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たい南北なんぼくきょく殿どの

すわ22°59′40″N 120°12′17″E / 22.994583°N 120.20479°E / 22.994583; 120.20479
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北極ほっきょく殿でん
うえ帝廟ていびょう上帝じょうていこうびょうびょうもと帝廟ていびょう
大上おおがみ帝廟ていびょう
三川みかわ殿どの 地图
位置いち 中華民國ちゅうかみんこく臺灣たいわんたい南市みなみいち中西なかにし民權みんけんだん89ごう
すわ22°59′40″N 120°12′17″E / 22.994583°N 120.20479°E / 22.994583; 120.20479
たてしげる时间あきらていえいれき廿にじゅうさんねん
(1669ねん左右さゆう[註 1][1]
かんかた名称めいしょうじょう中和ちゅうわさかい鷲嶺しゅうれい北極ほっきょく殿でん大上おおかみ帝廟ていびょう
類型るいけい登錄とうろく等級とうきゅう國定こくてい古蹟こせき
登錄とうろく種類しゅるいてらびょう
詳細しょうさい登錄とうろく資料しりょう

じょう中和ちゅうわさかい鷲嶺しゅうれい北極ほっきょく殿でん大上おおかみ帝廟ていびょうまたたたえたい南北なんぼくきょく殿どの臺灣たいわんたい南市みなみいち中西なかにし昔日せきじつじょう海拔かいばつ最高さいこう鷲嶺しゅうれいおもまつ北極ほっきょくげんてん上帝じょうていいちあいだあきらてい時期じき就已建立こんりゅうてきびょう[1]過去かこしょうためうえ帝廟ていびょう」、「たい南市みなみいち上帝じょうていこうびょう」、「びょう」、「もと帝廟ていびょう[1],其別めい大上おおがみ帝廟ていびょうあずかくらいあか崁樓附近ふきんてき小上こがみ帝廟ていびょう開基かいきれいゆうみや相對そうたい而來[2]。於1979ねん公告こうこくためきゅう古蹟こせきげんますかくため文化ぶんか所轄しょかつ國定こくてい古蹟こせき[3]

沿革えんかく[编辑]

創建そうけん[编辑]

げんてん上帝じょうていこれ明朝みょうちょうてき重要じゅうよう信仰しんこう,受明朝みょうちょう歷代れきだい皇帝こうていところたかしたてまつてい成功せいこうてき部隊ぶたいとうだいきょうたてりょうしょげんてん上帝じょうてい廟宇びょうう[註 2][1][5][2]。而臺南北なんぼくきょく殿どの所在しょざいてき鷲嶺しゅうれいのりうけたまわてん四坊しぼうきよし臺灣たいわんじょう一帶いったい地勢ちせい最高さいこうしょ[2][1]よりどころせつ北極ほっきょく殿でん所在地しょざいちざいらん時期じき曾是いちあいだかんたてていぐんおさむだい佔有此處ここ以醫傷兵しょうへい後來こうらいそくはた此醫かんあらためたてしげる北極ほっきょく殿でん[註 3][1][2][4]

たい南北なんぼくきょく殿どのかくきりてき建立こんりゅう年代ねんだいしょうしんだいかたこころざし多用たようにせけんいちたい[1]ただしよしためゆうやすしやすしおう匾的落款らっかんねん份,所以ゆえん可知かちざいながれき廿にじゅうさんねん(1669ねん以前いぜん北極ほっきょく殿でんやめけい存在そんざい[1]

清朝せいちょう時期じき[编辑]

