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加藤かとう道夫みちお

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加藤かとう 道夫みちお
(かとう みちお)
誕生たんじょう 1918ねん10月17にち
日本の旗 日本にっぽん福岡ふくおかけん遠賀おんがぐん戸畑とばたまちげん北九州きたきゅうしゅう戸畑とばた
死没しぼつ (1953-12-22) 1953ねん12月22にち(35さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう世田谷せたがや若林わかばやしまち
墓地ぼち 日本の旗 日本にっぽん多磨たま霊園れいえん
職業しょくぎょう げき作家さっか演出えんしゅつ翻訳ほんやく
英語えいご教員きょういん
言語げんご 日本語にほんご
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
最終さいしゅう学歴がくれき 慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく英文えいぶん学科がっか
活動かつどう期間きかん 1941ねん - 1953ねん
ジャンル 戯曲ぎきょく演劇えんげき評論ひょうろん翻訳ほんやく
主題しゅだい 詩的してき要素ようそ導入どうにゅう
演劇えんげき芸術げいじゅつてき自律じりつせい
文学ぶんがく活動かつどう 新劇しんげき研究けんきゅうかいむぎかい
文学ぶんがくくもかい
代表だいひょうさくなよたけ』(1946ねん
襤褸らんる宝石ほうせき』(1952ねん
おもおとこ』(1951ねん
おも受賞じゅしょうれき だい1かい水上みずかみ滝太郎たきたろうしょう三田みた文学ぶんがくしょう〉(1948ねん
デビューさく 『なよたけ』(1946ねん
配偶はいぐうしゃ 加藤かとう治子はるこ
親族しんぞく 加藤かとう武夫たけおちち)、加藤かとう幸子さちこめい
ウィキポータル 文学ぶんがく
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加藤かとう 道夫みちお(かとう みちお、1918ねん大正たいしょう7ねん10月17にち - 1953ねん昭和しょうわ28ねん12月22にち)は、日本にっぽんげき作家さっか代表だいひょうさくなよたけ』がたか評価ひょうか[1]カミュミュッセ翻訳ほんやくジャン・ジロドゥ研究けんきゅう演劇えんげき評論ひょうろんなどでもられる[2]芥川あくたがわ比呂志ひろし三島みしま由紀夫ゆきお矢代やしろ静一せいいちらとともに、岸田きしだ国士くにお発足ほっそくした文学ぶんがく立体りったい運動うんどうくもかい」の同人どうじんとしても活躍かつやくしたが、最後さいご自宅じたく書斎しょさい縊死いし自殺じさつした[2][3]つま女優じょゆう加藤かとう治子はるこめい作家さっか加藤かとう幸子さちこ[4]

生涯しょうがい

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1918ねん大正たいしょう7ねん10月17にち福岡ふくおかけん遠賀おんがぐん戸畑とばたまちげん北九州きたきゅうしゅう戸畑とばた)に誕生たんじょう[5]ちち鉱床こうしょう学者がくしゃ加藤かとう武夫たけお1921ねん大正たいしょう10ねん)、父親ちちおや転任てんにんともない、道夫みちおが3さいとき一家いっか東京とうきょう世田谷せたがや若林わかばやし移住いじゅうした[5]道夫みちお1925ねん大正たいしょう14ねん)に駒沢こまざわ尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこう入学にゅうがくし、卒業そつぎょう1931ねん昭和しょうわ6ねん)に東京とうきょう府立ふりつだい中学校ちゅうがっこうげん東京とうきょう都立とりつ小石川こいしかわ中等ちゅうとう教育きょういく学校がっこう)に入学にゅうがくした[5]同級生どうきゅうせいには原田はらだ義人よしひと菊池きくち章一しょういちがいた[5]

1937ねん昭和しょうわ12ねん)、慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく入学にゅうがく担任たんにん教授きょうじゅ奥野おくの信太郎しんたろうであった[5]文学ぶんがく興味きょうみおぼえた道夫みちお同人どうじんなどに小品しょうひんいた[5]校内こうないの『会誌かいし』に小説しょうせつ銀杏いちょういえ」を投稿とうこうし、阿部あべ知二ともじ推薦すいせんされたこともあった[5]。このころ石坂いしざか洋次郎ようじろう[5]

時代じだい演劇えんげきにも関心かんしんはじめ、しばしば英語えいごげき舞台ぶたいち、同期生どうきせい芥川あくたがわ比呂志ひろし梅田うめだ晴夫はるおらとった[5]。また、この時期じき中村なかむら真一郎しんいちろう白井しらい健三郎けんざぶろうらとも交友こうゆう関係かんけいむすび、友人ゆうじんすうめいとも北軽井沢きたかるいざわにいる岸田きしだ国士くにお訪問ほうもんした[5]中村なかむら真一郎しんいちろう加藤かとうはじめてったときに「学者がくしゃ芸術げいじゅつとが見事みごとどういち人格じんかくのなかで調和ちょうわしている」だいいち印象いんしょうち、その交流こうりゅうして生活せいかつじょう意見いけんをもらったことがなんかあったが、その意見いけんは「純粋じゅんすいすぎて実用じつようてきではなかった」と回想かいそうしている[6]

しん演劇えんげき研究けんきゅうかい結成けっせい

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1940ねん昭和しょうわ15ねん)、道夫みちお慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがくえい吉利よしとし文学ぶんがく入学にゅうがくした[5]同期どうきには向井むかい啓雄ひろお掛川かけがわ長平ちょうへいなどがいた[5]同年どうねん仏蘭西ふらんす文学ぶんがく芥川あくたがわ比呂志ひろし演出えんしゅつシャルル・ヴィルドラックの『商船しょうせんテナシティ』を原語げんご試演しえんし、道夫みちおはイドゥやくえんじた[5]

在学ざいがくちゅう1941ねん昭和しょうわ16ねん)、道夫みちお芥川あくたがわ比呂志ひろし原田はらだ義人よしひと鳴海なるみひろし鳴海なるみ四郎しろう)、鬼頭おにがしら哲人てつとらと研究けんきゅう劇団げきだんしん演劇えんげき研究けんきゅうかい」を結成けっせい[7][6]かいには東宝とうほう女優じょゆう御舟みふね京子きょうここと滝浪たきなみ治子はるこ参加さんかした[8]。この当時とうじ加藤かとうについて芥川あくたがわは、「しん演劇えんげき研究けんきゅうかい」は実質じっしつてきには加藤かとうつくった劇団げきだんだとして、「加藤かとうは、寛容かんようとか、あたたかい人柄ひとがらとか、そういう表現ひょうげんではにあわぬ一種いっしゅのふしぎな『親和力しんわりょく』をもっていた」とかたっている[6]

劇作げきさく戯曲ぎきょく翻訳ほんやく執筆しっぴつはじめ、「十一月じゅういちがつよる」「ばあや」などを試作しさくした[8]。このころほり田善でんぜんまもる白井しらい浩司こうじった[9]在学ざいがくちゅうは、学費がくひかせぐため映画えいが出版しゅっぱんしゃはたらいたこともあり、映画えいがかんする評論ひょうろん映画えいが雑誌ざっしいた[5]大学だいがく授業じゅぎょうではエリザベスちょう演劇えんげき勉強べんきょうし、西脇にしわき順三郎じゅんざぶろうジョン・モリス研究けんきゅうじょう指導しどうけ、内村うちむら直也なおやともった[8]

