那珂湊なかみなと反射はんしゃ

この記事は良質な記事に選ばれています
出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
那珂湊なかみなと反射はんしゃ
那珂湊なかみなと反射はんしゃ(2021ねん
画像がぞうひだりだいいちみぎだい
那珂湊反射炉の位置(茨城県内)
那珂湊反射炉
那珂湊反射炉の位置(日本内)
那珂湊反射炉
情報じょうほう
きゅう用途ようと 反射はんしゃ
建築けんちくぬし 徳川とくがわ斉昭なりあき
管理かんり運営うんえい 水戸みとはん
状態じょうたい 復元ふくげんぶつ現存げんそん
たか 15 m [1]
竣工しゅんこう だいいち安政あんせい2ねん1855ねん[1]
だい安政あんせい4ねん1857ねん[1]
改築かいちく 1937ねん昭和しょうわ12ねん[2]
解体かいたい 天狗てんぐとうらん元治もとはる元年がんねん=1864ねん[3]
所在地しょざいち 311-1223
茨城いばらきけんひたちなかさかえまちいち丁目ちょうめ10ばん あづまがおか公園こうえんない[2]
座標ざひょう 北緯ほくい3620ふん36.7びょう 東経とうけい14035ふん2.7びょう / 北緯ほくい36.343528 東経とうけい140.584083 / 36.343528; 140.584083 (那珂湊なかみなと反射はんしゃ)座標ざひょう: 北緯ほくい3620ふん36.7びょう 東経とうけい14035ふん2.7びょう / 北緯ほくい36.343528 東経とうけい140.584083 / 36.343528; 140.584083 (那珂湊なかみなと反射はんしゃ)
文化財ぶんかざい 茨城いばらきけん指定してい史跡しせき[2]
指定してい登録とうろくとう 2004ねん11月25にち[4][5]
備考びこう 近代きんだい産業さんぎょう遺産いさん[6]
テンプレートを表示ひょうじ
那珂湊なかみなと反射はんしゃ関係かんけい水戸みと・ひたちなか)

那珂湊なかみなと反射はんしゃ(なかみなとはんしゃろ)は、茨城いばらきけんひたちなかさかえまちいち丁目ちょうめ存在そんざいした水戸みとはん反射はんしゃ海防かいぼうのための鉄製てつせい大砲たいほう鋳造ちゅうぞう目的もくてきに、徳川とくがわ斉昭なりあき江戸えど幕府ばくふから多額たがく資金しきんりて建設けんせつしたもので、安政あんせい2ねん1855ねん)にだいいち安政あんせい4ねん1857ねん)にだい完成かんせいした[1]。ここで鋳造ちゅうぞうされた大砲たいほうはおよそ20もんおよ[7]各地かくち台場だいばけられた[1]

反射はんしゃとして十分じゅうぶん稼働かどうできないまま天狗てんぐとうらん破壊はかいされてしまったが、釜石かまいし鉱山こうざん橋野はしのだか開発かいはつする直接ちょくせつ契機けいきとなったことから、おおくの研究けんきゅうしゃは、日本にっぽん製鉄せいてつぎょう端緒たんしょひらいたことに意義いぎしている[8]

反射はんしゃ建設けんせついた背景はいけい[編集へんしゅう]

那珂湊なかみなと江戸えど時代じだい常陸ひたちこく那珂なかぐんみなとむらのち那珂湊なかみなと)はひがしまわ航路こうろ寄港きこうとして、また常陸ひたち下野げや物資ぶっし集散しゅうさんとして水戸みとはん領内りょうないでは繁華はんかであった[9]。このため、はん初代しょだい徳川とくがわ頼房よりふさころからみなとむら中心ちゅうしんとした海防かいぼうちかられており、2だい徳川とくがわ光圀みつくにみなとむら日和山ひよりやま異国いこくせん番所ばんしょいた[9]文政ぶんせい年間ねんかん1818ねん - 1831ねん)にはたびたび異国いこくせん常陸ひたちこく沖合おきあいあらわれた[10][11]警戒けいかいつよめるはんたいし、沿岸えんがん漁民ぎょみん好奇心こうきしん旺盛おうせいで、ふねんではチェスのこまナイフ瓶詰びんづめマスタードなどをもらってかえってきた[10]郷士ごうしかく堀川ほりかわきょうのように、はん許可きょかなく異国いこくじん筆談ひつだんしたとして処分しょぶんけた村人むらびともいた[11]

文政ぶんせい12ねん1829ねん)、徳川とくがわ斉昭なりあきが9だい藩主はんしゅ就任しゅうにんし、藩政はんせい改革かいかくした[12]斉昭なりあき海防かいぼう意識いしきたかく、助川すけかわ海防かいぼうじょうきずいて山野辺やまのべよしかん海防かいぼう総司そうしにんじた[13]天保てんぽう12ねん1841ねん)には水戸みとじょうした神崎かんざきほうしょ建設けんせつし、助右衛門すけえもんらに口径こうけい20 cm以上いじょうきゅう青銅せいどうせい大砲たいほうやく300もんつくらせた[14]原料げんりょう青銅せいどうはんりょうない寺社じしゃからほぼ強制きょうせいてき供出きょうしゅつさせたため寺社じしゃ不興ふきょううこととなり[15]はん斉昭なりあき勢力せいりょくむすいて斉昭なりあき一時いちじ謹慎きんしんめいじられたが、よしみひさし2ねん1849ねん)に藩政はんせいへの参与さんよゆるされ、よしみなが6ねん1853ねん)の黒船くろふね来航らいこう海防かいぼう参与さんよ任命にんめいされて幕政ばくせいにも参画さんかくするようになった[16]

このあいだよしみなが4ねん1851ねん)に薩摩さつまはん反射はんしゃ建設けんせつすことを斉昭なりあきった[17]当時とうじ水戸みとはん領内りょうないどう不足ふそくしていたこと、鉄製てつせい大砲たいほう性能せいのうすぐれているという情報じょうほうたこと、薩摩さつま藩主はんしゅ島津しまつ斉彬なりあきらとはしたしい間柄あいだがらであったことから、斉昭なりあきよしみなが5ねん1852ねん)に大工だいく飛田ひだあずかなな鹿児島かごしまおく[ちゅう 1]鉄製てつせい大砲たいほう鋳造ちゅうぞう技術ぎじゅつまなばせることにした[19]飛田ひだ鹿児島かごしまで、のち水戸みとはん派遣はけんされる技術ぎじゅつしゃ竹下たけしたきよしみぎ衛門えもんした反射はんしゃについてまなんだものとられる[20]

だいいち建設けんせつ[編集へんしゅう]

資金しきん人材じんざい調達ちょうたつ[編集へんしゅう]

