農学 のうがく (のうがく、英 えい : agricultural science 、または略称 りゃくしょう としてagriscience[ 1] )は、農業 のうぎょう ・林業 りんぎょう ・水産 すいさん 業 ぎょう ・畜産 ちくさん 業 ぎょう などに関 かか わる、応用 おうよう 的 てき な学問 がくもん 。農産物 のうさんぶつ の栽培 さいばい ・育種 いくしゅ 、生産 せいさん 技術 ぎじゅつ の向上 こうじょう 、生産 せいさん 物 ぶつ の加工 かこう 技術 ぎじゅつ などや、生産 せいさん に関 かか わる社会 しゃかい 的 てき な原理 げんり 、環境 かんきょう の保全 ほぜん など、第 だい 一 いち 次 じ 産業 さんぎょう に関 かか わる幅広 はばひろ い事柄 ことがら を研究 けんきゅう し、産業 さんぎょう の改良 かいりょう と発展 はってん を目指 めざ す。広義 こうぎ の自然 しぜん 科学 かがく に属 ぞく し、化学 かがく 、生物 せいぶつ 学 がく 、地学 ちがく などを基礎 きそ とするが、社会 しゃかい 科学 かがく も基盤 きばん の一部 いちぶ を成 な す。
ドイツでは三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう による国土 こくど の荒廃 こうはい からの回復 かいふく 後 ご 、人口 じんこう と食糧 しょくりょう 需要 じゅよう の増加 ぞうか から18世紀 せいき 末 まつ に農業 のうぎょう の技術 ぎじゅつ 的 てき ・社会 しゃかい 経済 けいざい 的 てき 改革 かいかく 運動 うんどう が盛 も り上 あ がりをみせた[ 2] 。
1727年 ねん 、ウィルヘルム1世 せい (Friedrich Wilhelm I)によってハレ大学 だいがく とフランクフルト大学 だいがく に初 はじ めて農業 のうぎょう と官房 かんぼう 学 がく (Kameralwissenschaft)の講座 こうざ が設立 せつりつ され、同 どう 世紀 せいき 末 まつ までに多 おお くの大学 だいがく でもこのような講座 こうざ が開 ひら かれた[ 2] 。
ゲッティンゲン大学 だいがく 官房 かんぼう 学 がく 講座 こうざ 教授 きょうじゅ のベックマン(J.Beckmann)は、1769年 ねん に『ドイツ農業 のうぎょう 原理 げんり (Grundsatzeder deutschen Landwirtschaft)』を著 あらわ し、農学 のうがく 体系 たいけい を一般 いっぱん 農学 のうがく (Allgemeine Theil)と特殊 とくしゅ 農学 のうがく (Besondere Theil)に分 わ け、特殊 とくしゅ 農学 のうがく に耕 たがやせ 種 しゅ 、養 やしなえ 畜、施肥 せひ 、一般 いっぱん 農学 のうがく に農場 のうじょう 、農業 のうぎょう 物 ぶつ と雇人 やといにん を分類 ぶんるい した[ 2] 。ベックマンの二 に 分割 ぶんかつ の農業 のうぎょう 体系 たいけい は、その後 ご の農学 のうがく 者 しゃ に決定的 けっていてき な影響 えいきょう を与 あた えたが、ベックマンの著書 ちょしょ では一般 いっぱん 農学 のうがく は僅 わず かに述 の べているのみで農学 のうがく を官房 かんぼう 学 がく から自立 じりつ させるのに成功 せいこう するには至 いた らなかった[ 2] 。
ドイツにおける近代 きんだい 農学 のうがく の祖 そ はテーヤ(A.D. Thaer)とされており、農学 のうがく を官房 かんぼう 学 がく の体系 たいけい から切 き り離 はな して自立 じりつ 的 てき 学問 がくもん として科学 かがく 的 てき に体系 たいけい 化 か した[ 2] 。テーヤは主著 しゅちょ 『合理 ごうり 的 てき 農業 のうぎょう の原理 げんり 』の最初 さいしょ の基礎 きそ 論 ろん で、農業 のうぎょう は動植物 どうしょくぶつ 体 たい の生産 せいさん (またそれらの加工 かこう )によって収益 しゅうえき (Gewinn)をあげることを目的 もくてき とする一 ひと つの営業 えいぎょう で、完全 かんぜん な農業 のうぎょう とは出来 でき るだけ高 たか く持続 じぞく 的 てき な収益 しゅうえき を諸 しょ 事情 じじょう に応 おう じて、その経営 けいえい から引 ひ き出 だ す農業 のうぎょう であると「合理 ごうり 的 てき 農業 のうぎょう の概念 がいねん 規定 きてい 」を示 しめ した[ 2] 。テーヤにより、農業 のうぎょう 経営 けいえい は家父 かふ 学 がく (Lehre von der Haushaltungskunst)の課題 かだい として扱 あつか われるにすぎなかった段階 だんかい から、営業 えいぎょう (Gewerb)として問 と われる段階 だんかい に発展 はってん した[ 2] 。ただし、テーヤの経済 けいざい 論 ろん の大半 たいはん は地力 じりき 維持 いじ 論 ろん (フムス説 せつ )を根幹 こんかん としており、組織 そしき ・管理 かんり 論 ろん について経営 けいえい 管理 かんり 能力 のうりょく を向上 こうじょう させるための農業 のうぎょう 教育 きょういく の必要 ひつよう 性 せい を指摘 してき しているが、具体 ぐたい 的 てき にはほとんど展開 てんかい されていないという指摘 してき がある[ 2] 。
