(Translated by https://www.hiragana.jp/)
高晉 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

こうすすむ

维基百科ひゃっか自由じゆうてき百科ひゃっかぜん
重定しげさだこうこうすすむ

こうすすむ满语ᡬᠠᠣᠵᡳᠨきよし麟德轉寫てんしゃg῾aojin,1707ねん—1779ねんかん熙四じゅうろくねんいぬいたかしよんじゅうよんねん),昭德あきのりこうけい,內務つつみころも镶黄はた滿まんしまたすく領下りょうげじんせき奉天ほうてんりょうしゅう凉州镇总へいこうじゅつあきら之子ゆきこ雍正きゅうねん举人,[1]文淵ぶんえんかくだい學士がくしこうあきら侄儿,かんこう南河みなみかわみち总督、两江总督、ぶん华殿だい学士がくしけんれいなお书,编纂《钦定みなみじゅん盛典せいてん》(1771)。[2]

かん熙四じゅうさんねんいのち浙江せっこうかいじゅん抚王亶望しょううみ塘,またいのち赴河みなみ筑仪ふう漫口。あきかわ决时驿,こうすすむ请议处,いのち宽之。ふゆ,时和驿工竟。仪封しんおさむ埽工蛰陷,议夺かん,仍命留任りゅうにん十二月じゅうにがつそつ,赐祭そう,谥文はし。怀旧诗并れつとくしんちゅう[3]

人物じんぶつ生平おいだいら

[编辑]

雍正きゅうねん举人。雍正じゅうねん(1732ねん)授やま兖州泗水しすいけんじゅうさんねんじゅうがつ調しらべのぼりしゅううみ县(时隶ない务府镶黄はた陈鈁领下)[4]おさむけん衙署、仓库。ずいあらため調ちょうあずまあきらおんけんいぬいたかしよんねん(1739ねん),ます陕西邠州ちょく隸州しゅうはちねん(1743ねん),陕西榆林じゅうねん(1745ねん),陕西榆葭どうじゅういちねん(1746ねん),调江蘇こうそ淮徐どうじゅうねん(1747ねん),ちょうしょくじゅうさんねん(1748ねん),授山ひがし運河うんがどうじゅうよんねん(1749ねん),迁山东按察使同年どうねんけんしょ两淮盐政

じゅうねん(1750ねん),迁安徽あんきぬのせい使けんかんこうやすし织造しょやす徽巡なでじゅうねん(1755ねん)擢やす徽巡なで同年どうねん胞叔かわどう总督こうあきらじゅうねん(1757ねん),いぬいたかしみかどみなみじゅん查河こう受命じゅめい协办じょしゅう黄河こうが两岸つつみこうこうなり太子たいししょうでんじゅうろくねん(1761ねんさんがつます南河みなみかわ总督そくこう南河みなみかわみち总督)。

じゅうななねん(1762ねん),いぬいたかしみかど赐赠ぎょう书《赐江南河みなみかわみち总督だかすすむたて轴,其中うつしどう“两世かわ务,一心いっしん如水にょすいきよし”(载《清高きよたかそういぬいたかしせい诗文全集ぜんしゅうちゅうせいさんしゅうかんじゅうきゅう)。在江あるえ南河みなみかわみち总督にんじょう解除かいじょすう县水患,おさむ筑堤坝、みず闸,挖渠疏导。いぬいたかしじゅうななねん,授侍卫大臣だいじん (清朝せいちょう)じゅうはちねん(1763ねん),以こう南河みなみかわみち总督太子たいしふとしでんけん淮安关监とく

いぬいたかしさんじゅうねん(1765ねんさんがついたりよんじゅうよんねん(1779ねん正月しょうがつにん两江总督けん总理盐法大臣だいじん,仍统南河みなみかわこと务。さんじゅうさんねん(1768ねんしょみずうみ广总とく(载嘉庆版《湖南こなんとおるこころざし:职官》まき78,其中ちゅうこうすすむ为“满洲镶黄はた举人”)、こう苏巡抚,けん荆州はたことさんじゅうよんねん(1769ねん),かいにん两江总督,けんしょこう苏巡抚[5]いぬい隆三りゅうぞうじゅうろくねん(1771ねん),ざい两江总督にんうえしょこげ运总とくこう宁将军しるし务,授ぶん华殿だい学士がくしけんれいなお赐紫禁城きんじょう骑马

