支 ささえ 那 な (しな)またはシナ とは、中国 ちゅうごく またはその一部 いちぶ の地域 ちいき に対 たい して用 もち いられる地理 ちり 的 てき 呼称 こしょう 、あるいは王朝 おうちょう ・政権 せいけん の名 な を超 こ えた通史 つうし 的 てき な呼称 こしょう の一 ひと つである。日本 にっぽん では江戸 えど 時代 じだい 中期 ちゅうき から広 ひろ まったが、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 こう は差別 さべつ 的 てき 意味合 いみあ いがあると主張 しゅちょう されて使用 しよう が批判 ひはん される傾向 けいこう がある[1] 。
1938年 ねん (昭和 しょうわ 13年 ねん )に日本 にっぽん で発売 はつばい された「支 ささえ 那 な 大地 だいち 図 ず 」。この地図 ちず によれば、中華民国 ちゅうかみんこく と満 まん 洲 しゅう 国 こく だけでなく、モンゴル人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく を「外 そと 蒙 こうむ 古 いにしえ 」としてその範疇 はんちゅう [注釈 ちゅうしゃく 1] に加 くわ え、後 のち にソビエト連邦 れんぽう へ併合 へいごう されたトゥヴァ人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく も入 い れている。また、いわゆる漢 かん 民族 みんぞく の居住 きょじゅう 地 ち でない東 ひがし トルキスタン (ウイグル )とチベット (地図 ちず では「西蔵 とりぞう 」)も入 はい っており、広範囲 こうはんい の地域 ちいき 名 めい でもあった。
支 ささえ 那 な という言葉 ことば の語源 ごげん は諸説 しょせつ あるが、明 あきら 朝 あさ 時代 じだい 末期 まっき にこの地域 ちいき にいたイタリア人 じん イエズス会 かい 宣教師 せんきょうし 衛 まもる 匡 ただし 国 こく (マルティノ・マルティニ) による著作 ちょさく "Nuvus Atlas Sinensis" では、中原 なかはら 初 はつ の統一 とういつ 王朝 おうちょう 秦 はた (拼音 : Qín , 梵語 ぼんご : Thin・Chin, ギリシャ語 ご ・ラテン語 らてんご : Sinae )に由来 ゆらい するとされる[2] 。衛 まもる 匡 ただし 国 こく によれば、この秦 はた の呼称 こしょう が周辺 しゅうへん 諸国 しょこく に伝 つた わったが、現在 げんざい のインド で転訛 てんか してシナになったとしている。
2世紀 せいき 前後 ぜんご には、インドで中国 ちゅうごく を指 さ して「チーナ・スターナ "China staana" 」と呼 よ んでいた。この表記 ひょうき について徐 じょ 作 さく 生 せい は、1995年 ねん に雲南 うんなん 省 しょう 西部 せいぶ の都市 とし 「支 ささえ 那 な 城 じょう 」に由来 ゆらい するという説 せつ を発表 はっぴょう している。インド側 がわ からポルトガルでは大 だい 航海 こうかい 時代 じだい から現代 げんだい まで一貫 いっかん して [要 よう 出典 しゅってん ] China と呼 よ ぶ。ギリシャ 、ラテン圏 けん では国名 こくめい 、地域 ちいき 名 めい は女性 じょせい 形 がた になることが多 おお く、秦 はた の国名 こくめい はシーナとなる[要 よう 出典 しゅってん ] 。
インドから仏教 ぶっきょう が隋 ずい に伝来 でんらい した当時 とうじ 、経典 きょうてん の中 なか にある梵語 ぼんご 「チーナ・スターナ "China staana" 」を当時 とうじ の訳 わけ 経 けい 僧 そう が「支 ささえ 那 な 」と漢字 かんじ で音 おと 写 うつ したことによって彼 かれ の地 ち に伝来 でんらい した。この時 とき の当 あ て字 じ として、「支 ささえ 那 な 」のほか、「震 ふるえ 旦 だん 」「真 ま 丹 に 」「振 ふ 丹 に 」「至 いたり 那 な 」「脂 あぶら 那 な 」「支 ささえ 英 えい 」等 とう がある。この「シナ」の発音 はつおん が西洋 せいよう に伝 つた わり、英語 えいご の "China" フランス語 ふらんすご の "Chine" などの語源 ごげん ともなったといわれている[1] 。
中国 ちゅうごく での使用 しよう [ 編集 へんしゅう ]
仏典 ぶってん に中国 ちゅうごく を指 さ す国名 こくめい として「チーナ」が登場 とうじょう している。仏教 ぶっきょう 伝来 でんらい 後 ご 、中国 ちゅうごく は仏典 ぶってん を漢 かん 訳 やく した際 さい 、「チーナ」に「支 ささえ 那 な 」(その他 た にも「脂 あぶら 那 な 」や「至 いたり 那 な 」)を当 あ てた。また、インドの言語 げんご で「秦 しん 国 こく 」をあらわした「チーナスターナ」という言葉 ことば は、「震 ふるえ 旦 だん 」、「真 ま 丹 に 」などに漢字 かんじ 化 か された。仏典 ぶってん の漢 かん 訳 やく には中国人 ちゅうごくじん 僧 そう だけでなく、シルクロード諸国 しょこく やインド出身 しゅっしん の僧 そう も多数 たすう 、参加 さんか していたため、「支 ささえ 那 な 」の考案 こうあん 者 しゃ が中国人 ちゅうごくじん とは限 かぎ らない[4] 。
7世紀 せいき の玄 げん 奘 の時代 じだい には仏教 ぶっきょう 関係 かんけい の書物 しょもつ で中国 ちゅうごく を賞賛 しょうさん する意味合 いみあ いで使 つか われていたと考 かんが えられるが、18世紀 せいき 頃 ころ にはすでに中国 ちゅうごく で「支 ささえ 那 な 」という表現 ひょうげん が一般 いっぱん に使 つか われることはなくなっていた[5] 。
日本 にっぽん における使用 しよう の歴史 れきし [ 編集 へんしゅう ]
1900年 ねん (明治 めいじ 33年 ねん )に中国 ちゅうごく 大陸 たいりく に設置 せっち された日本 にっぽん の郵便 ゆうびん 局 きょく で使用 しよう するために発行 はっこう された、菊花 きっか 紋章 もんしょう のある5銭 ぜに 普通 ふつう 切手 きって (切手 きって 下 か 側 がわ に赤 あか 文字 もじ で右 みぎ から左 ひだり に横書 よこが きで支 ささえ 那 な と印刷 いんさつ 。支 ささえ 那 な の「支 ささえ 」の上 うえ からNの印 しるし が押 お されている)
日本 にっぽん において、「支 ささえ 那 な 」の言葉 ことば が入 はい ったのは、隋 ずい と同様 どうよう に漢 かん 訳 やく 仏典 ぶってん を通 つう じてであった。平安 へいあん 時代 じだい の高僧 こうそう 空海 くうかい の詩文 しぶん 集 しゅう 「性 せい 霊 れい 集 しゅう 」に「支 ささえ 那 な 」が用 もち いられた例 れい [6] が確認 かくにん できる。京都 きょうと 東福寺 とうふくじ 蔵 くら の重要 じゅうよう 文化財 ぶんかざい にも「支 ささえ 那 な 禅刹 ぜんさつ 図式 ずしき 」(南 みなみ 宋 そう 作 さく )がある。鎌倉 かまくら 時代 じだい には虎 とら 関 せき 師 し 錬 ね の元 げん 亨 とおる 釈 しゃく 書 しょ ・王 おう 臣 しん 伝 でん 論 ろん に「彼 かれ の支 ささえ 那 な は葱 ねぎ 嶺 みね の東 ひがし 」と見 み える。室町 むろまち 時代 ときよ の僧 そう 万里 ばんり 集 しゅう 九 きゅう の「山谷 さんや 先生 せんせい を祭 まつ る文 ぶん 」にも見 み える[7] 。江戸 えど 時代 じだい 初期 しょき の卍 まんじ 元 もと 師 し 蛮『本朝 ほんちょう 高僧 こうそう 伝 でん 』巻一 けんいち 「釈 しゃく 福 ぶく 亮 あきら 伝 でん 」には「支 ささえ 那 な に入 はい って嘉 よしみ 祥 さち 師 し に謁し」とある。更 さら に江戸 えど 時代 じだい 初期 しょき には世界 せかい の中 なか にこの地域 ちいき を位置 いち づける場合 ばあい に「支 ささえ 那 な 」の呼称 こしょう が用 もち いられた例 れい を見 み ることが出来 でき る。江戸 えど 初期 しょき 『西洋紀聞 せいようきぶん 』はキリスト教 きりすときょう が禁止 きんし されていた日本 にっぽん に布教 ふきょう 目的 もくてき で潜入 せんにゅう して捕 と らえられたイタリア人 じん ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチ に対 たい して新井 あらい 白石 はくせき が行 おこな った尋問 じんもん の記録 きろく であるが、シドッチの日本 にっぽん 上陸 じょうりく (1708年 ねん (宝永 ほうえい 5年 ねん ))および翌年 よくねん の尋問 じんもん を1725年 ねん (享 とおる 保 ほ 10年 ねん )頃 ごろ までに完成 かんせい させたものであり、その中 なか ではアジア 、アメリカ 、ヨーロッパ などと並 なら べて「支 ささえ 那 な 」の記述 きじゅつ が発見 はっけん できる[8] 。江戸 えど 中期 ちゅうき の富永 とみなが 仲 なか 基 はじめ 『出 で 定 じょう 後 ご 語 ご 』や[注釈 ちゅうしゃく 2] 、江戸 えど 中期 ちゅうき の僧 そう 大 だい 玄 げん の『淨土 じょうど 頌義鈔探玄 げん 鈔』[9] や、僧 そう 覚 さと 深 ふか 『摩 ま 多 た 羅 ら 私 わたし 考 こう 』や[注釈 ちゅうしゃく 3] 、佐藤 さとう 信淵 のぶひろ が1823年 ねん (文政 ぶんせい 6年 ねん )に著 あらわ した『混同 こんどう 秘策 ひさく 』でも「支 ささえ 那 な 」が用 もち いられている。
