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ヘーレム

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ヘーレムヘブライ:חֵרֶם)とは、ח-ר-ם (IPA : χかいʁ-m)という語根ごこんから派生はせいした名詞めいしである。現代げんだいヘブライでは「破門はもん追放ついほう没収ぼっしゅう禁制きんせい」などを意味いみしている[1][2]。ヘーレムをもちいた熟語じゅくごには「ヘーレム・カルカリー」(経済けいざい制裁せいさい)、「ヘーレム・ツァルハニーム」(ボイコット)、「ヘーレム・メディニー」(国交こっこう断絶だんぜつ)などがある。しかし、聖書せいしょヘブライ古代こだいヘブライ)の時代じだいにおいてはその語義ごぎ変遷へんせんがあったとされており、現在げんざいではおおむね下記かきのごとく3種類しゅるい分類ぶんるいされている[3][4]

  1. かみ祭司さいしのためにひと家畜かちく財産ざいさんせいべつすること。(奉納ほうのうぶつ
  2. 戦争せんそうにおける民族みんぞく虐殺ぎゃくさつ、および破壊はかい行為こうい。(宗教しゅうきょうてき迫害はくがい
  3. ある人物じんぶつ共同きょうどうたいから排斥はいせきし、公共こうきょう社会しゃかい接触せっしょくしないようとおざけること。(懲罰ちょうばつ

以上いじょう歴史れきしじゅんじた序列じょれつである。ほんこうではミシュナータルムード記述きじゅつもとづいたユダヤきょうにおける懲罰ちょうばつ(3)である「破門はもん」を中心ちゅうしん解説かいせつし、奉納ほうのうぶつ(1)についても「祭司さいしのヘーレム(ハラミーム)」にてれておく。宗教しゅうきょうてき迫害はくがい(2)についての詳細しょうさいは「せいぜっ」を参照さんしょうのこと。また、ヘーレムのギリシアわけであるアナテマについても当該とうがい記事きじ参照さんしょうのこと。

語義ごぎ

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碑石ひせきられたメシャ碑文ひぶん。17ぎょうヘブライ文字もじ𐤄𐤇𐤓𐤌𐤕𐤄 確認かくにんできる(ようフォント[61])。ヘブライ文字もじ転写てんしゃすると החרמתה となる。

ヘーレムの語根ごこんである ח-ר-ם (ヘット・レーシュ・メム)の意味いみは「はなす;隔離かくりする」[5]接触せっしょくきんじる;ひじりべつされる」[4]べつにしておく;俗用ぞくようきょうすることをきんじる」[6]とされている。ラムバム(モーシェ・ベン・マイモーン)はその根本こんぽんてき意味いみを「あるものをある状態じょうたいからべつ状態じょうたいうつすこと」と解説かいせつしている[7]タナハヘブライ聖書せいしょ)にはどう語根ごこんから派生はせいしたとられる動詞どうしが52箇所かしょ[5]名詞めいしが74箇所かしょ確認かくにんでき、うち חֵרֶם (ヘーレム)が39箇所かしょ[8]、חָרִם (ハリム)という人名じんめいが11箇所かしょ[9]、חֳרֵם (ホレム)という地名ちめいが1箇所かしょ[10]、חָרְמָה (ホルマー)という地名ちめいが9箇所かしょ[11]ヘルモンさんられる חֶרְמוֹן (ヘルモン)が13箇所かしょ[12]、חֶרְמוֹנִים (ヘルモンじん)が1箇所かしょ[13]となっている[ちゅう 1]。なおほんこうでは便宜上べんぎじょう語根ごこん ח-ר-ם から派生はせいした動詞どうしもヘーレムとする[ちゅう 2]

モアブおうメシャによって紀元前きげんぜん850ねんころ作成さくせいされたメシャ碑文ひぶんにおいても、モアブによる動詞どうしのヘーレム(ヘブライ文字もじ)を確認かくにんすることができる(以下いかはヘブライやくからの重訳じゅうやく)。

前略ぜんりゃく)ケモシュ[15]わたしった。「け。イスラエルのネボ(ルウベンぞくの嗣業の)を制圧せいあつせよ。」わたしよるくと、夜明よあけから正午しょうごまでたたかい、これを制圧せいあつした。わたしまちの7せんにんぜん住民じゅうみんころした。男性だんせい少年しょうねん女性じょせい少女しょうじょ、そしてじょ奴隷どれいらも[17]わたしアシュタル・ケモシュ[19]のために、このまちをヘーレムした。(後略こうりゃく — メシャ碑文ひぶん 14ぎょう – 17ぎょう[20]
『タルグム・オンケロス』のみんすう 6:3-11(オックスフォおっくすふぉド大学どだいがく出版しゅっぱんきょく 1896ねん

最初さいしょタルグムのひとつで1世紀せいきから2世紀せいき翻訳ほんやくとされるアラムわけ聖書せいしょ『タルグム・オンケロス』(モーセしょ[21]では、名詞めいしのヘーレムにはヘブライおなじ חרם (ヘーレム)があてられ、動詞どうしのヘーレムにはおおむね גמר (ほろぼす;破壊はかいする;終了しゅうりょうする;完遂かんすいする)があてられている。そのには『エジプト』22:19の קטל (ころす)がある。より後代こうだい翻訳ほんやくとされるおなじくアラムやくの『タルグム・エルサレム(にせヨナタン)』[22]では、『タルグム・オンケロス』とはちが名詞めいしには חרם (ヘーレム)ではなく אפרשה (てられたもの)があてられている箇所かしょおおく、には『みんすう』18:14の מגמר (完成かんせいしたもの;完全かんぜんなもの)や『さるいのち』13:18の שמת (禁止きんしされたもの;破門はもんされたもの)がある。動詞どうしでも פרש (てる;分離ぶんりする)と訳出やくしゅつされている箇所かしょがある。モーセしょ以外いがいでは、ヘーレムのわりに『ヨシュア』11:11の גמירה (破壊はかい)、『れつおうじょう』20:42の קטל (殺害さつがい)、『イザヤしょ』11:15の יבש (枯渇こかつさせる;消滅しょうめつさせる)、『イザヤしょ』34:2の חוב (ばっする;制圧せいあつする)といった比較的ひかくてき意味いみ明瞭めいりょう単語たんごえられているケースがおおい。

こういった訳出やくしゅつ使用しようれいがあることからタナハにおけるヘーレムは、おそらく「完全かんぜん破壊はかい」という意味いみもちいられていたとかんがえられており、一方いっぽうでは「世俗せぞくてきなものを隔絶かくぜつしてせいなるものにげる」を意味いみしていたとされる。ラシュバム(シュムエル・ベン・メイール)[ちゅう 3]自身じしんによるミドラシュ(タナハ注釈ちゅうしゃく)の「セフェル・シェモット」(いずるエジプト)22:19にて「יחרם (ヘーレムされる)とは、ころされることである。」[23]べる一方いっぽう、「セフェル・バミドバル」(みんすう)21:2では「החרמתי (ヘーレムする)とは、動産どうさん家財かざいかみのためにせいべつすることである」[24]解説かいせつしている。

『オリット』の創世そうせい29:10-16(オックスフォおっくすふぉド大学どだいがく出版しゅっぱんきょく 1896ねん
オッフェンバッハ1825ねん印刷いんさつされたコル・ニドゥレー。

おなセム言語げんごアムハラには ח-ר-ם と同義どうぎとされる語根ごこん እ-ር-ም (IPA : ʔ-ʁ-m)があり、アムハラやくのオクタテューク[ちゅう 4]である『オリット』においても名詞めいしの חרם の箇所かしょに እርም があてられているのを多数たすう確認かくにんできる[25]。また、紀元前きげんぜん3世紀せいきだいにヘブライかアラム底本ていほんから翻訳ほんやくされたと推定すいていされ、現在げんざいでもエチオピア正教せいきょうにおいて聖典せいてんとされている『エノクしょ』には、ヘルモンさん命名めいめいにまつわる下記かきのような記述きじゅつのこされている(以下いかはヘブライやくからの重訳じゅうやく)。

このころになるとひとらがえ、かれらには容姿ようしうつくしいむすめたちがまれるようになった。てんらである使つかいたちは彼女かのじょらをとりこになってしまいたがいに相談そうだんした。「さあ、ひとむすめたちからつまえらぼうではないか。そして我々われわれのために子供こどもんでもらおう。」するとかれらのあたまであるシェムアザーがった。「わたしおそれている。あなたたちがこのけん途中とちゅうこばんで自分じぶん1にん大罪だいざい背負せおうことになるのではないかと。」すると全員ぜんいんこたえてった。「我々われわれちかいをてようではないか。我々われわれはこのけんかならかかわり、このけんけっして放棄ほうきせずにかなら実行じっこうすることを。」こうしてかれらは一丸いちがんとなってちかいをてて結束けっそくした。その使つかいのかずは200にものぼった。かれらはアラディーム、すなわちヘルモンさんいただきくだった。かれらがそこをヘルモンさんんだのは、そこでヘーレムをおこない、たがいに結束けっそくしたからである。 — 『エノクしょ』 6:1-6 [26]

タンフマ・バル・アバ[ちゅう 5]はそのミドラシュにおいて、アキバ・ベン・ヨセフ(ラビ・アキバ)による「ヘーレムとはちかいのことであり、ちかいとはヘーレムのことである」という言葉ことば紹介しょうかいしている[27]。これはヘルモンさん命名めいめいにまつわる『エノクしょ』におけるヘーレムと意味いみうえ一致いっちすることになる。また、7世紀せいきから8世紀せいきあいだ成立せいりつしたとられるアラムによる祈祷きとうしょ『コル・ニドゥレー』(すべての祈願きがん[ちゅう 6]でも、「ちかい」を意味いみするヘーレムがもちいられている(以下いかアシュケナジムはんのヘブライやくからの重訳じゅうやく)。

すべての祈願きがんねがいかけ誓約せいやく、ヘーレム、宣誓せんせい、すなわち昨年さくねんヨム・キプールから本日ほんじつめでたくおとずれた今年ことしのヨム・キプールのまで、わたし祈願きがんし、ねがいかけし、誓約せいやくし、ヘーレムし、宣誓せんせいしたものを、わたしはすべて後悔こうかいしますので、その義務ぎむをどうか免除めんじょしてください。すべて意味いみがなく、みとめられず、存在そんざいしなかったものとしてください。祈願きがん祈願きがんでなく、ねがいかけねがいかけでなく、誓約せいやく誓約せいやくでなかったと。 — コル・ニドゥレー[28]

『ヤルクート・シムオニー』[ちゅう 7]では、『ヨシュア』6:17の「וְהָיְתָה הָעִיר חֵרֶם」(このまちはヘーレムになる)[30]という記述きじゅつかんするシムオン・ベン・ラキシュ[ちゅう 8]による以下いかのような解説かいせつ紹介しょうかいされている。

このまち五体ごたいるように、五体ごたいからてゆく。すなわち、( חרם (ヘーレム)のアナグラムである) רמ"ח (ゲマトリアでは248になる)の人体じんたい器官きかんはいるように、(おなじくアナグラムである רחם (あわれみ)がもちいられた)「いかりのうちにも、あわれみをわすれないでください」(『ハバククしょ』3:2)[29]という言葉ことばとなってていく。 — 『ヤルクート・シムオニー』 ヨシュア 6:15[31]

ユダヤきょうでは伝統でんとうてき人体じんたいは248の器官きかん構成こうせいされているとかんがえられており[32]、この248というかずハラハーさだめられた613の戒律かいりつのうちのミツヴォット・アサー(なすべき戒律かいりつ)のかず一致いっちする。また、「あわれみ」を意味いみする רחם (レヘム)は人体じんたい宿しゅくす「子宮しきゅう」をも意味いみしている。

タナハの時代じだいにおけるヘーレム

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ティベリアマソラ学者がくしゃアロン・ベン・モシェー・ベン・アシェルによって920ねんころうつされたとられる最古さいこマソラ本文ほんぶんのひとつ『ケテル・アラム・ツォバー』(アレッポ写本しゃほん)のさるいのち 32:50-33:29

奉納ほうのうぶつ意味いみするヘーレム

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ヘーレムという概念がいねん聖書せいしょ中期ちゅうきにおいてあらわれ、当初とうしょかみ祭司さいしたいして奉納ほうのうされる「きよしべつされたもの」という意味いみもちいられていた。

  • かみたいするヘーレムの記述きじゅつ
また、自分じぶんもののうちから、永久えいきゅうおものものとして奉納ほうのうしたすべての奉納ほうのうぶつは、ひとであれ、家畜かちくであれ、先祖せんぞ伝来でんらいはたけであれ、それをったり、もどしたりすることはできない。永久えいきゅう奉納ほうのうぶつはすべて、神聖しんせいなものでおもぞくする。 — 『レビ』27:28[29]太字ふとじ訳出やくしゅつ箇所かしょ以下いか同上どうじょう
  • 祭司さいしたいするヘーレムの記述きじゅつ
イスラエルにおいて奉納ほうのうされたものはすべて、あなたのものとなる。 — 『みんすう』18:14[29]