こうすすむ为乾たかし时期てきかわめいしんよんじゅういちねんうえ疏奏请将こう苏清かわだん黄河こうがみちあらためどう,以防河水こうすい频频たおせ灌洪泽湖,开凿すえしょう北新ほくしんかわ,并筑拦黄坝(まいり黄河こうがあらためどう);完工かんこうきさきよんじゅうねんいぬい隆作りゅうさくせいすえしょうかわしん庙碑记》并敕けんすえしょうかわしん庙(于淮やす马头镇玉坝村(原名げんめい坝村),こん庙已无存)。よんじゅうねん(1775ねん冬季とうきにゅう觐,いぬいたかしみかど以高すすむねんななじゅう,书榜以赐。よんじゅうさんねん,进驻开封,黄河こうがすい灾,やまいたおせいぬいきよし门侍卫、一等いっとうぬの彦达赉たてまつ敕带陈世かん赶赴诊视。よんじゅうさんねん十二月じゅうにがつ(1779ねん1がつ),ざい两江总督にんうえそつ河南かなん黄河こうがこうたまものさいそう谥号ぶんはしにゅうまつ贤良ほこら[6]いぬいたかしみかどせいこうすすむ碑文ひぶん》(翰林かんりんひらじょきょうせん)。《钦定はちはたどおりこころざし大臣だいじん传九》まき143、《清史きよし稿こうれつ传九じゅうななまき310ゆう传,翰林かんりん钱大昕さく挽诗。书麟广兴

いぬいたかしじゅうねんいぬいたかしみかど赐诗《赐安徽巡抚高すすむ》。じゅうななねん,赐诗《制定せいていしんこう出水しゅっすいこころざし,诗以しめせ总督いん继善总河だかすすむ》、《せい笼示总河だか晋作しんさく》(载《すめらぎあさどおりこころざし》,1882)。いぬいたかしよんじゅうよんねんあずか胞叔こうあきら同列どうれつにゅういぬいたかしみかどとくしん”怀旧组诗,いぬいたかしみかどざいせい文中ぶんちゅう评论どう:“其於かわ頗步趨高あきらこう其純而去其偏,しょう愆失,凡修ぼう疏築諸事しょじ皆實みなみしん經理けいりとう今曉こんぎょうかわつとむしゃ其右。……こうすすむ老成ろうせいあつししらき體用たいようけんゆうじつとくしんちゅう傑出けっしゅつしゃ”(载《钦定はちはたどおりこころざし卷首かんしゅ)。

いぬいたかしじゅうろくねん(1751)ざいしょやす徽巡抚任じょうけんとくかわ务,扩建きよし江浦えうらかわしょ西にしめんてき关帝庙。いぬいたかしじゅうろくねん在江あるえ南河みなみかわみち总督にんじょう,倡捐しんたて清江きよえ浦城うらしろ隍庙(载たてまつみなみこうびょうほこらまつてん》)。ざい两江总督にんじょういぬい隆三りゅうぞうじゅうななねんそう请延聘翰りん卢文弨为江宁钟山书院いん长;よんじゅうさんねんそう请延聘翰りん钱大昕为继にんいん长。こうすすむせい戏曲艺术,曾作ひら话(ひょうばなし)《五美いつみ图》,ざい扬州独步どっぽいち时;苏州ざい扬州艺人おう炳文(师从马文观),擅苏しゅうこんきょくけんこうつる词(扬州弹词),ぜん相法そうほう,为高相国しょうこくこうすすむ)门客(すえ《扬州舫录》まき11)。みん间有無名氏むめいしてき調しらべもとらく雜劇ざつげきためいぬい隆年たかとしあいだりょうこう總督そうとくだかすすむほうりひさし而作,げきえんじあさしゅうとあずか眾仙しばせいきょくため两江ほうり寿之としゆきごとすえ傳統でんとう戲曲ぎきょくあずか道教どうきょう文化ぶんか》)。

