ささえ

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シナから転送てんそう
ささえ
中国ちゅうごく
中国ちゅうごく ささえ
発音はつおん記号きごう
標準ひょうじゅん中国語ちゅうごくご
漢語かんご拼音zhīnà
ちゅう音符おんぷごうㄓ ㄋㄚˋ
マ字まじtsyひらた na
きゃく
きゃく拼音zii24 na55
粤語
粤拼zi1 na5
閩南
閩南白話はくわchi-ná
朝鮮ちょうせん
ハングル지나
発音はつおん記号きごう
RRしきjina
ベトナム
ベトナムchi na
ちゅう古音こおん
ちゅう古音こおん/t͡ɕiᴇ nɑX/

ささえ(しな)またはシナとは、中国ちゅうごくまたはその一部いちぶ地域ちいきたいしてもちいられる地理ちりてき呼称こしょう、あるいは王朝おうちょう政権せいけんえた通史つうしてき呼称こしょうひとつである。日本にっぽんでは江戸えど時代じだい中期ちゅうきからひろまったが、だい世界せかい大戦たいせんこう差別さべつてき意味合いみあいがあると主張しゅちょうされて使用しよう批判ひはんされる傾向けいこうがある[1]

言葉ことば由来ゆらい[編集へんしゅう]

1938ねん昭和しょうわ13ねん)に日本にっぽん発売はつばいされた「ささえ大地だいち」。この地図ちずによれば、中華民国ちゅうかみんこくまんしゅうこくだけでなく、モンゴル人民じんみん共和きょうわこくを「そとこうむいにしえ」としてその範疇はんちゅう[注釈ちゅうしゃく 1]くわえ、のちソビエト連邦れんぽう併合へいごうされたトゥヴァ人民じんみん共和きょうわこくれている。また、いわゆるかん民族みんぞく居住きょじゅうでないひがしトルキスタンウイグル)とチベット地図ちずでは「西蔵とりぞう」)もはいっており、広範囲こうはんい地域ちいきめいでもあった。

ささえという言葉ことば語源ごげん諸説しょせつあるが、あきらあさ時代じだい末期まっきにこの地域ちいきにいたイタリアじんイエズスかい宣教師せんきょうしまもるただしこく(マルティノ・マルティニ)による著作ちょさく "Nuvus Atlas Sinensis" では、中原なかはらはつ統一とういつ王朝おうちょうはた拼音: Qín, 梵語ぼんご: Thin・Chin, ギリシャラテン語らてんご: Sinae)に由来ゆらいするとされる[2]まもるただしこくによれば、このはた呼称こしょう周辺しゅうへん諸国しょこくつたわったが、現在げんざいインド転訛てんかしてシナになったとしている。

2世紀せいき前後ぜんごには、インドで中国ちゅうごくして「チーナ・スターナ "China staana"」とんでいた。この表記ひょうきについてじょさくせいは、1995ねん雲南うんなんしょう西部せいぶ都市としささえじょう」に由来ゆらいするというせつ発表はっぴょうしている[3]インドがわからポルトガルではだい航海こうかい時代じだいから現代げんだいまで一貫いっかんして[よう出典しゅってん] Chinaぶ。ギリシャ、ラテンけんでは国名こくめい地域ちいきめい女性じょせいがたになることがおおく、はた国名こくめいはシーナとなる[よう出典しゅってん]

インドから仏教ぶっきょうずい伝来でんらいした当時とうじ経典きょうてんなかにある梵語ぼんご「チーナ・スターナ "China staana"」を当時とうじわけけいそうが「ささえ」と漢字かんじおとうつしたことによってかれ伝来でんらいした。このときとして、「ささえ」のほか、「ふるえだん」「」「」「いたり」「あぶら」「ささええいとうがある。この「シナ」の発音はつおん西洋せいようつたわり、英語えいご"China" フランス語ふらんすご"Chine" などの語源ごげんともなったといわれている[1]

歴史れきし[編集へんしゅう]

中国ちゅうごくでの使用しよう[編集へんしゅう]

仏典ぶってん中国ちゅうごく国名こくめいとして「チーナ」が登場とうじょうしている。仏教ぶっきょう伝来でんらい中国ちゅうごく仏典ぶってんかんやくしたさい、「チーナ」に「ささえ」(そのにも「あぶら」や「いたり」)をてた。また、インドの言語げんごで「しんこく」をあらわした「チーナスターナ」という言葉ことばは、「ふるえだん」、「」などに漢字かんじされた。仏典ぶってんかんやくには中国人ちゅうごくじんそうだけでなく、シルクロード諸国しょこくやインド出身しゅっしんそう多数たすう参加さんかしていたため、「ささえ」の考案こうあんしゃ中国人ちゅうごくじんとはかぎらない[4]

7世紀せいきげん時代じだいには仏教ぶっきょう関係かんけい書物しょもつ中国ちゅうごく賞賛しょうさんする意味合いみあいで使つかわれていたとかんがえられるが、18世紀せいきころにはすでに中国ちゅうごくで「ささえ」という表現ひょうげん一般いっぱん使つかわれることはなくなっていた[5]

日本にっぽんにおける使用しよう歴史れきし[編集へんしゅう]

1900ねん明治めいじ33ねん)に中国ちゅうごく大陸たいりく設置せっちされた日本にっぽん郵便ゆうびんきょく使用しようするために発行はっこうされた、菊花きっか紋章もんしょうのある5ぜに普通ふつう切手きって切手きってがわあか文字もじみぎからひだり横書よこがきでささえ印刷いんさつささえの「ささえ」のうえからNのしるしされている)

日本にっぽんにおいて、「ささえ」の言葉ことばはいったのは、ずい同様どうようかんやく仏典ぶってんつうじてであった。平安へいあん時代じだい高僧こうそう空海くうかい詩文しぶんしゅうせいれいしゅう」に「ささえ」がもちいられたれい[6]確認かくにんできる。京都きょうと東福寺とうふくじくら重要じゅうよう文化財ぶんかざいにも「ささえ禅刹ぜんさつ図式ずしき」(みなみそうさく)がある。鎌倉かまくら時代じだいにはとらせきげんとおるしゃくしょおうしんでんろんに「かれささえねぎみねひがし」とえる。室町むろまち時代ときよそう万里ばんりしゅうきゅうの「山谷さんや先生せんせいまつぶん」にもえる[7]江戸えど時代じだい初期しょきまんじもと蛮『本朝ほんちょう高僧こうそうでん巻一けんいちしゃくぶくあきらでん」には「ささえはいってよしみさちに謁し」とある。さら江戸えど時代じだい初期しょきには世界せかいなかにこの地域ちいき位置いちづける場合ばあいに「ささえ」の呼称こしょうもちいられたれいることが出来できる。江戸えど初期しょき西洋紀聞せいようきぶん』はキリスト教きりすときょう禁止きんしされていた日本にっぽん布教ふきょう目的もくてき潜入せんにゅうしてらえられたイタリアじんジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチたいして新井あらい白石はくせきおこなった尋問じんもん記録きろくであるが、シドッチの日本にっぽん上陸じょうりく1708ねん宝永ほうえい5ねん))および翌年よくねん尋問じんもん1725ねんとおる10ねんごろまでに完成かんせいさせたものであり、そのなかではアジアアメリカヨーロッパなどとならべて「ささえ」の記述きじゅつ発見はっけんできる[8]江戸えど中期ちゅうき富永とみながなかはじめじょう』や[注釈ちゅうしゃく 2]江戸えど中期ちゅうきそうだいげんの『淨土じょうど頌義鈔探げん鈔』[9]や、そうさとふかわたしこう』や[注釈ちゅうしゃく 3]佐藤さとう信淵のぶひろ1823ねん文政ぶんせい6ねん)にあらわした『混同こんどう秘策ひさく』でも「ささえ」がもちいられている。

