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感覚かんかく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

感覚かんかく(かんかく)

  1. 生理学せいりがくとしては、分類ぶんるいされた知覚ちかくにあたる[よう出典しゅってん]分類ぶんるいされたそれぞれの感覚かんかくとその作用さよう分類ぶんるい方法ほうほう理論りろん様々さまざま分野ぶんやかさなって研究けんきゅうされている。たとえば神経しんけい科学かがく認知にんち科学かがく認知にんち心理しんりがく哲学てつがくがある。
  2. 用法ようほうとして、高次こうじ認知にんち仕方しかた文化ぶんかてき社会しゃかいてき物事ものごとかんかた)、不安ふあん類推るいすいなどのしんうごきも「感覚かんかく」ということがある(用例ようれい:「日本人にっぽんじん感覚かんかくでは……」「しん感覚かんかく」)。

以下いか記述きじゅつは、生理学せいりがくてき感覚かんかく」について、である。

定義ていぎ歴史れきし

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アリストテレス霊魂れいこんろんでヒトの感覚かんかくはじめて分類ぶんるいし、視覚しかく聴覚ちょうかく触覚しょっかく味覚みかく嗅覚きゅうかくの5つがあるとした。これがひろられる五感ごかんであるが、現在げんざい実際じっさいにはそれ以上いじょうかず感覚かんかくがあることがわかっている。

ただし、現代げんだい生理学せいりがくでは感知かんちされる情報じょうほう内容ないよう感知かんちじょ伝達でんたつ様式ようしきなどによって多様たよう分類ぶんるいされており、その分類ぶんるい自体じたい確定かくていしてはいない。かゆみをはじめとするいまだに仕組しくみが詳細しょうさいには解明かいめいされていない感覚かんかくおおのこされている。

いわゆる第六感だいろっかんは、五感ごかんにあてはまらない超越ちょうえつした感覚かんかくという意味いみだが、これはかん直観ちょっかんといった心理しんりてきうごきを感覚かんかく比喩ひゆしたものであり、通常つうじょう感覚かんかくふくめない。

刺激しげき受容じゅよう感覚かんかく

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感覚かんかくは、動物どうぶつ外部がいぶからの刺激しげきけることでしょうじるものである。このとき刺激しげき器官きかん受容じゅようといい、これは往々おうおうにして感覚かんかく器官きかんともわれる。動物どうぶつ様々さまざま感覚かんかく器官きかんち、それぞれがある範囲はんい種類しゅるいの、ある範囲はんいつよさの刺激しげきだけをることができる。たとえば、ヒトは、たん波長はちょうがわが360 nm - 400 nm、長波ちょうはちょうがわが760 nm - 830 nmの電磁波でんじは可視かし光線こうせん)だけをることができる。受容じゅようることが可能かのう最適さいてき刺激しげきてき刺激しげき(adequate stimulus)、また自然しぜん刺激しげき(natural stimulus)といい、さらにれるつよさのはば閾値という[1]。それぞれの受容じゅようはこのようにかぎられた刺激しげきしかれないので、動物どうぶつ多数たすう種類しゅるい受容じゅようち、それらは1,2しかないものもあれば、全身ぜんしん無数むすうつものもある。

いずれにせよ、受容じゅようけとった刺激しげきのうつたえられ、そこで動物どうぶつ外界がいかい反応はんのうするための情報じょうほうとして利用りようされる。ここでられた刺激しげきから動物どうぶつ自分じぶんそと世界せかいるのであり、それが感覚かんかくである[よう出典しゅってん]

ヒトの感覚かんかく分類ぶんるい

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現在げんざいまでにられているおも感覚かんかく

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太字ふとじはいわゆる五感ごかんしめしている。

感覚かんかく

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  • 固有こゆう感覚かんかく運動うんどう感覚かんかく):からだたいする意識いしきすじけんない受容じゅようによるすじけん間接かんせつ緊張きんちょう変化へんか)の知覚ちかくである。ヒトがおおきく依存いぞんする感覚かんかくであり、しかしながら頻繁ひんぱん意識いしきされない感覚かんかくである。説明せつめいするよりさら簡潔かんけつ明示めいじすると、固有こゆう感覚かんかくとは、からだ様々さまざま部位ぶい位置いちする場所ばしょかんじているという"無意識むいしき"である。これはじてうでまわりにることでえんじしめせすることができる。固有こゆう感覚かんかく機能きのう正確せいかくだとおもんで、どのほか感覚かんかくにも感知かんちされていないにもかかわらず、ぐに実際じっさいにある位置いち意識いしきくなるだろう。
  • 什痒かん:いわゆる「かゆ」の感覚かんかくながあいだかゆみは“いたみ”のかるいもの」とおもわれていたが、近年きんねん[いつ?]独立どくりつした感覚かんかくである可能かのうせいしめされた[2]