いぬい隆三りゅうぞうじゅうろくねん(1771ねん),こうすすむしゅ编《钦定みなみじゅん盛典せいてん》120かん(记载いぬいたかしみかどまえよん下江しもえみなみゆういぬいたかしせいみなみじゅん盛典せいてんじょ》,ゆう画家がか上官じょうかんしゅう绘写てき插图いちひゃくはば),萨载とう续编,おもねかつらでんひさしとう续合编(ゆう台湾たいわんしょう务印书馆1983ねん重版じゅうはんけいしるしぶん渊阁よん库全书》版本はんぽん)。また编有《みなみじゅん名勝めいしょう圖說ずせつ》(日本にっぽん京都きょうと大学だいがく图书馆藏)。あずか胞叔こう南河みなみかわみち总督こうあきらさききさき监制《南河みなみかわ圖説ずせつ》、《こう南河みなみかわこう》,辑录《みなみじゅんあん章程しょうていよんかん(记载いぬいたかしじゅう六年至三十年四次辦差乾隆帝南巡之章程,きよしいぬいたかしこくほんゆう2018ねん现代ばん)。为其ちち总兵こうじゅつあきらてき《积翠轩诗しゅう》(长白だか刊本かんぽん,1739;1767ねんじゅう刊本かんぽんよし文學ぶんがく袁枚さくじょ并为诗歌详注)こう对。为正蓝旗汉军、こう南河みなみかわみち总督ひろし (清朝せいちょう)てき《戢思どう詩鈔ししょうさくじょ

家庭かてい

[编辑]
  • 高祖こうそ高名こうみょうせん(c.1590s-?)。家族かぞくげん隶内务府镶黄はたつつみころもぞくない务府镶黄はた汉姓满洲はたじん),きさきにゅう隶镶黄旗きはた满洲。“高名こうみょうせん,鑲黄はたじんせいりょう地方ちほうくにはつらいはら隸包ころも,於雍せいじゅう三年九月奉旨貴妃之外戚著出包衣,にゅう於原隸滿しゅうはたぶん,欽此。其子だかとう永原ながはらつとむちょく兵備へいびどうまごだか中原なかはらつとむろうちゅう曾孫そうそんだかじゅつ明原あけはらにん凉州そうへいかんこうあきら現任げんにんちょく隸總とくこう現任げんにん江南こうなんひさしはる鎮總へいかんもとまごだかまこと西にしやすし現任げんにんいん外郎ういろうこうすすむ現任げんにんしゅうこうひさし現任げんにん主事しゅじ”(すえ八旗满洲氏族通谱まき74)。
  • 曾祖そうそだか登庸とうようまたこうのぼりひさし知遇ちぐう,c.1620s-?),从龙にゅう关,ちょく兵備へいびどう
  • 祖父そふだか衍中(また高言こうげんちゅううけたまわいち,1654-1692),うち务府ろうちゅうけんさん领佐领,赠光ろく大夫たいふ,曾任ない务府镶黄はたつつみころもだい五参领第三旗鼓佐领(すえ《钦定はちはたどおりこころざし》;继任领陈おもね麟,其女陈佳もとはいよめだか衍中文淵ぶんえんかくだい學士がくしぶんていおおやけこうあきら)。祖母そぼちち福建ふっけんとく糧道りょうどうおうあきらせき奉天ほうてん),ふういちひん誥命夫人ふじん。胞兄だかなか