19世紀 せいき のドイツでは農学 のうがく が一 ひと つの体系 たいけい を有 ゆう する学問 がくもん として成立 せいりつ しうると考 かんが えられるようになったが、テーヤの農学 のうがく は農芸 のうげい 化学 かがく 者 しゃ が台頭 たいとう した19世紀 せいき 中葉 ちゅうよう の一時期 いちじき 影響 えいきょう 力 りょく が薄 うす れた[ 2] 。
農学 のうがく 史 し の通説 つうせつ ではテーヤ農学 のうがく の批判 ひはん の急先鋒 きゅうせんぽう をリービッヒ (Liebich)としている[ 2] 。ヨーロッパで進展 しんてん した自然 しぜん 科学 かがく が農学 のうがく の進展 しんてん に与 あた えた影響 えいきょう は大 おお きく、その一 ひと つにリービッヒが植物 しょくぶつ の生長 せいちょう に、炭酸 たんさん ガス、水 みず 、窒素 ちっそ 、リン 、カリ が重要 じゅうよう であることを発見 はっけん したことも挙 あ げられている[ 3] 。一方 いっぽう でリービッヒは自然 しぜん 科学 かがく 的 てき 合理 ごうり 性 せい を無視 むし した掠奪 りゃくだつ 耕 こう (地力 じりき 収奪 しゅうだつ 耕 こう )こそが、国家 こっか の物質 ぶっしつ 的 てき ・政治 せいじ 的 てき ・精神 せいしん 的 てき 基盤 きばん を弱体 じゃくたい 化 か させるもので、人類 じんるい の存亡 そんぼう にかかわる回避 かいひ すべき問題 もんだい とみていた[ 2] 。また、当時 とうじ 最 もっと も合理 ごうり 的 てき と考 かんが えられていた輪栽 りんさい 式 しき 農法 のうほう もリービッヒは掠奪 りゃくだつ 耕 こう にあたると考 かんが えており、地力 じりき の均衡 きんこう が農学 のうがく において大 おお きな議論 ぎろん となった[ 2] 。
リービッヒの農学 のうがく 思想 しそう は自然 しぜん 科学 かがく 的 てき 認識 にんしき の正 ただ しさと好景気 こうけいき を背景 はいけい に受 う け入 い れられる向 む きもあったが、徐々 じょじょ に批判 ひはん も出 で 始 はじ めて大 だい 不況 ふきょう 期 き に入 はい ると批判 ひはん が決定的 けっていてき となって急速 きゅうそく に忘 わす れ去 さ られ、以後 いご は単 たん に化学 かがく 者 しゃ として位置 いち づけられるようになった[ 2] 。
その後 ご 、カント哲学 てつがく の影響 えいきょう を強 つよ く受 う けたシュルツェ(F.G. Schultze)がドイツ農学 のうがく の主流 しゅりゅう 派 は でテーヤにつぐ第一人者 だいいちにんしゃ と評 ひょう されるようになった[ 2] 。十 じゅう 九 きゅう 世紀 せいき 前半 ぜんはん からドイツ各地 かくち に農業 のうぎょう アカデミーが開校 かいこう したが、イェーナ大学 だいがく の正 せい 教授 きょうじゅ になっていたシュルツェは1826年 ねん にイェーナに農 のう 学校 がっこう を創設 そうせつ した[ 2] 。イェーナの農 のう 学校 がっこう は他 た の農 のう 学校 がっこう とは異 こと なり、大学 だいがく と有機 ゆうき 的 てき に強 つよ い結 むす びつきをもち、その後 ご のドイツの農業 のうぎょう 教育 きょういく 制度 せいど に決定的 けっていてき 影響 えいきょう を及 およ ぼした[ 2] 。
イギリスはヨーロッパ で最 もっと も農 のう 書 しょ が著 あらわ された国 くに とされ、18世紀 せいき から19世紀 せいき の農業 のうぎょう 革命 かくめい 期 き にイングランドで技術 ぎじゅつ 的 てき 側面 そくめん の普及 ふきゅう のために農 のう 書 しょ が必要 ひつよう とされていたことによる[ 4] 。農業 のうぎょう 革命 かくめい による変化 へんか は、休閑 きゅうかん の廃止 はいし 、飼料 しりょう 作物 さくもつ の導入 どうにゅう 、農作物 のうさくもつ の組合 くみあわ せによる地力 じりき 維持 いじ 、家畜 かちく の舎 しゃ 飼との結合 けつごう による穀 こく 草 くさ 式 しき 農法 のうほう 、輪栽 りんさい 式 しき 農法 のうほう などであり、中世 ちゅうせい における穀物 こくもつ の生産 せいさん 力 りょく が播種 はしゅ 量 りょう の4倍 ばい だったが、18世紀 せいき には10倍 ばい に飛躍 ひやく 的 てき に増加 ぞうか した[ 4] 。農作業 のうさぎょう の機械 きかい 化 か はそれより遅 おそ く、19世紀 せいき の収穫 しゅうかく 作業 さぎょう の機械 きかい 化 か に始 はじ まり、機械 きかい 化 か が進 すす んだのは20世紀 せいき 初頭 しょとう のことであった[ 4] 。
