最上もがみ」のはんあいだ差分さぶん

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=== 戦国せんごく桃山ももやま ===
=== 戦国せんごく桃山ももやま ===
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[[1590ねん]](天正てんしょう18ねん)に覇業はぎょうすすめる[[豊臣とよとみ秀吉ひでよし]]の[[小田原おだわら征伐せいばつ]]を臣従しんじゅうして本領ほんりょう安堵あんどされ、[[山形やまがたじょう]]を居城きょじょうにして24まんせきりょうする。[[1591ねん]](天正てんしょう19ねん)には[[雄勝おがつぐん]]4まんせきあまり獲得かくとくし、28まんせきだかでは50まんせきとも<ref>太閤たいこう検地けんちで[[出羽いずはこく]](とく羽前うぜん)は、極端きょくたんひく数値すうち算出さんしゅつされている。</ref>)をえ、豊臣とよとみ政権せいけんではだい12大名だいみょうとなる。
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2024ねん5がつ1にち (水)すい 22:00時点じてんにおけるはん

最上もがみ
家紋
本姓ほんせい 清和せいわはじめ足利あしかがけい斯波しばながれ最上もがみ
いえ 最上もがみ兼頼かねより斯波しば兼頼かねより
種別しゅべつ 武家ぶけ
士族しぞく
出身しゅっしん 出羽でわこく
おも根拠地こんきょち 出羽でわこく
近江おうみこく
京都きょうと
大阪おおさか
著名ちょめい人物じんぶつ 斯波しば兼頼かねより
最上もがみ義守よしもり
最上もがみ義光よしみつ
支流しりゅう分家ぶんけ 最上もがみ主要しゅよう支族しぞく武家ぶけ
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

最上もがみ(もがみし)は、武家ぶけ士族しぞくだった日本にっぽん氏族しぞく清和せいわはじめ足利あしかが支流しりゅうさん管領かんりょうひと斯波しば分家ぶんけにあたる。室町むろまち幕府ばくふはねしゅう探題たんだい世襲せしゅうできる家柄いえがらで、のち出羽でわこく戦国せんごく大名だいみょうとして成長せいちょうした。最上もがみ義光よしみつ山形やまがたはん57まんせきりょうするだい大名だいみょうとなったが、その死後しご1622ねん改易かいえきされ、子孫しそんはわずか5せんせき旗本はたもと交代こうたい寄合よりあい)に没落ぼつらくした[2]維新いしんのち士族しぞく[3]斯波しば最上もがみとも斯波しばいずるはねともばれることがある。

歴史れきし

出自しゅつじ

最上もがみ起源きげんである斯波しばは、本来ほんらい足利あしかが宗家そうけ当主とうしゅとなるはずだったものの北条ほうじょう介入かいにゅうによって廃嫡はいちゃくされ分家ぶんけした足利あしかがとする。南北なんぼくあさ時代じだいのべぶん(1356ねん - 1360ねん)に斯波しば傍流ぼうりゅう奥州おうしゅう管領かんりょう斯波しばけん斯波しば兼頼かねより出羽いずはこく按察使しょうして出羽いずはこく最上もがみぐん山形やまがたげん山形やまがたけん山形やまがた)に入部にゅうぶし、山形やまがたじょう築城ちくじょう本拠ほんきょとする。そして、室町むろまち幕府ばくふより屋形やかたごうゆるされて最上もがみ屋形やかたしょうしたことを所領しょりょう最上もがみぐんちなんで最上もがみしょうすることとなった。

