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8月, 2015 - はかもなきこと

ヨハンナ・シュピリ

ヨハンナの長兄ちょうけいはテオドールTheodor。 1846ねん医師いし免許めんきょり、 1847ねん軍医ぐんいとして分離ぶんり同盟どうめい戦争せんそう(スイスの内戦ないせん)に従軍じゅうぐん

次兄じけいはクリスチャンChristian。 1847ねんごろにベルリンに留学りゅうがく。ブラジルにわたり、農場のうじょうつくる。

もう一人ひとり男子だんしがいたが早世そうせいした。

姉妹しまいは、アンナAnna 25、ヨハンナJohanna 23、エガEga 19、メタMeta 14。 1850ねん時点じてん彼女かのじょらはみなまだ実家じっかにいた。

正法しょうぼうぞうずい聞記』2-1

によりて一門いちもん同学どうがく五根房故葉上僧正の弟子でしが、唐土とうどぜんいんにてときかたまもりて、戒経を終日しゅうじつしょうせしをば、きょうへててしめたりしなり。

じょうとはまさしく栄西えいさいのことである。道元どうげん栄西えいさいのことを「一門いちもん同学どうがく」とんでいるのは興味深きょうみぶかい。このくだりは、仏像ぶつぞう仏舎利ぶっしゃりなどを崇拝すうはいしたり、戒律かいりつ遵守じゅんしゅいちにちちゅう読経どきょうするのは、あまりにやりすぎればぎゃく外道げどうとなる、みなみそうそうかならずしも戒律かいりつにはこだわらなかったし、栄西えいさい戒律かいりつにこだわるのをてさせたというのである。

道元どうげん栄西えいさいおな宗派しゅうはだとかんがえていたのだろうか。

wenn, sollte dann

いつもの長文ちょうぶん(というより、ながいセンテンス)の時間じかんです。

Wenn wir Menschenkinder kaum ertragen können, die Fehler und Flecken zu sehen, die uns und unsere Mitmenschen entstellen und erniedrigen und um so schärfer sehen, je mehr uns an den Menschen gelegen ist, sollte dann nicht unser Herr und Gott immer noch schärfer sehen und es noch genauer mit uns nehmen?

全体ぜんたいてきると

wenn もしなんとかならば, sollte dann であるべきだ

というかたちになっている。sollte はここでは助動詞じょどうし。sollen の過去かこかたちとみると意味いみがおかしい。

「もし、わたしたちじんが、ほとんどえることができなかったら」その目的もくてきは「あやまりや汚点おてんること」である。そのあとの die は「あやまりや汚点おてん」をけていて、

die uns und unsere Mitmenschen entstellen und erniedrigen

わたしたちやわたしたちの同胞どうほうそこね、おとしめる

und (die) um so schärfer sehen, je mehr uns an den Menschen gelegen ist

厳密げんみつればるほどににますます人々ひとびとにとって重要じゅうようになる

となる。gelegen はここではあきらかに形容詞けいようし(ふさわしい、重要じゅうような)であり、かつ、

ひと3 an ぶつ4 gelegen sein

だれそれにとってなに々は重要じゅうようである、というイディオムになっている。
また

je 比較ひかくきゅう、um so 比較ひかくきゅう

もイディオムである。

それでまあ、直訳ちょくやくすれば、「わたしたちやわたしたちの同胞どうほうそこね、おとしめる、しかしながら厳密げんみつればみるほどに重要じゅうようになっていくあやまりや欠点けってんを、わたしたちがほとんど直視ちょくしできないとしても、わたしたちのおもかみはいつも厳密げんみつているのだから、わたしたちもやはり厳密げんみつめるべきではなかろうか。」とでもなるだろうか。最後さいごのあたりがすこ自信じしんがないが、主語しゅごは es ではなくて unser Herr und Gott であり、es は目的もくてきだろう。いずれにしても、やくしてみると、べつにこんなに馬鹿ばか丁寧ていねいやく必要ひつようのあることではない。てきとうに意訳いやくしておけば十分じゅうぶんだろう。

dagegen

Fanden nun Vater und Mutter ihren besten Trost und die befriedigende Nahrung für ihr inneres Leben in den Worten des alten Bibelbuches und solcher Schriften, die desselben Sinnes waren, so war es dagegen den Bedürfnissen ihrer Natur gemäß, aus den Worten der Dichter und Weisen zu schöpfen, die ihren Blick weiteten, ihr Denken erhellten und ihr ganzes Wesen festeten, daß sie, der eigenen Kraft bewußt, gerüstet dem Leben entgegentreten könnte.

なんとながい、そしてコンマのおおいセンテンスだろうか。これは A, so B, daß C とかたちになっていると解釈かいしゃくできよう。

A の部分ぶぶん

ちちははふる聖書せいしょなどの書物しょもつ言葉ことばなかから、彼女かのじょのために、元気げんきしんかてつけた。それらはおよそおなじような意味合いみあいだった。

B の部分ぶぶん

しかしそれゆえにそれらの宗教しゅうきょうてき文句もんく彼女かのじょ自身じしんこのみにはんしていた。

彼女かのじょこのみというのは aus den Worten der Dichter und Weisen zu schöpfen という zu 不定ふていが Bedürfnissen ihrer Natur gemäß にかかるとみて、

詩人しじん賢者けんじゃ言葉ことばからまれて、彼女かのじょ視野しやひろげ、彼女かのじょかんがえを明解めいかいにし、彼女かのじょ本質ほんしつ確立かくりつしてくれるもの

である。そして C の部分ぶぶん

自分じぶん自身じしんちから自覚じかくし、すでに自分じぶんなりに理論りろん武装ぶそうしていた彼女かのじょは、人生じんせいかっていけた。

となるだろう。

前半ぜんはん部分ぶぶん父母ちちはは宗教しゅうきょうてきこのみと、後半こうはん部分ぶぶん彼女かのじょ詩的してきこのみが対比たいひされている、とるべきだ。dagegen があるのでそれがわかりやすい。

「, so」や「, daß」などでセンテンスがおおきくれている、ということに着目ちゃくもくすべきだ。