農業 のうぎょう 革命 かくめい には新 しん 農法 のうほう の導入 どうにゅう による土地 とち 生産 せいさん 性 せい の向上 こうじょう と、新 しん 農法 のうほう を受 う け入 い れる農村 のうそん 社会 しゃかい の確立 かくりつ の2つが基本 きほん 的 てき 要素 ようそ になっているが、農 のう 書 しょ は新 しん 農法 のうほう を普及 ふきゅう させるための媒体 ばいたい となった[ 4] 。
イングランドの農 のう 書 しょ の歴史 れきし は、13世紀 せいき 後半 こうはん にウォルター・オブ・ヘンリー(Walter of Henley)が著 あらわ した『農業 のうぎょう 論 ろん 』に始 はじ まるといわれており、中世 ちゅうせい の農業 のうぎょう 生産 せいさん 技術 ぎじゅつ の一端 いったん を知 し ることができる[ 4] 。
17世紀 せいき 中頃 なかごろ には第 だい 1次 じ の囲 かこ い込 こ み が行 おこな われ、その個人 こじん 有 ゆう 地 ち で穀 こく 草 くさ 式 しき 農法 のうほう が普及 ふきゅう しつつあったが、1652年 ねん にはブライス(W. Blith)がクローバー などの作付 さくづ けを奨励 しょうれい する『イングランドの進歩 しんぽ 的 てき 改良 かいりょう 者 しゃ 』を著 あらわ している[ 4] 。
18世紀 せいき に入 はい り、タル(Tull)が『馬 うま 耨農法 ほう 』を著 あらわ し、休閑 きゅうかん 無用 むよう 説 せつ と飼料 しりょう 用 よう カブの中耕 ちゅうこう 除草 じょそう を説 と き、輪栽 りんさい 式 しき 農法 のうほう の時代 じだい が始 はじ まったといわれているが、中耕 ちゅうこう 除草 じょそう 機 き は土 ど 性 せい により使用 しよう することができなかったため普及 ふきゅう せず、農作業 のうさぎょう の機械 きかい 化 か は19世紀 せいき 後半 こうはん まで待 ま たねばならなかった[ 4] 。
18世紀 せいき 後半 こうはん から19世紀 せいき 前半 ぜんはん にかけて輪栽 りんさい 式 しき 農法 のうほう が主 おも にイングランド東部 とうぶ で普及 ふきゅう したが、その提唱 ていしょう 者 しゃ の一人 ひとり がアーサー・ヤングであり、資本 しほん 主義 しゅぎ 的 てき 農業 のうぎょう 経営 けいえい の萌芽 ほうが がみられる[ 4] 。
19世紀 せいき 、室内 しつない での科学 かがく 実験 じっけん からのアプローチが農業 のうぎょう で信頼 しんらい できるものになるには、圃場 ほじょう における検証 けんしょう 実験 じっけん の方法 ほうほう 論 ろん が確立 かくりつ される必要 ひつよう があった[ 3] 。ドイツのリービッヒのもとに留学 りゅうがく したことのあるイギリス人 じん のギルバート(Gilbert,J. H.)は、ロザムステッド農事 のうじ 試験場 しけんじょう で実験 じっけん を行 おこな い、植物 しょくぶつ が大気 たいき 中 ちゅう から窒素 ちっそ を獲得 かくとく しているというリービッヒの説 せつ に反駁 はんばく して窒素肥料 ちっそひりょう の効果 こうか を実証 じっしょう した[ 3] 。
イギリス人 じん のギルバート(Gilbert,J. H.)の実証 じっしょう 実験 じっけん やダラム大学 だいがく のジョンストン(Johnston,J. F. W.)による試験 しけん の厳密 げんみつ 性 せい や反復 はんぷく の必要 ひつよう 性 せい の主張 しゅちょう から、近代 きんだい 農学 のうがく では科学 かがく 実験 じっけん の知見 ちけん を圃場 ほじょう での観察 かんさつ を通 つう じて検証 けんしょう するスタイルが確立 かくりつ した[ 3] 。
アメリカでは南北戦争 なんぼくせんそう 後 のち に国有 こくゆう 地 ち を付与 ふよ された大学 だいがく が設置 せっち されたが、農学部 のうがくぶ が関心 かんしん を持 も たれるようになったのは、1880年代 ねんだい に農学部 のうがくぶ に農事 のうじ 試験場 しけんじょう が整備 せいび され研究 けんきゅう 成果 せいか が蓄積 ちくせき するようになってからである[ 3] 。
