(Translated by https://www.hiragana.jp/)
12月, 2017 - はかもなきこと

クレイトス殺害さつがい

アレクサンドロスがクレイトスを殺害さつがいする場面ばめん簡単かんたんえがけるかとおもっていたが、なかなかむずかしい。 一番いちばん難所なんしょかもしれない。

アレクサンドロスのザグロス山脈さんみゃくえは、まあわりとどうでもい。 森谷もりたに公俊きみとしちょ『アレクサンドロス大王だいおう東征とうせいなぞく』をんだのだが、 結構けっこう高齢こうれいになってから、けんもらってザグロス山脈さんみゃく現地げんち調査ちょうさしたというのはすごいが、 実際じっさいどのルートをとおったかというのはたいした問題もんだいとはおもえない。 べつにどのルートでも結果けっか大差たいさないようにおもえる。 アリオバルザネスというペルシャの将軍しょうぐんとのたたかい、いわゆるパールサもんたたかいだが、これもたいしたものだったとはおもえない。

だが、アレクサンドロスがクレイトスをころす。 簡単かんたんなようでこれがなかなかけない。 たださけっていきおいでころしたのではない。 アレクサンドロスというひとがどんなひとだったのかを正確せいかく把握はあくしてないときようがない。

森谷もりたに公俊きみとしはアレクサンドロス研究けんきゅうかんしては日本にっぽん第一人者だいいちにんしゃえるひとだろう。 だがわたしかれといくつかのてん見解けんかいことなる。 アレクサンドロスのバビュロン入城にゅうじょうや、パールサプラ略奪りゃくだつかんしては、わたしはギリシャじんがペルシャじん報復ほうふくしたのではなく、 バビュロニアじんがペルシャじん報復ほうふくしたのであり、アレクサンドロスはバビュロニアじん加担かたん、あるいは譲歩じょうほしたのだ。 パールサ侵攻しんこうはバビュロン入城にゅうじょう交換こうかん条件じょうけんのようなものであったろうとおもう。 バビュロニアじんだけでなく、アッシリアじんも、スーサのエラムじんも、ペルシャにうらみをいていた。 パールサをかねばならぬとかんがえたのはマケドニアじんというよりは、それらのしょ民族みんぞくであったはずだ。 パールサ侵攻しんこうはそれゆえにアレクサンドロスがみずかのぞんでったものではないとおもう。 パールサはアレクサンドロスにとってみちにすぎない。 パールサに長居ながいしたのも、ペルシャ高原こうげんふゆ移動いどうするのは困難こんなんだったというだけのことだろう。

マケドニアやトラキアやオレスティス、エペイロスにはやまおおく、山羊やぎひつじ遊牧民ゆうぼくみんおおんでいたはずだ。 ディオドロスの逸話いつわ面白おもしろい。ザグロス山脈さんみゃくえたときに現地げんちひつじいに道案内みちあんないたのんだ。 身軽みがるひつじいにしかとおれない山道さんどうとおったというのは、つまり、マケドニアへいはもともとそういう山岳さんがく地帯ちたいれていたということだろう。 だからイリュリアやゲタイなどトラキアの奥地おくち原住民げんじゅうみんとも互角ごかくたたかえたのだ。 アレクサンドロスにとって、ペルシャおうたたかうよりも、ザグロス山脈さんみゃく山賊さんぞくたたかうほうが面白おもしろかったかもしれない。

スーサもこうとおもってなかなかけない。スーサはいかなるまちであったのか。 スーサについてはドイツのウィキペディアの記述きじゅつがややくわしい。スーサには城壁じょうへきがなかった。 ダレイオス大王だいおう王宮おうきゅうがあり、城下町じょうかまち(Künstlerviertel)があっただけだ。 ペルシャに征服せいふくされるまえには当然とうぜんスーサにも城壁じょうへきはあったのだろう。

あとかなきゃならないことは、 パールサ侵攻しんこう、ダレイオスさんせい、ベッソス捕獲ほかく、バクトリア征服せいふく。 このあたりでクレイトスは殺害さつがいされる。 バクトリアでラオクシュナ、アマストリー、アパマなどのペルシャ王女おうじょらを確保かくほする。 それからだいいちかんいたガンダーラ、インダスがわ、ゲドロシアへつづき、スーサにかえってきて、ハルパロスらといち悶着もんちゃくあって、結婚式けっこんしきげる。 スーサの合同ごうどう結婚式けっこんしきよりのちのことをいまのところない。

