逆鉾さかほこ昭廣あきひろ

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逆鉾さかほこしんじゅうから転送てんそう
逆鉾さかほこ 昭廣あきひろ
2009ねん9がつ場所ばしょでの審判しんぱんやく
基礎きそ情報じょうほう
四股しこめい ぶくその こうせい逆鉾さかほこ 昭廣あきひろ逆鉾さかほこ 信繁のぶしげ逆鉾さかほこ しんじゅう
本名ほんみょう ぶくその 好昭よしあき
愛称あいしょう チャキ[1]、チャカポコ[2]
生年月日せいねんがっぴ (1961-06-18) 1961ねん6月18にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (2019-09-16) 2019ねん9月16にち(58さいぼつ
出身しゅっしん 鹿児島かごしまけん姶良あいらぐん加治木かじきまちげん姶良あいら
身長しんちょう 182cm
体重たいじゅう 130kg
BMI 39.25
所属しょぞく部屋へや 井筒いづつ部屋へや
得意とくいわざ ひだりよっつ、り、もろし、そと
成績せいせき
現在げんざい番付ばんづけ 引退いんたい
最高さいこう ひがし関脇せきわけ
生涯しょうがい戦歴せんれき 551しょう567はい29きゅう(89場所ばしょ
幕内まくうち戦歴せんれき 392しょう447はい16きゅう(57場所ばしょ
優勝ゆうしょう 序ノ口じょのくち優勝ゆうしょう1かい
しょう 殊勲賞しゅくんしょう5かい
技能ぎのうしょう4かい
データ
はつ土俵どひょう 1978ねん1がつ場所ばしょ
入幕にゅうまく 1982ねん11月場所ばしょ
引退いんたい 1992ねん9月場所ばしょ
引退いんたい 年寄としより春日山かすがやま井筒いづつ
活動かつどう 日本にっぽん相撲すもう協会きょうかいふく理事りじ(2
2014ねん4がつ - 2016ねん3がつ
2018ねん3がつ - 2019ねん9がつ
備考びこう
金星かなぼし7りゅうさと3千代ちよ富士ふじ2そう羽黒はぐろ2
2019ねん9月18にち現在げんざい

逆鉾さかほこ 昭廣あきひろ(さかほこ あきひろ、1961ねん6月18にち - 2019ねん9月16にち[3])は、鹿児島かごしまけん姶良あいらぐん加治木かじきまちげん姶良あいら出身しゅっしん出生しゅっしょう東京とうきょう墨田すみだ)で井筒いづつ部屋へや所属しょぞくした大相撲おおずもう力士りきし本名ほんみょうぶくその 好昭よしあき(ふくぞの よしあき)[4]

最高さいこうひがし関脇せきわけ得意とくいわざひだりよっつ、り、もろし、そと現役げんえき時代じだい体格たいかくは182cm、130kg。引退いんたい年寄としより井筒いづつ襲名しゅうめいし、井筒いづつ部屋へや後進こうしん指導しどうたっていた[4]

来歴らいれき[編集へんしゅう]

まれそだったのはちちつるみね居宅きょたくおよ部屋へやかまえた墨田すみだであるが、大相撲おおずもうちち出身しゅっしんである鹿児島かごしまけん自身じしん出身しゅっしんとしてとどた。

墨田すみだ区立くりつよう小学校しょうがっこう墨田すみだ区立くりつ両国りょうこく中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょう本人ほんにん中学ちゅうがく卒業そつぎょう直後ちょくご入門にゅうもんのぞんだが、からだちいさかったことから、すでに入門にゅうもんしていたあにづるみねさん当時とうじさんだん)にもう反対はんたいされ[5]目黒めぐろ高校こうこうすすむ。同高どうこう相撲すもうで1年生ねんせいから活躍かつやくすると、反対はんたいしていたあにれたため、高校こうこう中退ちゅうたいして、君ヶ浜きみがはま部屋へやから名称めいしょう変更へんこうした直後ちょくご井筒いづつ部屋へや入門にゅうもんし、1978ねん1がつ場所ばしょぶくそのはつ土俵どひょうむ。1981ねん7がつ場所ばしょに、あに同時どうじしんじゅうりょうとなる。1981ねん11月場所ばしょは2しょう13はいおおきくし、幕下まくした陥落かんらくしたが、1982ねん5月場所ばしょさいじゅうりょう、このとき井筒いづつ部屋へや伝統でんとう四股しこめいぎゃくほこ改名かいめいした。同年どうねん11がつ場所ばしょ入幕にゅうまく現役げんえき時代じだいちちゆずりの「相撲すもう巧者こうしゃ」とわれ、立合たちあから相手あいてもろもぐむのがはやく、そこからのがぶりりを得意とくいとしており、技能ぎのうしょうさんやく常連じょうれんであった[4]。ちなみに、本来ほんらいひだりよっつだがもろしに移行いこうするさいみぎよっつからえるのが特徴とくちょうであった。このため、みぎよっつが得意とくい力士りきしとは相性あいしょうがよかったが、ひだりよっつが得意とくい力士りきしとは安易あんいひだりよっつになり相手あいてじゅうぶん相撲すもうとなってしまうこともおおかった。

