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10月, 2009 - はかもなきこと

新約しんやく聖書せいしょ

新約しんやく聖書せいしょなかでは、福音ふくいんしょよりも、パウロの書簡しょかんほうさき成立せいりつしたというので、
まあ、そりゃそうだわなとおもい、パウロの手紙てがみはじめる。
文章ぶんしょうとして後世こうせいのこるというのは、古代こだいにあってはとくに、
リテラシーのあるひとたちまでひろまってからでなくてはおきなかった。
たとえば日本にっぽん歴史れきしえばだが、源義家みなもとのよしいえ時代じだいかれまわりにはとくに、じつ時間じかん文書ぶんしょ記録きろくするじんがいなかった。
だからいち資料しりょうもほとんどなく、さん資料しりょう後世こうせいつくられた伝説でんせつしかない。
しかし、みなもと頼朝よりともまでくると、公家くげらがほとんどじつ時間じかん日記にっき記録きろくしている。
第三者だいさんしゃ視点してん記録きろくされたいち資料しりょうというものがある。
平家ひらか物語ものがたりですら、歴史れきしというにはあまりにもいち資料しりょうけている。
たまたま琵琶びわ法師ほうし平曲へいきょくでそうってたというだけで歴史れきしあつかいされているのだが、
平家ひらか物語ものがたりじつ時間じかん記録きろくではなく、50ねんちかくかけてだんだんにできたものであり、
史実しじつとはがたい。

新約しんやく聖書せいしょにもいち資料しりょうなどというものはない。
パウロ書簡しょかんからがほんとうに後世こうせいのこされた資料しりょうで、
福音ふくいんしょはその教団きょうだんごとに整理せいりされたもの。
当時とうじリテラシーがあったひとなど人口じんこうの1%もいたかどうかだろう。
初期しょき使徒しとらはみな文盲もんもうだっただろう。
教団きょうだんができてから、そのなかのほんの一部いちぶひとが、文字もじめてけたのだろう。
で、パウロというひとは、おそらくは、キリスト教団きょうだんなかはじめて文字もじめてけたひとだったのだろう。

つまり、文書ぶんしょとして後世こうせいのこった時期じきにはすでに相当そうとうなかひろまったのちだということ。
キリスト教きりすときょうじつはパウロきょうだというのもまあわかったがする。

ウィキペディア英語えいごばんではJesusだけなのに、
対応たいおうする日本語にほんごばんには「イエス・キリスト」「ナザレのイエス」「史的してきなイエス」などと項目こうもくこまかくかれる。
ドイツばんは Jesus Christus と Jesus von Nazaret にかれていて、やや日本語にほんごばんている。

司馬しばりょう太郎たろう3

つまり、司馬しばりょう太郎たろうは、
義経よしつねいているが、鎌倉かまくら幕府ばくふとか北条ほうじょう時代じだいからなにいてない。
太平たいへい時代じだいになり義満よしみつときまでない。

つまり、みなもと頼朝よりともから足利あしかが義満よしみつまでのあいだのことは小説しょうせついてない。

なるほど、織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよし徳川とくがわ家康いえやす武士ぶしであろう。
薩摩さつま長州ちょうしゅう武士ぶしだし、新撰しんせんぐみ武士ぶしだろう。
明治めいじ軍人ぐんじんたちは武士ぶし子孫しそんちがいない。