1890年代 ねんだい には農学部 のうがくぶ が積極 せっきょく 的 てき に構外 こうがい 教育 きょういく 活動 かつどう を行 おこな う農業 のうぎょう 拡張 かくちょう 事業 じぎょう を行 おこな うようになり、大学 だいがく に通 かよ うことのできない大 だい 多数 たすう の農民 のうみん に知的 ちてき 資源 しげん を提供 ていきょう する場 ば になった[ 3] 。
18世紀 せいき 後半 こうはん には農業 のうぎょう 改良 かいりょう に関心 かんしん を持 も つ人々 ひとびと が集 あつ まって議論 ぎろん することが盛 さか んになっており、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の独立 どくりつ 後 ご 、これらは各地 かくち の農事 のうじ 協会 きょうかい に発展 はってん した[ 3] 。
農学 のうがく 界 かい ではイギリスのギルバート(Gilbert,J. H.)やジョンストン(Johnston,J. F. W.) のもとで学 まな んだ留学生 りゅうがくせい が研究 けんきゅう を進 すす め、特 とく にノートン(Norton,J. P.)やポーター(Porter,J. A)が所属 しょぞく するイェール大学 だいがく は土壌 どじょう 分析 ぶんせき など農芸 のうげい 化学 かがく で知 し られるようになった[ 3] 。
1853年 ねん にドイツに渡 わた ったジョンソン(Johnson,s.w.)は、帰国 きこく 後 ご に化学 かがく 肥料 ひりょう の研究 けんきゅう のかたわら農事 のうじ 試験場 しけんじょう の設立 せつりつ 運動 うんどう に取 と り組 く み、1870年代 ねんだい 後半 こうはん にはコネチカット州 しゅう やニューヨーク州 しゅう などに独自 どくじ の農事 のうじ 試験場 しけんじょう が設置 せっち された[ 3] 。
19世紀 せいき 末 まつ から20世紀 せいき 初頭 しょとう にかけての農事 のうじ 試験場 しけんじょう では、化学 かがく を中心 ちゅうしん に分析 ぶんせき 法 ほう に関 かん する研究 けんきゅう が進展 しんてん し、土壌 どじょう 、肥料 ひりょう 、植物 しょくぶつ 、食糧 しょくりょう 、および飼料 しりょう など農学 のうがく の専門 せんもん 分野 ぶんや のそれぞれに応用 おうよう され、学問 がくもん の進展 しんてん が加速 かそく 化 か した[ 3] 。
中国 ちゅうごく の農 のう 書 しょ の歴史 れきし は紀元前 きげんぜん 3世紀 せいき に著 あらわ された『呂 りょ 氏 し 春秋 しゅんじゅう 』が最初 さいしょ とされている[ 4] 。『呂 りょ 氏 し 春秋 しゅんじゅう 』は呂 りょ 不 ふ 韋 が抱 かか える知識 ちしき 集団 しゅうだん によって編纂 へんさん され、十 じゅう 二 に 紀 き 、八 はち 覧 らん 、六 ろく 論 ろん の26部 ぶ で構成 こうせい されており、六 ろく 論 ろん 中 ちゅう の「士 し 容 よう 論 ろん 」第 だい 三 さん 編 へん の「上 うえ 農 みのり 」では農業 のうぎょう 政策 せいさく 、第 だい 四 よん 編 へん の「任地 にんち 」では土地 とち 利用 りよう の原則 げんそく 、第 だい 五 ご 編 へん の「弁士 べんし 」では土地 とち 改良 かいりょう の原則 げんそく 、第 だい 六 ろく 編 へん の「審 しん 時 じ 」では適時 てきじ 作業 さぎょう の原則 げんそく について述 の べられている[ 4] 。
紀元前 きげんぜん 1世紀 せいき には『氾勝之 これ 書 しょ 』が著 あらわ されたが現存 げんそん しておらず、後代 こうだい の農 のう 書 しょ にある引用 いんよう から、耕作 こうさく の原則 げんそく 、十 じゅう 数 すう 種 しゅ の農作物 のうさくもつ の耕作 こうさく 法 ほう 、種子 しゅし の選別 せんべつ 法 ほう と保存 ほぞん 法 ほう が記 しる されていたとみられる[ 4] 。
その後 ご 、後 こう 漢 かん の崔 ちぇ 寔 まこと が歳時記 さいじき 型 がた の農 のう 書 しょ である『四民 しみん 月 がつ 令 れい 』を著 あらわ した[ 4] 。
540年 ねん 頃 ごろ には賈思勰 の『斉 ひとし 民 みん 要 よう 術 じゅつ 』全 ぜん 9巻 かん が刊行 かんこう され、内容 ないよう は『呂 りょ 氏 し 春秋 しゅんじゅう 』の農 のう 本 ほん 思想 しそう を受 う け継 つ ぎ、第 だい 6巻 かん までは『氾勝之 これ 書 しょ 』の形式 けいしき で各 かく 農産物 のうさんぶつ ごとに乾 ひ 地 ち 農法 のうほう の技術 ぎじゅつ を述 の べ、第 だい 7巻 かん からはは『四民 しみん 月 がつ 令 れい 』に近 ちか い内容 ないよう の生活 せいかつ の技術 ぎじゅつ を述 の べている[ 4] 。
