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12月, 2023 - はかもなきこと

関宿せきやどじょう

利根川とねがわ流域りゅういきしろというのは、古河ふるかわ公方くぼうった古河ふるかわじょうにしろ、石田いしだ三成みつなり水攻みずぜめにしようとして失敗しっぱいしたにんじょうにしろ、あるいは上杉うえすぎ五十子いかごじんにしろ、太田おおた道灌どうかん川越かわごえじょうにしろ、みんな水上すいじょうしろうわじょうなのである。日本にっぽんなかでこの地域ちいきにしかないしろ形態けいたいってよい。関宿せきやどじょうももとはそうしたしろであったようだ。

石田いしだ三成みつなり秀吉ひでよし高松たかまつじょうめを真似まねしてにんじょう水攻みずぜめにしようとしたというのは、どうもしんじられない。五十子いかご川越かわごえ古河ふるかわにんじょう。それらのしろ形態けいたいをみればこれらのしろたいして水攻みずぜめなんてものがまった効果こうかがないってことは、三成みなりだってすぐづいたにちがいない。水攻みずぜめすればますますてきまもりをかたくするだけだし、水上すいじょうしろ水上すいじょう封鎖ふうさしようとしてもみちはいくらでもあるんだから失敗しっぱいするにまってる。

大阪おおさかにいた秀吉ひでよし水攻みずぜめにこだわり、むりやり三成みつなり水攻みずぜめをやらせたということはありるかもしれないが、それもまた秀吉ひでよしおとしめようという意図いとかんじられる。

そもそもにんじょうなどというものは戦略せんりゃくてき重要じゅうよう拠点きょてんですらなかっただろう。たんのちにんじょうさんなり撃退げきたいしたというったはなしにされただけではなかろうか。

関宿せきやど(せきやど)はチーバくんのはな先端せんたんにある。ここは武蔵むさし下総しもうさ常陸ひたち下野げや上野うえの国境こっきょうであり、かつて香取かとりかいのどなかにあった。香取かとりかいがだんだんに干上ひあがり干拓かんたくされていって、そのため国境こっきょういちてん集中しゅうちゅうしたのである。さらに家康いえやす利根川とねがわえたためにここが江戸川えどがわ利根川とねがわ分岐ぶんきてんになった。チーバくんはなはそうした低湿ていしつ尾根おねにあたっていてここに流山ながれやま街道かいどうかよっている。地形ちけいてきには非常ひじょう興味深きょうみぶかいところだし、江戸えど時代じだいには戦略せんりゃくてきにも重要じゅうようなところだっただろう。

いまより10さいわかければふる時代じだい桎梏しっこくからけだそうとかあたらしい時代じだい適用てきようしようなどとおもうかもしれんが、もう60さいにもなろうというとしになると、そのどちらの努力どりょくもするになれず、将来しょうらいのためにあたらしいこころみをいまからはじめて仕込しこんでおこうというにもならない。ただ、やりのこした仕事しごとがあるとすればそれをきちんと仕上しあげてからのうとおもうだけだ。

むかしは、つまりわたしまれそだった昭和しょうわころは、たしかにどうしようもない時代じだいだった。いま時代じだいのほうがましなのはあきらかだ。しかしながら、いま時代じだい積極せっきょくてき自分じぶんわせていこうというにもなれない。

むかしいま民間みんかん企業きぎょうというのはきにくいところのようだ。わたしはただそういう世界せかいからはなれて、自分じぶんのやりたいことだけ、きな仕事しごとだけやってきてねればそれでよかった。

いま時代じだいも、むかし時代じだいおとらず、なにからなにまでなんとガチガチにしばられていることだろうか。みんな自分じぶん意思いし自分じぶんきなときにはたら自分じぶんきなときに休暇きゅうかろうとはせず、くにめた休日きゅうじつおなじような休暇きゅうかをとろうとする。社会しゃかい全体ぜんたい自分じぶん自分じぶんしばっている。その傾向けいこうはむしろむかしよりいまのほうが加速かそくしているようにみえる。なぜみんなもっと自由じゆうきようとしないのだろうか。結局けっきょくそれが人間にんげん本能ほんのうもとづいているからなのだろう。だから自然しぜんひと資本しほん労働ろうどうしゃかれるようになっているんじゃないのか。労働ろうどうしゃ資本しほんをうらやむが自分じぶん資本しほんになろうと努力どりょくするわけではないので、結果けっかてきにいつまでも労働ろうどうしゃのままだ。ひとから賃金ちんぎんをもらって生活せいかつし、不平ふへいいながら、すべて他人たにんのせいにしてきている。

