折り焚く柴の記では天変地異とは言わず天変地妖と言っている。
いきなり富士山の灰が真っ白に積もっていたらそう言いたくもなるわな。
鹿児島辺りでは灰がふっても平気で暮らしているわけだから、
別に灰くらいではどうということもないのかもしれんが。
> (宝永五(1708))六月の半ばに至りて我が家のほとりの町々を他所に引きうつされ(飯田町也)、また「おほくの人々の宅地かしこここにうつさるべし」など聞こゆ。これは城北に御所を作らるによれりといふ。
どうもまず元禄大地震(元禄十六(1703)年)で湯島天神から雉子橋外に引っ越して、それから宝永大噴火の後飯田町に移り、
それから一ツ橋御舂屋隣に越してきたらしい。飯田橋と雉子橋外は違うようである。
雉子橋外には従って五年くらいはいたようだ。
となると神田小川町というのも別の家だったのかもしれず、
これはもうきちんと日記を読まないとなにがなにやらわからない。
御舂屋の「舂」(つき)は良く見ると「春」ではなくて下の「日」のところが「臼」になっているのであった。
今まで全然気がつかなかった。
御舂屋隣に越してきたのは正徳二(1712)年五月なので、飯田町には四年ほどいたようだ。
城北とは北の丸のことでここに綱吉が隠居するための御殿を作ろうとしていたらしい。
北の丸は当時屋敷など何もない空き地だったはずだ。
つまり、綱吉は隠居して西の丸に移るのではなくて北の丸に屋敷を作ろうとしたということで、
綱吉はすぐ死んでしまったのでこのときには完成せず、のちに吉宗の時代に田安家が出来たときに田安殿という建物が作られた、
ということだろう。
また、家宣は綱吉が死去したから急に代替わりしたのだが、
綱吉が長生きしていればそのうち家宣が将軍となり、綱吉は大御所となって、好き勝手やるつもりでいたのだろう。
まあその方が綱吉の旧臣たちにも都合がよかったのに違いない。
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