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デーテ 7. ソルフェリーノの戦い - はかもなきこと

デーテ 7. ソルフェリーノのたたか

 ピエモンテ・フランス連合れんごうぐんにとって、ミラノ奪取だっしゅまでは筋書すじがどおりだった。プロンビエールの密約みつやくれたことは、戦況せんきょうきにおおきな影響えいきょうはなく、若干じゃっかんシナリオをえるだけでよかった。フランスは中立ちゅうりつをよそおい、開戦かいせんにピエモンテ領内りょうないにいないことにしたのである。

 セージアがわ意図いとてき洪水こうずい鉄道てつどう輸送ゆそうりょく駆使くしした電撃でんげきせん、モデナ・トスカーナ方面ほうめんでの陽動ようどう策戦さくせん、そしてなにより、フランス・ピエモンテがわ戦意せんいたかさにたいして、オーストリアがわのへっぴりごし

 イギリス、プロイセンについで産業さんぎょう革命かくめいおこり、民主みんしゅ進行しんこうし、近代きんだい工業こうぎょうりょく発揮はっきしつつあるピエモンテと、いま後進こうしんのオーストリアでは、国民こくみんの、国家こっか動員どういんりょくにもてくる。はっきりとにはえぬが、歴然れきぜんたる彼我ひが形勢けいせいちがいを、カヴールははだかんじていた。おっちょこちょいのナポレオンさんせいをおだてれば、確実かくじつにミラノまではれる、という周到しゅうとう準備じゅんび絶対ぜったい勝算しょうさんがあって、ピエモンテはオーストリアを挑発ちょうはつしたのだった。

 ぎゃくにオーストリアは戦力せんりょく逐次ちくじ投入とうにゅうとなってじりじりロンバルディア中原なかはらまで後退こうたいするだろう。しかし、がわ流域りゅういきにおけるオーストリアのまもりはかたく、首都しゅとヴィーンからはちかく、ぎゃくにフランスやピエモンテからはとおい。おそらくここで戦線せんせん膠着こうちゃく状態じょうたいとなって、ピエモンテとフランス、オーストリアのさんしゃあいだ調整ちょうせいがおこなわれて、休戦きゅうせん協定きょうていむすばれるだろう。その結果けっか、ピエモンテはきたイタリアのなかばまでを領有りょうゆうし、モデナ・トスカーナまでは自然しぜんはいる。教皇きょうこうりょう君主くんしゅたるローマ教皇きょうこう立場たちば微妙びみょうだが、ピエモンテが教皇きょうこうりょうをその勢力せいりょくけんおさめることはできるはず。一方いっぽうで、ティロルをえてオーストリアまではいるとか、イタリアをピエモンテいちこく統一とういつしようなどというだいそれたことを、カヴールが開戦かいせん時点じてんかんがえていたはずがない。なにしろミラノはきたイタリア最大さいだい都市とし、イタリアの商業しょうぎょう農業のうぎょう工業こうぎょう一大いちだい拠点きょてんである。ここをれば戦争せんそう目的もくてきはほぼ達成たっせいされたともえる。フランスじんやピエモンテじんかれさわいだのも理由りゆうのないことではない。ギュライ更迭こうてつ理由りゆうもまた、マジェンタの敗北はいぼくというよりはミラノを損失そんしつしたことだった。たたかいのいきおいとはいえ、じつにふがいないことだった。ギュライは戦況せんきょう不利ふり時点じてんでミラノ籠城ろうじょうせんえて、挑発ちょうはつらず、辛抱強しんぼうづよ本国ほんごくからの増援ぞうえんつべきだった。ミラノをたもっていれば最終さいしゅうてきいた程度ていどわったにちがいない。

 ピエモンテが巨大きょだい商圏しょうけんミラノをれば、イタリアの近代きんだい一気いっき加速かそくする。つまり、イタリア統一とういつ運動うんどう同時どうじ進展しんてんせざるをない。近代きんだい民主みんしゅ産業さんぎょう革命かくめい三位一体さんみいったいであるからだ。ピエモンテ市民しみんやイタリア統一とういつ主義しゅぎしゃたちには、もっとてるのではないか、いやこの利用りようしてもっとたねばならない、とよくた。しかし、これからがほんとうの正念場しょうねんばだったのである。