1942ねん昭和しょうわ17ねん)に慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく卒業そつぎょうした道夫みちお大学院だいがくいん進学しんがくし、おもにシェイクスピアベン・ジョンスン研究けんきゅうした[5]。そのかたわら、神田かんだ神田かんだ三崎みさきまちげん千代田ちよだ神田かんだ三崎みさきまち)のアテネ・フランセにもかよい、画家がか山内やまうち穎吾交友こうゆうした[8]

1943ねん昭和しょうわ18ねん)には、高津たかつ春繁はるしげからギリシャまなんだ[8]。このとしから道夫みちおは、最初さいしょ長編ちょうへん戯曲ぎきょくとなる「なよたけ」をはじめた[8]。このころヴァレリイリルケジロゥドゥクローデルなどを愛読あいどくした[8]道夫みちおのうにも興味きょうみをもち、中村なかむら真一郎しんいちろうらとともによく観劇かんげきった[8]折口おりぐち信夫しのぶ作品さくひんにも影響えいきょうけた。また、このとしには、陸軍りくぐんしょう通訳つうやくかん試験しけんけて任官にんかんした[8]

南方なんぽう出征しゅっせい

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1944ねん昭和しょうわ19ねん)のはる加藤かとう道夫みちお処女しょじょ戯曲ぎきょく「なよたけ」(5まく)をだつ稿こうする[8]。このころ川口かわぐち一郎いちろうった[10][6]。このとし陸軍りくぐんしょう通訳つうやくかんとして南方なんぽう赴任ふにんし、マニラハルマヘラとうて、東部とうぶニューギニアにたどりいた[8]ソロンという部落ぶらく終戦しゅうせんまでごすが[注釈ちゅうしゃく 1]、そのマラリア栄養失調えいようしっちょうにより死線しせんをさまよった加藤かとうは、陰鬱いんうつジャングル野戦やせん病院びょういんたて小屋こや片隅かたすみで、はげしい熱病ねつびょう憔悴しょうすいよこたえていた[8][11]

さそいはすで間近まぢかにあった。ぬなどとうことは至極しごく簡単かんたんなことのようおもわれた。ただ、ちょっとをゆるめればいい。精神せいしんせいへの意志いし放棄ほうきしさえすれば、それだけでなんもなくねる、とうことだけはぼく確信かくしんしていた。事実じじつぬということほど造作ぞうさくのないことはなかった。毎日まいにちなんじゅうにんという人間にんげんたちが、まるでみずからすすんでそうするかのように、ころッころッとんでった。重病じゅうびょうじんたちむしろそうなることをのぞんでいるのだ。……ああ、それに、あのあめさんヶ月かげつよんヶ月かげつなくりつづくあめあめ
……しんくさりきってしまうようなあのニューギニアの雨期うき。……ただ肉体にくたいだけをきるとうことはえられぬ倦怠けんたい以外いがいなにぶつでもなかった。絶望ぜつぼうかげがあたりをおおいつくしていた。ぼく目前もくぜんむかっていた。たいする恐怖きょうふは殆んどなかった。此処ここらでは人々ひとびと人間にんげん社会しゃかい因習いんしゅうからはるかにとおへだたっていた。肉親にくしんから、家庭かていから、あらゆる社会しゃかい羈絆きはんから。 — 加藤かとう道夫みちおについて」[11]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)8がつ終戦しゅうせんともに、終戦しゅうせん事務じむ戦犯せんぱん通訳つうやく仕事しごと従事じゅうじした加藤かとうは、そのあいだ徐々じょじょ体力たいりょく回復かいふくしていった[8]

帰国きこく

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1946ねん昭和しょうわ21ねん)のなつ加藤かとうはニューギニアから日本にっぽん帰国きこくした[8]出征しゅっせいまえげていた「なよたけ」は、雑誌ざっし三田みた文学ぶんがく』に連載れんさい発表はっぴょうちゅう(5がつから10がつまで)であった[10]加藤かとう帰国きこくするとすぐに、芥川あくたがわ比呂志ひろしらとチェーホフの『くま』を上演じょうえんした[8]

同年どうねん加藤かとう東京とうきょう女子じょし経済けいざい専門せんもん学校がっこうげん新渡戸にとべ文化ぶんか中学校ちゅうがっこう高等こうとう学校がっこう)に奉職ほうしょくした[8]。また、太宰だざいおさむの『しんハムレット』の脚色きゃくしょくこころみた[8][12]。そのさく演出えんしゅつ意欲いよくをそそられた芥川あくたがわ太宰だざいおさむ上演じょうえん許可きょかをもらうため、疎開そかいさき青森あおもりけん北津軽きたつがるぐん金木かなぎまちげん五所川原ごしょがわら)をなつ訪問ほうもんしたが、加藤かとう脚色きゃくしょく未完みかんとなり上演じょうえんされなかった[12]

10月には滝浪たきなみ治子はるこ女優じょゆう加藤かとう治子はるこ)と結婚けっこん[8]仲人なこうど芥川あくたがわ比呂志ひろし瑠璃子るりこ夫妻ふさいつとめた[4]新婚しんこん加藤かとう治子はることも世田谷せたがや上馬かみうま一時いちじんだのちちかくの若林わかばやしまちにあるひろ西洋せいようかん実家じっかうつり、加藤かとう親族しんぞく同居どうきょした[4]

1947ねん昭和しょうわ22ねん)は、マラリア再発さいはつして病臥びょうがすることがおおく、貧窮ひんきゅうして新聞しんぶん雑誌ざっしとう雑文ざつぶんいた[8]。このとしに「しん演劇えんげき研究けんきゅうかい」は、劇団げきだんむぎかい」と改称かいしょうして、芥川あくたがわ比呂志ひろし長岡ながおか輝子てるこ荒木あらき道子みちこ島田しまだ安行やすゆきらとともさい出発しゅっぱつした[4][8]。このころ島田しまだつうじて俳優座はいゆうざ矢代やしろ静一せいいち早稲田大学わせだだいがく仏蘭西ふらんす文学ぶんがくせい)とい、以後いご親交しんこうむすんでいった[4]

同年どうねんには、東京とうきょう女子じょし経済けいざい専門せんもん学校がっこうしょくして、出身しゅっしんこう慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく奉職ほうしょくした[8]久保田くぼた万太郎まんたろう岩田いわた豊雄とみお木下きのした順二じゅんじともい、評論ひょうろん演劇えんげき故郷こきょう」を雑誌ざっし劇作げきさく』に発表はっぴょうした[8]

新進しんしんげき作家さっか

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1948ねん昭和しょうわ23ねん)、雑誌ざっし三田みた文学ぶんがく』に、ニューギニアでの体験たいけんつづった回想かいそう評論ひょうろんについて」などを発表はっぴょう雑誌ざっし劇作げきさく』には評論ひょうろん舞台ぶたい幻想げんそういち)()」を連載れんさいし、評論ひょうろんジロゥドゥ世界せかいアヌイュ世界せかいオンディーヌユーリディス)」を雑誌ざっし悲劇ひげき喜劇きげき』(だい4しゅう)に発表はっぴょう同誌どうしだい5しゅうには、戯曲ぎきょく挿話そうわ(エピソオド)」を発表はっぴょうした[13]

また同年どうねんには、評論ひょうろん「アメリカ戯曲ぎきょく特徴とくちょう写実しゃじつ精神せいしん)」を雑誌ざっし日本にっぽん演劇えんげき』に発表はっぴょう[13]新月しんげつしゃかん雑誌ざっし『フランス演劇えんげき』には、ジロゥドゥの『シャイヨの狂女きょうじょ』の抄訳しょうやくせた[13]。しかし同年どうねんあき肋膜炎ろくまくえんとなり、いで肺浸潤はいしんじゅんのため、小金井こがねいさくらまち病院びょういん入院にゅういんした[13]

