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スーダン

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
北部ほくぶスーダンから転送てんそう
スーダン共和きょうわこく
جمهورية السودان(アラビア
Republic of the Sudan英語えいご
スーダンの国旗
国旗こっき くにあきら
くに標語ひょうごالنصر لنا (al-naṣr lanā)
(アラビア勝利しょうり我々われわれのもの)
国歌こっかわれら、かみ祖国そこく兵士へいし
スーダンの位置
公用こうよう アラビア英語えいご
首都しゅと ハルツーム
最大さいだい都市とし オムドゥルマン
政府せいふ
主権しゅけん評議ひょうぎかい議長ぎちょう アブドゥルファッターハ・ブルハーン [注釈ちゅうしゃく 1]
首相しゅしょう オスマン・フセイン英語えいごばん暫定ざんてい
面積めんせき
総計そうけい 1,846,972km216
水面すいめんせきりつ 5.2%
人口じんこう
総計そうけい2022ねん 47,958,856ひと30[2]
人口じんこう密度みつど 26.0にん/km2
GDP自国じこく通貨つうか表示ひょうじ
合計ごうけい2019ねん 2ちょう297おく5300まんスーダン・ディナール[3]スーダン・ポンド
GDP(MER
合計ごうけい2019ねん335おく6400まん[3]ドル(96
1人ひとりあたり 776.549(推計すいけい)[3]ドル
GDP(PPP
合計ごうけい2019ねん1862おく2600まん[3]ドル(69
1人ひとりあたり 4308.614(推計すいけい)[3]ドル
独立どくりつ
 - 日付ひづけ
エジプトイギリスより
1956ねん1がつ1にち
通貨つうか スーダン・ポンドSDG
時間じかんたい UTC+2 (DST:なし)
ISO 3166-1 SD / SDN
ccTLD .sd
国際こくさい電話でんわ番号ばんごう 249

スーダン共和きょうわこく(スーダンきょうわこく、アラビア: جمهورية السودان‎、英語えいご: Republic of the Sudan)、通称つうしょうスーダンは、北東ほくとうアフリカ位置いちする共和きょうわせい国家こっかである。首都しゅとハルツーム国境こっきょうせっする隣国りんごくきたエジプト北西ほくせいリビア西にしチャド中央ちゅうおうアフリカみなみみなみスーダン南東なんとうエチオピアエリトリア東側ひがしがわ紅海こうかいめんしており、その対岸たいがんがわにはサウジアラビアがある。

アルジェリアコンゴ民主みんしゅ共和きょうわこくいでアフリカ大陸たいりくで3面積めんせきゆうする。2011ねん7がつみなみスーダン共和きょうわこく分離ぶんり独立どくりつするまえは、面積めんせき250まん5813平方へいほうキロメートルとアフリカ大陸たいりく最大さいだい国土こくどゆうしていた。

国名こくめい

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正式せいしき名称めいしょうアラビアで、جمهورية السودانラテン文字もじ転写てんしゃ : Jumhūrīyat as-Sūdān; ジュムフーリーヤト・アッ=スーダーン,つなげみするとジュンフーリヤトゥ・ッ=スーダーン)。通称つうしょうは、السودان(as-Sūdān; アッ=スーダーン)。

公式こうしき英語えいご表記ひょうきは、Republic of the Sudan通称つうしょうSudan ([suˈdæn, suːˈdɑːn])。

日本語にほんご表記ひょうきスーダン共和きょうわこくで、通称つうしょうスーダン漢字かんじ表記ひょうきは、まこと

「スーダーン」はアラビアで「くろひと」を意味いみする言葉ことば原義げんぎとし、元来がんらいきたアフリカアラブじんたちからみてみなみ黒人こくじん居住きょじゅう地域ちいき、すなわち西にしアフリカからひがしアフリカいたるまでのサハラ砂漠さはらさばく以南いなんひろ地域ちいき地域ちいき名称めいしょうで、国名こくめいとしてのスーダンと区別くべつするため「歴史れきしてきスーダン」ともいう。国家こっかとしてのスーダンは、地域ちいきめいとしての「スーダン」の東部とうぶめ、歴史れきしてきにはひがしスーダーンとばれた地域ちいきたる。みなみスーダンの独立どくりつ、スーダン共和きょうわこくして「きたスーダン」とばれることはまれだが、こくあいだ関係かんけいあらわさいに「南北なんぼくスーダン」とする表現ひょうげんはよくられる。

歴史れきし

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古代こだいヌビアしょ王国おうこく

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メロエピラミッド上空じょうくう写真しゃしん

かつてこのスーダンのナイルがわ流域りゅういき北部ほくぶヌビアばれ、きたさかえた古代こだいエジプト影響えいきょうつよけた地域ちいきである。古代こだいエジプトのしょ王朝おうちょうは、勢力せいりょくつよまるとナイルがわ沿いに南下なんかしてきむ象牙ぞうげ交易こうえき拠点きょてんつく支配しはい領域りょういきひろげ、国力こくりょく衰退すいたいすると撤退てったいすることをかえした。そうしたなか紀元前きげんぜん2200ねんごろに、南部なんぶから移動いどうしてきた黒人こくじん集団しゅうだんがこの地域ちいきクシュ王国おうこくばれるはじめての王国おうこく建国けんこくした。この王国おうこくちゅう王国おうこく時代じだいのエジプト影響えいきょうけながら勢力せいりょく拡大かくだいしていった。その、エジプトがしん王国おうこく時代じだいはいるとトトメス1せいがクシュを滅亡めつぼうさせた。

紀元前きげんぜん900ねんごろ、ナパタとしてクシュは再興さいこうし、やがて衰退すいたいしたエジプトにはいってエジプトだい25王朝おうちょう建国けんこくした。だい25王朝おうちょうアッシリアやぶれヌビアへと撤退てったいしたが、ヌビアの支配しはいけん保持ほじつづけた。紀元前きげんぜん6世紀せいきなかばにクシュは首都しゅとをさらにみなみメロエへと遷都せんとし、以後いごこの王国おうこくメロエ王国おうこくられることとなった。メロエは牧畜ぼくちくソルガム農耕のうこうおも産業さんぎょうとし、さらにてつ産地さんちとしてもられた。

キリスト教化きょうか

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4世紀せいきごろ、メロエはエチオピア高原こうげんアクスム王国おうこくによってほろぼされ、そのきたからノバティア王国おうこく英語えいごばんマクリア王国おうこく英語えいごばんアルワ王国おうこく英語えいごばんさん王国おうこくかれた。さんこくともに5世紀せいきごろにキリスト教きりすときょう受容じゅようし、以後いご1000ねんちかキリスト教きりすときょう信仰しんこうつづけた

イスラム

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イスラム教いすらむきょう勢力せいりょくによって吞みまれ、1505ねんにはイスラム教いすらむきょうフンジ・スルターンこく英語えいごばん建国けんこくされてキリストきょう勢力せいりょく消滅しょうめつした。1596ねんには西にしダルフールにおいてもイスラム教いすらむきょうダルフール・スルターンこく建国けんこくされ、この地方ちほう完全かんぜんにイスラムされた[4]

ムハンマド・アリーあさ

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1821ねん、エジプトのムハンマド・アリーあさイスマーイール・パシャによりのスーダン北部ほくぶ征服せいふくされた。エジプトは次第しだい南部なんぶ支配しはいひろげた。

1840ねんエジプト・エヤレトそのものがロンドン条約じょうやくによってイギリス保護ほごこくとなった

en:Khedivate of Egypt1867ねん1914ねん)。1874ねんダルフール・スルターンこく併合へいごう

マフディー国家こっか

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マフディーのらん指導しどうしゃムハンマド・アフマド

1883ねんムハンマド・アフマドマフディー指導しどうしゃとするマフディーのらんこり、1885ねんには、エジプト/イギリスぐんえい挨軍)のチャールズ・ゴードンをハルツームで戦死せんしさせ、マフディー国家こっか英語えいごばん建設けんせつされた。

