(Translated by https://www.hiragana.jp/)
「エリック・クラプトン」の版間の差分 - Wikipedia コンテンツにスキップ

「エリック・クラプトン」のはんあいだ差分さぶん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除さくじょされた内容ないよう 追加ついかされた内容ないよう
情報じょうほう追加ついか
 
(7にん利用りようしゃによる、あいだの8はん表示ひょうじ)
81ぎょう: 81ぎょう:
{{Main|クリーム (バンド)}}
{{Main|クリーム (バンド)}}
[[File:Cream Clapton Bruce Baker 1960s.jpg|thumb|クリーム - ひだりから、ベイカー、ブルース、クラプトン(1966ねん)]]
[[File:Cream Clapton Bruce Baker 1960s.jpg|thumb|クリーム - ひだりから、ベイカー、ブルース、クラプトン(1966ねん)]]
クラプトンは1966ねん7がつにブルースブレイカーズをり([[ピーター・グリーン (ミュージシャン)|ピーター・グリーン]]がわりに加入かにゅうした。)、ドラマーの[[ジンジャー・ベイカー]]にさそわれて、ベースの[[ジャック・ブルース]](ブルースはかつてブルースブレイカーズ、[[グラハム・ボンド]]・オーガニゼーション、[[マンフレッド・マン]]に所属しょぞくしていた。<ref>{{Pop Chronicles|53}}</ref>)とともにクリームを結成けっせいした。クリームは初期しょきの[[スーパーグループ]]のひとつであった。クラプトンはクリームを結成けっせいする以前いぜんは、アメリカではあまられていなかった。かれは「フォー・ユア・ラヴ」がアメリカのトップ10りするまえにヤードバーズをり、アメリカではショーに出演しゅつえんしたことがかった<ref>{{cite web2|last=Unterberger |first=Richie |url={{AllMusic|class=artist|id=p3983|pure_url=yes}} |title=Cream |publisher=AllMusic |access-date=22 August 2010}}</ref>。クリーム在籍ざいせきちゅう、クラプトンはシンガー、ソングライター、ギタリストとして成長せいちょうはじめたが、バンドのリードヴォーカルはブルースがだい部分ぶぶん担当たんとうし、作詞さくしの[[ピート・ブラウン]]と一緒いっしょきょく大半たいはんいた<ref name="unuhsh"/>。クリームの最初さいしょのギグは1966ねん7がつ29にちにマンチェスターの[[:w:en:Twisted Wheel Club|ツイステッド・ホイール・クラブ]]でおこなわれ非公式ひこうしきもので、正式せいしきなデビューはそのにち、[[ウィンザー (イングランド)|ウィンザー]]の[[:w:en:National Jazz and Blues Festival|ナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティバル]]であった。クリームはだい音量おんりょうのブルース・ジャムと、ソロのライブステージでその永続えいぞくてき伝説でんせつ確立かくりつした。
クラプトンは1966ねん7がつにブルースブレイカーズをり([[ピーター・グリーン (ミュージシャン)|ピーター・グリーン]]がわりに加入かにゅうした。)、ドラマーの[[ジンジャー・ベイカー]]にさそわれて、ベースの[[ジャック・ブルース]](ブルースはかつてブルースブレイカーズ、[[グレアム・ボンド]]・オーガニゼーション、[[マンフレッド・マン]]に所属しょぞくしていた。<ref>{{Pop Chronicles|53}}</ref>)とともにクリームを結成けっせいした。クリームは初期しょきの[[スーパーグループ]]のひとつであった。クラプトンはクリームを結成けっせいする以前いぜんは、アメリカではあまられていなかった。かれは「フォー・ユア・ラヴ」がアメリカのトップ10りするまえにヤードバーズをり、アメリカではショーに出演しゅつえんしたことがかった<ref>{{cite web2|last=Unterberger |first=Richie |url={{AllMusic|class=artist|id=p3983|pure_url=yes}} |title=Cream |publisher=AllMusic |access-date=22 August 2010}}</ref>。クリーム在籍ざいせきちゅう、クラプトンはシンガー、ソングライター、ギタリストとして成長せいちょうはじめたが、バンドのリードヴォーカルはブルースがだい部分ぶぶん担当たんとうし、作詞さくしの[[ピート・ブラウン]]と一緒いっしょきょく大半たいはんいた<ref name="unuhsh"/>。クリームの最初さいしょのギグは1966ねん7がつ29にちにマンチェスターの[[:w:en:Twisted Wheel Club|ツイステッド・ホイール・クラブ]]でおこなわれ非公式ひこうしきもので、正式せいしきなデビューはそのにち、[[ウィンザー (イングランド)|ウィンザー]]の[[:w:en:National Jazz and Blues Festival|ナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティバル]]であった。クリームはだい音量おんりょうのブルース・ジャムと、ソロのライブステージでその永続えいぞくてき伝説でんせつ確立かくりつした。


1967ねんはじめまでに、イギリスで出現しゅつげんしたブルースロックのファンは、クラプトンをイギリスのトップギタリストとして描写びょうしゃはじめた。しかしクラプトンは、[[アシッドロック]]をんだギタリストである[[ジミ・ヘンドリックス]]の登場とうじょうで、かれがライバルであることにがついた。ヘンドリックスは、[[ハウリング|フィードバック奏法そうほう]]と[[エフェクター|エフェクトペダル]]を使用しようしてあたらしいサウンドをつくした<ref name="Jam"/>。ヘンドリックスは1966ねん10がつ1にちに[[ウェストミンスター大学だいがく|セントラル・ロンドン・ポリテクニック]]でおこなわれたクリームのライブに出演しゅつえんし、そのあいだかれは「[[キリング・フロアー]]」のダブルタイムバージョンを演奏えんそうした<ref name="Jam">{{cite news|title=Hendrix jams with Cream|url=https://www.bbc.co.uk/music/sevenages/events/blues-based-rock/hendrix-jams-with-cream/|publisher=BBC|date=24 April 2016|access-date=13 February 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20171220045148/http://www.bbc.co.uk/music/sevenages/events/blues-based-rock/hendrix-jams-with-cream/|archive-date=20 December 2017|url-status=live}}</ref>。クラプトン、[[ピート・タウンゼント]]、[[ローリング・ストーンズ]]や[[ビートルズ]]のメンバーをふくむイギリスのトップスターたちは、ヘンドリックスの初期しょきのクラブパフォーマンスに熱心ねっしん参加さんかした。ヘンドリックスの到着とうちゃくは、クラプトンのキャリアのつぎ段階だんかい即座そくざおおきな影響えいきょうおよぼした<ref>Shadwick, Keith (2003). Jimi Hendrix: Musician. P. 84. Backbeat Books</ref>。
1967ねんはじめまでに、イギリスで出現しゅつげんしたブルースロックのファンは、クラプトンをイギリスのトップギタリストとして描写びょうしゃはじめた。しかしクラプトンは、[[アシッドロック]]をんだギタリストである[[ジミ・ヘンドリックス]]の登場とうじょうで、かれがライバルであることにがついた。ヘンドリックスは、[[ハウリング|フィードバック奏法そうほう]]と[[エフェクター|エフェクトペダル]]を使用しようしてあたらしいサウンドをつくした<ref name="Jam"/>。ヘンドリックスは1966ねん10がつ1にちに[[ウェストミンスター大学だいがく|セントラル・ロンドン・ポリテクニック]]でおこなわれたクリームのライブに出演しゅつえんし、そのあいだかれは「[[キリング・フロアー]]」のダブルタイムバージョンを演奏えんそうした<ref name="Jam">{{cite news|title=Hendrix jams with Cream|url=https://www.bbc.co.uk/music/sevenages/events/blues-based-rock/hendrix-jams-with-cream/|publisher=BBC|date=24 April 2016|access-date=13 February 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20171220045148/http://www.bbc.co.uk/music/sevenages/events/blues-based-rock/hendrix-jams-with-cream/|archive-date=20 December 2017|url-status=live}}</ref>。クラプトン、[[ピート・タウンゼント]]、[[ローリング・ストーンズ]]や[[ビートルズ]]のメンバーをふくむイギリスのトップスターたちは、ヘンドリックスの初期しょきのクラブパフォーマンスに熱心ねっしん参加さんかした。ヘンドリックスの到着とうちゃくは、クラプトンのキャリアのつぎ段階だんかい即座そくざおおきな影響えいきょうおよぼした<ref>Shadwick, Keith (2003). Jimi Hendrix: Musician. P. 84. Backbeat Books</ref>。
125ぎょう: 125ぎょう:
かれらはもともと「エリック・クラプトン・アンド・フレンズ」とばれていた。最終さいしゅうてき名前なまえは、バンドの暫定ざんていてき名前なまえである「デル・アンド・ザ・ダイナモス」が誤解ごかいされ「デレク・アンド・ザ・ドミノス」となり、まぐれでそれに決定けっていした<ref>{{cite web2|url=http://www.artistfacts.com/detail.php?id=100|work=Artistfacts|title=Derek And The Dominoes|access-date=17 February 2007|archive-url=https://web.archive.org/web/20070202112652/http://www.artistfacts.com/detail.php?id=100|archive-date=2 February 2007|url-status=live}}</ref>。クラプトンの伝記でんきによると、[[:w:en:Ashton, Gardner and Dyke|アシュトン、ガードナー・アンド・ダイク]]の[[トニー・アシュトン]]はクラプトンにバンドを「デル・アンド・ドミノス」とぶようにったとする。当時とうじ「デル」はエリック・クラプトンのニックネームだった。デルとエリックは結合けつごうされ、最終さいしゅうてき名前なまえは「デレク・アンド・ザ・ドミノス」になった<ref name = "nxfddy">Schumacher, Michael (1992)</ref>。
かれらはもともと「エリック・クラプトン・アンド・フレンズ」とばれていた。最終さいしゅうてき名前なまえは、バンドの暫定ざんていてき名前なまえである「デル・アンド・ザ・ダイナモス」が誤解ごかいされ「デレク・アンド・ザ・ドミノス」となり、まぐれでそれに決定けっていした<ref>{{cite web2|url=http://www.artistfacts.com/detail.php?id=100|work=Artistfacts|title=Derek And The Dominoes|access-date=17 February 2007|archive-url=https://web.archive.org/web/20070202112652/http://www.artistfacts.com/detail.php?id=100|archive-date=2 February 2007|url-status=live}}</ref>。クラプトンの伝記でんきによると、[[:w:en:Ashton, Gardner and Dyke|アシュトン、ガードナー・アンド・ダイク]]の[[トニー・アシュトン]]はクラプトンにバンドを「デル・アンド・ドミノス」とぶようにったとする。当時とうじ「デル」はエリック・クラプトンのニックネームだった。デルとエリックは結合けつごうされ、最終さいしゅうてき名前なまえは「デレク・アンド・ザ・ドミノス」になった<ref name = "nxfddy">Schumacher, Michael (1992)</ref>。


クラプトンはジョージ・ハリスンと親密しんみつ交際こうさいをするようになり、その過程かていでハリソンのつまの[[パティ・ボイド]]と出会であう。かれはボイドにふか夢中むちゅうになった。ボイドはクラプトンの恋心こいごころ拍車はくしゃをかけ、かれ片思かたおもいはドミノスのアルバム『[[いとしのレイラ (アルバム)|いとしのレイラ]]』のきょく大半たいはんあらわれた。ブルースの影響えいきょうつよけたこのアルバムは、クラプトンと[[デュアン・オールマン]]のツインリードギターをフィーチャーし、オールマンのスライドギターがサウンドの重要じゅうよう要素ようそとなっている。ドミノスは[[マイアミ]]の[[クライテリア・スタジオ]]で、[[アトランティック・レコード]]のプロデューサーの[[トム・ダウド]]とともに2まいぐみアルバムのレコーディングをおこなった。
クラプトンはジョージ・ハリスンと親密しんみつ交際こうさいをするようになり、その過程かていでハリソンのつまの[[パティ・ボイド]]と出会であう。かれはボイドにふか夢中むちゅうになった。ボイドはクラプトンの恋心こいごころ拍車はくしゃをかけ、かれ片思かたおもいはドミノスのアルバム『[[いとしのレイラ (アルバム)|いとしのレイラ]]』のきょく大半たいはんあらわれた。ブルースの影響えいきょうつよけたこのアルバムは、クラプトンと[[デュアン・オールマン]]のツインリードギターをフィーチャーし、オールマンの[[スライドギター]]がサウンドの重要じゅうよう要素ようそとなっている。ドミノスは[[マイアミ]]の[[クライテリア・スタジオ]]で、[[アトランティック・レコード]]のプロデューサーの[[トム・ダウド]]とともに2まいぐみアルバムのレコーディングをおこなった。


アルバムにはヒットきょく「[[いとしのレイラ]]」がふくまれる。これは12世紀せいきの[[ペルシア文学ぶんがく]]の詩人しじん、[[ニザーミー|ニザーミー・ギャンジェヴィー]]による『[[ライラとマジュヌーン]]』にインスパイアされたものである。このほんは[[イスラム教いすらむきょう]]に改宗かいしゅうした友人ゆうじんの[[イアン・ダラス]]がクラプトンにわたした。物語ものがたりは、父親ちちおや結婚けっこんきんじられたつき王女おうじょと、彼女かのじょ絶望ぜつぼうてきこいする若者わかものマジュヌーンがくるってしまうとげんうもので、クラプトンにふか感銘かんめいあたえた<ref>{{Cite book|first=William |last=McKeen |title=Rock and roll is here to stay: an anthology |publisher=W. W. Norton & Company |year=2000 |page=127 |quote=Clapton poured all he had into Layla's title track, which was inspired by the Persian love story he had read, the story of Layla and Majnun.}}</ref><ref>{{Cite book |first=Gene |last=Santoro |title=Dancing in Your Head: Jazz, Blues, Rock, and Beyond |publisher=Oxford University Press US |year=1995 |page=62 |quote=At the time, he started to read ''The story of Layla and Majnun'' by the Persian poet [[ニザーミー|Nizami Ganjavi]]}}</ref>。「レイラ」の2つのパートは別々べつべつのセッションで録音ろくおんされた。最初さいしょにオープニングのギターセクションが録音ろくおんされ、すう週間しゅうかんくわえられた2番目ばんめのセクションでは、ドラマーのジム・ゴードンがピアノパートのメロディーを演奏えんそうした。この部分ぶぶんはゴードンの作曲さっきょくとなっているが、ボビー・ウィットロックは[[リタ・クーリッジ]]がそのメロディーを作曲さっきょくしたとかたっている<ref name="nxfddy"/>。
アルバムにはヒットきょく「[[いとしのレイラ]]」がふくまれる。これは12世紀せいきの[[ペルシア文学ぶんがく]]の詩人しじん、[[ニザーミー|ニザーミー・ギャンジェヴィー]]による『[[ライラとマジュヌーン]]』にインスパイアされたものである。このほんは[[イスラム教いすらむきょう]]に改宗かいしゅうした友人ゆうじんの[[イアン・ダラス]]がクラプトンにわたした。物語ものがたりは、父親ちちおや結婚けっこんきんじられたつき王女おうじょと、彼女かのじょ絶望ぜつぼうてきこいする若者わかものマジュヌーンがくるってしまうとうもので、クラプトンにふか感銘かんめいあたえた<ref>{{Cite book|first=William |last=McKeen |title=Rock and roll is here to stay: an anthology |publisher=W. W. Norton & Company |year=2000 |page=127 |quote=Clapton poured all he had into Layla's title track, which was inspired by the Persian love story he had read, the story of Layla and Majnun.}}</ref><ref>{{Cite book |first=Gene |last=Santoro |title=Dancing in Your Head: Jazz, Blues, Rock, and Beyond |publisher=Oxford University Press US |year=1995 |page=62 |quote=At the time, he started to read ''The story of Layla and Majnun'' by the Persian poet [[ニザーミー|Nizami Ganjavi]]}}</ref>。「レイラ」の2つのパートは別々べつべつのセッションで録音ろくおんされた。最初さいしょにオープニングのギターセクションが録音ろくおんされ、すう週間しゅうかんくわえられた2番目ばんめのセクションでは、ドラマーのジム・ゴードンがピアノパートのメロディーを演奏えんそうした。この部分ぶぶんはゴードンの作曲さっきょくとなっているが、ボビー・ウィットロックは[[リタ・クーリッジ]]がそのメロディーを作曲さっきょくしたとかたっている<ref name="nxfddy"/>。


アルバム『レイラ』は、オールマン・ブラザーズ・バンドのギタリストである[[デュアン・オールマン]]の予期よきせぬ参加さんかのおかげで、実際じっさいには5にん編成へんせい録音ろくおんされた。セッションの数日すうじつ、オールマンズをプロデュースしていたダウドは、クラプトンをマイアミでのオールマン・ブラザーズの野外やがいコンサートに招待しょうたいした。2人ふたりのギタリストは最初さいしょにステージで出会であい、つぎにスタジオでいちばんちゅう演奏えんそうし、友人ゆうじんとなった。デュアンは最初さいしょに「[[テル・ザ・トゥルース]]」と「[[だれもらない]]」でスライドギターを演奏えんそうした。5ピースのドミノスは4日間にちかんで、「[[ハイウェイへの関門かんもん]]」、「[[あい経験けいけん]]」(フレディ・キングなどによって普及ふきゅうしたブルースの標準ひょうじゅん)、「[[こいかなしきもの]]」を録音ろくおんした。9月にデュアンは自分じぶんのバンドとのギグのためにセッションを一時いちじてきはなれ、4ピースのドミノスは「アイ・ルックト・アウェイ」、「[[ベル・ボトム・ブルース]]」、「キープ・オン・グロウイング」を録音ろくおんした。デュアンはレコーディングにもどり、「アイ・アム・ユアーズ」、「エニイデイ」、「イッツ・トゥー・レイト」を録音ろくおんした。9月9にちかれらは[[ジミ・ヘンドリックス]]のカバー「[[リトル・ウィング]]」とタイトルトラックをレコーディングした。翌日よくじつ最終さいしゅうきょく「イッツ・トゥー・レイト」が録音ろくおんされた<ref>"[[The Layla Sessions]]" CD liner notes.</ref>。
アルバム『レイラ』は、オールマン・ブラザーズ・バンドのギタリストである[[デュアン・オールマン]]の予期よきせぬ参加さんかのおかげで、実際じっさいには5にん編成へんせい録音ろくおんされた。セッションの数日すうじつ、オールマンズをプロデュースしていたダウドは、クラプトンをマイアミでのオールマン・ブラザーズの野外やがいコンサートに招待しょうたいした。2人ふたりのギタリストは最初さいしょにステージで出会であい、つぎにスタジオでいちばんちゅう演奏えんそうし、友人ゆうじんとなった。デュアンは最初さいしょに「[[テル・ザ・トゥルース]]」と「[[だれもらない]]」でスライドギターを演奏えんそうした。5ピースのドミノスは4日間にちかんで、「[[ハイウェイへの関門かんもん]]」、「[[あい経験けいけん]]」(フレディ・キングなどによって普及ふきゅうしたブルースの標準ひょうじゅん)、「[[こいかなしきもの]]」を録音ろくおんした。9月にデュアンは自分じぶんのバンドとのギグのためにセッションを一時いちじてきはなれ、4ピースのドミノスは「アイ・ルックト・アウェイ」、「[[ベル・ボトム・ブルース]]」、「キープ・オン・グロウイング」を録音ろくおんした。デュアンはレコーディングにもどり、「アイ・アム・ユアーズ」、「エニイデイ」、「イッツ・トゥー・レイト」を録音ろくおんした。9月9にちかれらは[[ジミ・ヘンドリックス]]のカバー「[[リトル・ウィング]]」とタイトルトラックをレコーディングした。翌日よくじつ最終さいしゅうきょく「イッツ・トゥー・レイト」が録音ろくおんされた<ref>"[[The Layla Sessions]]" CD liner notes.</ref>。
134ぎょう: 134ぎょう:
しかし、セッションちゅうにクラプトンはヘンドリックスの死去しきょのニュースにちのめされた。ヘンドリックスの前日ぜんじつの1970ねん9がつ17にち、クラプトンは誕生たんじょうプレゼントとしてヘンドリックスにおく予定よていだった左利ひだりきようのフェンダー・ストラトキャスターを購入こうにゅうしていた。クラプトンのなやみにくわえて、『レイラ』リリースのレビューはかんばしいものでなかった。動揺どうようしたグループは、オールマン・ブラザーズ・バンドにもどったオールマンなしでアメリカツアーをおこなった。クラプトンがのちにツアーはドラッグとアルコールにまみれたなかおこなわれたことをみとめたにもかかわらず、結果けっかとしてまいぐみのライブアルバム『[[イン・コンサート (デレク・アンド・ザ・ドミノスのアルバム)|イン・コンサート]]』をもたらし、それはたか評価ひょうかされた<ref>''[[The Layla Sessions]]'' liner notes, page 12.</ref>。
しかし、セッションちゅうにクラプトンはヘンドリックスの死去しきょのニュースにちのめされた。ヘンドリックスの前日ぜんじつの1970ねん9がつ17にち、クラプトンは誕生たんじょうプレゼントとしてヘンドリックスにおく予定よていだった左利ひだりきようのフェンダー・ストラトキャスターを購入こうにゅうしていた。クラプトンのなやみにくわえて、『レイラ』リリースのレビューはかんばしいものでなかった。動揺どうようしたグループは、オールマン・ブラザーズ・バンドにもどったオールマンなしでアメリカツアーをおこなった。クラプトンがのちにツアーはドラッグとアルコールにまみれたなかおこなわれたことをみとめたにもかかわらず、結果けっかとしてまいぐみのライブアルバム『[[イン・コンサート (デレク・アンド・ザ・ドミノスのアルバム)|イン・コンサート]]』をもたらし、それはたか評価ひょうかされた<ref>''[[The Layla Sessions]]'' liner notes, page 12.</ref>。


ドミノスは2まいのスタジオアルバムのレコーディングをおこなっていたが、エゴの衝突しょうとつこりクラプトンがったことでグループは解散かいさん。オールマンは1971ねん10がつ29にちのオートバイ事故じこ死去しきょした。クラプトンはのち自伝じでんで、フロリダでのレイラセッションちゅうかれとオールマンはってもれない関係かんけいになったといている。かれはオールマンのことを「かつてなかったが、ぼくがしたかった音楽おんがく兄弟きょうだい」としてかたっている<ref>Clapton, ''The Autobiography'', 128.</ref>。レイドルは1979ねんなつまでクラプトンのベーシストでありつづけたが、1980ねん5がつにアルコールと麻薬まやく影響えいきょう死去しきょした。クラプトンとウィットロックは2000ねんまで共演きょうえんすることはかった。2人ふたりは2000ねんに[[BBC]]の[[ジュールズ・ホランド]]の番組ばんぐみ「''[[:w:en:Later... with Jools Holland|Later... with Jools Holland]]''」でさい共演きょうえんした。ドミノスのもうひとつの悲劇ひげきはジム・ゴードンの運命うんめいである。かれは1983ねん母親ははおやをハンマーで殺害さつがい犯行はんこう当時とうじかれすでに[[統合とうごう失調しっちょうしょう]]に罹患りかんいたものの診断しんだんがついておらず、逮捕たいほはじめてただしく診断しんだんくだされた。1984ねん7がつ10日とおかかれ懲役ちょうえき16ねん判決はんけつけて収監しゅうかんされたのち、カリフォルニア医療いりょう施設しせつうつされ、2023ねん3がつ生涯しょうがいえた<ref name="unuhsh"/>。
ドミノスは2まいのスタジオアルバムのレコーディングをおこなっていたが、エゴの衝突しょうとつこりクラプトンがったことでグループは解散かいさん。オールマンは1971ねん10がつ29にちのオートバイ事故じこ死去しきょした。クラプトンはのち自伝じでんで、フロリダでのレイラセッションちゅうかれとオールマンはってもれない関係かんけいになったといている。かれはオールマンのことを「かつてなかったが、ぼくがしたかった音楽おんがく兄弟きょうだい」としてかたっている<ref>Clapton, ''The Autobiography'', 128.</ref>。レイドルは1979ねんなつまでクラプトンのベーシストでありつづけたが、1980ねん5がつにアルコールと麻薬まやく影響えいきょう死去しきょした。クラプトンとウィットロックは2000ねんまで共演きょうえんすることはかった。2人ふたりは2000ねんに[[BBC]]の[[ジュールズ・ホランド]]の番組ばんぐみ「''[[:w:en:Later... with Jools Holland|Later... with Jools Holland]]''」でさい共演きょうえんした。ドミノスのもうひとつの悲劇ひげきはジム・ゴードンの運命うんめいである。かれは1983ねん母親ははおやをハンマーで殺害さつがい犯行はんこう当時とうじかれすでに[[統合とうごう失調しっちょうしょう]]に罹患りかんいたものの診断しんだんがついておらず、逮捕たいほはじめてただしく診断しんだんくだされた。1984ねん7がつ10日とおかかれ懲役ちょうえき16ねん判決はんけつけて収監しゅうかんされたのち、カリフォルニア医療いりょう施設しせつうつされ、2023ねん3がつ生涯しょうがいえた<ref name="unuhsh"/>。


===個人こじんてき問題もんだい初期しょきのソロでの成功せいこう===
===個人こじんてき問題もんだい初期しょきのソロでの成功せいこう===
1970年代ねんだいのクラプトンの成功せいこうは、ロマンチックなあこがれとドラッグやアルコール中毒ちゅうどくなやまされ、もがきくるしんだ個人こじんてき生活せいかつとはまった対照たいしょうてきであった<ref>Marc Roberty, Chris Charlesworth (1995) [https://books.google.com/books?id=qpvlUrpH_xoC&pg=PA67&dq=eric+clapton+DRUGS+1970s&ct=result&resnum=4#v=onepage The complete guide to the music of Eric Clapton] p.67. Omnibus Press, 1995</ref>。かれはまだボイドに夢中むちゅうでハリスンとの友情ゆうじょうかれていたが、ドミノスの解散かいさんはサリーの自宅じたくじこもりツアーやレコーディングから距離きょりいた。かれは[[薬物やくぶつ乱用らんよう|ヘロイン中毒ちゅうどく]]の療養りょうようはいり、活動かつどう中断ちゅうだんした。1971ねん8がつかれはニューヨークで開催かいさいされたハリスンの[[バングラデシュ・コンサート]]に出演しゅつえん。ステージじょう気絶きぜつしたものの復帰ふっきし、なんとかパフォーマンスをえることができた<ref name="unuhsh"/>
1970年代ねんだいのクラプトンの成功せいこうは、ロマンチックなあこがれとドラッグやアルコール中毒ちゅうどくなやまされ、もがきくるしんだ個人こじんてき生活せいかつとはまった対照たいしょうてきであった<ref>Marc Roberty, Chris Charlesworth (1995) [https://books.google.com/books?id=qpvlUrpH_xoC&pg=PA67&dq=eric+clapton+DRUGS+1970s&ct=result&resnum=4#v=onepage The complete guide to the music of Eric Clapton] p.67. Omnibus Press, 1995</ref>。かれはまだボイドに夢中むちゅうでハリスンとの友情ゆうじょうかれていたが、ドミノスの解散かいさんはサリーの自宅じたくじこもりツアーやレコーディングから距離きょりいた。かれは[[薬物やくぶつ乱用らんよう|ヘロイン中毒ちゅうどく]]の療養りょうようはいり、活動かつどう中断ちゅうだんした。


1971ねん8がつ1にち、ハリスンと[[ラヴィ・シャンカル]]がニューヨークの[[マディソン・スクエア・ガーデン|マジソン・スクエア・ガーデン]]で開催かいさいした『[[:en:The_Concert_for_Bangladesh|バングラデシュ難民なんみん救済きゅうさいコンサート]]』にバンドのメンバーとして出演しゅつえん体調たいちょう万全ばんぜんではなかったが、午後ごご2時半じはんと8の2かいのコンサートの両方りょうほう登場とうじょうし、ステージじょう気絶きぜつしたものの復帰ふっきし、なんとかつとめをたした<ref name="unuhsh" />。
クラプトンの復帰ふっき支援しえんしようという[[ザ・フー]]の[[ピート・タウンゼント]]のびかけおうじて、ウィンウッド、グレッチ、[[ロン・ウッド]]、ジム・キャパルディ([[トラフィック (バンド)|トラフィック]])、ジミー・カーステイン([[ジョー・コッカー]])、[[リーバップ・クワク・バー]](トラフィック)があつまった{{Sfb|Townshend|2012|pp=243-245}}。1973ねん1がつ13にち午後ごご5時半じはんと8時半じはんかいかれタウンゼントらをバックに、ロンドンの[[レインボー・シアター]]で[[レインボー・コンサート]]」とだいされたコサートに出演しゅつえんした{{Sfb|Neill|Kent|2007|pp=315-316, 321-322}}。


1972ねん[[ザ・フー]]の[[ピート・タウンゼント]]かれ復帰ふっき支援しえんしようとびかけ、ウィンウッド、グレッチ、[[ロン・ウッド]]、ジム・キャパルディ([[トラフィック (バンド)|トラフィック]])、ジミー・カーステイン([[ジョー・コッカー]])、[[リーバップ・クワク・バー]](トラフィック)があつまった<ref>{{Cite book|洋書ようしょ |title=Who I Am |year=2012 |publisher=Harper |pages=243-245 |last=Townshend |first=Pete |isbn=978-0-00-747916-0 |location=London}}</ref>。1973ねん1がつ13にち午後ごご5時半じはんと8時半じはん2かいかれはロンドンの[[レインボー・シアター]]で開催かいさいされた『[[レインボー・コンサート]]』にタウンゼントらをバック出演しゅつえんした<ref>{{Cite book|洋書ようしょ |title=Anyway Anyhow Anywhere: The Complete Chronicle of The Who 1958-1978 |year=2007 |publisher=Virgin Books |pages=315-316, 321-322 |last=Neill |first=Andy |isbn=978-0-7535-1217-3 |location=London |last2=Kent |first2=Matt}}</ref>
1974ねん5がつ、クラプトンは[[ケン・ラッセル]]監督かんとく映画えいが「[[トミー (映画えいが)|トミー]]」の撮影さつえい参加さんかして[[サニー・ボーイ・ウィリアムソンII]]の「Eyesight to the Blind」を演奏えんそうする「The Preacher」(伝道でんどう)をえんじた{{Sfb|Neill|Kent|2007|pp=351}}。映画えいがは1975ねん3がつ公開こうかいされて、かれ人気にんきもどした。かれはいくつかのショットであきらかににせのひげをやしており、これは初期しょきのテイクで本当ほんとうのひげをって撮影さつえい参加さんかしたが、監督かんとくがそのテイクを削除さくじょすることを決定けっていしたため、けひげを使つかってなおしに参加さんかしたことによる<ref name="nxfddy" />。