やすしやすしおうこれれい赫奕」匾。
たい廈道ちんこれたつきょぼし拱」匾。
鷲嶺しゅうれい」匾

進入しんにゅう清朝せいちょうこれげんてん上帝じょうてい信仰しんこうてき地位ちい受到影響えいきょうよりどころせつ清朝せいちょうさらこく推廣媽祖あずかせき聖帝せいていくん信仰しんこうなみへんづくりほふおさむぎょう神話しんわ故事こじ以打あつ[1]くびにん臺灣たいわん蔣毓えい仍在やすし熙廿よんねん(1685ねん)捐俸せいおさむこれざいやすし熙四じゅうはちねん(1709ねん當地とうちきょみんじゅうけん[1]。此時廟宇びょうう周邊しゅうへんゆうひろしこうてき空地くうち,且廟宇びょうう左邊さへん車路くるまじようみち[1]ただし後來こうらいゆうりん天生あもう、楊養兩人りょうにん[註 4]佔地きょうけん店屋みせや後來こうらいかん判決はんけつ兩人りょうにん每年まいとしようきゅうびょうかた地租ちそばんぎんよんりょう,而上帝廟ていびょう周邊しゅうへん20あいだ店屋みせや也要每年まいとし地租ちそため此於雍正はちねん(1729ねんさんがつりつ(〈うえ帝廟ていびょう店屋みせや地租ちそ〉)公告こうこく[1]。而後ざいいぬいたかしじゅうねん(1785ねんゆうきょうまろうどけいじゅうおさむただし過程かていゆう些狀きょうさんねん(1788ねんゆかり楊廷ぞくなりなみ追討ついとう遭到おかせ佔的びょう[1]しか而在いぬいたかしじゅうねん(1790ねんゆうびょうきょみんあずさ增築ぞうちくぼうおかせ佔廟當時とうじてき值年ぬしかくともとうじん乃向當時とうじてきけんかたき提出ていしゅつひかえつげ最後さいごばんばっばんぎん40げん,且每年まいとしよう地租ちそ[1]つぎねん(1791ねんなながつおうかくともとう人的じんてき請求せいきゅうかんかた同意どういりつ大上おおがみ帝廟ていびょうしめせきんはた此事公告こうこく,以示警惕[1]

よしみけいきゅうねん(1804ねん),當地とうちきょみんかたしょうはやしけいくも、蔡光じゅんとうじんさいつぎおさむびょう,且在びょうきょうけん公館こうかんまたたたえ桐山きりやま營公ぐうきょう桐山きりやま營班へい暫住[註 5][1][4]みちこうじゅうねん(1835ねん),いん廟宇びょううたおせ塌多ねんさいつぎじゅうおさむ桐山きりやま營班へい也有やゆう參與さんよ此次工程こうてい[註 6][1]。這次じゅう修也しゅうやゆうじゅん便びんせいおさむ公館こうかん,且為怕後じん不知ふち來歷らいれきゆうかん兵長へいちょううらないじゅうあるうらないためおのれゆう,乃立やくよう如何いか管理かんり,以〈大上おおがみ帝廟ていびょう四條街桐山營公眾合約〉[註 7]あずか大上おおがみ帝廟ていびょう桐山きりやま營四條街公眾合約〉[註 8]いしぶみため證明しょうめい[1]咸豐よんねん(1854ねんさいおさむ,而也ざい此時「北極ほっきょく殿でんだいりょううえ帝廟ていびょう知名ちめい出現しゅつげんざい石碑せきひじょう[1][4]。於同ねん(1863ねん北極ほっきょく殿でんさいつぎじゅうおさむ清朝せいちょう最後さいごてきせいおさむ記錄きろく[1]

にち時期じきいたりいま[编辑]

にち時期じきいんため明治めいじよんじゅうねん(1907ねんたくひろし竹子たかぜがいいま民權みんけんなり9おおやけじゃく道路どうろ,拆毀りょう北極ほっきょく殿でんまえ殿どのとげざい明治めいじよんじゅうよんねん(1911ねん)暫為修繕しゅうぜん[1]。而後北極ほっきょく殿でんざい大正たいしょうきゅうねん(1920ねんじゅうおさむつぎねん(1921ねん正殿せいでん落成らくせい大正たいしょうじゅうねん(1923ねんおさむ殿どの昭和しょうわねん(1927ねん完工かんこう[1]

大戰たいせん北極ほっきょく殿でん在民ざいみんこくろくねん(1947ねんがついたきゅうがつじゅうおさむこれ在民ざいみんこくよんじゅうななねんさいおさむ(1958ねん),みんこくじゅういちねん(1962ねんまたゆうしょうおさむ[1]ただし在民ざいみんこくじゅうさんねん(1964ねんいんためはた民權みんけんつぶせひろしいた15おおやけじゃくまた拆毀りょうぜん殿しんがりとげ在民ざいみんこくじゅうはちねんいたろくじゅうねん(1969ねん─1971ねんじゅうおさむ,而成こんてん廟宇びょうう緊鄰街道かいどうてきけいぞう[1][4]。而後在民ざいみんこくろくじゅうろくねん(1977ねんあずかみんこくななじゅうねん(1981ねん),北極ほっきょく殿でんまたゆうややさく修繕しゅうぜん[1]