入院にゅういんちゅうの12月には、 岸田きしだ国士くにおらにその格調かくちょうある詩劇しげき様式ようしきたか評価ひょうかされた『なよたけ』(1946ねん発表はっぴょう)により、はら民喜たみき(『なつはな』)、鈴木すずき重雄しげおともだいいちかい水上みずかみ滝太郎たきたろうしょう三田みた文学ぶんがくしょう)を受賞じゅしょうし、新進しんしんげき作家さっかとして文壇ぶんだんみとめられた[1][13]

文学ぶんがく合流ごうりゅう

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1949ねん昭和しょうわ24ねん)にさくらまち病院びょういん退院たいいんしたのちは、自宅じたく療養りょうよう生活せいかつつづけた[13]病床びょうしょうしながら、ウィリアム・サローヤン戯曲ぎきょくきみ人生じんせいとき』を翻訳ほんやくし、ラジオ短評たんぴょうを『時事新報じじしんぽう』にいた[13]

同年どうねん3がつには、前年ぜんねん発表はっぴょう戯曲ぎきょく挿話そうわ』が文学ぶんがくにより上演じょうえんされ、これが加藤かとう劇作げきさくはつ上演じょうえんさくとなった[14]。この『挿話そうわ上演じょうえんに「むぎかい」は正月しょうがつから文学ぶんがく合流ごうりゅうし、加藤かとう文学ぶんがく座員ざいんとなった[4][14]

同年どうねん4がつから文学ぶんがく付属ふぞくの「演劇えんげき研究所けんきゅうじょ」が開校かいこうされ、加藤かとう芥川あくたがわ岸田きしだ国士くにおから、俳優はいゆう教育きょういくまかされた[15]加藤かとうらがいれした当初とうしょ文学ぶんがくわる連中れんちゅうおおかった[15]

加藤かとう研究生けんきゅうせいらに、シェイクスピア朗読ろうどく英語えいごかせ、フランス文学ぶんがくしゃ内藤濯ないとうあろう中原なかはら中也ちゅうや三好みよし達治たつじ題材だいざいにしてみみからはい日本語にほんごうつくしさについて講義こうぎし、おのれうら内的ないてき世界せかいつ「あたらしい俳優はいゆう」をそだてようとした[15]加藤かとう演劇えんげきてき理想りそうたいする共鳴きょうめいや、その人柄ひとがらかれた研究生けんきゅうせいたちは次第しだい活気かっきび、のちに「加藤かとう道夫みちお神話しんわ」とわれるほどわか俳優はいゆう影響えいきょうあたえていった[15]

いち俳優はいゆう芸術げいじゅつならば、詩人しじんつねおのれれの内面ないめん詩的してき世界せかいっているよう俳優はいゆうもまたおのれれの意識いしきうら演劇えんげき本質ほんしつもとづいた厳密げんみつ言葉ことばとヴィジオンの内的ないてき世界せかいっていなければならぬ。

、「描写びょうしゃ偏重へんちょうてよ。「描写びょうしゃ」というものは実証じっしょうてき客観きゃっかんてき知性ちせいだけで出来できるごくつまらぬものだ。
さん、「表現ひょうげん」せよ。「表現ひょうげん」となると強烈きょうれつ主観しゅかんてき知性ちせいはたらかなければ不可能ふかのうである。あたらしい俳優はいゆう魅力みりょく決定けっていするものはこの主観しゅかんてき知性ちせいである。

よん芸術げいじゅつ共産党きょうさんとういんであっても一向いっこう差支さしつかえないはずだが、外的がいてき政治せいじ意識いしき内的ないてき芸術げいじゅつ意識いしきとは悲劇ひげきてき相容あいいれない関係かんけいにある。 — 加藤かとう道夫みちお新劇しんげきへの不信ふしん[16]

同年どうねん6がつ芥川あくたがわ比呂志ひろしはつのプロ演出えんしゅつさく『アンチゴーヌ』(ジャン・アヌイ原作げんさく)が上演じょうえんされた毎日まいにちホールのロビーで、加藤かとう矢代やしろ静一せいいちから、劇作げきさくをしはじめた三島みしま由紀夫ゆきお紹介しょうかいされ、以後いご親交しんこうむすんだ[17]矢代やしろもこのつき俳優座はいゆうざめて文学ぶんがく研究生けんきゅうせいとなった[17]年下としした矢代やしろ三島みしま加藤かとうのことを「加藤かとうさん」とび、芥川あくたがわは「みちちゃん」とんでいたという[17]

同年どうねん9がつ加藤かとう倉橋くらはしけんともやくしたサローヤンの『しん高原こうげんに』を文学ぶんがくアトリエのために演出えんしゅつ[13]。この作品さくひんはつのプロ演出えんしゅつさくとなった[17]。また、1まくぶつの「天邪鬼あまのじゃく(あまのじゃく)」を雑誌ざっし少年しょうねん少女しょうじょ』に発表はっぴょう主人公しゅじんこう自殺じさつするというシーンが議論ぎろんんだ[18]評論ひょうろん新劇しんげき動向どうこう」を雑誌ざっし再建さいけん評論ひょうろん』に、放送ほうそうげきだれらない歴史れきし」を雑誌ざっし日本にっぽん演劇えんげき』に発表はっぴょうした[13]。このとしには、出身しゅっしんこう慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく講師こうしとなった[13]

くもかい同人どうじん

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1950ねん昭和しょうわ25ねん)4がつに、サローヤン『きみ人生じんせいとき』の訳書やくしょ中央公論社ちゅうおうこうろんしゃより刊行かんこうされた[13]雑誌ざっし三田みた文学ぶんがく』には、NHK放送ほうそうげき「こよなきうた(La Bonne Chanson)」を発表はっぴょうし、雑誌ざっし人間にんげん』には、評論ひょうろん「アメリカ演劇えんげき常識じょうしきせい」、サルトル戯曲ぎきょくはえ』の翻訳ほんやくせた[注釈ちゅうしゃく 2]、『東京とうきょう新聞しんぶん』『毎日新聞まいにちしんぶん』『テアトロ』などに「演劇えんげき時評じひょう」を執筆しっぴつした[19]。また、福田ふくだひさしそんさく戯曲ぎきょく『キティ颱風たいふう』の関西かんさい公演こうえん俳優はいゆうとして出演しゅつえんした[13]

同年どうねん8がつには、岸田きしだ国士くにおが「文学ぶんがく立体りったい運動うんどう」を提唱ていしょうして主宰しゅさいした「くもかい」の結成けっせいに、芥川あくたがわ比呂志ひろし三島みしま由紀夫ゆきお矢代やしろ静一せいいちらととも参加さんかした[3][20]。このかい発足ほっそくにはに、大岡おおおか昇平しょうへい小林こばやし秀雄ひでお福田ふくだひさしそんなどもおり、総勢そうぜい63めいつらねた[3][注釈ちゅうしゃく 3]

またなつには、軽井沢かるいざわ追分おいわけおとずれてほり辰雄たつおった[13]加藤かとうはこのとしふたた健康けんこうにすぐれず自宅じたく病臥びょうがすることがおおかった[13][21]。この時期じき矢代やしろ結核けっかくわずらい、おなじく胸部きょうぶ疾患しっかん再発さいはつをした芥川あくたがわ2人ふたりども慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく病院びょういん入院にゅういんしていた[21]