 オーストリアぐんはロンバルディア平原へいげんひがしへ、なかばまで退却たいきゃくしつつ、皇帝こうていむかえて反撃はんげき態勢たいせいととのえた。こうして近年きんねんまれる、おやせいぐんどうしのそう力戦りきせん発展はってんした。ピエモンテぐんはロンバルディアの士官しかん兵卒へいそつ編入へんにゅうし、オーストリアもハンガリーやヴィーンから兵隊へいたいれてきて、双方そうほう10まんにん以上いじょう軍勢ぐんぜいだ。りょうぐんいやおうでも、戦意せんい高揚こうようする。フランツ・ヨーゼフ1せい、29さい即位そくいして11ねん叔父おじフェルディナント1せい革命かくめいにより退位たいい、そのおとうとのフランツ・カールが帝位ていいぐのをいやがったのでその長男ちょうなんのフランツ・ヨーゼフががって即位そくいした。オーストリアとしては、フランスが皇帝こうていみずからてきているんだから、こちらも皇帝こうていして、全面ぜんめん対決たいけつするよかないとおもったんだろうね。欧州おうしゅう随一ずいいち名門めいもん貴族きぞくハプスブルク・ロートリンゲンのプリンスとしてそだったフランツ・ヨーゼフにしてみれば、っていたような災難さいなんだ。

 一方いっぽうのナポレオン3せいボナパルトは51さい王政おうせい時代じだい帰国きこくゆるされず、長年ながねん異国いこく亡命ぼうめい生活せいかついられた、漂泊ひょうはく中年ちゅうねん貴公子きこうし。1830ねん革命かくめい以来いらい、ボナパルティストたちにかつされ、立候補りっこうほして議員ぎいんとなり、大統領だいとうりょうとなり、やがてクーデターで皇帝こうてい即位そくいした。本人ほんにんみずからの皇帝こうてい即位そくいなに関与かんよしてはいない。存在そんざいえられないかるさ。いわゆる神輿しんよぎない。連中れんちゅう夢想むそうてき帝国ていこく主義しゅぎしゃやら博愛はくあい主義しゅぎしゃ、ブルジョア社会しゃかい主義しゅぎしゃ芸術げいじゅつくずれなど。あしがついた連中れんちゅうではなかった。かつてたたきげの軍人ぐんじんだった叔父おじナポレオンはイタリア戦線せんせん頭角とうかくあらわした。ナポレオン3せいは、いやかれのプロデューサーであるボナパルティストたちは、このナポレオンのおいも、このたたかいにおいてフランス人民じんみん心服しんぷくするかたちち、ボナパルティズムを確固かっこたるものとしたいとかんがえていた。 

  カスティリオーネのおかっているかね。ソルフェリーノのすぐちかくさ。オーストリアやプロイセンのてきしょうたちまでが、戦争せんそう芸術げいじゅつとなえ、戦争せんそう詩人しじんしょうした天才てんさいナポレオンの、中央ちゅうおう突破とっぱ各個かっこ撃滅げきめつ戦略せんりゃくが、1796ねんという、かつてのナポレオン戦争せんそうのごく初期しょき段階だんかいの、このカスティリオーネのたたかいではじめて、萌芽ほうがてきあらわれた、その記念きねんてきおかだ。

  かの有名ゆうめいなソルフェリーノせんのとき、おれ前線ぜんせんにはいなかった。なにしろおれたち工兵こうへい東西とうざいながびた兵站へいたん維持いじする輜重しちょうたい(しちょうたい)にいていそがしかったのだから。そのうえ皇帝こうていナポレオンは自分じぶん勝手かってにどんどんロンバルディア平原へいげんひがしすすんでしまう。皇帝こうていれいによってかるはずみな性格せいかくだから、1にち24あいだ馬車ばしゃいで移動いどうする。フランスの将軍しょうぐんたちはきりきりいでのちいかける。歩兵ほへいあるいてるヒマもない。おも背嚢はいのう銃剣じゅうけんかついでずっとはしりっぱなし。過酷かこくなマラソンだ。本隊ほんたいとピエモンテぐん皇帝こうていいついたかとおもうと、もう2にちまえちました、とわれる、そのかえし。

