(Translated by https://www.hiragana.jp/)
10月, 2020 - はかもなきこと

鬼平おにへい犯科はんかちょう

べつに『鬼平おにへい犯科はんかちょう』の悪口わるぐちいたいわけではないが、あれは結局けっきょく江戸えど時代じだい舞台ぶたいいま刑事けいじドラマをつくえただけのものであり、だから一般いっぱんけするのだ。

もとおなじで、そのアレンジ次第しだい時代じだいげきにもなり、『相棒あいぼう』にもなる。ただそれだけのことだ。結局けっきょくじんはいろんなものをているようでごくせまかぎられたものをているにぎない。

べつのいいかたをすれば刑事けいじドラマにしても、いま現実げんじつ刑事けいじやら警察官けいさつかんをきちんと取材しゅざいすれば、全然ぜんぜんちがつくかたをすることができるはずで、全然ぜんぜんちがう『亀有かめあり交番こうばんまえ』ができるはずだ。だがそのためにはいちからネタを仕込しこみ、まったくあたらしいプロットをかんがえねばならない。そんなれるかどうかたるかどうかもわからぬことに労力ろうりょくついやすひとなどいないのだ。

eumenes english edition

ひとわれてそのになって、『エウメネス1』を英訳えいやくしてみたものの、ほとんどだれにもまれないってことがわかっただけだった。英文えいぶんならどんどん読者どくしゃ獲得かくとくできるのではないかと期待きたいしたが、そんなことはなかった。

和文わぶん英文えいぶん分離ぶんりして、和文わぶんたてきにもどすことにした。やはりたてきのほうが全然ぜんぜんみやすい。

今回こんかいしてしまってずいぶんながくなった。みじかければあっさりしすぎているとおもわれ、ながいときられる。簡潔かんけつみやすく、がつけば次々つぎつぎんでしまって、ながさをかんじさせないというか、ながさがにならないようなのが文章ぶんしょうなのだろう。だれべつ長編ちょうへんみたいわけではないのだ。面白おもしろ作品さくひんなら、ければながいほどうれしいだけなのだ。

英文えいぶんもせっかくいたからどこかにタダで公開こうかいしようとおもうのだが、英文えいぶん小説しょうせつ投稿とうこうサイトはもちろんたくさんあってそっちに投稿とうこうすりゃいのかもしれんが、そこにもまた有象無象うぞうむぞう小説しょうせつがあって、結局けっきょく埋没まいぼつしてしまうのにちがいなかった。

日本語にほんご投稿とうこうサイトもいろいろ検討けんとうしてみたものの、どこも英語えいごにおいがしない。小説しょうせつサイトなのに学問がくもんにおいがしない、というのはへんないいかたかもしれんが、ああいう文芸ぶんげいサイトというものには、結局けっきょくわたしれられないがする。

まだハテナブログのほうが、英文えいぶん関心かんしん読者どくしゃいるのではなかろうかとおもわれたので、とりあえずこちらに公開こうかいすることにした。

いち公開こうかいしないのはもったいぶっているせいではなく、マジで最近さいきん時間じかんいからだ。わたし場合ばあい趣味しゅみ本業ほんぎょう分離ぶんりしてしまってひさしい。もう10ねん以上いじょうそうだ。しかし、すこしばかり、本業ほんぎょうにもをいれようとおもうようになった。

本業ほんぎょう趣味しゅみ分離ぶんりしてしまうと趣味しゅみばかり本気ほんきになってしまい、それはそれでつかれる。

やはり学閥がくばつというものはあるのだとおもう。大学だいがく同期どうき先輩せんぱい後輩こうはい師匠ししょうはやはりたよりがいがあるものだ。自分じぶん実力じつりょくだとおもっていても、じつ学閥がくばつというマーケティングないしは広報こうほういているからこそ、社会しゃかい露出ろしゅつし、世間せけんみとめてもらえるのだ。

つまり学者がくしゃになりたければアカデミアのコミュニティにぞくしなくてはならず、小説しょうせつになりたければジャーナリズムのコミュニティにぞくさねばならぬ。そのためには大学だいがくはいるのが一番いちばん方法ほうほうだ。だからあんな一見いっけんなんやくにもたない大学だいがくというものが存在そんざいしているのだ。

自分じぶんぞくする世界せかいきてしまってそのそと世界せかい活路かつろいだそうとしても、うまくはいかない。ぎゃく自分じぶん学閥がくばつなかでぬくぬくと活動かつどうしていて、になっていても、それはほんとうの実力じつりょくではない。ホンモノでなければいずれとおざからずわすられるだけだ。

そくのわらじというが、たん本業ほんぎょう副業ふくぎょうがあるというだけではないのだ。複数ふくすうのコミュニティにぞくするにはどうすればいか。ひとつの大学だいがくて、としって大学だいがくればよいのか?なるほど、それもありかもしれない。しかし今更いまさら他人たにん弟子でしになってあたまげるなどきない。そこまでして他人たにん搾取さくしゅされたくない。