同年どうねん11がつ加藤かとう気胸ききょう療法りょうほうなどをこころ闘病とうびょうしながらも、「青年せいねん劇場げきじょう」という文学ぶんがくから独立どくりつしたあたらしい劇団げきだん構想こうそういだき、芥川あくたがわ喚起かんき手紙てがみした[22]

研究けんきゅうせい一部いちぶ充分じゅうぶんあたらしいグループの中心ちゅうしんたる資格しかくあり、とおもう。経済けいざいてき精神せいしんてきに、いちさい文学ぶんがくプロパーから独立どくりつして、〈しん演劇えんげき〉の方向ほうこうけてそだげること。ぼくのやりたいこと、すべきことはこれ以外いがいにない。これゆるされないならばぼくめてしまう。(中略ちゅうりゃく一切いっさいのオベッカを放棄ほうきしてL’homme artiste になりたまえ。きみさけ理性りせいうしなっている姿すがた見苦みぐるしい。ぼうなどとうくだらぬおんなとケンカしているきみ姿すがたはイタマしいとうよりは、アサマしい。 — 加藤かとう道夫みちお芥川あくたがわ比呂志ひろしへの書簡しょかん」(昭和しょうわ25ねん11月30にちづけ[22]

1951ねん昭和しょうわ26ねん)、1まくぶつの「まねし小僧こぞう」を雑誌ざっし少年しょうねん少女しょうじょ』に発表はっぴょう[20]雑誌ざっし演劇えんげき』にカミュの『誤解ごかい』の翻訳ほんやくせ、その翻訳ほんやくした『カリギュラ』もあわせて10がつには新潮社しんちょうしゃから出版しゅっぱんした[20]新潮社しんちょうしゃかんの『日本にっぽん現代げんだい戯曲ぎきょくしゅうV』に「挿話そうわ」が収録しゅうろくされ、書肆しょしユリイカから『なよたけ』が限定げんてい出版しゅっぱんされた[20]。また、岸田きしだ国士くにおちょあたらしき演劇えんげきのために』(つくもと文庫ぶんこはん)の「解説かいせつ」を担当たんとうした[20]

同年どうねん6がつ、『なよたけ』が、やく3ぶんの1にカットされ『なよたけしょう』として東京とうきょう新橋しんばし演舞えんぶじょう尾上おがみ菊五郎きくごろう劇団げきだん演出えんしゅつ岡倉おかくら士朗しろうにより縮小しゅくしょう上演じょうえんされた[20][21]大幅おおはばなカットに上演じょうえん許可きょかするかどうかを加藤かとうまよい、戸板といた康二こうじ相談そうだんしていた[21]三島みしま縮小しゅくしょう上演じょうえん同情どうじょうし、はらてていた[21][23]

加藤かとう文学ぶんがくいれした動機どうきひとつには、自身じしん演出えんしゅつによる『なよたけ』の完全かんぜん上演じょうえんゆめがあり、主人公しゅじんこうぶん麻呂まろ芥川あくたがわ比呂志ひろし、ヒロインのなよたけに加藤かとう治子はるこ配役はいやくし、演出えんしゅつ助手じょしゅ矢代やしろ静一せいいち理想りそうであった[21]。しかしかれらは文学ぶんがくにおいては、まだ新参しんざんしゃであり時期じき尚早しょうそうであった[21]。カット上演じょうえんにしろ劇団げきだん上演じょうえんすると、さらに文学ぶんがくでの来年らいねん上演じょうえん可能かのうせいはほぼなくなった[21]

このとしに、評論ひょうろん演劇えんげき変貌へんぼう」、「あたらしい芝居しばいいち)・()」の連載れんさい戯曲ぎきょくおもおとこ」を雑誌ざっし演劇えんげき』に発表はっぴょう[20]。NHKのため、シェイクスピアの『テンペスト』を脚色きゃくしょくした[20]

また、中村なかむら光夫みつお福田ふくだひさしそん戸板といた康二こうじともに「くもかい刊行かんこう単行本たんこうぼん演劇えんげき講座こうざ』(河出かわで書房しょぼうよりぜん5かん)の編集へんしゅうたずさわり、評論ひょうろん「フランス演劇えんげき」「シェイクスピアとジョンスン」など執筆しっぴつ河出かわで書房しょぼう刊行かんこうの『現代げんだい戯曲ぎきょく選集せんしゅう だいかん』に「なよたけ」が収録しゅうろくされた[20]。10月、カミュ翻訳ほんやくしょカリギュラ誤解ごかい』を新潮社しんちょうしゃより刊行かんこうし、11月に文学ぶんがくアトリエで『誤解ごかい』を演出えんしゅつした[20]

加藤かとう出身しゅっしんこうである慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがくや、慶應義塾けいおうぎじゅく高等こうとう学校がっこうなどで講師こうしつとめながら、独自どくじ文体ぶんたいによる戯曲ぎきょく発表はっぴょうしていった。慶應けいおう高校こうこうでの英語えいごおしには浅利あさり慶太けいたなどもいた[15]

1952ねん昭和しょうわ27ねん)には、ほり辰雄たつおさく曠野あらの』(『今昔こんじゃく物語ものがたり』のいち説話せつわ題材だいざいにした作品さくひん)をしん日本にっぽん放送ほうそうのため脚色きゃくしょくした[20]ドオデ戯曲ぎきょくアルルのおんな』を角川書店かどかわしょてん角川かどかわ文庫ぶんこ)より翻訳ほんやく出版しゅっぱん[20]人文書院じんぶんしょいん刊行かんこうの『サルトル全集ぜんしゅう』には加藤かとうやくはえ」が収録しゅうろくされた[20]。サルトルの戯曲ぎきょく悪魔あくま神様かみさま』の抄訳しょうやく雑誌ざっし芸術げいじゅつ新潮しんちょう』にせて紹介しょうかいし、雑誌ざっし放送ほうそう文化ぶんか』には評論ひょうろん詩劇しげきいて」を発表はっぴょうした[24]

同年どうねん5がつ文学ぶんがくもとめにおうじ、ほり田善でんぜんまもる原作げんさくの『漢奸かんかん』『歯車はぐるま』などより『祖国そこく喪失そうしつ』を脚色きゃくしょく演出えんしゅつした(三越みつこし劇場げきじょう関西かんさい上演じょうえん[25]。そのは、放送ほうそうげきまち」を雑誌ざっし悲劇ひげき喜劇きげき』に発表はっぴょう評論ひょうろん戯曲ぎきょく文体ぶんたいについて」を雑誌ざっし文學ぶんがくかい』に発表はっぴょうし、ジュヴェ評論ひょうろんしゅうきゅうきみ(エクツトモナミ)』の抄訳しょうやく紹介しょうかいを『芸術げいじゅつ新潮しんちょう』にせた[25]。また、芥川あくたがわ比呂志ひろし演出えんしゅつの『きょう々しき娼婦しょうふ』の関西かんさい上演じょうえん俳優はいゆうとして協力きょうりょく出演しゅつえん[25]ラジオ東京とうきょうのため『おもおとこ』を放送ほうそう劇化げきかした[25]

