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本因坊ほんいんぼうさんすな

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重定しげさだこうさんすな
本因坊ほんいんぼうさんすな
出生しゅっしょう1559ねん
日本にっぽん京都きょうと長者ちょうじゃまち[まいり⁠ 1]
逝世1623ねん6がつ13にち
日本にっぽん江戶えど金杉かなすぎにち金杉かなすぎ[まいり⁠ 1]
职业日本にっぽん围棋將棋しょうぎ棋士きし京都きょうと寂光寺じゃっこうでら住持じゅうじしょ將棋しょうぎしょにち将棋しょうぎしょ
にちうつしほう
にち原文げんぶん本因坊ほんいんぼう さんすな
假名かめいほんいんぼう さんさ
平文へいぶんしき罗马Hon'inbō sansa

本因坊ほんいんぼうさんすな(1559ねん—1623ねん6がつ13にち),なま日本にっぽん京都きょうと長者ちょうじゃまち[註⁠ 1]幼名ようみょう加納かのう與三郎よさぶろうまたつく加能かのう三郎さぶろう[まいり⁠ 2]),法號ほうごうにちうみ日本にっぽん安土あづち桃山ももやま時代じだい江戸えど時代じだい著名ちょめい围棋あずか將棋しょうぎ棋士きし本因坊ほんいんぼう創始そうし一世いっせいかこえ棋名じん[まいり⁠ 3]

生平おいだいら

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にちうみ時期じき

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寂光寺じゃっこうでら

なま日本にっぽん戰國せんごく時代じだい家族かぞくため舞樂ぶがくにちまい父親ちちおや加納かのう與助よすけためいちだいむね。八歲即被送至其叔父にち淵上ふちがみじんにちにちふち[註⁠ 2]所在しょざいてき妙滿寺みょうまんじ隔年かくねんたびため日蓮宗にちれんしゅう和尚おしょう法號ほうごうほんくだりいんうみよし天資てんしさとし穎,まなぶふつ學習がくしゅうかこえ棋與將棋しょうぎこれ師事しじ當時とうじじゅうざいさかいてき國手こくしゅせんひさあお於藍,獨步どっぽ天下でんか[まいり⁠ 4][まいり⁠ 5][まいり⁠ 6]

1578ねんじゅうさいあずか織田おだ信長のぶながゆずるたい弈獲しょうしん長嘆ちょうたんため名人めいじん」,名人めいじんとげなりため天下でんかだいいちこれにちうみ此時やめためかこえ棋、將棋しょうぎ當代とうだいだいいちだかしゅ[まいり⁠ 4][まいり⁠ 5]。此事後世こうせい質疑しつぎため杜撰ずさんいんためぼつゆうにんなん文獻ぶんけん記載きさい信長のぶなが會下えげ棋,且當時とうじ信長のぶながあつ以日ふちためくび一派いっぱてき法華宗ほっけしゅう,甚至以日ふち百名門徒之命做要脅,さこ使つかいふち承認しょうにん法華宗ほっけしゅう淨土宗じょうどしゅうにちうみ與信よしんちょう當時とうじてき關係かんけい可能かのうしょ於敵たい狀態じょうたい[まいり⁠ 7]ただしゆうみとめためうみさむらいたてまつ信長のぶなが取得しゅとく名人めいじん稱號しょうごう[まいり⁠ 8]

1582ねん本能寺ほんのうじざい信長のぶなが御前ごぜんあずか鹿鹽かしおとぎけん[註⁠ 3]對局たいきょく下出しもいでさんこうさんこうかこえ規則きそくうえ不作ふさく勝負しょうぶとうばん兩人りょうにんはなれのち信長のぶなが馬上もうえ本能寺ほんのうじへんいん此有「さんこう不吉ふきつてき傳說でんせつ[まいり⁠ 9]信長のぶなが死後しごにちうみがえ其舉辦追悼ついとう法會ほうえこれいたり1584ねん以前いぜんひとし拒絕きょぜつ羽柴はしば秀吉ひでよしてき召見。さんこう法會ほうえあずかこばめ此事近代きんだい考證こうしょうみとめため本因坊ほんいんぼうくだり杜撰ずさんてき[まいり⁠ 6][まいり⁠ 7][まいり⁠ 10][まいり⁠ 11][まいり⁠ 12]ただし此局仍被ため日本にっぽんかこえ棋史じょうごく著名ちょめいてき對局たいきょく