宗教しゅうきょうてき迫害はくがい意味いみするヘーレム

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奉納ほうのうぶつ」の意味いみ使用しようされていたヘーレムに「絶滅ぜつめつ」を前提ぜんていとした宗教しゅうきょうてき迫害はくがいという意味いみ付与ふよするようになったのは、それからすぐ時代じだいであったとられている。

あなたののままにあしらわさせ、あなたがかれらをつときは、かれらをかならほろぼしくさねばならないかれらと協定きょうていむすんではならず、かれらをあわれんではならない。 — 『さるいのち』7:02[29]
預言よげんしゃサムエルによってころされるアマレクのおうアガグをえがいたギュスターヴ・ドレ版画はんが

サムエルじょう』の15しょうには、イスラエル(統一とういつ王国おうこく)の初代しょだいおうサウルアマレクじんとのたたかいにおいて、預言よげんしゃサムエルつうじてイスラエルのかみからめいぜられたヘーレムを完遂かんすいしなかったことでばっせられたとする記述きじゅつがある。

け。アマレクをち、アマレクにぞくするものは一切いっさいほろぼしくせおとこおんなも、子供こども乳飲ちのも、うしひつじも、らくだもろばもころせ。容赦ようしゃしてはならない。 — 『サムエルじょう』15:3[29]

ここでアマレクじんたいしておこなわれたヘーレムに「けんにかけて」という記述きじゅつがあることから、その命令めいれい住民じゅうみんをもふくめたまち殲滅せんめつとなる。しかしイスラエルのへいは、アマレクのおうアガグと最上さいじょうひん家畜かちくしんでころさなかった。この行為こういについてかみそなえるためと弁明べんめいするサウルにたいして預言よげんしゃサムエル神託しんたくげる。

サムエルはった。「あるじよろこばれるのは/くすけんじぶつやいけにえであろうか。むしろ、おもこえしたがうことではないか。よ、したがうことはいけにえにまさり/みみかたむけることはひつじ脂肪しぼうにまさる。」 — 『サムエルじょう』15:22[29]

サウルはおのれのみとめ、王国おうこくからわれて故郷こきょうかえった。そのかれの4なんであるイシュ・ボシェト将軍しょうぐんアブネルに擁立ようりつされて王位おういくが、実権じっけんにぎっていたアブネルの寝返ねがえりととも王権おうけん瓦解がかいする。こうして2だいわったサウル王朝おうちょういでダビデ王朝おうちょうおこったとされている。

懲罰ちょうばつ意味いみするヘーレム

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シリアドゥラ・エウロポスシナゴーグあとから発見はっけんされたりつほうエズラえがいた彩色さいしき

破門はもん」にるいする懲罰ちょうばつ意味いみするヘーレムが最初さいしょられるのは、バビロンしゅうだい2神殿しんでん時代じだい紀元前きげんぜん538ねん70ねん早期そうきかれた『エズラ』においてである。

さんにち以内いない出頭しゅっとうしないものがあれば、ちょうたちと長老ちょうろうたちのすすめによって、そのぜん財産ざいさん没収ぼっしゅう、そのものしゅうみん会衆かいしゅうから追放ついほうすることになった。 — 『エズラ』10:8[29]

ヘーレムは当初とうしょ追放ついほうという懲罰ちょうばつくわえてぜん財産ざいさん放棄ほうきされていたのだが、だい2神殿しんでん時代じだいつうじてやがては公共こうきょう社会しゃかいからの隔離かくりという制裁せいさいとくして運用うんようされるようになったという[33]

そののヘーレム

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漁網ぎょもう」を意味いみするヘーレム[34]が『エゼキエルしょ』に4箇所かしょ、『ハバククしょ』に3箇所かしょ、『コヘレトの言葉ことば』と『ミカしょ』のかく1箇所かしょといった具合ぐあい聖書せいしょ比較的ひかくてき後期こうきえがいた文献ぶんけんにて確認かくにんできる。アラムへの翻訳ほんやくにさいしてこれらのヘーレムは『エゼキエルしょ』26:5をはじめ、おおむね צייד (あみ)があてられているが、『ハバククしょ』1:16の זין (武器ぶき)というれいもある。また、『レビ』21:18には「はな欠陥けっかんのあるもの」という記述きじゅつがあるが、これもヘーレムとおな語根ごこんからの派生はせい חָרֻם (ハルーム)[35]から訳出やくしゅつされたものである。

ハザルの時代じだいにおけるヘーレムの序列じょれつ

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エルサレム・ミュージアムない設置せっちされたエルサレムだい2神殿しんでん城壁じょうへきない市街しがい模型もけい2008ねん撮影さつえい)。

聖地せいち帰還きかんだい2神殿しんでん時代じだいからはじまるハザル時代じだい紀元前きげんぜん4世紀せいき7世紀せいきすえ[ちゅう 9]よりヘーレムは現代げんだいヘブライ意味いみちかい「破門はもん追放ついほう謹慎きんしん没収ぼっしゅう」としてもちいられるようになった。さらには社会しゃかいからの隔離かくり度合どあいにおうじて「ネジファー」(נזיפה)、「シャムター」(שמתא)、「ニドゥィ」(נידוי)、「ヘーレム」(חרם)という4段階だんかい懲罰ちょうばつ分類ぶんるいされていたことがハザルらの文献ぶんけんにおいて確認かくにんできる[36]以下いか個別こべつかた場合ばあい以外いがいは4種類しゅるいをまとめてヘーレムとする)。

ネジファー

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ネジファーとは、サンヘドリンの議長ぎちょうなど貴人きじんたいしてれいいっした言動げんどうおこなったものくだされる謹慎きんしん処分しょぶんで、会衆かいしゅうから隔離かくりされる期間きかんエルサレムでは7日間にちかんバビロニアでは1にちであったとされている[3]

シャムター

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シャムターについては現在げんざいでは不明ふめいてんおおく、それを定義ていぎするタルムードの記述きじゅつ以下いかのとおりである。

シャムターとはなにか? ラブ[ちゅう 10]いわく、「そこにはがある。」シュムエル[ちゅう 11]いわく、「そのもののろわれる。」 — バブリー(バビロニアン・タルムード)・マセヘット・モエッド・カタン 17:1[36][37]

ラシ(シュロモー・ベン・イツハク)[ちゅう 12]によれば、シャムターはニドゥィよりも軽微けいび懲罰ちょうばつであったという[3]一方いっぽう、ラムバムによればシャムターはニドゥィと同等どうとう懲罰ちょうばつで、謹慎きんしん期間きかんもニドゥィとおなじ30日間にちかんだったとしている[38]

ニドゥィ

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ラムバムの肖像しょうぞうイスラエル国立こくりつ図書館としょかん所蔵しょぞう)。
1575ねんにヴェネツィアで出版しゅっぱんされた『ミシュネー・トーラー』。

ニドゥィという懲罰ちょうばつは、ハラハーから逸脱いつだつしたり怠惰たいだであったりしたもの公共こうきょう社会しゃかいから隔絶かくぜつすることである。その期間きかんは30日間にちかんであったとされている[39]。これは社会しゃかいてき制裁せいさいであるため、その影響えいきょうはニドゥィをされた個人こじんだけにおよぶものではない。

ニドゥィをされたものはその期間きかんふくもののようにかみってはならず、衣服いふくあらってもならない。何人なんにんたりともかれもの集会しゅうかいなどに招待しょうたいしてはならない。ミンヤン(10にん)をあつめるにおいても、かれものかずふくめてはならない。けっしてかれものの4アンマやく2メートル)以内いないしてはならない。
もしかれものんだなら? 裁判所さいばんしょ使者ししゃつかわし、かれものかんうえいしく。これによりかれもの石打いしうちけいしょし、社会しゃかいから隔絶かくぜつされたものとする。かれもの哀悼あいとうあらわ必要ひつようはない。また、かれもの埋葬まいそう随行ずいこうする必要ひつようもない。 — ラムバム、『ミシュネー・トーラー』 ヒルホット・タルムード・トーラー 7:5[39]

ただし、4アンマ以内いないすことについては、ニドゥィをされたものつましたしい友人ゆうじんだけは免除めんじょされていた。また、教育きょういくほどこすこともゆるされており、とも仕事しごとをすることもきんじられてはいない[33]。さらには、ニドゥィをされたものでも10にん賢者けんじゃ(ラビ)の許可きょかがあればニドゥィをかれることもある(後述こうじゅつのヘーレムも同様どうよう)。

だれにニドゥィをされたのかを理解りかいしながら、かれものゆめのなかにあるのなら(正気しょうきでないのなら)、ハラハーに精通せいつうした10にんは、かれ自身じしんりかかる問題もんだいがないかぎりにおいて、かれもののニドゥィをかねばならない。問題もんだいがないかぎりにおいて、ミシュナーに精通せいつうした10にんは、かれもののニドゥィをかねばならない。問題もんだいがないかぎりにおいて、タナハの出来事できごと精通せいつうした10にんは、かれもののニドゥィをかねばならない。問題もんだいがないかぎりにおいて、精通せいつうしていない10にんでも、かれもののニドゥィをかねばならない。もしそのに10にんもいないのであれば、3にんでもかまわない。 — ラムバム、『ミシュネー・トーラー』 ヒルホット・タルムード・トーラー 7:11[39]
どのようにしてニドゥィあるいはヘーレムからかれるのか? このようにげる。「このものは、認可にんかされ、解放かいほうされた。」 もしその同席どうせきしていないのなら、「かれものは、」とげる。 — ラムバム、『ミシュネー・トーラー』 ヒルホット・タルムード・トーラー 7:4[39]

ニドゥィの適用てきようには2種類しゅるいがあったとされている。ひとつは賢者けんじゃ威厳いげんあなどもの自分じぶんよりも身分みぶんひくもの)にたいしてその賢者けんじゃ自身じしんによってニドゥィを場合ばあいである。

賢者けんじゃみずからが自身じしん名誉めいよにかけて、その名誉めいよあなどるイスラエルのみんにニドゥィをすことができる。この場合ばあい証人しょうにん必要ひつようない。ニドゥィとされるかれもの警告けいこくはいらない。その賢者けんじゃのぞむまでゆる必要ひつようもない。もしその賢者けんじゃんだ場合ばあい、ニドゥィの解除かいじょのぞものが3にん以上いじょういないのであれば、かれもののニドゥィは継続けいぞくされる。その賢者けんじゃ生前せいぜんにニドゥイの解除かいじょのぞんでいたのなら、自身じしん権利けんりでそれをおこなっていたはずである。 — ラムバム、『ミシュネー・トーラー』 ヒルホット・タルムード・トーラー 6:15[40]

もうひとつは裁判所さいばんしょにおいてハラハーの違反いはんしゃたいしてされる社会しゃかいてき制裁せいさいで、以下いかげる24項目こうもくのうちのひとつでもおかせば男性だんせいであれ女性じょせいであれニドゥィの対象たいしょうとなる(『ミシュネー・トーラー』 ヒルホット・タルムード・トーラー 6:18[40][41]におけるラムバムによる分類ぶんるい)。