江戸 えど 後期 こうき には「支 ささえ 那 な 」と同 おな じく梵語 ぼんご から取 と った「China」などの訳語 やくご としても定着 ていちゃく した。幕末 ばくまつ の洋学 ようがく 者 しゃ 佐藤 さとう 元 もと 萇 は六 ろく 大陸 たいりく と対比 たいひ して支 ささえ 那 な を論 ろん じる[注釈 ちゅうしゃく 4] 。幕末 ばくまつ の英語 えいご 辞書 じしょ 『増 ぞう 訂 てい 華 はな 英 えい 通語 つうご 』の万延 まんえん 元年 がんねん の福澤 ふくさわ 諭吉 ゆきち 凡例 はんれい では英語 えいご と中国 ちゅうごく 語 ご との対比 たいひ で「支 ささえ 那 な 」が使 つか われている[10] 。特 とく に明治 めいじ 期 き 以降 いこう 、歴代 れきだい の王朝 おうちょう 名 めい (例 れい :漢 かん 、唐 とう 、清 きよし )とは別 べつ に、地域 ちいき 的 てき 呼称 こしょう 、通 つう 時代 じだい ・王朝 おうちょう 的 てき 汎称 はんしょう としての、この地域 ちいき の名称 めいしょう を定 さだ めることが必要 ひつよう であるという考 かんが え方 かた が一般 いっぱん 的 てき となり、従来 じゅうらい 「漢 かん 」「唐 とう 」などで称 しょう していたものを「支 ささえ 那 な 」とい換 いか えることが行 おこな われた(例 れい :「漢 かん 文学 ぶんがく 」→「支 ささえ 那 な 文学 ぶんがく 」)。日本 にっぽん では、伝統 でんとう 的 てき に黄河 こうが 流域 りゅういき の国家 こっか に対 たい し「唐 とう 、漢 かん 、唐土 とうど 」の文字 もじ を用 もち いて「とう、から、もろこし」等 とう と読 よ んできた[要 よう 検証 けんしょう – ノート ] [要 よう 出典 しゅってん ] 。江戸 えど 時代 じだい 以前 いぜん に大陸 たいりく を「中国 ちゅうごく 」と呼 よ んだ事例 じれい は見 み られない(幕末 ばくまつ 、「満 まん 洲 しゅう 夷 えびす 」が自分 じぶん 自身 じしん を「中国 ちゅうごく 」と呼 よ んでいると紹介 しょうかい されることはあった[注釈 ちゅうしゃく 5] )。
明治 めいじ 政府 せいふ が清 きよし と国交 こっこう を結 むす んでからは、国号 こくごう を「清国 きよくに 」、その国民 こくみん を「清国 きよくに 人 じん 」と呼称 こしょう した。学術 がくじゅつ 分野 ぶんや では、伝統 でんとう 的 てき には「漢 かん 」の文字 もじ を用 もち いて「漢学 かんがく 」「漢文 かんぶん 」等 とう の呼称 こしょう が用 もち いられてきたが、明治 めいじ 中葉 ちゅうよう より、漢人 かんど の国家 こっか やその文化 ぶんか に対 たい して「支 ささえ 那 な 」が用 もち いられるようになった。ただし、「漢人 かんど 」「漢 かん 民族 みんぞく 」の定義 ていぎ は不 ふ 確定 かくてい であり、学術 がくじゅつ 的 てき に確定 かくてい しているわけではなかった。[要 よう 検証 けんしょう – ノート ] [要 よう 出典 しゅってん ]
大日本帝国 だいにっぽんていこく (日本 にっぽん )は1876年 ねん (明治 めいじ 9年 ねん )以降 いこう 、清 きよし に大日本帝国 だいにっぽんていこく の郵便 ゆうびん 網 もう を整備 せいび し郵便 ゆうびん 局 きょく (在 ざい 中国 ちゅうごく 郵便 ゆうびん 局 きょく )を設置 せっち した。これは欧米 おうべい 列強 れっきょう と同様 どうよう に、清 しん で近代 きんだい 的 てき 郵便 ゆうびん 制度 せいど が未 み 整備 せいび であった為 ため であるが、19世紀 せいき 末 すえ に清国 きよくに 政府 せいふ による大 だい 清 きよし 郵政 ゆうせい が創業 そうぎょう してからも存続 そんぞく していた。当初 とうしょ は大日本帝国 だいにっぽんていこく と同様 どうよう に日本 にっぽん 切手 きって を現地 げんち 通貨 つうか で販売 はんばい していたが、価値 かち の低 ひく い清国 きよくに 通貨 つうか で購入 こうにゅう した切手 きって を日本 にっぽん 列島 れっとう に送 おく る投機 とうき が行 おこな われるようになった。そのため1900年 ねん (明治 めいじ 33年 ねん )以降 いこう は大日本帝国 だいにっぽんていこく で使 つか えなくするため加 か 刷 すり 切手 きって に切 き り替 か えた。この時 とき の加 か 刷 すり 切手 きって に地域 ちいき 名 めい として「支 ささえ 那 な 」を用 もち いている。これは欧米 おうべい 列強 れっきょう が中国 ちゅうごく で発行 はっこう した切手 きって が、国号 こくごう の"Ch'ing "ではなく"China"(英 えい 米 べい )を用 もち いたのと同様 どうよう であった。この切手 きって もまた、大日本帝国 だいにっぽんていこく では支 ささえ 那 な は国家 こっか 名 めい ではなく、地域 ちいき 名 めい として用 もち いられていたことを表 あらわ している。[独自 どくじ 研究 けんきゅう ? ] [要 よう 出典 しゅってん ]
当初 とうしょ 「支 ささえ 那 な 」は同様 どうよう に歴然 れきぜん として辱 はずかし めた意 い がなかった。中華民国 ちゅうかみんこく 成立 せいりつ 以前 いぜん の大日本帝国 だいにっぽんていこく 公文書 こうぶんしょ においても、いくつか支 ささえ 那 な の使用 しよう 例 れい は存在 そんざい する。[要 よう 検証 けんしょう – ノート ] しかし佐藤 さとう 三郎 さぶろう は、この時期 じき の中国人 ちゅうごくじん がアヘン戦争 せんそう の敗北 はいぼく や改革 かいかく の遅 おく れなどにより「惰弱 だじゃく ・因循 いんじゅん 姑息 こそく ・驕慢 きょうまん 不遜 ふそん ・無能 むのう ・不潔 ふけつ 」といった印象 いんしょう を持 も たれており、同 どう 時期 じき に普及 ふきゅう した「支 ささえ 那 な 」の語 かたり がそれに結 むす びつけられるようになったと指摘 してき し、実藤 さねとう 恵 めぐみ 秀 しゅう も日 にち 清 しん 戦争 せんそう 後 のち には、日本人 にっぽんじん の「支 ささえ 那 な 」という言葉 ことば には軽蔑 けいべつ が交 ま じっていたと指摘 してき している。
近世 きんせい から20世紀 せいき 初期 しょき までの中国 ちゅうごく における使用 しよう 例 れい [ 編集 へんしゅう ]
19世紀 せいき 末 まつ まで、中国 ちゅうごく 大陸 たいりく は清朝 せいちょう (満 まん 洲 しゅう 族 ぞく )の統治 とうち 下 か にあり、明治 めいじ の日本 にっぽん 以来 いらい は中国 ちゅうごく を清国 きよくに と称 しょう し、その国民 こくみん を清国 きよくに 人 じん と呼 よ んだ。清朝 せいちょう 末期 まっき に共和 きょうわ 主義 しゅぎ 運動 うんどう が広 ひろ まるにつれ、中国人 ちゅうごくじん 共和 きょうわ 主義 しゅぎ 者 しゃ たちの間 あいだ で、清国 きよくに 、清国 きよくに 人 じん という呼称 こしょう は「満 まん 清 きよし の臣下 しんか 」を意味 いみ するという理解 りかい の人 ひと たちから、清朝 せいちょう を共和 きょうわ 制 せい にかわる、未来 みらい 建 た てる共和 きょうわ 国 こく の呼称 こしょう についての模索 もさく が開始 かいし された。また中国 ちゅうごく では、世界 せかい の中 なか に中国 ちゅうごく を客観 きゃっかん 的 てき に位置 いち づける場合 ばあい に「支 ささえ 那 な 」の呼称 こしょう が主 おも に仏教 ぶっきょう 文献 ぶんけん で広 ひろ く使 つか われてきた。 [要 よう 検証 けんしょう – ノート ] [要 よう 出典 しゅってん ] [独自 どくじ 研究 けんきゅう ? ]
清 きよし の末期 まっき (19世紀 せいき 末 まつ - 1911年 ねん )の中 なか で、漢人 かんど 共和 きょうわ 主義 しゅぎ 革命 かくめい 家 か たちが、自分 じぶん たちの樹立 じゅりつ する共和 きょうわ 国 こく の国号 こくごう や、自分 じぶん たちの国家 こっか に対 たい する王朝 おうちょう や政権 せいけん の変遷 へんせん を超 こ えた通 つう 時 じ 的 てき な呼称 こしょう を模索 もさく した際 さい に、自称 じしょう の一 ひと つとして用 もち いられた一時期 いちじき がある。[要 よう 検証 けんしょう – ノート ] [要 よう 出典 しゅってん ] [独自 どくじ 研究 けんきゅう ? ]