襤褸らんる宝石ほうせき初日しょにちいちけん

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劇作げきさく演出えんしゅつ活躍かつやくする一方いっぽう加藤かとうラジオドラマ評論ひょうろん翻訳ほんやく発表はっぴょう西洋せいよう演劇えんげき精神せいしん現代げんだい日本にっぽん舞台ぶたいかそうとしたこころみはたか評価ひょうかされたが、1952ねん昭和しょうわ27ねん)10がつ1にち俳優座はいゆうざにより初演しょえんされた文部省もんぶしょう芸術げいじゅつさい委嘱いしょく作品さくひん襤褸らんる宝石ほうせき』(演出えんしゅつ千田せんだ是也これや)への評価ひょうかは、仲間なかまないでもあまりかんばしくなかった[23][26]

襤褸らんる宝石ほうせき初演しょえん観劇かんげきみな有楽町ゆうらくちょう寿司すし横丁よこちょうくことになったが、いちけんみせ全員ぜんいんはいりきれず、路地ろじへだてたむかがわのもういちけんみせかれ、かい座敷ざしきまどってのうたげとなった[23][26]主賓しゅひん加藤かとうのいる座敷ざしきには、したしい芥川あくたがわ比呂志ひろし矢代やしろ静一せいいち三島みしま由紀夫ゆきおほかわか後輩こうはい面々めんめんはいり、加藤かとうのいないほう座敷ざしきは、福田ふくだひさしそん中村なかむら光夫みつおほり田善でんぜんまもる中村なかむら真一郎しんいちろうなどのかおぶれだった[26]最初さいしょはおたが交歓こうかんっていたが、祝杯しゅくはいささげられたのちむこうのまどにぎわいが次第しだいにヒソヒソこえになっていった[23][26]

やがて、むこうの障子しょうじまどめられ、ひそかに戯曲ぎきょく出来でき批評ひひょうしているのがありありとわかる雰囲気ふんいきだった[23][26]加藤かとうあおかおになった[23]まずい空気くうききほぐそうとだれかが、「畜生ちくしょう悪口わるぐちおうとおもって、障子しょうじめやがったな」とったことが、かえってしずませた[23]冗談じょうだんでおどけたりできない真面目まじめ加藤かとうは、眉間みけんをぴくぴくふるわせうつむいたきり、お寿司すしまったをつけずさかずきもふせたままだった[26]

矢代やしろ芥川あくたがわ親友しんゆうなだけに、げき感動かんどうしたなどと空々そらぞらしいことをえず、お世辞せじぎゃく不誠実ふせいじつだとおもとしごろでもあったため、戯曲ぎきょく出来できれないわりに役者やくしゃ演技えんぎけなして元気げんきづけようとしたが、がらなかった[26]三島みしまむこがわ障子しょうじまどめられたときまずさをつぎのようにかたっている[23]

わたしはこんなことになるまでは、加藤かとう今夜こんや初日しょにち素直すなお意見いけんげんはうとおもえつてゐたのであるが、この瞬間しゅんかんから、げんへなくなつてしまつた。不幸ふこう初日しょにち作者さくしゃしんがあまりにもありありとわかつたからである。そこまで自身じしんがわかつてゐるものなら、だれがそれ以上いじょう傷口きずぐちをつつこむやうな真似まねをする必要ひつようがあるだらうか。 — 三島みしま由紀夫ゆきおわたし遍歴へんれき時代じだい[23]

三島みしまは、「きし輝子てるこさんの乞食こじきばあさんの、半間はんまはずしたセリフ面白おもしろかったね」と、戯曲ぎきょく長所ちょうしょをいくつかひろあつめて加藤かとうはげましていたが、その渋谷しぶやスナックバー「ボン」での合同ごうどうかいでも、加藤かとう懸命けんめい自分じぶんおさえようと努力どりょくしながらもかない表情ひょうじょうかくすことができなかった[23][26]

傷心しょうしんとカトリック

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加藤かとうが『襤褸らんる宝石ほうせき』の不評ふひょうをそのもかなりにしていたことは、尾崎おざき宏次こうじての手紙てがみからもうかがえるが[26]、その文面ぶんめんで、三島みしま感想かんそう東野とうの英治郎えいじろうやく台詞せりふがお説教せっきょうみたいだったという意見いけん)だけには納得なっとくしてうなずいていた[26]

襤褸らんる宝石ほうせき』のいちけんのあった1952ねん昭和しょうわ27ねん)のくれから、加藤かとうカトリック関心かんしんちはじめ、神父しんぷのもとにかよっていた[26][27]加藤かとう実兄じっけい加藤かとう幸子さちこちち)も加藤かとうすすめられて信者しんじゃとなった[27]。またこのとしほり辰雄たつおゆかりの信濃追分しなのおいわけにある「油屋あぶらや旅館りょかん」のとなりちいさな山荘さんそうて、12月からはそこで、アルフレッド・ド・ミュッセの『マリアンヌの気紛きまぐれ』の翻訳ほんやく作業さぎょうんだ[26]

同年どうねんには、「ぼく演劇えんげき遍路へんろ」を雑誌ざっし会館かいかん芸術げいじゅつ』に発表はっぴょう、1まくぶつの「天国てんごく泥棒どろぼう」を雑誌ざっし文藝ぶんげい』に発表はっぴょう、ピェール・ベソン『五日いつか』を翻訳ほんやくした[25]

1953ねん昭和しょうわ28ねん)11月には、『ジャン・ジロゥドゥ世界せかい――ひととその作品さくひん』を早川書房はやかわしょぼうから刊行かんこうしてこう評価ひょうかされた[27]同月どうげつには戯曲ぎきょくおもおとこ』(1951ねん)が、やっと文学ぶんがくアトリエで上演じょうえんされた[27]。この戯曲ぎきょく同年どうねん河出かわで書房しょぼう刊行かんこうの『新選しんせん現代げんだい戯曲ぎきょく だいかん』にも収録しゅうろくされた[25]

その放送ほうそうげき奇妙きみょう幕間まくあい狂言きょうげん」(ラジオ東京放送とうきょうほうそう)を『悲劇ひげき喜劇きげき』に掲載けいさい[25]新潮社しんちょうしゃからは白井しらい健三郎けんざぶろうともやくしたカミュ『正義せいぎ人々ひとびと』を刊行かんこう[25]N・C・Bのための放送ほうそうげき泥棒どろぼうあかぼう』を執筆しっぴつし、ラジオ東京とうきょうで『挿話そうわ』を放送ほうそう劇化げきかした[25]。また、スタジオ・8・プロダクションのために『襤褸らんる宝石ほうせき』のシナリオ執筆しっぴつした[25]

突然とつぜん自殺じさつ

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同年どうねん1953ねん昭和しょうわ28ねん)の12月は、16にちごろまでは静岡しずおかけん田方たがたぐんうえ狩野かのむらげん伊豆いず)の嵯峨さがさわ温泉おんせんで、ミュッセの翻訳ほんやく『マリアンヌの気紛きまぐれ』を仕上しあげて清書せいしょし、9にちには宿やどからつま治子はるこ手紙てがみした[28]

こんな贅沢ぜいたく宿屋やどやにいると毎日まいにち苦労くろうしているぼうのことをかんがえて心苦こころぐるしい。でも、若林わかばやしいえではどうしても落着おちついて仕事しごとにつかないので、勘弁かんべんしてください。岩波いわなみのミュッセだけはどうしても今月こんげつちゅうわたしてしまわねばならないので。
来年らいねんかならちいさないえをみつけて引越ひっこすから、もうすこし我慢がまんしてください。来年らいねんかならずいいことがあるように努力どりょくします。身体しんたい調子ちょうしはいいです。じゅうろくにちよるにはかえります。風邪かぜをひかないように頑張がんばってください。 — 加藤かとう道夫みちお加藤かとう治子はるこへの書簡しょかん」(昭和しょうわ28ねん12月9にちづけ[28]

