中国ちゅうごく」のはんあいだ差分さぶん

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'''なかくに'''(ゅうく、{{lang-zh-hant-short|'''なかくに'''}})は、[[ユーラシア#ユーラシア大陸たいりく|ユーラシア大陸たいりく]]([[アジア大陸たいりく]])の東部とうぶめる[[地域ちいき]]、およびそこで成立せいりつした[[国家こっか]]をさす用語ようご。[[日本にっぽん]]では、[[1972ねん]]の[[にちちゅう国交こっこう正常せいじょう]]以降いこう、[[中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく]]の略称りゃくしょうとしても使用しようされている<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/data.html 外務省がいむしょう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく]</ref><ref>[http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/world/china/ 中国ちゅうごく - Yahoo!ニュース] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140615192404/http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/world/china/ |date=2014ねん6がつ15にち }}</ref><ref>[http://www.arukikata.co.jp/country/asia/CN_general_1.html 地球ちきゅうあるかた > 中国ちゅうごく概要がいよう]{{リンクれ|date=2024ねん2がつ}}</ref>。
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2024ねん5がつ13にち (月)げつ 12:41時点じてんにおけるはん

まんしゅうこく(まんしゅうこく、しげる滿まんしゅうこく)は、ユーラシア大陸たいりくアジア大陸たいりく)の東部とうぶめる地域ちいきおよびそこで成立せいりつした国家こっかをさす用語ようご日本にっぽんでは、1972ねんにちちゅう国交こっこう正常せいじょう以降いこう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく略称りゃくしょうとしても使用しようされている[1][2][3]

むらさき中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく統治とうち、オレンジが中華民国ちゅうかみんこく統治とうち政治せいじてき問題もんだいについては中国ちゅうごく統一とういつ問題もんだい参照さんしょう)。

ほん記事きじでは、「中国ちゅうごく」という用語ようご意味いみ」の変遷へんせん呼称こしょう」の変遷へんせんについて記述きじゅつする。中国ちゅうごく存在そんざいした歴史れきしじょう国家こっかぐんについては、当該とうがい記事きじおよび「中国ちゅうごく歴史れきし」を参照さんしょう

概要がいよう

1949ねん以降いこうは、「中国ちゅうごく」はアジア大陸たいりく存在そんざいする中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくたいする略称りゃくしょうとしてもちいられ、中国ちゅうごく大陸たいりくとそれに付随ふずいする島嶼とうしょにあたる。[よう出典しゅってん]

この中国ちゅうごく大陸たいりく最多さいた人口じんこうゆうするかん民族みんぞくはじめとして、ながあいだ中国ちゅうごく全土ぜんど支配しはいしていたモンゴルひとし様々さまざま民族みんぞくによる複数ふくすう王朝おうちょう出現しゅつげん滅亡めつぼう戦乱せんらん統一とういつかえしてきた。そのため、地域ちいき文明ぶんめい民族みんぞくひろし、紀元前きげんぜんからの文明ぶんめい国家こっかぐん歴史れきし総体そうたいをもふくめてもちいられている。

きよしまでの中国ちゅうごくは、王朝おうちょう名前なまえ対外たいがい対内たいないてき呼称こしょうとしてもちいられていた[よう出典しゅってん]。しかし、19世紀せいきなかばから中国ちゅうごくも「世界せかい一体化いったいか」のながれにまれると、「中国ちゅうごく」という用語ようご主権しゅけん国家こっか自称じしょうとしてもちいられるようになり、中華民国ちゅうかみんこく建国けんこく固有名詞こゆうめいしとしての性格せいかくくしていった。

日本にっぽんでは、伝統でんとうてき黄河こうが流域りゅういき国家こっかたいし「とうかん唐土とうど」の文字もじもちいて「とう・から・もろこし」とび、玄奘三蔵げんしょうさんぞう訳業やくぎょう輸入ゆにゅうされてからは、仏教ぶっきょうかいで「ささえ」が利用りようされ、明治めいじ時代じだいはいり「ささえ」が一般いっぱんした。

文献ぶんけんあらわれる「中国ちゅうごく

西暦せいれき紀元前きげんぜん西にしあまね時代じだい)にはすでに「中国ちゅうごく」の文字もじ文献ぶんけんあらわれていた[4]

すめらぎてんすんでづけ中國ちゅうごくみんえつ厥疆于先おうすめらぎてんすでちゅう國民こくみんと厥疆の土地とちさきおうす)
  • 詩経しきょう』の「大雅たいが」の「なまみん什」のしょうなかの「みんろう」にあらわれるもの
みんまたろうどめ 汔可小康しょうこう めぐみ中國ちゅうごく 以綏四方しほう(この中国ちゅうごくめぐみあれ、四方しほうやすらかに)
たて詭隨 以謹りょう しき遏寇しいたげ 憯不かしこあきら
やわとおのう邇 以定わがおう