13世紀せいきから15世紀せいきあいだうつされた『ミシュネー・トーラー』の写本しゃほんメトロポリタン美術館びじゅつかん所蔵しょぞう)。
シェヒターをえがいた15世紀せいき絵画かいが
15世紀せいきのシナゴーグのどうないえがいたイタリア絵画かいが
ブダペストドハーニがいシナゴーグどうない2009ねん撮影さつえい)。アーチには ממזרח שמש עד מבואו מהלל שם יי てからしずむまであるじ御名ぎょめいたたえる)とかれている。
ネゲブ地方ちほう居住きょじゅうネバティームにあるコーチン・ユダヤじん帰還きかんしゃらが建設けんせつしたシナゴーグのどうない2009ねん撮影さつえい
  1. 賢者けんじゃ(ラビ)を愚弄ぐろうし、あまつさえその賢者けんじゃ死後しごにおいても愚弄ぐろうするもの。(バブリー・マセヘット・ベラホット 19a)
  2. 裁判所さいばんしょ(ベート・ディン)からの使者ししゃ侮辱ぶじょくするもの。(バブリー・マセヘット・キドゥシーン 70b)
  3. 自分じぶん友人ゆうじん奴隷どれいばわりするもの。(バブリー・マセヘット・キドゥシーン 28a)
  4. タナハはもちろん、タナハにまつわる賢者けんじゃ言葉ことばおよびその内容ないようかるんじるしゃ。(バブリー・マセヘット・ババー・カマー112bなど)
  5. 裁判所さいばんしょからの召喚しょうかん拒否きょひし、められた時間じかん出廷しゅっていしないもの。(バブリー・マセヘット・エドゥヨット 5:6)
  6. 裁判さいばん結果けっかれないもの。このようなものにはれるまでニドゥィをす。(バブリー・マセヘット・ババー・カマー113a)
  7. 狂犬きょうけんこわれかけの脚立きゃたつなど他人たにん危害きがいくわえかねないもの所持しょじしているもの。このようなものには危険きけんるまでニドゥィをす。(バブリー・マセヘット・ババー・カマー15b)
  8. 自分じぶん土地とち異教徒いきょうともの。このようなものには境界きょうかいせっするユダヤ教徒きょうとがこうむる損失そんしつのすべてをれるまでニドゥィをす。(バブリー・マセヘット・ババー・カマー112aなど)
  9. 異国いこく法廷ほうていで、ユダヤ教徒きょうと隣人りんじん経済けいざいてき損失そんしつをもたらすべくかれ不利ふり証言しょうげんするもの。このようなものには賠償ばいしょうむまでニドゥィをす。(バブリー・マセヘット・ババー・カマー113bなど)
  10. ほふられた動物どうぶつにく独占どくせんして祭司さいしひじりつとむしゃ)に分配ぶんぱいしない祭司さいし。このようなものには分配ぶんぱいするまでニドゥィをす。(ミシュナー・ヒルホット・ビクリーム 9:8など)
  11. エルサレムがい慣例かんれいしたがわずだい2のヨム・トーブ(祭日さいじつ[ちゅう 13]あなどもの。(バブリー・マセヘット・ペサヒーム 52a)
  12. しのばん夜中よなかぎても仕事しごとをするもの。(バブリー・マセヘット・ペサヒーム 50b)
  13. みだりにかみ御名ぎょめいくちにしたり、無意味むいみちかいをてたりするもの。(バブリー・マセヘット・ネダリーム 7bなど)
  14. かみ冒涜ぼうとくする行為こうい大勢おおぜいさそもの。(バブリー・マセヘット・モエッド・カタン 3:1)
  15. アヒラット・コダシーム(せいなる食事しょくじ[42]をエルサレムがい場所ばしょもよおし、それに大勢おおぜいさそもの。(バブリー・マセヘット・ベラホット 19a)
  16. ユダヤれきではなく異国いこくこよみわせて年数ねんすうかぞえるもの。(バブリー・マセヘット・ベラホット 63a)
  17. 盲人もうじんまえ障害しょうがいぶつもの。(『レビ』 19:14など)
  18. ミツヴァーりつほう)の実践じっせん怠惰たいだもの。(バブリー・マセヘット・モエッド・カタン 3:1など)
  19. カシュルートきんじられた動物どうぶつほふもの。(バブリー・マセヘット・サンヘドリン 25a)
  20. シェヒター屠殺とさつ)のさいに賢者けんじゃまえ屠殺とさつようかたな調しらべないショヘット(屠殺とさつじん)。(ミシュナー・ヒルホット・シェヒター 1:26)
  21. 理解りかいしようとせずかたくなになるもの。(バブリー・マセヘット・ニダー 13a)
  22. つま離縁りえんしながらその女性じょせい関係かんけいかさね、あまつさえ子供こどもをもうけるもの。この場合ばあい両者りょうしゃとも裁判所さいばんしょ出廷しゅっていさせてニドゥィをす。(ミシュナー・ヒルホット・イスレー・ビアー 21:27)
  23. 不祥事ふしょうじのある賢者けんじゃ。(バブリー・マセヘット・モエッド・カタン 17a)
  24. ニドゥィにあたいしないものにニドゥィをしたもの。(バブリー・マセヘット・モエッド・カタン 17a)

ヘーレム

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ハラハーにおけるヘーレムは懲罰ちょうばつであり、ニドゥィと同様どうよう公共こうきょう社会しゃかいからの隔絶かくぜつ意味いみしている。ゲマラ―においてはその運用うんようにおいてニドゥィとの共通きょうつうてんがあるものの、ヘーレムとニドゥィは区別くべつされており、ヘーレムの宣告せんこくにおいてはのろいの言葉ことばげられることからニドゥィよりも厳罰げんばつであったことがうかがえる。

どのようにしてニドゥィは宣告せんこくされるのか? このようにげる。「かれものは、シャムターのなかにある。」もし直接ちょくせつげるのであれば、「このものは、」とげる。ではヘーレムは? このようにげる。「かれものは、ヘーレムされたもののろわれたものである。かれもののなかには、つよのろいと、ちかいと、ニドゥィがある。」 — ラムバム、『ミシュネー・トーラー』 ヒルホット・タルムード・トーラー 7:3[39]

ヘーレムは2のニドゥィによっても更生こうせいみとめられないものたいしてされる懲罰ちょうばつで、宣告せんこくまでには下記かきのような経緯けいいることになる。

30日間にちかんのニドゥィから復帰ふっきしたものについて、何人なんにんたりともかれものがニドゥィからかれるのをのぞまないのであれば、かれものにはふたたびニドゥィがされる。再度さいど30日間にちかんのニドゥィから復帰ふっきしたとき、何人なんにんたりともかれものがニドゥィからかれるのをのぞまないのであれば、かれものにはヘーレムがされる。 — ラムバム、『ミシュネー・トーラー』 ヒルホット・タルムード・トーラー 7:7[39]

ヘーレムの判決はんけつは10にん同席どうせきするおおやけ裁判さいばんにおいてくだされる。ベート・クネセット(シナゴーグ)で執行しっこうされる儀式ぎしきでは、室内しつないにロウソクがともされ、ショファル角笛つのぶえ)がかれる。つぎにのろいの言葉ことばふく宣告せんこくぶんげられ、読了どくりょうともほのおされる。これはおもかみ[43]すことで、そのものあゆみちに2ひかりたらなくなることの象徴しょうちょうとなる。儀式ぎしき仔細しさいかんしては破門はもんしゃつみ度合どあいにおうじて変化へんかする。ヘーレムはあくまでも適格てきかくしゃ個人こじんたいしてなされる懲罰ちょうばつで、その家族かぞくにまで波及はきゅうすることはまれである[33][44]。またニドゥィと同様どうよう、10にん許可きょかられればヘーレムをかれることもある[39]

ズゴットの時代じだいからゲオニームの時代じだいにおけるヘーレム

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エルサレム北部ほくぶちょう正統せいとうまちサンヘドゥリヤにあるサンヘドリン議員ぎいんらを埋葬まいそうしたとされる「サンヘドリンのはか」の内部ないぶ1956ねん発行はっこうの『ספר ירושלים』(エルサレムのしょ)より)。
12世紀せいきころかれたとられるミシュナー・マセヘット・アボット 1:5-7(カウフマン写本しゃほん

ズゴット時代じだい紀元前きげんぜん150ねん10ねん)の当初とうしょサンヘドリン議長ぎちょう議員ぎいん権限けんげんでヘーレムを強制きょうせい執行しっこうすることはなかった。実際じっさいにヘーレム(おもにニドゥィ)の運用うんようはじまったのは、祭司さいし階級かいきゅうによるトーラー成文せいぶんりつほう)に立脚りっきゃくした権威けんい衰退すいたいいちじるしいだい2神殿しんでん時代じだい後期こうきから末期まっき、およびだい2神殿しんでん崩壊ほうかい以降いこうのことである(相対そうたいてき口伝くでんりつほう権威けんいしたことを意味いみしている)。このころになると、アクビア・ベン・マハラルエルやエリエゼル・ベン・フルカノスといった著名ちょめいなラビがヘーレム(ニドゥィ)の処罰しょばつけている。その一方いっぽう2世紀せいき後半こうはんのサンヘドリンの議長ぎちょうでミシュナーの編纂へんさんしゃでもあったイェフダー・ハ・ナシーは、賢者けんじゃらのくだしたヘーレムの裁定さいていみずからの権限けんげんでのみくつがえすことができるなど強大きょうだい権力けんりょくほこっており、その影響えいきょうはバビロニアにもおよんでいた。

アモライーム時代じだい3世紀せいき5世紀せいきすえ)になると、ヘーレムおよびニドゥィの運用うんようはより単純たんじゅんし、裁判所さいばんしょ決定けっていしたがわないもの口伝くでんりつほう権威けんいそむものたいしても懲罰ちょうばつとしてされた。サボライームの時代じだい5世紀せいきすえ6世紀せいき中庸ちゅうよう)からゲオニーム時代じだい6世紀せいきすえあるいは7世紀せいきすえ11世紀せいき)になるとこの傾向けいこうはさらにいちじるしくなり、ヘーレムは徴税ちょうぜいのための法的ほうてき手段しゅだんとなっていた。税金ぜいきん未納みのうしゃ財産ざいさん没収ぼっしゅう目的もくてきとしたヘーレムはイスラエルのでのみおこなわれていたのだが、ゲオニームのラビは運用うんよう改訂かいていし、負債ふさい支払しはらわないものたいしても懲罰ちょうばつとしてヘーレムをした。また、死刑しけいしゅう偽証罪ぎしょうざいわれているものもその対象たいしょうとなり、ヘーレムやニドゥィをされたものんでもイスラエルのでの埋葬まいそうきんじられ、その子弟してい割礼かつれい婚礼こんれいきんじられるなどの制裁せいさいくわえられた。

アクビア・ベン・マハラルエル

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ヴェネツィアのダニエル・ボンベルグによって1525ねんから1539ねんあいだ出版しゅっぱんされたバビロニアン・タルムード(だい2はん)のマセヘット・スカー。中央ちゅうおう上段じょうだんにミシュナー、そのしたにゲマラー、周囲しゅういにラシらのトサフォット(注釈ちゅうしゃく)がはいされている。
1880ねんから1886ねんにかけてヴィルナ出版しゅっぱんされたバビロニア・タルムード(シャス・ヴィルナ・エディション)。現在げんざいでもひろ普及ふきゅうしているはんである。
キドロンのたにから見上みあげるオリーブやま西側にしがわ斜面しゃめんのユダヤじん墓地ぼち1934ねん撮影さつえい)。中央ちゅうおうみぎのモニュメントはヨアシュおう時代じだい祭司さいしヨヤダのゼカルヤ(『歴代れきだい』24:20参照さんしょう)のはかひだりひじりしょ奉仕ほうし要職ようしょくにあったヘジル(『歴代れきだい』24:15参照さんしょう)のはかとそれぞれ伝承でんしょうされている。

アクビア・ベン・マハラルエル[ちゅう 14]にまつわる4けん事案じあんが、かれとき賢者けんじゃとのあいだ論争ろんそうをもたらした[45]

  • かれ頭髪とうはつ皮膚ひふびょうレプラ)の影響えいきょうにより不潔ふけつであった。それによって賢者けんじゃらもよごされた。
  • かれつきのもののようによごれ、本来ほんらいあかいはずのものがボイルしたような緑色みどりいろ黄色おうしょく)にえた。それによって賢者けんじゃらもよごされた。
  • 適格てきかくとされる障害しょうがいのある初子はつねひつじほふり、その羊毛ようもう使用しようみとめた。賢者けんじゃらはそれをきんじた。
  • 解放かいほうされたおんな奴隷どれいおよびユダヤきょう改宗かいしゅうした女性じょせいに「にがみず[ちゅう 15]ませることをきんじた。しかし賢者けんじゃらは許可きょかした。

かれはサンヘドリンの議長ぎちょう(ズゴット)であったシャマアヤ[ちゅう 16]とアブタリオン[ちゅう 17]権威けんいみにじったとしてニドゥィがされた。そのニドゥィはぬまでかれることはなく、にさいしては裁判所さいばんしょによりそのかんうえいしかれた。

アフナイの焜炉こんろ

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『バビロニアン・タルムード』のマセヘット・ババー・メツィアー 59b[46]には、ヨハナン・ベン・ザカイ[ちゅう 18]弟子でしで、アキバ・ベン・ヨセフの教師きょうし(ラビ)であったエリエゼル・ベン・フルカノス[ちゅう 19]が、「アフナイの焜炉こんろ[47]についての議論ぎろんにおいて多数決たすうけつ合意ごういれなかったけんで、仲間なかまによってニドゥィをされた出来事できごと記録きろくされている。この議論ぎろんにおいてベン・フルカノスは焜炉こんろ使用しようみとめたのだが、その論者ろんしゃ使用しようきんじた。かれらはハラハーの伝統でんとうもとづいてベン・フルカノスの言葉ことばを「それはてんにあるものではないから」[48]主張しゅちょうし、証言しょうげんしゃらもかれ言葉ことばにバト・コル(聖霊せいれい言葉ことば)をみとめず支持しじまわらなかった。ベン・フルカノスはなおも決定けっていれを拒否きょひしたのでニドゥィを宣告せんこくされた。かれされたニドゥィはいたるまでかれることがなかった。しかしその死後しご、ヨシュア・ベン・ハナニア[ちゅう 21]によってニドゥィがかれ、かれ相応ふさわしい栄誉えいよともなって埋葬まいそうされている。