なかじつ馬鹿ばかげている。身内みうちがっているだけではないか。そんなものはんでしまえばなにのこらない。学者がくしゃならばつね日頃ひごろ学者がくしゃ観察かんさつしているはずだ。そこからみちびかれる結論けつろん学者がくしゃ馬鹿ばかだという以外いがいいはずだ。それなのに、学者がくしゃのくせに学者がくしゃ擁護ようごする。そういう学者がくしゃばかりだ。

海苔のりべん

こないだ海苔のりべん危機ききというものをいたが、あれは間違まちがいだった。

海苔のりべんにはやはり需要じゅようがある。

ひる一番いちばん最初さいしょれてしまうのだ。だからちょうど、あさ11くらいにいかないとはいらない。

海苔のりべん人気にんきがある理由りゆうようするにやすいからだ。さけべんとかまくうちよりも、100えんくらいやす設定せっていにしなくてはれない。単価たんかやすいからほんとはりたくない。しかしよくれるからその価格かかく設定せっていくずせない。だから、めちゃくちゃ流行はやりはしないがしぶとくのこる。

スーパーやほかべんではそうだが、コンビニはまたちがう。コンビニもまた、しなそろえは豊富ほうふにしたいのだが、余力よりょくいところは、やすくてボリュームがあるにわとり唐揚からあげがメインになってしまうのだろう。

ほかべんたされるからいやだ。たされるくらいならとおくのスーパーにあるいてったほうがましだ。あちこちスーパーをめぐって海苔のりべん研究けんきゅうでもしてみるか。

センター・オブ・ジ・アース 2

『センター・オブ・ジ・アース 2』という映画えいががあってこれは『センター・オブ・ジ・アース 』の続編ぞくへんなのだが、全然ぜんぜん地底ちてい探検たんけんになってないのにこの日本語にほんごタイトルにしたひとはどういうセンスなんだろうねしかし。 『サスペリア』と『サスペリア2』の前例ぜんれいもあるしもうどうでもいいんだろうねマーケティングてきには。

『センター・オブ・ジ・アース 』は原題げんだいが『Journey to the Center of the Earth』で、原作げんさくはジュール・ヴェルヌの『地底ちてい旅行りょこう(Voyage au centre de la terre)』だから、これはいいんですよ。『センター・オブ・ジ・アース 2』の原題げんだいは『Journey 2』。まあこれじゃ邦題ほうだいかんがえるの大変たいへんだったかもしれんね。

で、雰囲気ふんいき完全かんぜんに『ジュマンジ』(あたらしいほうの)なんだけどさ。まあいいんですよ。さらっと最後さいごまでれたので、きらいじゃないです。 ヒロインはほとんどララ・クロフトだった。 プロットはほとんど『天空てんくうしろラピュタ』だった。というかオマージュのつもりなのか? なににもかんがえずにめしいながらるには作品さくひんで、『ターミネーター』みたいに途中とちゅういたくなるような展開てんかいもなくて、淡々たんたんたのしくさせてもらえる作品さくひんだとおもった。 日本にっぽんでいうところの劇場げきじょうばんドラえもんみたいなものか。

ツイッターているといつも「なにってんだこいつ」ってリプライかリツイートしたくなって、精神せいしん衛生えいせいわるいので、ないで、あるいはそこはいったんためといて、ブログなぞにグダグダくのがかろうとおもう。 学者がくしゃ馬鹿ばかだというのは自明じめいであって、 社会しゃかい適合てきごうして器用きようきることをあきらめて、そのわり、学術がくじゅつてきなに生産せいさんてきなことをやって、 なか片隅かたすみまわせてもらおう、そういうやつだけが、学者がくしゃとして仕事しごとをする。 社会しゃかいればたちまち無用むよう長物ちょうぶつになってしまう。いや、社会しゃかいやくとうとすればたなくもないかもしれないが、そういう宮仕みやづかえはぬほどいやだ、 だから学術がくじゅつかいもっているのだ。

いやしかし馬鹿ばか社会しゃかい不適合ふてきごうでしかも学才がくさいもなく貪欲どんよくでしかもなか害悪がいあくしだなが連中れんちゅうがたくさん淘汰とうたされずにいるのも事実じじつであるが、それは淘汰とうた仕組しくみがうまくはたらいていないのがわるい。で、淘汰とうたがうまくはたらくようにしようとすればするほどその仕組しくみは改悪かいあくされていくので、をつけないほうがまだましだ、というただそれだの理由りゆうでなかば放置ほうちされている。だから、ああいう盲腸もうちょうみたいなものがてくるのはある意味いみ仕方しかたない。 膨大ぼうだい無駄遣むだづかいをしてるのもある程度ていどまではその性格せいかくじょうしかたないとおもう。 自然しぜん淘汰とうた無駄むだはぶくこともあるけれど、必要ひつようがなければそのまんま放置ほうちすることもおおい。それだけのことだ。