元 もと 代 だい には中国 ちゅうごく 最古 さいこ の官 かん 撰 せん 農 のう 書 しょ 『農 のう 桑 くわ 輯要 』が編纂 へんさん された[ 4] 。1313年 ねん には王 おう 禎 ただし の『農 のう 書 しょ 』が著 あらわ され、総論 そうろん の「農 のう 桑 くわ 通 どおり 訣」、各論 かくろん の「百 ひゃく 穀 こく 譜 ふ 」、農具 のうぐ を図解 ずかい した「農 のう 器 き 図譜 ずふ 」からなるが、記述 きじゅつ の5分 ぶん の4は農 のう 器 き 図譜 ずふ で300を超 こ える農具 のうぐ を収録 しゅうろく している[ 4] 。
明代 あきよ 末 まつ には徐 じょ 光 ひかり 啓 けい によって『農政 のうせい 全書 ぜんしょ 』が著 あらわ され(刊行 かんこう は1639年 ねん )、屯田 とんでん 開墾 かいこん ,、大 だい 規模 きぼ な水利 すいり 土木 どぼく ,、備荒 びこう に重点 じゅうてん を置 お いている[ 4] 。
清 しん 代 だい には官 かん 撰 せん 農 のう 書 しょ の『授時通 どおり 考 こう 』が編纂 へんさん された[ 4] 。
日本 にっぽん 初 はつ の農 のう 学校 がっこう 、札幌 さっぽろ 農 のう 学校 がっこう (1876年 ねん 設立 せつりつ 、現在 げんざい の北海道大学 ほっかいどうだいがく )
明治維新 めいじいしん 後 ご 、明治 めいじ 政府 せいふ は西洋 せいよう の科学 かがく 的 てき な農業 のうぎょう 技術 ぎじゅつ や知識 ちしき の導入 どうにゅう によって農業 のうぎょう 生産 せいさん の拡大 かくだい を図 はか る方針 ほうしん をとった[ 5] 。また、明治 めいじ 政府 せいふ の最 さい 重要 じゅうよう 課題 かだい は富国強兵 ふこくきょうへい と殖産 しょくさん 興業 こうぎょう であり、生糸 きいと や茶 ちゃ など主要 しゅよう 輸出 ゆしゅつ 品 ひん の勧 すすむ 農政 のうせい 策 さく が重視 じゅうし された[ 6] 。
1869年 ねん (明治 めいじ 2年 ねん )4月 がつ に民 みん 部 ぶ 官 かん が設置 せっち されると、5月には民 みん 部 ぶ 官 かん に開墾 かいこん 局 きょく が置 お かれた[ 5] 。しかし、7月 がつ に民 みん 部 ぶ 官 かん は廃止 はいし されて民 みん 部 ぶ 省 しょう が設置 せっち され、1870年 ねん (明治 めいじ 3年 ねん )9月 がつ に勧 すすむ 農 のう 局 きょく が設置 せっち され、開墾 かいこん 、種 たね 芸 げい 、養蚕 ようさん 、編集 へんしゅう 、雑務 ざつむ の5課 か が配置 はいち された(勧 すすむ 農 のう 局 きょく は12月に開墾 かいこん 局 きょく となり、翌 よく 1871年 ねん 4月 がつ に勧業 かんぎょう 局 きょく となった)[ 5] 。さらに1871年 ねん (明治 めいじ 4年 ねん )7月 がつ 、民 みん 部 ぶ 省 しょう は廃止 はいし され、大蔵省 おおくらしょう 勧業 かんぎょう 司 し に引 ひ き継 つ がれたが、大蔵 おおくら 卿 きょう に就任 しゅうにん した大久保 おおくぼ 利通 としみち により改革 かいかく が行 おこな われ、8月 がつ に勧業 かんぎょう 寮 りょう さらに勧 すすむ 農 のう 寮 りょう に改 あらた められた[ 5] 。
1871年 ねん 11月に派遣 はけん された岩倉 いわくら 使節 しせつ 団 だん (大久保 おおくぼ は副使 ふくし )の帰国 きこく 後 ご 、日本 にっぽん では内藤 ないとう 新宿 しんじゅく 試験場 しけんじょう (現在 げんざい の新宿 しんじゅく 御苑 ぎょえん )や三田 みた 育種 いくしゅ 場 じょう の設置 せっち 、札幌 さっぽろ 農 のう 学校 がっこう や駒場 こまば 農 みのり 学校 がっこう の設立 せつりつ 、外国 がいこく 人 じん 教師 きょうし の招聘 しょうへい などに取 と り組 く んだ[ 6] 。
1872年 ねん (明治 めいじ 5年 ねん )10月 がつ 、大蔵省 おおくらしょう では勧 すすむ 農 のう 寮 りょう が廃止 はいし され、租税 そぜい 寮 りょう に勧 すすむ 農 のう 課 か を置 お くとともに、同月 どうげつ に内藤 ないとう 新宿 しんじゅく 試験場 しけんじょう の設置 せっち が決定 けってい した[ 5] 。民 みん 部 ぶ 省 しょう や大蔵省 おおくらしょう は東京 とうきょう 府 ふ 下 した の数箇所 すうかしょ に西洋 せいよう 農具 のうぐ 置場 おきば 、植物 しょくぶつ 試 ためし 栽場、牧畜 ぼくちく 試験場 しけんじょう を設置 せっち していたが、いずれも小規模 しょうきぼ で穀 こく 菜 さい 果樹 かじゅ の配布 はいふ や各種 かくしゅ 試験 しけん 、模範 もはん 事業 じぎょう を行 おこな うには不 ふ 適当 てきとう だった[ 5] 。そこで内藤 ないとう 家 か 所有 しょゆう の9万 まん 5千 せん 坪 つぼ を9千 せん 5百 ひゃく 円 えん で買収 ばいしゅう し、その隣接 りんせつ 地 ち も次々 つぎつぎ に買収 ばいしゅう して最終 さいしゅう 的 てき に19万 まん 余 よ 坪 つぼ を買収 ばいしゅう した[ 5] 。