[[File:Clapton and Elliman.jpg|thumb|[[イヴォンヌ・エリマン]]とクラプトン、1974ねん]]
[[File:Clapton and Elliman.jpg|thumb|[[イヴォンヌ・エリマン]]とクラプトン、1974ねん]]
クラプトンは1974ねんボイドと同居どうきょはじもはやヘロインは使用しようしていなかったがわりに飲酒いんしゅりょうえていった。かれひかえめなツアーバンドを結成けっせいし、メンバーはレイドル、マイアミのギタリスト[[ジョージ・テリー]]、キーボーディストのディック・シムズ(2011ねん死去しきょ)<ref>{{cite web |url=http://www.gibson.com/en-us/Lifestyle/News/dick-sims-death-1209-2011/ |title=Longtime Eric Clapton Keyboardist Dick Sims Dies |publisher=Gibson.com |date=24 June 2008 |access-date=30 December 2011 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20120113052349/http://www.gibson.com/en%2Dus/Lifestyle/News/dick%2Dsims%2Ddeath%2D1209%2D2011/ |archive-date=13 January 2012 }}</ref>、ドラマーの[[ジェイミー・オールデイカー]]、ヴォーカリストの[[イヴォンヌ・エリマン]]とマーシー・レヴィ([[マルセラ・デトロイト]]としてもられる)まれた。このバンドでクラプトンは『[[461 オーシャン・ブールヴァード]]』(1974)録音ろくおん。こはよりコンパクトなきょくとよりすくないギターソロに重点じゅうてんたアルバムであった。「[[アイ・ショット・ザ・シェリフ]]」のカバーバージョンクラプトンのさいはつのナンバーワンヒットであり、[[レゲエ]]と[[ボブ・マーリー]]音楽おんがくよりおおくの聴しゅうとどるのに貢献こうけんした。1975ねんのアルバム『[[安息あんそくもとめて]]』もこの傾向けいこうつづている。アルバムのオリジナルタイトルである『''The World's Greatest Guitar Player'' 』は、その皮肉ひにく意図いと誤解ごかいされるとかんじられたため、プレスまえ変更へんこうされた。バンドはワールドツアーをおこない、その様子ようすは『[[エリック・クラプトン・ライヴ]]』となってリリースされた<ref>{{cite book|first1=Pete|last1=Prown|first2=Harvey P.|last2=Newquist|title=Legends of Rock Guitar: The Essential Reference of Rock's Greatest Guitarists|url=https://books.google.com/books?id=60Jde3l7WNwC&pg=PA70|year=1997|publisher=Hal Leonard Corporation|isbn=978-0-7935-4042-6|page=70}}</ref>。クラプトンはそのもアルバムをリリースしつづけ、定期ていきてきにツアーをおこなった。この期間きかんのハイライトとして、『[[ノー・リーズン・トゥ・クライ]]』([[ボブ・ディラン]]と[[ザ・バンド]]とのコラボレーション)、『[[スローハンド (アルバム)|スローハンド]]』(「[[ワンダフル・トゥナイト]]」と2度目どめの[[J・J・ケイル]]のカバー「[[コカイン (きょく)|コカイン]]」をふくむ)がげられる。1976ねんかれは[[マーティン・スコセッシ]]のドキュメンタリー「[[ラスト・ワルツ]]」で撮影さつえいされた[[ザ・バンド]]の解散かいさんライブで、一連いちれん著名ちょめいなゲストの1人ひとりとして出演しゅつえんした。1977年頃としごろはロニー・レインとともごすことおおくなり、電車でんしゃままなヨーロッパツアーもおこなっている。ワンダフル・トゥナイトはロニー・レインのいえにわをしながらロニーのまえはじめてうたわれており、ロニーとの出会であいはそののクラプトン の人生じんせいかん音楽おんがく影響えいきょうあたえた<ref>{{cite web | last = Christgau | first = Robert | author-link = Robert Christgau | title = Robert Christgau Consumer Guide: The Band | url = http://www.robertchristgau.com/get_artist.php?name=The+Band | access-date = 7 January 2007 | archive-url = https://web.archive.org/web/20071001000639/http://www.robertchristgau.com/get_artist.php?name=The+Band | archive-date = 1 October 2007 | url-status = dead }}</ref>。
1974ねんかれボイドと同居どうきょはじた。もはやヘロインは使用しようしていなかったがわりに飲酒いんしゅりょうえていった。かれはレイドル、マイアミのギタリスト[[ジョージ・テリー]]、キーボーディストのディック・シムズ(2011ねん死去しきょ)<ref>{{cite web |url=http://www.gibson.com/en-us/Lifestyle/News/dick-sims-death-1209-2011/ |title=Longtime Eric Clapton Keyboardist Dick Sims Dies |publisher=Gibson.com |date=24 June 2008 |access-date=30 December 2011 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20120113052349/http://www.gibson.com/en%2Dus/Lifestyle/News/dick%2Dsims%2Ddeath%2D1209%2D2011/ |archive-date=13 January 2012 }}</ref>、ドラマーの[[ジェイミー・オールデイカー]]、ヴォーカリストの[[イヴォンヌ・エリマン]]とマーシー・レヴィ([[マルセラ・デトロイト]]としてもられる)ひかえめなツアーバンド結成けっせいし、『[[461 オーシャン・ブールヴァード]]』を録音ろくおん。このアルバムはよりコンパクトなきょくとよりすくないギターソロに重点じゅうてんいた。[[ボブ・マーリー]]の「[[アイ・ショット・ザ・シェリフ]]」のカバーはかれにとってはつのナンバーワンヒットになり、[[レゲエ]]とマーリーの音楽おんがくよりおおくの聴しゅるのに貢献こうけんした。
同年どうねん5がつ監督かんとく[[ケン・ラッセル]]の映画えいが「[[トミー (映画えいが)|トミー]]」の撮影さつえい参加さんかして[[サニー・ボーイ・ウィリアムソンII]]の「[[:en:Eyesight_to_the_Blind|Eyesight to the Blind]]」を演奏えんそうする「伝道でんどう」(The Preacher)をえんじた<ref>{{Cite book|洋書ようしょ |title=Anyway Anyhow Anywhere: The Complete Chronicle of The Who 1958-1978 |year=2007 |publisher=Virgin Books |last=Neill |first=Andy |isbn=978-0-7535-1217-3 |location=London |last2=Kent |first2=Matt |page=351}}</ref>。映画えいがよく1975ねん3がつ公開こうかいされて、かれ人気にんきもどした。かれいくつかショットであきらかに付髭つけひげ使用しようしている。これは最初さいしょひげって撮影さつえいのぞんだが、ラッセルがそのテイクを削除さくじょしてなおすことにめたからだった<ref name="nxfddy" />。
1975ねん発表はっぴょうしたアルバム『[[安息あんそくもとめて]]』前作ぜんさくおな傾向けいこうつづ。アルバムのオリジナルタイトルである『''The World's Greatest Guitar Player'' 』は、その皮肉ひにく意図いと誤解ごかいされるとかんじられたため、プレスまえ変更へんこうされた。バンドはワールドツアーをおこない、その様子ようすは『[[エリック・クラプトン・ライヴ]]』となってリリースされた<ref>{{cite book|first1=Pete|last1=Prown|first2=Harvey P.|last2=Newquist|title=Legends of Rock Guitar: The Essential Reference of Rock's Greatest Guitarists|url=https://books.google.com/books?id=60Jde3l7WNwC&pg=PA70|year=1997|publisher=Hal Leonard Corporation|isbn=978-0-7935-4042-6|page=70}}</ref>。クラプトンはそのもアルバムをリリースしつづけ、定期ていきてきにツアーをおこなった。この期間きかんのハイライトとして、『[[ノー・リーズン・トゥ・クライ]]』([[ボブ・ディラン]]と[[ザ・バンド]]とのコラボレーション)、『[[スローハンド (アルバム)|スローハンド]]』(「[[ワンダフル・トゥナイト]]」と2度目どめの[[J・J・ケイル]]のカバー「[[コカイン (きょく)|コカイン]]」をふくむ)がげられる。1976ねんかれは[[マーティン・スコセッシ]]のドキュメンタリー「[[ラスト・ワルツ]]」で撮影さつえいされた[[ザ・バンド]]の解散かいさんライブで、一連いちれん著名ちょめいなゲストの1人ひとりとして出演しゅつえんした。1977年頃としごろはロニー・レインとともごすことおおくなり、電車でんしゃままなヨーロッパツアーもおこなっている。ワンダフル・トゥナイトはロニー・レインのいえにわをしながらロニーのまえはじめてうたわれており、ロニーとの出会であいはそののクラプトン の人生じんせいかん音楽おんがく影響えいきょうあたえた<ref>{{cite web | last = Christgau | first = Robert | author-link = Robert Christgau | title = Robert Christgau Consumer Guide: The Band | url = http://www.robertchristgau.com/get_artist.php?name=The+Band | access-date = 7 January 2007 | archive-url = https://web.archive.org/web/20071001000639/http://www.robertchristgau.com/get_artist.php?name=The+Band | archive-date = 1 October 2007 | url-status = dead }}</ref>。


===成功せいこう発展はってん===
===成功せいこう発展はってん===
154ぎょう: 158ぎょう:
{{Quote|ぼく人生じんせい最悪さいあく瞬間しゅんかんに、自殺じさつしなかった唯一ゆいいつ理由りゆうは、んだらもうむことができないだろうとっていたということだった。それはぼくきる価値かちがあるとおもった唯一ゆいいつのことだった、そして人々ひとびとぼくをアルコールからとおざけようとしているというかんがえはひどいものだった。なぜならぼくんでんでんで、そしてかれらは実際じっさいぼく診療しんりょうしょれてかなければならなかった。}}
{{Quote|ぼく人生じんせい最悪さいあく瞬間しゅんかんに、自殺じさつしなかった唯一ゆいいつ理由りゆうは、んだらもうむことができないだろうとっていたということだった。それはぼくきる価値かちがあるとおもった唯一ゆいいつのことだった、そして人々ひとびとぼくをアルコールからとおざけようとしているというかんがえはひどいものだった。なぜならぼくんでんでんで、そしてかれらは実際じっさいぼく診療しんりょうしょれてかなければならなかった。}}


[[File:TinaTurner&Clapton.jpg|thumb|1987ねん6がつ18にち、[[ウェンブリー・アリーナ]]で演奏えんそうする[[ティナ・ターナー]]とクラプトン]]
退院たいいん、ヘーゼルデンの医師いしはクラプトンがアルコール依存いぞんしょうやストレスのがねとなるような活動かつどう参加さんかしないようにすすめた。しかしクラプトンは1987ねん11月にヘーゼルデン・トリートメントセンターにもどることとなる。最初さいしょのリハビリから退院たいいんしてからすうげつ、クラプトンは医師いし指示しじはんしてつぎのアルバムの制作せいさくはじめた。[[トム・ダウド]]と協力きょうりょくして、かれはこれまで「もっと強制きょうせいてきな」アルバム『[[マネー・アンド・シガレッツ]]』を制作せいさく。クラプトンはアルコール依存いぞんしょうからの最初さいしょのリハビリののち、「それ(かねとタバコ)が自分じぶんったのをたすべてだった」からこのアルバムめいえらんだ<ref>{{cite book|title=Clapton: The Autobiography|url=https://archive.org/details/claptonautobiogr00clap|url-access=registration|first=Eric|last=Clapton|year=2007|isbn=978-0-385-51851-2}}</ref>。
退院たいいん、ヘーゼルデンの医師いしはクラプトンがアルコール依存いぞんしょうやストレスのがねとなるような活動かつどう参加さんかしないようにすすめた。しかしクラプトンは1987ねん11月にヘーゼルデン・トリートメントセンターにもどることとなる。最初さいしょのリハビリから退院たいいんしてからすうげつ、クラプトンは医師いし指示しじはんしてつぎのアルバムの制作せいさくはじめた。[[トム・ダウド]]と協力きょうりょくして、かれはこれまで「もっと強制きょうせいてきな」アルバム『[[マネー・アンド・シガレッツ]]』を制作せいさく。クラプトンはアルコール依存いぞんしょうからの最初さいしょのリハビリののち、「それ(かねとタバコ)が自分じぶんったのをたすべてだった」からこのアルバムめいえらんだ<ref>{{cite book|title=Clapton: The Autobiography|url=https://archive.org/details/claptonautobiogr00clap|url-access=registration|first=Eric|last=Clapton|year=2007|isbn=978-0-385-51851-2}}</ref>。


1984ねんにクラプトンは[[ピンク・フロイド]]のもとメンバーである[[ロジャー・ウォーターズ]]のソロアルバム『[[ヒッチハイクの賛否さんぴ両論りょうろん]]』に出演しゅつえんし、サポートツアーに参加さんか。それ以来いらい、ウォーターズとクラプトンは密接みっせつ関係かんけいきずいてきた。2005ねんかれらは津波つなみ救援きゅうえん基金ききんのためも共演きょうえんし、2006ねんにも[[:w:en:Countryside Alliance|カントリーサイド・アライアンス]]の支援しえんけて、[[ハイクレア・カースル]]で「[[あなたがここにいてほしい (ピンク・フロイドのきょく)|あなたがここにいてほしい]]」と「[[コンフォタブリー・ナム]]」の2きょく演奏えんそうしている。現在げんざい定期ていきてきにチャリティーパフォーンスをおこなっているクラプトンだが、1985ねん7がつ13にちに[[フィラデルフィア]]の[[ジョン・F・ケネディ・スタジアム]]で開催かいさいされた[[ライヴエイド]]コンサートで、[[フィル・コリンズ]]、[[ティム・レンウィック]]、[[クリス・ステイントン]]、[[ジェイミー・オールデイカー]]、[[マーシー・レビー]]、[[ショーン・マーフィー]]、[[ドナルド・ダック・ダン]]らと共演きょうえんした<ref>{{cite book|first1=Pete|last1=Prown|first2=Harvey P.|last2=Newquist|title=Legends of Rock Guitar: The Essential Reference of Rock's Greatest Guitarists|url=https://books.google.com/books?id=60Jde3l7WNwC&pg=PA69|year=1997|publisher=Hal Leonard Corporation|isbn=978-0-7935-4042-6|page=69}}</ref>。視聴しちょう時間じかんのピークにちかいスロットを提供ていきょうされたとき、かれあきらかにれていたようだった。かれは1980年代ねんだいもコンスタントにアルバムを発表はっぴょうし、1985ねんには「フォーエヴァー・マン」と「シーズ・ウェイティング」の2つのヒットきょくふくんだ『[[ビハインド・ザ・サン]]』をフィル・コリンズととも制作せいさくし、1986ねんの『[[オーガスト (エリック・クラプトンのアルバム)|オーガスト]]』でもコリンズを起用きようした<ref>{{cite web | url = https://www.rollingstone.com/music/albumreviews/august-19870212 | title = Eric Clapton August | access-date = 15 August 2017 | last = DeCurtis | first = Anthony | date = 12 February 1987 | work = [[Rolling Stone]] | archive-url = https://web.archive.org/web/20170829190802/http://www.rollingstone.com/music/albumreviews/august-19870212 | archive-date = 29 August 2017 | url-status = live }}</ref>。
1984ねんにクラプトンは[[ピンク・フロイド]]のもとメンバーである[[ロジャー・ウォーターズ]]のソロアルバム『[[ヒッチハイクの賛否さんぴ両論りょうろん]]』に出演しゅつえんし、サポートツアーに参加さんか。それ以来いらい、ウォーターズとクラプトンは密接みっせつ関係かんけいきずいてきた。2005ねんかれらは津波つなみ救援きゅうえん基金ききんのためも共演きょうえんし、2006ねんにも[[:w:en:Countryside Alliance|カントリーサイド・アライアンス]]の支援しえんけて、[[ハイクレア・カースル]]で「[[あなたがここにいてほしい (ピンク・フロイドのきょく)|あなたがここにいてほしい]]」と「[[コンフォタブリー・ナム]]」の2きょく演奏えんそうしている。現在げんざい定期ていきてきにチャリティーパフォーンスをおこなっているクラプトンだが、1985ねん7がつ13にちに[[フィラデルフィア]]の[[ジョン・F・ケネディ・スタジアム]]で開催かいさいされた[[ライヴエイド]]コンサートで、[[フィル・コリンズ]]、[[ティム・レンウィック]]、[[クリス・ステイントン]]、[[ジェイミー・オールデイカー]]、[[マーシー・レビー]]、[[ショーン・マーフィー]]、[[ドナルド・ダック・ダン]]らと共演きょうえんした<ref>{{cite book|first1=Pete|last1=Prown|first2=Harvey P.|last2=Newquist|title=Legends of Rock Guitar: The Essential Reference of Rock's Greatest Guitarists|url=https://books.google.com/books?id=60Jde3l7WNwC&pg=PA69|year=1997|publisher=Hal Leonard Corporation|isbn=978-0-7935-4042-6|page=69}}</ref>。視聴しちょう時間じかんのピークにちかいスロットを提供ていきょうされたとき、かれあきらかにれていたようだった。かれは1980年代ねんだいもコンスタントにアルバムを発表はっぴょうし、1985ねんには「フォーエヴァー・マン」と「シーズ・ウェイティング」の2つのヒットきょくふくんだ『[[ビハインド・ザ・サン]]』をフィル・コリンズととも制作せいさくし、1986ねんの『[[オーガスト (エリック・クラプトンのアルバム)|オーガスト]]』でもコリンズを起用きようした<ref>{{cite web | url = https://www.rollingstone.com/music/albumreviews/august-19870212 | title = Eric Clapton August | access-date = 15 August 2017 | last = DeCurtis | first = Anthony | date = 12 February 1987 | work = [[Rolling Stone]] | archive-url = https://web.archive.org/web/20170829190802/http://www.rollingstone.com/music/albumreviews/august-19870212 | archive-date = 29 August 2017 | url-status = live }}</ref>。


[[File:Harrison and Clapton 1987 cropped.jpg|thumb|left|[[:w:en:Prince's Trust|プリンス・トラスト]]・コンサートで演奏えんそうする[[ジョージ・ハリスン]]とクラプトン、ウェンブリー・アリーナで、1987ねん]]
『オーガスト』はコリンズのトレードマークであるドラムとホーンのサウンドにあふれ、クラプトンのこれまでのイギリスにおける最大さいだいげとなり、チャートの最高さいこうでとなる3到達とうたつした。アルバムの最初さいしょのトラックであるヒットきょく「[[:w:en:It's in the Way That You Use It|イッツ・イン・ザ・ウェイ・ザット・ユー・ユーズ・イット]]」は[[トム・クルーズ]]と[[ポール・ニューマン]]の映画えいが「[[ハスラー2]]」で使用しようされた。ホーンがフィーチャーされた「ラン」はコリンズの「[[:w:en:Sussudio|ススーディオ]]」やその作品さくひん作風さくふう反映はんえいし、一方いっぽう「[[:w:en:Tearing Us Apart|ティアリング・アス・アパート]]」([[ティナ・ターナー]]と共演きょうえん)や「ミス・ユー」ではクラプトンのよりはげしいサウンドがつづけられた。このリバウンドとして、クラプトンはコリンズ、ベーシストの[[ネイザン・イースト]]、キーボーディストの[[グレッグ・フィリンゲインズ]]とともに2ねんおよぶツアーを開始かいしした。『オーガスト』ツアーでは4にんのバンドの2ほんのコンサートビデオ『''Eric Clapton Live from Montreux''』と『''Eric Clapton and Friends''』が撮影さつえいされた。クラプトンはのちに「アフター・ミッドナイト」を、[[アンハイザー・ブッシュのブランド|ミケロブ]]ビールのプロモーションようシングルとしてつくなおした。どうブランドはコリンズや[[スティーヴ・ウィンウッド]]のきょく使用しようしていた。
『オーガスト』はコリンズのトレードマークであるドラムとホーンのサウンドにあふれ、クラプトンのこれまでのイギリスにおける最大さいだいげとなり、チャートの最高さいこうでとなる3到達とうたつした。アルバムの最初さいしょのトラックであるヒットきょく「[[:w:en:It's in the Way That You Use It|イッツ・イン・ザ・ウェイ・ザット・ユー・ユーズ・イット]]」は[[トム・クルーズ]]と[[ポール・ニューマン]]の映画えいが「[[ハスラー2]]」で使用しようされた。ホーンがフィーチャーされた「ラン」はコリンズの「[[:w:en:Sussudio|ススーディオ]]」やその作品さくひん作風さくふう反映はんえいし、一方いっぽう「[[:w:en:Tearing Us Apart|ティアリング・アス・アパート]]」([[ティナ・ターナー]]と共演きょうえん)や「ミス・ユー」ではクラプトンのよりはげしいサウンドがつづけられた。このリバウンドとして、クラプトンはコリンズ、ベーシストの[[ネイザン・イースト]]、キーボーディストの[[グレッグ・フィリンゲインズ]]とともに2ねんおよぶツアーを開始かいしした。『オーガスト』ツアーでは4にんのバンドの2ほんのコンサートビデオ『''Eric Clapton Live from Montreux''』と『''Eric Clapton and Friends''』が撮影さつえいされた。クラプトンはのちに「アフター・ミッドナイト」を、[[アンハイザー・ブッシュのブランド|ミケロブ]]ビールのプロモーションようシングルとしてつくなおした。どうブランドはコリンズや[[スティーヴ・ウィンウッド]]のきょく使用しようしていた。


296ぎょう: 298ぎょう:
1969ねん後半こうはん、クラプトンは[[フェンダー・ストラトキャスター]]にえた。「ストラトをはじめたとき、ぼくおおくの影響えいきょうけた。最初さいしょは[[バディ・ホリー]]と[[バディ・ガイ]]だった。[[ハンク・マーヴィン]]はここイギリスで最初さいしょ有名ゆうめい人物じんぶつだったが、それはぼく種類しゅるいではなかった。[[スティーヴ・ウィンウッド]]は非常ひじょう信頼しんらいせいたかく、かれ演奏えんそうはじめたとき、ぼくかれがそれをおこなうことができれば、ぼくおこなうことができるとおもった。<ref>{{cite book|first=Tom|last=Wheeler|title=The Stratocaster Chronicles: Celebrating 50 Years of the Fender Strat|url=https://books.google.com/books?id=za1MQ9gITagC&pg=PA8|year=2004|publisher=Hal Leonard Corporation|isbn=978-0-634-05678-9|page=8}}</ref>」。『[[エリック・クラプトン・ソロ]]』のレコーディングで最初さいしょ使用しようされたのは「ブラウニー」で、それは1973ねんにクラプトンのギターのなかもっと有名ゆうめいな「[[ブラッキー (ギター)|ブラッキー]]」のバックアップとなった。1970ねん11月、クラプトンはドミノスのツアーちゅうに、[[テネシーしゅう]][[ナッシュビル]]のギターショップから6だいのストラトキャスターを購入こうにゅうした。かれはジョージ・ハリスン、スティーヴ・ウィンウッド、ピート・タウンゼントにそれぞれ1だいずつあたえた。
1969ねん後半こうはん、クラプトンは[[フェンダー・ストラトキャスター]]にえた。「ストラトをはじめたとき、ぼくおおくの影響えいきょうけた。最初さいしょは[[バディ・ホリー]]と[[バディ・ガイ]]だった。[[ハンク・マーヴィン]]はここイギリスで最初さいしょ有名ゆうめい人物じんぶつだったが、それはぼく種類しゅるいではなかった。[[スティーヴ・ウィンウッド]]は非常ひじょう信頼しんらいせいたかく、かれ演奏えんそうはじめたとき、ぼくかれがそれをおこなうことができれば、ぼくおこなうことができるとおもった。<ref>{{cite book|first=Tom|last=Wheeler|title=The Stratocaster Chronicles: Celebrating 50 Years of the Fender Strat|url=https://books.google.com/books?id=za1MQ9gITagC&pg=PA8|year=2004|publisher=Hal Leonard Corporation|isbn=978-0-634-05678-9|page=8}}</ref>」。『[[エリック・クラプトン・ソロ]]』のレコーディングで最初さいしょ使用しようされたのは「ブラウニー」で、それは1973ねんにクラプトンのギターのなかもっと有名ゆうめいな「[[ブラッキー (ギター)|ブラッキー]]」のバックアップとなった。1970ねん11月、クラプトンはドミノスのツアーちゅうに、[[テネシーしゅう]][[ナッシュビル]]のギターショップから6だいのストラトキャスターを購入こうにゅうした。かれはジョージ・ハリスン、スティーヴ・ウィンウッド、ピート・タウンゼントにそれぞれ1だいずつあたえた。


クラプトンはのこりの3だい最良さいりょうのコンポーネントをわせて「ブラッキー」を作成さくせいした。これは1985ねん引退いんたいするまでかれのおりのステージギターであった。「ブラッキー」が最初さいしょ使用しようされたのは1973ねん1がつ13にちのレインボー・コンサートであった<ref>{{cite web |last=Landers |first=Rick |url=http://www.stratcollector.com/newsdesk/archives/000259.html |title=Strat Collector News Desk: An Interview with Eric Clapton Guitar Technician Lee Dickson |publisher=Stratcollector.com |date=28 June 2004 |access-date=22 August 2010 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20090327094222/http://www.stratcollector.com/newsdesk/archives/000259.html |archive-date=27 March 2009 }}</ref>。クラプトンは1956/57 ストラトを「モングレル」(雑種ざっしゅ)とんだ<ref>{{cite web2|url=http://www.xs4all.nl/~slowhand/ecfaq/guitars.html |title=The Eric Clapton FAQ - Guitars |publisher=Xs4all.nl |date=3 September 2001 |access-date=22 August 2010 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20090823121845/http://www.xs4all.nl/~slowhand/ecfaq/guitars.html |archive-date=23 August 2009 }}</ref>。2004ねん6がつ24にち、クラプトンはニューヨークの[[クリスティーズ]]・オークションハウスで「ブラッキー」を959,500あめりかドルで売却ばいきゃくし、麻薬まやくおよびアルコール依存いぞんしょうのための[[クロスロード・センター]]の資金しきん調達ちょうたつした<ref name=":0">{{cite web2|url=http://www.christies.com/promos/jun04/claptonGuitars/overview.asp |title=Christie's - Eric Clapton Guitars |date=14 June 2004 |access-date=30 March 2016 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20040614191019/http://www.christies.com/promos/jun04/claptonGuitars/overview.asp |archive-date=14 June 2004 }}</ref>。「ブラウニー」は現在げんざい、[[:w:en:Museum of Pop Culture|エクスペリエンス・ミュージック・プロジェクト]]に展示てんじされている<ref>{{cite web2|url=https://www.rollingstone.com/artists/ericclapton/articles/story/8928554/rock_memorabilia_market_booms |title=Rock Memorabilia Market Booms: Eric Clapton |work=Rolling Stone |access-date=22 August 2010 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20090715090305/http://www.rollingstone.com/artists/ericclapton/articles/story/8928554/rock_memorabilia_market_booms |archive-date=15 July 2009 }}</ref>。[[フェンダー・カスタム・ショップ]]はそれ以来いらい、275だいの「ブラッキー」レプリカを限定げんてい生産せいさんし、「ダック・ブラザーズ」のフライトケースにいたるまで細部さいぶまで修正しゅうせいし、フェンダーの「レリック」プロセスを使用しようして人工じんこうてきにエイジングし、経年けいねん変化へんかをシミュレートしている。1だいはリリースにクラプトンに提供ていきょうされ、2006ねん5がつ17にちのロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートでは3だい使用しようされた<ref>{{cite web |url=http://gc.guitarcenter.com/clapton/detail.cfm |archive-url=https://web.archive.org/web/20071023062709/http://gc.guitarcenter.com/clapton/detail.cfm |url-status=dead |archive-date=23 October 2007 |title=Eric Clapton's Blackie - Guitar Center |publisher=Gc.guitarcenter.com |access-date=22 August 2010 }}</ref>。1979ねん、クラプトンはサインりのフェンダー・リードIIをロンドンの[[ハードロックカフェ]]に寄贈きぞうした。[[ピート・タウンゼント]]も自身じしんのギブソン・レスポールを寄贈きぞうし、ぼくのものはかれおなじくらいい!ラヴ、ピート」というメモをけた<ref>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=SDJitKagniUC&pg=PA164|title=Clapton's guitar: watching Wayne Henderson build the perfect instrument|isbn=9780743281980|last1=John|first1=Allen St|date=2005}}</ref>。
クラプトンはのこりの3だい最良さいりょうのコンポーネントをわせて「ブラッキー」を作成さくせいした。これは1985ねん引退いんたいするまでかれのおりのステージギターであった。「ブラッキー」が最初さいしょ使用しようされたのは1973ねん1がつ13にちのレインボー・コンサートであった<ref>{{cite web |last=Landers |first=Rick |url=http://www.stratcollector.com/newsdesk/archives/000259.html |title=Strat Collector News Desk: An Interview with Eric Clapton Guitar Technician Lee Dickson |publisher=Stratcollector.com |date=28 June 2004 |access-date=22 August 2010 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20090327094222/http://www.stratcollector.com/newsdesk/archives/000259.html |archive-date=27 March 2009 }}</ref>。クラプトンは1956/57 ストラトを「モングレル」(雑種ざっしゅ)とんだ<ref>{{cite web2|url=http://www.xs4all.nl/~slowhand/ecfaq/guitars.html |title=The Eric Clapton FAQ - Guitars |publisher=Xs4all.nl |date=3 September 2001 |access-date=22 August 2010 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20090823121845/http://www.xs4all.nl/~slowhand/ecfaq/guitars.html |archive-date=23 August 2009 }}</ref>。2004ねん6がつ24にち、クラプトンはニューヨークの[[クリスティーズ]]・オークションハウスで「ブラッキー」を959,500あめりかドルで売却ばいきゃくし、麻薬まやくおよびアルコール依存いぞんしょうのための[[クロスロード・センター]]の資金しきん調達ちょうたつした<ref name=":0">{{cite web2|url=http://www.christies.com/promos/jun04/claptonGuitars/overview.asp |title=Christie's - Eric Clapton Guitars |date=14 June 2004 |access-date=30 March 2016 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20040614191019/http://www.christies.com/promos/jun04/claptonGuitars/overview.asp |archive-date=14 June 2004 }}</ref>。「ブラウニー」は現在げんざい、[[:w:en:Museum of Pop Culture|エクスペリエンス・ミュージック・プロジェクト]]に展示てんじされている<ref>{{cite web2|url=https://www.rollingstone.com/artists/ericclapton/articles/story/8928554/rock_memorabilia_market_booms |title=Rock Memorabilia Market Booms: Eric Clapton |work=Rolling Stone |access-date=22 August 2010 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20090715090305/http://www.rollingstone.com/artists/ericclapton/articles/story/8928554/rock_memorabilia_market_booms |archive-date=15 July 2009 }}</ref>。[[フェンダー・カスタム・ショップ]]はそれ以来いらい、275だいの「ブラッキー」レプリカを限定げんてい生産せいさんし、「ダック・ブラザーズ」のフライトケースにいたるまで細部さいぶまで修正しゅうせいし、フェンダーの「レリック」プロセスを使用しようして人工じんこうてきにエイジングし、経年けいねん変化へんかをシミュレートしている。1だいはリリースにクラプトンに提供ていきょうされ、2006ねん5がつ17にちのロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートでは3だい使用しようされた<ref>{{cite web |url=http://gc.guitarcenter.com/clapton/detail.cfm |archive-url=https://web.archive.org/web/20071023062709/http://gc.guitarcenter.com/clapton/detail.cfm |url-status=dead |archive-date=23 October 2007 |title=Eric Clapton's Blackie - Guitar Center |publisher=Gc.guitarcenter.com |access-date=22 August 2010 }}</ref>。1979ねん、クラプトンはサインりのフェンダー・リードIIをロンドンの[[ハードロックカフェ]]に寄贈きぞうした。[[ピート・タウンゼント]]も「ぼくのものはかれおなじくらいい!ラヴ、ピート」というメモをたギブソン・レスポールを寄贈きぞうた<ref>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=SDJitKagniUC&pg=PA164|title=Clapton's guitar: watching Wayne Henderson build the perfect instrument|isbn=9780743281980|last1=John|first1=Allen St|date=2005}}</ref>。