1898ねんイギリスのホレイショ・キッチナーひきいるえいほこりぐんオムダーマンのたたか(オムドゥルマンのたたかい)などでマフディー国家こっか制圧せいあつした。しかし、このじゅうねんのマフディ国家こっか支配しはい進出しんしゅつしていたフランスのマルシャン部隊ぶたいイギリスぐんがファショダ(現在げんざいコドク) で衝突しょうとつし、ファショダ事件じけん発生はっせいした。この事件じけんアフリカ分割ぶんかつ過程かていで、イギリスの南下なんか政策せいさくとフランスの東進とうしん政策せいさく背景はいけいにあったが、本国ほんごく政府せいふ同士どうしはない、スーダンとモロッコ利権りけん交換こうかんすることで解決かいけつをみた。

えいほこりりょうスーダン

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1899ねんからふたたびエジプトとイギリスの両国りょうこくによる共同きょうどう統治とうち[注釈ちゅうしゃく 2]えいほこりりょうスーダン)にかれた。

1924ねん以降いこう北部ほくぶ中心ちゅうしん独立どくりつ運動うんどうつづけられたため、1924ねん以降いこう南北なんぼく分断ぶんだんして統治とうちする手法しゅほうBritain's Southern Policy)を採用さいようし、マラリアなどの予防よぼう名目めいもくで8以北いほくものみなみ、10以南いなんものきたくことはどちらも違法いほうとされたことも分裂ぶんれつもととなった。

1942ねんだい世界せかい大戦たいせんなかには、べいぐんワディ・セイドナ空軍くうぐん基地きち英語えいごばん設置せっちした(戦後せんごはスーダン空軍くうぐん譲渡じょうと)。

1945ねんen:Ismail al-Azhariらを中心ちゅうしんウンマとう結成けっせい独立どくりつ運動うんどう主導しゅどうした。

1954ねん自治じち政府せいふ発足ほっそく

だいいち内戦ないせん

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はんイスラム蜂起ほうき

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独立どくりつ運動うんどう主体しゅたいおよ自治じち政府せいふ北部ほくぶイスラム教徒きょうと中心ちゅうしんだったため、1955ねんだいいちスーダン内戦ないせん南北なんぼく内戦ないせん)が勃発ぼっぱつ北部ほくぶの「アラブけい」イスラム教徒きょうと南部なんぶおも黒人こくじんの「アラブけい - アニャニャ英語えいごばん」(おもアニミズム一部いちぶキリスト教徒きりすときょうと)がたたかった。

独立どくりつだいいちウンマとう政権せいけん

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1956ねん独立どくりつから2011ねんみなみスーダン分離ぶんりまでのスーダン

1956ねん1がつ1にちスーダン共和きょうわこくえい: Republic of Sudan1956ねん - 1969ねん)として独立どくりつした。

クーデター・アブード政権せいけん

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1958ねん11月イブラヒーム・アッブード英語えいごばん将軍しょうぐんクーデタこし、アブード政権せいけん1958ねん - 1964ねん)が誕生たんじょうした。

1960ねんごろ、エジプトのムスリム同胞どうほうだん支援しえんけてハサン・トラービー英語えいごばんイスラム憲章けんしょう戦線せんせん(ICF)を結成けっせいした。

だいウンマとう政権せいけん

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1964ねんのアッブード政権せいけん崩壊ほうかい1965ねん4がつにウンマとう国民こくみん統一とういつとうとの連立れんりつ政権せいけん誕生たんじょう

クーデター・ヌメイリ政権せいけん

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モハメド・アン=ヌメイリ政権せいけん以前いぜん国旗こっき
モハメド・アン=ヌメイリ政権せいけん以前いぜんくにあきら
1970ねんから1985ねんまでのくにあきら

1969ねん5月、陸軍りくぐんのクーデターでジャーファル・ヌメイリ議長ぎちょうとする革命かくめい評議ひょうぎかい全権ぜんけん掌握しょうあく国名こくめいスーダン民主みんしゅ共和きょうわこくあらため、1971ねんにヌメイリが大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。1971ねん7がつには、左派さは将校しょうこうによるクーデターが発生はっせいしてヌメイリ議長ぎちょう一時いちじ追放ついほうされたが、同月どうげつちゅうはんクーデターが発生はっせいして政権せいけん復帰ふっきした[5]だいいちスーダン内戦ないせん1972ねんアディスアベバ合意ごういまでつづいた。

1975ねんシェブロンにより油田ゆでんアビエイ発見はっけんされると、ジャーファル・ヌメイリ南北なんぼく境界きょうかいヘグリグ油田ゆでん地帯ちたい北部ほくぶ組入くみいれるために地域ちいき区分くぶんくみえをはじめた[6]

1978ねんアニャニャII英語えいごばん結成けっせいされた。

だい内戦ないせん

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1983ねんはじめ、南部なんぶに「しんスーダン」建設けんせつかかげるアラブけい黒人こくじん有力ゆうりょく民族みんぞくディンカじん主体しゅたいはん政府せいふ組織そしきスーダン人民じんみん解放かいほうぐん(SPLA)が、ソ連それんとエチオピアの支援しえんけたジョン・ガラン指導しどう組織そしきされ、アニャニャII英語えいごばんはん政府せいふ組織そしき主導しゅどうけんあらそうようになった。ヌメイリ政権せいけん1983ねん9月にイスラムほう導入どうにゅうしたため、これに反発はんぱつするSPLAがゲリラ闘争とうそう拡大かくだいだいスーダン内戦ないせん突入とつにゅうした。1984ねんからは旱魃かんばつかんばつとエチオピアからの難民なんみん流入りゅうにゅう経済けいざい困難こんなんおちいった。

クーデター・だいさんウンマとう政権せいけん(サディク・アル=マフディ政権せいけん

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1985ねん4がつ6にちアブドッラフマーン・スワール・アッ=ダハブ英語えいごばんひきいる軍部ぐんぶによるクーデターでヌメイリ大統領だいとうりょう失脚しっきゃくし、エジプトに亡命ぼうめいした。12月に国名こくめいスーダン共和きょうわこくもどされ、よく1986ねん4がつ議会ぎかいせんで、ムハンマド・アフマドの曾孫そうそんにあたるサーディク・アル=マフディー英語えいごばん首相しゅしょうとする文民ぶんみん政権せいけん成立せいりつした。

クーデター・バシール政権せいけん

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1989ねん6月30にち[7]オマル・アル=バシールじゅんしょうイスラム主義しゅぎ組織そしき民族みんぞくイスラム戦線せんせん(NIF)と連携れんけいして無血むけつクーデター英語えいごばん成功せいこうさせた。バシールは、「革命かくめい委員いいんかい」を設置せっちして非常ひじょう事態じたい宣言せんげんし、みずか元首げんしゅ首相しゅしょう革命かくめい委員いいんかい議長ぎちょう国防こくぼうしょう就任しゅうにんし、NIFの主張しゅちょう沿ったイスラーム推進すいしんした。

1991ねん隣国りんごくエチオピアに「アフリカ最大さいだい人権じんけん抑圧よくあつしゃ」とばれるメレス・ゼナウィしん大統領だいとうりょう就任しゅうにんし、SPLAはうしたてうしない3分裂ぶんれつした。

最高さいこう機関きかんだった革命かくめい委員いいんかい1993ねん10月、民政みんせい移管いかん解散かいさんし、どう委員いいんかい権限けんげん内閣ないかく委譲いじょうされたが、バシールが首相しゅしょう兼任けんにんしたまま大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。1994ねんにコルドファンしゅうが、きたコルドファンしゅうみなみコルドファンしゅう西にしコルドファンしゅうの3しゅう分割ぶんかつされた。同年どうねん、SPLAのあらたなうしたてとなっていたウガンダ非難ひなんすると、2がつ6にちにはヨウェリ・ムセベニ大統領だいとうりょうからかみ抵抗ていこうぐん最後さいご通牒つうちょうつたえられたが、その2週間しゅうかんかみ抵抗ていこうぐんみなみスーダンへの越境えっきょう開始かいしした (en:Lord's Resistance Army insurgency (1994–2002))。

1996ねん3月の議会ぎかいせんでは欧米おうべい諸国しょこくとの関係かんけい改善かいぜんはかるバシール大統領だいとうりょう圧勝あっしょうし、バシール政権せいけん存続そんぞくした。1997ねんだいいちコンゴ戦争せんそう終結しゅうけつすると、ウガンダへの姿勢しせい軟化なんかさせた。

