マルクス・トゥッリウス・キケロ

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キケローから転送てんそう
マルクス・トゥッリウス・キケロ
Marcus Tullius Cicero
(M. Tullius M. f. M. n. Cicero)
マルクス・トゥッリウス・キケロ胸像きょうぞう
誕生たんじょう 紀元前きげんぜん106ねん1がつ3にち
アルピヌム
死没しぼつ 紀元前きげんぜん43ねん12月7にちまん63さいぼつ
フォルミア
職業しょくぎょう 政治せいじ弁護士べんごし哲学てつがくしゃ
言語げんご 古典こてんラテン語らてんご
国籍こくせき 共和きょうわせいローマ
市民しみんけん ローマ民権みんけん
代表だいひょうさく国家こっかについて』『法律ほうりつについて』『義務ぎむについて
政務せいむかん履歴りれき
クァエストルシキリア紀元前きげんぜん75ねん
アエディリス・プレブス(紀元前きげんぜん69ねん
プラエトル紀元前きげんぜん66ねん
執政しっせいかん紀元前きげんぜん63ねん
レガトゥスポンペイウス配下はいか紀元前きげんぜん57ねん
アウグル紀元前きげんぜん53ねん-43ねん
プロコンスルキリキア総督そうとく紀元前きげんぜん51ねん-50ねん
プロコンスル(ギリシャイタリア担当たんとう紀元前きげんぜん49ねん-47ねん
レガトゥス(ドラベッラ配下はいか紀元前きげんぜん44ねん
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マルクス・トゥッリウス・キケロラテン語らてんご: Marcus Tullius Cicero, 紀元前きげんぜん106ねん1がつ3にち[1] - 紀元前きげんぜん43ねん12月7にち[2])は、共和きょうわせいローマ末期まっき政治せいじ弁護士べんごし[3]文筆ぶんぴつ哲学てつがくしゃである。名前なまえキケローとも表記ひょうきされる。カティリーナの陰謀いんぼうから国家こっかすくうなど活躍かつやくし、はいることを熱望ねつぼうしていたオプティマテスりの論陣ろんじんって、ガイウス・ユリウス・カエサルオクタウィアヌスらをめようとこころみたがかなわなかった。

哲学てつがくしゃとしてはラテン語らてんごギリシア哲学てつがく紹介しょうかいし、プラトンおしえにしたが懐疑かいぎ主義しゅぎてきしんアカデメイア学派がくはから出発しゅっぱつしつつ、アリストテレスおしえにしたがアカデメイア学派がくは弁論べんろんじゅつ修辞しゅうじがく評価ひょうかして自身じしんもっと真実しんじつちかいとかんがえる論証ろんしょう学説がくせつべ、その著作ちょさく義務ぎむについて』はラテン語らてんご教科書きょうかしょとして採用さいようされひろまり、ルネサンスにはペトラルカ称賛しょうさんされ、エラスムスモンテスキューカントなどに多大ただい影響えいきょうあたえた。また、アリストテレスのトピックスにかんして『構想こうそうろん』『弁論べんろんについて』『トピカ』のさんしょあらわし, ボエティウスによるその概念がいねん確立かくりつおおきく貢献こうけんしている(たとえばトピック (論理ろんりがく)参照さんしょう)。

キケロの名前なまえ由来ゆらいするイタリアの「チチェローネ」という言葉ことばは「案内あんないじん」を意味いみするが、ギリシア哲学てつがく西洋せいよう世界せかいへの案内あんないじんとしてたした多大ただい影響えいきょうをよく物語ものがたっている[4]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

出自しゅつじ[編集へんしゅう]

キケロは祖先そせん顕職けんしょくしゃたない「ノウス・ホモ」としては異例いれい出世しゅっせげた。アルピヌム出身しゅっしんで、トゥッリウス氏族しぞく祖先そせんはアルピヌムのおう一人ひとりであるという[5]。アルピヌムは紀元前きげんぜん303ねん投票とうひょうけんなき市民しみんけんており、紀元前きげんぜん188ねん完全かんぜんローマ民権みんけん付与ふよされた[1]。キケロのまれたころには、マリウス氏族しぞくグラティディウス氏族しぞく、そしてトゥッリウス氏族しぞくがこのまちもっと有力ゆうりょく氏族しぞくとなっており[6] 、キケロのちちだいからエクィテス地位ちいていた[7]

キケロの祖父そふ紀元前きげんぜん115ねんマルクス・アエミリウス・スカウルス賞賛しょうさんされたことがあり、キケロが10さいころ家族かぞくともローマうつんだのちおそらくその伝手つてもあって、ルキウス・リキニウス・クラッススマルクス・アントニウス・オラトルスカエウォラ・アウグルスカエウォラ・ポンティフェクスといった当代とうだいいち雄弁ゆうべん従者じゅうしゃとしてまなぶことができた[8]

キケロというコグノーメンは、「ヒヨコマメ(Cicer)」からているが、これはかれ祖先そせんはなにイボがあったからだという[7]。キケロは、わかころ友人ゆうじんから「無名むめい家名かめい(キケロ)をけたほうがよい」とアドバイスをけたが、「わたし自身じしんで、キケロスキピオやカトゥルスより有名ゆうめいにしてみせる」とかたったという[9]。キケロはおさなころからけずぎらいで、文筆ぶんぴつ活動かつどう哲学てつがく余興よきょうぎず、政治せいじかかわることこそが美徳びとくであり[10]政治せいじとしてげることこそが本望ほんもうであった[11]

青年せいねん[編集へんしゅう]

17さいとなったキケロは、紀元前きげんぜん89ねん執政しっせいかんグナエウス・ポンペイウス・ストラボした軍務ぐんむき、よく紀元前きげんぜん88ねんにはルキウス・コルネリウス・スッラした従軍じゅうぐんした。ポンペイウスの配下はいかであったときまった兵士へいしいていないので陣地じんち留守番るすばんをさせられていたという[12]軍務ぐんむえるとすぐに弁論べんろん勉強べんきょう再開さいかいした。このころポプラレス英雄えいゆうガイウス・マリウスんでいたまもるみんかんプブリウス・スルピキウス・ルフス英語えいごばん弁舌べんぜつ徹底的てっていてき研究けんきゅうしたとかたっている[13]