另外ざい北極ほっきょく殿でんはす對面たいめんてき福德ふくとくほこらはらぞく北極ほっきょく殿しんがりてきびょうさんいちひゃくねんまえ開始かいし租賃他人たにん原本げんぽんただゆうてい腳有じん擺攤,後來こうらいせいほこらなりためてんめん[6]北極ほっきょく殿でん一度將土地公迎回供奉在後殿東廂,なみむこうてん追討ついとうかい福德ふくとくほこらてき[6]はら本店ほんてんねがい搬走,ただし後來こうらいよりどころせつゆうてん半夜はんやいただき垮下らいてんとげ連夜れんや搬走,土地とちいん而順ようかい[6]。而後北極ほっきょく殿でんはたきゅうゆう建築けんちく拆除あらためけんかい福德ふくとくほこら工程こうてい於2013ねんねんそこ完工かんこう,2014ねん1がつ7にち進行しんこうにゅう安座あんざ[6]

まつかみ[编辑]

建築けんちくあずか文物ぶんぶつ[编辑]

建築けんちく[编辑]

現今げんこんてき北極ほっきょく殿しんがりざいだい南市みなみいち最高さいこうてんすわ南朝なんちょうきたさんひらきあいだあずか過去かこ規模きぼ相去あいさりとおよし三川さんせん殿どの中庭なかにわ正殿せいでんはいてい正殿せいでんこう殿しんがりはいていこう殿しんがり及不對稱たいしょうてき左右さゆうひさしぼうしょ組成そせい舊時きゅうじ三川殿與正殿距離較遠,中間ちゅうかん天井てんじょう兩側りょうがわゆうみずろう,三川殿形制亦非今日應都市法規而蓋之騎樓形式[5]よし於該びょう於鷲みねじょうにち時期じきしきしつらえ路面ろめん剷除前方ぜんぽう部分ぶぶん高度こうど以做ため道路どうろすすむびょう須拾かい而上。對面たいめんゆう福德ふくとくほこら

現今げんこん三川殿為混凝土及磚木結構混合結構,さんひらきあいだひらき三門さんもんただしぜん簷柱,かた山頂さんちょう中門ちゅうもんくろそこ天地てんち交泰金龍きんりゅう左右さゆうもんよん元帥げんすい,較為特殊とくしゅみなためはん麗水れいすいひつ中門ちゅうもんせきだま(だきせき)しょうたくみしらき天井てんじょう右側みぎがわしつらえきんみずろうやめそん正殿せいでんぜんまきだなはいていもちいかたばしら兩側りょうがわゆうはん麗水れいすい壁畫へきが正殿せいでんさんひらきあいだけいひろし二丈にじょうななしゃくななすんしんふか17前後ぜんご共用きょうようろくはしらじょう擱檁混合こんごうしきてんきんばしら內用さんつうふり下方かほうゆう一對附柱加強支撐。兩側りょうがわやま牆鳩ゆう壁畫へきがそう坡水かたやま翹脊いただきめん陡峭,高度こうどきょくだか空間くうかんだか挑寬たかし神房かんぼうざいてんきんばしら及附てんばしらあいだ神房かんぼうしつらえまきたなくら厝,したしつらえ韋馱菩薩ぼさつしんがん後方こうほう明間あけまたかしひらけまたしつらえへだたおうぎどおり向後こうご殿どのあいだひらきまど