1984ねん7がつ場所ばしょ小結こむすびして関脇せきわけ昇進しょうしんたし、次期じき大関おおぜき候補こうほばれたこともあった。実際じっさい関脇せきわけは9場所ばしょ連続れんぞくつとめていたが出世しゅっせよくとぼしく、また部屋へやあたまだったことからか立合たちあいでむねあごげる悪癖あくへきなおらず、さんやく地位ちいではても8・9しょうわり、2けた勝利しょうり(10しょう以上いじょう)をげることいち出来できなかった。最終さいしゅうてきさんしょうを9獲得かくとくしたが、すべて9しょう以下いかでの受賞じゅしょうであった。その反面はんめん話題わだいには事欠ことかかずりゅうさとって土俵どひょううえガッツポーズったり、ぎゃくほこ実弟じっていである寺尾てらおみにけたさいおもわずひかえでがってそうとしたりする行為こうい問題もんだいされたこともあった。土俵どひょうじょうでガッツポーズした日本人にっぽんじん力士りきしは、ぎゃくほこ大相撲おおずもう史上しじょうはつわれる[6]昭和しょうわ60年代ねんだいには実弟じってい寺尾てらおとも同時どうじ関脇せきわけ同時どうじさんしょう受賞じゅしょうもしばしばあった。立合たちあ正常せいじょう講習こうしゅうおこなわれた直後ちょくご場所ばしょである1984ねん9がつ場所ばしょでは、その場所ばしょ3にちきた天佑てんゆうせんったさい取組とりくみいち度目どめきわどい立合たちあいを「つき不十分ふじゅうぶん」と指摘してきした九重ここのえにらみつけたことやインタビュールームで憮然ぶぜんと 「あたまにきたからね、もう」とくちにするなどの態度たいどせて物議ぶつぎかもした[7]ちなみにこの取組とりくみ正常せいじょう講習こうしゅうなおだい1ごう[6]千代ちよ富士ふじそう羽黒はぐろの2横綱よこづなやぶった1987ねん9月場所ばしょから3場所ばしょ連続れんぞく殊勲賞しゅくんしょう獲得かくとくしている[4]

だが、わか花田はなた貴花田たかはなだ若貴わかたか兄弟きょうだい台頭たいとうしてきた平成へいせい初期しょきにはちからおとろえ、からだいちまわちいさくなっており、得意とくいのもろしになってもそのまま後退こうたいしてけるといった取組とりくみ低迷ていめいした。くわえて、マスコミでも散々さんざんてられ悪役あくやく役回やくまわりをられたがそれでも人気にんきたかく、じゅうりょう陥落かんらく1992ねん9月場所ばしょ引退いんたいするまで人気にんき力士りきしとして活躍かつやくした。横綱よこづな千代ちよ富士ふじ屋台やたい遭遇そうぐうしてからは千代ちよ富士ふじ心酔しんすいし、以後いご両者りょうしゃともしばしば熱戦ねっせん展開てんかいした。

現役げんえき引退いんたい年寄としより14だい春日山かすがやま襲名しゅうめいして井筒いづつ部屋へやきとなり、師匠ししょう停年ていねん定年ていねん退職たいしょく井筒いづつ名跡みょうせき変更へんこうして部屋へや継承けいしょうした。継承けいしょう直後ちょくごの1994ねん5がつには、すで結婚けっこんしていたことと当時とうじ7さいだった長女ちょうじょ清香きよかてんさきせんはな)の存在そんざいあきらかにして周囲しゅういおどろかせた[8]部屋へや師匠ししょうとしては、直弟子じきでしつるりゅう横綱よこづなまでそだげるなど手腕しゅわん発揮はっきした[4][9]。アマチュア相撲すもう実績じっせきもなく、選抜せんばつテストをいたわけでもなかったつるりゅう横綱よこづなそだげたことは井筒いづつ特筆とくひつすべき功績こうせきだとわれる[10]相撲すもう協会きょうかいでは役員やくいん就任しゅうにんまえ役員やくいんでない親方おやかたしゅ構成こうせいされる年寄としよりかい会長かいちょうつとめ、2014ねんには役員やくいん選挙せんきょ立候補りっこうほしてふく理事りじ就任しゅうにんした。2002ねん勝負しょうぶ審判しんぱん就任しゅうにんして以降いこうは12年間ねんかんちょうきにわたってその任務にんむたし、2014ねんふく理事りじ就任しゅうにん審判しんぱん残留ざんりゅうしてふく部長ぶちょうへと昇進しょうしんした。2016ねん役員やくいん候補こうほ選挙せんきょ立候補りっこうほするも、落選らくせんする[11]。そのおこなわれたあらたな職務しょくむ分掌ぶんしょうでは、監察かんさつ委員いいんとなった。

2014ねんまつには、横綱よこづなつるりゅうがモンゴルじん女性じょせいとの婚約こんやく発表はっぴょうしたことをけて会見かいけんおこなったが、この会見かいけんなどの準備じゅんびわれた影響えいきょう体調たいちょうくずし、直後ちょくご2015ねん1がつ場所ばしょ不調ふちょうによって全休ぜんきゅう[12]同月どうげつ29にち理事りじかいより職務しょくむ復帰ふっきし、2がつ8にち大相撲おおずもうトーナメントから審判しんぱんちょうとして土俵どひょうすわ意向いこうしめした[13]