ポントゥスおうミトリダテス6せいによるギリシア侵攻しんこうけ、スッラがインペリウムだいいちミトリダテス戦争せんそうはじめると、アテナイから亡命ぼうめいしてきたアカデメイア学長がくちょうしんアカデメイアラリッサのフィロンから徹底的てっていてき懐疑かいぎ主義しゅぎ[14]まな[13]ほかにもエピクロスのパイドロス英語えいごばんや、ストアのディオドトス英語えいごばんらの影響えいきょう[15]弁論べんろんポセイドニオス一人ひとりとしてげている[14]。21さいころ[10]クセノポンの『家政かせいろん』をラテン語らてんご翻訳ほんやくしたとかたっている[16]。また、このあいだ弁論べんろんかんする理論りろんをまとめた『構想こうそうろん(De inventione)』をげていた[17]

構想こうそうろん』(ぜん91~87ねん[編集へんしゅう]

キケロのレトリックかんする記述きじゅつは7へんのこっているが[18]、『構想こうそうろん』はその最初さいしょ著作ちょさくでもあり、キケロにとってのはじめての著作ちょさくでもある[19]。キケロはレトリックを5つの部門ぶもんけてかんがえており、これはそのだい1部門ぶもんあつか[20]。キケロは弁論べんろんじゅつをまず定義ていぎしているが、アリストテレス影響えいきょうつよ見受みうけられる[21]。また弁論べんろんあつか題材だいざいについても、アリストテレスの定義ていぎしたがって、限定げんていてき題材だいざいとし、それを「儀式ぎしき弁論べんろん」「議会ぎかい弁論べんろん」「法廷ほうてい弁論べんろん」の三種さんしゅ分類ぶんるいした[22]。そしてレトリックの5つの段階だんかいを、「発見はっけん構想こうそう)」「配置はいち」「修辞しゅうじ」「暗記あんき」「実演じつえん」とし、この著作ちょさくではその最初さいしょ構想こうそう段階だんかいあつかったところで中断ちゅうだんしており、そのため『構想こうそうろん』と呼称こしょうされている[23]構想こうそうてることと題材だいざい発見はっけんすることは密接みっせつかかわっているため、『発見はっけん構想こうそうろん』ともやくされる[18]

この芸術げいじゅつ弁論べんろんじゅつ)にだれよりもおおくのささえといろどりを提供ていきょうしてくれたアリストテレスによれば、
弁論べんろん義務ぎむは、以下いか主題しゅだい精通せいつうすることであるという。
感情かんじょう表現ひょうげん審議しんぎ、そして、裁判さいばんの3しゅである。

キケロ『構想こうそうろん(De inventione)』1.5

弁護士べんごしデビュー[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん81ねん、25さい弁護士べんごしとしての活動かつどうはじめたが、かれであったルキウス・クラッススは20さいのちにライバルとなるクィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルスは19さいでデビューしており、あまりはやいデビューとはえなかった[24]。「わたしはじめて私的してきな、そして公的こうてき訴訟そしょうかかわることにした。それによってなにかをるためでなく、いままでてきたものをためすために[25]」。

『プブリウス・クィンクティウス弁護べんご』(ぜん81ねん[編集へんしゅう]

かれのデビューせん原告げんこくのプブリウス・クィンクティウスがわっての占有せんゆうめぐ民事みんじ訴訟そしょう[26]であった。被告ひこくのセクストゥス・ナエウィウスは、ケンソル監察かんさつかん経験けいけんしゃでもあったルキウス・マルキウス・ピリップスうしたてにし、代理人だいりにんとして雄弁ゆうべんのホルタルスがち、さら事前じぜん審理しんりではスッラのいきのかかったプラエトル・ウルバヌス(首都しゅと法務ほうむかん)のグナエウス・コルネリウス・ドラベッラがナエウィウスりのかり判決はんけつくだしていた。しかしキケロはこれらの権威けんい果敢かかんかっていった[27]

このくににおいてもっと影響えいきょうりょくのあるふたつのこと、
すなわち、最大さいだい注目ちゅうもく最高さいこう雄弁ゆうべん、このふたつが、
いままさに、我々われわれまえてきとしてちはだかっている。
わたしは、それらにたいして感嘆かんたんおそれをきんない。
ホルテンシウスの雄弁ゆうべんさが、わたしをいささかひるませているのはたしかだ。

キケロ『プブリウス・クィンクティウス弁護べんご(Pro P. Quinctio)』1

『アメリアのロスキウス弁護べんご』(ぜん80ねん[編集へんしゅう]

この訴訟そしょうられるようになったキケロは、ノビレス上流じょうりゅう階級かいきゅう)から刑事けいじ訴訟そしょう依頼いらいされた。紀元前きげんぜん81ねんなつアメリア名士めいしで、ローマ社会しゃかいでも有力ゆうりょくカエキリウス・メテッルススキピオセルウィリウス氏族しぞくとも交友こうゆうのあった[28]セクストゥス・ロスキウスが殺害さつがいされた。この容疑ようぎしゃとして、よく紀元前きげんぜん80ねん同名どうめい息子むすこ訴追そついされ、その弁護べんごたったのである[24]

おやごろし(parricidium)は当時とうじとしては極刑きょっけいしょされる大罪だいざいであり、元老げんろういん議員ぎいんから選出せんしゅつされた審判しんぱんじん[注釈ちゅうしゃく 1]心証しんしょうはすこぶるわるい。そこでキケロは真犯人しんはんにんつく作戦さくせんた。被害ひがいしゃは600まんセステルティウスもの資産しさん所有しょゆうしていたが、それにけた敵対てきたいてき親族しんぞくが、当時とうじ終身しゅうしん独裁どくさいかんであったスッラの側近そっきん解放かいほう奴隷どれいのクリュソゴヌスにらせ、クリュソゴヌスが被害ひがいしゃプロスクリプティオ名簿めいぼれることでその資産しさん安価あんかれて親族しんぞくあたえ、さら父親ちちおやころされてローマへのがれたわかきロスキウスに、ちちごろしのつみせた[30]のだとめつけ、幾度いくどもこれはスッラとは無関係むかんけいおこなわれたと強調きょうちょうしつつ[17]攻撃こうげきした[31]

キケロが、雄弁ゆうべん指導しどうしゃにつけるべき教養きょうようたか道徳どうとくせい人間にんげんせいといった意味いみギリシアからつくこのんで使つかった「フマニタス(humanitas)」がはじめててくるのは、この弁護べんごにおいてである[32]

さて、これはあくまで注意ちゅうい喚起かんきのためであって、中傷ちゅうしょうとはらないでしいのだが、
訴追そついじんまれの不幸ふこうから、父親ちちおや子供こどもたいする愛情あいじょうることが出来できなかったのではあるが、
それでも、自然しぜんそなわった人間にんげんせいすくなからずわせており(ut humanitatis non parum haberes)、
そのうえ努力どりょくして、学識がくしきをもにつけたわけだ。