アレクサンドロスはなぜバビュロンをおうさだめたのだろう? たりまえのようだが全然ぜんぜんたりまえじゃない。 べつにバビュロンにいたかったわけではあるまい。 たまたまバビュロンでアレクサンドロスがんだので、バビュロンがおうみやこであることになったのではないのか。

ともかく、だいかんまででくのをやめてしまってもべつたいして支障ししょうはない。 とはいえ、完結かんけつさせたほう読者どくしゃにとっては便利べんりかもしれない。

アンティオキア。イッソスからタプサコスまで。

アンティオキアはセレウコスのちちアンティオコスにちなんでセレウコスが建設けんせつした都市としだが、 もともとここには[アララハ](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%A9%E3%83%8F)という古代こだい都市としがあったが、セレウコスの時代じだいには廃墟はいきょになっていたとおもわれる。

アンティオキアはオロンテスがわながみ、ながす、アンティオキアのほとりにあった。 いま灌漑かんがいされてちいさくなったが、かつてはもっとおおきなみずうみであったはずで、したがって、イッソスからハルペへ途中とちゅうはこのみずうみ迂回うかいせねばならなかったはずだ。

google maps で地形ちけい表示ひょうじするとたいらなので、かつてこの平原へいげんみずうみであったことは明白めいはくである。

イッソスからアンティオキアまではかなり急峻きゅうしゅん山道さんどうとおらねばならない。

オロンテスがわだい地溝ちこうたい北端ほくたんたっていて、このアンティオキアみずうみはその地溝ちこうたい谷間たにまにあったのである。 地形ちけいてきにはイスラエルのうみやガリラヤおなじ。

タプサコスのわたのあたりは、地形ちけいると平地ひらちではなくて山地さんちになっている。 エウフラテスの川幅かわはばせばまっている箇所かしょということだろうとおもう。 かわなか中州なかすというかしまがある。 ここにふねならべて舟橋ふなばしにしてわたったのであろうとおもう。

クセノフォンの『アナバシス』に、 [ミュリアンドス Myriandros](https://en.wikipedia.org/wiki/Myriandus) という地名ちめいてくる。フェニキアじんむシリアの海辺うみべまち。ここはイッソスのアレクサンドリア、いまのイスケンデルンである。 商業しょうぎょう中心ちゅうしんとある。

ミュリアンドスを行程こうてい4にち、20パラサンゲス(1パラサンゲスは30スタディア、5.4km)でカロスがわについた、とある。 このカロスがわというのは、いまのアレッポのまちなかながれる[クウェイク(Queiq) かわ](https://en.wikipedia.org/wiki/Queiq)であるという。 したがってこのカロスがわながれるまちはアレッポ、古代こだいで Khalpe となる。 ハルペの住人じゅうにんさかなばとべないとある。 これはおそらくさかなはダゴンの使つかいであり、ばとはイシュタルの使つかいであるからだ。 ダゴンはもともとはフェニキアじんかみであり、それもハルペ南西なんせい55kmにあった[エブラ](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%96%E3%83%A9)というまち主神しゅしんであったろうとかんがえられる。 ハルペ住人じゅうにんがダゴンを信仰しんこうしていてさかなべなかったのはほぼ間違まちがいないようにおもわれる。 日本語にほんごのウィキペディアには、ダゴンはヘブライ由来ゆらいだとかれているのだが、そんなことはない。 ダゴンはクトゥルフ神話しんわ有名ゆうめいだが、これはラヴクラフトが適当てきとうかんがえた世界せかいかんである。

ばとべないというのは、おそらくイシュタル信仰しんこうのためだ。イシュタルはばときで、みずからもばと姿すがたをしている。 それゆえイシュタルの羽根はねあしばとのものなのだ。