内藤 ないとう 新宿 しんじゅく 試験場 しけんじょう の拡大 かくだい の過程 かてい で、1874年 ねん (明治 めいじ 7年 ねん )7月 がつ に三田 みた 四国 しこく 町 まち の旧 きゅう 島津 しまづ 邸 てい の4万 まん 坪 つぼ の土地 とち を買収 ばいしゅう して内藤 ないとう 新宿 しんじゅく 勧業 かんぎょう 寮 りょう 出張所 しゅっちょうしょ 附属 ふぞく 試験 しけん 地 ち とした(後 ご の三田 みた 育種 いくしゅ 場 じょう )[ 5] 。新 あら たな土地 とち の購入 こうにゅう の背景 はいけい には内藤 ないとう 新宿 しんじゅく 試験場 しけんじょう の地味 じみ が良好 りょうこう でなかったためなどの理由 りゆう があったとされる[ 5] 。この三田 みた 育種 いくしゅ 場 じょう の整備 せいび により、1879年 ねん (明治 めいじ 12年 ねん )5月 がつ に内藤 ないとう 新宿 しんじゅく 試験場 しけんじょう は廃止 はいし された[ 5] 。
明治 めいじ 政府 せいふ は国防 こくぼう 上 じょう の理由 りゆう から1869年 ねん (明治 めいじ 2年 ねん )7月 がつ に蝦夷 えぞ 地 ち (当時 とうじ )に開拓 かいたく 使 し を設置 せっち した[ 7] 。外国 がいこく 人 じん の雇用 こよう などの必要 ひつよう 性 せい を説 と いていた開拓 かいたく 使 し の次官 じかん の黒田 くろだ 清隆 きよたか は、1871年 ねん (明治 めいじ 4年 ねん )1月 がつ に留学生 りゅうがくせい とともに渡米 とべい し、駐米 ちゅうべい 少 しょう 弁務 べんむ 使 し の森 もり 有礼 ありのり の協力 きょうりょく を得 え て、第 だい 18代 だい 大統領 だいとうりょう ユリシーズ・S・グラントの配慮 はいりょ でホーレス・ケプロン など推薦 すいせん された外国 がいこく 人 じん を連 つ れて帰国 きこく した[ 7] 。
1872年 ねん (明治 めいじ 5年 ねん )1月 がつ 、黒田 くろだ は明治 めいじ 政府 せいふ に開拓 かいたく 使 し 仮 かり 学校 がっこう の計画 けいかく を上申 じょうしん した[ 7] 。校長 こうちょう には荒井 あらい 郁 いく 之 これ 助 すけ があてられ、同年 どうねん 3月 がつ 10日 とおか に生徒 せいと 募集 ぼしゅう の通達 つうたつ が出 だ された[ 7] 。「開拓 かいたく 使 し 仮 かり 学校 がっこう 規則 きそく 」の第 だい 1条 じょう によると、学校 がっこう は札幌 さっぽろ に設置 せっち するが、それまで東京 とうきょう に仮 かり 学校 がっこう を設置 せっち することとし、東京 とうきょう の芝 しば 増上寺 ぞうじょうじ 本 ほん 坊 ぼう に開設 かいせつ されることになった[ 7] 。
「開拓 かいたく 使 し 仮 かり 学校 がっこう 規則 きそく 」第 だい 15条 じょう の受講 じゅこう 科目 かもく では、学科 がっか を普通 ふつう 2科 か と専門 せんもん 4科 か に分 わ け、「普通 ふつう 学 がく 」の1では英語 えいご 学 がく 、漢学 かんがく 、算数 さんすう 、手 て 習、日本 にっぽん 地理 ちり 、歴史 れきし 等 とう の一般 いっぱん 教養 きょうよう 、「普通 ふつう 学 がく 」の2では舎 しゃ 密 みつ 学 がく 、器械 きかい 学 がく 、測量 そくりょう 学 がく 、本草学 ほんぞうがく 、鉱山 こうざん 学 がく 、農学 のうがく 等 とう の科目 かもく が配列 はいれつ された[ 7] 。また、「専門 せんもん 学 がく 」は、第 だい 1が舎 しゃ 密 みつ 学 がく 、器械 きかい 学 がく 、画 が 学 がく 、第 だい 2が鉱山 こうざん 学 がく 、地質 ちしつ 学 がく 、画 が 学 がく 、第 だい 3が建築 けんちく 学 がく 、測量 そくりょう 学 がく 、画 が 学 がく 、第 だい 4が舎 しゃ 密 みつ 学 がく 、本草 ほんぞう 及 およ び禽獣 きんじゅう 学 がく 、農学 のうがく 、画 が 学 がく で、一部 いちぶ は「普通 ふつう 学 がく 」の2との連携 れんけい が重視 じゅうし されていた[ 7] 。また、農学 のうがく は専門 せんもん 学 がく の第 だい 4に配置 はいち されており、必 かなら ずしも比重 ひじゅう が高 たか かったわけではない[ 7] 。
