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サミュエル・モールス

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
サミュエル・モールス
1840ねん写真しゃしん
生誕せいたん Samuel Finley Breese Morse
(1791-04-27) 1791ねん4がつ27にち
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく マサチューセッツしゅうチャールズタウン
死没しぼつ (1872-04-02) 1872ねん4がつ2にち(80さいぼつ
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく ニューヨークしゅうニューヨーク
国籍こくせき アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
職業しょくぎょう 画家がか発明はつめい
著名ちょめい実績じっせき モールス符号ふごう
署名しょめい
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サミュエル・フィンリー・ブリース・モールス英語えいご: Samuel Finley Breese Morse1791ねん4がつ27にち - 1872ねん4がつ2にち)は、アメリカ画家がか発明はつめい。モールス電信でんしん発明はつめいし、モールス符号ふごうのこした。画家がかとしてもしている。

また、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくにおける奴隷どれいせい確立かくりつ支持しじし、はんカトリックとはん移民いみん運動うんどう支援しえんした。

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モールスの生家せいか(チャールズタウン、1898ねんごろの写真しゃしん

マサチューセッツしゅうチャールズタウンげんボストンまれ。ちちイギリス移民いみん牧師ぼくしで、「アメリカ地理ちりがくちち」としょうされるジェディディア・モールス (1761 - 1826)、はははアン・フィンリー・ブリース (1766 - 1828) である[1]ちちカルヴァン主義しゅぎ有名ゆうめい伝道でんどう連邦れんぽうとう支持しじしゃだった。かれピューリタンてき伝統でんとう保持ほじのぞみ、連邦れんぽうとうイギリスとの同盟どうめいつよ中央ちゅうおう集権しゅうけん政府せいふ目指めざしているとかんがえていた。教育きょういくについても連邦れんぽう主義しゅぎてき枠組わくぐみをしんじ、長男ちょうなんには、カルヴァン主義しゅぎ道徳どうとく慣習かんしゅうおしんだ。

マサチューセッツしゅうアンドーヴァーフィリップス・アカデミーまなび、イェール大学だいがく進学しんがくして宗教しゅうきょう哲学てつがく数学すうがくまなぶ。また、イェール大学だいがく在学ざいがくちゅうベンジャミン・シリマンジェレマイア・デイ電気でんきについての講義こうぎけている。絵画かいが才能さいのう発揮はっきし、それでてるようになった。1810ねん、イェール大学だいがく卒業そつぎょう[注釈ちゅうしゃく 1]

絵画かいが

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モールスのえがいた Landing of the Pilgrims は、けわしいかお粗末そまつ衣服いふく人々ひとびとえがいており、かれのカルヴァン主義しゅぎてき信念しんねん表現ひょうげんしている。かれ連邦れんぽう主義しゅぎしゃ心理しんりとらえた。イングランドからたカルヴァン主義しゅぎしゃ北米ほくべい宗教しゅうきょう政府せいふというアイデアをもたらし、2つのくにむすけたという連邦れんぽう主義しゅぎてきかんがかたあらわしている。この作品さくひん有名ゆうめい画家がかワシントン・オールストン注意ちゅういきつけた。オールストンはモールスをイングランドにれてベンジャミン・ウエストわせることにした。オールストンはモールスのちち相談そうだんし、イングランドで3年間ねんかん絵画かいがまなばせることをめ、1811ねん7がつ15にち、モールスはオールストンとともにリビアごうというふね出航しゅっこうした。

Dying Hercules (1812)

イングランドで、モールスはオールストンから絵画かいが技法ぎほう徹底的てっていてきおしまれた。1811ねんまつ王立おうりつ芸術げいじゅついんへの入学にゅうがく許可きょかる。そこでルネサンスしん古典こてん主義しゅぎ作品さくひん感動かんどうし、ミケランジェロラファエロ作品さくひんをじっくり観察かんさつした。人物じんぶつ写生しゃせい訓練くんれんをし、解剖かいぼうがくてき知識ちしき吸収きゅうしゅうすると、モールスは初期しょき傑作けっさくとされる Dying Hercules完成かんせいさせた(絵画かいがまえ習作しゅうさくとして彫刻ちょうこくつくっている)。