クセノフォンの『アナバシス』はヘロドトスの『歴史れきし』にくらべると描写びょうしゃがずっと具体ぐたいてきである。

カロスがわから行程こうてい5にち、30パラサンゲスでダルダスがわくとあるが、 これは al-Bab というまちながれる[Dhahab がわ](https://en.wikipedia.org/wiki/Dhahab_River) であろう。

shutter island

シャッター・アイランドをみたのだが、じつ後味あとあじわる映画えいがだった。 ディカプリオ主演しゅえんなら、レヴェナントのほうがずっときかな。

ミステリー、なぞき、最後さいごのどんでんがえしで、たか評価ひょうかするひとおおいようだが、どうなんだろうかこれは。 冒頭ぼうとうのシャッターアイランドの描写びょうしゃやダッハウ収容しゅうようしょのシーンなどはあまりにもどぎつく、あおりすぎているようにおもえる。

除夜じょやかね

[除夜じょやかねはなかった?~江戸えどまちじん研究けんきゅう](http://door2summer.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-298e.html)

除夜じょやかねというのは、そんなにふるいものじゃないとおもうし、 無理むりのこすほどのものではないとおもうなあ。

入相いりあいかねとかつのかねというものはあっただろう。

除夜じょやかねというものができた当初とうしょから108かいたたいてたわけはないとおもう。 108かいなんてただのこじつけにぎない。はたきすぎ、うるさすぎなんだよな。

除夜じょやかねにしろ年越としこ蕎麦そばにしろ、むやみやたらと日本にっぽん伝統でんとうというものをありがたがるのはけっしてコンサバティブでも保守ほしゅでもない。 ほんとうにふるくていものだけをありがたがるのがただしいコンサバティブというものであり、 そのためには、かならず、それはほんとにふるいものなのかどうかうたがってみる理性りせい必要ひつようなのだ。

除夜じょやかねはフェイクコンサバティブだとおもうね。 あんなものはね、冷静れいせいかんがえればただの迷惑めいわくだったことがわかるよ。

歌詠うたよみの死滅しめつ

和歌わかはじめのころは、やまとことばだけで、ななななななむのがとてもむずかしいとかんじる。 だけどその習慣しゅうかんを10ねん、20ねんつづけていくうちに、自然しぜんうためるようになる。

いまわたしはシラフのときにはほとんどうたまないが、なぜかさけって知性ちせい理性りせいというブレーキがかなくなるとうたひとになってしまった。 そしてんだうたわすれて翌朝よくあさ、ツイッターかなにかにんだのをみて、 こんな自分じぶんんだんだなとおどろく。

わたしたちはかんがえてしゃべるのではない。 うたもそうだとおもう。 自然しぜんめるまで訓練くんれんすることが大事だいじなのだ。 そこまでいけばうたなど勝手かってめるのだ。 むかしのうまい歌詠うたよみたちもみんなそうだった。 うまいうたもうとおもってむのではない。 うたというものはほとんど無意識むいしきまなくてはうたにはならない。 うたもうとたくんではならない。 そんなうたはたいてい出来損できそこないだ。

もちろんぱらって下手へたうたむこともある。 あとからみて陳腐ちんぷだなあとおもうこともおおい。 しかしシラフのときにはけっしてめない、まないようなうたんでいてわがながらおどろくこともある。

そして、いろんなひとたちのブログやSNSなどてて、 やまとことばだけで、ななななななに、きちんとした和歌わかんでいるひとが、 わたし以外いがいにはもはや一人ひとりもいないのではないかというがしてならない。 まだきちんと平仄ひょうそくあわせした七言しちごん絶句ぜっくなどの漢詩かんしつくひとのほうがおおいようにおもう。

きちんと和歌わかひと桂園けいえんのこりは柳田やなぎだ国男くにおくらいまでだった。 いまひとたちはむかしひとたちのように和歌わかむことなんてできないとはなからあきらめている。 佐佐木ささき信綱のぶつなあたりがそうめてしまった。 佐佐木ささき信綱のぶつなですらめないのだからわたしたちもめるはずがないとおもんでしまった。 あきらめるからめないのだ。 ひとつの伝統でんとうきようとしている。えようしている。 このままではほんとうに日本人にっぽんじん和歌わかめなくなってしまう。 じつおそろしい。

ユネスコ改革かいかく

[【社説しゃせつべいのユネスコ脱退だったいただしい第一歩だいいっぽ。](https://jp.wsj.com/articles/SB10922266312659313634204583449891601995604)