江戸えど後期こうきには「ささえ」とおなじく梵語ぼんごからった「China」などの訳語やくごとしても定着ていちゃくした。幕末ばくまつ洋学ようがくしゃ佐藤さとうもとろく大陸たいりく対比たいひしてささえろんじる[注釈ちゅうしゃく 4]幕末ばくまつ英語えいご辞書じしょぞうていはなえい通語つうご』の万延まんえん元年がんねん福澤ふくさわ諭吉ゆきち凡例はんれいでは英語えいご中国ちゅうごくとの対比たいひで「ささえ」が使つかわれている[10]とく明治めいじ以降いこう歴代れきだい王朝おうちょうめいれいかんとうきよし)とはべつに、地域ちいきてき呼称こしょうつう時代じだい王朝おうちょうてき汎称はんしょうとしての、この地域ちいき名称めいしょうさだめることが必要ひつようであるというかんがかた一般いっぱんてきとなり、従来じゅうらいかん」「とう」などでしょうしていたものを「ささえ」といいかえることがおこなわれた(れい:「かん文学ぶんがく」→「ささえ文学ぶんがく」)。日本にっぽんでは、伝統でんとうてき黄河こうが流域りゅういき国家こっかたいし「とうかん唐土とうど」の文字もじもちいて「とう、から、もろこし」とうんできた[よう検証けんしょう][よう出典しゅってん]江戸えど時代じだい以前いぜん大陸たいりくを「中国ちゅうごく」とんだ事例じれいられない(幕末ばくまつ、「まんしゅうえびす」が自分じぶん自身じしんを「中国ちゅうごく」とんでいると紹介しょうかいされることはあった[注釈ちゅうしゃく 5])。

明治めいじ政府せいふきよし国交こっこうむすんでからは、国号こくごうを「清国きよくに」、その国民こくみんを「清国きよくにじん」と呼称こしょうした。学術がくじゅつ分野ぶんやでは、伝統でんとうてきには「かん」の文字もじもちいて「漢学かんがく」「漢文かんぶんとう呼称こしょうもちいられてきたが、明治めいじ中葉ちゅうようより、漢人かんど国家こっかやその文化ぶんかたいして「ささえ」がもちいられるようになった。ただし、「漢人かんど」「かん民族みんぞく」の定義ていぎ確定かくていであり、学術がくじゅつてき確定かくていしているわけではなかった。[よう検証けんしょう][よう出典しゅってん]

大日本帝国だいにっぽんていこく日本にっぽん)は1876ねん明治めいじ9ねん以降いこうきよし大日本帝国だいにっぽんていこく郵便ゆうびんもう整備せいび郵便ゆうびんきょくざい中国ちゅうごく郵便ゆうびんきょく)を設置せっちした。これは欧米おうべい列強れっきょう同様どうように、しん近代きんだいてき郵便ゆうびん制度せいど整備せいびであったためであるが、19世紀せいきすえ清国きよくに政府せいふによるだいきよし郵政ゆうせい創業そうぎょうしてからも存続そんぞくしていた。当初とうしょ大日本帝国だいにっぽんていこく同様どうよう日本にっぽん切手きって現地げんち通貨つうか販売はんばいしていたが、価値かちひく清国きよくに通貨つうか購入こうにゅうした切手きって日本にっぽん列島れっとうおく投機とうきおこなわれるようになった。そのため1900ねん明治めいじ33ねん以降いこう大日本帝国だいにっぽんていこく使つかえなくするためすり切手きってえた。このときすり切手きって地域ちいきめいとして「ささえ」をもちいている。これは欧米おうべい列強れっきょう中国ちゅうごく発行はっこうした切手きってが、国号こくごうの"Ch'ing"ではなく"China"(えいべい)をもちいたのと同様どうようであった。この切手きってもまた、大日本帝国だいにっぽんていこくではささえ国家こっかめいではなく、地域ちいきめいとしてもちいられていたことをあらわしている。[独自どくじ研究けんきゅう?][よう出典しゅってん]

当初とうしょささえ」は同様どうよう歴然れきぜんとしてはずかしめたがなかった。中華民国ちゅうかみんこく成立せいりつ以前いぜん大日本帝国だいにっぽんていこく公文書こうぶんしょにおいても、いくつかささえ使用しようれい存在そんざいする[3][よう検証けんしょう]しかし佐藤さとう三郎さぶろうは、この時期じき中国人ちゅうごくじんアヘン戦争せんそう敗北はいぼく改革かいかくおくれなどにより「惰弱だじゃく因循いんじゅん姑息こそく驕慢きょうまん不遜ふそん無能むのう不潔ふけつ」といった印象いんしょうたれており、どう時期じき普及ふきゅうした「ささえ」のかたりがそれにむすびつけられるようになったと指摘してきし、実藤さねとうめぐみしゅうにちしん戦争せんそうのちには、日本人にっぽんじんの「ささえ」という言葉ことばには軽蔑けいべつじっていたと指摘してきしている[11]

近世きんせいから20世紀せいき初期しょきまでの中国ちゅうごくにおける使用しようれい[編集へんしゅう]

19世紀せいきまつまで、中国ちゅうごく大陸たいりく清朝せいちょうまんしゅうぞく)の統治とうちにあり、明治めいじ日本にっぽん以来いらい中国ちゅうごく清国きよくにしょうし、その国民こくみん清国きよくにじんんだ。清朝せいちょう末期まっき共和きょうわ主義しゅぎ運動うんどうひろまるにつれ、中国人ちゅうごくじん共和きょうわ主義しゅぎしゃたちのあいだで、清国きよくに清国きよくにじんという呼称こしょうは「まんきよし臣下しんか」を意味いみするという理解りかいひとたちから、清朝せいちょう共和きょうわせいにかわる、未来みらいてる共和きょうわこく呼称こしょうについての模索もさく開始かいしされた。また中国ちゅうごくでは、世界せかいなか中国ちゅうごく客観きゃっかんてき位置いちづける場合ばあいに「ささえ」の呼称こしょうおも仏教ぶっきょう文献ぶんけんひろ使つかわれてきた。[よう検証けんしょう][よう出典しゅってん][独自どくじ研究けんきゅう?]

きよし末期まっき(19世紀せいきまつ - 1911ねん)のなかで、漢人かんど共和きょうわ主義しゅぎ革命かくめいたちが、自分じぶんたちの樹立じゅりつする共和きょうわこく国号こくごうや、自分じぶんたちの国家こっかたいする王朝おうちょう政権せいけん変遷へんせんえたつうてき呼称こしょう模索もさくしたさいに、自称じしょうひとつとしてもちいられた一時期いちじきがある。[よう検証けんしょう][よう出典しゅってん][独自どくじ研究けんきゅう?]

王朝おうちょう政権せいけん変遷へんせんえた、国号こくごうとしても使用しよう可能かのう固有名詞こゆうめいし呼称こしょうのひとつとして古来こらいの「ささえ」という呼称こしょうえらり、まんしゅうぞくによる清朝せいちょう支配しはい体制たいせいからの脱却だっきゃく目指めざ革命かくめいなどのいち時期じきひろ使用しようされた。[よう検証けんしょう][よう出典しゅってん][独自どくじ研究けんきゅう?]