安政あんせい元年がんねん3がつ1854ねん3月 - 4がつ)、水戸みとはん鉄製てつせい大砲たいほう製造せいぞうのために反射はんしゃ建設けんせつする資金しきんとして1まんりょうれを江戸えど幕府ばくふもうれた[21]。そのころ幕府ばくふ品川しながわ台場だいば建設けんせつしていたが、肝心かんじん大砲たいほうは、韮山にらやま反射はんしゃ完成かんせい見通みとおせず、佐賀さがはん発注はっちゅうしている状態じょうたいであった[22]受注じゅちゅうした佐賀さがはん多布施たふせ反射はんしゃ完成かんせいしたばかりでいま軌道きどうっておらず、大砲たいほう完成かんせい時期じき不透明ふとうめいであった[22]。そこで幕府ばくふは、水戸みとはんにもつくらせてみようとかんがえ、もうからわずか1かげつに1まんりょうけた[22]

斉昭なりあき幕府ばくふかられるさいに、りたぶん大砲たいほうにしてかえし、事業じぎょう失敗しっぱいわった場合ばあいみずからの隠居いんきょまいから年賦ねんぷかえすという提案ていあんおこなっているように、反射はんしゃ建設けんせつ熱意ねついっていた[23]。しかし、先行せんこうして反射はんしゃ建設けんせつしていた佐賀さがはん薩摩さつまはんのようにせまった事情じじょう[ちゅう 2]がなく、財政難ざいせいなんくわえ、斉昭なりあきおもれだけですすめられたことから、はん役人やくにん建設けんせつ意欲いよくひくかった[24]。そのうえ斉昭なりあき洋学ようがく軽視けいし影響えいきょうはんない反射はんしゃ知識ちしき人材じんざいがおらず、はんから指導しどうてもらう必要ひつようがあった[25]

まず、斉昭なりあき重用じゅうようしていた藤田ふじた東湖とうこ交遊こうゆうのあった三春みはるはん熊田くまだよしみぜん熊田くまだ嘉門かもん)をまねき、熊田くまだ大島おおしま高任たかとう竹下たけしたきよしみぎ衛門えもん仲介ちゅうかいした[26]大島おおしま盛岡もりおかはん鉄砲てっぽうやくつとめていた人物じんぶつ[ちゅう 3]で、蘭学らんがくおさめ、書物しょもつから知識ちしき豊富ほうふであった[30]竹下たけした薩摩さつまはんほう技術ぎじゅつしゃであり、反射はんしゃ築造ちくぞうにもかかわった経験けいけんっていた[31]。3にん安政あんせい元年がんねん5月7にち(1854ねん6月2にち)に江戸えど小石川こいしかわ水戸みと藩邸はんてい東湖とうこ面会めんかいし、5月12にち6月7にち)に水戸みと出立しゅったつした[32]。このとき竹下たけした鹿児島かごしまから煉瓦れんが(れんが)職人しょくにん福井ふくい仙吉せんきちともなっており、鹿児島かごしま派遣はけんされていた飛田ひだあずかなな帯同たいどうした[33]

建設けんせつ材料ざいりょう選定せんてい[編集へんしゅう]

人材じんざいのめどがつくと、反射はんしゃ建設けんせつ議論ぎろんおこなわれ、はんりょう水戸みと江戸えど郊外こうがい王子おうじ滝野たきのがわかで意見いけんれた[34]大島おおしま王子おうじ滝野たきのがわしたが、最終さいしゅうてき水戸みとちか那珂湊なかみなと[ちゅう 4]建設けんせつえらばれた[34]那珂湊なかみなとなかでは、太平洋たいへいようがんちかく、遠方えんぽうからでも目立めだおかうえという反射はんしゃ建設けんせつには一見いっけん不向ふむきな場所ばしょ吾妻あづまだい[36])が選定せんていされた[ちゅう 5]

そして反射はんしゃ高温こうおんえる耐火たいか煉瓦れんが材料ざいりょうさがしがされ、下野げやこく那須なすぐん小砂こいさごむらげん栃木とちぎけん那須なすぐん那珂川なかがわまちしょうすな)の粘土ねんど最良さいりょう[ちゅう 6]との結論けつろんいたった[40]てつかす燃料ねんりょう石炭せきたん助川すけかわ海岸かいがんから採取さいしゅしようとしたが、品質ひんしつすぐれなかったため、灯火ともしびようガス採取さいしゅえた[41]

着工ちゃっこうから竣工しゅんこう[編集へんしゅう]

那珂湊なかみなと反射はんしゃ煉瓦れんがかま復元ふくげん

材料ざいりょうさがしと並行へいこうして、安政あんせい元年がんねん8がつ22にち(1854ねん10月23にち)に地鎮祭じちんさいおこなって、反射はんしゃ基礎きそ工事こうじ着手ちゃくしゅした[41]建設けんせつ吾妻あづまだいはもともと地盤じばん強固きょうこであったが[42]大島おおしまはん役人やくにん工事こうじかかわった人夫にんぷ不審ふしん不満ふまんいだくほど入念にゅうねん基礎きそ工事こうじ[ちゅう 7]指示しじし、基礎きそこうだけで4かげつ消費しょうひした[43]。10月(11月 - 12月)には官舎かんしゃ完成かんせいし、大島おおしま佐久間さくまさだかい水戸みとはん現地げんち責任せきにんしゃ)はここにみ、業務ぎょうむ遂行すいこうした[41]

同月どうげつ吾妻あづまだい煉瓦れんがすえがまきずかれた[38]。この煉瓦れんが[ちゅう 8]は、小砂こいさごむら下野げやこく塩谷しおやぐん寺山てらやま白土しらつち常陸ひたちこく茨城いばらきぐん笠原かさはら久慈くじぐん諸沢もろざわむら火打石ひうちいしぜ、かたけていたもので、吾妻あづまだい関戸せきど生産せいさんした[38]吾妻あづまだいでは、竹下たけしたれてきた福井ふくい仙吉せんきち煉瓦れんがづくりに尽力じんりょくした[40]

安政あんせい2ねん1がつ20日はつか(1855ねん3月8にち)より反射はんしゃ煉瓦れんがげる工事こうじ開始かいしし、9月に完了かんりょう煙突えんとつ工事こうじ着手ちゃくしゅした[45]並行へいこうして大砲たいほう鋳型いがた鉄材てつざい購入こうにゅう計画けいかくされた[45]10月2にち11月11にちよる安政あんせい江戸えど地震じしん見舞みまわれたものの、反射はんしゃ無事ぶじであった[46]。しかし、江戸えど藩邸はんていではこの地震じしんで、反射はんしゃ推進すいしんであった藤田ふじた東湖とうこ圧死あっしした[47]11月26にち1856ねん1がつ3にち)、水戸みとはん重臣じゅうしん見守みまもなか火入ひいれをおこない、ここにだいいち完成かんせいした[48]工事こうじちゅうみなとむら村人むらびとにはなに建設けんせつしているのかは秘匿ひとくされていたため、村人むらびと海防かいぼうそなえた見張みは建設けんせつしているものとおもっていた[49]

大砲たいほう鋳造ちゅうぞう[編集へんしゅう]

