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5月, 2010 - はかもなきこと

とおる元年がんねん宣長のりなが上京じょうきょう理由りゆう

あいかわらずのネタ。
宣長のりなが日記にっきとおる元年がんねんさんがつじゅうろくにち(グレゴリオれき1801ねん4がつ28にち)、

> 公卿くぎょう勅使ちょくし花山院かさんのいんみぎ大将たいしょう殿どの(あいとくきょう)参向さんこう今夕こんゆう当所とうしょはく
藤浪ふじなみ殿どのまた参向さんこう一時いちじもとさききゅうどうはく
そもそも公卿くぎょう勅使ちょくし参向さんこうしゃひろし元年がんねんゆう(庭田にわた宰相さいしょう殿どの)。
其後今度こんど也、ゆうめずらし

さらにじゅうはちにち

> 公卿くぎょう勅使ちょくしかえこう当所とうしょきゅう

このじゅうにちじゅうはちにち宣長のりなが京都きょうとかっている。

[花山院かさんのいんあいとく](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E6%84%9B%E5%BE%B3)は当時とうじ
みぎ近衛このえ大将たいしょうしたがえさんくらいだったとおもわれる。
[藤波ふじなみ](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B3%A2%E5%AE%B6)もまた公家くげ
参向さんこうかえむかいとは、伊勢神宮いせじんぐう勅使ちょくしかえりしたという意味いみだろう。
当所とうしょはく」の「当所とうしょ」とは文脈ぶんみゃくてき宣長のりながたくとはかんがえにくく、たん松坂まつさかのどこかの宿やど宿泊しゅくはくしたということだろう。
一時いちじもとさききゅうどうはく」とは、一時いちじてきさきくことをゆるされたがやはりおなじくまった、というような意味いみか。

勅使ちょくし松坂まつさかしたことはかれているが、勅使ちょくし宣長のりなが面会めんかいしたかどうかまではいてない。
面会めんかいしたとしてどちらがどちらをおとずれたか。
だが、宣長のりなが上京じょうきょうがかなり長期ちょうきにわたり、また入門にゅうもん講義こうぎなどの準備じゅんびがかなり周到しゅうとうで、
公卿くぎょうらの表敬ひょうけい訪問ほうもん歌会うたかいなどもあったことをおもえば、
ただたん京都きょうとから勅使ちょくし宣長のりながきゅう京都きょうときをおもったというよりも、
京都きょうと公卿くぎょう富裕ふゆう町人ちょうにんたち(富小路とみこうじさだじき服部はっとりさとしなつらか)から勅使ちょくしたくして宣長のりながあて招待しょうたいじょうのようなものがもたらされて、
もともとそういうことはきなたちの宣長のりながが、では京都きょうとにいこうかとなった、というのが真相しんそうなのではないか。
当時とうじ宣長のりなが名声めいせいからしてありないことではない。
だが、日記にっきにもどこにも明記めいきされてはいない。
なんか微妙びみょう事情じじょうがあってそのあたり日記にっきのこしたくなかったのかもしれんし。
宣長のりながが、松坂まつさか宿泊しゅくはくした勅使ちょくしのもとをおとづれて、宣長のりなが京都きょうとでの評判ひょうばんなどをいて、そのになった、という可能かのうせいもあるし、
ぎゃくに、勅使ちょくしがえりわざわざ宣長のりながねんしした、ともかんがえられるわな。

勅使ちょくしひろし元年がんねん以来いらいだといているが、1741ねんから1801ねんまで、60ねんものあいだ
京都きょうと伊勢神宮いせじんぐうとのあいだ勅使ちょくし往来おうらい途絶とだえていたという意味いみか、
たん松坂まつさか勅使ちょくししたのが60ねんぶりという意味いみか。
京都きょうと松坂まつさか伊勢いせ位置いち関係かんけいからして、伊勢いせくにはかなら松坂まつさかとおるにちがいなく、
わざわざ松坂まつさか迂回うかいする意味いみあたらないし、「ゆうちん」といういいかたからしてどちらかといえば前者ぜんしゃ意味いみか。
庭田にわた宰相さいしょうとは時代じだいてきには[庭田にわたしげる熈](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%AD%E7%94%B0%E9%87%8D%E7%86%88)か。