盲腸もうちょうべつ炎症えんしょうこさないのであればたいした実害じつがいはない。わざわざ開腹かいふく手術しゅじゅつをして摘出てきしゅつするほうがからだがいになる。 だから、ほっとけばよいのだが、これが腐敗ふはいして、化膿かのうして、からだちゅう毒素どくそをまきらす状態じょうたいになったら、そりゃ手術しゅじゅつしたほうがよい、ということになる。

海苔のりべん危機きき

コンビニ弁当べんとうかくはもうすこまるくしてもらえないものだろうか。 電子でんしレンジのなかまわりにくくてこまる。

近頃ちかごろはコンビニのせいで弁当べんとうってきているとおもう。 セブンイレブンもwebサイトをるといまだに海苔のりべんをメインにもってきてはいるが店頭てんとうではあまりかけない。 人気にんきなので最初さいしょれてしまうのだろうか。 ほかのぼう系列けいれつだととにかくもうやたらとにわとり唐揚からあげばかりならんでいて、選択せんたく余地よちがない。 セブンイレブンはまだ選択せんたく余地よちがあるぶんいといえばいが、カルビどんぶりとかそういうおもいやつが目立めだつ。 スーパーの惣菜そうざいコーナーでも海苔のりべんはあまりみかけなくなりやはりにわとりとう優勢ゆうせいだ。

むかし弁当べんとう弁当べんとうえば、たかほうまくうちやすいほうが海苔のりべんだった。まずこのふたつはつねにガチであったとおもう。 にわとり唐揚からあげはおそらく原価げんかがものすごくやすいのだろう。 海苔のりべんはもとはやすかったが最近さいきん割高わりだかになりつつあるのではなかろうか。

このままでは海苔のりべん絶滅ぜつめつ危惧きぐしゅ指定していされるのではないかと心配しんぱいだ。

小説しょうせつ英訳えいやく

さてなにかブログにこうかとおもっても最近さいきんはいろいろることがおおくて、ツイッターになにんだり、調しらぶつをしたりしているうちに、 執筆しっぴつ意欲いよくというものがどんどん消費しょうひされていって、ほかにもいろいろやらなきゃならないことがおもされてきて、結局けっきょくかないってことがおおい。 以前いぜんはそうではなかった。2010ねんくらいまでは、twitter や facebook はまだ閑散かんさんとしていたし、電子でんし出版しゅっぱんというものがそもそもまだ普及ふきゅうしておらず、 kdp などかげかたちもなかったから、なにきたい衝動しょうどうこってきたらブログにくしかなかった。

『1984』に主人公しゅじんこうの Winston Smith が「さてなに日記にっきこうか」とおもったときの心境しんきょう描写びょうしゃされているのだが、これがいまさらながらすこ面白おもしろい。 最近さいきん英語えいご原作げんさくをぼちぼちはじめているのだが、 やはり、日本語にほんごやくむときと原文げんぶんむときではかなり雰囲気ふんいきちがう。 この雰囲気ふんいきというものをやくすのはやはりむずかしい。 なんで英語えいご小説しょうせつ原文げんぶんはじめたかといえば、自分じぶんいた小説しょうせつ一部いちぶ英訳えいやくしてみようとおもったからだ。 おもうに英語えいごまねばならぬという義務ぎむかんのようなものではじめてもあたまはいっていかず、結局けっきょく途中とちゅうむのをやめてしまうのだが、 自分じぶん小説しょうせつ英訳えいやくしたいという動機どうきがあり、その自分じぶん英文えいぶんにはなはだ自身じしんがなく、他人たにん小説しょうせつのいいまわしを参考さんこうにしようという下心したごころがあると、不思議ふしぎめてしまうものだ、ということが今回こんかいわかった。

> He sat back. A sense of complete helplessness had descended upon him.

まあたったこれだけでも、英文えいぶん和文わぶんではける印象いんしょうちがうのがわかるというものだ。 A sense of complete helplessness。意味いみはわかる。しかしこれをどう日本語にほんごやくすのか。自然しぜん意訳いやくならば「完全かんぜん絶望ぜつぼうかん」とでもなろうか。He sat back。これも案外あんがいむずかしい。意味いみ明解めいかいだ。しかし、back をわざわざやくすとながったらしくなる。sat すらやくせない。すわっているのは自明じめいなのだからやくすまでもない。もとの 3ワードの簡潔かんけつぶんをどううまくやくすのか?たぶんこれはやくせない。「かれ真新まあたらしい日記にっきつめながら途方とほうにくれた。」くらいにしかやくせないとおもう。

> For whom, it suddenly occurred to him to wonder, was he writing this diary?