年寄としよりは年寄としよりになるまでにいろんな試行錯誤しこうさくご失敗しっぱいをしてきているから、慎重しんちょうに、臆病おくびょうになるのがほんとうだとおもう。いまはもうぬまでのあいだいたおもいをせず、なに失敗しっぱいをしでかさないように、びくびくこわがりながらきている。そとさけむのが一番いちばん危険きけんだ。しかしこれをやめてしまうとほとんどなに外界がいかいとの接点せってんくなってしまうので、すべてやめてしまうわけにはいかないのが問題もんだい

さけむとおおきくなる。さけがまだなかのこっている早朝そうちょう一番いちばんちいさくなる。さけっておおきくなるとこまかいことはどうでもよくなってしまう。金遣かねづかいもあらくなる。記憶きおくのこらなくなる。

無意識むいしきでやっていることと意識いしきてきにやっていることの境目さかいめさけむことによってうごく。無意識むいしきだと記憶きおくのこらないからあとでなんであんなことやったんだろうとおもう。

動画どうがってみてみるとわかるがいろんなノイズやまわりのひとはなしごえなんかがはいっていて、自分じぶんりたかったものがうずもれてしまっている。ひと意識いしきしていることとそれ以外いがいのことを無意識むいしき選別せんべつして知覚ちかくしているわけだが、聴覚ちょうかく過敏かびんになったり自閉症じへいしょうになったりするとその選別せんべつができなくなってしまう。としるとそれまでどうでもかったことがいちいちさわるようになる。鈍感どんかんであることは精神せいしん疲弊ひへいさせないためにどうしても必要ひつようなことだが、としるとその調整ちょうせいができにくくなるようにおもえる。

コロナ以前いぜんは、わたしにまだうかつにも、人間にんげん社会しゃかいたいする信頼しんらいというものがあったが、もはや完全かんぜんにそんなものはうしなわれた。人間にんげんすくいようのない、ほどこしようのない、なんのもない馬鹿ばかなので、ただ右往左往うおうさおうあわてふためくだけ。なぜかはらないが最初さいしょからそういうふうにつくられているらしい。人間にんげん社会しゃかいなに貢献こうけんしようといううすれてきた。人間にんげん以外いがいなにかとか、ずっととお未来みらいなにかのためになら、いろいろ頑張がんばってもいかもしれないが、いま人間にんげんにはなにをしても無駄むだなので、ただできるだけ社会しゃかいかかわらず、不快ふかいおもいをできるだけしないようにきようとおもうようになった。わたしにとってあのコロナさわぎでたほとんど唯一ゆいいつのものは人間にんげんのためになにかすることはすべて無駄むだだということを学習がくしゅうしたことだった。

イレーザー

イレーサーをたのだが、ミッションインポッシブルの主役しゅやくをトム・クルーズからアーノルド・シュワルツェネッガーにして、より馬鹿ばかっぽくしたかんじのもの。いろいろとへんなところはあるが、それゆえにというべきか、たんなるエンタメとして最後さいごまでたのしめた。

シックスセンス

シックスセンスもたんで感想かんそういておくが、なるほど着想ちゃくそうとくにオチは面白おもしろく、わるまでは映画えいがだなあとおもいながらていられるんだが、わったあとおもかえすとシナリオてきにはかなり不味まずくて不自然ふしぜんなことがおおい。なんとなくあふられておどらされてだまされたかんがある。

幽霊ゆうれいが、自分じぶんんだということに気付きづいていない、まだ自分じぶんきているとしんんでいる、という前提ぜんていがそもそもあやしい。で、幽霊ゆうれいなんだからどんな設定せっていでもありだろ、ではなしわってしまう。

そこいくとたとえばシャッターアイランドの場合ばあいには怪奇かいき現象げんしょうでもホラーでもなんでもないので、患者かんじゃ本人ほんにんくるっているのか、くるっているとおもわれされているのか、解釈かいしゃくしようによってはどっちともかんがえられるってあたりが面白おもしろい。これがホラーならどっちでもいじゃんでわってしまうはなしだ。どこまでもサスペンス、ミステリーとしてつくられているからい。