クラプトンのサインりギターはフェンダーと[[マーティン (楽器がっきメーカー)|マーティン]]で製作せいさくされている。1988ねんにフェンダーは[[:w:en:Fender Eric Clapton Stratocaster|エリック・クラプトン・ストラトキャスター]]をリリースした<ref>{{cite book|title=Heritage Music and Entertainment Dallas Signature Auction Catalog #634|date=2006|publisher=Ivy Press Heritage Capital Corporation|page=181}}</ref>。マーティンはいくつかの000-シグネチャーモデルを製作せいさくしている。最初さいしょのモデルは1995ねん発表はっぴょうされた限定げんていモデルの000-42ECである。シングル「チェンジ・ザ・ワールド」(1996ねん)とアルバム『ピルグリム』(1998ねん)では000-28ECが使用しようされたが、そのギターはのちにギタリストの[[ポール・ワシフ]]にプレゼントされた<ref name="Bonhams Auction Clapton Guitar">{{cite web2|url=https://www.bonhams.com/auctions/19037/lot/269/|title=Bonhams Auction|publisher=Bonhams.com|access-date=22 September 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20141119042846/https://www.bonhams.com/auctions/19037/lot/269/|archive-date=19 November 2014|url-status=live}}</ref>。かれが『アンプラグド』で使用しようした1939ねんせい000-42はオークションで791,500あめりかドルで落札らくさつされた<ref name = "cdqimo"/>。クラプトンが使用しようするつるは[[アーニー・ボール]]のスリンキーとスーパースリンキーで、ゲージは.10から.46である<ref>{{cite web
クラプトンのサインりギターはフェンダーと[[マーティン (楽器がっきメーカー)|マーティン]]で製作せいさくされている。1988ねんにフェンダーは[[:w:en:Fender Eric Clapton Stratocaster|エリック・クラプトン・ストラトキャスター]]をリリースした<ref>{{cite book|title=Heritage Music and Entertainment Dallas Signature Auction Catalog #634|date=2006|publisher=Ivy Press Heritage Capital Corporation|page=181}}</ref>。マーティンはいくつかの000-シグネチャーモデルを製作せいさくしている。最初さいしょのモデルは1995ねん発表はっぴょうされた限定げんていモデルの000-42ECである。シングル「チェンジ・ザ・ワールド」(1996ねん)とアルバム『ピルグリム』(1998ねん)では000-28ECが使用しようされたが、そのギターはのちにギタリストの[[ポール・ワシフ]]にプレゼントされた<ref name="Bonhams Auction Clapton Guitar">{{cite web2|url=https://www.bonhams.com/auctions/19037/lot/269/|title=Bonhams Auction|publisher=Bonhams.com|access-date=22 September 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20141119042846/https://www.bonhams.com/auctions/19037/lot/269/|archive-date=19 November 2014|url-status=live}}</ref>。かれが『アンプラグド』で使用しようした1939ねんせい000-42はオークションで791,500あめりかドルで落札らくさつされた<ref name = "cdqimo"/>。クラプトンが使用しようするつるは[[アーニー・ボール]]のスリンキーとスーパースリンキーで、ゲージは.10から.46である<ref>{{cite web
308ぎょう: 310ぎょう:
== メディアへの出演しゅつえん ==
== メディアへの出演しゅつえん ==
[[File:EricClaptonRockWalkHollywood.jpg|thumb|upright=0.9|[[ハリウッド]]に展示てんじされるクラプトンの手形てがた。]]
[[File:EricClaptonRockWalkHollywood.jpg|thumb|upright=0.9|[[ハリウッド]]に展示てんじされるクラプトンの手形てがた。]]
クラプトンは[[ザ・フー]]の[[ロック・オペラ]]、「トミー映画えいがばん出演しゅつえんした。クラプトンは伝道でんどうえんじ、[[サニー・ボーイ・ウィリアムソンII]]の「Eyesight to the Blind」を演奏えんそうした。かれはまた、映画えいが「[[ブルース・ブラザース2000]]」にルイジアナ・ゲイター・ボーイズの一員いちいんとして出演しゅつえんした。バンドのメンバーやくくわえ、かれみじかいスピーチもおこなっている。クラプトンは[[メルセデス・ベンツ・Gクラス]]の広告こうこく登場とうじょうした。2007ねん3がつ、クラプトンは[[リアルネットワークス]]の[[:w:en:Napster (streaming service)|ラプソディ・オンライン・ミュージックサービス]]の広告こうこく登場とうじょうした<ref>{{cite web
クラプトンは[[ザ・フー]]の[[ロック・オペラ]]『[[トミー (アルバム)|トミー]]』[[トミー (映画えいが)|映画えいがばん]](1975ねん)で伝道でんどうえんじ、[[サニー・ボーイ・ウィリアムソンII]]の「Eyesight to the Blind」を演奏えんそうした。かれはまた、映画えいが「[[ブルース・ブラザース2000]]」にルイジアナ・ゲイター・ボーイズの一員いちいんとして出演しゅつえんした。バンドのメンバーやくくわえ、かれみじかいスピーチもおこなっている。クラプトンは[[メルセデス・ベンツ・Gクラス]]の広告こうこく登場とうじょうした。2007ねん3がつ、クラプトンは[[リアルネットワークス]]の[[:w:en:Napster (streaming service)|ラプソディ・オンライン・ミュージックサービス]]の広告こうこく登場とうじょうした<ref>{{cite web
|url=http://play.rbn.com/?url=realguide/music/ads/clapton.smi
|url=http://play.rbn.com/?url=realguide/music/ads/clapton.smi
|title=Rhapsody.com Eric Clapton advert
|title=Rhapsody.com Eric Clapton advert
347ぎょう: 349ぎょう:


==== キツネ禁止きんし ====
==== キツネ禁止きんし ====
クラプトンは、フィールドスポーツやイギリスの田舎いなか関連かんれんする問題もんだい推進すいしんする[[:w:en:Countryside Alliance|カントリーサイド・アライアンス]]を支援しえんしている。かれ団体だんたい資金しきん調達ちょうたつするためにコンサートで演奏えんそうし、[[:w:en:Hunting Act 2004|2004ねん狩猟しゅりょうほう]]で[[労働党ろうどうとう (イギリス)|労働党ろうどうとう]]が[[キツネり (ブラッド・スポーツ)|キツネり]]を禁止きんししたことに公然こうぜん反対はんたいした。クラプトンのスポークスパーソンは、「エリックはカントリーサイド・アライアンスを支持しじしている。かれ自分じぶん自身じしんることはしないが、りや射撃しゃげきなどの田舎いなか追求ついきゅうたのしんでいる。かれは、人々ひとびと私的してき追求ついきゅうたいする国家こっか干渉かんしょう同意どういしないという理由りゆうで、禁止きんし廃止はいしするというアライアンスの活動かつどう支持しじしている」とかたった<ref>{{cite web | url= http://www.contactmusic.com/new/xmlfeed.nsf/story/clapton-headlines-pro-hunt-concert_30_04_2006 | title= Clapton Headlines Pro-Hunt Concert | work= Contact Music | date= 30 April 2006 | access-date= 9 June 2014 | archive-url= https://web.archive.org/web/20110111075203/http://www.contactmusic.com/new/xmlfeed.nsf/story/clapton-headlines-pro-hunt-concert_30_04_2006 | archive-date= 11 January 2011 | url-status= live }}</ref>。
クラプトンは、フィールドスポーツやイギリスの田舎いなか関連かんれんする問題もんだい推進すいしんする[[:w:en:Countryside Alliance|カントリーサイド・アライアンス]]を支援しえんしている。かれ団体だんたい資金しきん調達ちょうたつするためにコンサートで演奏えんそうし、[[:w:en:Hunting Act 2004|2004ねん狩猟しゅりょうほう]]で[[労働党ろうどうとう (イギリス)|労働党ろうどうとう]]が[[キツネり]]を禁止きんししたことに公然こうぜん反対はんたいした。クラプトンのスポークスパーソンは、「エリックはカントリーサイド・アライアンスを支持しじしている。かれ自分じぶん自身じしんることはしないが、りや射撃しゃげきなどの田舎いなか追求ついきゅうたのしんでいる。かれは、人々ひとびと私的してき追求ついきゅうたいする国家こっか干渉かんしょう同意どういしないという理由りゆうで、禁止きんし廃止はいしするというアライアンスの活動かつどう支持しじしている」とかたった<ref>{{cite web | url= http://www.contactmusic.com/new/xmlfeed.nsf/story/clapton-headlines-pro-hunt-concert_30_04_2006 | title= Clapton Headlines Pro-Hunt Concert | work= Contact Music | date= 30 April 2006 | access-date= 9 June 2014 | archive-url= https://web.archive.org/web/20110111075203/http://www.contactmusic.com/new/xmlfeed.nsf/story/clapton-headlines-pro-hunt-concert_30_04_2006 | archive-date= 11 January 2011 | url-status= live }}</ref>。


==== はんロックダウンの楽曲がっきょく ====
==== はんロックダウンの楽曲がっきょく ====
654ぎょう: 656ぎょう:
** {{cite book|title=The Blues-Rock Masters|first1=H. P.|last1=Newquist|first2=Richard|last2=Maloof|page=27|chapter=Eric Clapton|publisher=Backbeat Books|year=2003|isbn=978-0-87930-735-6}}
** {{cite book|title=The Blues-Rock Masters|first1=H. P.|last1=Newquist|first2=Richard|last2=Maloof|page=27|chapter=Eric Clapton|publisher=Backbeat Books|year=2003|isbn=978-0-87930-735-6}}
** {{cite book|title=Gear Secrets of the Guitar Legends|first1=Pete|last1=Prown|first2=Lisa|last2=Sharken|chapter=Eric Clapton|page=6|publisher=Backbeat Books|year=2003|isbn=9780879307516}}
** {{cite book|title=Gear Secrets of the Guitar Legends|first1=Pete|last1=Prown|first2=Lisa|last2=Sharken|chapter=Eric Clapton|page=6|publisher=Backbeat Books|year=2003|isbn=9780879307516}}

;その英語えいご文献ぶんけん:
** {{cite book|title=Who I Am|first=Pete|last=Townshend|year=2012|publisher=Harper|id=ISBN 978-0-00-747916-0}}
** {{cite book|title=Anyway Anyhow Anywhere: The Complete Chronicle of The Who 1958-1978|first=Andy|last=Neill|coauthors=Kent, Matt|year=2007|publisher=Virgin Books|id=ISBN 978-0-7535-1217-3}}


;日本語にほんご文献ぶんけん:
;日本語にほんご文献ぶんけん:

2024ねん4がつ12にち (金)きん 17:25時点じてんにおける最新さいしんばん

エリック・クラプトン
CBE
カナダ・トロント『TIFF 2017』にて(2017ねん
基本きほん情報じょうほう
出生しゅっしょうめい エリック・パトリック・クラプトン
生誕せいたん (1945-03-30) 1945ねん3月30にち(79さい
出身しゅっしん イングランドの旗 イングランド サリーしゅう ギルフォード リプリー (en)
ジャンル
職業しょくぎょう
担当たんとう楽器がっき
活動かつどう期間きかん 1963ねん -
レーベル
共同きょうどう作業さぎょうしゃ
公式こうしきサイト Eric Clapton Official Website
著名ちょめい使用しよう楽器がっき

エリック・パトリック・クラプトンEric Patrick Clapton, CBE1945ねん3月30にち - )は、イギリスミュージシャンシンガーソングライター

史上しじょうもっと重要じゅうよう影響えいきょうりょくのあるギタリストの1人ひとりとされる[2][3]。クラプトンはローリング・ストーンの「史上しじょう最高さいこうのギタリスト100にん」で2[4]ギブソンの「史上しじょう最高さいこうのギタリストトップ50」で4にランクされた[5]。2009ねんにはタイムの「エレクトリックギタープレーヤーベスト10」で5えらばれた[6]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

さまざまな地元じもとのバンドで演奏えんそうしたのち、クラプトンは1963ねんヤードバーズのギタリスト、トップ・トーパムわって加入かにゅうした。ヤードバーズがブルースロックからラジオけのポップ指向しこう目指めざしたことに不満ふまんいたクラプトンは1965ねん脱退だったいジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ加入かにゅうした。1966ねんにメイオールを脱退だったいかれはドラマーのジンジャー・ベイカー、ベーシストのジャック・ブルースパワートリオクリーム結成けっせい持続じぞくてきなブルースの即興そっきょう演奏えんそうと「芸術げいじゅつてきでブルースベースのサイケデリックポップ」を演奏えんそうした[7]。1968ねん11月にクリームが解散かいさんしたのちかれはベイカー、スティーヴ・ウィンウッドリック・グレッチとブルースロックバンドのブラインド・フェイス結成けっせい、1まいのアルバムを発表はっぴょうし1のツアーをおこなった。ブラインド・フェイスは1970ねん解散かいさんし、クラプトンはソロキャリアにした。

ソロキャリアにくわえて、クラプトンはデラニー&ボニーデレク・アンド・ザ・ドミノスとも共演きょうえんし、代表だいひょうきょくの1つである「いとしのレイラ」をレコーディングした。そのすうじゅうねんにわたっておおくのソロアルバムときょく発表はっぴょうし、たか評価ひょうかた。そのなかには、1974ねんにリリースしたボブ・マーリーのカバー「アイ・ショット・ザ・シェリフ」(レゲエ一般いっぱんマーケットにれられるきっかけとなった[8])、カントリー・ミュージックたされた『スローハンド』(1977)、ポップロックの『オーガスト』(1986)などがふくまれる。息子むすこコナーが1991ねん事故死じこししたのち、クラプトンはかなしみをうたげた「ティアーズ・イン・ヘヴン」を『アンプラグド~アコースティック・クラプトン』で発表はっぴょうし、1996ねんにはリズム&ブルースのクロスオーバー、「チェンジ・ザ・ワールド」でトップ40のヒットを記録きろくした。1998ねんには「マイ・ファーザーズ・アイズ」を発表はっぴょうし、グラミーしょう受賞じゅしょうする。1999ねん以来いらいかれ伝統でんとうてきなブルースとブルースロックのアルバムを録音ろくおんし、定期ていきてきクロスロード・ギター・フェスティバル主催しゅさいしてきた。最新さいしんのアルバムは2018ねんの『ハッピー・クリスマス』である。

クラプトンはグラミーしょうを18かい受賞じゅしょうし、ブリット・アワード功労賞こうろうしょう受賞じゅしょうしている[9][10]。2004ねんかれ音楽おんがくへの貢献こうけんで、バッキンガム宮殿きゅうでんだいえい帝国ていこく勲章くんしょう授与じゅよされた[11]かれ英国えいこく作曲さっきょくしょう作曲さっきょくしょう作曲さっきょくしょう生涯しょうがい功労賞こうろうしょうふくむ4つのアイヴァー・ノヴェロしょう受賞じゅしょうしている。また、かれはソロアーティスト、ヤードバーズ、クリームと3ロックの殿堂でんどうりした唯一ゆいいつのアーティストである。

クラプトンはソロアーティストとして世界中せかいじゅうで2おく8000まんまい以上いじょうのレコードをげ、史上しじょうもっとれたミュージシャンの1人ひとりとなった[12]。かつてアルコール依存いぞんしょうおよ麻薬まやく中毒ちゅうどく治療ちりょうけたクラプトンは1998ねん薬物やくぶつ乱用らんようもの治療ちりょう目的もくてきとする医療いりょう施設しせつ、クロスロード・センターをアンティグアとう設立せつりつした[13]

[編集へんしゅう]

クラプトンは1945ねん3がつ30にちイングランドのロンドン近郊きんこうサリーしゅうギルフォードリプリー (en) で、16さいのパトリシア・モリー・クラプトン(1929ねん1がつ7にち-1999ねん3がつ)と25さいのエドワード・ウォルター・フライヤー(1920ねん3がつ21にち-1985ねん5がつ15にち)とのあいだまれた。

父親ちちおやのフライヤーはケベックしゅうモントリオール出身しゅっしん軍人ぐんじん[14]、クラプトンがまれるまえ出征しゅっせいし、そのカナダ帰国きこくした。クラプトンは祖母そぼのローズとその2番目ばんめおっとであるジャック・クラップ(ははパトリシアの継父けいふ)を両親りょうしんとしてそだった。かれ母親ははおやのパトリシアをとしはなれたあねしんじていた。せい類似るいじしていたことで、クラプトンの本名ほんみょうはクラップであるというあやまったせつ流布るふした。(レジナルド・セシル・クラプトンが祖母そぼローズの最初さいしょおっとで、クラプトンというのは母方ははかた祖父そふせいであった。[15]すうねん母親ははおやのパトリシアはべつのカナダじん兵士へいし結婚けっこんしてドイツうつ[16]おさないエリックを祖父母そふぼ一緒いっしょにサリーにのこした[17]

クラプトンは13さい誕生たんじょうにドイツせいホイヤーのアコースティックギターをもらったが、安価あんかなスチールつるのホイヤーは演奏えんそうむずかしく、一時いちじてき興味きょうみうしなった[17]。2ねんふたたし、集中しゅうちゅうして練習れんしゅうはじめた[17]。クラプトンはおさなころからブルースの影響えいきょうけており、レコードにわせて演奏えんそうし、ブルースのコードをまなぶために長時間ちょうじかん練習れんしゅうした[18]かれグルンディッヒせいのテープレコーダーで演奏えんそう録音ろくおんし、まさしく理解りかいできるまでなんかえしていていた[18][19]

1961ねんサービトンホリーフィールド・スクール卒業そつぎょうしたのち、クラプトンはキングストン美術びじゅつ学校がっこうまなんたが、美術びじゅつよりも音楽おんがく重点じゅうてんいていたため、学年がくねんわりに放校ほうこうとなった。かれのギターテクニックは卓越たくえつしており、16さいまでに注目ちゅうもくあつめるようになった[19]。このころ、クラプトンはキングストンリッチモンド、そしてウエスト・エンドまわりでストリートパフォーマンスはじめた[20]

1962ねん、クラプトンはブルースきのデヴィッド・ブロックとデュオをみ、サリー周辺しゅうへんのパブで演奏えんそうはじめた[19]。そのクラプトンはR&Bグループのルースターズに加入かにゅうした。ルースターズのほかのギタリストはトム・マクギネスであった。かれは1963ねん1がつから8がつまでこのバンドで活動かつどうした[13]。10月にはケーシー・ジョーンズ&エンジニアズと7ギグおこなった[13]

音楽おんがく経歴けいれき[編集へんしゅう]

ヤードバーズとブルースブレイカーズ[編集へんしゅう]

1963ねん10がつ、クラプトンはブルースの影響えいきょうけたロックンロールバンドであるヤードバーズ参加さんかし、1965ねん3がつまでとも活動かつどうした。シカゴ・ブルースと、バディ・ガイフレディ・キングB.B.キングなどの主要しゅようなブルースギタリストの影響えいきょう統合とうごうしたクラプトンは、独特どくとくのスタイルをつくげ、急速きゅうそくにイギリスの音楽おんがくシーンでもっと話題わだいのギタリストの1人ひとりになった[21]。バンドは最初さいしょチェス/チェッカー/ヴィージェイのブルースナンバーを演奏えんそうし、リッチモンドクロウダディ・クラブローリング・ストーンズ後釜あとがまとして出演しゅつえんするようになると、大勢おおぜい熱狂ねっきょうてきなファンを魅了みりょうはじめた。かれらはアメリカのブルースマン、サニー・ボーイ・ウィリアムソンII一緒いっしょにイギリスツアーをおこない、1963ねん12月に録音ろくおんされたライブアルバム『サニー・ボーイ・ウィリアムソン&ザ・ヤードバーズ』は1966ねんにリリースされた。

1964ねんロンドンロイヤル・アルバート・ホールはじめて出演しゅつえんしたクラプトンは、それ以来いらい、200かい以上いじょうどう会場かいじょう演奏えんそうしてきた[22]

ヤードバーズのリズムギタリスト、クリス・ドレヤは、クラプトンがコンサートちゅうにギターのつるったときはいつでも、ステージにとどまって交換こうかんしていたことをおもす。イギリスの聴衆ちょうしゅうはいわゆる「スロー・ハンドクラップおそ手拍子てびょうし)」をすることによってコンサートの中断ちゅうだんっていた。クラプトンのニックネーム「スローハンド」は、ジョルジオ・ゴメルスキーった、クラプトンがつる交換こうかんのために演奏えんそう停止ていししているときにつづいた観客かんきゃくおそ手拍子てびょうし駄洒落だじゃれ由来ゆらいする[23]。1964ねん12月、クラプトンはヤードバーズとともにロンドンのロイヤル・アルバート・ホールはつ登場とうじょうした[22]。それ以来いらい、クラプトンはどうホールで200かい以上いじょう演奏えんそうし、会場かいじょうでの演奏えんそうは「ぼく居間いま演奏えんそうする」ようなものだとべている[24][25]

1965ねん3がつ、ヤードバーズはソングライターのグレアム・グールドマンいた最初さいしょだいヒットきょくフォー・ユア・ラヴ」を発表はっぴょうした。グールドマンは、ハーマンズ・ハーミッツホリーズのヒットきょく作曲さっきょくしており、のち10ccのメンバーとして成功せいこうおさめた。ヤードバーズは「フォー・ユア・ラヴ」の成功せいこうもあって、ポップ志向しこうのサウンドに移行いこうすることを選択せんたくした。これは、商業しょうぎょうてき成功せいこうではなくブルースに専念せんねんしていたクラプトンの苛立いらだちにおおきく影響えいきょうすることとなる。かれは「フォー・ユア・ラヴ」がリリースされたにヤードバーズを脱退だったいした。バンドはもっと熟練じゅくれんしたメンバーをうしなうこととなった。クラプトンは自分じぶんわりとしてジミー・ペイジ提案ていあんしたが、ペイジはこの推薦すいせんことわ[26]ジェフ・ベック推薦すいせんした[21]。ペイジはのちにヤードバーズにくわわり、ベックとしばらくのあいだ一緒いっしょ活動かつどうしたが、ベック、ペイジ、クラプトンは一緒いっしょにグループで活動かつどうすることはかった。かれらがはじめてともにステージにがったのは1983ねんにロイヤル・アルバート・ホールでおこなわれたARMS(Action into Research for Multiple Sclerosis:多発たはつせい硬化こうかしょう研究けんきゅううなが行動こうどうチャリティーコンサートでのことであった[27]。クラプトンは1965ねん4がつジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ加入かにゅうしたが、すうげつ脱退だったいした。6月、クラプトンはペイジとともにジャムに招待しょうたいされ、おおくのきょく録音ろくおんした。のちにそれはザ・イミディエイト・オールスターズのクレジットでリリースされた。1965ねんなつかれ旧友きゅうゆうのベン・パーマーをふくむグランドとばれるバンドとともにギリシャでのツアーにかった。ギリシャのバンド、ザ・ジュニアーズは悲劇ひげきてき自動車じどうしゃ事故じこでベーシストのサーノス・ソウジオウルが死亡しぼうし、ギタリストのアレコス・カラカンタスが負傷ふしょうしたが、のこったメンバーは1965ねん10がつ17にちにクラプトンととも記念きねんのショーを開催かいさいした[28]。クラプトンは10がつにブルースブレイカーズにさい加入かにゅうした。1966ねん3がつ、ブルースブレイカーズのメンバーであるあいだにクラプトンはジャック・ブルーススティーヴ・ウィンウッドとサイドプロジェクトで協力きょうりょくし、エリック・クラプトン・アンド・ザ・パワーハウス名前なまえなんきょく録音ろくおんした。2度目どめのブルースブレイカーズでの活動かつどう期間きかんちゅう、クラプトンはクラブサーキットで最高さいこうのブルースギタリストとしての評判ひょうばんた。アルバム『ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ・ウィズ・エリック・クラプトン』での演奏えんそうでクラプトンは世界せかいてき有名ゆうめいになったが、このアルバムはかれが1966ねん7がつにバンドをはなれるまでリリースされなかった。

フェンダー・テレキャスターVox AC30アンプを1960ねんギブソン・レスポール・スタンダードとマーシャルアンプ交換こうかんしたクラプトンのサウンドと演奏えんそうは、有名ゆうめいなスローガン「Clapton is God」におおきな影響えいきょうあたえた。それは1967ねんイズリントンかべにスプレーでかれたもの[29]、その落書らくがきのしたいぬかべ排尿はいにょうしている有名ゆうめい写真しゃしん記録きろくされる。クラプトンはそのスローガンにたいしてずかしいという気持きもちをあらわし、1987ねんサウスバンクショーのプロフィールで、「ぼく自分じぶん世界せかいもっと偉大いだいなギター奏者そうしゃであることをけっしてれなかった。ぼくつね世界せかいもっと偉大いだいなギタープレーヤーになりたいとおもっていたけど、それは理想りそうであり、理想りそうとしてれている。[30]」とかたっている。

クリーム[編集へんしゅう]

クリーム - ひだりから、ベイカー、ブルース、クラプトン(1966ねん

クラプトンは1966ねん7がつにブルースブレイカーズをり(ピーター・グリーンわりに加入かにゅうした。)、ドラマーのジンジャー・ベイカーさそわれて、ベースのジャック・ブルース(ブルースはかつてブルースブレイカーズ、グレアム・ボンド・オーガニゼーション、マンフレッド・マン所属しょぞくしていた。[31])とともにクリームを結成けっせいした。クリームは初期しょきスーパーグループひとつであった。クラプトンはクリームを結成けっせいする以前いぜんは、アメリカではあまられていなかった。かれは「フォー・ユア・ラヴ」がアメリカのトップ10りするまえにヤードバーズをり、アメリカではショーに出演しゅつえんしたことがかった[32]。クリーム在籍ざいせきちゅう、クラプトンはシンガー、ソングライター、ギタリストとして成長せいちょうはじめたが、バンドのリードヴォーカルはブルースがだい部分ぶぶん担当たんとうし、作詞さくしピート・ブラウン一緒いっしょきょく大半たいはんいた[21]。クリームの最初さいしょのギグは1966ねん7がつ29にちにマンチェスターのツイステッド・ホイール・クラブおこなわれ非公式ひこうしきもので、正式せいしきなデビューはそのにちウィンザーナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティバルであった。クリームはだい音量おんりょうのブルース・ジャムと、ソロのライブステージでその永続えいぞくてき伝説でんせつ確立かくりつした。

1967ねんはじめまでに、イギリスで出現しゅつげんしたブルースロックのファンは、クラプトンをイギリスのトップギタリストとして描写びょうしゃはじめた。しかしクラプトンは、アシッドロックんだギタリストであるジミ・ヘンドリックス登場とうじょうで、かれがライバルであることにがついた。ヘンドリックスは、フィードバック奏法そうほうエフェクトペダル使用しようしてあたらしいサウンドをつくした[33]。ヘンドリックスは1966ねん10がつ1にちセントラル・ロンドン・ポリテクニックおこなわれたクリームのライブに出演しゅつえんし、そのあいだかれは「キリング・フロアー」のダブルタイムバージョンを演奏えんそうした[33]。クラプトン、ピート・タウンゼントローリング・ストーンズビートルズのメンバーをふくむイギリスのトップスターたちは、ヘンドリックスの初期しょきのクラブパフォーマンスに熱心ねっしん参加さんかした。ヘンドリックスの到着とうちゃくは、クラプトンのキャリアのつぎ段階だんかい即座そくざおおきな影響えいきょうおよぼした[34]

クラプトンのザ・フール・ギター(レプリカ)、そのデザインと有名ゆうめいな「ウーマン・トーン」は1960年代ねんだいのサイケデリックロック時代じだい象徴しょうちょうであった。

クラプトンがアメリカをはじめておとずれたのは、クリームのツアーでのことであった。1967ねん3がつ、クリームはニューヨークのRKOシアターで9かいのライブをおこなった。クラプトンによると、1964ねんせい彩色さいしきされたギブソン・SG - 「サイケデリック・ファンタジー」ザ・フール - は、RKOシアターでデビューした[35]。クラプトンはそのギターを『フレッシュ・クリーム』ののちとくに『カラフル・クリーム』で多用たようし、バンドが解散かいさんした1968ねんまで使用しようした[36]。「ザ・フール」は世界せかいもっと有名ゆうめいなギターの1つであり、サイケデリック時代じだい象徴しょうちょうしている[36]かれらは1967ねん5がつ11にちから15にちまでニューヨークで『カラフル・クリーム』を録音ろくおんした。クリームのレパートリーはハードロック(「アイ・フィール・フリー」)から、ブルースベースのながいインストルメンタルジャム(「スプーンフル」)までさまざまであった。『カラフル・クリーム』にはクラプトンの灼熱しゃくねつのギターライン、ブルースの急上昇きゅうじょうしょうするボーカルと際立きわだったなめらかなベース、ベイカーのパワフルでポリリズムのジャズの影響えいきょうけたドラムがおさめられた。一緒いっしょに、かれらの才能さいのう影響えいきょうりょくのあるパワートリオとしてクリームを確立かくりつした。クラプトンのこえは、フランク・ザッパのアルバム『ウィー・アー・オンリー・イン・イット・フォー・ザ・マニー』のAめん1きょく、「アー・ユー・ハング・アップ?」とBめん1きょくはな記憶きおくしている蒸気じょうきオルガン音楽おんがく」でくことができる。

28かげつでクリームは商業しょうぎょうてき成功せいこうおさめ、すうひゃくまんのレコードをげ、アメリカとヨーロッパでライブをおこなった。かれらはロックにおける演奏えんそうしゃ役割やくわりさい定義ていぎし、熟練じゅくれんした楽器がっき演奏えんそうながいジャズスタイルの即興そっきょうセッションを強調きょうちょうした最初さいしょのブルースロックバンドの1つであった。かれらのアメリカにおけるヒットシングルには、「サンシャイン・ラヴ」(1968ねんだい5)、「ホワイト・ルーム」(1968ねんだい6)、「クロスロード」(1969ねんだい28)などがある。「クロスロード」はロバート・ジョンソンの「クロスロード・ブルース」のライブバージョンである。クリームは当時とうじもっと偉大いだいなグループの1つとしてとなえられ、ギターの伝説でんせつとしてのクラプトンの称賛しょうさんあらたなたかみにたっしたが、スーパーグループは短命たんめいであった。ドラッグとアルコールの使用しようは3にんのメンバーあいだ緊張きんちょうたかめ、ブルースとベイカーの対立たいりつ最終さいしゅうてきにクリームの解散かいさんにつながった。バンドの2かいのアメリカツアーにたいする非常ひじょう批判ひはんてきなローリング・ストーンのレビューは、解散かいさんのもうひとつの重要じゅうよう要因よういんであり、それはクラプトンにおおきな影響えいきょうあたえた[37]。クラプトンはまた、ザ・バンドのデビューアルバムである『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』の革命かくめいてきアメリカーナサウンドが、クリームをるという決定けってい影響えいきょうあたえたとかんがえている[38][39]

クリームのラストアルバム『グッバイ・クリーム』には1968ねん10がつ19にちロサンゼルスフォーラムおこなわれたライブがおさめられ、解散かいさん直後ちょくごにリリースされた。どうさくにはクラプトンとジョージ・ハリスンきょうさくした「バッジ」がおさめられ、これはシングルでも発売はつばいされた。クラプトンはヤードバーズ時代じだいロンドン・パラディアムでビートルズと共演きょうえんし、そこでハリスンと出会であい、二人ふたりしたしい友人ゆうじんとなった。1968ねん、クラプトンはビートルズの『ホワイトアルバム』でハリスンさくの「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」に参加さんか、リードギターソロを演奏えんそうした。ハリスンのソロデビューアルバム『不思議ふしぎかべ』はクラプトンが参加さんかしたはつのハリソンのアルバムである。クラプトンは契約けいやくじょう制約せいやくのため、ハリスンのアルバムではほとんどクレジットされず、またクリームの「バッジ」でハリスンは「ランジェロ・ミステリオーソ」としてクレジットされた。二人ふたりはしばしばおたがいのライブにゲスト出演しゅつえんし、とも演奏えんそうした。2001ねんにハリスンが死去しきょしてから1ねん、クラプトンはコンサート・フォー・ジョージ音楽おんがく監督かんとくつとめた[40]

1969ねん1がつ、ビートルズはゲット・バック・セッションでメンバーあいだ緊張きんちょうかんたかまり、ハリスンはすう日間にちかんグループからはなれた。ジョン・レノンはハリスンがもどらなかった場合ばあい、クラプトンと一緒いっしょにプロジェクトを完了かんりょうすることを提案ていあんした[41]。セッションの撮影さつえいディレクターであるマイケル・リンゼイ=ホッグは、のちつぎのように回想かいそうしている。「ジョンがクラプトンについて言及げんきゅうしたとき、わたしはそこにいた - しかし、それはこらなかった。エリックはビートルズになっていただろうか? いいえ。ポールはそこにきたくなかった。かれ解散かいさんのぞまなかった。それからジョージはもどってきたんだ[42]」クラプトンはビートルズの4にん全員ぜんいんなかかった。1968ねん12月、かれローリング・ストーンズの『ロックンロール・サーカス』で、このかぎりのグループ、ザ・ダーティー・マック一員いちいんとしてレノンと共演きょうえんした[43]