1585ねん豐臣とよとみ秀吉ひでよし恢復かいふくふち一派いっぱ名譽めいよ同年どうねんうみ於秀よし御前ごぜんくび」,にちうみしょう,授予よんいし俸祿。1588ねん秀吉ひでよし舉辦かこえ全國ぜんこく大會たいかいよしうみ及當だい許多きょただかしゅ互相たい弈,にちうみ表現ひょうげんゆうことたまもの朱印しゅいん,俸祿じゅうせきじゅうにん扶持ふち同時どうじ受命じゅめい制定せいてい棋類相關そうかん規則きそく制度せいどれつ棋士きしりょうあたまみとめためしょてき發端ほったん[まいり⁠ 4][まいり⁠ 5][註⁠ 4]

本因坊ほんいんぼう時期じき

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本因坊ほんいんぼうさんすな舊跡きゅうせき

1598ねんふち辭去じきょ寂光寺じゃっこうでら住持じゅうじにちうみせっにんなみ入寂にゅうじゃくこうてらなな塔頭たっちゅうこれいち本因坊ほんいんぼう」。1603ねん德川とくがわ家康いえやすとくぜい,於江戶えど成立せいりつ幕府ばくふゆかり家康いえやすまたこうかこえ棋,招待しょうたいうみぜん江戶えどいん此日うみはた寂光寺じゃっこうでら住持じゅうじ讓與じょうよ師弟してい日榮にちえいなみあらためよう本因坊ほんいんぼうさんすな名前なまえ江戶えど家康いえやす破格はかく授予さんひゃくせき俸祿[まいり⁠ 1]

1608ねんあずかはやし利玄りげん對局たいきょく於家かん御前ごぜん[まいり⁠ 14],另與初代しょだい大橋おおはしそうかつらにち大橋おおはしはじめかつら (初代しょだい)進行しんこう將棋しょうぎ對局たいきょく,其對きょくため史上しじょうさい古老ころうてき將棋しょうぎ[註⁠ 5]したがえ該年以後いご每年まいとしさんがつさんすな做領あたま[註⁠ 6]りつ眾棋いたり御前ごぜん互相對局たいきょくためしろしろ將棋しょうぎにちしろ将棋しょうぎてき前身ぜんしん

1608ねん出版しゅっぱんりょう日本にっぽん最早もはやてき棋書《本因坊ほんいんぼうけい》。1611ねんたまもの僧侶そうりょ最高さいこうにち僧位そういてき法印ほういんため日蓮宗にちれんしゅう復興ふっこうてき象徵しょうちょう。1612ねん家康いえやす制定せいていりょう棋士きし俸祿授予、棋力きりょく認定にんてい將棋しょうぎしょとう制度せいどため職業しょくぎょう棋士きしてきおこりはじめかこえ棋、將棋しょうぎとく以穩てい發展はってん家康いえやす也因此入選にゅうせんかこえ棋殿どう[まいり⁠ 15]同年どうねん將棋しょうぎしょ拆分ためしょ[註⁠ 7]あずか將棋しょうぎしょにち将棋しょうぎしょため象徵しょうちょうかこえ棋、將棋しょうぎ最高さいこう地位ちいてき官位かんいさんすなしょう將棋しょうぎしょ讓與じょうよ大橋おおはしそうかつら[註⁠ 8]大橋おおはしはじめかつらいん此成ためいちせい將棋しょうぎ名人めいじん[註⁠ 9]

元和がんわ年間ねんかんさんすなあずか朝鮮ちょうせん國手こくしゅ礿史たい弈,さんすなゆずる三子みつごかち礿史おく棋盤、匾額とういたりこん仍存寂光寺じゃっこうでら[まいり⁠ 18];此國際こくさい對局たいきょくため日本にっぽんかこえ進步しんぽてき一大いちだい事件じけんこれ外國がいこく國手こくしゅあずか日本にっぽん名人めいじん對局たいきょくみなゆずる三子みつご,其緣由えんゆよし此而らいちょくいたり末代まつだい名人めいじん本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや世才せさい廢止はいし

1623ねんさんすなびょうじゅう門下もんか弟子でしゆう中村なかむらみちせき安井やすい六藏ろくぞうさんせき衫村ざんえつどうせきため當時とうじ僅次於算すなてき高手たかてただしよし牴觸ていしょく日蓮宗にちれんしゅう教義きょうぎ而無ほうつぎにんざんせき年紀としのりあずかみちせきしょう仿,生平おいだいら不詳ふしょう可能かのう年紀としのり過大かだい而沒のう繼承けいしょうろくぞうそく成立せいりつりょう安井やすい所以ゆえん不能ふのうつぎにんいん此僅剩じゅうさんさいてきさんえつさんすなはたかこえ棋名人傳ひとづてあずかみちせきなみ請道せき指導しどうざんえつ[まいり⁠ 1]これそう寂光寺じゃっこうでら[まいり⁠ 19][まいり⁠ 20]