Dying Hercules は、イギリスと連邦れんぽうとうへの政治せいじてき声明せいめいられることもあった。このころべいえい戦争せんそう勃発ぼっぱつしている。はん連邦れんぽうとうのアメリカじんたちはフランスとんでイギリスと対抗たいこうしようとし、つよ中央ちゅうおう集権しゅうけんてき政府せいふ民主みんしゅ主義しゅぎにとって危険きけんかんがえていた。

戦争せんそう本格ほんかくしたころ、モールスが両親りょうしんてた手紙てがみ内容ないようはん連邦れんぽう主義しゅぎてき色彩しきさいくなっていった。かれはそんな手紙てがみいちつうに「わたしは、北部ほくぶもろしゅう連邦れんぽう主義しゅぎしゃ暴力ぼうりょくてき対抗たいこう手段しゅだんをとることで、フランスとの同盟どうめいよりおおくの損害そんがい国家こっかあたえたと断言だんげんする。かれらの議事ぎじろくはイギリスの新聞しんぶんにも掲載けいさいされ、議会ぎかいでもまれ、くにちゅう流布るふしている…かれらは連邦れんぽう主義しゅぎしゃ臆病者おくびょうものび、国家こっかへの反逆はんぎゃくしゃなのだから反逆はんぎゃくしゃとして絞首刑こうしゅけいにされるべきだとっている」としるしている[よう出典しゅってん]

ちちはモールスの政治せいじてき信条しんじょうえさせることはなかったが、影響えいきょうおよぼしつづけた。評論ひょうろんはモールスのイングランドでのもう1つの傑作けっさく Judgment of Jupiterちちのカルヴァン主義しゅぎてきかんがかた影響えいきょうられるとしている。ユーピテルわしともない、群衆ぐんしゅううえりょううでひろげてち、審判しんぱんくだしている。マルペーッサつみ意識いしき恥辱ちじょく表現ひょうげんするようにおっとうでそうとしている。やさしくマルペーッサをあいしていたイーダース彼女かのじょきとめようといそいでおり、アポローン彼女かのじょおもいがけない決心けっしんおどろいて凝視ぎょうししている。

評論ひょうろんは、ユーピテルがかみ全能ぜんのうせいすべての出来事できごとている)をあらわしていると示唆しさしている。不倫ふりんたいする道徳どうとくかんあらわしているとものもいる。19世紀せいき初期しょきのアメリカの絵画かいが宗教しゅうきょうてきテーマをあつかったものがおおく、モールスの作品さくひんもその初期しょきれいである。Judgment of Jupiter はモールスの宗教しゅうきょうてき信念しんねんあらわすと同時どうじはん連邦れんぽう主義しゅぎしゃへの支持しじ表明ひょうめいした作品さくひんとされる。ウエストはこの作品さくひん展覧てんらんかい出品しゅっぴんしようとしたが、モールスの帰国きこくのときがちかづいていた。1815ねん8がつ21にちイングランドをち、アメリカにもどると画家がかとして活動かつどう開始かいしした。

ジョン・アダムズの肖像しょうぞう

1815ねんから1825ねんまで、モールスは画業がぎょううでみがき、アメリカの文化ぶんか生活せいかつ本質ほんしつとらえようとした。1816ねん連邦れんぽうとう所属しょぞくもと大統領だいとうりょうジョン・アダムズ肖像しょうぞうえがいた。そのころ、ダートマス大学だいがく連邦れんぽう主義しゅぎしゃはん連邦れんぽう主義しゅぎしゃ衝突しょうとつこった。1817ねん、モールスはどう大学だいがく学長がくちょう Francis Brownダートマス大学だいがく訴訟そしょう英語えいごばん (1819) で大学だいがくがわ対立たいりつしたウッドワードの肖像しょうぞうえがいている。