南北なんぼくあさ室町むろまち

最上もがみ初代しょだい兼頼かねより以降いこう寒河江さがえ討伐とうばつして出羽いずはこく最上もがみぐん南朝なんちょう勢力せいりょく一掃いっそうし(1368ねん漆川うるしかわたたか)、2だい直家なおいえ・3だい満直みつただ最上もがみぐん村山むらやまぐん各地かくちらを分散ぶんさん配置はいちすることにより勢力せいりょく伸張しんちょうするなど、室町むろまち時代ときよ最初さいしょ最盛さいせいむかえる。しかし、5だい義春よしはる長禄ちょうろく4ねん1460ねん)、古河ふるかわ公方くぼう討伐とうばつ御教書みぎょうしょ最上もがみとともに天童てんどうにもとどけられるなど、分散ぶんさん配置はいちした一族いちぞく独立どくりつ傾向けいこうつよめた。また、庄内しょうない地方ちほうおさめる大宝寺たいほうじ出羽守でわのかみるなど、中央ちゅうおうでの斯波しば勢力せいりょく低下ていか影響えいきょうがこの地方ちほうにもられる。最上もがみよしじょうえいただし元年がんねん1504ねん家督かとくぐと、後継こうけいしゃあらそいをする寒河江さがえに3み、実質じっしつてき傘下さんかいた。えいただし9ねん1512ねん庄内しょうない大宝寺たいほうじ砂越さごしあらそうと、勝者しょうしゃ村山むらやま地方ちほうへの進出しんしゅつ警戒けいかいし、よしじょう寒河江さがえまでぐんすすめた。えいただし11ねん1514ねん侵攻しんこうした伊達だて長谷堂はせどうじょうたたかって敗北はいぼくし、伊達だて稙宗いもうとじょうめとめと和睦わぼくした。じょう後継こうけい男子だんしさないまま死去しきょすると、庶流中野なかのからむかえた当時とうじ2さい最上もがみ義守よしもり傀儡かいらいかいらいとして、伊達だて介入かいにゅうまねいた。

戦国せんごく桃山ももやま

戦国せんごく時代じだいはいって伊達だて内部ないぶ天文てんもんらんこると、成人せいじんした最上もがみ義守よしもり伊達だてから長谷堂はせどうじょう奪還だっかんして独立どくりつ戦国せんごく大名だいみょうみちあゆはじめる。義守よしもり勢力せいりょく拡張かくちょう戦略せんりゃくえいろく3ねん1560ねん)の寒河江さがえめの失敗しっぱい頓挫とんざするが、外交がいこうめんでは嫡男ちゃくなん最上もがみ義光よしみつ将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてるへんいみなたまわ拝謁はいえつし、また御所ごしょごうたまわ[4] など一定いってい成果せいかをあげた。また、むすめひめ伊達だてあきらむねとつがせ、よしひめ伊達だてまさしむねんでいる。最上もがみ義光よしみつ家督かとく相続そうぞくさい父子ふし相克そうこくあらそい(天正てんしょう最上さいじょうらん)がこるが、義光よしみつ家督かとく相続そうぞくたす。以後いご、庶族の天童てんどう近隣きんりん白鳥しらとり寒河江さがえほろぼし最上もがみぐんおよび村山むらやまぐん平定へいていする。さらには天正てんしょう15ねんから16ねん1585ねん - 1586ねん庄内しょうないをめぐり大宝寺たいほうじ上杉うえすぎあらそい、また大崎おおさきめた伊達だてやぶった。しかし、どう時期じきじゅうさとばらたたかやぶ庄内しょうないへの影響えいきょうりょくうしなう。義光よしみつそう無事ぶじれい違反いはんうったえたが豊臣とよとみ裁定さいていにより庄内しょうない上杉うえすぎりょう確定かくてい[5] この裁定さいてい両家りょうけ禍根かこんのこした。

1590ねん天正てんしょう18ねん)に覇業はぎょうすすめる豊臣とよとみ秀吉ひでよし小田原おだわら征伐せいばつ臣従しんじゅうして本領ほんりょう安堵あんどされ、山形やまがたじょう居城きょじょうにして24まんせきりょうする。1591ねん天正てんしょう19ねん)には雄勝おがつぐん4まんせきあまり獲得かくとくし、28まんせきだかでは50まんせきとも[6])をえ、豊臣とよとみ政権せいけんではだい12大名だいみょうとなる。

その義光よしみつむすめこまひめ関白かんぱく豊臣とよとみ秀次しゅうじ側室そくしつにしぶしぶ羽目はめおちいったが、彼女かのじょ秀吉ひでよしにより秀次しゅうじもろともしょされてしまった。これ以前いぜんより義光よしみつ徳川とくがわ家康いえやす接近せっきんしていたが、さらに豊臣とよとみ距離きょり徳川とくがわへの傾倒けいとうつよめた。