だが、執権しっけん北条ほうじょうも、足利あしかが新田にった楠木くすのきらもまた武士ぶしであろう。
南北なんぼくあさ応仁おうにんらんのごたごたもまた武士ぶしであろう。
それらを全部ぜんぶひっくるめて武士ぶしなのである。
しかし、司馬しばりょう太郎たろうは、吉川よしかわ英治えいじわたしほん太平たいへい」をれいげて、
吉川よしかわですら残念ざんねんながら水戸みと史観しかんたよりにこの時代じだいている、などと批判ひはんしている。
水戸みと史観しかんとおしてみれば悲壮ひそうにみちたきらびやかな時代じだいだが、
それをはらえばただのごたごたでなんでもない時代じだいだ、とっている。
なるほど、なんでもない時代じだいならなんでもない時代じだいとして淡々たんたん描写びょうしゃすればいのではないか。
あるいはそれこそ水戸みと史観しかん司馬しば史観しかんとやらでえればいではないか。
まあ、新田にった次郎じろうなどはそれをやろうとして、派手はで失敗しっぱいしているし、
吉川よしかわ英治えいじ中途半端ちゅうとはんぱにやろうとして適当てきとうにごまかしているがな。
歴史れきし歴史れきし小説しょうせつが、ある特定とくてい時代じだいして、なんでもない時代じだい、なにもなかった時代じだいなどというのは怠慢たいまんぎない。
プロじゃない。
そもそもなにもない時代じだいなんてものがあるはずがない。
ぎゃくに、なにもかもおもしろかった時代じだいというのも幻想げんそうぎない。

南北なんぼくあさ時代じだい応仁おうにんらん時代じだいは、時期じきてきにも近接きんせつしていて、非常ひじょうたものだっただろう。
どちらも、ほんとうの歴史れきしというものは、ごたごたしただけのものだ。
司馬しば史観しかんというが、幕末ばくまつ安土あづち桃山ももやま時代じだいばかりとりあげて、
武士ぶしの、日本にっぽん暗黒あんこく歴史れきし、つまらなく、ごたごたどろどろした部分ぶぶんはほったらかして、
それじゃただミーハーなだけではないか。
よりゆき山陽さんよう立場たちばかんがえれば、かれはまあかれきた時代じだいなりに、日本にっぽん通史つうしこうとして、
武士ぶしいところもわるいところも全部ぜんぶかれなりに最初さいしょから最後さいごまでいてみた。
さらに日本にっぽんせいやら日本にっぽんらくいた。
そしてかれかれなりに、日本にっぽん武士ぶしがおこった所以ゆえん説明せつめいしてみた。
藤原ふじわらによる国家こっか私物しぶつ武家ぶけによる簒奪さんだつ(あるいは王家おうけ傀儡かいらい)、
さらに北条ほうじょうという、天皇てんのうでも貴族きぞくでもない階級かいきゅうによる一時いちじてきな「善政ぜんせい」と崩壊ほうかい
長引ながび混乱こんらんなか荘園しょうえんせいから守護しゅご大名だいみょう戦国せんごく大名だいみょうへの変遷へんせん。そして封建ほうけんせい完成かんせい
すべては連続れんぞくてきにかつ必然ひつぜんてきこってきたこと。
だが、司馬しばりょう太郎たろう日本にっぽん歴史れきしをつまみいしただけだ。
かれが、そうまなぶとか、水戸みと史観しかんとか、そういうものをきらっていたのはわからんでもないが、
それもまた武士ぶし思想しそうなのであり、
それをどうにかこうにか自分じぶんなりに消化しょうかしなくては武士ぶし描写びょうしゃすることなどできまい。

おもうに、太平たいへいがただのつまらない歴史れきしだとうのであれば、
史記しきえがかれた項羽こうう劉邦りゅうほうはなしだって、脚色きゃくしょくはらえば、ほんとうの歴史れきしはごくつまらないものだっただろう。
安土あづち桃山ももやまにしろ幕末ばくまつにしろ、史実しじつあきらかになればなるほど、ふつうのごくつまらない事実じじつかさねに還元かんげんされるだけだろう。
そんなことはたりまえのことなんじゃないのか。
歴史れきし小説しょうせつくにはなにかの脚色きゃくしょく必要ひつようで、だから司馬しば史観しかんなどとわれるのではないのか。