2016ねん3がつ場所ばしょでは8にちむすびの一番いちばん審判しんぱんちょう職務しょくむをしていたところ、横綱よこづなはくほうられ(だめしとの見方みかたもある[14])、土俵どひょうから転落てんらくしたよしみふう下敷したじきとなり左足ひだりあし骨折こっせつして入院にゅういんする災難さいなんった[15]怪我けがった2ヶ月かげつはくほう直々じきじき謝罪しゃざい出向でむいたため、井筒いづつはくほうあいだにわだかまりはなくなったという[10]

2018ねん2がつ2にちふく理事りじ選挙せんきょでは4にんふく理事りじの3わくあらそなか実弟じってい20だい錣山異例いれい兄弟きょうだい対決たいけつとなった。前回ぜんかい選挙せんきょでは14だい玉ノ井たまのいとの決選けっせん投票とうひょうすえ落選らくせんした井筒いづつは31ひょうでトップ当選とうせんとなった。おとうととのあらそいに「複雑ふくざつ気持きもち。おな会社かいしゃにいるもんじゃないなとつくづくおもいます」とよろこびの表情ひょうじょうせなかった[16][17]

2019ねん7がつ名古屋なごや場所ばしょ糖尿とうにょうびょう悪化あっかし、検査けんさにより膵臓すいぞうがん発覚はっかく、8がつ下旬げじゅんから都内とない病院びょういん入院にゅういん[18]。9月場所ばしょ休場きゅうじょうしていたが、同月どうげつ16にちよる容態ようだい急変きゅうへん死去しきょした[3]。58さいぼつおな時津風ときつかぜ一門いちもん中川なかがわもと幕内まくうちあさひさと)は井筒いづつ死去しきょさいして「病気びょうきのことは全然ぜんぜんらなかった」とコメントした[19]づるみねさんとも井筒いづつ最期さいご看取みとった錣山は「本当ほんとう頑張がんばった。めてあげたい。最後さいごまでかおられたことはしあわせだった。ちいさいときから、しょっちゅうけんかばかりしていた。相撲すもうたいしては天才てんさい。それをすごく尊敬そんけいしていました」とはなした[20]井筒いづつ部屋へや死去しきょともなって本場所ほんばしょちゅう師匠ししょう不在ふざいとなったため、転籍てんせきさきまるまで時津風ときつかぜ一門いちもん8だい鏡山かがみやまつるりゅうふく部屋へや所属しょぞく力士りきし床山とこやま身分みぶん一時いちじてきあずかるかたちとなった[21]

9月場所ばしょ終了しゅうりょうの9がつ24にちおこなわれた井筒いづつ通夜つや時津風ときつかぜ一門いちもんそうとしておこなわれ、一門いちもん親方おやかたしゅ関取せきとりしゅのほか協会きょうかいふく理事りじであったことからいち門外もんがいからも八角はっかく理事りじちょう尾車おぐるま春日野かすがの協会きょうかい理事りじ参列さんれつし、角界かくかい関係かんけいしゃのほか600にん弔問ちょうもんおとずれた[22]つるりゅうはこのはじめて取材しゅざいおうじ、最後さいごにあったのは7がつ場所ばしょ千秋楽せんしゅうらくであったことをかした。なつ巡業じゅんぎょう出発しゅっぱつまえにも電話でんわでやりりをしており、「そこから会話かいわできなかったのがい」[23]であるが、「きびしく、やさしいひとだった。よくおこられたし、自分じぶんけると自分じぶんよりもくやしがってくれた。それだけ期待きたいしてあいしてくれたのだとおもう。これからは、おしえてもらったことをむねめてあゆんでいきたい」と師匠ししょうへのおもいをべている[24]おとうとの錣山は通夜つや告別こくべつしき井筒いづつ部屋へやいとなまれることについて、「(闘病とうびょうちゅうに)本人ほんにんが『部屋へやもどりたい』と。それがベストだとおもう。ちち先代せんだいもと関脇せきわけつるみね)とははがきずきあげたしろもどって見送みおくられるのはいいことだとおもう」と本人ほんにん遺志いしであったことをかした[25]

作家さっか喜多きた哲士てつし自身じしんのウェブサイトの1コーナー「大相撲おおずもう小言こごと場所ばしょ」で「師匠ししょうとしても横綱よこづなづるりゅうそだげたのは立派りっぱ。しかし、現状げんじょう部屋へや消滅しょうめつ時点じてん)で井筒いづつ部屋へや力士りきしは3にんのみというさびしさもあり、かならずしも名門めいもん井筒いづつ部屋へやなおしに成功せいこうしたとはがたかったのが残念ざんねん協会きょうかい要職ようしょくについていたことも影響えいきょうしたか。今後こんごつるりゅう協会きょうかいのこり、名門めいもん再興さいこうたしてくれることをせつねがう」と記述きじゅつし、つるりゅう後継こうけいしゃとなることを期待きたいしていた[26]

つるりゅうによる再興さいこう期待きたいされる一方いっぽう井筒いづつじつむすめてんさきせんはなぶくその清香きよか)が志摩しまうみこうよう木瀬きせ部屋へや所属しょぞく出羽海でわのうみ一門いちもん)と結婚けっこんし、志摩しまうみぶくその婿養子むこようしとなっていることから井筒いづつ部屋へやがどのようなかたち再興さいこうされるかは不明ふめいである。

エピソード[編集へんしゅう]