その歴代れきだい王朝おうちょう正史せいしじゅうよんでも使用しようされつづけているが、その範囲はんい概念がいねん時代じだいとともに変化へんかしている。

遺物いぶつあらわれる「中国ちゅうごく

なにみこときざまれた銘文めいぶん

“𠁩ある”(中国ちゅうごく

銘文めいぶんの「中国ちゅうごく」(𠁩ある

1963ねん出土しゅつどした「なにみこと」は西にしあまねなりおう時代じだい紀元前きげんぜん11世紀せいき)の青銅器せいどうきで、銘文めいぶんたけおう言葉ことばとして「其宅茲中こくこれ乂民」ときざまれている。

遺物いぶつそのものにある「中国ちゅうごく」の用例ようれいとしては、現存げんそん最古さいことされる。

中国ちゅうごく」の意味いみ変遷へんせん

古典こてんてき用法ようほう

中華ちゅうか思想しそうにおける世界せかいかん

本来ほんらい特定とくてい国家こっか民族みんぞく言葉ことばではない。西にしあまね時代じだいにはひろ見積みつもって中原なかはら、または洛陽らくよう周辺しゅうへんしていた[4]

ベトナムでは阮朝自国じこく中国ちゅうごく(チォンコック)とび、日本にっぽんでも自国じこくたいして葦原よしわら中国ちゅうごく(あしはらのなかつくに)あるいは中国ちゅうごく(なかつくに)という美称びしょうもちいている[ちゅう 1]

日本にっぽんにおいて朝貢ちょうこうすることぞくたいし、自国じこくを「中国ちゅうごく」としょうした最古さいこ表記ひょうきれいは『ぞく日本にっぽん文武ぶんぶ天皇てんのう3ねん699ねん)7がつ19にちじょうにおける「徳之島とくのしまひと中国ちゅうごく渡来とらいするのは、このときからはじまった」の一文いちぶんであり、中国ちゅうごくたいして「日本にっぽん」とはじめてしょうした時期じきとほぼ一致いっちする。

一方いっぽう黄河こうが流域りゅういき黄河こうが文明ぶんめいいとなんでいたかん民族みんぞく前身ぜんしんとなった都市とし部族ぶぞく国家こっか連邦れんぽうみん国際こくさい社会しゃかいでは、「中国ちゅうごく」というかたりは、おう覇者はしゃ中心ちゅうしんとした秩序ちつじょもとづくものであった。その中華ちゅうか思想しそうもとづく「文化ぶんかてき優越ゆうえつせいった世界せかい中心ちゅうしん」という意味いみび、はた始皇帝しこうていのこの地域ちいきしょ民族みんぞく統一とういつはっする中国ちゅうごく歴代れきだい王朝おうちょう政治せいじてき軍事ぐんじてき境界きょうかい設定せっていするなかで、徐々じょじょ形成けいせいされていったかん民族みんぞく意識いしきのアイデンティティを境界きょうかいける自称じしょうとして拡張かくちょうされていった。

中原なかはら」とは、黄河こうが文明ぶんめい発祥はっしょうである黄河こうがちゅう流域りゅういきひろがる平原へいげんのことであり、しばしば「中国ちゅうごく」と同義どうぎとされる。

はたはじめすめらぎ中国ちゅうごく防衛ぼうえいするため長城ちょうじょうてた」と文書ぶんしょ記載きさいされている[5]漢書かんしょみぞ恤志まき29では「中國ちゅうごく川原かわら以百すう」(いにしえより中国ちゅうごくにはなんひゃくものやまはらがあり)[6]前漢ぜんかんあきらみかど時代じだいかれたとされる『しおてつろん』では、けいみかど時代じだいまでの領土りょうどおよ地域ちいきを「中国ちゅうごく」としょうしている[7]

また、たけみかど新規しんき征服せいふくした領域りょういきは「中国ちゅうごく」と対置たいちする領域りょういきとして「辺境へんきょう」と各所かくしょしるされてもいる[8]。しかし、たけみかどあらたに征服せいふくした領土りょうどふく領域りょういきを「中国ちゅうごく」と表現ひょうげんしている箇所かしょもある。たけみかど支配しはいした領域りょういき以外いがい地域ちいきを「外国がいこく[9]表記ひょうきし、「外国がいこく」が「中国ちゅうごく」と対置たいちされている箇所かしょがあるからである[10]。このように、『しおてつろん論争ろんそう当時とうじは、「中国ちゅうごく」の概念がいねんは、たけみかど征服せいふく領土りょうどふく場合ばあいふくまない場合ばあいられ、辺境へんきょうぐん中国ちゅうごくふくむかどうかで論者ろんしゃによる認識にんしきのずれがあったようである。

しゅう王朝おうちょう時代じだい領域りょういきは「しょなつ[11]かん高祖こうそ平定へいてい領域りょういきは「九州きゅうしゅう[12]、と各々おのおの使つかけて記載きさいされている。この時代じだいには、すでに「中国ちゅうごく」の領域りょういきが「中原なかはら」よりもひろ地域ちいき拡大かくだいし、自民じみんぞく伝統でんとうてき領域りょういき認識にんしきされている一方いっぽう王朝おうちょう支配しはい領域りょういきすべてが「中国ちゅうごく」と認識にんしきされているわけではない用例ようれいがあることをうかがることができる。