中華民国ちゅうかみんこく建国けんこくちちとされるまごぶん1902ねん明治めいじ35ねん)に発行はっこうされた宮崎みやざき滔天とうてんの『さんじゅうさんねんゆめ』にせた言葉ことばなかで「ささえ」のかたり使用しよう[注釈ちゅうしゃく 6]1910ねん明治めいじ43ねん)に「ささえ暗殺あんさつだん」を設立せつりつ[12]、また中華民国ちゅうかみんこく成立せいりつ1914ねんに、まご首相しゅしょう大隈おおくま重信しげのぶてた書簡しょかんなかでは、ささえ29かいささえ革命かくめい1かいささえ国民こくみん2かいささえじん1かい合計ごうけい34かいの「ささえ表記ひょうき使用しようしている[13]。またまごぶん協力きょうりょくしゃであった日本人にっぽんじん梅屋うめや庄吉しょうきちからし革命かくめい成功せいこうに「ささえ共和きょうわこく公認こうにん期成きせい同盟どうめいかい」を結成けっせいしている。このときがく広州こうしゅうにあるまご中山なかやま記念きねんかん保存ほぞんされている。1902ねんには、日本にっぽん亡命ぼうめいしていた中国人ちゅうごくじん共和きょうわ主義しゅぎしゃたちが、上野うえの精養軒せいようけんで「ささえ亡国ぼうこくひゃくよんじゅうねん記念きねんかい」を企画きかくした。[よう検証けんしょう][よう出典しゅってん]

日本にっぽん東京とうきょう留学りゅうがくしていたそうきょうひとし機関きかん題目だいもくを『じゅう世紀せいきささえ』としていた[13]。1911ねんしん国家こっか国号こくごう候補こうほにもあがっている(最終さいしゅうてきには「中華民国ちゅうかみんこく」が採用さいようされた)[14][よう検証けんしょう]

中華民国ちゅうかみんこく成立せいりつ[編集へんしゅう]

1914ねん日本にっぽん印刷いんさつされた「滑稽こっけい時局じきょく世界せかい地図ちず」では、漢字かんじ英語えいご露西亜ろしあ日本にっぽん朝鮮ちょうせん台湾たいわんささえ西蔵とりぞうみみ其斯ひろしなどを明示めいじした。

りょうあきらちょう1901ねん明治めいじ34ねん)に『中国ちゅうごくじょろん』において「われじんがもっとも慙愧ざんきにたえないのは、我国わがくにには国名こくめいがないことである」とし、とうかん王朝おうちょうめいささえ外国がいこくじん使用しようする呼称こしょう中国ちゅうごく中華ちゅうか自尊じそん自大じだい気味きみがあるとしながら「やはりわれじん口頭こうとう習慣しゅうかんしたがって『中国ちゅうごく』とぶことはえらびたい」とべている。[よう検証けんしょう][よう出典しゅってん]

近代きんだい主権しゅけん国家こっかへの性向せいこうをもつ政治せいじ運動うんどう結集けっしゅうかくとなったのは、清朝せいちょうというよりも「中国ちゅうごく」であって、この時期じき次第しだい国名こくめいとして定着ていちゃくしつつあった[15]からし革命かくめい成立せいりつした中華民国ちゅうかみんこく国号こくごうについて、日本にっぽん政府せいふ正式せいしき国名こくめい使用しようせず伊集院いじゅういん彦吉ちゅうきよし公使こうし進言しんげん[注釈ちゅうしゃく 7]による「ささえ」を採用さいようした。[よう検証けんしょう][よう出典しゅってん]

于紅によれば、これは近代きんだい日本にっぽんたいちゅう大陸たいりく政策せいさく表徴ひょうちょうするものであり、にちちゅう関係かんけい対等たいとう意味いみしていたとする[17]日本にっぽん政府せいふ中国ちゅうごく政府せいふ締結ていけつする条約じょうやく文面ぶんめんなど、正式せいしき呼称こしょうもちいることが不可欠ふかけつ場合ばあいのぞき、この共和きょうわこくたいする呼称こしょうを「ささえ共和きょうわこく」としょうすることをさだめた[18]

以上いじょう結果けっか日本にっぽんにおける「ささえ」という呼称こしょうは、以下いかの2つの概念がいねんたいする呼称こしょうとして使用しようされることになった。うま廷亮駐日ちゅうにち代理だいり公使こうしからは「中華民国ちゅうかみんこく」を使つかうようにという抗議こうぎがあったが、牧野まきのしんあきら外相がいしょうはすでに官報かんぽう告示こくじずみであり、訂正ていせいしがたいと回答かいとうしている[19]。ただし、両国りょうこくあいだ往復おうふくする公文こうぶんしょさいしては、日本にっぽんぶんでは「ささえ共和きょうわこく」、漢文かんぶんでは「中華民国ちゅうかみんこく」がもちいられることとされた[19]

中国ちゅうごく国民党こくみんとうによるきた完了かんりょうし、国権こっけん回復かいふく運動うんどうさかんになると、日本にっぽんもちいる「ささえ共和きょうわこく」という呼称こしょうたいする反発はんぱつふたたつよまった[20]1930ねん昭和しょうわ5ねん5月27にち中華民国ちゅうかみんこく外交がいこうたいし、「ささえ」と表記ひょうきされた公文書こうぶんしょらないように訓令くんれいはっした[21]中華民国ちゅうかみんこく中央ちゅうおう政治せいじ会議かいぎによる決議けつぎけて、中華民国ちゅうかみんこく外交がいこうが、英語えいごによる国号こくごう表記ひょうき“Republic of China (ROC)”とする一方いっぽうで、ちゅうぶん表記ひょうきを「だい中華民国ちゅうかみんこく」であるとし、日本にっぽん政府せいふたいし「ささえ呼称こしょう使つかわないよう」にもうれてきた。

その理由りゆうとして「ささえという言葉ことば意味いみ大変たいへん明確めいかくで、現在げんざい中国ちゅうごくとはなんら関係かんけいない」というものであった。そのため、10月31にちささえこくごう呼称こしょうせきスルけん」という閣議かくぎ決定けってい[22][23]、「これまでは外交がいこう文書ぶんしょで「中華民国ちゅうかみんこく」と必要ひつようのあるものをのぞいて通常つうじょう文書ぶんしょでは「清国きよくに」のことを「ささえ」と記載きさいしてきたが、当初とうしょから中華民国ちゅうかみんこくがわささえという呼称こしょうこのましくないとしていたし、とく最近さいきん中華民国ちゅうかみんこく官僚かんりょう民衆みんしゅう不満ふまん表明ひょうめいすることがおおくなっているので、その理由りゆう如何いかはさておいて、中華民国ちゅうかみんこく政府せいふからの正式せいしきもうれはないけれども、今後こんごは「ささえこく」ではなく「中華民国ちゅうかみんこく」とくことにする。」と決定けっていした。

この決定けっていは「中華ちゅうか」が、かつての中華ちゅうか思想しそうもとづく[よう検証けんしょう]ものであるとて、日本にっぽん知識ちしきじんなどにはつよ反発はんぱつものすくなくなく[24]ぬさはら喜重郎きじゅうろう外相がいしょうの「軟弱なんじゃく外交がいこう証拠しょうこ」であるとして、批判ひはん対象たいしょうとなった[25]

事変じへんから戦後せんご状況じょうきょう[編集へんしゅう]

1921ねん卒業そつぎょう写真しゃしんには、台湾たいわん留学りゅうがくする中国ちゅうごく本土ほんど学生がくせいを「ささえ留学生りゅうがくせい」とんだ。
1935ねん台湾たいわんにちにち新聞しんぶん」に記載きさいした台湾たいわんみなみささえ南洋なんようとの貿易ぼうえき
だい上海しゃんはい事変じへん勃発ぼっぱつほうじた東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん紙面しめん(1937ねん8がつ14にち)。中華民国ちゅうかみんこく国府こくふぐんを「暴戻ぼうれいささえ」と表現ひょうげんしている。
掌中しょうちゅうきたささえこうむ疆詳』、1939ねん東京とうきょうはやし書店しょてん出版しゅっぱん
1939ねん台湾たいわんしんみんほうしゃによって出版しゅっぱんされた「しんささえ素描そびょう