ホニー・ハ・マガルの雨乞あまご

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ミシュナー・マセヘット・タアニート 3:8[49]によれば、ホニー・ハ・マガル[ちゅう 22]はとあるかんばつのとし雨乞あまごいのいのりがつうじないので、みずからの周囲しゅういえんえがき、あめるまでそのえんからないことをちかったうえでいのつづけた。すると土砂降どしゃぶりのあめしたので、今度こんどあめめるべくいのるようもとめられた。シムオン・ベン・シャタハ[ちゅう 23]はこの行為こういについて、あまやかされた王子おうじがあれこれともとめておうである父親ちちおやこまらせているようなものとたとえ、「ちちたのしみをとく/あなたをんだははよろこおどるようにせよ。」という『箴言しんげん』23:25[29]言葉ことばいにしている。

ホニー・ハ・マガルのこの逸話いつわ義人ぎじんちからたいする信仰しんこう原点げんてんとなっており、『バビロニアン・タルムード』[50]においては「あなたが決意けついすることは成就じょうじゅし/あゆみちにはひかりかがやくことだろう。」という『ヨブ』22:28[29]言葉ことばになぞらえて賞賛しょうさんされている。にもかかわらずホニー・ハ・マガルの行為こうい非難ひなん対象たいしょうとなり、ひとかみのごとくふるまうのは相応ふさわしくないとの理由りゆうからシムオン・ベン・シャタハによって使者ししゃつかわされ、「決意けついするのであればニドゥィをす」と宣告せんこくされた。しかし最終さいしゅうてきにはニドゥィをまぬかれたようである。

ゲディ・メクラス(ヤギの丸焼まるやき)

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おなじくシムオン・ベン・シャタハがかかわった事例じれいで、ヨセフ・トドスというローマのラビが、しのばんにローマじんあつめてヤギの丸焼まるやきをもてなそうとしたため、ホニー・ハ・マガルのときとおなじく使者ししゃつかわされ、「決意けついするのであればニドゥィをす」と宣告せんこくされた[51]かれもまた最終さいしゅうてきにはニドゥィをまぬかれたようである。

オリーブやま儀式ぎしき

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イスラエルのでは7世紀せいきから11世紀せいきの70年代ねんだいセルジュークあさアナトリア半島はんとう進出しんしゅつころ時期じきかさなる)までのあいだ仮庵かりほさいのためにエルサレムにあつまったユダヤ教徒きょうと巡礼じゅんれいしゃは、まつりの7にちになると毎年まいとしオリーブやまのぼって儀式ぎしきおこなっていた。この儀式ぎしきにはエルサレムのラビらの権威けんい誇示こじする目的もくてきがあり、同様どうよう儀式ぎしきミズラヒム共同きょうどうたい(バビロニア、ペルシアイエメン)でもおこなわれていたのだが、それぞれで様式ようしきちがい、とくにエルサレムの場合ばあいぜん世界せかいのユダヤじん社会しゃかい中心ちゅうしんという位置いちづけから荘厳そうごんなものであった。儀式ぎしきでは最初さいしょに、かつて存在そんざいしたエルサレム神殿しんでん再建さいけんとユダヤじん聖地せいち帰還きかんねがい、それを象徴しょうちょうする7つの儀式ぎしき神殿しんでんおかくちおこなわれ、つづいてオリーブやま移動いどうすると、こののために特別とくべつ編纂へんさんされたさん美歌みかピユートげられる。このあいだ敵対てきたいしゃである異教徒いきょうとカライのユダヤ教徒きょうとによる投石とうせきなどから儀式ぎしきまもるため、随行ずいこうしゃやとわれの傭兵ようへいには儀式ぎしき運営うんえい護衛ごえいするやくになわされていた。こうして儀式ぎしき佳境かきょうはいると、カライのユダヤ教徒きょうとイスラム教いすらむきょうへの改宗かいしゅうしゃ、そのラビによる正統せいとうユダヤきょうはんするものらにたいして、ヘーレムの宣告せんこくくださるのであった。ラバッド(アブラハム・イブン・ダウド)[ちゅう 24]による1160ねん著書ちょしょ『ספר הקבלה』(べんしょうしょ)では、この状況じょうきょう以下いかのように描写びょうしゃされている。

ラビらはりつほうしょすと、ヘーレムとされる背教はいきょうしゃらのまえで、それぞれのげながらヘーレムを宣告せんこくするのであった。宣告せんこくされたものどもは怖気おじけづいたいぬのごとくだまっているのであった。 — アブラハム・イブン・ダウド、『べんしょうしょ[52]

リショニームの時代じだいからアハロニームの時代じだいにおけるヘーレム

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リショニーム時代じだい11世紀せいき15世紀せいき)になると、ヘーレムやニドゥィは社会しゃかい規範きはん厳格げんかくうなが目的もくてきもちいられるようになった。この時代じだい有名ゆうめいなヘーレムに、ラベヌー・ゲルショムのヘーレムがある。また、だい2十字軍じゅうじぐん時代じだいには、ラシュバムやラベヌー・タム[ちゅう 25]ふくむおよそ150にんのラビが、異教徒いきょうと法廷ほうていにおけるユダヤじんがらみの裁判さいばん加担かたんしたとして、複数ふくすうのユダヤじんたいしてヘーレムを宣告せんこくしている。また、共同きょうどうたいにおけるラビや屠殺とさつじん任命にんめい、あるいはぜいかんする案件あんけんでもヘーレムが適用てきようされることがあった。

こうして近代きんだいにいたるまでヘーレムは、異教徒いきょうと権力けんりょくしゃたいしてユダヤじん中傷ちゅうしょうむといった宗教しゅうきょうてき、あるいは道義どうぎてき違反いはんしゃたいする懲罰ちょうばつ最終さいしゅう手段しゅだんとして機能きのうした。一方いっぽうでは世俗せぞくてき学問がくもん関与かんよしたとして『モレー・ハ・ネボヒーム』[ちゅう 26]というラムバムの著書ちょしょがヘーレムの対象たいしょうになったこともある。ウリエル・ダ・コスタやわかバルーフ・スピノザかみろんてき言説げんせつひろめたとしてヘーレムを宣告せんこくされた偉人いじんのひとりである。それからすう世代せだい勃興ぼっこうしたシャブタイ信奉しんぽうしゃらにもヘーレムがくだされており、その影響えいきょうのもとに誕生たんじょうしたフランク主義しゅぎハシディズム信奉しんぽうしゃらもかれらののちつづいた。ハスカラー進歩しんぽ主義しゅぎユダヤきょう信奉しんぽうしゃ、さらにはシオニストらもれいれなかった。

ラベヌー・ゲルショムのヘーレム

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ラベヌー・ゲルショムのヘーレムとは、1000ねんころのアシュケナジムの共同きょうどうたいにおいて、ラベヌー・ゲルショム(ゲルショム・メオール・ハ・ゴラー)[ちゅう 27]というロレーヌのラビがおこなったほう改訂かいてい、およびそれによってこされた一連いちれん出来事できごとしている。かれ改定かいていあらたな規範きはんもとづいて違反いはんしゃたいしてヘーレムをした。4にんいたかれ弟子でし、あるいはかれらの弟子でしはこのけんについてほとんど言及げんきゅうしなかったものの、「ラベヌー・ゲルショムのヘーレム」という概念がいねんは、一個人いっこじんによるほう改訂かいていとしてはれいがないほど周知しゅうちされるようになった。ただし、いくつかの改訂かいていかんしてはその信憑しんぴょうせい疑問ぎもんていされており、現在げんざいのところ間違まちがいなくラベヌー・ゲルショムにされる改訂かいていつぎの3つであるとされている。

ハリツァーの儀式ぎしきえがいた版画はんが18世紀せいき以前いぜん)。
  • 2人ふたり以上いじょうつまをめとることの禁止きんし重婚じゅうこん禁止きんし)。
  • 強制きょうせいてきつま離縁りえんをいいわたすことの禁止きんし
  • 手紙てがみなど他人たにん文書ぶんしょ無断むだん閲覧えつらんすることの禁止きんし

最初さいしょと2番目ばんめ改訂かいてい女性じょせい地位ちい劇的げきてき改善かいぜんするもので、これによりアシュケナジムの家族かぞく姿すがた一変いっぺんすることになった。これ以降いこう、アシュケナジム文化ぶんか独自どくじせいかくれたシンボルとなり、キリスト教きりすときょう社会しゃかいにおける一夫一妻いっぷいっさいせい確立かくりつにも影響えいきょうあたえた。アシュケナジムのユダヤじん共同きょうどうたいはこの改訂かいていれたのだが、ミズラヒムテマニーム共同きょうどうたいからは拒絶きょぜつされた。それはかれらの周囲しゅういイスラム教いすらむきょう社会しゃかいでは一夫多妻いっぷたさいせいかれており、離縁りえんにさいしてもつま合意ごうい必要ひつようとしていなかったからである。

それ以外いがいのラベヌー・ゲルショムによるものと推定すいていされる改訂かいていには下記かきのようなものがある。

1750ねん以降いこうかれたケトゥバー。立会たちあい証人しょうにんのひとりにシムハー・ベン・アブラハム・カリマニのられる。
  • イブーム[ちゅう 28]禁止きんし。およびハリツァー(レビラトこん)の義務ぎむ
  • 教典きょうてんかんして根拠こんきょもなく意見いけんべてはならない(この規範きはんはしばしばラベヌー・タムによるものと誤解ごかいされている)。
  • 婚姻こんいんには健常けんじょうであったつまなん聴者ちょうしゃになったからといって離縁りえんをいいわたしてはならない。
  • 結婚けっこんして1ねん以内いないつまくした場合ばあい持参じさんきん返納へんのうすること。
  • 共同きょうどうたいは、おっとてられた女性じょせい経済けいざいりょくのないおっとった女性じょせい扶養ふようしなければならない。
  • おっとは18ヵ月かげつ以上いじょうつまからはなれてはならない。
  • ケトゥバー(結婚けっこん契約けいやくしょ)を紛失ふんしつした場合ばあいそなえそのうつしを用意よういすること。
  • おっとつまがくすねてきた窃盗せっとうひん満悦まんえつしてはならない。
  • キリスト教徒きりすときょうともちいる装飾そうしょくひん購入こうにゅうしてはならない。
  • 1人ひとりいのるのをきんじられているからといって自宅じたく礼拝れいはいしょにしてはならない。
  • 仲間なかまなぐった賠償ばいしょうは、シナゴーグにてばいがえしでなぐられること。
  • 無断むだんでシナゴーグからひじりかみぶつしてはならない。
  • 1ねんまえまでユダヤ教徒きょうとんでいた部屋へや異教徒いきょうとしてはならない。
  • なにかをくために教典きょうてん一部いちぶ千切ちきりってはならない。
  • 10にんちょうどでいのっている場合ばあい、もし1人ひとりいのるのをめてものこりの9にんいのつづけなければならない。
  • 巨額きょがく損失そんしつこうむってもいないのなら異教徒いきょうと法廷ほうてい仲間なかまうったえてはならない。
  • プリム貧者ひんじゃかけたら道行みちゆものほどこさねばならない。
  • 共同きょうどうたい少数しょうすうもの多数たすうのぞみにしたがわねばならない。
  • 被告人ひこくにんたいしてかれさばかれるべき法廷ほうてい強制きょうせいてきたせる権利けんり
  • 借財しゃくざい担保たんぽ教典きょうてんあづけている場合ばあい返納へんのう長引ながびかせてはならない。
  • ユダヤきょう改宗かいしゅうしたアヌシームにたいして過去かこつみうてはならない。

これらの改訂かいていだい5の千年紀せんねんき(ユダヤれきによる)がわるユダヤれき5000ねん1239ねん1240ねん)までに制定せいていされるよう各地かくちのユダヤじん共同きょうどうたいはたらきかけられ、当初とうしょ拒絶きょぜつしていたミズラヒムとテマニームの共同きょうどうたいのちれるようになった。そのあいだ、ラベヌー・タムによってこれらの改訂かいていはさらに厳格げんかくされ、あらたな改訂かいてい追加ついかされたりもした。

モレー・ハ・ネボヒーム

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『モレー・ハ・ネボヒーム』の彩色さいしき写本しゃほん14世紀せいき
わかきスピノザをおしえるウリエル・ダ・コスタ。サムエル・ヒルツェンブルグによる絵画かいが1901ねん)。