父母ちちはは、叔姑

[编辑]
  • ちちこうじゅつあきら东瞻,c.1671-1723),かんいたりあまりょうしゅう镇總へい
  • ははしゅ(c.1670s-1747)。其父ない务府せい黄旗きはた汉军(ぞくない务府せい黄旗きはた汉姓满洲はたじん)、內務いん外郎ういろう兼佐かねさしゅこくぜん(c.1650s-?),曾任ない务府せい黄旗きはたつつみころもだい五参领第三旗鼓佐领(すえ《钦定はちはたどおりこころざし》)(すえ载,しゅこくぜん及一些朱氏家族后代在今河北承德市丰宁满族自治じちきよしはつ丰宁けいない务府ちょく辖领)。
  • 胞叔文淵ぶんえんかくだい學士がくしぶんていおおやけこうあきら(1683-1755)。其长おんなだかけいふういぬいたかしみかどとし贤皇贵妃
  • 胞叔こう其相,1691-1750),受康熙帝めいじざいねば竿ざお处(なおおそれ備用しょぎょうはしさむらいじゅうさんねん;雍正あさ授乾きよし门蓝翎侍卫、苏州さんはたいぬいたかしちょう历任よんがわ川北かわきた总兵、やま东兖しゅう镇总へい江南こうなんひさしはる鎮總へいしょ理江りえみなみ提督ていとく,诰授骠骑はた军、荣禄大夫たいふ。其子だかけんまきごうそもそもとき),こうろうちゅうちょ《长大轩诗稿こう》;だかえきとき),さんとうさむらい卫、浙江せっこうしょしゅう鎮總へい
  • しゅうとははだかよめ內務鑲黃はた汉军、內務ろうちゅう鄧之琮(また鄧智むね),かん熙五じゅうねん(1713)にん贵州西道さいどう,其父內務ろうちゅう鄧廣いぬい始祖しそ“鄧安あきら,鑲黄はたつつみころも旗鼓きこじんせいきょ瀋陽しんよう地方ちほうらいねんぶんかんがえはらつとむ驍騎こう,其孫鄧廣いぬいはらつとむろうちゅう”(すえ八旗滿洲氏族通譜まき77)。
  • しゅうとははだかよめない务府せい黄旗きはた汉军、雍正九年至乾隆四年总管内务府大臣ちょう皂保(赐谥ぶんつとむ,1654-1751),历经やすし熙、雍正、いぬい隆三りゅうぞうあさ,曾任ない务府せい白旗はっきだい一参领第三管领、うち务府せい黄旗きはただい四参领第一管领、うち务府せい黄旗きはただい四参领第二旗鼓佐领(すえ《钦定はちはたどおりこころざし》);其父举人ひのとおうもとはつざい书房效力こうりょくきさきなりげん烨(かん熙)てきとも读,るいかんいたりない务府ろうちゅうきさきかん熙帝赐京城北しろきた清河きよかわ块安そう;长子ひのとまつない务府镶黄はたつつみころもだい五参领第四旗鼓佐领、うち务府せい黄旗きはただい四参领第二旗鼓佐领(そつ于任,すえ《钦定はちはたどおりこころざし》)、うち务府ろうちゅうめとあなちち衍聖こうあな毓圻孔子こうしだいろくじゅうななだい嫡長まご);次子じしない务府さむらい卫丁かつらおんなちょうよめ內務せい白旗はっき满洲さく綽絡せき璘(またおもね哈占),其父そうかん內務大臣だいじん(其曾まご閩浙總督そうとくれい尚書しょうしょとくとく保之やすゆきじょさく綽絡ふういぬいたかしみかどみず貴人きじん)。ちょう家族かぞく始祖しそちょうたかしとく,“せい黄旗きはたつつみころもじんせいりょう地方ちほう”(すえ八旗滿洲氏族通譜まき74)。

