[[File:Cream Clapton Bruce Baker 1960s.jpg|thumb|クリーム - 左から、ベイカー、ブルース、クラプトン(1966年)]]
[[File:Cream Clapton Bruce Baker 1960s.jpg|thumb|クリーム - 左から、ベイカー、ブルース、クラプトン(1966年)]]
クラプトンは1966年7月にブルースブレイカーズを去り([[ピーター・グリーン (ミュージシャン)|ピーター・グリーン]]が代わりに加入した。)、ドラマーの[[ジンジャー・ベイカー]]に誘われて、ベースの[[ジャック・ブルース]](ブルースはかつてブルースブレイカーズ、[[グラハム・ボンド]]・オーガニゼーション、[[マンフレッド・マン]]に所属していた。<ref>{{Pop Chronicles|53}}</ref>)と共にクリームを結成した。クリームは初期の[[スーパーグループ]]の一つであった。クラプトンはクリームを結成する以前は、アメリカでは余り知られていなかった。彼は「フォー・ユア・ラヴ」がアメリカのトップ10入りする前にヤードバーズを去り、アメリカではショーに出演したことが無かった<ref>{{cite web2|last=Unterberger |first=Richie |url={{AllMusic|class=artist|id=p3983|pure_url=yes}} |title=Cream |publisher=AllMusic |access-date=22 August 2010}}</ref>。クリーム在籍中、クラプトンはシンガー、ソングライター、ギタリストとして成長し始めたが、バンドのリードヴォーカルはブルースが大部分を担当し、作詞家の[[ピート・ブラウン]]と一緒に曲の大半を書いた<ref name="unuhsh"/>。クリームの最初のギグは1966年7月29日にマンチェスターの[[:w:en:Twisted Wheel Club|ツイステッド・ホイール・クラブ]]で行われ非公式な物で、正式なデビューはその二日後、[[ウィンザー (イングランド)|ウィンザー]]の[[:w:en:National Jazz and Blues Festival|ナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティバル]]であった。クリームは大音量のブルース・ジャムと、ソロのライブステージでその永続的な伝説を確立した。
クラプトンは1966年7月にブルースブレイカーズを去り([[ピーター・グリーン (ミュージシャン)|ピーター・グリーン]]が代わりに加入した。)、ドラマーの[[ジンジャー・ベイカー]]に誘われて、ベースの[[ジャック・ブルース]](ブルースはかつてブルースブレイカーズ、[[グレアム・ボンド]]・オーガニゼーション、[[マンフレッド・マン]]に所属していた。<ref>{{Pop Chronicles|53}}</ref>)と共にクリームを結成した。クリームは初期の[[スーパーグループ]]の一つであった。クラプトンはクリームを結成する以前は、アメリカでは余り知られていなかった。彼は「フォー・ユア・ラヴ」がアメリカのトップ10入りする前にヤードバーズを去り、アメリカではショーに出演したことが無かった<ref>{{cite web2|last=Unterberger |first=Richie |url={{AllMusic|class=artist|id=p3983|pure_url=yes}} |title=Cream |publisher=AllMusic |access-date=22 August 2010}}</ref>。クリーム在籍中、クラプトンはシンガー、ソングライター、ギタリストとして成長し始めたが、バンドのリードヴォーカルはブルースが大部分を担当し、作詞家の[[ピート・ブラウン]]と一緒に曲の大半を書いた<ref name="unuhsh"/>。クリームの最初のギグは1966年7月29日にマンチェスターの[[:w:en:Twisted Wheel Club|ツイステッド・ホイール・クラブ]]で行われ非公式な物で、正式なデビューはその二日後、[[ウィンザー (イングランド)|ウィンザー]]の[[:w:en:National Jazz and Blues Festival|ナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティバル]]であった。クリームは大音量のブルース・ジャムと、ソロのライブステージでその永続的な伝説を確立した。
1967年の初めまでに、イギリスで出現したブルースロックのファンは、クラプトンをイギリスのトップギタリストとして描写し始めた。しかしクラプトンは、[[アシッドロック]]を吹き込んだギタリストである[[ジミ・ヘンドリックス]]の登場で、彼がライバルであることに気がついた。ヘンドリックスは、[[ハウリング|フィードバック奏法]]と[[エフェクター|エフェクトペダル]]を使用して新しいサウンドを作り出した<ref name="Jam"/>。ヘンドリックスは1966年10月1日に[[ウェストミンスター大学|セントラル・ロンドン・ポリテクニック]]で行われたクリームのライブに出演し、その間彼は「[[キリング・フロアー]]」のダブルタイムバージョンを演奏した<ref name="Jam">{{cite news|title=Hendrix jams with Cream|url=https://www.bbc.co.uk/music/sevenages/events/blues-based-rock/hendrix-jams-with-cream/|publisher=BBC|date=24 April 2016|access-date=13 February 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20171220045148/http://www.bbc.co.uk/music/sevenages/events/blues-based-rock/hendrix-jams-with-cream/|archive-date=20 December 2017|url-status=live}}</ref>。クラプトン、[[ピート・タウンゼント]]、[[ローリング・ストーンズ]]や[[ビートルズ]]のメンバーを含むイギリスのトップスター達は、ヘンドリックスの初期のクラブパフォーマンスに熱心に参加した。ヘンドリックスの到着は、クラプトンのキャリアの次の段階に即座に大きな影響を及ぼした<ref>Shadwick, Keith (2003). Jimi Hendrix: Musician. P. 84. Backbeat Books</ref>。
1967年の初めまでに、イギリスで出現したブルースロックのファンは、クラプトンをイギリスのトップギタリストとして描写し始めた。しかしクラプトンは、[[アシッドロック]]を吹き込んだギタリストである[[ジミ・ヘンドリックス]]の登場で、彼がライバルであることに気がついた。ヘンドリックスは、[[ハウリング|フィードバック奏法]]と[[エフェクター|エフェクトペダル]]を使用して新しいサウンドを作り出した<ref name="Jam"/>。ヘンドリックスは1966年10月1日に[[ウェストミンスター大学|セントラル・ロンドン・ポリテクニック]]で行われたクリームのライブに出演し、その間彼は「[[キリング・フロアー]]」のダブルタイムバージョンを演奏した<ref name="Jam">{{cite news|title=Hendrix jams with Cream|url=https://www.bbc.co.uk/music/sevenages/events/blues-based-rock/hendrix-jams-with-cream/|publisher=BBC|date=24 April 2016|access-date=13 February 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20171220045148/http://www.bbc.co.uk/music/sevenages/events/blues-based-rock/hendrix-jams-with-cream/|archive-date=20 December 2017|url-status=live}}</ref>。クラプトン、[[ピート・タウンゼント]]、[[ローリング・ストーンズ]]や[[ビートルズ]]のメンバーを含むイギリスのトップスター達は、ヘンドリックスの初期のクラブパフォーマンスに熱心に参加した。ヘンドリックスの到着は、クラプトンのキャリアの次の段階に即座に大きな影響を及ぼした<ref>Shadwick, Keith (2003). Jimi Hendrix: Musician. P. 84. Backbeat Books</ref>。
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彼らはもともと「エリック・クラプトン・アンド・フレンズ」と呼ばれていた。最終的な名前は、バンドの暫定的な名前である「デル・アンド・ザ・ダイナモス」が誤解され「デレク・アンド・ザ・ドミノス」となり、気まぐれでそれに決定した<ref>{{cite web2|url=http://www.artistfacts.com/detail.php?id=100|work=Artistfacts|title=Derek And The Dominoes|access-date=17 February 2007|archive-url=https://web.archive.org/web/20070202112652/http://www.artistfacts.com/detail.php?id=100|archive-date=2 February 2007|url-status=live}}</ref>。クラプトンの伝記によると、[[:w:en:Ashton, Gardner and Dyke|アシュトン、ガードナー・アンド・ダイク]]の[[トニー・アシュトン]]はクラプトンにバンドを「デル・アンド・ドミノス」と呼ぶように言ったとする。当時「デル」はエリック・クラプトンのニックネームだった。デルとエリックは結合され、最終的な名前は「デレク・アンド・ザ・ドミノス」になった<ref name = "nxfddy">Schumacher, Michael (1992)</ref>。
