孝明天皇の号は「此花」と言うので、その私家集には「此花集」「此花新集」などという名前がついている。
平安神宮編『孝明天皇御製集』だが、その前半部分は若い頃に詠んだ詠草であり、それほどみるべきものはない。
36才で亡くなっており、しかも、元治とか慶応(1863-67)の最晩年の頃の歌は載ってない。
と、言うことは、あったかもしれないが、残ってない、誰にも知られてないということだろう。
面白いなと思える歌は一時期に集中している。つまり、黒船が来た安政元(1853)年から、長州の都落ち、薩会同盟が成立した頃(1863)だ。およそ、二十代前半から終わりまで。
「市」とか「蚊遣火」とか「遊女」とかそういう通俗的ないろんな題で詠んだものもある。これも一種の題詠で、明治天皇もやっているので、
おそらく当時一般的だった一種の習作のようなものなのだと思うが、それに割と面白いものが多い。
まあさすがに明治天皇は「遊女」の歌は詠まなかった(残されてないor公開されてない)。
明治天皇の場合恋歌もたしか公開されてない。
もともと存在しないはずはないと思うのだが。
ものすごく、見てみたい気はする。
歴史的仮名遣いはかなりでたらめで和歌特有の漢字の当て字も非常に多い。
明治天皇の時代にはきちんとした仮名遣いが確立しており、直してくれる学者も大勢いたから、仮名遣いの間違いは皆無だが、
孝明天皇の場合にはそれも期待できなかっただろう。
そもそも和歌の師たちもきちんとはわかってなかっただろう。
そのへんは差し引いて考えてあげないとかわいそうだ。
字余りも(特に初期の詠草には)多い。
当時ある程度字余りが許容されていたということだろうと思う。
> 茂るをば 憂しとも刈るな 夏の花 秋来る時ぞ 花も咲くものを
「ぞ」があるのに連体形が続かない。「花も咲くものを」は字余り。
上の句がなんとなく俳句的。上の句だけで俳句になってしまう。
夏草を刈るとか刈らないという歌は後醍醐天皇にもあり、明治天皇にもたしかあったと思うが、
面白いが、こういうのはあまりよろしくない。
> 暑き日の 影もとほさぬ 山陰の 岩井の水ぞ わきて涼しき
「かげもとほさぬやまかげ」というのがなんとなくくどい気がする。これも、悪くはないが。
七夕草花
> おのづから 手向け顔にも 咲きいづる 花の八千草 星の逢瀬に
これは、少し面白い。
女郎花
> 靡くとも ひとかたならぬ 女郎花 こころ多かる のべの秋風
晩夏蝉
> 夏の日も しばしになりぬ 鳴く蝉の 声もあはれに 聞こえつるかな
市
> あきびとの 売るや重荷を 三輪の市 何をしるしに 求めけるかも
閑居
> 春来ぬと 柳の糸は 靡けども 来る人もなき 宿の静けさ
蓬
> おのづから 来る人もなく なりにけり 宿はよもぎや おひしげりつつ
柏
> 夏来れば 茂る木立の 中にしも 緑をそふる ならの葉柏
檜
> よろづ木の 枝はさまざま ある中に ひとり檜原の なほき陰かな
述懐
> 位山 高きに登る 身なれども ただ名ばかりぞ 歎き尽きせじ
遊女
> 漕ぎいでて ゆききの人の うかれ妻 身は浮舟の ちぎりなるらむ
往時
> 今はただ 世に有りとしも いつしかは 我が身も人の 昔とや言はむ
祈恋
> わが命 あらむ限りは 祈らめや つゐには神の しるしをも見む
寄風述懐
> 異国も なづめる人も 残りなく 払ひ尽くさむ 神風もがな
「異国(ことくに)もなづめる人も」というのは外国人も日本人で頑なな人も、という意味。
夏月涼
> 蚊も寄らず 扇も取らで 月涼し 夜は長かれよ 短きは惜し
雪中望
> 富士の峯の 姿をここに 写し見む みやこも今は 雪の山の端
夕立
> ゆふだちの 過ぎても高き 川波を うれしがほにも 登る真鯉や
田邊柳
> 堰き入るる 水のかはづも 釣るばかり 門田の柳 糸垂れてける
「たれてける」は口語的。本来は「たれてけり」だろう。
竹雪深
> 国のこと 深く思へと いましめの 雪の積もるか 園の呉竹
梅
> この国の けがれぬからは 春ごとに かく咲く梅の 香りつるかな
淵亀
> 我が思ひ 比べばいづれ 深き淵 住みも浮かべる 亀に聞かばや
緑池紅蓮
> 夏涼し 池の緑の 水の上に くれなゐ深く 蓮咲ける見ゆ
田家槿
> 賤の女の 門田に咲ける 朝がほは けふのつとめを いそぐ心か
霜隠落葉
> 冬枯れて 散りゆく木の葉 見苦しと おほひも隠す 霜の白妙
わりと斬新で個性的な歌もたまにある、まあまあのできではなかろうか。