評価ひょうか[編集へんしゅう]

映画えいが雑誌ざっしとうで、以下いかのように選出せんしゅつされている。

  • 1979ねん:『キネマ旬報きねまじゅんぽう戦後せんご復刊ふっかん800ごう記念きねん日本にっぽん公開こうかい外国がいこく映画えいがベストテン」だい11
  • 1989ねん:『キネマ旬報きねまじゅんぽう戦後せんご復刊ふっかん1000ごう記念きねん日本にっぽん映画えいが史上しじょうベストテン」だい6
  • 1989ねん:『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』「だいアンケートによる日本にっぽん映画えいがベスト150」だい9
  • 1995ねん:『キネマ旬報きねまじゅんぽう』「オールタイムベストテン・日本にっぽん映画えいがへんだい10
  • 1999ねん:『キネマ旬報きねまじゅんぽう創刊そうかん80周年しゅうねん記念きねん映画えいがじんえらぶオールタイムベスト100・日本にっぽん映画えいがへんだい5
  • 2009ねん:『キネマ旬報きねまじゅんぽう創刊そうかん90周年しゅうねん記念きねん映画えいがじんえらぶオールタイムベスト100・日本にっぽん映画えいがへんだい4

影響えいきょう[編集へんしゅう]

  • 今村いまむら昌平しょうへい1981ねん昭和しょうわ56ねん)に製作せいさくした『ええじゃないか』は、舞台ぶたい両国橋りょうごくばし周辺しゅうへんうつ時代じだいすうねんさきとしているが、『幕末ばくまつ太陽たいようでん』でやりのこした部分ぶぶん映画えいがした気配けはい濃厚のうこう作品さくひんだった。
  • フランキふらんきさかい生前せいぜん川島かわしま東洲斎写楽とうしゅうさいしゃらく映画えいが寛政かんせい太陽たいようでん』をつくろうと約束やくそくしていたという。川島かわしまは「写楽しゃらくはフランキー以外いがいかんがえられない」とかたっていた。それがたされずに川島かわしま死去しきょしたため、フランキーは俳優はいゆうぎょうのかたわら写楽しゃらく研究けんきゅうつづけ、1995ねん平成へいせい7ねん)にみずか企画きかく製作せいさく参加さんかして『写楽しゃらく』(篠田しのだ正浩まさひろ監督かんとく)をつくげた。フランキーが高齢こうれいになったため、写楽しゃらくやく真田さなだ広之ひろゆきえんじることになり、フランキーはつた重三郎しげさぶろうやくまわった。川島かわしまとの約束やくそくたしたフランキーは、『写楽しゃらく公開こうかい翌年よくねん死去しきょした。
  • 川島かわしまとあおぐ藤本ふじもと義一ぎいちは、大阪おおさか舞台ぶたいである『とむらいたち』(葬式そうしき生涯しょうがい)の脚本きゃくほんで、かつ新太郎しんたろう川島かわしま見立みたてて主人公しゅじんこう造型ぞうけいした。ラストでかちなまはさみあいだ彷徨ほうこうする地獄じごくともおもえるシーン(墓場はかば川島かわしまこのんで使用しようしたモチーフである)は、川島かわしま出身しゅっしんおそれやまそのものである。