彼らはもともと「エリック・クラプトン・アンド・フレンズ」と呼ばれていた。最終的な名前は、バンドの暫定的な名前である「デル・アンド・ザ・ダイナモス」が誤解され「デレク・アンド・ザ・ドミノス」となり、気まぐれでそれに決定した<ref>{{cite web2|url=http://www.artistfacts.com/detail.php?id=100|work=Artistfacts|title=Derek And The Dominoes|access-date=17 February 2007|archive-url=https://web.archive.org/web/20070202112652/http://www.artistfacts.com/detail.php?id=100|archive-date=2 February 2007|url-status=live}}</ref>。クラプトンの伝記によると、[[:w:en:Ashton, Gardner and Dyke|アシュトン、ガードナー・アンド・ダイク]]の[[トニー・アシュトン]]はクラプトンにバンドを「デル・アンド・ドミノス」と呼ぶように言ったとする。当時「デル」はエリック・クラプトンのニックネームだった。デルとエリックは結合され、最終的な名前は「デレク・アンド・ザ・ドミノス」になった<ref name = "nxfddy">Schumacher, Michael (1992)</ref>。
アルバムにはヒット曲「[[いとしのレイラ]]」が含まれる。これは12世紀の[[ペルシア文学]]の詩人、[[ニザーミー|ニザーミー・ギャンジェヴィー]]による『[[ライラとマジュヌーン]]』にインスパイアされたものである。この本は[[イスラム教]]に改宗した友人の[[イアン・ダラス]]がクラプトンに渡した。物語は、父親に結婚を禁じられた月の王女と、彼女を絶望的に恋する若者マジュヌーンが気が狂ってしまうと言うもので、クラプトンに深い感銘を与えた<ref>{{Cite book|first=William |last=McKeen |title=Rock and roll is here to stay: an anthology |publisher=W. W. Norton & Company |year=2000 |page=127 |quote=Clapton poured all he had into Layla's title track, which was inspired by the Persian love story he had read, the story of Layla and Majnun.}}</ref><ref>{{Cite book |first=Gene |last=Santoro |title=Dancing in Your Head: Jazz, Blues, Rock, and Beyond |publisher=Oxford University Press US |year=1995 |page=62 |quote=At the time, he started to read ''The story of Layla and Majnun'' by the Persian poet [[ニザーミー|Nizami Ganjavi]]}}</ref>。「レイラ」の2つのパートは別々のセッションで録音された。最初にオープニングのギターセクションが録音され、数週間後に加えられた2番目のセクションでは、ドラマーのジム・ゴードンがピアノパートのメロディーを演奏した。この部分はゴードンの作曲となっているが、ボビー・ウィットロックは[[リタ・クーリッジ]]がそのメロディーを作曲したと語っている<ref name="nxfddy"/>。
アルバムにはヒット曲「[[いとしのレイラ]]」が含まれる。これは12世紀の[[ペルシア文学]]の詩人、[[ニザーミー|ニザーミー・ギャンジェヴィー]]による『[[ライラとマジュヌーン]]』にインスパイアされたものである。この本は[[イスラム教]]に改宗した友人の[[イアン・ダラス]]がクラプトンに渡した。物語は、父親に結婚を禁じられた月の王女と、彼女を絶望的に恋する若者マジュヌーンが気が狂ってしまうというもので、クラプトンに深い感銘を与えた<ref>{{Cite book|first=William |last=McKeen |title=Rock and roll is here to stay: an anthology |publisher=W. W. Norton & Company |year=2000 |page=127 |quote=Clapton poured all he had into Layla's title track, which was inspired by the Persian love story he had read, the story of Layla and Majnun.}}</ref><ref>{{Cite book |first=Gene |last=Santoro |title=Dancing in Your Head: Jazz, Blues, Rock, and Beyond |publisher=Oxford University Press US |year=1995 |page=62 |quote=At the time, he started to read ''The story of Layla and Majnun'' by the Persian poet [[ニザーミー|Nizami Ganjavi]]}}</ref>。「レイラ」の2つのパートは別々のセッションで録音された。最初にオープニングのギターセクションが録音され、数週間後に加えられた2番目のセクションでは、ドラマーのジム・ゴードンがピアノパートのメロディーを演奏した。この部分はゴードンの作曲となっているが、ボビー・ウィットロックは[[リタ・クーリッジ]]がそのメロディーを作曲したと語っている<ref name="nxfddy"/>。
アルバム『レイラ』は、オールマン・ブラザーズ・バンドのギタリストである[[デュアン・オールマン]]の予期せぬ参加のおかげで、実際には5人編成で録音された。セッションの数日後、オールマンズをプロデュースしていたダウドは、クラプトンをマイアミでのオールマン・ブラザーズの野外コンサートに招待した。2人のギタリストは最初にステージで出会い、次にスタジオで一晩中演奏し、友人となった。デュアンは最初に「[[テル・ザ・トゥルース]]」と「[[だれも知らない]]」でスライドギターを演奏した。5ピースのドミノスは4日間で、「[[ハイウェイへの関門]]」、「[[愛の経験]]」(フレディ・キングなどによって普及したブルースの標準)、「[[恋は悲しきもの]]」を録音した。9月にデュアンは自分のバンドとのギグのためにセッションを一時的に離れ、4ピースのドミノスは「アイ・ルックト・アウェイ」、「[[ベル・ボトム・ブルース]]」、「キープ・オン・グロウイング」を録音した。デュアンはレコーディングに戻り、「アイ・アム・ユアーズ」、「エニイデイ」、「イッツ・トゥー・レイト」を録音した。9月9日、彼らは[[ジミ・ヘンドリックス]]のカバー「[[リトル・ウィング]]」とタイトルトラックをレコーディングした。翌日、最終曲「イッツ・トゥー・レイト」が録音された<ref>"[[The Layla Sessions]]" CD liner notes.</ref>。
アルバム『レイラ』は、オールマン・ブラザーズ・バンドのギタリストである[[デュアン・オールマン]]の予期せぬ参加のおかげで、実際には5人編成で録音された。セッションの数日後、オールマンズをプロデュースしていたダウドは、クラプトンをマイアミでのオールマン・ブラザーズの野外コンサートに招待した。2人のギタリストは最初にステージで出会い、次にスタジオで一晩中演奏し、友人となった。デュアンは最初に「[[テル・ザ・トゥルース]]」と「[[だれも知らない]]」でスライドギターを演奏した。5ピースのドミノスは4日間で、「[[ハイウェイへの関門]]」、「[[愛の経験]]」(フレディ・キングなどによって普及したブルースの標準)、「[[恋は悲しきもの]]」を録音した。9月にデュアンは自分のバンドとのギグのためにセッションを一時的に離れ、4ピースのドミノスは「アイ・ルックト・アウェイ」、「[[ベル・ボトム・ブルース]]」、「キープ・オン・グロウイング」を録音した。デュアンはレコーディングに戻り、「アイ・アム・ユアーズ」、「エニイデイ」、「イッツ・トゥー・レイト」を録音した。9月9日、彼らは[[ジミ・ヘンドリックス]]のカバー「[[リトル・ウィング]]」とタイトルトラックをレコーディングした。翌日、最終曲「イッツ・トゥー・レイト」が録音された<ref>"[[The Layla Sessions]]" CD liner notes.</ref>。
ドミノスは2枚目のスタジオアルバムのレコーディングを行っていたが、エゴの衝突が起こりクラプトンが出て行ったことでグループは解散。オールマンは1971年10月29日のオートバイ事故で死去した。クラプトンは後に自伝で、フロリダでのレイラセッション中に彼とオールマンは切っても切れない関係になったと書いている。彼はオールマンのことを「かつてなかったが、僕がしたかった音楽の兄弟」として語っている<ref>Clapton, ''The Autobiography'', 128.</ref>。レイドルは1979年の夏までクラプトンのベーシストであり続けたが、1980年5月にアルコールと麻薬の影響で死去した。クラプトンとウィットロックは2000年まで共演することは無かった。2人は2000年に[[BBC]]の[[ジュールズ・ホランド]]の番組「''[[:w:en:Later... with Jools Holland|Later... with Jools Holland]]''」で再共演した。ドミノスのもう一つの悲劇はジム・ゴードンの運命である。彼は1983年に母親をハンマーで殺害。犯行当時、彼は既に[[統合失調症]]に罹患したいたものの診断がついておらず、逮捕後に初めて正しく診断が下された。1984年7月10日、彼は懲役16年の判決を受けて収監された後、カリフォルニア医療施設に移され、2023年3月に生涯を終えた<ref name="unuhsh"/>。