  • 小学校しょうがっこうとき現役げんえき時代じだいちちだい45だい横綱よこづな若乃花わかのはな対戦たいせんした写真しゃしんて、初代しょだい若乃花わかのはなだいファンになった。お小遣こづかいがはいると若乃花わかのはなやライバルのだい44だい横綱よこづなとちにしきのことがっているほん雑誌ざっしもとめて、若乃花わかのはなち、エピソード、ぜん成績せいせきまでちどころにそらんじられるようになり、自分じぶん若乃花わかのはなのような力士りきしになりたいとこころざした[27]。『若ノ花わかのはな物語ものがたり』のビデオなんひゃくかいかえしてていたという[28]
  • 目黒めぐろ高校こうこう相撲すもうでは、つるみね息子むすことして入学にゅうがく直後ちょくごより頭角とうかくあらわし、関東かんとう大会たいかい軽量けいりょうきゅういち年生ねんせいながら3はいる。相撲すもうには土俵どひょうがなく、稽古けいこ春日野かすがの部屋へやおこなっていた。稽古けいこ春日野かすがの部屋へやじょだん力士りきし何人なんにんくと、それをていた春日野かすがの親方おやかたもととちにしき)は「うん、おまえ、おとうさんより相撲すもうがうまいな」とこえをかけられた。これにをよくし、両親りょうしんに「うちでだめなら、おれ、春日野かすがの部屋へやくよ」と直訴じきそしたことから、入門にゅうもん反対はんたいしていたあにれることとなった。一方いっぽうで、高校こうこうのデビューせんである東京とうきょう大会たいかいでは、取組とりくみちゅうまわしがはずれて反則はんそくけとなるハプニングもこしている[29]
  • 現役げんえき時代じだいから読書どくしょ有名ゆうめいであり、太宰だざいおさむ小説しょうせつなどをこのんでいた[10]
  • 几帳面きちょうめんで、自分じぶん部屋へやには子供こどもころからあつめていた相撲すもう雑誌ざっし相撲すもうビデオがきれいにならべてあった。雑誌ざっし発売はつばい順番じゅんばんならんでいないとまないし、かべすこしでもがっているとられないと、びとしてなおさせさせていた[30]
  • りゅうさとやぶり、自身じしんにとってはつ金星かなぼしとなった1984年初ねんしょがつ場所ばしょ7にちは、った直後ちょくごおもわずガッツポーズった。角界かくかいでは対戦たいせんした力士りきしたいする礼儀れいぎ配慮はいりょから、ってもガッツポーズをることを禁止きんししており、から注意ちゅういされたという。
  • あさあおりゅうだい68だい横綱よこづな)が土俵どひょうじょう懸賞けんしょうきんるときに左手ひだりて手刀てがたなることを、横綱よこづな審議しんぎ委員いいんかい委員いいん内館うちだて牧子まきこ問題もんだいしたが[31]ぎゃくほこあさあおりゅうおなじく左利ひだりきでずっと左手ひだりて手刀てがたなっていた。だが当時とうじはこれを問題もんだいするものだれもいなかった[32]。なお、たかしさとせんってガッツポーズをとった上述じょうじゅつ取組とりくみでは右手みぎて手刀てがたなっている。
  • 土俵どひょう勝負しょうぶ審判しんぱんつとめる親方おやかたは、NHK大相撲おおずもう中継ちゅうけいでは贔屓ひいきてき解説かいせつにならないようにするために原則げんそくとして解説かいせつつとめないが、審判しんぱん所属しょぞくになるまえ解説かいせつつとめたさいには、自分じぶんより年上としうえ力士りきしかたさいは「○○せき」と呼称こしょうしていた。具体ぐたいれいとしては、自身じしんよりなが現役げんえきつづけたどう部屋へや兄弟子あにでし霧島きりしまを「霧島きりしませき」とんでいた。これはえきあらつよしもほぼ同様どうようで、おなじく「霧島きりしませき」とんでいた[33]
  • 現役げんえき時代じだい板井いたいともなかく、幕下まくした陥落かんらくしてからさいじゅうりょうたすまでのあいだ師匠ししょうだい鳴戸なると不仲ふなかおちいった板井いたい普段ふだんちゃんこ井筒いづつ部屋へやぎゃくほこともべる間柄あいだがらになったという[34]
  • 現役げんえき時代じだいのやんちゃぶりとは裏腹うらはら親方おやかたとしては家柄いえがらじょう角界かくかいのしきたりがいた人物じんぶつとしてつるりゅう礼儀れいぎたたんだ。観客かんきゃくを「お客様きゃくさま」とぶなど観客かんきゃく人一倍ひといちばい大事だいじにする人物じんぶつであった[10]
  • 現役げんえき時代じだいのやんちゃなイメージをあらわ愛称あいしょうとしては「チャカポコ」というものがある[2]

家系かけい[編集へんしゅう]

西にしうみ(25だい横綱よこづな)の曾孫そうそん養女ようじょ養女ようじょ子供こども)、加賀かがにしきもと幕下まくした)のまごつるみねもと関脇せきわけ)の次男じなん薩摩さつまにしきもと幕下まくした)の従兄じゅうけいまご井筒いづつ3兄弟きょうだいわれ、長兄ちょうけいづるみねさんもとじゅうりょう)、次男じなんぎゃくほこ三男さんなん寺尾てらおもと関脇せきわけ)。またづる富士ふじさとしまんもとじゅうりょう)は従弟じゅうていたり、もと中日ちゅうにちドラゴンズ選手せんしゅ井上いのうえ一樹かずき親戚しんせきたる。長女ちょうじょもと宝塚歌劇団たからづかかげきだんはなぐみむすめやくてんさきせんはな本名ほんみょう:ぶくその清香きよか)で、清香きよかおっと志摩しまうみである。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西にしうみ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
薩摩さつまにしき
 