クリームは1993ねん一時いちじてきさい結成けっせいし、ロックの殿堂でんどうりの記念きねんステージで演奏えんそうした。2005ねん5がつには完全かんぜんさい結成けっせいし、ロイヤル・アルバート・ホールでの4かいのコンサートはチケットがすべ完売かんばいした[44]。そのとしの10がつにはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで3かいのショーをおこなった[45]。ロンドンでのショーは『リユニオン・ライヴ 05』として2005ねん後半こうはんにCD、LP、DVDでリリースされた[46]

ブラインド・フェイス、デラニー&ボニー&フレンズ[編集へんしゅう]

ブラインド・フェイス - みぎはしがクラプトン(1969ねん

1969ねん結成けっせいされたクラプトンのつぎのグループであるブラインド・フェイスは、クリームのドラマーであったジンジャー・ベイカー、トラフィックスティーヴ・ウィンウッドファミリーリック・グレッチ構成こうせいされ、アルバムをいちまい発表はっぴょうし、アリーナサーキットツアーを1かいおこなった。このスーパーグループは1969ねん6がつ7にちにロンドンのハイド・パークで10まんにんのファンのまえにデビューした[47]かれらはスカンジナビアでなんかいかのライブをおこない、7がつにはアメリカツアーをおこない、そのチケットはすべ完売かんばいした。デビューアルバム『スーパー・ジャイアンツ』は8がつにリリースされた。アルバムは6きょく構成こうせいされ、そのうちの1きょくはヒットきょくマイ・ウェイ・ホーム」であった。もう1きょく「プレゼンス・オブ・ザ・ロード」はクラプトンのみがクレジットされたはつきょくである[48]。アルバムジャケットの写真しゃしん銀色ぎんいろ宇宙船うちゅうせんったトップレスの少女しょうじょであったため、アメリカで論争ろんそうこり、バンドの写真しゃしんえられた。ブラインド・フェイスは7かげつらずで解散かいさんした[49]

ブラインド・フェイスの解散かいさん、クラプトンはデラニー&ボニー&フレンズのサポートメンバーとしてツアーをおこなった。かれはまた、プラスティック・オノ・バンドのメンバーとして1969ねん9がつトロント・ロックンロール・リバイバル出演しゅつえんし、その様子ようすはアルバム『平和へいわいのりをこめて』としてリリースされた[50]。9月30にち、クラプトンはレノンのセカンドソロシングル「コールド・ターキー」の録音ろくおん参加さんかし、リードギターを演奏えんそうした[51]。そのとしの12月15にち、クラプトンはロンドンのライシーアム劇場げきじょう開催かいさいされたユニセフのチャリティー・コンサート『ピース・フォー・クリスマス』にプラスティック・オノ・スーパーグループのメンバーとして出演しゅつえんして、レノン、ハリスンらと共演きょうえんした[50]。このとき音源おんげんはレノンとヨーコのアルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』(1972ねん)に収録しゅうろくされた。

デラニー・ブラムレットはクラプトンのうた作曲さっきょくはげました。ブラムレットのバックバンドとセッションプレーヤーのオールスターキャスト(レオン・ラッセルスティーヴン・スティルスふくむ)を使つかって、クラプトンははつのソロアルバム『エリック・クラプトン・ソロ』を録音ろくおんした。デラニー・ブラムレットはクラプトンと6きょくきょうさくし、アルバムのプロデュースも担当たんとうした[52]ボニー・ブラムレットは「レット・イット・レイン」をともさくした[53]。このアルバムにはJ・J・ケイルの「アフター・ミッドナイト」もおさめられたが、アメリカではチャート18予想よそうがいのヒットとなった。クラプトンはまたデラニー&ボニーのメンバーとともに、1970ねんはるにジョージ・ハリスンの『オール・シングス・マスト・パス』を録音ろくおんした。

この期間きかんちゅう、クラプトンはドクター・ジョンレオン・ラッセルビリー・プレストンリンゴ・スターデイブ・メイソンなどのアーティストともレコーディングをおこなっている。シカゴブルースのアーティスト、ハウリン・ウルフとは『ザ・ロンドン・ハウリン・ウルフ・セッションズ』を録音ろくおんした。このセッションには、ウルフのバンドで長年ながねんギタリストをつとめるヒューバート・サムリンローリング・ストーンズのメンバー、ウィンウッド、スターも参加さんかした[54]。スーパースターのラインナップにもかかわらず、批評ひひょうカブ・コダつぎのようにべている。「普段ふだん自分じぶんがアイドルしているアーティストとの共演きょうえん歓迎かんげいしているエリック・クラプトンでさえ、インタビューではこのアルバムをかえ批判ひはんしている。それ自体じたいがボリュームをかたっている[54]」この時期じきほか有名ゆうめい録音ろくおんには、スティーヴン・スティルスファーストソロアルバムの「ゴー・バック・ホーム」での演奏えんそうふくまれる[55]

デレク・アンド・ザ・ドミノス[編集へんしゅう]

クラプトンは、かれまわりに形成けいせいされはじめた「スター」としてのカルトてき賞賛しょうさん意図いとで、デラニー&ボニーのリズムセクションを担当たんとうしていたキーボーディストのボビー・ウィットロック、ベーシストのカール・レイドル、ドラマーのジム・ゴードンさそい、あたらしいバンドを結成けっせいした。クラプトンはみずからが主役しゅやくえんじる必要ひつようがなく、アンサンブルのメンバーとしてうまく機能きのうすることをしめしたかった[56]。この期間きかんにクラプトンはザ・バンドの『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』の影響えいきょうをますますけ、「ぼくがバンドについて感謝かんしゃしたのは、かれらがうたうたうことにもっと関心かんしんっていたということだった。かれらは3パートと4パートのハーモニーをち、ギターは伴奏ばんそうとしての視点してんもどされた。それはぼくにぴったりだった。なぜならぼくは、期待きたいされていたという理由りゆうだけで、ながくて退屈たいくつなギターソロの美徳びとく(または疑似ぎじ美徳びとく)を演奏えんそうしなければならなかったことにとてもきていたからだ。バンドは物事ものごと見通みとおしにもどしたんだ。 優先ゆうせん順位じゅんいうただった」とかたっている[57]

デレク・アンド・ザ・ドミノス - みぎはしがクラプトン(1971ねん

かれらはもともと「エリック・クラプトン・アンド・フレンズ」とばれていた。最終さいしゅうてき名前なまえは、バンドの暫定ざんていてき名前なまえである「デル・アンド・ザ・ダイナモス」が誤解ごかいされ「デレク・アンド・ザ・ドミノス」となり、まぐれでそれに決定けっていした[58]。クラプトンの伝記でんきによると、アシュトン、ガードナー・アンド・ダイクトニー・アシュトンはクラプトンにバンドを「デル・アンド・ドミノス」とぶようにったとする。当時とうじ「デル」はエリック・クラプトンのニックネームだった。デルとエリックは結合けつごうされ、最終さいしゅうてき名前なまえは「デレク・アンド・ザ・ドミノス」になった[59]

クラプトンはジョージ・ハリスンと親密しんみつ交際こうさいをするようになり、その過程かていでハリソンのつまパティ・ボイド出会であう。かれはボイドにふか夢中むちゅうになった。ボイドはクラプトンの恋心こいごころ拍車はくしゃをかけ、かれ片思かたおもいはドミノスのアルバム『いとしのレイラ』のきょく大半たいはんあらわれた。ブルースの影響えいきょうつよけたこのアルバムは、クラプトンとデュアン・オールマンのツインリードギターをフィーチャーし、オールマンのスライドギターがサウンドの重要じゅうよう要素ようそとなっている。ドミノスはマイアミクライテリア・スタジオで、アトランティック・レコードのプロデューサーのトム・ダウドともに2まいぐみアルバムのレコーディングをおこなった。

アルバムにはヒットきょくいとしのレイラ」がふくまれる。これは12世紀せいきペルシア文学ぶんがく詩人しじんニザーミー・ギャンジェヴィーによる『ライラとマジュヌーン』にインスパイアされたものである。このほんイスラム教いすらむきょう改宗かいしゅうした友人ゆうじんイアン・ダラスがクラプトンにわたした。物語ものがたりは、父親ちちおや結婚けっこんきんじられたつき王女おうじょと、彼女かのじょ絶望ぜつぼうてきこいする若者わかものマジュヌーンがくるってしまうというもので、クラプトンにふか感銘かんめいあたえた[60][61]。「レイラ」の2つのパートは別々べつべつのセッションで録音ろくおんされた。最初さいしょにオープニングのギターセクションが録音ろくおんされ、すう週間しゅうかんくわえられた2番目ばんめのセクションでは、ドラマーのジム・ゴードンがピアノパートのメロディーを演奏えんそうした。この部分ぶぶんはゴードンの作曲さっきょくとなっているが、ボビー・ウィットロックはリタ・クーリッジがそのメロディーを作曲さっきょくしたとかたっている[59]

アルバム『レイラ』は、オールマン・ブラザーズ・バンドのギタリストであるデュアン・オールマン予期よきせぬ参加さんかのおかげで、実際じっさいには5にん編成へんせい録音ろくおんされた。セッションの数日すうじつ、オールマンズをプロデュースしていたダウドは、クラプトンをマイアミでのオールマン・ブラザーズの野外やがいコンサートに招待しょうたいした。2人ふたりのギタリストは最初さいしょにステージで出会であい、つぎにスタジオでいちばんちゅう演奏えんそうし、友人ゆうじんとなった。デュアンは最初さいしょに「テル・ザ・トゥルース」と「だれもらない」でスライドギターを演奏えんそうした。5ピースのドミノスは4日間にちかんで、「ハイウェイへの関門かんもん」、「あい経験けいけん」(フレディ・キングなどによって普及ふきゅうしたブルースの標準ひょうじゅん)、「こいかなしきもの」を録音ろくおんした。9月にデュアンは自分じぶんのバンドとのギグのためにセッションを一時いちじてきはなれ、4ピースのドミノスは「アイ・ルックト・アウェイ」、「ベル・ボトム・ブルース」、「キープ・オン・グロウイング」を録音ろくおんした。デュアンはレコーディングにもどり、「アイ・アム・ユアーズ」、「エニイデイ」、「イッツ・トゥー・レイト」を録音ろくおんした。9月9にちかれらはジミ・ヘンドリックスのカバー「リトル・ウィング」とタイトルトラックをレコーディングした。翌日よくじつ最終さいしゅうきょく「イッツ・トゥー・レイト」が録音ろくおんされた[62]

バルセロナで、1974ねん

しかし、セッションちゅうにクラプトンはヘンドリックスの死去しきょのニュースにちのめされた。ヘンドリックスの前日ぜんじつの1970ねん9がつ17にち、クラプトンは誕生たんじょうプレゼントとしてヘンドリックスにおく予定よていだった左利ひだりきようのフェンダー・ストラトキャスターを購入こうにゅうしていた。クラプトンのなやみにくわえて、『レイラ』リリースのレビューはかんばしいものでなかった。動揺どうようしたグループは、オールマン・ブラザーズ・バンドにもどったオールマンなしでアメリカツアーをおこなった。クラプトンがのちにツアーはドラッグとアルコールにまみれたなかおこなわれたことをみとめたにもかかわらず、結果けっかとしてまいぐみのライブアルバム『イン・コンサート』をもたらし、それはたか評価ひょうかされた[63]

ドミノスは2まいのスタジオアルバムのレコーディングをおこなっていたが、エゴの衝突しょうとつこりクラプトンがったことでグループは解散かいさん。オールマンは1971ねん10がつ29にちのオートバイ事故じこ死去しきょした。クラプトンはのち自伝じでんで、フロリダでのレイラセッションちゅうかれとオールマンはってもれない関係かんけいになったといている。かれはオールマンのことを「かつてなかったが、ぼくがしたかった音楽おんがく兄弟きょうだい」としてかたっている[64]。レイドルは1979ねんなつまでクラプトンのベーシストでありつづけたが、1980ねん5がつにアルコールと麻薬まやく影響えいきょう死去しきょした。クラプトンとウィットロックは2000ねんまで共演きょうえんすることはかった。2人ふたりは2000ねんBBCジュールズ・ホランド番組ばんぐみLater... with Jools Holland」でさい共演きょうえんした。ドミノスのもうひとつの悲劇ひげきはジム・ゴードンの運命うんめいである。かれは1983ねん母親ははおやをハンマーで殺害さつがい犯行はんこう当時とうじかれすで統合とうごう失調しっちょうしょう罹患りかんしていたものの診断しんだんがついておらず、逮捕たいほはじめてただしく診断しんだんくだされた。1984ねん7がつ10日とおかかれ懲役ちょうえき16ねん判決はんけつけて収監しゅうかんされたのち、カリフォルニア医療いりょう施設しせつうつされ、2023ねん3がつ生涯しょうがいえた[21]

個人こじんてき問題もんだい初期しょきのソロでの成功せいこう[編集へんしゅう]

1970年代ねんだいのクラプトンの成功せいこうは、ロマンチックなあこがれとドラッグやアルコール中毒ちゅうどくなやまされ、もがきくるしんだ個人こじんてき生活せいかつとはまった対照たいしょうてきであった[65]かれはまだボイドに夢中むちゅうでハリスンとの友情ゆうじょうかれていたが、ドミノスの解散かいさんはサリーの自宅じたくじこもりツアーやレコーディングから距離きょりいた。かれヘロイン中毒ちゅうどく療養りょうようはいり、活動かつどう中断ちゅうだんした。

1971ねん8がつ1にち、ハリスンとラヴィ・シャンカルがニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデン開催かいさいした『バングラデシュ難民なんみん救済きゅうさいコンサート』にバンドのメンバーとして出演しゅつえん体調たいちょう万全ばんぜんではなかったが、午後ごご2時半じはんと8の2かいのコンサートの両方りょうほう登場とうじょうし、ステージじょう気絶きぜつしたものの復帰ふっきし、なんとかつとめをたした[21]

1972ねんザ・フーピート・タウンゼントかれ復帰ふっき支援しえんしようとびかけ、ウィンウッド、グレッチ、ロン・ウッド、ジム・キャパルディ(トラフィック)、ジミー・カーステイン(ジョー・コッカー)、リーバップ・クワク・バー(トラフィック)があつまった[66]。1973ねん1がつ13にち午後ごご5時半じはんと8時半じはんの2かいかれはロンドンのレインボー・シアター開催かいさいされた『レインボー・コンサート』にタウンゼントらをバックに出演しゅつえんした[67]

イヴォンヌ・エリマンとクラプトン、1974ねん

1974ねんかれはボイドと同居どうきょはじめた。もはやヘロインは使用しようしていなかったがわりに飲酒いんしゅりょうえていった。かれはレイドル、マイアミのギタリストジョージ・テリー、キーボーディストのディック・シムズ(2011ねん死去しきょ[68]、ドラマーのジェイミー・オールデイカー、ヴォーカリストのイヴォンヌ・エリマンとマーシー・レヴィ(マルセラ・デトロイトとしてもられる)をふくひかえめなツアーバンドを結成けっせいし、『461 オーシャン・ブールヴァード』を録音ろくおん。このアルバムはよりコンパクトなきょくとよりすくないギターソロに重点じゅうてんいた。ボブ・マーリーの「アイ・ショット・ザ・シェリフ」のカバーはかれにとってはつのナンバーワンヒットになり、レゲエとマーリーの音楽おんがくがよりおおくのききてるのに貢献こうけんした。

同年どうねん5がつ監督かんとくケン・ラッセル映画えいがトミー」の撮影さつえい参加さんかしてサニー・ボーイ・ウィリアムソンIIの「Eyesight to the Blind」を演奏えんそうする「伝道でんどう」(The Preacher)をえんじた[69]映画えいがよく1975ねん3がつ公開こうかいされて、かれ人気にんきもどした。かれいくつかのショットであきらかに付髭つけひげ使用しようしている。これは最初さいしょひげって撮影さつえいのぞんだが、ラッセルがそのテイクを削除さくじょしてなおすことにめたからだった[59]

1975ねん発表はっぴょうしたアルバム『安息あんそくもとめて』にも前作ぜんさくおな傾向けいこうつづいた。アルバムのオリジナルタイトルである『The World's Greatest Guitar Player 』は、その皮肉ひにく意図いと誤解ごかいされるとかんじられたため、プレスまえ変更へんこうされた。バンドはワールドツアーをおこない、その様子ようすは『エリック・クラプトン・ライヴ』となってリリースされた[70]。クラプトンはそのもアルバムをリリースしつづけ、定期ていきてきにツアーをおこなった。この期間きかんのハイライトとして、『ノー・リーズン・トゥ・クライ』(ボブ・ディランザ・バンドとのコラボレーション)、『スローハンド』(「ワンダフル・トゥナイト」と2度目どめJ・J・ケイルのカバー「コカイン」をふくむ)がげられる。1976ねんかれマーティン・スコセッシのドキュメンタリー「ラスト・ワルツ」で撮影さつえいされたザ・バンド解散かいさんライブで、一連いちれん著名ちょめいなゲストの1人ひとりとして出演しゅつえんした。1977ねんごろはロニー・レインとともごすことおおくなり、電車でんしゃままなヨーロッパツアーもおこなっている。ワンダフル・トゥナイトはロニー・レインのいえにわをしながらロニーのまえはじめてうたわれており、ロニーとの出会であいはそののクラプトン の人生じんせいかん音楽おんがく影響えいきょうあたえた[71]

成功せいこう発展はってん[編集へんしゅう]

7RIAAプラチナ認定にんてい受賞じゅしょうした『ベスト・オブ・エリック・クラプトン』(1982)

1981ねん、クラプトンはプロデューサーのマーティン・ルイス招待しょうたいされ、アムネスティ・インターナショナルのチャリティーコンサートであるロンドンの「シークレット・ポリスマンズ・アザー・ボール」に出演しゅつえんした。クラプトンは招待しょうたいれ、ジェフ・ベックんですうきょくをデュエットしている。つたえられるところによると、これがステージじょうでのかれらの最初さいしょのコラボレーションであった。公演こうえんのうち3きょくはショーのアルバムでリリースされ、1きょく映画えいが登場とうじょうした。ロンドンのドゥルリー・レーン劇場げきじょうでの公演こうえんは、あたらしい10ねんでクラプトンのかたち卓越たくえつせいへの回帰かいきげた。ヘロイン中毒ちゅうどくまえ改宗かいしゅうした「キリストきょうへのふかいコミットメント」など、クラプトンの復帰ふっきにはおおくの要因よういん起因きいんしている[72][73][74]

1982ねん1がつ、クラプトンはマネージャーに電話でんわし、アルコール依存いぞんしょうであることをみとめたのちミネアポリス・セントポールび、ミネソタしゅうセンターシティにあるヘーゼルデン・トリートメントセンター入所にゅうしょ飛行機ひこうきなかで、クラプトンは二度にどむことができないのではないかとおそれ、たくさんのさけんだという。クラプトンは自伝じでんつぎのようにいている:[75]

ぼく人生じんせい最悪さいあく瞬間しゅんかんに、自殺じさつしなかった唯一ゆいいつ理由りゆうは、んだらもうむことができないだろうとっていたということだった。それはぼくきる価値かちがあるとおもった唯一ゆいいつのことだった、そして人々ひとびとぼくをアルコールからとおざけようとしているというかんがえはひどいものだった。なぜならぼくんでんでんで、そしてかれらは実際じっさいぼく診療しんりょうしょれてかなければならなかった。

退院たいいん、ヘーゼルデンの医師いしはクラプトンがアルコール依存いぞんしょうやストレスのがねとなるような活動かつどう参加さんかしないようにすすめた。しかしクラプトンは1987ねん11月にヘーゼルデン・トリートメントセンターにもどることとなる。最初さいしょのリハビリから退院たいいんしてからすうげつ、クラプトンは医師いし指示しじはんしてつぎのアルバムの制作せいさくはじめた。トム・ダウド協力きょうりょくして、かれはこれまで「もっと強制きょうせいてきな」アルバム『マネー・アンド・シガレッツ』を制作せいさく。クラプトンはアルコール依存いぞんしょうからの最初さいしょのリハビリののち、「それ(かねとタバコ)が自分じぶんったのをたすべてだった」からこのアルバムめいえらんだ[76]

1984ねんにクラプトンはピンク・フロイドもとメンバーであるロジャー・ウォーターズのソロアルバム『ヒッチハイクの賛否さんぴ両論りょうろん』に出演しゅつえんし、サポートツアーに参加さんか。それ以来いらい、ウォーターズとクラプトンは密接みっせつ関係かんけいきずいてきた。2005ねんかれらは津波つなみ救援きゅうえん基金ききんのためも共演きょうえんし、2006ねんにもカントリーサイド・アライアンス支援しえんけて、ハイクレア・カースルで「あなたがここにいてほしい」と「コンフォタブリー・ナム」の2きょく演奏えんそうしている。現在げんざい定期ていきてきにチャリティーパフォーンスをおこなっているクラプトンだが、1985ねん7がつ13にちフィラデルフィアジョン・F・ケネディ・スタジアム開催かいさいされたライヴエイドコンサートで、フィル・コリンズティム・レンウィッククリス・ステイントンジェイミー・オールデイカーマーシー・レビーショーン・マーフィードナルド・ダック・ダンらと共演きょうえんした[77]視聴しちょう時間じかんのピークにちかいスロットを提供ていきょうされたとき、かれあきらかにれていたようだった。かれは1980年代ねんだいもコンスタントにアルバムを発表はっぴょうし、1985ねんには「フォーエヴァー・マン」と「シーズ・ウェイティング」の2つのヒットきょくふくんだ『ビハインド・ザ・サン』をフィル・コリンズととも制作せいさくし、1986ねんの『オーガスト』でもコリンズを起用きようした[78]

『オーガスト』はコリンズのトレードマークであるドラムとホーンのサウンドにあふれ、クラプトンのこれまでのイギリスにおける最大さいだいげとなり、チャートの最高さいこうでとなる3到達とうたつした。アルバムの最初さいしょのトラックであるヒットきょくイッツ・イン・ザ・ウェイ・ザット・ユー・ユーズ・イット」はトム・クルーズポール・ニューマン映画えいがハスラー2」で使用しようされた。ホーンがフィーチャーされた「ラン」はコリンズの「ススーディオ」やその作品さくひん作風さくふう反映はんえいし、一方いっぽうティアリング・アス・アパート」(ティナ・ターナー共演きょうえん)や「ミス・ユー」ではクラプトンのよりはげしいサウンドがつづけられた。このリバウンドとして、クラプトンはコリンズ、ベーシストのネイザン・イースト、キーボーディストのグレッグ・フィリンゲインズともに2ねんおよぶツアーを開始かいしした。『オーガスト』ツアーでは4にんのバンドの2ほんのコンサートビデオ『Eric Clapton Live from Montreux』と『Eric Clapton and Friends』が撮影さつえいされた。クラプトンはのちに「アフター・ミッドナイト」を、ミケロブビールのプロモーションようシングルとしてつくなおした。どうブランドはコリンズやスティーヴ・ウィンウッドきょく使用しようしていた。

1985ねんBBCテレビジョンのスリラーシリーズ「刑事けいじロニー・クレイブン」のスコアをマイケル・ケイメンきょうさくし、英国えいこくアカデミーしょうテレビ部門ぶもん受賞じゅしょうした。また、ロンドンで開催かいさいされた1987ねんブリット・アワードで、クラプトンは音楽おんがくへのすぐれた貢献こうけんたいしてしょう受賞じゅしょうした[10]同年どうねんにはジョージ・ハリスンのアルバム『クラウド・ナイン』に参加さんかし、「クラウド・ナイン」、「ザッツ・ホワット・イット・テイクス」、「デヴィルズ・レイディオ」、「金星きんぼし崩壊ほうかい」で共演きょうえんしている[79]

クラプトンはまた、ビージーズともにチャリティーをおこなった。グループはザ・バンバリーズと名乗なのり、収益しゅうえきチェシャーのバンバリー・クリケットクラブに寄付きふするチャリティーアルバムを録音ろくおんした。このクラブは、イギリスの営利えいり団体だんたいへの資金しきんあつめるためにクリケットのエキシビションマッチをおこなっている。ザ・バンバリーズは、The Bunbury Tailsのために「"We're the Bunburys"」「"Bunbury Afternoon"」「"Fight (No Matter How Long)"」の3きょく録音ろくおんした。「"Fight (No Matter How Long)"」は『1988 Summer Olympics Album: One Moment in Time』に収録しゅうろくされ、ロック・チャートで8になった[80]。クラプトンは2011ねんにロンドンのグロブナー・ハウス・ホテルで開催かいさいされたクリケットクラブの25周年しゅうねん記念きねん式典しきてんでも演奏えんそうしている[81]

1988ねんウェンブリー・スタジアムおこなわれたネルソン・マンデラ70さい誕生たんじょうトリビュートダイアー・ストレイツエルトン・ジョンとも演奏えんそうし、ロイヤル・アルバート・ホールおこなわれたプリンス・トラストロックガーラにも出演しゅつえん[82]

1989ねん、ブルース、ジャズ、ソウル、ポップなど、幅広はばひろいスタイルをカバーした『ジャーニーマン』をリリース。共演きょうえんミュージシャンはジョージ・ハリスンフィル・コリンズダリル・ホールチャカ・カーンミック・ジョーンズデイヴィッド・サンボーンロバート・クレイふくまれた。「バッド・ラヴ」はシングルとしてリリースされ、のちグラミーしょう最優秀さいゆうしゅう男性だんせいロックボーカルパフォーマンスを受賞じゅしょうした[83]

1990年代ねんだい[編集へんしゅう]

1990年代ねんだいはロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートではじまった。『24ナイツ』はどう会場かいじょうで1990ねん1がつから2がつごろ、1991ねん2がつから3がつにかけておこなわれた演奏えんそうおさめられた。1990ねん6がつ30にち、ダイアー・ストレイツ、クラプトン、エルトン・ジョンがイギリスのネブワース開催かいさいされたノードフ=ロビンズのチャリティーショーにゲスト出演しゅつえん[84]

1990ねん8がつ27にち、クラプトンと一緒いっしょにツアーをおこなっていたブルースギタリストのスティーヴィー・レイ・ヴォーンとそのロードクルーのメンバー3めいが、コンサート移動いどうんだヘリコプターが墜落ついらくし、死亡しぼうした。

1991ねん3がつ20日はつか、クラプトンの4さい息子むすこコナーが母親ははおや友人ゆうじんのニューヨークひがし57丁目ちょうめ117ばんのアパートの53かいまどから転落てんらくして死亡しぼう。コナーの葬儀そうぎは3がつ28にちにサリーしゅうリプリーのクラプトンの故郷こきょうむらにあるマグダラのマリア教会きょうかいおこなわれた[85]

1991ねんリッチー・サンボラのアルバム『ストレンジャー・イン・ディス・タウン収録しゅうろくきょく「ミスター・ブルースマン」(サンボラがクラプトンやロバート・ジョンソンにささげたきょく)に参加さんか[86]翌年よくねんのエルトン・ジョンのアルバム『ザ・ワン』で、エルトンとのデュエットである「ランナウェイ・トレイン」にギターとヴォーカルで参加さんかした[87]

ぼくはほとんど無意識むいしきのうちに音楽おんがくいやしのエージェントとして使つかっていたが、よ、それはうまくいった...ぼく音楽おんがくからたくさんのしあわせとたくさんのいやしをた。
-「ティアーズ・イン・ヘブン」をいているときのいやしのプロセスにかんするクラプトン[88]

息子むすこコナーへのかなしみは、ウィル・ジェニングスとのともさくティアーズ・イン・ヘヴン」であらわされた[89][90]だい35かいグラミーしょうでクラプトンはシングル「ティアーズ・イン・ヘヴン」とアルバム『アンプラグド~アコースティック・クラプトン』で6つのグラミーしょう受賞じゅしょうしている[91]。このアルバムは1992ねん1がつ16にちバークシャーウィンザーにあるブレイ・フィルム・スタジオしょう人数にんずう聴衆ちょうしゅうまえおこなわれたライブ演奏えんそうおさめられたものだった。ビルボード200でナンバーワンにたっし、アメリカで1,000まんまい以上いじょう販売はんばいしたことでRIAAからダイヤモンドの認定にんてい受賞じゅしょうした[92]ぜんえいアルバムチャートでは2たっし、イギリスではプラチナの認定にんていを4かい受賞じゅしょうした[93]

1992ねん9がつ9にち1992ねんのMTVビデオミュージックアワードで「ティアーズ・イン・ヘヴン」を演奏えんそうし、最優秀さいゆうしゅう男性だんせいビデオしょう受賞じゅしょうした[94][95]同年どうねん、クラプトンは英国えいこく作曲さっきょくしょう作曲さっきょくしょう作曲さっきょくしょう生涯しょうがい功労賞こうろうしょうふくむ4つのアイヴァー・ノヴェロしょう受賞じゅしょうした[96]。1992ねん10がつにはボブ・ディランのデビュー30周年しゅうねん記念きねんコンサートに出演しゅつえんしている。コンサートはニューヨークマディソン・スクエア・ガーデン録音ろくおんされ、まいぐみのアルバム『30〜トリビュート・コンサート』としてリリースされた。おおくのミュージシャンがふるくからのディランのきょく演奏えんそうした様子ようすおさめられており、クラプトンはコンサートのフィナーレの一部いちぶである「天国てんごくへのとびら」でリードギターを担当たんとう[97]

アルバム『アンプラグド』の成功せいこうのち、1994ねんのアルバム『フロム・ザ・クレイドル』ではふるいブルーススタンダードをカバー[98]。1995ねんクリッシー・ハインドシェールネナ・チェリー共演きょうえんしたシングル「Love Can Build a Bridge」を、チャリティー番組ばんぐみコミックリリーフ」の支援しえんとしてリリースした。どうシングルはクラプトンが出演しゅつえんしたシングルではじめてぜんえいNo.1となる[99]

1996ねん9がつ12にち、クラプトンはニューヨークのレキシントン・アーモリーでおこなわれたアルマーニのパーティーにグレッグ・フィリンゲインズネイザン・イーストスティーヴ・ガッドらととも出演しゅつえんした。シェリル・クロウは「ティアリング・アス・アパート」をうたったが、『オーガスト』からのこのきょくは1986ねんのプリンス・トラスト・オールスター・ロックショーでティナ・ターナー最初さいしょえんじたきょくであった。ハイドパークでひらかれた野外やがいコンサート[100]つづいておこなわれたこのショーは、そのとしのクラプトンの唯一ゆいいつのアメリカにおけるショーであった[100]同年どうねんウェイン・カークパトリック/ゴードン・ケネディ/トミー・シムズらと録音ろくおんした「チェンジ・ザ・ワールド」(映画えいがフェノミナン」のサウンドトラック)は、1997ねんグラミーしょうのソング・オブ・ザ・イヤーを受賞じゅしょうつづいて『Retail Therapy』(サイモン・クライミー所属しょぞくするTDFのアルバム)のレコーディングにも参加さんかしている。またこのころにはシンガーソングライターのシェリル・クロウ関係かんけいっており、クラプトンはクロウのセントラル・パークでのコンサートにゲストとして出演しゅつえんし、2人ふたりはクリームのヒットきょく「ホワイト・ルーム」を演奏えんそうした。そのクラプトンとクロウは、2007ねん6がつのクロスロード・ギター・フェスティバルでのギターレジェンドらとともに「タルサ・タイム」を演奏えんそうし、2008ねん8がつにロンドンのハイド・パークジョン・メイヤーロバート・ランドルフともロバート・ジョンソンのブルースクラシック「クロスロード」を演奏えんそうした。

1997ねん9がつ15にち、クラプトンはロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開催かいさいされたモントセラトとう救済きゅうさいコンサート出演しゅつえん、「いとしのレイラ」と「セイム・オールド・ブルース」を演奏えんそうしたのちポール・マッカートニーエルトン・ジョンフィル・コリンズマーク・ノップラースティングらとともに「ヘイ・ジュード」を演奏えんそうした[101]。そのあき、クラプトンはアルバム『ピルグリム』をリリース[74]