キケロ『アメリアのロスキウス弁護べんご(Pro Roscio Amerino)』45-46

キケロは、近年きんねんおこなわれたプロスクリプティオによる粛清しゅくせいあらし[注釈ちゅうしゃく 2]審判しんぱんじんおもこさせ、それがおおくの人々ひとびとからフマニタスをもうばってしまったとうったえた。そして、この裁判さいばん無罪むざい判決はんけつすことは、人間にんげんせいおもこさせ、ひいては国家こっかをもすくうことになると主張しゅちょうした[33]被告ひこくのロスキウスは真面目まじめ青年せいねんで、ローマ社会しゃかい名士めいしうしろについていた。それにたいして訴追そついがわは、そのおごりからそもそも弁護べんごしゅはいないとかんがえ、ざつ法廷ほうてい戦略せんりゃくをとっており、キケロはこの裁判さいばん無罪むざいった[34]さらかれは、衆人しゅうじん環視かんしなかおこなわれた裁判さいばんによってローマの上流じょうりゅう階級かいきゅう信頼しんらいをもったのである[35]

東方とうほう遊学ゆうがくぜん79~77ねん[編集へんしゅう]

キケロは紀元前きげんぜん79ねん資産しさんむすめテレンティアと結婚けっこん[36]、スッラによって市民しみんけん剥奪はくだつされたとうったえられていたアッレティウム女性じょせい弁護べんご勝利しょうりするなど、しばらく弁護士べんごしとして活動かつどうしたが、からだこわしてしまい、2年間ねんかん休養きゅうようった[37]おとうとクィントゥスティトゥス・ポンポニウス・アッティクスらとともにギリシアに留学りゅうがくし、アテナイでラリッサのフィロンの弟子でしアスカロンのアンティオコスまなんだ[38]。また、ロドスしょうアシアまわり、エピクロスシドンのゼノン英語えいごばんにもまなんだ。なお、ポンポニウスはのちにアテナイに移住いじゅうし、キケロと幾度いくど書簡しょかんわす(『アッティクスあて書簡しょかん英語えいごばん』)終生しゅうせいともである[39]。アンティオコスはフィロンらの懐疑かいぎ主義しゅぎ批判ひはんしていたが、キケロはあまり同意どういできなかったようである[40]

紀元前きげんぜん78ねんにスッラは死去しきょしたが、キケロは遊学ゆうがくつづけた。このころテレンティアとのあいだむすめトゥッリアがまれている。プルタルコスはテレンティアをつよ女性じょせい描写びょうしゃしており、結婚けっこんかねのためであったというが、キケロは家庭かていじんではあったようである[41]

喜劇きげき俳優はいゆうクィントゥス・ロスキウス弁論べんろん』(ぜん76ねん[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん77ねん、キケロはふたたびローマへもどると弁護べんご活動かつどう再開さいかいした。しかし、上流じょうりゅう階級かいきゅうてきまわさないよう、訴追そついがわにはまわらず弁護べんご終始しゅうしした[42]紀元前きげんぜん76ねんには、喜劇きげき役者やくしゃクィントゥス・ロスキウス英語えいごばん民事みんじ訴訟そしょう弁護べんごしている(『喜劇きげき俳優はいゆうクィントゥス・ロスキウス弁論べんろん (pro Q. Roscio Comoedo)』)。

クァエストル(ぜん75ねん[編集へんしゅう]

『アルキメデスのはか発見はっけんしたキケロと行政ぎょうせいかん』、"Cicero and the magistrates discovering the tomb of Archimedes."、アメリカじん画家がかベンジャミン・ウエストによる1797ねんさく

30さいになると、紀元前きげんぜん75ねんクァエストル財務ざいむかん[43]選出せんしゅつされ、クルスス・ホノルムのぼはじめた。かれのプロウィンキア(職能しょくのう範囲はんい)はシキリアぞくしゅうリリュバエウム(げんマルサーラ)で、シキリア担当たんとうプロプラエトル(もと法務ほうむかん)、セクストゥス・ペドゥカエウス[43]したはたらいた。このときかれシュラクサエおとずれ、てられていたアルキメデスはか発見はっけんしている[44]

ウェッレス弾劾だんがい裁判さいばんぜん70ねん[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん70ねん、シキリア総督そうとくガイウス・ウェッレスラテン語らてんごばんイタリアばん英語えいごばんによる強要きょうよう恐喝きょうかつざい(de repetundis)を告発こくはつした。このときの弁論べんろん加筆かひつ修正しゅうせいしたものは、『ウェッレス弾劾だんがい演説えんぜつ英語えいごばん』としてまとめられ、現在げんざいでは、その当時とうじぞくしゅう政治せいじ内実ないじつるための貴重きちょう資料しりょうとなっている[45]

背景はいけい[編集へんしゅう]

ウェッレスは紀元前きげんぜん74ねんのプラエトル・ウルバヌスで[46]よく紀元前きげんぜん73ねんから71ねんまでの3年間ねんかん、プロプラエトルとしてシキリアを担当たんとうしていた[43]ぞくしゅう担当たんとうしたプロマギストラトゥス(もと政務せいむかん)による搾取さくしゅ当時とうじよくられたことではあるが、ウェッレスのそれはえており、1ねん自身じしん蓄財ちくざいのため、2ねん裁判さいばん弁護士べんごし費用ひようのため、3ねん審判しんぱんじん買収ばいしゅうのため、と揶揄やゆされたほどであった。そのため、シキリアの代表だいひょうしゃが、もと担当たんとうクァエストルであったキケロに告発こくはつ代理人だいりにんたのんだのである[47]たとえば、ウェッレスの統治とうちした3年間ねんかんで、シキリアのレオンティニではその搾取さくしゅえかねて、耕作こうさくしゃが84にんから32にんにまでっている[48]

こうしたローマじんによる搾取さくしゅたいしては、紀元前きげんぜん149ねんまもるみんかんルキウス・カルプルニウス・ピソ・フルギが、恐喝きょうかつされた金銭きんせん返却へんきゃく請求せいきゅうほう(Lex Calpurnia de repetundis)を成立せいりつさせており、そのためのプラエトルが主宰しゅさいする常設じょうせつ査問さもんしょ(quaestio)が設置せっちされていた。これはその当時とうじローマ民権みんけんったものだけが請求せいきゅうできたのだが、紀元前きげんぜん122ねんまもるみんかんガイウス・センプロニウス・グラックスによって、外国がいこくじん直接ちょくせつうったえることができるように改変かいへんされ、紀元前きげんぜん81ねんコルネリウスほう(Lex Cornelia de repetundis)でもその権利けんりのこされた。返還へんかん請求せいきゅうはまず民事みんじとしておこなわれ、そこで被告ひこくつみみとめた場合ばあいただちに損害そんがい賠償ばいしょうがく算定さんてい(litium aestimatio)にうつるが、否定ひていした場合ばあいには公訴こうそ事実じじつあらそうことになる。紀元前きげんぜん70ねんの1がつ、キケロはプラエトルのマニウス・アキリウス・グラブリオ訴訟そしょう申請しんせいし、4000まんセステルティウス(以下いかHS)を恐喝きょうかつしたとして査問さもんしょ被告ひこく登録とうろく(nominis receptio)された[49]