兄妹きょうだい

[编辑]
  • 胞兄かつぜんいち)(c.1690s-?)。つま祁氏,一等侍卫七十之女。
    • はてしかさとおもねせいむべじょう。其女だかけい三继嫁宗室依臧阿(养父三等侍卫宗室納宗阿,なまちち宗室そうしつ慶福けいふく祖父そふやめかわ輔國將軍しょうぐんまもるぐんみやこみつる訥音先祖せんぞたてまつおん鎭國こうたむろひとし)。
    • 子吉こよししかさとおもね
  • 胞兄だかまこと)(c.1690s-?),いぬいたかしじゅうろくねん湖北こほく按察使ちょうあししおせいつま赵氏(またちょうけい,胞兄ない务府せい黄旗きはた满洲、いぬいたかしよんねん(1739ねんおのれちょういさおあきら (いぬい隆進りゅうしん)ちち护军さん领哈尔敏,胞叔いぬいたかしよんねん(1739ねんおのれ进士興國こうこく (いぬい隆進りゅうしん)(叔侄进士どう榜),祖父そふ头等さむらい卫兼领武什)。
    • 廷麟,いぬいたかしみずのととり舉人,盐运使つま孙氏(またじょいち说)(ちちない务府せい黄旗きはた汉军、うち务府ろうちゅうけん两淮盐政ひろしぶく祖父そふない务府ろうちゅうけん苏州织造孙文なり)。孙儿りょうとし;曾孙おんなだかけい继配よめ镇国こう奕繕(ちち宗室そうしつ綿めんしのべ祖父そふなりあきら親王しんのうえい),其养宗室そうしつ。孙儿りょう禧,きさきだいゆう进士けいぶんだま
    • 廷佩。
    • 慶安けいあん
  • 胞兄西にしやすしさん)(1700-?),历官こう宁织づくり杭州こうしゅう织造、うち务府总管大臣だいじんつまおうちちこう选州どうはちうみ)。
    • せん。其女だかけいよめせい白旗はっき宗室そうしつ族長ぞくちょうたてまつおん將軍しょうぐんみずまつちちたてまつおんはた军慶やすし祖父そふ大臣だいじん宗室そうしつぞうもり先祖せんぞ輔國愨厚こうとうはい)。
    • もとあつこうやすしみやつこ杭州こうしゅうみやつこきた新關にいぜき監督かんとく
    • 嵩山すせ山東さんとうあずまあきら
    • かさよわい
    • 子女しじょだかけい配偶はいぐう杨氏(めい详;其父鑲黃はたかんぐんからだじん阁大学士がくしちょく隸總とくつとむ愨公楊廷あきら)。
  • 胞弟だかやすし)(c.1710s-?)。つまただし(1714-?;ちちない务府せい黄旗きはた汉军、かん熙五じゅう五年至六十一年总管内务府大臣ただし殿どのくに,袭二等轻车都尉,のう山水さんすいいぬいたかし初年しょねんとく授畅はる园总かん,曾任ない务府镶黄はたつつみころもだい四参领第一旗鼓佐领(继任しゃこうあきら)、うち务府镶黄はたつつみころもだい五㕘領第六旗鼓佐領、うち务府せい黄旗きはたつつみころもだい五叅領第二旗鼓佐領(すえ《钦定はちはたどおりこころざし》);祖父そふただしとくとうと,以军こう授骑じょう、二等轻车都尉,しゅにんない务府せい黄旗きはたつつみころもだい五叅領第二旗鼓佐領(くにはつへんりつすえ《钦定はちはたどおりこころざし》);どうしゅうとただしけいふうやすし熙帝はしきさきだいゆう咸丰あさ总管ない务府大臣だいじんぶんゆたか(1860ねん殉节于圆明园ふくかい);ただし始祖しそただし文選ぶんせん,“せい黄旗きはたつつみころもじんせいなでじゅん地方ちほうらいねんぶんこう”(すえ八旗滿洲氏族通譜まき74))。