王朝 おうちょう や政権 せいけん の変遷 へんせん を超 こ えた、国号 こくごう としても使用 しよう 可能 かのう な固有名詞 こゆうめいし の呼称 こしょう のひとつとして古来 こらい の「支 ささえ 那 な 」という呼称 こしょう を選 えら び取 と り、満 まん 洲 しゅう 族 ぞく による清朝 せいちょう 支配 しはい 体制 たいせい からの脱却 だっきゃく を目指 めざ す革命 かくめい 家 か などの手 て で一 いち 時期 じき 広 ひろ く使用 しよう された。[要 よう 検証 けんしょう – ノート ] [要 よう 出典 しゅってん ] [独自 どくじ 研究 けんきゅう ? ]
中華民国 ちゅうかみんこく 建国 けんこく の父 ちち とされる孫 まご 文 ぶん は1902年 ねん (明治 めいじ 35年 ねん )に発行 はっこう された宮崎 みやざき 滔天 とうてん の『三 さん 十 じゅう 三 さん 年 ねん 之 の 夢 ゆめ 』に寄 よ せた言葉 ことば の中 なか で「支 ささえ 那 な 」の語 かたり を使用 しよう し[注釈 ちゅうしゃく 6] 、1910年 ねん (明治 めいじ 43年 ねん )に「支 ささえ 那 な 暗殺 あんさつ 團 だん 」を設立 せつりつ し[12] 、また中華民国 ちゅうかみんこく 成立 せいりつ 後 ご の1914年 ねん に、孫 まご が首相 しゅしょう の大隈 おおくま 重信 しげのぶ に宛 あ てた書簡 しょかん の中 なか では、支 ささえ 那 な 29回 かい 、支 ささえ 那 な 革命 かくめい 1回 かい 、支 ささえ 那 な 国民 こくみん 2回 かい 、支 ささえ 那 な 人 じん 1回 かい 、合計 ごうけい 34回 かい の「支 ささえ 那 な 」表記 ひょうき を使用 しよう している[13] 。また孫 まご 文 ぶん の協力 きょうりょく 者 しゃ であった日本人 にっぽんじん の梅屋 うめや 庄吉 しょうきち が辛 からし 亥 い 革命 かくめい 成功 せいこう 後 ご に「支 ささえ 那 な 共和 きょうわ 国 こく 公認 こうにん 期成 きせい 同盟 どうめい 会 かい 」を結成 けっせい している。この時 とき の額 がく は広州 こうしゅう にある孫 まご 中山 なかやま 記念 きねん 館 かん で保存 ほぞん されている。1902年 ねん には、日本 にっぽん に亡命 ぼうめい していた中国人 ちゅうごくじん 共和 きょうわ 主義 しゅぎ 者 しゃ たちが、上野 うえの 精養軒 せいようけん で「支 ささえ 那 な 亡国 ぼうこく 二 に 百 ひゃく 四 よん 十 じゅう 二 に 年 ねん 記念 きねん 会 かい 」を企画 きかく した。[要 よう 検証 けんしょう – ノート ] [要 よう 出典 しゅってん ]
日本 にっぽん の東京 とうきょう に留学 りゅうがく していた宋 そう 教 きょう 仁 ひとし も機関 きかん 誌 し の題目 だいもく を『二 に 十 じゅう 世紀 せいき 之 の 支 ささえ 那 な 』としていた[13] 。1911年 ねん の新 しん 国家 こっか の国号 こくごう 候補 こうほ にもあがっている(最終 さいしゅう 的 てき には「中華民国 ちゅうかみんこく 」が採用 さいよう された)[14] 。[要 よう 検証 けんしょう – ノート ]
中華民国 ちゅうかみんこく 成立 せいりつ 後 ご [ 編集 へんしゅう ]
1914年 ねん に日本 にっぽん で印刷 いんさつ された「滑稽 こっけい 時局 じきょく 世界 せかい 地図 ちず 」では、漢字 かんじ と英語 えいご で露西亜 ろしあ 、日本 にっぽん 、朝鮮 ちょうせん 、台湾 たいわん 、支 ささえ 那 な 、西蔵 とりぞう 、土 ど 耳 みみ 其斯坦 ひろし などを明示 めいじ した。
梁 りょう 啓 あきら 超 ちょう は1901年 ねん (明治 めいじ 34年 ねん )に『中国 ちゅうごく 史 し 叙 じょ 論 ろん 』において「吾 われ 人 じん がもっとも慙愧 ざんき にたえないのは、我国 わがくに には国名 こくめい がないことである」とし、唐 とう や漢 かん は王朝 おうちょう 名 めい 、支 ささえ 那 な は外国 がいこく 人 じん の使用 しよう する呼称 こしょう 、中国 ちゅうごく ・中華 ちゅうか は自尊 じそん 自大 じだい の気味 きみ があるとしながら「やはり吾 われ 人 じん の口頭 こうとう の習慣 しゅうかん に従 したが って『中国 ちゅうごく 史 し 』と呼 よ ぶことは撰 えら びたい」と述 の べている。[要 よう 検証 けんしょう – ノート ] [要 よう 出典 しゅってん ]
近代 きんだい 主権 しゅけん 国家 こっか への性向 せいこう をもつ政治 せいじ 運動 うんどう で結集 けっしゅう 核 かく となったのは、清朝 せいちょう というよりも「中国 ちゅうごく 」であって、この時期 じき に次第 しだい に国名 こくめい として定着 ていちゃく しつつあった[15] 。辛 からし 亥 い 革命 かくめい を経 へ て成立 せいりつ した中華民国 ちゅうかみんこく の国号 こくごう について、日本 にっぽん 政府 せいふ は正式 せいしき な国名 こくめい を使用 しよう せず伊集院 いじゅういん 彦吉駐 ちゅう 清 きよし 公使 こうし の進言 しんげん [注釈 ちゅうしゃく 7] による「支 ささえ 那 な 」を採用 さいよう した。[要 よう 検証 けんしょう – ノート ] [要 よう 出典 しゅってん ]
于紅によれば、これは近代 きんだい 日本 にっぽん の対 たい 中 ちゅう 大陸 たいりく 政策 せいさく を表徴 ひょうちょう するものであり、日 にち 中 ちゅう 関係 かんけい の不 ふ 対等 たいとう 化 か を意味 いみ していたとする。日本 にっぽん 政府 せいふ は中国 ちゅうごく 政府 せいふ と締結 ていけつ する条約 じょうやく の文面 ぶんめん など、正式 せいしき 呼称 こしょう を用 もち いることが不可欠 ふかけつ な場合 ばあい を除 のぞ き、この共和 きょうわ 国 こく に対 たい する呼称 こしょう を「支 ささえ 那 な 共和 きょうわ 国 こく 」と称 しょう することを定 さだ めた[18] 。
以上 いじょう の結果 けっか 、日本 にっぽん における「支 ささえ 那 な 」という呼称 こしょう は、以下 いか の2つの概念 がいねん に対 たい する呼称 こしょう として使用 しよう されることになった。馬 うま 廷亮駐日 ちゅうにち 代理 だいり 公使 こうし からは「中華民国 ちゅうかみんこく 」を使 つか うようにという抗議 こうぎ があったが、牧野 まきの 伸 しん 顕 あきら 外相 がいしょう はすでに官報 かんぽう に告示 こくじ 済 ずみ であり、訂正 ていせい しがたいと回答 かいとう している。ただし、両国 りょうこく 間 あいだ で往復 おうふく する公文 こうぶん 書 しょ に際 さい しては、日本 にっぽん 文 ぶん では「支 ささえ 那 な 共和 きょうわ 国 こく 」、漢文 かんぶん では「中華民国 ちゅうかみんこく 」が用 もち いられることとされた。
中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう による北 きた 伐 き が完了 かんりょう し、国権 こっけん 回復 かいふく 運動 うんどう が盛 さか んになると、日本 にっぽん が用 もち いる「支 ささえ 那 な 共和 きょうわ 国 こく 」という呼称 こしょう に対 たい する反発 はんぱつ は再 ふたた び強 つよ まった。1930年 ねん (昭和 しょうわ 5年 ねん )5月27日 にち 、中華民国 ちゅうかみんこく は外交 がいこう 部 ぶ に対 たい し、「支 ささえ 那 な 」と表記 ひょうき された公文書 こうぶんしょ を受 う け取 と らないように訓令 くんれい を発 はっ した。中華民国 ちゅうかみんこく 中央 ちゅうおう 政治 せいじ 会議 かいぎ による決議 けつぎ を受 う けて、中華民国 ちゅうかみんこく 外交 がいこう 部 ぶ が、英語 えいご による国号 こくごう 表記 ひょうき を“Republic of China (ROC)” とする一方 いっぽう で、中 ちゅう 文 ぶん 表記 ひょうき を「大 だい 中華民国 ちゅうかみんこく 」であるとし、日本 にっぽん 政府 せいふ に対 たい し「支 ささえ 那 な の呼称 こしょう を使 つか わないよう」に申 もう し入 い れてきた。