1937ねん昭和しょうわ12ねん7がつ盧溝橋ろこうきょう事件じけん端緒たんしょとするにちちゅう戦争せんそうについて、大日本帝国だいにっぽんていこく政府せいふは「今回こんかい事変じへんささえ事変じへん呼称こしょうする」と決定けっていした[26]。ここで戦争せんそうとせず事変じへんとしたのは宣戦せんせん布告ふこくによって戦時せんじ国際こくさいほう拘束こうそくされることをにちはな両国りょうこくのぞまなかったためである(宣戦せんせん布告ふこくした場合ばあい中立ちゅうりつくにから武器ぶき輸入ゆにゅうすることが出来できなくなるなどの問題もんだいきるため)。

当時とうじ日本にっぽんでは「唐土とうど」「ささえ」ないし「ささえじん」の呼称こしょう一般いっぱんてきであったが、ささえという言葉ことばは、にちしん戦争せんそう以降いこうささえ親善しんぜんなどと両国りょうこく頭文字かしらもじ使つかってもちいることもあった[27]中国ちゅうごく政府せいふ中国人ちゅうごくじん非難ひなんするときもたびたびセットで使つかわれた。このような表現ひょうげんとしては「暴戻ぼうれいボウレイささえ」や「暴支膺懲ようちょうボウシヨウチョウ」があった[注釈ちゅうしゃく 8]戦時せんじちゅう中国人ちゅうごくじんたいする蔑称べっしょうとしては「チナ」「ポコペン」「チャンコロ」などがあった。その原因げんいんは「ささえ」が当時とうじ一般いっぱんてき呼称こしょうであったためである。

中華民国ちゅうかみんこく連合れんごうこく一員いちいんとしてだい世界せかい大戦たいせん戦勝せんしょうこくになると、蔣介せき日本にっぽんたいし、「今後こんごくに中華民国ちゅうかみんこくび、略称りゃくしょう中国ちゅうごくとするよう」主張しゅちょうした[28]1946ねん昭和しょうわ21ねん6月13にち公表こうひょう6月6にち通達つうたつ)の「ささえ呼称こしょうけることにかんするけん」という外務がいむ次官じかん通達つうたつおこなわれ、「中華民国ちゅうかみんこく呼称こしょうかんするけん」という外務省がいむしょう総務そうむ局長きょくちょう通達つうたつ公告こうこくした。

これ以後いご外務がいむ次官じかん通達つうたつにより、放送ほうそう出版しゅっぱんぶつにおいては、中国ちゅうごくのことをささえ呼称こしょうすることを自粛じしゅくすることになった。その理由りゆうとして、中華民国ちゅうかみんこく代表だいひょうしゃから公式こうしき非公式ひこうしきに「ささえ」の使用しようをやめてほしいとの要求ようきゅうがあったので、今後こんご理屈りくつきにして、先方せんぽういやがる文字もじ使つかわないようにしたいとしている。

日本人にっぽんじんが「ささえ」とんでいたことについて、蔣介せきは、たいにちせん最中さいちゅうたいにち言論げんろんしゅうなかで「かれら(日本人にっぽんじん)は中国ちゅうごくささえんでいる。このささえとはどういう意味いみであろうか。これはにかかった人間にんげんである」とべており[29]中華民国ちゅうかみんこく指導しどうしゃそうには「ささえ」には侮蔑ぶべつがあると解釈かいしゃくするものもいた。

そのため、「中国ちゅうごく」の表記ひょうき一般いっぱん使用しようされるようになり、日本語にほんごみで「ちゅうごく[注釈ちゅうしゃく 9]」とぶようになった。

当時とうじ大学だいがくにあった「ささえ哲学てつがく」といった教科きょうかめい変更へんこう文部省もんぶしょうからもとめられたほか、郵政省ゆうせいしょう国際こくさい郵便ゆうびんきゅうまんしゅうこく地域ちいきは「中華民国ちゅうかみんこく東北とうほく」、「ささえ」「きたささえ」「ちゅうささえ」「みなみささえ」とんでいた地域ちいきに「中華民国ちゅうかみんこく」といていなければ、郵便ゆうびんきょくではけないと発表はっぴょうしている[30]

また、当時とうじ吉田よしだしげる首相しゅしょう国会こっかい答弁とうべんで「ささえ」と呼称こしょうしたことたいし、野党やとうから批判ひはんけたことをめぐり、中国ちゅうごく文学ぶんがくしゃとして著名ちょめいであった青木あおき正児まさるが「わる名称めいしょうではなかったから、吉田よしだしげる首相しゅしょう使つかうのは問題もんだいにしないでほしい」ということを、朝日新聞あさひしんぶん寄稿きこうした[31]ところ、当時とうじ経済けいざい貿易ぼうえき新聞しんぶんしゃ主幹しゅかんであったりゅう勝光かつみつは「にちしん戦争せんそう以後いご教育きょういく方針ほうしんあなど中国ちゅうごくてきであり「ささえ」という文字もじると日本にっぽん軍閥ぐんばつ帝国ていこく主義しゅぎ想起そうきする」として、中国ちゅうごくにはない単語たんごであり、日本人にっぽんじんによる著作ちょさく以外いがいには存在そんざいしないなどと批判ひはんした[29]

このてんにつき、加藤かとうとおるは「日本国にっぽんこく政府せいふが『ささえ共和きょうわこく』という独自どくじ呼称こしょうにこだわったのは(中略ちゅうりゃく1930ねんまでだった。以後いごは、公文書こうぶんしょのなかで『中華民国ちゅうかみんこく』という国名こくめい使つかうようになった。すでだい大戦たいせんちゅうに、日本にっぽん政府せいふは、南京なんきん中華民国ちゅうかみんこく政府せいふひろしちょうめい政権せいけん)の要請ようせいけ、今後こんご段階だんかいてきに『ささえ』という呼称こしょうをやめてゆくことを約束やくそくした。もしかりに、日本にっぽんだい世界せかい大戦たいせん戦勝せんしょうこくとなっても、『ささえ』は廃語はいごとなったろう」とする[32]

現代げんだい日本にっぽん状況じょうきょう[編集へんしゅう]

戦後せんご、「ささえ事変じへん」ないし「ささえ」といった表現ひょうげん使つかわれる場合ばあい[注釈ちゅうしゃく 10]すくなくなかったが、21世紀せいき現在げんざい日本にっぽんにおいて、「ささえ」「ささえじん」が使用しようされる頻度ひんどすくなくなり、一般いっぱんてきには「中国ちゅうごく」「中国人ちゅうごくじん」にってわられている。

戦後せんご一時期いちじきは、略称りゃくしょうで「なか」とする場合ばあいは、中国ちゅうごく本土ほんど支配しはいする中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく意味いみするが、「はな」とする場合ばあいは、台湾たいわんのがれた中華民国ちゅうかみんこく政府せいふ意味いみする[注釈ちゅうしゃく 11]。そのため、日本にっぽん政府せいふ中国ちゅうごく大陸たいりく代表だいひょうする中国ちゅうごく政府せいふとして、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくではなく中華民国ちゅうかみんこく国家こっか承認しょうにんしていた時期じきに、日本にっぽんではこくあいだたい前者ぜんしゃを「にちちゅう」、後者こうしゃを「にちはな」と表記ひょうきしていた。