また、サウスカロライナしゅうチャールストン上流じょうりゅう階級かいきゅう肖像しょうぞう依頼いらいもとめている。1818ねんえがいた Mrs. Emma Quash の肖像しょうぞうはチャールストンのゆたかさを象徴しょうちょうしていた。モールスはわか画家がかとしてはかなり成功せいこうおさめた。しかし1819ねん経済けいざい恐慌きょうこうきて依頼いらい減少げんしょうし、生活せいかつおおきく変化へんかした。カルヴァン主義しゅぎでは恐慌きょうこうしょうじた不和ふわ修復しゅうふくできず、モールスのちちは30年間ねんかんつとめた牧師ぼくし地位ちいからの辞任じにん強制きょうせいされた。教会きょうかいユニテリアン主義しゅぎ支部しぶとなり、モールスのちちのカルヴァン主義しゅぎとは相容あいいれないものとなり、政治せいじてきにもはん連邦れんぽう主義しゅぎとなった。

モールスはちち宗教しゅうきょうてき信念しんねん尊敬そんけいしていたが、政治せいじてきにはユニテリアンとちかかんがかただった。モールスはニューハンプシャーしゅうポーツマス有名ゆうめいなユニテリアンへの改宗かいしゅうしゃ Pickerings の肖像しょうぞうえがいている。ユニテリアンへの共感きょうかんはん連邦れんぽう主義しゅぎてきかんがかたあらわれとらえる評論ひょうろんもいる。1820ねん当時とうじ大統領だいとうりょうジェームズ・モンロー肖像しょうぞうえがいた。

The House of Representatives (1822-23)

そのころニューヘイブン移住いじゅう。1821ねん議会ぎかい様子ようすにするよう依頼いらいされた。当時とうじフランソワ・マリウス・グラネThe Capuchin Chapel in Rome というがアメリカ各地かくちで25セントの入場にゅうじょうりょうをとって展示てんじされ成功せいこうおさめていた[2]アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく下院かいんえがいた House of Representatives もその描法を真似まね建築けんちく精巧せいこうえがき、劇的げきてきひかりかげ演出えんしゅつくわえられている。かれはこのわか国家こっか栄光えいこうをもたらすようなアメリカ独自どくじ題材だいざいこのんでとりあげ、アメリカてき民主みんしゅ主義しゅぎ表現ひょうげんした。かれワシントンD.C.おもむいてあたらしい議事堂ぎじどうをスケッチし、そこに80にん議員ぎいんえがれた。劇的げきてき効果こうかげるため、また民主みんしゅ主義しゅぎ原則げんそくへの議員ぎいんたちの献身けんしん昼夜ちゅうやおこなわれていたことを強調きょうちょうするため、よるのシーンにしている。このニューヨーク展示てんじされたさい、あまり人気にんきにならなかった。むしろジョン・トランブルすこまええがいた『アメリカ独立どくりつ宣言せんげん』のほう賞賛しょうさんびた。モールスのほうよるのシーンにしたために画面がめんくらく、なにきているのかわかりにくかったのかもしれない。

1825ねんにはニューヨークから1,000ドルでアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく独立どくりつ支援しえんしたフランスじんラファイエット侯爵こうしゃく肖像しょうぞう依頼いらいされた。アメリカ独立どくりつ支援しえんした人物じんぶつとして堂々どうどうとした肖像しょうぞうえがかなければならないかんじたモールスは、壮大そうだい日没にちぼつ背景はいけいえがいた。ラファイエット侯爵こうしゃく右手みぎてには3つの台座だいざがあり、2つの胸像きょうぞうがそこにえがかれている。1つはベンジャミン・フランクリン胸像きょうぞう、もう1つはジョージ・ワシントン胸像きょうぞうで、のこ台座だいざがラファイエット侯爵こうしゃくのために用意よういされていることを暗示あんじしている。ラファイエット侯爵こうしゃくとは独立どくりつ戦争せんそうについてかたい、モールスはおおきな影響えいきょうけた。

1825ねんニューヨークナショナル・アカデミー・オブ・デザイン設立せつりつ初代しょだい所長しょちょうつとめる(1826ねん-1842ねん)。また、ニューヨーク大学だいがく美術びじゅつ教授きょうじゅつとめた。

Gallery of the Louvre (1831-33)

1830ねんから1832ねんにかけて、イタリアスイスフランスとヨーロッパを旅行りょこうしてまわり、絵画かいが修行しゅぎょうをしている。フランスでは作家さっかジェイムズ・フェニモア・クーパー親交しんこうふかめた[3]。また、ルーヴル名画めいが38作品さくひんを1つのキャンバスに模写もしゃした The Gallery of the Louvre という作品さくひんえがいた。この作品さくひんはアメリカにもどってから完成かんせいさせている。