1999ねん2がつ24にちだい41かいグラミーしょうでクラプトンは「マイ・ファーザーズ・アイズ」で3度目どめのグラミーしょう最優秀さいゆうしゅう男性だんせいポップボーカルパフォーマンスを受賞じゅしょうした[102]。1999ねん10がつ、コンピレーションアルバム『ベスト・オブ』がリリースされた。このアルバムには映画えいがプリティ・ブライド」のげきちゅうきょく「ブルー・アイズ・ブルー」がおさめられた[103][104]。20世紀せいきカルロス・サンタナB.B.キングとのともさくえることとなり、クラプトンはキングを尊敬そんけいしており、つねかれ一緒いっしょにアルバムをつくりたいとおもっていたという。キングはクラプトンについて「わたしかれ尊敬そんけいしており、かれはギタリストとしてロックンロールでナンバー1、そして素晴すばらしい人物じんぶつとしてナンバー1だとおもう」とかたっている[105]

共演きょうえん[編集へんしゅう]

ウェールズカーディフミレニアム・スタジアムにおける津波つなみ救済きゅうさいコンサートで演奏えんそうするクラプトン(2005ねん1がつ22にち

2001ねん3がつにアルバム『レプタイル』をリリース。9月11にち同時どうじ多発たはつテロの1かげつ、クラプトンはバディ・ガイ共演きょうえんしてニューヨークシティ・コンサート出演しゅつえんした[106][107]。2002ねん6がつエリザベス2せい即位そくい50周年しゅうねん記念きねんイベントで、クラプトンはバッキンガム宮殿きゅうでん敷地しきちないおこなわれたパレス・コンサートで「いとしのレイラ」と「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」を演奏えんそうした[108]

2002ねん11月29にちコンサート・フォー・ジョージがロイヤル・アルバート・ホールで開催かいさいされた。これは前年ぜんねんはいがんで死去しきょしたジョージ・ハリスンへのトリビュートであった[109]。クラプトンはパフォーマーであり、音楽おんがく監督かんとく担当たんとう。コンサートにはポール・マッカートニー、リンゴ・スター、ジェフ・リントム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズラヴィ・シャンカルゲイリー・ブルッカー、ビリー・プレストン、ジョー・ブラウンダーニ・ハリスンらが出演しゅつえんした[109]

2004ねん、ロバート・ジョンソンのカバーを収録しゅうろくした2まいのアルバム、『ミー&Mr.ジョンソン』と『セッションズ・フォー・ロバート・J』をリリース。アルバムにはドイル・ブラムホール2せい参加さんかし、かれは2004ねんのクラプトンのツアーにも参加さんかした。このとしローリング・ストーンはクラプトンを「史上しじょう最高さいこうのアーティスト100にん」のリストで53にランクけした[110]。そののメディア出演しゅつえんには、トゥーツ・アンド・ザ・メイタルズのグラミーしょう受賞じゅしょうアルバム『トゥルー・ラヴ』への参加さんかがあり、「プレッシャー・ドロップ」でギターを演奏えんそうしている[111]

ロッテルダムアホイ・アリーナ演奏えんそうするクラプトン、2006ねん6がつ1にち

2005ねん1がつ22にち、クラプトンは2004ねんインド洋いんどよう地震じしん犠牲ぎせいしゃ支援しえんするためにカーディフミレニアム・スタジアム開催かいさいされた津波つなみ救援きゅうえんコンサート出演しゅつえん同年どうねん5がつ、クラプトン、ジャック・ブルース、ジンジャー・ベイカーはクリームをさい結成けっせいし、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで一連いちれんのコンサートをおこなった。コンサートはCDとDVDでリリースされた。その、クリームはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでもコンサートをおこなった。8月30にちには5ねんぶりのオリジナルアルバム、『バック・ホーム』がリプリーズ・レコードからリリースされた。

ギタリストのJ.J.ケイルとのコラボレーションである『ザ・ロード・トゥ・エスコンディード』は2006ねん11月7にちにリリースされ、デレク・トラックスビリー・プレストンをフィーチャーした(プレストンは2004ねんのツアーバンドの一員いちいんでもあった)。クラプトンはトラックスを2006-2007ねんのワールドツアーのバンドに参加さんかするように招待しょうたいした。ブラムホールもバンドにまり、ギタリストが3にんになったことでなんじゅうねん演奏えんそうしなかったおおくのドミノスのきょく再演さいえんすることが可能かのうとなった。トラックスはクラプトンをサポートするオールマン・ブラザース・バンドの3にんのメンバーとなった。2番目ばんめはキーボードのチャック・リーヴェルで、1990ねんと1991ねんにロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでMTVアンプラグドと『24ナイツ』のパフォーマンスに出演しゅつえんし、クラプトンの1992ねんのアメリカ・ツアーにも参加さんかしている[112]

2006ねん5がつ20日はつか、クラプトンはハンプシャーハイクレア・カースルクイーンのドラマーのロジャー・テイラーもとピンク・フロイドのベーシストのロジャー・ウォーターズ共演きょうえんし、イギリスの田舎いなか関連かんれんする問題もんだい推進すいしんするカントリーサイド・アライアンス支援しえんした[113]同年どうねん8がつ13にちにはオハイオしゅうコロンバス開催かいさいされたボブ・ディランのコンサートにゲスト出演しゅつえんし、ジミー・ヴォーンのオープニングアクトで3きょくのギターを演奏えんそうした[114]。トラックスとの交流こうりゅうで、クラプトンはデレク・トラックス・バンドを2007ねんクロスロード・ギター・フェスティバル招待しょうたいした。トラックスはみずからのバンドで演奏えんそうしたのち、クラプトンのバンドともとも演奏えんそうした。

2007ねん、クリストファー・サイモン・サイクスが執筆しっぴつ出版しゅっぱんされたクラプトンの公式こうしき回想かいそうろく版権はんけんフランクフルト・ブックフェアで400まんあめりかドルで売却ばいきゃくされる[115]

クラプトンと俳優はいゆうビル・マーレイ、2007ねん7がつ27にちクロスロード・ギター・フェスティバルで。

同年どうねん、クラプトンはだい世界せかい大戦たいせんのちにイギリスをはなれたカナダじん兵士へいしであった父親ちちおやについてくわしくまなぶ。クラプトンの祖父母そふぼ最終さいしゅうてき親子おやこ関係かんけいについて真実しんじつはなしたが、かれ父親ちちおや名前なまえがエドワード・フライヤーであることしからなかった。1998ねんきょく「マイ・ファーザーズ・アイズ」にられたように、これはクラプトンにとって不安ふあんみなもとであった。マイケル・ウォロシュックというモントリオールのジャーナリストがカナダぐん記録きろく調査ちょうさし、フライヤーの家族かぞく追跡ついせき最終さいしゅうてき物語ものがたりをつなぎわせた。かれはクラプトンの父親ちちおやが1920ねん3がつ21にちにモントリオールでまれ1985ねん5がつ15にちオンタリオしゅうニューマーケット死去しきょしたエドワード・ウォルター・フライヤーであることをる。フライヤーはミュージシャン(ピアノとサックス)であり、生涯しょうがい流浪るろうし、すうかい結婚けっこんし、すうにん子供こどもがいて、自身じしんがエリック・クラプトンの父親ちちおやであることをらなかったようであった[116]。クラプトンは、カナダのオンタリオしゅうオタワにあるオタワ・マクドナルド・カルティエ国際こくさい空港くうこうでウォロシュックに出会であい、かれ感謝かんしゃした[117]

2008ねん2がつ26にち北朝鮮きたちょうせん当局とうきょくがクラプトンを共産きょうさん主義しゅぎこくでのコンサートに招待しょうたいしたとほうじられた[118]。クラプトンのマネジメント・スタッフはその招待しょうたいじょうり、クラプトンは原則げんそくとして同意どういし、2009ねんのいつかに開催かいさいすることを提案ていあんしたとされる[119]。しかしスポークスマンのクリステン・フォスターは、「エリック・クラプトンは世界中せかいじゅう国々くにぐに演奏えんそうするためのおおくのもうけている」とべ、「かれ北朝鮮きたちょうせん演奏えんそうすることについてはなん合意ごういもない」とべた[120]。 2月、クラプトンはマディソン・スクエア・ガーデンで長年ながねん友人ゆうじんであるスティーヴ・ウィンウッドと共演きょうえんし、ウィンウッドのアルバム『ナイン・ライヴズ』でレコーディングされたシングルきょく「ダーティ・シティ」にゲスト出演しゅつえんした。2人ふたりは2009ねん6がつ全米ぜんべいで14かいのコンサートをおこなっている。クラプトンの2008ねんサマーツアーは5月3にちフロリダしゅうタンパのフォード・アンフィシアターはじまり、そのカナダ、アイルランド、イングランド、ノルウェー、アイスランド、デンマーク、ポーランド、ドイツ、モナコでおこなわれた。2008ねん6がつ28にちかれはシェリル・クロウとジョン・メイヤーのサポートをけて、ロンドンのハイドパーク(以前いぜんのハイドパークコーリング)で開催かいさいされたハードロック・コーリング2008の土曜日どようびよるのヘッドラインをかざった[121][122]。9月、クラプトンはロンドンのソーホーにあるフロリディータで開催かいさいされたカントリーサイド・アライアンスのプライベートチャリティー募金ぼきん活動かつどう出演しゅつえん。この募金ぼきん活動かつどうには、ロンドン市長しちょうボリス・ジョンソンなどが参加さんかした。

オールマン・ブラザーズ・バンド共演きょうえんするクラプトン。ニューヨークのビーコン・シアター、2009ねん3がつ

2009ねん3がつ9にちから28にちにかけて、オールマン・ブラザーズ・バンドビーコン・シアターおおくの著名ちょめいなゲストをむかえて15かいのコンサートをおこない、クラプトンは19にち20日はつか公演こうえん参加さんか[123]同年どうねん5がつ4にち、クラプトンはロイヤル・アルバート・ホールに出演しゅつえんし、ジョー・ボナマッサと「ファーザー・アップ・ザ・ロード」を演奏えんそうした。

2009ねん10がつ30にちにマディソン・スクエア・ガーデンで開催かいさいされたロックの殿堂でんどう25周年しゅうねん記念きねんコンサートに出演しゅつえんする予定よていであったが、胆石たんせき手術しゅじゅつのためキャンセルされた[124]ヴァン・モリソンおなじくキャンセルした[125])はインタビューで、かれとクラプトンはなんきょく演奏えんそうするが、「ゲームのほか段階だんかい」で一緒いっしょなにのことをするだろうとべた[126]

『クラプトン』『オールド・ソック』『アイ・スティル・ドゥ』[編集へんしゅう]

クラプトンは2010ねん2がつ13にち、14にちにロンドンのO2アリーナジェフ・ベックとコンサートをおこなった[127]2人ふたりもとヤードバーズのメンバーは、マディソン・スクエア・ガーデン[128]、トロントのエア・カナダ・センター、モントリオールのベル・センター[129] でコンサートをおこない、2010ねんのツアーを延長えんちょうし、3月13にちまで全米ぜんべい11都市とし一連いちれんのコンサートをおこなった。コンサートではロジャー・ダルトリーがオープニングアクトをつとめた。スティーヴ・ウィンウッドとの3度目どめのヨーロッパツアーは5月18にちはじまり、6月13にち終了しゅうりょうした。オープニングアクトはトム・ノリスつとめた。その、6月26にちから7がつ3にちまでのみじか北米ほくべいツアーを開始かいしした。6月26にちイリノイしゅうブリッジビュートヨタパーク開催かいさいされた3かいのクロスロード・ギター・フェスティバルからはじまった。クラプトンは2010ねん9がつ27にちにイギリス、2010ねん9がつ28にちにアメリカであたらしいスタジオアルバム『クラプトン』をリリースした。2010ねん11月17にち、クラプトンはロイヤル・アルバート・ホールで開催かいさいされたプリンス・トラスト・ロック・ガーラにゲストとして出演しゅつえんし、ジュールズ・ホランドミッジ・ユーロマーク・キングふくむハウスバンドのバッキングで演奏えんそうした[130]

クラプトン、ケブ・モバディ・ガイクロスロード・ギター・フェスティバルで、2010ねん6がつ26にち

2011ねん6がつ24にち、クラプトンはカーヴァ・デ・ティッレーニスタジアムでピーノ・ダニエレとコンサートをおこなった。2011ねん10がつ6にちから16にちまでみなみアメリカで一連いちれんのコンサートをおこなったのち、2011ねん11月と12月にはスティーヴ・ウィンウッドととも日本にっぽんでツアーをおこなう。2012ねん2がつ24にち、クラプトン、キース・リチャーズゲイリー・クラーク・ジュニア、デレク・トラックス、ドイル・ブラムホール2せいキム・ウィルソン、そののアーティストがニューヨークアポロ・シアター開催かいさいされた、ブルースギタリストのヒューバート・サムリンたたえる「ハウリン・フォー・ヒューバート・トリビュート・コンサート」でとも演奏えんそうした。2012ねん11月29にち、クラプトンはロンドンのO2アリーナでおこなわれたローリング・ストーンズ結成けっせい50周年しゅうねんいわう5かいのアリーナコンサートの2夜目よめ出演しゅつえんした[131]。12月12にち、クラプトンはマディソン・スクエア・ガーデンでおこなわれたサンディ・リリーフ・コンサート出演しゅつえんした。このコンサートは6大陸たいりくでテレビ、ラジオ、映画えいがかん、インターネットをかいしてなま放送ほうそうされた[132]。2013ねん1がつサーフドッグ・レコードは3がつ12にちにクラプトンのしんアルバム『オールド・ソック』をリリースするために、かれとの契約けいやく署名しょめいしたことを発表はっぴょうした。2013ねん4がつ8にち、クラプトンとハードロック・インターナショナルは、アンティグアとうクロスロード・センター利益りえきをもたらす限定げんていばんのエリック・クラプトン・アーティスト・スポットライト商品しょうひんプログラムを開始かいしした[133]。クラプトンは、プロデビューから50周年しゅうねんいわうために、2013ねん3がつ14にちから6がつ19にちまでアメリカとヨーロッパでツアーをおこなった[134]。2013ねん2がつ28にち、クラプトンは旅行りょこうわずらわしさから2015ねんにツアーを中止ちゅうしする意向いこう発表はっぴょうした[135][136]

プラハで、2013ねん6がつ。50かいのワールドツアー。

2013ねん10がつ15にち、1992ねんにリリースされたアルバム『アンプラグド~アコースティック・クラプトン』とコンサートのDVDが、『Unplugged: Expanded & Remastered.』というタイトルでさいリリースされた。アルバムにはリマスターされたオリジナルの14トラックと、「マイ・ファーザーズ・アイズ」の2つのバージョンをふくむ6つの追加ついかトラックが収録しゅうろくされた。DVDにはコンサートの復元ふくげんバージョンと、リハーサルからの60ふん以上いじょう公開こうかい映像えいぞう収録しゅうろくされた。2013ねん11月13にちと14にち、クラプトンはスイスバーゼル毎年まいとし開催かいさいされる屋内おくない音楽おんがくさいBaloise Session」の最後さいごの2のヘッドライナーをつとめた。2013ねん11がつ20日はつかワーナー・ブラザースはクロスロード・ギター・フェスティバル2013をCD / DVD / Blu-rayでリリースした。2014ねん4がつ30にち、クラプトンは2013ねん7がつ26にち死去しきょしたJ.J.ケイルへのオマージュとして『ザ・ブリーズ〜J.J.ケイルにささ』のリリースを発表はっぴょうした。このトリビュートアルバムは1972ねんのシングル「コール・ミー・ザ・ブリーズ」にちなんで名付なづけられ、クラプトン、マーク・ノップラージョン・メイヤーウィリー・ネルソントム・ペティらが演奏えんそうした16きょくのケイルのカバーで構成こうせいされている[137]。2014ねん6がつ21にち、クラプトンはグラスゴー・ハイドロでのコンサートちゅう突然とつぜんステージをりた。かれ最後さいごの1きょく演奏えんそうするためにもどったが、なんせんにんものファンがクラプトンや会場かいじょうからの説明せつめいかったことにはらて、コンサートは40ふんはや終了しゅうりょうしたが、終了しゅうりょうもブーイングをつづけた。翌日よくじつ、クラプトンと会場かいじょう両方りょうほうが、ステージじょうのクラプトンのサウンドコンディションを「えられない」ものにしたことにたいする「技術ぎじゅつてき困難こんなん」を非難ひなんし、謝罪しゃざいした[138][139][140]。1週間しゅうかんかれは、ギターを永久えいきゅうくことを余儀よぎなくされる可能かのうせいのある「奇妙きみょう病気びょうき」にくわえて、ロードにることが「えられない」というかれ決定けってい起因きいんする引退いんたい計画けいかく確認かくにんした[141]。クラプトンは、2016ねんクラシック・ロックのインタビューで、2013ねん末梢まっしょう神経しんけい障害しょうがい診断しんだんされたことをあきらかにした。末梢まっしょう神経しんけい障害しょうがい通常つうじょううであしす、火傷かしょうする、またはうずくようないたみをこす[142]

ロイヤル・アルバート・ホールでのクラプトン。2017ねんの50周年しゅうねん記念きねんツアー。

クラプトンは2015ねん5がつ1にちと3にちにニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで2のショーをおこない、その5がつ14にちから23にちまでロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで7かいのショーをおこなって3がつ30にちの70さい誕生たんじょういわった[22]。ショーはまた、クラプトンがロイヤル・アルバート・ホールにはつ出演しゅつえんしてから50ねんむかえたものであった。かれはじめてロイヤル・アルバート・ホールで演奏えんそうしたのは、1964ねん12月7にちBBCの「トップ・ビート・ショー」にヤードバーズの一員いちいんとして出演しゅつえんしたときであった[22]映画えいがスローハンド・アット・70 - エリック・クラプトン・ライヴ・アット・ザ・ロイヤル・アルバート・ホール」は、2015ねん11月13にちイーグル・ロック・エンターテインメントからDVD、CD、Blu-ray、LPでリリースされた[143]。ニューヨークでの2かいのコンサートは、1968ねん11月2にちにクラプトンがクリームとともに「あたらしい」マディソン・スクエア・ガーデンに出演しゅつえんして以来いらい46周年しゅうねんむかえたものであった。クラプトンはマディソン・スクエア・ガーデンで合計ごうけい45かいのライブをおこなっている。これはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくにおけるどの会場かいじょうよりもおお回数かいすうである[144]。2016ねん5がつ20日はつか、クラプトンは23まいのスタジオアルバム『アイ・スティル・ドゥ』をリリースした。2016ねん9がつ30にちにはライブアルバム『ライヴ・イン・サン・ディエゴ with スペシャル・ゲスト J.J.ケイル』がリリースされた[145]。2018ねん8がつ、クラプトンはクリスマスソングをブルースの解釈かいしゃく構成こうせいした24まいのスタジオアルバム『ハッピー・クリスマス』をレコーディングし、10月12にちにリリースした[146]

エリック・クラプトンは、2008ねんのユニバーサル・スタジオの火災かさい資料しりょう焼失しょうしつしたなんひゃくにんものアーティストのうちの1人ひとりである[147]

クラプトンが影響えいきょうけたミュージシャン[編集へんしゅう]

クラプトンとB.B.キング、2010ねん

クラプトンは、ギター演奏えんそう影響えいきょうとして、マディ・ウォーターズフレディ・キングB.B.キングアルバート・キングバディ・ガイヒューバート・サムリンげている。かれの2007ねん自伝じでんではマディ・ウォーターズを「ぼく実際じっさいったことのない父親ちちおや姿すがた」とんでいる。 1983ねん死去しきょするまでウォーターズはクラプトンの人生じんせい一部いちぶであった。「残念ざんねんながらマディとったときぼく飲酒いんしゅ支配しはいされていた[148]」2000ねん、クラプトンはB.B.キングとアルバム『ライディング・ウィズ・ザ・キング』でコラボレーションした。タイトルトラックのミュージックビデオでは、クラプトンがかか運転うんてんしゅとなり、キングが後部こうぶ座席ざせきすわっている様子ようすうつされている[149]

クラプトンは、ブルースミュージシャンのロバート・ジョンソンかれ唯一ゆいいつもっと重要じゅうよう影響えいきょうりょくあたえたとべている。2004ねんに『セッションズ・フォー・ロバート・J』をリリースし、エレキギターとアコースティックギターを使用しようしたジョンソンのきょくのカバーがふくまれている[150]。1990ねんの『コンプリート・レコーディングス』のライナーノートで、クラプトンはつぎのようにいている。

ぼくにとってロバート・ジョンソンは、これまでにきたなかもっと重要じゅうようなブルースミュージシャンだ。(かれ絶対ぜったいかれ自身じしんのビジョンに忠実ちゅうじつであり、ぼく過去かこ30年間ねんかん音楽おんがくふかかかわってきたかぎり、)ロバート・ジョンソンほどたましいのこもったものをつけたことはない。かれ音楽おんがくは、人間にんげんこえられるもっと強力きょうりょくさけびでありつづけている。(本当ほんとうに...それはぼくがいつもかんじていたなにかを反映はんえいしているようにえた。)(オリジナルは括弧かっこがい部分ぶぶん[151]

クラプトンはまた、影響えいきょうけたミュージシャンとしてバディ・ホリーげた。『ザ・チャーピング・クリケッツ』はクラプトンが購入こうにゅうした最初さいしょのアルバムであった。かれのちに「サンディ・ナイト・アット・ロンドン・パラディウム」でホリーを[152]。クラプトンは自伝じでんなかで、ホリーとフェンダーをはじめてたとき、「ぼくんで天国てんごくったとおもっていた...まるで宇宙うちゅうから楽器がっきているようなもので、自分じぶんにいいきかせた。『それが未来みらい - それがぼくのぞんでいることだ。』[152]」2017ねんのドキュメンタリー「Eric Clapton: Life in 12 Bars」でクラプトンはビスミラ・カーン影響えいきょうあたえたミュージシャンとしてげ、「ギターをかれのリード楽器がっきのようにらしたかった」とくわえた[153]おなじドキュメンタリーで、かれはハーモニカ奏者そうしゃリトル・ウォルター自身じしん影響えいきょうあたえたミュージシャンとしてげた。「かれがハーモニカを演奏えんそうしてアンプでつくったおと、それはあつくてふとく、とてもメロディックだった。[153]

クラプトンの影響えいきょう評価ひょうか[編集へんしゅう]

ヤードバーズのメンバーとクラプトンの手形てがた。(みぎはしロックの殿堂でんどう

クラプトンは、これまででもっと重要じゅうよう影響えいきょうりょくのあるギタリストの1人ひとりばれている[2][154][155][156]かれは3ロックの殿堂でんどうりした唯一ゆいいつのアーティストである。1かいはソロアーティストとして、そしてもう2かいはヤードバーズのメンバー、クリームのメンバーとしてである[7]かれローリング・ストーンの「史上しじょう最高さいこうのギタリスト100にん」のリストで2にランクされ[4]ギブソン史上しじょう最高さいこうのギタリストトップ50で4にランクされた[5]

2011ねんガーディアンかみはカルト・オブ・ギターヒーローを創設そうせつし、クラプトンをロックミュージックの歴史れきしにおける50の主要しゅようなイベントのリストで7にランクけした。

リードギタリストのカルトほどロック神話しんわ中心ちゅうしんとなるものはない。そして、そのカルトを作成さくせいするためにエリック・クラプトンほどおおくのことをした人物じんぶつにいなかった。かれは1965ねん4がつにギタリストのクリアリングハウスであるジョン・メイオール&ザ・ブルース・ブレイカーズにくわわるまえにすでにヤードバーズのメンバーだった。メイオールとのかれの2つのスティントは、有名ゆうめい落書らくがき「"Clapton is God"」があらわれるくらい、ロックファンのあいだかれ人気にんき加熱かねつし、その評判ひょうばんたかまった。[157]

2018ねん、ローリング・ストーンは、クラプトンが「ギター演奏えんそう技術ぎじゅつのみならずレコーディング技術ぎじゅつにおいても影響えいきょうあたえている」として、以下いかのエピソードを記事きじない紹介しょうかいした。[153]

クラプトンは、ジョン・メイオールのグループのメンバーとしてレコーディングに参加さんかしたさい音響おんきょう技術ぎじゅつしゃたちの仕事しごと不満ふまんち、「(音響おんきょう技術ぎじゅつしゃたちは)マイクをアンプにちかづけて、アンプの前面ぜんめんから2インチの距離きょり固定こていしている。が、ぼくおもうに、まさにクラブにるかのような臨場りんじょうかんあたえるためには、(クラブの聴衆ちょうしゅう一人ひとりとしてくときと同様どうように)10フィートはなれているかのようにこえなくては。3インチじゃなくてね」とった。

そして、クラプトンはマイクをうごかした——そのことによって、のミュージシャンたちに(レコーディング技術ぎじゅつ重要じゅうようせいについて)きをあたえたのだ。

 

括弧かっこない編集へんしゅうしゃ訳註やくちゅう

また、どう記事きじないで、ロジャー・ウォーターズの「(クラプトンは)すべてをえた」という発言はつげん紹介しょうかいしている。[153]

エリックがてくるまえは、イギリスでギターの演奏えんそうといえば、シャドウズハンク・マーヴィンだった。かれ演奏えんそう非常ひじょうにシンプルで、たいしたテクニックを使つかっていなかった。そんなとき突然とつぜん、まったくちがうものがこえてきたんだ。エリックのレコードは、それまでにいていたどんなものともちがってこえた

2012ねん、アーティストのピーター・ブレイクきょうが80さいになり、その生涯しょうがいにおける業績ぎょうせき祝福しゅくふくされた。かれもっと有名ゆうめいなアートワークは、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のアルバムカバーであるが、クラプトンはそこにえらばれたイギリスの文化ぶんかてきアイコン1人ひとりであった[158]

ロバート・クリストガウは、クラプトンのレガシーにたいする批判ひはんてき意見いけんなかで、つぎのようにいている。:

クラプトンは、僧侶そうりょのようなオーラをっているが、そのオーラがかれ自身じしん奔放ほんぽう欲求よっきゅうらすことは(音楽おんがく生活せいかつについてもプライベートについても)まったくなく、まさに「見境みさかいのないサイドマン」だ。クラプトンがきなのは、(音楽おんがくそれ自体じたいではなく)かねかせぐことだ。そのためクラプトンは、かれほどの技術ぎじゅつつアーティストとしてはしんじられないほど平凡へいぼんなディスコグラフィを濫造らんぞうした。

かれ自分じぶんのディスコグラフィの平凡へいぼんさを、しばしば自己じこ防衛ぼうえいてき自虐じぎゃくとして、かれ自身じしん怠惰たいださまたはインスピレーションがりなかったことが原因げんいんだとしているが(それらも原因げんいんであることは間違まちがいないが)、それはギターヒーローの病気びょうきでもある。クラプトンは、おおくのギターヒーローたちと同様どうように、みみ協調きょうちょうせいれていない(つまり演奏えんそう技術ぎじゅつばかりが先行せんこうして音楽おんがくせいともなわない)ため、無茶苦茶むちゃくちゃ作曲さっきょくをし、陳腐ちんぷ作詞さくしをし、そしてかれのバンドには一貫いっかんせいがなく慢性まんせいてきたりばったりなのである。[159]

 

括弧かっこない編集へんしゅうしゃ訳註やくちゅう

愛用あいよう使用しようギター[編集へんしゅう]

"ブラッキー"をくクラプトン。1978ねんツアーのオランダで。クラプトンはブラッキーを使用しようして「コカイン」「アイ・ショット・ザ・シェリフ」「ワンダフル・トゥナイト」「ファーザー・オン・アップ・ザ・ロード」「レイ・ダウン・サリー」を録音ろくおんした。

ハンク・マーヴィンビートルズジミ・ヘンドリックスのように、クラプトンはエレキギターの特定とくていのモデルを普及ふきゅうさせるじょう決定的けっていてきかつ広範こうはん影響えいきょうおよぼした[160]。ヤードバーズとともに、クラプトンはフェンダー・テレキャスター、フェンダー・ジャズマスター、ダブルカッタウェイのグレッチ 6120、1964ねんせいのチェリーレッド・ギブソン ES-335を演奏えんそうした。かれはロンドンのギターストアで中古ちゅうこのサンバーストのギブソン・レスポール購入こうにゅうした1965ねんなかばからかなりの期間きかん、ギブソンのみを愛用あいようしていた。クラプトンはネックのスリムな輪郭りんかくについてコメントしており、これは1960ねんのモデルであることをしめしている[161]

クリームでの活動かつどう初期しょきに、かれ最初さいしょのレスポール・スタンダードがぬすまれた。かれは1967ねんにこの時期じきもっと有名ゆうめいなギターである「ザ・フール」とばれたギブソン・SG[162]購入こうにゅうするまで、クリームではレスポールを演奏えんそうつづけた(アンディ・サマーズから購入こうにゅうしたギターはぬすまれたものとほぼおなじであった。)[163]。クラプトンはレスポールとSGの両方りょうほう使用しようして、かれう「ウーマン・トーン」をつくした[164]かれは1967ねんのインタビューで、「ぼくいま、よりスムーズに演奏えんそうしている。ぼく自分じぶんの「ウーマン・トーン」と音色ねいろ開発かいはつしている。「アイ・フィール・フリー」のソロのようなあまおとだ。[164]」とかたっている。作家さっかのマイケル・ドレニは、「あつくてするどい、オーバードライブでありながらなめらかで、いがんでいてクリーミーである」と説明せつめいしている[165]。そのトーンはギターのトーンコントロール設定せっていと、マーシャルJTM45アンプのわせによって実現じつげんされる[166]ヴィンテージ・ギターは、「『サンシャイン・オブ・ユア・ラブ』のオープニング・リフとソロは、間違まちがいなく本格ほんかくてきなウーマン・トーンの最高さいこう描写びょうしゃである」と特定とくていしている[164]。クラプトンの「ザ・フール」は、オランダのビジュアルアート集団しゅうだんザ・フールによって独特どくとくなサイケデリックペイントがなされ、そのかれらにちなんだものであった(クリームがアメリカデビューする直前ちょくぜんの1967ねん、クラプトンのSG、ブルースのフェンダーVI、ベイカーのドラムヘッドはすべてサイケデリックなデザインがほどこされていた)。

エリック・クラプトン・ストラトキャスターくクラプトン。ハード・ロック・コーリング、ロンドン、2008ねん

1968ねんにクラプトンはギブソン・ファイヤーバード購入こうにゅうし、1964ねんせいのチェリーレッド・ギブソン ES-335をふたた使用しようはじめた[162]。その1964ねんのES-335は名高なだか経歴けいれきっていた。クラプトンは、1968ねん11月のクリームの最後さいごのライヴとブラインド・フェイスの活動かつどう使用しようし、1970年代ねんだい作品さくひんではひかえめに演奏えんそうし、『ジャーニーマン』の「ハード・タイムズ」、1996ねんのハイドパーク・コンサート、『フロム・ザ・クレイドル』のセッションおよび1994-95ねんツアーで使用しようした。ES-335は2004ねんのオークションで847,500あめりかドルで売却ばいきゃくされた[167]。ギブソンは250だいの「クロスロード・335」レプリカの限定げんてい生産せいさんおこなった。335はクラプトンが購入こうにゅうした2番目ばんめのエレキギターであった[168]

1968ねん7がつ、クラプトンはジョージ・ハリスンに1957ねんせいの「ゴールドトップ」ギブソン・レスポールをおくった。このギブソン・レスポールは、あかいろさい仕上しあげされルーシー名付なづけられた。翌年よくねんの9がつ、クラプトンはビートルズの「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のレコーディングでそのギターをいた。ルーシーはその盗難とうなんうが、あと追跡ついせきされてハリスンのもどった。ハリスンはルーシーを1973ねんおこなわれたクラプトンのカムバックコンサートのためにかれした。クラプトンの「ザ・フール」はハリスンの友人ゆうじんであるジャッキー・ロマックスわたり、その1972ねんトッド・ラングレンに500ドルで売却ばいきゃくされた。ラングレンはそのギターをレストアして「サニー」と名付なづけたが、その「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」と名付なづけた。かれは2000ねんまでそれを保持ほじしたが、そのオークションで15まんドルで売却ばいきゃくした[162]。1969ねんにハイド・パークで開催かいさいされたブラインド・フェイスのコンサートで、クラプトンは「ブラウニー」のネックを装着そうちゃくしたカスタム・テレキャスター演奏えんそうした。

