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震災しんさい復興ふっこうさい開発かいはつ事業じぎょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

震災しんさい復興ふっこうさい開発かいはつ事業じぎょう(しんさいふっこうさいかいはつじぎょう)とは、だい規模きぼ地震じしん甚大じんだい被害ひがいにより生活せいかつ基盤きばん都市とし機能きのううしなわれた地域ちいきにおいて、都市とし機能きのう回復かいふくのみならず被災ひさい契機けいきとした都市としさい開発かいはつふくめて都市とし基盤きばん整備せいびおこな事業じぎょうす。おおくは被害ひがいにあった地方自治体ちほうじちたい市町村しちょうそん)が主導しゅどうし、くにもしくは都道府県とどうふけん協力きょうりょくあおいですうねん事業じぎょう計画けいかく立案りつあん被災ひさいしゃ地域ちいき住民じゅうみんとのアセスメントひとし策定さくていされ実行じっこううつされる。行政ぎょうせい民意みんいとの一致いっちるまでにきわめて多様たよう開発かいはつ展開てんかいることがおおい。近年きんねんでは1995ねん1がつ17にち発生はっせいした阪神はんしん淡路あわじ大震災だいしんさい兵庫ひょうごけん南部なんぶ地震じしん)の被災ひさい震災しんさい復興ふっこうさい開発かいはつ事業じぎょうおこなわれた。

関東大震災かんとうだいしんさい

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復興ふっこう計画けいかく始動しどう齟齬そご

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1923ねん大正たいしょう12ねん9月1にち発生はっせいした関東大震災かんとうだいしんさい関東かんとう地震じしん)による被害ひがい甚大じんだいなものであり、復興ふっこう計画けいかく政府せいふ主導しゅどうおこなわれた。だい2山本やまもと内閣ないかく内務ないむ大臣だいじん就任しゅうにんした後藤ごとう新平しんぺいは、復興ふっこう事業じぎょうについて、計画けいかく決定けっていから各省かくしょう所管しょかん事務じむ自治体じちたい権限けんげんすべてを集中しゅうちゅうする「帝都ていと復興ふっこうしょう」を設立せつりつしようとしたが、各省かくしょうつよ反対はんたい[1]東京とうきょう横浜よこはまにおける都市とし計画けいかく都市とし計画けいかく事業じぎょう執行しっこうなど復興ふっこう事務じむてのひら帝都ていと復興ふっこういん設立せつりつして、いわゆる後藤ごとうけい官僚かんりょう結集けっしゅうさせた。その幹部かんぶは、総裁そうさい後藤ごとう新平しんぺいふく総裁そうさい北海道庁ほっかいどうちょう長官ちょうかん宮尾みやおしゅん計画けいかくきょく土地とち整理せいりきょく建築けんちくきょく担当たんとう)と東京とうきょう市政しせい調査ちょうさかい専務せんむ理事りじ松木まつきみき一郎いちろう土木どぼくきょく物資ぶっし供給きょうきゅうきょく経理けいりきょく担当たんとう)、わざかん大阪おおさか港湾こうわん計画けいかく都市とし計画けいかく従事じゅうじした直木なおき倫太郎りんたろう理事りじ計画けいかく局長きょくちょうには、官職かんしょくはなれて京都きょうとにいたもと東京とうきょう助役じょやく池田いけだひろし理事りじ土地とち整理せいり局長きょくちょう宮尾みやおしゅんのち北海道庁ほっかいどうちょう土木どぼく部長ぶちょう稲葉いなば健之助けんのすけ)、理事りじ建築けんちく局長きょくちょう東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅとの兼任けんにん耐震たいしん構造こうぞう研究けんきゅう佐野さの利器りき理事りじ土木どぼく局長きょくちょう直木なおき倫太郎りんたろう途中とちゅう辞職じしょく直木なおき後任こうにんにに鉄道てつどう技師ぎし陸軍りくぐん工兵こうへい少尉しょうい太田おおたえんさん)、理事りじ物資ぶっし供給きょうきゅう局長きょくちょう松木まつきみき一郎いちろう経理けいり局長きょくちょう心得こころえ鉄道てつどうしょう経理けいりきょく会計かいけい課長かちょう十河そごう信二しんじという陣容じんようで、2人ふたりみことのりにん技師ぎし内務省ないむしょう都市とし計画けいかく山田やまだ博愛ひろよし医学いがく博士はかせきし一太かずた起用きようした。しかし後藤ごとうは、2人ふたりふく総裁そうさい人事じんじさいして配下はいか後藤ごとうけい官僚かんりょう4にん交渉こうしょうしており、こうした「人事じんじじょう不謹慎ふきんしん」がこう復興ふっこう計画けいかく支障ししょうきたすこととなる[2]

後藤ごとう一人ひとり東京とうきょう復興ふっこう基本きほん方針ほうしん

  1. 遷都せんとすべからず
  2. 復興ふっこうは30おくえんようすべし
  3. 欧米おうべい最新さいしん都市とし計画けいかく採用さいようして、我国わがくに相応ふさわしい新都しんと造営ぞうえいせざるべからず
  4. しん都市とし計画けいかく実施じっしためめには、地主じぬしたい断固だんこたる態度たいどらざるべからず

