(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ホンダ・R125 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ホンダ・R125

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

R125(アール125)は、かつて本田技研工業ほんだぎけんこうぎょう製作せいさくしたオートレースよう競走きょうそうしゃであり、日本にっぽんメーカーとしてはじめて日本にっぽん国外こくがいでのオートバイレース出場しゅつじょうした車両しゃりょうである。

製作せいさくまでの経緯けいい

[編集へんしゅう]

本田技研工業ほんだぎけんこうぎょうとしてのレース活動かつどうげん会社かいしゃ設立せつりつ以前いぜんから創業そうぎょうしゃ本田ほんだそう一郎いちろうによりおこなわれているが[1]、そのころ日本にっぽんでのレースはダート走路そうろ平面へいめんオーバルトラックおこなうことが一般いっぱんてき[注釈ちゅうしゃく 1]で、本田技研工業ほんだぎけんこうぎょう以下いかホンダ)となったころには市販しはんのオートバイを改造かいぞうした車両しゃりょうでレースに参加さんかしていたが、そのなかにはダートトラックおこなわれていたオートレース[注釈ちゅうしゃく 2]ふくまれておりそうせいにはオートバイを競走きょうそうしゃとして参加さんかさせていた[2]

1953ねんにオートレースの統括とうかつ団体だんたいである日本にっぽん小型こがた自動車じどうしゃ競走きょうそうかい連合れんごうかい[注釈ちゅうしゃく 3]以下いか競走きょうそうかい)から、ブラジルサンパウロおこなわれるオートバイレース[注釈ちゅうしゃく 4]への参加さんか依頼いらいがオートレースに参加さんかしているメーカーへとどき、サンパウロがわ日本にっぽんせい車両しゃりょうで4つのクラスに出場しゅつじょうする合計ごうけい10にんほどの選手せんしゅ招待しょうたい同伴どうはんしゃふく交通こうつう滞在たいざい負担ふたんする条件じょうけん提示ていじしていたことから、ホンダや目黒めぐろ製作所せいさくしょ以下いかメグロ)など5しゃ[注釈ちゅうしゃく 5]参加さんかすることになり、オートレース選手せんしゅによる選手せんしゅだん結成けっせいされホンダ社員しゃいん大村おおむら美樹みきゆうやメグロ所属しょぞく田代たしろ勝弘かつひろらがライダーとして発表はっぴょうされた[注釈ちゅうしゃく 6]

ところが、このはなし最初さいしょけた外務省がいむしょうから車両しゃりょう製造せいぞう管轄かんかつする通産省つうさんしょうおくられたあと放置ほうちされたため[5]競走きょうそうかいはなしったのは同年どうねん11月30にち[6]参加さんか締切しめきり直前ちょくぜんで、12月15にち[6]おくれて参加さんか連絡れんらくをしたため「すで定員ていいんまであつまりった」とサンパウロがわから返答へんとうされしまう。しかしさい交渉こうしょうにより参加さんかできるわく追加ついか確保かくほされたものの、招待しょうたい費用ひよう支給しきゅう交通こうつう1にんぶんだけとなった。これにたいし3しゃ参加さんか辞退じたいしたが、ホンダとメグロは費用ひよう不足ふそくぶん負担ふたんしてでも参加さんかする意思いししめ[1]、ホンダが125ccクラスに1だい、メグロが350ccクラスに1だい、サンパウロへ参戦さんせんさせることが決定けっていした。

ホンダは参戦さんせん決定けっていしてから現地げんち出発しゅっぱつするまで1ヶ月かげつほどのあいだしかなかったため、オートレースの競走きょうそうしゃ仕様しようとして製作せいさくしている車両しゃりょうさらなる改造かいぞう[7]くわえてレースにのぞむことをめた。こうして製作せいさくされた車両しゃりょうがR125である。

R125の原型げんけいは146ccのOHVエンジンを搭載とうさいした市販しはんしゃドリームEがた[注釈ちゅうしゃく 7]だが、 実際じっさい排気はいきりょうキャブレター装着そうちゃく位置いち変更へんこうしたEがたのエンジンを、ワンオフのパイプフレームに搭載とうさいしたダートトラックレーサー[8]で、さらにベンリイJがたリアシート燃料ねんりょうタンク流用りゅうようして製作せいさくされていた[7]

サンパウロ国際こくさいレース

[編集へんしゅう]

出発しゅっぱつにあたり、参加さんかするライダーはすで発表はっぴょうされたなかから大村おおむら田代たしろがそのままえらばれ、さらにホンダ社員しゃいん車体しゃたい設計せっけい担当たんとうしていた馬場ばば利次としつぐ[注釈ちゅうしゃく 8]がマネージャー兼務けんむ整備せいびとしてくわわり、この3にんが2だい参加さんか車両しゃりょう完全かんぜん分解ぶんかいした部品ぶひんって1954ねん1がつ13にち羽田空港はねだくうこう出発しゅっぱつし、6にちかかってサンパウロに到着とうちゃくした[1]

レースまでの1ヶ月かげつは、歓迎かんげいへの挨拶あいさつメーカへの視察しさつ多忙たぼう日々ひびごすなか本番ほんばんへの練習れんしゅうおこなっていた[10]が、このあいだメグロ・レックス改造かいぞうしゃ出場しゅつじょうする予定よていだった田代たしろ練習れんしゅう走行そうこう転倒てんとうしたさい左手ひだりて怪我けがして欠場けつじょうすることになり、大村おおむらだけがレースにのぞむことになった[11]