関ケ原せきがはらから江戸えど時代じだい

秀吉ひでよし死後しご慶長けいちょう5ねん1600ねん)に関ヶ原せきがはらたたかこると義光よしみつひがしぐんくみし、西にしぐんゆうである上杉うえすぎ景勝かげかつ侵攻しんこうけたが、米沢よねざわから北進ほくしんする上杉うえすぎぐん主力しゅりょく長谷堂はせどうじょう拘束こうそくし、同年どうねん9がつ15にち美濃みのこく不破ふわぐんせきはらにおける会戦かいせん西にしぐん壊滅かいめつした情報じょうほう出羽でわこくとどいて上杉うえすぎぐん撤退てったいするまでの1かげつじゃく(9がつ8にちから10がつ1にち)をいた。さらに翌年よくねん慶長けいちょう6ねん1601ねん)に上杉うえすぎりょう庄内しょうない上杉本かみすぎもとりょうからの飛地とびち)を制圧せいあつした。戦後せんごには恩賞おんしょうとして大幅おおはば加増かぞうされ、現在げんざい山形やまがたけん全土ぜんど置賜おきたま地方ちほうのぞく)と現在げんざい秋田あきたけん一部いちぶ、57まんせきだかは100まんせきともわれる)をりょうするだい大名だいみょうになり、2度目どめ最盛さいせいむかえる。

江戸えど時代じだいはいると、義光よしみつ後継こうけいをめぐってあらそいがき、長男ちょうなん義康よしやす暗殺あんさつ事件じけんこる。以降いこう家中いえじゅう内紛ないふんまず、義光よしみつ慶長けいちょう19ねん1614ねん〉に死去しきょ)のまごであるよししゅんだい最上もがみ騒動そうどうこった。1622ねん元和がんわ8ねん)に最上もがみ騒動そうどう理由りゆう改易かいえきされ、近江おうみこく蒲生がもうぐん大森おおもりに1まんせき知行ちぎょうあらためてあたえられた[2]

しかしよししゅん死後しごよしさとし幼少ようしょうであったためにさらに5せんせきげんされ[2]よしさとしいちだいかぎりで高家こうかれつした[3]よしさとしのち子孫しそん近江おうみ国大こくだいもり5せんせきりょうする交代こうたい寄合よりあいとして明治維新めいじいしんまで存続そんぞくした[3]

義光よしみつよんなん山野辺やまのべ義忠よしただ最終さいしゅうてきには水戸みとはん家老がろう抜擢ばってきされ、子孫しそん家老がろう中山なかやま重臣じゅうしんとして藩政はんせいおもきをなした。

また、義光よしみつおいにあたる松根おうね光広みつひろ子孫しそん宇和島うわじまはん家老がろうとしてつづき、幕末ばくまつには伊達だて宗城むねなり補佐ほさした松根おうね図書としょている。夏目なつめ漱石そうせき弟子でし俳人はいじん松根東洋城まつねとうようじょう図書としょまごである。

明治めいじ以降いこう

幕末ばくまつ維新いしん当主とうしゅれんは、幕府ばくふだい番頭ばんがしら地位ちいしたがえ出羽守でわのかみ(のち駿河するがまもる)の武家ぶけ官位かんいについていたが、勤王きんのうこころざしつよ海防かいぼう尽力じんりょく朝廷ちょうてい早期そうき帰順きじゅんして本領ほんりょう安堵あんどされ、朝臣あそんてんじてちゅう大夫たいふせきあたえられた。ちゅう大夫たいふ以下いかしょうはいされると士族しぞく編入へんにゅうとなった[7]れんのち源五郎げんごろう義和よしかず、ついであきらよし家督かとく相続そうぞくした[3]