登場とうじょう人物じんぶつ[編集へんしゅう]

『カエキリウスとのディウィナティオ』[編集へんしゅう]

じつはキケロが告発こくはつしゃまるまえいち悶着もんちゃくあった。ウェッレスは自分じぶんしたでクァエストルをつとめていたカエキリウス・ニゲルに強要きょうよう恐喝きょうかつざいあらかじ告発こくはつさせていた。キケロもおなざい告発こくはつしたため、どちらがより告発こくはつしゃとしてふさわしいか、審判しんぱんじんによる判定はんてい(Divinatio、神格しんかく[54]必要ひつようだった。そのときおこなわれたキケロの演説えんぜつが、『カエキリウスとのディウィナティオ(Divinatio in Caecilium)』である[55]。この演説えんぜつでは相手あいてがわ弁護士べんごしのホルタルスが使つかってくるであろう、「ジレンマ」を実演じつえんしてみせ、それに対応たいおうできないカエキリウスの能力のうりょくのなさをあきらかにしつつ、自分じぶんならホルタルスに対抗たいこうできることをせつけることで、告発こくはつしゃとしてえらばれている[56]

かりにあなたがかれ(ウェッレス)から損害そんがいけていたとして、
あなたはかれのクァエストルであったのだから、かれ告発こくはつしておいて自分じぶん無罪むざいだとえるだろうか。
もしあなたがなんら損害そんがいけていないのなら、そもそもかれ告発こくはつする道理どうりがない。

キケロ『カエキリウスとのディウィナティオ』60

ウェッレスの手口てぐち[編集へんしゅう]

ウェッレスがシキリアで収奪しゅうだつした美術びじゅつひん数々かずかず

シキリアのぞく州民しゅうみんには、じゅうぶんいちぜいせられており、それにさらに6%の税金ぜいきん付加ふかぜい徴収ちょうしゅう請負人うけおいにん(publicani)のぶん上乗うわのせされた。さら放牧ほうぼくぜい関税かんぜい徴収ちょうしゅうされた[57]請負人うけおいにんケンソルによる競争きょうそう入札にゅうさつによって決定けっていされ、一般いっぱんてきには資産しさんのあるエクィテス階級かいきゅうい、若干じゃっかん経費けいひることは暗黙あんもくのうちにみとめられており、さら納税のうぜいしゃにその義務ぎむたさせるため、高利こうりかねすこともできた。ウェッレスはこの徴税ちょうぜいじんんでいた[58]付加ふかぜいだけでも3年間ねんかんでおおよそ50まんHSにのぼったという[59]

シキリアで収穫しゅうかくされる小麦こむぎは、収穫しゅうかくりょうの10%が強制きょうせいてきにローマにげられた。それにさら追加ついかの10%がローマにげられる可能かのうせいがあり、追加ついかぶんには若干じゃっかん価格かかく上乗うわのせがあった[60]。しかしウェッレスはこの代金だいきんから書記しょき手数料てすうりょう(scribae)をいた[61]追加ついかぶん指定してい貯蔵庫ちょぞうことどけることが指示しじされたが、納入のうにゅうするわりに市価しかの3~4ばい現金げんきん支払しはらうこともみとめられていた。ウェッレスはわざと遠方えんぽう納入のうにゅうするよう命令めいれいし、現金げんきん支払しはらわせることで差額さがくふところれていた。ほかにも様々さまざま脅迫きょうはくおこな金銭きんせん要求ようきゅうしていたようである[62]

これらの実態じったい調査ちょうさたいして、ウェッレスの後任こうにんであるルキウス・カエキリウス・メテッルスの妨害ぼうがいおこなわれた[63]。それにもかかわらず、キケロはかなりこまかい数値すうちやシキリアの住民じゅうみん証言しょうげん弾劾だんがい演説えんぜつせてウェッレスを追及ついきゅうしている。これらの内容ないようはある試算しさんによれば、それほど実態じったいとは乖離かいりしていないものとおもわれるが、キケロの表現ひょうげんにはかなりの誇張こちょうがみられる[64]。ただ、それらの誇張こちょう詭弁きべんいても、シキリアのけた非道ひどうあつかいや搾取さくしゅについては間違まちがいないものとかんがえられている[45]

双方そうほう支持しじしゃ[編集へんしゅう]

ウェッレスの弁護べんごいであった当代とうだいいち弁論べんろん、ホルタルスがった。ホルタルスはよくまえ69ねん執政しっせいかん当選とうせんしたさい、ウェッレスとって「おめでとう、これできみ無罪むざいだ」とかたりかけたことがキケロの友人ゆうじんによって目撃もくげきされている[65]。また、ホルタルスの同僚どうりょう執政しっせいかんとして当選とうせんしたカエキリウス・メテッルス・クレティクスや、プラエトルとして当選とうせんしたマルクス・カエキリウス・メテッルスにたいして、ウェッレスが資金しきん提供ていきょうしていたようである[63][65]

たいするキケロには、グナエウス・ポンペイウス支援しえんがあったとおもわれる[66]かれはこのまえ70ねん執政しっせいかんであったが、まだ34さいであり、しかもプラエトル経験けいけんどころかクァエストル経験けいけんすらなく、本来ほんらい立候補りっこうほ要件ようけんたしていなかった。それにもかかわらず、このとし、スッラによって大幅おおはば削減さくげんされていたまもるみん官権かんけんげん復活ふっかつ約束やくそくし、民衆みんしゅう支持しじ軍団ぐんだんによるあつりょくによってマルクス・リキニウス・クラッススとも執政しっせいかん就任しゅうにんしていた[67]。このため、民衆みんしゅうかって元老げんろういん腐敗ふはいかう姿勢しせいをアピールする必要ひつようがあり、また、ウェッレスがわについたカエキリウス・メテッルス出身しゅっしんははつ、ルキウス・リキニウス・ルクッルスとの対立たいりつ影響えいきょうしていた[68]

決着けっちゃく[編集へんしゅう]