評價ひょうか影響えいきょう

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よしのこしも對局たいきょく及算すな流傳りゅうでんてき日記にっきそう計算けいさんすなたいはやし利玄りげんぶんさき13しょう5はい1ゆずるさき374きょくさんすな贏39きょくときぶんさき2しょうゆずるさき3しょう1はいやま內足やす6しょう[まいり⁠ 21]さんすなざい當時とうじ毫無敵手てきしゅ。另外《すわかくれだんくさむら記載きさい其與信長のぶなが秀吉ひでよし家康いえやすひとしためゆずる手合てあい

さんすな復興ふっこう日蓮宗にちれんしゅうなみゆずるかこえ棋、將棋しょうぎとく以職ぎょう,以及廢除はいじょかこえせい以算すなみとめためゆう極大きょくだい貢獻こうけんてきいん此2004ねんだいいちとどけかこえ棋殿どう入選にゅうせん

1822ねん寂光寺じゃっこうでら舉辦さんすな辭世じせいりょうひゃくねん追善ついぜん法會ほうえかいじょう本因坊ほんいんぼう跡目あとめたけあずか外山とやまさんぶしたい弈紀ねんきょくためごく有名ゆうめいてき對局たいきょく。1923ねん寂光寺じゃっこうでらまたゆう舉辦さんひゃくねんねん棋會。

生涯しょうがいめいきょく

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さんこう不吉ふきつこれきょく

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以下いか棋譜きふしょう,僅列最後さいご模樣もよう而不れつ手順てじゅん

1582ねん6がつ20日はつか天正てんしょうじゅうねんろくがつにちばん,织田しん长在京都きょうと本能寺ほんのうじ召日うみあずか鹿しか盐利贤在面前めんぜん对弈。あい传对きょく中日ちゅうにちうみ暗示あんじしん长提ぼう部下ぶか明智あけち光秀みつひで对其こころ怀恨ただししん长并以为しか。棋局双方そうほうざいちゅう开始对杀,さい终在棋盘一边形成了极其罕见的三劫循环的棋形。しん长以此为吉兆きっちょうただしにちうみくらかん不祥ふしょうとげ匆忙つげ而去。つぎしのげ晨,明智あけち光秀みつひではん叛,本能寺ほんのうじばく发,しん长死于叛军之ちゅう。从此围棋对局中出なかいで现三劫循环被认为是不祥之兆。此局现今仅余ざんちゅう盘以きさき诸手遗失。[まいり⁠ 21]

棋譜きふみとめため雙方そうほう棋力きりょく相差おうさつたいだい依田よだきのはじめ九段甚至認為黑棋棋力連院生都稱不上。且至此盤面白おもしろ棋已けい完全かんぜん優勢ゆうせいふと可能かのうさいろうさんこういん此被みとめため可能かのうとう日下くさかりょうとめ這盤棋。[まいり⁠ 10]

註釋ちゅうしゃく

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    註:

  1. ^ くらい於今京都きょうと上京かみぎょう
  2. ^ 本名ほんみょう加納かのうたかしふちまたたたえ本因坊ほんいんぼうゆう[まいり⁠ 1],1529-1609,棋士きし法華宗ほっけしゅう著名ちょめい僧侶そうりょため寂光寺じゃっこうでら開山かいさん祖師そしにち開山かいさん (仏教ぶっきょう),曾與淨土宗じょうどしゅう進行しんこう有名ゆうめいてき宗教しゅうきょう辯論べんろんにち安土あづち宗論しゅうろん
  3. ^ 相傳そうでんためかこえ棋四大家たいか林家はやしや元祖がんそはやし利玄りげんただしいたりこん仍無證據しょうこりょう人為じんいどう一人ひとり部分ぶぶん書籍しょせき常常つねづねはた此局ためうみあずかはやし利玄りげんてき對局たいきょく
  4. ^ 增川ますかわ宏一こういちにち増川ますかわ宏一こういちみとめため此官なみ後來こうらいてきしょいん此認ためうみだいいちしょ[まいり⁠ 13]
  5. ^ にちぶん維基文庫ぶんこじょうてき對局たいきょく
  6. ^ 此領あたま資格しかくざいすわかくれだんくさむらちゅうみとめためしょさんすな死後しごあらためよしせい名人めいじん中村なかむらみちせき做領あたまちょくいたりさんせい名人めいじん安井やすいさんほうゆうしょかくきり記載きさいいん此算通常つうじょうれつためだいいちしょ
  7. ^ さんすなため將棋しょうぎ所以ゆえん及拆ぶんためしょ將棋しょうぎしょ於《すわかくれだんくさむら》。ただし根據こんきょ增川ますかわ宏一こういちにち増川ますかわ宏一こういち》、福井ふくい正明まさあきにち福井ふくい正明まさあき囲碁いご古名こみょうじん全集ぜんしゅうりょうしょ考證こうしょうみとめためだい一任いちにんしょおうため1668ねんてき安井やすいさん而非さんすな[まいり⁠ 16]
  8. ^ 此事於《かくれだんくさむら》,日本にっぽん將棋しょうぎ聯盟れんめいまた以1612ねん大橋おおはしはじめかつらためだい一任いちにん將棋しょうぎしょただし增川ますかわ宏一こういち指出さしで,此為大橋おおはしにち大橋おおはし自稱じしょういたり1797ねんざいゆう將棋しょうぎしょ正式せいしきなりため官職かんしょくなみ授予俸祿てきろく[まいり⁠ 17]
  9. ^ さんすなけん將棋しょうぎしょひとしれつだいいちかこえ棋、將棋しょうぎおうひとしため名人めいじんただし日本にっぽん將棋しょうぎ聯盟れんめいはた初代しょだい大橋おおはしはじめかつられつためいちせい名人めいじん,以其獲得かくとく將棋しょうぎしょ該年做開始かいし