非常ひじょう興味深きょうみぶか記事きじだ。 原文げんぶん英語えいご有料ゆうりょう会員かいいんせいですでにめないのだが、現時点げんじてんでまだ公開こうかいされている和訳わやくめばほぼ十分じゅうぶんだろう。

イリナ・ボコヴァはブルガリア共産きょうさん党員とういん(ブルガリア共産党きょうさんとうは1990ねんにすでに解散かいさん)で、 モスクワ国際こくさい関係かんけい大学だいがく卒業生そつぎょうせいで、 2009ねんからユネスコ事務じむ局長きょくちょうであり、 2016ねん国連こくれん事務じむ局長きょくちょう選挙せんきょにはプーチンの支持しじ立候補りっこうほしている。 国連こくれん本部ほんぶはニューヨークにあるが、 ユネスコはパリにあってアメリカのコントロールがかない。 ボコヴァが2011ねんにパレスチナ自治じち政府せいふのユネスコ加盟かめいみとめたことから、 米国べいこくはパレスチナを国家こっかとしてれる国連こくれん組織そしきへの資金しきん拠出きょしゅつきんじる法律ほうりつ発動はつどうべつかねがもったいないから拠出きょしゅつしないことにしたわけではないのだ。

また、ユネスコはシリアのアサド政権せいけん支持しじしているともっている。

ようするにユネスコはパレスチナにしろシリアにしろ、ことごとくアメリカに楯突たてついており、 ユネスコはロシアにあやつられているといってもよい状態じょうたいなのである。

ユネスコがパレスチナの洞窟どうくつ世界せかい遺産いさん登録とうろくしたことでもはやアメリカはユネスコを容認ようにんできなくなった。 まったくおなじことが日本にっぽんでもきている。 日本にっぽん世界せかい遺産いさんなんてものに依存いぞんして商売しょうばいするのはやめたほうがいい。

日本にっぽん勇気ゆうきって行動こうどうすべきだ。 ユネスコを脱退だったいする必要ひつようもない。 拠出きょしゅつきんはらってよい。 世界せかい遺産いさんをすべて辞退じたいするだけでよい。 それがいまのユネスコにたいする抗議こうぎとなる。

日本にっぽんはただ、観光かんこうきゃく目当めあてで世界せかい遺産いさん登録とうろく躍起やっきになっているだけだ。 ただのさもしい根性こんじょうにすぎない。 「教育きょういく」「科学かがく」「文化ぶんか」ののもとにかねもうけがしたいだけにすぎないのだ。 だからこのさい世界せかい遺産いさん登録とうろく返上へんじょうしてしまえ。

それでも観光かんこうきゃくがあとからあとから日本にっぽんせてくるだろう。 それだけの魅力みりょく日本にっぽんにはあるからだ。 そうしたらおおくのくにがユネスコを見限みかぎり、 ユネスコには利権りけんあつまらなくなる。 そうしてやっときたならしい政治せいじたちはり、まっとうな「教育きょういく」「科学かがく」「文化ぶんか」のもどる。 日本にっぽんがユネスコを改革かいかくするとはそういうことをうのではないのかな?

エウメネス

『エウメネス』を最初さいしょいたときは、アッリアノスの『アナバシス』しかんでなかった。 そのなかめい場面ばめんいて一本いっぽんにして、それ以外いがいはなかった。

連載れんさいものにしたのは、続編ぞくへんみたいというレビューがまれていたためでもあるし、 また、『エウメネス』がれるので、いちからいてみようかというになったのだ。

それで、アレクサンドロスの東征とうせい開始かいしからイッソスのたたかいまでをいてみようとして、これは一本いっぽんではれないってことがわかって、 ほんにわけた。 もともとしてたやつを『エウメネス1 ゲドロシア紀行きこう』とし、 つづいて『エウメネス2 グラニコスかわたたかい』、『エウメネス3 イッソスのたたかい』としたのだった。

『エウメネス4』と『エウメネス5』では、それまでとちがって、 アレクサンドロスの金魚きんぎょくそみたいな位置いちづけだったエウメネスを単独たんどく行動こうどうさせてみた。 わざとアレクサンドロスを登場とうじょうさせず、アレクサンドロスの三人称さんにんしょう視点してんとしてのエウメネスを独立どくりつさせて、 一人称いちにんしょう視点してんのエウメネスをくことにしたわけだ。 ついでにカッサンドロスやセレウコスなどの若者わかもの登場とうじょうさせてみた。