安政あんせい2ねん11月26にち火入ひいれの時点じてんでは、煉瓦れんがのこしがあるなど完全かんぜん状態じょうたいではなく、安政あんせい3ねん1がつ22にち(1856ねん2がつ27にち)に反射はんしゃ鉱物こうぶつ投入とうにゅうするまどてつぶた改鋳かいちゅう作業さぎょうをもって、工事こうじ終了しゅうりょうした[50]2がつ3にち3月9にち)に1かいてつためし溶をおこない、5かい溶解ようかいでモルチールほう1もん鋳造ちゅうぞうされた[51]砲身ほうしんをくり作業さぎょうおこなったのち7がつ28にち8がつ28にち)に6はつ試射ししゃ実施じっししたが、途中とちゅうくすりしつにひびれがしょうじ、5はつ内部ないぶくだるという失敗しっぱいわった[52]5月18にち6がつ20日はつか)の6かい溶解ようかいでできた大砲たいほう空隙くうげき)のある良品りょうひん試射ししゃ見送みおくられ、8がつ1にち8がつ30にち)の8かい溶解ようかいでできた大砲たいほうは、9月26にち10月24にち)の試射ししゃ左右さゆうじゅうみみれてしまったが、そのまま幕府ばくふおさめた[53]8がつ25にち9月23にち)に襲来しゅうらいした台風たいふう煙突えんとつれたため、安政あんせい3ねん操業そうぎょう以上いじょう8かい終了しゅうりょうし、大砲たいほう3もん鋳造ちゅうぞう、うち「製品せいひん」となったのは1もんという稼動かどう成績せいせきであった[54]れた煙突えんとつ11月15にち12月12にち)に修理しゅうり完了かんりょうした[55]

このあいだ砲身ほうしん加工かこう[ちゅう 9]使つか水車みずぐるまじょう建設けんせつが、那珂湊なかみなと北西ほくせいに1.5 kmはなれた柳沢やぎさわむらげん・ひたちなか柳沢やぎさわ[ちゅう 10]すすみ、6月16にち7がつ17にち)に完成かんせいした[56]大島おおしま高任たかとういのわるかった竹下たけしたきよしみぎ衛門えもんは、水車みずぐるまじょうができるとそこにうつり、自身じしん得意とくいとする機械きかい加工かこう業務ぎょうむ従事じゅうじした[33]水車みずぐるまじょうおよび隣接りんせつするきり入場にゅうじょうきり鑽機を設置せっち)の施設しせつ自体じたいととのったが、そこで使つか中丸なかまるがわみず農業のうぎょう用水ようすいとの兼用けんようであったため、3がつはじめからなつ土用どようまでは使用しよう制限せいげんがかかり[ちゅう 11]砲身ほうしん加工かこう作業さぎょう能率のうりつわるかった[58]

また大島おおしま良質りょうしつてつるため、盛岡もりおかはんりょう釜石かまいし高炉こうろ建設けんせつすべく、8がつ14にち9月12にち)に水戸みとはんから「ひゃくにちひま」をもらって釜石かまいし旅立たびだった[59]。これ以降いこう大砲たいほう鋳造ちゅうぞう試射ししゃ竹下たけしたらが中心ちゅうしんとなってすすめた[59]

だい建設けんせつ崩壊ほうかい[編集へんしゅう]

建設けんせつから鋳造ちゅうぞう中断ちゅうだんまで[編集へんしゅう]

那珂湊なかみなと反射はんしゃ鋳造ちゅうぞうされた大砲たいほう復元ふくげんした模型もけい

だいいち煙突えんとつれて以降いこう反射はんしゃでの大砲たいほう鋳造ちゅうぞうとどこおり、はん軍事ぐんじ訓練くんれんじょうであるかみぜいかんげん水戸みと若宮わかみや丁目ちょうめ)に設置せっちされた大砲たいほう製造せいぞうしょどうせい大砲たいほう鋳造ちゅうぞうしていた[60]。このけん竹下たけしたきよしみぎ衛門えもんは「あてつけがましい」、「鉄山てつざんひら資金しきん使つかうべき」といかりをあらわにした[61]

1つのでは大型おおがた大砲たいほう鋳造ちゅうぞうすることが不可能ふかのうであるため、だい建設けんせつ計画けいかくされた[5]が、資金しきん調達ちょうたつ苦労くろうし、安政あんせい4ねん2がつ(1857ねん2がつ - 3がつ)に斉昭なりあきから内帑ないどきん(ないどきん)が下賜かしされて基礎きそ工事こうじはじまった[62]12月晦日みそか1858ねん2がつ13にち)に漆喰しっくいげて完成かんせいし、安政あんせい5ねん1がつ14にち2がつ27にち)に火入ひいれをおこなった[63]だいだいいち同型どうけいながら、まわりを改良かいりょうしたもので、だいいちひがしかれた[5]。2つの建設けんせつ使用しようされた煉瓦れんがは4まんまいおよんだ[1]

2がつ11にち3月25にち)にモルチールほう3もん同時どうじに、3月16にち4がつ29にち)にはカノンほう1もん鋳込いこみ、3月19にち5月2にち)にこれらを柳沢やなぎさわ水車みずぐるまじょうはこび、なかをくり作業さぎょうおこなった[64]。これまでの原料げんりょうたたら製鉄せいてつによる砂鉄さてつずくであったが、4がつ27にち6月8にち)に大島おおしま高任たかとう釜石かまいし大橋おおはしだか製造せいぞう成功せいこうした高炉こうろ銑鉄せんてつやわらてつ)が那珂湊なかみなととどき、5月23にち7がつ3にち)より大砲たいほう鋳造ちゅうぞうはじまった[65]7がつ6にち8がつ14にち)、高炉こうろ銑鉄せんてつ使つかった大砲たいほう鋳造ちゅうぞう成功せいこう反射はんしゃ事業じぎょう前途ぜんとしゅくして酒宴しゅえんひらかれた[65]。しかしその宴席えんせき斉昭なりあき謹慎きんしん処分しょぶんほうとどき、うたげただちに散会さんかいし、反射はんしゃ稼働かどうもしばし中断ちゅうだんとなった[66]

安政あんせい6ねん1がつ1859ねん2がつ - 3がつ)、熊田くまだよしみぜん[ちゅう 12]大島おおしま高任たかとう竹下たけしたきよしみぎ衛門えもんの3にんがそれぞれはんした[68]。3にん技術ぎじゅつしゃとして水戸みとはんまねかれたにもかかわらず、斉昭なりあき洋学ようがく蘭学らんがく)を軽視けいし蔑視べっししていたため、終始しゅうし冷遇れいぐうされた[69]。また3にん役割やくわり分担ぶんたん明確めいかくにせず、全員ぜんいん対等たいとう立場たちばまねいたため、指揮しき命令めいれい系統けいとう混乱こんらんしたうえ性格せいかくちがう3にん反目はんもくい、はんと3にんあいだ関係かんけいった佐久間さくまさだかいのこした『反射はんしゃ製造せいぞう』には、その苦労くろううかがえる記述きじゅつがある[70][71]大島おおしまらはだいじゅうまで建設けんせつする目標もくひょうっていたが、実現じつげんしたのはだいまでであった[5]