でもなかにはミステリーでもホラーでもどっちでもい、面白おもしろけりゃそれでいというひとおおいのかもしれんね。

Red Sun

ひさしぶりに Red Sun をたのだが、ているあいだはなんとなくごまかされるのだが、やはりわって、ストーリー展開てんかい強引ごういんさがになる。いくら武士ぶしとはいえ、坂口さかぐち備前びぜんもりにしろ黒田くろだにしろあそこまで頑迷がんめい設定せっていはおかしい。コマンチぞくじゅうっていたはずだし、自分じぶんぬかもしれないのに草原そうげんけるのはちとかんがえにくい。いろいろと不自然ふしぜんだし、ざつだ。

坂口さかぐち備前びぜんもり命令めいれい無茶むちゃぎるし、修好しゅうこう条約じょうやく締結ていけつのためにはなんら必要ひつようい。黒田くろだかたきちはしたということにしてかたなかえればそれでよかったはずだ。

映画えいがひとをだますのに便利べんりなメディアだがのちで、やっぱりあのはなしのもってかたへんだなとかんじさせてしまうのは、やはり駄作ださくということだろう。

岸田きしだ劉生りゅうせい全集ぜんしゅう

岸田きしだ劉生りゅうせい全集ぜんしゅう間違まちがってってしまった。カーリルで検索けんさくすると「検索けんさくできません」とわれて、蔵書ぞうしょいのかとおもってしまった。近所きんじょ図書館としょかん全巻ぜんかんそろっていることがわかったので、うまでもなかった。そんなにしょっちゅうむはずがない。

ってしまったのは仕方しかたないとして、なぜいたかったかというと、かれ文章ぶんしょうにところどころひかるところがあったからだ。かれいたものは岩波いわなみ文庫ぶんこから抄録しょうろくているからそれをめばだいたいのことはわかる。一部いちぶ青空あおぞら文庫ぶんこにもある。しかしわたしとしては日記にっき書簡しょかんふくめてのこされたすべての文章ぶんしょうんでみたくなったのである。

かれわかころキリスト教徒きりすときょうとになった。しかも詩人しじんになろうとしていた。だが結局けっきょく画家がかになった。日本にっぽん画家がかであそこまで文芸ぶんげい理解りかいのあるひとはいないとおもう。岡本おかもと太郎たろうもけっこう文章ぶんしょうくのだけど、ときどききすぎる。つまり画家がかいた文章ぶんしょうになってしまっている。アーティストだからいてもゆるされる文章ぶんしょうになってしまっている。日比野ひびの克彦かつひこ落合おちあい陽一よういちみたいな文章ぶんしょうになってしまっている。ジョンレノンや坂本さかもと龍一りゅういちいそうな文章ぶんしょうになってしまっている。わたしとしてはそういう文章ぶんしょうを「文芸ぶんげい」となすわけにはいかない。 

しかし岸田きしだ劉生りゅうせい場合ばあいは、れっきとした、日本にっぽん代表だいひょうする画家がかであるのに、同時どうじかれくものは「文芸ぶんげい」になっているのである。岡本おかもと太郎たろうはギリ文筆ぶんぴつってよかろう。それと岸田きしだ劉生りゅうせいにはだれげられるだろうか。やなぎ宗悦むねよし岡倉おかくら天心てんしんくらいか。まあしかしこの二人ふたり芸術げいじゅつというよりは美術びじゅつ評論ひょうろんだよな。

世間せけんではしかし岸田きしだ劉生りゅうせい画家がかとしてしかみとめられていない。画家がか酔狂すいきょういた文章ぶんしょうがあるから物珍ものめずらしさで出版しゅっぱんされたのだろう。実際じっさい岸田きしだ劉生りゅうせい全集ぜんしゅう古本ふるほん出回でまわっている値段ねだんきわめてやすい(状態じょうたいをさほどにしなければ全巻ぜんかんそろいで5000えんくらいでえるはず)。また、図書館としょかん収蔵しゅうぞうしているところもけっしておおくはない。たぶんほとんどだれかれの「文芸ぶんげい」がすぐれているとは認識にんしきしていないのだ。ちんほんるいいなのだ。日比野ひびの克彦かつひこ岡本おかもと太郎たろういたほんなら図書館としょかんにはザラにあるが、岸田きしだ劉生りゅうせいはそうではない。