1839ねんにもパリをおとずれ、ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールい、初期しょき写真しゃしんダゲレオタイプ興味きょうみつようになった。モールスは New-York Observer かみにその発明はつめいについて投稿とうこうし、それがアメリカ各地かくち新聞しんぶん掲載けいさいされて注目ちゅうもくされるようになった[4]

モールスの彫刻ちょうこく作品さくひん一部いちぶは、ニュヨークしゅうポキプシーにあるモールスがんでいた屋敷やしきローカスト・グローブ英語えいごばん展示てんじされている[5]

電信でんしん

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モールスの最初さいしょ電信でんしん図面ずめん

1825ねん、ワシントンD.C.でラファイエット侯爵こうしゃく肖像しょうぞうえがいているとき、うまったメッセンジャーがちちからの「つま危篤きとく」のメッセージをたずさえてあらわれた。モールスはすぐさまニューヘイブンにかったが、到着とうちゃくしたときにはすで埋葬まいそうんだのちだった[6]つま最期さいご看取みとれなかったことにきずついたモールスは、高速こうそく長距離ちょうきょり通信つうしん手段しゅだん研究けんきゅうはじめた[7]

1832ねん大西洋たいせいよう横断おうだんちゅう船内せんない電磁気でんじきがくくわしいボストンチャールズ・トーマス・ジャクソン英語えいごばん出会であう。ジャクソンの電磁石でんじしゃく使つかった様々さまざま実験じっけんて、モールスは電磁石でんじしゃく導線どうせん延伸えんしんさせて一方いっぽうはし電流でんりゅう断続だんぞくさせた場合ばあい反対はんたいがわ電磁石でんじしゃく磁気じき変化へんかする結果けっかとして信号しんごうおくることができるとかんがえた。モールスはえがいていた The Gallery of the Louvreわき電信でんしん着想ちゃくそう発展はってんさせはじめた。特許とっきょ出願しゅつがんさい提出ていしゅつされたモールスの最初さいしょ電信でんしんスミソニア協会きょうかい国立こくりつアメリカ歴史れきし博物館はくぶつかん所蔵しょぞうしている[8]

そのころ、人々ひとびと電信でんしんのアイデアをしていた。1833ねんヴィルヘルム・ヴェーバーカール・フリードリヒ・ガウス電磁石でんじしゃく使つかった電信でんしん装置そうちつくり、それを参考さんこうにしてウィリアム・クック英語えいごばんチャールズ・ホイートストン電信でんしんはじめて商業しょうぎょうした。クックが電信でんしんるのは1836ねんで、モールスより4ねんおそいが、モールスよりも資金しきんりょくがあった。クックは元々もともと解剖かいぼう学者がくしゃだったが、電信でんしんるとそれに熱中ねっちゅうし、3週間しゅうかん電信でんしん製作せいさくした。ホイートストンもアメリカの科学かがくしゃであるジョセフ・ヘンリー業績ぎょうせきもとづいて電信でんしん実験じっけんおこなっており、信号しんごう長距離ちょうきょり伝送でんそうするには、1つの電池でんち大型おおがたするよりもちいさい多数たすう電池でんち接続せつぞくしたほうがよいという重要じゅうよう発見はっけんをしている。1837ねん5がつ、クックとホイートストンは共同きょうどう電信でんしん特許とっきょ取得しゅとくし、すぐさまグレート・ウェスタン鉄道てつどうに21kmにわた電信でんしんせん設置せっちした。しかしクックとホイートストンの電信でんしん複数ふくすう電信でんしんせん必要ひつようとするもので、のちに1ほん電信でんしんせんむモールスの方式ほうしきってわられた。

1848ねん、モールスは友人ゆうじんへの手紙てがみで、電信でんしん唯一ゆいいつ発明はつめいしゃばれるためにどれほど精力せいりょくてきたたかったかをしるしている[9][10]

継電器けいでんき

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レナード・ゲール。電信でんしん信号しんごう長距離ちょうきょり伝送でんそう達成たっせいたすけた。