しおてつろん』にはいち箇所かしょだけ「漢國かんごく」の表記ひょうきがあり[13]おおむね「かん」に支配しはいされる領土りょうどは「中国ちゅうごく」と同義どうぎとみられる[ちゅう 2]

から王朝おうちょうはいると「中国ちゅうごく」の領域りょういきさら拡大かくだいし、現在げんざい中国ちゅうごく本土ほんどばれる領域りょういきが「中国ちゅうごく」と認識にんしきされるようになっていた。たとえば「からきょう蠻夷ばんいさら盛衰せいすい,嘗與中國ちゅうごく亢衡しゃゆうよん突厥吐蕃かい雲南うんなん是也これや」とある[14]かんいよいよろんふつこつひょうでは「ふつというものは、こうかんだい中国ちゅうごくつたわったものであり、そのぜん中国ちゅうごくにはまだほとけなかったのです」としるしている。

同時どうじに「中国ちゅうごく」は地理ちりてき領域りょういきめいだけではなく、王朝おうちょう現時点げんじてん支配しはいしている領土りょうど意味いみするようにもなっていた[15]

中国ちゅうごく」の領域りょういき認識にんしき支配しはい領域りょういき拡大かくだい縮小しゅくしょう連動れんどうした。

通例つうれいでは清朝せいちょう末期まっき以前いぜんは、「中国ちゅうごく」は通史つうしてき意味合いみあいをたないとされているが、通史つうしてき用例ようれいがまったくないわけではない。たとえば「そうふみ列傳れつでん194儒林/えびす安國やすくに」では「中國ちゅうごくきょうもり如漢たけみかどからふとしむね」(いにしえより中国ちゅうごくかんたけみかどからふとしむねごとつよさかんであった)という記載きさいがあり、『こころざし倭人わじんでん』には「いにしえ以來いらい其使まい中國ちゅうごくみな自稱じしょう大夫たいふ」(いにしえより以来いらい、その使者ししゃ中国ちゅうごくるとみな自分じぶん大夫たいふしょうした)としるされている。

中華ちゅうか(ちゅうか)あるいははななつ(かか)という用語ようごは、「すぐれた文化ぶんかもの」を意味いみし、かん民族みんぞくあいだで「中国ちゅうごく」と同様どうよう自称じしょうとしてもちいられた。

中心ちゅうしんくにすぐれた文化ぶんかにな」という意味いみの「中華ちゅうか」には、地理ちりてき意味いみくわえて、「かん民族みんぞくのアイデンティティ」と「はななつ文化ぶんか優越ゆうえつせい」という要素ようそ共存きょうぞんしていた。

中華ちゅうか思想しそうにおいては、てん意志いし代行だいこうする皇帝こうていが、そのとくをもって統治とうちし、もしとくうしなえばあらたな家系かけいわる。「中国ちゅうごく」「中華ちゅうか」にたいして、その四方しほう居住きょじゅうする周辺しゅうへん民族みんぞくは「夷狄いてき」として対置たいちされる。

11世紀せいき以降いこうそうからあかりにかけて、そうあきら理学りがくおおいに流行りゅうこうし、ふたたはなえびす秩序ちつじょ強調きょうちょうされるようになった。またそうあかりでは異国いこく文化ぶんか珍重ちんちょうし、外国がいこくじん宮廷きゅうてい登用とうようされることもめずらしくなかった[16]

中国ちゅうごく皇帝こうてい西にしアジアの「諸王しょおうおう」に相当そうとうし、中国ちゅうごく歴代れきだい王朝おうちょうは、みずからが人類じんるい唯一ゆいいつ皇帝こうてい[ちゅう 3]であり、それ以外いがい中華ちゅうか世界せかいにおける辺境へんきょうぎないという態度たいどった。

対等たいとうくに存在そんざいしないのだから、対等たいとう関係かんけい外交がいこう存在そんざいせず、周辺しゅうへん民族みんぞくとの関係かんけいすべ朝貢ちょうこうという形式けいしきとなる。ぎゃく夷狄いてきおう中原なかはら征服せいふくして中国ちゅうごく同化どうかし、皇帝こうていとなることも可能かのうであった。えびすじゅうろくこく時代じだい諸国しょこく南北なんぼくあさ時代じだい北朝ほくちょうだいじゅうこく時代じだい突厥すな陀部けい軍閥ぐんばつ中央ちゅうおう権力けんりょくようした後半こうはんよんだいがこの典型てんけいである。しかし、りょうきむもときよしの4王朝おうちょうは、かん民族みんぞく支配しはいして中華ちゅうか帝国ていこく系統けいとうぞくする王朝おうちょうつくったが、自民じみんぞく統治とうち制度せいど文化ぶんか保持ほじつづけ、版図はんと一部いちぶ構成こうせいするにぎないかん民族みんぞく地域ちいきたいしては、征服せいふく王朝おうちょうとしてった。かん民族みんぞく直面ちょくめんしたこのような現実げんじつたいして、そうまなぶでははなえびす秩序ちつじょ強調きょうちょうされるようになった。それにもとづく、きよし法律ほうりつにも「外国がいこくじんたいしては自分じぶん中国ちゅうごく必要ひつようがある」と規定きていしたことがある[17]