明治めいじ以降いこう最上さいじょう士族しぞくであったが、華族かぞくになることをつよねがい、叙爵じょしゃく運動うんどう熱心ねっしんった。最上もがみあきら大正たいしょう3ねん、4ねんごろ(1914ねん、1915ねん)と昭和しょうわ3ねん(1928ねん)に叙爵じょしゃく請願せいがんしょ提出ていしゅつしており、昭和しょうわ3ねん請願せいがんしょなかでは最上さいじょう皇室こうしつ恩寵おんちょうこうむって堂上どうじょう公家くげ清華せいかじゅんずるあつかいをけ、屋形やかたごうしょうし、きくきりもんゆるされた家格かかくであったこと、山形やまがた城主じょうしゅ最上もがみ義光よしみつしたがえよんじょうひだり近衛このえ少将しょうしょう官位かんいっていたこと、旗本はたもと没落ぼつらくしたのち外様とざま大名だいみょう同様どうようやなぎあいだめで実質じっしつ大名だいみょうあつかいだったこと、幕末ばくまつ維新いしんとう主義しゅぎ偆とよしれん国事こくじ多難たなんなか海防かいぼう尽力じんりょくしたこと、大正たいしょう13ねんには勤王きんのう事績じせきみとめられて義光よしみつせいよんよしれんしたがえよん贈位ぞういがあったことなどを列挙れっきょしたうえで、最上さいじょう華族かぞくへんせき授爵じゅしゃく請願せいがんしたが、結局けっきょく許可きょかわっている[7]

現在げんざい当主とうしゅ最上もがみ義治よしはる1953ねん - )で、画家がかとして大阪おおさか拠点きょてん海外かいがいでも活動かつどうしている[8]

最上もがみ一門いちもん最上もがみ改易かいえきまえまで)

  1. 最上もがみ兼頼かねより斯波しば兼頼かねより
  2. 最上もがみ直家なおいえ
  3. 最上もがみ満直みつただ
  4. 最上もがみ満家みついえ
    • 最上もがみよりゆきむね歴代れきだい当主とうしゅにはかぞえられていないが、満家みついえ後家ごけとく相続そうぞくしたとわれている)
  5. 最上もがみ義春よしはる
  6. 最上もがみ義秋よしあき
  7. 最上もがみみつる中野なかのからにゅう嗣)
  8. 最上もがみよしあつし
  9. 最上もがみよしじょう
  10. 最上もがみ義守よしもり中野なかのからにゅう嗣)
  11. 最上もがみ義光よしみつ最大さいだい版図はんと全盛期ぜんせいき
  12. 最上さいじょうおや
  13. 最上もがみよししゅん

最上もがみ主要しゅよう支族しぞく

最上もがみ主要しゅよう家臣かしんだん

戦国せんごく

系図けいず

実線じっせん実子じっし点線てんせんたて)は養子ようし点線てんせんよこ)は婚姻こんいん関係かんけい

 
 
 
 
 
斯波しばけん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大崎おおさきただし
 
 
最上もがみ兼頼かねより1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天童てんどう義宗よしむね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
直家なおいえ2
 
けんまん
 
もちよし
 
 
天童てんどうよりゆきただし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
満直みつただ3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天童てんどうよりゆきただし
 
黒川くろかわ氏直うじなお
 
高擶たかだま義直よしなお
 
蟹沢かにさわけんじき
 
成沢なりさわ兼義かねよし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
満家みついえ4
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中野なかのみつるもと
 
大窪おおくぼ満直みつただ
 
楯岡たておかまんこく
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
よりゆきむね
 
義春よしはる5
 
義秋よしあき6
 
みつる7
 
 
中野なかの義守よしもり
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
よしあつし8
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
じょう9
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちゅう野義のぎけん
 
谷地やち輝幸てるゆき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中野なかの義清よしきよ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義政よしまさ
 
 
最上もがみ義守よしもり10
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
満兼みつかね
 
 
義光よしみつ11
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長瀞ながとろよし
 
楯岡たておかこうただし
 
ひめ
 
伊達だてあきらむね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義康よしやす
 
いえおや12
 
 
清水しみず義親よしちか
 
山野辺やまのべ義忠よしただ
 
上野山うえのやま義直よしなお
 
大山おおやま光隆みつたか
 
忠直ただなお
 
 
 
