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日本への原子爆弾投下 - Wikipedia

日本にっぽんへの原子げんしばくだん投下とうか

1945ねんにアメリカぐん実施じっしした、日本にっぽんへの原子げんしばくだん投下とうか
原爆げんばく投下とうかから転送てんそう

日本にっぽんへの原子げんしばくだん投下とうか(にほんへのげんしばくだんとうか)は、だい世界せかい大戦たいせんだい東亜とうあ戦争せんそう/太平洋戦争たいへいようせんそう)の末期まっきである1945ねん昭和しょうわ20ねん8がつに、連合れんごうこくアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく枢軸すうじくこく日本にっぽん投下とうかした2はつ原子げんしばくだんによる空爆くうばく。1945ねん7がつマンハッタン計画けいかくによって史上しじょうはつかく実験じっけんおこなわれた[2]。これらの投下とうか世界せかい唯一ゆいいつ核兵器かくへいき実戦じっせん使用しようされたものである。日本にっぽん国内こくないにおいては、下級かきゅうしんであるが1963ねん東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょ判決はんけつにより、これらの原爆げんばく投下とうかは「国際こくさいほう違反いはんであった」という司法しほうてき判断はんだんしめされている[3][4][5]

日本にっぽんへの原子げんしばくだん投下とうか
だい世界せかい大戦たいせんだい東亜とうあ戦争せんそう/太平洋戦争たいへいようせんそうちゅう
Two aerial photos of atomic bomb mushroom clouds, over two Japanese cities in 1945.
原子げんしばくだん投下とうかによって発生はっせいしたキノコくも
ひだり広島ひろしまみぎ長崎ながさき
とき広島ひろしま1945ねん8がつ6にち午前ごぜん815ふん
長崎ながさき1945ねん8がつ9にち午前ごぜん1102ふん[ちゅう 1](79ねんまえ
場所ばしょ日本の旗 日本にっぽん広島ひろしま長崎ながさき
結果けっか りょう都市とし壊滅かいめつてき被害ひがい
衝突しょうとつした勢力せいりょく
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく 大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく
指揮しきかん
アメリカ合衆国の旗 ウィリアム・S・パーソンズ英語えいごばん
アメリカ合衆国の旗 ポール・ティベッツ
大日本帝国の旗 はた俊六しゅんろく
部隊ぶたい
マンハッタン計画けいかく:アメリカ50、イギリス2
だい509混成こんせい部隊ぶたい:アメリカ1,770
だいそうぐん:広島ひろしま:40,000
長崎ながさき:9,000
戦力せんりょく
広島ひろしま原子げんしばくだんリトルボーイ
長崎ながさき原子げんしばくだんファットマン
しょう
被害ひがいしゃすう
アメリカ、オランダ、イギリス 捕虜ほりょ20死亡しぼう 広島ひろしま
9まん – 16まん6せんにん死亡しぼう
長崎ながさき
6まん – 8まんにん死亡しぼう
全体ぜんたい
15まん – 24まん6せんにん死亡しぼう[1]
投下とうか Place 日付ひづけ Day 原子核げんしかく Nuclear ばくげき Bomber ばくだん Bomb
広島ひろしま 1945ねん8がつ6にち ウランかた エノラゲイ リトルボーイ
長崎ながさき 1945ねん8がつ9にち プルトニウムかた ボックスカー ファットマン
1945ねん8がつ6にち広島ひろしま投下とうかされた原子げんしばくだんについては、「広島ひろしまへの原子げんしばくだん投下とうか」を参照さんしょう
1945ねん8がつ9にち長崎ながさき投下とうかされた原子げんしばくだんについては、「長崎ながさきへの原子げんしばくだん投下とうか」を参照さんしょう

本稿ほんこうは、広島ひろしま投下とうかされたリトルボーイ長崎ながさき投下とうかされたファットマンの2はつ、および投下とうかされなかった3はつ原子げんしばくだんふくめて総論そうろんてきべる。