鋳造ちゅうぞう再開さいかいから天狗てんぐとうらんまで[編集へんしゅう]

文久ぶんきゅう2ねん12月(1863ねん1がつ - 2がつ)、飛田ひだあずかなな中心ちゅうしんとなって反射はんしゃ稼働かどう再開さいかいした[72]最初さいしょ失敗しっぱいしたが、12月28にち2がつ16にち)にカノンほう鋳造ちゅうぞう成功せいこう文久ぶんきゅう3ねん3月7にち(1863ねん4がつ24にち)に幕府ばくふおさめた[72]飛田ひだそこ鋳物いものすないて嵩上かさあげする、溶解ようかいしたてつ鋳型いがたながすための丸太まるたとい(とい)をつくるなど、反射はんしゃ改良かいりょうおこなった[73]

順調じゅんちょう再開さいかいむかえた反射はんしゃであったが、元治もとはる元年がんねん2がつ1864ねん3月 - 4がつ)のカノンほうすうもん鋳込いこみを最後さいご[5]同年どうねん3月27にち5月2にち)に天狗てんぐとう尊王そんのう攘夷じょうい)が筑波山つくばさん挙兵きょへいし、天狗てんぐとうらん開幕かいまくした[74]。そのなみ8がつ16にち9月16にち)に那珂湊なかみなとたっし、2かげつおよ攻防こうぼうせんすえ[75]天狗てんぐとうらん最大さいだい激戦げきせんとなった那珂湊なかみなとは、民家みんか社寺しゃじ、その大半たいはんうしなだい打撃だげきこうむった[11]。この結果けっか反射はんしゃ煙突えんとつ大破たいは水車みずぐるまじょう焼失しょうしつし、反射はんしゃ歴史れきしはこれにてじられた[76]天狗てんぐとうひきいたのは、藤田ふじた東湖とうこよんなん小四郎こしろうであり、皮肉ひにくにもちち建設けんせつちからくした反射はんしゃ息子むすこ破壊はかいする結果けっかとなった[77]反射はんしゃかかわった人々ひとびとおおくは尊王そんのう攘夷じょういであったので、自刃じじん獄死ごくしなど無惨むざんげるものおおかった[3]大砲たいほう江戸えどとどけにっていて留守るすにしていた[78]飛田ひだらえられ入牢にゅうろうしたが、職人しょくにんとしての能力のうりょくみとめられてぜにでの仕事しごともうわたされ、出獄しゅつごくした[3]。しかし、反射はんしゃうしなったショックがおおきく、仕事しごとかず、明治めいじ2ねん1869ねん)に37さいわかさでくなった[78]

水戸みとはん鋳造ちゅうぞうした鉄製てつせい大砲たいほうかずは、断片だんぺんてき記録きろくしかのこっていないため、正確せいかくにはからない[3]。28もん以上いじょうというせつもある[1]が、佐藤さとう和賀子わかこおお見積みつもっても15もん前後ぜんこうとし[3]両者りょうしゃなかあいだをとったやく20もんとする資料しりょうもある[7]。いずれにせよ、鉄製てつせい大砲たいほう先行せんこうしていた佐賀さがはん薩摩さつまはんには、量的りょうてきにも質的しつてきにもとおおよばなかった[79]

その[編集へんしゅう]

江戸えど東京とうきょうたてものえんのこ午砲ごほう

那珂湊なかみなと反射はんしゃ事業じぎょうえ、それぞれのはんもどった熊田くまだよしみぜん竹下たけしたきよしみぎ衛門えもん大島おおしま高任たかとうの3にんは、それぞれのみちあゆんだ[80]熊田くまだ藩校はんこう教師きょうしとなり、明治維新めいじいしん以後いご小学校しょうがっこう中学校ちゅうがっこう校長こうちょうつとめるなど教育きょういくはたけすすみ、竹下たけした集成しゅうせいかんかけいんめいじられ、維新いしん東京とうきょう砲兵ほうへい工廠こうしょう大阪おおさか砲兵ほうへい工廠こうしょうつとめるなど、技術ぎじゅつしゃとして生涯しょうがいえた[80]

もっと活躍かつやくしたのは大島おおしまで、てつ鉱山こうざん吟味ぎんみやくはこかん奉行ぶぎょうしょ勤務きんむ明治めいじ政府せいふ出仕しゅっしし、岩倉いわくら使節しせつだん随行ずいこうしてフライベルク鉱山こうざん大学だいがくげんフライベルク工科こうか大学だいがく)でまなび、帰国きこくこうしょうはい各地かくち採鉱さいこう事業じぎょう指揮しきした[80]晩年ばんねんブドウなえ輸入ゆにゅうして那須野なすのはらでブドウえんひらき、「那須野なすの葡萄酒ぶどうしゅ」を醸造じょうぞうした[81]大島おおしまのブドウえん醸造じょうぞう器具きぐ高田たかだまことぞういだ[82]大島おおしま息子むすこ道太郎みちたろう官営かんえい八幡やはた製鐵せいてつしょ初代しょだいわざかんとして製鉄せいてつしょ創業そうぎょう尽力じんりょくした[83]

那珂湊なかみなと反射はんしゃてつ供給きょうきゅうするために開発かいはつされた釜石かまいし鉱山こうざん橋野はしのだかは、官営かんえい釜石かまいし製鉄せいてつしょげん日本にっぽん製鉄せいてつ東日本ひがしにっぽん製鉄せいてつしょ釜石かまいし地区ちく)の設置せっちにつながり、釜石かまいしを「てつまち」にするきっかけをつくったため、那珂湊なかみなと反射はんしゃ最大さいだい意義いぎを「釜石かまいし開発かいはつ契機けいきをなし、日本にっぽん製鉄せいてつぎょう端緒たんしょひらいた」ことにもとめる研究けんきゅうしゃおお[84]橋野はしのだかあとは「明治めいじ日本にっぽん産業さんぎょう革命かくめい遺産いさん 製鉄せいてつ製鋼せいこう造船ぞうせん石炭せきたん産業さんぎょう」の一部いちぶとして2015ねん平成へいせい27ねん7がつ5にち世界せかい遺産いさん登録とうろくされた[85]

飛田ひだあずかなな子孫しそんは、代々だいだいあずかなな生家せいかあずかななのこした反射はんしゃ図面ずめん反射はんしゃ使つかわれた煉瓦れんが継承けいしょうしていた[86]反射はんしゃ図面ずめんは、1990ねん平成へいせい2ねん)に那珂湊なかみなと編纂へんさんしつ那珂湊なかみなと図書館としょかんうち)に寄贈きぞうされ[87]のち茨城いばらきけんおよびひたちなか文化財ぶんかざい指定していされた[4]

反射はんしゃ使つか煉瓦れんが原料げんりょう採取さいしゅした小砂こいさごむら[38]では、大金おおかね彦三郎ひこさぶろうすえかまつくり、小砂こいさごしょう産地さんちとなった[88]