このいいまわしもなかなかしゃれていてかっこいい。まず For whom、とて、その挿入そうにゅうぶし、というか転置てんちされたぶん挿入そうにゅうされる。しかしこれも和訳わやくすればたんに「だれのためにこの日記にっきこうとしているのか、という疑問ぎもん突如とつじょかれいてきた。」くらいにしかできまい。

> For some time he sat gazing stupidly at the paper.

こういうかたね。これが George Orwell という作家さっかあじなんだが、これを日本語にほんご表現ひょうげんするのはむずかしい。「しばらくかれはぼんやりとかみうえつめていた。」とでもやくしようがないのだが、それではもとあじわいというものがまるででてこない。 たぶんわたしならこの sat はかない。he gazed stupidly at the paper. とくだろう。日本語にほんごにもとくやくしようがない。stupidly もここで「馬鹿ばかのように」とやくすと直訳ちょくやくしゅうがするから「ぼんやりと」とでもやくすしかない。でもそうするとあきらかに原文げんぶんあじうしなわれる。でまあそういう英文えいぶんの「あじ」をうまく和文わぶん変換へんかんできれば、おそらくだが、村上むらかみ春樹はるきみたいなシャレオツな文章ぶんしょうになるのだろう。この、シャレオツと直訳ちょくやくしゅうちがいは純粋じゅんすい感覚かんかくてきなものだから、だれもがけるわけではあるまい。村上むらかみ春樹はるきのパロディみたいな文章ぶんしょうは、わりだれにもけるのかもしれんが。

たん英語えいご勉強べんきょうのために英文えいぶんむのではなく、ついわたし場合ばあい著作ちょさくけんれた作品さくひん英訳えいやくしてみようという色気いろけてきてしまうのだが、べつ著作ちょさくけんれてなくても、ハリーポッターなんかはんでみたりしている。 George Orwell の著作ちょさくけんれてるかどうかはぎりぎりのところでなんともいえないが、どうもわたしにはうまくやくせるようにはおもえない。しかし、うまいかへたかはともかくやくせばすくなくとも自分じぶん勉強べんきょうにはなるし、れれば多少たしょう収入しゅうにゅうにはなるわけだ。

メガス・バスィレウス

『エウメネス』の一番いちばん初期しょき草稿そうこうんでみたのだが、まず、タイトルが『エウメネス』ではなく『メガス・バスィレウス(大王だいおう)』になっていて、一人称いちにんしょうではなく三人称さんにんしょうになっていて、エウメネスではなくて、アテナイ出身しゅっしん貴族きぞくニコクラテスというひと主人公しゅじんこうになっている。いやそもそもこのニコクラテスなる人物じんぶつ主人公しゅじんこうというほどでもなく、おうつぎくらいに主要しゅよう登場とうじょう人物じんぶつというにすぎない。 アマストリーもまだてこない。 つたない、5000らずの草稿そうこうのようなものだが、『エウメネス』のエッセンスはとりあえず最初さいしょからここにそろってる。沙漠さばくはなししかしてない。アッリアノスの『東征とうせい』をんで一番いちばん面白おもしろかった箇所かしょして小説しょうせつふう脚色きゃくしょくしただけ。これを多少たしょうふくらまして中編ちゅうへん小説しょうせつとしてどこかの新人しんじんしょう応募おうぼしたが、なん反応はんのうもなかった。

追記ついき: いまぜん6かん文字数もじすうは、1かん平均へいきん10まんとして、50まんかるえてるだろう。よくまあいたものだ。もはや自分じぶんでももうとおもってもめないくらいながい。

以下いかにその最初さいしょ草稿そうこう全文ぜんぶん公開こうかいする。

メガス・バスィレウス

田中たなか久三きゅうぞう

アフガンの山岳さんがく地帯ちたいけ、ペルセポリスへかう途中とちゅうに、ペルシャ高原こうげんでも一番いちばん過酷かこく砂漠さばくよこたわっている。そのひがし半分はんぶんしお平原へいげん太古たいこむかしカスピ海かすぴかいアラル海あらるかいのような、ざされた塩辛しおからうみひろがっていたのだろう。さらに西にしすすめば、すな砂漠さばくしおすなほかには、不毛ふもう岩山いわやまがそびえているだけ。あとはなにもない。