投下とうか理由りゆう

編集へんしゅう

だい世界せかい大戦たいせんだい東亜とうあ戦争せんそう/太平洋戦争たいへいようせんそう)における日本にっぽん列島れっとうでの上陸じょうりく直接ちょくせつ戦闘せんとうダウンフォール作戦さくせん日本にっぽんぐんでは「けつごう作戦さくせん」)を回避かいひし、早期そうき決着けっちゃくさせるために原子げんしばくだん使用しようされたとするのが、アメリカ政府せいふによる公式こうしき説明せつめいである。

1932ねんから日米にちべい開戦かいせんまで10年間ねんかんちゅうにち大使たいしつとめ、戦争せんそう末期まっきには国務こくむ長官ちょうかん代理だいりつとめたジョセフ・グルーは、「ハリー・S・トルーマン大統領だいとうりょうが(グルーの勧告かんこくどおりに)、皇室こうしつ維持いじ条項じょうこうふく最後さいご通告つうこくを1945ねん5月段階だんかいはっしていたなら、日本にっぽん6がつか7がつ降伏ごうぶくしていたので原爆げんばく投下とうか必要ひつようなかった」とべている[6]

アメリカのABCテレビ1995ねん放送ほうそうした「ヒロシマ・なぜ原爆げんばく投下とうかされたのか(Hiroshima: Why the Bomb was Dropped)」という番組ばんぐみ[7]では「原爆げんばく投下とうか本土ほんど上陸じょうりく作戦さくせんしか選択肢せんたくしがなかったというのは歴史れきしてき事実じじつではない。皇室こうしつ維持いじ条項じょうこうつきの降伏ごうぶく勧告かんこく(のちにこの条項じょうこう削除さくじょされてポツダム宣言せんげんとなる)をすなどの選択肢せんたくしもあった。したがって、原爆げんばく投下とうかという選択せんたくはしっかりとした根拠こんきょもとづいて決断けつだんされたものとはいえない」という結論けつろんしめした[8]

しかし、この問題もんだいについて、米国べいこく歴史れきしアレックス・ウェラースタインは当時とうじ日本にっぽん表向おもてむ中立ちゅうりつこくであったソ連それんつうじて和平わへい工作こうさくおこなっていたので、皇室こうしつ維持いじ条項じょうこうけても広島ひろしまへの原爆げんばく投下とうかがなければ日本にっぽん降伏ごうぶくおうじることはなかっただろうという結論けつろんしめしている[9]。また、アメリカ在住ざいじゅうにち関係かんけいとう専門せんもんとする歴史れきし長谷川はせがわあつしは、日本にっぽん降伏ごうぶくにつながったのは広島ひろしまソ連それん満州まんしゅう侵攻しんこうわせであったことを示唆しさしているとされる[10]。(一方いっぽうで、トルーマンらは原爆げんばく実験じっけん成功せいこうの1945ねん7がつ18にち会議かいぎにおいても、日本にっぽん政府せいふ無条件むじょうけん降伏ごうぶく受入うけいれても日本にっぽんぐん抗戦こうせんつづける場合ばあいそなえ、すで原爆げんばく投下とうかしていることを前提ぜんてい同年どうねん11がつ1にちみなみ九州きゅうしゅう進攻しんこうおこなうことを検討けんとうしていたとされる[10]。)

原爆げんばく日本にっぽん使用しようする場合ばあいおおきくけて以下いかの3つの選択肢せんたくしがあった。

  1. 原爆げんばく無人島むじんとう、あるいは日本にっぽん本土ほんど以外いがいしまとして威力いりょくをデモンストレーションする。
  2. 原爆げんばく軍事ぐんじ目標もくひょう軍港ぐんこう基地きちなど)にとし大量たいりょう破壊はかいする。
  3. 原爆げんばく人口じんこう密集みっしゅうした大都市だいとし投下とうかして市民しみん無差別むさべつ大量たいりょう殺戮さつりくする。