伊達だてまさしむね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
よししゅん13
 
 
義継よしつぎ
 
けん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ていじき
 
山野辺やまのべ義清よしきよ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
よしさとし
 
 
 
 
 
 
義清よしきよ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
みやび
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義胤よしたね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義章よしあき
 
 
 
ふう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義隆よしたか
 
 
 
しつ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
きょう
 
 
 
 
 
 
かん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さとばい
 
 
 
 
 
 
義正よしまさ
 
げい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義明よしあき
 
 
げい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義明よしあき
 
 
 
 
 
 
れい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義実よしざね
 
 
 
 
 
 
よしさとし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
よしあきら
 
 
 
 
 
 
きょう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
嘉久よしひさ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
れん
 
 
 
 
 
 
たち
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義和よしかず
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あきらよし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義雄よしお
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
公義きみよし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義治よしはる

最上もがみ系図けいず異説いせつ

最上もがみ系図けいずには異説いせつがある。とくに4だい満家みついえ死後しごよしじょういたるまでの系図けいず信憑しんぴょうせいひくいとされる。以下いかおも異説いせつ紹介しょうかいする。

最上もがみよしじょう以降いこう異説いせつすくなくなるが、中野なかのよしとき実在じつざいしないとのせつ有力ゆうりょくとなるなど異論いろん存在そんざいする。

その

  • 最上もがみ南北なんぼくあさ時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょきにかけて拠点きょてんとした山形やまがたけん山形やまがたに、最上もがみ義光よしみつ歴史れきしかんがあり、だい11だい当主とうしゅ最上もがみ義光よしみつ中心ちゅうしんとした資料しりょうあつめられている。
  • 家紋かもんまる引両すじ丸内まるうちたけすずめ[1]
  • まくきくきりまる引両、さんぬのしろ引両[1]
  • 勅許ちょっきょもんななきりじゅうろくよう八重菊やえぎく[1]
  • 馬印うまじるし金之かねゆき軍配ぐんばい金之かねゆき五輪ごりん[1]
  • 指物さしものとりきん短冊たんざくまい[1]

脚注きゃくちゅう

  1. ^ a b c d e f 最上さいじょう
  2. ^ a b c 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)『最上もがみ』 - コトバンク
  3. ^ a b c d 松田まつだ敬之たかゆき 2015, p. 733.
  4. ^ えいろく6ねん1563ねん出羽でわ国之くにゆき御所ごしょ山形やまがた殿でん父子ふしげんつぎきょう」、『中世ちゅうせい出羽いずは領主りょうしゅしろかん高志こうし書院しょいん奥羽おうう研究けんきゅう叢書そうしょ2〉、pp. 97-98.
  5. ^ 天正てんしょう15ねん(1587ねん)、えつ中新川なかにいかわぐん前田まえだりょうとされ、上杉うえすぎ景勝かげかつは、佐々ささそな越中えっちゅうしゅ将兵しょうへいとしてれていた天神山てんじんやまじょう宮崎みやざきじょうを、前田まえだ利長としながわたす。その代替だいたいとして秀吉ひでよしから庄内しょうないりを、そう無事ぶじれいにもかかわらずゆるされている。
  6. ^ 太閤たいこう検地けんち出羽でわこくとく羽前うぜん)は、極端きょくたんひく数値すうち算出さんしゅつされている。
  7. ^ a b 松田まつだ敬之たかゆき 2015, pp. 733–734.
  8. ^ Green Art Gallery(2013ねん8がつ23にち時点じてんアーカイブ) 2013ねん8がつ23にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

  • 伊藤いとうきよしろう山口やまぐち博之ひろゆき へん中世ちゅうせい出羽いずは領主りょうしゅしろかん高志こうし書院しょいん奥羽おうう研究けんきゅう叢書そうしょ〉、2002ねんISBN 4-906641-49-0
  • 松田まつだ敬之たかゆき へん『〈華族かぞく爵位しゃくい請願せいがん人名じんめい辞典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2015ねんISBN 978-4-642-01472-4 

外部がいぶリンク