岡本おかもと太郎たろう日比野ひびの克彦かつひこ文章ぶんしょうかたれるアーティストならいくらでもいるだろう。しかし岸田きしだ劉生りゅうせい文芸ぶんげいかたれるアーティストはおそらくいるまい(岸田きしだ劉生りゅうせいについてかたひとなら日曜にちよう美術館びじゅつかんあたりにいくらでもいそうだが)。いきおいででたらめなをことをえばすぐばれてしまう。そもそも「アート」とはなにかという根本こんぽんてき前提ぜんてい岸田きしだ劉生りゅうせい画家がかとはちがっている。

文芸ぶんげい世界せかいひともたぶんアートがよくわからないので岸田きしだ劉生りゅうせいかたれるひとはいるまい。小林こばやし秀雄ひでおてきひとがしゃしゃりてきてかたりそうもない。まして文学ぶんがくしゃ岸田きしだ劉生りゅうせいのことなんかわかるはずがない。

たとえばためしにこのばけものばなしなどをんでみるとよい。

追記ついき: 日比野ひびの克彦かつひこ芸大げいだい学長がくちょうメッセージというものをいていた。かれ文章ぶんしょう面白おもしろすぎるので引用いんようしておく。小泉こいずみ純一郎じゅんいちろう息子むすこにもつうずるところがある。

屹度(きっと)

ひとのこころはうごき、うつろう。
そのうごき・うつろいがアートの表現ひょうげんになる。
微弱びじゃくなうつろいもあれば、一人ひとりではかかえきれないうごきもある。
そのうごき・うつろいの表現ひょうげんかんじるとして様々さまざま媒体ばいたいがある。
なが地球ちきゅう時間じかんなか表現ひょうげん媒体ばいたい変容へんようつづけている。
けれども、
ひとのこころは、どうなのだろうか?
なが地球ちきゅう時間じかんなかわってきているのだろうか?いないのだろうか?
そもそもこころとはなになのか?
ひとつたしかにえるのは・・・
アートによってこころはうごく。
だから、
不思議ふしぎなこころがあつまっている社会しゃかいなかこっている現代げんだい課題かだいたいして、
アートが作用さようすることによって、社会しゃかいなかしんうごきだすのではないだろうか。
アートが社会しゃかいうごかすことができるのではないだろうか。
アートがひときとさせることができるのではないだろうか。

アートは人間にんげんにとってのきるちからなのだから、
屹度出来できる。

きら

としるときらいがはげしくなる。きらいが曖昧あいまいになるひともいるかもしれないが、わたし場合ばあいはもともとどっちでもよかったことでもきかきらいかどっちかにかたよるようになる。

わかころなにんでも面白おもしろかったから乱読らんどくしていた。筒井つつい康隆やすたかとかほし新一しんいちとか吉行よしゆき淳之介じゅんのすけとか安岡やすおか翔太しょうたろんなんかの、当時とうじたまたま本屋ほんやならんでいたほん手当てあてたり次第しだいんでいた。こん筒井つつい康隆やすたか初期しょきのショートショートをんでも、それほど面白おもしろくない。そりゃまあそうだろう。『おおいなる助走じょそう』『唯野ただの教授きょうじゅ』『ハイデッガー』なんかは力作りきさくだとおもうし面白おもしろくもあるが、すごい傑作けっさくだとまではおもわなくなってきた。小室こむろ直樹なおきは、カッパブックスは編集へんしゅうしゃがいろいろなおしてくれて名著めいちょとなっていたのだろうが、『三島みしま由紀夫ゆきお復活ふっかつする』なんかは小室こむろ直樹なおき勝手かっていたものがそのまま書籍しょせきになってしまったようなもので、事故じこ物件ぶっけんってもいのではないか、とおもっている。