1875年 ねん (明治 めいじ 8年 ねん )8月 がつ 、開拓 かいたく 使 し 仮 かり 学校 がっこう は予定 よてい 通 どお り札幌 さっぽろ に移転 いてん したが、その際 さい の名称 めいしょう は「札幌 さっぽろ 農 のう 学校 がっこう 」ではなく「札幌 さっぽろ 学校 がっこう 」で最初 さいしょ から「農 のう 学校 がっこう 」としなかった理由 りゆう は不明 ふめい である[ 7] 。1876年 ねん (明治 めいじ 9年 ねん )8月 がつ 、札幌 さっぽろ 学校 がっこう は札幌 さっぽろ 農 のう 学校 がっこう に改称 かいしょう し、ウィリアム・スミス・クラーク が教頭 きょうとう に着任 ちゃくにん した(実質 じっしつ 的 てき な校長 こうちょう 職 しょく で、名目 めいもく 上 じょう の校長 こうちょう は調 しらべ 所 しょ 広 こう 丈 たけ )[ 7] [ 8] 。
札幌 さっぽろ 農 のう 学校 がっこう は日本 にっぽん で最初 さいしょ の高等 こうとう 農業 のうぎょう 教育 きょういく 機関 きかん であった[ 8] 。ただし、札幌 さっぽろ 農 のう 学校 がっこう は駒場 こまば 農 みのり 学校 がっこう と同様 どうよう に「農学 のうがく 」の看板 かんばん を掲 かか げたが、駒場 こまば 農 みのり 学校 がっこう とは異 こと なり「農学 のうがく とは異質 いしつ とも思 おも われる領域 りょういき 」もカリキュラムには含 ふく まれていた[ 7] 。札幌 さっぽろ 農 のう 学校 がっこう の卒業生 そつぎょうせい には、佐藤 さとう 昌 あきら 介 かい (農学 のうがく 博士 はかせ )、新渡戸 にとべ 稲造 いなぞう (農学 のうがく 博士 はかせ ・法学 ほうがく 博士 はかせ )、南 みなみ 鷹 たか 次郎 じろう (農学 のうがく 博士 はかせ )、広井 ひろい 勇 いさむ (工学 こうがく 博士 はかせ )、宮部 みやべ 金吾 きんご (理学 りがく 博士 はかせ )、渡瀬 わたせ 庄三郎 しょうざぶろう (理学 りがく 博士 はかせ )、高岡 たかおか 熊 くま 雄 ゆう (法学 ほうがく 博士 はかせ ・農学 のうがく 博士 はかせ )らがいる[ 7] 。
1870年代 ねんだい 、北海道 ほっかいどう の開拓 かいたく 使 し が招聘 しょうへい したアメリカ人 じん 教師 きょうし とは別 べつ に、開校 かいこう 予定 よてい の農事 のうじ 修学 しゅうがく 場 じょう に農学 のうがく 教師 きょうし として招聘 しょうへい されたイギリス人 じん 教師 きょうし たちがいた[ 9] 。新 あたら しい農 のう 学校 がっこう の開設 かいせつ を担当 たんとう したのは内務省 ないむしょう 勧業 かんぎょう 寮内 りょうない 藤 ふじ 新宿 しんじゅく 出張所 しゅっちょうしょ 内 ない の農学 のうがく 掛 かけ (まもなく第 だい 6課 か に改称 かいしょう )で、課長 かちょう は田中 たなか 芳男 よしお が務 つと めており、1875年 ねん 12月に内務 ないむ 卿 きょう の大久保 おおくぼ 利通 としみち に農 のう 学校 がっこう 設立 せつりつ の必要 ひつよう 性 せい を述 の べた『農 のう 学校 がっこう 設立 せつりつ 生徒 せいと 教育 きょういく 教師 きょうし 僦用順序 じゅんじょ 之 の 儀 ぎ 伺』を提出 ていしゅつ した[ 9] 。
この伺が裁可 さいか され、1876年 ねん 2月 がつ 、勧業 かんぎょう 寮 りょう 第 だい 6課 か の富田 とみた 禎 ただし 次郎 じろう が渡 わたり 英 すぐる し、王立 おうりつ サイレンセスター農 のう 学校 がっこう (Royal Agricultural in Cirencester)の教官 きょうかん やその関係 かんけい 者 しゃ である農芸 のうげい 化学 かがく (無機 むき ・有機 ゆうき 化学 かがく )担当 たんとう のキンチ、獣医 じゅうい 学 がく (解剖 かいぼう 学 がく ・家畜 かちく 内 ない 外科 げか )担当 たんとう のマックブライト、試 ためし 業 ぎょう 科 か 教師 きょうし のベグビー、予 よ 科 か 教師 きょうし のコックス、農学 のうがく (農学 のうがく 諸 しょ 科 か ・農場 のうじょう 実践 じっせん )担当 たんとう のカスタンスの5人 にん が来日 らいにち した[ 9] 。このうちベグビーが途中 とちゅう で不祥事 ふしょうじ により解任 かいにん されたほかは、契約 けいやく 期間 きかん の3年 ねん 以上 いじょう 勤務 きんむ して帰国 きこく している[ 9] 。