モールスは、すうひゃくヤード以上いじょう電線でんせんでは信号しんごう減衰げんすいしてしまい、長距離ちょうきょり伝送でんそうできないという問題もんだい直面ちょくめんした。突破口とっぱこうとなったのはニューヨーク大学だいがく化学かがく教授きょうじゅレナード・ゲールの洞察どうさつである(ゲールはジョセフ・ヘンリー友人ゆうじんだった)。ゲールのたすけをて、モールスは電信でんしんせん途中とちゅう一定いってい間隔かんかく継電器けいでんき設置せっちし、16km以上いじょう信号しんごう伝送でんそう成功せいこうあいだもなくモールスとゲールは、資金しきんりょく洞察どうさつりょく若者わかものアルフレッド・ヴェイル出会であう。1838ねん1がつ11にちニュージャージーしゅうモリスタウンにあるヴェイルのちち経営けいえいする鉄工てっこうしょで、電信でんしん公開こうかいデモンストレーションに成功せいこうした。継電器けいでんき使つかわない状態じょうたいでは伝送でんそう距離きょりは2マイル (3km) が限界げんかいであり[11]かれらは念入ねんいりに計画けいかくして2マイルの電信でんしんせん工場こうじょう建物たてものない敷設ふせつした。最初さいしょおくったメッセージは "A patient waiter is no loser" であり、おおくの見物けんぶつきゃくがそれを目撃もくげきした[よう出典しゅってん]

1838ねんワシントンD.C.おもむいたが、連邦れんぽう政府せいふから支援しえんすことには失敗しっぱいした。そこでモールスはスポンサー獲得かくとく特許とっきょ取得しゅとくのためヨーロッパにき、ロンドンでクックとホイートストンがすで電信でんしん商業しょうぎょうしていることをる。

連邦れんぽう政府せいふ支援しえん

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1842ねん12月、再度さいどワシントンD.C.におもむき、議事堂ぎじどうの2つの会議かいぎしつあいだ電信でんしんせんって、相互そうごにメッセージをやりとりする実験じっけんおこなった。1843ねん議会ぎかいボルチモア・アンド・オハイオ鉄道てつどう線路せんろ沿ってワシントンD.C.とボルチモアあいだ61kmに電信でんしんせん敷設ふせつする予算よさん3まんドルを承認しょうにん[12]。1844ねん5がつ1にちホイッグとう大統領だいとうりょう候補こうほとしてヘンリー・クレイえらばれたというニュースがボルチモアからワシントンD.C.に試験しけんてき電信でんしんつたえられた[12]

世界せかいはつ電信でんしんきょくしめ記念きねん銘板めいばん

1844ねん5がつ24にち、ワシントン-ボルチモアあいだ電信でんしん正式せいしき開通かいつうし、最初さいしょ電報でんぽうとしてモールスはワシントンからボルチモアに "What hath God wrought" という聖書せいしょ一節いっせつおくった[13]。この言葉ことばえらんだのは、米国べいこく特許とっきょ商標しょうひょうちょう長官ちょうかん Henry Leavitt Ellsworthむすめである。Ellsworth はモールスの特許とっきょ擁護ようごし、はやくから出資しゅっししゃとなった。このときの電信でんしんでは、1分間ふんかんに30文字もじ送信そうしん可能かのうだった[14]