  • 胞弟だかひつじさるまたこうこん)(ろく)(c.1710s-?),拔貢せい。嫡妻陈氏(ちち总领催默尔森额),继妻とみ察氏(ちち三等侍卫傅尔敦)。其女だかけい(c.1740s-?),继配よめ鎭國將軍しょうぐん宗室そうしつとくみこと(1747-1818;ちち大臣だいじんやめかわたてまつおん輔國公德こうとくろうおもね祖父そふ輔國こう瑟爾しん先祖せんぞこう畧貝勒褚英そくつとむなんじ哈赤长子;げんはいつま西林にしばやしさとし,其父镶蓝はた满洲、西安しーあんしょう军勤肅公鄂弼祖父そふいちとうじょうつとむはく鄂爾やすし)。
  • 胞弟だかふくなな)(c.1710s-?)。つま祁氏(ちちない务府员外郎ういろう长龄)。[7]
  • 胞姊だかけい(c.1703-?),よめせい蓝旗汉军、二等侍卫胡照(ちち头等さむらい卫、ふく统永けい家族かぞくなり员出にんたねさち怡亲おうせい蓝旗つつみころもたすく领;きさきだい有道ありみちこうさんじゅうねんかのえいぬ(1850)进士よしめぐみひかりいとぐちねんへい(1876)おん進士しんしえびす俊章としあきみちこう丁未ていみ进士ぞう祿ろくどうみずのと进士まもりただし、咸丰へいたつ进士守正もりまさえびす始祖しそえびすおこりりゅうまたえびす添龍),“せいあいはたつつみころもじんせいきょ瀋陽しんよう地方ちほうらいねんぶんこう”(すえ八旗滿洲氏族通譜まき76))。
  • 胞妹だかけい(1710-1779),よめない务府せい白旗はっき汉军維屏(まためいくろたちふさが、赫达しょく,1709-1765),まいり领,历任ない务府せい黄旗きはたつつみころもだい五叅領第三旗鼓佐領(前任ぜんにんゆうだけ外祖父がいそふうち务府せい黄旗きはた汉军しゅこくぜん)、うち务府せい白旗はっきつつみころもだい四㕘領第一旗鼓佐領、うち务府せい白旗はっきつつみころもだい五㕘领第二旗鼓佐领(前任ぜんにんていぜんたからけいばんきよし词人ていぶんこれふとし高祖こうそ)、うち务府镶黄はたつつみころもだい一参领第二管领,そつ于任じょうすえ《钦定はちはたどおりこころざし》);祖父そふ雍正元年がんねんいたり九年总管内务府大臣のべそつ于任じょう);どう姊李よめせい蓝旗满洲、がらすさとみやびたい將軍しょうぐんつとむあつしおおやけ佟佳喜明よしあきちちれい尚書しょうしょきょう簡公つねあお);胞叔ちょうあらわ曾孫そうそんどうこうおのれうし進士しんし舒貴しゅうとははよめない务府せい白旗はっき汉军领尚琳(ちち內務そうかん兼佐かねさりょう尚志ひさししゅんみちこうみかどこれほんせい高祖父こうそふ曾祖そうそなお大德だいとく);始祖しそしげるけん,“せい白旗はっきつつみころもじんせいきょ瀋陽しんよう地方ちほうらいねんぶんこう”(すえ八旗满洲氏族通谱まき74))。