那珂湊なかみなと反射はんしゃ鋳造ちゅうぞうしたものではないが、水戸みとはん製造せいぞう幕府ばくふ献上けんじょうした青銅せいどうほう東京とうきょう小金井こがねい江戸えど東京とうきょうたてものえん現存げんそんする[89]明治めいじ4ねん9月(1871ねん10がつ)から1920ねん大正たいしょう9ねん)まで正午しょうごげる午砲ごほうとして利用りようされ、東京とうきょうみんから「ドン」の愛称あいしょうしたしまれた[89]

反射はんしゃあと[編集へんしゅう]

反射はんしゃあとにある、あづまがおか公園こうえん那珂湊なかみなと街並まちな

反射はんしゃ天狗てんぐとうらん破壊はかいされたが、1882ねん明治めいじ15ねんごろ民間みんかんはらげられるまで、現地げんちのこっていた[78]。その完全かんぜんこわされ、はたけ変化へんかし、一部いちぶ茨城いばらき県立けんりつみなと商業しょうぎょう学校がっこうげん茨城いばらき県立けんりつ那珂湊なかみなと高等こうとう学校がっこう)の敷地しきち[78]のこりは陸軍りくぐんしょう土地とちとなった[90]

1936ねん昭和しょうわ11ねん)、那珂湊なかみなと商業しょうぎょう学校がっこう英語えいご教師きょうしせきはじめ[90]は、那珂湊なかみなと反射はんしゃかんする最初さいしょ専門せんもんしょれつおおやけ国防こくぼう反射はんしゃ』を上梓じょうしした[91]。『れつおおやけ国防こくぼう反射はんしゃ』はとく那珂湊なかみなと人物じんぶつである飛田ひだあずかななについて詳述しょうじゅつした資料しりょうてき価値かちたか著作ちょさくであるが、軍国ぐんこく主義しゅぎ時代じだい反映はんえいし、国防こくぼう意識いしき喚起かんきする啓蒙けいもうしょとしての性格せいかくびていたため、水戸みとはんまねかれた3にん技術ぎじゅつしゃのいざこざにはまった言及げんきゅうせず、福井ふくい仙吉せんきち失職しっしょく復帰ふっきをめぐる友情ゆうじょう物語ものがたり後述こうじゅつ)を美談びだんとして掲載けいさいしている[92]

1937ねん昭和しょうわ12ねん)12月[5]陸軍りくぐんしょうから土地とち購入こうにゅう[90]那珂湊なかみなと出身しゅっしん弁護士べんごし深作ふかさく貞治さだはる1888ねん - 1958ねん)が私財しざいとうじて吾妻あづまだい反射はんしゃ実物じつぶつだい模型もけい[ちゅう 13]建設けんせつした[93]模型もけいには那珂湊なかみなと反射はんしゃ実際じっさい使つかわれた煉瓦れんがさい利用りようされた[2]反射はんしゃの2つの煙突えんとつあいだには、東郷とうごう平八郎へいはちろう絶筆ぜっぴつである「護国ごこく」のきざまれたいしぶみてられた[90]平八郎へいはちろうおいである東郷とうごう吉太郎よしたろう反射はんしゃ研究けんきゅうであった[ちゅう 14]ことがえんとなったものである[90]。またせきは、模型もけい完成かんせい記念きねんして「反射はんしゃあずかななうた」を作詞さくしした[95]。5ばんまであり、かくばんうたしが「あずかななえらいぞ」のこのうたは、飛田ひだ7代目だいめ夫妻ふさいあずかななはかうしろにてた御影石みかげいしいしぶみきざまれている[95]

1970ねん昭和しょうわ45ねん)には反射はんしゃ模型もけいまえに、ここでつくられた大砲たいほう模型もけい設置せっちされた[93]大砲たいほう模型もけいは、愛郷あいきょう児童じどうかん開館かいかん記念きねん児童じどう委員いいんいね野辺のべ勝年かつとし設置せっちしたものである[96]

2004ねん平成へいせい16ねん11月25にち[4]、「那珂湊なかみなと反射はんしゃあと つけ那珂湊なかみなと反射はんしゃ資料しりょう25てん」として[7]茨城いばらきけん史跡しせき指定していされた[2]那珂湊なかみなと反射はんしゃ大島おおしまによる洋式ようしきだか建設けんせつ契機けいきとなったことにくわえ、先人せんじん反射はんしゃあと復元ふくげん模型もけいて、保存ほぞんしてきたことも史跡しせき指定していさい評価ひょうかけた[5]名称めいしょうとおり、反射はんしゃあと(5,315 m2[4])だけでなく、飛田ひだあずかななのこした反射はんしゃかんする資料しりょう(つけたり)として文化財ぶんかざい指定していけている[7]けん史跡しせき対象たいしょうとならなかった飛田ひだ資料しりょう[7]、「那珂湊なかみなと反射はんしゃ飛田ひだ資料しりょう」として2003ねん平成へいせい15ねん10月15にちにひたちなか歴史れきし資料しりょう指定していされている[4]2007ねん平成へいせい19ねん11月30にち経済けいざい産業さんぎょうしょうは「33近代きんだい産業さんぎょう遺産いさんぐんかかるストーリー」を公表こうひょう[97]、「『近代きんだい技術ぎじゅつ導入どうにゅう事始ことはじめ』海防かいぼう目的もくてきとした近代きんだい黎明れいめい技術ぎじゅつ導入どうにゅうあゆみを物語ものがた近代きんだい産業さんぎょう遺産いさんぐん」を構成こうせいする遺産いさんとして「水戸みとはんによる事業じぎょう関連かんれん遺産いさん」を認定にんてい那珂湊なかみなと反射はんしゃかんするものは「那珂湊なかみなと反射はんしゃあとおよ反射はんしゃ模型もけい」と「耐火たいか煉瓦れんが焼成しょうせいようのぼかま復元ふくげん)」がえらばれた[6]

2015ねん平成へいせい28ねん)8がつ反射はんしゃ模型もけいしろ塗装とそうする改修かいしゅう工事こうじ着手ちゃくしゅ[98]同年どうねん12がつ完了かんりょうした[99]。これを契機けいきとして、2016ねん平成へいせい28ねん1がつ17にちに「反射はんしゃシンポジウム2016」が那珂湊なかみなと総合そうごう福祉ふくしセンター(しあわせプラザ)で開催かいさいされた[99]。シンポジウムでは、大島おおしま高任たかとう玄孫げんそん那珂湊なかみなと反射はんしゃ歴史れきしてき文化財ぶんかざいてき価値かちについて基調きちょう講演こうえんおこなったのち大島おおしま玄孫げんそん飛田ひだあずかななおとうと子孫しそんらがパネルディスカッションのぞんだ[99]

2021ねんれい3ねん3がつ20日はつか、つくばマルチメディアが運営うんえいする「茨城いばらきVRツアー」のスポットの1つとして、あづまがおか公園こうえん那珂湊なかみなと反射はんしゃあと追加ついかされた[100]地上ちじょうおよび上空じょうくうからVR写真しゃしん那珂湊なかみなと反射はんしゃあとることができる[101]