ラムバムはその生涯しょうがいにおいておおくの著書ちょしょ公表こうひょうしたのだが、それらはおおきな賞賛しょうさんむかえられる反面はんめんかく方面ほうめんでさまざまな物議ぶつぎをかもした。とくに容赦ようしゃのない反論はんろんびたのが『モレー・ハ・ネボヒーム』で、哲学てつがくてき問題もんだい中心ちゅうしんとした同書どうしょでは伝統でんとうてきなユダヤ思想しそうギリシア哲学てつがく用語ようご解説かいせつしており、これを「奴隷どれい」として反論はんろんしゃにより糾弾きゅうだんされたのである。同書どうしょにまつわるヘーレムがらみの論争ろんそうきたのは1232ねんみなみフランスのモンペリエで、これは同書どうしょ公表こうひょうされてから40ねんったのちのことである。論争ろんそう発端ほったんはシュロモー・ミン・ハ・ハル[ちゅう 29]、およびその2めいきたフランスの賢者けんじゃらが、同書どうしょにおけるアレゴリーにちたトーラー(モーセしょ)への注釈ちゅうしゃく、およびなんとおる難解なんかい論考ろんこうたいする不快ふかいかん公然こうぜんうったえたことにある。きたフランスの賢者けんじゃらはこのうったえだけに満足まんぞくすることなく、ついには同書どうしょにヘーレム(禁書きんしょ)をし、つづいて『ミシュナー・セフェル・ハ・マダア』もヘーレムにしょした。さらにはみなみフランスとスペインのユダヤじん共同きょうどうたいたいしてもヘーレムをすべく請願せいがんした。一方いっぽうのモンペリエの賢者けんじゃとラムバムの支持しじしゃらは、これらの措置そち対抗たいこうするかたちでシュロモー・ミン・ハ・ハルとかれ弟子でしらにたいしてヘーレムを宣告せんこくした。同書どうしょたいする敵意てきいキリスト教きりすときょう界隈かいわいからもこり、よく1233ねんには複数ふくすうのラムバムの著書ちょしょとも焚書ふんしょしょされている[53]

ウリエル・ダ・コスタ

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ポルトガルウリエル・ダ・コスタウリエル・アコスタ[ちゅう 30]は、キリスト教徒きりすときょうとちちアヌシームははとのあいだにガブリエルのまれ、キリストきょうてき教育きょういくのもとでそだてられた。ポルト大学だいがく教会きょうかいほうまなび、ポルトだい聖堂せいどう会計士かいけいしつとめていた。しかし、学問がくもんはげむにつれてユダヤじんであるみずからのルーツに目覚めざめ、ついには家族かぞくともにユダヤきょうへの改宗かいしゅう決心けっしんする。おりしもスペインでは異端いたん審問しんもん渦中かちゅうにあり、ダ・コスタはアムステルダム逃亡とうぼうせざるをなくなる。かれはそこでガブリエルからウリエルに改名かいめいしている。しかし、アムステルダムのユダヤじん社会しゃかいたりにしたラビによるユダヤきょう正統せいとうユダヤきょう)が、みずからがおもえがいていた理想りそうてきなそれとはかけはなれていることに愕然がくぜんとする。そこで1616ねん、トーラーではなく口伝くでんりつほう依存いぞんした正統せいとうユダヤきょうたいする10かじょう抗議こうぎぶんをしたためた。アムステルダムのラビらはダ・コスタにたいして文章ぶんしょう撤回てっかい要求ようきゅうするが、かれ拒否きょひしたためにヘーレムをすにいたる。このヘーレムは母親ははおやにもされたため、彼女かのじょくなった当初とうしょはアムステルダムでの埋葬まいそう拒否きょひされたりもした。ダ・コスタはヘーレムが10ねん継続けいぞくされたころになると共同きょうどうたいへの復帰ふっきのぞみ、公式こうしき儀式ぎしきのもとみずからのあやまちを告白こくはくすることで賢者けんじゃらの合意ごういけている。

バルーフ・スピノザ

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バルーフ・スピノザ(バルーフ・デ・エスピノザ)は、ポルトガルのアヌシームでアムステルダムへ逃亡とうぼうにユダヤきょう改宗かいしゅうした両親りょうしんあいだまれた。かれかみ存在そんざいそのものを公式こうしき否定ひていした最初さいしょのユダヤじんであったとされている。幼少ようしょうより『エッツ・ハイーム』[ちゅう 31]からユダヤ思想しそうまなび、ながじてアムステルダムの賢者けんじゃ弟子でしとなった。このころにはすでにヘブライ習得しゅうとくしており、タナハを原文げんぶんむことができた。また、アブラハム・イブン・エズラのタナハ注釈ちゅうしゃく中世ちゅうせいユダヤ哲学てつがく思想しそうからおおくの影響えいきょうけていた。成人せいじんたっするとギリシア哲学てつがくをはじめとした一般いっぱんてき学問がくもんにもばしたのだが、当時とうじはラムバムやハスダイ・クレスカス[ちゅう 32]著書ちょしょもとづいたユダヤ思想しそう立脚りっきゃくしたうえでギリシア哲学てつがく理解りかいしていた。しかし父親ちちおや死後しご、22さいになったスピノザはキリスト教徒きりすときょうとのグループにくわわるようになり、ハラハーの実践じっせんめて安息日あんそくび規定きてい公然こうぜん無視むしするようになった。さらにはユダヤきょうという制度せいどそのものにたいするはん表明ひょうめいするのもためらわなかったため、ラビによる法廷ほうてい召喚しょうかんされ、そこで更生こうせいうながすべく30日間にちかんのニドゥィがいいわたされた。それでもスピノザは更生こうせいおうじなかったため、アムステルダムのユダヤじん社会しゃかい総意そういのもと1656ねんにヘーレムの宣告せんこくけた。このときまだ24さいわかさであった[54][55]以下いかはその宣告せんこくぶんである(ヘブライしょうやくからの重訳じゅうやく)。

バルーフ・スピノザの肖像しょうぞう1665ねん)。ヘルツォーク・アウグスト図書館としょかん所蔵しょぞう
シャブタイ・ツヴィの肖像しょうぞう1666ねん)。
シャブタイ信奉しんぽうしゃえがいた版画はんがジューイッシュ・エンサイクロペディアより)。
ゆかにあるヤアコブ・フランクをえがいたデッサン(1791ねん)。
ヴィルナのガオン。孫娘まごむすめのミリアン・サンタによってえがかれたデッサンにもとづいて制作せいさくされた絵画かいが1915ねん)。
シュネウル・ザルマンの肖像しょうぞう1798ねん1800ねん逮捕たいほえがかれたものとられている。
スピノザにされたヘーレムの宣告せんこくぶん原文げんぶんラディノ
―5416ねん(ユダヤれき)―
権威けんいあるパルナス(ユダヤじん共同きょうどうたい指導しどうしゃ)の賢者けんじゃらが、あなたかたにとって吉報きっぽうとなるべき重要じゅうよう宣告せんこくぶんす。バルーフ・デ・エスピノザのしき思想しそう言動げんどうつたえられるようになってからというもの、賢者けんじゃらは期待きたいめつつ様々さまざま手段しゅだんこうじてかれものしきみちからなおらせようとこころみてきた。しかし、賢者けんじゃらのえるものではなく、それどころか、おそれるべき背信はいしん行為こういたるその言動げんどう教育きょういくについての数々かずかず報告ほうこく毎日まいにちのようにとどけられており、いまや賢者けんじゃらのには、賢者けんじゃらがじか見聞みききした信頼しんらいすべきあまたの証言しょうげんがある。よって、かれもの思想しそう言動げんどうたいして決然けつぜんたる態度たいどのぞむにいたる。すなわち、けんのエスピノザを破門はもんしょし、イスラエルの会衆かいしゅうから追放ついほうする。よ、賢者けんじゃらは下記かきのごとくエスピノザにたいしてヘーレムをす。 ほまたかかみせいなる会衆かいしゅう合意ごういのもと、使つかいの決意けついいのりの言葉ことばをもって、我々われわれはバルーフ・デ・エスピノザにたいしてヘーレム、ニドゥィ、これにくわえてシャムターの判決はんけつくだす。かれものは、ひるのろわれ、よるのろわれ、臥所ふしどのろわれ、きてものろわれ、てものろわれ、かえってものろわれよ。あるじかれものあがないをのぞまず、これをにくまれる。あなたかた今日きょうおもなるかみきているかみ一体いったいとなり、満場一致まんじょういっちでこのようにう。「我々われわれ警告けいこくする。口頭こうとうであれ文章ぶんしょうであれ、何人なんにんたりともかれもの接触せっしょくしてはならない。かれものにとって有益ゆうえきなことを一切いっさいおこなってはならない。かれものおな屋根やねしたとどまってもならない。直接ちょくせつはもちろん、文書ぶんしょによる間接かんせつてきむすびつきを依頼いらいすることさえもゆるさない。」

シャブタイ

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1658ねんイタリアからエルサレムにわたったイスラエル・ヤアコブ・ハギズ[ちゅう 33]は、リヴォルノ出身しゅっしん富豪ふごう援助えんじょのもと同地どうちにイェシバーを設立せつりつし、外国がいこく数学すうがく工学こうがくなどの学問がくもん一般いっぱんおしえた。生徒せいとなかにはのちにシャブタイ預言よげんしゃとなるアブラハム・ナタン(ガザのナタン)[ちゅう 34]もいた。1665ねんなつエジプト特使とくしとして派遣はけんされていたシャブタイ・ツヴィがエルサレムへ帰還きかんした。このときツヴィが救世主きゅうせいしゅ自称じしょうしたため、ハギズを筆頭ひっとうにエルサレムの賢者けんじゃらは論陣ろんじんって対処たいしょした。こうして最終さいしゅうてきにはツヴィをヘーレムにしょしてエルサレムから追放ついほうするのに成功せいこうすると、かれ出身しゅっしんであるスミルナ(イズミル)にも使者ししゃ派遣はけんして同地どうちのラビらにヘーレムを宣告せんこくした。ハギズとシャブタイとのたたかいは、よく1666ねんにツヴィのイスラム教いすらむきょうへの改宗かいしゅうという予想よそうがい展開てんかいむかえるが、その残党ざんとうたいしても容赦ようしゃはなかった。

それからじゅうすうねんのこと、オスマン帝国ていこく時代じだいコンスタンティノープルのポセク[ちゅう 35]著述ちょじゅつでもあったイェフダー・ロザネス[ちゅう 36]は、当時とうじすでに衰退すいたいにありながらも依然いぜんとしてつよ影響えいきょうりょくほこっていたシャブタイと、ツヴィの復活ふっかつしんじているとおぼしきものたいして厳然げんぜんたる姿勢しせいのぞみ、ナタンにたいしてはヘーレムを宣告せんこくした。また、ヨーロッパでシャブタイひろめたカバリストのネヘミヤ・ハヤ・ハユン[ちゅう 37]やハイム・マルアフ[ちゅう 38]にもヘーレムをしている。

フランク主義しゅぎ

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ヤアコブ・フランク[ちゅう 39]ポジーリャ当時とうじポーランド・リトアニア共和きょうわこくりょう)でシャブタイ信奉しんぽうしゃ家庭かていまれた。12さい商家しょうか奉公ほうこうると東欧とうおうからアナトリア半島はんとうめぐり、1752ねんから1755ねんにかけてはかつてシャブタイ聖地せいちであり当時とうじ残党ざんとうおおかったスミルナ、および同派どうはから派生はせいしたドンメ中心ちゅうしんであったテッサロニキ滞在たいざいしている。このあいだに、みずからが救世主きゅうせいしゅであるシャブタイ・ツヴィのまれわりであると主張しゅちょうするようになった。1755ねんにポーランドにもどるとメシアニズム思想しそう(フランク主義しゅぎ)を信奉しんぽうするだい規模きぼ組織そしき設立せつりつし、おおくのユダヤじんんだ。しかし、1756ねんのシュバットのつきの26にちにガリツィアのランツクロンで退廃たいはいてき集会しゅうかいもよおしたことにより同地どうちわれ、オスマン帝国ていこく逃亡とうぼうした。信奉しんぽうしゃらはラビによる裁判さいばんにかけられ、性的せいてき乱交らんこう月経げっけいちゅう女性じょせいとの性交せいこう安息日あんそくび軽視けいしなどを告白こくはくしたが、改心かいしん意思いしがないためにヘーレムがされた。よく1757ねんにはヤアコブ・フランクも信奉しんぽうしゃらとブロディもどったところで同地どうちのラビにヘーレムを宣告せんこくされてカームヤネツィ=ポジーリシクィイ逃亡とうぼうした。ここでははんユダヤ主義しゅぎしゃられていた主教しゅきょうのニコラウス・デンボウスキーの庇護ひごけると、同年どうねんのタムーズのつきの2にちから8日間にちかんにわたって開催かいさいされた正統せいとうユダヤ教徒きょうととフランク主義しゅぎしゃ討論とうろんかいにおいて、フランク主義しゅぎキリスト教きりすときょうつうそこしているとみとめられた。この結果けっか、ポリージャではタルムードが焚書ふんしょしょされている。いくつかの資料しりょうでは、このまえにヤアコブ・フランクはすうにん信奉しんぽうしゃらとオスマン帝国ていこく脱出だっしゅつし、ここでイスラム教いすらむきょう改宗かいしゅうしたとされている。さらに2ねん1759ねんにはふたたびポーランドにもどって今度こんどキリスト教きりすときょう改宗かいしゅうし、キリスト教徒きりすときょうととしてその生涯しょうがいえた。