「ところどころにオアシスくらいあるだろう。砂漠さばくというところは、ようするに、いしのように点在てんざいするオアシスをたどってゆけばせるはずだ。」

おう砂漠さばく案内あんないじんらにたずねた。

「この砂漠さばくには、十日とおかものあいだひとつのみずじょうもない箇所かしょがあります。えることはできません。」

「なんだ、たったのじゅう日間にちかんか。キュロスおうであればこの砂漠さばくえただろう。」

案内あんないじん一人ひとり遠慮えんりょがちにこたえた。

がペルシャ帝国ていこく建国けんこくキュロスおうとておなじです。」

「ではダレイオス大王だいおうならばえたであろうか。」

「いいえ。この砂漠さばくだれ一人ひとりとしてきてはかえしません。この砂漠さばくえられぬことを、がダレイオス大王だいおうみずからが立証りっしょうしたのです。」

「ほう。おまえたち、どうおもう。」

幕下まくした参集さんしゅうした指揮しきかんたちは、一様いちようにうつろなをしていた。たれつよい、というよりは、あまりにたれすぎてとぼけてしまったようだ。 ニコクラテスというおとこがたまらずくちはさんだ。かれはマケドニアじんではない。アテナイじんである。かれはたびたびおうに諫言をなした。おうもそれをゆるした。

「おお、われらがおうよ、バスィレウスよ!沙漠さばくぎょうたしかにわれみずからがのぞんだことでありました。いちにちはや故郷こきょう西にしするために。しかしいま一度いちどかんがなおしください。」

かつておうせいなるかわガンガーの岸辺きしべでマケドニアの将兵しょうへいらをあつめてった、

「ヘタイロイたちよ。われ全員ぜんいんれるほどのふね調達ちょうたつし、このかわくだってそのままひがしうみでて、アジアのうみ一巡ひとめぐりして、カスピ海かすぴかいもどってこよう。船旅ふなたびもまた面白おもしろそうではないか」、と。

いつも従順じゅうじゅんなマケドニアへいたちも、このときばかりは抵抗ていこうした、くびなわけられ、岐路きろきらいなほうへとみちびかれる散歩さんぽ途中とちゅういぬのように、をくねらせあしって。

おうかんがえた。ニネヴェのアッシュールバニパル図書館としょかん世界せかい地図ちずによれば、ガンジスがわ河口かこうからシナのうみカスピ海かすぴかいはつながっていた。シナもアフリカの奥地おくちもカザフ平原へいげんもきわめて矮小わいしょうえがかれていた。われらはくそれらぜん世界せかい経巡へめぐることができる、と。しかし、兵卒へいそつらの本能ほんのう察知さっちしていた、「世界せかいがそんなにちいさいわけはない。うみ大陸たいりくはどこまでつづいているかもしれない。きてマケドニアまでもどれる保証ほしょうはない。」

おうった。 「よろしい。ではアジアのうみ航海こうかいするのと、ペルシャの沙漠さばくをよぎって帰還きかんするのでは、どちらがよいか。おまえたちきなほうえらべ」と。

われらはみなひがしうみよりは西にし沙漠さばくほうがましです、後生ごしょうですから、沙漠さばくかせてください。」

おうはニコクラテスになおり、栗色くりいろちぢしたひかる、そのくろひとみをみつめてった。

わたしはペルシャのキュロス大王だいおうよりも偉大いだいだろうか。」

ニコクラテスはこたえた、

「もちろんでございます。おうより偉大いだいおうはこの世界せかいにはおりません。」

「ではわれらマケドニアじんがはじめてこの砂漠さばくえてみせようではないか。キュロスおうやダレイオス大王だいおうよりも、われらが偉大いだいつよいことを後世こうせいつたえるために。」

ニコクラテスはめまいがした。おうはまったくひるまない。むしろ闘志とうしやしていた。

「ペルセポリスはまさしくこちらの方角ほうがくか。」

おうよ。そのとおりです。しかし交易こうえきはずっときた迂回うかいしております。まっすぐに砂漠さばくけることはできません。」

ニコクラテスのちちはアテナイの貴族きぞく書記官しょきかんだった。おうちちフィリッポスはアテナイやテーバイからなるギリシャ連合れんごうぐんをカイロネイアのたたかいでうちやぶり、マケドニアがぜんギリシャの盟主めいしゅとなった。アテナイはマケドニアの要請ようせいおうじて、ニコクラテスをおう旅団りょだん派遣はけんした。以来いらいかれは、いつてるともしれぬそのだい遠征えんせいしたがい、おう記録きろくがかりつかさどっていた。立場たちばじょうおう相談役そうだんやくとなることもあった。しかし、かれ意見いけんれられることはなかった。おう何事なにごとみずか即決そっけつするの だった。このおうほど参謀さんぼう必要ひつようとしないおうはあるまい。

おうはもちろんくるっている、とかれおもう。

よんはなしていてもらちがあかぬ。そろそろぎょうこうではないか。」

おう常々つねづね、インドじんぞうほども巨大きょだいな、スィリアさん白馬はくばプケパラスに乗馬じょうばしていた。しかしいま、みずからくらはずして荷駄にだせ、自分じぶん徒歩とほで、プケパラス の手綱たづないてしおうみへとあゆみだした。ぜんぐん魔法まほうにかかったように、すっくとがり、おうのちについてあるす。ニコクラテスはもはやおどろかない。ただ、 おうだけではない、マケドニアじんはみなくるっている、そうおもった。