その理由 りゆう として「支 ささえ 那 な という言葉 ことば の意味 いみ は大変 たいへん 不 ふ 明確 めいかく で、現在 げんざい の中国 ちゅうごく とはなんら関係 かんけい ない」というものであった。そのため、10月31日 にち 「支 ささえ 那 な 国 こく 号 ごう ノ呼称 こしょう ニ関 せき スル件 けん 」という閣議 かくぎ 決定 けってい で[22] [23] 、「これまでは外交 がいこう 文書 ぶんしょ で「中華民国 ちゅうかみんこく 」と書 か く必要 ひつよう のあるものを除 のぞ いて通常 つうじょう 文書 ぶんしょ では「清国 きよくに 」のことを「支 ささえ 那 な 」と記載 きさい してきたが、当初 とうしょ から中華民国 ちゅうかみんこく 側 がわ は支 ささえ 那 な という呼称 こしょう を好 この ましくないとしていたし、特 とく に最近 さいきん は中華民国 ちゅうかみんこく の官僚 かんりょう や民衆 みんしゅう が不満 ふまん を表明 ひょうめい することが多 おお くなっているので、その理由 りゆう の如何 いか はさておいて、中華民国 ちゅうかみんこく 政府 せいふ からの正式 せいしき な申 もう し入 い れはないけれども、今後 こんご は「支 ささえ 那 な 国 こく 」ではなく「中華民国 ちゅうかみんこく 」と書 か くことにする。」と決定 けってい した。
この決定 けってい は「中華 ちゅうか 」が、かつての中華 ちゅうか 思想 しそう に基 もと づく [要 よう 検証 けんしょう – ノート ] ものであると見 み て、日本 にっぽん の知識 ちしき 人 じん などには強 つよ い反発 はんぱつ を持 も つ者 もの も少 すく なくなく、幣 ぬさ 原 はら 喜重郎 きじゅうろう 外相 がいしょう の「軟弱 なんじゃく 外交 がいこう の証拠 しょうこ 」であるとして、批判 ひはん の対象 たいしょう となった。
事変 じへん から戦後 せんご の状況 じょうきょう [ 編集 へんしゅう ]
1921年 ねん の卒業 そつぎょう 写真 しゃしん には、台湾 たいわん に留学 りゅうがく する中国 ちゅうごく 本土 ほんど 学生 がくせい を「支 ささえ 那 な 留学生 りゅうがくせい 」と呼 よ んだ。
1935年 ねん 「台湾 たいわん 日 にち 日 にち 新聞 しんぶん 」に記載 きさい した台湾 たいわん と南 みなみ 支 ささえ 那 な と南洋 なんよう との貿易 ぼうえき
第 だい 二 に 次 じ 上海 しゃんはい 事変 じへん 勃発 ぼっぱつ を報 ほう じた東京 とうきょう 朝日新聞 あさひしんぶん の紙面 しめん (1937年 ねん 8月 がつ 14日 にち )。中華民国 ちゅうかみんこく 国府 こくふ 軍 ぐん を「暴戻 ぼうれい 支 ささえ 那 な 」と表現 ひょうげん している。
『掌中 しょうちゅう 北 きた 支 ささえ ・蒙 こうむ 疆詳図 ず 』、1939年 ねん 東京 とうきょう 依 よ 林 はやし 書店 しょてん 出版 しゅっぱん
1939年 ねん 台湾 たいわん 新 しん 民 みん 報 ほう 社 しゃ によって出版 しゅっぱん された「新 しん 支 ささえ 那 な 素描 そびょう 」
1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )7月 がつ の盧溝橋 ろこうきょう 事件 じけん を端緒 たんしょ とする日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう について、大日本帝国 だいにっぽんていこく 政府 せいふ は「今回 こんかい の事変 じへん を支 ささえ 那 な 事変 じへん と呼称 こしょう する」と決定 けってい した[26] 。ここで戦争 せんそう とせず事変 じへん としたのは宣戦 せんせん 布告 ふこく によって戦時 せんじ 国際 こくさい 法 ほう に拘束 こうそく されることを日 にち 華 はな 両国 りょうこく が望 のぞ まなかったためである(宣戦 せんせん 布告 ふこく した場合 ばあい 、中立 ちゅうりつ 国 くに から武器 ぶき を輸入 ゆにゅう することが出来 でき なくなるなどの問題 もんだい が起 お きるため)。
当時 とうじ の日本 にっぽん では「唐土 とうど 」「支 ささえ 那 な 」ないし「支 ささえ 那 な 人 じん 」の呼称 こしょう が一般 いっぱん 的 てき であったが、支 ささえ 那 な という言葉 ことば は、日 にち 清 しん 戦争 せんそう 以降 いこう 、日 ひ 支 ささえ 親善 しんぜん などと両国 りょうこく の頭文字 かしらもじ を使 つか って用 もち いることもあった[27] 。中国 ちゅうごく 政府 せいふ や中国人 ちゅうごくじん を非難 ひなん するときもたびたびセットで使 つか われた。このような表現 ひょうげん としては「暴戻 ぼうれい ( ボウレイ ) 支 ささえ 那 な 」や「暴支膺懲 ようちょう ( ボウシヨウチョウ ) 」があった[注釈 ちゅうしゃく 8] 。戦時 せんじ 中 ちゅう の中国人 ちゅうごくじん に対 たい する蔑称 べっしょう としては「チナ」「ポコペン 」「チャンコロ 」などがあった。その原因 げんいん は「支 ささえ 那 な 」が当時 とうじ 、一般 いっぱん 的 てき な呼称 こしょう であったためである。
中華民国 ちゅうかみんこく が連合 れんごう 国 こく の一員 いちいん として第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の戦勝 せんしょう 国 こく になると、蔣介石 せき は日本 にっぽん に対 たい し、「今後 こんご は我 わ が国 くに を中華民国 ちゅうかみんこく と呼 よ び、略称 りゃくしょう は中国 ちゅうごく とするよう」主張 しゅちょう した[28] 。1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )6月13日 にち 公表 こうひょう (6月6日 にち 通達 つうたつ )の「支 ささえ 那 な の呼称 こしょう を避 さ けることに関 かん する件 けん 」という外務 がいむ 次官 じかん 通達 つうたつ が行 おこな われ、「中華民国 ちゅうかみんこく の呼称 こしょう に関 かん する件 けん 」という外務省 がいむしょう 総務 そうむ 局長 きょくちょう 通達 つうたつ を公告 こうこく した。
これ以後 いご 、外務 がいむ 次官 じかん の通達 つうたつ により、放送 ほうそう ・出版 しゅっぱん 物 ぶつ においては、中国 ちゅうごく のことを支 ささえ 那 な と呼称 こしょう することを自粛 じしゅく することになった。その理由 りゆう として、中華民国 ちゅうかみんこく の代表 だいひょう 者 しゃ から公式 こうしき ・非公式 ひこうしき に「支 ささえ 那 な 」の字 じ の使用 しよう をやめてほしいとの要求 ようきゅう があったので、今後 こんご は理屈 りくつ 抜 ぬ きにして、先方 せんぽう の嫌 いや がる文字 もじ を使 つか わないようにしたいとしている。
日本人 にっぽんじん が「支 ささえ 那 な 」と呼 よ んでいた事 こと について、蔣介石 せき は、対 たい 日 にち 戦 せん の最中 さいちゅう の対 たい 日 にち 言論 げんろん 集 しゅう の中 なか で「彼 かれ ら(日本人 にっぽんじん )は中国 ちゅうごく を支 ささえ 那 な と呼 よ んでいる。この支 ささえ 那 な とはどういう意味 いみ であろうか。これは死 し にかかった人間 にんげん の意 い である」と述 の べており[29] 、中華民国 ちゅうかみんこく 指導 しどう 者 しゃ 層 そう には「支 ささえ 那 な 」には侮蔑 ぶべつ の意 い があると解釈 かいしゃく する者 もの もいた。
そのため、「中国 ちゅうごく 」の表記 ひょうき が一般 いっぱん に使用 しよう されるようになり、日本語 にほんご 読 よ みで「ちゅうごく[注釈 ちゅうしゃく 9] 」と呼 よ ぶようになった。
当時 とうじ 大学 だいがく にあった「支 ささえ 那 な 哲学 てつがく 」といった教科 きょうか 名 めい の変更 へんこう が文部省 もんぶしょう から求 もと められたほか、郵政省 ゆうせいしょう も国際 こくさい 郵便 ゆうびん で旧 きゅう 「満 まん 洲 しゅう 国 こく 」地域 ちいき は「中華民国 ちゅうかみんこく 東北 とうほく 」、「支 ささえ 那 な 」「北 きた 支 ささえ 」「中 ちゅう 支 ささえ 」「南 みなみ 支 ささえ 」と呼 よ んでいた地域 ちいき に「中華民国 ちゅうかみんこく 」と書 か いていなければ、郵便 ゆうびん 局 きょく では引 ひ き受 う けないと発表 はっぴょう している[30] 。
また、当時 とうじ の吉田 よしだ 茂 しげる 首相 しゅしょう が国会 こっかい 答弁 とうべん で「支 ささえ 那 な 」と呼称 こしょう した事 こと に対 たい し、野党 やとう から批判 ひはん を受 う けた事 こと をめぐり、中国 ちゅうごく 文学 ぶんがく 者 しゃ として著名 ちょめい であった青木 あおき 正児 まさる が「悪 わる い名称 めいしょう ではなかったから、吉田 よしだ 茂 しげる 首相 しゅしょう が使 つか うのは問題 もんだい にしないでほしい」という事 こと を、朝日新聞 あさひしんぶん に寄稿 きこう した[31] ところ、当時 とうじ 経済 けいざい 貿易 ぼうえき 新聞 しんぶん 社 しゃ 主幹 しゅかん であった劉 りゅう 勝光 かつみつ は「日 にち 清 しん 戦争 せんそう 以後 いご の教育 きょういく 方針 ほうしん が侮 あなど 中国 ちゅうごく 的 てき であり「支 ささえ 那 な 」という文字 もじ を見 み ると日本 にっぽん の軍閥 ぐんばつ ・帝国 ていこく 主義 しゅぎ を想起 そうき する」として、中国 ちゅうごく にはない単語 たんご であり、日本人 にっぽんじん による著作 ちょさく 以外 いがい には存在 そんざい しないなどと批判 ひはん した[29] 。