丸谷まるや才一さいいちわたし崇拝すうはいしていたほうだったが、いまかえすとけっこうおかしなことをっている。和歌わかとか宣長のりながについてっていることはかなりおかしい。論拠ろんきょ希薄きはくなのを語調ごちょういきおいでごまかしてめつけようとしているところもある。後鳥羽ごとばいんとか京極きょうごく為兼ためかねとかいているあたりもそうとうあやしい。大野おおのすすむ丸谷まるや才一さいいち共著きょうちょいているほんもあるが、大野おおのすすむ丸谷まるや才一さいいちのあやしげなところをやや警戒けいかいしながら発言はつげんしているのをかんじる。大野おおのすすむ偉大いだいひとではあるが、かれ古代こだいタミル紀元きげんせつなどあやしいことをっているのでまあどっちもどっちか。

柳田やなぎだ国男くにお和歌わか全然ぜんぜんうまくないひとだったとおもう。うまいひとではあったが面白おもしろくないひとだった。

小林こばやし秀雄ひでおはやはりおかしなひとだった。

そうやってむかしはすごいひとだなとおもっていてもだんだんもの見分みわけがつくようになってくると、それほどすごくもない、むしろへんだなとおもうことがてくる。それは自分じぶんいたものもおなじで、そりゃそうで、わかころいたものはわかころいとおもったものを参考さんこうにしていているから、そういうものをくないとおもうようになれば、自分じぶんいたものもくないとかんじるようになる。

それでやはりほんきょ宣長のりながよりゆき山陽さんようはやはりすごいし、この二人ふたりのすごさを見抜みぬいていた松平まつだいら定信さだのぶもまたやはりすごい。

そんな具合ぐあいで、いまは、1わりくらいがいまなおすごいなとおもえて、のこり9わりたいしたことないなとおもっている。これまで自分じぶんいてきたものがあまりにもおおくてこまっている。1わりくらいはいが9わり駄目だめだからなおさなきゃならないのだが、その作業さぎょうりょう絶望ぜつぼうする。

SEO

今年ことしの4がつごろから、夏目なつめ書房しょぼうしんしゃのサイトを negishi.fun から natsumeshinsha.comうつ作業さぎょう手伝てつだっていたのだが、google 検索けんさくは negishi.fun が完全かんぜんんでるにもかかわらずいまだにこっちのサイトを検索けんさく上位じょういしてくる。れば普通ふつうに、negishi.fun から natsumeshinsha.com にサイトが移転いてんしたのはわかるとおもうのだが、ずいぶんと意固地いこじだ。bing 検索けんさくだとすぐに natsumeshinsha.com を検索けんさく上位じょういえてくれたのに。

夏目なつめ書房しょぼうしんしゃ検索けんさくしても、natsumeshinsha.com そのものではなく、夏目なつめ書房しょぼうしんしゃにリンクしている、または間接かんせつてき引用いんようしているサイトばかりがてくる。

この理由りゆうについていろいろかんがえてみたがどうにもわからない。

なかにはSEO (search engine optimization)をせんもんにやってる会社かいしゃもあるし、wordpress の plugin にも有料ゆうりょうで SEO対策たいさくしてくれるものがあるし、ウェブサイト構築こうちくやSEO対策たいさくをやってくれるコンサルタントもゴマンとあるわけだ。ただこのけんかんしてはそういうものにかねせば解決かいけつする、というわけでもなさそうにおもえる。

わたしなんか google には negishi.fun から natsumeshinsha.com にうつったということはつたえた。わたしだけでなくほか方法ほうほうでも連絡れんらくこころみた。わたしかぎり、サイトオーナーが直接ちょくせつ連絡れんらくれば google はすぐうごいてくれるはずだ。

たぶん google はすでに状況じょうきょうをすべて把握はあくているのだろう。だが、サイトりなどの場合ばあい考慮こうりょして、一定いってい期間きかん検索けんさく結果けっか変更へんこうしないようにしているのではなかろうか。実際じっさいドメインを変更へんこうしたのは、一種いっしゅ事故じこで negishi.fun というドメインが失効しっこう所有しょゆうけんうしなったからなので、こういうトラブルにたいして google が慎重しんちょうな、中立ちゅうりつてき態度たいどるのはわからんでもない。

