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日本基督教団安中教会(にほんキリストきょうだんあんなかきょうかい)は、元日本組合基督教会の教会で、現在は日本基督教団の教会。新島襄記念会堂。
1864年(元治元年)7月、新島襄は、函館から海外脱出し、アメリカでキリスト教に入信して、ボストンの教会で按手礼を受けた。新島はキリスト教主義学校設立のために、1874年(明治7年)に帰国した。
帰国した新島は最初に新島の父母が住む上州安中に赴き伝道を行った。新島は3週間の滞在中、藩校・造士館と龍昌寺を会場にキリスト教を講義した。その集会で30人の求道者が出て、日曜日ごとに聖書研究会が行われた。その中心的存在が、千木良昌庵、湯浅治郎、森本成徳であった。日本組合基督教会の海老名弾正の協力があり、1878年(明治11年)3月30日に、男子16名、女子14名[1]の30名が新島襄より洗礼を受け、安中教会が設立された。海老名弾正が仮牧師になり、千木良、湯浅、森本の3人が初代執事になった。安中教会は群馬県最初の伝道の拠点となった。
安中教会は最初から自給教会として出発した。それは、湯浅の献金が重要な支柱になっていた。1879年(明治12年)12月1日に海老名が正式に牧師に就任する。海老名を支えたのは湯浅の財力であった。1880年(明治13年)頃から、湯浅らの平信徒伝道により伝道が拡大した。その結果、安中教会は1882年(明治15年)以降は士族に代わって、豪農富商によって担われていくようになる。
1884年(明治17年)には同志社を退学して、小学校校長をしていた柏木義円が海老名より洗礼を受ける。柏木は同志社に復学し新島に薫陶を受ける。
1886年(明治19年)、安中教会から原市教会が分離。ここで受洗した碓氷郡坂本宿の永井延次郎が後(明治36年)に日曜学校を開校。
1897年(明治30年)に同志社を卒業し、新島の信頼を受けた柏木が牧師に就任する。柏木は1898年(明治31年)より『上毛教界月報』を創刊し、安中教会の牧師を務めながら1935年(昭和10年)に引退するまで、足尾鉱毒事件、廃娼運動、未解放部落問題、朝鮮人虐殺問題など地域伝道と政治・社会批判運動を活発に展開した。この活動を支えたのも湯浅であった。
新島襄の召天30周年を記念して古橋柳太郎の設計により1919年に完成。東正面のロマネスク様式の会堂で大谷石による石造。東南の隅に角形の鐘塔を建て、外壁には控壁を付けている。内部は単廊で天井は板張り中央部分をヴォールト風の半円形にして三廊式の扱いにしている。両脇にはコンポジット式の茨城産の大理石製円柱が建つ[2][3]。白百合と十字架が描かれたステンドグラスの制作者は小川三知である[4]。2004年11月に登録有形文化財に登録された[5]。
- 松井七郎『安中教会初期農村信徒の生活 – 松井十蔵・たくの伝記』(第三書館 1981)
- ^ この女子の内の一人が内村鑑三の最初の妻、浅田タケであった(鈴木範久、1983年、25ページ)。
- ^ “日本基督教団安中教会教会堂(新島襄記念会堂) 文化遺産オンライン”. bunka.nii.ac.jp. 2018年11月14日閲覧。
- ^ 安中市. “日本キリスト教団安中教会|観光スポット|安中市”. www.city.annaka.lg.jp. 2018年11月14日閲覧。
- ^ 増田彰久・田辺千代 『日本のステンドグラス 小川三知の世界』 白揚社、2008年、56-59頁
- ^ 安中市ホームページ
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