ドミノスは2枚目のスタジオアルバムのレコーディングを行っていたが、エゴの衝突が起こりクラプトンが出て行ったことでグループは解散。オールマンは1971年10月29日のオートバイ事故で死去した。クラプトンは後に自伝で、フロリダでのレイラセッション中に彼とオールマンは切っても切れない関係になったと書いている。彼はオールマンのことを「かつてなかったが、僕がしたかった音楽の兄弟」として語っている<ref>Clapton, ''The Autobiography'', 128.</ref>。レイドルは1979年の夏までクラプトンのベーシストであり続けたが、1980年5月にアルコールと麻薬の影響で死去した。クラプトンとウィットロックは2000年まで共演することは無かった。2人は2000年に[[BBC]]の[[ジュールズ・ホランド]]の番組「''[[:w:en:Later... with Jools Holland|Later... with Jools Holland]]''」で再共演した。ドミノスのもう一つの悲劇はジム・ゴードンの運命である。彼は1983年に母親をハンマーで殺害。犯行当時、彼は既に[[統合失調症]]に罹患していたものの診断がついておらず、逮捕後に初めて正しく診断が下された。1984年7月10日、彼は懲役16年の判決を受けて収監された後、カリフォルニア医療施設に移され、2023年3月に生涯を終えた<ref name="unuhsh"/>。
===個人的問題と初期のソロでの成功===
===個人的問題と初期のソロでの成功===
1970年代のクラプトンの成功は、ロマンチックな憧れとドラッグやアルコール中毒に悩まされ、もがき苦しんだ個人的生活とは全く対照的であった<ref>Marc Roberty, Chris Charlesworth (1995) [https://books.google.com/books?id=qpvlUrpH_xoC&pg=PA67&dq=eric+clapton+DRUGS+1970s&ct=result&resnum=4#v=onepage The complete guide to the music of Eric Clapton] p.67. Omnibus Press, 1995</ref>。彼はまだボイドに夢中でハリスンとの友情に引き裂かれていたが、ドミノスの解散後はサリーの自宅に閉じこもりツアーやレコーディングから距離を置いた。彼は[[薬物乱用|ヘロイン中毒]]の療養に入り、活動を中断した。1971年8月、彼はニューヨークで開催されたハリスンの[[バングラデシュ・コンサート]]に出演。ステージ上で気絶したものの復帰し、なんとかパフォーマンスを終えることができた<ref name="unuhsh"/>。
1970年代のクラプトンの成功は、ロマンチックな憧れとドラッグやアルコール中毒に悩まされ、もがき苦しんだ個人的生活とは全く対照的であった<ref>Marc Roberty, Chris Charlesworth (1995) [https://books.google.com/books?id=qpvlUrpH_xoC&pg=PA67&dq=eric+clapton+DRUGS+1970s&ct=result&resnum=4#v=onepage The complete guide to the music of Eric Clapton] p.67. Omnibus Press, 1995</ref>。彼はまだボイドに夢中でハリスンとの友情に引き裂かれていたが、ドミノスの解散後はサリーの自宅に閉じこもりツアーやレコーディングから距離を置いた。彼は[[薬物乱用|ヘロイン中毒]]の療養に入り、活動を中断した。
1972年、[[ザ・フー]]の[[ピート・タウンゼント]]が彼の復帰を支援しようと呼びかけ、ウィンウッド、グレッチ、[[ロン・ウッド]]、ジム・キャパルディ([[トラフィック (バンド)|トラフィック]])、ジミー・カーステイン([[ジョー・コッカー]])、[[リーバップ・クワク・バー]](トラフィック)が集まった<ref>{{Cite book|洋書 |title=Who I Am |year=2012 |publisher=Harper |pages=243-245 |last=Townshend |first=Pete |isbn=978-0-00-747916-0 |location=London}}</ref>。1973年1月13日の午後5時半と8時半の2回、彼はロンドンの[[レインボー・シアター]]で開催された『[[レインボー・コンサート]]』にタウンゼントらをバックに出演した<ref>{{Cite book|洋書 |title=Anyway Anyhow Anywhere: The Complete Chronicle of The Who 1958-1978 |year=2007 |publisher=Virgin Books |pages=315-316, 321-322 |last=Neill |first=Andy |isbn=978-0-7535-1217-3 |location=London |last2=Kent |first2=Matt}}</ref>。
1974年5月、クラプトンは[[ケン・ラッセル]]監督の映画「[[トミー (映画)|トミー]]」の撮影に参加して[[サニー・ボーイ・ウィリアムソンII]]の「Eyesight to the Blind」を演奏する「The Preacher」(伝道師)を演じた{{Sfb|Neill|Kent|2007|pp=351}}。映画は1975年3月に公開されて、彼は人気を取り戻した。彼はいくつかのショットで明らかに偽のひげを生やしており、これは初期のテイクで本当のひげを剃って撮影に参加したが、監督がそのテイクを削除することを決定したため、付けひげを使って撮り直しに参加したことによる<ref name="nxfddy" />。
[[File:Clapton and Elliman.jpg|thumb|[[イヴォンヌ・エリマン]]とクラプトン、1974年]]
[[File:Clapton and Elliman.jpg|thumb|[[イヴォンヌ・エリマン]]とクラプトン、1974年]]
クラプトンは1974年にボイドと同居を始め、もはやヘロインは使用していなかったが代わりに飲酒量が増えていった。彼は控えめなツアーバンドを結成し、メンバーはレイドル、マイアミのギタリスト[[ジョージ・テリー]]、キーボーディストのディック・シムズ(2011年死去)<ref>{{cite web |url=http://www.gibson.com/en-us/Lifestyle/News/dick-sims-death-1209-2011/ |title=Longtime Eric Clapton Keyboardist Dick Sims Dies |publisher=Gibson.com |date=24 June 2008 |access-date=30 December 2011 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20120113052349/http://www.gibson.com/en%2Dus/Lifestyle/News/dick%2Dsims%2Ddeath%2D1209%2D2011/ |archive-date=13 January 2012 }}</ref>、ドラマーの[[ジェイミー・オールデイカー]]、ヴォーカリストの[[イヴォンヌ・エリマン]]とマーシー・レヴィ([[マルセラ・デトロイト]]としても知られる)が含まれた。このバンドでクラプトンは『[[461 オーシャン・ブールヴァード]]』(1974)を録音。これはよりコンパクトな曲とより少ないギターソロに重点を置いたアルバムであった。「[[アイ・ショット・ザ・シェリフ]]」のカバーバージョンはクラプトンの最初のナンバーワンヒットであり、[[レゲエ]]と[[ボブ・マーリー]]の音楽をより多くの聴衆に届けるのに貢献した。1975年のアルバム『[[安息の地を求めて]]』もこの傾向が続いている。アルバムのオリジナルタイトルである『''The World's Greatest Guitar Player'' 』は、その皮肉な意図が誤解されると感じられたため、プレス前に変更された。バンドはワールドツアーを行い、その様子は『[[エリック・クラプトン・ライヴ]]』となってリリースされた<ref>{{cite book|first1=Pete|last1=Prown|first2=Harvey P.|last2=Newquist|title=Legends of Rock Guitar: The Essential Reference of Rock's Greatest Guitarists|url=https://books.google.com/books?id=60Jde3l7WNwC&pg=PA70|year=1997|publisher=Hal Leonard Corporation|isbn=978-0-7935-4042-6|page=70}}</ref>。クラプトンはその後もアルバムをリリースし続け、定期的にツアーを行った。この期間のハイライトとして、『[[ノー・リーズン・トゥ・クライ]]』([[ボブ・ディラン]]と[[ザ・バンド]]とのコラボレーション)、『[[スローハンド (アルバム)|スローハンド]]』(「[[ワンダフル・トゥナイト]]」と2度目の[[J・J・ケイル]]のカバー「[[コカイン (曲)|コカイン]]」を含む)が挙げられる。1976年、彼は[[マーティン・スコセッシ]]のドキュメンタリー「[[ラスト・ワルツ]]」で撮影された[[ザ・バンド]]の解散ライブで、一連の著名なゲストの1人として出演した。1977年頃はロニー・レインと共に過ごす事が多くなり、電車を貸し切り気ままなヨーロッパツアーも行っている。ワンダフル・トゥナイトはロニー・レインの家の庭で焚き火をしながらロニーの前で初めて歌われており、ロニーとの出会いはその後のクラプトン の人生観、音楽に影響を与えた<ref>{{cite web | last = Christgau | first = Robert | author-link = Robert Christgau | title = Robert Christgau Consumer Guide: The Band | url = http://www.robertchristgau.com/get_artist.php?name=The+Band | access-date = 7 January 2007 | archive-url = https://web.archive.org/web/20071001000639/http://www.robertchristgau.com/get_artist.php?name=The+Band | archive-date = 1 October 2007 | url-status = dead }}</ref>。