ハシディズム

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アハロニーム時代じだい(アシュケナジムでは14世紀せいき以降いこうセファルディムでは16世紀せいき以降いこう)を代表だいひょうする賢者けんじゃであるハグラー(ヴィルナのガオン)[ちゅう 40]はハシディズム運動うんどう黎明れいめいころから、そのいがんだ見識けんしき異教いきょうてき言説げんせつ社会しゃかい混乱こんらん萌芽ほうが見出みいだしていた。1772ねんにはすでにハシディズムにたいするヘーレムの合意ごうい署名しょめいヴィルナ共同きょうどうたいからけており、1781ねんには2度目どめのヘーレムを宣告せんこくしている。このヘーレムにさいしては、ハバッド[ちゅう 41]創設そうせつしゃのひとりであるリアディのシュネウル・ザルマン[ちゅう 42]との面談めんだん拒否きょひし、おなじく創設そうせつしゃのひとりであるバアル・シェム・トーブ弟子でしによってかれた『צוואת הריב"ש』(バアル・シェム・トーブの遺言ゆいごん)の焚書ふんしょめいじている。

ハスカラー

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ハスカラーのひとりでユダヤがく確立かくりつにもたずさわったリヴィウのシュロモー・イェフダー・ラポポルト[ちゅう 43]は、『נר מצווה』(りつほう)という小論文しょうろんぶんにおいてハシディズムにたいする敵対心てきたいしん表明ひょうめいする一方いっぽう頑迷がんめいなまでに教義きょうぎ世界せかい埋没まいぼつする敵対てきたいしゃがわ姿勢しせいについても批判ひはんてき文章ぶんしょうのこした。この見識けんしきは、イェフダー・リブ・ミゼス[ちゅう 44]やイツハク・エルテル[ちゅう 45]といったリヴィウのハスカラーの仲間なかまからも共感きょうかんた。ところが、この見識けんしきによってラポポルトは保守ほしゅてき陣営じんえいけられてしまい、かれらの格好かっこう攻撃こうげき対象たいしょうとなってしまう。そして、その敵意てきい最高潮さいこうちょうたっした1816ねんにヘーレムを宣告せんこくされた。ヤアコブ・メシュラム・オレンシュテイン[ちゅう 46]によるがねであったとみられている。ラポポルトはただちにガリツィア権力けんりょくしゃたいして、りょう陣営じんえいにとって無用むようにくしみをやすだけであるとしてヘーレムの無効むこううったえた。この出来事できごとによりガリツィアのハスカラーの結束けっそくりょくがよりたかまることになる。

シオニズム

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チェコスロバキア教育きょういく政治せいじでシオニストでもあったハイム・クーゲル[ちゅう 47]は27さいのときにムカチェヴォ(げんウクライナ)のヘブライ・ギムナジウムの校長こうちょう任命にんめいされた。しかしこの学校がっこうはユダヤきょうちょう正統せいとうからはこころよおもわれておらず、「トーラーへの献身けんしんのために相応ふさわしくあるべくイスラエルの子弟していらを破滅はめつみちびいている」として非難ひなんされていた。憂慮ゆうりょすべきれいとして、ユダヤ教徒きょうと正装せいそう、とくにキッパ着用ちゃくよう義務付ぎむづけていなかったことがげられる。しかしクーゲルは、信教しんきょう自由じゆう旗印はたじるしにキッパの着用ちゃくようこばみ、その演説えんぜつなどにおいて度々どどキッパの着用ちゃくよう拒否きょひする発言はつげんかえした。キッパにかんする論争ろんそうは、ムカチェヴォのちょう正統せいとうとシオニストのあらそいにまでまれ、ついには1912ねん8がつ17にちちょう正統せいとうがギムナジウムにたいしてヘーレムの処分しょぶんすという事態じたいいたる。その、ムカチェヴォのちょう正統せいとうのメンバーはシナゴーグにあつまると、角笛つのぶえいてロウソクのした。そしてハイム・エルアザル・スピナー[ちゅう 48]によってギムナジウムだけでなく、シオニズムに加担かたんする生徒せいと父兄ふけいらにもヘーレムが宣告せんこくされた。

現代げんだいにおけるヘーレム

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冒頭ぼうとうでもべたように、現代げんだいヘブライにおけるヘーレムの意味いみ宗教しゅうきょうてきなものに限定げんていされず、社会しゃかい多様たようともなって政治せいじ用語ようご経済けいざい用語ようごといった世俗せぞく世界せかい適応てきおうしたものにえられている。また、学校がっこうないにおける「いじめ」(仲間なかまはずれ;無視むし)としてイスラエル国内こくないでも社会しゃかい問題もんだいしている[56]。しかし現在げんざいでもラビによる最高さいこう法廷ほうてい(ベート・ディン・ラバニー)や各派かくはにおける宗教しゅうきょう裁判さいばんにおいて宗教しゅうきょうてき、および思想しそうてき理由りゆうから個人こじん団体だんたいたいしてヘーレムがされることがある。

ナトレー・カルター

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イランでのホロコースト否定ひてい集会しゅうかい参加さんかしたメンバーの除名じょめいつたえるナトレー・カルターによるパシュケヴィル(2006ねん)。

ナトレー・カルター創設そうせつしゃであるエルサレム出身しゅっしんのアムラム・ブラウ[ちゅう 49]は、シオニズムやイスラエル国家こっか一切いっさい容認ようにんしない頑強がんきょう論者ろんしゃとしてられ、権力けんりょくしゃたいする妥協だきょうのない姿勢しせいから数々かずかず逮捕たいほ監禁かんきんれきほこっていた。しかし、1963ねんカトリックからユダヤきょうへの改宗かいしゅうしゃである45さいのフランスじん女性じょせい、ルーツ・ベン・ダヴィッド(マデリン・フェロー)との結婚けっこん意思いし表明ひょうめいしたことから、ナトレー・カルターとちょう正統せいとう共同きょうどうたいにおいてセンセーショナルな議論ぎろんこる。かれ名誉めいよ相応ふさわしくないとの理由りゆうから息子むすこ弟子でしらからも反対はんたいされた。ちょう正統せいとうのラビらは指導しどうしゃたるもの改宗かいしゅうしゃ女性じょせい結婚けっこんすることをゆるさず、アムラム・ブラウにたいしてヘーレムをした。こうしてエルサレムにまれなくなったかれテル・アビブ近郊きんこう居住きょじゅうブネー・ブラクに移住いじゅうし、そこでルーツと結婚けっこんした。

2005ねん12月ハシディズムの宮廷きゅうていのひとつであるハシドゥート・サトゥマール[ちゅう 50]宗教しゅうきょう裁判所さいばんしょ(ベート・ディン・ツェデク)において、ナトレー・カルターの7めいのメンバーにたいして、イランテヘランおこなわれたはんシオニズム勢力せいりょくによるホロコースト否定ひてい集会しゅうかい参加さんかし、あまつさえ同国どうこく大統領だいとうりょうマフムード・アフマディーネジャード抱擁ほうようし、接吻せっぷんまでもわしたとして、アドモール(ハシディズムの指導しどうしゃ)のザルマン・テイテルバウム[ちゅう 51]によってヘーレムの宣告せんこくくだされた。声明せいめいでは、「参加さんかしゃらははんシオニズムによってもたらされた惨劇さんげき殉教者じゅんきょうしゃかず過小かしょう評価ひょうか、あるいはぜん否定ひていし、かみたいする永遠えいえん冒涜ぼうとくおこなったからである」とその理由りゆう説明せつめいしている[57]。このけんについてはナトレー・カルターのがわでも遺憾いかん表明ひょうめいし、関係かんけいするメンバーを除名じょめい処分しょぶんにしたむね2006ねんしたパシュケヴィル[ちゅう 52]つうじて公表こうひょうしている。

オバドヤ・ヨセフ

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テフィラット・シャハリート(夜明よあけのいのり)を執行しっこうするオバドヤ・ヨセフ(2007ねん撮影さつえい)。

一方いっぽうでは過去かこのヘーレムについての和解わかいがなされたれいもある。2007ねん9月シャス霊的れいてき指導しどうしゃであるオバドヤ・ヨセフ[ちゅう 53]は、ハシドゥート・ブラーツラウ[ちゅう 54]のメンバーらがローシュ・ハ・シャナーたびどう宮廷きゅうてい本部ほんぶがあるウーマニ巡礼じゅんれいおもむくことを痛烈つうれつ批判ひはんした。しかしどう宮廷きゅうてい創設そうせつしゃ初代しょだいアドモールであるブラーツラウのナフマンについては、「ラビ・ナフマンを批判ひはんするなど滅相めっそうもないことだ。賢者けんじゃであり、無垢むく義人ぎじんであった。は『シュルハン・アルーフ[ちゅう 55]のっとったハラハーの運用うんよう開始かいしした偉大いだいなるアドモールのひとりである」と最大限さいだいげん賛辞さんじをもって言及げんきゅうしている。ラビ・ナフマンにまつわるハグラー(ヴィルナのガオン)とどう宮廷きゅうていとのあいだ歴史れきしてき論争ろんそうにおいては、「さだめられた時間じかん無視むししていのりをおこなうなどハラハーにそむ行為こういおこなっている」というハグラーの主張しゅちょうによりどう宮廷きゅうていのメンバーらにはヘーレムが宣告せんこくされた経緯けいいがある。しかし、これについてもオバドヤ・ヨセフは、「宮廷きゅうていのメンバーにたいして、「『シュルハン・アルーフ』からはみぎへもひだりへもはぐれてはならず、朗誦ろうしょう時間じかんいのりの時間じかんもそれぞれハラハーの実践じっせんには不可欠ふかけつなものである。すなわち、朗誦ろうしょうケリアット・シャマー)の時間じかん日暮ひぐれから3あいだ[58]いのりの時間じかんは4あいだ[59]」とめいじられており、メンバーもそれにしたがうようになり、ゆっくりではあるが改心かいしんしていった」とべている[60]

なお、オバドヤ・ヨセフは1951ねんから1952ねん1957ねんから1958ねんあいだペタハ・ティクヴァー地方裁判所ちほうさいばんしょ判事はんじつとめているのだが、2度目どめ任期にんきにおいて、義理ぎり兄弟きょうだいがいる場合ばあいのイブームをきんじた首席しゅせきラビ組織そしきによる1950ねんほう改訂かいてい「ヘーレム・エルサレム」にはんして、ハリツァーのわりにイブームを解禁かいきんする判例はんれいしている。これは首席しゅせきラビ組織そしき権威けんいみとめないかれ出身しゅっしん母体ぼたいであるセファルディムの共同きょうどうたい意思いし代表だいひょうしたものであった。

アグナー

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2008ねん9月、ラビの最高さいこう法廷ほうてい声明せいめいにおいて、およそ10ねんにもわたってつまへの離縁りえんじょう提出ていしゅつこばみ、さらには5年間ねんかんつまをアグナー[62]にしたことを理由りゆうに、ちょう正統せいとうのイェシバ―の生徒せいとであるエルサレムの男性だんせいたいしてヘーレムの宣告せんこくくだしたと発表はっぴょうした。この男性だんせい出国しゅっこく停止ていし命令めいれいされていたにもかかわらず、およそ1ねんはんまえ国外こくがい脱出だっしゅつ成功せいこうしてアメリカ滞在たいざいちゅうであるとられていた。判事はんじらによれば、今後こんごはどのような場合ばあいであれかれ関与かんよしたり、かれをミンヤンにくわえたり、かれ教育きょういくほどこしたりしてはならず、かれ料金りょうきんはらおうがはらうまいがけっして宿やどあたえてはならない、との命令めいれいくだされたという[63]。それから2ねん2010ねん10月になってようやくこの男性だんせいからつまのもとに離縁りえんじょうとどけられた[64]

祭司さいしのヘーレム(ハラミーム)

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奉納ほうのうぶつとしてのヘーレムはハザルの時代じだいになると、かみささげるべき奉納ほうのうぶつたる「ヘルメー・ガボハ」(至高しこうのヘーレム)と祭司さいしささげられる奉納ほうのうぶつたる「ヘルメー・コハニーム」(祭司さいしのヘーレム)という2種類しゅるい分類ぶんるいされるようになった。ハラハーにおける祭司さいしのヘーレムとは、トーラーにおいてめいじられたとされる祭司さいしへの24種類しゅるい奉納ほうのうぶつのひとつであるハラミーム(ヘーレムの複数ふくすうがた)のことで、その内容ないよう動産どうさん、あるいは不動産ふどうさんとなる。ハザルは24種類しゅるい奉納ほうのうぶつについて、エルサレム神殿しんでん境内けいだいにおいてれる10種類しゅるい、エルサレムにてれる4種類しゅるい、エルサレム以外いがいでもれる10種類しゅるいという3段階だんかい分類ぶんるいしており[65]、ハラミームはエルサレム以外いがいでもれる奉納ほうのうぶつのひとつとされている。一方いっぽう、ラムバムはハザルとはちがい、エルサレム神殿しんでん境内けいだいでのみべられる8種類しゅるい、エルサレムの城壁じょうへきないでのみべられる5種類しゅるい、イスラエルのでのみれる5種類しゅるい、イスラエル以外いがいでもれる5種類しゅるい、エルサレム神殿しんでんから提供ていきょうされる1種類しゅるいというように5段階だんかい分類ぶんるいしており、ヘーレムはイスラエル以外いがいでもれる奉納ほうのうぶつのひとつとされている[66][67]以下いか、その序列じょれつしたがって列挙れっきょする(かくけんじぶつ名称めいしょうは『聖書せいしょ しん共同きょうどうやく』による訳出やくしゅつならう)。

