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両シチリア王国 - はかもなきこと

りょうシチリア王国おうこく

『アルプスの少女しょうじょデーテ』を手直てなおししているのだが、『ハイジ』は1880ねんかれていて、このとしにハイジが10さいくらいだとすると、トビアスがまれたのは1850ねんくらいとなる。
アルムじいさんはナポリで傭兵ようへいになったというが、このときナポリはりょうシチリア王国おうこく首都しゅと君主くんしゅはブルボン。このブルボンはスペイン・ブルボンだが、もとはフランスのブルボン分家ぶんけ。フランスとスイスはふか関係かんけいがあり、スイスから直接ちょくせつナポリに傭兵ようへいになりにってもおかしくはない。

しかし、りょうシチリア王国おうこくではこの時期じきなに戦争せんそうきてない。ちかいのは1816ねん、ナポレオンの没落ぼつらくとウィーン体制たいせい確立かくりつのとき。つぎは1860ねん、ナポリがガリバルディぐんによって陥落かんらくしてイタリア統一とういつがなったとき

ナポリはそんなおおきなくにではない。平時へいじからうじゃうじゃ常備じょうびぐん傭兵ようへいたとはおもえない。ガリバルディがめてきたときのけっぷりからして、よほど油断ゆだんしていたか、そもそも軍備ぐんびらしきものがなかった、とさえおもえる。

それで、かりにボナパルト失脚しっきゃくにアルムじいさんが従軍じゅうぐんしたとすると、ハイジがフランクフルトにってかえってきたのは1850ねんくらいのことになる。ちと時代じだい設定せっていふるすぎる。また、1860ねん従軍じゅうぐんしたとすると、ハイジのフランクフルトきは1890ねんくらいのことになり、時期じきてきおそすぎる。

それで、ハイジの作者さくしゃは、執筆しっぴつの20ねんくらいまえきた、比較的ひかくてき記憶きおくあたらしいイタリア統一とういつ戦争せんそう漠然ばくぜんとイメージしていたのではないか、時期じきてきわないけど、という仮説かせつるとおもう。そうすると、アルムおじさんの祖先そせんがナポレオンのアルプスえ(1799ねん)に参加さんかして傭兵ようへいがった、というはなしにつながりやすい。先祖せんぞが1848ねんのウィーン体制たいせい崩壊ほうかいのとき、ルイ・ナポレオンにしたがったとすると、アルムじいさんのおとうさんの時代じだいになってしまう。まあ、それでもはなしつくれるのだが、ちとせわしすぎる。

アルムおじさんが1860ねんりょうシチリア王国おうこく傭兵ようへいだったとすると、ガリバルディによって征服せいふくされる敗軍はいぐんなかにいたことになる。それもはなしとしてはおもしろい。いまは、最初さいしょフランス・サルディーニャ連合れんごうぐんて、それからサルディーニャぐん編成へんせいされた、という設定せっていになっているのだが。さて、どうしたものか。

そもそも、アルムおじさんとハイジは1830ねんかれたべつはなしから借用しゃくようしたものであり、おじさんが傭兵ようへいにいこうがいくまいが、時代じだいわないのはたりまえであるといえる。

わたしは『ハイジ』のなかでデーテだけが実在じつざいのモデルにもとづいてかれている、とおもっている。つまり、『ハイジ』は1880ねん当時とうじのデーテけいのソースと1830ねん当時とうじのアルムおじさんけいのソースをミックスしてつくったものなのだ。そうすると、1860年代ねんだいにナポリでまれた傭兵ようへい子供こどもというのがじつはハイジなのではないか。傭兵ようへいったのはトビアスなのではないか。デーテはなにかの理由りゆうで、トビアスからハイジをあずかることになり(トビアスがんだので遠縁とおえんということでることになったのかもしれない)、10さいくらいのそのをフランクフルトにれていったけど、都会とかい生活せいかつにうまくなじめなかった、そのはなしいたのがだいたい1875ねんごろ、とすればうまく辻褄つじつまがあう。

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