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幣原内閣(しではらないかく)は、男爵の幣原喜重郎が第44代内閣総理大臣に任命され、1945年(昭和20年)10月9日から1946年(昭和21年)5月22日まで続いた日本の内閣。
内閣の顔ぶれ・人事
内閣発足時
国務大臣
1945年(昭和20年)10月9日任命[1]。在職日数97日。
内閣書記官長・法制局長官他
1945年(昭和20年)10月9日任命[1]。
政務次官
1945年(昭和20年)10月31日任命[3]。
職名
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氏名
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出身等
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備考
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外務政務次官
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犬養健 |
衆議院/(無所属→)日本進歩党
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内務政務次官
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川崎末五郎 |
衆議院/(無所属→)日本進歩党
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大蔵政務次官
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由谷義治 |
衆議院/(無所属→)日本進歩党
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陸軍政務次官
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宮崎一 |
衆議院/(無所属→)日本進歩党
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1945年11月30日免
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(陸軍省廃止)
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1945年12月1日付
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第一復員政務次官
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(第一復員省未設置)
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1945年12月1日設置
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宮崎一 |
衆議院/日本進歩党
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1945年12月1日任
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海軍政務次官
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田中亮一 |
衆議院/(無所属→)日本自由党
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1945年11月30日免
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(海軍省廃止)
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1945年12月1日付
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第二復員政務次官
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(第一復員省未設置)
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1945年12月1日設置
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田中亮一 |
衆議院/日本自由党
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1945年12月1日任 1945年12月26日死亡欠缺
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(欠員)
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1945年12月26日から
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司法政務次官
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手代木隆吉 |
衆議院/(無所属→)日本進歩党
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文部政務次官
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(欠員)
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1945年11月6日まで
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三島通陽 |
貴族院/無所属(研究会)
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1945年11月6日任[4]
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農林政務次官
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紅露昭 |
衆議院/(無所属→)日本進歩党
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商工政務次官
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木暮武太夫 |
衆議院/(無所属→)日本進歩党
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運輸政務次官
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新井堯爾 |
衆議院/(無所属→)日本自由党
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厚生政務次官
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矢野庄太郎 |
衆議院/(無所属→)日本自由党
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参与官
1945年(昭和20年)10月31日任命[3]。
職名
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氏名
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出身等
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備考
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外務参与官
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松浦周太郎 |
衆議院/(無所属→)日本進歩党
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内務参与官
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中助松 |
衆議院/(無所属→)日本自由党
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大蔵参与官
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山本粂吉 |
衆議院/(無所属→)日本進歩党
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陸軍参与官
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野口喜一 |
衆議院/(無所属→)日本自由党
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1945年11月30日免
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(陸軍省廃止)
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1945年12月1日付
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第一復員参与官
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(第一復員省未設置)
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1945年12月1日設置
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野口喜一 |
衆議院/日本自由党
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1945年12月1日任
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海軍参与官
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星野靖之助 |
衆議院/(無所属→)無所属倶楽部
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1945年11月30日免
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(海軍省廃止)
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1946年12月1日付
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第二復員参与官
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(第二復員省未設置)
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1945年12月1日設置
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星野靖之助 |
衆議院/無所属倶楽部
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1945年12月1日任
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司法参与官
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渡邉昭 |
貴族院/無所属(研究会)
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文部参与官
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森田重次郎 |