日本にっぽんでも、江戸えど時代じだい以前いぜん大陸たいりくを「中国ちゅうごく」とんだ事例じれいられない(幕末ばくまつ、「まんしゅうえびす」が自分じぶんたち自身じしんを「中国ちゅうごく」とんでいると紹介しょうかいされることはあった[18])。

近代きんだいてき用法ようほう

きよしだい後半こうはんになると、近代きんだいたした欧米おうべい列強れっきょう圧倒的あっとうてき国力こくりょく中国ちゅうごく周辺しゅうへんにも波及はきゅうし、中国ちゅうごくしょ外国がいこく対等たいとう国際こくさい社会しゃかい一員いちいんとして自己じこさい定義ていぎする必要ひつようせまられた。「中国ちゅうごく」という用語ようご近代きんだいてき主権しゅけん国家こっか概念がいねんでの使用しようは、1842ねん阿片あへん戦争せんそう敗北はいぼく清朝せいちょうイギリスむすんだ南京なんきん条約じょうやくで、漢文かんぶんの「中国ちゅうごく」が使つかわれた近代きんだいてき国際こくさい条約じょうやく最初さいしょであるとられている。

1689ねん調印ちょういんされたネルチンスク条約じょうやくでは、清朝せいちょう外交がいこう使臣ししんみずからの身分みぶんしょうするときに「中国ちゅうごく」という用語ようごまんしゅう使つかった。ここでいう中国ちゅうごくとは、まんしゅうじん故郷こきょうであるまんしゅうきゅうあかりりょう皇帝こうてい直轄ちょっかつとして統治とうちしたことから、この領域りょういきを「なかくに」という意味いみとして中国ちゅうごくまんしゅうᡩᡠᠯᡳᠮᠪᠠᡳ
ᡤᡠᡵᡠᠨ
ドゥリンバイ・グルン、dulimbai gurun)とんだものである。

清朝せいちょう政府せいふ主権しゅけん国家こっか体制たいせい国籍こくせき条例じょうれい重要じゅうようせい認識にんしきし、国籍こくせきほう国名こくめいは「中国ちゅうごく」をさだめている[19]20世紀せいき初期しょきりょうあきらちょうは『中国ちゅうごくじょろん』において、自国じこく主権しゅけん国家こっか国名こくめいをどうするかなやみ、「ささえ」は外国がいこくじんんだものでみずか命名めいめいしたものではなく、「中華ちゅうか」「中国ちゅうごく」は自尊じそん自大じだい非難ひなんされる、といずれも欠点けってんがあるとしたうえで、そのなかから便宜べんぎてきに「中国ちゅうごく」の国名こくめい使用しよう提案ていあんした[20][21]

中国ちゅうごく」や「中国人ちゅうごくじん」の範囲はんいをどのように設定せっていするかについては20世紀せいきはいっても議論ぎろんつづいた。たとえば共和きょうわ革命かくめいのイデオローグあきら炳麟は「中華民国ちゅうかみんこくかい[22]中国ちゅうごく範囲はんいを「さきかんぐんけん設置せっちされた領域りょういき」、中国人ちゅうごくじんを「みかど子孫しそん」と定義ていぎ朝鮮ちょうせんかんだいらくなみぐんおびかたぐんかれた)やベトナムを「中華民国ちゅうかみんこく絶対ぜったい回復かいふくすべき領域りょういき」、ビルマを「ややこれに領域りょういき」とする一方いっぽうモンゴルこうむいにしえ)やチベット西蔵とりぞう)、ひがしトルキスタンかい)は、かんだいこおりけんかれず、「さんあらふく」であったことから、中華民国ちゅうかみんこく参加さんかするのも自立じりつするのも、かれ自身じしんまかせるべき、としている。まごぶん革命かくめいは、きよしぞくすでかん民族みんぞく同化どうかしており[23]まんしゅうこうむふる服属ふくぞくすると主張しゅちょうした[24]一方いっぽうりょうあきらちょう立憲りっけんは、かく民族みんぞくひとつにすることで、きよし現在げんざい領土りょうど維持いじすべきと反論はんろんした[25][26][27]双方そうほう論争ろんそうなか主張しゅちょう接近せっきんし、きよし現行げんこう領土りょうどたもったうえでかくエスニックグループ融合ゆうごうして「中華ちゅうか民族みんぞく」というひとつの民族みんぞくつくげる構想こうそうができた[27]