 
加賀かがにしき
 
養女ようじょ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
おとうと
 
つるみね
 
 
 
養女ようじょ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
づる富士ふじ
 
づるみねさん
 
逆鉾さかほこ
 
寺尾てらお
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
志摩しまうみ
 
てんさきせんはな
 
寺尾てらお由布ゆうじゅ
 

    

おも成績せいせき[編集へんしゅう]

  • 通算つうさん成績せいせき:551しょう567はい29きゅう 勝率しょうりつ.493
  • 幕内まくうち成績せいせき:392しょう447はい16きゅう 勝率しょうりつ.467
  • 現役げんえき在位ざいい:89場所ばしょ
  • 幕内まくうち在位ざいい:57場所ばしょ
  • さんやく在位ざいい:16場所ばしょ関脇せきわけ12場所ばしょ小結こむすび4場所ばしょ[4]
  • さんしょう:9かい
    • 殊勲賞しゅくんしょう:5かい(1984ねん5がつ場所ばしょ、1987ねん9がつ場所ばしょ、1987ねん11月場所ばしょ、1988ねん1がつ場所ばしょ、1988ねん7がつ場所ばしょ
    • 技能ぎのうしょう:4かい(1984ねん3がつ場所ばしょ、1984ねん7がつ場所ばしょ、1986ねん9がつ場所ばしょ、1989ねん1がつ場所ばしょ
  • 金星かなぼし:7りゅうさと3[4]千代ちよ富士ふじ2そう羽黒はぐろ2
  • かくだん優勝ゆうしょう
    • 序ノ口じょのくち優勝ゆうしょう:1かい(1978ねん3がつ場所ばしょ)

場所ばしょべつ成績せいせき[編集へんしゅう]

逆鉾さかほこ 昭廣あきひろ
いちがつ場所ばしょ
初場所はつばしょ東京とうきょう
さんがつ場所ばしょ
春場所はるばしょ大阪おおさか
五月ごがつ場所ばしょ
夏場所なつばしょ東京とうきょう
なながつ場所ばしょ
名古屋なごや場所ばしょ愛知あいち
九月場所くがつばしょ
秋場所あきばしょ東京とうきょう
十一月じゅういちがつ場所ばしょ
九州きゅうしゅう場所ばしょ福岡ふくおか
1978ねん
昭和しょうわ53ねん
番付ばんづけがい
2–1 
西にし序ノ口じょのくち14まい
優勝ゆうしょう
6–1
ひがしじょだん45まい
4–3 
ひがしじょだん29まい
6–1 
ひがしさんだん66まい
0–1–6 
ひがしじょだん24まい
休場きゅうじょう
0–0–7
1979ねん
昭和しょうわ54ねん
ひがしじょだん24まい
4–3 
西にしじょだん3まい
6–1 
ひがしさんだん43まい
4–3 
ひがしさんだん28まい
5–2 
西にし幕下まくした60まい
2–5 
ひがしさんだん25まい
5–2 
1980ねん
昭和しょうわ55ねん
西にし幕下まくした59まい
5–2 
ひがし幕下まくした40まい
4–3 
西にし幕下まくした31まい
3–4 
ひがし幕下まくした40まい
4–3 
西にし幕下まくした31まい
4–3 
西にし幕下まくした23まい
5–2 
1981ねん
昭和しょうわ56ねん
西にし幕下まくした10まい
5–2 
ひがし幕下まくした4まい
4–3 
ひがし幕下まくした筆頭ひっとう
4–3 
西にしじゅうりょう11まい
9–6 
西にしじゅうりょう9まい
8–7 
ひがしじゅうりょう7まい
2–13 
1982ねん
昭和しょうわ57ねん
西にし幕下まくした9まい
6–1 
ひがし幕下まくした3まい
6–1 
西にしじゅうりょう12まい
10–5 
ひがしじゅうりょう2まい
8–7 
ひがしじゅうりょう筆頭ひっとう
10–5 
西前にしまえあたま12まい
4–10–1[注釈ちゅうしゃく 1] 
1983ねん
昭和しょうわ58ねん
西にしじゅうりょう4まい
9–6 
西前にしまえあたま13まい
8–7 
西前にしまえあたま5まい
7–8 
西前にしまえあたま6まい
7–8 
西前にしまえあたま8まい
7–8 
ひがし前頭まえがしら9まい
9–6 
1984ねん
昭和しょうわ59ねん
ひがし前頭まえがしら3まい
4–11
西前にしまえあたま10まい
9–6
わざ
ひがし前頭まえがしら3まい
8–7
こと
西にし関脇せきわけ
8–7
わざ
ひがし関脇せきわけ
5–10 
ひがし前頭まえがしら4まい
6–9
1985ねん
昭和しょうわ60ねん
ひがし前頭まえがしら8まい
8–7 
西前にしまえあたま4まい
8–7 
ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
6–9 
ひがし前頭まえがしら3まい
6–9 
西前にしまえあたま6まい
8–7 
ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
6–9 
1986ねん
昭和しょうわ61ねん
ひがし前頭まえがしら4まい
8–7 
ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
6–9 
ひがし前頭まえがしら3まい
5–10 
西前にしまえあたま7まい
10–5 
西にし小結こむすび
8–7
わざ
ひがし小結こむすび
5–10 
1987ねん
昭和しょうわ62ねん
西前にしまえあたま2まい
6–9
西前にしまえあたま5まい
9–6 
ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
6–9 
ひがし前頭まえがしら3まい
7–8
西前にしまえあたま4まい
8–7
こと
西にし関脇せきわけ
8–7
こと
1988ねん
昭和しょうわ63ねん
ひがし関脇せきわけ
9–6
こと
ひがし関脇せきわけ
8–7 
ひがし関脇せきわけ
8–7 
ひがし関脇せきわけ
8–7
こと
ひがし関脇せきわけ
9–6 
ひがし関脇せきわけ
9–6 
1989ねん
平成へいせい元年がんねん
ひがし関脇せきわけ
9–6
わざ
ひがし関脇せきわけ
7–8 
ひがし小結こむすび
8–7 
西にし関脇せきわけ
2–13 
ひがし前頭まえがしら7まい
6–9 
ひがし前頭まえがしら12まい
10–5 
1990ねん
平成へいせい2ねん
西前にしまえあたま2まい
4–11 
西前にしまえあたま10まい
9–6 
西前にしまえあたま2まい
5–10 
西前にしまえあたま9まい
8–7 
西前にしまえあたま5まい
8–7 
西にし小結こむすび
5–10 
1991ねん
平成へいせい3ねん
ひがし前頭まえがしら4まい
6–9 
西前にしまえあたま9まい
8–7 
西前にしまえあたま5まい
6–9 
西前にしまえあたま8まい
10–5 
西前にしまえあたま筆頭ひっとう
5–10[注釈ちゅうしゃく 2] 
西前にしまえあたま7まい
休場きゅうじょう[注釈ちゅうしゃく 3]
0–0–15
1992ねん
平成へいせい4ねん
西前にしまえあたま7まい
6–9 
ひがし前頭まえがしら10まい
5–10 
西前にしまえあたま15まい
4–11 
ひがしじゅうりょう5まい
5–10 
ひがしじゅうりょう11まい
引退いんたい
4–11–0
x
かくらん数字すうじは、「ち-け-休場きゅうじょう」をしめす。    優勝ゆうしょう 引退いんたい 休場きゅうじょう じゅうりょう 幕下まくした
さんしょう=敢闘かんとうしょうこと=殊勲賞しゅくんしょうわざ=技能ぎのうしょう     その=金星かなぼし
番付ばんづけ階級かいきゅう幕内まくうち - じゅうりょう - 幕下まくした - さんだん - じょだん - 序ノ口じょのくち
幕内まくうち序列じょれつ横綱よこづな - 大関おおぜき - 関脇せきわけ - 小結こむすび - 前頭まえがしら(「#数字すうじ」は各位かくいない序列じょれつ