修身しゅうしん教材きょうざい飛田ひだ福井ふくい友情ゆうじょう[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせんまえ修身しゅうしん国定こくてい教科書きょうかしょには、「ともだち」とだいした飛田ひだあずかなな福井ふくい仙吉せんきち物語ものがたり掲載けいさいされていた[102]煉瓦れんが職人しょくにんとして那珂湊なかみなとにやってきた福井ふくいは「煉瓦れんが神様かみさま」とたたえられるほどの技術ぎじゅつしゃであったが、酒好さけずきがわざわいし、安政あんせい3ねん(1856ねん)に酒席しゅせき上役うわやく口論こうろんになり、江戸えど藩邸はんていあずかりの処分しょぶんけた[103]。このとき竹下たけしたきよしみぎ衛門えもん飛田ひだは、福井ふくいふたた一緒いっしょ仕事しごとができるよう反射はんしゃちかくにある岩間いわま稲荷いなり祈願きがんした[104][103]。するといのりがつうじたのか[ちゅう 15]福井ふくいゆるされて那珂湊なかみなともどった[91]もどった福井ふくいだんしゅし、以前いぜんにもしてまじめにはたらき、苗字みょうじ帯刀たいとうゆるされた[91]。これをよろこんだ竹下たけした飛田ひだ福井ふくいの3にん岩間いわま稲荷いなり石段いしだん寄進きしん[103]竹下たけした本殿ほんでんばことういたうらにその経緯けいいしるした文章ぶんしょうつづって奉納ほうのうした[91]。この奉納ほうのうぶんは、1921ねん大正たいしょう10ねん)にさい発見はっけんされるまで、られていなかった[91]

周辺しゅうへん[編集へんしゅう]

山上さんじょうもん

ひたちなか海浜かいひん鉄道てつどう湊線みなとせん那珂湊なかみなとえきから徒歩とほ10[1] - 15ふん[2]みなと公園こうえん北方ほっぽう位置いちする[1]反射はんしゃあとは「あづまがおか公園こうえん」(さかえまちいち丁目ちょうめ10ばん)になっており、そのなか反射はんしゃ復元ふくげん模型もけいがある[2][105]園内えんないには、水戸みとはん江戸えど小石川こいしかわ藩邸はんていにあった山上さんじょうもん(さんじょうもん)が移築いちくされている[105]山上さんじょうもん勅使ちょくしむかえるためのもんとしててられ、藤田ふじた東湖とうこていちかかったことから[106]東湖とうこたずねて[106]佐久間さくま象山ぞうさん[105][106]橋本はしもとひだりない[105][106]西郷さいごう隆盛たかもり[105]横井よこい小楠しょうなん[106]もこのもんをくぐったとつたえられる[105][106]明治めいじ以降いこう藩邸はんてい陸軍りくぐん兵器廠へいきしょうとなり、もん放置ほうちされていたが、反射はんしゃ復元ふくげんした深作ふかさく貞治さだはるはらげをけて[106]反射はんしゃ復元ふくげん前年ぜんねん・1936ねん昭和しょうわ11ねん)に那珂湊なかみなと移築いちくされた[105]那珂湊なかみなと反射はんしゃ関連かんれんする文化財ぶんかざいさきんじて、山上さんじょうもん1992ねん平成へいせい4ねん6月25にちにひたちなか指定してい文化財ぶんかざい建造けんぞうぶつ)となった[4]

反射はんしゃあと付近ふきんには、岩間いわま稲荷いなりがある[106]反射はんしゃ建設けんせつ安全あんぜん祈願きがんするために再建さいけんされたことから「反射はんしゃ稲荷いなり」の異名いみょうがあり、安政あんせい5ねん(1858ねん)、はんまえにした竹下たけしたきよしみぎ衛門えもんが、飛田ひだあずかなな福井ふくい仙吉せんきちとともにほこら寄進きしんした[107]。そのすぐちかくには、飛田ひだちちあずか衛門えもん本堂ほんどうつくった西滝にしたき不動尊ふどうそんがあり、福井ふくい寄進きしんした自然しぜんせき手洗鉢てあらいばちのこ[108]

反射はんしゃにちなむもの[編集へんしゅう]

くろあめ[編集へんしゅう]

ひたちなかさかえまちいち丁目ちょうめにある和菓子わがしてん菓子かしところ 稲葉いなば」は、那珂湊なかみなと反射はんしゃにちなんだ「反射はんしゃのてっぽうだま」というくろあめ製造せいぞう販売はんばいしている[109]同店どうてんさんゆたかとうたま砂糖さとう黒糖こくとうちゅうそうとうの4種類しゅるい砂糖さとうもちいて明治めいじ創業そうぎょう以来いらい手作てづくりで製造せいぞうする[109]

野外やがいげき[編集へんしゅう]