分厚ぶあつ岩塩がんえんしたには、ときおりコールタールのようにくろくさったみずがたまっていた。うまやらくだがしおいておぼれてはたいへんだ。案内あんないやく注意深ちゅういぶかく、ぜんぐん安全あんぜんなルートにみちびく。

つぎのオアシスまで、あと5にち行程こうていです。」

とともにすすみ、りとともに野営やえいする。それを3かいかえしたら、れたしおみずうみがついにきて、標高ひょうこうが1スタディオンもあるかという、砂丘さきゅうあらわれ た。あし熱砂ねっさひざまでうずもれた。ひと砂丘さきゅうのぼるとそのいただきからつぎ砂丘さきゅうえる。その砂丘さきゅうのぼってもただまたつぎ砂丘さきゅうえるだけだ。

今日きょう野営やえいはここだ。」

みな砂丘さきゅう斜面しゃめんをベッドにた。おうもまた兵士へいしらとどうようにじかすなうえた。

おうはバクトリアでてきはたオクシュアルテスのむすめロクサナをめとった。おうりょうわきにロクサナとオクシュアルテスがする。

「ロクサナ。なんとやわらかな砂地すなじだろう。ペルシャ王宮おうきゅう絨毯じゅうたんや、フラミンゴの羽布団はねぶとんよりも、この砂漠さばく寝床ねどこほうがここちよいではないか。」

ロクサナはねこがそうするように、無言むごんでじろりとあるじると、あきれかえってをそらした。

叔父おじじょうよ。なんと見事みごと夜空よぞらではないか。まるでほしはなさきひかっているようではないか。でつかめそうだ。地平線ちへいせんまでくもひとつなく、空気くうきがどこまでもとおっている。」

おうみずもなくとりさえない沙漠さばくのただなかにいて、おそれるどころか、むしろたのしんでいる。オクシュアルテスは戦慄せんりつした。おう艱難辛苦かんなんしんくがおきなのだ。艱難辛苦かんなんしんくによってられる名声めいせいとみではなく、艱難辛苦かんなんしんくそのものがおきなのだ。炎暑えんしょ沙漠さばくかれ、酷寒こっかん雪原せつげんこごえ、断崖絶壁だんがいぜっぺきをよじり大河たいが渡河とかする、そういうこと自体じたいがおきなのだ。

翌朝よくあさまた出立しゅったつし、いくつかの砂丘さきゅうえると、眼下がんか青々あおあおとした、ちいさなみずうみえた。

「オアシスだ。」

兵卒へいそつらは砂丘さきゅうをわれさきすべり、ふくだつぐのももどかしげに、みずうみなかんだ。からのちから兵士へいしらがみ、おおくの家畜かちくらもったものだから、水面すいめんかびがることができず、すくなからぬへいがおぼれしんだ。また、あまりにもいち大量たいりょうみずんだために、急死きゅうしするものまでた。

「なんというざまだ。」

おう死者ししゃすなめてほうむった。おう案内あんないやくった。

「これからはオアシスにくより20スタディア手前てまえ宿営しゅくえいすることにする。これ以上いじょう部下ぶかなすわけにはいかぬ。」

いちぎょう次第しだいふか砂漠さばくしずんでいった。にちの感覚かんかくせていき、永遠えいえん砂漠さばくなか彷徨ほうこうするのではないか、という錯覚さっかくおちいる。

おそれながらおうよ。ひとつだけおかせねがえませんでしょうか。わたし常々つねづねいております疑問ぎもんについて。」

「なんだ、オクシュアルテス。もうせ。」

おう何故なぜに、困難こんなんなことと簡単かんたんなことのふたつをえらぶときに、かなら困難こんなんほうえらぼうとなさるのでしょうか。おう安住あんじゅうせず、危険きけん世界せかい経巡へめぐろうとなさる。ひとときもしんやすまるときはありますまい。」

「ははは。わたしはそなたたちともののかんがかたちがっているからこのように世界せかいおうになれたのである。きわめて自然しぜんなことだ。そなたたちに困難こんなんおもえることがわたしにはむしろ簡単かんたんであり、簡単かんたんおもえることがぎゃく困難こんなんなのだ。たのしいとおもえることがわたしにはえがたい苦痛くつうであるし、苦痛くつうはむしろかいらくなのだ。

叔父おじとうとよ。これは、そなただけにけることであるから、他言たごん無用むようであるが、わたしがマケドニアかバビロンの宮廷きゅうていもどれば、臣下しんからは、みなよろこ安堵あんどするであろう。しかし、このわたしにとって宮廷きゅうていほど危険きけんなところはない。

