佐渡金山(さどきんざん)、または佐渡金銀山(さどきんぎんざん)は、新潟県の佐渡島にある金鉱山・銀鉱山の総称[1]である。なかでも相川金銀山(あいかわきんぎんざん)の規模が特に大きく、単に「佐渡金山」という場合、相川のものを指す場合もある。このほか「佐渡鉱山」または「相川鉱山」の名称も用いられる。
本項では佐渡島における金銀山の概説、ならびに相川金銀山について記す。
1.
西三川 2.
鶴子 3.
新穂 4.
相川いずれも
大まかな
位置
佐渡島には下表に示す4つの主要な金銀山を含む多くの鉱山が存在が確認されている[1]。なかでも相川は規模が大きく、国の史跡や重要文化財に指定、または重要文化的景観に選定されている遺跡や景観が多く残っていることもあり(詳細は#文化財を参照)、現在では佐渡における観光の拠点ともなっている。
佐渡島内鉱石は主に銀黒(ぎんぐろ)と呼ばれる石英中に輝銀鉱および自然金の微粒子が脈状に存在するものであった。
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天正17年(1589年)に上杉謙信の跡を継いだ上杉景勝により本間氏が滅ぼされ佐渡は上杉領となる。
相川金銀山は16世紀末に開発が始まったと考えられており[2]、戦国時代には相川の金脈は未発見であった。そのため戦国大名の上杉謙信がかかわった記録はない(鶴子銀山は既に採掘されていた)。小説『武田信玄』において新田次郎は佐渡金山が上杉謙信の財源であったと描写し、「記録が無いのは秘密にしたからである」としているが、戦国時代の佐渡は本間氏の領国であり上杉氏は領有しておらず、その意味からも上杉謙信が佐渡金山を保有していたということはありえない。ただ、『今昔物語集』の巻26・第15話に「能登の国の鉄を掘る者、佐渡の国に行きて金を掘る語」という段があり伝聞の収録という形ながら佐渡で金が採れるという点に言及されている。今昔物語集の成立年代と推定される11世紀後半には少なくとも砂金等の形で佐渡で金が産出することは知られていたようである。
慶長6年(1601年)徳川家康の所領となる。同年、北山(ほくさん)(金北山)で金脈が発見されて以来、江戸時代を通して江戸幕府の重要な財源となった。特に17世紀前半に多く産出された[1]。
江戸時代における最盛期は江戸時代初期の元和から寛永年間にかけてであり、金が1年間に400 kg以上算出されたと推定され[1]、銀は1年間に1万貫(37.5 トン)幕府に納められたとの記録がある[1]。当時としては世界最大級[3]の金山であり、産銀についても日本有数のものであり江戸幕府による慶長金銀の材料を供給する重要な鉱山であった。なかでも相川鉱山は、江戸幕府が直轄地として経営し、大量の金銀を産出した佐渡鉱山の中心であった。産出し製錬された筋金(すじきん/すじがね)および灰吹銀は幕府に上納され、これを金座および銀座が預かり貨幣に鋳造した。また特に銀は生糸などの輸入代価として中国などに大量に輸出され、佐渡産出の灰吹銀はセダ銀とも呼ばれた。
しかし江戸中期以降佐渡鉱山は衰退していった[4]。1690年には佐渡奉行を兼任していた荻原重秀が計15万両の資金を鉱山に投入する積極策を取って復興を図り、その結果一時的に増産に転じたが、結局その後は衰微の一途を辿り、以降江戸時代中に往年の繁栄が戻ることはなかった[5]。
江戸時代後期の1770年頃からは江戸や大阪などの無宿人(浮浪者)が強制連行されてきて過酷な労働を強いられたが、これは見せしめの意味合いが強かったと言われる。無宿人は主に水替人足の補充に充てられたが[5]、これは海抜下に坑道を伸ばしたため、大量の湧き水で開発がままならなくなっていたためである。
水替人足の労働は極めて過酷で、「佐渡の金山この世の地獄、登る梯子はみな剣」と謳われた。江戸の無宿者はこの佐渡御用を何より恐れたといわれる。水替人足の収容する小屋は銀山間の山奥の谷間にあり、外界との交通は遮断され、逃走を防いでいた。小屋場では差配人や小屋頭などが監督を行い、その残忍さは牢獄以上で、期限はなく死ぬまで重労働が課せられた。[6]