げる。だが、事業じぎょう規模きぼ当時とうじ経済けいざい状況じょうきょうをかんがみて縮小しゅくしょうされ、当初とうしょ焦土しょうどげという後藤ごとうの「だい風呂敷ふろしき」は実現じつげんせず、農地のうちせいじょにつかっていた区画くかく整理せいり展開てんかいされることとなった。しかし、土地とち区画くかく整理せいりについては、担当たんとう宮尾みやおふく総裁そうさい拙速せっそく主義しゅぎって反対はんたいだったのにたいして、松木まつきふく総裁そうさいとその推薦すいせん復興ふっこういんはいったものたちは区画くかく整理せいり実行じっこうろんしゃであった。この対立たいりつにおいて、都市とし計画けいかく官僚かんりょう第一人者だいいちにんしゃである池田いけだ計画けいかく局長きょくちょう宮尾みやおふく総裁そうさいに、佐野さの建築けんちく局長きょくちょう松木まつきふく総裁そうさいくみすると、後藤ごとう総裁そうさい政治せいじりょくでは両者りょうしゃ対立たいりつ収拾しゅうしゅうがつかなくなった。しかも区画くかく整理せいりについては後藤ごとう自身じしん研究けんきゅう不足ふそくでよく理解りかいしておらず、閣僚かくりょうには井上いのうえ準之助じゅんのすけ大蔵おおくら大臣だいじん説明せつめいすることもあるほどであった[3][4]。さらに復興ふっこう計画けいかく審議しんぎのために設置せっちされた3つの審議しんぎ機関きかんのうち帝都ていと復興ふっこう参与さんよかい帝都ていと復興ふっこう協議きょうぎかい無事ぶじ通過つうかするが、帝都ていと復興ふっこう審議しんぎかいではだい反対はんたいされ、特別とくべつ委員いいんかいでの大幅おおはば縮小しゅくしょう決定けってい、5おくえんきょうになり議会ぎかい提出ていしゅつはこびとなった[5]。そして議会ぎかいでは、普通ふつう選挙せんきょ導入どうにゅう問題もんだい後藤ごとう内務ないむ大臣だいじん対立たいりつする最大さいだい野党やとう立憲りっけん政友せいゆうかい復興ふっこう予算よさんでも反対はんたいまわり、予算よさん大幅おおはば削減さくげん復興ふっこういん廃止はいし要求ようきゅうした。山本やまもと内閣ないかくでは、いぬやしなえあつし逓信ていしん大臣だいじん平沼ひらぬま騏一郎きいちろう司法しほう大臣だいじん解散かいさんそう選挙せんきょ主張しゅちょう田中たなか義一ぎいち陸軍りくぐん大臣だいじん財部たからべあや海軍かいぐん大臣だいじん解散かいさんないしそう辞職じしょく主張しゅちょうしたのにたいし、所管しょかん後藤ごとう内務ないむ大臣だいじん政友せいゆうかいへの屈服くっぷく選択せんたくしたため、政友せいゆうかいあんれて復興ふっこう計画けいかく確定かくていされた。しかも後藤ごとう予算よさん成立せいりつ解散かいさん提言ていげんして山本やまもと権兵衛ごんべえ総理そうり大臣だいじん却下きゃっかされた。さらに火災かさい保険ほけん貸付かしつけ法案ほうあん審議しんぎ未了みりょう問題もんだい健治郎けんじろうのう商務しょうむ大臣だいじん辞任じにん12月24にち)した矢先やさき虎ノ門とらのもん事件じけん12月27にち)がきて、山本やまもと内閣ないかくはこれを契機けいきそう辞職じしょくし、この政争せいそう過程かていおおくのひと支持しじうしなっていた後藤ごとうはその現実げんじつ政治せいじとして復帰ふっきすることはなかった[6]

後藤ごとう新平しんぺいつよ影響えいきょう設立せつりつされた復興ふっこういん廃止はいしされ、よく1924ねん大正たいしょう13ねん2がつ25にち内務省ないむしょう外局がいきょくとして復興ふっこうきょく設置せっちされて、復興ふっこういんわざかんだった後藤ごとうけい直木なおき倫太郎りんたろう長官ちょうかんとなった。しかし復興ふっこうきょくは、内務省ないむしょう鉄道てつどうしょう大蔵省おおくらしょうの3しょう所帯じょたいで「伏魔殿ふくまでん」とわれ、疑獄ぎごく事件じけん相次あいついだ。とく1925ねん大正たいしょう14ねん)12月からは、ぜん復興ふっこうきょく整地せいち部長ぶちょう稲葉いなば健之助けんのすけ鉄道てつどうしょう経理けいり局長きょくちょう十河そごう信二しんじぜん復興ふっこうきょく経理けいり部長ぶちょう)ら多数たすう逮捕たいほ起訴きそされる復興ふっこうきょく疑獄ぎごく事件じけん摘発てきはつされ、土木どぼく部長ぶちょう太田おおたえんさん自殺じさつした。検事けんじきょくによる捜査そうさは、直木なおきぜん長官ちょうかん(1925ねん9月16にち憲政けんせいかいけい内務ないむ官僚かんりょう清野きよの長太郎ちょうたろう交代こうたい)や政友せいゆうほんとう幹事かんじちょう小橋こはし一太かずた清浦きようら内閣ないかく内閣ないかく書記官しょきかんちょう)にまでおよんだが、復興ふっこうきょくがわ担当たんとうしゃだった太田おおた自殺じさつしたために捜査そうさすすまず、また、政治せいじ決着けっちゃくはかられた形跡けいせきもあり、捜査そうさ1926ねん大正たいしょう15ねん)4がつえとなった。裁判さいばん1927ねん昭和しょうわ2ねん)6がついちしん判決はんけつ稲葉いなば十河そごうとも収賄しゅうわい有罪ゆうざい1929ねん昭和しょうわ4ねん)4がつ控訴こうそしん判決はんけつ稲葉いなば有罪ゆうざい十河そごう無罪むざいとなった(十河そごう金銭きんせん授受じゅじゅ事実じじつみとめた)。1930ねん昭和しょうわ5ねん)3がつからは、昭和しょうわ天皇てんのう東京とうきょう市内しない視察しさつ皮切かわきりとした「帝都ていと復興ふっこうさい」がせまっており、復興ふっこう問題もんだいたいしては「くさいものにぶた」のムードがめ、復興ふっこうかんするできごとが天皇てんのうで「偉業いぎょう」としていったなか後藤ごとう新平しんぺい復興ふっこういん復興ふっこうきょく不祥事ふしょうじかたりにくい事件じけんとなってき、戦後せんご刊行かんこうされた東京とうきょうひゃくねん編集へんしゅう委員いいんかいへん東京とうきょうひゃくねん だいよんかん』(東京とうきょう1972ねん[7])でもまともにあつかわれなかった。さらにマスコミも事件じけん隠蔽いんぺい工作こうさくしていた(稲葉いなば復興ふっこうきょく機密きみつ使つかって新聞しんぶん記者きしゃ金銭きんせんおくっていた)[8]

こうしたスキャンダルにまみれたなか後藤ごとう新平しんぺい当初とうしょ構想こうそうまでは実現じつげんしなかったが、現在げんざい内堀うちぼりどお靖国やすくにどお昭和しょうわどおなど都心としん下町したまちのすべての街路がいろはこの復興ふっこう事業じぎょうによって整備せいびされたもので、この東京とうきょう骨格こっかく現在げんざいいたるまで変化へんかしていない。また、震災しんさいによる焼失しょうしつ区域くいき1100まんつぼ全域ぜんいきたいする土地とち区画くかく整理せいり事業じぎょう断行だんこうし、区画くかく整理せいり最終さいしゅうてき全体ぜんたいを66地区ちくけ、かく整理せいり委員いいんかい侃々諤々かんかんがくがく議論ぎろんおこないながら事業じぎょうすすめられた。この結果けっか密集みっしゅう市街地しがいちうら宅地たくち畦道あぜみちのまま市街しがいした地域ちいき一掃いっそうされ、いずれもはば4.0 m以上いじょう生活せいかつ道路どうろあみ形成けいせいされ、同時どうじ上下じょうげ水道すいどう都市としガスひとし基盤きばん整備せいびされた。

震災しんさい復興ふっこう橋梁きょうりょう

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そのほか、東京とうきょうなかかわかっていたはしだい部分ぶぶん甚大じんだい損傷そんしょうこうむり、このためだい地震じしんにもちこたえられる恒久こうきゅうてきはし計画けいかくてきける必要ひつようしょうじた。隅田川すみだがわでは、下流かりゅうからじゅんに、相生橋あいおいばし(1998ねん現在げんざいはしえ)、永代えいたいきょう清洲橋きよすばし両国橋りょうごくばし蔵前橋くらまえばし厩橋うまやばし駒形橋こまがたばし吾妻橋あづまばしげんといきょうの9つが震災しんさい復興ふっこう橋梁きょうりょうとしてけられ、震災しんさいまえの1912ねん開通かいつうしていて震災しんさいこわれなかった新大橋しんおおはし(1977ねん現在げんざいはしえ)をくわえ「隅田川すみだがわじゅうきょう」としょうされていた。9つのはしのうち、両国りょうこくうまや吾妻あづまさんきょう東京とうきょう担当たんとうのこりの6つのはし内務省ないむしょう東京とうきょう復興ふっこうきょく創設そうせつされた橋梁きょうりょう担当たんとうした。