1974年、彼はボイドと同居し始めた。もはやヘロインは使用していなかったが代わりに飲酒量が増えていった。彼はレイドル、マイアミのギタリスト[[ジョージ・テリー]]、キーボーディストのディック・シムズ(2011年死去)<ref>{{cite web |url=http://www.gibson.com/en-us/Lifestyle/News/dick-sims-death-1209-2011/ |title=Longtime Eric Clapton Keyboardist Dick Sims Dies |publisher=Gibson.com |date=24 June 2008 |access-date=30 December 2011 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20120113052349/http://www.gibson.com/en%2Dus/Lifestyle/News/dick%2Dsims%2Ddeath%2D1209%2D2011/ |archive-date=13 January 2012 }}</ref>、ドラマーの[[ジェイミー・オールデイカー]]、ヴォーカリストの[[イヴォンヌ・エリマン]]とマーシー・レヴィ([[マルセラ・デトロイト]]としても知られる)を含む控えめなツアーバンドを結成し、『[[461 オーシャン・ブールヴァード]]』を録音。このアルバムはよりコンパクトな曲とより少ないギターソロに重点を置いた。[[ボブ・マーリー]]の「[[アイ・ショット・ザ・シェリフ]]」のカバーは彼にとって初のナンバーワンヒットになり、[[レゲエ]]とマーリーの音楽がより多くの聴き手を得るのに貢献した。
同年5月、監督[[ケン・ラッセル]]の映画「[[トミー (映画)|トミー]]」の撮影に参加して[[サニー・ボーイ・ウィリアムソンII]]の「[[:en:Eyesight_to_the_Blind|Eyesight to the Blind]]」を演奏する「伝道師」(The Preacher)を演じた<ref>{{Cite book|洋書 |title=Anyway Anyhow Anywhere: The Complete Chronicle of The Who 1958-1978 |year=2007 |publisher=Virgin Books |last=Neill |first=Andy |isbn=978-0-7535-1217-3 |location=London |last2=Kent |first2=Matt |page=351}}</ref>。映画は翌1975年3月に公開されて、彼は人気を取り戻した。彼は幾つかのショットで明らかに付髭を使用している。これは最初に髭を剃って撮影に臨んだが、ラッセルがそのテイクを削除して撮り直すことに決めたからだった<ref name="nxfddy" />。
1975年に発表したアルバム『[[安息の地を求めて]]』にも前作と同じ傾向が続いた。アルバムのオリジナルタイトルである『''The World's Greatest Guitar Player'' 』は、その皮肉な意図が誤解されると感じられたため、プレス前に変更された。バンドはワールドツアーを行い、その様子は『[[エリック・クラプトン・ライヴ]]』となってリリースされた<ref>{{cite book|first1=Pete|last1=Prown|first2=Harvey P.|last2=Newquist|title=Legends of Rock Guitar: The Essential Reference of Rock's Greatest Guitarists|url=https://books.google.com/books?id=60Jde3l7WNwC&pg=PA70|year=1997|publisher=Hal Leonard Corporation|isbn=978-0-7935-4042-6|page=70}}</ref>。クラプトンはその後もアルバムをリリースし続け、定期的にツアーを行った。この期間のハイライトとして、『[[ノー・リーズン・トゥ・クライ]]』([[ボブ・ディラン]]と[[ザ・バンド]]とのコラボレーション)、『[[スローハンド (アルバム)|スローハンド]]』(「[[ワンダフル・トゥナイト]]」と2度目の[[J・J・ケイル]]のカバー「[[コカイン (曲)|コカイン]]」を含む)が挙げられる。1976年、彼は[[マーティン・スコセッシ]]のドキュメンタリー「[[ラスト・ワルツ]]」で撮影された[[ザ・バンド]]の解散ライブで、一連の著名なゲストの1人として出演した。1977年頃はロニー・レインと共に過ごす事が多くなり、電車を貸し切り気ままなヨーロッパツアーも行っている。ワンダフル・トゥナイトはロニー・レインの家の庭で焚き火をしながらロニーの前で初めて歌われており、ロニーとの出会いはその後のクラプトン の人生観、音楽に影響を与えた<ref>{{cite web | last = Christgau | first = Robert | author-link = Robert Christgau | title = Robert Christgau Consumer Guide: The Band | url = http://www.robertchristgau.com/get_artist.php?name=The+Band | access-date = 7 January 2007 | archive-url = https://web.archive.org/web/20071001000639/http://www.robertchristgau.com/get_artist.php?name=The+Band | archive-date = 1 October 2007 | url-status = dead }}</ref>。
退院後、ヘーゼルデンの医師はクラプトンがアルコール依存症やストレスの引き金となるような活動に参加しないように勧めた。しかしクラプトンは1987年11月にヘーゼルデン・トリートメントセンターに戻ることとなる。最初のリハビリから退院してから数か月後、クラプトンは医師の指示に反して次のアルバムの制作を始めた。[[トム・ダウド]]と協力して、彼はこれまで「最も強制的な」アルバム『[[マネー・アンド・シガレッツ]]』を制作。クラプトンはアルコール依存症からの最初のリハビリの後、「それ(金とタバコ)が自分が去ったのを見たすべてだった」からこのアルバム名を選んだ<ref>{{cite book|title=Clapton: The Autobiography|url=https://archive.org/details/claptonautobiogr00clap|url-access=registration|first=Eric|last=Clapton|year=2007|isbn=978-0-385-51851-2}}</ref>。
退院後、ヘーゼルデンの医師はクラプトンがアルコール依存症やストレスの引き金となるような活動に参加しないように勧めた。しかしクラプトンは1987年11月にヘーゼルデン・トリートメントセンターに戻ることとなる。最初のリハビリから退院してから数か月後、クラプトンは医師の指示に反して次のアルバムの制作を始めた。[[トム・ダウド]]と協力して、彼はこれまで「最も強制的な」アルバム『[[マネー・アンド・シガレッツ]]』を制作。クラプトンはアルコール依存症からの最初のリハビリの後、「それ(金とタバコ)が自分が去ったのを見たすべてだった」からこのアルバム名を選んだ<ref>{{cite book|title=Clapton: The Autobiography|url=https://archive.org/details/claptonautobiogr00clap|url-access=registration|first=Eric|last=Clapton|year=2007|isbn=978-0-385-51851-2}}</ref>。
1984年にクラプトンは[[ピンク・フロイド]]の元メンバーである[[ロジャー・ウォーターズ]]のソロアルバム『[[ヒッチハイクの賛否両論]]』に出演し、サポートツアーに参加。それ以来、ウォーターズとクラプトンは密接な関係を築いてきた。2005年に彼らは津波救援基金のためも共演し、2006年にも[[:w:en:Countryside Alliance|カントリーサイド・アライアンス]]の支援を受けて、[[ハイクレア・カースル]]で「[[あなたがここにいてほしい (ピンク・フロイドの曲)|あなたがここにいてほしい]]」と「[[コンフォタブリー・ナム]]」の2曲を演奏している。現在は定期的にチャリティーパフォーンスを行っているクラプトンだが、1985年7月13日に[[フィラデルフィア]]の[[ジョン・F・ケネディ・スタジアム]]で開催された[[ライヴエイド]]コンサートで、[[フィル・コリンズ]]、[[ティム・レンウィック]]、[[クリス・ステイントン]]、[[ジェイミー・オールデイカー]]、[[マーシー・レビー]]、[[ショーン・マーフィー]]、[[ドナルド・ダック・ダン]]らと共演した<ref>{{cite book|first1=Pete|last1=Prown|first2=Harvey P.|last2=Newquist|title=Legends of Rock Guitar: The Essential Reference of Rock's Greatest Guitarists|url=https://books.google.com/books?id=60Jde3l7WNwC&pg=PA69|year=1997|publisher=Hal Leonard Corporation|isbn=978-0-7935-4042-6|page=69}}</ref>。