レヘム・ハ・パニームと奉納ほうのうだい復元ふくげんしたもの。
ユダヤれき5712ねんのシャブオットの1952ねん初夏しょか)におこなわれた初物はつもの奉納ほうのうする儀式ぎしき
ピドゥヨン・ハ・ベンの儀式ぎしき婦人ふじんたちが赤子あかご宝飾ほうしょくひんかこっている。
  • エルサレム神殿しんでん境内けいだいでのみべられる奉納ほうのうぶつ
  1. バサル・ハ・ハタート:贖罪しょくざいけんじぶつ家畜かちく、あるいは鳥類ちょうるい。(『レビ』 6:18-23)
  2. バサル・ハ・エシェム:賠償ばいしょうけんじぶつ家畜かちく、あるいは鳥類ちょうるい。(『レビ』 7:1-6)
  3. ジブヘー・シャルメー・ツィボール:和解わかいけんじぶつ。1さいゆうひつじが2とう。(『レビ』 23:19-20)
  4. モタル・ハ・オメル:神聖しんせいけんじぶつのうちやさないもの。(『みんすう』 18:9)
  5. シレー・メナホット・イスラエル:穀物こくもつけんじぶつのこり。(『レビ』 2:1-3)
  6. シュテー・ハ・レヘム:初物はつもののパンが2つ。(『レビ』 23:17;20)
  7. レヘム・ハ・パニーム:12のパン。(『レビ』 24:5-9)
  8. ログ・シェメン・シェル・メツォラー:1ログオリおりブ油ぶゆ。(『レビ』 14:10-13)
  • エルサレムの城壁じょうへきないでのみべられる奉納ほうのうぶつ
  1. ハゼー・ヴェ・ショック・シェル・シュラミーム:生贄いけにえむねにくみぎうし。(『レビ』 7:34)
  2. ムラム・ミン・ハ・トダー:感謝かんしゃけんじぶつ薄焼うすやきのパンやがたのパンなど。(『レビ』 7:12-14)
  3. ムラム・メ・エール・ナジール:ナジルじん誓願せいがんけんじぶつ奉納ほうのうぶつむねにくうし。(『みんすう』 6:19-20)
  4. ベホール・ベヘマー・タホラー:神殿しんでんささげられる家畜かちく初子はつねのすべて。(『みんすう』 18:17-18)
  5. ビクリーム:神殿しんでんささげられる初物はつもののすべて。(『みんすう』 18:13)
  • イスラエルのでのみれる奉納ほうのうぶつ
  1. テムラー:穀物こくもつ、ぶどうしゅオリおりブ油ぶゆ初物はつもの。(『さるいのち』 18:4)
  2. テムラット・マアセル:レビじん以外いがいあたえられた嗣業のの10ぶんの1からかみのための10ぶんの1をいた土地とち。(『みんすう』 18:26-28)
  3. ハラー:がたのパン。(『みんすう』 15:19-20)
  4. レシート・ハ・ガズ:ひつじ初物はつもの。(『さるいのち』 18:4)
  5. スデー・アフザー:ヨベルのとしもどされていない土地とち。(『レビ』 27:21)
  • イスラエル以外いがいでもれる奉納ほうのうぶつ
  1. ゼロア・レ・ハイーム・ヴェ・キバー:生贄いけにえかたりょうほお部分ぶぶん。(『さるいのち』 18:3)
  2. ピドゥヨン・ハ・ベン:ひとふくめたもの初子はつねすべて。(『みんすう』 18:15)
  3. ペテル・ハモール:ロバの初子はつね。(『いずるエジプト』 13:13)
  4. ゲゼル・ハ・ゲール:しゅのない賠償ばいしょう。(『みんすう』 5:6-10)
  5. ハラミーム:イスラエルにて奉納ほうのうされたものすべて。ただしイスラエル以外いがいでもれる。(『みんすう』 18:14)
  • エルサレム神殿しんでんから提供ていきょうされる奉納ほうのうぶつ
  1. オロット・ハ・オロット:くすけんじぶつかわ。(『レビ』 7:8)