宣長のりなが遺品いひん奇跡きせきてきにほぼ100%のこされているそうだ。
なので、普通ふつうならのこってないようないろんなディテイルまでわかってしまう。
だが、ディテイルがわかればわかるほどさらにそのさきのディテイルまでりたくなる。
宣長のりなが上京じょうきょうについては、いろんな日記にっきのこされているが、
たりまえのことだが、自分じぶんかかわった部分ぶぶん自分じぶん関心かんしんのある箇所かしょしかのこってない。
香川かがわ景樹かげきとやりとりしたうた景樹かげき歌集かしゅう遺稿いこうにしかのこってない。
ホストやく公卿くぎょう町人ちょうにん日記にっき当時とうじ存在そんざいしていたかもしれないが、いまのこってない。
それらをすべてつきあわせたらきっともっといろんなことがわかるのに。

科挙かきょ

ぼうつぶやきでエキサイトしてしまったのだが(あれは「もうます」とかってやめるべきだっただろうか)、
もともとかんがえていたことはべつのところにあって、中国ちゅうごくが、アヘン戦争せんそう以来いらい西欧せいおう列強れっきょうにぼこぼこにやられて、
とうとう科挙かきょというものが廃止はいしされて、西洋せいよう学問がくもん体系たいけい教育きょういく制度せいどれられた。
そのとき、政治せいじ軍人ぐんじん登用とうようするのに詩人しじん素養そよう試験しけんするのはおかしいうんぬん、だから中国ちゅうごくけたのだということがわれるようになった。
中国ちゅうごくでは高級こうきゅう官僚かんりょうつくれた。
日本にっぽんでも貴族きぞく和歌わかをたしなんだ。
ひがしアジアではずっと支配しはいしゃ階級かいきゅう特権とっけん階級かいきゅう詩歌しか文学ぶんがくてき教養きょうよう基礎きそにおいてきた。
だがいまはそんな教育きょういくはしない。
そんな教育きょういくはすでに否定ひていされてしまった。

もし政治せいじ官僚かんりょう軍人ぐんじんやあるいは思想家しそうかうたむとよわくなるとか、
歌詠うたよみの素養そよう政治せいじとは関係かんけいないとか、
歌詠うたよみはくにほろぼすとかいうとしたら、その反例はんれいはいくらでもあげることができる。
足利あしかがたかし吉田よしだ松陰しょういんよりゆき山陽さんよう・・・。

つまりいまなかは、政治せいじ官僚かんりょう養成ようせいするのに、西洋せいよう法学ほうがくとか経済けいざいがくとかを大学だいがくおしえるのがたりまえなんだが、
なぜ国語こくごではいかんのか、国語こくごなかでも詩歌しかではいかんのか、大学だいがく入試にゅうしうたむということがなぜないのか、
小論文しょうろんぶんならあるのになぜ詠歌えいかはないのか、なぜ国語こくご教育きょういくは、
かつてのようではないのか、ということをつらつらとかんがえていたのだ。

田植たう

ふるくは「田植たうえゑ」という言葉ことばはなかった。
うたには「早苗さなえる」といういいかたならる。
苗代なわしろ早苗さなえってんぼにうつえるわけだが、
そのんぼにうつえる作業さぎょう、つまり田植たうえに相当そうとうする言葉ことばがない。
苗代なわしろみずを「ぶんく」ともう。
そのまえ段階だんかいかへし(「たがやし」の語源ごげん)、おこし、というのもある。

つまり、うたまれるのは、たがやして、苗代なわしろみずれてそのなえるところまでで、
その農作業のうさぎょうはいちいちうたにしなかった、ということか。

とおる元年がんねん上京じょうきょう日記にっき

宣長のりながじゅうだい後半こうはんからじゅうだい後半こうはんまで、京都きょうと遊学ゆうがくのためになん京都きょうと松坂まつさか往復おうふくしている。
そのでは、寛政かんせいねん(1970)、寛政かんせいねん(1973)、とおる元年がんねん(1801)のさんかいしかないようだ。
寛政かんせいねん上京じょうきょうは、[遷幸せんこう](http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/gosenkou.html)、
つまり新築しんちくされた御所ごしょに、天皇てんのうかり御所ごしょからかえるところを見物けんぶつったものとおもわれる。