歴史れきしがくにおいてはきよし中国ちゅうごくとするかについても議論ぎろんがある。しん清史きよしは1990年代ねんだいなかばにはじまる歴史れきしがくてき傾向けいこうであり、きよし王朝おうちょうまんしゅうじん王朝おうちょうとしての性質せいしつ強調きょうちょうしている。以前いぜん歴史れきしかんでは中国ちゅうごく中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく)の歴史れきし中心ちゅうしん漢人かんどちから強調きょうちょうし、きよし中華ちゅうか王朝おうちょうとしてまんしゅうじん漢人かんど同化どうかしたこと、つまり「かん」がおおきな役割やくわりたしたとされていた。しかし1980年代ねんだいから1990年代ねんだい初頭しょとうにかけて、日本にっぽんやアメリカの学者がくしゃたちはまんしゅうモンゴルチベットロシアひとし漢字かんじ文献ぶんけん以外いがい文献ぶんけん実地じっち研究けんきゅう重視じゅうしし、まんしゅうじんまんしゅう伝統でんとうである騎射きしゃたもち、それぞれの地域ちいきことなった体制たいせい統治とうちしていたため長期ちょうきてき支配しはいおこなえたとし、中華ちゅうか王朝おうちょうよりも中央ちゅうおうユーラシアてき体制たいせい強調きょうちょうしている。まんしゅうじん母語ぼごはアルタイけい言語げんごであるまんしゅうであったこと、広大こうだい領域りょういきゆうした領土りょうどの4ぶんの3が漢字かんじけんであったことなど「清朝せいちょうはたかん以来いらい中国ちゅうごく王朝おうちょう伝統でんとう最後さいご中華ちゅうか王朝おうちょうである」という一般いっぱん流布るふしている視点してん正確せいかくではないとしており、[28]中華ちゅうか王朝おうちょうという意味いみ中国ちゅうごくはあくまできよし一部いちぶでありきよし中国ちゅうごくではないとしている。

中国ちゅうごく国内こくないでは「あたらし清史きよし」の学術がくじゅつてき成果せいかみとめられつつあるものの、「かん」を否定ひていする主張しゅちょうについては反対はんたい根強ねづよくある。2016ねんにおいてもりゅうぶんおおとりが「内陸ないりくしゅう視野しやてきあたらし清史きよし研究けんきゅう」で「『あたらし清史きよし』は内陸ないりくアジアという地理ちりてき文化ぶんかてき概念がいねん政治せいじてき概念がいねんえたことにより中国ちゅうごく民族みんぞくてき国家こっか正統せいとうせい批判ひはんしている」としていることからも、現在げんざい中国ちゅうごくにおいてはしんしん学術がくじゅつてき価値かちみとめられつつも、その主張しゅちょうには依然いぜんとして反対はんたいするながれに変化へんかいようである[29]。 (New Qing History参照さんしょう)

からし革命かくめいでは、「中華民国ちゅうかみんこく」と呼称こしょうされていたが[30]共和きょうわ勢力せいりょくによる政権せいけん獲得かくとく現実げんじつのものとなっていくのにともない、ささえ独立どくりつという理想りそうろんかげひそめ、清朝せいちょう1912ねん段階だんかいまで連合れんごうしていた「ささえまんしゅうモンゴルチベットひがしトルキスタン」の範囲はんいをそのまま枠組わくぐみとする「中国ちゅうごく」で、近代きんだいてき国民こくみん国家こっか形成けいせい目指めざされることとなった。しかし、そのような議論ぎろんはモンゴルやチベット、ひがしトルキスタンの人々ひとびと意思いしとは無関係むかんけいめられており[20]実際じっさいにはかん民族みんぞくとの連携れんけい重視じゅうしはじめた清朝せいちょうたいする反発はんぱつしょ外国がいこく影響えいきょうけてささえ地域ちいき以外いがいでは自立じりつうごきがみられ、これらの地域ちいきさい統合とうごう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつされることになる。

中国ちゅうごく」「中華ちゅうか」は中華民国ちゅうかみんこくおよび中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくにおいて、それぞれの国号こくごうとなった。「中国ちゅうごく」「中華ちゅうか」という用語ようごっていた「かん民族みんぞくのアイデンティティ」という要素ようそは、「民族みんぞく仲直なかなおりと統一とういつ」という要素ようそとしてさい構成こうせいされ、民族みんぞく構成こうせいいん主体しゅたいとなって建設けんせつした「中国ちゅうごく文化ぶんか優越ゆうえつせい」だけが共通きょうつう分母ぶんぼとしてくようになった。そしてそのぬしという意味いみの「華人かじん」「華僑かきょう」という呼称こしょうまれた。

今日きょう中国ちゅうごくでは、かん民族みんぞく以外いがいすうおおくの少数しょうすう民族みんぞく居住きょじゅうしており、そのかず中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく政府せいふ公式こうしき認定にんていしているものだけでも55をかぞえる[31]。なお、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく憲法けんぽうではかん民族みんぞくふくすべての民族みんぞくを「中華ちゅうか民族みんぞく」と規定きていしている[32]

中国ちゅうごく」の呼称こしょう変遷へんせん

本節ほんぶしでは、地域ちいきからの呼称こしょう変遷へんせんについて記載きさいする。これらの呼称こしょうは、地理ちりてき意味合いみあいだけではなく、中華ちゅうか王朝おうちょう政権せいけんえた通史つうしてき呼称こしょうとしても利用りようされた。