そして2がつ13にちインテルラゴス・サーキットおこなわれた125ccクラスのレース決勝けっしょうには22だい出場しゅつじょうした[12]大村おおむら日本にっぽんのダート走路そうろとインテルラゴスのような舗装ほそうされたサーキットとのちがいに戸惑とまどっていた[13]うえ、練習れんしゅう走行そうこう時点じてんでR125とヨーロッパから参戦さんせんしてきた世界せかい選手権せんしゅけんクラスDOHCエンジンを搭載とうさいしたレーサー[14]との性能せいのう痛感つうかんしていた。しかし出発しゅっぱつまえ本田ほんだそう一郎いちろうから「完走かんそうだけは」と激励げきれいされており、最後さいごまではしえることを目標もくひょうとしてレースにいどんだ[1]

レースは1しゅう8km(当時とうじ)のコースであらそわれ、ネッロ・パガーニイタリアモンディアル)が36ふん55びょう2のタイムで8しゅうし1でゴールする。この時点じてん大村おおむらのR125はトップから1しゅうはん以上いじょうはなされる大差たいさがついており[12]最後さいごまではしった18だいちゅうの13としてレースをえた[15]。だが日本にっぽんメーカーの車両しゃりょう国際こくさいレースではじめて完走かんそうたした[注釈ちゅうしゃく 9]こと自体じたい快挙かいきょとしてとらえられ、現地げんちからの連絡れんらくけた本田ほんだそう一郎いちろう関係かんけいしゃった[1]

そののR125

[編集へんしゅう]

レース欠場けつじょうした田代たしろぶん出場しゅつじょう賞金しょうきん支給しきゅうされず、帰国きこくにあたり旅費りょひ不足ふそくしたため現地げんち金策きんさく必要ひつよう状況じょうきょうせまられ、結局けっきょくR125をげてもらうことになり[1][注釈ちゅうしゃく 10]、3にん苦労くろうすえ3月3にち帰国きこくする。ホンダはR125がもたらした成果せいかひとつの契機けいきとして、3月15にちに『マンとうTTレース出場しゅつじょう宣言せんげんぶん』を発表はっぴょうしたが、社外しゃがいけにされた文面ぶんめんには大村おおむら馬場ばばりょうとR125の活躍かつやくにもれられていた。

2016ねん現在げんざいホンダコレクションホール展示てんじされているR125は、2000ねんにホンダのにより復刻ふっこくされた車両しゃりょうである[16]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 当時とうじはまだ舗装ほそうされたサーキットがなく、公道こうどうなどを使用しようしたレースもまれだった。
  2. ^ 1954ねん11月開設かいせつされた大井おおいオートレースじょうのぞきオートレースは昭和しょうわ30年代ねんだいまでダート走路そうろだった。
  3. ^ 現在げんざいJKA
  4. ^ 当時とうじレースめいは『サンパウロ市制しせい400ねん記念きねんさい国際こくさいオートレース』などとやくされていた。
  5. ^ 3しゃ新明和工業しんめいわこうぎょう(ポインター)・みづほ自動車じどうしゃ製作所せいさくしょ(キャブトン)・モナークモーター(モナーク)[3]
  6. ^ この時点じてんでは稲垣いながき国光くにみつ杉田すぎた和臣かずおみ田村たむら三夫みつお山中さんちゅう西方せいほう義治よしはるらもえらばれていた[4]
  7. ^ 1953ねん発売はつばいされたドリーム3Eがた。ただしギアは3Eがたの3そくではなくEがた・2Eがたからの2そく搭載とうさいされた。
  8. ^ のちにだい1ロードレース世界せかい選手権せんしゅけんおよびホンダF1にもかかわる[9]
  9. ^ 日本にっぽんのライダーとしては1930ねんマンとうTTレース現地げんち車両しゃりょう完走かんそうした多田ただ健蔵けんぞうぐ。
  10. ^ サンパウロがわが「参加さんか車両しゃりょう売却ばいきゃくできる」という条件じょうけんつたえていた[4]

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b c d e f 『 『かたぎたいこと』 チャレンジの50ねん 総集編そうしゅうへんおおいなるゆめ実現じつげん』 』- 世界一せかいいちへの挑戦ちょうせんじょう。『マンとうTTレース出場しゅつじょう宣言せんげん”. 本田技研工業ほんだぎけんこうぎょう. 2016ねん2がつ28にち閲覧えつらん
  2. ^ 定本ていほん 本田ほんだそう一郎いちろうでん』p.196
  3. ^ 定本ていほん 本田ほんだそう一郎いちろうでん』p.198.
  4. ^ a b 『モーターサイクリスト』1954ねん1がつごう p.65.
  5. ^ 『プロジェクトX 挑戦ちょうせんしゃたち 14』p.273
  6. ^ a b 日本にっぽんモーターサイクル』p.35
  7. ^ a b 本田ほんだそう一郎いちろうと「昭和しょうわおとこ」たち』pp.71-72.
  8. ^ 二輪車にりんしゃ産業さんぎょうグローバル軌跡きせき』pp.25-27.
  9. ^ 浜松はままつオートバイ物語ものがたり』 p.128.
  10. ^ 浜松はままつオートバイ物語ものがたり』 pp.130-131.
  11. ^ 定本ていほん 本田ほんだそう一郎いちろうでん』p.201
  12. ^ a b 草創そうそうホンダのオーラル・ヒストリー』pp.93-95.
  13. ^ 本田ほんだそう一郎いちろうと「昭和しょうわおとこ」たち』p.75,77.
  14. ^ 定本ていほん 本田ほんだそう一郎いちろうでん』p.200
  15. ^ 『Honda Motorcycle Racing Legend vol.3』pp.12-13
  16. ^ 『オートバイ・乗用車じょうようしゃ産業さんぎょう経営けいえい』p.190

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]