また、原爆げんばく使用しようするにしても、2つの方法ほうほうがあった。(A)事前じぜん警告けいこくしてから使用しようする。(B)事前じぜん警告けいこくなしで使用しようする。1の使つかかたならば、絶大ぜつだい威力いりょくっているがただのばくだんということになり、さらに2ならば大量たいりょう破壊はかい兵器へいき、3ならば大量たいりょう殺戮さつりく兵器へいきになり、いずれも国際こくさいほう違反いはんして、人道じんどうはんする大罪だいざいとなる。しかし、3と(A)のわせならば、警告けいこくがしっかりとめられて退避たいひ行動こうどうをとることができれば死傷ししょうしゃかずをかなりすくなくできる可能かのうせいがあり、大量たいりょう殺戮さつりく兵器へいきとして使つかったとはえなくなるかもしれない。3と(B)のわせならば、まちがいなく差別さべつ大量たいりょう殺戮さつりくであり、しかもその意図いとがより明確めいかくなので、それだけつみおもくなるとえる。このちがいを、原爆げんばく開発かいはつした科学かがくしゃたちや、1945ねん5月31にち都市としへの警告けいこく投下とうか決定けっていした暫定ざんてい委員いいんかいのメンバー、真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき復讐ふくしゅう公言こうげんしていたトルーマン大統領だいとうりょうかれとタッグをんでいたジェームズ・F・バーンズ国務こくむ長官ちょうかんたちは非常ひじょうによく理解りかいしていた。たとえば、海軍かいぐん次官じかんラルフ・バードはあとになって、自分じぶん事前じぜん警告けいこくなしでの使用しようには同意どういしないと文書ぶんしょつたえた[11]フランクリン・ルーズベルト大統領だいとうりょう1944ねん9月22にち段階だんかいで、実際じっさい原爆げんばく日本にっぽん使用しようするのか、それとも、このくに実験じっけんして脅威きょういとして使用しようするのかという問題もんだいげていた。同年どうねん9月30にちには、アメリカ科学かがく研究けんきゅう開発かいはつきょく長官ちょうかんヴァネヴァー・ブッシュとアメリカ国防こくぼう研究けんきゅう委員いいんかい化学かがく爆発ばくはつぶつ部門ぶもん主任しゅにんジェイムス・コナントヘンリー・スティムソン陸軍りくぐん長官ちょうかんに「原爆げんばく最初さいしょ使用しようは、敵国てきこく領土りょうどか、さもなければわがくにでするのがいい。そして、降伏ごうぶくしなければ、これが日本にっぽん本土ほんど使つかわれることになると日本にっぽん警告けいこくするとよい」とすすめた[12]。1945ねん5がつイギリスはアメリカに、日本にっぽんたいして原爆げんばく使用しようまえ警告けいこくあたえるべきであると文書ぶんしょ要望ようぼうしていた[13]

レオ・シラードが、原爆げんばく原子力げんしりょく利用りようについて大統領だいとうりょう諮問しもんする暫定ざんてい委員いいんかい大統領だいとうりょう代理だいりとしてくわわっていたバーンズ(やく1ヶ月かげつ国務こくむ長官ちょうかんとなる)と、1945ねん5月28にち会見かいけんしたときにた「バーンズは戦後せんごロシアいについて懸念けねんしていた。ロシアぐんルーマニアハンガリーはいんでいて、これらの国々くにぐにから撤退てったいするよう説得せっとくするのはむずかしいとかれおもっていた。そして、アメリカの軍事ぐんじりょく印象いんしょうづければ、そして原爆げんばく威力いりょくせつければ、あつかいやすくなるとおもっていた」という証言しょうげんは、「アメリカはソ連それんヨーロッパでの勢力せいりょく拡大かくだい抑止よくしするために原爆げんばく使つかった」という主張しゅちょう根拠こんきょとなっている[14]