1998ねん5月、政党せいとう結成けっせい自由じゆうなどをふくしん憲法けんぽう可否かひ国民こくみん投票とうひょう実施じっしし、96.7 %が賛成さんせいにより成立せいりつ、1989ねん以来いらい禁止きんしされていた政党せいとう活動かつどう解禁かいきんとなった(政党せいとう登録とうろく開始かいし1999ねん1がつ)。しかし、バシール大統領だいとうりょう大統領だいとうりょう権限けんげん縮小しゅくしょうねら国民こくみん議会ぎかいハサン・トラービー英語えいごばん議長ぎちょうとの確執かくしつから、1999ねん12月に非常ひじょう事態じたい宣言せんげん国民こくみん議会ぎかい解散かいさん内閣ないかくそう辞職じしょくし、2000ねん1がつしんトラービー排除はいじょした新内しんないかく発足ほっそく、トラービーはバシール政権せいけん与党よとう国民こくみん会議かいぎ」(NC、NIFを母胎ぼたいとするイスラム主義しゅぎ政党せいとう)の書記しょきちょう解任かいにんされた。

トラービーは新党しんとう人民じんみん国民こくみん会議かいぎ(PNC)」を結成けっせい対抗たいこうしたが、12月の議会ぎかいせん大統領だいとうりょうせんでは野党やとうはボイコットし、バシール大統領だいとうりょうとバシール政党せいとう勝利しょうりした。2001ねん2がつ、PNCと南部なんぶのスーダン人民じんみん解放かいほう運動うんどう(SPLA)がスイスジュネーヴだい内戦ないせん終結しゅうけつ民主みんしゅ協力きょうりょくするとの覚書おぼえがき調印ちょういんしたため、政府せいふはトラービーらを逮捕たいほして対抗たいこうした。

バシール政権せいけんだい4ウンマとう連立れんりつ政権せいけん

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バシール大統領だいとうりょう2002ねん8がつ19にち小規模しょうきぼ内閣ないかく改造かいぞう実施じっしし、イスラム主義しゅぎ中道ちゅうどうのウンマとう(UP)の分派ぶんぱメンバーを閣僚かくりょう登用とうようした。さらに11月30にちには中道ちゅうどうリベラル政党せいとう民主みんしゅ統一とういつとう」(DUP)の分派ぶんぱメンバーも入閣にゅうかくさせるなど、野党やとう勢力せいりょくみをはかることで、SPLAとの和平わへい交渉こうしょうあわせて柔軟じゅうなん姿勢しせいしめした。2005ねん1がつ9にちには、バシールとSPLMとのあいだ包括ほうかつ和平わへい(CPA)、半年はんとし暫定ざんてい政府せいふ発足ほっそくについて合意ごういたっした。

ダルフール紛争ふんそう

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西部せいぶのダルフール地方ちほう3しゅうでも2003ねん以降いこう、アラブけいアラブけいてい住民じゅうみんフールじん遊牧民ゆうぼくみんザガワじんなどとの対立たいりつ激化げきかし、ダルフール紛争ふんそう勃発ぼっぱつした。双方そうほう武装ぶそう勢力せいりょく組織そしきしたが、とく政府せいふ支援しえんけたアラブけい民兵みんぺい組織そしきジャンジャウィード勢力せいりょくつよく、民族みんぞく浄化じょうかおこなわれたとして非難ひなん対象たいしょうとなった。また、おおくの難民なんみんチャドながみ、ザガワじんイドリス・デビ大統領だいとうりょう実権じっけんにぎるチャドとの関係かんけい極度きょくど悪化あっかした。2004ねんアフリカ連合れんごうAUえーゆー)が監視かんし要員よういん派遣はけん決定けっていした。

バシール政権せいけん(SPLA連立れんりつ政権せいけん

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2005ねん7がつ9にち、バシールを大統領だいとうりょう、SPLAのジョン・ガラン最高さいこう司令しれいかんだいいちふく大統領だいとうりょうとする暫定ざんてい政府せいふ発足ほっそくした。暫定ざんてい政府せいふが6年間ねんかん統治とうちおこなったうえで南部なんぶ住民じゅうみん投票とうひょう実施じっしし、北部ほくぶのイスラム教徒きょうとけい政権せいけん南部なんぶ政府せいふ連邦れんぽう形成けいせいするか、南部なんぶ独立どくりつするかをめることになった[8]

  中央ちゅうおう北部ほくぶもろしゅう(アラブけい多数たすう
  東部とうぶ地区ちくベジャじん優勢ゆうせい
  アビエイ南北なんぼく係争けいそう
  みなみコルドファンとあおナイルしゅう南北なんぼく係争けいそう
ジョン・ガランもとスーダン人民じんみん解放かいほうぐん(SPLA)最高さいこう司令しれいかん

7がつ30にちふく大統領だいとうりょうとなったばかりのガランが、ウガンダ訪問ほうもんからの帰途きと事故死じこしヘリコプター悪天候あくてんこうのため墜落ついらくしたとされる。これをいた南部なんぶ住民じゅうみんすうせんにんがアラブけい住民じゅうみん襲撃しゅうげきするなどの事件じけん発生はっせい。また、SPLAをたばねてきたガランのは、SPLA内部ないぶ権力けんりょくあらそいにつながる可能かのうせいびている。さらに、SPLAは南部なんぶがわ政府せいふ代表だいひょうといってもそのうちの旧主きゅうしゅ流派りゅうははディンカじん中心ちゅうしんだった。南部なんぶヌアーぞく政権せいけん支援しえんけ、SPLAへの攻撃こうげき開始かいしするとの憶測おくそくながれた。

ウガンダとコンゴ民主みんしゅ共和きょうわこくぐんによるかみ抵抗ていこうぐん掃討そうとう作戦さくせんガランバ攻勢こうせい英語えいごばん2008ねん12月14にち - 2009ねん3月15にち)にみなみスーダン自治じち政府せいふ協力きょうりょくする部隊ぶたい派遣はけんした。2009ねん3月4にち、ダルフールでの戦犯せんぱん容疑ようぎ人道じんどうたいするつみなどの容疑ようぎ)でバシール大統領だいとうりょう国際こくさい刑事けいじ裁判所さいばんしょ(ICC)から逮捕たいほじょうされている。どう大統領だいとうりょうは、逮捕たいほじょう発行はっこう、エリトリアとエジプトを訪問ほうもんしている。2009ねん3月26にち、バシール大統領だいとうりょうリビア訪問ほうもんし、アフリカ連合れんごうAUえーゆー)の議長ぎちょうでもあるカダフィ大佐たいさ会談かいだんした。リビアが3こく

2010ねん7がつ11にち国際こくさい連合れんごうAUえーゆー合同ごうどうダルフール派遣はけんだんは、どう地方ちほうでの武力ぶりょく紛争ふんそうにより、6月の死者ししゃは221にんたっしたことをあきらかにした。2010ねん7がつ12にち国際こくさい刑事けいじ裁判所さいばんしょ (ICC)は、バシール大統領だいとうりょうジェノサイド大量たいりょう殺害さつがい犯罪はんざい容疑ようぎで2かい逮捕たいほじょう発行はっこうした。7がつ15にち、スーダンの2005ねん包括ほうかつ和平わへい合意ごうい(CPA)の北部ほくぶのスーダン国民こくみん会議かいぎ(NC)と南部なんぶのSPLAは、南北なんぼく境界きょうかい画定かくてい合同ごうどう委員いいんかい補佐ほさするしょう委員いいんかい設置せっち合意ごういしたことをあきらかにした。この南北なんぼく境界きょうかい画定かくてい合同ごうどう委員いいんかいは3ねんまえ発足ほっそくした。7がつ21にち、バシール大統領だいとうりょうサヘル(サハラみなみえん諸国しょこく首脳しゅのう会議かいぎのためチャドおとずれた。どう大統領だいとうりょうがICC 締結ていけつこく訪問ほうもんするのははじめてである。