こう殿しんがりはいていためよんはしらろくまきだなはいてい水泥みどろあらい石子いしこはりばしらあずか混合こんごう結構けっこうこう殿しんがりため早期そうき水泥みどろ仿木結構けっこうさんひらきあいだふかしん11てんきむはしらあいだ內為さんつうふりかみがん左右さゆう後方こうほうかくひらけ一門及六角氣窗可通向後方。つぎあいだ簷柱あいだしつらえゆうらん杆,口山くちやま牆有壁畫へきがいただきためそう坡水かたやま翹脊いただきこう殿しんがり兩側りょうがわゆうひさしぼうため過去かこ桐山きりやま營公ぐうみなしつらえ有配ゆうはい殿どの及辦おおやけしつ文物ぶんぶつかんとう服務ふくむ空間くうかんひだりひさしぼうさく擱檁しきつくりゆう竹節たけふし書卷しょかんまどはな牆,こう南方なんぽう延伸えんしんみぎひさしぼうさく穿ほじしきこうきた延伸えんしん整體せいたい天井てんじょう空間くうかん包含ほうがん正殿せいでん後方こうほう殿どのひさしぼう戶外こがい牆面みなためあらい石子いしこ

いんげんてん上帝じょうてい北方ほっぽうかみ,而北方ほっぽう玄武げんぶざいぎょうちゅうぞく水色みずいろくろ北極ほっきょく殿でん正殿せいでん及三穿殿柱子全用黑色,整體せいたいていげん黑色こくしょくあずか金色きんいろ調ちょう搭配,ごくため莊嚴しょうごん沉穩。正殿せいでん供奉ぐぶげんてん上帝じょうてい神像しんぞうてきかみがん華麗かれいしげるふくきむあおいてる煌。びょう中有ちゅううよんたいはん麗水れいすい壁畫へきが,三對在正殿及拜殿,いちたいざい殿どの

文物ぶんぶつ[编辑]

正殿せいでん上方かみがただかかか大明だいめいやすしやすしおうしゅじゅつかつらざいえいれきじゅうさんねん(1669ねんしょしょれい赫奕」匾,ぜんだい唯一ゆいいつあきらだいつて匾額,また歷史れきしさい悠久ゆうきゅうてき匾,にち時期じき結束けっそく一度差點遭日本人帶走[2]
此外びょうちゅうなおゆうかえゆうきよしかんじゅうねん(1713ねんたい廈道ちんてきたつきょぼし拱」匾、こう殿しんがりはいてい鷲嶺しゅうれい」匾、清道きよみちこうじゅうななねん(1837ねんじょうてき大鹽おおしおしょうしょうしんたいみなみ公會堂こうかいどう前身ぜんしんえん創建そうけんしゃとおいたり浙江せっこうしゅうとところ鑄造ちゅうぞうてきいにしえがねこんやめ耗損とまよう)、いし香爐こうろみちこうじゅうはちねん大上おおがみ帝廟ていびょう四條街桐山營公眾合約》とうすうつういにしえ以及ぐすく名匠めいしょうはん麗水れいすいてき彩繪さえ

其他[编辑]

  • よし北極ほっきょく殿しんがり於鷲みね地勢ちせい較位ざい五條ごじょうこうてき水仙すいせんみやだか當地とうちとめ俗諺ぞくげんうえ帝廟ていびょう硶墘(埁漧[5]),水仙すいせんみや簷前」(ゆびじょう帝廟ていびょう硶墘(いしかいてき高度こうど相當そうとう水仙すいせんみや[1]ある比較ひかくだか[5])。

しゅう[编辑]

註釋ちゅうしゃく[编辑]