この分野ぶんやでは、はつ鉄製てつせい鉄道てつどうきょうが1874(明治めいじ7)ねんまれて以来いらい鉄道てつどう技術ぎじゅつてき先行せんこうしていた。また、道路どうろでは市区しく改正かいせいに、日本橋にほんばし四谷よつや見附みつけきょう新大橋しんおおはし呉服ごふくきょう鍛冶たんやきょうなど、そのわせた装飾そうしょくすぐれた橋梁きょうりょうがすでにされていた。明治めいじ40年代ねんだい鉄道てつどう設計せっけい基準きじゅんがけ、帝都ていと復興ふっこういんには土木どぼく局長きょくちょう招請しょうせいされた太田おおたえんさん鉄道てつどうしょう後輩こうはい田中たなかゆたか橋梁きょうりょう課長かちょうつとめて橋梁きょうりょう事業じぎょう中心ちゅうしんとなった。

太田おおたちからそそいだ復興ふっこう橋梁きょうりょうの、とくくに担当たんとうする隅田川すみだがわろく大橋おおはし相生橋あいおいばし永代えいたいきょう清洲橋きよすばし駒形橋こまがたばしげんといきょう蔵前橋くらまえばし)の設計せっけいにおいて美観びかん重視じゅうしされた。設計せっけいにあたっては復興ふっこう帝都ていとにふさわしい意匠いしょうすために外国がいこく事例じれい画家がか作家さっかなどの意見いけんくなどして、建築けんちく野田のだ俊彦としひこの「すべ同一どういつ形式けいしき意見いけん否定ひていした。復興ふっこうきょく設計せっけいされた橋梁きょうりょうデザインあんについて、外観がいかんはもとよりおやばしら欄干らんかんなど、工学こうがく美学びがく調和ちょうわつとめて意匠いしょうさだめるため、太田おおた当初とうしょしょ外国がいこく事例じれい収集しゅうしゅうさせるとともに、おとうとたよって画家がかなどからのアイデアをもとめたが 実際じっさいには役立やくだたなかった。

そこで芸術げいじゅつ建築けんちく造園ぞうえんとうからなる工作こうさくぶつ意匠いしょう調査ちょうさ委員いいんかい設置せっち決定けってい建築けんちく協力きょうりょくもとめられることとなり、当時とうじ逓信ていしんしょう営繕えいぜん勤務きんむする建築けんちくスタッフをスカウトして設計せっけい組織そしき形成けいせいしていった。部長ぶちょう太田おおたえんさん課長かちょう田中たなかゆたかはまず山田やまだまもるを、つづいて山田やまだ推挙すいきょ山口やまぐちぶんぞう嘱託しょくたくとした。山田やまだ聖橋ひじりばしひとし担当たんとうし、山口やまぐち数寄屋橋すきやばし清洲橋きよすばし八重洲やえすきょうをはじめすうおおくをがけた。検討けんとうおおくのスケッチをのこして基本きほん方針ほうしんさだめ、田中たなかはそれをまえて多様たよう形式けいしき採用さいよう構造こうぞう都市としない創出そうしゅつしていった。復興ふっこうきょくがけたはしかずは100以上いじょうといわれている。帝都ていと復興ふっこうは、すうねんあいだ東京とうきょうだけでもくに142、313のはし建設けんせつするという、るいのないプロジェクトになった。

帝都ていともんたるだいいち橋梁きょうりょう永代えいたいきょうはアーチきょうとし、だい橋梁きょうりょう清洲橋きよすばしラインがわかるケルン吊橋つりばしをモデルとしたやわらかさをかんじさせるあん採用さいようし、はし博覧はくらんかいともいえるような状況じょうきょうしょうじた。構造こうぞうも、タイドアーチの永代えいたいきょういかりしき吊橋つりばし清洲橋きよすばし、ゲルバーけたきょうげんといきょうなどと多様たよう構造こうぞうや、ニューマチックケーソン・つな矢板やいた工法こうほうこう張力ちょうりょくつなしん材料ざいりょう使用しようなどしん技術ぎじゅつ採用さいよう厩橋うまやばしさんれんタイドアーチ、吾妻橋あづまばし上路あげろアーチ、両国橋りょうごくばしのゲルバーけたきょうひじりきょう上路あげろアーチ、おちゃみずきょうのゲルバーけた併用へいようつなラーメンきょうなどは、東京とうきょう担当たんとうした。市内しない運河うんがしょう河川かせんけには「復興ふっこうきょくがた」とばれるラーメン橋台きょうだい考案こうあん形式けいしき標準ひょうじゅんはかった。橋台きょうだいながれくことにより、土地とち区画くかく整理せいり事業じぎょうおくれて接続せつぞく道路どうろ完成かんせい状態じょうたいでも架橋かきょうできるようにしたもので、市民しみん評判ひょうばんんだという。

また、復興ふっこうきょくは「橋詰はしづめ広場ひろば」を確保かくほし、派出所はしゅつじょ公衆こうしゅう便所べんじょ防災ぼうさい器具きぐなどを路上ろじょう工作こうさくぶつとして配置はいちした。歴史れきしてきには、江戸えど河岸かわぎし橋詰はしづめ広場ひろば明治めいじからの橋詰はしづめ街頭がいとう便所べんじょ市区しく改正かいせいしょう公園こうえんなどをいだものであった。こうして隅田川すみだがわ橋梁きょうりょうぐん個々ここはし多様たようなデザインを主張しゅちょうしながら、全体ぜんたいとして都市とし景観けいかんたかいシンボルせいをもたらすこととなった。作家さっか永井ながい荷風かふう随筆ずいひつ深川ふかがわ散歩さんぽ』のなかで、清洲橋きよすばしからの隅田川すみだがわ眺望ちょうぼうのこしている。