しかし帰京ききょうしたのちの12月22にちよる加藤かとう自宅じたく書斎しょさいで、本棚ほんだな上段じょうだんのパイプに寝巻ねまきひもくくけ、すここしゆかからいたような状態じょうたい縊死いし自殺じさつした[28]同居どうきょしていためい幸子さちこによると、就寝しゅうしんまえ加藤かとう部屋へやまえとおったときに、とびらしたからオレンジしょくひかりれていてしずかだったという[28]。その夜更よふけ、帰宅きたくしたつま治子はるこ加藤かとう発見はっけんした[28]。ベッドの枕元まくらもとにはしょくパン歯磨はみががあった[28]

つま治子はるこ芥川あくたがわての遺書いしょには、「ぼくようにしてつみおかされ、その記憶きおくが、いまにしく、地獄じごくくるしみ…」という言葉ことばかれてあり、遠因えんいんには、よう時期じきだれかから悪戯いたずらわいせつ行為こうい性的せいてき虐待ぎゃくたい)をされた体験たいけんがあったことがうかがわれた[28][29]加藤かとう自殺じさつした中村なかむら真一郎しんいちろう原田はらだ義人よしひと矢内やないはら伊作いさくらが忘年会ぼうねんかいもよおしていたが、加藤かとう欠席けっせきしてなかった[28]

翌日よくじつの12月23にち訃報ふほういて三島みしま由紀夫ゆきお加藤かとうていけつけた。治子はるこ夫人ふじんによると、三島みしま心底しんそこから加藤かとういたんでいるのがわかったという[28]ほかにも、大阪おおさかにいた芥川あくたがわ比呂志ひろし以外いがいの、岸田きしだ国士くにお矢代やしろ静一せいいち中村なかむら真一郎しんいちろう木下きのした順二じゅんじ観世かんぜ栄夫ひでお北見きたみおさむいち神山かみやましげる仲谷なかたにのぼる小池こいけ朝雄あさおらがけつけ、このかり通夜つやがあった[28]翌日よくじつ12がつ24にちほん通夜つやおこなわれ、告別こくべつしきの12月25にちゆきであった[28]

矢代やしろ静一せいいちが、最後さいご加藤かとう有楽町ゆうらくちょうえきちかくの喫茶店きっさてん「レンガ」でったときには、あまりしゅめない加藤かとうが「ぼくいちはいだけつきうから、おおいにみたまえ」と酒好さけずきの矢代やしろのためにビールを注文ちゅうもんしてくれ、「ぼくはこのごろ、からだちゅう関節かんせつがはずれたみたいで、チャップリンみたいなあるかたしかできないのだ」とユーモラスにささやいてわらわせていたという[29]

加藤かとうの3週間しゅうかんまえに「うまねん作家さっか感想かんそう」というエッセイを発表はっぴょうしていたが、そこには「生来せいらい神経しんけいよわぼく」、「おそれさこ観念かんねんかれている」、「一種いっしゅのノイローゼにおそわれて」などの文言もんごんもあり、「さん度目どめうまねんむかえて、せいぜい健康けんこうになって、のんびり落伍らくごしないように努力どりょくしたい」としるされていた[30][29]

このすう年間ねんかんをふりかえってみて、自分じぶん随分ずいぶんいい加減かげんかたをしてたものだとおもう。人間にんげん自分じぶんく〈社会しゃかい〉とじつきわめて不自由ふじゆう限界げんかい状況じょうきょうなか拘束こうそくされている。そうしなければきてけないのだ。うまくきてくことは、うまく拘束こうそくされてくということだ。たとえば作家さっか注文ちゅうもんわれてきている。われなければかれ社会しゃかいてき地位ちい確保かくほ出来できないのだが、じつおおくの作家さっかはそのため内面ないめんてきには段々だんだんんでくのではないかというがする。我国わがくに文化ぶんか経済けいざい状態じょうたいがそうさせるのである。(中略ちゅうりゃく
生来せいらい神経しんけいよわぼくなどはただかねばならぬとこわさこ観念かんねんかれている。健康けんこう状態じょうたいくことをこばはじめるといちしゅのノイローゼにおそわれて、完全かんぜん無為むい状態じょうたいる。……さん度目どめうまねんむかえて、せいぜい健康けんこうになって、のんびり落伍らくごしないように努力どりょくしたい、とおもっている。 — 加藤かとう道夫みちおうまねん作家さっか感想かんそう[30]

死後しご追悼ついとう

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友人ゆうじんだった加藤かとうについて三島みしまは、「わたしなん誇張こちょうもなしにうんふが、うまれてから加藤かとうほどしんのきれいなひとたことがない」と[31]、「しんやさしい詩人しじんは、『理想りそう劇場げきじょう存在そんざいするくに』へと旅立たびだつた」と哀悼あいとうしている[32]

ともあれ「なよたけ」をのこしてんだ加藤かとう道夫みちおは、「モオヌの大将たいしょう」をのこしてんだアラン・フウルニエ想起そうきさせる。とも完璧かんぺき青春せいしゅん遺書いしょであり、不朽ふきゅう青春せいしゅんあかしである。しかしフウルニエはこうひにして戦場せんじょうんだが、加藤かとう戦後せんごのおぞましい現実げんじつあえひ、だいまくで、子供こどもたちのむしるい虐待ぎゃくたいざんげをきいてはなつなよたけのさけびのやうに、「まあ、むごたらしい!……そんなことをするから、人達ひとたちべなくてもいいものまでべるやうになつてしまふ」その「」に立会たちあいふといふ不幸ふこうを、えっしなければならなかつた。かくてこのひとにく嗜食末世まっせは、一人ひとりしんうつくしい詩人しじんを、くえべてしまつたのである。 — 三島みしま由紀夫ゆきお加藤かとう道夫みちおのこと」[31]

おなじく友人ゆうじんで、加藤かとうすすめられ、そのカトリック傾倒けいとうした矢代やしろ静一せいいちは、加藤かとうまえうつびょうぎみになっていたとする中村なかむら真一郎しんいちろう仮説かせつかんがみながら、以下いかのようにかたっている[27]

いまとなってはたしかめるすべもないが、そのやめいが、かれ病的びょうてきにリゴリスト(厳格げんかく主義しゅぎしゃ)に仕立したててあげ、その結果けっかとして、自分じぶんにはかみ御許おもと資格しかくなしと、自己じこ判断はんだんくだしてしまったのではないか。わたしが、加藤かとうからじゅうねんほどたって、かみむかってそのげたのは、加藤かとうがくれたあの「カトリック入門にゅうもんしょ」のなか一節いっせつにとまったからであった。
自殺じさつ最大さいだい罪悪ざいあくである」 加藤かとうは、この一節いっせつに、わざわざ定規じょうぎをあててしゅせんいていた。 — 矢代やしろ静一せいいち旗手きしゅたちの青春せいしゅん――あのころ加藤かとう道夫みちお三島みしま由紀夫ゆきお芥川あくたがわ比呂志ひろし[27]

福永ふくなが武彦たけひこは、加藤かとう自殺じさつ衝撃しょうげきけ、『よるさんさく』を執筆しっぴつしたとかたっている[33]