明治初期から官営(当初は工部省の所管。農商務省、大蔵省を経て1889年から宮内省御料局の所管[5])となるが、江戸時代中期以降の産出量の衰退に対応するため、明治政府は1869年(明治2年)に西洋人技術者を鉱山に送り、火薬採掘や削岩機、揚水機といった西洋の近代的技術の導入を開始した。これにより産出量が再び増加に転じはじめた[5][4]。1877年(明治10年)には洋式技術による選鉱場と、日本金属鉱山で史上初となる洋式竪坑や大立竪坑が完成した[4]。
1885年(明治18年)政府は金本位制に基づく近代貨幣制度へ移行するため、佐渡鉱山のさらなる増産を目指すようになり高任立坑の開削、ドイツの新技術の導入による北沢浮遊選鉱場の建設、大間港の整備などを続々と行っていった。また鉱山技術の国産化を進める目的で1890年(明治23年)には鉱山学校が開校し、日本の鉱業教育に重要な画期となった[4]。
1896年(明治29年)皇室財産だった佐渡鉱山は兵庫県の生野鉱山などと一緒に三菱合資会社(1918年に三菱鉱業株式会社に改名。現三菱マテリアル)に払下げとなった。三菱は動力の電化など佐渡鉱山の機械化を推し進めた。その結果、明治後期の頃には鉱山の産金量は年間400kgを超え、江戸時代における最盛期だった17世紀前半並みの産出量に戻っている[4]。その後も産出量は増えていき、特に1931年の柳条湖事件後に中国大陸での戦火が拡大したことで大量の軍需品輸入の代金決済手段として金の需要が増加したことで佐渡鉱山でも金増産体制が強化され[7]、1940年(昭和15年)には佐渡金銀山の歴史上最高となる年間約1,500 kgの金と約25トンの銀を生産している[1]。
鉱山労働者の管理は当初三菱鉱業から労働者雇い入れや管理を任されている部屋頭による「部屋制度」(納屋制度)で運営されており、この制度は佐渡鉱山の労働力供給に大きな力を発揮していたが、部屋頭による中間搾取も多かったため、労働者の権利意識の高まりの中で1899年(明治32年)以来労働争議がしばしば発生するようになり、特に1922年(大正11年)5月には650名の鉱山労働者が参加する大規模労働争議が発生した。そのため三菱鉱業は1926年1月に労働係を新設して労務管理を強めて部屋制から直営制度へと経営方針を転換し労働者の不満を緩和する処置をとった[7]。また1904年には23床の入院施設を持つ病院(鉱山病院)を設置し(1934年の改築で病床数32床に増加した)、鉱山関係者の軽費診断所として利用された[7]。
第二次世界大戦中には代金決算手段としての金の価値は薄れ、むしろ戦争に重要な資源である銅、鉄、亜鉛、石炭の増産・確保が重視されるようになり、佐渡鉱山でも銅の採掘が増える一方、金の採掘は減少した。また戦時中には朝鮮人労働者が大量に動員された(詳しくは後述)[7]。戦時中も佐渡鉱山は大きな成果を上げ続け、1943年8月には椎名悦三郎商工省次官が鉱山労働者の激励のため佐渡を訪問している。同年10月には商工、厚生両大臣から表彰も受けた。これを祝って佐渡鉱業所は全従業員及び地元相川町民に対する感謝慰安で同月30日夜に協和会館で万才に浪曲の演芸会を開催している[7]。
戦後の1952年(昭和27年)に三菱は佐渡鉱山の大規模な縮小を決定した。1976年(昭和51年)には佐渡鉱山部門が佐渡鉱山株式会社として独立して細々と採掘が続けられていたが、最終的には1989年(平成元年)に休山となった[1][5]。1989年の休山までに佐渡鉱山が算出した金は78トン、銀は2,300トンに及ぶ[4]。
現在は三菱マテリアルの100%子会社である株式会社ゴールデン佐渡が運営しており「史跡佐渡金山」として一般公開されるとともに「世界遺産」への登録を目指している[4]。
相川金銀山の沿革[編集]
重要文化財[編集]
- 旧佐渡鉱山採鉱施設 3基4棟1所[11]
- 大立竪坑櫓(おおだてたてこうやぐら)1基
- 大立竪坑捲揚機室(- まきあげきしつ)1棟
- 道遊坑及び高任坑(どうゆうこうおよびたかとうこう)1所
- 高任粗砕場(たかとうそさいば)1棟