1979ねんにロンドンのハードロックカフェ寄贈きぞうされた最初さいしょ記念きねんひんであるクラプトンのリードIIフェンダー

1969ねん後半こうはん、クラプトンはフェンダー・ストラトキャスターえた。「ストラトをはじめたとき、ぼくおおくの影響えいきょうけた。最初さいしょバディ・ホリーバディ・ガイだった。ハンク・マーヴィンはここイギリスで最初さいしょ有名ゆうめい人物じんぶつだったが、それはぼく種類しゅるいではなかった。スティーヴ・ウィンウッド非常ひじょう信頼しんらいせいたかく、かれ演奏えんそうはじめたとき、ぼくかれがそれをおこなうことができれば、ぼくおこなうことができるとおもった。[169]」。『エリック・クラプトン・ソロ』のレコーディングで最初さいしょ使用しようされたのは「ブラウニー」で、それは1973ねんにクラプトンのギターのなかもっと有名ゆうめいな「ブラッキー」のバックアップとなった。1970ねん11月、クラプトンはドミノスのツアーちゅうに、テネシーしゅうナッシュビルのギターショップから6だいのストラトキャスターを購入こうにゅうした。かれはジョージ・ハリスン、スティーヴ・ウィンウッド、ピート・タウンゼントにそれぞれ1だいずつあたえた。

クラプトンはのこりの3だい最良さいりょうのコンポーネントをわせて「ブラッキー」を作成さくせいした。これは1985ねん引退いんたいするまでかれのおりのステージギターであった。「ブラッキー」が最初さいしょ使用しようされたのは1973ねん1がつ13にちのレインボー・コンサートであった[170]。クラプトンは1956/57 ストラトを「モングレル」(雑種ざっしゅ)とんだ[171]。2004ねん6がつ24にち、クラプトンはニューヨークのクリスティーズ・オークションハウスで「ブラッキー」を959,500あめりかドルで売却ばいきゃくし、麻薬まやくおよびアルコール依存いぞんしょうのためのクロスロード・センター資金しきん調達ちょうたつした[172]。「ブラウニー」は現在げんざいエクスペリエンス・ミュージック・プロジェクト展示てんじされている[173]フェンダー・カスタム・ショップはそれ以来いらい、275だいの「ブラッキー」レプリカを限定げんてい生産せいさんし、「ダック・ブラザーズ」のフライトケースにいたるまで細部さいぶまで修正しゅうせいし、フェンダーの「レリック」プロセスを使用しようして人工じんこうてきにエイジングし、経年けいねん変化へんかをシミュレートしている。1だいはリリースにクラプトンに提供ていきょうされ、2006ねん5がつ17にちのロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートでは3だい使用しようされた[174]。1979ねん、クラプトンはサインりのフェンダー・リードIIをロンドンのハードロックカフェ寄贈きぞうした。ピート・タウンゼントも「ぼくのものはかれおなじくらいい!ラヴ、ピート」というメモをけたギブソン・レスポールを寄贈きぞうした[175]

クラプトンのサインりギターはフェンダーとマーティン製作せいさくされている。1988ねんにフェンダーはエリック・クラプトン・ストラトキャスターをリリースした[176]。マーティンはいくつかの000-シグネチャーモデルを製作せいさくしている。最初さいしょのモデルは1995ねん発表はっぴょうされた限定げんていモデルの000-42ECである。シングル「チェンジ・ザ・ワールド」(1996ねん)とアルバム『ピルグリム』(1998ねん)では000-28ECが使用しようされたが、そのギターはのちにギタリストのポール・ワシフにプレゼントされた[177]かれが『アンプラグド』で使用しようした1939ねんせい000-42はオークションで791,500あめりかドルで落札らくさつされた[167]。クラプトンが使用しようするつるアーニー・ボールのスリンキーとスーパースリンキーで、ゲージは.10から.46である[178]。クラプトンのギターのメンテナンスはリー・ディックソンが30ねん以上いじょう担当たんとうしている[179]

メディアへの出演しゅつえん[編集へんしゅう]

ハリウッド展示てんじされるクラプトンの手形てがた

クラプトンはザ・フーロック・オペラトミー』の映画えいがばん(1975ねん)で伝道でんどうえんじ、サニー・ボーイ・ウィリアムソンIIの「Eyesight to the Blind」を演奏えんそうした。かれはまた、映画えいがブルース・ブラザース2000」にルイジアナ・ゲイター・ボーイズの一員いちいんとして出演しゅつえんした。バンドのメンバーやくくわえ、かれみじかいスピーチもおこなっている。クラプトンはメルセデス・ベンツ・Gクラス広告こうこく登場とうじょうした。2007ねん3がつ、クラプトンはリアルネットワークスラプソディ・オンライン・ミュージックサービス広告こうこく登場とうじょうした[180]。2010ねん、クラプトンはT-モバイルのスポークスマンとしてスマートフォンのマイタッチ・フェンダー広告こうこく出演しゅつえんした。クラプトンは2011ねんのBBCドキュメンタリー「Reggae Got Soul: The Story of Toots and the Maytals」にも出演しゅつえんした。どう番組ばんぐみは「ジャマイカからてきたもっと影響えいきょうりょくのあるアーティストのかたられなかったストーリー」とひょうされた[181]

ザット'70sショー」、シーズン2のエピソード「"Holy Crap!"」でキャラクターのエリック・フォアマンとスティーブン・ハイドは牧師ぼくしからかみについて説明せつめいするようたのまれ、クラプトンのイメージをえがいた[182]。クラプトンはBBCの「トップ・ギア」2013ねんのシリーズ19エピソード4に出演しゅつえんし、キア・シードのテストドライブにたずさわった。かれはシードの補助ほじょ入力にゅうりょくをテストするようもとめられ、端子たんしにギターを接続せつぞくかれ有名ゆうめいなヒットきょくのいくつかのフレーズを演奏えんそうした。「トップ・ギア」のホスト、ジェレミー・クラークソンかれを「地元じもとのギタリスト」と紹介しょうかいした[183]

2017ねんに「Eric Clapton: Life in 12 Bars」というタイトルのドキュメンタリー映画えいがリリ・フィニ・ザナック監督かんとく製作せいさくされた[184]。クラプトンはザナックの1991ねん映画えいがラッシュ」の音楽おんがく担当たんとうし、それ以来いらい友人ゆうじんであった[184]。ザナックはBBCニュースのインタビューで、クラプトンは彼女かのじょ監督かんとく担当たんとうした場合ばあいにのみ参加さんかすることに同意どういしたとべた。:

エリックが気分きぶんかったので、これができたのだとおもいます。かれしんじられないほどプライベートなおとこであり、かれだい成功せいこうにもかかわらず、かれはまったく宣伝せんでんされてもにしない。かれ自身じしん音楽おんがく大好だいすきです...かれなんねんまえに70さいになったので、それはかれ年齢ねんれい関係かんけいがあるかもしれないとおもいます。かれわたしいました。「ぼくんだのちにそれがおこなわれることをのぞまなかったし、それは間違まちがっていた」 たぶんかれはそれをすべてテーブルにならべるときたとおもったのでしょう。[184]

私生活しせいかつ[編集へんしゅう]

家族かぞく[編集へんしゅう]

クラプトンはファンク歌手かしゅベティ・デイビス短期間たんきかん交際こうさいした[185][186]かれは1979ねんパティ・ボイド結婚けっこんしたが、結婚けっこん生活せいかつかれ不貞ふてい家庭かていない暴力ぼうりょくによって破綻はたんした。1999ねんサンデー・タイムズかみとのインタビューで、クラプトンは当時とうじ本格ほんかくてきな」アルコール依存いぞんしょうであって、結婚けっこんちゅう彼女かのじょをレイプして虐待ぎゃくたいしたことをみとめた[187]。1984ねん、『ビハインド・ザ・サン』のレコーディングちゅうに、クラプトンはAIRモントセラトのマネージャーであるイヴォンヌ・ケリーとの交際こうさいはじめた。双方そうほうとも当時とうじパートナーと結婚けっこんしていたが、イヴォンヌは1985ねん1がつにクラプトンのむすめ出産しゅっさんした。彼女かのじょはルース・ケリー・クラプトンと名付なづけられたが、メディアが彼女かのじょが1991ねんにクラプトンのむすめであると認識にんしきするまで、彼女かのじょ存在そんざい一般いっぱん公開こうかいされなかった[188][189]

クラプトンとボイドは1984ねん体外たいがい受精じゅせいこころみたが、どもをもうけることはできなかった[190]。クラプトンはイタリアじんモデルのロリー・デル・サント関係かんけいち、彼女かのじょ妊娠にんしんさせたことを告白こくはくしたのち、1989ねんにボイドと離婚りこんした。デル・サントは1986ねん8がつ21にち息子むすこのコナーを出産しゅっさんした。コナーは1991ねん3がつ20日はつかにマンハッタンのアパートの53かいにあるひらいた寝室しんしつまどから転落てんらくし、4さい死去しきょした[191]

1998ねん当時とうじ53さいだったクラプトンはオハイオしゅうコロンバスでの公演こうえんのパーティーで、22さい管理かんりアシスタントであるメリア・マッケナリーと出会であった。かれはメリアといち年間ねんかんひそかに交際こうさいし、1999ねん関係かんけい公表こうひょうした。2人ふたりは2002ねん1がつ1にちにクラプトンの故郷こきょうであるリプリーのセントメアリー・マグダレン教会きょうかい結婚けっこんした。2人ふたりあいだにはジュリー・ローズ(2001ねん6がつ13にちせい)、エラ・メイ(2003ねん1がつ14にちせい)、ソフィー・ベル(2005ねん2がつ1にちせい)の3にんむすめがいる[192]。2013ねん6がつ長女ちょうじょルースとそのおっとディーン・バートレットのあいだに、クラプトンのまごとなるアイザック・エリック・オーウェン・バートレットがまれた[193]

政治せいじてき見解けんかい論争ろんそう[編集へんしゅう]

キープ・ブリテン・ホワイト[編集へんしゅう]

1976ねん8がつ5にち、クラプトンはバーミンガムでのコンサートちゅう移民いみん増加ぞうかへの反対はんたい発言はつげんした[194]。この発言はつげんはそのさわぎと長引ながび論争ろんそうこした。ステージじょうえてぱらっていたクラプトンは、物議ぶつぎかもしている右翼うよくのイギリスの政治せいじイーノック・パウエルつよ支持しじした[195][196][197]かれ聴衆ちょうしゅうつぎのようにはなしかけた。

今夜こんや聴衆ちょうしゅうなか外国がいこくじんはいるか?。もしそうなら、げてくれ。それで、どこにいる?。さて、あなたかた全員ぜんいんがどこにいるとしても、ぼくはあなたかた全員ぜんいんがただるべきだとおもっている。ホールをはなれるだけでなく、ぼくたちのくにからはなれてくれ。ぼくはあなたがここや、部屋へや、またはぼくくににいることをのぞまない。いてくれ、みんな!。ぼくらはイーノック・パウエルに投票とうひょうすべきだとおもう。イーノックはぼくらのおとこだ。ぼくはイーノックがただしいとおもう。ぼくらはかれらすべてをおくかえすべきだとおもう。イギリスがくろ植民しょくみんになるのをとどめろ。外国がいこくじんせ。ウォグ(有色ゆうしょく人種じんしゅ)をせ。クーンズ(黒人こくじん)をせ。キープ・ブリテン・ホワイト。ぼく以前いぜんドープ(麻薬まやく)に夢中むちゅうになっていたが、いま人種じんしゅ差別さべつ夢中むちゅうになっている。それははるかにおもい。みんな、クソウォグ、みんな。ロンドンを占領せんりょうするクソサウジ。ろくでなしのウォグ。イギリスは過密かみつ状態じょうたいになって、イーノックはそれをめてかれらをおくかえす。くろいウォグとクーンとアラブじんとクソジャマイカじんはここにぞくしていない。ぼくたちはかれらがここにいることをのぞまない。これはイギリスだ。これは白人はくじんくにだ。ぼくらはここにくろいウォグとクーンをまわせたくない。かれらが歓迎かんげいされていないことをかれらにはっきりさせる必要ひつようがある。イギリスは白人はくじんのためのものだ。みんな。これはイギリスだ、白人はくじんくにだ、ぼくらになにこっているんだ、クソッタレ。ウォグをてろ!。キープ・ブリテン・ホワイト![198][199]

「キープ・ブリテン・ホワイト」は、当時とうじ極右きょくう政党せいとうイギリス国民こくみん戦線せんせんのスローガンであった[200][201]。この事件じけんは、デヴィッド・ボウイによるどう時期じきのいくつかの物議ぶつぎかも発言はつげん[202] や、シド・ヴィシャススージー・スーナチス関連かんれん画像がぞう使用しようしたこととともに、ロック・アゲインスト・レイシズム創設そうせつおもなきっかけとなった。どう運動うんどうは1978ねん4がつ30にちにコンサートも開催かいさいしている[203]

1976ねん10がつサウンズへのインタビューで、クラプトンは「政治せいじについてあまりらない」とべ、移民いみん演説えんぜつについて「そのよるなにこったのかわからない。それはそのこったことだったにちがいないが、それはゆがめられたものがでてきたんだ」とべた[204]。2004ねんアンカットとのインタビューで、クラプトンはパウエルを「とてつもなく勇敢ゆうかん」と評価ひょうかした[205]かれはイギリスが「人々ひとびとやす労働ろうどうりょくとしてまねき、それからかれらをゲットーにれている」と不平ふへいった[206]。2004ねん、クラプトンはスコットランド・オン・サンデーかみのインタビュアーに、「ぼくがレイシストになることはない。それはバカげている」とかたった[207]。2007ねん自伝じでんで、クラプトンは「すべてにづいていない」と主張しゅちょうした[208]。2007ねん12月のサウスバンクショーでのメルヴィン・ブラッグとのインタビューで、クラプトンは自身じしん人種じんしゅ差別さべつ主義しゅぎしゃではないとべたが、それでもパウエルのコメントは適切てきせつであるとしんじているとした[202]

2018ねんの「Raised on Radio」のインタビューで、クラプトンは過去かこ中毒ちゅうどくについてはなし、「本当ほんとう不快ふかいなことをした20年間ねんかん飲酒いんしゅで、ぼく厄介やっかい人間にんげんだった」とべた。かれ移民いみん反対はんたいしていないと主張しゅちょうし、国際こくさいてきなミュージシャンがイギリスの音楽おんがくシーンにもたらした貢献こうけんたか評価ひょうかした[209]

キツネ禁止きんし[編集へんしゅう]

クラプトンは、フィールドスポーツやイギリスの田舎いなか関連かんれんする問題もんだい推進すいしんするカントリーサイド・アライアンス支援しえんしている。かれ団体だんたい資金しきん調達ちょうたつするためにコンサートで演奏えんそうし、2004ねん狩猟しゅりょうほう労働党ろうどうとうキツネ禁止きんししたことに公然こうぜん反対はんたいした。クラプトンのスポークスパーソンは、「エリックはカントリーサイド・アライアンスを支持しじしている。かれ自分じぶん自身じしんることはしないが、りや射撃しゃげきなどの田舎いなか追求ついきゅうたのしんでいる。かれは、人々ひとびと私的してき追求ついきゅうたいする国家こっか干渉かんしょう同意どういしないという理由りゆうで、禁止きんし廃止はいしするというアライアンスの活動かつどう支持しじしている」とかたった[210]

はんロックダウンの楽曲がっきょく[編集へんしゅう]

2020ねん11月のCOVID-19パンデミックあいだ、クラプトンとヴァン・モリソンは、はんマスク着用ちゃくようはんロックダウンのシングル「スタンド・アンド・デリバー」を発表はっぴょうした。収益しゅうえきはモリソンの「ロックダウン・ファイナンシャル・ハードシップ・ファンド」に寄付きふされた[211]。モリソンのスタンスは、きたアイルランド保健ほけん大臣だいじんロビン・スワンによって「公衆こうしゅう衛生えいせい対応たいおう関与かんよするすべての人々ひとびとへの中傷ちゅうしょう」であり、「陰謀いんぼうろんしゃ、つまりマスクやワクチンに反対はんたいし、これはすべて自由じゆうのぞくための巨大きょだい世界せかいてき計画けいかくだとかんがえるティンホイル・ハット旅団りょだんおおきななぐさめをあたえる」と批判ひはんされている[212]。2021ねん7がつ、クラプトンはボリス・ジョンソンがコンサートの聴衆ちょうしゅう予防よぼう接種せっしゅ要求ようきゅうしたことにおうじて、「差別さべつされた聴衆ちょうしゅうがいるステージでは演奏えんそうしない」としるした[213]

「スタンド・アンド・デリバー」というのは「要求ようきゅうされたものをあたえる」ことを意味いみし、もともとは通行人つうこうにんから金品きんぴんうばぎのことを意味いみしていた。きょくは、悪名あくめいたかハイウェイマン「"Dick Turpin wore a mask too" (ディック・ターピンもマスクを着用ちゃくようしていた。)」という歌詞かしわり、「あなたはかれらに恐怖きょうふいだかせた / しかしそれはどれも真実しんじつではなかった」というぎょう連句れんくふくまれている。クラプトンは「ヴァンとライブ音楽おんがく保存ほぞんするかれ努力どりょくをサポートする。かれはインスピレーションだ。この混乱こんらんから方法ほうほうつける必要ひつようがあるので、ぼくたちはがってかぞえなければならない」とかたった[214]

2021ねん8がつ、クラプトンはシングル「ディス・ハズ・ゴッタ・ストップ」とプロモーションビデオをリリースした。このきょくはCOVID-19の封鎖ふうさやワクチン接種せっしゅたいする抗議こうぎきょくとして説明せつめいされ、ビデオはクラプトンがているロックダウン政策せいさく結果けっかとしての市民しみんてき自由じゆう制限せいげんたいする叙情じょじょうてき視覚しかくてき声明せいめいとして批評ひひょう説明せつめいされたものであった。このきょく環境かんきょう問題もんだい、テクノロジーへの人間にんげん執着しゅうちゃく、メディア消費しょうひにも言及げんきゅうしている[215][216][217]

とみ資産しさん[編集へんしゅう]

2009ねん、サリー・ライフ・マガジンはクラプトンをもっと裕福ゆうふくなサリー居住きょじゅうしゃのリストで17にランクけし、かれ財産ざいさんは1おく2,000まんポンドと見積みつもっている。これは、収入しゅうにゅう財産ざいさん、900まんポンドのヨット「Va Bene」(以前いぜんバーニー・エクレストン所有しょゆう)、バックカタログ、ツアー収入しゅうにゅう、および1989ねん以来いらい1おく1,000まんポンドをかせいだかぶ会社かいしゃのMarshbrook Ltdのわせであった[218]。2003ねんかれ紳士しんし装身具そうしんぐのコーディング、ピカデリーの50%の株式かぶしき購入こうにゅうした[219]当時とうじ、オーナーのノル・ウロスはみせ閉店へいてんからすくおうとしており、かれの「最高さいこうのクライアント」であるクラプトンに連絡れんらくしたとつたえられている。クラプトンは5ふん以内いない返答へんとうし「これを閉店へいてんさせることはできない」とこたえた[219]

自動車じどうしゃのコレクション[編集へんしゅう]

フェラーリ・SP12 EC。フェラーリの特別とくべつプロジェクトプログラムのしたでクラプトンのために製作せいさくされた[220]

1970年代ねんだい以来いらい、クラプトンは自分じぶん自身じしんを「カー・エンスージアスト」となし、フェラーリブランドへの情熱じょうねつをしばしば表明ひょうめいしてきた[221]。クラプトンは現在げんざい、さまざまなフェラーリを所有しょゆうしており、1989ねんかれのフェラーリコレクションについてたずねられたとき、かれ同社どうしゃ製造せいぞうするロードツーリングカーがきだとい、「もっとスペースがあって賢明けんめいだったらいまでは膨大ぼうだいなコレクションがあり、ぼくおくまん長者ちょうじゃになるだろう」とかたった[222]。2010ねんにクラプトンは、かれにとって「フェラーリは(つね所有しょゆうし、運転うんてんするための)ナンバーワンのくるまであった」とかたり、かれつねにロードカーやF1、モーターレースでフェラーリをサポートしたとかたっている[223]

2012ねん、フェラーリはクラプトンをワンオフのスペシャルプロジェクトカーであるフェラーリ・SP12 EC表彰ひょうしょうした。2013ねん7がつにはそのくるまグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード展示てんじした[224]。2014ねんにクラプトンはフェラーリがいまでもかれのおりの自動車じどうしゃブランドであるとかたっている[225]。クラプトンが所有しょゆうしているその車両しゃりょうなかには、ジョージ・ハリスンからのおくものであったヴィンテージのミニ・クーパー・ラドフォードがある[226]

慈善じぜん活動かつどう[編集へんしゅう]

クロスロード・センター支援しえんするためオークションに出品しゅっぴんされたクラプトンのギターとアンプ。

1993ねん、クラプトンはイギリスの薬物やくぶつおよびアルコール依存いぞんしょう治療ちりょうセンターであるクラウズハウス所長しょちょう任命にんめいされ、1997ねんまで理事りじつとめた[227]かれはまた、1994ねんから1999ねんまで化学かがく依存いぞんセンターの理事りじつとめた[228]。そのりょう団体だんたい合併がっぺいし、2007ねんアクション・オン・アディクションとなった。

1998ねんに、かれ中毒ちゅうどく患者かんじゃ麻薬まやくやアルコールへの依存いぞんしょう克服こくふくするのを支援しえんするために、アンティグアとうクロスロード・センター設立せつりつし、現在げんざいまでその管理かんり資金しきん調達ちょうたつ積極せっきょくてきんでいる[229][230]。クラプトンはこのセンターの資金しきん調達ちょうたつするために、1999ねん、2004ねん、2007ねん、2010ねん、2013ねん、2019ねんクロスロード・ギター・フェスティバル開催かいさいした[231]。1999ねん、クラプトンはギターコレクションの一部いちぶ競売きょうばいにかけ、クロスロード・センターの継続けいぞくてき支援しえんのために500まんあめりかドル以上いじょう調達ちょうたつした[172]。2度目どめのギターオークションは2004ねん6がつ24にち開催かいさいされたが、そのさいにはクリーム時代じだい使用しようギターや、著名ちょめい友人ゆうじんから提供ていきょうされたギターもふくまれた[172]かれローデン・アコースティックギターは41,825あめりかドルで落札らくさつされた。クリスティーズでおこなわれたこのオークションによってられた収入しゅうにゅうは7,438,624あめりかドルであった[167]。2011ねんかれはニューヨークのオークションで150をえるアイテムを出品しゅっぴんし、収益しゅうえきはクロスロードセンターにおくられた。出品しゅっぴんぶつなかには。2005ねんのクリームさい結成けっせいツアーで使用しようしたギター、70年代ねんだい初頭しょとうのドミノス時代じだい使用しようされていたスピーカーキャビネット、そしてジェフ・ベック、J.J.ケイル、ジョー・ボナマッサから提供ていきょうされたギターがふくまれていた[232]。2011ねん3がつかれは1984ねんせいのギブソン・セミアコースティックギター、1990ねんのロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートで着用ちゃくようしたジャンニ・ヴェルサーチのスーツなど、かれ個人こじんてきなコレクションから75ほんのギターと55ほんのアンプで構成こうせいされる138ロットをオークションに出品しゅっぴんし、130まんポンド以上いじょう調達ちょうたつした。そして「ブラッキー」としてらる有名ゆうめいなフェンダー・ストラトキャスターのレプリカで、30,000ドル以上いじょう獲得かくとくした。すべての収益しゅうえきふたたびクロスロード・センターにおくられた[233]

クラプトンは、アムネスティ・インターナショナルわってモンティ・パイソンのメンバーであるジョン・クリーズ共同きょうどう設立せつりつしたチャリティショーのシークレット・ポリスマンズ・ボール出演しゅつえんした。かれはロンドンのドゥルリー・レーン劇場げきじょう開催かいさいされた1981ねんのショーにはつ登場とうじょうし、その継続けいぞくして出演しゅつえんした[234]。クラプトンは、イギリスを代表だいひょうする青少年せいしょうねん慈善じぜん団体だんたいであるプリンス・トラスト協力きょうりょくしており、トレーニング、自己じこ啓発けいはつ起業きぎょう支援しえん、メンタリング、アドバイスを提供ていきょうしている。かれは1980年代ねんだいからなんもチャリティーのロックコンサートに出演しゅつえんしており、最近さいきんでは2010ねん演奏えんそうしている[235]。2008ねんかれスマトラ島すまとらとうおき地震じしん津波つなみから東南とうなんアジアにもたらされた荒廃こうはい回復かいふく支援しえんするためにエイド・スティル・リクワイヤードのCDにきょく寄付きふした[236]

サッカー[編集へんしゅう]

クラプトンはイギリスのサッカークラブ、ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFCのファンである[237]。1982ねんかれザ・ホーソンズどうクラブの選手せんしゅジョン・ワイル功労こうろう記念きねん試合しあいまえにコンサートをおこなった。このころどうクラブは資金しきん投資とうしするというクラプトンのもう拒否きょひしたとつたえられている。1970年代ねんだい後半こうはん、クラプトンはかれのアルバム『バックレス』のバックカバーにウェスト・ブロムのスカーフを配置はいちした[238]。1978-79シーズン、クラプトンはUEFAカップでウェスト・ブロムがトルコのクラブ、ガラタサライSKとホームでおこな試合しあいのスポンサーとなった[237]

クリケット[編集へんしゅう]

クラプトンはクリケットだいファンとしてもられる[239]。クリケットの聖地せいちばれるロンドンのローズ・クリケット・グラウンドイングランド代表だいひょうせん観戦かんせんすることが頻繁ひんぱんにある[239]。プレーするのもきであり、慈善じぜん目的もくてきチャリティーマッチおお出場しゅつじょうした[239]。クラプトンは、伝説でんせつてきなインドのクリケット選手せんしゅであるサチン・テンドルカールが100かいのチェンチュリーを記録きろくしたメモリアルな試合しあいなま観戦かんせんしている[239]

栄誉えいよ[編集へんしゅう]

とし しょう / 表彰ひょうしょう
1983

英国えいこく音楽おんがくへの卓越たくえつした貢献こうけんたいして、マイケル・オブ・ケント王子おうじからシルバークレフしょう受賞じゅしょう[240]

1985

マイケル・ケイメンきょうさくした「エッジ・オブ・ダークネス」のスコアで英国えいこく映画えいがテレビ芸術げいじゅつアカデミーから英国えいこくアカデミーしょうテレビ部門ぶもん受賞じゅしょう[241]

1992

英国えいこく作曲さっきょくしょう作曲さっきょくしょう作曲さっきょくしょう生涯しょうがい功労賞こうろうしょうふくむ4つのアイヴァー・ノヴェロしょう受賞じゅしょう[96]

1993

「ティアーズ・イン・ヘブン」は、ソング・オブ・ザ・イヤー、レコード・オブ・ザ・イヤー、男性だんせいポップ・ボーカル・パフォーマンスで3つのグラミーしょう受賞じゅしょうした。 クラプトンはまた『アンプラグド』でアルバム・オブ・ザ・イヤー、ベストロックボーカルパフォーマンス、「いとしのレイラ」でベストロックソングを受賞じゅしょうした[242]

1995

音楽おんがくへの貢献こうけんだいえい帝国ていこく勲章くんしょう、オフィサー(OBE)を受章じゅしょう.[243]

2000

ソロアーティストとしてロックの殿堂でんどうりする。今回こんかいで3度目どめ以前いぜんにクリーム、ヤードバーズのメンバーとして殿堂でんどうりしている[244]

2004

バッキンガム宮殿きゅうでんアン王女おうじょからだいえい帝国ていこく勲章くんしょう、コマンダー(CBE)を受章じゅしょう[245][246]

2006

グラミーしょう 特別とくべつ功労賞こうろうしょう生涯しょうがい業績ぎょうせきしょうをクリームのメンバーとして受賞じゅしょう[247]

2015

小惑星しょうわくせい4305 クラプトンかれにちなんで命名めいめいされた。

2017

フランスの芸術げいじゅつ文化ぶんか勲章くんしょう、コマンドールを受章じゅしょう[248]

映画えいがやテレビで使用しようされた楽曲がっきょく[編集へんしゅう]

クラプトンの音楽おんがくなんじゅうもの映画えいがやテレビ番組ばんぐみ使用しようされており、はじめて登場とうじょうしたのは1973ねんの「ミーン・ストリート」までさかのぼる。どうさくではデレク・アンド・ザ・ドミノスの「アイ・ルックト・アウェイ」やクリームの「ステッピン・アウト」が使用しようされた。作品さくひんでは、「マイアミ・バイス」シリーズ(「ワンダフル・トゥナイト」、「ノック・オン・ウッド」、「シーズ・ウェイティング」、「いとしのレイラ」)、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(「ヘヴン・イズ・ワン・ステップ・アウェイ」)、「ハスラー2」(「イッツ・イン・ザ・ウェイ・ザット・ユー・ユーズ・イット」)、「リーサル・ウェポン2/ほのお約束やくそく」(「天国てんごくとびら」)、「グッドフェローズ」(「レイラ」、「サンシャイン・ラヴ」)[249]、「フリークス学園がくえん」のエピソード「I'm With the Band」(「サンシャイン・ラヴ」、「ホワイト・ルーム」、「クロスロード」)、「フレンズ」のエピソード「The One with the Proposal, Part 2」(「ワンダフル・トゥナイト」)、「The One Where Rachel Has A Baby」(「リヴァー・オブ・ティアーズ」)、「スクール・オブ・ロック」(「サンシャイン・ラヴ」)、「メン・イン・ブラック3」(「ストレンジ・ブルー」)、「キャプテン・フィリップス」(「ワンダフル・トゥナイト」)、「8がつ家族かぞくたち」(「レイ・ダウン・サリー」)、「グッド・ガールズ!~NY女子じょしのキャリア革命かくめい」のエピソード「The Year-Ender」(「ホワイト・ルーム」)、「リック・アンド・モーティ」のエピソード「The Vat of Acid Episode」(「イッツ・イン・ザ・ウェイ・ザット・ユー・ユーズ・イット」)そして「ジョーカー」(「ホワイト・ルーム」)などがある[250]

オペルボクスホールは1987ねんから95ねんにかけての広告こうこくキャンペーンで「レイラ」のギターリフを使用しようした。メディアに登場とうじょうするかれ音楽おんがくくわえて、クラプトンはいくつかの映画えいが単独たんどくまたは共同きょうどうでスコアをいたり、オリジナルきょく提供ていきょうしている。そのような作品さくひんとして「リーサル・ウェポン」(マイケル・ケイメンとともさく[251]、「コミュニオン」、「ラッシュ」、「フェノミナン」(「チェンジ・ザ・ワールド」)、「リーサル・ウェポン3」(「イッツ・プロバブリー・ミー」をスティングと、「ランナウェイ・トレイン」をエルトン・ジョンともさく)がふくまれる[252]

ディスコグラフィ[編集へんしゅう]

ソロ・アルバム[編集へんしゅう]

コラボレーション[編集へんしゅう]

日本にっぽんにおけるクラプトン[編集へんしゅう]

日本武道館にほんぶどうかん、2006ねん11月24にち

30ねん以上いじょうコンスタントにワールドツアーをおこない、日本にっぽん公演こうえん多数たすう(2023ねんはる=23かい)。とく日本武道館にほんぶどうかん公演こうえんは、外国がいこくじんアーティストとしては最多さいたの102かい公演こうえんおよんだ[254]