ヒトにはない感覚かんかく

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ヒトの感覚かんかく類似るいじするもの

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生物せいぶつ上記じょうきげたようなまわりの世界せかいかんじとる受容じゅようたいつが、そのメカニズムと能力のうりょく幅広はばひろい。

視覚しかく
トンボなどの複眼ふくがん細胞さいぼうあつまりかたがヒトの水晶すいしょうたいちがうが、どちらもレンズてき要素ようそ獲得かくとくした意味いみでは類似るいじしており、収斂しゅうれん進化しんかひとつとえる。
ヒトの視覚しかく仕組しくみはことなるが、ミツバチ紫外線しがいせん(ヒトのにはえない波長はちょうみじかひかり)をることができ、マムシボア赤外線せきがいせん(ヒトのにはえない波長はちょうながひかり)をることができる。
ネコなどの夜行やこうせい動物どうぶつは、網膜もうまくうしろに「タペタム」とばれるヒトにはない反射はんしゃまくち、ひかり反射はんしゃして増幅ぞうふくすることでヒトよりも暗闇くらやみでよくモノをることができる。
聴覚ちょうかく
コウモリクジラは、ちょう音波おんぱ(ヒトのみみにはこえないたか周波数しゅうはすうおと)をはっし、反響はんきょう定位ていい利用りようして、自分じぶん獲物えもの位置いちることができる。なお、下記かきべられているとおり、反響はんきょう定位ていい自体じたいはヒトの感覚かんかく類似るいじしないものである。
嗅覚きゅうかく
イヌクマ嗅覚きゅうかく仕組しくみはヒトと同様どうようであるが、ヒトよりはるかにするど嗅覚きゅうかくつ。たとえば、イヌの嗅覚きゅうかくはヒトのすうせんからすうまんばいとされるが、その能力のうりょく有香ゆか物質ぶっしつ種類しゅるいによってもおおきくことなり、酢酸さくさんにおいなどはヒトの1おくばいまで感知かんちできる。
昆虫こんちゅう嗅覚きゅうかく受容じゅようたいをその触角しょっかくつ。
フェロモン受容じゅよう
トカゲヘビおおくの哺乳類ほにゅうるいは、嗅覚きゅうかくとはべつに「ヤコブソン器官きかん」とばれるフェロモン受容じゅようする専用せんよう器官きかんつ。ヒトにも発生はっせい初期しょきには存在そんざいするが、胎児たいじ退化たいかしてしまうため機能きのうしていない。