なお中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくとの国交こっこうがなかった時期じきには、日本にっぽんでは承認しょうにん国家こっかということで「中共ちゅうきょう」(中国共産党ちゅうごくきょうさんとう)といった略称りゃくしょう普通ふつう使つかわれていた[注釈ちゅうしゃく 12]。また中華民国ちゅうかみんこく政府せいふのことを「中国ちゅうごく国府こくふ政府せいふ」(中国ちゅうごく国民党こくみんとう政権せいけん)といった表現ひょうげんもあったが、いずれにしても「ささえ」が使つかわれることはなくなった。

Microsoft Windows使用しようされているMicrosoft IMEや、ATOKなどの日本語にほんご入力にゅうりょくシステムでは、出荷しゅっかに「ささえ」という単語たんご辞書じしょ登録とうろくされておらず、初期しょき状態じょうたいでは「しな」を「ささえ」に漢字かんじ変換へんかん出来できない。また読売新聞社よみうりしんぶんしゃ刊行かんこうした読売新聞よみうりしんぶん紙面しめんデータをおさめた「明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわ読売新聞よみうりしんぶん」でデータベース検索けんさくする場合ばあい原典げんてん記事きじで、「ささえ」「ささえじん」「きたささえ」と表現ひょうげんしている場合ばあい固有名詞こゆうめいしで「ささえ派遣はけんぐん」とある場合ばあいのぞき、「中国ちゅうごく」「中国人ちゅうごくじん」「華北かほく」と表示ひょうじされる。 おも右派うは使つかわれることがおおく、たとえば2008ねんのチベット騒乱そうらんけて発刊はっかんされた西村にしむらさいわいゆうへんの『チベットだい虐殺ぎゃくさつ真実しんじつ—FREE TIBET!チベットをすくえ!』(オークラ出版しゅっぱん)がある。この書籍しょせきでは中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政権せいけんによるチベット弾圧だんあつ批判ひはんてき論者ろんしゃによる批判ひはん掲載けいさいされているが、おおくの論者ろんしゃ[注釈ちゅうしゃく 13]が「シナ」をもちいている。

また、北朝鮮きたちょうせんたいする日本にっぽん政府せいふ対応たいおう批判ひはんする建国けんこく義勇軍ぎゆうぐんが、新聞しんぶんしゃ親中しんちゅう野中のなか広務ひろむ弾丸だんがん一緒いっしょおくりつけた犯行はんこう声明せいめいぶんでは「ささえ朝鮮ちょうせん国益こくえきまもり、善良ぜんりょうなる日本にっぽん国民こくみん嫌悪けんおかんいかりをたかめた」などといていた[33]。そのため、これらの「シナ」を使つか一部いちぶ論者ろんしゃは、中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政権せいけん批判ひはんとセットとなっていることから、「中国ちゅうごく」の呼称こしょうもちいたくないから使つか傾向けいこうがあるともいえる。

インターネットうえでは、中国ちゅうごく反感はんかんそうが「シナ」を使つかれいおおい。フリーライターで「プロ2ちゃんねらー」を自称じしょうする中宮なかみやたかしが、ヤフーチャットで他人たにんさげすむために使つか常套句じょうとうくのひとつに「ささえ土人どじん」があるが、中宮ちゅうぐうは「ささえ土人どじん政府せいふは、日本にっぽんのインターネットにも大量たいりょうささえ土人どじん工作こうさくいん派遣はけんして、プロパガンダ活動かつどうおこなっている」などと主張しゅちょうしており[34]ささえ」をもちいている。一方いっぽう田中たなか克彦かつひこは、保守ほしゅ主義しゅぎもの使つか国家こっかとしての中国ちゅうごく国名こくめい使つかわず「シナ」というのは、誤用ごようであると指摘してきしている[35]

サーチナ鈴木すずき秀明ひであきは、中国ちゅうごく批判ひはんてき日本人にっぽんじんが「ささえ」や「ささえじん」を使つか背景はいけいには、侮蔑ぶべつというよりは(中国ちゅうごくおよび中国人ちゅうごくじん言行げんこうたいする)反発はんぱつまたはいやがらせのめんつよいとの見方みかたしめした[36]

中国ちゅうごくにおける反応はんのう[編集へんしゅう]

1913ねん日本にっぽんが「ささえ共和きょうわこく」の表記ひょうき採用さいようしたことについて中華民国ちゅうかみんこく外交がいこうは、うま廷亮駐日ちゅうにち代理だいり公使こうしつうじ「中華民国ちゅうかみんこく」をもちいるよう日本にっぽんがわつよもとめた[19]むべあきら郵便ゆうびんきょく日本にっぽんからの郵便ゆうびんぶつ帯紙おびがみにある「ささえ」の文字もじ抹消まっしょうし、抗議こうぎぶんいた事例じれいや、日本にっぽん中国人ちゅうごくじん留学生りゅうがくせい手記しゅきをまとめた『東遊あずまあそび揮汗ろく』で批判ひはんされた事例じれいがある[11]一方いっぽう義和よしかずだんらん前後ぜんご新聞しんぶん記者きしゃとして来日らいにちしていたこともある狄葆けん中国語ちゅうごくごばんは「ささえという名称めいしょうじるにらず、中華民国ちゅうかみんこくなどの国号こくごうもちいるよりは広義こうぎですぐれている」と主張しゅちょうしていた。それによると仏典ぶってんささえ意味いみは「思慮しりょふかい」というものであり、交易こうえき国家こっかとしての賛美さんびであったというものであった。

1920年代ねんだい国権こっけん回復かいふく運動うんどうの楊煕績中華民国ちゅうかみんこく文書ぶんしょ局長きょくちょうは「ささえという呼称こしょうは、中華民国ちゅうかみんこく清国きよくに以下いかであると形容けいようしたもの」「くに公文書こうぶんしょやまとやつくに中国ちゅうごくもちいられる日本人にっぽんじん蔑称べっしょう)といたら、日本にっぽんがわりはしないだろう」と、「無礼ぶれい字句じく」であると非難ひなんしている[37]胡漢民こかんみん立法院りっぽういんちょうもまた、中国ちゅうごくはすでに「ささえ」ではないと非難ひなんおこなった[21]どう時期じき新聞しんぶんにおいても日本にっぽんがわ対応たいおう批判ひはんする記事きじ掲載けいさいされている[21]

1936ねん千葉ちばけん市川いちかわきょかまえて長期ちょうき滞日たいにちちゅうだった郭沫若かくまつじゃく雑誌ざっしに「日本人にっぽんじん中国人ちゅうごくじんたいする態度たいどについて」というつぎのような一文いちぶん発表はっぴょうしている[38]

日本人にっぽんじん中国ちゅうごくを『ささえ』という。もとはわる意味いみではなく、『はた』のおとわったということだ。ところで、これを日本人にっぽんじんくちからくと、まるでヨーロッパじんのいう『ユダヤ』というものよりもわるい。そういう日本人にっぽんじん態度たいどが、国際こくさい関係かんけい文字もじにもよくあらわれている。えいささえふつささえべいささえつゆささえ、鮮支、まんささえ中国ちゅうごくはいつもさい劣等れっとう地位ちいになっている。すこしくかれらの新聞紙しんぶんし注意ちゅういすれば、かかる表現ひょうげんはすぐにわかる[38]

郭沫若かくまつじゃく日本人にっぽんじんくちから「ささえ」という言葉ことばきたくなかった、としるしている[38]

また戦後せんごにおいてもささえ使用しようする石原いしはら慎太郎しんたろうたいして、しゅたてさかえは「日本にっぽん中国ちゅうごく侵略しんりゃくしたとき差別さべつ言葉ことばとして使つかったのは間違まちがいない。外交がいこうじょう配慮はいりょすこしでもあれば、とう中国ちゅうごくいやがっている言葉ことばぶことはかんがえられない」と批判ひはんした[39]