最 もっと も長 なが く日本 にっぽん に滞在 たいざい したのはキンチで、任期 にんき をさらに2年 ねん 延長 えんちょう し、王立 おうりつ サイレンセスター農 のう 学校 がっこう の化学 かがく 教授 きょうじゅ に招 まね かれたため急遽 きゅうきょ 4年 ねん 半 はん で帰国 きこく したが、横井 よこい 時敬 ときよし や恩田 おんだ 鉄弥 てつや などの教 おし え子 ご が渡 わたり 英時 ひでとき にキンチを訪 たず ねており慕 した われていた[ 9] 。しかし、イギリス人 じん 教師 きょうし の評価 ひょうか は芳 かんば しくなく、特 とく に農学 のうがく 教師 きょうし のカスタンスの講義 こうぎ は不評 ふひょう で、受講 じゅこう していた玉利 たまり 喜造 きぞう や酒匂 さこ 常明 つねあき などは英国 えいこく の大 だい 規模 きぼ な農業 のうぎょう をそのまま教 おし えていると苦言 くげん を述 の べている[ 9] 。この時期 じき は秩禄処分 しょぶん (1876年 ねん )などにより明治 めいじ 政府 せいふ は旧 きゅう 士族 しぞく の授産 じゅさん 問題 もんだい を抱 かか えており、駒場 こまんば では東北 とうほく 地方 ちほう などの内地 ないち に旧 きゅう 士族 しぞく を送 おく ってイギリスの大 だい 規模 きぼ 農法 のうほう を導入 どうにゅう したい意図 いと があったため、日本 にっぽん の事情 じじょう の説明 せつめい を受 う けていたカスタンスらも母国 ぼこく の畑作 はたさく 農法 のうほう の伝導 でんどう に努 つと めたことが背景 はいけい にあるといわれている[ 9] 。また、コックスの講義 こうぎ を受 う けた新渡戸 にとべ 稲造 いなぞう も、旧式 きゅうしき の文章 ぶんしょう 構成 こうせい 法 ほう に忠実 ちゅうじつ なだけの文法 ぶんぽう 講師 こうし にすぎず、あまり尊敬 そんけい できないと評 ひょう している[ 10] 。
1878年 ねん (明治 めいじ 11)年 ねん 、農事 のうじ 修学 しゅうがく 場 じょう は駒場 こまば 農 みのり 学校 がっこう に改称 かいしょう された[ 9] 。
イギリス人 じん 教師 きょうし の後任 こうにん として、ドイツから1881年 ねん にオスカル・ケルネル 、1882年 ねん にマックス・フェスカ が来日 らいにち した[ 9] 。ケルネルは日本 にっぽん の農芸 のうげい 化学 かがく の基礎 きそ を築 きず き、フェスカは『日本 にっぽん 地産 ちさん 要覧 ようらん 図 ず 』や『日本 にっぽん 地産 ちさん 論 ろん 』などの名著 めいちょ を残 のこ した[ 9] 。
紀元前 きげんぜん 3世紀 せいき - 中国 ちゅうごく で『呂 りょ 氏 し 春秋 しゅんじゅう 』が編纂 へんさん される[ 4] 。
紀元前 きげんぜん 1世紀 せいき - 中国 ちゅうごく で『氾勝之 これ 書 しょ 』が著 あらわ される[ 4] 。
540年 ねん 頃 ごろ - 中国 ちゅうごく で賈思勰 の『斉 ひとし 民 みん 要 よう 術 じゅつ 』が刊行 かんこう される[ 4] 。
1313年 ねん - 中国 ちゅうごく で王 おう 禎 ただし の『農 のう 書 しょ 』が著 しる れる[ 4] 。
1639年 ねん - 中国 ちゅうごく で『農政 のうせい 全書 ぜんしょ 』刊行 かんこう [ 6] 。
1697年 ねん - 宮崎 みやざき 安貞 やすさだ 『農業 のうぎょう 全書 ぜんしょ 』[ 6]
1727年 ねん - ウィルヘルム1世 せい (Friedrich Wilhelm I)がハレ大学 だいがく とフランクフルト大学 だいがく に初 はじ めて農業 のうぎょう と官房 かんぼう 学 がく (Kameralwissenschaft)の講座 こうざ を設立 せつりつ [ 2] 。
1769年 ねん - ベックマン(J.Beckmann)『ドイツ農業 のうぎょう 原理 げんり (Grundsatzeder deutschen Landwirtschaft)』[ 2]
1815年 ねん - テーヤ(A.D. Thaer)『農業 のうぎょう 営業 えいぎょう 学 がく 汎論 はんろん 入門 にゅうもん (Leitfadenzur allgemeinen landwirtschaftlichen Gewerbslehre)』[ 2]
1853年 ねん - フルベック(F.X. W. Hlubeck)『農学 のうがく 全書 ぜんしょ (DieLandwirtschaftslehre in ihrem ganzen Umfang)』[ 6]
1876年 ねん - 津田 つだ 仙 せん が学 がく 農 のう 社 しゃ を設立 せつりつ [ 6] 。
1898年 ねん - 新渡戸 にとべ 稲造 いなぞう が『農業 のうぎょう 本論 ほんろん 』『農業 のうぎょう 発達 はったつ 史 し 』を発表 はっぴょう [ 6] 。
日本 にっぽん 農 のう 学会 がっかい の資料 しりょう [ 11] 文部 もんぶ 科学 かがく 省 しょう 学科 がっか 系統 けいとう 分類 ぶんるい 表 ひょう /農学 のうがく [ 12] などをもとに分類 ぶんるい した。
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