視聴時間のピークに近いスロットを提供されたとき、彼は明らかに照れていたようだった。彼は1980年代もコンスタントにアルバムを発表し、1985年には「フォーエヴァー・マン」と「シーズ・ウェイティング」の2つのヒット曲を含んだ『[[ビハインド・ザ・サン]]』をフィル・コリンズと共に制作し、1986年の『[[オーガスト (エリック・クラプトンのアルバム)|オーガスト]]』でもコリンズを起用した<ref>{{cite web | url = https://www.rollingstone.com/music/albumreviews/august-19870212 | title = Eric Clapton August | access-date = 15 August 2017 | last = DeCurtis | first = Anthony | date = 12 February 1987 | work = [[Rolling Stone]] | archive-url = https://web.archive.org/web/20170829190802/http://www.rollingstone.com/music/albumreviews/august-19870212 | archive-date = 29 August 2017 | url-status = live }}</ref>。
1984年にクラプトンは[[ピンク・フロイド]]の元メンバーである[[ロジャー・ウォーターズ]]のソロアルバム『[[ヒッチハイクの賛否両論]]』に出演し、サポートツアーに参加。それ以来、ウォーターズとクラプトンは密接な関係を築いてきた。2005年に彼らは津波救援基金のためも共演し、2006年にも[[:w:en:Countryside Alliance|カントリーサイド・アライアンス]]の支援を受けて、[[ハイクレア・カースル]]で「[[あなたがここにいてほしい (ピンク・フロイドの曲)|あなたがここにいてほしい]]」と「[[コンフォタブリー・ナム]]」の2曲を演奏している。現在は定期的にチャリティーパフォーンスを行っているクラプトンだが、1985年7月13日に[[フィラデルフィア]]の[[ジョン・F・ケネディ・スタジアム]]で開催された[[ライヴエイド]]コンサートで、[[フィル・コリンズ]]、[[ティム・レンウィック]]、[[クリス・ステイントン]]、[[ジェイミー・オールデイカー]]、[[マーシー・レビー]]、[[ショーン・マーフィー]]、[[ドナルド・ダック・ダン]]らと共演した<ref>{{cite book|first1=Pete|last1=Prown|first2=Harvey P.|last2=Newquist|title=Legends of Rock Guitar: The Essential Reference of Rock's Greatest Guitarists|url=https://books.google.com/books?id=60Jde3l7WNwC&pg=PA69|year=1997|publisher=Hal Leonard Corporation|isbn=978-0-7935-4042-6|page=69}}</ref>。視聴時間のピークに近いスロットを提供されたとき、彼は明らかに照れていたようだった。彼は1980年代もコンスタントにアルバムを発表し、1985年には「フォーエヴァー・マン」と「シーズ・ウェイティング」の2つのヒット曲を含んだ『[[ビハインド・ザ・サン]]』をフィル・コリンズと共に制作し、1986年の『[[オーガスト (エリック・クラプトンのアルバム)|オーガスト]]』でもコリンズを起用した<ref>{{cite web | url = https://www.rollingstone.com/music/albumreviews/august-19870212 | title = Eric Clapton August | access-date = 15 August 2017 | last = DeCurtis | first = Anthony | date = 12 February 1987 | work = [[Rolling Stone]] | archive-url = https://web.archive.org/web/20170829190802/http://www.rollingstone.com/music/albumreviews/august-19870212 | archive-date = 29 August 2017 | url-status = live }}</ref>。
[[File:Harrison and Clapton 1987 cropped.jpg|thumb|left|[[:w:en:Prince's Trust|プリンス・トラスト]]・コンサートで演奏する[[ジョージ・ハリスン]]とクラプトン、ウェンブリー・アリーナで、1987年]]
『オーガスト』はコリンズのトレードマークであるドラムとホーンのサウンドに溢れ、クラプトンのこれまでのイギリスにおける最大の売り上げとなり、チャートの最高位でとなる3位に到達した。アルバムの最初のトラックであるヒット曲「[[:w:en:It's in the Way That You Use It|イッツ・イン・ザ・ウェイ・ザット・ユー・ユーズ・イット]]」は[[トム・クルーズ]]と[[ポール・ニューマン]]の映画「[[ハスラー2]]」で使用された。ホーンがフィーチャーされた「ラン」はコリンズの「[[:w:en:Sussudio|ススーディオ]]」やその他の作品の作風を反映し、一方「[[:w:en:Tearing Us Apart|ティアリング・アス・アパート]]」([[ティナ・ターナー]]と共演)や「ミス・ユー」ではクラプトンのより激しいサウンドが続けられた。このリバウンドとして、クラプトンはコリンズ、ベーシストの[[ネイザン・イースト]]、キーボーディストの[[グレッグ・フィリンゲインズ]]と共に2年に及ぶツアーを開始した。『オーガスト』ツアーでは4人のバンドの2本のコンサートビデオ『''Eric Clapton Live from Montreux''』と『''Eric Clapton and Friends''』が撮影された。クラプトンは後に「アフター・ミッドナイト」を、[[アンハイザー・ブッシュのブランド|ミケロブ]]ビールのプロモーション用シングルとして作り直した。同ブランドはコリンズや[[スティーヴ・ウィンウッド]]の曲も使用していた。
『オーガスト』はコリンズのトレードマークであるドラムとホーンのサウンドに溢れ、クラプトンのこれまでのイギリスにおける最大の売り上げとなり、チャートの最高位でとなる3位に到達した。アルバムの最初のトラックであるヒット曲「[[:w:en:It's in the Way That You Use It|イッツ・イン・ザ・ウェイ・ザット・ユー・ユーズ・イット]]」は[[トム・クルーズ]]と[[ポール・ニューマン]]の映画「[[ハスラー2]]」で使用された。ホーンがフィーチャーされた「ラン」はコリンズの「[[:w:en:Sussudio|ススーディオ]]」やその他の作品の作風を反映し、一方「[[:w:en:Tearing Us Apart|ティアリング・アス・アパート]]」([[ティナ・ターナー]]と共演)や「ミス・ユー」ではクラプトンのより激しいサウンドが続けられた。このリバウンドとして、クラプトンはコリンズ、ベーシストの[[ネイザン・イースト]]、キーボーディストの[[グレッグ・フィリンゲインズ]]と共に2年に及ぶツアーを開始した。『オーガスト』ツアーでは4人のバンドの2本のコンサートビデオ『''Eric Clapton Live from Montreux''』と『''Eric Clapton and Friends''』が撮影された。クラプトンは後に「アフター・ミッドナイト」を、[[アンハイザー・ブッシュのブランド|ミケロブ]]ビールのプロモーション用シングルとして作り直した。同ブランドはコリンズや[[スティーヴ・ウィンウッド]]の曲も使用していた。
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1969年後半、クラプトンは[[フェンダー・ストラトキャスター]]に切り替えた。「ストラトを始めたとき、僕は多くの影響を受けた。最初は[[バディ・ホリー]]と[[バディ・ガイ]]だった。[[ハンク・マーヴィン]]はここイギリスで最初に有名な人物だったが、それは僕の種類ではなかった。[[スティーヴ・ウィンウッド]]は非常に信頼性が高く、彼が演奏を始めたとき、僕は彼がそれを行うことができれば、僕も行うことができると思った。<ref>{{cite book|first=Tom|last=Wheeler|title=The Stratocaster Chronicles: Celebrating 50 Years of the Fender Strat|url=https://books.google.com/books?id=za1MQ9gITagC&pg=PA8|year=2004|publisher=Hal Leonard Corporation|isbn=978-0-634-05678-9|page=8}}</ref>」。『[[エリック・クラプトン・ソロ]]』のレコーディングで最初に使用されたのは「ブラウニー」で、それは1973年にクラプトンのギターの中で最も有名な「[[ブラッキー (ギター)|ブラッキー]]」のバックアップとなった。1970年11月、クラプトンはドミノスのツアー中に、[[テネシー州]][[ナッシュビル]]のギターショップから6台のストラトキャスターを購入した。彼はジョージ・ハリスン、スティーヴ・ウィンウッド、ピート・タウンゼントにそれぞれ1台ずつ与えた。