いまわれらは世界せかい征伐せいばつ途上とじょうにあって、旅団りょだんきるかぬかという緊張きんちょう状態じょうたいにある。わたししん意味いみ必要ひつようとされている場所ばしょ戦場せんじょうなのだ。わたしが、このアレクサンドロスが宮廷きゅうていにいれば、ぎゃくだれわたし必要ひつようとしなくなってしまう。ちちフィリッポスもまたおなじであった。ちち戦場せんじょうんだのではない。宮廷きゅうてい祝宴しゅくえんのさなかにんだのだ。だから、わたしもまた祝宴しゅくえんも、宮廷きゅうていきではない。戦場せんじょうこそがわたし安住あんじゅうなのだ。へいら、ヘタイロイらもまた、危難きなんなかにあればあるほどわたし従順じゅうじゅんである。宿営しゅくえいあつめておればぜんぐん即座そくざ掌握しょうあくできる。もし故郷こきょうかえってめいめいのいえなかはいってしまえば、わたしとどかず、なにたくらんでいるかもしれないではないか。」

おうはそこまではなすとオクシュアルテスの返事へんじたずにがり、しりうですなはらうと、ロクサナのり、すななかからこしたせた。おうむすめをバビロンにれていき、そこで正式せいしき挙式きょしきして、おうてるという。おうがそううのであるからそうするのであろう。そしてまたどこかの戦場せんじょう旅立たびだつだろう。それまでわたしおうぐんにいるしかないのである。

おう沙漠さばくみん案内あんないじんとして、みずじょうからみずじょうへと行軍こうぐんした。とともに行軍こうぐん開始かいしし、りとともに野営やえいした。翌日よくじつも、また翌日よくじつも、おなじように進軍しんぐんした。

あるいは駱駝らくだうまほふってそのをすすり、あるいは奴隷どれいのはらわたをいてのどをうるおさねばならぬ。すくなくともロバやひつじ沙漠さばくまえにみなわれてしまうだろう。

いわかげには夜露よつゆがたまっていることがある。夜中よなかのうちにいわたってえた空気くうき結露けつろして、わずかなしずく窪地くぼちあつまって、ひとののどをうるおすほどのりょうになることがある。兵卒へいそつらはあらそってそれらのみずをすすりがんをなめた。

ある兵士へいし洞穴どうけつ見付みつけ、かぶといちはいぶんみずをくんできて、それをおう献上けんじょうしようとした。

「これだけか。」

「はい。」

わたしもまた、マケドニアのヘタイロイの一人ひとりにすぎぬ。みなかわきにくるしんでいるときに、わたしだけがこれをむわけにはいかぬ。おまえが見付みつけたのだから、おまえがめばい。」

「それはご勘弁かんべんください。」

ぐん全員ぜんいんぶんがないのにわたしだけんでも意味いみい。てるとしよう。」

そうって、ぜんぐん注視ちゅうしなかかぶといちはいみず砂地すなじいた。みずはたちまちすなまれ、太陽たいようがたちまちかわかしてしまった。兵士へいしらは無言むごんでそのしんじられない光景こうけいていた。まるで、すないちはいみずんだように、ぜんぐんひとしくいちはいみずんだかのような感覚かんかく共有きょうゆうしつつ。

かぶとぬしは、おうからそらかぶとり、もとのようにそれをかぶった。

オクシュアルテスはった、「ニコクラテス。おまえは、おうがあのみずまなかったことが、きわめて立派りっぱなことのようにおもっていよう。しかしそれはちがうのだ。おう用心ようじんしていたのだ。おう素性すじょうれないみずまぬ。たてまつられたものべぬ。兵士へいしらがらっているものけてい、兵士へいしらがんでいるみずけてむ。おう自分じぶんのヘタイロイの一人ひとりぎぬというつもりでそうしているのではない。どくられるのをこわれているのだ。

また、かりに、兵士へいし悪意あくいなくして、みず献上けんじょうしたとしてもだ。砂漠さばく案内あんないじんんでいとったみずしかまぬのだ。岩山いわやま洞窟どうくつにたまっていたみずなど、得体えたいれないものをんではらこわしてはならぬ。遠征えんせい途中とちゅう病気びょうきになってもいかぬ。だからまなかっただけなのだ。」

小説しょうせつ

> アマストリーにギリシャおしえるよう、おうわたしにおめいじになった。

2013ねん3がつ17にちにKDPで『エウメネス』をしたときのしはこうなっていた。 ずっと最近さいきんまでこのだしのままだった。これをわたし

> My Lord charged me to teach her the Hellenic language.