東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさい津波つなみ被害ひがいけた那珂湊なかみなとでは、急速きゅうそく人口じんこう減少げんしょう高齢こうれいすすんでいる[110]。そこで地域ちいきげようと野外やがいげき企画きかくされ、せきはじめ1940ねん昭和しょうわ15ねん)にシナリオをき、映画えいが寸前すんぜんまでいった『水戸みと反射はんしゃ最後さいご』をもとにした『みなとむら反射はんしゃ物語ものがたり幕末ばくまつけたある大工だいくあい記録きろく―』を上演じょうえんすることがまった[110]脚本きゃくほん毎年まいとしひたちなかている錦織にしきおり伊代いよ演出えんしゅつ水戸みと芸術げいじゅつかん活動かつどうしていた黒澤くろさわ寿ひさしかたつとめた[110]役者やくしゃ住民じゅうみんから公募こうぼした22にん[111]茨城いばらき女子じょし短期大学たんきだいがく表現ひょうげん文化ぶんか学科がっかとダンスサークルのメンバー18にん[112]など合計ごうけいやく50にんつと[111]2018ねん平成へいせい30ねん8がつ11にち8がつ12にち両日りょうじつみなと公園こうえん上演じょうえんされた[112]当日とうじつおなじひたちなか市内しないROCK IN JAPAN FESTIVAL開催かいさいされていたが[111]、のべ1,800にん観劇かんげきした[111][112]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 飛田ひだみなとむら宮大工みやだいく家庭かていまれ、16さいにして水戸みとはん家老がろう雑賀さいか孫一まごいちてい門扉もんぴかざさんほんあしのカラス彫刻ちょうこく担当たんとうした[18]。このとき出来栄できばえがかったため、雑賀さいか推薦すいせんけて当時とうじ19さい飛田ひだ士分しぶんてられたうえ鹿児島かごしま派遣はけんされた[19]
  2. ^ 佐賀さがはん長崎ながさき防衛ぼうえい薩摩さつまはん琉球りゅうきゅうとの関係かんけいがあったため、大砲たいほう必要ひつようであった[22]
  3. ^ 熊田くまだよしみぜんによれば、大島おおしまちちとともに南部なんぶひょう百姓ひゃくしょう騒動そうどう関与かんよして以降いこう盛岡もりおかはんでは評判ひょうばんくなかったという[27]反射はんしゃ建設けんせつはじまると、藤田ふじた東湖とうこ中心ちゅうしんに、大島おおしまを300せき水戸みと藩士はんしとしてかかえる計画けいかく浮上ふじょうした[28]盛岡もりおかはん了承りょうしょうていたが、大島おおしま本人ほんにん固辞こじしたため、実現じつげんしなかった[29]
  4. ^ 水戸みとはん領内りょうない石炭せきたん産地さんちであったこと、那珂湊なかみなと水上すいじょう交通こうつうすぐれていたことが選定せんてい理由りゆうである[35]
  5. ^ 金子かねこいさおは、那珂川なかがわ河口かこう堆積たいせきそうから独立どくりつした強固きょうこ地盤じばんであったことか、のち竹下たけしたほどきをけて反射はんしゃ責任せきにんしゃとなる飛田ひだあずかなながこのおかしたんでいたことが選定せんてい理由りゆうではないかと推測すいそくしている[37]
  6. ^ 小砂こいさごむら水戸みとはんりょうであり、斉昭なりあき陶器とうき生産せいさん奨励しょうれいしたさいに、さくすえてきしたであることが判明はんめいしていた[38]大島おおしま安政あんせい元年がんねん7がつ15にち(1854ねん8がつ8にち)に那珂湊なかみなとから那珂川なかがわ遡上そじょうし、沿岸えんがんむら々をたずね、小砂こいさごむらにたどりいた[39]
  7. ^ 地面じめんげ、巨石きょせきいしとして投入とうにゅうし、くいち、そのうえ切石きりいしくず壁土かべつちぜてかため、さらにそのうえ切石きりいしいた[41]当初とうしょ杞憂きゆうおもわれたこの基礎きそこうは、よく安政あんせい2ねん10月2にち発生はっせいした安政あんせいだい地震じしんさい被害ひがいさなかったことで威力いりょく発揮はっきした[43]
  8. ^ しろ灰色はいいろ煉瓦れんがおもとし、あか煉瓦れんがふくまれていた[44]
  9. ^ 鉄製てつせい大砲たいほうは、反射はんしゃ円柱えんちゅうがた砲身ほうしんつくったのちなかを鑽開きり鑽機)でくりいて製造せいぞうした[36]
  10. ^ 中丸なかまるがわ那珂川なかがわ合流ごうりゅうする地点ちてんにあった[36]
  11. ^ 1かげつに2かいだけ、2昼夜ちゅうやとおして作業さぎょうすることがゆるされた[57]
  12. ^ 熊田くまだ大島おおしま竹下たけしたりょう紹介しょうかいした立役者たてやくしゃであるが、反射はんしゃ建設けんせつ操業そうぎょうかんして、どのような役割やくわりたしたか、よくかっていない[26]水戸みとはん役人やくにんに「あなたは大島おおしま竹下たけした仲介ちゅうかいじんにすぎないのだから、反射はんしゃ口出くちだしするな」とわれて熊田くまだ激怒げきどしたという記録きろくのこっている[67]
  13. ^ 敷地しきち一部いちぶみなと商業しょうぎょう学校がっこうになっていたため、模型もけい位置いち本来ほんらい反射はんしゃ位置いちとは若干じゃっかんずれている[93]
  14. ^ よし太郎たろう飛田ひだあずかななはか顕彰けんしょうぶんせた[90]ほか、さきの『れつおおやけ国防こくぼう反射はんしゃ』に序文じょぶん寄稿きこうした[94]
  15. ^ 実際じっさいには福井ふくいがいなければ煉瓦れんがつくれず、反射はんしゃ工事こうじすすまないためもどされたのが真相しんそうである[103]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i ワークス へん 1997, p. 43.
  2. ^ a b c d e f g 那珂湊なかみなと反射はんしゃあと”. 観光かんこうスポット・イベント情報じょうほう. 東日本旅客鉄道ひがしにほんりょかくてつどう. 2021ねん5がつ9にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e 佐藤さとう 1988, p. 92.
  4. ^ a b c d e f ひたちなか指定してい文化財ぶんかざい一覧いちらんくにけん指定してい文化財ぶんかざい”. ひたちなか文化財ぶんかざいしつ (2020ねん7がつ21にち). 2021ねん5がつ9にち閲覧えつらん
  5. ^ a b c d e f g 那珂湊なかみなと反射はんしゃあとつけ那珂湊なかみなと反射はんしゃ資料しりょう25てん”. 茨城いばらきけん教育きょういく委員いいんかい. 2021ねん5がつ9にち閲覧えつらん
  6. ^ a b 近代きんだい産業さんぎょう遺産いさんぐん33”. 経済けいざい産業さんぎょうしょう (2007ねん11月). 2021ねん5がつ9にち閲覧えつらん
  7. ^ a b c d e ひたちなか文化財ぶんかざい紹介しょうかい”. ひたちなか文化財ぶんかざいしつ (2021ねん2がつ10日とおか). 2021ねん5がつ9にち閲覧えつらん
  8. ^ 佐藤さとう 1988, pp. 92–100.
  9. ^ a b 佐藤さとう 1988, p. 2.
  10. ^ a b 佐藤さとう 1988, pp. 1–2, 11.
  11. ^ a b c 平凡社へいぼんしゃ 1982, p. 217.
  12. ^ 金子かねこ 1995, p. 339.
  13. ^ 佐藤さとう 1988, p. 11.
  14. ^ 金子かねこ 1995, p. 345.
  15. ^ 金子かねこ 1995, pp. 345–346.
  16. ^ 佐藤さとう 1988, pp. 11–13.
  17. ^ 佐藤さとう 1988, p. 26.
  18. ^ 佐藤さとう 1988, p. 27.
  19. ^ a b 佐藤さとう 1988, pp. 26–27.
  20. ^ 金子かねこ 1995, p. 369.
  21. ^ 金子かねこ 1995, p. 347.
  22. ^ a b c d 金子かねこ 1995, p. 348.
  23. ^ 金子かねこ 1995, pp. 347–348.
  24. ^ 金子かねこ 1995, pp. 348–349.
  25. ^ 金子かねこ 1995, p. 349.