1969年後半、クラプトンは[[フェンダー・ストラトキャスター]]に切り替えた。「ストラトを始めたとき、僕は多くの影響を受けた。最初は[[バディ・ホリー]]と[[バディ・ガイ]]だった。[[ハンク・マーヴィン]]はここイギリスで最初に有名な人物だったが、それは僕の種類ではなかった。[[スティーヴ・ウィンウッド]]は非常に信頼性が高く、彼が演奏を始めたとき、僕は彼がそれを行うことができれば、僕も行うことができると思った。<ref>{{cite book|first=Tom|last=Wheeler|title=The Stratocaster Chronicles: Celebrating 50 Years of the Fender Strat|url=https://books.google.com/books?id=za1MQ9gITagC&pg=PA8|year=2004|publisher=Hal Leonard Corporation|isbn=978-0-634-05678-9|page=8}}</ref>」。『[[エリック・クラプトン・ソロ]]』のレコーディングで最初に使用されたのは「ブラウニー」で、それは1973年にクラプトンのギターの中で最も有名な「[[ブラッキー (ギター)|ブラッキー]]」のバックアップとなった。1970年11月、クラプトンはドミノスのツアー中に、[[テネシー州]][[ナッシュビル]]のギターショップから6台のストラトキャスターを購入した。彼はジョージ・ハリスン、スティーヴ・ウィンウッド、ピート・タウンゼントにそれぞれ1台ずつ与えた。
クラプトンは残りの3台の最良のコンポーネントを組み合わせて「ブラッキー」を作成した。これは1985年に引退するまで彼のお気に入りのステージギターであった。「ブラッキー」が最初に使用されたのは1973年1月13日のレインボー・コンサートであった<ref>{{cite web |last=Landers |first=Rick |url=http://www.stratcollector.com/newsdesk/archives/000259.html |title=Strat Collector News Desk: An Interview with Eric Clapton Guitar Technician Lee Dickson |publisher=Stratcollector.com |date=28 June 2004 |access-date=22 August 2010 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20090327094222/http://www.stratcollector.com/newsdesk/archives/000259.html |archive-date=27 March 2009 }}</ref>。クラプトンは1956/57 ストラトを「モングレル」(雑種)と呼んだ<ref>{{cite web2|url=http://www.xs4all.nl/~slowhand/ecfaq/guitars.html |title=The Eric Clapton FAQ - Guitars |publisher=Xs4all.nl |date=3 September 2001 |access-date=22 August 2010 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20090823121845/http://www.xs4all.nl/~slowhand/ecfaq/guitars.html |archive-date=23 August 2009 }}</ref>。2004年6月24日、クラプトンはニューヨークの[[クリスティーズ]]・オークションハウスで「ブラッキー」を959,500米ドルで売却し、麻薬およびアルコール依存症のための[[クロスロード・センター]]の資金を調達した<ref name=":0">{{cite web2|url=http://www.christies.com/promos/jun04/claptonGuitars/overview.asp |title=Christie's - Eric Clapton Guitars |date=14 June 2004 |access-date=30 March 2016 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20040614191019/http://www.christies.com/promos/jun04/claptonGuitars/overview.asp |archive-date=14 June 2004 }}</ref>。「ブラウニー」は現在、[[:w:en:Museum of Pop Culture|エクスペリエンス・ミュージック・プロジェクト]]に展示されている<ref>{{cite web2|url=https://www.rollingstone.com/artists/ericclapton/articles/story/8928554/rock_memorabilia_market_booms |title=Rock Memorabilia Market Booms: Eric Clapton |work=Rolling Stone |access-date=22 August 2010 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20090715090305/http://www.rollingstone.com/artists/ericclapton/articles/story/8928554/rock_memorabilia_market_booms |archive-date=15 July 2009 }}</ref>。[[フェンダー・カスタム・ショップ]]はそれ以来、275台の「ブラッキー」レプリカを限定生産し、「ダック・ブラザーズ」のフライトケースに至るまで細部まで修正し、フェンダーの「レリック」プロセスを使用して人工的にエイジングし、経年変化をシミュレートしている。1台はリリース時にクラプトンに提供され、2006年5月17日のロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートでは3台が使用された<ref>{{cite web |url=http://gc.guitarcenter.com/clapton/detail.cfm |archive-url=https://web.archive.org/web/20071023062709/http://gc.guitarcenter.com/clapton/detail.cfm |url-status=dead |archive-date=23 October 2007 |title=Eric Clapton's Blackie - Guitar Center |publisher=Gc.guitarcenter.com |access-date=22 August 2010 }}</ref>。1979年、クラプトンはサイン入りのフェンダー・リードIIをロンドンの[[ハードロックカフェ]]に寄贈した。[[ピート・タウンゼント]]も自身のギブソン・レスポールを寄贈し、「僕のものは彼と同じくらい良い!ラヴ、ピート」というメモを付けた<ref>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=SDJitKagniUC&pg=PA164|title=Clapton's guitar: watching Wayne Henderson build the perfect instrument|isbn=9780743281980|last1=John|first1=Allen St|date=2005}}</ref>。
クラプトンは残りの3台の最良のコンポーネントを組み合わせて「ブラッキー」を作成した。これは1985年に引退するまで彼のお気に入りのステージギターであった。「ブラッキー」が最初に使用されたのは1973年1月13日のレインボー・コンサートであった<ref>{{cite web |last=Landers |first=Rick |url=http://www.stratcollector.com/newsdesk/archives/000259.html |title=Strat Collector News Desk: An Interview with Eric Clapton Guitar Technician Lee Dickson |publisher=Stratcollector.com |date=28 June 2004 |access-date=22 August 2010 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20090327094222/http://www.stratcollector.com/newsdesk/archives/000259.html |archive-date=27 March 2009 }}</ref>。クラプトンは1956/57 ストラトを「モングレル」(雑種)と呼んだ<ref>{{cite web2|url=http://www.xs4all.nl/~slowhand/ecfaq/guitars.html |title=The Eric Clapton FAQ - Guitars |publisher=Xs4all.nl |date=3 September 2001 |access-date=22 August 2010 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20090823121845/http://www.xs4all.nl/~slowhand/ecfaq/guitars.html |archive-date=23 August 2009 }}</ref>。2004年6月24日、クラプトンはニューヨークの[[クリスティーズ]]・オークションハウスで「ブラッキー」を959,500米ドルで売却し、麻薬およびアルコール依存症のための[[クロスロード・センター]]の資金を調達した<ref name=":0">{{cite web2|url=http://www.christies.com/promos/jun04/claptonGuitars/overview.asp |title=Christie's - Eric Clapton Guitars |date=14 June 2004 |access-date=30 March 2016 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20040614191019/http://www.christies.com/promos/jun04/claptonGuitars/overview.asp |archive-date=14 June 2004 }}</ref>。