ヒトの感覚かんかく類似るいじしないもの

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反響はんきょう定位ていい(エコーロケーション)
コウモリクジラなどは、自分じぶんはっしたおと反射はんしゃおんによって周囲しゅういのものと自分じぶんとの距離きょり位置いち関係かんけいることができる。おとにはまっすぐすす反射はんしゃしやすい特徴とくちょうをもつちょう音波おんぱもちいられる。クジラは「メロンたい」とばれる器官きかん反響はんきょう定位ていい使用しようされるおと焦点しょうてんわせているとかんがえられている。洞窟どうくつ深海しんかいのような暗黒あんこく世界せかいでは視覚しかくやくにたないため、わりに反響はんきょう定位ていい視覚しかくちか役割やくわりになう。
なお、上記じょうきべられているとおり、聴覚ちょうかくもちいた反響はんきょう定位ていいは、ヒトの感覚かんかく類似るいじする。
さらに、類似るいじするしないをわず、反響はんきょう定位ていいはヒトにはない感覚かんかくである。にもかかわらず、一部いちぶのヒト個体こたいにはこの感覚かんかくがある「Human echolocation」Wikipedia英語えいごばん
電気でんき感覚かんかく英語えいごばん
サメエイナマズなど一部いちぶ水生すいせい動物どうぶつ電場でんじょう感知かんちする器官きかんつ。サメには「ロレンチーニ器官きかん」とばれる微弱びじゃく電場でんじょう感知かんちする器官きかんがあり、これによりひかりとどかない深海しんかい海底かいていどろかくれている獲物えもの発見はっけんとらえることができる。電気でんき受容じゅようによって周囲しゅうい物体ぶったい位置いち特定とくていすることを電気でんき定位ていい(エレクトロロケーション)という。サメのように動物どうぶつがつくった電場でんじょう感知かんちするタイプ(受動じゅどうてき電気でんき定位ていい)と、デンキウナギのようにみずか発電はつでんしてからだ周囲しゅうい電場でんじょうつくレーダーのように電場でんじょうない異物いぶつ検知けんちすることで周囲しゅういるタイプ(能動のうどうてき電気でんき定位ていい)がある。デンキウナギは数種類すうしゅるい発電はつでん器官きかんち、電気でんき定位ていいのための発電はつでん電気でんきショック攻撃こうげきのための発電はつでん別々べつべつ器官きかんおこなう。なお、ヒトの感電かんでん電気でんき受容じゅようではない。
磁気じき感覚かんかく
帰巣きそう本能ほんのう伝書鳩でんしょばとわたどりなど一部いちぶとりは、特定とくてい方向ほうこうかって正確せいかく遠距離えんきょり移動いどうする能力のうりょくつが、これは地磁気ちじきばれる地球ちきゅう磁場じば感知かんちすることで位置いち方角ほうがくることができるからだとかんがえられている。ただし、感知かんち仕組しくみについては諸説しょせつあり、解明かいめいされているわけではない。
赤外線せきがいせん受容じゅよう
マムシボアなど一部いちぶのヘビは「ピット器官きかん」とばれる赤外線せきがいせん熱線ねっせんとして感知かんちする器官きかんつ。ヘビの獲物えものであるしょう動物どうぶつは、自身じしんからだねつにより赤外線せきがいせんしているが、左右さゆうにあるピット器官きかん赤外線せきがいせん発生はっせいげんまでの距離きょり位置いちることができる。これによりヘビは夜間やかんでも獲物えもの発見はっけんとらえることができる。

哲学てつがくにおける感覚かんかく

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カント純粋じゅんすい理性りせい批判ひはん先験的せんけんてき感性かんせいろんにおいて、我々われわれあらわれる感覚かんかくすべ時間じかん空間くうかん形式けいしきにおいてあらわれることに着目ちゃくもくし、その形式けいしきがあらかじめ我々われわれうちに(かれ言葉ことばえばア・プリオリに)そなわっていることを発見はっけんした。感覚かんかくすべ例外れいがいなく、空間くうかんなかなにかあるもの刺激しげきによって、時間じかんなかで、我々われわれしょうじるという性質せいしつっている。時間じかん空間くうかんはそもそもそれ自体じたいが「認識にんしき形式けいしき」であるから、それらは経験けいけんたずして我々われわれうちそなわっている。むしろ、それらの形式けいしきがあればこそ、はじめて感覚かんかく成立せいりつするのである。なぜならば、時間じかん形式けいしきたないなんらかの感覚かんかく空間くうかん形式けいしきたない感覚かんかくったものを具体ぐたいてき想像そうぞうすることすら不可能ふかのうであり、我々われわれ認識にんしきされる感覚かんかくはそれらの形式けいしきしたがわざるをないからである。

視覚しかく聴覚ちょうかくについては実際じっさいそのように、感覚かんかく空間くうかん形式けいしきしたがってきていることがだれでもみずからの経験けいけん確認かくにんできる。一方いっぽうで、カントが具体ぐたいてきべているわけではないが、たとえば肉体にくたい内部ないぶ腹痛はらいた頭痛ずつうのような自分じぶん体内たいないきる感覚かんかくであっても「頭部とうぶ腹部ふくぶといった空間くうかんない具体ぐたいてき場所ばしょきた感覚かんかく」として認識にんしきされるわけであるから、感覚かんかくかなら空間くうかんしたがって発生はっせいすることがかる。時間じかんについては「時間じかん形式けいしきをとらない感覚かんかく」というのはあきらかにこりず、説明せつめいようしないであろう。これは人間にんげん感覚かんかくについてだけてはまるのではなく、すべての動物どうぶつむしといった神経しんけい細胞さいぼう感覚かんかくっている生物せいぶつにもえる。もしかれらが時間じかん空間くうかんという認識にんしき形式けいしきゆうしていないとすれば、とりつくったりカマキリクモえさとらえるという活動かつどう不可能ふかのうになろう。