戦後せんご世界せかい覇権はけんねらうアメリカが、原子げんしばくだん実戦じっせん使用しようすることによりその国力こくりょく軍事ぐんじりょく世界せかい誇示こじする戦略せんりゃくであったとするせつや、あわせてその放射線ほうしゃせん障害しょうがい人体じんたい実験じっけんおこなうためであったというせつさらにはアメリカぐん主導しゅどう仕組しくんだせつがあり、広島ひろしまにはウランかた(リトルボーイ)、長崎ながさきへはプルトニウムかた(ファットマン)とそれぞれちがうタイプの原子げんしばくだん使用しようされた。豊田とよだ利幸としゆきはウランのかく爆発ばくはつ実験じっけん確認かくにんできなかったためと推測すいそくしている[15]

背景はいけい経緯けいい

編集へんしゅう

日本にっぽんへの原子げんしばくだん投下とうかまでの道程どうていは、その6ねんまえのルーズベルト大統領だいとうりょうとどけられた科学かがくしゃたちの手紙てがみにさかのぼる。そして、マンハッタン計画けいかく(DSM計画けいかく)により開発かいはつちゅうであった原子げんしばくだん使用しよう対象たいしょうとして日本にっぽん決定けっていされたのは1943ねん5がつであった。一方いっぽうで、原子げんしばくだん投下とうか阻止そししようと行動こうどうした人々ひとびと存在そんざいもあった。

具体ぐたいてき広島ひろしま目標もくひょう決定けっていされたのは1945ねん5がつ10日とおかであり、長崎ながさき投下とうか直前ちょくぜん7がつ24にち予備よび目標もくひょうとして決定けっていされた。また、京都きょうと新潟にいがた小倉こくらげん北九州きたきゅうしゅう長崎ながさき投下とうかされたファットマン当初とうしょ目標もくひょう)などが候補こうほとされていた。

イギリスとアメリカと日本にっぽんにおける政策せいさくじょう背景はいけい経緯けいい

編集へんしゅう

1939ねん1がつ、イギリス国王こくおう書簡しょかんきょく発行はっこうとし2かいかん 陸軍りくぐん将校しょうこうリスト 1939ねん1がつごう』に、昭和しょうわ天皇てんのうイギリス正規せいきぐん陸軍りくぐん元帥げんすいとして掲載けいさいされる[16]

1939ねん8がつ2にち、アメリカへの亡命ぼうめい物理ぶつり学者がくしゃレオ・シラードらからの提案ていあんけたアルベルト・アインシュタインがルーズベルト大統領だいとうりょうてた手紙てがみにおいて、原子げんしばくだんがドイツにより開発かいはつされる可能かのうせい言及げんきゅうし、かくエネルギー開発かいはつ支援しえん進言しんげん

1939ねん9月1にちだい世界せかい大戦たいせんはじまる。

1939ねん10月11にち、その手紙てがみアインシュタイン=シラードの手紙てがみ)がルーズベルトべい大統領だいとうりょうとどけられる。

1939ねん10月21にち、アメリカはウラン諮問しもん委員いいんかい設置せっち

1940ねん4がつ10日とおか、イギリスが、だいいちかいウラン爆発ばくはつ軍事ぐんじ応用おうよう委員いいんかい(MAUD委員いいんかい)の会議かいぎ開催かいさい

1940ねん4がつ理化学研究所りかがくけんきゅうしょ仁科にしな芳雄よしおがウランばくだん計画けいかく安田やすだ武雄たけお陸軍りくぐん航空こうくう技術ぎじゅつ研究所けんきゅうじょちょう進言しんげん[17]

1940ねん4がつ安田やすだ武雄たけお中将ちゅうじょう部下ぶか鈴木すずき辰三郎たつさぶろう[ちゅう 2] に「原子げんしばくだん製造せいぞう可能かのうであるかどうか」について調査ちょうさめいじた。

1940ねん6がつ鈴木すずき辰三郎たつさぶろう東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくげん東京大学とうきょうだいがく)の物理ぶつり学者がくしゃ嵯峨さがりょうきち当時とうじ助教授じょきょうじゅ)の助言じょげんて、2かげつに「原子げんしばくだん製造せいぞう可能かのうである」ことを主旨しゅしとする報告ほうこくしょ提出ていしゅつ[ちゅう 2]