上記じょうきのラストシーンあんは、のちに映画えいがじんられるにいたり、さまざまな作品さくひんでオマージュされている。

  • 今村いまむら自身じしんのドキュメンタリー映画えいが人間にんげん蒸発じょうはつ』で、ラストシーンの部屋へやがセットだということ観客かんきゃくかし、映画えいがとドキュメントと現実げんじつ社会しゃかい境界きょうかい曖昧あいまいさをけた。
  • 川島かわしま同郷どうきょうである寺山てらやま修司しゅうじは、おそれやま舞台ぶたいにした『田園でんえん』のラストで、東北とうほく旧家きゅうかのセットが崩壊ほうかいすると、そのうしろから1970年代ねんだい新宿しんじゅくえき東口ひがしぐち交差点こうさてんあらわれる演出えんしゅつをしている。また、崩壊ほうかいしたセットの周囲しゅうい現代げんだいじんとなった映画えいが登場とうじょう人物じんぶつたちが往来おうらいするシーンなどにも、影響えいきょう見受みうけられる。
  • アニメーター映画えいが監督かんとくあん秀明ひであきは、『しん世紀せいきエヴァンゲリオン制作せいさくちゅうに「『幕末ばくまつ太陽たいようでん』をやりたかった」とかく媒体ばいたいでたびたびかたっており、テレビばん最終さいしゅうかい実写じっしゃのスチル映像えいぞうまぎんだり、「もうひとつの可能かのうせい」としょうしてまったく雰囲気ふんいきことなる学園がくえんラブコメ(げきちゅうげき)になり、その最後さいごがアフレコ台本だいほんわるのも、ほんさくのラスト、そして川島かわしま積極せっきょくてき逃避とうひ哲学てつがくから影響えいきょうけた結果けっかであるという[よう出典しゅってん]
    • 2021ねん公開こうかいの『シン・エヴァンゲリオン劇場げきじょうばん』のラストシーンは、主人公しゅじんこういかりシンジがマリとはしすと画面がめん実写じっしゃ宇部新川うべしんかわえきわり、えきからてきた2人ふたり宇部うべまちへとはしっていくという、ほんさくのボツとなったまぼろしのラストシーンと同様どうよう画面がめん展開てんかいとなっている。

舞台ぶたい[編集へんしゅう]

ほんさく原案げんあんとした同名どうめいタイトルの舞台ぶたい作品さくひん複数ふくすう上演じょうえんされている。

2015年版ねんばん[編集へんしゅう]

江本えもと純子じゅんこ脚本きゃくほん演出えんしゅつ青木あおきたかしだか主演しゅえんで、2015ねん9がつ本多劇場ほんだげきじょう上演じょうえんされた[6]

キャスト

宝塚歌劇たからづかかげきばん[編集へんしゅう]

2017ねん4がつから7がつまで、宝塚歌劇団たからづかかげきだんゆきぐみ公演こうえんとして宝塚たからづかだい劇場げきじょう東京とうきょう宝塚劇場たからづかげきじょう上演じょうえん脚本きゃくほん演出えんしゅつ小柳こやなぎ奈穂子なおこ担当たんとう主演しゅえんは、きりせいなさきみゆ。併演はShow Spirit『Dramatic “S”!』(さく演出えんしゅつ中村なかむら一徳かずのり)。ほんさくはやきりさき退団たいだん公演こうえんであった[7]

また、宝塚たからづかだい劇場げきじょう公演こうえんは、宝塚歌劇団たからづかかげきだん103期生きせい初舞台はつぶたい公演こうえんであった[8]

キャスト

2019年版ねんばん[編集へんしゅう]

川島かわしま雄三ゆうぞう監督かんとく生誕せいたん100周年しゅうねんプロジェクト 幕末ばくまつ太陽たいようでん 外伝がいでん』のだいで2019ねん4がつ18にち - 28にち三越みつこし劇場げきじょうにて上演じょうえんされた。脚本きゃくほん演出えんしゅつなるせゆうせい[10][11]