「セリカ」

ヘレニズム文明ぶんめい時代じだい、ギリシアからみて北西ほくせいヨーロッパ南東なんとうアジア南西なんせいアフリカ北東ほくとうスキティアばれたが、このアジアのさらにひがしインダスがわひがし)にインディアがあり、インディアとスキティアのさらにひがしが「セリカ」とされていた。これはきぬいと)を意味いみする「セーリコン」(σηρικον)に由来ゆらいし、いわゆる中国ちゅうごくをさしていた。きぬをもたらした中国ちゅうごく商人しょうにんは「セール」(σしぐまηいーたρろー)(複数ふくすうがた:「セーレス」(σηρεσ, Seres))とばれ、「セーリコン」は英語えいごロシアなどで「きぬ」をあらわ言葉ことば語源ごげんともなっている。その、「セリカ」は後述こうじゅつする「チーナ」に由来ゆらいする「スィーン」がつたわるとその系統けいとう呼称こしょうってわられた。

はた」に由来ゆらいする呼称こしょう

漢字かんじ文化ぶんかけん以外いがいからは、ふるくははた由来ゆらいするとかんがえられるチーナ、シーナという呼称こしょう一般いっぱんてきもちいられ、古代こだいインドではチーナスタンともんだ。これが仏典ぶってんにおいてかんやくされ、「はた」「ささえ」「ふるえだん」「」などの漢字かんじをあてられる[33]。この系統けいとう呼称こしょうはインドをつうじて中東ちゅうとうつたわってアラビアなどの中東ちゅうとう言語げんごではSīnスィーンとなる。また、さらのちにはインドの言葉ことばから直接ちょくせつヨーロッパの言葉ことばれられ、Chinaチャイナ英語えいご)、Chineシーヌフランス語ふらんすご)などの呼称こしょう変化へんかした。日本にっぽんでも「はた」に由来ゆらいして、「ささえ」が仏教ぶっきょう文献ぶんけんではふるくから利用りようされてきた。「ささえ」は明治めいじ時代じだいはいると、欧米おうべいSinology訳語やくごとしてれられ、中華ちゅうか王朝おうちょう政権せいけんえた通史つうしてき呼称こしょうとして昭和しょうわ中期ちゅうきまで利用りようされた。

かん」に由来ゆらいする呼称こしょう

最初さいしょ統一とういつ王朝おうちょうながら短命たんめいわったはた王朝おうちょうわって400年間ねんかんわたって中国ちゅうごく支配しはいしたかん王朝おうちょう前漢ぜんかんこうかん)の時代じだいに、かん民族みんぞく中心ちゅうしんとする中国ちゅうごく版図はんと定着ていちゃくしていった。そのため、「かん民族みんぞく」や「漢字かんじ」のような言葉ことばかん使つかわれている。また、日本にっぽんでは「から」のおとを「かん」のにあてるれいもある。

つぶせばつ」に由来ゆらいする呼称こしょう

7世紀せいきすえから8世紀せいき初頭しょとう突厥だい突厥帝国ていこく)の人々ひとびとのこしたテュルク文字もじ碑文ひぶんにおいて中国ちゅうごく人々ひとびとして使つかわれている呼称こしょうに「タブガチュ(タブガチ、Tabgach、Tabγがんまač)」があり、きた中国ちゅうごくきたたかしてた鮮卑つぶせばつつぶせばつ由来ゆらいするとかんがえられている(白鳥庫吉しらとりくらきちポール・ペリオらのせつ桑原くわばら隲蔵から家子いえこ由来ゆらいするとのせつ、つまりから由来ゆらいせつとなえた)。

タブガチュの系統けいとう呼称こしょうは、1069ねんクタドゥグ・ビリグにおけるタフカチやTamghaj、Tomghaj、Toughajなど突厥以後いご中央ちゅうおうアジアひろ使つかわれた。1220ねん - 1224ねん西方せいほうたびしたおか長春ちょうしゅん長春ちょうしゅん真人しんじん)は「もも花石はないし」と記録きろくしている。11世紀せいき - 12世紀せいきカラハンあさ (Qarakhanid dynasty) においてはすうにんあせがTabghach (Tavghach) というである。しかしモンゴル帝国ていこく時代じだい前後ぜんこう後述こうじゅつするキタイにってわられた。

なお、テュルク文字もじ碑文ひぶん以前いぜんひがしマ帝国まていこく歴史れきしテオフィラクトス・シモカッタの7世紀せいき前半ぜんはんかれたとみられる突厥によるやわしか滅亡めつぼう552ねん関連かんれん記事きじにタウガス (Taugas) との記載きさいがあり、これもどう系統けいとう呼称こしょうおもわれる。記事きじかれた時期じきずいすえ - から初期しょきおもわれ、やわしか滅亡めつぼう西にしたかしからきたあまねあずまたかしからきたひとしへの禅譲ぜんじょうどう時期じきとなる。