1845ねん5がつニューヨーク拠点きょてんとして電信でんしんもう敷設ふせつするため Magnetic Telegraph Company を創業そうぎょう

モールスは一時期いちじき、ホイートストンやカール・アウグスト・フォン・シュタインハイルかんがかた採用さいようし、みず鉄道てつどう線路せんろなどなんらかの導体どうたい電信でんしん伝送でんそう使つかおうとしたことがある。「電信でんしん発明はつめいしゃ」とばれる権利けんり保持ほじするため、様々さまざま訴訟そしょう徹底的てっていてきたたかった。ただし、モールス符号ふごう発明はつめいではアルフレッド・ヴェイル重要じゅうよう役割やくわりたしている。初期しょきのモールス電信でんしん単語たんご数値すうち対照たいしょうひょうもちいていた。ようするにdot(トン),dash(ツー)のわせでかたり(word)や(phrase)に符号ふごうづけしていたものである。これを共同きょうどう研究けんきゅうしゃでエンジニアであるヴェイルが文字もじ(character)符号ふごうとして改良かいりょう実用じつようさいして利用りよう簡便かんべんさを追求ついきゅうしたヴェイルは文字もじ使用しよう頻度ひんど符号ふごうわせについて調しらべたうえ決定けっていした。そのおおくの改良かいりょう変更へんこうたものが現在げんざいのモールス符号ふごうである。ヴェイルの文字もじ符号ふごうは、現在げんざいではアメリカン・モールス符号ふごうばれる。

電信でんしん普及ふきゅう

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電鍵でんけんにしたモールス

1847ねんイスタンブールにてアブデュルメジト1せいから電信でんしん特許とっきょ授与じゅよされた。1849ねんにはアメリカ芸術げいじゅつ科学かがくアカデミーのフェローにえらばれた[15]

1850年代ねんだいにはコペンハーゲントーヴァルセン美術館びじゅつかんおとずれ、フレデリク7せいから勲章くんしょう受章じゅしょう。おれいとしてモールスは1831ねんえがいたベルテル・トーヴァルセン肖像しょうぞうおうおくった。その現在げんざいマルグレーテ2せい所有しょゆうしている。[16]

モールスの電信でんしん装置そうちは1851ねん、ヨーロッパでの電信でんしん標準ひょうじゅんとして正式せいしき採用さいようされた。この時点じてんでイギリス(およびえい連邦れんぽう)だけはクックとホイートストンの方式ほうしき採用さいようしていた[17]

1856ねんウエスタンユニオンしゃ(Western Union Telegraph)を創設そうせつした実業じつぎょうのシブレーはモールスを招聘しょうへい同社どうしゃ1861ねんにニューヨーク-サンフランシスコあいだ大陸たいりく横断おうだん電信でんしんせん完成かんせいさせた。

1858ねんプエルトリコ端緒たんしょとしてみなみアメリカでの電信でんしん普及ふきゅう着手ちゃくしゅ。モールスの長女ちょうじょスーザン・ウォーカー・モールス (1821-1885) は、叔父おじチャールズ・ピカリング・ウォーカーがプエルトリコのグアヤマで経営けいえいする農場のうじょうをよくたずねていた。そこでデンマークじんのエドワード・リンドと出会であって結婚けっこんしている[18]

リンドはプエルトリコのアロヨにて農場のうじょう購入こうにゅうし、モールスはふゆになるとその農場のうじょうごすようになった。そこでアロヨの市街地しがいちにあるむすめいえ農場のうじょうむすぶ2マイルの電信でんしんせん敷設ふせつ。1859ねん3がつ1にち開通かいつうしきおこなわれた[19][20]

モールスがプエルトリコで最初さいしょおくった電報でんぽうは、つぎとおりである[18]

"Puerto Rico, beautiful jewel! When you are linked with the other jewels of the Antilles in the necklace of the world's telegraph, yours will not shine less brilliantly in the crown of your Queen!"

モールスが Harrison Gray Dyar業績ぎょうせきから電信でんしんのアイデアをたと主張しゅちょうする歴史れきしもいる[21]。Dyar はモールスが特許とっきょ取得しゅとくする18ねんまえ電信でんしん発明はつめいしている。

奴隷どれい制度せいど支持しじはんカトリック主義しゅぎはん移民いみん

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モールスは19世紀せいきちゅうごろ、はんカトリック主義しゅぎはん移民いみん運動うんどうのリーダーてき存在そんざいだった。1836ねんはん移民いみんかかげる Nativist Party からニューヨーク市長しちょうせん出馬しゅつばしたが、わずか1496ひょうしかあつめられず敗退はいたいした。ローマおとずれたさい教皇きょうこうまえでも帽子ぼうしをとらなかった。これをスイス衛兵えいへいけよって帽子ぼうしたたおとしたという[よう出典しゅってん]。カトリック組織そしき対抗たいこうしてプロテスタントを団結だんけつさせるため、「公的こうてき機関きかんからカトリック教徒きょうと追放ついほうする、カトリックこくからの移民いみん制限せいげんする」といったほう改正かいせい主張しゅちょう。モールスはこれについて「我々われわれはまずふね泥水どろみずはいってくるのをめなければならない。さもなくば沈没ちんぼつする」といている[22]