- 高任貯鉱舎及びベルトコンベアヤード 1棟
- 電車車庫(機械工場)1棟
- 間ノ山上橋(まのやまかみばし)1基
- 間ノ山下橋 1基
国の史跡「佐渡金銀山遺跡」に指定されているのは、「道遊の割戸」(どうゆうのわりと)、「宗大夫間歩」(そうだゆうまぶ)、南沢疏水、大立竪坑櫓、間ノ山搗鉱場(あいのやまとうこうば)などの採鉱関係の遺構・遺跡、佐渡奉行所跡、旧時報鐘楼、旧御料局佐渡支庁庁舎などの経営関係遺跡、また、佐渡鉱山の開発に功のあった佐渡奉行大久保長安の建てた大安寺である。2011年(平成23年)には鶴子(つるし)銀山跡を追加して「佐渡金銀山遺跡」の名称に変更された。
重要文化的景観[編集]
- 『今昔物語集』に記され12世紀より砂金採取が行われていた佐渡最古の金山跡で、農山村へ移行する過程が見られる。
- 江戸時代の採掘中心地で佐渡奉行所が置かれた相川地区と、明治の近代化以降に中核となった北沢地区の施設(大間港含む)と京町通りの景観。
相川金銀山の
主要な
観光施設・スポット
1.
史跡 佐渡金山 入口2.
北沢浮遊選鉱場3.
大間港跡4.
京町通り(1.から
海沿いまで
続く
散策コースに
接続する)
5.
佐渡奉行所6.きらりうむ
佐渡
4つの主要鉱山のうち観光整備が進んでいるのは相川金銀山であり、他の3鉱山については西三川砂金山に体験施設「佐渡西三川ゴールドパーク」が設けられているほかは目立った集客施設は整備されていない。
以下、相川金銀山における観光について述べる。
史跡 佐渡金山[編集]
坑道の総延長は実に約400 kmに及ぶが、そのうち約300 mが株式会社ゴールデン佐渡により観光ルートとして有料公開されている。近世に関する展示、近代以降に関する展示があり、コースが分かれている。入館時間や料金など詳細は#外部リンクの「史跡 佐渡金山」を参照。
- 宗太夫坑(江戸金山絵巻コース)
- 手掘り坑道内に、採掘風景を再現した人形が70体あまり設置されている。
- 展示資料館
- 道遊坑(明治官営鉱山コース)
- トロッコなど近代以降の設備が展示されている。
- 道遊の割戸(どうゆうのわれと)
- ガイド付ツアー
- 上記2つの観光ルートで公開されていない坑道を巡る。
近代鉱山施設[編集]
相川鉱山では近代の施設遺構が多く残っており、各種案内においては5つの地区に区分されている(詳細は[1]のpp.20-21の図及び#外部リンクの佐渡市世界遺産推進課によるマップを参照)。
山の上から下に向かい作業工程が設定されており、採掘場所の大立・高任地区から、鉱石選別のための高任・間ノ山地区、選鉱や精錬のため間ノ山・北沢地区を経て、生産品を積み出す大間港まで、約3 kmにわたる生産ラインとなっていたため[14]、遺構もこれに沿って分布する。
明治半ばに生産品の積出や物資の搬入用の港として築港され、人造石護岸や鉱車の橋梁、煉瓦倉庫など現在も遺構が多く残る[15]。北沢地区と同様、2010年(平成22年)に広場が整備された[16]。
-
大間港の
トロッコ遺構群。
トラス橋やローダー
橋脚、クレーン
台座など。
鉱山町の景観[編集]
#重要文化的景観にも選定された町並みが周辺一帯に続いている。なかでも「京町通り」と呼ばれるメインストリート沿いに古くからの建物が並んでおり、周辺一帯地域には散策コースが設定されている。
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京町通り
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京町通り
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京町通り
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2019年4月に情報発信の拠点施設として県道45号佐渡一周線沿いに映像シアターや各種展示、観光案内所などを備えたガイダンス施設「きらりうむ佐渡」がオープンした[13][17]。