それでまあ、1ねんぐらいようすをみて、それでも natsumeshinsha.com がてこないようであればこれはもうシャドウバンのようなものをくらっているとかんがえざるをないのではなかろうか。いずれにしてもわたしはサイトオーナーではないからこれ以上いじょうどうすることもできないし、すべきでもないとおもう。

natsumeshinsha.com はもともとサイゾーが所有しょゆうしていたドメインだったはずだが、られていたのでったわけだが、所有しょゆうしゃわったからまだ警戒けいかいされているのかもしれない。

natsumeshinsha.com と同時どうじに tanaka0903.net も復活ふっかつさせたのだけど、こちらもたようなあつかいをけている。tanaka0903.net は 2009ねん3がつからずっとわたしっていて、途中とちゅう休止きゅうしさせてはいたが、移転いてんなどしたわけではない。

「はかもなきこと」で検索けんさくしても tanaka0903.net が直接ちょくせつてくるわけではないが、「”はかもなきこと”」で検索けんさくすれば最初さいしょてくる。「はかもなきこと」は和泉式部いずみしきぶ日記にっきの「はかもなきゆめをだにであかしてはなにをかのちのかたりにせむ」に由来ゆらいしているので、これはこれでただしい検索けんさく結果けっかであるともいえる。bingで検索けんさくしても結果けっかたりったりで、こちらはこれでしょうがないのだろう。

推敲すいこう

推敲すいこうすればするほど文章ぶんしょうくなっていく。りがい。推敲すいこうすることによってさらに文章ぶんしょうたいする感覚かんかくまされていき、さらに推敲すいこうしてしまう。

以前いぜんから漠然ばくぜんかんがえていたことなんだが、31文字もじしかない和歌わかでさえもほとんど無限むげん表現ひょうげん可能かのうなのだ。人間にんげん一生いっしょうかかってもすべての表現ひょうげんためすことはできない。かぎられた語彙ごいかぎられた文法ぶんぽうかぎられた文字数もじすうでも。いわんや、10まん小説しょうせつ、20まん評論ひょうろんならばなおさら無限むげん無限むげんばいくらいの可能かのうせいがある。

どれほど完璧かんぺきいたとおもった文章ぶんしょうでもからみればかならなおしたくなる箇所かしょはある。だから結局けっきょく中途半端ちゅうとはんぱしてぬしかない。どこまでやらなきゃならないのか。というより、どこまでやれば自分じぶん納得なっとくできるのか。納得なっとくなどできないのか。ある程度ていどまでいて、んだのち大目おおめてもらうしかないのか。

ある程度ていど以上いじょういじるといじればいじるほどわるくなる限界げんかいというものはあるかもしれない。それはわたし自身じしん限界げんかいたっしたということになるのだろう。

10まんくらいまでの小説しょうせついたとして、そのあとその小説しょうせつ推敲すいこうしたり加筆かひつしたりすると、文章ぶんしょうとしてはまともになるかもしれないが、だんだんながくなってきて、れがわるくなるというか、みにくくなるというか、さっとれなくなる。なんからないなとおもっていても20まんもあるといじれどいじれど全然ぜんぜんなおってくれない。だんだん自分じぶんでもわからなくなってくる。50まんくらいの長編ちょうへんだともうなにをどうしていいのかわからなくなるし、わかったとしてもなおしている時間じかんがない。とてもこまる。

近頃ちかごろなにもしないのが一番いちばんい、なにかすれば失敗しっぱいする可能かのうせいえるともおもう。いろんなことをかんがえると結局けっきょくなすにまかせて定年ていねんまでおなじところではたらき、そのまま無職むしょくになって、ぬまでぼーっとしているのが一番いちばんいようにおもえてくる。近頃ちかごろ千葉ちばまであそびにいったり、浅草あさくさあかにでかけたりしているが、らないところへってらない酒場さかばめぐっていても結局けっきょくそのうちきるわけでりがい。阿佐ヶ谷あさがや高円寺こうえんじあたりを開拓かいたくしようともしたがすぐにきた。結局けっきょくちかじょう新中野しんなかのあたりをたまにあるくので十分じゅうぶんではないかともおもう。

むかしは10まん小説しょうせつけるおれすげーとかおもってたがいてみるとたいしたことはなく、むかしいたものをみても、ああ幼稚ようちだなとおもうだけだ。手直てなおししてなんとかしようとおもうが、どうにもならず絶望ぜつぼうしてしまう。