日本にっぽんでのアルバムげは1999ねん発売はつばいのベストアルバム『BEST OF』が200まんまい[255]1992ねん発売はつばいのライブアルバム『アンプラグド』が120まんまい[256]ぜん世界せかいでは1500まんまい

2000ねん日本にっぽんツアーは18まんにん驚異きょういてき動員どういんすうほこった。

エヴァンゲリオンのキャラクターデザイナーさだ本義ほんぎぎょうのファンであり、98ねんのアルバム『ピルグリム』のジャケット制作せいさく依頼いらいしている。

日本にっぽん公演こうえん[編集へんしゅう]

10月31にち・11月1にち・2にち 日本武道館にほんぶどうかん
11月5にち・6にち 大阪おおさか厚生こうせい年金ねんきん会館かいかん
10月22にち・23にち フェスティバルホール
10月24にち 京都きょうと会館かいかん
10月27にち 北九州きたきゅうしゅう市立しりつ総合そうごう体育館たいいくかん
10月29にち 静岡しずおか駿府すんぷ会館かいかん
11月1にち・2にち 日本武道館にほんぶどうかん
9月26にち・10月1にち フェスティバルホール
9月27にち 岡山おかやまけん体育館たいいくかん
9月29にち 京都きょうと会館かいかん
9月30にち 名古屋なごや公会堂こうかいどう
10月4にち 真駒内まこまないアイスアリーナ
10月6にち・7にち 日本武道館にほんぶどうかん
11月23にち 茨城いばらき県立けんりつ県民けんみん文化ぶんかセンター
11月25にち 名古屋なごや公会堂こうかいどう
11月26にち 京都きょうと会館かいかん
11月27にち 大阪おおさか厚生こうせい年金ねんきん会館かいかん
11月28にち 広島ひろしま郵便ゆうびん貯金ちょきんホール
11月30にち 新日鐵しんにってつ大谷おおや体育館たいいくかん
12月1にち 大阪おおさか府立ふりつ体育館たいいくかん
12月3にち・4にち 日本武道館にほんぶどうかん
12月6にち みちりつ産業さんぎょう共進きょうしん会場かいじょう
11月27にち 新潟にいがた県民けんみん会館かいかん
11月30にち 愛知あいち厚生あつお年金ねんきん会館かいかん
12月1にち フェスティバルホール
12月3にち 福岡ふくおかサンパレス
12月4にち 京都きょうと会館かいかん
12月7にち 日本武道館にほんぶどうかん
12月8にち 横浜よこはま文化ぶんか体育館たいいくかん
12月9にち 東京厚生年金会館とうきょうこうせいねんきんかいかん
10月5にち・6にち 国立こくりつ代々木よよぎ競技きょうぎじょうだいいち体育館たいいくかん
10月7にち 大阪おおさか厚生こうせい年金ねんきん会館かいかん
10月9にち 名古屋なごや市民しみん会館かいかん
10がつ10日とおか フェスティバルホール
10月11にち 福岡ふくおかサンパレス
11月2にち・4にち・5にち 日本武道館にほんぶどうかん
11月7にち 愛知あいちけん体育館たいいくかん
11月9にち 大阪城おおさかじょうホール
エリック・クラプトン with エルトン・ジョン & マーク・ノップラー
10月31にち 名古屋なごやレインボーホール
11月2にち 東京とうきょうドーム
11月4にち 日本武道館にほんぶどうかん
11月5にち 大阪おおさかスタヂアム
12月4にち・5にち・6にち 日本武道館にほんぶどうかん
12月9にち 国立こくりつ代々木よよぎだいいち体育館たいいくかん
12月10にち 名古屋なごやレインボーホール
12月11にち 大阪城おおさかじょうホール
12月13にち 横浜よこはまアリーナ
ジョージ・ハリスン with エリック・クラプトン and ヒズ・バンド
12月1にち 横浜よこはまアリーナ
12月2にち・3にち10日とおか・12にち 大阪城おおさかじょうホール
12月5にち 名古屋なごや国際こくさい展示てんじじょう
12月6にち 広島ひろしまサンプラザ
12月9にち 福岡ふくおか国際こくさいセンター
12月14にち・15にち・17にち 東京とうきょうドーム
10月12にち・13にち・21にち・22にち・25にち・26にち・27にち・31にち 日本武道館にほんぶどうかん
10月14にち 名古屋なごやレインボーホール
10月17にち 福岡ふくおか国際こくさいセンター
10月23にち・30にち 横浜よこはまアリーナ
10月1にち・3にち・5にち・6にち 国立こくりつ代々木よよぎだいいち体育館たいいくかん
10月8にち・9にち 大阪城おおさかじょうホール
10月11にち・12にち・13にち 日本武道館にほんぶどうかん
10月13にち・14にち・16にち・17にち・27にち・28にち・30にち・31にち 日本武道館にほんぶどうかん
10がつ20日はつか マリンメッセ福岡ふくおか
10月21にち・22にち 大阪城おおさかじょうホール
10月24にち 広島ひろしまグリーンアリーナ
10月25にち 名古屋なごやレインボーホール
11月9にち・19にち20日はつか・22にち・26にち・27にち・29にち・30にち 日本武道館にほんぶどうかん
11月11にち 愛知あいちけん体育館たいいくかん
11月13にち マリンメッセ福岡ふくおか
11月15にち・16にち・17にち 大阪城おおさかじょうホール
11月24にち 横浜よこはまアリーナ
11月19にち20日はつか・21にち 大阪城おおさかじょうホール
11月24にち 愛知あいちけん体育館たいいくかん
11月26にち マリンメッセ福岡ふくおか
11月28にち・30にち・12月3にち・4にち・5にち10日とおか・11にち 日本武道館にほんぶどうかん
12月8にち 宮城みやぎけん総合そうごう運動公園うんどうこうえん総合そうごう体育館たいいくかん
12月14にち・15にち 横浜よこはまアリーナ
11月15にち 広島ひろしまグリーンアリーナ
11月17にち・19にち20日はつか 大阪城おおさかじょうホール
11月22にち 名古屋なごやレインボーホール
11月24にち さいたまスーパーアリーナ
11月26にち・27にち 横浜よこはまアリーナ
11月29にち・30にち・12月2にち・3にち・9にち10日とおか・12にち・13にち 日本武道館にほんぶどうかん
12月5にち 宮城みやぎけん総合そうごう運動公園うんどうこうえん総合そうごう体育館たいいくかん
12月7にち 札幌さっぽろドーム
11月11にち・12にち・14にち・15にち 大阪城おおさかじょうホール
11月17にち・18にち 名古屋なごやレインボーホール
11月20にち・21にち・23にち・24にち・29にち・30にち・12月5にち・6にち・8にち・9にち 日本武道館にほんぶどうかん
11月26にち 札幌さっぽろドーム
12月2にち さいたまスーパーアリーナ
2がつ12にち・13にち 大阪城おおさかじょうホール
2がつ15にち・18にち・19にち・24にち・25にち・27にち・28にち 日本武道館にほんぶどうかん
エリック・クラプトン & ジェフ・ベック
2がつ21にち・22にち さいたまスーパーアリーナ
エリック・クラプトン & スティーブ・ウインウッド
11月17にち 北海ほっかいきたえーる
11月19にち 横浜よこはまアリーナ
11月21にち・22にち 大阪城おおさかじょうホール
11月24にち マリンメッセ福岡ふくおか
11月26にち 広島ひろしまグリーンアリーナ
11月28にち いしかわ総合そうごうスポーツセンター メインアリーナ
11月30にち 日本にっぽんガイシホール
12月2にち・3にち・6にち・7にち10日とおか 日本武道館にほんぶどうかん
2がつ18にち20日はつか・21にち・28にち 日本武道館にほんぶどうかん
2がつ23にち 横浜よこはまアリーナ
2がつ25にち 愛知あいちけん体育館たいいくかん
2がつ26にち 大阪城おおさかじょうホール
※2がつ18にち公演こうえんは、来日らいにち公演こうえん200かい[257]
4がつ13にち・15にち・16にち・18にち・19にち 日本武道館にほんぶどうかん[258]
4がつ13にち・15にち・17にち・18にち20日はつか 日本武道館にほんぶどうかん
4がつ15にち・18にち・19にち・21にち・22にち・24にち 日本武道館にほんぶどうかん