 フランス皇帝こうていはプロイセンが介入かいにゅうしてくるまえに、できるだけはや決着けっちゃくをつけようとあせってもいただろう。オーストリアは持久じきゅうせんはらだろう。

  おれたち後方こうほう支援しえん部隊ぶたいなどフランス皇帝こうてい眼中がんちゅうにはない。いてきぼりさ。おかげで命拾いのちびろいしたよ。おなじスイス傭兵ようへいでも歩兵ほへい騎兵きへいになった連中れんちゅうは、すわソルフェリーノで戦端せんたんひらかれた、ぐずぐずするな、いそげとばかりに、順次じゅんじ最前線さいぜんせんいつき、投入とうにゅうされ、ほとんどが戦闘せんとうんでしまった。

 オーストリア皇帝こうていぐんは、キエーゼがわ西にしに、ミンチョがわひがしに、ガルダきたに、マントヴァ要塞ようさいみなみに、フランスぐん迎撃げいげきするために南北なんぼくなが布陣ふじんした。アルプスみなみふもとにはマッジョーレみずうみやコモ、イゼーオなど、おおくのみずうみならんでいるが、これらはがわながちる氷河ひょうが後退こうたいしたあとにできたせきみずうみで、ガルダもそのなかひとつ。イタリア最大さいだいみずうみである。ミンチョがわはガルダみずうみからながしてマントヴァをみなみがわそそ支流しりゅう。キエーゼかわもまた、アルプスからオーリオがわ合流ごうりゅうがわなが支流しりゅうひとつである。キエーゼがわとミンチョがわはさまれた一帯いったいは、カスティリオーネやソルフェリーノのおかなどをのぞけばおおむ平坦へいたん田園でんえん地帯ちたいで、きたからみなみへ、サン・マルチーノ、メードレなどのむらならんでいた。

 オーストリアぐん連合れんごうぐんがまだキエーゼがわ西方せいほう、ブレシアあたりにいるものとかんがえ、ガルダ南岸なんがんまで進出しんしゅつした。一方いっぽう連合れんごうぐんは、オーストリアぐんがミンチョがわよりもひがしにいるものと予測よそくしていた。どちらもてき意表いひょうこうとして、行軍こうぐんはやめていたのだ。

 ミンチョ川東かわひがしがんは、マントヴァ、ヴェローナ、ペスキエーラ、レニャーゴというよっつのまちが、矩形くけい要塞ようさいぐん形成けいせいしていた。オーストリアはナポレオン戦争せんそうころからこのよっつの都市としによってかこまれる矩形くけい地帯ちたいをロンバルディアの防衛ぼうえいせんにする。だから、フランスはミンチョがわ西岸せいがん展開てんかいして、てきぐん対峙たいじするつもりだった。

 しかしオーストリアぐんは、ミンチョがわよりずっと西にし進出しんしゅつしていたのだ。りょうぐんとも偵察ていさつ不徹底ふてっていで、てき位置いち憶測おくそくしていたにすぎなかった。

 連合れんごうぐんさきにキエーゼがわえ、おかうえむら々にいたると、そこはオーストリアぐん宿営しゅくえいであった。りょうぐんとも作戦さくせん不備ふびのまま、不意ふい遭遇そうぐうせんとなった。まずメードレで、連合れんごうぐん右翼うよくとオーストリアぐん左翼さよくあいだ戦端せんたんひらかれ、つづいてソルフェリーノ、サン・マルチーノなどでも戦闘せんとう発生はっせいする。ナポレオン3せい勇猛ゆうもう果敢かかん陣頭じんとう指揮しき(?)が今回こんかい奏功そうこうし、連合れんごうぐんはソルフェリーノを中央ちゅうおう突破とっぱ午後ごごから、暴風雨ぼうふううなか白兵戦はくへいせんとなり、前線ぜんせんだい混乱こんらんとなったが、どちらかとえば、この悪天候あくてんこう強気つよき連合れんごうぐん味方みかたした。昼過ひるすぎにはオーストリアぐんをカヴリアーナまです。フランスぐん次々つぎつぎ最前線さいぜんせん到着とうちゃくし、夕刻ゆうこくにヴォルタ・マントヴァーナまですすんだときに、ついにオーストリアぐん総崩そうくずれとなって、ミンチョがわひがし、ヴィッラフランカまで撤退てったいした。