宣長のりなが晩年ばんねん上京じょうきょうよんがつじゅうにち賀茂かもさいからろくがつ初旬しょじゅん祇園祭ぎおんまつりまでの長期間ちょうきかんで、知人ちじんたくまるというのでなしに、
四条しじょうどおり東洞ひがしぼらいん宿やど宿泊しゅくはくし、なかなか豪勢ごうせいたびだったようにおもわれる。
よんがつじゅうにち賀茂かもさいには小沢おざわ蘆庵ろあんたくをたずねている。
きょうみやげ」という記録きろく

賀茂かもまつりをまつりて 宣長のりなが

> よんじゅうとせはよそにぎぬるしんわざにまたもあふひのけふのたふとさ

蘆庵ろあん

> ちはやぶるかみのみわざのたふとさになほよろづもあふひとを

かえ宣長のりなが

> よろづはちひゃくまんせいきみもともにあふひのよはひともがな

とある。さらに「鈴屋すずや大人おとな日記にっき」には、蘆庵ろあん門人もんじん小川おがわぬのよし

> めづらしくけふぞあふひのもろかづらもろともにませはちひゃくまんせい

んだとある。
これはなかなかの壮観そうかんではなかろうか。

にしき小路こうじ室町むろまち服部はっとり五郎左衛門ごろうざえもんさとしなつ服部はっとりさとしなつ)がよんがつ早々そうそうせんちょう入門にゅうもんしている。
五月ごがつじゅうはちにち円山まるやま饗宴きょうえんはこのひと主催しゅさいだったというから、京都きょうとのお金持かねもちだったのだろう。
鈴屋すずや大人おとな日記にっき」「きょうみやげ」にもいくつかうた記録きろくされている。
京都きょうとにおける宣長のりなが重要じゅうようなパトロンだったにちがいない。

鈴屋すずや大人おとな日記にっき

> さとしなつがいざなひきこゆれば、うまばかりより、泉涌寺せんにゅうじにまうできゅうひて・・・、かくてばかりに、円山まるやまにものしつるに、
人々ひとびとつどひゐて出迎でむかえふ。そもそも、この円山まるやまげんふは、東山ひがしやまてらなるを、ひれひろものせまものを調しらべづれば、
きょうじん田舎いなかじんみやびびたるたはれたる、えずあそびをものするところなりけり。
けふはさとしなつがあるじにてのこるくまなくしんをしようひければ、まづ南面なんめんはらいけさせて、日影ひかげさすかたにはまくきはへしつらへたれば、
ふうもことにすずしくなむ、まつすぎなどなましげり、さくにわのさまおかしうしなしたり。
すのこよりやれば、きょうまち西山にしやまかけてえわたるもえならぬながめなり。

> 香川かがわ景樹かげき出迎でむかえへて、たびゐにものすべうおもひわたりはべれど、とやかくやとことしげくてなむ、
けふここへものしきゅうふことをうれしくおもきゅうへて、ふりはへてものしはべり。あらわきゅうへるしょどもは、はよまつりてみかげをかうぶることすくなからず、
いとめでたくなむなどげんふ。
もなにくれとかたらひきゅうひ、人々ひとびとしゅのみうたいののしり、心々こころごころうたをもみて、ふかかえきゅうふ・・・

日記にっき」をいた石塚いしづか龍麿たつまろ香川かがわ景樹かげきとほぼどう世代せだいで、すでにいでもあったかのようなきぶり。

とおる元年がんねん上京じょうきょう日記にっきおな箇所かしょ

> 今日きょう服部はっとりさとしなつのあるじにて、円山まるやまいたり、終日しゅうじつ饗宴きょうえん日暮ひぐれてかえる。香川かがわ式部しきぶ対面たいめんみぎひと旅宿りょしゅくたずたきよしかねがねのぞまるるところ
今日きょうここへ来訪らいほうなり。

宣長のりながは「対面たいめん」とっているので、入門にゅうもんしたわけでもおしえをけたわけでもなく、
この若輩じゃくはい歌人かじんに、一応いちおう対等たいとう立場たちば応対おうたいしたのだろう。
景樹かげきがすでに宣長のりなが著作ちょさくんで勉強べんきょうしており、なんとしても面会めんかいしたいとしかけてきたというかんじがややおもしろい。