「ブラウニー」は現在、[[:w:en:Museum of Pop Culture|エクスペリエンス・ミュージック・プロジェクト]]に展示されている<ref>{{cite web2|url=https://www.rollingstone.com/artists/ericclapton/articles/story/8928554/rock_memorabilia_market_booms |title=Rock Memorabilia Market Booms: Eric Clapton |work=Rolling Stone |access-date=22 August 2010 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20090715090305/http://www.rollingstone.com/artists/ericclapton/articles/story/8928554/rock_memorabilia_market_booms |archive-date=15 July 2009 }}</ref>。[[フェンダー・カスタム・ショップ]]はそれ以来、275台の「ブラッキー」レプリカを限定生産し、「ダック・ブラザーズ」のフライトケースに至るまで細部まで修正し、フェンダーの「レリック」プロセスを使用して人工的にエイジングし、経年変化をシミュレートしている。1台はリリース時にクラプトンに提供され、2006年5月17日のロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートでは3台が使用された<ref>{{cite web |url=http://gc.guitarcenter.com/clapton/detail.cfm |archive-url=https://web.archive.org/web/20071023062709/http://gc.guitarcenter.com/clapton/detail.cfm |url-status=dead |archive-date=23 October 2007 |title=Eric Clapton's Blackie - Guitar Center |publisher=Gc.guitarcenter.com |access-date=22 August 2010 }}</ref>。1979年、クラプトンはサイン入りのフェンダー・リードIIをロンドンの[[ハードロックカフェ]]に寄贈した。[[ピート・タウンゼント]]も「僕のものは彼と同じくらい良い!ラヴ、ピート」というメモを付けたギブソン・レスポールを寄贈した<ref>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=SDJitKagniUC&pg=PA164|title=Clapton's guitar: watching Wayne Henderson build the perfect instrument|isbn=9780743281980|last1=John|first1=Allen St|date=2005}}</ref>。
クラプトンのサイン入りギターはフェンダーと[[マーティン (楽器メーカー)|マーティン]]で製作されている。1988年にフェンダーは[[:w:en:Fender Eric Clapton Stratocaster|エリック・クラプトン・ストラトキャスター]]をリリースした<ref>{{cite book|title=Heritage Music and Entertainment Dallas Signature Auction Catalog #634|date=2006|publisher=Ivy Press Heritage Capital Corporation|page=181}}</ref>。マーティンはいくつかの000-シグネチャーモデルを製作している。最初のモデルは1995年に発表された限定モデルの000-42ECである。シングル「チェンジ・ザ・ワールド」(1996年)とアルバム『ピルグリム』(1998年)では000-28ECが使用されたが、そのギターは後にギタリストの[[ポール・ワシフ]]にプレゼントされた<ref name="Bonhams Auction Clapton Guitar">{{cite web2|url=https://www.bonhams.com/auctions/19037/lot/269/|title=Bonhams Auction|publisher=Bonhams.com|access-date=22 September 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20141119042846/https://www.bonhams.com/auctions/19037/lot/269/|archive-date=19 November 2014|url-status=live}}</ref>。彼が『アンプラグド』で使用した1939年製000-42はオークションで791,500米ドルで落札された<ref name = "cdqimo"/>。クラプトンが使用する弦は[[アーニー・ボール]]のスリンキーとスーパースリンキーで、ゲージは.10から.46である<ref>{{cite web
クラプトンのサイン入りギターはフェンダーと[[マーティン (楽器メーカー)|マーティン]]で製作されている。1988年にフェンダーは[[:w:en:Fender Eric Clapton Stratocaster|エリック・クラプトン・ストラトキャスター]]をリリースした<ref>{{cite book|title=Heritage Music and Entertainment Dallas Signature Auction Catalog #634|date=2006|publisher=Ivy Press Heritage Capital Corporation|page=181}}</ref>。マーティンはいくつかの000-シグネチャーモデルを製作している。最初のモデルは1995年に発表された限定モデルの000-42ECである。シングル「チェンジ・ザ・ワールド」(1996年)とアルバム『ピルグリム』(1998年)では000-28ECが使用されたが、そのギターは後にギタリストの[[ポール・ワシフ]]にプレゼントされた<ref name="Bonhams Auction Clapton Guitar">{{cite web2|url=https://www.bonhams.com/auctions/19037/lot/269/|title=Bonhams Auction|publisher=Bonhams.com|access-date=22 September 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20141119042846/https://www.bonhams.com/auctions/19037/lot/269/|archive-date=19 November 2014|url-status=live}}</ref>。彼が『アンプラグド』で使用した1939年製000-42はオークションで791,500米ドルで落札された<ref name = "cdqimo"/>。クラプトンが使用する弦は[[アーニー・ボール]]のスリンキーとスーパースリンキーで、ゲージは.10から.46である<ref>{{cite web
クラプトンは[[ザ・フー]]の[[ロック・オペラ]]、「トミー」の映画版に出演した。クラプトンは伝道師を演じ、[[サニー・ボーイ・ウィリアムソンII]]の「Eyesight to the Blind」を演奏した。彼はまた、映画「[[ブルース・ブラザース2000]]」にルイジアナ・ゲイター・ボーイズの一員として出演した。バンドのメンバー役に加え、彼は短いスピーチも行っている。クラプトンは[[メルセデス・ベンツ・Gクラス]]の広告に登場した。2007年3月、クラプトンは[[リアルネットワークス]]の[[:w:en:Napster (streaming service)|ラプソディ・オンライン・ミュージックサービス]]の広告に登場した<ref>{{cite web
クラプトンは[[ザ・フー]]の[[ロック・オペラ]]『[[トミー (アルバム)|トミー]]』の[[トミー (映画)|映画版]](1975年)で伝道師を演じ、[[サニー・ボーイ・ウィリアムソンII]]の「Eyesight to the Blind」を演奏した。彼はまた、映画「[[ブルース・ブラザース2000]]」にルイジアナ・ゲイター・ボーイズの一員として出演した。バンドのメンバー役に加え、彼は短いスピーチも行っている。クラプトンは[[メルセデス・ベンツ・Gクラス]]の広告に登場した。2007年3月、クラプトンは[[リアルネットワークス]]の[[:w:en:Napster (streaming service)|ラプソディ・オンライン・ミュージックサービス]]の広告に登場した<ref>{{cite web
** {{cite book|title=Gear Secrets of the Guitar Legends|first1=Pete|last1=Prown|first2=Lisa|last2=Sharken|chapter=Eric Clapton|page=6|publisher=Backbeat Books|year=2003|isbn=9780879307516}}
** {{cite book|title=Gear Secrets of the Guitar Legends|first1=Pete|last1=Prown|first2=Lisa|last2=Sharken|chapter=Eric Clapton|page=6|publisher=Backbeat Books|year=2003|isbn=9780879307516}}
;その他の英語文献:
** {{cite book|title=Who I Am|first=Pete|last=Townshend|year=2012|publisher=Harper|id=ISBN 978-0-00-747916-0}}
** {{cite book|title=Anyway Anyhow Anywhere: The Complete Chronicle of The Who 1958-1978|first=Andy|last=Neill|coauthors=Kent, Matt|year=2007|publisher=Virgin Books|id=ISBN 978-0-7535-1217-3}}
;日本語文献:
;日本語文献:
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この項目では、イギリスのミュージシャンについて説明しています。原題が Eric Clapton のアルバムについては「エリック・クラプトン・ソロ」をご覧ください。
1965年3月、ヤードバーズはソングライターのグレアム・グールドマンが書いた最初の大ヒット曲「フォー・ユア・ラヴ」を発表した。グールドマンは、ハーマンズ・ハーミッツやホリーズのヒット曲も作曲しており、後に10ccのメンバーとして成功を収めた。ヤードバーズは「フォー・ユア・ラヴ」の成功もあって、ポップ志向のサウンドに移行することを選択した。これは、商業的な成功ではなくブルースに専念していたクラプトンの苛立ちに大きく影響することとなる。彼は「フォー・ユア・ラヴ」がリリースされた日にヤードバーズを脱退した。バンドは最も熟練したメンバーを失うこととなった。クラプトンは自分の代わりとしてジミー・ペイジを提案したが、ペイジはこの推薦を断り[26]、ジェフ・ベックを推薦した[21]。ペイジは後にヤードバーズに加わり、ベックとしばらくの間一緒に活動したが、ベック、ペイジ、クラプトンは一緒にグループで活動することは無かった。彼らが初めて共にステージに上がったのは1983年にロイヤル・アルバート・ホールで行われたARMS(Action into Research for Multiple Sclerosis:多発性硬化症の研究を促す行動)チャリティーコンサートでのことであった[27]。クラプトンは1965年4月にジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズに加入したが、数か月後に脱退した。6月、クラプトンはペイジと共にジャムに招待され、多くの曲を録音した。後にそれはザ・イミディエイト・オールスターズのクレジットでリリースされた。1965年の夏、彼は旧友のベン・パーマーを含むグランドと呼ばれるバンドと共にギリシャでのツアーに向かった。ギリシャのバンド、ザ・ジュニアーズは悲劇的な自動車事故でベーシストのサーノス・ソウジオウルが死亡し、ギタリストのアレコス・カラカンタスが負傷したが、生き残ったメンバーは1965年10月17日にクラプトンと共に記念のショーを開催した[28]。クラプトンは10月にブルースブレイカーズに再加入した。1966年3月、ブルースブレイカーズのメンバーである間にクラプトンはジャック・ブルースやスティーヴ・ウィンウッドとサイドプロジェクトで協力し、エリック・クラプトン・アンド・ザ・パワーハウスの名前で何曲か録音した。2度目のブルースブレイカーズでの活動期間中、クラプトンはクラブサーキットで最高のブルースギタリストとしての評判を得た。アルバム『ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ・ウィズ・エリック・クラプトン』での演奏でクラプトンは世界的に有名になったが、このアルバムは彼が1966年7月にバンドを離れるまでリリースされなかった。
フェンダー・テレキャスターとVox AC30アンプを1960年のギブソン・レスポール・スタンダードとマーシャルアンプに交換したクラプトンのサウンドと演奏は、有名なスローガン「Clapton is God」に大きな影響を与えた。それは1967年にイズリントン区の壁にスプレーで書かれた物で[29]、その落書きの下で犬が壁に排尿している有名な写真で記録される。クラプトンはそのスローガンに対して恥ずかしいという気持ちを表し、1987年のサウスバンクショーのプロフィールで、「僕は自分が世界で最も偉大なギター奏者であることを決して受け入れなかった。僕は常に世界で最も偉大なギタープレーヤーになりたいと思っていたけど、それは理想であり、理想として受け入れている。[30]」と語っている。
ドミノスは2枚目のスタジオアルバムのレコーディングを行っていたが、エゴの衝突が起こりクラプトンが出て行ったことでグループは解散。オールマンは1971年10月29日のオートバイ事故で死去した。クラプトンは後に自伝で、フロリダでのレイラセッション中に彼とオールマンは切っても切れない関係になったと書いている。彼はオールマンのことを「かつてなかったが、僕がしたかった音楽の兄弟」として語っている[64]。レイドルは1979年の夏までクラプトンのベーシストであり続けたが、1980年5月にアルコールと麻薬の影響で死去した。クラプトンとウィットロックは2000年まで共演することは無かった。2人は2000年にBBCのジュールズ・ホランドの番組「Later... with Jools Holland」で再共演した。ドミノスのもう一つの悲劇はジム・ゴードンの運命である。彼は1983年に母親をハンマーで殺害。犯行当時、彼は既に統合失調症に罹患していたものの診断がついておらず、逮捕後に初めて正しく診断が下された。1984年7月10日、彼は懲役16年の判決を受けて収監された後、カリフォルニア医療施設に移され、2023年3月に生涯を終えた[21]。
『オーガスト』はコリンズのトレードマークであるドラムとホーンのサウンドに溢れ、クラプトンのこれまでのイギリスにおける最大の売り上げとなり、チャートの最高位でとなる3位に到達した。アルバムの最初のトラックであるヒット曲「イッツ・イン・ザ・ウェイ・ザット・ユー・ユーズ・イット」はトム・クルーズとポール・ニューマンの映画「ハスラー2」で使用された。ホーンがフィーチャーされた「ラン」はコリンズの「ススーディオ」やその他の作品の作風を反映し、一方「ティアリング・アス・アパート」(ティナ・ターナーと共演)や「ミス・ユー」ではクラプトンのより激しいサウンドが続けられた。このリバウンドとして、クラプトンはコリンズ、ベーシストのネイザン・イースト、キーボーディストのグレッグ・フィリンゲインズと共に2年に及ぶツアーを開始した。『オーガスト』ツアーでは4人のバンドの2本のコンサートビデオ『Eric Clapton Live from Montreux』と『Eric Clapton and Friends』が撮影された。クラプトンは後に「アフター・ミッドナイト」を、ミケロブビールのプロモーション用シングルとして作り直した。同ブランドはコリンズやスティーヴ・ウィンウッドの曲も使用していた。
クラプトンはまた、ビージーズと共にチャリティーを行った。グループはザ・バンバリーズと名乗り、収益をチェシャーのバンバリー・クリケットクラブに寄付するチャリティーアルバムを録音した。このクラブは、イギリスの非営利団体への資金を集めるためにクリケットのエキシビションマッチを行っている。ザ・バンバリーズは、The Bunbury Tailsのために「"We're the Bunburys"」「"Bunbury Afternoon"」「"Fight (No Matter How Long)"」の3曲を録音した。「"Fight (No Matter How Long)"」は『1988 Summer Olympics Album: One Moment in Time』に収録され、ロック・チャートで8位になった[80]。クラプトンは2011年にロンドンのグロブナー・ハウス・ホテルで開催されたクリケットクラブの25周年記念式典でも演奏している[81]。
クラプトンはまた、影響を受けたミュージシャンとしてバディ・ホリーを挙げた。『ザ・チャーピング・クリケッツ』はクラプトンが購入した最初のアルバムであった。彼は後に「サンディ・ナイト・アット・ロンドン・パラディウム」でホリーを見た[152]。クラプトンは自伝の中で、ホリーとフェンダーを初めて見たとき、「僕は死んで天国に行ったと思っていた...まるで宇宙から楽器を見ているようなもので、自分にい聞かせた。『それが未来 - それが僕が望んでいることだ。』[152]」2017年のドキュメンタリー「Eric Clapton: Life in 12 Bars」でクラプトンはビスミラ・カーンを影響を与えたミュージシャンとして挙げ、「ギターを彼のリード楽器のように鳴らしたかった」と付け加えた[153]。同じドキュメンタリーで、彼はハーモニカ奏者のリトル・ウォルターも自身に影響を与えたミュージシャンとして挙げた。「彼がハーモニカを演奏してアンプで作った音、それは厚くて太く、とてもメロディックだった。[153]」
リードギタリストのカルトほどロック神話の中心となるものはない。そして、そのカルトを作成するためにエリック・クラプトンほど多くのことをした人物は他にいなかった。彼は1965年4月にギタリストのクリアリングハウスであるジョン・メイオール&ザ・ブルース・ブレイカーズに加わる前にすでにヤードバーズのメンバーだった。メイオールとの彼の2つのスティントは、有名な落書き「"Clapton is God"」が現れるくらい、ロックファンの間で彼の人気が加熱し、その評判が高まった。[157]
2017年に「Eric Clapton: Life in 12 Bars」というタイトルのドキュメンタリー映画がリリ・フィニ・ザナックの監督で製作された[184]。クラプトンはザナックの1991年の映画「ラッシュ」の音楽を担当し、それ以来の友人であった[184]。ザナックはBBCニュースのインタビューで、クラプトンは彼女が監督を担当した場合にのみ参加することに同意したと述べた。:
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About Clapton's playing and sound
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