ウェッレスがわは、ホルタルスとメテッルス・クレティクスが執政しっせいかんつとめるよくまえ69ねん、マルクス・メテッルスが主宰しゅさいする査問さもんしょでの決着けっちゃくねらったが、裁判さいばんまえ70ねん8がつおこなわれた。8月5にちからだいいち審理しんり(actio prima)がはじまり、原告げんこくがわ主張しゅちょう証拠しょうこ開示かいじ証人しょうにん尋問じんもん弁護べんごがわとの議論ぎろんおこなわれた。裁判さいばんすくなくとも1にち休会きゅうかい(ccomperendinatio)をはさんで、だい審理しんり(actio secunda)で最終さいしゅう弁論べんろんおこなう。キケロのねらいはポンペイウスが主宰しゅさいする祝祭しゅくさい(ludi votivi)が開催かいさいされる8がつ16にちまでに決着けっちゃくをつけることであった[69]かれ証人しょうにん次々つぎつぎ出廷しゅっていさせ、ウェッレスに不利ふり証言しょうげんげ、早々そうそう有罪ゆうざい確実かくじつながれをつくげてしまったため、ウェッレスは亡命ぼうめいせざるをなかった[70]。ちなみに、ローマでは有罪ゆうざい確定かくていすると、情状じょうじょう酌量しゃくりょうなどの余地よちなく法定ほうていけいがストレートに適用てきようされる。そのため、極刑きょっけい場合ばあいには亡命ぼうめい黙認もくにんされてはいた[71]。プルタルコスによると、ホルタルスはなすすべなく、損害そんがい賠償ばいしょうがく算定さんてい段階だんかいになってやっと弁護べんごしたとしているが、おそらくだいいち審理しんりでも弁護べんごしたはずである。ウェッレスの賠償ばいしょうがくは300まんHSに確定かくていしたとしており、キケロは賠償ばいしょうがくすくなく見積みつもるために賄賂わいろったうたがいをかけられたとしているが、キケロは翌年よくねんアエディリス(按察かん就任しゅうにんさい起訴きそしないことを条件じょうけんとして、ウェッレスに有罪ゆうざい判決はんけつれさせた可能かのうせいかんがえられる[72]

この勝利しょうりで、キケロは、当時とうじ名声めいせいはくしていたホルタルスをいやることになった[73]。こののちしばらくして、本来ほんらいこの裁判さいばんでする予定よていだった弾劾だんがい演説えんぜつ内容ないよう公表こうひょうしたが、ウェッレスが特異とくいであることを強調きょうちょうし、上流じょうりゅう階級かいきゅうにも支持しじされるようくばっている[74]かれはこの演説えんぜつで、過去かこ英雄えいゆう対比たいひさせるなど、幾度いくどもフマニタスにける(inhumanitas)とウェッレスを弾劾だんがいしている[75]

マルケッルス勝利しょうりしたが、かれ人間にんげんせいはローマにるよりもおおくの美術びじゅつひんをシュラクサエにのこした。
かれ公共こうきょう場所ばしょには戦利せんりひんかざったが、自分じぶんのためには何一なにひとまなかった。。。
かれだれにかけず、シュラクサエにおおくのすぐれたものをのこしたのだ。

キケロ『ウェッレス弾劾だんがい演説えんぜつ』2.4.121

クルスス・ホノルム[編集へんしゅう]

一躍いちやく名声めいせいげたキケロは、紀元前きげんぜん69ねんのアエディリス・プレブス、紀元前きげんぜん66ねんプラエトル法務ほうむかん)に選出せんしゅつされる。どちらもトップ当選とうせんだった[76]。プラエトルとしては、恐喝きょうかつざい査問さもんしょ担当たんとうした[77]

このローマで、ぼくはガイウス・マケル[注釈ちゅうしゃく 3]裁判さいばん担当たんとうしたんだが、
人々ひとびとからいままでにないほど支持しじられた。しんじられないほどだ。
個人こじんてきには寛大かんだい処置しょちかんがえていたんだが、かれ一人ひとり感謝かんしゃされるよりもはるかにおとくだったよ。

キケロ『アッティクスあて書簡しょかん』1.4

この前年ぜんねん紀元前きげんぜん67ねん、ポンペイウスにたいして、地中海ちちゅうかい海岸かいがんせんからやく75km以内いない範囲はんいとするプロコンスル待遇たいぐうでのインペリウム付与ふよ法案ほうあん(Lex Gabinia de bello piratico)が通過つうかしたが、このまえ66ねんたいミトリダテス戦争せんそう指揮しきけんにまでその適用てきよう範囲はんいひろげる法案ほうあん(Lex Manilia de imperio Cn. Pompei)が提出ていしゅつされた[79]。これにはホルタルスら守旧しゅきゅう弱々よわよわしい反対はんたいこえをあげたが、キケロは『マニリウスほうについて(De lege Manilia)』もしくは『グナエウス・ポンペイウスのインペリウムについて(De imperio Gn. Pompei)』という演説えんぜつおこな[80]過去かこポエニ戦争せんそうなどのれいげて賛成さんせいした[81]

アシアで商売しょうばいをしている人々ひとびと利益りえきかんがえてください。
かれらのなかには多額たがく投資とうしをしているものもいるのです。
こうした市民しみん不幸ふこうからまもることが、あなたの人間にんげんせいにかなうことなのです。

キケロ『マニリウスほうについて』18

『カティリナ(みぎはし)を追及ついきゅうするキケロ(左側ひだりがわ手前てまえ)』、"Cicerone denuncia Catilina"、イタリアじん画家がかチェーザレ・マッカリ英語えいごばんによる1888ねんさく

紀元前きげんぜん63ねん執政しっせいかん就任しゅうにんした。執政しっせいかん在任ざいにんちゅうきたルキウス・セルギウス・カティリナ一派いっぱによる国家こっか転覆てんぷく未遂みすい事件じけんにおいて、マルクス・ポルキウス・カトらの助力じょりょくて、首謀しゅぼうしゃ死刑しけいとする英断えいだんくだし、元老げんろういんから「祖国そこくちち」(pater patriae) の称号しょうごうる。

追放ついほう政治せいじてき苦境くきょう[編集へんしゅう]

しかし、カティリナ一派いっぱ死刑しけいにするというこの決断けつだんは、「ローマ市民しみんは、市民しみんによる裁判さいばんけなければ、死刑しけいしょされることはない」というローマのほうはんしたものであったため、越権えっけん行為こういであるという批判ひはんがなされた。その結果けっか紀元前きげんぜん58ねんまもるみんかん就任しゅうにんしたプブリウス・クロディウス・プルケル訴追そついによって、キケロは、ローマからの逃亡とうぼう余儀よぎなくされる。