アビエイ問題もんだい

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南北なんぼく和平わへい協定きょうていにおける協定きょうてい事項じこうひとつであるアビエイ境界きょうかいめぐり、北部ほくぶがわ提案ていあん拒絶きょぜつしディンカけい住民じゅうみん攻撃こうげきし2007ねんまつより戦闘せんとう激化げきかし、2008ねんには正規せいきぐん同士どうし衝突しょうとつするにいたった。その調停ちょうていにより帰属きぞく決定けっていのアビエイ地域ちいきのぞくアビエイ地区ちくはスーダンがわ支配しはいとなったが、アビエイ地域ちいき以外いがいのアビエイ地区ちくふくまれていたヘグリグ油田ゆでんは、みなみスーダンに帰属きぞくすると主張しゅちょうし、2012ねん3がつみなみスーダンぐんどう油田ゆでん侵攻しんこう南北なんぼくスーダン国境こっきょう紛争ふんそう発生はっせいした。

みなみスーダンの独立どくりつ

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2011ねん1がつ9にち南部なんぶ自治じち政府せいふによる独立どくりつ是非ぜひ住民じゅうみん投票とうひょうおこなわれ、みなみスーダン独立どくりつひょう過半数かはんすうたっした。この投票とうひょうのために国連こくれんはスーダン派遣はけんだんおくり、住民じゅうみん投票とうひょう監視かんしだん一員いちいんとしてもとアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうジミー・カーターがスーダンりしている。

2011ねん7がつ9にちみなみスーダンは独立どくりつしたが、みなみスーダンには石油せきゆなど豊富ほうふ地下ちか資源しげんねむっており、その境界きょうかい資源しげん帰属きぞくめぐってげんスーダン政権せいけんとのあいだあらたな混乱こんらんしょうじる可能かのうせいもある。

2011ねん11がつ10日とおか、スーダンぐんは、みなみスーダン北部ほくぶユニティしゅうイダ[注釈ちゅうしゃく 3]うえナイルしゅう難民なんみんキャンプを爆撃ばくげきした。また、同軍どうぐんみなみコルドファンしゅうあおナイルしゅうでスーダン人民じんみん解放かいほう運動うんどう北部ほくぶ(SPLM・N)民兵みんぺい掃討そうとう作戦さくせんすすめている。

2012ねんには国境こっきょう油田ゆでんめぐって武力ぶりょく衝突しょうとつ発生はっせいしている。

バシール政権せいけん崩壊ほうかい暫定ざんてい政権せいけん成立せいりつ

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2018ねんまつよりパンの値上ねあげをきっかけとしてはん政府せいふ運動うんどう全土ぜんど発生はっせいし、2019ねん4がつ11にち国防こくぼうぐんがバシールを大統領だいとうりょうから解任かいにん身柄みがら拘束こうそく。ここに30ねんにもおよぶバシール独裁どくさい政権せいけん終焉しゅうえんむかえた(2019ねんスーダンクーデター)。政権せいけんぐんによる暫定ざんてい軍事ぐんじ評議ひょうぎかい掌握しょうあくし、これにたい民主みんしゅ勢力せいりょく自由じゆう変革へんかく同盟どうめい」は民選みんせんによる政権せいけん樹立じゅりつ要求ようきゅう双方そうほうによる協議きょうぎ幾度いくどとなく中断ちゅうだんしたものの、8がつ17にち両者りょうしゃは3ねん3かげつあいだ暫定ざんてい政権せいけん共同きょうどう統治とうちおこない、そのトップはまず軍人ぐんじんが1ねん9かげつつとめ、その文民ぶんみんが1ねん6かげつつとめることとし、2022ねん選挙せんきょ実施じっしすることで最終さいしゅう合意ごういし、暫定ざんてい憲法けんぽう調印ちょういんした[9][10]。8月21にちあらたな統治とうち機構きこうである最高さいこう評議ひょうぎかい発足ほっそくし、11にんのメンバーが宣誓せんせいしたほか、経済けいざい学者がくしゃアブダッラー・ハムドゥーク首相しゅしょうへの就任しゅうにん宣誓せんせいおこない、しん政権せいけん発足ほっそくした[11][12]。アフリカ連合れんごうAUえーゆー)は軍部ぐんぶとデモたい衝突しょうとつ発生はっせいしたことを加盟かめいこくとしての資格しかく停止ていししたが、暫定ざんてい政権せいけん樹立じゅりつけ、9月6にち停止ていし処分しょぶん解除かいじょした[13][14]

2021ねん10がつ25にち暫定ざんてい政権せいけんのハムドゥーク首相しゅしょうぐん拘束こうそくされ、統治とうち評議ひょうぎかいのブルハン議長ぎちょうどう評議ひょうぎかい暫定ざんてい政権せいけん解散かいさん宣言せんげん[15]全土ぜんどへの非常ひじょう事態じたい発令はつれい表明ひょうめいした[15](2021ねん10がつスーダンクーデター)。11月21にち、ブルハン将軍しょうぐんが、自宅じたく軟禁なんきんされていたハムドゥーク首相しゅしょう復職ふくしょく同意どういした[16]

スーダンぐん民政みんせい移管いかんけた枠組わくぐみについて2022ねん民主みんしゅ勢力せいりょく合意ごういしたが、アラブけい民兵みんぺい組織そしきジャンジャウィードを前身ぜんしんとするじゅん軍事ぐんじ組織そしきRSF(即応そくおう支援しえん部隊ぶたい)と組織そしき統合とうごうめぐって対立たいりつし、2023ねん4がつ15にちから首都しゅとハルツームなど国内こくない各地かくち戦闘せんとう突入とつにゅうした[17]

戦闘せんとうにより多数たすう難民なんみん発生はっせい難民なんみんキャンプでは、同年どうねん9がつまでの5ヶ月かげつあいだで5さい未満みまん子供こどもやく1500にんはしかなどで死亡しぼうした[18]

政治せいじ

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だい8だい大統領だいとうりょうオマル・アル=バシール

2019ねん4がつ11にち軍部ぐんぶによりクーデターが実行じっこうされ、憲法けんぽう停止ていし暫定ざんてい軍事ぐんじ政権せいけん実権じっけんにぎったため、議会ぎかい機能きのう停止ていししている。同年どうねん8がつ21にちよりアブダッラー・ハムドゥーク首相しゅしょうとなり組閣そかく[19]ぐん民主みんしゅ勢力せいりょくによる3ねん3ヶ月かげつ暫定ざんてい共同きょうどう統治とうちおこなっており、2022ねん選挙せんきょ実施じっし目指めざしていたが、2024ねん時点じてんでまだおこなわれていない。

クーデターまえ議会ぎかい一院制いちいんせい国民こくみん議会ぎかい(360議席ぎせき)で、ぜん議席ぎせきの60 %しょう選挙せんきょせい、15 %を比例ひれい代表だいひょうせい選出せんしゅつする。のこり25 %は女性じょせい議員ぎいんわくである。

バシール政権せいけんでは自身じしん結成けっせいした国民こくみん会議かいぎ与党よとうであった。20ねん以上いじょう軍事ぐんじ独裁どくさい政権せいけんつづいたが、2010ねん4がつ11にちに24ねんぶりの複数ふくすう政党せいとうせい選挙せんきょおこなわれた。しかし、大統領だいとうりょう選挙せんきょでは政権せいけんがわ不正ふせい理由りゆうに、最大さいだい野党やとうスーダン人民じんみん解放かいほう運動うんどう(SPLM)が大統領だいとうりょう選挙せんきょを、一部いちぶ野党やとう各種かくしゅ選挙せんきょをボイコットしたため、バシールが得票とくひょうりつ68.24 %で再選さいせんたした。

行政府ぎょうせいふちょうたる首相しゅしょうしょくは1989ねん最後さいご廃止はいしされたが、2016ねん議会ぎかい復活ふっかつ決議けつぎ。2017ねん3がつ1にちにバシール大統領だいとうりょう側近そっきんバクリー・ハサン・サーレハ英語えいごばんだい1ふく大統領だいとうりょう首相しゅしょう指名しめいし、よく2にち就任しゅうにん宣誓せんせいおこなった[20]。2019ねん4がつのクーデターにより首相しゅしょうしょく空席くうせきとなったが、同年どうねん8がつ発足ほっそくした暫定ざんてい政権せいけんではふたた首相しゅしょう就任しゅうにんしている。