つま子女しじょ

[编辑]
  • おうちちせい蓝旗满洲、刑部おさかべいん外郎ういろうとくりん,胞叔刑部おさかべ兵部ひょうぶ、吏部なお书恭簡公せいかつら始祖しそ王國おうこく祚,“せいあいはたじんせいよししゅう地方ちほうてんさととき”(すえ八旗滿洲氏族通譜まき74))。
  • 長子ちょうしぶんつとむおおやけしょみやこみつるせい大金おおがねがわたたかえ领队大臣だいじん,图形むらさきひかり阁(见むらさきひかりかく功臣こうしんぞう),历任やす徽巡なで两江总督みずうみこう總督そうとく清朝せいちょう吏部尚書しょうしょふう一等いっとう男爵だんしゃくつまちち镶白はた满洲、こうろう中音ちゅうおんとくぬの)。
    • 子吉こよしろうおもね,袭一等いっとう男爵だんしゃくつまあきらけい。其子つねぜんおんなだかけいよめ一等奉國將軍載茂(ちちたてまつおん輔國こう奕禮高祖こうそかず硕恒つとむ亲王ひろふとし高祖こうそ恆溫こうおん親王しんのうまことそくかん熙帝だい),其子宗室そうしつ溥鏡。
    • おんなだかけいよめさとしかんけい(1753-1775;ちち湖南こなんじゅんさとしあつしぶく先祖せんぞあたまとうさむらいまもる觉罗つとむ赫勒、さとしつつみろうおもね)。
  • こうきょうにん刑部おさかべひだりさむらいろうけん总管ない务府大臣だいじんつまゆう(胞兄ゆう璉)。
    • 蘊秀。
    • おんなだかけいよめせい黄旗きはた满洲さとし長年ながとしちちさとしたまただし曾祖そうそやすし熙甲いぬ進士しんしさとし滿まん先祖せんぞさとしさくちょうおもね)。
  • こうあつしいぬいたかしよんじゅうさんねん(1778)進士しんしかんいたり安徽あんき湖南こなんじゅんなでつまてい父上ちちうえ驷院ろうちゅうていひさしおん)。
    • 粵訥,员外郎ういろう。其女いちこうけいよめせい蓝旗宗室そうしつまことかおるちち宗室そうしつれい杰,胞叔どうこうつちのえいぬ進士しんしつたえ臚、武英たけひで殿どのだい學士がくしぶんきょうおおやけれいかつら祖父そふどうこうへいいぬ進士しんしほん先祖せんぞきょう親王しんのうつねやすしそく顺治みかどだい);おんなこうけい,继配よめたいやすし鎮總へいそうかん內務大臣だいじん宗室そうしつこころざしもとちち宗室そうしつけい敳,祖父そふ肅恭親王しんのうえいすず先祖せんぞたけ肅親おうごうかく)。
    • おんなだかけいよめ镇国はたえいひろしちち諴密ぐんおうひろしとおる)。
    • おんなだかけいよめせきけい
  • 成德しげのり(1742-1781),あま肃宁ついたち县、ごうすい县知县。つまちょうちちせい白旗はっき汉军领趙つねあきら)。
  • 廣平ひろへい,內閣中書ちゅうしょつま镶白はた满洲、かつらりんおりおんな
    • おさめちょく隶布せい使つまはくとくちちせい白旗はっきこうむ武英たけひで殿どのだい學士がくし、袭さんとう義烈ぎれつこうやすし祖父そふこう尚書しょうしょさんとう義烈ぎれつこうおさめ扎勒)。其女だかけい,继配よめせい白旗はっきこうむがらすさとみやびたい將軍しょうぐんあずか杭州こうしゅう將軍しょうぐん薩爾かつかつらちち一等いっとういさむこうちょうよわい,胞叔陝甘總督そうとくつとむじょうおおやけめぐみよわい祖父そふはんいん尚書しょうしょおさめのべやすし;其女薩爾かつよめどうこうかのえいぬ進士しんし宗室そうしつちち户部尚書しょうしょ宗室そうしつ奕紀はは莫氏,其兄镶红はた满洲、みちこうねん(1822ねんみずのえうまおん进士ぶん))。
    • おんなだかけい,继配よめ鑲黃滿まんしゅうしゅうぬのせい使とみ察氏こう峩(ちちこうやすしかんとう祖父そふでんいさお伯父おじいちとうあつしめぐみはくでんりょう曾祖そうそぶんきよしおおやけうまひとし;胞兄いぬいたかしつちのえいぬ进士きょうやすしめとなおちちない务府せい白旗はっき汉军、こうやすしみやつこねつかわそうかんなおふくかい;胞侄おんななおけいふうどうこうみかど))。
  • 广溥,广武。
  • おんなだかけいよめない务府鑲黃はた汉军おうけいまたゆうけいいち说)とくまこと(1731-?)(ちちりょう淮鹽せい戶部とべひだりさむらいろうよしけいしげるとき),监修《两淮盐法こころざしよんじゅう卷首かんしゅいちかんいぬいたかしじゅうさんねん(1748ねんこくほん嫡母ちゃくぼゆう祖父そふ内務ないむいん外郎ういろうつね;胞姊おうけいよめ镶黄はた满洲ぼたん祜祿訥穆いんちち镶黄はた满洲だい一参领第四世管佐领哲爾金,祖父そふ一等いっとうさむらいまもるかん领顏たままたのべばしら),しゅうとははぼたん祜祿ふうやすし熙帝孝昭たかあきじん皇后こうごう曾祖そうそ一等いっとうこう遏必たかし))。其子いぬいたかしかのえ举人、しゅうだい弼,孙女おうけいつぎはいよめ镶蓝はた宗室そうしつ綿めん瀚(过继给不いれ八分輔國公永浩,なまちちかいえい祖父そふさとしつとむぐんおうひろ曾祖そうそかずせきみつ親王しんのうまことそくかん熙帝だい);おん綸。おう始祖しそおうひろしとく,“鑲黄はたつつみころも管領かんりょう下人げにんせいきょ瀋陽しんよう地方ちほう……曾孫そうそんよしけい現任げんにんろうちゅう巡視じゅんし河東かわとうしおせい”(すえ八旗滿洲氏族通譜まき75))。
  • おんなだかけいよめ镶黄はた满洲、いぬいたかしよんじゅうねん(1775ねん乙未おとみ进士莫氏とくあきらちち山西さんせいじゅんなでなんじとく先祖せんぞ勒慎,しゅにん镶黄はた满洲だい三叅领第三佐领,“きょ薩齊地方ちほう”,载《八旗滿洲氏族通譜まき44)。其女莫氏,よめ鑲黃滿まんしゅうきゅうごとちゅうぼたん祜祿翰(ちち世襲せしゅう一等いっとう子爵ししゃくこげうん總督そうとく毓奇先祖せんぞいちとう弘毅こうきおおやけがくまた),すき西安しーあん將軍しょうぐん薩迎おもね)。