翌年よくねん、キケロ召還しょうかん決議けつぎ可決かけつしたため、キケロは、ローマに凱旋がいせん帰国きこくする。そのグナエウス・ポンペイウスガイウス・ユリウス・カエサルマルクス・リキニウス・クラッススによるだいいちかいさんとう政治せいじ反対はんたいした。一方いっぽうで「クロディウスがパトリキ出身しゅっしんでありながらまもるみんかん就任しゅうにんしたことは違法いほうであり、クロディウスがまもるみんかん時期じきった施策しさく無効むこうである」むね表明ひょうめいしたところ、カトはこれにはげしく反発はんぱつしたため、カトとのなか冷却れいきゃくした。

紀元前きげんぜん51ねんから49ねんまでのあいだ政情せいじょう不安ふあんおちいっているしょうアジアキリキア総督そうとく拝命はいめいし、同地どうち内乱ないらん処理しょりたった。紀元前きげんぜん49ねんからはじまったカエサルとポンペイウスらの元老げんろういんによる内戦ないせんでは、当初とうしょ中立ちゅうりつたもったが、カエサルがヒスパニア苦境くきょうおちいっていたことから、ポンペイウスがわとうじた。元老げんろういんは、日和見ひよりみてきなキケロの対応たいおう白眼しろめして、重要じゅうよう任務にんむあたえなかった。そのため、キケロは、愛想あいそのないかおあるまわっては、元老げんろういん陣営じんえい空気くうきやすような冗談じょうだん提供ていきょうした。

紀元前きげんぜん48ねん8がつ元老げんろういんファルサルスのたたか敗北はいぼくすると、キケロは、マルクス・テレンティウス・ウァロらととも元老げんろういん離脱りだつした。そのさい無責任むせきにん身勝手みがって対応たいおう終始しゅうししたため、カトの制止せいしがなければ、キケロは、しょうポンペイウス殺害さつがいされるところであった。のちカエサルによりゆるされたが、以降いこう政治せいじからはなれて学問がくもん専念せんねんし、アッティクスの協力きょうりょくて、数々かずかず著作ちょさくおくした。紀元前きげんぜん46ねん4がつウティカでカトが自害じがいしたため、キケロは、カトのざまたたえた『カト』を発刊はっかんした。どう時期じきにカエサルも『はんカト』を発刊はっかんしたが、とも現存げんそんしていない。

キケロは、元老げんろういん議員ぎいんたちとはちがい、独裁どくさいしゃ変貌へんぼうしていくカエサルや共和きょうわせいローマ崩壊ほうかいたりにして、不安ふあんおぼえていた。このことは、『アッティクスあて書簡しょかんしゅう』などからることができる。

アントニウスとの対決たいけつ暗殺あんさつ[編集へんしゅう]

フルウィア (マルクス・アントニウスのつま)処刑しょけいされたキケロのあたまあそようえがいた『フルウィアとキケロのあたま』(パーヴェル・スヴェドムスキー

紀元前きげんぜん44ねん3月15にち、カエサルが暗殺あんさつ英語えいごばんされた。そのとき、キケロは、その事件じけん直接ちょくせつにはかかわらなかったものの、暗殺あんさつしゃたちを支持しじしており、その数日すうじつブルトゥスなどの暗殺あんさつしゃとの会談かいだんおこなっている。カエサル暗殺あんさつにカエサルの後継こうけいしゃすわろうとするマルクス・アントニウス対抗たいこうするため、当時とうじ平民へいみんだったオクタウィアヌス政界せいかい召喚しょうかんし、かれ人気にんきうしたてに『フィリッピカ』とだいするすうにわたるアントニウス弾劾だんがい演説えんぜつおこなう。

しかし、アントニウスとオクタウィアヌスのあいだだいかいさんとう政治せいじ成立せいりつしたことにより、キケロは、失脚しっきゃくしてしまう。キケロをものにしたいというアントニウスの要求ようきゅうにオクタウィアヌスがくっするというかたちで、プロスクリプティオ名簿めいぼにキケロを公示こうじした。そのため、ブルトゥスらが勢力せいりょくっていたマケドニアぞくしゅうへとかったものの、紀元前きげんぜん43ねん12月7にち、アントニウスのはなった刺客しかくにより暗殺あんさつされた。このとき、キケロのくびだけでなく右手みぎて切取きりとられて、フォルム・ロマヌムさらされることとなった。

紀元前きげんぜん30ねん、アントニウスは、アクティウムの海戦かいせんやぶれてした。このとき、キケロの息子むすこマルクス・トゥッリウス・キケロ・ミノルしょうキケロ)は、ローマの執政しっせいかんであったが、アントニウスの一切いっさい名誉めいよし、アントニウスもの今後こんご「マルクス」の使つかうことをきんずることを可決かけつした。

キケロの政治せいじ構想こうそう[編集へんしゅう]

1560ねん発刊はっかんの『義務ぎむについて』

キケロは、カエサルとならラテン語らてんご散文さんぶん名手めいしゅであり、その完成かんせいしゃといわれる。かれ著作ちょさく多岐たきにわたり、演説えんぜつ書簡しょかんでもられている。かれ文学ぶんがくしゃとしての評価ひょうかおよび政治せいじ思想家しそうかとしての評価ひょうかさだまっており、今日きょうでも注目ちゅうもくつづけている。しかし、政治せいじとしてはいくつかの欠点けってんがあり、その政治せいじ行動こうどう業績ぎょうせきについては評価ひょうかかれる。

キケロは、カエサルとはことなり、共和きょうわせい範囲はんいないでローマ社会しゃかい改革かいかくくわだてており、『国家こっかについて』『法律ほうりつについて』『義務ぎむについて』のなかで、第一人者だいいちにんしゃプリンケプス)の指導しどうにより元老げんろういん平民へいみんとの融和ゆうわはかった。さらに、ローマほうについてもギリシア哲学てつがくもとにして、いままでの事例じれい中心ちゅうしんだったローマほう体系たいけいてきさい編成へんせいするなどの作業さぎょうつうじ、共和きょうわせい中身なかみ改革かいかくすることを政治せいじ課題かだいとしていた。しかし、それが皮肉ひにくにもアウグストゥスによる元首げんしゅせい構想こうそうがれることとなった。