一方いっぽうほう改正かいせいすすめられており、中東ちゅうとう地域ちいきやアフリカ各国かっこく現在げんざいつづけられている因習いんしゅう違法いほうする法律ほうりつ改正かいせい承認しょうにんされている。2020ねん7がつ10日とおか同国どうこく軍民ぐんみん共同きょうどう統治とうち評議ひょうぎかいにより、因習いんしゅうとしてつづけられている女性じょせい切除せつじょ女子じょし割礼かつれい)を違法いほうするとの承認しょうにん報道ほうどうされた[21]

国際こくさい関係かんけい

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バシール政権せいけんは、湾岸わんがん戦争せんそうときにはイラクサッダーム・フセイン支持しじしてオサマ・ビンラディン国際こくさいテロ組織そしきアルカイダ支援しえんしたとされたことで、1993ねんにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくテロ支援しえん国家こっか指定していけ、以後いご、2020ねん12月に指定してい解除かいじょされるまで経済けいざい制裁せいさいつづいた[22]。このあいだ一時いちじ改善かいぜんきざしがあったものの、2003ねんのダルフール紛争ふんそう勃発ぼっぱつはさらに欧米おうべい諸国しょこく対立たいりつした。このため、バシール政権せいけんはヌメイリ政権せいけん時代じだいから友好ゆうこうてきでスーダンの豊富ほうふ資源しげんもとめている中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくとの関係かんけいふかめて中国ちゅうごく企業きぎょうはスーダンの産油さんゆ企業きぎょう2つの最大さいだい株主かぶぬしとなっており[23]国際こくさい連合れんごうアフリカ連合れんごうダルフール派遣はけんだん中国ちゅうごくからの国連こくれん平和へいわ維持いじ部隊ぶたい[24]中国ちゅうごく援助えんじょみずからの大統領だいとうりょう建設けんせつするなど[25]経済けいざい軍事ぐんじ両面りょうめん両国りょうこく密接みっせつ関係かんけいっている。

またロシア連邦れんぽうプーチン大統領だいとうりょうが、2017ねん11月に訪露ほうろしたバシール大統領だいとうりょう会談かいだんするなど、スーダンとの関係かんけい重視じゅうししている[26]

2016ねん1がつ2にちサウジアラビアイスラム教いすらむきょうシーア有力ゆうりょく指導しどうしゃ処刑しょけいしたことで、サウジアラビアとイラン関係かんけい急速きゅうそく悪化あっか。イランの首都しゅとテヘランにあるサウジアラビア大使館たいしかん襲撃しゅうげきされたことをきっかけに、サウジアラビアはイランとの国交こっこう断絶だんぜつした。スーダンもこれにつづいて、イランとの国交こっこう断絶だんぜつ表明ひょうめいした[27]

2017ねん12月、トルコエルドアン大統領だいとうりょうがスーダンを訪問ほうもんし、かつてオスマン帝国ていこく影響えいきょうにあった紅海こうかい沿岸えんがんスワーキンとう英語えいごばんをトルコが開発かいはつする計画けいかく発表はっぴょう。トルコと対立たいりつするサウジアラビアやエジプトが反発はんぱつしている[28]

2020ねん隣国りんごくのエチオピア北部ほくぶティグレしゅうでエチオピア政府せいふぐんティグレ人民じんみん解放かいほう戦線せんせんあいだティグレ紛争ふんそうはじまると、2まんにん難民なんみんガダーレフしゅうカッサラしゅう流入りゅうにゅう難民なんみんキャンプが設営せつえいされた。スーダンは、1980年代ねんだいにエチオピアで発生はっせいした飢饉ききんさいにも難民なんみんキャンプの設営せつえい許容きょようしている[29]

日本にっぽんとの関係かんけい

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在留ざいりゅう日本人にっぽんじんすう - 134めい(2017ねん10がつ時点じてん[30]

在日ざいにちスーダン人数にんずう - 230めい(2017ねん12月時点じてん[30]

領土りょうど問題もんだい

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スーダンは、きたのエジプト、みなみみなみスーダンとのあいだ領土りょうど問題もんだいかかえている。

たいエジプトではエジプトが領有りょうゆうけん主張しゅちょうして実効じっこう支配しはいしているハラーイブ・トライアングルワジハルファ突出とっしゅつについて、スーダンは領有りょうゆうけん主張しゅちょうしている。

たいみなみスーダンでは、将来しょうらいてき住民じゅうみん投票とうひょうによってスーダンりょうになるかみなみスーダンりょうとなるかを決定けっていすることになっているアビエイ地域ちいきと、みなみスーダンが領有りょうゆうけん主張しゅちょうしているカフィア・キンギ地域ちいきについて、スーダンが実効じっこう支配しはいしている。

なお、エジプトとのあいだにあるビル・タウィール地域ちいきは、スーダンもエジプトも、またそのくにのいずれもが領有りょうゆうけん主張しゅちょうしておらず、世界せかいてきにもめずらしい無主むしゅとなっている。

国家こっか安全あんぜん保障ほしょう

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イギリスとソビエト連邦れんぽう中国ちゅうごく軍事ぐんじ顧問こもんだん政変せいへんたびわりつつ指導しどうし、育成いくせいつづけられてきた。スーダン内戦ないせんつうじてのたいゲリラせん経験けいけんだいよん中東ちゅうとう戦争せんそうへの部隊ぶたい派遣はけんによる参戦さんせん実績じっせきはあるが、他国たこくとの本格ほんかくてき交戦こうせん実績じっせきはない。そのため国防こくぼうというよりは国内こくない治安ちあん維持いじ内戦ないせん従事じゅうじするぐんとなっており、2000年代ねんだいになってからは石油せきゆ輸出ゆしゅつられた外貨がいか武器ぶき購入こうにゅうて、紛争ふんそうおこなっていることから国際こくさいてき非難ひなんびている。

陸軍りくぐん

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おも中国ちゅうごくせい武器ぶき使用しようされた。

戦車せんしゃ中国ちゅうごくから96しき戦車せんしゃ輸出ゆしゅつされている。ソ連それん対立たいりつはじめたヌメイリ政権せいけん時代じだい1972ねんから購入こうにゅうされた62しきけい戦車せんしゃ70りょう59しき戦車せんしゃ50りょうなども保有ほゆうしている[31]。また、85-IIMしき戦車せんしゃのライセンス生産せいさんばんである「アル・バシール」を開発かいはつしている[32]

自動じどう小銃しょうじゅうも、中国ちゅうごくから81しき自動じどう小銃しょうじゅう56しき自動じどう小銃しょうじゅう輸出ゆしゅつされ、ライセンス生産せいさんおこなわれている。また、M16のコピーひんであるノリンコしゃCQ 311を「テラブ」という名前なまえでライセンス生産せいさんしている。

また、多連装たれんそうロケットほう「WS2」の輸出ゆしゅつおこなわれた模様もようである[33]

これら中国ちゅうごくから輸出ゆしゅつされた武器ぶきにより、ダルフールでの虐殺ぎゃくさつおこなわれており、スーダンならびに中国ちゅうごく国際こくさいてき非難ひなんびている。

空軍くうぐん

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スーダン空軍くうぐんJL-8練習れんしゅう

保有ほゆうすう運用うんよう実態じったい詳細しょうさい不明ふめいであるが、スーダン空軍くうぐんでは固定こていつばさMiG-21しゅとして中国ちゅうごく生産せいさんがたJ-7およMiG-29を、回転かいてんつばさMi-24/35Mi-8/17などを保有ほゆうしている。

MiG-29については、ダルフール紛争ふんそうかんする国際こくさいてき批判ひはんにもかかわらず、2003ねんから2004ねんにかけてロシアより最新さいしん派生はせいがたひとつMiG-29ESh戦闘せんとう10とMiG-29UB練習れんしゅう2輸出ゆしゅつされ、国際こくさいてき注目ちゅうもくあつめた。ロシアは、MiG-29のこの派生はせいがた対地たいち攻撃こうげきには使用しようできない仕様しようであり紛争ふんそうには関係かんけいしないと説明せつめいしていたが、一方いっぽう対地たいち攻撃こうげきヘリコプターMi-35新型しんがた引渡ひきわたしている。