1940ねん7がつ6にち、すでに仁科にしな芳雄よしおとうがイギリスの学術がくじゅつ雑誌ざっしネイチャー』に投稿とうこうしてあった『Fission Products of Uranium produced by Fast Neutrons(高速こうそく中性子ちゅうせいしによって生成せいせいされた核分裂かくぶんれつ生成せいせいぶつ)』とだいする、2中性子ちゅうせいし放出ほうしゅつされる (n. 2n) 反応はんのうや、複数ふくすう対象たいしょう核分裂かくぶんれつともな核分裂かくぶんれつ連鎖れんさ反応はんのう臨界りんかい事故じこ)をこした実験じっけん成果せいかが、掲載けいさいされた[18]。この実験じっけんでは臨界りんかいりょうえる天然てんねんウランウラン238-99.3%, ウラン235-0.7%)に高速こうそく中性子ちゅうせいし照射しょうしゃしたわけだが、現在げんざいではそのことによってプルトニウム239生成せいせいされることや、かく爆発ばくはつこすことがられている[19]

1941ねん4がつ日本にっぽん陸軍りくぐん理研りけん原爆げんばく開発かいはつ依頼いらいごう研究けんきゅう名付なづけられた[20]

1941ねん7がつ15にち、イギリスのMAUD委員いいんかいは、ウランばくだん実現じつげん可能かのうだとする最終さいしゅう報告ほうこく承認しょうにんして解散かいさん

1941ねん10月3にち、MAUD委員いいんかい最終さいしゅう報告ほうこくしょが、公式こうしきにルーズベルト大統領だいとうりょうとどけられる。

1941ねん11月すえのち連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい主要しゅようメンバーとなるユダヤじんベアテ・シロタ・ゴードンははで、日本にっぽん貴族きぞくいん議員ぎいんサロン主催しゅさいしていたオーギュスティーヌが、おっとレオ・シロタともハワイからさい来日らいにち

1941ねん12月8にち日本にっぽんイギリスりょうマラヤマレー作戦さくせんを、アメリカじゅんしゅうのハワイで真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきおこない、だい世界せかい大戦たいせんだい東亜とうあ戦争せんそう/太平洋戦争たいへいようせんそう)が勃発ぼっぱつ日本にっぽんとアメリカはてき味方みかたとしてだい世界せかい大戦たいせん参戦さんせんすることとなった。

1942ねん9月26にち、アメリカの軍需ぐんじゅ生産せいさん委員いいんかい英語えいごばんが、マンハッタン計画けいかく最高さいこう戦時せんじ優先ゆうせん等級とうきゅう位置いちづけた。

1942ねん10月11にち、アメリカはイギリスにマンハッタン計画けいかくへの参画さんかく要請ようせい

1944ねん7がつ9にち朝日新聞あさひしんぶんに、『決勝けっしょうしん兵器へいき』とだいして「ウラニウムに中性子ちゅうせいしてればよいわけだが、宇宙うちゅうせんには中性子ちゅうせいしふくまれているので、早期そうき爆発ばくはつ危険きけんがある。そこで中性子ちゅうせいしとおさないカドミウムはこめ、いざというときくつがえをとり、連鎖れんさ反応はんのうふせぐために別々べつべつつくったウラニウムを一緒いっしょにして中性子ちゅうせいしてればよい。」という記事きじ掲載けいさいされた。ウラン原爆げんばく起爆きばく操作そうさまったおなじであった[21]

1945ねん7がつ26にち日本にっぽんへの最後さいご通告つうこくとしてポツダム宣言せんげん発表はっぴょうした。

ルーズベルトの決断けつだん

編集へんしゅう
 
フランクリン・ルーズベルトべい大統領だいとうりょう
 
原子げんしばくだん理論りろん計算けいさんをしたオットー・ロベルト・フリッシュ(PJのID Card)
 
マンハッタン計画けいかく開発かいはつそう責任せきにんしゃロバート・オッペンハイマー(PJのID Card)