『エウメネス』シリーズはすべて一人称いちにんしょう視点してんかれているのだが、 いち箇所かしょだけ、イッソスのたたかいでダレイオスさんせい敗走はいそうするところだけ、 ダレイオスの一人称いちにんしょう視点してんいてある。 というか、エウメネスでもダレイオスでもない三人称さんにんしょう視点してんのようなかたになっている。 これは反則はんそくわざというか、統一とういつというか、文章ぶんしょう稚拙ちせつさともいうべきものなわけなんだけど、 個々ここ箇所かしょはエウメネスの回顧かいころくのようなかたちんでもらえればとおもう。 イッソスのたたかいののちでエウメネスが事実じじつ総合そうごうしたらダレイオスの心理しんりとはこんなふうなものだった。 それをエウメネスがかたった、ということにしてほしい。 ところどころ、「いまからおもえば」とエウメネスが箇所かしょがある。 この作品さくひん全体ぜんたいが、アレクサンドロス大王だいおうがバビュロンでんだ直後ちょくごくらいにエウメネスがおう追想ついそうしてかたったものなのだが、 没入ぼつにゅうかんすために、おおくは現在げんざいがたかたられているのだと了解りょうかいしてもらえるとありがたい。

古代こだいギリシャのことをきながら、いつのにか、結局けっきょく現代げんだい社会しゃかいのこと、わたし自身じしん思想しそうのことをいているのだけれども、 それはわたしいているフィクションなのだから仕方しかたあるまい。 なんならほかひとはほかのようにけばよいだけだ。

あとは、パールサのたたかい、ハグマターナ、バークトリシュのたたかいをえがくのみとなった。 たぶんこれらは『エウメネス6』『エウメネス7』というかたちくことになるはずだ。 そしてとき系列けいれつてきえば『エウメネス1』にもどる。

最後さいごはゲドロシアをけてスーサにいたるまでのアレクサンドロスの帰還きかんえがいて『エウメネス8』としたいとおもっている。 『エウメネス8』の主役しゅやくはカラノスというバラモンそうになる予定よていだ。 このひとはもともとてこないので、『エウメネス1』に追記ついきした。 『エウメネス1』だけで完結かんけつするにはらないキャラだが、 『エウメネス2』から『エウメネス7』までて『エウメネス1』にもどって、『エウメネス8』で完結かんけつするためには、必要ひつようなキャラだとかんがえている。 アレクサンドロスがぬところやそののディアドコイ戦争せんそうはない。

アレクサンドロスとはなにだったのか。 かれにはエパメイノンダス、フィリッポス2せいという先達せんだつがいた。 ペルシャ帝国ていこく瓦解がかいしかけ、そのコスモポリタニズムを新興しんこうのマケドニア王国おうこくいだ。 さらにかれ個人こじんてき資質ししつ特殊とくしゅ能力のうりょくとしてはダイモニアというものを仮定かていしている。 ダイモニアはソクラテスがっていたことで、アリストテレスもエウダイモニアなどとっている。 ダイモニアは守護神しゅごじんとか守護しゅごれいのようなものであるし、バラモン教ばらもんきょうてきえばおもねよりゆき耶識とでもなろうか。 無意識むいしきてき自我じがとでもいえばよかろうか。

『エウメネス5』ではたくさんのかみた。 ダゴン、イシュタル、ナブー、マルドゥク。 占星術せんせいじゅつ七曜しちようにもおお言及げんきゅうした。 ユダヤきょうにもちょっとれた。 『エウメネス3』ではフェニキアじんやエジプトじんかみはなした。 ペルシャじんかみアフラマヅダは当然とうぜんてくるし、 ギリシャじんかみはディオニュソスをはじめとしてこれまたたくさんてくる。