また、国史跡「御料局佐渡支庁」の建物を活用して1956年に開館し、佐渡金銀山や相川地区の歴史民俗資料を収蔵する「相川郷土博物館」が北沢地区にある(ただし今後、廃止が予定されている[18]。
このほか、「佐渡奉行所」の復元建物が公開されている。
- 鉱山祭り(7月末頃)
- 無宿人供養祭(4月第3日曜日)
世界遺産登録への動き[編集]
2007年(平成19年)に文化庁が世界遺産候補地を公募した際に「金と銀の島、佐渡-鉱山とその文化-」として立候補、選考を経て2010年10月に「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」としてユネスコ世界遺産センターの暫定リストに掲載された。2016年より毎年文化庁に推薦書原案を提出し続け、2021年(令和3年)に文化審議会世界文化遺産部会が2023年の第46回世界遺産委員会での審査候補に選定し、2022年2月1日に日本政府がユネスコに推薦書を提出した[19]。
なお、構成資産候補は江戸時代までに開発された鉱山関連史跡のみで、 北沢浮遊選鉱場や大立竪坑、大間港など明治時代以降に整備された近代化産業遺産は含まれない[20]。
2022年2月20日の共同通信の世論調査によれば日本政府の「佐渡島の金山」の世界文化遺産への推薦決定について「適切だった」とする回答が73%に達した。特に地元の新潟県を含む甲信越では94%に上った。支持政党別の回答では自民党支持層の78.5%、日本維新の会支持層の84.6%、国民民主党支持層の75.9%が「適切」と回答しており高かったが、日本共産党支持層は28%と最も低かった[21]。
韓国政府は佐渡金山について「韓国人の強制労働の被害現場」と主張し、申請に強く反対している[22]。2月12日の韓国の鄭義溶と日本の林芳正の外相会談で林は「韓国側の独自の主張は受け入れられず、遺憾である」と韓国側に伝達した[23]。その後尹錫悦政権に代わった2023年には、尹徳敏駐日大使は日本の新聞のインタビューで「韓国は日本の文化遺産登録自体に反対していない」「日本政府が2015年にユネスコで約束した通り、歴史的な事実をそのまま記述することを望むということだ」と発言した[24]。
北朝鮮政府は「過酷な労働に倒れた朝鮮人民に対する耐えがたい冒涜」「日本の名誉は過去の侵略や犯罪を誠実に反省し謝罪することにある」「佐渡島の金山は絶対に世界文化遺産になり得ない」として日本の対応を批判した[25]。
中華人民共和国政府は「隣国の苦痛の記憶を無視して新たな登録を試みるのは、さらなる怒りと反発を招くだけだ」「日本は歴史を直視して反省し、誠実で責任ある態度と実際の行動で歴史上の問題を適切に処理し、アジアの隣国と国際社会から信頼を得なければならない」として日本の対応を批判した[26]。
ロシア政府は「我々は韓国側の反応を理解する」「日本は第2次世界大戦期間中、日本の指導者たちが犯した犯罪行為を人類の記憶から消すために、韓国をはじめとした様々な国を相手に持続的な措置をとっているものとみている」として日本の対応を批判した[27]。当時ロシアは世界遺産委員会21か国の委員国(任期2019年–2023年)の一つだったため懸念されていたが[28]、2022年のロシアのウクライナ侵攻を受けて同年ロシアで開催される予定だった委員会が無期限に延期され、その間にロシアが任期途中で委員国を辞したため佐渡金山登録に向けて前進したと報じられている[29]。
日本共産党は「太平洋戦争末期に佐渡金山で朝鮮人の強制労働が行われたことは、新潟県史や地元自治体の町史に記述された否定できない事実」「政府・自民党の中には、江戸時代に限った推薦であり、戦時中の朝鮮人の労働と無関係との主張があるが通用しないい分」「戦時の朝鮮人強制労働の事実を認めるべき」として日本の対応を批判した[30]。
戦時中の朝鮮人の労働[編集]
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日中戦争が激化する中の1939年7月に日本政府は朝鮮人男性を日本国内の鉱山、炭坑、土木の三分野に限定して労働者として動員することを決定した。当初は各企業による「募集」の形式を取っていたが、1942年7月から「労務協会斡旋」に変更され、1944年9月から「徴用」によった[7]。