加藤かとう処女しょじょさくであり代表だいひょうさくの『なよたけ』がノーカットで完全かんぜん上演じょうえんされたのは加藤かとう死後しごになったからのことで、1955ねん昭和しょうわ30ねん)9がつに、加藤かとう念願ねんがんであった文学ぶんがくにより、大阪おおさか毎日まいにち会館かいかん芥川あくたがわ比呂志ひろし演出えんしゅつおこなわれた[21]三島みしまは、「かれ生前せいぜんにこれを上演じょうえんしなかつた劇壇げきだんといふところは、残酷ざんこくなところだ」と批判ひはんしながら、もしも加藤かとう生前せいぜんに『なよたけ』が完全かんぜん上演じょうえんされていれば、「かれからすくえつたかもしれない」としている[31]

芝居しばい仕事しごと悲劇ひげきは、このでもつとも清純せいじゅんなけがれのないしんが、一度いちど芝居しばい理想りそうけられると、かならずひどいかいふのがオチだといふことである。(中略ちゅうりゃく
加藤かとうがあれほど上演じょうえんちわびた代表だいひょうさく「なよたけ」さえ、文学ぶんがくによつて完全かんぜん上演じょうえんされたのは死後しごであり、生前せいぜんは、いつも不安ふあん不満ふまんにおびやかされながら、ジロオドオへの至純しじゅんなあこがれと、宝石ほうせきのやうな演劇えんげきゆめを、しんいだきつづけた青年せいねんであつた。 — 三島みしま由紀夫ゆきおわたし遍歴へんれき時代じだい[23]

加藤かとう痛惜つうせきしていた岸田きしだ国士くにおは、その2かげつはん演出えんしゅつさくどんぞこ』(原作げんさくマクシム・ゴーリキー)の舞台ぶたい稽古けいこちゅう脳軟化症のうなんかしょう再発さいはつしてたおれ、急逝きゅうせいした[28]岸田きしだ加藤かとう追悼ついとうしてつぎのような言葉ことばのこしていた[34]

かれのやうなかたをした作家さっかだれよりも、かれは、こののこした仕事しごとりょうだけについていへば、おそらく非常ひじょうしょういにたがえひない。そのことはまた、一方いっぽうからいへば、かれぐらゐ未来みらいへの仕事しごとゆたかにのこしてつたものはないといへるのではあるまいか。こんなことを、わたしはたゞやすめのごととしてげんつてゐるのではない。
いままでかれ一緒いっしょ芝居しばい仕事しごとをしてゐた人々ひとびとしんのなかに、新劇しんげき楽屋がくや稽古けいこじょう一隅いちぐうでぢつと腕組うでぐみをしてつてゐるかれものげんひたげな姿すがたは、おそらく、なが年月としつきあいだきつゞけることと、わたししんじる。それはどこか、予言よげんしゃめいた、配役はいやくみょうおもはせる姿すがたですらあつた。 — 岸田きしだ国士くにお加藤かとう道夫みちお[34]

おもな作品さくひん

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戯曲ぎきょく放送ほうそうげき

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  • なよたけ三田みた文学ぶんがく 1946ねん5がつ-10月。執筆しっぴつは1944ねん
  • 挿話そうわ悲劇ひげき喜劇きげき 1948ねん10がつ
  • 天邪鬼あまのじゃく少年しょうねん少女しょうじょ 1949ねん
  • だれらない歴史れきし日本にっぽん演劇えんげき 1949ねん
  • こよなきうた〈La Bonne Chanson〉(三田みた文学ぶんがく 1950ねん
  • まねし小僧こぞう少年しょうねん少女しょうじょ 1951ねん) - 子供こども狂言きょうげん
  • おもおとこ演劇えんげき 1951ねん10がつ
  • 祖国そこく喪失そうしつ(1952ねん) - ほり田善でんぜんまもる原作げんさく脚色きゃくしょく
  • まち悲劇ひげき喜劇きげき 1952ねん
  • 襤褸らんる宝石ほうせき(1952ねん
  • 天国てんごく泥棒どろぼう文藝ぶんげい 1952ねん) - 現代げんだい狂言きょうげん
  • 奇妙きみょう幕間まくあい狂言きょうげん悲劇ひげき喜劇きげき 1953ねん
  • 泥棒どろぼうあかぼう悲劇ひげき喜劇きげき 1953ねん

エッセイ・評論ひょうろん

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  • 演劇えんげき故郷こきょう劇作げきさく 1947ねん
  • について(三田みた文学ぶんがく 1948ねん6がつ
  • 舞台ぶたい幻想げんそう劇作げきさく 1948ねん
  • ジロゥドゥ世界せかいアヌイュ世界せかい悲劇ひげき喜劇きげき 1948ねん
  • アメリカ戯曲ぎきょく特徴とくちょう日本にっぽん演劇えんげき 1948ねん
  • 新劇しんげき動向どうこう再建さいけん評論ひょうろん 1949ねん11月)
  • アメリカ演劇えんげき常識じょうしきせい――The Madwoman of Chaillotをみて(人間にんげん 1950ねん8がつ
  • ホイップルサローヤン三田みた文学ぶんがく 1950ねん2がつ
  • じゅう世紀せいきフランス演劇えんげき概観がいかん演劇えんげき講座こうざ 1950ねん
  • 作品さくひん展望てんぼうジャン・ジロゥドゥ(演劇えんげき講座こうざ 1950ねん
  • 詩人しじん学者がくしゃ演劇えんげき講座こうざ 1950ねん
  • 自然しぜん主義しゅぎ悲劇ひげきさい反省はんせい――「令嬢れいじょうユリエ」をて(テアトロ 1951ねん2がつ
  • 演劇えんげき変貌へんぼう演劇えんげき 1951ねん7がつ
  • げき調和ちょうわ――あたらしい芝居しばい覚書おぼえがき2(演劇えんげき 1951ねん10がつ
  • フランス演劇えんげき演劇えんげき講座こうざ 1951ねん
  • シェイクスピアジョンスン演劇えんげき講座こうざ 1951ねん
  • 詩劇しげきいて(放送ほうそう文化ぶんか 1952ねん9がつ
  • 戯曲ぎきょく文体ぶんたいについて(文學ぶんがくかい 1952ねん6がつ
  • ジュヴエきゅうきみ」(芸術げいじゅつ新潮しんちょう 1952ねん7がつ
  • 演劇えんげき遍路へんろ会館かいかん芸術げいじゅつ 1952ねん
  • 劇詩げきしじん生成せいせい――ジャン・ジロウドウ序説じょせつ三田みた文学ぶんがく 1953ねん8がつ-9がつ
  • うまねん作家さっか感想かんそう(1953ねん12がつ

ナレーション

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  • 映画えいがきる』(1952ねん10がつ)の冒頭ぼうとうナレーション

刊行かんこうほん

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自著じちょ

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  • 『なよたけ』(書肆しょしユリイカ、1951ねん6がつNCID BA36124450
  • 襤褸らんるたからせき――芸術げいじゅつさい作品さくひん』(未來社みらいしゃ、1952ねん10がつNCID BA31347673
  • 祖国そこく喪失そうしつ』(ほり田善でんぜんまもる原作げんさく加藤かとう道夫みちお脚色きゃくしょく未來社みらいしゃ、1952ねん5がつNCID BN07960856
  • 加藤かとう道夫みちおしゅう』〈しん文学ぶんがく全集ぜんしゅう〉(河出かわで書房しょぼう、1953ねん6がつNCID BA31356313
  • ジャン・ジロゥドゥ世界せかい――ひととその作品さくひん』(早川書房はやかわしょぼう、1953ねん11月)NCID BN05668106
  • おもおとこ』(未來社みらいしゃ、1954ねん9がつNCID BA45500145
  • 加藤かとう道夫みちお全集ぜんしゅう』(新潮社しんちょうしゃ、1955ねんNCID BN01007066
  • 挿話そうわ(エピソオド)』(未來社みらいしゃ、1957ねん2がつNCID BN05397111
  • 加藤かとう道夫みちお全集ぜんしゅうぜん2かん青土おうづちしゃ、1983ねん5がつNCID BN08494555