參考さんこう資料しりょう

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    まいり:

  1. ^ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 木石ぼくせきあん-本因坊ほんいんぼうさんすな
  2. ^ 飛揚ひようかこえ棋網-日本にっぽんかこえ故事こじさん本因坊ほんいんぼう和名わみょうじん棋所てき由来ゆらい
  3. ^ 岩本いわもとかおる. 日本にっぽんかこえ棋大けいにち日本にっぽん囲碁いご大系たいけい1─さんすなみちせき. 日本にっぽん. 1991ねん. ISBN 978-4480691019. 
  4. ^ 4.0 4.1 4.2 はやし元美もとみ. ただれ柯堂棋話. 日本にっぽん. 1778ねん. OCLC 25135085. 
  5. ^ 5.0 5.1 5.2 安藤あんどう豊次とよじ. すわかくれだんくさむら. 日本にっぽん. 1910ねん. OCLC 672461984. 
  6. ^ 6.0 6.1 日本棋院にほんきいん-囲碁いご歴史れきし-初代しょだい本因坊ほんいんぼうさんすなしろはじまり
  7. ^ 7.0 7.1 本因坊ほんいんぼうさんすな伝説でんせつ研究けんきゅう
  8. ^ 日本にっぽん1000にん上巻じょうかん (ビジュアルばん) P215
  9. ^ 此事最早もはや記載きさい於1762ねんてき名人めいじんでん》,ただれ柯堂棋話》、《すわかくれだんくさむらみなゆう記載きさい
  10. ^ 10.0 10.1 本因坊ほんいんぼうさんすなあずか本能寺ほんのうじ傳說でんせつ
  11. ^ 本因坊ほんいんぼうさんすなあずか本能寺ほんのうじへん傳說でんせつ考證こうしょう
  12. ^ 平本ひらもとわたるほしにち平本ひらもとわたるほし. 囲碁いご入門にゅうもんへん. 日本にっぽん. 2001ねん4がつ. ISBN 978-4087200867. 
  13. ^ 增川ますかわ宏一こういちにち増川ますかわ宏一こういち. . 法政大學ほうせいだいがく出版しゅっぱんしゃ. 1930ねん. ISBN 978-4588205910. 
  14. ^ 慶長けいちょうけんろくにち慶長けいちょうけんろく記載きさい對局たいきょくしゃゆう本因坊ほんいんぼうさんすなはやし利玄りげんせん也的せんかく中村なかむらみちせきよんにん
  15. ^ 囲碁いご殿堂でんどう資料しりょうかん-囲碁いご殿堂でんどう表彰ひょうしょう
  16. ^ 福井ふくい正明まさあきにち福井ふくい正明まさあき. 囲碁いご古名こみょうじん全集ぜんしゅう. まことぶんどう新光しんこうしゃ. 2007ねん. ISBN 9784416507094. 
  17. ^ 增川ますかわ宏一こういち. 碁打ごうち・将棋しょうぎしの江戶えど : 「大橋おおはし文書ぶんしょ」がかすしん事実じじつ. 平凡社へいぼんしゃ. 1930ねん. ISBN 9784582841800. 
  18. ^ 川端かわばた康成やすなり. 呉清源ごせいげん棋談. 日本にっぽん: 文芸春秋ぶんげいしゅんじゅうしんしゃ. 1954ねん. OCLC 673471163. 
  19. ^ 本因坊ほんいんぼうさんすな旧跡きゅうせき
  20. ^ 寂光寺じゃっこうでら本因坊ほんいんぼう発祥はっしょうてら
  21. ^ 21.0 21.1 日本にっぽんかこえ棋史ばなし

外部がいぶ連結れんけつ

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