空軍くうぐん機材きざいあるじとなっているのはこのようなきゅうソ連それんせい中国ちゅうごくせい機材きざいであるが、その補助ほじょてきながら西側にしがわ諸国しょこくせい機材きざい運用うんようしている。

地理ちり

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スーダンの衛星えいせい写真しゃしん北部ほくぶ乾燥かんそうにくらべ、南部なんぶはやや湿潤しつじゅんであることがはっきりわかる

国土こくどだい部分ぶぶん広大こうだい平原へいげんで、ほぼ中央ちゅうおうナイルがわとその支流しりゅう縦貫じゅうかんする。北部ほくぶヌビア砂漠さばく南部なんぶステップ気候きこうであり、サヘル地帯ちたいひろがっている。

北部ほくぶ乾燥かんそうした砂漠さばく気候きこうであり年間ねんかん降水こうすいりょうは100ミリメートル以下いかである。わずかにナイルがわ紅海こうかい沿岸えんがん少数しょうすう人々ひとびとむにぎない。紅海こうかい沿岸えんがん起伏きふくおおく、平野へいやはあまり発達はったつしていないが、湾入わんにゅうすくなく良港りょうこうはほとんどない。

中部ちゅうぶ乾季かんきには乾燥かんそうするが、雨季うきにはまとまった降水こうすいりょうがあり、とくしろナイルがわ以東いとうのゲジラ地区ちくなどは肥沃ひよく農業のうぎょう地帯ちたいとなっている。南部なんぶのコルドファンや西部せいぶのダルフールでも事情じじょうおなじで、雨季うきには農耕のうこうおこなわれ、さらにあめけて広大こうだい草原そうげんとなった土地とち牧草ぼくそうとして、牧畜ぼくちくさかんである。

西部せいぶのダルフール地域ちいきにあるマッラ山地さんち中央ちゅうおうヌバ山地さんちなど、いくつかの山地さんち孤立こりつして存在そんざいしている。最高さいこう地点ちてんはマッラ山地さんちのデリバ・カルデラ(標高ひょうこう3042メートル)。みなみにいくにしたがって雨量うりょうえ、ステップ気候きこうとなっていく。

なお、北部ほくぶ砂漠さばく紅海こうかい沿岸えんがんいちねんちゅうにちちゅう気温きおんが40炎熱えんねつである。

デリバ・カルデラ

水系すいけい

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水系すいけいは、ほぼすべてがナイルがわへと流入りゅうにゅうする。中央ちゅうおう縦貫じゅうかんするしろナイルがわ基軸きじくとしている。ナイルがわ流量りゅうりょうみなみスーダンさい北部ほくぶスッドにて激減げきげんしているが、これが増大ぞうだいするのは、あおナイルがわわせる首都しゅとハルツーム以北いほくである。

あおナイルは乾季かんきには雨量うりょう減少げんしょうするものの、雨季うきにはエチオピア高原こうげんった大量たいりょうあめはこんでくるため流量りゅうりょう極度きょくど増大ぞうだいし、かつては下流かりゅうのエジプトで定期ていきてき洪水こうずいこしていた。

そのきたアトバラで、やはりエチオピア高原こうげんからながれてきたアトバラがわわせたのち、エジプト領内りょうないへとながくだっていく[34]

地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶん

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スーダンの地図ちず英語えいご

18のしゅうがある。()ない主要しゅよう都市とし

主要しゅよう都市とし

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主要しゅよう都市としは、首都しゅとハルツームほかオムドゥルマンアル・ハルツーム・バフリポートスーダンがある。ハルツーム、オムドゥルマン、アル・ハルツーム・バフリはナイルがわはさんで隣接りんせつしており、都市としともばれ、スーダン最大さいだい都市としけん形成けいせいしている。

経済けいざい

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首都しゅとハルツーム

国際こくさい通貨つうか基金ききん(IMF)の推計すいけいによると、2013ねんのスーダンの国内こくないそう生産せいさん(GDP)は667おくドルであり、アフリカ全体ぜんたいでは7位置いちする。一方いっぽう一人ひとりたりのGDPは1941ドルと、世界せかい平均へいきんの20 %を下回したまわ水準すいじゅんにある。1990年代ねんだいまでは、長引ながび内戦ないせん経済けいざい制裁せいさいなどで、経済けいざい完全かんぜん破綻はたん状態じょうたいであり、2019ねん現在げんざいスーダンは平和へいわ基金ききんかい発表はっぴょうしている「世界せかい失敗しっぱい国家こっかランキング」8くにである。

他方たほうで、石油せきゆ資源しげんではMelut Basin英語えいごばん(Adar/Yale油田ゆでん)やMuglad Basin英語えいごばんヘグリグHeglig油田ゆでん、ユニティ〈Unity油田ゆでん、Abu Gabra油田ゆでん)やBlue Nile Riftがおおきく世界せかい注目ちゅうもくび、アメリカの経済けいざい制裁せいさいくわえられた期間きかん石油せきゆメジャー間隙かんげきかたちで、1990年代ねんだい後半こうはんから中国ちゅうごく政府せいふのバックアップをけた中国ちゅうごくけい企業きぎょう進出しんしゅつした。かずまんにん規模きぼ中国人ちゅうごくじん労働ろうどうしゃがスーダンに派遣はけんされ、石油せきゆプラント、石油せきゆパイプライン(Greater Nile Oil Pipeline, PetroDar Pipeline)が建設けんせつされた。

Greater Nile Oil Pipelineは全長ぜんちょう1600キロメートルで、ユニティ油田ゆでん - ヘグリグ油田ゆでん - ハルツーム (Khartoum Crude Oil refinery) - ポートスーダン(紅海こうかいめんするみなと)をつないでいる。Muglad Basinから産出さんしゅつする石油せきゆは “Nile Blend” とばれている。のちに、Thar Jath油田ゆでんからヘグリグまで172キロメートルパイプラインが延伸えんしんされた。

PetroDar Pipelineは全長ぜんちょう1380キロメートルで、Palogue油田ゆでん - Adar/Yale油田ゆでん - Fula油田ゆでん - ポートスーダン(紅海こうかいめんするみなとPort Sudan Crude Oil Refinery)をつないでいる。Melud Basinから産出さんしゅつする石油せきゆは “Dar Blend” とばれている。これら油田ゆでんだい部分ぶぶん南北なんぼく合計ごうけい原油げんゆ確認かくにん埋蔵まいぞうりょうやく80 %がみなみスーダンに帰属きぞくするため、政府せいふみなみスーダンにたい高額こうがく原油げんゆ通過つうかりょう要求ようきゅうし、独立どくりつ火種ひだねとなっている。

同様どうようレアメタル埋蔵まいぞうりょう注目ちゅうもくあつめている。そのほか、メロウェダム象徴しょうちょうされるだい規模きぼ水力すいりょく発電はつでんところおよびダム、鉄道てつどう老朽ろうきゅうしたポートスーダンからハルツームあいだ)の建設けんせつ中国ちゅうごくけい企業きぎょう受注じゅちゅうするなど、きわめて濃厚のうこう協力きょうりょくした徐々じょじょ経済けいざいなおきざしがられる。以上いじょう理由りゆうから、とく東部とうぶでは経済けいざいきゅう成長せいちょうしており、首都しゅとハルツームではそう工費こうひ40おくえんけて63とうもの高層こうそうビル建築けんちく進行しんこうちゅう[いつ?]である。しかし、石油せきゆ資源しげんなどが豊富ほうふ地域ちいき南部なんぶスーダン地域ちいきであり、スーダンの支援しえんこくである中国ちゅうごくみなみスーダンにも国連こくれん平和へいわ維持いじ部隊ぶたい派兵はへいして油田ゆでん権益けんえき確保かくほしている[35]