訳書やくしょ

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伝記でんき追悼ついとうろく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 加藤かとう道夫みちお全集ぜんしゅう だいいちかん』(青土おうづちしゃ、1983ねん)の月報げっぽう収録しゅうろくされている「加藤かとう道夫みちおくん」という短文たんぶんにおいてほり田善でんぜんまもるは、ソロンは西にしにあるので西部せいぶニューギニアの間違まちがいではないかと指摘してきしている。
  2. ^ 現代げんだい日本にっぽん文學ぶんがく大系たいけい92 現代げんだい名作めいさくしゅう()』(筑摩書房ちくましょぼう、1973ねん)に収録しゅうろく今村いまむらただしじゅんへんによる加藤かとう道夫みちお年譜ねんぷによれば、『はえ』の掲載けいさいは『展望てんぼう』となっている。
  3. ^ 発足ほっそく会員かいいんには、阿部あべ知二ともじ伊賀山いがやま昌三しょうぞう石川いしかわあつし市原いちはら豊太とよた井伏いぶせ鱒二ますじ臼井うすい吉見よしみ内村うちむら直也なおや梅田うめだ晴夫はるお大木おおき直太郎なおたろうおか鹿之助しかのすけ加藤かとう周一しゅういち河上かわかみ徹太郎てつたろう川口かわぐち一郎いちろうかわもりこうぞう木下きのしためぐみかい木下きのした順二じゅんじ倉橋くらはしけん小山こやま祐士ゆうしいま日出海ひでみ坂口さかぐち安吾あんご阪中さかなか正夫まさお佐藤さとうたかし佐藤さとう美子よしこ清水しみずこん神西じんざいきよし菅原すがわらたく杉村すぎむら春子はるこ杉山すぎやままこと鈴木すずき力衛りきえ千田せんだ是也これや高見澤たかみざわ潤子じゅんこ高見たかみじゅん武田たけだ泰淳たいじゅん田中たなか澄江すみえ田中たなかせん禾夫田村たむら秋子あきこ津村つむら秀夫ひでお戸板といた康二こうじ永井ながい龍男たつお長岡ながおか輝子てるこ中島なかじま健蔵けんぞう中田なかた耕治こうじ中野なかの好夫よしお中村なかむら真一郎しんいちろう中村なかむら光夫みつお野上のかみあきらはら千代ちようみ久板ひさいた栄二郎えいじろう堀江ほりえ史朗しろう前田まえだじゅんけい宮崎みやざきみねつよし三好みよし達治たつじ山本やまもと健吉けんきち山本やまもと修二しゅうじ吉田よしだ健一けんいちがいた[3]

出典しゅってん

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  1. ^ a b 鈴木すずき晴夫はるお加藤かとう道夫みちお」(きゅう事典じてん 1976, p. 88)
  2. ^ a b 平敷へしき尚子しょうこ加藤かとう道夫みちお」(事典じてん 2000, pp. 474–475)
  3. ^ a b c d だいきゅうしょう その『くもかい』」(矢代やしろ 1985, pp. 131–145)
  4. ^ a b c d e f だいよんしょう その雌伏しふく時代じだい」(矢代やしろ 1985, pp. 51–65)
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 年譜ねんぷ 1983, p. 622.
  6. ^ a b c d だいいちしょう その戦争せんそう」(矢代やしろ 1985, pp. 20–35)
  7. ^ 年譜ねんぷ 1983, p. 622-623.
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 年譜ねんぷ 1983, p. 623.
  9. ^ 年譜ねんぷ 1955, p. 889.
  10. ^ a b 年譜ねんぷ 1955, p. 890.
  11. ^ a b 加藤かとう道夫みちおについて」(三田みた文学ぶんがく 1948ねん6がつごう)。矢代やしろ 1985, pp. 20–21
  12. ^ a b だいさんしょう その出会であい」(矢代やしろ 1985, pp. 36–50)
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n 年譜ねんぷ 1983, p. 624.
  14. ^ a b だいしょう そのはつ上演じょうえん」(矢代やしろ 1985, pp. 66–81)
  15. ^ a b c d e だいはちしょう その研究所けんきゅうじょ」(矢代やしろ 1985, pp. 115–130)
  16. ^ 加藤かとう道夫みちお新劇しんげきへの不信ふしん」。矢代やしろ 1985, p. 125
  17. ^ a b c d だいろくしょう そのはつ演出えんしゅつ」(矢代やしろ 1985, pp. 82–98)
  18. ^ 児童じどう文学ぶんがく事典じてん電子でんしばん - 日本にっぽん児童じどう文学ぶんがく学会がっかい千葉大学ちばだいがくアカデミック・リンク・センター(2020ねん10がつ10日とおか閲覧えつらん
  19. ^ 年譜ねんぷ 1983, p. 624-625.
  20. ^ a b c d e f g h i j k l m 年譜ねんぷ 1983, p. 625.
  21. ^ a b c d e f g h i だいじゅうしょう そのやめい」(矢代やしろ 1985, pp. 146–163)
  22. ^ a b 加藤かとう道夫みちお芥川あくたがわ比呂志ひろしへの書簡しょかん」(昭和しょうわ25ねん11月30にちづけ)。矢代やしろ 1985, p. 147
  23. ^ a b c d e f g h i j k わたし遍歴へんれき時代じだい」(東京とうきょう新聞しんぶん夕刊ゆうかん 1963ねん1がつ10日とおか - 5月23にちごう)。32かん 2003, pp. 271–323
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  25. ^ a b c d e f g h i j 年譜ねんぷ 1983, p. 626.
  26. ^ a b c d e f g h i j k l だいじゅうしょう その傷心しょうしん」(矢代やしろ 1985, pp. 179–194)
  27. ^ a b c d e f だいじゅうさんしょう そのかみ」(矢代やしろ 1985, pp. 195–210)
  28. ^ a b c d e f g h i j k l だいじゅうよんしょう その鎮魂ちんこん」(矢代やしろ 1985, pp. 211–228)
  29. ^ a b c だいいちしょう その」(矢代やしろ 1985, pp. 9–19)
  30. ^ a b 加藤かとう道夫みちおうまねん作家さっか感想かんそう」(1953ねん12がつ)。矢代やしろ 1985, pp. 13–14に抜粋ばっすい掲載けいさい
  31. ^ a b c 加藤かとう道夫みちおのこと」(毎日まいにちマンスリー 1955ねん9がつごう)。芸術げいじゅつだんそう 1995, pp. 226–228、28かん 2003, pp. 535–537
  32. ^ 楽屋がくやかれた演劇えんげきろん――理想りそう劇場げきじょうんだ」(芸術げいじゅつ新潮しんちょう 1957ねん1がつごう)。芸術げいじゅつだんそう 1995, pp. 229–233、29かん 2003, pp. 417–420
  33. ^ 福永ふくなが武彦たけひこついで」(『福永ふくなが武彦たけひこ全集ぜんしゅうだい3かん小説しょうせつ3』新潮社しんちょうしゃ、1987ねん10がつ
  34. ^ a b 岸田きしだ国士くにお加藤かとう道夫みちお」(文藝ぶんげい 1954ねん2がつごう)。矢代やしろ 1985, pp. 222–223

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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