境川さかいがわ (浦安うらやす)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
境川さかいがわ
水系すいけい 一級いっきゅう水系すいけい 利根川とねがわ
種別しゅべつ 一級いっきゅう河川かせん
延長えんちょう 4.752 km
平均へいきん流量りゅうりょう -- m³/s
流域りゅういき面積めんせき 4.1 km²
水源すいげん 旧江戸川きゅうえどがわ千葉ちばけん浦安うらやす
水源すいげん標高ひょうこう 0 m
河口かこう合流ごうりゅうさき 東京とうきょうわん千葉ちばけん浦安うらやす
流域りゅういき 千葉ちばけん浦安うらやす
テンプレートを表示ひょうじ
名所めいしょ江戸えどひゃくけい堀江ほりえねこざね」。境川さかいがわはさんで猫実ねこざねむら堀江ほりえむらえがかれている(げん浦安うらやす)。

境川さかいがわ(さかいがわ)は、千葉ちばけん浦安うらやすなが東京とうきょうわんそそ一級いっきゅう河川かせん利根川とねがわ水系すいけい旧江戸川きゅうえどがわ分流ぶんりゅうである。

左岸さがん猫実ねこざね(ねこざね)むら右岸うがん堀江ほりえむら(ともにげん浦安うらやす)の境界きょうかいをなすことからづけられた。江戸川えどがわ真水まみずながれることから、井戸水いどみず塩分えんぶんふくまれるこの地域ちいきでは唯一ゆいいつ飲料いんりょうすいとして、また、漁港ぎょこうとして、りょうきし集落しゅうらく立地りっちする要因よういんとなった。

歴史れきし[編集へんしゅう]

現在げんざい浦安うらやす面積めんせき16.98平方へいほうキロのうちやく74パーセントが海面かいめんうめてでできた土地とちであり、オフィスビル、ホテル、工場こうじょう、ショッピングセンター、高層こうそう住宅じゅうたくなどが次々つぎつぎ整備せいびされる。JR新浦安しんうらやすえき周辺しゅうへん都市とし景観けいかん100せんえらばれるなど、まち全体ぜんたいのデザインが評価ひょうかされている。

浦安うらやす旧江戸川きゅうえどがわ河口かこう低湿ていしつで、いつごろからひと定住ていじゅうし、集落しゅうらく形成けいせいされたのかについて、伝承でんしょうでは平安へいあん時代じだい末期まっきとも鎌倉かまくら時代ときよともいわれている。実際じっさい歴史れきし桃山ももやま時代じだい徳川とくがわ家康いえやす江戸えど入府にゅうふさい浦安うらやす堀江ほりえ猫実ねこざね当代島とうだいじまの3むら行徳ぎょうとくりょうとして徳川とくがわ直轄ちょっかつとなる。徳川とくがわ家康いえやす江戸えど居城きょじょうをかまえるとおおくの漁民ぎょみん紀州きしゅうからうつむ。まえには手付てつかずの江戸えどわんひろがっており、記録きろくによるとマグロやときにはくじらまで回遊かいゆう。そこで、漁師りょうしたちはもう使つかったりょうおこない、天日てんじつ乾燥かんそうさせて大阪おおさかおくらしをはじめたとされている。堀江ほりえ猫実ねこざね集落しゅうらくそと新田しんでんひろげる一方いっぽう漁業ぎょぎょうさかんになった江戸えど時代じだいつうじて、浦安うらやす半農半漁はんのうはんぎょむらとして基盤きばんきずいていく。そうしたりょう生計せいけいてる生活せいかつ昭和しょうわ30年代ねんだいまでつづいた。

だい世界せかい大戦たいせん昭和しょうわ30年代ねんだい後半こうはんまでの浦安うらやすは、境川さかいがわふね圦川の川岸かわぎしせんすうひゃくせき漁船ぎょせんがつらね、川岸かわぎし漁村ぎょそん集落しゅうらく立地りっちする漁師りょうしまち。その漁民ぎょみんたちがうみわれることになった原因げんいんは、河川かせん流出りゅうしゅつした工場こうじょう廃液はいえきである。とくに1958ねん昭和しょうわ33ねん)にきた本州ほんしゅう製紙せいし事件じけんで、漁民ぎょみん収入しゅうにゅう半分はんぶん以下いかむ。苛性かせいソーダをふくくろになった廃液はいえき江戸川えどがわながされるようになって、たった2ヶ月かげつ浦安うらやす近海きんかいうみになってしまったという。このときの漁民ぎょみん蜂起ほうき全国ぜんこく沿岸えんがん漁民ぎょみん連帯れんたいをうみ、日本にっぽんはじめての環境かんきょう保護ほごほうである水質すいしつ汚濁おだく防止ぼうしほう成立せいりつさせ、世界せかいもっときびしいドイツの排出はいしゅつガス基準きじゅんわせた清掃せいそう工場こうじょう建設けんせつしているといった、自然しぜん環境かんきょう破壊はかいするものとのいくつものたたかいの歴史れきし今日きょう環境かんきょう負荷ふかすくない浦安うらやすかたちづくっているのである。

猫実ねこざね堀江ほりえさかいにある境川さかいがわ当代島とうだいじまふね圦川の川岸かわぎし中心ちゅうしん形成けいせいされるふるくからの市街地しがいち周辺しゅうへんひろがる水田すいでんは、地盤じばん沈下ちんかのため自然しぜん排水はいすい困難こんなんとなり、これに対処たいしょするため、1964ねん昭和しょうわ39ねん)より、土地とち改良かいりょう事業じぎょう開始かいししている。

