たいみなみさんやま國王こくおうびょう

すわ23°00′06″N 120°12′10″E / 23.001708°N 120.202846°E / 23.001708; 120.202846
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さんやま國王こくおうびょう
しお汕會かん
さんやま國王こくおうびょう正面しょうめん
位置いち 臺灣たいわんたい南市みなみいちきた西門にしもんさんだん100ごう
たてしげる时间 清朝せいちょういぬいたかしななねん(1742ねん
网站たいみなみさんやま國王こくおうびょうfacebookかんもう
類型るいけい登錄とうろく等級とうきゅう國定こくてい古蹟こせき
登錄とうろく種類しゅるいてらびょう
詳細しょうさい登錄とうろく資料しりょう

たいみなみさんやま國王こくおうびょうくらい臺灣たいわんたい南市みなみいちきたため中華民國ちゅうかみんこく國定こくてい古蹟こせきびょう內主まつさんやま國王こくおう[註 1]左右さゆう殿どの分別ふんべつ奉祀ほうしてんきさき聖母せいぼあずかかんぶんこう

沿革えんかく[编辑]

創建そうけん年代ねんだい爭議そうぎ[编辑]

地方ちほうこころざしてき記錄きろく

きよしいぬいたかしじゅうななねん(1752ねんあいだ魯鼎うめしゅおさむおう必昌纂輯じゅうおさむ臺灣たいわんけんこころざしろく:「三山國王廟在小北門內鎮北坊水仔尾。廟祀びょうし粵潮しゅうはばさん明山めいさんどく山之神やまのかみ三山みやまざい揭陽けんさかいはらびょうざいはばさんふもとたまものがくあきら貺」。しおしょ邑,みなゆうほこらまつ。粵人らいだいしゃ,咸奉其香けんびょううん)。雍正ななねん(1729ねん),けん楊允璽、ひだり營遊げきりんゆめぐまりつ粵東しょしょうみんけん 。」[1]だいみなみ三山國王廟最早的歷史紀錄。

前嶋まえじま信次しんじてきいぬいたかしななねんせつ

前島まえじま信次しんじざい1938ねん發表はっぴょうてきたいみなみびょう一文いちぶんちゅう[2]依據いきょ三點理由認為臺南三山國王廟創見時間應為乾隆七年,而非《じゅうおさむ臺灣たいわんけんこころざし所載しょさいてき雍正ななねん

  1. 創建そうけん人中ひとなかけん楊允璽ゆうげきりんゆめぐま乃自いぬいたかしななねん(1742ねんらいだい,且廟ちゅう發現はつげん雍正年間ねんかんてき匾額あるいしぶみ
  2. いぬいたかしじゅうきゅうねん(1764ねんところ修之のぶゆきじゅうおさむ臺灣たいわんけんこころざしちゅうしょ記錄きろくじょいさおたかし新建しんたけ三山明貺廟碑記〉ちゅう記載きさいみずのえさる小春こはるこれがつどうこうみずのととり冬季とうきたつかん竣。」てき字句じく顯示けんじ這間三山國王的修建乾隆壬申(いぬいたかしじゅうななねん,1752ねんいたいぬいたかしみずのととりいぬいたかしじゅうはちねん,1753ねん),おうじょいさおたかしひつあやまじつためいぬいたかしななねん(1742ねんいたりきゅうねん(1744ねん)。
  3. たいみなみ三山國王廟雖存有乾隆七年以前,じゅんだい二酉にのとりこれ木製もくせいだいれん(げんやめそん),ただし前島まえじま信次しんじみとめため二酉にのとり山西さんせい 出身しゅっしん官吏かんりあずかたいみなみ三山國王廟素無淵源,年代ねんだい雖早,卻應後人こうじん仿其筆跡ひっせきこくうつしあずか該廟關係かんけいふか