中国ちゅうごくのメディアでは、にちしん戦争せんそう日本にっぽん勝利しょうりしたさいに、熱狂ねっきょうした日本にっぽん民衆みんしゅうが「日本にっぽんった、ささえけた」とさけんだとし、結果けっかとして「ささえ」が蔑称べっしょう変化へんかしたという主張しゅちょうがなされるが、サーチナ鈴木すずき秀明ひであきは、(戦争せんそう是非ぜひべつにして)戦勝せんしょうこくとなった当時とうじ日本にっぽん国民こくみんよろこぶのは正常せいじょう現象げんしょうで、「ささえけた」で「ささえ蔑称べっしょうになったわけではないとべた。また、「ささえ蔑称べっしょうである」との主張しゅちょうおも中国人ちゅうごくじんからなされていることについては、蔑称べっしょう定義ていぎには該当がいとうせず、蔑称べっしょうとして使用しようされたこともないとしながらも、当時とうじ日本にっぽん国民こくみんおおくが中国ちゅうごくおよび中国人ちゅうごくじんたいする蔑視べっし感情かんじょうつようになっていったはずだとの見方みかたしめした[36]

中国ちゅうごくでは21世紀せいきはいっても「ささえ(シナ)」表現ひょうげんへの反発はんぱつがあり、2008ねんには重慶たーちん飲食いんしょくてんが、店名てんめいの「ささえなべ」をインターネットうえ批判ひはんされ、廃業はいぎょうまれている[36]

台湾たいわん香港ほんこんにおいて[編集へんしゅう]

近年きんねんでは台湾たいわん香港ほんこんにおいて、香港ほんこん本土ほんど運動うんどう中国語ちゅうごくごばん支持しじする若年じゃくねんそう中心ちゅうしん中国ちゅうごく大陸たいりく中国ちゅうごく大陸たいりく住民じゅうみんたいする差別さべつとして使用しようされている[40]使つかわれる場所ばしょおもPTTLIHKG討論とうろん中国語ちゅうごくごばんなどインターネット掲示板けいじばん中心ちゅうしんであるが、香港ほんこん本土ほんど政党せいとう青年せいねん新政しんせい立法りっぽうかい議場ぎじょうで「ささえ」と発言はつげんしたり[41]2019ねん以降いこう抗議こうぎデモちゅうれんべん外壁がいへきに「ささえれんべん」「fkささえ」と落書らくがきをされるなど[42]共産きょうさん中国ちゅうごくからの分離ぶんりなどを主張しゅちょうするための政治せいじてき示威じい行為こういとして使用しようされることもある。 ただし台湾たいわんにおいては、ささえ単語たんごはもともと中立ちゅうりつてきであってChinaの中国語ちゅうごくご音訳おんやくぎないため、名誉めいよ毀損きそんには該当がいとうしないという判決はんけつたこともあり[43]かならずしも差別さべつとしてのみ認知にんちされているわけではない。

文化ぶんか学術がくじゅつてき使用しよう[編集へんしゅう]

文化ぶんかてき使用しよう[編集へんしゅう]

ラーメンみせ看板かんばんかかげられた「ささえそば」(岡山おかやまきた

中国ちゅうごくからの輸入ゆにゅうひんなかにも「ささえ」をしるしたものがある。かつてはささえがたなささえ綿めんささえ大根だいこんなどおおくの呼称こしょうもちいられたが、現在げんざいでも通用つうようする呼称こしょうささえちくメンマ)やささえそば(ラーメン[44]などきわめてかぎられている。なおラーメンは、ひしげめんをベースに日本にっぽん発展はってんした料理りょうりである(日本にっぽんにおけるラーメンの歴史れきし参照さんしょう)。

学術がくじゅつてき使用しよう[編集へんしゅう]

学術がくじゅつてき漢字かんじ表記ひょうきではない片仮名かたかな「シナ」が現代げんだいでももちいられる場合ばあいがある。言語げんごがくでは「シナ・チベット語族ごぞく」の学術がくじゅつ用語ようごが、標準ひょうじゅん表記ひょうきとして使つかわれている。また、地理ちりにおいても「東シナ海ひがししなかい」(英語えいご East China Sea)・「南シナ海みなみしなかい」(英語えいご South China Sea)・「インドシナ半島いんどしなはんとう」(英語えいご Indochina)が使つかわれている。

生物せいぶつ植物しょくぶつがく分野ぶんやでも、戦前せんぜん命名めいめいされたシナイタチアナグマシナグリ、シナレンギョウなど「シナ-」をもちいた和名わみょうもちいられており、学名がくめいについても同様どうようである。ただし、チュウゴクモクズガニのようにかつての「シナ-」という名前なまえが「チュウゴク-」にわったれいもある[45]

東京大学とうきょうだいがく京都大学きょうとだいがくもうけられたささえ専攻せんこうは、この地域ちいき国家こっか歴史れきし研究けんきゅう対象たいしょうとする専攻せんこうである。

ささえ」は差別さべつ用語ようごであるか[編集へんしゅう]

堀田ほったみつぐとくの『実例じつれい差別さべつ表現ひょうげん あらゆる情報じょうほう発信はっしんしゃのためのケーススタディ』によれば、出版しゅっぱんかいでは「ささえ」は戦中せんちゅうおおくの日本人にっぽんじん侮辱ぶじょく感情かんじょうめて使つかったため、現在げんざい使つかわないと主張しゅちょうされている。よって「ささえふく」は「中国ちゅうごくふく」、「ささえそば」は「中華ちゅうかそば」「ラーメン」、「ささえ料理りょうり」は「中華ちゅうか料理りょうり」「中国ちゅうごく料理りょうり」、「ささえ事変じへん」「ささえ事変じへん」「にちはな事変じへん」は「にちちゅう戦争せんそう」と表記ひょうきするべきと主張しゅちょうされている。また「東シナ海ひがししなかい」「南シナ海みなみしなかい」については「ひがし中国ちゅうごくかい」「みなみ中国ちゅうごくかい」との表記ひょうき一般いっぱんてきになるのをって採用さいようすると主張しゅちょうされている[注釈ちゅうしゃく 14]

田中たなか克彦かつひこは、オットー・メンヒェン=ヘルフェントゥバ紀行きこう』の日本語にほんご翻訳ほんやくばん出版しゅっぱんしているが、このなかえて「シナ」をもちいている。田中たなかによれば「国家こっか民族みんぞく厳密げんみつ区別くべつすべき」として「言語げんご国家こっかではなく民族みんぞくむすびつくものであり、中国ちゅうごくといえば民族みんぞく国家こっかとしての略称りゃくしょうであって、国民こくみんあらわ中国人ちゅうごくじんとシナは別々べつべつ使つかうべきである」と主張しゅちょうしている[35]

木村きむら光彦みつひこは、福澤ふくさわ諭吉ゆきちの『学問がくもんのすゝめ』のささえ表記ひょうきは、現代げんだい日本語にほんごはんでは中国ちゅうごくといいかえられているが、福澤ふくさわ諭吉ゆきちが『学問がくもんのすゝめ』をいた当時とうじは、中国ちゅうごくという国家こっか存在そんざいしないため、ささえくのは当然とうぜんであり、中国ちゅうごくといいかえるのは「徳川とくがわ家康いえやす東京とうきょう幕府ばくふひらいた」と奇妙きみょうことってるにひとしく、歴史れきしじょう用語ようご抹殺まっさつするかのような風潮ふうちょうには疑問ぎもんかんじるとして、中華民国ちゅうかみんこく成立せいりつ以後いごCHINA表記ひょうきしている[47]。そのうえで「この言葉ことばささえ同根どうこんであるが、なぜかだれ文句もんくわない。それどころか、かのくに自身じしん英語えいご表記ひょうきとして使用しようしているのが可笑おかしい」とべている。そしてロシアでは CHINA を「キタイ」といい、かつてのかんぞく北狄ほくてきちぎり由来ゆらいするが、中国共産党ちゅうごくきょうさんとうそう書記しょき習近ひらたにならないのだろうかとべている[47]