親戚しんせき

[编辑]
  • 伯父おじこうあきら(1683-1755),清朝せいちょう官員かんいんかん至大しだい學士がくしかわどう總督そうとく清朝せいちょうてきかわめいしん
  • 長堂ちょうどう姊:とし贤皇贵妃(1711-1745),こうあきら長女ちょうじょしんだかむねこれすめらぎとうと
  • どう姊:こうけいこうあきらこれ次女じじょよめ镶蓝はた满洲、だい学士がくし鄂爾やすし,鄂實(ふく统,殉难于大小和おわたく战,授骑じょうまた一云骑尉世职)。
  • どうけいこうひさし(?-1768),こうあきらどく清朝せいちょう官員かんいん外戚がいせきかんりょう淮鹽せい,授总管内かんない务府大臣だいじんおさむけん扬州瘦西みずうみあずかちんよしおかせ鹽引しおびき遭诛。
  • 兒女じじょ姻親:よしけいおうけい,內務鑲黃はたかん軍人ぐんじん,曾任りょう淮鹽せい戶部とべひだりさむらいろうぶく(曾任蘇州そしゅうみやつこりょう淮鹽せいせい黃旗きはた滿まんしゅうじん杭州こうしゅうみやつこまごぶん成子しげこ),あずかこうつねみなりょう淮鹽引案主犯しゅはんいぬいたかし33ねん こうすすむそうためやつざいたいおとうとだかつね不能ふのうずいごと教導きょうどう於吉けいぶくまた不能ふのう隨時ずいじさとし察呈請將やつざい交部いち併治ざいごと みや051270。

[编辑]

延伸えんしん阅读

[编辑]

[ざい维基すうすえ]

维基文库中的相关文本:清史きよし稿こう/まき310》,出自しゅつじちょうなんじたつみ清史きよし稿こう

参考さんこう

[编辑]
  1. ^ 泗水しすい县志(ひかり绪版)ななまきさん·かん师志·县·雍正纪年
  2. ^ 清史きよし稿こう/まき310 - 维基ぶん库,自由じゆうてき图书馆. zh.wikisource.org. [2023-11-08] ちゅうぶん. 
  3. ^ 清史きよし稿こう·まきさんひゃくいちじゅう·れつ传九じゅうなな·
  4. ^ 载包かつらおさむ并序《うみ阳县こころざしかんこころざしまき
  5. ^ 载《钦定はちはたどおりこころざし:总督》まき339。
  6. ^ 载《钦定はちはたどおりこころざしはちはたまつてんまき82。
  7. ^ 以上いじょう关于だかすすむてき兄弟きょうだい家庭かていまいり见定よろししょうえびす鸿保《きよしだいない务府だか佳世かよてき婚姻こんいんけん》。