  26. ^ a b 金子かねこ 1995, pp. 350–351.
  27. ^ 佐藤さとう 1988, p. 40.
  28. ^ 佐藤さとう 1988, p. 38.
  29. ^ 佐藤さとう 1988, pp. 39–43.
  30. ^ 金子かねこ 1995, p. 352, 355.
  31. ^ 金子かねこ 1995, pp. 353–355.
  32. ^ 佐藤さとう 1988, p. 33.
  33. ^ a b 金子かねこ 1995, p. 355.
  34. ^ a b 金子かねこ 1995, p. 358.
  35. ^ 佐藤さとう 1988, p. 28.
  36. ^ a b c 佐藤さとう 1988, p. 35.
  37. ^ 金子かねこ 1995, pp. 355–356, 358.
  38. ^ a b c d 佐藤さとう 1988, p. 36.
  39. ^ 佐藤さとう 1988, pp. 35–36.
  40. ^ a b 金子かねこ 1995, p. 359.
  41. ^ a b c d 佐藤さとう 1988, p. 37.
  42. ^ 佐藤さとう 1988, p. 35, 37.
  43. ^ a b 金子かねこ 1995, pp. 359–360.
  44. ^ 佐藤さとう 1988, p. 43.
  45. ^ a b 佐藤さとう 1988, p. 45.
  46. ^ 佐藤さとう 1988, pp. 3–9.
  47. ^ 佐藤さとう 1988, p. 9.
  48. ^ 佐藤さとう 1988, pp. 46–47.
  49. ^ 佐藤さとう 1988, p. 3.
  50. ^ 佐藤さとう 1988, p. 74.
  51. ^ 佐藤さとう 1988, pp. 74–77.
  52. ^ 佐藤さとう 1988, p. 77.
  53. ^ 佐藤さとう 1988, pp. 77–78.
  54. ^ 佐藤さとう 1988, pp. 78–80.
  55. ^ 佐藤さとう 1988, p. 81.
  56. ^ 佐藤さとう 1988, p. 35, 81.
  57. ^ 金子かねこ 1995, p. 363.
  58. ^ 金子かねこ 1995, pp. 362–363.
  59. ^ a b 佐藤さとう 1988, pp. 48–55.
  60. ^ 佐藤さとう 1988, pp. 82–83.
  61. ^ 佐藤さとう 1988, p. 84.
  62. ^ 佐藤さとう 1988, pp. 84–86.
  63. ^ 佐藤さとう 1988, p. 86.
  64. ^ 佐藤さとう 1988, pp. 86–87.
  65. ^ a b 佐藤さとう 1988, p. 88.
  66. ^ 佐藤さとう 1988, pp. 88–89.
  67. ^ 金子かねこ 1995, p. 351.
  68. ^ 佐藤さとう 1988, p. 89.
  69. ^ 金子かねこ 1995, p. 344.
  70. ^ 佐藤さとう 1988, pp. 64–68.
  71. ^ 金子かねこ 1995, pp. 354–357.
  72. ^ a b 佐藤さとう 1988, p. 90.
  73. ^ 金子かねこ 1995, p. 364.
  74. ^ 佐藤さとう 1988, pp. 90–91.
  75. ^ 佐藤さとう 1988, p. 91.
  76. ^ 佐藤さとう 1988, pp. 91–92.
  77. ^ 金子かねこ 1995, pp. 382–383.
  78. ^ a b c d 金子かねこ 1995, p. 371.
  79. ^ 佐藤さとう 1988, pp. 92–93.
  80. ^ a b c 佐藤さとう 1988, p. 94.
  81. ^ 佐藤さとう 1988, pp. 95–97.
  82. ^ 半澤はんざわ 2012, p. 131.
  83. ^ 佐藤さとう 1988, p. 96.
  84. ^ 佐藤さとう 1988, p. 100.
  85. ^ 橋野はしのてつ鉱山こうざん世界せかい遺産いさん”. いわてのたび. 岩手いわてけん観光かんこう協会きょうかい. 2021ねん5がつ9にち閲覧えつらん
  86. ^ 金子かねこ 1995, p. 359, 370, 384-385.
  87. ^ 金子かねこ 1995, p. 370, 385.
  88. ^ とちぎの伝統でんとう工芸こうげいひん 小砂こいさごしょう”. 栃木とちぎけん産業さんぎょう労働ろうどう観光かんこう工業こうぎょう振興しんこう. 2021ねん5がつ9にち閲覧えつらん
  89. ^ a b 金子かねこ 1995, p. 376.
  90. ^ a b c d e f いそ﨑 2019a, p. 6.
  91. ^ a b c d e 佐藤さとう 1988, p. 69.
  92. ^ 佐藤さとう 1988, pp. 69–70.
  93. ^ a b c 金子かねこ 1995, p. 373.
  94. ^ 佐藤さとう 1988, p. 70.
  95. ^ a b 金子かねこ 1995, pp. 368–389.
  96. ^ 金子かねこ 1995, pp. 369–370.
  97. ^ セーレン本館ほんかんやはたや記念きねんかん「ゆめおーれ勝山かつやま」などが「近代きんだい産業さんぎょう遺産いさん」に認定にんていされました”. 福井ふくいけん文化ぶんか・スポーツきょく文化ぶんか (2009ねん4がつ4にち). 2021ねん5がつ9にち閲覧えつらん
  98. ^ hitachinakacity (2015ねん12月22にち). “しろかがやきがふたたび。那珂湊なかみなと反射はんしゃ”. ほうひたちなか〜まちの話題わだい. ひたちなか広報こうほうこう聴課. 2021ねん5がつ16にち閲覧えつらん
  99. ^ a b c hitachinakacity (2015ねん12月22にち). “反射はんしゃシンポジウム2016開催かいさい”. ほうひたちなか〜まちの話題わだい. ひたちなか広報こうほうこう聴課. 2021ねん5がつ16にち閲覧えつらん
  100. ^ ひたちなか観光かんこうVRツアーに13けん観光かんこうスポットを追加ついかしました。”. 茨城いばらきVRツアーニュース. つくばマルチメディア (2021ねん3がつ20日はつか). 2021ねん5がつ16にち閲覧えつらん
  101. ^ ひたちなか観光かんこう名所めいしょ・おすすめ観光かんこうスポット案内あんない”. 茨城いばらきVRツアーニュース. つくばマルチメディア. 2021ねん5がつ16にち閲覧えつらん
  102. ^ 佐藤さとう 1988, p. 68.
  103. ^ a b c d 金子かねこ 1995, p. 372.
  104. ^ 金子かねこ 1995, pp. 68–69.
  105. ^ a b c d e f g ひたちなか史跡しせきおよ観光かんこう名勝めいしょう情報じょうほう”. ひたちなか観光かんこうサイト. ひたちなか観光かんこう振興しんこう (2017ねん2がつ1にち). 2021ねん5がつ9にち閲覧えつらん
  106. ^ a b c d e f g h 金子かねこ 1995, p. 374.
  107. ^ 金子かねこ 1995, pp. 374–375.
  108. ^ 金子かねこ 1995, p. 375.
  109. ^ a b 菓子かしところ 稲葉いなば”. 「ひたちなかのみせ」e情報じょうほうサイト. ひたちなか商工しょうこう会議かいぎしょ事業じぎょう事業じぎょう推進すいしん. 2021ねん4がつ12にち閲覧えつらん
  110. ^ a b c いそ﨑 2019b, p. 6.
  111. ^ a b c d いそ﨑 2019c, p. 6.
  112. ^ a b c はるか (2018ねん8がつ13にち). “野外やがいげきみなとむら反射はんしゃ物語ものがたり」〜本番ほんばんへん”. 秋桜あきざくらBLOG. 茨城いばらき女子じょし短期大学たんきだいがく. 2021ねん5がつ10日とおか閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]