とう」に由来ゆらいする呼称こしょう

江戸えど時代じだい以前いぜん日本にっぽん人々ひとびとは、しばしば遣唐使けんとうしつうじてなが交渉こうしょうったとう国号こくごうをもって中国ちゅうごくんだ。日本にっぽん古語こごでは、外国がいこく意味いみする「から」のおとを「とう」のにあてるれいおおい。中国ちゅうごくを「唐土とうど(もろこし)」と呼称こしょうしたり、日本にっぽん来航らいこうする中国ちゅうごく商人しょうにんは「唐人とうじん(からびと、とうじん)」とばれ、文語ぶんご中国語ちゅうごくごを「漢文かんぶん」というのにたいして口語こうご中国ちゅうごくは「とう(からことば)」とばれた。また、かつて東南とうなんアジア台湾たいわんふくむ)などの華人かじん祖国そこくを「唐山からやま」とんだ。

ちぎり」に由来ゆらいする呼称こしょう

11世紀せいきごろ中国ちゅうごく北辺ほくへん支配しはいしたキタイ(ちぎりにんりょう王朝おうちょうから、12世紀せいきから13世紀せいきの、モンゴル高原こうげんのモンゴルじんは、中国ちゅうごくキタイび、モンゴル帝国ていこくによる征服せいふく活動かつどう結果けっかとして、内陸ないりくユーラシアのテュルクひがしスラヴなどでは、中国ちゅうごくのことをキタイにもとづく呼称こしょうぶようになった。13世紀せいき後半こうはんに、元朝がんちょう統治とうち中国ちゅうごくマルコ・ポーロは、きた中国ちゅうごくのことをカタイという記録きろくした。ロシアウクライナブルガリアカザフスタンでは現在げんざい中国ちゅうごくのことを Китай (Kitaj)ウズベキスタンではXitoyとんでいる。西にしヨーロッパにはCathayとしてつたわり、キャセイパシフィック航空こうくう社名しゃめいなどに使つかわれているが、Chinaにくらべるとあまり広汎こうはんもちいられる呼称こしょうではない。

脚注きゃくちゅう

注釈ちゅうしゃく

  1. ^ たとえば軍人ぐんじんみことのりさとしには、「むかし神武じんむ天皇てんのうみずか大伴おおとも物部ものべへいどもをりつゐ、中国ちゅうごくのまつろはぬものどもをたいらげきゅうひ…」とある。
  2. ^ 西域せいいきみやこまもる領域りょういきが「中国ちゅうごく」と認識にんしきされていたかどうかについては別途べっと出典しゅってんようする
  3. ^ そもそも中国ちゅうごく大陸たいりくには近代きんだいまで「国家こっか」という概念がいねんはなく、皇帝こうてい中華ちゅうか思想しそうのもとみずからを地上ちじょう唯一ゆいいつ天子てんしだとかんがえた。そして、かく時代じだいにおいて民衆みんしゅうは、その圧制あっせいからのがれるために万里ばんり長城ちょうじょうえて周辺しゅうへん地域ちいきうつみ、それを中央ちゅうおう再度さいど膨張ぼうちょうしていったのが中国ちゅうごく概念がいねん)であり、その過程かていにおいて近代きんだいになって注目ちゅうもくされはじめたのがチベットやウイグル、モンゴルなどでられる民族みんぞく宗教しゅうきょう問題もんだいである。