岡田おかだ英弘ひでひろは、19世紀せいき以前いぜんとなり大陸たいりく中国ちゅうごくというくにがないため、大陸たいりくという地理ちりてき概念がいねん説明せつめいするしかない)を「中国ちゅうごくぶのはおかしい」として、シナを使用しようする理由りゆう以下いかのようにべている[48]

中華民国ちゅうかみんこくは1912ねん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくは1949ねんにできたのであって、それ以前いぜん中国ちゅうごくというくにはありません。「中国ちゅうごく」とぶから、大昔おおむかしからいまにつながる不変ふへん悠久ゆうきゅう歴史れきしおもかべてしまう。しかし、実際じっさいには、「中国ちゅうごく」はその領土りょうども、そこにきる人々ひとびとも、王朝おうちょうも、時代じだいごとにおおきくちがっている。滅亡めつぼう断絶だんぜつ人間にんげんだい移動いどうわりが、あのくに歴史れきしなのです。ここではただしい歴史れきし記述きじゅつできないので、19世紀せいき以前いぜんとなり大陸たいりく文明ぶんめいには「シナ」という言葉ことば使つかうようにしています。これは英語えいごの「CHINA」とおなじく、はた始皇帝しこうていの「はた」が語源ごげんで、新井あらい白石はくせきが、イタリアの宣教師せんきょうしシドッティがかたった内容ないようもとづいて、ふるかんやく仏典ぶってんから「ささえ」の文字もじさがしたものです。同様どうように、19世紀せいきまでは「中国人ちゅうごくじん」もいなかったので、原則げんそくとして「漢人かんど」と表記ひょうきしています。 — 岡田おかだ英弘ひでひろ

宮脇みやわき淳子じゅんこは、ささえという侮蔑ぶべつてき意味いみはないとおもうが、もし中国人ちゅうごくじんがその表記ひょうき侮蔑ぶべつてき意味いみかんじるなら表意ひょういてきでないカタカナでシナとけば問題もんだいないだろう、として、シナ表記ひょうき支持しじした[49][50]

渡部わたなべ昇一しょういちなどの右派うは言論げんろんじんはじめ、酒井さかい信彦のぶひこも「シナ蔑称べっしょうせつは、意図いとてきつくげられた神話しんわ・妄説にぎ」ず、むしろ「中国ちゅうごくあるいは中華ちゅうか表現ひょうげんこそ、シナじん民族みんぞくたいする侵略しんりゃく行為こうい正当せいとうする用語ようごである」と主張しゅちょうしている[51]

1992ねん平成へいせい4ねん)に朝日新聞社あさひしんぶんしゃから刊行かんこうされた『地域ちいきからの世界せかい』シリーズのだい6かん内陸ないりくアジア』では、モンゴル専門せんもんちゅう見立みたておっとが、上述じょうじゅつ漢人かんど国家こっか中国ちゅうごく概念がいねんのズレについて考察こうさつしたのち、

近代きんだい世界せかいにおけるモンゴル民族みんぞくやチベット民族みんぞくあゆみをあとづけると、「中国ちゅうごく」という概念がいねん問題もんだいかびがる。これらの民族みんぞくには、すくなくとも清朝せいちょう崩壊ほうかい段階だんかいでは、漢人かんど居住きょじゅうする地域ちいきといった意味いみでの「中国ちゅうごく」という言葉ことばはあった。誤解ごかいおそれずにくならば、「シナ」(この場合ばあい、おおむねモンゴルやチベットはふくまれない)という地域ちいき概念がいねんはあった。しかし、漢人かんどたちがいだくような、民族みんぞく共同きょうどうたい歴史れきしてき存在そんざいとしての「中国ちゅうごく」という概念がいねん欠如けつじょしていた。 — ちゅう見立みたておっと地域ちいきからの世界せかいだいろくかん

という文脈ぶんみゃくで「シナ」というかたり使用しようしている[52]

日本にっぽん中国ちゅうごくを「シナ」と表現ひょうげんする政治せいじとして、石原いしはら慎太郎しんたろうげられる。石原いしはらは、1999ねん平成へいせい11ねん3がつ10日とおか東京とうきょう都知事とちじ選出せんしゅつ表明ひょうめい記者きしゃ会見かいけんで「シナは、きよしほろんで中国ちゅうごく大陸たいりく混乱こんらんしたときまごぶんがつくった言葉ことばだ。まごぶん台湾たいわんでも大陸たいりくでも国父こくふとして尊敬そんけいされている。なぜ日本人にっぽんじん使つかうと差別さべつになるのか、さっぱりわからない」と、その理由りゆうかたっている[53][54]

加藤かとうとおるは「中国人ちゅうごくじんが『ささえ』という日本語にほんご違和感いわかんかんずるのは、おな漢字かんじ文化ぶんかけんくにだからである。たがいの自称じしょう漢字かんじけば、そのまま意味いみつうじるのに、日本人にっぽんじんはわざわざ『ささえ共和きょうわこく』という国名こくめいつくった。中国人ちゅうごくじんはそこに、悪意あくい屈辱くつじょくかんじたのだ。こくどうしでも個人こじんどうしでも、対等たいとう関係かんけいなら、相手あいて自称じしょうみとめるのがマナーであろう」と指摘してきしている[55]評論ひょうろん八幡はちまん和郎かずおは、著書ちょしょなかで「ささえといっても抗議こうぎされる由縁ゆえんはないはずだが、あえて相手あいていやがる呼称こしょう使つかうこともない。それが大人おとな対応たいおうだ」とべている[56]

また英語えいごの「チャイナ」など、おおくの言語げんごでは「シナ」とおな語源ごげん呼称こしょうもちいられていることを理由りゆうに、あえて「ささえ(シナ)」を使つかひともいる。小谷野こやのあつし自身じしん著書ちょしょで、インドシナ印度いんどささえ)をふく東南とうなんアジア中国ちゅうごくたいしてシナけい呼称こしょうもちいることをげ、王朝おうちょう時代じだいふく中国ちゅうごく歴史れきし文化ぶんかたいして「シナ」とんでいる[57]

智英ともひでは「ささえ禁止きんし理不尽りふじんいがかりであると主張しゅちょうしている[58]

小林こばやしよしのりは、自身じしん著書ちょしょで「シナ」を使つかっているが著書ちょしょないで「『シナ』は差別さべつではない『はた』を語源ごげんとする。『チャイナ』とおな中国ちゅうごく歴史れきしてき名称めいしょうである」や「ここで統一とういつされた『シナ』には満州まんしゅうも、チベットも、ウイグルも、うちモンゴルも、台湾たいわんも、ふくまれていない」(著書ちょしょからの引用いんよう)としている。このため中国ちゅうごく存在そんざいした王朝おうちょうを「シナ王朝おうちょう」と表現ひょうげんしたりしている[59]。また、小林こばやし有本ありもとかおり共著きょうちょ『はじめてのささえろん中華ちゅうか思想しそう正体しょうたい日本にっぽん覚悟かくご』(幻冬舎げんとうしゃ)のほんおびには、「ウザい隣国りんごく中国ちゅうごくは『ささえ』とぶべし」などとかれている[60]

学術がくじゅつてき証拠しょうこ[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん西にしあまね時代じだい)にはすでに「中国ちゅうごく」の文字もじ史書ししょあらわれていたとされる[61]