やくしてみた。「めいじる」だが、command, order, charge, assign, appoint など、いろいろ候補こうほがある。 ここではおうからわたし一方いっぽうてき仕事しごとした、という意味合いみあいで charge にしてみた。 discharge だと任務にんむく、兵役へいえきわらせる、というような意味いみがある。

Greek という言葉ことば使つかいたくなかったので、Hellenic とした。 Hellenistic だとさらに意味いみちがってくる。 Greek はラテン語らてんご由来ゆらいであり、ローマからたギリシャを意味いみする。 ギリシャじん自身じしん自分じぶんたちを Hellene とび、自分じぶんたちのくにを Hellas とんでいた。 ローマが勃興ぼっこうする以前いぜんはなしなのでラテン語らてんご由来ゆらい単語たんごをできるだけ使つかいたくなかった。 日本語にほんごだとラテン語らてんご使つかわず、たとえば漢語かんご代用だいようするってことはわり容易よういだが、英語えいごだとそうはいかない。 漢語かんごはギリシャとローマの関係かんけい中立ちゅうりつだからいが、ギリシャのことをローマの用語ようごくとローマ史観しかん西洋せいよう史観しかんがそこに混入こんにゅうしてくるのでいやなのだ。ギリシャ史観しかんはいってくるのはある程度ていど仕方しかたないとして、わたしとしてはこれを西にしアジア史観しかんきたいのである。

ぎゃく日本語にほんごだと、「ギリシャ」を「ギリシャ」以外いがい単語たんご代用だいようするのはほぼ不可能ふかのうだ。この問題もんだいについてはもうすこ時間じかんをかけて検討けんとうしたい。

おう」をどうやくすかもすこなやんだ。King にしようかとおもったが、あまりに唐突とうとつなのでここではやめておいた。あきらかに The King ではない。My King か Our King でいかもしれないが、無難ぶなんに My Lord にしておいた。以下いか作中さくちゅうでは King と Lord どちらも使つかっている。

英訳えいやくだと Amastri という固有名詞こゆうめいしすらてこない。 で、このしは、自分じぶんとしてはわりってるのだが、これだと、宮廷きゅうていのどこかでお姫様ひめさま執事しつじなにかに勉強べんきょうならはなしのようにおもえるが、さきまでんでみたらちがった、みたいなことをわれた。王様おうさまとお姫様ひめさまてくるとなにかディズニーランドかトランプのさつかチェスのこまのようなものをおもかべるのは日本人にっぽんじんわるくせ西洋せいようわる影響えいきょうなので、わざとそのように勘違かんちがいさせておくのがいとおもい、そもそもわたしがこのしにしたのは読者どくしゃにそういう勘違かんちがいをさせのちに意外いがい方向ほうこうはなし展開てんかいさせる、という意図いともあったのだが、わたしとしてはすこおもあらためて、だしをつぎのようにえることにした。

> カイバルとうげぎ、ヒンドュークシュの山嶺さんれいから下界げかいりると、ようやくはるわれらを出迎でむかえてくれた。ゆきのこ岩山いわやま新緑しんりょくえる草原そうげんつらなり、トネリコのえだにはそよかぜわたり、クロウタドリが口笛くちぶえいている。おう進軍しんぐんちゅうめ、ここを今日きょう宿営しゅくえいえらんだ。
> 兵士へいしらがたきぎあつをおこし、まくしゃてている合間あいまに、わたし天幕てんまくって日除ひよけにし、テーブルと椅子いすして文房具ぶんぼうぐならべる。勉強べんきょうおしえるにはあまりてきしていないところだ。さっきからずっと彼女かのじょは、岩場いわば隙間すきまいている黄色きいろいスミレソウや、あおそらしろちょうをとられている。

> At last the spring welcomes us who now descend the Kaukasos mountains crossing the Khyber Pass. Snowy rugged scenery turns into green grass fields, warm wind blows and black birds are whistling in ash trees. Our Lord stops marching here to fix today’s camp.
> While soldiers are collecting woods, pitching tents and making fires, I spread a sheet between trees to avoid sun exposure, place a table and chairs under the shadow, prepare for writing. This is not a good place to study something, for the yellow primroses blooming in rocky meadows and white butterflies flying over the blue sky constantly attempt to attract her attention.

いち箇所かしょ定住ていじゅうしていれば住民じゅうみんはるるのをむかえるのだが、ぎゃくにここでは、遠征えんせいぐんやまからりたので下界げかいはる出迎でむかえてくれた、というわけで、そこはすこしひねった。だしをひねろというリクエストがあったので。 トネリコやクロウタドリや黄色きいろいサクラソウやしろちょうというのは『フローニ』の使つかまわしだ。 英文えいぶんちゅうではヒンドュークシュを Kaukasos といているのだが、これはアッリアノスなどがそういているからだ。当時とうじこのやまがアヴェスターもしくはサンスクリットでなんとばれていたのか、よくわからない。

カイバルとうげやガンダーラをってるひとにとってこの序章じょしょうはあるしゅ旅情りょじょう喚起かんきさせるのだろうが、らないひとにとってはいきなり未知みち地名ちめいがわらわらてきてせるのだろう。わたしがトールキンのファンタジーをむときのように。これはもうしょうがない、想定そうていする読者どくしゃではなかったとあきらめるしかないとおもう。