参照さんしょう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e Ruhlmann, William. Eric Clapton | Biography & History - オールミュージック. 2020ねん11月27にち閲覧えつらん
  2. ^ a b "55 - Eric Clapton". Rolling Stone. 2012ねん7がつ18にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2014ねん11月11にち閲覧えつらん
  3. ^ "高中たかなか正義まさよしにじ伝説でんせつファイナル at 日本武道館にほんぶどうかん」 ギター・ヒーローは永遠えいえん". 産経さんけいニュース. 25 November 2021. 2021ねん11月25にち閲覧えつらん
  4. ^ a b "100 Greatest Guitarists of All Time - 2. Eric Clapton". Rolling Stone. 2012ねん10がつ21にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2011ねん11月30にち閲覧えつらん
  5. ^ a b "Top 50 Guitarists of All Time - 10 to 1". Gibson Guitar Company. 2011ねん7がつ8にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2011ねん7がつ22にち閲覧えつらん
  6. ^ Tyrangiel, Josh (14 August 2009). “The 10 Greatest Electric Guitar Players”. Time. オリジナルの18 September 2013時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130918082452/http://content.time.com/time/photogallery/0,29307,1916544_1921860,00.html 2011ねん4がつ26にち閲覧えつらん. 
  7. ^ a b "Eric Clapton Biography - The Rock and Roll Hall of Fame and Museum". Rockhall.com. 2014ねん10がつ12にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん
  8. ^ "Inductee: Eric Clapton". Rockhall.com. 2014ねん10がつ12にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん
  9. ^ "Eric Clapton, All Music: Grammy Awards". AllMusic. 2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん
  10. ^ a b "Brit Awards 1987". Brit Awards. 2014ねん3がつ17にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん
  11. ^ “Ex-rebel Clapton receives his CBE”. The Daily Telegraph (London). (2004ねん11月4にち). オリジナルの2014ねん12月5にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20141205052136/http://www.telegraph.co.uk/news/uknews/1475787/Ex-rebel-Clapton-receives-his-CBE.html 2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん 
  12. ^ “Eric Clapton - Von Fans und Musikern verehrt - (5/7)” (ドイツ). Zweites Deutsches Fernsehen. オリジナルの2020ねん12月14にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20201214184047/https://www.zdf.de/eric-clapton-slowhand-112.html 2021ねん8がつ16にち閲覧えつらん 
  13. ^ a b c Kemp, Mark (2001). "Eric Clapton Biography". Rolling Stone. 2011ねん9がつ19にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2011ねん10がつ23にち閲覧えつらん
  14. ^ Harry Shapiro (1992) Eric Clapton: Lost in the Blues pg. 29. Guinness, 1992
  15. ^ "Ladies and gentlemen, Eric Clapton". TODAY.com. 2012ねん10がつ3にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん
  16. ^ Vinita (2005). Profiles in Popular Music. Sura Books. p. 71. ISBN 978-81-7478-638-8. https://books.google.com/books?id=obs89cWwqZoC&pg=PA71 
  17. ^ a b c Bob Gulla (2008) Guitar Gods: The 25 Players Who Made Rock History pgs. 40-41. Retrieved 29 December 2010
  18. ^ a b Clapton, Eric (2007) Eric Clapton: The Autobiography, pg. 22. Century, 2007
  19. ^ a b c Thompson, Dave (2006). Cream: How Eric Clapton Took the World by Storm. London: Virgin Books. pp. 31-32 
  20. ^ Welch, Chris (1994) Extract Archived 18 September 2012 at the Wayback Machine.
  21. ^ a b c d e Romanowski, Patricia (2003)
  22. ^ a b c d “Exclusive pictures: Eric Clapton hits 200 Royal Albert Hall shows”. Royal Albert Hall.com. (2015ねん7がつ12にち). オリジナルの2015ねん9がつ9にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150909172857/http://www.royalalberthall.com/about-the-hall/news/2015/may/exclusive-pictures-eric-clapton-hits-200-royal-albert-hall-shows/ 2015ねん7がつ12にち閲覧えつらん 
  23. ^ Welch, Chris. Clapton. Voyageur Press. p. 38 
  24. ^ "Eric Clapton Starts Royal Albert Hall Run With Classics and Covers". Rolling Stone. 18 May 2009. 2018ねん1がつ9にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん
  25. ^ "Eric Clapton celebrates 50 years as a professional musician". Life.royalalberthall.com. 2013ねん10がつ10日とおか時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん
  26. ^ Trouser Press : Jimmy Page interview transcript”. Iem.ac.ru. 2011ねん8がつ28にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2014ねん4がつ17にち閲覧えつらん
  27. ^ “Jeff Beck Opens Up About Rock and Roll Hall of Fame Gigs with Clapton Jeff Beck Group Reunion Prospects”. Rolling Stone. (16 January 2017). オリジナルの19 July 2009時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090719164046/http://www.rollingstone.com/rockdaily/index.php/2009/01/16/jeff-beck-opens-up-about-rock-and-roll-hall-of-fame-gigs-with-clapton-jeff-beck-group-reunion-prospects/ 2017ねん12月5にち閲覧えつらん. 
  28. ^ Τたうοおみくろん καλοκαίρι πぱいοおみくろんυうぷしろん οおみくろん Έρικ Κλάπτον έπαιξε ρろーοおみくろんκかっぱ σしぐまτたうηいーたνにゅー Αθήνα. Ήταν απένταρος κかっぱαあるふぁιいおた αντικατέστησε τたうοおみくろんνにゅー κιθαρίστα σしぐまτたうοおみくろん ελληνικό συγκρότημα "Juniors". Τたうοおみくろん συγκρότημα είχε αποδεκατιστεί πぱいρろーιいおたνにゅー από λίγες μέρες σしぐまεいぷしろん ένα τρομερό τροχαίο (βίντεο)” (2015ねん3がつ30にち). 2022ねん4がつ10日とおか閲覧えつらん
  29. ^ McCormick, Neil (2015ねん7がつ24にち). “Just how good is Eric Clapton?”. The Telegraph (London). オリジナルの2017ねん11月24にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20171124071909/http://www.telegraph.co.uk/culture/music/rockandpopfeatures/11501274/Just-how-good-is-Eric-Clapton.html 2018ねん4がつ3にち閲覧えつらん 
  30. ^ Clapton Documentary (1987). South Bank Show. ITV.
  31. ^ エリック・クラプトンへのインタビュー - ポップ・クロニクルズ(1970ねん)
  32. ^ Unterberger, Richie. "Cream". AllMusic. 2010ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  33. ^ a b “Hendrix jams with Cream”. BBC. (2016ねん4がつ24にち). オリジナルの2017ねん12月20にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20171220045148/http://www.bbc.co.uk/music/sevenages/events/blues-based-rock/hendrix-jams-with-cream/ 2018ねん2がつ13にち閲覧えつらん 
  34. ^ Shadwick, Keith (2003). Jimi Hendrix: Musician. P. 84. Backbeat Books
  35. ^ Welch, Chris (2011). Clapton: The Ultimate Illustrated History. Voyageur. p. 87. ISBN 978-0-7603-4046-2. https://books.google.com/books?id=M-BMCFL_c3AC&pg=PA87 2012ねん1がつ2にち閲覧えつらん 
  36. ^ a b Oxman, J. Craig (2011ねん12がつ). “Clapton's Fool: History's Greatest Guitar?”. Vintage Guitar: pp. 62-66 
  37. ^ Welch, Chris: "Cream" (2000), page 131
  38. ^ Runtagh, J. (1 July 2018) “The Band's 'Music From Big Pink': 10 Things You Didn't Know”. Rolling Stone. https://www.rollingstone.com/music/music-features/the-bands-music-from-big-pink-10-things-you-didnt-know-666161/ 2020ねん4がつ15にち閲覧えつらん 
  39. ^ Erlewine, S.T. (1 September 2018) "Music from Big Pink". Pitchfork (website). 2020ねん4がつ15にち閲覧えつらん
  40. ^ “Ex-Beatles at Harrison film tribute”. BBC. (2003ねん9がつ25にち). http://news.bbc.co.uk/1/hi/entertainment/3138096.stm 2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん 
  41. ^ Elliot J. Huntley (2004). Mystical One: George Harrison - After the Break-up of the Beatles. p. 25. Guernica Editions, 2004.
  42. ^ “That Time Eric Clapton Almost Became a Beatle”. Esquire. (23 April 2016). オリジナルの26 April 2016時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160426004245/http://www.esquire.com/entertainment/news/a39896/beatles-eric-clapton-last-days/. 
  43. ^ Urish, Ben (2007). The Words and Music of John Lennon. Greenwood Publishing Group. p. 7 
  44. ^ Paoletta, Michael (23 July 2005). “Inside Track”. Billboard: 62. https://books.google.com/books?id=rRQEAAAAMBAJ&pg=PA62. 
  45. ^ Eisner, Peter (2005ねん10がつ26にち). “Cream, Rising to the Occasion at Madison Square Garden”. Washingpost.com. オリジナルの2014ねん4がつ6にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140406213420/http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/10/25/AR2005102501667.html 2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん 
  46. ^ Stephen Thomas Erlewine. "Royal Albert Hall: London May 2-3-5-6 2005". AllMusic. 2011ねん10がつ2にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2010ねん12月30にち閲覧えつらん
  47. ^ Welch, Chris (2016). Clapton - Updated Edition: The Ultimate Illustrated History. p. 12. Voyageur Press.
  48. ^ Turner, Steve (1976). Conversations with Eric Clapton. New York City: Abacus. p. 94. ISBN 978-0349134024 
  49. ^ “Dylan Jones: 'In the film of 'London Hyde Park 1969', Steve Winwood is a revelation; a genuine pop icon”. The Independent. オリジナルの2018ねん10がつ24にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20181024195144/https://www.independent.co.uk/voices/columnists/dylan-jones/dylan-jones-in-the-film-of-london-hyde-park-1969-steve-winwood-is-a-revelation-a-genuine-pop-icon-1219611.html 2018ねん10がつ24にち閲覧えつらん 
  50. ^ a b Urish, Ben; Bielen, Kenneth G. (2007). The Words and Music of John Lennon. Greenwood Publishing Group. p. 15. ISBN 978-0-275-99180-7. https://books.google.com/books?id=LJ9Y0YgSE1oC&pg=PA15 
  51. ^ Noyer, Paul Du (2010). “John Lennon/Plastic Ono Band”. John Lennon: The Stories Behind Every Song 1970-1980 (Rev. ed.). London: Carlton Books Ltd.. pp. 25-26. ISBN 978-1-84732-665-2 
  52. ^ "allmusic ((( Eric Clapton > Overview )))". 2009ねん12月5にち閲覧えつらん
  53. ^ "allmusic ((( Let It Rain )))". 2009ねん12月5にち閲覧えつらん
  54. ^ a b Koda, Cub. “The London Howlin' Wolf Sessions - Review”. AllMusic. 2018ねん7がつ23にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2018ねん7がつ23にち閲覧えつらん
  55. ^ Christgau, Robert. “Stephen Stills > Consumer Guide Reviews”. Robert Christgau. 2018ねん7がつ13にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2017ねん12月16にち閲覧えつらん
  56. ^ The Layla Sessions liner notes, page 4.
  57. ^ Fox, Darrin (June 2001). Guitar Player magazine. p. 108. 
  58. ^ "Derek And The Dominoes". Artistfacts. 2007ねん2がつ2にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2007ねん2がつ17にち閲覧えつらん
  59. ^ a b c Schumacher, Michael (1992)
  60. ^ McKeen, William (2000). Rock and roll is here to stay: an anthology. W. W. Norton & Company. p. 127. "Clapton poured all he had into Layla's title track, which was inspired by the Persian love story he had read, the story of Layla and Majnun." 
  61. ^ Santoro, Gene (1995). Dancing in Your Head: Jazz, Blues, Rock, and Beyond. Oxford University Press US. p. 62. "At the time, he started to read The story of Layla and Majnun by the Persian poet Nizami Ganjavi" 
  62. ^ "The Layla Sessions" CD liner notes.
  63. ^ The Layla Sessions liner notes, page 12.
  64. ^ Clapton, The Autobiography, 128.
  65. ^ Marc Roberty, Chris Charlesworth (1995) The complete guide to the music of Eric Clapton p.67. Omnibus Press, 1995
  66. ^ Townshend, Pete (2012). Who I Am. London: Harper. pp. 243-245. ISBN 978-0-00-747916-0 
  67. ^ Neill, Andy; Kent, Matt (2007). Anyway Anyhow Anywhere: The Complete Chronicle of The Who 1958-1978. London: Virgin Books. pp. 315-316, 321-322. ISBN 978-0-7535-1217-3 
  68. ^ Longtime Eric Clapton Keyboardist Dick Sims Dies”. Gibson.com (2008ねん6がつ24にち). 2012ねん1がつ13にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2011ねん12月30にち閲覧えつらん
  69. ^ Neill, Andy; Kent, Matt (2007). Anyway Anyhow Anywhere: The Complete Chronicle of The Who 1958-1978. London: Virgin Books. p. 351. ISBN 978-0-7535-1217-3 
  70. ^ Prown, Pete; Newquist, Harvey P. (1997). Legends of Rock Guitar: The Essential Reference of Rock's Greatest Guitarists. Hal Leonard Corporation. p. 70. ISBN 978-0-7935-4042-6. https://books.google.com/books?id=60Jde3l7WNwC&pg=PA70 
  71. ^ Christgau, Robert. “Robert Christgau Consumer Guide: The Band”. 2007ねん10がつ1にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2007ねん1がつ7にち閲覧えつらん
  72. ^ Conversations with Eric Clapton, Steve Turner
  73. ^ Moritz, Charles (1987)
  74. ^ a b Ruhlmann, William. "Eric Clapton". AllMusic. 2007ねん2がつ17にち閲覧えつらん
  75. ^ Clapton, Eric (2007). Clapton, The Autobiography. Broadway Books. p. 198. ISBN 9780385518512. https://archive.org/details/claptonautobiogr00clap 
  76. ^ Clapton, Eric (2007). Clapton: The Autobiography. ISBN 978-0-385-51851-2. https://archive.org/details/claptonautobiogr00clap 
  77. ^ Prown, Pete; Newquist, Harvey P. (1997). Legends of Rock Guitar: The Essential Reference of Rock's Greatest Guitarists. Hal Leonard Corporation. p. 69. ISBN 978-0-7935-4042-6. https://books.google.com/books?id=60Jde3l7WNwC&pg=PA69 
  78. ^ DeCurtis, Anthony (1987ねん2がつ12にち). “Eric Clapton August”. Rolling Stone. 2017ねん8がつ29にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2017ねん8がつ15にち閲覧えつらん
  79. ^ Huntley, Elliot J. (2006). Mystical One: George Harrison - After the Break-up of the Beatles. Toronto, ON: Guernica Editions. p. 205. ISBN 1-55071-197-0.
  80. ^ The Bee Gees Meet Eric Clapton”. Uncle John's Bathroom Reader (2014ねん6がつ27にち). 2017ねん7がつ29にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2017ねん7がつ29にち閲覧えつらん
  81. ^ “Clapton Helps Celebrate Bunbury Cricket Club's 25th Birthday”. EricClapton.com.. (2017ねん12月4にち). オリジナルの2017ねん12月5にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20171205042351/http://www.ericclapton.com/news/eric-clapton-helps-celebrate-bunbury-cricket-clubs-25th-birthday-24056 2017ねん12月4にち閲覧えつらん 
  82. ^ “Eric Clapton on stage at Nelson Mandela 70th Birthday Tribute ..”. Getty Images. (2017ねん12月17にち). オリジナルの2017ねん12月21にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20171221224336/http://www.gettyimages.co.uk/detail/news-photo/eric-clapton-on-stage-at-nelson-mandela-70th-birthday-news-photo/639741272#eric-clapton-on-stage-at-nelson-mandela-70th-birthday-tribute-concert-picture-id639741272 2017ねん12月17にち閲覧えつらん 
  83. ^ "Past Winners Search | GRAMMY.com". Grammy Awards. 2013ねん8がつ30にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2015ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  84. ^ Tobler, John: Who's who in rock & roll p.1988. Crescent Books, 1991
  85. ^ “In An English Country Churchyard, Eric Clapton and Friends Mourn the Death of His Son, Conor, 4”. People. オリジナルの20 October 2014時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20141020170345/http://www.people.com/people/archive/article/0,,20114903,00.html 2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん. 
  86. ^ Mr. Bluesman by Richie Sambora”. Songfacts. 2022ねん12月1にち閲覧えつらん
  87. ^ Boehm, Mike (1992ねん7がつ12にち). “ELTON JOHN "The One" MCA”. Los Angeles Times. 2015ねん4がつ27にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2011ねん9がつ18にち閲覧えつらん
  88. ^ Exclusive: Mother of 'Tears in Heaven' Inspiration Shares Story - ABC News”. ABC News (2006ねん9がつ7にち). 2014ねん2がつ24にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2014ねん12月12にち閲覧えつらん
  89. ^ “Eric Clapton: 'Tears In Heaven'”. Rolling Stone (88). (7 December 2000). 
  90. ^ Leerhsen, Charles (22 March 1992). “His Saddest Song”. Newsweek 119 (12): 52. 
  91. ^ Rosen, Craig (6 March 1993). “Clapton Grabs Key Grammys; 'Beauty' is Belle Of The Ball”. Billboard: 1. オリジナルの27 June 2014時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140627200627/http://books.google.com/books?id=rw8EAAAAMBAJ&pg=PA1 2016ねん3がつ12にち閲覧えつらん. 
  92. ^ "Eric Clapton - Unplugged (Certifications)". RIAA (アメリカ英語えいご). 2016ねん6がつ24にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2016ねん6がつ10日とおか閲覧えつらん
  93. ^ "British album certifications - Eric Clapton - Unplugged" Archived 17 January 2010 at WebCite. British Phonographic Industry. Retrieved 12 February 2016. Enter Unplugged in the search field and then press Enter
  94. ^ "1992 MTV Video Music Awards". MTV. 2012ねん6がつ30にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん
  95. ^ "1992 MTV VMAS". Rockonthenet.com. 2018ねん6がつ12にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん
  96. ^ a b "1992 Ivor Novello Awards" Archived 4 January 2018 at the Wayback Machine.. The Ivors. Retrieved 3 January 2018
  97. ^ SPIN magaone. Nov 1993. p. 32
  98. ^ D. Dicaire, More blues singers: biographies of 50 artists from the later 20th century (McFarland, 2001), p. 203.
  99. ^ Kutner, Jon (2010). 1000 UK Number One Hits. Omnibus Press. ISBN 9780857123602 
  100. ^ a b "Live in Hyde Park (Video/DVD)". AllMusic. 2012ねん1がつ8にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん
  101. ^ "Billboard 6 September 1997". p.59. Billboard. Retrieved 12 December 2014
  102. ^ "Past Winners Search: Eric Clapton". The GRAMMYs. 2014ねん7がつ26にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん
  103. ^ "Clapton Chronicles: The Best of Eric Clapton". AllMusic. 2011ねん4がつ24にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん
  104. ^ "The Runaway Bride (Original Soundtrack)". AllMusic. 2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん
  105. ^ Clapton recruits B.B. King for a vintage blues session”. Sarasota Herald-Tribune (2000ねん6がつ1にち). 2020ねん5がつ22にち閲覧えつらん
  106. ^ Seibert, Perry. "The Concert For New York City [2 Discs]". All Movie Guide. 2019ねん5がつ28にち閲覧えつらん
  107. ^ "Concert for New York City - Various Artists" Archived 20 August 2016 at the Wayback Machine.. AllMusic. Retrieved 28 May 2019
  108. ^ “Palace party draws 15m viewers”. BBC. (2002ねん6がつ4にち). http://news.bbc.co.uk/1/hi/entertainment/2024971.stm 2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん 
  109. ^ a b Stephen Thomas Erlewine. "Concert for George" Archived 18 December 2011 at the Wayback Machine.. AllMusic. Retrieved 15 May 2012
  110. ^ “The Immortals”. Rolling Stone (946). オリジナルの17 October 2006時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20061017054537/http://www.rollingstone.com/news/coverstory/the_immortals. 
  111. ^ Frederick "Toots" Hibbert Biography”. biography.com. 2016ねん8がつ9にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2016ねん7がつ2にち閲覧えつらん
  112. ^ Saulnier, Jason (8 April 2010). "Chuck Leavell Interview". Music Legends. 2013ねん12月16にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2013ねん5がつ6にち閲覧えつらん
  113. ^ Glenn Povey (2007). Echoes: the complete history of Pink Floyd Mind Head Publishing. Retrieved 29 December 2011
  114. ^ "God has a summer home in Columbus". UWeekly. 15 August 2005. 2007ねん9がつ27にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2007ねん3がつ30にち閲覧えつらん
  115. ^ “Joel Rickett on the latest news from the publishing industry”. The Guardian (London). (2005ねん10がつ22にち). オリジナルの2007ねん12月27にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20071227170810/http://books.guardian.co.uk/comment/story/0,,1597895,00.html 2007ねん2がつ17にち閲覧えつらん 
  116. ^ Woloschuk, Michael. “His Father's Eyes”. Ottawa Citizen. オリジナルの2007ねん1がつ29にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20070129210214/http://www.eric-clapton.co.uk/interviewsandarticles/hisfatherseyes.htm 2007ねん2がつ17にち閲覧えつらん 
  117. ^ Woloschuk, Michael. “Clapton Thanks Reporter”. Canoe Jam. オリジナルの2012ねん7がつ12にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://archive.today/20120712085125/http://jam.canoe.ca/Music/Artists/C/Clapton_Eric/1998/09/16/743979.html 2007ねん2がつ17にち閲覧えつらん 
  118. ^ “Eric Clapton 'receives North Korean invite'”. CNN. (2008ねん2がつ26にち). オリジナルの2008ねん3がつ3にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20080303060303/http://edition.cnn.com/2008/SHOWBIZ/Music/02/26/clapton.northkorea.ap/index.html 2008ねん2がつ26にち閲覧えつらん 
  119. ^ “Clapton asked to play in North Korea”. BBC News. (2008ねん2がつ26にち). オリジナルの2008ねん3がつ2にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20080302045018/http://news.bbc.co.uk/1/hi/entertainment/7265467.stm 2008ねん2がつ26にち閲覧えつらん 
  120. ^ “North Korea Seeks A Clapton Concert”. The New York Times. (2008ねん2がつ27にち). オリジナルの2012ねん3がつ12にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120312082500/http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=980DE2DE113FF934A15751C0A96E9C8B63 2010ねん5がつ7にち閲覧えつらん 
  121. ^ “Hard Rock Calling”. Live Nation (Music) UK Limited (Hard Rock Calling). オリジナルの2010ねん3がつ16にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100316200910/http://2008.hardrockcalling.co.uk/ 2010ねん5がつ7にち閲覧えつらん 
  122. ^ Hard Rock Calling, Hyde Park, London Saturday 28 June 2008”. Eric Clapton Online. 2011ねん7がつ10日とおか時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2010ねん5がつ7にち閲覧えつらん
  123. ^ The 2009 Allman Brothers Band Beacon Run in Review”. Swampland. 2022ねん12月1にち閲覧えつらん
  124. ^ "Eric Clapton pulls out of rock and roll gig". entertainment.oneindia.in. 28 October 2009. 2013ねん5がつ15にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2009ねん10がつ30にち閲覧えつらん
  125. ^ "Leonard Cohen and Van Morrison at MSG this weekend but Van will not be back for Rock Hall of Fame". brooklynvegan.com. 2009ねん10がつ28にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2009ねん10がつ30にち閲覧えつらん
  126. ^ "Imus in the morning: highlights and interviews". wabcradio.com. 2009ねん5がつ16にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2009ねん10がつ30にち閲覧えつらん
  127. ^ McCormick, Neil (2010ねん2がつ14にち). “Eric Clapton & Jeff Beck at the O2 Arena, review”. The Daily Telegraph (London). オリジナルの2010ねん2がつ17にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100217050705/http://www.telegraph.co.uk/culture/music/live-music-reviews/7238056/Eric-Clapton-and-Jeff-Beck-at-the-O2-Arena-review.html 2010ねん5がつ2にち閲覧えつらん 
  128. ^ Ratliff, Ben (2010ねん2がつ20日はつか). “Yes, Two Guitar Idols Are Better Than One”. The New York Times. オリジナルの2010ねん2がつ25にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100225041133/http://www.nytimes.com/2010/02/20/arts/music/20clapton.html 2010ねん5がつ2にち閲覧えつらん 
  129. ^ "Eric Clapton and Jeff Beck announce London O2 Arena gig". NME. UK. 23 November 2009. 2009ねん9がつ27にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2009ねん10がつ21にち閲覧えつらん
  130. ^ “In pictures: The Prince's Trust Rock Gala 2010”. The Daily Telegraph (London). (2010ねん11月18にち). オリジナルの2015ねん7がつ15にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150715075902/http://www.telegraph.co.uk/news/picturegalleries/celebritynews/8142012/In-pictures-The-Princes-Trust-Rock-Gala-2010.html?image=9 2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん 
  131. ^ "Rolling Stones to perform with Lady Gaga and Bruce Springsteen". The Telegraph. 10 December 2012. 2012ねん12月11にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2016ねん4がつ22にち閲覧えつらん
  132. ^ “12 Unforgettable Photos from the Epic 12-12-12 Sandy Benefit Concert”. Time. (2012ねん12月13にち). オリジナルの2014ねん8がつ14にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140814133024/http://entertainment.time.com/2012/12/13/sprinsteen-jagger-clapton-sandy-concert/ 2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん 
  133. ^ Eric Clapton's T-Shirt Hit A Crossroad(s)”. Ticodo (2013ねん6がつ17にち). 2013ねん12月14にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2013ねん6がつ27にち閲覧えつらん
  134. ^ Eric Clapton Kicks Off 50th Anniversary Tour With Killer Setlist”. Coolalbumreview.com (2013ねん3がつ15にち). 2013ねん5がつ25にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2013ねん6がつ9にち閲覧えつらん
  135. ^ “Eric Clapton: 'When I'm 70, I'll Stop Touring'”. Rolling Stone. オリジナルの2014ねん7がつ15にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140715031757/http://www.rollingstone.com/music/news/eric-clapton-when-im-70-ill-stop-touring-20130228 2014ねん6がつ11にち閲覧えつらん 
  136. ^ "More Signs Point Towards Eric Clapton Touring Retirement". JamBase. 2014ねん6がつ11にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2014ねん6がつ11にち閲覧えつらん
  137. ^ "Eric Clapton and Friends Honor JJ Cale With New Tribute LP". Rolling Stone. 30 April 2014. 2014ねん6がつ22にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2014ねん6がつ11にち閲覧えつらん
  138. ^ “Fans' anger as Eric Clapton strops off stage at SSE Hydro”. The Herald (Glasgow). (2014ねん6がつ21にち). オリジナルの2014ねん6がつ25にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140625025210/http://www.heraldscotland.com/arts-ents/music/review-eric-clapton-strops-off-stage-at-the-sse-hydro.1403387960 2014ねん6がつ22にち閲覧えつらん 
  139. ^ “BBC News - Eric Clapton cuts short concert after 'technical issue'”. BBC. (2014ねん6がつ22にち). オリジナルの2014ねん6がつ24にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140624063428/http://www.bbc.co.uk/news/uk-scotland-glasgow-west-27962617 2014ねん6がつ22にち閲覧えつらん 
  140. ^ “Clapton apologises for concert exit”. The Herald (Glasgow). (2014ねん6がつ23にち). オリジナルの2014ねん6がつ25にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140625032330/http://www.heraldscotland.com/news/home-news/clapton-apologises-for-concert-exit.24556350 2014ねん6がつ23にち閲覧えつらん 
  141. ^ "Eric Clapton Says Touring Has Become 'Unbearable,' Confirms Retirement Plans". Ultimate Classic Rock. 2014ねん6がつ30にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2014ねん6がつ27にち閲覧えつらん
  142. ^ "Eric Clapton reveals nerve damage that makes playing guitar ‘hard work’" Archived 21 June 2016 at the Wayback Machine.. Washington Post.
  143. ^ "Eric Clapton "Slowhand at 70 - Live at the Royal Albert Hall"". 2015ねん11月18にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2015ねん11月17にち閲覧えつらん
  144. ^ “Eric Clapton to Celebrate 70th Birthday With Two Shows at Madison Square Garden”. Billboard. (23 April 2016). オリジナルの13 May 2016時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160513101700/http://www.billboard.com/articles/columns/rock/6501911/eric-clapton-70-birthday-madison-square-garden-shows 2016ねん4がつ23にち閲覧えつらん. 
  145. ^ Varga, George (5 August 2016). "Eric Clapton & JJ Cale's 'Live in San Diego' album announced". U-T San Diego. 2016ねん8がつ6にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2016ねん8がつ5にち閲覧えつらん
  146. ^ "Eric Clapton Readies First Christmas Album 'Happy Xmas'". Rolling Stone. 18 August 2018. 2018ねん8がつ18にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2018ねん8がつ18にち閲覧えつらん
  147. ^ Here Are Hundreds More Artists Whose Tapes Were Destroyed in the UMG Fire”. The New York Times (2019ねん6がつ25にち). 2019ねん11月23にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん6がつ28にち閲覧えつらん
  148. ^ “Eric Clapton Looks Back at His Blues Roots”. NPR. https://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=15333469 2020ねん5がつ23にち閲覧えつらん 
  149. ^ Dean, Maury (2003). Rock N Roll Gold Rush: A Singles Un-Cyclopedia. Algora Publishing. p. 239 
  150. ^ "Eric Clapton: Me and Mr. Johnson". AllMusic. 2011ねん8がつ16にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん
  151. ^ Clapton, Eric (1990). "Discovering Robert Johnson". The Complete Recordings (Boxed set booklet). Robert Johnson. New York City: Columbia Records. OCLC 24547399. C2K 46222。
  152. ^ a b Clapton, Eric (2010). Eric Clapton: The Autobiography. p. 19. Random House.
  153. ^ a b c d “10 Things We Learned From 'Eric Clapton: Life in 12 Bars' Doc”. Rolling Stone. オリジナルの2019ねん4がつ14にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20190414212223/https://www.rollingstone.com/music/music-news/10-things-we-learned-from-eric-clapton-life-in-12-bars-doc-127351/ 2019ねん4がつ14にち閲覧えつらん 
  154. ^ Meisel, Perry (2010) The myth of popular culture from Dante to Dylan p.143. Retrieved 30 December 2010
  155. ^ “Eric Clapton: Blues guitar legend”. BBC. (2003ねん12月31にち). オリジナルの2017ねん8がつ9にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170809002346/http://news.bbc.co.uk/1/hi/entertainment/3356959.stm 2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん 
  156. ^ Chipkin, Kenn (March 1998). Real Blues Guitar. Alfred Music Publishing, 1998. p. 58. ISBN 978-0-89898-579-5. https://books.google.com/books?id=wPmuwEWoqyMC&q=Eric+Clapton+important+guitarist&pg=PA58 2011ねん1がつ15にち閲覧えつらん 
  157. ^ Hann, Michael (2011ねん6がつ12にち). “Eric Clapton creates the cult of the guitar hero”. The Guardian. オリジナルの2017ねん3がつ11にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170311172627/https://www.theguardian.com/music/2011/jun/12/eric-clapton 2016ねん12月16にち閲覧えつらん 
  158. ^ “New faces on Sgt Pepper album cover for artist Peter Blake's 80th birthday”. The Guardian. (2016ねん10がつ5にち). オリジナルの2016ねん11月5にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20161105095109/https://www.theguardian.com/artanddesign/2012/apr/02/peter-blake-sgt-pepper-cover-revisited 2016ねん11月5にち閲覧えつらん 
  159. ^ Christgau, Robert (15 April 2020). "Xgau Sez". And It Don't Stop. Substack. 2020ねん4がつ17にち閲覧えつらん
  160. ^ Clapton - The early years”. Legendarytones.com (1966ねん7がつ31にち). 2009ねん12月13にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2010ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  161. ^ "Clapton's Bluesbreakers Guitar Was A 1960 Gibson Les Paul Standard". Xs4all.nl. 2009ねん7がつ16にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2010ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  162. ^ a b c Bob Gulla (2008) Guitar Gods: The 25 Players Who Made Rock History p.45. Retrieved 30 December 2010
  163. ^ Andy Summers”. Guitarplayer.com. 2009ねん5がつ8にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2011ねん10がつ23にち閲覧えつらん
  164. ^ a b c Oxman, J. Craig (December 2011). “Clapton's Fool: History's Greatest Guitar?”. Vintage Guitar (Alan Greenwood). オリジナルの19 April 2015時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150419065246/http://www.vintageguitar.com/12684/claptons-fool/ 2015ねん5がつ8にち閲覧えつらん. 
  165. ^ Dregni, Michael (2014ねん9がつ). “The Dallas Rangemaster”. Vintage Guitar: pp. 46-49 
  166. ^ Drozdowski, Ted (9 January 2009). "How to Get Clapton's Classic 'Woman Tone'". Lifestyle. Gibson.com. 2010ねん12月2にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2010ねん8がつ6にち閲覧えつらん
  167. ^ a b c Eric Clapton Guitar Auction, 24 June 2004: More Information and Images”. Stratcollector.com (2004ねん3がつ18にち). 2009ねん2がつ19にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2010ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  168. ^ Ochoa, Hugh (2004ねん6がつ27にち). “2004 Eric Clapton Crossroads Guitar Auction: the Auction, the Burst Brothers, and Lee Dickson”. Stratcollector.com. 2009ねん2がつ15にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2010ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  169. ^ Wheeler, Tom (2004). The Stratocaster Chronicles: Celebrating 50 Years of the Fender Strat. Hal Leonard Corporation. p. 8. ISBN 978-0-634-05678-9. https://books.google.com/books?id=za1MQ9gITagC&pg=PA8 
  170. ^ Landers, Rick (2004ねん6がつ28にち). “Strat Collector News Desk: An Interview with Eric Clapton Guitar Technician Lee Dickson”. Stratcollector.com. 2009ねん3がつ27にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2010ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  171. ^ "The Eric Clapton FAQ - Guitars". Xs4all.nl. 3 September 2001. 2009ねん8がつ23にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2010ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  172. ^ a b c "Christie's - Eric Clapton Guitars". 14 June 2004. 2004ねん6がつ14にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2016ねん3がつ30にち閲覧えつらん
  173. ^ "Rock Memorabilia Market Booms: Eric Clapton". Rolling Stone. 2009ねん7がつ15にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2010ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  174. ^ Eric Clapton's Blackie - Guitar Center”. Gc.guitarcenter.com. 2007ねん10がつ23にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2010ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  175. ^ John, Allen St (2005). Clapton's guitar: watching Wayne Henderson build the perfect instrument. ISBN 9780743281980. https://books.google.com/books?id=SDJitKagniUC&pg=PA164 
  176. ^ Heritage Music and Entertainment Dallas Signature Auction Catalog #634. Ivy Press Heritage Capital Corporation. (2006). p. 181 
  177. ^ "Bonhams Auction". Bonhams.com. 2014ねん11月19にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん
  178. ^ Ernie Ball - Artists”. Ernie Ball. 2008ねん8がつ5にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2008ねん8がつ21にち閲覧えつらん
  179. ^ Kelly, Will. “Lee Dickson: Three Decades with Clapton”. Vintage Guitar: pp. 44-48 
  180. ^ Rhapsody.com Eric Clapton advert” (2007ねん). 2013ねん8がつ14にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2007ねん3がつ23にち閲覧えつらん
  181. ^ "Toots and the Maytals: Reggae Got Soul" Archived 20 May 2016 at the Wayback Machine.. BBC Four (documentary). Directed by George Scott. UK. 2011. 59 min. Retrieved 15 December 2016.
  182. ^ “That '70s Show. Series 2. Episode "Holy Crap"”. ABC. (2017ねん12月17にち). オリジナルの2015ねん1がつ22にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150122212435/http://iview.abc.net.au/programs/that-70s-show/ZW0132A023S00 2017ねん12月17にち閲覧えつらん 
  183. ^ Eric Clapton plays guitar on a KIA Cee'd. 18 February 2013. 2015ねん10がつ15にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。YouTubeより2015ねん8がつ27にち閲覧えつらん
  184. ^ a b c Jones, Emma (2018ねん1がつ4にち). “Lili Fini Zanuck: Director says 2017 'wasn't a turning point' for Hollywood”. BBC News. オリジナルの2018ねん1がつ5にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180105130621/http://www.bbc.co.uk/news/entertainment-arts-42554177 2018ねん1がつ6にち閲覧えつらん 
  185. ^ Varga, George (2006ねん7がつ1にち). “Eric Clapton: Extra Cream”. JazzTimes. 2018ねん12月25にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2022ねん4がつ10日とおか閲覧えつらん
  186. ^ Hundley, Jessica (2014ねん6がつ15にち). “The singer, whose sexually potent 70s funk blueprint virtually created its own genre, talks about her personal soul revolution”. Dazed. 2018ねん12月25にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2022ねん4がつ10日とおか閲覧えつらん
  187. ^ “Clapton Admits Abusing Wife”. Associated Press. (1999ねん6がつ27にち). https://apnews.com/article/314a3a689dd3e15ebbc8d567dfadb06f 2021ねん7がつ26にち閲覧えつらん 
  188. ^ Schumacher, Michael (1992), p. 263.
  189. ^ Sandford, Christopher (1994). Clapton: Edge of Darkness, Victor Gollancz, p. 210.
  190. ^ Boyd, Pattie; Junor, Penny (2008). Wonderful Tonight: George Harrison, Eric Clapton, and Me. Random House. p. 233. ISBN 978-0307450227 
  191. ^ Details on Del Santo and their son:
  192. ^ エリック・クラプトン - IMDb英語えいご
  193. ^ ClaptonBartlett, Ruth [@ruthclapton] (2013ねん6がつ4にち). "So happy to welcome our beautiful son Isaac Eric Owen Bartlett to the world, he's already so loved by us all. t.co/RxKr7OYsvi". X(きゅうTwitter)より2013ねん6がつ8にち閲覧えつらん
  194. ^ Stubbs, David (9 August 2016). "Eric Clapton & Enoch Powell to Morrissey: Race in British Music Since '76". The Quietus. 2021ねん7がつ3にち閲覧えつらん
  195. ^ “When popstars talk politics: Clapton's shocking rant”. Virgin Media. オリジナルの2009ねん2がつ18にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090218181949/http://microsites.virgin.net/music/pictures/profiles/when-popstars-get-political.php?ssid=6 2020ねん6がつ6にち閲覧えつらん 
  196. ^ Bainbridge, Luke (2007ねん10がつ14にち). “The ten right-wing rockers”. The Guardian. オリジナルの2016ねん8がつ18にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160818152641/https://www.theguardian.com/music/2007/oct/14/popandrock2 2016ねん10がつ7にち閲覧えつらん 
  197. ^ Miles, Barry (2010). London Calling: A Countercultural History of London since 1945. London: Atlantic Books. ISBN 978-1-848875548. https://books.google.com.au/books?id=gYn87V36p5AC&pg=PT238&lpg=PT238&dq=%22Eric+Clapton%22+%22Fucking+Saudis+taking+over+London%22&source=bl&ots=3ddjtFi_Er&sig=ACfU3U2NFe1kPiO0IruNDueQbsAhVBlUaA&hl=en&sa=X&ved=2ahUKEwii_fnxu8XxAhVMyzgGHbJQBok4FBDoAXoECA0QAw#v=onepage&q=%22Eric%20Clapton%22%20%22Fucking%20Saudis%20taking%20over%20London%22&f=false 
  198. ^ Marzoni, Andrew (26 February 2019). "The Fairest Soul Brother in England". The Baffler. 2021ねん7がつ3にち閲覧えつらん
  199. ^ Sykes, Tom (12 January 2018). "Eric Clapton Apologizes for Racist Past: 'I Sabotaged Everything'". The Daily Beast. 2021ねん7がつ3にち閲覧えつらん
  200. ^ Hall, John (2009ねん8がつ19にち). “Dabbling in right wing politics - David Bowie, Brian Ferry and Eric Clapton”. The Independent (London). オリジナルの2009ねん8がつ27にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090827082948/http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/music/features/the-ten-worst-rocknroll-career-moves-1774270.html?action=Popup&ino=3 2010ねん1がつ18にち閲覧えつらん 
  201. ^ Rebel Rock by J. Street. First Edition (1986). Oxford Press Basil Blackwell.pp.74-75.
  202. ^ a b "The night Eric wasn't so wonderful". The Week. 10 March 2008. 2018ねん8がつ10日とおか時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2018ねん8がつ10日とおか閲覧えつらん
  203. ^ Manzoor, Sarfraz (2008ねん4がつ20日はつか). “The year rock found the power to unite”. The Observer. オリジナルの2015ねん2がつ27にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150227033900/http://www.theguardian.com/music/2008/apr/20/popandrock.race 2010ねん1がつ18にち閲覧えつらん 
  204. ^ Charone, Barbara (October 1976). "Eric Clapton: Farther On Up The Road". Reprint for the web, article from Sounds Magazine. 2009ねん10がつ16にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2009ねん10がつ19にち閲覧えつらん
  205. ^ Tyler, Kieron (2007ねん12月1にち). “Eric Clapton is not God”. The Guardian (London). オリジナルの2015ねん7がつ25にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150725013657/http://www.theguardian.com/music/musicblog/2007/dec/01/ericclaptonisnotgod 2015ねん7がつ24にち閲覧えつらん 
  206. ^ Boyd, Brian (2005ねん3がつ25にち). “Eric's old post-colonial blues”. The Irish Times. オリジナルの2015ねん7がつ25にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150725013723/http://www.irishtimes.com/culture/eric-s-old-post-colonial-blues-1.426495 2015ねん7がつ24にち閲覧えつらん 
  207. ^ A sentimental journey”. The Scotsman. 2007ねん11月4にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2010ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  208. ^ “The gospel according to God”. The Guardian (London). (2007ねん10がつ21にち). オリジナルの2008ねん1がつ27にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20080127022130/http://observer.guardian.co.uk/review/story/0,,2195792,00.html 2010ねん5がつ2にち閲覧えつらん 
  209. ^ RustedTelevisione (28 November 2020). "Eric Clapton confronts his racist past - 2018 radio interview". YouTubeより2021ねん7がつ26にち閲覧えつらん
  210. ^ Clapton Headlines Pro-Hunt Concert”. Contact Music (2006ねん4がつ30にち). 2011ねん1がつ11にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2014ねん6がつ9にち閲覧えつらん
  211. ^ "Eric Clapton, Van Morrison to release new single Dec. 4" (英語えいご). United Press International. 2020ねん12月3にち閲覧えつらん
  212. ^ "Northern Ireland health minister criticises Van Morrison anti-lockdown songs". The Guardian (英語えいご). 22 September 2020. 2021ねん5がつ27にち閲覧えつらん
  213. ^ "Eric Clapton Says He Won't Play Venues That Require COVID Vaccines". NPR.org (英語えいご). 2021ねん7がつ22にち閲覧えつらん
  214. ^ "Music Legends Eric Clapton, Van Morrison Team for Anti-Lockdown Single 'Stand and Deliver'". Variety (英語えいご). 27 November 2020. 2021ねん6がつ25にち閲覧えつらん
  215. ^ Ruggieri, Melissa (2021ねん8がつ27にち). “Eric Clapton sings 'enough is enough' on new COVID policy protest song 'This Has Gotta Stop'”. USA today. https://www.usatoday.com/story/entertainment/music/2021/08/27/eric-clapton-releases-covid-policy-protest-song-this-has-gotta-stop/5622559001/ 2021ねん8がつ29にち閲覧えつらん 
  216. ^ Browne, David (27 August 2021). “Eric Clapton Appears Frustrated With Covid-19 Vaccine on New Song 'This Has Gotta Stop'”. Rolling Stone. https://www.rollingstone.com/music/music-news/eric-clapton-new-song-this-has-gotta-stop-1217935/ 2021ねん8がつ29にち閲覧えつらん. 
  217. ^ Eric Clapton Releases Politically-Charged "This Has Gotta Stop"”. Jambands.com (2021ねん8がつ27にち). 2021ねん8がつ29にち閲覧えつらん
  218. ^ Beresford, Philip (June 2009). "Surrey's Richest 50; The Top Ten". Surrey Life Magazine. 2012ねん1がつ30にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2011ねん8がつ27にち閲覧えつらん
  219. ^ a b “Clapton rescues gentlemen's shop”. BBC. (2004ねん8がつ2にち). オリジナルの2008ねん2がつ14にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20080214225813/http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/london/3528296.stm 2012ねん2がつ25にち閲覧えつらん 
  220. ^ Tan, Danny (29 May 2012). "Ferrari SP12 EC - Eric Clapton's one-off is a 458 Italia with styling inspired by the 512 BB". Paul Tan's Automotive News. Petaling Jaya, Malaysia: Driven Communications Sdn Bhd. 2012ねん10がつ8にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2012ねん5がつ29にち閲覧えつらん
  221. ^ "The Many Cars of Eric 'Slowhand' Clapton". This Week in Motors. 2016ねん9がつ2にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2016ねん8がつ20日はつか閲覧えつらん
  222. ^ "Desert Island Discs 1989 - Eric Clapton & Sue Lawley". YouTube Network. 2016ねん8がつ20日はつか閲覧えつらん
  223. ^ "Eric Clapton interview on Ferrari.com". YouTube Network. 2017ねん1がつ1にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2016ねん8がつ20日はつか閲覧えつらん
  224. ^ "Eric Clapton displays one-off Ferrari SP12 EC at Goodwood" Archived 6 December 2017 at the Wayback Machine.. Autocar.co.uk. Retrieved 4 December 2017
  225. ^ "Eric Clapton with his wife Melia - Grid Walk with Martin Brundle F1". YouTube Network. 2016ねん1がつ7にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2016ねん8がつ20日はつか閲覧えつらん
  226. ^ "Vintage Mini Cooper Radford Harrison/Clapton". Equipboard, Inc. 2016ねん8がつ20日はつか時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2016ねん8がつ20日はつか閲覧えつらん Archived from the original.
  227. ^ "Company Check, List of Directors of UK Companies and Organizations: Eric Patrick Clapton, Director, Clouds House". Company Check. 2015ねん9がつ3にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん
  228. ^ "Company Check, List of Directors of UK Companies and Organizations, Eric Patrick Clapton, Director, The Chemical Dependency Centre". Company Check. 2015ねん9がつ3にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2014ねん9がつ22にち閲覧えつらん
  229. ^ "Treatment Alternatives for Addiction". 27 March 2013. 2013ねん3がつ27にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2016ねん3がつ30にち閲覧えつらん
  230. ^ Crossroads Centre Antigua, Official website”. Crossroadsantigua.org. 2011ねん4がつ22にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2013ねん10がつ3にち閲覧えつらん
  231. ^ Crossroads Guitar Festival, Official website”. Crossroadsguitarfestival.com (2013ねん4がつ8にち). 2011ねん7がつ8にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2013ねん10がつ3にち閲覧えつらん
  232. ^ Eric Clapton Will Auction Vintage Guitars & Amps For His Crossroads Centre”. 2010ねん12月13にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2022ねん4がつ10日とおか閲覧えつらん
  233. ^ "Eric Clapton charity auction makes £1.3 million" Archived 31 May 2019 at the Wayback Machine.. The Telegraph. Retrieved 31 May 2019
  234. ^ “Remember the Secret Policeman's Ball?”. BBC. オリジナルの2019ねん8がつ22にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20190822115518/https://www.bbc.co.uk/programmes/b0074qw2 2019ねん8がつ21にち閲覧えつらん 
  235. ^ “TRH attend The Prince's Trust Rock Gala 2010”. Princes Trust. (2018ねん3がつ2にち). https://www.princeofwales.gov.uk/news-and-diary/trh-attend-the-prince’s-trust-rock-gala-2010 [リンク]
  236. ^ "Green and Growing Aid Still Required Helps Darfur Refugees Take Root" Archived 11 October 2017 at the Wayback Machine.. Aid Still Required.org. Retrieved 4 December 2017
  237. ^ a b “Throwback Thursday: The West Brom Match Sponsored By Eric Clapton (September 27, 1978)”. Paste Magazine. (2016ねん10がつ26にち). オリジナルの2016ねん10がつ26にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20161026233457/https://www.pastemagazine.com/articles/2015/10/throwback-thursday-the-west-brom-match-sponsored-b.html 2016ねん10がつ26にち閲覧えつらん 
  238. ^ "West Bromwich Albion's famous supporters". Birmingham Mail. 23 June 2015. 2017ねん5がつ5にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2016ねん10がつ26にち閲覧えつらん
  239. ^ a b c d Top 5 Rock legends who are huge cricket fans sportskeeda 2023ねん10がつ14にち閲覧えつらん
  240. ^ Michael Schumacher, Crossroads: The Life and Music of Eric Clapton. Consulted on 12 August 2007.
  241. ^ Awards Database - The BAFTA site”. BAFTA. 2012ねん1がつ27にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2009ねん10がつ10日とおか閲覧えつらん
  242. ^ “1993 Grammy Winners”. The New York Times. (1993ねん2がつ26にち). https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9F0CE3DB133CF935A15751C0A965958260 2008ねん8がつ20日はつか閲覧えつらん 
  243. ^ “Supplement to The London Gazette: 1995 New Year Honours list”. The Gazette (London). (1994ねん12月30にち). オリジナルの2015ねん10がつ15にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151015223238/https://www.thegazette.co.uk/London/issue/53893/supplement/11 2015ねん9がつ17にち閲覧えつらん 
  244. ^ “Clapton's Hall of Fame hat-trick”. BBC News. (1999ねん12月8にち). オリジナルの2004ねん3がつ26にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20040326073501/http://news.bbc.co.uk/1/hi/entertainment/555396.stm 2010ねん8がつ22にち閲覧えつらん 
  245. ^ “CBEs - full list”. BBC News. (2003ねん12月31にち). オリジナルの2007ねん1がつ24にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20070124230614/http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/3357011.stm 2010ねん8がつ22にち閲覧えつらん 
  246. ^ “Musician Clapton delighted by CBE”. BBC News. (2004ねん11月3にち). オリジナルの2011ねん11月5にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20111105013120/http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/3977571.stm 2010ねん8がつ22にち閲覧えつらん 
  247. ^ "Lifetime Achievement Award". The Recording Academy. National Academy of Recording Arts and Sciences. 2012. 2017ねん7がつ3にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ。2012ねん9がつ27にち閲覧えつらん
  248. ^ France Honors Eric Clapton”. Where's Eric! The Eric Clapton Fan Club Magazine (2017ねん5がつ27にち). 2017ねん5がつ31にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2017ねん6がつ2にち閲覧えつらん
  249. ^ Soundtracks for Goodfellas”. IMDb. 2007ねん2がつ9にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2007ねん2がつ17にち閲覧えつらん
  250. ^ Original Motion Picture Soundtrack Of 'August: Osage County' To Be Released On January 7, 2014”. 2017ねん8がつ8にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2017ねん7がつ22にち閲覧えつらん
  251. ^ "Lethal Weapon". AllMusic. Retrieved 16 December 2017
  252. ^ "Lethal Weapon 3" Archived 22 December 2017 at the Wayback Machine.. AllMusic. Retrieved 16 December 2017
  253. ^ New Eric Clapton Album 'Old Sock' Due in March”. Rolling Stone (2013ねん1がつ29にち). 2013ねん2がつ7にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2013ねん6がつ8にち閲覧えつらん
  254. ^ エリック・クラプトンが海外かいがいアーティストはつ日本武道館にほんぶどうかん100公演こうえん達成たっせいまえ「コンバンワ!アリガトウ」”. サンスポ (2023ねん4がつ15にち). 2023ねん6がつ30にち閲覧えつらん
  255. ^ international newsワーナーミュージック・ジャパン、2000ねん5がつ29にち。(インターネットアーカイブのキャッシュ)
  256. ^ エリック・クラプトン 最新さいしんアルバム100まんまい突破とっぱ中日ちゅうにちスポーツ、1999ねん10がつ15にち。(インターネットアーカイブのキャッシュ)
  257. ^ エリック・クラプトン2014ねん2がつ来日らいにち公演こうえん決定けってい ユニバーサルミュージック公式こうしきサイト 2013ねん10がつ18にちづけ
  258. ^ 聖地せいちへ、ふたたび。5限定げんていの、武道館ぶどうかん公演こうえん決定けってい ワーナーミュージック・ジャパン公式こうしきサイト 2015ねん11月16にちづけ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

On Clapton's career
    • Eric Clapton, Clapton, The Autobiography, 2007 and 2008, Broadway Books, 352 pp. / Arrow, 400 pages / Century, 384 pp.
    • Eric Clapton, Derek Taylor and Peter Blake, 24 Nights, Genesis Publications, 2 volumes, 1992, 198 and 64 pp. Eric Clapton's signed limited edition books, in a Solander box with 2 live CD
    • Ray Coleman, Clapton!: The Authorized Biography, Warner Books, 368 pp, or Futura, 336 pages, 1986; originally publ. as "Survivor: The Authorized Biography", Sidgwick & Jackson, 1985, 300 pp.
    • Christopher Hjort w/ a foreword by John Mayall, Strange brew: Eric Clapton and the British Blues Boom, 1965-1970, Jawbone, 2007, 352 pp.
    • Marc Roberty, Eric Clapton: The Complete Recording Sessions 1963-1992, Blandford or St. Martin's Press, 1993, 192 pp.
    • Marc Roberty, Slowhand: The Life & Music of Eric Clapton, Octopus or Harmony, 1991, 176 pp; upd. ed. Crown, 1993, 192 pp.
    • Marc Roberty, Eric Clapton in His Own Words, Omnibus Press, 1993, 96 pp.
    • Marc Roberty, Eric Clapton: The New Visual Documentary, Omnibus Press, 1990, 128 pp.; rev. ed., 1994, ...pp.; originally publ. as Eric Clapton: A Visual Documentary, 1986, ... pp.
    • Marc Roberty, Eric Clapton: The Man, the Music and the Memorabilia, Paper Tiger-Dragon's World, 1994, 226 pp.
    • Marc Roberty, The Complete Guide to the Music of Eric Clapton, Omnibus Press, 1995, 152 pp. CD format; rev. ed., 2005, 128 pp.
    • Michael Schumacher, Crossroads: The Life and Music of Eric Clapton, Hyperion, 1995, 388 pp.; rev. ed, Time Warner p'backs, 1998, 411 pp.; new ed. titled Eric Clapton, Sphere, 2008, 432 pp.
    • Harry Shapiro, Eric Clapton: Lost in The Blues, Guinness Books or Muze, 1992, 256 pp.; rev. ed. Da Capo press, 1193, 225 pp.; originally publ. as Slowhand: The Story of Eric Clapton, Proteus Books, 1985, 160 pp.
    • Dave Thompson, Cream: The World's First Supergroup, Virgin Books, 2005, 256 pp.; rev., upd. & illustr. ed. titled Cream: How Eric Clapton Took the World By Storm, 2006, 320 pp.
    • Steve Turner, Conversations with Eric Clapton, London: Abacus, 1976, 116 pp.
About Clapton's playing and sound
    • Brewster, David M. (2003). “Eric Clapton”. Introduction to Guitar Tone & Effects. Hal Leonard Corporation. p. 54. ISBN 978-0-634-06046-5 
    • Newquist, H. P.; Maloof, Richard (2003). “Eric Clapton”. The Blues-Rock Masters. Backbeat Books. p. 27. ISBN 978-0-87930-735-6 
    • Prown, Pete; Sharken, Lisa (2003). “Eric Clapton”. Gear Secrets of the Guitar Legends. Backbeat Books. p. 6. ISBN 9780879307516 
日本語にほんご文献ぶんけん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]