幕内まくうち対戦たいせん成績せいせき[編集へんしゅう]

力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう
青葉あおばじょう 4 7 安芸乃島あきのしま(安芸あきしま) 6 9 あけぼの 0 4 あさしお 11(1) 18
あさひさと 2 0 あさひ富士ふじ 4 32 てんやま 1 0 板井いたい 11 5
恵那櫻えなざくら 4 3 大潮おおしお 1 3 きょほう 11 11(1) だいにしき 8 2
だい乃国 10(1) 24 大豊たいほう 2 3 小城おぎはな 1 4 魁輝かいき 7 5
春日かすが富士ふじ 6 3 きた勝鬨かちどき 2 1 きたうみ 1(1) 3 騏ノあらし 3 1
旭豪山きょくごうざん 1 0 旭道山きょくどうざん 4 3 起利錦きりにしき 5 5 麒麟児きりんじ 9 5
久島くしまうみ 3 4 ぞうあいだ 4 3 黒瀬川くろせがわ 1 0 こうのぞむさん 15 4
みなとりゅう 1 0 琴稲妻こといなづま 7 1 きんうめ 14 10 きんふう 0 3
きん椿つばき 2 3 琴錦ことにしき 4 3 きんわか(ことわか) 2 2 琴富士ことふじ 2 3
小錦こにしき 8 18 こま不動ふどう 0 1 ひとし 0 2 佐田さたうみ 8 1
嗣子ししおおとり 1 0 ふとし寿山ことぶきやま 18 5 だいしょうおおとり 2 2(1) だいしょうさん 2 1
大善だいぜん 1 1 だいてっ 5 4 貴闘力たかとうりき 1 4 りゅうさと 4 3
貴ノ浪たかのなみ 0 2 貴乃花たかのはな(貴花田たかはなだ) 1 4 こう乃富 3 4 隆三りゅうぞうすぎ 17 6
高見山たかみやま 0 1 多賀たがりゅう 9 3 たてこう 2 1 たまりゅう 7 4
千代ちよ富士ふじ 3 27 つねやま 1 3 出羽でわはな 9 7 たたかえりゅう 6 9
とちつかさ 7 7 とちけん 5 2 とち乃和 3 13 とちひかり 5 1
ともえ富士ふじ 2 1 ゆたかうみ 1 4 はち 0 1 はな乃湖 6(1) 3
はなくに 4 3 飛騨ひだ乃花 6 3 富士ふじさくら 2(1) 3 藤ノ川ふじのかわ 2 4
そう羽黒はぐろ 4(1) 9 鳳凰ほうおう 1 6 きた天佑てんゆう 9 21 北勝海ほくとうみ 8 21
まいうみ 1 1 ぜん乃臻 1 0 舛田ますださん 1 1 えきあらつよし 4 4
三杉みすぎいそ(東洋とうよう) 3 0 三杉里みすぎさと 8 2 水戸みといずみ 8 7 両国りょうこく 11 7
わか嶋津しまづ 5 11 わかしょうよう 0 2 わか瀬川せかわ 8 0 若乃花わかのはな(わか花田はなた) 1 2
わか富士ふじ 0 1
※カッコないかちすう負数ふすうなかめる不戦勝ふせんしょう不戦敗ふせんぱいかず