また、当時とうじおとうとシドニー編集へんしゅうしゃつとめていた新聞しんぶん『ニューヨーク・オブザーバー』[注釈ちゅうしゃく 2]によく投稿とうこうしており、カトリックの脅威きょういたたかうべきだと主張しゅちょうした。それらの記事きじ新聞しんぶんにも転載てんさいされた。ほかにも、オーストリア政府せいふカトリック教かとりっくきょうだんがアメリカを支配しはいするために助成じょせいきんあたえてカトリックの移民いみんやそうとしていると主張しゅちょうしていた[23]

著書ちょしょ Foreign Conspiracy Against the Liberties of the United States[24]では、カトリックがたんなる宗教しゅうきょうではなく政治せいじシステム、政治せいじてき陰謀いんぼう専制せんせいのシステムだと主張しゅちょうした。

1850年代ねんだい、モールスはアメリカの奴隷どれいせい擁護ようごしはじめ、かみによって是認ぜにんされているとした。"An Argument on the Ethical Position of Slaver" という論文ろんぶんつぎのようにしるしている。

奴隷どれいせいについてのわたし見方みかたみじかい。奴隷どれいせい本来ほんらいつみではない。それはかみ知恵ちえによって世界せかいはじまりからさだめられたなさぶか賢明けんめい社会しゃかいてき状態じょうたいである。したがって奴隷どれい所有しょゆうしていることは人格じんかくてきなものとは無関係むかんけいであり、おやになったり、従業じゅうぎょういんやとったり、支配しはいしゃになるのとなんちがいもない[25]

結婚けっこん

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1818ねん9がつ29にちコンコードにてルクレチア・ピカリング・ウォーカーと結婚けっこん。1825ねん2がつ7にち、3番目ばんめ出産しゅっさん直後ちょくごつまくなった。1848ねん8がつ10日とおかユーティカにてサラ・エリザベス・グリズウォルドと結婚けっこんし、4にんをもうけた。

後半こうはんせい

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1866ねん正装せいそうした写真しゃしん

アメリカでは1840ねん電信でんしん特許とっきょ取得しゅとくしたが、その特許とっきょ無視むしされつづけ、訴訟そしょうきている。1853ねん特許とっきょ訴訟そしょう (O'Reilly v. Morse) では合衆国がっしゅうこく最高裁判所さいこうさいばんしょまでもつれ、最終さいしゅうてき電池でんち電磁石でんじしゃく組合くみあわせ、ただしい電池でんち構成こうせい実用じつようてき電信でんしんつくったのはモールスが最初さいしょであるとみとめられた。しかし、そのアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく連邦れんぽう政府せいふはモールスにたいして公式こうしきにはなん評価ひょうかあたえなかった。

最高裁さいこうさいはモールスのすべての主張しゅちょうみとめたわけではない。1853ねんけんではモールス符号ふごう体系たいけいのどのような応用おうようについてもモールスが権利けんり主張しゅちょうできないと明確めいかく判断はんだんされ、そのソフトウェア特許とっきょ規範きはんとなった。

パリのざいフランスアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大使たいし尽力じんりょくもあり、ヨーロッパ各国かっこくから長年ながねんわたってモールスの特許とっきょ無視むししてきたことについてもうれがあった。なにかすべきだという認識にんしきひろまり、1858ねんフランスオーストリアベルギーオランダピエモンテロシアスウェーデントスカーナトルコ各国かっこく政府せいふがモールスしき電信でんしん施設しせつかずおうじてかねい、総額そうがく40まんフランス・フランやく8まんドル)をモールスにあたえた。おなじく1858ねんスウェーデン王立おうりつ科学かがくアカデミー外国がいこく会員かいいんえらばれた。

モールスは電信でんしんのほかに大理石だいりせきいし彫刻ちょうこくつくるための工具こうぐ発明はつめいしている。ただし、トーマス・ブランチャード英語えいごばんが1820ねん設計せっけいした先例せんれいがあったため、特許とっきょ取得しゅとくできなかった。