衆議院/(無所属→)日本進歩党
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農林参与官
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北条雋八 |
貴族院/無所属(研究会)
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商工参与官
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(欠員)
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1945年11月6日まで
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山根健男 |
貴族院/無所属(公正会)
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1945年11月6日任
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運輸参与官
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白川久雄 |
衆議院/(無所属→)日本進歩党
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厚生参与官
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田中和一郎 |
衆議院/(無所属→)日本自由党
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内閣改造後
国務大臣
1946年(昭和21年)1月13日任命[5]。在職日数130日(通算226日)。
内閣書記官長・法制局長官他
1946年(昭和21年)1月13日任命[5]。
政務次官
1946年(昭和21年)1月26日留任。
職名
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氏名
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出身等
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備考
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外務政務次官
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犬養健 |
衆議院/日本進歩党
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留任
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内務政務次官
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川崎末五郎 |
衆議院/日本進歩党
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留任
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大蔵政務次官
|
由谷義治 |
衆議院/日本進歩党
|
留任
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第一復員政務次官
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(欠員)
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第二復員政務次官
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(欠員)
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司法政務次官
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(欠員)
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文部政務次官
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三島通陽 |
貴族院/無所属(研究会)
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留任
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農林政務次官
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(欠員)
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商工政務次官
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(欠員)
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|
運輸政務次官
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(欠員)
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厚生政務次官
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(欠員)
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参与官
1946年(昭和21年)1月26日留任。
職名
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氏名
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出身等
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備考
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外務参与官
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(欠員)
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内務参与官
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(欠員)
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大蔵参与官
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(欠員)
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第一復員参与官
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野口喜一 |
衆議院/日本自由党
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留任
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第二復員参与官
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星野靖之助 |
衆議院/無所属倶楽部
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留任
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司法参与官
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(欠員)
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文部参与官
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(欠員)
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農林参与官
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(欠員)
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商工参与官
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(欠員)
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運輸参与官
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(欠員)
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厚生参与官
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(欠員)
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勢力早見表
※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。
内閣の動き
1945年(昭和20年)10月5日の東久邇宮内閣(東久邇宮稔彦王首相)の総辞職を受け、昭和天皇の依頼を受けた内大臣木戸幸一が中心となり、元首相の平沼騏一郎枢密院議長、吉田茂外相らの協力により幣原喜重郎が次期首相に選ばれ、10月6日に組閣の大命が幣原に下り10月9日に幣原内閣が成立した。当時の日本は、アメリカ合衆国を中心とする連合国軍の占領下にあり、10月11日には幣原の訪問を受けたダグラス・マッカーサーにより五大改革と憲法の自由主義化が示唆されるなど(日本の戦後改革)、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の強大な影響下にあった。
幣原内閣は憲法改正や社会立法に取り組む一方、終戦から4ヶ月後の12月18日に戦後初めての衆議院解散をした。これは戦時色の一掃を図ったものとみなされているが、GHQは幣原内閣の改革の取り組みが消極的だとして、同年のうちに財閥解体などの急進的な改革や戦犯逮捕、終戦後初の総選挙の期日延期などを指示した。1946年(昭和21年)1月4日には公職追放令が発布され、これにより内閣自体の総辞職の危機を迎えたが、1月13日に一部の閣僚を入れ替える[6]ことにより内閣は存続し、総選挙の時期も3月15日以降の実施の許可をGHQより得た。この間に内大臣府が廃止され、また陸軍省と海軍省の両省が廃止されて、これらを改組して第一復員省と第二復員省が新たに設置されている。
憲法改正問題において幣原内閣が当初作成した松本試案が却下され、マッカーサー草案をベースとする「憲法改正草綱」を3月6日に採択した。この他、ハイパーインフレーションと食料難の解決のための経済措置法も成立した。
戦後初の衆議院議員総選挙かつ日本において女性参政権が容認されて初の男女普通選挙として4月10日に第22回衆議院議員総選挙が実施されたが、単独で過半数を制した政党は出なかった。日本進歩党に幣原が入党することにより内閣を存続させる動きもあったが、他の政党の猛反発を受けて倒閣運動にまで発展し、閣内からも離反者が出た幣原内閣は5月22日に総辞職をした。当初、後任の首相には鳩山一郎が就任する予定だったが、公職追放の対象となり不可能となった代わりに、吉田茂外相に白羽の矢が立ち第1次吉田内閣が成立した。
脚注
注釈
- ^ 1945年(昭和20年)12月、貴族院議員勅選。
- ^ 1945年(昭和20年)11月5日兼任。
- ^ a b 1946年(昭和21年)1月26日、運輸相を辞任し内務相専任。
- ^ 日本証券取引所総裁。
出典
参考文献
関連項目
外部リンク