改名かいめいれき[編集へんしゅう]

  • ぶくその こうせい(ふくぞの よしまさ)1978ねん1がつ場所ばしょ-1982ねん3がつ場所ばしょ
  • 逆鉾さかほこ 昭廣あきひろ(さかほこ あきひろ)1982ねん5がつ場所ばしょ-1989ねん7がつ場所ばしょ
  • 逆鉾さかほこ 信繁のぶしげ(- のぶしげ)1989ねん9がつ場所ばしょ
  • 逆鉾さかほこ しんじゅう(- のぶしげ)1989ねん11月場所ばしょ-1992ねん9がつ場所ばしょ

年寄としより変遷へんせん[編集へんしゅう]

  • はる日山ひやま 好昭よしあき(かすがやま よしあき)1992ねん9がつ-1994ねん4がつ
  • 井筒いづつ 好昭よしあき(いづつ -)1994ねん4がつ-2019ねん9がつ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ひだりひざ内側うちがわがわふく靱帯じんたい損傷そんしょうにより10日とおかから途中とちゅう休場きゅうじょう、12にちからさい出場しゅつじょう
  2. ^ みぎ大腿だいたいこごめあたますじ挫傷ざしょうみぎひざ内側うちがわがわふく靱帯じんたい損傷そんしょうにより千秋楽せんしゅうらく不戦敗ふせんぱい
  3. ^ 公傷こうしょう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 相撲すもう豪傑ごうけつでん」p.245
  2. ^ a b 井筒いづつ部屋へや遺伝子いでんし なぞのスーおんな尾崎おざきしのぶはた! つるりゅう継承けいしょうするあざやかな「そうし」 会員かいいん限定げんてい有料ゆうりょう記事きじ 2019ねん12月12にち 0500ふん(2019ねん12月12にち閲覧えつらん
  3. ^ a b もと関脇せきわけぎゃくぼこ井筒いづつ親方おやかた死去しきょ 58さいすいぞうがんか」『日刊にっかんスポーツ』、2019ねん9がつ16にち2019ねん9がつ16にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d e f g 大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(5) 時津風ときつかぜ部屋へや: 相撲すもうどうへの追求ついきゅうと、深遠しんえんなる「双葉ふたばさん精神せいしん」』スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ〈B.B.MOOK ; 1398〉、2018ねんISBN 978-4-583-62537-9全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:23076803 
  5. ^ 相撲すもう豪傑ごうけつでん」p.251
  6. ^ a b はつ金星きんぼし禁断きんだん日本人にっぽんじんはつガッツポーズ/井筒いづつ親方おやかたいた 日刊にっかんスポーツ 2019ねん9がつ17にち50ふん(2019ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  7. ^ NHK大相撲おおずもう中継ちゅうけい 1984ねん9がつ場所ばしょ3にち
  8. ^ つるりゅうデキこん技能ぎのうしょう部屋へや伝統でんとうなんです nikkansports.com 2015ねん1がつ7にち910ふん 紙面しめんから
  9. ^ スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(5) 時津風ときつかぜ部屋へや』p36-39
  10. ^ a b c d 相撲すもう巧者こうしゃ情熱じょうねつ角界かくかいあいされた井筒いづつ親方おやかたしのんで VICTORY(2019ねん10がつ29にち閲覧えつらん)
  11. ^ 八角はっかく理事りじちょうら10にん当選とうせん 日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい高島たかしま親方おやかた落選らくせん
  12. ^ つるりゅう婚約こんやく心労しんろうか 井筒いづつ親方おやかた休場きゅうじょう審判しんぱん代役だいやくしょせき親方おやかた Sponichi Annex 2015ねん1がつ11にち 05:30
  13. ^ 井筒いづつふく部長ぶちょう審判しんぱんちょう復帰ふっきへ 不調ふちょう初場所はつばしょ全休ぜんきゅう Sponichi Annex 2015ねん1がつ29にち 20:14
  14. ^ 井筒いづつ親方おやかた左足ひだりあし骨折こっせつ休場きゅうじょう加療かりょうカ月かげつ しょせき親方おやかた代役だいやく. スポニチアネックス. (2016ねん3がつ22にち). https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2016/03/22/kiji/K20160322012256980.html 2016ねん3がつ22にち閲覧えつらん 
  15. ^ 井筒いづつ親方おやかた休場きゅうじょう よしみふう激突げきとつ左足ひだりあし骨折こっせつ加療かりょうカ月かげつ. 日刊にっかんスポーツ. (2016ねん3がつ21にち). https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1619814.html 2016ねん3がつ22にち閲覧えつらん 