農業のうぎょう

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東部とうぶかぎれば、「アフリカのパンかご」ともわれる肥沃ひよくなナイルがわ周辺しゅうへん農地のうち使つかっての小麦こむぎトウモロコシ栽培さいばいさかんである。とくに、ハルツームよりみなみしろナイルがわあおナイルがわはさまれた三角さんかく地帯ちたいでは、1925ねんイギリス植民しょくみん政府せいふによってゲジラ計画けいかくがおこなわれ、だい規模きぼ灌漑かんがいによって小麦こむぎ綿花めんかだい穀倉こくそう地帯ちたいとなった[36]

1993ねん内戦ないせんだい規模きぼ飢饉ききん英語えいごばんが、1998ねんよりだい規模きぼ飢饉ききん英語えいごばん発生はっせいしたことからいち時期じき低迷ていめい状態じょうたいにあったが、最近さいきんはトルコやサウジアラビアなどの周辺しゅうへん諸国しょこく企業きぎょうによる農業のうぎょう投資とうしさかんである。とりわけ湾岸わんがんアラブ諸国しょこくは、国土こくど大半たいはん農業のうぎょう不向ふむきな砂漠さばくのため食料しょくりょう供給きょうきゅうとしてのスーダンに着目ちゃくもくしている。2008ねん農業のうぎょう投資とうし契約けいやくすうは33けんで07年度ねんどの3ばいである[37]。スーダン政府せいふは、投資とうし企業きぎょう土地とちやす提供ていきょう関税かんぜい免除めんじょなどの特典とくてんで、投資とうしこくけようとしている。

交通こうつう

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スーダンの鉄道てつどうもう

鉄道てつどう

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国営こくえいスーダン鉄道てつどう運行うんこうしている。1890年代ねんだい建設けんせつ開始かいしされ、現在げんざい[いつ?]そう延長えんちょうは5311キロメートルにのぼる。国営こくえいすべてが狭軌きょうきで、うち1067ミリメートルが4595キロメートル、610ミリメートルが716キロメートルある。首都しゅとハルツームからきたワジハルファ北東ほくとうポートスーダンかう線路せんろと、みなみセンナール経由けいゆして西にしダルフール中心ちゅうしん都市としニヤラ南部なんぶスーダン北部ほくぶのワーウへとかう線路せんろがあるが、ワーウかう線路せんろ現在げんざい[いつ?]運休うんきゅうしており、区間くかん老朽ろうきゅうすすんでいる。もっと重要じゅうよう路線ろせん首都しゅとハルツームとスーダン唯一ゆいいつ外港がいこうであるポートスーダンむす路線ろせんでスーダンの鉄道てつどう輸送ゆそうの3ぶんの2はこの路線ろせんであり、中国ちゅうごくによって車両しゃりょう近代きんだいされている[38]

航空こうくう

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道路どうろ

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海運かいうん

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ポートスーダンおも港湾こうわん都市としになっている。

国民こくみん

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民族みんぞく

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ベジャじん英語えいごばん遊牧民ゆうぼくみん

北部ほくぶナイル・サハラ語族ごぞくヌビア諸語しょごはなヌビアじん英語えいごばん中部ちゅうぶヌバ山地さんち英語えいごばんニジェール・コンゴ語族ごぞくコルドファンはなヌバぞくや、南部なんぶカドゥ諸語しょご英語えいごばん[注釈ちゅうしゃく 4]はな民族みんぞくなどアラブ黒人こくじんが52 %、北部ほくぶ中心ちゅうしんにアラブした黒人こくじん黒人こくじんとの混血こんけつふくむ「アラブけい」(en:Sudanese Arabs) がそう人口じんこうやく39 %東部とうぶアフロ・アジア語族ごぞくクシベジャはなベジャじん英語えいごばん (en:Ababda peopleRashaida people) が6 %、外国がいこくじんが2 %、その1 %。

ダルフール北部ほくぶザガワぞく中部ちゅうぶフールじん南部なんぶバッガーラぞく英語えいごばん居住きょじゅうしている。

言語げんご

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アラビアスーダン方言ほうげん)と英語えいご公用こうようヌビアなどアラブ民族みんぞくひろはなされる。

2005ねん現行げんこう憲法けんぽう公用こうようについて以下いかのようにさだめている。

だいはちじょう

  1. すべてのスーダン固有こゆう言語げんご国語こくごであり、敬意けいいをもってあつかわれ、開発かいはつされ、普及ふきゅうされる。
  2. アラビアはスーダンでひろはなされる国語こくごである。
  3. アラビア国家こっかレベルで主要しゅよう言語げんごであり、英語えいご国家こっか政府せいふ公用こうよう作業さぎょう言語げんごにして、高等こうとう教育きょういくにおける教授きょうじゅ言語げんごである。
  4. 英語えいごとアラビアにくわえ、地方ちほう議会ぎかいにおいては、それ以外いがい国語こくご追加ついか公的こうてき作業さぎょう言語げんごとしてれられなければならない。
  5. 政府せいふ教育きょういくのいかなる段階だんかいにあっても、英語えいごとアラビア使用しよう差別さべつがあってはならない。

婚姻こんいん

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宗教しゅうきょう

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スーダンの宗教しゅうきょう[39]
宗教しゅうきょう パーセント
イスラム教いすらむきょう
  
70%
アニミズム
  
25%
キリスト教きりすときょう
  
5%

スンナ中心ちゅうしんとするイスラム教いすらむきょうが70 %。南部なんぶアラブじん中心ちゅうしんアニミズムなどの伝統でんとう宗教しゅうきょう(18 %)とキリスト教きりすときょう(5 %)。北部ほくぶに20まんにんほどコプト教徒きょうとがいる。

キリスト教徒きりすときょうとおおみなみスーダンの分離ぶんり独立どくりつともない、相対そうたいてきにスーダンにおけるイスラム教徒きょうと比率ひりつがり、現在げんざいはスーダンにおけるイスラム教徒きょうと比率ひりつは、周辺しゅうへんきたアフリカ諸国しょこく同様どうよう絶対ぜったい多数たすうとなっている。現在げんざい北部ほくぶのコプト教徒きょうと、コルドファン丘陵きゅうりょう地域ちいきのいくつかの伝統でんとう宗教しゅうきょうキリスト教きりすときょう信仰しんこうする民族みんぞくグループをのぞき、国民こくみんだい多数たすうがイスラム教徒きょうとである。

みなみスーダンが独立どくりつしたことで、キリスト教徒きりすときょうとへの迫害はくがいつよまっており、スーダン国内こくないキリスト教徒きりすときょうと市民しみんけんうしなった状態じょうたいにある[40]

教育きょういく

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教育きょういく制度せいどは8・3・4せい構成こうせいされており、中等ちゅうとう教育きょういく小学校しょうがっこう8ねん中学校ちゅうがっこう(Secondary School)3ねん高等こうとう教育きょういく大学だいがく4ねんとなっている。

スーダンの義務ぎむ教育きょういく小学校しょうがっこう8ねんのみであり、くわえて日本にっぽん高等こうとう学校がっこうやアメリカのハイスクール該当がいとうする教育きょういく機関きかん存在そんざいしていない。

大学だいがくやく25〜30こう存在そんざいしており、代表だいひょうてきなものとしてはゴードン記念きねん大学だいがく英語えいごばんげられる。

バシール政権せいけん成立せいりつ教育きょういくのイスラム重視じゅうしされ、1991ねんにはイスラム教育きょういく導入どうにゅうされた。これはイスラム教いすらむきょうけんにも適用てきようされたため、国内こくないイスラム教徒きょうと反発はんぱつまねいた。

同国どうこく歴史れきしてき背景はいけいなどのしょ事情じじょうにより経済けいざい状況じょうきょう不安定ふあんていいまだに解消かいしょうされていないため、その影響えいきょうから40 %以上いじょう子供こども学校がっこう充分じゅうぶんかよえていない問題もんだいてんかかえている。