雍正ななねんせつ

戴文ほこさきざいたいみなみ三山國王廟創建年代考論〉ちゅう[3]提出ていしゅつ以下いか觀點かんてん

  1. 透過とうか分析ぶんせきじゅうおさむ臺灣たいわんけんこころざし作者さくしゃおさむしょてき經過けいかあずかびょうてき記載きさい論證ろんしょういんおさむこころざし使用しようじゅんかざり筆法ひっぽう,而將りょう後來こうらいてき官吏かんりれつにゅうけんびょうことちゅう
  2. じょいさおたかし碑文ひぶんろく於邑西城にししろひさし地理ちり位置いちあずかたいみなみさんやま國王こくおうびょうざいしょう北門きたもん內鎮きたぼうすい記錄きろくゆうしょ差異さいなみ指出さしで其記ろくおうため現今げんこんよしみよし成仁しげひとがい三山國王廟廣寧宮。
  3. たいみなみ三山國王廟存有巡臺御史二酉にのとりてき木製もくせいたいれんしん一步考證其來臺任職期間為乾隆四年(1739ねんいたりろくねん(1741ねんこれさいのりだいみなみ三山國王廟不可能遲至乾隆七年方才建造。

戴氏おもしん肯定こうていてきだいみなみ三山國王廟是雍正七年(1729ねん創建そうけんてき說法せっぽう

發展はってん[编辑]

たいみなみさんやま國王こくおうびょう 鎮殿どく山國やまぐにおう

ざいいぬい隆三りゅうぞうじゅうななねん(1772ねんうしおしゅう舉人でんおさむはやしぶんとううしおしゅう人士じんしぞうたてかんぶんこうほこらなみためりょう提供ていきょう祭祀さいし費用ひよう,而買りょう店屋みせやさんあいだざいきゅうけんいただきあたまおさむ租。而在きょうたてかんぶんこうほこらまえびょう左側ひだりがわてき聖母せいぼほこらおうやめきょうけんいぬいたかしよんじゅういちねん(1776ねん臺灣たいわんそうへいかんかおひさげ倡整おさむ,此次なみはたかんぶんこうほこらあらためたてしげるあずかしゅびょうしょうれんてきりょうすすむしき廟宇びょううはちねん(1784ねん),また進行しんこうりょう一次大規模整修,這次せいおさむなみだい致定りょう三山國王廟的樣貌。而後よしみけいななねん(1802ねんかんせいおうたかし和生かずおいんちんおうとうひと以重おさむ,這次じょせいおさむかんぶんこうほこらがいなみ於廟後添のちぞいおけりょう會館かいかん以供うしおしゅうひと往來おうらい臺灣たいわんあずか中國ちゅうごく大陸たいりく,另外也又かいりょうろくあいだ店屋みせやはた租金收入しゅうにゅう作為さくい祭祀さいし費用ひよう。此後ざいみちこうじゅうねん(1842ねん)、咸豐じゅうねん(1860ねん)、どうさんねん(1864ねんあずかひかりいとぐちじゅうさんねん(1887ねん時又ときまた陸續りくぞくゆうせいおさむ

にち時期じきてき1899ねん4がつ9にち總督そうとくざい設置せっちたいみなみ師範しはん學校がっこう」。1918ねん,該校擴編あらためせいなり台灣たいわん總督そうとく國語こくご學校がっこう設立せつりつだいみなみ分校ぶんこう」,なみ遷到あか崁樓これびょうさん遭到ぬすめうりかんぶんこうほこらあずかてんきさき聖母せいぼほこら淪為肥料ひりょう倉庫そうこ殿どのそく變成へんせい線香せんこう製造せいぞう及木工廠こうしょう

進入しんにゅうみんこくこれびょうさんいんおさむ歸國きこくゆう缺乏けつぼう管理かんりちょくいたじゅうさんねん(1964ねん申請しんせい宗教しゅうきょう團體だんたい登記とうき,該廟ざいよしだい南市みなみいちしお同鄉どうきょうかい管理かんりじゅうねん(1974ねん4がつ2にちざいまた成立せいりつりょう廟宇びょうう管理かんり委員いいんかい。而因這段期間きかん廟宇びょうう外貌がいぼうざんやぶとげ於五じゅうはちねん(1969ねん進行しんこうせいおさむこれびょうかたしん眾又進行しんこうすう維修。而在はちじゅうさんねん(1994ねんゆかり政府せいふ出資しゅっし進行しんこうだい規模きぼ維修,工程こうていしたがえ該年4がつ20日はつか持續じぞくいたはちじゅうねん(1996ねん)11月26にちかたつげ竣工しゅんこう,而成こん貌。[4]

建築けんちく特色とくしょく[编辑]