  16. ^ 井筒いづつ親方おやかたと錣山親方おやかたふく理事りじ候補こうほせん異例いれい対決たいけつに 当選とうせんあに複雑ふくざつ」、落選らくせんおとうとれやか SANSPO.COM 2018.2.2 17:53(産経新聞さんけいしんぶんしゃ、2018ねん2がつ3にち閲覧えつらん
  17. ^ 貴乃花たかのはな親方おやかた落選らくせん=10にん理事りじ候補こうほまる-相撲すもう協会きょうかい JIJI.COM (時事通信社じじつうしんしゃ、2018ねん2がつ3にち閲覧えつらん
  18. ^ 井筒いづつ親方おやかた通夜つやいとなまれる いち門外もんがい八角はっかく理事りじちょう参列さんれつ - 大相撲おおずもう : 日刊にっかんスポーツ”. nikkansports.com(2019ねん9がつ24にち). 2019ねん9がつ24にち閲覧えつらん
  19. ^ [かなしみつつまれる相撲すもう関係かんけいしゃ 井筒いづつ親方おやかた急逝きゅうせいからいち夜明よあhttps://www.iza.ne.jp/kiji/sports/news/190917/spo19091710200035-n1.html] イザ! 2019.9.17 10:20(2019ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  20. ^ 井筒いづつ親方おやかたぎゃくほこ急死きゅうしおとうと・錣山親方おやかた寺尾てらお沈痛ちんつう 「相撲すもう天才てんさい尊敬そんけいしていた」 つるりゅうら3力士りきしれの可能かのうせいは… (1/3ページ) zakzak 2019.9.19(2019ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  21. ^ つるりゅう井筒いづつ親方おやかた死去しきょ鏡山かがみやま親方おやかた一時いちじあずかりに - 日刊にっかんスポーツ 2019ねん9がつ17にち
  22. ^ おも参列さんれつしゃ八角はっかく理事りじちょう尾車びしゃ親方おやかた鏡山かがみやま親方おやかた境川さかいがわ親方おやかた春日野かすがの親方おやかた出羽海でわのうみ親方おやかた藤島ふじしま親方おやかた横綱よこづなはくほう大関おおぜきごうさかえどう小結こむすび遠藤えんどうおもねほのお幕内まくうちともふうたまわし豊山とよやまけんしょうりゅうでんてる順不同じゅんふどうデイリースポーツ(2019ねん9がつ25にちつるりゅう師匠ししょう井筒いづつ親方おやかたしのぶ「期待きたいしてあいしてくれた」…通夜つやに600にん参列さんれつ
  23. ^ つるりゅう最後さいごはなしたかった」井筒いづつ親方おやかた通夜つや胸中きょうちゅうかたる(2019ねん9がつ24にち)|BIGLOBEニュース”. BIGLOBEニュース. 2019ねん9がつ24にち閲覧えつらん
  24. ^ 日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい. “大相撲おおずもう 井筒いづつ親方おやかた通夜つや つるりゅうきびしく、やさしいひとだった」”. NHKニュース(2019ねん9がつ24にち). 2019ねん9がつ24にち閲覧えつらん
  25. ^ 錣山親方おやかた告別こくべつしき一番いちばんつらい」…あに井筒いづつ親方おやかた通夜つやに600にん参列さんれつ(スポーツ報知ほうち”. Yahoo!ニュース(2019ねん9がつ25にち). 2019ねん9がつ25にち閲覧えつらん
  26. ^ 秋場所あきばしょをふりかえって~御嶽おんたけうみ混戦こんせんせい優勝ゆうしょう景勝けいしょう大関おおぜき復帰ふっき ぼやいたるねん:大相撲おおずもう小言こごと場所ばしょ (2020ねん2がつ2にち閲覧えつらん)
  27. ^ 連載れんさい めい力士りきしたちの『開眼かいがん』】関脇せきわけ逆鉾さかほこしんじゅうへん 屈辱くつじょくこそは勝負しょうぶ世界せかいにおける飛躍ひやく秘薬ひやく――[その1] (2020ねん4がつ14にち閲覧えつらん)
  28. ^ 週刊しゅうかんポスト2019ねん9がつ19にちもと関脇せきわけぎゃくほこ死去しきょで「横綱よこづなつるりゅう」の争奪そうだつせんはじまる』 (2020ねん4がつ14にち閲覧えつらん)
  29. ^ 相撲すもう豪傑ごうけつでん」p.252~253
  30. ^ 週刊しゅうかんポスト2019ねん9がつ19にちもと関脇せきわけぎゃくほこ死去しきょで「横綱よこづなつるりゅう」の争奪そうだつせんはじまる』 (2020ねん4がつ14にち閲覧えつらん)
  31. ^ 毎日新聞まいにちしんぶん2004ねん3がつ30にちづけ朝刊ちょうかんスポーツめん
  32. ^ 大相撲おおずもう情報じょうほうきょく コラム「はつ用意よういどんぶり力士りきし所作しょさ
  33. ^ えきあらつよし場合ばあい霧島きりしまべつ部屋へやだったが、先輩せんぱい力士りきしたいして部屋へやわずに「せき」をけてんでいた。
  34. ^ 小学館しょうがくかん 板井いたい圭介けいすけちょちゅうぼん』p127

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]