東京とうきょううちではほかに、国道こくどうにかかる六郷ろくごうきょう千住大橋せんじゅおおはし千住新橋せんじゅしんばしひとし施工しこうされている。

震災しんさい復興ふっこう小学校しょうがっこう建設けんせつ

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アメリカからの義援金ぎえんきんなど国際こくさいてき応援おうえんもあり、鉄筋てっきんコンクリート小学校しょうがっこう校舎こうしゃ建設けんせつすすめた。校舎こうしゃのデザインは時代じだい先端せんたんとされたドイツ表現ひょうげん主義しゅぎ影響えいきょうけ、日本にっぽん分離ぶんり影響えいきょう色濃いろこ建築けんちくぶつおおつくられていく。建設けんせつにあたっては、復興ふっこういん建築けんちく局長きょくちょうつとめた東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅ佐野さの利器りきが、東京とうきょう市長しちょう永田ながた秀次郎ひでじろう当時とうじ後藤ごとうけい官僚かんりょう筆頭ひっとう[9])にわれて、教授きょうじゅ兼任けんにん東京とうきょう建築けんちく局長きょくちょう就任しゅうにんする。早速さっそく佐野さの建築けんちくきょく茂田もだかぶとうまろうらをせ、都市とし計画けいかく業務ぎょうむ従事じゅうじしていた石原いしはら憲治けんじ田中たなか希一きいち福田ふくだ重義しげよしらと設計せっけいにとりかかる。佐野さの主導しゅどうで、将来しょうらいにな子供こども衛生えいせい思想しそう根付ねつかせる意味いみでのトイレ水洗すいせん暖房だんぼう設備せつび理科りか教育きょういく公民こうみん教育きょういく重要じゅうようした教室きょうしつなど、合理ごうり主義しゅぎもとづいた設計せっけい思想しそう導入どうにゅうされる。教育きょういくきょくはこうした施設しせつ贅沢ぜいたくといって作法さほうしつ設置せっちのぞんだが(たたみきの作法さほうしつ教師きょうしたちのいちはいやる場所ばしょでもあったらしい)、佐野さの作法さほうしつ設置せっちこばみ、教育きょういくきょくとのあいだ確執かくしつしょうじる。教育きょういくきょく教育きょういく関係かんけいしゃ総動員そうどういんして反対はんたい運動うんどう展開てんかいしたが、佐野さの復興ふっこうまえ計画けいかく完成かんせいした小学校しょうがっこう作法さほうしつ現場げんば監督かんとくめいじて破壊はかいさせるなど、最後さいごまでゆずらなかった。また、設計せっけいおよび施工しこう指針ししんのハンドブックを作成さくせいトル法とるほう徹底てっていして採用さいようし、骨組ほねぐみ・ディテールを標準ひょうじゅん。スチールサッシュとスチーム暖房だんぼう採用さいようしていく。鉄骨てっこつコンクリート構造こうぞうかんしては、アメリカからせた鉄骨てっこつながさが予定よていよりりず、海軍かいぐん技師ぎし協力きょうりょく溶接ようせつしたほか、強度きょうど鑑定かんてい証明しょうめいしょ内藤ないとうなか依頼いらいした。

震災しんさい復興ふっこう公園こうえん

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公立こうりつ小学校しょうがっこう公園こうえん併設へいせつする手法しゅほうにより、戦前せんぜん戦後せんごつうじて、首都しゅと圏内けんないかく地方ちほう都市とし災害さいがい対応たいおうしたまちづくりの一環いっかんとしての防災ぼうさいよう緑地りょくち公園こうえんもうけられることとなっていった。帝都ていと復興ふっこう事業じぎょうのなかでも、防災ぼうさい都市とし確立かくりつため公園こうえん確保かくほ重要じゅうよう課題かだいであるとされた。井下いしたきよしひきいる東京とうきょう公園こうえんなかでも小学校しょうがっこう地域ちいきコミュニティーの単位たんいとしてあつかい、不燃ふねん耐震たいしんされた鉄筋てっきんコンクリートの校舎こうしゃ避難ひなんしょともなるしょう公園こうえんをセットで、それぞれを防災ぼうさい都市としにおけるかく地域ちいきのシンボルとするべく、東京とうきょう市内しない52箇所かしょ設置せっちした。帝都ていと復興ふっこうきょく建築けんちく公園こうえん課長かちょう就任しゅうにんしたおり吉延よしのぶらは東京とうきょうさん大公たいこうえん隅田すみた公園こうえん浜町はまちょう公園こうえん錦糸きんし公園こうえん)を設置せっち。また、山下やました公園こうえんなど横浜よこはまくに施行しこうだい公園こうえん造成ぞうせいし、復興ふっこう街路がいろじゅ橋詰はしづめ緑化りょくかとう従来じゅうらいみなかっただい規模きぼ都市とし公園こうえんおよ関係かんけい事業じぎょうこころみた。

迅速じんそく実務じつむすすめられた背景はいけいには、後藤ごとう新平しんぺい東京とうきょう市長しちょう時代じだい策定さくていした構想こうそうあんなど計画けいかく下敷したじきがあったことと都市とし計画けいかくほう市街地しがいち建築けんちくぶつほう成立せいりつ前後ぜんごして内務省ないむしょう中心ちゅうしん人材じんざいそだっていたことがある。都市とし計画けいかくほう公布こうふやスタッフの養成ようせい東京とうきょう市政しせい要綱ようこう都市とし研究けんきゅうかい設立せつりつなどが結果けっかとして帝都ていと復興ふっこう推進すいしん作用さようしていくことともなった。復興ふっこう事業じぎょう完成かんせいした1930ねん昭和しょうわ5ねんごろには、都市とししょう工業こうぎょう発展はってんして人口じんこう増大ぞうだいし、都市とし計画けいかくほう国庫こっこ補助ほじょまれるようになる。

現在げんざい御料地ごりょうち財閥ざいばつ寄付きふによる敷地しきちつくられた52のしょう公園こうえんは、すでにかなり以前いぜんから廃園はいえんになっているものや面積めんせき縮小しゅくしょうになっているものもおおく、存続そんぞくしていればほうで、設置せっち当時とうじ面影おもかげ当初とうしょかずからすれば皆無かいむってよい状態じょうたいになっている。ほぼ完全かんぜん姿すがたたもつとおもわれる文京ぶんきょう元町もとまち公園こうえんも、伊藤いとう邦衛くにえ依頼いらいして往時おうじ形式けいしき復元ふくげんしたもので、さらに体育館たいいくかん予定よてい計画けいかくし、住民じゅうみんとうとの裁判さいばん沙汰ざたになっている。またスプロール少子しょうしによる学校がっこう統廃合とうはいごうにより、復興ふっこう小学校しょうがっこうもそれぞれ存廃そんぱい問題もんだい直面ちょくめんしている。

復興ふっこう事業じぎょう完成かんせい終了しゅうりょう

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1930年8月、帝都復興事業に携わった者を表彰するために制定された帝都復興記念章(左:表面、右:裏面)。ただし後藤新平は制定前に死去したため、その授与対象には入らなかった[10]。 1930年8月、帝都復興事業に携わった者を表彰するために制定された帝都復興記念章(左:表面、右:裏面)。ただし後藤新平は制定前に死去したため、その授与対象には入らなかった[10]。
1930ねん8がつ帝都ていと復興ふっこう事業じぎょうたずさわったもの表彰ひょうしょうするために制定せいていされた帝都ていと復興ふっこう記念きねんあきらひだり:表面ひょうめんみぎ:裏面りめん)。ただし後藤ごとう新平しんぺい制定せいていまえ死去しきょしたため、その授与じゅよ対象たいしょうにははいらなかった[10]