モールスは財産ざいさんおおくを慈善じぜん活動かつどうついやした。電信でんしん特許とっきょ使つかって他者たしゃ企業きぎょう利益りえきげても、特許とっきょりょう徴収ちょうしゅうすることはなかった。くなったさい遺産いさんやく50まんドルだった。

栄誉えいよ受賞じゅしょう

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1871ねんてられたサミュエル・モールスぞう(ニューヨーク、セントラル・パーク
モールスの肖像しょうぞうえがかれた1940ねんのアメリカの切手きって

海外かいがいからは様々さまざましょう報酬ほうしゅうおくられたが、1871ねん6がつ10日とおかニューヨークセントラルパークにブロンズぞうてられるまで、アメリカではそのようなうごきがまったくなかった。1896ねんにはアメリカの2ドル紙幣しへいロバート・フルトンともにモールスの肖像しょうぞうえがかれた。サンフランシスコ連邦れんぽう準備じゅんび銀行ぎんこうの "American Currency Exhibit" のウェブサイトに画像がぞうがある[26]

1812ねんから1815ねんまでかれがロンドンでんでいた場所ばしょ (141 Cleveland Street) にブルー・プラーク設置せっちされている。

1872ねん4がつ3にちニューヨーク・タイムズ掲載けいさいされた死亡しぼう記事きじによると、モールスは、オスマン帝国ていこくからダイヤモンドきの勲章くんしょう(1847ねんごろ[27])、プロイセン王国おうこくからかねぎタバコれ(1851ねん)、ヴュルテンベルク王国おうこくからきんメダル(1852ねん)、オーストリア皇帝こうていフランツ・ヨーゼフ1せいからきんメダル(1855ねん)、フランス皇帝こうていからレジオンドヌール勲章くんしょう、デンマーク国王こくおうから勲章くんしょう(1856ねん)、スペイン女王じょおうから勲章くんしょう受章じゅしょう受賞じゅしょうしている。ほかにもポルトガル王国おうこく勲章くんしょう(1860ねん)とせいマウリッツィオ・ラザロ勲章くんしょう(1864ねん)も受章じゅしょう。1988ねんにはモールスの電信でんしん実験じっけんIEEEマイルストーンえらばれた[28]

LIFEが1999ねんえらんだ「この1000ねんもっと重要じゅうよう功績こうせきのこした世界せかい人物じんぶつ100にん(うちアメリカじん分類ぶんるいされるのはわずか22にん)」にえらばれている。

2012ねん4がつ1にちGoogleエイプリルフールのジョークとして、携帯けいたい電話でんわでモールス符号ふごうんでテキストを送信そうしんできる "Gmail Tap" を発表はっぴょうした。モールスの兄弟きょうだい子孫しそんがGoogleでエンジニアとしてつとめており、実際じっさい製品せいひんつくるなどジョークに貢献こうけんした[29]

特許とっきょ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 1961ねん、イェール大学だいがくは12のカレッジの1つをモールスにちなんで モールス・カレッジ名付なづけた。
  2. ^ 20世紀せいき創刊そうかんされた『ニューヨーク・オブザーバー』とは無関係むかんけい

出典しゅってん

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  1. ^ Samuel F. B. Morse”. December 12, 2006てんオリジナルよりアーカイブ。2007ねん2がつ14にち閲覧えつらん
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参考さんこう文献ぶんけん

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  • Samuel F. B. Morse, Foreign Conspiracy Against the Liberties of the United States: The Numbers Under the Signature (Harvard University Press 1835,1855)
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  • Paul J. Staiti, Samuel F. B. Morse (Cambridge 1989).
  • Lauretta Dimmick, Mythic Proportion: Bertel Thorvaldsen's Influence in America, Thorvaldsen: l'ambiente, l'influsso, il mito, ed. P. Kragelund and M. Nykjær, Rome 1991 (Analecta Romana Instituti Danici, Supplementum 18.), pp. 169–191.
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  • Robert Luther Thompson, "Wiring A Continent, The History of the Telegraph Industry in the United States 1832-186" Princeton University Press, 1947.
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外部がいぶリンク

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