キケロには、おおくの弁論べんろん演説えんぜつ現存げんそんする。そのなかでも、反乱はんらん謀議ぼうぎのかどでカティリナを弾劾だんがいした元老げんろういん演説えんぜつカティリナ弾劾だんがい演説えんぜつ』は有名ゆうめいである。その国家こっかについて』『法律ほうりつについて』『友情ゆうじょうについて』『老年ろうねんについて』『かみ々の本性ほんしょうについて』『うらないについて』などがある。また、家族かぞく友人ゆうじんおくった書簡しょかん数多かずおおい。その思想しそうは、当時とうじローマで主流しゅりゅうだったストア哲学てつがくにローマの伝統でんとうてき価値かちかんんだ折衷せっちゅうてきなものとしてられる。たとえば、『義務ぎむについて』では、ストアの義務ぎむろんを、賢人けんじんにのみ可能かのうぜん実践じっせんとしての義務ぎむ一般人いっぱんじんにも可能かのう日常にちじょうこのましいことの実践じっせんとしての義務ぎむ (officium) の履行りこう換骨奪胎かんこつだったいしている。

後世こうせい受容じゅよう評価ひょうか[編集へんしゅう]

プルタルコスの『対比たいひ列伝れつでん』ではデモステネス対比たいひされており、キケロ自身じしんもアントニウス弾劾だんがい演説えんぜつにデモステネスのピリッポス2せい弾劾だんがいしたものとおなじ『フィリッピカ(ピリッピカ)』と名付なづけた。

そののキケロの思想しそうめぐ歴史れきしは、そのままヨーロッパの思想しそう説明せつめいすることにもなるほど、後世こうせいのヨーロッパに影響えいきょうあたえた。せいペテルスブルグ大学だいがく教授きょうじゅツィーリンスキーによると、キリストきょう中世ちゅうせい、ルネサンス啓蒙けいもう主義しゅぎみっつの時期じきけられる[82]

キリスト教きりすときょう中世ちゅうせい[編集へんしゅう]

キケロは、もっぱら道徳どうとく哲学てつがくしゃとして評価ひょうかされた。アウグスティヌスは、「キリスト教父きょうふとしてのキケロー」のいちめんつとされる[83]

ルネサンス[編集へんしゅう]

14世紀せいきイタリア人文じんぶん主義しゅぎ、とりわけフランチェスコ・ペトラルカ賞揚しょうようして以来いらいその文体ぶんたいラテン文学ぶんがく規範きはんとされ、14世紀せいきイタリアルネサンスは『アッティクスあて書簡しょかんしゅう』にられる作品さくひん作者さくしゃ内面ないめんのズレを発見はっけんしたペトラルカをもっ開始かいしされた。この時期じきのキケロはその人間にんげんせいによってられ、ペラトルカ、ダンテ、ボカッチオのルネサンスさんだい詩人しじんつらぬくルネサンス文芸ぶんげい特質とくしつすべてキケロにうとされる[84]15世紀せいきには、キケロの文体ぶんたいラテン語らてんご文体ぶんたい典範てんぱんとされ、キケロの文体ぶんたいだけを模倣もほうする人文じんぶん学者がくしゃはキケロ主義しゅぎしゃばれた。キケロ主義しゅぎしゃと、キケロ以外いがいにもラテン語らてんごはんもとめることをゆる学者がくしゃとのあいだ再三さいさん論争ろんそう発生はっせいした。エラスムスは1528ねん『キケロ主義しゅぎしゃ』を出版しゅっぱんし、痛烈つうれつにキケロ主義しゅぎ批判ひはんしたが、そののヨーロッパではキケロ主義しゅぎ勝利しょうりおさめ、西欧せいおう近代きんだい知識ちしきじんおおきな影響えいきょうあたえた[85]

啓蒙けいもう主義しゅぎ[編集へんしゅう]

キケロは、フランス啓蒙けいもう主義しゅぎさらにはフランス革命かくめいいたるまで、西欧せいおうにおける知識ちしきじんたちにおける必読ひつどく文献ぶんけんとされ、ニッコロ・マキャヴェッリフーゴー・グローティウスシャルル・ド・モンテスキューヴォルテール思想しそうにもおおきな影響えいきょうあたえ、キケロをもっ共和きょうわ主義しゅぎ民主みんしゅ主義しゅぎ象徴しょうちょうとするうごきが連綿れんめんつづいた。

衰退すいたい[編集へんしゅう]

キケロにたいする関心かんしんは、19世紀せいき以降いこう低下ていかをはじめ、「だい革命かくめい」のシンボルとしてキケロを重視じゅうししていたフランスに対抗たいこうするかたちで、とくおおくのりょうくに国家こっかかれプロイセンを中心ちゅうしん王政おうせい基礎きそとした統一とういつ国家こっか成立せいりつ目指めざしていた当時とうじのドイツにおいてニーブールヘーゲルひとしにより共和きょうわせい守護しゅごしゃたるキケロは批判ひはんされ、キケロと対立たいりつしたカエサルの19世紀せいき後半こうはん熱烈ねつれつ支持しじしゃであったモムゼンによってその批判ひはん頂点ちょうてんむかえる。イギリス、フランスにおくれて発展はってんはじめたドイツにおいて、絶対ぜったいてきかつ本質ほんしつてきなギリシア文化ぶんかたいして、キケロが体現たいげんするローマ文化ぶんかはその亜流ありゅうぎず、評価ひょうかあたいしないものとされ、このような傾向けいこうについて、エライザ・メアリアン・バトラーは、『ドイツにおけるギリシアの暴虐ぼうぎゃく』(1933)において示唆しさしたため、ナチスの禁書きんしょ目録もくろく指定していされた[86]

現在げんざい[編集へんしゅう]

モムゼンの影響えいきょうは20世紀せいきにまでもおよび、この影響えいきょうからキケロをすくそうとしたのは古典こてん学者がくしゃのハインツであり、20世紀せいきなかばから、イギリス、フランス、アメリカ、ポーランドとうでキケロにかんする研究けんきゅう地道じみちすすめられるようになり、20世紀せいきにおけるキケロの最大さいだい評価ひょうかしゃは、ハンナ・アーレントホセ・オルテガ・イ・ガセットであるとされる[87]

日本にっぽん[編集へんしゅう]

安土あづち桃山ももやま時代じだいキリシタンばんひとつとしてキケロの演説えんぜつしゅう刊行かんこうされた痕跡こんせきがあり、セミナリヨひとしラテン語らてんご教材きょうざいとして使つかわれていたと推定すいていされる[88]。また、キケロの『かみ々の本性ほんしょうについて』のストアてき自然しぜん神学しんがく英語えいごばんが、ヴァリニャーノゴメスイエズスかいによって、日本人にっぽんじんけのかみ存在そんざい証明しょうめいとして使つかわれた[89]