帝都ていと復興ふっこういんおよび復興ふっこうきょく推進すいしんした帝都ていと復興ふっこう事業じぎょうは1929ねんころには完成かんせいいきたっしつつあり、同年どうねん10がつ19にちから11月10にちにかけては東京とうきょう市政しせい調査ちょうさかい主催しゅさいにより復興ふっこうじょうきょう説明せつめいした「帝都ていと復興ふっこう展覧てんらんかい」が落成らくせいしたての市政しせい会館かいかんにて開催かいさいされ、11まんちょう入場にゅうじょうしゃあつめた[10][11]つづ1930ねん3月24にちには昭和しょうわ天皇てんのう東京とうきょう市街しがい巡幸じゅんこう[12]同月どうげつ26にちには二重橋にじゅうばしぜん広場ひろばで「帝都ていと復興ふっこうさい」が挙行きょこうされた[13]復興ふっこうさいでは、臨席りんせきした天皇てんのうより「帝都ていと復興ふっこう完成かんせいたまものはりたる勅語ちょくご」がはっせられたが[14]復興ふっこう事業じぎょう計画けいかく最初さいしょげた後藤ごとう自身じしんは、1929ねん4がつ13にち遊説ゆうぜいさきかう途中とちゅう死去しきょしており、その完成かんせいることはなかった。

帝都ていと復興ふっこうさい」より6にちの4がつ1にち復興ふっこうきょく廃止はいしされて業務ぎょうむ復興ふっこう事務じむきょくがれ[10]、その2ねんの1932ねん4がつ1にち同局どうきょく廃止はいしされたことで帝都ていと復興ふっこう事業じぎょう名実めいじつともに終了しゅうりょうした[10]

横浜よこはま復興ふっこう

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山手やまて隧道すいどう

関東大震災かんとうだいしんさい震源しんげん小田原おだわらで、震源しんげんいき真上まうえ位置いちしていた横浜よこはま震度しんどは7とされているが、帝都ていと復興ふっこういん幹部かんぶかい復興ふっこう計画けいかくだいもう決定けっていし、横浜よこはまがわもこれにじゅんじて漸次ぜんじ審議しんぎされる。東京とうきょうについては復興ふっこう基礎きそあん閣議かくぎされていたが、横浜よこはまかんしては復興ふっこういん基礎きそあん成立せいりつまでつこととなる。そのあいだ東京とうきょうでは復興ふっこうあんはやくに東京とうきょうあん市政しせい調査ちょうさかいあん内務省ないむしょう都市とし計画けいかくきょくあん同省どうしょう土木どぼくきょくあんなどが復興ふっこういん提出ていしゅつされている。

この時期じき横浜よこはまでは都市とし計画けいかく局長きょくちょう坂田さかた貞明さだあき病死びょうししたため、後藤ごとう新平しんぺい推薦すいせんけて、同年どうねん9がつ24にちまき彦七ひこしち横浜よこはま都市とし計画けいかく局長きょくちょう就任しゅうにん決定けってい。また、はら富太郎とみたろう会長かいちょうとし、政財界せいざいかい関係かんけいしゃあつまり「横浜よこはま復興ふっこうかい」が結成けっせいされる。

震災しんさいから20にちほどで、横浜よこはま復興ふっこう試案しあん立案りつあん公館こうかん地帯ちたいという官庁かんちょうがいと、公園こうえん遊歩道ゆうほどうとをわせた緑地りょくちネットワーク構想こうそうをおいている。被災ひさい経験けいけん実際じっさい公園こうえんストックの必要ひつようせいから、試案しあんではとくに公園こうえん計画けいかくちかられている。都心としん横浜公園よこはまこうえん付近ふきん遊郭ゆうかくがい跡地あとちに2つの円形えんけい公園こうえん予定よてい公館こうかん地帯ちたいにもだい公園こうえん予定よていしていた。さらにこれらの公園こうえんあいだ広幅ひろはばいん連絡れんらく道路どうろ計画けいかくされているほか、公館こうかん地帯ちたい横浜よこはまえきとを直線ちょくせん道路どうろむすんでいる。また、遊歩道ゆうほどう計画けいかくけて瓦礫がれき処分しょぶん遊歩道ゆうほどう予定よてい決定けっていする。 10月14にちには横浜よこはまは、まき中心ちゅうしんに、後藤ごとう敬吉よしきち緒方おがたさい都市とし計画けいかくきょく技師ぎし今井いまいあきら木村きむらたかしらの都市とし計画けいかく神奈川かながわ地方ちほう委員いいんかい技師ぎしけん職員しょくいん)らと協力きょうりょくして、想定そうてい人口じんこう80まん伊勢山いせやま地区ちく中心ちゅうしん都市とし基幹きかん整備せいびから11の公園こうえん海岸かいがん沿いの公園こうえん逍遥しょうよう道路どうろゆうした計画けいかくあん立案りつあんされる。

さき計画けいかくあん横浜よこはま復興ふっこうかい審議しんぎされるが意見いけんがまとまらず、11月13にち政府せいふ提出ていしゅつされている。11月15にちには当初とうしょ予定よていされた予算よさんおさえられたことにより、あん縮小しゅくしょうした復興ふっこう計画けいかく政府せいふ原案げんあん発表はっぴょうされ、山下やました公園こうえん以下いか4つの公園こうえん計画けいかくまれている。そのほかにも横浜よこはまべつ復興ふっこう計画けいかく政府せいふすじに2あん提出ていしゅつされている。ひとつは土木どぼく学会がっかいからのもので11月19にちに、もうひとつは横浜よこはま復興ふっこうかいからのもので、12月26にち提出ていしゅつされている。

横浜よこはまでも橋梁きょうりょう事業じぎょう執行しっこうされ、平沼ひらぬまきょう築地つきじきょうなど復興ふっこうきょく担当たんとうが35きょう横浜よこはまが64(負担ふたん小橋こはしひとしのぞく)であった。またこのとき、街路がいろ工事こうじともなって隧道すいどうが2かしょ新設しんせつされた。くに執行しっこう山手やまて隧道すいどうがそれで、東京とうきょうによる愛宕山あたごやま隧道すいどうとともに今日きょうでも使つかわれている。

きた但馬たじま地震じしん

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1925ねん大正たいしょう14ねん)5がつ23にち1110ふん当時とうじ兵庫ひょうごけん城崎きのさきまち円山川まるやまがわ河口かこう付近ふきん震源しんげんとするマグニチュード7.0のきた但馬たじま地震じしん発生はっせい豊岡とよおかまちでは2,178ちゅう焼失しょうしつ1,000全壊ぜんかい257城崎きのさきまちでは702ちゅう焼失しょうしつ548(78.1%)という被害ひがいした。