この点 てん につき、加藤 かとう 徹 とおる は「日本国 にっぽんこく 政府 せいふ が『支 ささえ 那 な 共和 きょうわ 国 こく 』という独自 どくじ の呼称 こしょう にこだわったのは(中略 ちゅうりゃく )1930年 ねん までだった。以後 いご は、公文書 こうぶんしょ のなかで『中華民国 ちゅうかみんこく 』という国名 こくめい を使 つか うようになった。既 すで に第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 中 ちゅう に、日本 にっぽん 政府 せいふ は、南京 なんきん の中華民国 ちゅうかみんこく 政府 せいふ (汪 ひろし 兆 ちょう 銘 めい 政権 せいけん )の要請 ようせい を受 う け、今後 こんご 、段階 だんかい 的 てき に『支 ささえ 那 な 』という呼称 こしょう をやめてゆくことを約束 やくそく した。もし仮 かり に、日本 にっぽん が第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん で戦勝 せんしょう 国 こく となっても、『支 ささえ 那 な 』は廃語 はいご となったろう」とする[32] 。
現代 げんだい の日本 にっぽん の状況 じょうきょう [ 編集 へんしゅう ]
戦後 せんご 、「日 ひ 支 ささえ 事変 じへん 」ないし「支 ささえ 那 な 」といった表現 ひょうげん が使 つか われる場合 ばあい [注釈 ちゅうしゃく 10] も少 すく なくなかったが、21世紀 せいき 現在 げんざい の日本 にっぽん において、「支 ささえ 那 な 」「支 ささえ 那 な 人 じん 」が使用 しよう される頻度 ひんど は少 すく なくなり、一般 いっぱん 的 てき には「中国 ちゅうごく 」「中国人 ちゅうごくじん 」に取 と って代 か わられている。
戦後 せんご の一時期 いちじき は、略称 りゃくしょう で「中 なか 」とする場合 ばあい は、中国 ちゅうごく 本土 ほんど を支配 しはい する中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく を意味 いみ するが、「華 はな 」とする場合 ばあい は、台湾 たいわん に逃 のが れた中華民国 ちゅうかみんこく 政府 せいふ を意味 いみ する[注釈 ちゅうしゃく 11] 。そのため、日本 にっぽん 政府 せいふ が中国 ちゅうごく 大陸 たいりく を代表 だいひょう する中国 ちゅうごく 政府 せいふ として、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく ではなく中華民国 ちゅうかみんこく を国家 こっか 承認 しょうにん していた時期 じき に、日本 にっぽん では二 に 国 こく 間 あいだ に対 たい し前者 ぜんしゃ を「日 にち 中 ちゅう 」、後者 こうしゃ を「日 にち 華 はな 」と表記 ひょうき していた。
なお中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく との国交 こっこう がなかった時期 じき には、日本 にっぽん では未 み 承認 しょうにん 国家 こっか ということで「中共 ちゅうきょう 」(中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう の意 い )といった略称 りゃくしょう が普通 ふつう に使 つか われていた[注釈 ちゅうしゃく 12] 。また中華民国 ちゅうかみんこく 政府 せいふ のことを「中国 ちゅうごく 国府 こくふ 政府 せいふ 」(中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう 政権 せいけん の意 い )といった表現 ひょうげん もあったが、いずれにしても「支 ささえ 那 な 」が使 つか われることはなくなった。
Microsoft Windows に使用 しよう されているMicrosoft IME や、ATOK などの日本語 にほんご 入力 にゅうりょく システム では、出荷 しゅっか 時 じ に「支 ささえ 那 な 」という単語 たんご が辞書 じしょ 登録 とうろく されておらず、初期 しょき 状態 じょうたい では「しな」を「支 ささえ 那 な 」に漢字 かんじ 変換 へんかん 出来 でき ない。また読売新聞社 よみうりしんぶんしゃ が刊行 かんこう した読売新聞 よみうりしんぶん 紙面 しめん データを収 おさ めた「明治 めいじ ・大正 たいしょう ・昭和 しょうわ の読売新聞 よみうりしんぶん 」でデータベース 検索 けんさく する場合 ばあい 、原典 げんてん の記事 きじ で、「支 ささえ 那 な 」「支 ささえ 那 な 人 じん 」「北 きた 支 ささえ 」と表現 ひょうげん している場合 ばあい 、固有名詞 こゆうめいし で「支 ささえ 那 な 派遣 はけん 軍 ぐん 」とある場合 ばあい を除 のぞ き、「中国 ちゅうごく 」「中国人 ちゅうごくじん 」「華北 かほく 」と表示 ひょうじ される。
主 おも に右派 うは で使 つか われることが多 おお く、例 たと えば2008年 ねん のチベット騒乱 そうらん を受 う けて発刊 はっかん された西村 にしむら 幸 さいわい 祐 ゆう 編 へん の『チベット大 だい 虐殺 ぎゃくさつ の真実 しんじつ —FREE TIBET!チベットを救 すく え!』(オークラ出版 しゅっぱん )がある。この書籍 しょせき では中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 政権 せいけん によるチベット弾圧 だんあつ に批判 ひはん 的 てき な論者 ろんしゃ による批判 ひはん が掲載 けいさい されているが、多 おお くの論者 ろんしゃ [注釈 ちゅうしゃく 13] が「シナ」を用 もち いている。
また、北朝鮮 きたちょうせん に対 たい する日本 にっぽん 政府 せいふ の対応 たいおう を批判 ひはん する建国 けんこく 義勇軍 ぎゆうぐん が、新聞 しんぶん 社 しゃ や親中 しんちゅう 派 は の野中 のなか 広務 ひろむ に弾丸 だんがん と一緒 いっしょ に送 おく りつけた犯行 はんこう 声明 せいめい 文 ぶん では「支 ささえ 那 な 、朝鮮 ちょうせん の国益 こくえき を守 まも り、善良 ぜんりょう なる日本 にっぽん 国民 こくみん の嫌悪 けんお 感 かん 、怒 いか りを高 たか めた」などと書 か いていた[33] 。そのため、これらの「シナ」を使 つか う一部 いちぶ の論者 ろんしゃ は、中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 政権 せいけん 批判 ひはん とセットとなっていることから、「中国 ちゅうごく 」の呼称 こしょう を用 もち いたくないから使 つか う傾向 けいこう があるともいえる。
インターネット 上 うえ では、中国 ちゅうごく に反感 はんかん を持 も つ層 そう が「シナ」を使 つか う例 れい が多 おお い。フリーライターで「プロ2ちゃんねらー 」を自称 じしょう する中宮 なかみや 崇 たかし が、ヤフーチャットで他人 たにん を蔑 さげす むために使 つか う常套句 じょうとうく のひとつに「支 ささえ 那 な 土人 どじん 」があるが、中宮 ちゅうぐう は「支 ささえ 那 な 土人 どじん 政府 せいふ は、日本 にっぽん のインターネットにも大量 たいりょう の支 ささえ 那 な 土人 どじん 工作 こうさく 員 いん を派遣 はけん して、プロパガンダ 活動 かつどう を行 おこ なっている」などと主張 しゅちょう しており[34] 「支 ささえ 那 な 」を用 もち いている。一方 いっぽう で田中 たなか 克彦 かつひこ は、保守 ほしゅ 主義 しゅぎ 者 もの の使 つか う国家 こっか としての中国 ちゅうごく を国名 こくめい を使 つか わず「シナ」というのは、誤用 ごよう であると指摘 してき している[35] 。
サーチナ の鈴木 すずき 秀明 ひであき は、中国 ちゅうごく に批判 ひはん 的 てき な日本人 にっぽんじん が「支 ささえ 那 な 」や「支 ささえ 那 な 人 じん 」を使 つか う背景 はいけい には、侮蔑 ぶべつ というよりは(中国 ちゅうごく および中国人 ちゅうごくじん の言行 げんこう に対 たい する)反発 はんぱつ またはいやがらせの面 めん が強 つよ いとの見方 みかた を示 しめ した[36] 。
中国 ちゅうごく における反応 はんのう [ 編集 へんしゅう ]