佐渡金山を経営する三菱鉱業株式会社(現三菱マテリアル株式会社)佐渡鉱業所も当初は忠清南道で募集をかけている。当時朝鮮南部は大干害で疲弊しており生活難に陥った農民が大量に発生していたので募集に応じる者は多かった。2年か3年の契約であることが多かったので1942年代に契約期間が切れる者が出始めたが、三菱鉱業の佐渡鉱業所では継続就労手続修了者に適当時期に個人表彰状や相当の奨励金を授与することで就労継続を促進した。しかし、実際には佐渡鉱業所の方針は、一部就業不能者を別とすれば「兎モ角全員継続就労ノ事」とすることで、この頃には実態が強制労働になっていったのではないかとみる見解もある[7]。実際に1943年に佐渡金山行きを強要された朝鮮忠清南道の男性から「佐渡に行く1年前から面(地方行政単位)の関係者と募集担当者が『一家から1人は行かなければならないという命令がある』と話して回っていた」「逃げ出したかったが、逃げて捕まった人がボコボコに殴られるのを見てあきらめた」といった証言がある[31]。1944年12月18日からは佐渡鉱業所は軍需省から「管理工場」に指定され「現員徴用令書」が伝達され朝鮮人労働者に対する強制度が高まった[7]。鉱山で労務係を務めた男性の手記(1974年)の中には、朝鮮人労働者に関し、「なぐるける。はたでは見ていられない暴力」や「弾圧による稼働と食事に対する不満」といった苛酷な状態の中にあったことを示す記述もあり、「彼らにすれば強制労働をしいられ、1年の募集が数年に延長され、半ば自暴自棄になっていた事は疑う余地のない」といった記述があるという[32]。
また朝鮮人労働者は日本人労働者より待遇面で不利であることが多かった。1942年5月時点では佐渡鉱山には日本人709名、朝鮮人584名の合計1239名が働いていたが、「運搬夫」、「磐岩夫」、「外運搬夫」、「支柱夫」といった坑内労働に朝鮮人の割合が高く、「工作夫」、「雑夫」、「製鉱夫」「其他」といった坑外労働に日本人の割合が高い(日本人が100%になっている「其他」は選鉱婦のことであると思われる)。このことから危険な坑内労働は主として朝鮮人に割り当てられていたことが分かる[7]。また給与の面でも朝鮮人労働者は農民だった者が大半だったので技能が要求される「請負制度」のもと一般に日本人労働者より不利だった[7]。実際には、さらに賃金から道具代等が差し引かれるため、手もとに残る賃金はごく僅かだったとみる説もある[7]。
佐渡への朝鮮人の動員は1945年7月が最後であり、労働者だけで「回を重ねて総数千二百名人」だったという[7]。
1945年中には佐渡鉱山の銅採掘の実績が上がらなかったので、佐渡の朝鮮人労働者が過剰となり、佐渡の朝鮮人のうち189名が第一次挺身隊として埼玉県、ついで219名の朝鮮人が第二次挺身隊として福島県に送られ、それぞれの県の地下工場の建設作業に従事した[7]。1945年8月15日の終戦時には佐渡鉱山には244名の朝鮮人労働者が残っており、その後挺身隊として佐渡を離れていた朝鮮人労働者たちも順次佐渡に戻り(一部は行方不明)、日本に永住することを希望する一部の者を除いて多くは新潟港から朝鮮半島へ帰国していった[7]。
| 出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2019年10月) |
- 江戸時代の随筆。佐渡金山についての逸話を収録。
- 田中圭一『佐渡金銀山の史的研究』(刀水書房、1986年)
- 竹内康人『佐渡鉱山と朝鮮人労働』岩波書店〈岩波ブックレット〉、2022年
戦時中の朝鮮人労働の問題を収録。
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座標: 北緯38度2分31.3秒 東経138度15分32.8秒 / 北緯38.042028度 東経138.259111度 / 38.042028; 138.259111