岸田劉生全集を間違って買ってしまった。カーリルで検索すると「検索できません」と言われて、蔵書が無いのかと思ってしまった。近所の図書館に全巻揃っていることがわかったので、買うまでもなかった。そんなにしょっちゅう読むはずがない。
買ってしまったのは仕方ないとして、なぜ買いたかったかというと、彼の文章にところどころ光るところがあったからだ。彼の書いたものは岩波文庫から抄録が出ているからそれを読めばだいたいのことはわかる。一部は青空文庫にもある。しかし私としては日記や書簡も含めて残されたすべての文章を読んでみたくなったのである。
彼は若い頃キリスト教徒になった。しかも詩人になろうとしていた。だが結局画家になった。日本の画家であそこまで文芸に理解のある人はいないと思う。岡本太郎もけっこう文章を書くのだけど、ときどき書きすぎる。つまり画家が書いた文章になってしまっている。アーティストだから書いても許される文章になってしまっている。日比野克彦や落合陽一みたいな文章になってしまっている。ジョンレノンや坂本龍一が言いそうな文章になってしまっている。私としてはそういう文章を「文芸」と見なすわけにはいかない。
しかし岸田劉生の場合は、れっきとした、日本を代表する画家であるのに、同時に彼の書くものは「文芸」になっているのである。岡本太郎はギリ文筆家と言ってよかろう。それと岸田劉生、他には誰が挙げられるだろうか。柳宗悦か岡倉天心くらいか。まあしかしこの二人は芸術家というよりは美術評論家だよな。
世間ではしかし岸田劉生は画家としてしか認められていない。画家が酔狂で書いた文章があるから物珍しさで出版されたのだろう。実際、岸田劉生全集が古本で出回っている値段は極めて安い(状態をさほど気にしなければ全巻揃で5000円くらいで買えるはず)。また、図書館で収蔵しているところも決して多くはない。たぶんほとんど誰も彼の「文芸」が優れているとは認識していないのだ。珍本の類いなのだ。日比野克彦や岡本太郎の書いた本なら図書館にはザラにあるが、岸田劉生はそうではない。
岡本太郎や日比野克彦の文章を語れるアーティストならいくらでもいるだろう。しかし岸田劉生の文芸を語れるアーティストはおそらくいるまい(岸田劉生の絵について語る人なら日曜美術館あたりにいくらでもいそうだが)。いきおいででたらめなをことを言えばすぐばれてしまう。そもそも「アート」とは何かという根本的な前提が岸田劉生と他の画家とは違っている。
文芸の世界の人もたぶんアートがよくわからないので岸田劉生を語れる人はいるまい。小林秀雄的な人がしゃしゃり出てきて語りそうもない。まして文学者は岸田劉生のことなんかわかるはずがない。
たとえばためしにこのばけものばなしなどを読んでみるとよい。
追記: 日比野克彦は芸大学長メッセージというものを書いていた。彼の文章、面白すぎるので引用しておく。小泉純一郎の息子にも通ずるところがある。
屹度(きっと)
人のこころは動き、うつろう。
その動き・うつろいがアートの表現になる。
微弱なうつろいもあれば、一人では抱えきれない動きもある。
その動き・うつろいの表現を感じる場として様々な媒体がある。
長い地球の時間の中で表現・媒体は変容し続けている。
けれども、
ひとのこころは、どうなのだろうか?
長い地球の時間の中で変わってきているのだろうか?いないのだろうか?
そもそもこころとは何なのか?
ひとつ確かに言えるのは・・・
アートによってこころは動く。
だから、
不思議なこころが集まっている社会の中で起こっている現代の課題に対して、
アートが作用することによって、社会の中の心が動きだすのではないだろうか。
アートが社会を動かすことができるのではないだろうか。
アートが人を生き生きとさせることができるのではないだろうか。
アートは人間にとっての生きる力なのだから、
屹度出来る。