1913年 ねん 、日本 にっぽん が「支 ささえ 那 な 共和 きょうわ 国 こく 」の表記 ひょうき を採用 さいよう したことについて中華民国 ちゅうかみんこく 外交 がいこう 部 ぶ は、馬 うま 廷亮駐日 ちゅうにち 代理 だいり 公使 こうし を通 つう じ「中華民国 ちゅうかみんこく 」を用 もち いるよう日本 にっぽん 側 がわ に強 つよ く求 もと めた。宜 むべ 昌 あきら 郵便 ゆうびん 局 きょく が日本 にっぽん からの郵便 ゆうびん 物 ぶつ の帯紙 おびがみ にある「支 ささえ 那 な 」の文字 もじ を抹消 まっしょう し、抗議 こうぎ 文 ぶん を書 か いた事例 じれい や、日本 にっぽん に来 き た中国人 ちゅうごくじん 留学生 りゅうがくせい の手記 しゅき をまとめた『東遊 あずまあそび 揮汗録 ろく 』で批判 ひはん された事例 じれい がある。一方 いっぽう で義和 よしかず 団 だん の乱 らん の前後 ぜんご に新聞 しんぶん 記者 きしゃ として来日 らいにち していたこともある狄葆賢 けん (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) は「支 ささえ 那 な という名称 めいしょう は恥 は じるに足 た らず、中華民国 ちゅうかみんこく などの国号 こくごう を用 もち いるよりは広義 こうぎ ですぐれている」と主張 しゅちょう していた。それによると仏典 ぶってん で支 ささえ 那 な の意味 いみ は「思慮 しりょ 深 ふか い」というものであり、交易 こうえき 国家 こっか としての賛美 さんび の意 い であったというものであった。
1920年代 ねんだい 、国権 こっけん 回復 かいふく 運動 うんどう 期 き の楊煕績中華民国 ちゅうかみんこく 文書 ぶんしょ 局長 きょくちょう は「支 ささえ 那 な という呼称 こしょう は、中華民国 ちゅうかみんこく を清国 きよくに 以下 いか であると形容 けいよう したもの」「我 わ が国 くに が公文書 こうぶんしょ に倭 やまと 奴 やつ 国 くに (中国 ちゅうごく で用 もち いられる日本人 にっぽんじん の蔑称 べっしょう )と書 か いたら、日本 にっぽん 側 がわ は受 う け取 と りはしないだろう」と、「無礼 ぶれい な字句 じく 」であると非難 ひなん している。胡漢民 こかんみん 立法院 りっぽういん 長 ちょう もまた、中国 ちゅうごく はすでに「支 ささえ 那 な 」ではないと非難 ひなん を行 おこな った。同 どう 時期 じき の新聞 しんぶん においても日本 にっぽん 側 がわ の対応 たいおう を批判 ひはん する記事 きじ が掲載 けいさい されている。
1936年 ねん 、千葉 ちば 県 けん 市川 いちかわ に居 きょ を構 かま えて長期 ちょうき 滞日 たいにち 中 ちゅう だった郭沫若 かくまつじゃく は雑誌 ざっし に「日本人 にっぽんじん の中国人 ちゅうごくじん に対 たい する態度 たいど について」という次 つぎ のような一文 いちぶん を発表 はっぴょう している[38] 。
日本人 にっぽんじん は中国 ちゅうごく を『支 ささえ 那 な 』という。もとは悪 わる い意味 いみ ではなく、『秦 はた 』の音 おと が変 か わったということだ。ところで、これを日本人 にっぽんじん の口 くち から聞 き くと、まるでヨーロッパ人 じん のいう『ユダヤ 』というものよりも悪 わる い。そういう日本人 にっぽんじん の態度 たいど が、国際 こくさい 関係 かんけい の文字 もじ にもよくあらわれている。英 えい 支 ささえ 、仏 ふつ 支 ささえ 、米 べい 支 ささえ 、露 つゆ 支 ささえ 、鮮支、満 まん 支 ささえ 。中国 ちゅうごく はいつも最 さい 劣等 れっとう の地位 ちい になっている。すこしくかれらの新聞紙 しんぶんし に注意 ちゅうい すれば、かかる表現 ひょうげん はすぐにわかる[38] 。
郭沫若 かくまつじゃく は日本人 にっぽんじん の口 くち から「支 ささえ 那 な 」という言葉 ことば を聞 き きたくなかった、と記 しる している[38] 。
また戦後 せんご においても支 ささえ 那 な を使用 しよう する石原 いしはら 慎太郎 しんたろう に対 たい して、朱 しゅ 建 たて 栄 さかえ は「日本 にっぽん が中国 ちゅうごく を侵略 しんりゃく した時 とき に差別 さべつ の言葉 ことば として使 つか ったのは間違 まちが いない。外交 がいこう 上 じょう の配慮 はいりょ が少 すこ しでもあれば、当 とう の中国 ちゅうごく が嫌 いや がっている言葉 ことば で呼 よ ぶことは考 かんが えられない」と批判 ひはん した[39] 。
中国 ちゅうごく のメディアでは、日 にち 清 しん 戦争 せんそう に日本 にっぽん が勝利 しょうり した際 さい に、熱狂 ねっきょう した日本 にっぽん の民衆 みんしゅう が「日本 にっぽん 勝 か った、支 ささえ 那 な 負 ま けた」と叫 さけ んだとし、結果 けっか として「支 ささえ 那 な 」が蔑称 べっしょう に変化 へんか したという主張 しゅちょう がなされるが、サーチナ の鈴木 すずき 秀明 ひであき は、(戦争 せんそう の是非 ぜひ は別 べつ にして)戦勝 せんしょう 国 こく となった当時 とうじ の日本 にっぽん 国民 こくみん が喜 よろこ ぶのは正常 せいじょう な現象 げんしょう で、「支 ささえ 那 な 負 ま けた」で「支 ささえ 那 な 」蔑称 べっしょう になったわけではないと述 の べた。また、「支 ささえ 那 な は蔑称 べっしょう である」との主張 しゅちょう が主 おも に中国人 ちゅうごくじん からなされていることについては、蔑称 べっしょう の定義 ていぎ には該当 がいとう せず、蔑称 べっしょう として使用 しよう されたこともないとしながらも、当時 とうじ の日本 にっぽん 国民 こくみん の多 おお くが中国 ちゅうごく および中国人 ちゅうごくじん に対 たい する蔑視 べっし 感情 かんじょう を持 も つようになっていったはずだとの見方 みかた を示 しめ した[36] 。
中国 ちゅうごく では21世紀 せいき に入 はい っても「支 ささえ 那 な (シナ)」表現 ひょうげん への反発 はんぱつ があり、2008年 ねん には重慶 たーちん 市 し の飲食 いんしょく 店 てん が、店名 てんめい の「支 ささえ 那 な 火 ひ 鍋 なべ 」をインターネット 上 うえ で批判 ひはん され、廃業 はいぎょう に追 お い込 こ まれている[36] 。
台湾 たいわん ・香港 ほんこん において[ 編集 へんしゅう ]
近年 きんねん では台湾 たいわん や香港 ほんこん において、香港 ほんこん 本土 ほんど 運動 うんどう (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) を支持 しじ する若年 じゃくねん 層 そう を中心 ちゅうしん に中国 ちゅうごく 大陸 たいりく ・中国 ちゅうごく 大陸 たいりく 住民 じゅうみん に対 たい する差別 さべつ 語 ご として使用 しよう されている[40] 。使 つか われる場所 ばしょ は主 おも にPTT やLIHKG討論 とうろん 区 く (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) などインターネット掲示板 けいじばん が中心 ちゅうしん であるが、香港 ほんこん の本土 ほんど 派 は 政党 せいとう 青年 せいねん 新政 しんせい が立法 りっぽう 会 かい の議場 ぎじょう で「支 ささえ 那 な 」と発言 はつげん したり[41] 、2019年 ねん 以降 いこう の抗議 こうぎ デモ で中 ちゅう 連 れん 弁 べん の外壁 がいへき に「支 ささえ 連 れん 弁 べん 」「fk 支 ささえ 那 な 」と落書 らくが きをされるなど[42] 、共産 きょうさん 中国 ちゅうごく からの分離 ぶんり などを主張 しゅちょう するための政治 せいじ 的 てき 示威 じい 行為 こうい として使用 しよう されることもある。
ただし台湾 たいわん においては、支 ささえ 那 な の単語 たんご はもともと中立 ちゅうりつ 的 てき であってChinaの中国語 ちゅうごくご 音訳 おんやく に過 す ぎないため、名誉 めいよ 毀損 きそん には該当 がいとう しないという判決 はんけつ が出 で たこともあり[43] 、必 かなら ずしも差別 さべつ 語 ご としてのみ認知 にんち されているわけではない。
文化 ぶんか ・学術 がくじゅつ 的 てき な使用 しよう [ 編集 へんしゅう ]
文化 ぶんか 的 てき な使用 しよう [ 編集 へんしゅう ]
ラーメン 店 みせ の看板 かんばん に掲 かか げられた「支 ささえ 那 な そば」(岡山 おかやま 市 し 北 きた 区 く )