以上いじょうのように、カントは、感覚かんかく時間じかん空間くうかん形式けいしきによって「我々われわれあたえられる」としたが、「先験的せんけんてき感性かんせいろん」につづく「先験的せんけんてきろん理学りがく」においては、そのあたえられた感覚かんかく我々われわれ思考しこうによってカテゴリーとばれる12概念がいねん適用てきようする、と説明せつめいしている。このカテゴリーは外延がいえんりょう内包ないほうりょう因果いんがせい可能かのうせいなどを思考しこうする抽象ちゅうしょうてき概念がいねんであるが、実際じっさいのところ我々われわれ経験けいけん本当ほんとうにそのような手続てつづきをているのかは疑問ぎもんのこる。というのも、もしも抽象ちゅうしょうてき概念がいねん適用てきようによる推論すいろんによって経験けいけん発生はっせいするのであれば、そのような思考しこう方式ほうしきたない動物どうぶつむしには経験けいけん発生はっせいない、という結論けつろんみちびかれるであろう。

たとえば、人間にんげんトンボつかまえようとするとげるが、トンボのうつるのは「たん空間くうかん形式けいしきをとって発生はっせいした現象げんしょう」であり、網膜もうまくしょうじたその刺激しげきが「外部がいぶからの原因げんいんによって発生はっせいしたもの」という(無意識むいしきてきな)推論すいろんふくまないことになる。したがって、「げる」という行動こうどうこす説明せつめいがつかなくなる。なぜなら原因げんいんせいが「概念がいねんによる思考しこう作用さよう」であるならば、むし動物どうぶつといった概念がいねんによる抽象ちゅうしょうてき認識にんしき作用さようたない生物せいぶつにこれは不可能ふかのうであることになるから、刺激しげき外部がいぶ客観きゃっかん)と関連かんれんづけることが発生はっせいしなくなり「刺激しげき対応たいおうしてげる」という行動こうどう不可能ふかのうになる。さらに、時間じかん空間くうかん形式けいしきで「経験けいけん我々われわれあたえられる」というてんについては、具体ぐたいてきにどのようなプロセスをて、感覚かんかく経験けいけん一般いっぱん我々われわれあたえられるのかということについて、一切いっさい説明せつめいがなされていない。

おなじドイツの哲学てつがくしゃであるショーペンハウアーは、以上いじょう難点なんてんについて、主著しゅちょ意志いし表象ひょうしょうとしての世界せかい」の付録ふろくである「カント哲学てつがく批判ひはん」で吟味ぎんみ批判ひはんし、概念がいねん一種いっしゅであるカテゴリーによる認識にんしき否定ひていし、あらたな説明せつめいくわえた。かれはカントの先験的せんけんてき感性かんせいろんについては「人類じんるい最大さいだい叡智えいちひとつであり不朽ふきゅう功績こうせき」であると絶賛ぜっさんしこれをれているが、カントが先見せんけんてき論理ろんりがくべたように「客観きゃっかん空間くうかん時間じかんなかでとにかく我々われわれあたえられ、我々われわれ思惟しいによって概念がいねん適用てきようする」というてんについてはまった見解けんかいことにし、この致命ちめいてき間違まちがいは「主観しゅかんければ客観きゃっかん存在そんざいしない」という真理しんりをカントがれなかったのが原因げんいんである、としている。かれ主張しゅちょう論旨ろんし大体だいたいにおいて以下いかとおりである。

経験けいけん我々われわれあたえられる」ためには、時間じかん空間くうかんだけでは説明せつめいがつかない。たとえば網膜もうまくなんらかのぞううつったとして、我々われわれかならず「空間くうかんのうちにある客観きゃっかんによって」発生はっせいしていると認識にんしきしている。もちろんこれは人間にんげんかぎらず、とりむしもそうである。たとえばとりちかづくとげるが、とり網膜もうまくうつったぞうは、網膜もうまくきたたんなる身体しんたい内部ないぶ変化へんかではなく、「外部がいぶによる刺激しげきによって」しょうじたという推論すいろん無意識むいしきてき適用てきようされなければ、どうしてもげるという行動こうどうきえない。