地震じしん発生はっせいから8にちの5がつ31にち兵庫ひょうご県知事けんちじ城崎きのさき豊岡とよおか町長ちょうちょうなどによる震災しんさい復興ふっこう協議きょうぎかい開催かいさいされ、城崎きのさきまちでは町長ちょうちょう西村にしむらひだり兵衛ひょうえ震災しんさい直後ちょくごから温泉おんせん教育きょういく復興ふっこうし、5がつまつから6がつはじめには「町民ちょうみん一致いっち3かねん以内いない復興ふっこう」「市区しく改正かいせいまちどう県道けんどう宅地たくちだい整理せいり」「町民ちょうみん大会たいかいひら一致いっち決議けつぎ」などの方針ほうしんてている。震災しんさいやく3週間しゅうかんして町民ちょうみん大会たいかい開催かいさいされ、委員いいん選出せんしゅつすうじゅうかいかさね「ぜん地主じぬしおおやけ簿面積めんせきの1わりまち無償むしょう提供ていきょう」「共同きょうどう浴場よくじょう再建さいけんによる温泉おんせんがい復興ふっこう」「けん防火ぼうか建築けんちく地区ちくあん反対はんたい」などがさだまった。土地とち区画くかく整理せいり事業じぎょうによる道路どうろ河川かせんまち中心ちゅうしん整理せいり共同きょうどう浴場よくじょうそと岡田おかだ信一郎しんいちろう設計せっけい依頼いらい)の再建さいけん公営こうえい住宅じゅうたく建設けんせつ住宅じゅうたく組合くみあいへの支援しえんなどがまれた。防災ぼうさいつよ都市とし復興ふっこうとして「まんだら」や「いち」など6むねそと小学校しょうがっこう鉄筋てっきんコンクリートづくりによって再建さいけん。その計画けいかく復興ふっこう計画けいかくかか2人ふたり建築けんちく岡田おかだ信一郎しんいちろうのデザインりょく吉田よしだ享二きょうじ建築けんちく材料ざいりょうがく両輪りょうりんとなって推進すいしんされる。城崎きのさき温泉おんせんだい谿川にかかる弓形きゅうけいきょうやうろこじょう護岸ごがんなどは、この地震じしん復興ふっこう事業じぎょうによってできあがったのである。

また、豊岡とよおかまちはすでに耕地こうち整理せいり事業じぎょう組合くみあいまで設立せつりつし、耕地こうち整理せいりひとつのはしらとした大豊たいほうおか構想こうそうによる都市とし改造かいぞう進行しんこうさせていた。まちは「きょまち一致いっち」と「道路どうろ計画けいかく樹立じゅりつ」をし、従来じゅうらい計画けいかく県道けんどう拡幅かくふくくわえた計画けいかくあん早急そうきゅう作成さくせいされている。従前じゅうぜん対立たいりつぎ、住民じゅうみん反対はんたい強硬きょうこう支持しじられなかったため縮小しゅくしょう余儀よぎなくされたが、買収ばいしゅうによる道路どうろ整備せいび防火ぼうか建築けんちく区域くいき指定してい建築けんちく補助ほじょおこなわれ、整然せいぜんとした格子こうしじょう道路どうろ豊岡とよおかえき小田井おだいけん神社じんじゃをむすんで市街地しがいち全体ぜんたいななめに横切よこぎ寿ことぶきまちはす円形えんけい公園こうえん、ロータリー広場ひろば近代きんだいてき駅前通えきまえどおり、業務ぎょうむ地区ちく工業こうぎょう地区ちく配置はいちなど、碁盤ごばんじょう市街地しがいちにシンボリックな空間くうかん創出そうしゅつさせ、当時とうじ地方ちほう都市としとしては近代きんだいてき都市とし形態けいたい実現じつげんすることとなった。

鳥取とっとり地震じしん

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1943ねん昭和しょうわ18ねん)9がつ10にち午後ごご536ふん鳥取とっとり鳥取とっとり地震じしん発生はっせい死者ししゃすう1,025めい直後ちょくご午後ごご540ふんごろ鳥取とっとり市内しない10すうヵ所かしょから出火しゅっか、さらに時間じかんをおいておお出火しゅっか。300消失しょうしつ

9月22にちに「鳥取とっとり臨時りんじ復興ふっこうきょく」が設置せっちされ、都市とし計画けいかく街路がいろ拡築(えき県庁けんちょうせん幅員ふくいん13.5m、2路線ろせん幅員ふくいん11m)、貯水池ちょすいちとう防空ぼうくう防火ぼうか施設しせつ必需ひつじゅひん総合そうごう配給はいきゅうしょ設置せっち遊郭ゆうかく市場いちば移転いてん市営しえい浴場よくじょう新設しんせつなどが計画けいかくされたが、部分ぶぶんてき整備せいびであった。市内しないには応急おうきゅう事業じぎょうによる123むね888バラック住宅じゅうたくのこされたが、これがこう鳥取大とっとりだい遠因えんいんともなる。

新潟にいがた地震じしん

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1964ねん新潟にいがたけんおき新潟にいがた地震じしん発生はっせい新潟にいがたうちでは震度しんど5きょう地震じしんであった。地震じしんそのものよりも石油せきゆタンクの爆発ばくはつによるだい規模きぼ火災かさい津波つなみによる災害さいがい被害ひがいおおきく、また信濃川しなのがわ河口かこう埋立うめたてなど軟弱なんじゃく地盤じばん液状えきじょう現象げんしょうにより建物たてもの倒壊とうかい破壊はかいし、市内しない住宅じゅうたくのおよそ2わり浸水しんすいした。この地震じしんによって地盤じばん液状えきじょう現象げんしょうによる被害ひがいおおきくクローズアップされ、建築けんちくぶつ基礎きそ重要じゅうようせい認識にんしきされた。

  • 人的じんてき被害ひがい 死者ししゃ:26にん
  • 火災かさい件数けんすう 290むね焼失しょうしつ家屋かおく
  • 建物たてもの被害ひがい 全壊ぜんかい:1,960むね 半壊はんかい;6,640むね 浸水しんすい:15,928むね

2ねん1966ねんに「地震じしん保険ほけんかんする法律ほうりつ」が制定せいていされ、くにさい保険ほけんけ、地震じしん災害さいがい発生はっせいした場合ばあいくに一定いってい割合わりあい責任せきにん分担ぶんたん保険ほけんきん支払しはら地震じしん保険ほけん誕生たんじょうし、災害さいがいにおける住宅じゅうたく再建さいけんあらたな糸口いとぐちとなった。被害ひがい拡大かくだいした原因げんいんについては、市街地しがいち信濃川しなのがわ河口かこう低湿ていしつ埋立うめたて立地りっちし、天然てんねんガスげによる地盤じばん沈下ちんかすすんだこともあり、新潟にいがた市街地しがいちの80%以上いじょう海面かいめんよりひく位置いちにあったためとされる。