中国 ちゅうごく からの輸入 ゆにゅう 品 ひん の中 なか にも「支 ささえ 那 な 」を記 しる した物 もの がある。かつては支 ささえ 那 な 刀 がたな や支 ささえ 那 な 綿 めん 、支 ささえ 那 な 大根 だいこん など多 おお くの呼称 こしょう に用 もち いられたが、現在 げんざい でも通用 つうよう する呼称 こしょう は支 ささえ 那 な 竹 ちく (メンマ )や支 ささえ 那 な そば(ラーメン )[44] など極 きわ めて限 かぎ られている。なおラーメン は、拉 ひしげ 麺 めん をベースに日本 にっぽん で発展 はってん した料理 りょうり である(日本 にっぽん におけるラーメンの歴史 れきし 参照 さんしょう )。
学術 がくじゅつ 的 てき な使用 しよう [ 編集 へんしゅう ]
学術 がくじゅつ 的 てき に漢字 かんじ 表記 ひょうき ではない片仮名 かたかな 「シナ」が現代 げんだい でも用 もち いられる場合 ばあい がある。言語 げんご 学 がく では「シナ・チベット語族 ごぞく 」の学術 がくじゅつ 用語 ようご が、標準 ひょうじゅん 表記 ひょうき として使 つか われている。また、地理 ちり においても「東シナ海 ひがししなかい 」(英語 えいご East China Sea)・「南シナ海 みなみしなかい 」(英語 えいご South China Sea)・「インドシナ半島 いんどしなはんとう 」(英語 えいご Indochina)が使 つか われている。
生物 せいぶつ ・植物 しょくぶつ 学 がく の分野 ぶんや でも、戦前 せんぜん に命名 めいめい されたシナイタチアナグマ 、シナグリ 、シナレンギョウなど「シナ-」を用 もち いた和名 わみょう は用 もち いられており、学名 がくめい についても同様 どうよう である。ただし、チュウゴクモクズガニ のようにかつての「シナ-」という名前 なまえ が「チュウゴク-」に変 か わった例 れい もある[45] 。
東京大学 とうきょうだいがく や京都大学 きょうとだいがく に設 もう けられた支 ささえ 那 な 史 し 専攻 せんこう は、この地域 ちいき 国家 こっか の歴史 れきし を研究 けんきゅう 対象 たいしょう とする専攻 せんこう である。
「支 ささえ 那 な 」は差別 さべつ 用語 ようご であるか [ 編集 へんしゅう ]
堀田 ほった 貢 みつぐ 得 とく の『実例 じつれい ・差別 さべつ 表現 ひょうげん あらゆる情報 じょうほう 発信 はっしん 者 しゃ のためのケーススタディ』によれば、出版 しゅっぱん 界 かい では「支 ささえ 那 な 」は戦中 せんちゅう に多 おお くの日本人 にっぽんじん が侮辱 ぶじょく の感情 かんじょう を込 こ めて使 つか ったため、現在 げんざい は使 つか わないと主張 しゅちょう されている。よって「支 ささえ 那 な 服 ふく 」は「中国 ちゅうごく 服 ふく 」、「支 ささえ 那 な そば」は「中華 ちゅうか そば」「ラーメン」、「支 ささえ 那 な 料理 りょうり 」は「中華 ちゅうか 料理 りょうり 」「中国 ちゅうごく 料理 りょうり 」、「支 ささえ 那 な 事変 じへん 」「日 ひ 支 ささえ 事変 じへん 」「日 にち 華 はな 事変 じへん 」は「日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう 」と表記 ひょうき するべきと主張 しゅちょう されている。また「東シナ海 ひがししなかい 」「南シナ海 みなみしなかい 」については「東 ひがし 中国 ちゅうごく 海 かい 」「南 みなみ 中国 ちゅうごく 海 かい 」との表記 ひょうき が一般 いっぱん 的 てき になるのを待 ま って採用 さいよう すると主張 しゅちょう されている[注釈 ちゅうしゃく 14] 。
田中 たなか 克彦 かつひこ は、オットー・メンヒェン=ヘルフェン 『トゥバ 紀行 きこう 』の日本語 にほんご 翻訳 ほんやく 版 ばん を出版 しゅっぱん しているが、この中 なか で敢 あ えて「シナ」を用 もち いている。田中 たなか によれば「国家 こっか と民族 みんぞく は厳密 げんみつ に区別 くべつ すべき」として「言語 げんご は国家 こっか ではなく民族 みんぞく と結 むす びつくものであり、中国 ちゅうごく といえば多 た 民族 みんぞく 国家 こっか としての略称 りゃくしょう であって、国民 こくみん を表 あらわ す中国人 ちゅうごくじん とシナは別々 べつべつ に使 つか うべきである」と主張 しゅちょう している[35] 。
木村 きむら 光彦 みつひこ は、福澤 ふくさわ 諭吉 ゆきち の『学問 がくもん のすゝめ 』の支 ささえ 那 な 表記 ひょうき は、現代 げんだい 日本語 にほんご 版 はん では中国 ちゅうごく とい換 いか えられているが、福澤 ふくさわ 諭吉 ゆきち が『学問 がくもん のすゝめ』を書 か いた当時 とうじ は、中国 ちゅうごく という国家 こっか は存在 そんざい しないため、支 ささえ 那 な と書 か くのは当然 とうぜん であり、中国 ちゅうごく とい換 いか えるのは「徳川 とくがわ 家康 いえやす が東京 とうきょう に幕府 ばくふ を開 ひら いた」と奇妙 きみょう な事 こと を言 い ってるに等 ひと しく、歴史 れきし 上 じょう の用語 ようご を抹殺 まっさつ するかのような風潮 ふうちょう には疑問 ぎもん を感 かん じるとして、中華民国 ちゅうかみんこく 成立 せいりつ 以後 いご を CHINA と表記 ひょうき している[47] 。その上 うえ で「この言葉 ことば は支 ささえ 那 な と同根 どうこん であるが、なぜか誰 だれ も文句 もんく を言 い わない。それどころか、かの国 くに 自身 じしん 、英語 えいご 表記 ひょうき として使用 しよう しているのが可笑 おか しい」と述 の べている。そしてロシア では CHINA を「キタイ」といい、かつての漢 かん 族 ぞく の北狄 ほくてき ・契 ちぎり 丹 に に由来 ゆらい するが、中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 総 そう 書記 しょき 習近平 ひらた は気 き にならないのだろうかと述 の べている[47] 。
岡田 おかだ 英弘 ひでひろ は、19世紀 せいき 以前 いぜん の隣 となり の大陸 たいりく (中国 ちゅうごく という国 くに がないため、大陸 たいりく という地理 ちり 的 てき 概念 がいねん で説明 せつめい するしかない)を「中国 ちゅうごく と呼 よ ぶのはおかしい」として、シナを使用 しよう する理由 りゆう を以下 いか のように述 の べている[48] 。
中華民国 ちゅうかみんこく は1912年 ねん 、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく は1949年 ねん にできたのであって、それ以前 いぜん に中国 ちゅうごく という国 くに はありません。「中国 ちゅうごく 」と呼 よ ぶから、大昔 おおむかし から今 いま につながる不変 ふへん ・悠久 ゆうきゅう の歴史 れきし を思 おも い浮 う かべてしまう。しかし、実際 じっさい には、「中国 ちゅうごく 」はその領土 りょうど も、そこに生 い きる人々 ひとびと も、王朝 おうちょう も、時代 じだい ごとに大 おお きく違 ちが っている。滅亡 めつぼう と断絶 だんぜつ 、人間 にんげん の大 だい 移動 いどう と入 い れ替 か わりが、あの国 くに の歴史 れきし なのです。ここでは正 ただ しい歴史 れきし は記述 きじゅつ できないので、19世紀 せいき 以前 いぜん の隣 となり の大陸 たいりく や文明 ぶんめい には「シナ」という言葉 ことば を使 つか うようにしています。これは英語 えいご の「CHINA」と同 おな じく、秦 はた の始皇帝 しこうてい の「秦 はた 」が語源 ごげん で、新井 あらい 白石 はくせき が、イタリアの宣教師 せんきょうし シドッティが語 かた った内容 ないよう に基 もと づいて、古 ふる い漢 かん 訳 やく 仏典 ぶってん から「支 ささえ 那 な 」の文字 もじ を探 さが し出 だ したものです。同様 どうよう に、19世紀 せいき までは「中国人 ちゅうごくじん 」もいなかったので、原則 げんそく として「漢人 かんど 」と表記 ひょうき しています。 — 岡田 おかだ 英弘 ひでひろ
宮脇 みやわき 淳子 じゅんこ は、支 ささえ 那 な という字 じ に侮蔑 ぶべつ 的 てき な意味 いみ はないと思 おも うが、もし中国人 ちゅうごくじん がその表記 ひょうき に侮蔑 ぶべつ 的 てき な意味 いみ を感 かん じるなら表意 ひょうい 的 てき でないカタカナでシナと書 か けば問題 もんだい ないだろう、として、シナ表記 ひょうき を支持 しじ した[49] [50] 。
渡部 わたなべ 昇一 しょういち などの右派 うは 言論 げんろん 人 じん を始 はじ め、酒井 さかい 信彦 のぶひこ も「シナ蔑称 べっしょう 説 せつ は、意図 いと 的 てき に作 つく り上 あ げられた神話 しんわ ・妄説に過 す ぎ」ず、むしろ「中国 ちゅうごく あるいは中華 ちゅうか と言 い う表現 ひょうげん こそ、シナ人 じん の他 た 民族 みんぞく に対 たい する侵略 しんりゃく 行為 こうい を正当 せいとう 化 か する用語 ようご である」と主張 しゅちょう している[51] 。