司馬しばりょう太郎たろう2

司馬しばりょう太郎たろう案外あんがい著作ちょさくすくない。長編ちょうへんおおいせいかもしれない。
歴史れきし小説しょうせつ時代じだいふるじゅんならべてみる。

#### はたかん

項羽こうう劉邦りゅうほう

#### 平安へいあん初期しょき

空海くうかい風景ふうけい

#### 平安へいあん後期こうき

義経よしつね

#### 室町むろまち

妖怪ようかい

#### 戦国せんごく初期しょき

箱根はこねさか

#### 安土あづち桃山ももやま

ふくろうしろなつくさしん太閤たいこうしり啖え孫市まごいち功名こうみょうつじしろをとるはなしくに物語ものがたり
戦雲せんうんゆめ風神ふうじんもん播磨灘はりまなだ物語ものがたり城塞じょうさい関ヶ原せきがはら

#### あきら末清すえきよはつ

韃靼だったん疾風しっぷうろく

#### 戦国せんごく江戸えど初期しょき

覇王はおういえ宮本みやもと武蔵むさし

#### 江戸えど初期しょき

大盗たいとう禅師ぜんじ

#### 江戸えど中期ちゅうき

はなおき

#### 幕末ばくまつ

上方かみがた武士ぶしどうふう武士ぶし龍馬りょうまく、えよけわし北斗ほくとひとにわか なみはな遊侠ゆうきょうでんじゅういち番目ばんめ志士しし
胡蝶こちょうゆめ

#### 幕末ばくまつ維新いしん

最後さいご将軍しょうぐん 徳川とくがわ慶喜よしのぶとうげ歳月さいげつ日日ひびはなしん

#### 維新いしん

ぶがごと

#### 明治めいじ

さかうえくも、ひとびとの跫音きょうおん殉死じゅんし

司馬しばりょう太郎たろう

えよけん」をむまで、まったくがつかなかったのだが、結構けっこう重大じゅうだいなことのようなので調しらべてみる。

えよけん」のなか司馬しばりょう太郎たろうは、近藤こんどういさむ日本にっぽん外史がいし愛読あいどくしゃであり、
またよりゆき山陽さんようにまねたしょくなどといている。
近藤こんどういさむ当時とうじ平凡へいぼん田舎いなか武士ぶし、あるいは町道場まちどうじょうぬしとしてえがかれており、
その趣味しゅみよりゆき山陽さんようなのであり、
それ以上いじょうのことはいてない。

また、「項羽こうう劉邦りゅうほう」の後書あとがきで、よりゆき山陽さんよう日本にっぽん外史がいしについてつぎのようにれているそうである。

日本人にっぽんじん中国ちゅうごく大陸たいりくから漢字かんじ漢籍かんせきみちびけじんするのははるかなのちのことになる。
以後いご日本にっぽん社会しゃかいはその歴史れきし記録きろくとしてりあげてゆくのだが、人間にんげんのさまざまな典型てんけいについては自分じぶん社会しゃかい実例じつれいよりも、漢籍かんせきかれた古代こだい中国ちゅうごく社会しゃかい登場とうじょうする典型てんけいぐん借用しゃくようするのがつねであった。
このことは、ひとつには江戸えど末期まっき日本にっぽん社会しゃかい成熟せいじゅくし、よりゆき山陽さんようて『日本にっぽん外史がいし』をくまで自国じこく通史つうしかれなかったことにもよる。中国ちゅうごく文明ぶんめい周辺しゅうへん文化ぶんかというのは自国じこくひなであるとするらしく――朝鮮ちょうせんやヴェトナムもおなじだとおもうが――通史つうし成立せいりつしにくい。
たとえ成立せいりつしても、人間にんげんについての彫琢ちょうたくにとぼしい。『日本にっぽん外史がいし』にもそのきらいがあるが、それは山陽さんようつみではなく、おおくは日本にっぽん社会しゃかい性格せいかくによるといえるであろう。
中国ちゅうごく社会しゃかい場合ばあい、すでにのべたように田園でんえんにみずからをやしなっていたひとびとがにきょしがらみだっし、山野さんやへ奔りだすということがあるために、そこに浮沈ふちんする人間にんげんたちは、浮沈ふちん力学りきがくとして彫琢ちょうたく深刻しんこくにならざるをえない。典型てんけいができやすいということがあり、とくに戦国せんごくからはたまつ争乱そうらんにかけてはそうであった。まだその典型てんけいたちのづかふるびていない時期じきに、記録きろくしゃ司馬しば遷があらわれている。かれはそうだい以後いご学者がくしゃよりもはるかにこんにちてき感覚かんかくをもち、じゅう世紀せいき突如とつじょてきても違和感いわかんなくらせるほどにものひと姿すがた平明へいめいることができた。