てんきさき聖母せいぼほこらてきもんしん

該廟東向こちむき西にしめんひろしよしさんむね三開間的祠廟組成。中間なかまさんやま國王こくおう殿どのゆかり三川みかわ殿どの拜殿はいでん正殿せいでん組成そせい,而拜殿どの兩側りょうがわゆうちょ龍虎りゅうこ。而左右さゆう兩側りょうがわてきかんぶんこうほこらあずかてんきさき聖母せいぼほこら空間くうかんぬのきょくそくだい致相どうよし三川殿及正殿組成,りょう殿どのみずろうあいせっ,內埕そく有水ありみず。而在三山國王廟與天后聖母祠均有門可通後埕,さいせっ會館かいかんこう殿しんがり中央ちゅうおうまつゆうさんやま國王こくおう夫人ふじん一度いちどうつりいたり正殿せいでんさいはいげんやめうつりかいりゅうしつらえゆう誠心せいしんだんため三山國王廟之公堂[註 2]

其建ざいひとしゆかりうしおしゅううんらいなみやというしおしゅうたくみ營建,ていげんあずか臺灣たいわん廟宇びょうう常見つねみ閩南しき建築けんちく不同ふどうてきしおしゅうしき風格ふうかくれい如廟牆是以磚たたみみぎりさいぬり以白はい牆堵裝飾そうしょくかわら黑色こくしょく,且屋脊平ちょく翹起とう[5][6]

活動かつどう[编辑]

たいみなみさんやま國王こくおうびょうさい水仙すいせん

さん山國やまぐにおうきよし[编辑]

まいとう主神しゅしんさん山國やまぐにおうきよし誕,びょうかたかい舉行まつうたげ、犒軍とう活動かつどう,其中またどく山國やまぐにおうせい誕時さいため盛大せいだい

けい元宵げんしょう さい水仙すいせん[编辑]

れんまさどう雅言がげん》:「たいみなみきゅうゆうさいはな舉。每歲まいさい元宵げんしょうかく以所やしなえ水仙すいせんひねさんやま國王こくおうびょう,互誇奇麗きれい」。[7]したがえ清朝せいちょう開始かいし每年まいとし元宵げんしょうぶしときうしおしゅうため慶祝けいしゅく元宵げんしょうぶし便びんかい舉行如放煙火えんか水仙すいせんはなてん以及えんじしおげきそうしおらくとう活動かつどう以酬しん昔日せきじつじょう盛事せいじおもんみきゅういちはち事變じへん隔年かくねんおこり便びん停止ていし煙火えんか及辦水仙すいせんはなてんちょくいた進入しんにゅうみんこくざい逐漸恢復かいふく活動かつどう舉行。

へん[编辑]

相關そうかん條目じょうもく[编辑]

註釋ちゅうしゃく[编辑]

  1. ^ どく山國やまぐにおうためぬし
  2. ^ ため神靈しんれい辦公、辦案

參考さんこう資料しりょう[编辑]

  1. ^ おう, 必昌. じゅうおさむ臺灣たいわんけんこころざし. 台北たいぺい: 臺灣たいわん銀行ぎんこう. 1962: 180. 
  2. ^ 前島まえじま信次しんじ. たいみなみびょう. 科學かがく臺灣たいわん. 1938, (1、2(1938)): 347-351. 
  3. ^ 戴文ほこさき. たいみなみ三山國王廟創建年代考論. おもえあずかげん. 2005.06, 43: (2): 179-224. 
  4. ^ たい南市みなみいちさんやま國王こくおうびょう文宣ふみのぶ》. 臺灣たいわん: たい南市みなみいちさんやま國王こくおうびょう管理かんり委員いいんかい. 2012ねん2がつ ちゅうぶん臺灣たいわん)). 
  5. ^ ざいびょう口說くぜつしょ. 台北たいぺい: 心靈しんれいこうぼう文化ぶんか. 2008ねん8がつ. ISBN 978-986-6782-47-3. 
  6. ^ でんちょうきょう. たい南市みなみいち古蹟こせきあずか歷史れきし建築けんちく總覽そうらん. たい南市みなみいち: 台灣たいわん建築けんちくあずか文化ぶんか資產しさん出版しゅっぱんしゃ. 2001ねん11月. ISBN 957-30880-4-5. 
  7. ^ たい南市みなみいちてき都市としなり長與ながよ變遷へんせん以及民俗みんぞく活動かつどうてき消長しょうちょう. [2018-03-22]. (原始げんし内容ないようそん于2018-08-15). 

外部がいぶ連結れんけつ[编辑]