寛政かんせいねん上京じょうきょう日記にっき

あいからわずのネタ。

宣長のりなが寛政かんせいねん(1793)上京じょうきょう日記にっき(全集ぜんしゅうだい16かん)。
よんがつじゅういちにち(陽暦ようれき5がつ20日はつか)、蘆庵ろあんたく訪問ほうもん

蘆庵ろあん

> らいねんちぎりおけどもいぬればけふのわかれをしばしとぞおも

かへし。宣長のりなが

> しばしとてちもとまらば松陰まつかげせんせいけいなましかぬしん

> せんせいはちせんせいちょうらへててながらへてわがもとひらいらいねんごとに

またべつ箇所かしょ

> みちのついでに小沢おざわ蘆庵ろあんといふ歌人かじん岡崎おかざきなるいほりにとぶらひものしてたるにのきちかくたてるまつはわかのうらよりうつしたるなりときて、
あるじのみやびをおもひよせて

宣長のりなが

> おもはずもながらにわかのうらのこたかまつをけふつるかも

> このあんみなみかひて東山ひがしやまわたさるるいとおもしろし

> るかきみひむがしやまはな春月しゅんげつあきをも宿やどのものにて

> とよみけるに

> ほんきょおきなのことのまつのおもておこしなめればこのあんのこしてむとおもふついでに

蘆庵ろあん

> はるごとにまつはみどりもそへてけりねんのみたかなになる

> とぞうめかるるあんわたしはげによんときうつりゆくをりをりかぬことなくなむ

蘆庵ろあん

> わがもののきみおくらでくやしきは野山のやまをいるるあん

> とありけるかへし

宣長のりなが

> としのみとなにかはいはむきみまつよりたかこえける

> 春秋しゅんじゅう野山のやまをいるるげんにそのつきはなるここちして

くなったとしおなじだが、蘆庵ろあんほうせんちょうよりもだいぶ年配ねんぱいなので、
つね宣長のりなが蘆庵ろあんうやまっている雰囲気ふんいきつたわってくる。

にやりとりしたうたがあるかどうかわからない。
ろくじょう詠草よみくさほうには宣長のりながうたあたらないようだ。
がしかしもうすこ調しらべてみる。

静養せいようちゅう

昨日きのう午前ごぜんの9から20くらいまでぶっおしではたらきそのあと0ぎまであそんだ。
風邪引かぜひきなのに。
きたらもうろうとしてた。体重たいじゅうもかなりっていたらしい。
らしいというのは、あさばくしょくばくのましたあとはかったからだ。

もうすこ静養せいようする。
午後ごごからはたらくかどうかはまだめてない。
風邪かぜ最終さいしゅう段階だんかいのようでそろそろなおるとおもう。

上田うえだ合戦かっせん

サマーウォーズにちらっとてくる
[上田うえだ合戦かっせん](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%90%88%E6%88%A6)
だが、なかなか面白おもしろそうなはなしだな。
三河みかわ物語ものがたりんでみたい。
面白おもしろそうなはなしおおすぎてこまる。

[あずまきよひこ.com](http://azumakiyohiko.com/archives/2010/05/18_0825.php)
いてあったのでつい反応はんのうした。

いや、安彦やすひこ良和よしかず三河みかわ物語ものがたりなら、もうんだのだが。

とおる上京じょうきょう

宣長のりながとおる上京じょうきょうけんだが、門人もんじん京都きょうと学者がくしゃらがみなで資金しきんをまかなったのだろうか、
ヶ月かげつはんものながあいだ松坂まつさかはなれている。
72さいさい晩年ばんねんに、あるいてったともおもわれない。うまか、かごか。
四条しじょう烏丸からすまという、いまでも一番いちばん繁華はんかあたりに宿泊しゅくはくしている。
てんしたじゅうままほしきさときょうをおきてほかにはなかりけり」などともっているし、

> すずしさに なつもやどりも ふるさとに かえらむことも みなわすれけり

などとっているのはよほど京都きょうとったからでもあろう。
このとし、1がつには和歌山わかやまた。
それから詠歌えいかるに、2がつ24にち仁徳にんとく天皇陵てんのうりょう、その法隆寺ほうりゅうじやなどを旅行りょこうしている。3月1にち帰宅きたく
3月28にち出発しゅっぱつ