 ソルフェリーノも、マジェンタのたたかいと同様どうよう大量たいりょう殺人さつじんの、むねわるくなるようないやたたかいだった。予想よそうがいの「近間ちかま」の戦闘せんとうだったから、砲兵ほうへいどうしが至近しきん距離きょり大砲たいほうい、狙撃そげきへい歩兵ほへいたちを殺戮さつりくしまくり、欧州おうしゅう戦史せんし、いや世界せかい戦史せんしにもまれ多数たすう犠牲ぎせいしゃた。科学かがく進歩しんぽによって、さい新鋭しんえい武器ぶきは、より「効率こうりつてき」かつ「残忍ざんにん」に兵士へいしたちを殺傷さっしょうすることができるようになった(※6)。

 戦闘せんとうというよりは、無秩序むちつじょ近代きんだい戦力せんりょくのぶつかりあい。まさに地獄じごくだった。当時とうじはまだ衛生えいせいへいというものもなければ民間みんかん赤十字せきじゅうじ組織そしき看護かんご派遣はけんもなかった。たたかいの規模きぼくらべて、負傷ふしょうへい収容しゅうようしょちいさすぎた。兵士へいしは、即死そくしすればいが、怪我けがをすれば、身動みうごきもとれず戦場せんじょう放置ほうちされ、衰弱すいじゃくし、傷口きずぐちから感染かんせんしょうかかって、ぬのをつだけだったのだ。

 ペスキエーラをひだりに、マントヴァをみぎながら、ミンチョ河畔かはんにフランス・ピエモンテぐん会衆かいしゅうしたとき、宰相さいしょうカヴールことカミッロ・ベンゾはめずらしく将兵しょうへいまえ姿すがたあらわして、った。

諸君しょくんがイタリア人民じんみんたたかいは、まだなかばにたっしたにぎない。さらなるたたかいが、このミンチョかわえたさきっているだろう。

 この機会きかい諸君しょくん紹介しょうかいしたい一人ひとりおとこがいる。諸君しょくんっていよう。ピエモンテ議会ぎかい議員ぎいんにしてあに、カヴールこうグスタヴォだ。いっしょに前線ぜんせんまでてもらったのだ。

 今日きょう、わざわざわたし身内みうちれてきて諸君しょくん紹介しょうかいするのには、わけがある。

 あにがベンゾ当主とうしゅで、2人ふたり息子むすこがいて、1人ひとりはアウグストというだった。かれはここミンチョ河畔かはんで、ラデツキーぐんやぶれて戦死せんしした。1848ねん、アウグストが20さいときだ。わたし次男じなんぼうで、領地りょうちカヴールを相続そうぞくすることができないから、えて妻子さいしとうとしなかった。だからわたしにとって、おいアウグストは本当ほんとう自分じぶん子供こどものようなものだった。諸君しょくんらは、今日きょう、やっとあにわたしのために、アウグストのかたきをとってくれたのだ。どうしても、一言ひとことれいいたかったのだ、」と。

 おれは、ただむっつりと、カミッロとならつ、ベンゾあにグスタヴォの表情ひょうじょうろうとした。中年ちゅうねん貴族きぞくらしい、でっぷり肥満ひまんしたおしゃれなイタリアおとこ。そのときたまたまわたしかたわらにいたれい中佐ちゅうさ殿どのが、同僚どうりょううわさしていた、

「もしかしたら、アウグストはカミッロの実子じっしだったかもしれないな。次男じなん私生児しせいじができたら、その領主りょうしゅ跡継あとつぎのとしてそだてるってことは、貴族きぞくではありがちなはなしだよ、」そんなはなしをね。ほんとうかうそれない、おれ間違まちがいだったかもしれん、あるいはかれ自身じしんのことをっていたのかもしれない、かれ貴族きぞくで、長男ちょうなんではなかったから、中佐ちゅうさになったのだろう。いまもそのはなしみみそこのこっていてね。