昭和しょうわ30年代ねんだいまではアサリやハマグリりょう海苔のり養殖ようしょくなどで隆盛りゅうせいほこったしおこうただよ漁師りょうしまちで、市内しない北西ほくせいから南東なんとうながれるかわもかつて漁港ぎょこう指定していけ、最盛さいせいにはせんすうひゃくせきもの大小だいしょうさまざまな漁船ぎょせん基地きちとなり、生活せいかつ用水ようすい消防しょうぼう用水ようすい利用りようされ、どもたちのあそでもあってまち発展はってんささえてきた重要じゅうようかわとなる。

橋梁きょうりょう[編集へんしゅう]

下流かりゅうより記載きさい

概要がいよう[編集へんしゅう]

現在げんざい境川さかいがわそう延長えんちょうやく4.8キロメートルでひがし水門すいもんから明海あけみ高洲たかす地区ちくかわロまでやく3.3キロメートルがうめてにともなってびており、この部分ぶぶん川幅かわはばやく50メートルにひろがっている。

境川さかいがわ平行へいこうしてびている堀江ほりえ地区ちくのフラワーどおりは、芝居しばい小屋こや寄席よせがあり、このあたりで一番いちばん繁華はんかがいだったところで、周辺しゅうへんには寺社じしゃ数多かずおおく、貴重きちょう民家みんかむかしながらの銭湯せんとう駄菓子だがし現在げんざい点在てんざいしている。

今川いまがわきょう付近ふきんでは、毎年まいとしゴールデンウィークにかく家庭かてい使つかわなくなったこいのぼりがげられている。これは市民しみん団体だんたい境川さかいがわにこいのぼりをおよがせるかい」にせられたものを企業きぎょう協力きょうりょくし、まち発展はってんふかかかわってきたかわしたしみ、あたらしいまち地域ちいききずなふかめるたのしいイベントもひらかれている。

市民しみん発案はつあんで「境川さかいがわまつり」というのもはじまり、それまでは江戸川えどがわでやっていたカヌー大会たいかい境川さかいがわでやるようになったりしている。

2002ねん平成へいせい14ねん)に土木どぼく学会がっかいデザインしょう優秀ゆうしゅうしょう受賞じゅしょうした江川えがわきょうより下流かりゅう水辺みずべ空間くうかんごと整備せいび事業じぎょうけん共同きょうどう事業じぎょうで、河川かせん事業じぎょう主体しゅたい千葉ちばけんまちなみの整備せいび浦安うらやすという分担ぶんたん自治体じちたいにより境川さかいがわ水辺みずべ空間くうかん事業じぎょうすすめられ、りょうきしにテラスやベンチのある遊歩道ゆうほどう整備せいびされ、境川さかいがわあたらしい魅力みりょくまれつつある。山本やまもと周五郎しゅうごろうの『あおべか物語ものがたり』の舞台ぶたいちかくでもあり、プロジェクトはそのすこ下流かりゅうがわにあたる。

最初さいしょ検討けんとう部会ぶかいがもたれたのが1990ねん平成へいせい2ねん)、竣工しゅんこうは1996ねん平成へいせい8ねん)。1989ねん平成へいせい元年がんねん)から3ねんにかけてデザイン検討けんとう委員いいんかい組織そしき会合かいごう開催かいさいしている。当時とうじ境川さかいがわのふちにはコンクリートせいのパラペットがもうけられまちかわとを分断ぶんだん。それを、かわまち関係かんけいをもっとしたしいものにし、一体化いったいかさせて市民しみんうるおゆたかな環境かんきょう提供ていきょうするとともに、まち活性かっせいさせること、まち水辺みずべをとりもどすため、パラペット除去じょきょ実行じっこうしている。

事業じぎょう自体じたい治水ちすい事業じぎょうとして開始かいしされており、こうした河川かせん整備せいび通常つうじょう行政ぎょうせい河川かせん担当たんとうしゃ河川かせんせんもん建設けんせつコンサルタント委託いたくし、コンサルタントの技術ぎじゅつしゃ設計せっけいするが、境川さかいがわ場合ばあい河川かせんせんもん技術ぎじゅつしゃにではない人物じんぶつ担当たんとうしている。また護岸ごがん矢板やいた工法こうほうということが決定けっていされていたが、しょ条件じょうけん折合おりあいをつけながら、当初とうしょ見解けんかいどおりにまち水辺みずべちかづける形式けいしきにした。設計せっけいしゃにかなりの自由じゆうあたえられており、設計せっけいすすめていくにあたり、委員いいんかい検討けんとう部会ぶかいあん提示ていじ議論ぎろんをして決定けっていしている。

また、河川かせん景観けいかん整備せいび一般いっぱんてき石積いしつみにする場合ばあいおおいが、当該とうがい治水ちすい優先ゆうせんするために矢板やいた工法こうほう指定していされ、荷重かじゅう関係かんけい石組いしぐみにすることができなく、仕様しよう材料ざいりょうかぎられてきているためレンガということになったという。ただし日本にっぽん国内こくないにはレンガ護岸ごがん水路すいろというのは当時とうじでもれいおおくなかったことで、抵抗ていこうかんもあったという。 しかしながら委員いいんかい検討けんとう部会ぶかいといった組織そしき非常ひじょうにうまく機能きのうし、事業じぎょう主体しゅたい自治体じちたい委員いいんかいめたことであることで了解りょうかいされたという。

照明しょうめい転落てんらく防止ぼうししがらみなどをもせんもんにデザインされ、しがらみにはレンガとのバランスを考慮こうりょし、スマートな鋳鉄ちゅうてつ採用さいようしている。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]