キャスト[10][11]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d 日活にっかつ100周年しゅうねん記念きねん!フランキーさかい南田みなみだ洋子ようこ石原いしはら裕次郎ゆうじろう小林こばやしあさひ出演しゅつえんの『幕末ばくまつ太陽たいようでん』がデジタル修復しゅうふくばん劇場げきじょう復活ふっかつ決定けってい!!”. シネマトゥデイ (株式会社かぶしきがいしゃシネマトゥデイ). (2011ねん10がつ20日はつか). https://www.cinematoday.jp/news/N0036280 2022ねん8がつ3にち閲覧えつらん 
  2. ^ クレジット表記ひょうきは「梅野うめの泰清やすきよ
  3. ^ 小沢おざわ昭一しょういちちょいらくのはな』(2009ねん文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、P.92~93)所収しょしゅう「『幕末ばくまつ太陽たいようでん』のねこ」より
  4. ^ 世界せかい各国かっこく日活にっかつ作品さくひん特集とくしゅう上映じょうえい決定けってい!1ねんごしでアメリカ、ヨーロッパ、アジアで、鈴木すずききよしじゅん川島かわしま雄三ゆうぞう監督かんとく幕末ばくまつ太陽たいようでん』デジタル修復しゅうふくばんなど:だい64かいカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい. シネマトゥデイ (株式会社かぶしきがいしゃシネマトゥデイ). (2011ねん5がつ17にち). https://www.cinematoday.jp/news/N0032360 2022ねん8がつ3にち閲覧えつらん 
  5. ^ 日活にっかつ象徴しょうちょう幕末ばくまつ太陽たいようでん復活ふっかつ デジタルばん公開こうかい. asahi.com (朝日新聞社あさひしんぶんしゃ). (2011ねん12月23にち). オリジナルの2011ねん12月23にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20111223110330/http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY201112220346.html 2022ねん8がつ3にち閲覧えつらん 
  6. ^ a b 青木あおきたかしだか主演しゅえん×江本えもと純子じゅんこ演出えんしゅつ映画えいが幕末ばくまつ太陽たいようでん」が舞台ぶたい”. シアターガイド (2015ねん7がつ13にち). 2015ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  7. ^ 宝塚たからづかゆきぐみトップ はやきりせいな、来年らいねんがつ退団たいだん さきみゆと同時どうじに”. スポニチアネックス. (2016ねん11月21にち). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/11/21/kiji/K20161121013766290.html 2016ねん12がつ20日はつか閲覧えつらん 
  8. ^ 宝塚たからづかゆきぐみ映画えいが幕末ばくまつ太陽たいようでん」ミュージカルはやきりせいなが佐平次さへいじやくに”. ステージナタリー. (2016ねん8がつ17にち). https://natalie.mu/stage/news/198423 2016ねん8がつ17にち閲覧えつらん 
  9. ^ a b c “「幕末ばくまつ太陽たいようでん会見かいけんはやきりせいな&さきみゆが最後さいごちかう「よろこんでもらえる舞台ぶたいを」”. ステージナタリー. (2017ねん1がつ16にち). https://natalie.mu/stage/news/217023 2017ねん1がつ17にち閲覧えつらん 
  10. ^ a b 舞台ぶたい幕末ばくまつ太陽たいようでん外伝がいでん公式こうしきサイト”. 2019ねん12がつ10日とおか時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2022ねん5がつ14にち閲覧えつらん
  11. ^ a b 舞台ぶたい幕末ばくまつ太陽たいようでん 外伝がいでん開幕かいまく佐平次さへいじやく崎山さきやまつばさ「調子ちょうしよく、飄々ひょうひょうと」”. ステージナタリー. ナタリー (2019ねん4がつ18にち). 2022ねん5がつ13にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

  • 栄光えいこうなき天才てんさいたち - 伊藤いとう智義ともよし原作げんさく森田もりた信吾しんご作画さくが漫画まんが集英社しゅうえいしゃ文庫ぶんこはんだい2かんにおいて『幕末ばくまつ太陽たいようでん制作せいさく過程かていとそれにいた川島かわじま生涯しょうがいえがかれ、「故郷こきょうへの畏怖いふ」がほんさくのラストシーンに影響えいきょうあたえたのではないかとするせつ提示ていじされているほか、川島かわしま現代げんだい日本にっぽんにひょっこりあらわれる、というほんさくの「まぼろしのラストシーン」を再現さいげんするような場面ばめんがある。