これだけたくさん神様かみさましたのはたんわたし趣味しゅみだからでもあるが、 わたしは、アレクサンドロスがパールサプラをいたのは、アレクサンドロス自身じしん意図いとしたのではなく、 バビュロニアじんとペルシャじんあいだ宗教しゅうきょうてき対立たいりつがあったからだとおもうからだ。 もちろんギリシャじんも、ギリシャに侵攻しんこうしたクセルクセスおうにはうらみがあった。 そのクセルクセスが完成かんせいさせたパールサプラを略奪りゃくだついたのはギリシャじん自身じしん復讐ふくしゅうであったかもしれないが、 しかし、バビュロンに入城にゅうじょうしたアレクサンドロスが為政者いせいしゃとして市民しみんらに最初さいしょ期待きたいされたのは、 ペルシャじんへの報復ほうふくだったとおもうのである。 つまりバビュロンへの無血むけつ入城にゅうじょうには、パールサ征服せいふくという交換こうかん条件じょうけんがあったのではないか。

ディオドロスの『歴史れきし叢書そうしょ』も最近さいきんになってとおしている。 概要がいようはアッリアノスと、ウィキペディア英語えいごばんなどめば十分じゅうぶんなのだが、 ディオドロスにしかいてないディテールなどがわり作品さくひん風味ふうみくわえてくれるので、 できるだけひろいたいとおもう。 ほかにもクセノフォン、トゥキュディデス、アテナイオスなどもんでいる。 森谷もりたに公俊きみとしほんはじめた。 しかしプルタルコスを参考さんこうにするつもりはない。

まともかく『エウメネス』シリーズは完成かんせいさせなくてはならない。 そのため『エウメネス1』はだいぶ加筆かひつ修正しゅうせいした。 『エウメネス2』にはアンフィポリスのたたかいを加筆かひつした。 完成かんせいさせるまでには、いやもしかすると完成かんせいさせたあとも、加筆かひつ修正しゅうせいつづくんじゃないかとおもう。

エウメネス5

11月30にち出版しゅっぱん開始かいししてそれからさらにしてしまい、211まいまでえてしまった。 わたし場合ばあいどうしても出版しゅっぱんしたのちにも修正しゅうせいしたりしたりしてしまい、 しかもキンドルは改版かいはんするのがむずかしいから、ました、とはなかなか宣伝せんでんできない。

でもんでもらいたい気持きもちはあるから、ツイッターなどで告知こくちしたいもする。

一応いちおう完成かんせいはしているが未完成みかんせいなのだ。

いまあらためて『エウメネス1』をなおすと幼稚ようちだ。 『エウメネス』を最初さいしょいたのはもう4ねんまえだ。 あのころはアッリアノスの『アレクサンドロス大王だいおう東征とうせい』だけんで、イッソスとガウガメラはある程度ていどっていたが、 そののゲドロシアのところが面白おもしろかったので、そこをっていたのだった。 いま『エウメネス5』をいているが、これはアリアッノスだけでなく、ヘロドトス、トゥキュディデス、クセノフォンなどいろんな歴史れきししょすこしずつつまみいして補完ほかんしていているのである。 もちろんウィキペディアとかペルセウスとかその文献ぶんけんているが。 当時とうじいまでは知識ちしきりょうがまるでちがう。 わたしは4ねんまえ、ほとんどなにらずにいていた。 4ねんまえわたしに『エウメネス5』をませたらどんな気持きもちでむだろうか。 まったく予測よそくがつかない。

『エウメネス1』のころわたしはわりと読者どくしゃ目線めせんちかかったとおもう。 ふつう読者どくしゃはエウメネスをらないからエウメネスをろうとおもってエウメネスのほんむわけだ。 わたしもエウメネスをらずにエウメネスをいていた。

いまわたし読者どくしゃ目線めせんにはなれようがない。著者ちょしゃとしてしかエウメネスをれなくなってしまっている。 どちらがいともいえない。 著者ちょしゃとしてはいまわたしのほうがすぐれているはずだが、読者どくしゃにとっては、自分じぶんちか目線めせんひといたもののほうが面白おもしろいはずだ。

『エウメネス1』をいたときわたし傑作けっさくいたつもりでいたが、いまるとなんとも物足ものたりない。 あのころはあの80まいをものすごい努力どりょくいたのだった。 いまは200まいくらい平気へいきでかける。 いろんなエピソードをはさんだり、架空かくう人物じんぶつ登場とうじょうさせることで、いくらでも分量ぶんりょうやすことはできるようになった。