保健ほけん

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社会しゃかい

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対立たいりつ

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おおきくけると、スーダンにイスラームをんだアラブされたエジプトじんかれらと現地げんち先住せんじゅう黒人こくじんとの混血こんけつ、そしてかれらに帰順きじゅんしイスラームのみならずアラビアれた先住せんじゅう黒人こくじんたち、この3しゃ子孫しそん構成こうせいされ、現代げんだい口語こうごアラビアスーダン変種へんしゅはなす「アラブじん」が北部ほくぶ中心ちゅうしん勢力せいりょくり、宗教しゅうきょうてきにはイスラム教いすらむきょう受容じゅようしつつもアラビアれなかったイスラムけい先住民せんじゅうみん西部せいぶ勢力せいりょくり、そしてイスラームすらもれず先祖せんぞ伝来でんらいのアニミズムをまもるか、一部いちぶキリスト教きりすときょう改宗かいしゅうした先住民せんじゅうみん南部なんぶ勢力せいりょくっている。この3しゃ現代げんだいスーダンの住民じゅうみん対立たいりつおおきなグループとしてげられる。

このなかでも「アラブじん」との2しゃとの対立たいりつつよく、支配しはいしゃ「アラブ」たい周辺しゅうへんされた「アラブ」という対立たいりつじく現代げんだいのスーダンの紛争ふんそうにおいてしばしばられる。宗教しゅうきょう対立たいりつ近年きんねん[いつ?]のスーダンの紛争ふんそうでは、決定的けっていてき対立たいりつじくではない。人種じんしゅてきには前述ぜんじゅつされているように、北部ほくぶはホワイトアフリカにぞくするエジプトと隣接りんせつしているためにコーカソイドけいとの混血こんけつすすみ、南部なんぶはニグロイドとコーカソイドの混血こんけつあまきなかった。なお北部ほくぶ住民じゅうみんのアラブけい住民じゅうみん南部なんぶ住民じゅうみんを「黒人こくじん」とぶが、人種じんしゅてき分類ぶんるいというよりは、アラブけなかった先住民せんじゅうみんというニュアンスでもちいている。

治安ちあん

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2019ねんきゅう政権せいけんであるバシール政権せいけん退陣たいじんしてから同国どうこくない治安ちあん状況じょうきょう一定いっていきをせているものの、暫定ざんてい政府せいふ当面とうめん課題かだいとしてかかげている経済けいざい政策せいさく現時点げんじてんでは十分じゅうぶん成果せいかげているといがたく、物資ぶっしおも燃料ねんりょう小麦粉こむぎこ)の不足ふそくくわえて物価ぶっか高騰こうとうはいまだ解消かいしょうされずおわりいとなっているままである。これにたいする散発さんぱつてきかつ小規模しょうきぼなデモが発生はっせいしているほか、首都しゅとハルツームではさらなる改革かいかくもとめるデモも発生はっせいしており、負傷ふしょうしゃ騒動そうどうへと発展はってんしている。

このため、スーダン各地かくち今後こんごだい規模きぼ抗議こうぎ活動かつどう発生はっせいする可能かのうせい完全かんぜん否定ひていできない状態じょうたいとなっており、同国どうこくでの滞在たいざいにおける危険きけんたかまっている。

また、ハルツームやかく州都しゅうとでは警察けいさつなどの治安ちあん機関きかん比較的ひかくてき機能きのうしているとわれているが、現今げんこんのこうした経済けいざい情勢じょうせい背景はいけい近年きんねんひったくりくるまじょうねらといった犯罪はんざい増加ぞうか傾向けいこうにある。一方いっぽう外国がいこくじんは、一般いっぱんてき裕福ゆうふくとらえられていることから格好かっこうのターゲットになりやすく、滞在たいざいちゅう細心さいしん注意ちゅういもとめられる。

人権じんけん

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マスコミ

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文化ぶんか

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しょく文化ぶんか

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文学ぶんがく

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スーダンは北部ほくぶアフリカにおいて小説しょうせつ詩人しじんなどの作家さっかおお輩出はいしゅつしているくにひとつである。代表だいひょうてき人物じんぶつとしてハメド・アル=ナジル英語えいごばんアミール・タージ・アル=サー英語えいごばんられている。

また、同国どうこく人権じんけん活動かつどうであり教師きょうしマフジョーブ・シャリフ英語えいごばんは、作家さっかとしてのいちめんっていた。

音楽おんがく

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美術びじゅつ

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映画えいが

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建築けんちく

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世界せかい遺産いさん

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スーダン国内こくないには、ユネスコ世界せかい遺産いさんリストに登録とうろくされた文化ぶんか遺産いさんが2けん自然しぜん遺産いさんが1けん暫定ざんていリストが9けん存在そんざいする(2019ねんだい43かい世界せかい遺産いさん委員いいんかい終了しゅうりょう時点じてん)。

ゲベル・バルカルとナパタ地方ちほう遺跡いせきぐん - (2003ねん文化ぶんか遺産いさん

祝祭日しゅくさいじつ

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スーダンの祝祭日しゅくさいじつイスラムれき固定こていされているため、世界せかいにおいて一般いっぱんてきとなっているグレゴリオれきとはことなるめんがあることを留意りゅういする必要ひつようがある。

祝祭日しゅくさいじつ
日付ひづけ 日本語にほんご表記ひょうき 現地げんち表記ひょうき 備考びこう
1がつ1にち 独立記念日どくりつきねんび 1956ねん国家こっか独立どくりつったことを記念きねんして制定せいてい
1がつ7にち コプトクリスマス
12月19にち 革命かくめい記念きねん
12月25にち クリスマス
移動いどう祝祭日しゅくさいじつ アル=マウリド・アル・ナバウィ英語えいごばん 預言よげんしゃ生誕せいたんさい
移動いどう祝祭日しゅくさいじつ イド・アル=フィトル ラマダーン終了しゅうりょう
移動いどう祝祭日しゅくさいじつ イード・アル=アドハー 犠牲ぎせいさい
移動いどう祝祭日しゅくさいじつ ヒジュラれき正月しょうがつ
移動いどう祝祭日しゅくさいじつ コプトイースター

スポーツ

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サッカー

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スーダン国内こくないでものアフリカ諸国しょこく同様どうように、サッカー圧倒的あっとうてき一番いちばん人気にんきスポーツとなっており、1965ねんにプロサッカーリーグのスーダン・プレミアリーグ創設そうせつされている。スーダンサッカー協会きょうかい英語えいごばんによって構成こうせいされるサッカースーダン代表だいひょうは、これまでFIFAワールドカップには出場しゅつじょうである。しかしアフリカネイションズカップには9出場しゅつじょうしており、1970ねん大会たいかいでははつ優勝ゆうしょうかがやいている。また、東部とうぶ中部ちゅうぶアフリカサッカー協会きょうかい評議ひょうぎかい (CECAFA) が主催しゅさいするCECAFAカップでは3優勝ゆうしょう経験けいけんつ。

オリンピック

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 2019ねんのクーデター以降いこう3年間ねんかん暫定ざんてい統治とうち期間きかんは、最高さいこう機関きかんとして、11めいによる合議ごうぎせいである主権しゅけん評議ひょうぎかい設置せっちされていた[1]が、2021ねん10がつ25にちにブルハーン議長ぎちょう一方いっぽうてき解散かいさん宣言せんげんし、11月11にちに14めいによるあらたな主権しゅけん評議ひょうぎかい組織そしき
  2. ^ イギリス・エジプト二元にげん管理かんり協定きょうていのもと、事実じじつじょうイギリスの植民しょくみんとなった。
  3. ^ ユニティしゅうヌバ山地さんちから戦闘せんとうのがれてきた南部なんぶけい住民じゅうみん2まんにん収容しゅうようしている。
  4. ^ カドゥ諸語しょご英語えいごばんは、ジョーゼフ・グリーンバーグせつニジェール・コンゴ語族ごぞくコルドファン分類ぶんるいされたが、その政治せいじてき思惑おもわくもありナイル・サハラ語族ごぞくとするせつ浮上ふじょうしたものの分類ぶんるいかんする態度たいど政治せいじてき緊張きんちょうから保留ほりゅうされたままである。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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政府せいふ

日本にっぽん政府せいふ

その

  • "Sudan". The World Factbook (英語えいご). Central Intelligence Agency. 英語えいご
  • スーダン』 - コトバンク
  • スーダン(くに』 - コトバンク

座標ざひょう: 北緯ほくい1538ふん 東経とうけい03232ふん / 北緯ほくい15.633 東経とうけい32.533 / 15.633; 32.533