出典しゅってん

  1. ^ 外務省がいむしょう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく
  2. ^ 中国ちゅうごく - Yahoo!ニュース Archived 2014ねん6がつ15にち, at the Wayback Machine.
  3. ^ 地球ちきゅうあるかた > 中国ちゅうごく概要がいよう[リンク]
  4. ^ a b 佐川さがわ, 英治えいじ杉山すぎやま, 清彦きよひこ中国ちゅうごく東部とうぶユーラシアの歴史れきし』NHK出版しゅっぱん、2020ねん2がつ1にち、14-15ぺーじISBN 4595321899 
  5. ^ 漢書かんしょ西域せいいきでんまき4「及秦はじめすめらぎ攘卻えびす狄,ちく長城ちょうじょうかい中國ちゅうごく
  6. ^ 漢書かんしょみぞ恤志まき29
  7. ^ しおてつろん』「功業こうぎょうについて」p250で南越なんごし王国おうこく征服せいふくのくだりで、「南越なんごし中国ちゅうごくしたがった」と記載きさいがある
  8. ^ 邦訳ほうやくしおてつろん』「じゅうよん物価ぶっか安定あんていについて(輕重けいちょうだいじゅうよん)」p76-77(辺境へんきょうぐんあたりぐん)が中國ちゅうごく対置たいちされている。 あたりぐんとは辺境へんきょうぐんのことであり、ぐんとは行政ぎょうせい機構きこうぐんであるから、あたりぐんとはたけみかど新規しんき征服せいふくした「中国ちゅうごく」の外部がいぶ地域ちいきであるとかんがえられる。「じゅうろく領土りょうど拡張かくちょうについて(ひろだいじゅうろく)」p85でも辺境へんきょうぐん中国ちゅうごく対置たいちされている。 に「よんよんはた評価ひょうかについて(誅秦だいよんじゅうよん)」p216などがある。
  9. ^ 邦訳ほうやくしおてつろん』「農業のうぎょうちかられることについて(ちからこうだい)」p12-13、「ろく復古ふっこについて(復古ふっこだいろく)p33」、「じゅうろく領土りょうど拡張かくちょうについて」p88、など
  10. ^ さんなな れいをとうとぶことについて(たかしれいだいさんじゅうなな)」p189
  11. ^ 東洋文庫とうようぶんこしおてつろん』39しょうp199のわけでは「ちゅうなつ
  12. ^ よんさん和議わぎをむすぶことについて(ゆいだいよんじゅうさん)」p211
  13. ^ 功業こうぎょうについて(論功ろんこうだいじゅう)」p218「いまかん領土りょうどひろく(こん以漢こくだい)」
  14. ^ しんとうしょ まき215じょう 突厥じょう, 6023ぺーじ
  15. ^ しんから書巻しょかん220列伝れつでんだい145だかうららでんに「遼東りゃおとん中國ちゅうごくぐんけん」(遼東りゃおとんいま高句麗こうくり領土りょうどであるがかつては中国ちゅうごくぐんけんであった)という文章ぶんしょうがあり、あかりまき320列伝れつでんだい209「外国がいこく/やすみなみ」の記載きさいにも「あん南本みなみもと中國ちゅうごく」(やすみなみ(ベトナム社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくなか北部ほくぶ)は、もとは中国ちゅうごくであった)とある。
  16. ^ 後藤ごとう多聞たもん『ふたつのみや』NHK出版しゅっぱん
  17. ^ 欽定きんていだいしんかいてんまき五十六いそろくおっとたいとおじん頌述朝廷ちょうてい,しょう中國ちゅうごくあるしょう天朝てんちょう,乃一定いってい
  18. ^ 間宮まみや林蔵りんぞうじゅつ村上むらかみ貞助さだすけへんひがし紀行きこう国立こくりつ公文書こうぶんしょかんデシタルアーカイブ ひがし地方ちほう紀行きこう ちゅうまき文化ぶんかはちねん(1811ねんふで原本げんぽん画像がぞう
  19. ^ 閻立「<論考ろんこう> 「だいきよし国籍こくせき条例じょうれい」の制定せいてい施行しこう日本にっぽん (経営けいえい学部がくぶ特集とくしゅうごう)」『大阪おおさかけいだい論集ろんしゅうだい63かんだい4ごう、2012ねん11月、283-298ぺーじISSN 0474-7909CRID 1050282677460618752 
  20. ^ a b 佐川さがわ, 英治えいじ杉山すぎやま, 清彦きよひこ中国ちゅうごく東部とうぶユーラシアの歴史れきし』NHK出版しゅっぱん、2020ねん2がつ1にち、215-218ぺーじISBN 4595321899 
  21. ^ 川島かわしましん最初さいしょ歴史れきし教科書問題きょうかしょもんだい」(日本経済新聞にほんけいざいしんぶん、2009ねん10がつ26にち
  22. ^ 1906ねん中国ちゅうごく革命かくめい同盟どうめいかい機関きかんみんほう誌上しじょう発表はっぴょう
  23. ^ 佐川さがわ, 英治えいじ杉山すぎやま, 清彦きよひこ中国ちゅうごく東部とうぶユーラシアの歴史れきし』NHK出版しゅっぱん、2020ねん2がつ1にち、228-230ぺーじISBN 4595321899 
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  31. ^ 佐川さがわ, 英治えいじ杉山すぎやま, 清彦きよひこ中国ちゅうごく東部とうぶユーラシアの歴史れきし』NHK出版しゅっぱん、2020ねん2がつ1にち、19-20,254-257ぺーじISBN 4595321899 
  32. ^ 中国ちゅうごくいきおす「みかど崇拝すうはい 愛国心あいこくしん鼓舞こぶ少数しょうすう民族みんぞく抑圧よくあつ紙一重かみひとえ. 北海道新聞ほっかいどうしんぶん. (2014ねん5がつ18にち). https://web.archive.org/web/20150424010908/http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/international/international/1-0124959.html 2014ねん5がつ18にち閲覧えつらん 
  33. ^ この訳語やくごは、「中国ちゅうごく」という言葉ことば一致いっちしない、という見解けんかいがあるが、しんとうしょ列傳れつでんだい146じょう/西域せいいきじょう/天竺てんじくこくには、当時とうじのインドの用語ようご「シナ」をとうがわでは「中国ちゅうごく」と理解りかいしていた用例ようれいのこっている。とうから当時とうじきたインドを支配しはいしていたヴァルダナあさマガダこく使者ししゃおくられ、から使つかいむかえたマガダおう家臣かしんに「いにしえよりマハーチーナ(だいシナという意味いみ)の使者ししゃがわがくにたことはあったのか?」とい、家臣かしんが「ありません」と回答かいとうした文章ぶんしょうつづいて、「えびす(えびす)の言葉ことばでは中国ちゅうごくをマハーチーナす」との解説かいせつされている。原文げんぶん以下いか「「ふるまたゆう訶震だん使者ししゃいたりわれこく乎?」みな曰:「ゆう。」えびすげん中國ちゅうごくため訶震だん

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