日本にっぽん外史がいし日本にっぽんはつ通史つうしであろうか。
水戸みとはんだい日本にっぽんたしかに日本にっぽん外史がいしよりも完成かんせいおくれたが、
それよりもさき編纂へんさんはじまっていた。
北畠きたばたけ親房ちかふさかみすめらぎ正統せいとうは、日本にっぽん通史つうしとはいえまいか。
ほかにも日本にっぽん外史がいし先立さきだ日本にっぽん通史つうしちか著作ちょさくはあるだろう。
また、日本書紀にほんしょきあきらかに当時とうじとしての通史つうしであっただろう。
それらについて、司馬しばりょう太郎たろうともあろうじんがあまりにも無関心むかんしんすぎないだろうか。

また、日本にっぽん外史がいしが、史記しきくらべて、「人間にんげんについての彫琢ちょうたくにとぼしい」
っているのはどうにもわからない。
史記しき司馬しば遷がいたというよりは、地方ちほうつたわった伝承でんしょう蒐集しゅうしゅうしたものであろう。
民間みんかん伝承でんしょうとはつまり平家へいけ物語ものがたり義経よしつね、あるいは太平たいへいなどの軍記物語ぐんきものがたりちかいものだったろう。
それらをつなぎわせて史記しきができている。
それを後世こうせいそうだい学者がくしゃくらべて「はるかにこんにちてき感覚かんかくをもち」
などとひょうするのはあまりにもとんちんかんではないか。

[司馬しばりょう太郎たろうが「南北なんぼくあさ時代じだい」をかなかった理由りゆうその1](http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-424.html)、
[司馬しばりょう太郎たろうが「南北なんぼくあさ時代じだい」をかなかった理由りゆうその2](http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-426.html)。
なるほど、これはくわしい。
よくんでから、またいてみる。

司馬しばりょう太郎たろう日本にっぽん外史がいし

司馬しばりょう太郎たろうの「えよけん」をんでいたら、近藤こんどういさむ愛読あいどくしょとして「日本にっぽん外史がいし」がてきた。
その紹介しょうかいはあっさりとしたもので、
楠木くすのき正成まさしげについてもごくありきたりの解釈かいしゃく
もしかすると、司馬しばりょう太郎たろうは、平家ひらか物語ものがたり太平たいへいあたりの日本にっぽんについてはあまり興味きょうみがないのかもしれんなとおもった。
日本にっぽん外史がいしについてもせいぜい江戸えど時代じだい流行はやった講談こうだんもの程度ていど認識にんしきなのではないか。
ほとんどんでないのではないか。
そんながする。

えよけん自体じたいはなかなか面白おもしろい。
とく調布ちょうふから八王子はちおうじあたりの地理ちりをある程度ていどっているひとにはたのしめるだろう。
なんというか、関東かんとうてみないとよくわからない小説しょうせつというものは実際じっさいある。
志賀しが直哉なおやの「城之崎きのさきにて」など冒頭ぼうとう山手やまてせんにはねられて背骨せぼねいためてどうのというはなしがあるが、
そもそも山手やまてせんというものがどんなもので、それが大正たいしょう時代じだいにはどんなふうでという具体ぐたいてきなイメージがつかめないと、
面白おもしろみがだいぶるのではないか。

眼福がんぷく至極しごく