近代きんだい以降いこう20世紀せいきまつまでは、はやし達夫たつおがキケロを必読ひつどくしょとして[90]日本語にほんごやく岩波いわなみ文庫ぶんこひとしでわずかにていた程度ていどで、本格ほんかくてき研究けんきゅうしょ存在そんざいしなかった。1999ねん以降いこう岩波書店いわなみしょてんから『キケロー選集せんしゅうぜん16かん刊行かんこうされ[91][注釈ちゅうしゃく 4]岩波いわなみ文庫ぶんことう新訳しんやくて、研究けんきゅうしょ徐々じょじょえている。

おも著作ちょさく[編集へんしゅう]

弁論べんろんぶん[編集へんしゅう]

弾劾だんがい[編集へんしゅう]

その[編集へんしゅう]

  • マニリウスほうについて(ポンペイウスの指揮しきけんについて)英語えいごばん
  • 農地のうちほうについて』(De Lege Agraria contra Rullum
  • ちょうぼく回答かいとうについて』(De Haruspicum Responsis
  • かれいえについて』(De Domo Sua
  • 元老げんろういんでの帰還きかん演説えんぜつ』(Post Reditum in Senatu
  • 市民しみんへの帰還きかん演説えんぜつ』(Post Reditum in Quirites
  • 執政しっせいかん職能しょくのうについて』(De Provinciis Consularibus

弁論べんろんじゅつしょ[編集へんしゅう]

哲学てつがくしょ[編集へんしゅう]

Opera omnia(『マルクス・トゥッリウス・キケロの現存げんそんするぜん作品さくひん』)1566ねん

書簡しょかんしゅう[編集へんしゅう]

日本語にほんごやく[編集へんしゅう]

  • キケロー選集せんしゅう岩波書店いわなみしょてんぜん16かん)、1999-2002ねん
    • 1.竹中たけなか康雄やすお宮城みやぎ徳也とくや上村うえむら健二けんじ久保田くぼた忠利ただとし やく法廷ほうてい政治せいじ弁論べんろんI : ロスキウス・アメリーヌス弁護べんご 』2001ねんISBN 9784000922517 
    • 2.たに栄一郎えいいちろう小川おがわ正廣まさひろ宮城みやぎ徳也とくや山沢やまさわたかしいたり やく法廷ほうてい政治せいじ弁論べんろんII : ムーレーナ弁護べんご 』2000ねんISBN 9784000922524 
    • 3.小川おがわ正廣まさひろ根本ねもと英世ひでよじょうこう良和よしかず やく法廷ほうてい政治せいじ弁論べんろんIII : カティリーナ弾劾だんがい、ピリッピカ(アントーニウス弾劾だんがい)』1999ねんISBN 9784000922531 
    • 4.おか, 道男みちお片山かたやま, 英男ひでお久保くぼ, 正彰まさあき ほか へん法廷ほうてい政治せいじ弁論べんろんIV : ウェッレース弾劾だんがい』2001ねんISBN 9784000922548 
    • 5.大西おおにし英文ひでふみたに栄一郎えいいちろう西村にしむら成雄しげお やく法廷ほうてい政治せいじ弁論べんろんV : ウェッレース弾劾だんがいII』2001ねんISBN 9784000922555 
    • 6.片山かたやま英男ひでお やく修辞しゅうじがくI : 発想はっそうろんほか』2000ねんISBN 9784000922562 
    • 7.大西おおにし英文ひでふみ やく修辞しゅうじがくII : 弁論べんろんについて』1999ねんISBN 9784000922579 
    • 8.おか道男みちお わけ哲学てつがくI : 国家こっかについて、法律ほうりつについて』1999ねんISBN 9784000922586 
    • 9.中務なかつかさ哲郎てつろう高橋たかはし宏幸ひろゆき やく哲学てつがくII : だいカトー・老年ろうねんについて、ラエリウス・友情ゆうじょうについて、義務ぎむについて』1999ねんISBN 9784000922593 
    • 10.永田ながた康昭やすあきけん琢也たくや岩崎いわさきつとむ やく哲学てつがくIII : ぜんあく究極きゅうきょくについて』2000ねんISBN 9784000922609 
    • 11.山下やました太郎たろう・五之治昌比呂 やく哲学てつがくIV : かみ々の本性ほんしょうについて、運命うんめいについて』2000ねんISBN 9784000922616 
    • 12.木村きむら健治けんじ岩谷いわたにさとし やく哲学てつがくV : トゥスクルムそう対談たいだんしゅう』2002ねんISBN 9784000922623 
    • 13.根本ねもと和子かずこ川崎かわさき義和よしかず やく書簡しょかんI : アッティクスあて書簡しょかんしゅうI』2000ねんISBN 9784000922630 
    • 14.高橋たかはしえいうみ大芝おおしば芳弘よしひろ やく書簡しょかんII : アッティクスあて書簡しょかんしゅうII』2001ねんISBN 9784000922647 
    • 15.高橋たかはし宏幸ひろゆき・五之治昌比呂・大西おおにし英文ひでふみ やく書簡しょかんIII : 縁者えんじゃ友人ゆうじんあて書簡しょかんしゅう1』2002ねんISBN 9784000922654 
    • 16.大西おおにし英文ひでふみけん琢也たくや根本ねもと和子かずこ やく書簡しょかんIV : 縁者えんじゃ友人ゆうじんあて書簡しょかんしゅう2』2002ねんISBN 9784000922661 
選集せんしゅう」よりの文庫ぶんこばん
その

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 現在げんざい陪審ばいしんせいちかい。当時とうじコルネリウスほうによって全員ぜんいん元老げんろういん議員ぎいん構成こうせいされ、双方そうほう弁論べんろんいたのち秘密ひみつ投票とうひょうおこな多数決たすうけつ判決はんけつ[29]
  2. ^ 紀元前きげんぜん80年代ねんだいにスッラとマリウス、ルキウス・コルネリウス・キンナらによってこされた反対はんたい粛清しゅくせい
  3. ^ 紀元前きげんぜん68ねんプラエトルのガイウス・リキニウス・マケル[78]
  4. ^ 1997ねん刊行かんこう予定よていだった『キケロー全集ぜんしゅう[92]から改題かいだい
  5. ^ 複数ふくすう訳者やくしゃによる選集せんしゅう、112つう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  16. ^ キケロ『義務ぎむについて』2.87
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  54. ^ アウルス・ゲッリウス『アッティカのよる』2.4.1
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

研究けんきゅうしょ[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
ルキウス・ユリウス・カエサル
ガイウス・マルキウス・フィグルス
執政しっせいかん
同僚どうりょうガイウス・アントニウス・ヒュブリダ
紀元前きげんぜん63ねん
次代じだい
デキムス・ユニウス・シラヌス
ルキウス・リキニウス・ムレナ

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]