このことからあきらかなように、「~によって感覚かんかく発生はっせいする」という認識にんしき仕方しかたは、すでにそのうちに「因果いんが関係かんけい」を推論すいろんする形式けいしき介入かいにゅうしている。この形式けいしきはカントのうような抽象ちゅうしょうてき概念がいねんによる推論すいろんではなく、時間じかん空間くうかん同様どうよう経験けいけん経験けいけんとして成立せいりつするための条件じょうけんであり、我々われわれふく動物どうぶつむし共通きょうつうの、認識にんしき一般いっぱんしょうじさせるための条件じょうけんである。つまり、カントがうように、時間じかん空間くうかんしょうじる経験けいけんはただ「あたえられる」のではなく、時間じかん空間くうかん同様どうよう因果いんがせい適用てきようされる手続てつづきをはじめて認識にんしき一般いっぱんしょうじるのである。いいかえると、感覚かんかくはそれ自体じたい我々われわれあたえられるのではなく、知覚ちかくとして認識にんしき可能かのう形式けいしきになってはじめて発生はっせいする。

感覚かんかくが「外部がいぶ刺激しげきけてしょうじるものである」という説明せつめい仕方しかたは、人間にんげん動物どうぶつ知覚ちかく機能きのうとは独立どくりつしてもの存在そんざいしている、というかんがかたもとづいている。つまり、認識にんしき作用さようよりも「さきに」もの確固かっことして存在そんざいしていて、感覚かんかくは「から」それを感受かんじゅするのである。しかし、網膜もうまく鼓膜こまくといった感覚かんかく器官きかん刺激しげき受容じゅようする機能きのうつが、その刺激しげきが「外部がいぶ客観きゃっかんによって発生はっせいした」と因果いんがせいふくみながら判断はんだんする機能きのうは、認識にんしき作用さようであるのうなど神経しんけい系統けいとうぞくする作用さようである。「外部がいぶによって感覚かんかく発生はっせいした」とるのであれば、それはすで無意識むいしきてきに(つまりカントのうような抽象ちゅうしょうてき思考しこう推論すいろんではなしに)因果いんが関係かんけい感覚かんかく適用てきようされたのちで、はじめて我々われわれ認識にんしき可能かのう客観きゃっかん、つまり知覚ちかくとしてあらわれるということを意味いみしている。我々われわれ概念がいねんもちいて物事ものごと説明せつめいしたり理解りかいするさいかなら因果いんが関係かんけいもとづいて「~だから~である」というように思考しこうおこなうが、因果いんが関係かんけい思考しこうおこな神経しんけい系統けいとう活動かつどう形式けいしき由来ゆらいし、のうによる思考しこうというのは物事ものごと因果いんが関係かんけい推測すいそくしていく作業さぎょうである。もちろん、動物どうぶつむしはこのような抽象ちゅうしょうてき思考しこうをする能力のうりょくってはいないが、感覚かんかくしょうじるさいには人間にんげんおなじく、無意識むいしきてき因果いんがせい感覚かんかく適用てきようしてはじめて感覚かんかく認識にんしき可能かのうになる。もちろん、神経しんけい細胞さいぼう発達はったつ度合どあいによって因果いんが関係かんけい認識にんしき明瞭めいりょうさはちがってくるという事情じじょうのために、羽虫はむしむということもこりうるのであるが、無意識むいしきてき感覚かんかく因果いんが関係かんけい適用てきようしているというてんでは共通きょうつうである。

感覚かんかくかんする以上いじょう議論ぎろんただしいとすれば、神経しんけい系統けいとう知覚ちかくされる客観きゃっかんは「無意識むいしきてき因果いんがせい設定せっていする知覚ちかく機能きのうによってしょうじたもの」であり、「認識にんしき作用さようから独立どくりつしてもの外部がいぶ客観きゃっかんとして、感覚かんかくされる事物じぶつそれ自体じたい存在そんざいしている」という一般いっぱんひろ浸透しんとうしているかんがかた否定ひていされる。よって、すべての客観きゃっかん認識にんしきになである主観しゅかん認識にんしき作用さよう依存いぞんして成立せいりつしているという結論けつろんみちびかれる。以上いじょう大体だいたいにおいてショーペンハウアーの主張しゅちょうである。

出典しゅってん

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関連かんれん項目こうもく

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