※6 ソルフェリーノのたたかいにくらべれば、ナポレオンの革命かくめい戦争せんそうころなど、まだまだ牧歌ぼっかてきだったといわねばならない。1849ねん銃身じゅうしんにライフリングをほどこしたミニエーじゅう発明はつめいされることによって、世界せかい一変いっぺんした。たまほどこせじょうによって旋回せんかいし、ジャイロのように直進ちょくしん性能せいのう向上こうじょうとお正確せいかく狙撃そげきすることができるようになった。歩兵ほへいじゅうだけでなく大砲たいほうにもライフリングは応用おうようされた。

 かつて大砲たいほうたまというのはたんなる鋳造ちゅうぞう金属きんぞくだまだった。いわゆる砲丸投ほうがんなげの砲丸ほうがんおなじだ。しんまでてつかたまりだからおもい。大砲たいほうというものは、そのおもてつかたまり火薬かやくばし目標もくひょうにぶつけて加害かがいするものだった。たとえばふねとりでんで破壊はかいしたり、隊列たいれつなか発射はっしゃして地上ちじょうねながらなぎたお目的もくてき使つかわれた。

 しかしナポレオン戦争せんそうのちで、中空なかぞら砲弾ほうだんなか火薬かやくめた炸裂さくれつだん(グレネードだん榴弾りゅうだん)が発明はつめいされる。たま着弾ちゃくだん地点ちてん爆発ばくはつし、火災かさいこす。もしくはパチンコだまのようなてつだま大量たいりょうたりにまきらしてひと殺傷さっしょうする。水平すいへい射撃しゃげきてき直接ちょくせつてるのでなく、弾道弾だんどうだんによってはるかにとおくの目標もくひょう破壊はかいできるようになった。これにくわえて砲身ほうしん内面ないめん螺旋らせんじょうの旋条をほどこしたほどこせじょうほう(ライフルほう)も投入とうにゅうされるようになる。1868ねん上野うえの戦争せんそうのときに使つかわれたアームストロングほうほどこせじょうほうである。

 西欧せいおうが、産業さんぎょう革命かくめい産物さんぶつひとつとして近代きんだい兵器へいきまえは、西欧せいおう世界せかいたいして絶対ぜったいてき軍事ぐんじてき優位ゆういっていたわけではない。このころ西欧せいおう植民しょくみんにしていたのはアメリカやアフリカなどの未開みかい地域ちいきだけである。中国ちゅうごく、インド、トルコ、ペルシャなどのアジアの先進せんしん諸国しょこく対等たいとうたたかちからはまだなかった。

 1840ねん阿片あへん戦争せんそうときでさえ、イギリスぐんきよしぐん軍事ぐんじりょくにはさほどのはなかったはずだ。阿片あへん戦争せんそうでイギリスぐんてたのは、戦艦せんかん大砲たいほうんでいて、海上かいじょう神出鬼没しんしゅつきぼつ移動いどうでき、てき手薄てうす場所ばしょかんほう射撃しゃげきして上陸じょうりく拠点きょてん確保かくほできたためと、清国きよくに政府せいふ沿岸えんがん都市とし被害ひがいおそれたためだろう。

 しかし、1853ねんのペリー艦隊かんたい来航らいこう、1857ねんのセポイの反乱はんらん、1858ねん以降いこうのロシアの極東きょくとう進出しんしゅつ、1877ねん戦争せんそうころになると西欧せいおう絶対ぜったい優位ゆういせいはほぼ確立かくりつしており、したがって後発こうはつのイタリアやドイツなども近代きんだい兵器へいきをひっさげて植民しょくみん経営けいえいしていったというわけである。

 ソルフェリーノせんはしたがって近代きんだい科学かがく戦争せんそうはじまり、あるいは近代きんだい兵器へいき実験じっけんじょうってもく、西欧せいおうにおける近代きんだい兵器へいき見本市みほんいちのような役割やくわりたした。

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