新潟にいがた地震じしん1960年代ねんだい高度こうど経済けいざい成長せいちょう都市としインフラ各地かくち形成けいせいされる直前ちょくぜんしょうじた地震じしんであり、震災しんさいにより都市とし機能きのう広範囲こうはんいにわたって瞬時しゅんじ壊滅かいめつすること、また被災ひさいしゃ自助じじょ努力どりょく自治体じちたい行政ぎょうせい機能きのうだけでは復旧ふっきゅう困難こんなんであることをしめした。同時どうじ日本にっぽん全国ぜんこく映像えいぞうとともに報道ほうどうされた最初さいしょ地震じしんとなった。一方いっぽう半壊はんかいなど一部いちぶ補修ほしゅうめる状態じょうたいにあるものの資産しさんのない人々ひとびとへの対応たいおう仮設かせつ住宅じゅうたく建設けんせつ人手ひとで不足ふそくによりおくれた。建物たてもの道路どうろ、その建築けんちくぶつたいする防災ぼうさい機能きのう強化きょうかはじめてはかられる契機けいきとなった地震じしんであり、行政ぎょうせいによる都市としさい開発かいはつもさることながら、様々さまざまほう整備せいび地震じしん保険ほけんなどの整備せいびすすめられた。

地震じしん復興ふっこうたっては、港湾こうわん河川かせんとう後背こうはいみずからまもるための護岸ごがん計画けいかく早急そうきゅう実施じっしし、経済けいざい活動かつどう停滞ていたいふせぐため、道路どうろ鉄道てつどうなどの復興ふっこう並行へいこうしてすすめられるようにした。またひゃくまん都市とし目指めざして発展はってんつづけてきた新潟にいがたは、地震じしんまえから住宅じゅうたく不足ふそく現象げんしょうあらわれていたが、市内しないに636という多数たすう仮設かせつ住宅じゅうたく建設けんせつした。けんで150で150あわせて300災害さいがい公営こうえい住宅じゅうたく建設けんせつされた。てい所得しょとくしゃへの対応たいおうでは住宅金融公庫じゅうたくきんゆうこうこ大幅おおはば災害さいがい特別とくべつ融資ゆうしによる再建さいけん補修ほしゅう実施じっしした。住宅金融公庫じゅうたくきんゆうこうこによる災害さいがい復興ふっこう住宅じゅうたく貸付かしつけおよ個人こじん住宅じゅうたく災害さいがい特別とくべつ貸付かしつけもう受付うけつけ開始かいしするとともに、災害さいがい復興ふっこう住宅じゅうたく建設けんせつのために貸付かしつけ限度げんどがく耐火たいか・簡耐木造もくぞうぶんともに現行げんこうからげる措置そちをとった。

宮城みやぎけんおき地震じしん

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1978ねん6月12にち宮城みやぎけんおき地震じしん発生はっせい被害ひがい発生はっせい地盤じばん条件じょうけんとうによりおおきく影響えいきょうされ、とく都市としスプロールにより丘陵きゅうりょう造成ぞうせいした新興しんこう住宅じゅうたくでの被害ひがいおおきく、また電気でんき・ガス・水道すいどうとうのライフラインがおおきな被害ひがいけ、ライフラインの機能きのう障害しょうがいによる間接かんせつてき被害ひがい長期ちょうきするなど、これまでにない「都市としがた地震じしん災害さいがい」としての特徴とくちょうしめした。また、ブロックへい倒壊とうかいによる死者ししゃおおく、沿岸えんがんではコンビナート地域ちいき被害ひがい発生はっせいした。

  • 人的じんてき被害ひがい 死者ししゃ:28めい 負傷ふしょうしゃ10,962めい
  • 火災かさい件数けんすう 12けん
  • 建物たてもの被害ひがい 全壊ぜんかい1,383むね  半壊はんかい6,190むね ほか屋外おくがいタンク5てい亀裂きれつ流出りゅうしゅつ68,200kl)

復興ふっこう事業じぎょうとして2つの移転いてん事業じぎょうおこなった。宅地たくち崩壊ほうかいいちじるしく地盤じばん調査ちょうさ結果けっか軟弱なんじゃく地盤じばん技術ぎじゅつてき対策たいさくでは対処たいしょができないとされた、仙台せんだい緑ヶ丘みどりがおか1丁目ちょうめおよび3丁目ちょうめの20集団しゅうだん移転いてんさせた。集団しゅうだん移転いてんには利子りし補給ほきゅうとうおこなわれたが、1ねん以内いない住宅じゅうたくてて移転いてんすることを条件じょうけんとした。住宅じゅうたく個々ここ被害ひがい個人こじん災害さいがいではあるが、それらが立地りっちしている地盤じばん破壊はかいされ集合しゅうごうてき一体いったいてき被害ひがいけたことを考慮こうりょした。これは個人こじん災害さいがいたいして公共こうきょう関与かんよしたというてんで、住宅じゅうたく災害さいがい復旧ふっきゅうたいするあたらしい対応たいおう方向ほうこうとして評価ひょうかされた。

また、がけ近接きんせつ危険きけん戸数こすう調査ちょうさおこない、松島まつしままちの11対象たいしょうに、がけ近接きんせつ危険きけん住宅じゅうたく移転いてん事業じぎょう実施じっしした。さらに応急おうきゅう仮設かせつ住宅じゅうたく仙台せんだいで70むねいずみで5むね小牛田こごたまちで7むね鳴瀬なるせまちで5むね供給きょうきゅう仙台せんだいでは被害ひがいおおきかった地区ちく重点的じゅうてんてき仮設かせつ住宅じゅうたく供給きょうきゅうされ、70むねちゅう66むね長町ながまち7丁目ちょうめ建設けんせつされた。建設けんせつさいして当初とうしょ長町ながまち7丁目ちょうめに50西勝山にしかつやま団地だんちに20建設けんせつする予定よていであったが、長町ながまち仮設かせつ住宅じゅうたくへの入居にゅうきょ希望きぼう建設けんせつ戸数こすう上回うわまわったため、西勝山にしかつやま団地だんち建設けんせつしたもののうち16長町ながまち移設いせつし、被災ひさいしゃ要望ようぼうおうじて被災ひさいちか位置いち仮設かせつ住宅じゅうたく設置せっちできるよう考慮こうりょされている。

住宅じゅうたく団地だんち災害さいがい復旧ふっきゅうかんし、1ha以上いじょう団地だんち最高さいこう限度げんど500まんえん補助ほじょおこな制度せいど創設そうせつされ、仙台せんだいでは罹災りさいしゃ市営しえい住宅じゅうたくを30建設けんせつ罹災りさいしゃ公営こうえい住宅じゅうたく公団こうだん住宅じゅうたく公社こうしゃ住宅じゅうたく優先ゆうせん入居にゅうきょさせた。また、被災ひさい直前ちょくぜん建物たてもの価格かかくの5わり以上いじょう被害ひがいがあった場合ばあい対象たいしょうに、住宅金融公庫じゅうたくきんゆうこうこ災害さいがい復興ふっこう住宅じゅうたく資金しきん融資ゆうし制度せいど適用てきようし、その上乗うわのせとして、貸付かしつけそうわく10おくえん貸付かしつけ限度げんどがく200まんえん年利ねんり5.05%、償還しょうかん期間きかん10ねんの「宮城みやぎけん災害さいがい復興ふっこう住宅じゅうたく建設けんせつ資金しきん制度せいど」が創設そうせつされた。個人こじん住宅じゅうたく復興ふっこうさいし、融資ゆうし租税そぜいその減免げんめん措置そちられたが、被災ひさいしゃ負担ふたん軽減けいげんさせるものとはならず、修復しゅうふく不徹底ふてっていおくとう問題もんだいしょうじた。