1992年 ねん (平成 へいせい 4年 ねん )に朝日新聞社 あさひしんぶんしゃ から刊行 かんこう された『地域 ちいき からの世界 せかい 史 し 』シリーズの第 だい 6巻 かん 『内陸 ないりく アジア』では、モンゴル史 し の専門 せんもん 家 か 中 ちゅう 見立 みたて 夫 おっと が、上述 じょうじゅつ の漢人 かんど 国家 こっか と中国 ちゅうごく 概念 がいねん のズレについて考察 こうさつ したのち、
近代 きんだい 世界 せかい におけるモンゴル民族 みんぞく やチベット民族 みんぞく の歩 あゆ みを跡 あと づけると、「中国 ちゅうごく 」という概念 がいねん の問題 もんだい が浮 う かび上 あ がる。これらの民族 みんぞく には、少 すく なくとも清朝 せいちょう 崩壊 ほうかい の段階 だんかい では、漢人 かんど が居住 きょじゅう する地域 ちいき といった意味 いみ での「中国 ちゅうごく 」という言葉 ことば はあった。誤解 ごかい を恐 おそ れずに書 か くならば、「シナ」(この場合 ばあい 、おおむねモンゴルやチベットは含 ふく まれない)という地域 ちいき 概念 がいねん はあった。しかし、漢人 かんど たちが抱 いだ くような、多 た 民族 みんぞく の共同 きょうどう 体 たい 、歴史 れきし 的 てき な存在 そんざい としての「中国 ちゅうごく 」という概念 がいねん は欠如 けつじょ していた。 — 中 ちゅう 見立 みたて 夫 おっと 、地域 ちいき からの世界 せかい 史 し 第 だい 六 ろく 巻 かん
という文脈 ぶんみゃく で「シナ」という語 かたり を使用 しよう している[52] 。
日本 にっぽん で中国 ちゅうごく を「シナ」と表現 ひょうげん する政治 せいじ 家 か として、石原 いしはら 慎太郎 しんたろう が挙 あ げられる。石原 いしはら は、1999年 ねん (平成 へいせい 11年 ねん )3月 がつ 10日 とおか の東京 とうきょう 都知事 とちじ 選出 せんしゅつ 馬 ば 表明 ひょうめい の記者 きしゃ 会見 かいけん で「シナは、清 きよし が滅 ほろ んで中国 ちゅうごく 大陸 たいりく が混乱 こんらん した時 とき 、孫 まご 文 ぶん がつくった言葉 ことば だ。孫 まご 文 ぶん は台湾 たいわん でも大陸 たいりく でも国父 こくふ として尊敬 そんけい されている。なぜ日本人 にっぽんじん が使 つか うと差別 さべつ になるのか、さっぱりわからない」と、その理由 りゆう を語 かた っている[53] [54] 。
加藤 かとう 徹 とおる は「中国人 ちゅうごくじん が『支 ささえ 那 な 』という日本語 にほんご に違和感 いわかん を感 かん ずるのは、同 おな じ漢字 かんじ 文化 ぶんか 圏 けん の国 くに だからである。互 たが いの自称 じしょう を漢字 かんじ で書 か けば、そのまま意味 いみ が通 つう じるのに、日本人 にっぽんじん はわざわざ『支 ささえ 那 な 共和 きょうわ 国 こく 』という国名 こくめい を作 つく った。中国人 ちゅうごくじん はそこに、悪意 あくい と屈辱 くつじょく を感 かん じたのだ。国 こく どうしでも個人 こじん どうしでも、対等 たいとう の関係 かんけい なら、相手 あいて の自称 じしょう を認 みと めるのがマナーであろう」と指摘 してき している[55] 。評論 ひょうろん 家 か の八幡 はちまん 和郎 かずお は、著書 ちょしょ の中 なか で「支 ささえ 那 な といっても抗議 こうぎ される由縁 ゆえん はないはずだが、あえて相手 あいて の嫌 いや がる呼称 こしょう を使 つか うこともない。それが大人 おとな の対応 たいおう だ」と述 の べている[56] 。
また英語 えいご の「チャイナ」など、多 おお くの言語 げんご では「シナ」と同 おな じ語源 ごげん を持 も つ呼称 こしょう が用 もち いられていることを理由 りゆう に、あえて「支 ささえ 那 な (シナ)」を使 つか う人 ひと もいる。小谷野 こやの 敦 あつし も自身 じしん の著書 ちょしょ で、インドシナ (印度 いんど ・支 ささえ 那 な )を含 ふく む東南 とうなん アジア で中国 ちゅうごく に対 たい してシナ系 けい の呼称 こしょう を用 もち いることを挙 あ げ、王朝 おうちょう 時代 じだい を含 ふく む中国 ちゅうごく の歴史 れきし ・文化 ぶんか に対 たい して「シナ」と呼 よ んでいる[57] 。
呉 ご 智英 ともひで は「支 ささえ 那 な 」禁止 きんし は理不尽 りふじん な言 い いがかりであると主張 しゅちょう している[58] 。
小林 こばやし よしのり は、自身 じしん の著書 ちょしょ で「シナ」を使 つか っているが著書 ちょしょ 内 ない で「『シナ』は差別 さべつ 語 ご ではない『秦 はた 』を語源 ごげん とする。『チャイナ』と同 おな じ中国 ちゅうごく を歴史 れきし 的 てき に見 み る名称 めいしょう である」や「ここで統一 とういつ された『シナ』には満州 まんしゅう も、チベットも、ウイグルも、内 うち モンゴルも、台湾 たいわん も、含 ふく まれていない」(著書 ちょしょ からの引用 いんよう )としている。この為 ため 、中国 ちゅうごく に存在 そんざい した王朝 おうちょう を「シナ王朝 おうちょう 」と表現 ひょうげん したりしている[59] 。また、小林 こばやし と有本 ありもと 香 かおり の共著 きょうちょ 『はじめての支 ささえ 那 な 論 ろん -中華 ちゅうか 思想 しそう の正体 しょうたい と日本 にっぽん の覚悟 かくご 』(幻冬舎 げんとうしゃ )の本 ほん の帯 おび には、「ウザい隣国 りんごく ・中国 ちゅうごく は『支 ささえ 那 な 』と呼 よ ぶべし」などと書 か かれている[60] 。
学術 がくじゅつ 的 てき 証拠 しょうこ [ 編集 へんしゅう ]
紀元前 きげんぜん (西 にし 周 あまね 時代 じだい )にはすでに「中国 ちゅうごく 」の文字 もじ は史書 ししょ に現 あらわ れていたとされる[61] 。
皇 すめらぎ 天 てん 既 すんで 付 づけ 中國 ちゅうごく 民 みん 越 えつ 厥疆土 ど 于先王 おう (皇 すめらぎ 天 てん 既 すで に中 ちゅう 國民 こくみん と厥疆の土地 とち を先 さき の王 おう に付 ふ す)
詩経 しきょう の『大雅 たいが 』の「生 なま 民 みん 之 の 什」の章 しょう の中 なか の「民 みん 勞 ろう 」に現 あらわ れるもの
民 みん 亦 また 勞 ろう 止 どめ 汔可小康 しょうこう 惠 めぐみ 此中國 ちゅうごく 以綏四方 しほう (この中国 ちゅうごく に恵 めぐみ あれ、四方 しほう 安 やす らかに)
無 む 縱 たて 詭隨 以謹無 む 良 りょう 式 しき 遏寇虐 しいたげ 憯不畏 かしこ 明 あきら
柔 やわ 遠 とお 能 のう 邇 以定我 わが 王 おう
遺物 いぶつ に現 あらわ れる「中国 ちゅうごく 」編 へん 1963年 ねん 出土 しゅつど した「何 なに 尊 みこと 」は西 にし 周 あまね 成 なり 王 おう 時代 じだい (紀元前 きげんぜん 11世紀 せいき )の青銅器 せいどうき で、銘文 めいぶん に「余 よ 其宅茲中国 ちゅうごく 自 じ 之 これ 乂民」と刻 きざ まれている[62] 。 遺物 いぶつ そのものにある「中国 ちゅうごく 」の用例 ようれい としては、現存 げんそん 最古 さいこ とされる。
其人民 じんみん 皆 みな 長 ちょう 大平 おおひら 正 ただし 有 ゆう 類 るい 中國 ちゅうごく (其 そ の人民 じんみん 皆 みな 長 ちょう 大平 おおひら 正 ただし で、中國 ちゅうごく に類 るい する)
其使詣 まい 中國 ちゅうごく 皆 みな 自稱 じしょう 大夫 たいふ (その使者 ししゃ が中国 ちゅうごく に訪問 ほうもん すると、みな自 みずか ら大夫 たいふ と称 しょう す)
などのように、その後 ご の歴代 れきだい 王朝 おうちょう の正史 せいし 二 に 十 じゅう 四 よん 史 し でも「中国 ちゅうごく 」表記 ひょうき は一貫 いっかん して見 み られ続 つづ け、かつ明確 めいかく に国家 こっか ・民族 みんぞく を表 あら わす概念 がいねん として扱 あつか われている[63] 。
古代 こだい 中国 ちゅうごく において国号 こくごう は王朝 おうちょう が交代 こうたい する度 たび に替 か わり、「中国 ちゅうごく 」は近代 きんだい になってから漢 かん 民族 みんぞく 国家 こっか を指 さ すために新 あら たに造 つく られた国名 こくめい である、と言 い ったような日本 にっぽん の国粋 こくすい 主義 しゅぎ 者 しゃ による上述 じょうじゅつ の諸 しょ 主張 しゅちょう はこれらの史学 しがく 的 てき 諸事 しょじ 柄 がら には不明 ふめい な理由 りゆう でほとんど触 ふ れようとしない。
何 なに 尊 みこと に刻 きざ まれた銘文 めいぶん [62]
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