> 鈴鹿すずかさん さかしたどう れて せきはなけれど まりぬるかな

などとっている。
29にち鈴鹿すずか山越やまごえ。30にち勢多せた
4がつ京都きょうとで(グレゴリオれきでは5月13にち。ちょうど今頃いまごろわな)

> さみだれとはるあめとの中空なかぞられやらでのみ日数にっすうふるかな

4がつ8にち平野ひらの神社じんじゃ

> 神垣かみがきはるおもえほゆるさくらかな並木なみき青葉あおばかげくらきまで

すでに葉桜はざくらだったようだ。
10日とおか清水寺きよみずでらこうとしたがにわかあめにあって、六波羅蜜ろくはらみつてら雨宿あまやどり、

> かきくもりおもひもかけずふるあめ古寺ふるでらたのむふることのとも

12にち清水寺きよみずでら

> 見渡みわたしにさはる青葉あおばはつらきかなさくらえだはなならぬころ

> 清水しみずなつ桜木さくらぎ青葉あおばはるをしのぶこのもと

などとまたしても葉桜はざくらにくんでいる。

14にち東山ひがしやまそう林寺はやしじ長喜ながきあん閑居かんきょ時鳥ほととぎす山花やまはなもりだい歌会うたかいか。

15にち賀茂かもまつり。

> よそとせはよそにぎぬるしんわざにまたもあふひのけふのたふとさ

40すうねんぶりに葵祭あおいまつりたという、なかなかくできたうた

18にちさき伊勢いせかえひとたちをおくる。

28にち中山なかやま殿どの

5月2にち富小路とみこうじさだじき宿やど来訪らいほう

5月28にち(グレゴリオれきで7がつ8にち)、香川かがわ景樹かげき東山ひがしやま吉水よしみず弁財天べざいてんのほとりで納涼のうりょう
桂園けいえん一枝いちえだ拾遺しゅういに「のわかれがたきことなどいへるに」などとある。
また、丸山まるやまひだり阿弥あみ、ともある。
いま円山公園まるやまこうえんないに「ひだり阿弥あみ」という料亭りょうていがあるようなので、これのことか。
安養寺あんようじ円山まるやまろくぼう」のひとつとかぞえられ、文人ぶんじん墨客ぼっかくつどうところとなり風流ふうりゅうかぎりがくされた」とか。
料亭りょうていになったのは幕末ばくまつからのようだ。

このころ鴨川かもがわ納涼のうりょうおおくのひとうたわしたらしい。

6月9にち(グレゴリオれきで7がつ20日はつか)、大津おおつ湖畔こはんきょう見送みおくりの人々ひとびとわかれる。

6月12にち帰宅きたく

うーむ。宣長のりなが景樹かげき出会であい。
ディテイルがかればわかるほど、もっとくわしく調しらべてみたくなる。
景樹かげき当時とうじまだ33さい
したがえろくじょせられ、長門ながとかいにんぜられたのは、その2ねん
29さい香川かがわ養子ようしとなったばかり。
36さい離縁りえん
すでに老境ろうきょう加藤かとう千蔭ちかげ村田むらた春海しゅんかいから「ふでのさが」という批判ひはんけたのは、
34さい批判ひはんされたということはおそらくすでに鼻持はなもちならない存在そんざいだったということだろう。

なんというか、断片だんぺんてき情報じょうほうすこしずつつなぎわせていく作業さぎょうがもどかしい。

養子ようし

江戸えど時代じだいは、いやつい最近さいきんまで日本にっぽんでは、いえやさないために養子ようしをとることがおおかった。
いえ産業さんぎょうであり(学者がくしゃいえならば学問がくもんでもあり)、いえ財産ざいさんであり、いえ共同きょうどうたいであったからだが、宣長のりなが大平おおひら養子ようしにしている。
大平おおひら弟子でしなかとく出来できたからでもあろうが、実子じっしびょうで、家業かぎょうがせられなかったからだろう。
たましょうあいだんでいると、11のまきに「ほんせい父母ちちはは」というはなしがあって、
実父じっぷ実母じつぼというのは、養父母ようふぼほう虚構きょこうのようにみなすこころばえであって、よろしくないから、
養父母ようふぼたいしてほんせい父母ちちははんではどうかなどといている。