阪神はんしん淡路あわじ大震災だいしんさい

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1995ねん1がつ17にち阪神はんしん淡路あわじ大震災だいしんさい兵庫ひょうごけん南部なんぶ地震じしん)が発生はっせい兵庫ひょうごけん南部なんぶ中心ちゅうしんとして甚大じんだい災害さいがいをもたらした。さまざまな災害さいがい経験けいけんしてきた日本にっぽんにとっても、成熟せいじゅくした都市とし機能きのう一瞬いっしゅんにして壊滅かいめつする経験けいけんはじめてのことであったため、多様たよう価値かちかんゆうする市民しみん集中しゅうちゅうするなか合意ごういるには非常ひじょう困難こんなんきわめ、復興ふっこうにも非常ひじょう長年ながねん経過けいかようした。被災ひさいした地域ちいき地方自治体ちほうじちたいはいちはや復興ふっこう計画けいかく立案りつあんしたが、当時とうじ復興ふっこう計画けいかくよりも日々ひび生活せいかつ困窮こんきゅうするおおくの市民しみんがいたなか発表はっぴょうおこなった自治体じちたいもあり、なに優先ゆうせんすべきなのかの判断はんだん行政ぎょうせいせま結果けっかとなった。

兵庫ひょうごけん震災しんさいかかわる復興ふっこう計画けいかくを「ひょうごフェニックス計画けいかく」と名付なづけた。その計画けいかくもとで、震災しんさい復興ふっこうさい開発かいはつ事業じぎょう立案りつあんされた地域ちいき以下いかとおり。

  • 住宅じゅうたく地区ちく改良かいりょう事業じぎょう
    • 都賀つが地区ちく
    • ばんまち地区ちく
    • 東川崎ひがしかわさき地区ちく
    • 築地つきじ地区ちく
    • 戸ノ内とのうち地区ちく
    • 芦原あしはら地区ちく
    • JR西宮にしのみやえき北地きたじ
    • 若宮わかみや地区ちく
    • 日高ひだか地区ちく
  • 住宅じゅうたく市街地しがいち総合そうごう整備せいび事業じぎょう
    • 神戸こうべ震災しんさい復興ふっこう地区ちく神戸こうべえき周辺しゅうへん兵庫ひょうごえきみなみ六甲ろっこう東部とうぶ新都しんとこころ周辺しゅうへん松本まつもと周辺しゅうへんすが新長田しんながた
    • 尼崎あまがさき震災しんさい復興ふっこう地区ちく(JR尼崎あまがさきえき北部ほくぶ
    • 西宮にしのみや震災しんさい復興ふっこう地区ちく西宮北口にしのみやきたぐちえき北東ほくとう
    • 宝塚たからづか震災しんさい復興ふっこう地区ちく中筋なかすじJRきた
    • 宝塚たからづか震災しんさい復興ふっこう地区ちく仁川にがわ
    • 芦屋あしや震災しんさい復興ふっこう地区ちく芦屋あしや中央ちゅうおう
  • 密集みっしゅう住宅じゅうたく市街地しがいち整備せいび促進そくしん事業じぎょう
    • 真野まの地区ちく
    • 浜山はまやま地区ちく
    • 潮江しおえ地区ちく
    • JR西宮にしのみやえき北地きたじ
    • もり地区ちく
    • 芦屋あしや西部せいぶ地区ちく
    • 富島としま地区ちく
    • 郡家こおげ地区ちく
    • 仮屋かりや地区ちく

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 鶴見つるみ祐輔ゆうすけ後藤ごとう新平しんぺい だいよんかん勁草書房しょぼう、1967ねん、598-600ぺーじ
  2. ^ 筒井つついきよしちゅう帝都ていと復興ふっこう時代じだい 関東大震災かんとうだいしんさい以後いご中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2011ねん、44ぺーじ
  3. ^ 裕司ゆうじ後藤ごとう新平しんぺいをめぐる権力けんりょく構造こうぞう研究けんきゅうみなみまどしゃ、2007ねん、175-176ぺーじ
  4. ^ 筒井つつい帝都ていと復興ふっこう時代じだい』44-45ぺーじ
  5. ^ 46. 帝都ていと復興ふっこう計画けいかくあん大綱たいこう”. 国立こくりつ公文書こうぶんしょかん. 2024ねん10がつ8にち閲覧えつらん
  6. ^ 筒井つつい帝都ていと復興ふっこう時代じだい』48-53ぺーじ
  7. ^ 東京とうきょうひゃくねん. だい4かん”. 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん. 2024ねん10がつ8にち閲覧えつらん
  8. ^ 筒井つつい帝都ていと復興ふっこう時代じだい序文じょぶんだい2しょうにち国交こっこう樹立じゅりつ交渉こうしょうへの関与かんよ後藤ごとうふと左翼さよく人脈じんみゃく、「新渡戸にとべ稲造いなぞう神話しんわ」やマスコミ業界ぎょうかいへの影響えいきょうりょくなど、戦後せんご歴史れきし学界がっかいにおいて「後藤ごとう新平しんぺい神話しんわ」が形成けいせいされたその要因よういんについては後藤ごとう新平しんぺいをめぐる権力けんりょく構造こうぞう研究けんきゅう』を参照さんしょう
  9. ^ 後藤ごとう新平しんぺいをめぐる権力けんりょく構造こうぞう研究けんきゅう』176ぺーじ
  10. ^ a b c d っていましたか? 近代きんだい日本にっぽんのこんな歴史れきし帝都ていと再建さいけん関東大震災かんとうだいしんさいからの復興ふっこう~」 - 国立こくりつ公文書こうぶんしょかんアジア歴史れきし資料しりょうセンター、2019ねん12月7にち閲覧えつらん
  11. ^ 帝都ていと復興ふっこう展覧てんらんかいポスター』 (PDF) - 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん後藤ごとう安田やすだ記念きねん東京とうきょう都市とし研究所けんきゅうじょ、2019ねん12月7にち閲覧えつらん
  12. ^ 昭和しょうわ5ねん3がつ26にち官報かんぽうだい969ごう国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション コマ27「◯宮廷きゅうていろくごと巡幸じゅんこう 天皇陛下てんのうへいかハ一昨二十四日午前九時四十五時御出門復興帝都御巡幸(九段坂上近衞歩兵第一聯隊內御展望所、東京とうきょう府立ふりつ工藝こうげい學校がっこう上野公園うえのこうえん隅田すみた公園こうえん震災しんさい記念きねんどう東京とうきょう市立しりつ千代田尋常小學校及東京市立築地病院ニ御立みたちよせ)午後ごごさん十分じゅうぶん還幸かんこうアラセラレタリ」
  13. ^ 東京とうきょうへん帝都ていと復興ふっこうさいこころざし国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション
  14. ^ 三浦みうらふじさく歴代れきだい詔勅しょうちょく全集ぜんしゅうだい7かん

関連かんれん項目こうもく

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