  1. ^ ゆう些書せきてき上限じょうげんかいしたがえ1661ねん開始かいしただし學者がくしゃたくかつはなみとめためいたりょう1662ねんていぐんざいおさむねつらんさえぎしろふと可能かのうざい1661ねん就先けんびょう[1]
  2. ^ 根據こんきょ臺灣たいわんけんこころざし》(1720ねんてき記載きさいしめぎためにせけんてき道教どうきょう廟宇びょううゆう26しょ,其中有ちゅうう7しょ供奉ぐぶげんてん上帝じょうてい,佔よんふんいち以上いじょう[4]。這なな廟宇びょうう分別ふんべつひがしやすぼう大上おおがみ帝廟ていびょう、鎮北ぼう小上こがみ帝廟ていびょうえいやすしさとしまもうりょうじょう帝廟ていびょうやめそん)、たけじょうさとうえ帝廟ていびょうこうもうか東里とうりうえ帝廟ていびょう仁和にわさとしたわんじょう帝廟ていびょうたかしとくさとうえ帝廟ていびょう[4]
  3. ^ たくかつはなしたがえてらびょう發現はつげん歷史れきし台灣たいわんてらびょう文獻ぶんけん解讀かいどくあずか涵》一書認為此說為後人編造的可能性較大[1]
  4. ^ うえ帝廟ていびょう店屋みせや地租ちそひさげいた兩人りょうにんかげわたし請餉」らいぶたてきたくかつはな推測すいそく兩人りょうにん可能かのうはんへい,如此いちらい可能かのうざいやすし雍年あいだ桐山きりやま營班へいざいだいやめけい大上おおがみ帝廟ていびょうとうなりまちわたりところ[1]
  5. ^ 根據こんきょ大上おおがみ帝廟ていびょう桐山きりやま營四條街公眾合約〉いしぶみ記載きさい,該公かんざいよしみけいななねん(1802ねんふゆ倡建,よしみけいきゅうねん(1804ねん完工かんこう[1]
  6. ^ 根據こんきょ殿どのぜん檐柱柱聯ちゅうれん南海なんかい慈雲じうんてるれん北極ほっきょく西方せいほうほうさわひろしひがし瀛」てき落款らっかん年代ねんだい乙未おとみねんじゅうおさむ),可知かち北極ほっきょく殿でんざいみちこうじゅうねん(1835ねんじゅうおさむ[1]。另外根據こんきょびょう中道ちゅうどうこうじゅうななねん(1837ねんてきいにしえあずかかね推測すいそく該次じゅうおさむおう該是ざいみちこうじゅうななねん(1837ねんきゅうがつ完成かんせい,蔡日進にっしんざいけんじせき香爐こうろしょうしんとう人才じんさいけんじかね慶賀けいが落成らくせい[1]
  7. ^ みちこうじゅうはちねん(1838ねんよんがつりつ[1]
  8. ^ みちこうじゅうはちねんがつはちにち(1838ねん6がつ29にちだて[1]

參考さんこう資料しりょう[编辑]

  1. ^ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 1.16 1.17 1.18 1.19 1.20 1.21 1.22 1.23 1.24 1.25 1.26 1.27 1.28 1.29 1.30 1.31 1.32 1.33 たくかつはな. 《したがえてらびょう發現はつげん歷史れきし台灣たいわんてらびょう文獻ぶんけん解讀かいどくあずか涵》. あげさとし文化ぶんか. 2003-11: ぺーじ233-272. ISBN 957-818-526-X. 
  2. ^ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 おう浩一こういち. 《ざいびょう口說くぜつしょ》. 台北たいぺい: 心靈しんれいこうぼう文化ぶんか. 2008ねん8がつ: ぺーじ35─38. ISBN 978-986-6782-47-3. 
  3. ^ 北極ほっきょく殿でん. 文化ぶんか文化ぶんか資產しさんきょく. 
  4. ^ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 ちょうけいみなみあかりかん. 《たいみなみ上帝じょうていじい信仰しんこう研究けんきゅう》. たい南市みなみいち政府せいふ文化ぶんかきょく. 2013-12: ぺーじ78-80、105─107. ISBN 978-986-03-9420-7. 
  5. ^ 5.0 5.1 5.2 5.3 でんちょうきょう. 《たい南市みなみいち古蹟こせきあずか歷史れきし建築けんちく總覽そうらん》. たい南市みなみいち: 台灣たいわん建築けんちくあずか文化ぶんか資產しさん出版しゅっぱんしゃ. 2001ねん11月: ぺーじ108─109. ISBN 957-30880-4-5. 
  6. ^ 6.0 6.1 6.2 6.3 はやしうんみなみ. たいみなみ大上おおかみ帝廟ていびょう福德ふくとくほこらちりふうひゃくねん重生しぎょう. 《臺灣たいわん時報じほう》. 2016-01-04 [2016-05-31]. 
  1. ひろしさとし. たい南市みなみいち市區しく史蹟しせき調ちょう報告ほうこくしょ. たいちゅう: 臺灣たいわんしょう文獻ぶんけん委員いいんかい. 1979ねん6がつ30にち: 149ぺーじ. 

外部がいぶ連結れんけつ[编辑]