すめらぎてんすんでづけ中國ちゅうごくみんえつ厥疆于先おうすめらぎてんすでちゅう國民こくみんと厥疆の土地とちさきおうす)
  • 詩経しきょうの『大雅たいが』の「なまみん什」のしょうなかの「みんろう」にあらわれるもの
みんまたろうどめ 汔可小康しょうこう めぐみ中國ちゅうごく 以綏四方しほう(この中国ちゅうごくめぐみあれ、四方しほうやすらかに)
たて詭隨 以謹りょう しき遏寇しいたげ 憯不かしこあきら
やわとおのう邇 以定わがおう

遺物いぶつあらわれる「中国ちゅうごくへん1963ねん出土しゅつどした「なにみこと」は西にしあまねなりおう時代じだい紀元前きげんぜん11世紀せいき)の青銅器せいどうきで、銘文めいぶんに「其宅茲中国ちゅうごく これ乂民」ときざまれている[62]遺物いぶつそのものにある「中国ちゅうごく」の用例ようれいとしては、現存げんそん最古さいことされる。

人民じんみんみなちょう大平おおひらただし ゆうるい中國ちゅうごく(人民じんみんみなちょう大平おおひらただしで、中國ちゅうごくるいする)

其使まい中國ちゅうごく みな自稱じしょう大夫たいふ(その使者ししゃ中国ちゅうごく訪問ほうもんすると、みなみずか大夫たいふしょうす) などのように、その歴代れきだい王朝おうちょう正史せいしじゅうよんでも「中国ちゅうごく表記ひょうき一貫いっかんしてられつづけ、かつ明確めいかく国家こっか民族みんぞくあらわす概念がいねんとしてあつかわれている[63]古代こだい中国ちゅうごくにおいて国号こくごう王朝おうちょう交代こうたいするたびわり、「中国ちゅうごく」は近代きんだいになってからかん民族みんぞく国家こっかすためにあらたにつくられた国名こくめいである、とったような日本にっぽん国粋こくすい主義しゅぎしゃによる上述じょうじゅつしょ主張しゅちょうはこれらの史学しがくてき諸事しょじがらには不明ふめい理由りゆうでほとんどれようとしない。

なにみこときざまれた銘文めいぶん[62]

“𠁩ある”(中国ちゅうごく

銘文めいぶんの「中国ちゅうごく」(𠁩ある

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 中華民国ちゅうかみんこくそとこうむふる独立どくりつみとめていなかった。
  2. ^ 富永とみながなかはじめじょう』「三蔵阿毘曇修多羅伽陀第五」には「ささえ教学きょうがくかならずこれをみさお縵にたくす」とあり、同書どうしょげんゆうさんぶつだいじゅういち」には「ふるえだんささえゆびなんまたおなじ、琳師うんわく、東方とうほうふるえぞくすと、またってかいしょうず、わらうべし」とある。早稲田大学わせだだいがくぞう高橋たかはしあきらちょう写本しゃほんhttps://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko01/bunko01_01577/bunko01_01577_p0017.jpghttps://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko01/bunko01_01577/bunko01_01577_p0031.jpg
  3. ^ さとふかわたしこう』には「天竺てんじくささえ扶桑ふそうかみなりや」「ささえかみにあらず」というかたりえる。
  4. ^ 長久保ながくぼ赤水あかみず唐土とうど歴代れきだいしゅうぐん沿革えんかく」の安政あんせい2ねん佐藤さとうもと跋文ばつぶんに「論者ろんしゃややもすれば輙ちいわく、ささえわれあいぐちとなすと、これかならずしもしからず……ろく大洲おおすひろし々たる、まんきよしいでおうたるしゃまたなんせいなるをらず」とう。[1]
  5. ^ 間宮まみや林蔵りんぞうじゅつ村上むらかみ貞助さだすけへんひがし紀行きこう国立こくりつ公文書こうぶんしょかんデシタルアーカイブ ひがし地方ちほう紀行きこう ちゅうまき文化ぶんかはちねん(1811ねんふで原本げんぽん画像がぞう
  6. ^ にちゆうしゅりょうえびす、憫支そぎおぼれ宮崎みやざき滔天とうてんさんじゅうさんねんゆめ』 - 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション国光こっこう書房しょぼう
  7. ^ 中華民国ちゅうかみんこくナル名称めいしょうげん共和きょうわこく国号こくごうづけ承認しょうにんニ於ケル公式こうしき文書ぶんしょそく条約じょうやく国書こくしょとう彼我ひが往復おうふく文書ぶんしょちゅうとく国名こくめい全部ぜんぶスル場合ばあいみとめムルヲようスレトモ帝国ていこく部内ぶないニ於テハ中華民国ちゅうかみんこくしょうスルノようナカルヘク」と稟申し、中国ちゅうごくでは歴朝れきちょう国号こくごうにより呼称こしょうえるが欧米おうべい関係かんけいなくChinaとう地理ちりてき名詞めいし使用しようしていること、日本にっぽん一般いっぱん言語げんごとしてささえしょうしていることをげ、欧米おうべいにならってささえという地理ちりてき名詞めいし使つかって正式せいしき公文書こうぶんしょ記録きろくすべきであり「今後こんご国号こくごう更改こうかい如何いかセスわがニ於テハ「ささえ」トしょうスルニ敢テささえナカルヘクトそんこう」と上申じょうしんした[16]
  8. ^ ここでは「暴戻ぼうれい残酷ざんこく徳義とくぎにもとる」「暴・膺懲ようちょう乱暴らんぼう(なしゃ)をらしめる」の意味いみであり、ささえささえ)そのものは固有名詞こゆうめいしにすぎない。
  9. ^ 中国ちゅうごく」は現代げんだい中国語ちゅうごくご発音はつおん記号きごうでzhōngguó、国際こくさい音声おんせい記号きごうでは[ʈ͡ʂʊŋ˥ kuo˧˥]表記ひょうきされ、かな文字もじすると"チュンクォ"となる。
  10. ^ 戦後せんごのかなり経過けいかした書籍しょせきであっても、広島ひろしまけん町村ちょうそんかいへん広島ひろしま町村ちょうそんかい50ねん」(1971ねん発刊はっかん)のように、「ささえ事変じへん」といった表現ひょうげんがある事例じれいもある。
  11. ^ 1952ねんに蔣介せき政権せいけんとのあいだ締結ていけつされた「日本にっぽんこく中華民国ちゅうかみんこくとのあいだ平和へいわ条約じょうやく」は「にちはな平和へいわ条約じょうやく」とばれる。
  12. ^ たとえば1964ねん2がつ18にち参議院さんぎいん外務がいむ委員いいんかいにおいて中国ちゅうごく問題もんだいあつかった当時とうじ大平おおひら正芳まさよし外務がいむ大臣だいじん答弁とうべんは、すべて「中共ちゅうきょう」である。
  13. ^ 編集へんしゅうしゃ西村にしむらさいわいゆうのほかおも右派うは論客ろんかくとされる、はたけ奈津子なつこ中宮なかみやたかしなどの寄稿きこうが「シナ」を使つかっている。ただし、批判ひはんてき論者ろんしゃでも青木あおき直人なおとなどは「中国ちゅうごく」としている。
  14. ^ ジャーナリスト堀田ほったみつぐとくによれば、「語源ごげん差別さべつ要素ようそはないが、日本にっぽん中国ちゅうごくとの戦争せんそうちゅうおおくの日本人にっぽんじん侮辱ぶじょく感情かんじょうめてもちいたので、不適切ふてきせつ表現ひょうげんではないとの反論はんろんはしがたく、公的こうてき場所ばしょでの使用しようはほとんどない」とされる[46]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b ささえ. コトバンクより2023ねん9がつ10日とおか閲覧えつらん
  2. ^ 下中しもなか 1938、485ぺーじ
  3. ^ a b 于紅 2002, pp. 104.
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]