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ドイツ聖書せいしょ協会きょうかいビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア』(BHS)における算出さんしゅつ
  2. ^ タナフにかれた動詞どうしおもなものに、使役しえき能動態のうどうたいの הֶחֱרִים (ヘヘリーム)と使役しえき受動態じゅどうたいの הָחֳרַם (ホホラム)がある。
  3. ^ シュムエル・ベン・メイール(1080ねん1160ねんころ):フランスラビ。タナハの注釈ちゅうしゃく。ラシのまごにあたる。
  4. ^ ペンタテューク(モーセ5しょ)に『ヨシュア』『』『ルツ』をくわえた8かんのこと。
  5. ^ タンフマ・バル・アバ:エルサレムのアモライームだい5世代せだい340ねん380ねんころ)にぞくするラビ。
  6. ^ ヨム・キプールのばんまれる祈祷きとうしょセファルディムはんミズラヒムはんがある。
  7. ^ タナハ、タルムード、シフラーメヒルターなどの注釈ちゅうしゃく、およびアガダー(民間みんかん伝承でんしょう)の集成しゅうせいフランクフルト出身しゅっしん注釈ちゅうしゃく、シムオン・アシュケナジーによって13世紀せいき編纂へんさんされたとられている。
  8. ^ シムオン・ベン・ラキシュ:アモライームのだい2世代せだい250ねん280ねん)にぞくするラビ。
  9. ^ ハザルの伝統でんとうではだい2神殿しんでん時代じだいは420年間ねんかん紀元前きげんぜん350ねん70ねん)だったとされている(バブリー・マセヘット・ヨマー 9a [1])。
  10. ^ ラビ・アッバ・アリカ:バビロニアのアモライームのだい1世代せだい3世紀せいき前半ぜんはん250ねんころ)にぞくするラビ。
  11. ^ シュムエル・ヤルヒナー:ラブとどう世代せだいのラビ。天文学てんもんがくしゃけん医者いしゃでもあった。
  12. ^ シュロモー・ベン・イツハク(1040ねんあるいは1041ねん1105ねん):フランスのラビ。タナフとタルムードの注釈ちゅうしゃく。ラシ字体じたい有名ゆうめい
  13. ^ エルサレムがいのユダヤじん共同きょうどうたいでは祭日さいじつが1にち追加ついかされる。
  14. ^ アクビア・ベン・マハラルエル:だい2神殿しんでん崩壊ほうかい以前いぜんのタンナイームにぞくするラビ。ミシュナー・マセヘット・アボット 3:1 [2] の「つみおかさないためには3つのことに関心かんしんて。どこからたのかをれ。どこへくのかをれ。そして将来しょうらいだれ御前ごぜん生前せいぜんのことをさばかれるのかをれ」という言葉ことば有名ゆうめい
  15. ^ みんすう』 5:11-31においてさだめられている姦淫かんいん疑惑ぎわくをもたれたつまませるみず
  16. ^ シャマアヤ:ハスモンあさ末期まっきのサンヘドリン議長ぎちょうズゴットのひとり。相方あいかたはアブタリオン。
  17. ^ アブタリオン:ハスモンあさ末期まっきのサンヘドリン議長ぎちょう。ズゴットのひとり。相方あいかたはシャマアヤ。
  18. ^ ヨハナン・ベン・ザカイ(不明ふめい80ねんから85ねんあいだ):ろうヒレルの弟子でし。サンヘドリン議長ぎちょう
  19. ^ エリエゼル・ベン・フルカノス:タンナイームだい2世代せだいだい2神殿しんでん崩壊ほうかいからバル・コフバのらん期間きかん)にぞくするラビ。
  20. ^ イェフダー・ベン・イェヘズケル(220ねん299ねん):バビロニアのアモライームのだい2世代せだい250ねんごろ - 280ねんころ)にぞくするラビ。同地どうちで800年間ねんかんつづいたイェシバー・プンベディタの設立せつりつしゃ
  21. ^ ヨシュア・ベン・ハナニア:タンナイームのだい2世代せだいのラビ。ヨハナン・ベン・ザカイの弟子でし
  22. ^ ホニー・ハ・マガル:1世紀せいき義人ぎじん奇跡きせきこしたひと。ラシによれば、「マガル」は「えん」を意味いみしている。
  23. ^ シムオン・ベン・シャタハ:アレクサンドロス・ヤンナイオス時代じだいのズゴット。相方あいかたはイェフダー・ベン・タバイ。
  24. ^ アブラハム・イブン・ダウド(1110ねん1180ねん):コルドバ出身しゅっしん歴史れきし哲学てつがくしゃ天文学てんもんがくしゃムワッヒドあさイベリア半島はんとう進出しんしゅつともなカスティーリャ王国おうこく逃亡とうぼうした。
  25. ^ ヤアコブ・ベン・メイール(1100ねん1171ねん):ロレーヌ出身しゅっしんのラビ。ラシのまご詩人しじん言語げんご学者がくしゃでもあった。
  26. ^ 同書どうしょ英名えいめいである『The Guide for the Perplexed』から「まよえる人々ひとびとためみちびき」とばれることもある。
  27. ^ ゲルショム・ベン・イェフダー(960ねん1028ねんあるいは1040ねん):アシュケナジムの指導しどうしゃマインツイェシバー院長いんちょう。ラベヌーは「我々われわれ」を意味いみする敬称けいしょう。メオール・ハ・ゴラーはトーラーに精通せいつうした賢者けんじゃあたえられる称号しょうごう
  28. ^ んだおっとわりにその兄弟きょうだいではなく、おっととは血縁けつえん関係かんけいのない男性だんせい再婚さいこんすること。『ルツ』を参照さんしょう
  29. ^ シュロモー・ベン・アブラハム・ベン・シュムエル:13世紀せいきバルセロナ出身しゅっしんプロヴァンスのラビ。
  30. ^ ウリエル・ダ・コスタ(1585ねんあるいは1591ねん1640ねん):ポルト出身しゅっしん懐疑かいぎろんてき哲学てつがくしゃ。『Exemplar Humanae Vitae』(人間にんげん生活せいかつ手本てほん)の著者ちょしゃとしてられる。
  31. ^ カバリストのイツハク・ルリア・ベン・シュロモー(1534ねん1572ねん)の著書ちょしょもとづいたハイム・ベン・ヨセフ・ヴィタル(1543ねん1620ねん)のカバラてき書物しょもつ
  32. ^ ハスダイ・ベン・アブラハム・クレスカス(1340ねん1410ねん):サラゴサのラビ。アリストテレスをはじめとしたギリシア哲学てつがくについての懐疑かいぎろんていしたリショニームのひとり。
  33. ^ イスラエル・ヤアコブ・ベン・シュムエル・ハギズ(1620ねん - 1674ねん):モロッコフェズ出身しゅっしん息子むすこのモシェー・ハギズもはんシャブタイ活動かつどうたずさわった。
  34. ^ アブラハム・ナタン・ベン・エリシャー・ハイム・ハ・レヴィ・アシュケナジー(1643ねん1680ねん):ガザのカバリスト。シャブタイ理論りろん形成けいせいになった実質じっしつてき指導しどうしゃ
  35. ^ ハラハーの熟練じゅくれんしゃ共同きょうどうたいにおいて問題もんだいしょうじた場合ばあいにハラハーにしたがった決議けつぎくだものあたえられる称号しょうごう
  36. ^ イェフダー・ロザネス(1657ねん1727ねん):『ミシュネー・トーラー』の注釈ちゅうしゃくられる。
  37. ^ ネヘミヤ・ハヤ・ハユン(1655ねんころ1730ねん):サラエボ出身しゅっしんられる。ツヴィとナタンがんで以降いこうもっと影響えいきょうりょくのあるカバリストであった。
  38. ^ ハイム・マルアフ(1680ねん以前いぜん - 1715ねん以降いこう):ルブリンにてカバリストとしての地位ちい確立かくりつ。シャブタイてんじてからはトルコ、イタリア、エルサレム、アムステルダムなどをわたあるいた。
  39. ^ ヤアコブ・フランク(1726ねん - 1791ねん):カバラについての造詣ぞうけいふかくなく、その主張しゅちょうはもっぱらアブラハム・ナタンのりであった。また、シャブタイ禁欲きんよく主義しゅぎてきだったのにたいしてフランク主義しゅぎ放蕩ほうとうふけってばかりいた。
  40. ^ エリヤフ・ベン・シュロモー・ザルマン・クラメル(1720ねん1797ねん):タナハ、タルムード、カバラに熟練じゅくれんした学問がくもん近代きんだい科学かがくにも精通せいつうしていた。ガオンは「天才てんさい」の
  41. ^ חכמה, בינה, דעת」(叡智えいち認識にんしき思考しこう)のりゃく現在げんざいでは世界せかいに1000かしょ以上いじょう拠点きょてんかまえる代表だいひょうてきなハシディズムの宮廷きゅうてい
  42. ^ シュネウル・ザルマン(1745ねん - 1812ねん):初代しょだいアドモール。『ספר התניא』(反復はんぷくしょ)の著者ちょしゃとしてられる。
  43. ^ シュロモー・イェフダー・ロエブ・ハ・コーヘン・ラポポルト(1796ねん1867ねん):ガリツィアのハスカラー運動うんどう参加さんかテルノーピリプラハでラビしょくつとめる。
  44. ^ イェフダー・リブ・ミゼス(1798ねん1831ねん):ガリツィアのハスカラー。『קנאת האמת』(真理しんり嫉妬しっと)の著者ちょしゃとしてられる。
  45. ^ イツハク・エルテル(1791ねん1851ねん):ガリツィアのハスカラー。『הצופה לבית ישראל』(イスラエルのいえへの予見よけん)の著者ちょしゃとしてられる。
  46. ^ ヤアコブ・メシュラム・オレンシュテイン(1774ねんあるいは1775ねん1839ねん):ガリツィアのラビ。ポセク。ハスカラーだけでなく進歩しんぽ主義しゅぎユダヤきょうたいしても妥協だきょうのない姿勢しせいのぞんだ。
  47. ^ ハイム・クーゲル(1897ねん - 1953ねん):経済けいざいがく哲学てつがく博士はかせ。イスラエルに帰還きかんホロン初代しょだい市長しちょうつとめる。
  48. ^ ハイム・エルアザル・スピナー(1871ねん1937ねん):ムカチェヴォのアドモール。シオニズムにかかわるすべてを否定ひていしていた。
  49. ^ アムラム・ブラウ(1920ねん2000ねん):安息日あんそくび厳守げんしゅ遺体いたい解剖かいぼう禁止きんしなどをうったえたちょう正統せいとうのラビ。
  50. ^ ハンガリーサトゥ・マーレ発祥はっしょうとするハシディズムの宮廷きゅうてい先代せんだいのアドモールがくなった2006ねん分派ぶんぱ現在げんざい拠点きょてんニューヨークブルックリンニューヨークしゅうモンローにある。
  51. ^ ヤクシエル・イェフダー・テイテルバウム(1952ねん - ):ブルックリンのアドモール。ザルマン・レイブともばれる。
  52. ^ ちょう正統せいとうによるはんシオニズムてき内容ないようのプロパガンダ・ポスター。 その名称めいしょう由来ゆらい英語えいごのpasquinadeとおなじくローマの風刺ふうしであったパスクイーノ(Pasquino)であるとされる。
  53. ^ オバドヤ・ヨセフ(1920ねん - ):イスラエルの首席しゅせきラビ(1972ねん1983ねん)。著述ちょじゅつ。ポセク。
  54. ^ ウクライナのウーマニに本部ほんぶくハシディズムの宮廷きゅうてい設立せつりつしゃのラビ・ナフマンの通称つうしょうから命名めいめい
  55. ^ ツファットヨセフ・カロ著述ちょじゅつもと編纂へんさんされたハラハーの教典きょうてん1656ねんヴェネツィア初版しょはん印刷いんさつされる。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
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  8. ^ Strong's Concordance with Hebrew and Greek Lexicon 2764a [10]
  9. ^ Strong's Concordance with Hebrew and Greek Lexicon 2766 [11]
  10. ^ Strong's Concordance with Hebrew and Greek Lexicon 2765 [12]
  11. ^ Strong's Concordance with Hebrew and Greek Lexicon 2767 [13]
  12. ^ Strong's Concordance with Hebrew and Greek Lexicon 2768 [14]
  13. ^ Strong's Concordance with Hebrew and Greek Lexicon 2769 [15]
  14. ^ イェフダー・ソロモント 「לפרשת שלח」(パラシャット・シュラフの注釈ちゅうしゃく[16]
  15. ^ モアブじんかみ碑文ひぶん冒頭ぼうとうに「わたしはケモシートの」とあり、この父親ちちおや名前なまえからみずからのかみであるアシュタルをケモシュとぶようになったというかんがえがある[14]
  16. ^ The Mesha Stele a.k.a. The Moabite Stone TRANSLATION by K. C. Hanson (Adapted from Albright 1969:320-21) [17]
  17. ^ גֻרִן と גֻרֹת を「外国がいこくじん」と訳出やくしゅつしている資料しりょうもある[16]メシャ碑文ひぶん参照さんしょう
  18. ^ ダアット 「אנציקלופדיה יהודית」(ジューイッシュ・エンサイクロペディア) [18] の כמוש (ケモシュ)のこう [19] より。
  19. ^ 翻訳ほんやくもとであるヘブライばんウィキペディアではアシュタル・ケモシュ(ケモシュのふく合名ごうめい)は男性だんせいしんあつかいであるが(「アッタル」のヘブライばん項目こうもく参照さんしょう)、これをその配偶はいぐうしんである女性じょせいしんとする資料しりょうもある[18]岩波いわなみ翻訳ほんやく委員いいんかいやく 旧約きゅうやく聖書せいしょだい4かん 『ヨシュア 』 の239ぺーじにおけるメシャ碑文ひぶん解説かいせつでも、配偶はいぐうしんであるアシュタロト言及げんきゅうされている。メシャ碑文ひぶん参照さんしょう
  20. ^ The Center for Educational Technology סיפוריה הווירטואלית (ヴァーチャル図書館としょかん)/ כתובות ארכיאולוגיות מתקופת המקרא : כתובת מישע (聖書せいしょ考古学こうこがく:メシャ碑文ひぶん[20]
  21. ^ Mikraot Gedolot HaKeter (Bar Ilan University Press, 1992-)
  22. ^ Targum Pseudo-Jonathan to the Pentateuch: Text and Concordance (Ktav, 1984)
  23. ^ シュムエル・ベン・メイール 『פרשנות המקרא』(ミクラー注釈ちゅうしゃく) セフェル・シェモット 22:19 [21]
  24. ^ シュムエル・ベン・メイール 『פרשנות המקרא』 セフェル・バミドバル 21:2 [22]
  25. ^ Dillmann, Augustus (ed.). Veteris Testamenti Aethiopici Tomus Primus, sive Octateuchus Aethiopicus, 3 fasc., Leipzig, 1853–1855. [23]
  26. ^ ラザルス・ゴールドシュミットやく 『ספר חנוך』(エノクしょ) 6:1-6 [24] [25] Druck von Josef Fischer, Krakau u. Zahn & Baendel, Kirchhain 1892
  27. ^ タンフマ・バル・アバ 『מדרש תנחומא』(ミドラシュ・タンフマ) パラシャット・ヴァ・イェシェブ 38(37:2) [26]
  28. ^ ダアット 「אנציקלופדיה יהודית」 の כל נדרי (コル・ニドゥレー)のこう [27] より。
  29. ^ a b c d e f g h i j k l m 聖書せいしょ しん共同きょうどうやく:(c)共同きょうどうやく聖書せいしょ実行じっこう委員いいんかい Executive Committee of The Common Bible Translation (c)日本にっぽん聖書せいしょ協会きょうかい Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
  30. ^ 聖書せいしょ しん共同きょうどうやく』では、「まちとそのなかにあるものは、ことごとくほろぼしくしておもにささげよ。」[29]訳出やくしゅつされている(太字ふとじ箇所かしょ)。
  31. ^ 『ヤルクート・シムオニー』 ヨシュア 6:15 [28]
  32. ^ ミシュナー・マセヘット・オホロット 1:8 [29]
  33. ^ a b c ダアット 「אנציקלופדיה יהודית」の חרם (ヘーレム)のこう [30] より。
  34. ^ Strong's Concordance with Hebrew and Greek Lexicon 2764b [31]
  35. ^ Strong's Concordance with Hebrew and Greek Lexicon 2763b [32]
  36. ^ a b バブリー・マセヘット・モエッド・カタン 17:1 [33]
  37. ^ エリヤフ・トウゲルによる英訳えいやく [34]
  38. ^ ラムバム 『ミシュネー・トーラー』 ヒルホット・トエン・ヴェ・ニトゥアン 1:5 [35]
  39. ^ a b c d e f g ラムバム 『ミシュネー・トーラー』 ヒルホット・タルムード・トーラー 7 [36]
  40. ^ a b ラムバム 『ミシュネー・トーラー』 ヒルホット・タルムード・トーラー 6 [37]
  41. ^ エリヤフ・トウゲルによる英訳えいやく [38]
  42. ^ あなたは穀物こくもつあたらしいぶどうしゅオリおりブ油ぶゆなどのじゅうぶんいちけんじぶつうしひつじ初子はつね、あなたがちかいをてた満願まんがんけんじぶつ随意ずいいけんじぶつ収穫しゅうかくぶつ献納けんのうぶつなどを自分じぶんまちなかべてはならず、ただ、あなたのかみおも御前ごぜんで、あなたのかみあるじえらばれる場所ばしょで、息子むすこむすめ男女だんじょ奴隷どれいまちなかむレビじんともべ、おも御前ごぜんであなたのはたらきすべてをよろこいわいなさい。 -『さるいのち』 12:17-18[29]
  43. ^ おも人間にんげんいきはら隅々すみずみまでさぐる。 -『箴言しんげん』 20:27[29]
  44. ^ ハアレツ המלאכים, ולא החילונים, צריכים לפחוד מפולסא דנורא (使つかい、およびひじりつとむしゃはプルサ・ディヌラをおそれるべし) [39] より。
  45. ^ ミシュナー・マセヘット・エドゥヨット 5:6 [40] [41]
  46. ^ a b マセヘット・ババー・メツィアー 59b [42]
  47. ^ 「アフナイ」とは人名じんめい、もしくはアラム意味いみそくして「へびウロボロス)」であったと推定すいていされている。マセヘット・ババー・メツィアー 59b[46]冒頭ぼうとうに「アフナイとはなにか? ラブ・イェフダー[ちゅう 20]とシュムエルいわく、「へびのようにからいて不浄ふじょうにするもの」」とかれていることからアレゴリーともほぐされている。
  48. ^ それはてんにあるものではないから、「だれかがてんのぼり、わたしたちのためにそれをってかせてくれれば、それをおこなうことができるのだが」とうにはおよばない。 -『さるいのち』 30:12[29]
  49. ^ ミシュナー・マセヘット・タアニート 3:8 [43]
  50. ^ バブリー・マセヘット・タアニート 23a [44]
  51. ^ バブリー・マセヘット・ベラホット 19a [45]
  52. ^ アブラハム・イブン・ダウド 『ספר הקבלה לראב"ד』(ラバッドのべんしょうしょ) p.79 [46] オックスフォおっくすふぉド大学どだいがく出版しゅっぱんきょく(1888ねん)。
  53. ^ ケレン・アビ・ハイ 「לקסיקון לתרבות ישראל」の מורה הנבוכים (モレー・ハ・ネボヒーム)のこう [47] より。
  54. ^ ケレン・アビ・ハイ 「לקסיקון לתרבות ישראל」の ברוך שפינוזה (バルーフ・スピノザ)のこう [48] より。
  55. ^ ダアット 「אנציקלופדיה יהודית」の שפינוזה ברוך (スピノザ・バルーフ)のこう [49] より。
  56. ^ ynet(2003ねん12月13にち[50]
  57. ^ ynet(2005ねん12月15にち[51]
  58. ^ 『シュルハン・アルーフ』 オレァハ・ハイーム 58:1 [52]
  59. ^ 『シュルハン・アルーフ』 オレァハ・ハイーム 89:11 [53]
  60. ^ マアリブ(2007ねん9がつ10日とおか[54]
  61. ^ ダアット 「אנציקלופדיה יהודית」の עגונה (アグナー)のこう [55] より。
  62. ^ 長期ちょうき間夫まぶ所在しょざい生死せいしらされず寡のようになった女性じょせいのこと。ユダヤきょうではおっとぬかおっとから離縁りえんじょうされるかしないかぎり、つまおっとから自由じゆう立場たちばになれない[61]
  63. ^ ynet(2008ねん9がつ28にち[56]
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  66. ^ ラムバム 『ミシュネー・トーラー』 ヒルホット・ビクリーム・ヴェ・シュアル・マタノット・ケフナー・シェ・バ・ゲブリーン 1:3 [59]
  67. ^ イェシャヤフ・ヨセフ・ベレンフェルド להוראת עשרים וארבע מתנות כהונה (祭司さいしへの24種類しゅるい奉納ほうのうぶつ序列じょれつ[60] より。

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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  • Biblia Hebraica Stuttgartensia [62]
  • Mechon Mamre [63]
  • Maimonides' Mishneh Torah (Hebrew Original) [64]
  • Mishneh Torah (English) [65]
  • Jewish Encyclopedia 1901: Ban [66]
  • Jewish Encyclopedia 1901: Anathema [67]