1939ねん9月1にちだい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつした。ユダヤじん迫害はくがい政策せいさくナチスとうひきいるドイツからのがれてアメリカに亡命ぼうめいしていた物理ぶつり学者がくしゃのレオ・シラードたちは、当時とうじ研究けんきゅうはじまっていた原子げんしばくだんをドイツが保有ほゆうすることを憂慮ゆうりょし、アインシュタインとの相談そうだんによって、原子げんしばくだん可能かのうせい政府せいふ注意ちゅうい喚起かんきをルーズベルト大統領だいとうりょう進言しんげんする手紙てがみ作成さくせいした[22]。アインシュタインの署名しょめいたこの手紙てがみは1939ねん10がつ11にちとどけられた[23]。その手紙てがみには原子げんしばくだん原材料げんざいりょうとなるウラニウム(ウラン)鉱石こうせき埋蔵まいぞう位置いちしめされていた。ヨーロッパのチェコのウラン鉱山こうざんはドイツの支配しはいであり、アフリカコンゴのウラン鉱山こうざんをアメリカが早急そうきゅうにおさえることをほのめかしている[24]。ルーズベルト大統領だいとうりょう意見いけんけてウラン諮問しもん委員いいんかい一応いちおう発足ほっそくさせたものの、この時点じてんではまだ核兵器かくへいき実現じつげん可能かのうせい未知数みちすうであり、おおきな関心かんしんしめさなかった[25]

2ねんの1941ねん7がつ、イギリスの亡命ぼうめい物理ぶつり学者がくしゃオットー・ロベルト・フリッシュ (Otto Robert Frisch) とドイツのルドルフ・パイエルスウランがた原子げんしばくだん基本きほん原理げんりとこれに必要ひつようなウランの臨界りんかいりょう理論りろん計算けいさんをレポートにまとめ、これによってイギリスの原子げんしばくだん開発かいはつ検討けんとうする委員いいんかいであるMAUD委員いいんかいつくられた[26][27]。そこではじめて原子げんしばくだん実現じつげん可能かのうなものであり、航空こうくう爆撃ばくげき搭載とうさい可能かのうおおきさであることがあきらかにされた[28][29]ウィンストン・チャーチル首相しゅしょうきたアフリカでのイギリスぐん大敗たいはいなどを憂慮ゆうりょしてアメリカにはたらきかけ、このレポートの内容ないよう検討けんとうしたルーズベルト大統領だいとうりょうは1941ねん10がつ原子げんしばくだん開発かいはつ決断けつだんした。

1942ねん6がつ、ルーズベルトはマンハッタン計画けいかく秘密裏ひみつり開始かいしさせた。総括そうかつ責任せきにんしゃにはレズリー・グローヴスじゅんしょう任命にんめいした。1943ねん4がつにはニューメキシコしゅう有名ゆうめいロスアラモス国立こくりつ研究所けんきゅうじょ設置せっちされる。開発かいはつそう責任せきにんしゃロバート・オッペンハイマー博士はかせ。20おくドル資金しきん科学かがくしゃ技術ぎじゅつしゃ総動員そうどういんしたこの国家こっか計画けいかく技術ぎじゅつじょう中心ちゅうしん課題かだいはウランの濃縮のうしゅくである。テネシーしゅうオークリッジ巨大きょだいなウラン濃縮のうしゅく工場こうじょう建造けんぞうされ、2ねんの1944ねん6がつにはこう濃縮のうしゅくウランの製造せいぞう目途もくとがついた。

1944ねん9がつ18にち、ルーズベルトとチャーチルは、ニューヨークしゅうハイドパークでべいえい首脳しゅのう会談かいだんおこなった。内容ないようかくかんする秘密ひみつ協定きょうていハイドパーク協定きょうてい)であり、原爆げんばく完成かんせいすれば日本にっぽんへの原子げんしばくだん投下とうか意志いししめされ、かく開発かいはつかんするべいえい協力きょうりょく将来しょうらいかく管理かんりについての合意ごういがなされた。

前後ぜんごして、ルーズベルトは原子げんしばくだん投下とうか実行じっこう部隊ぶたいだい509混成こんせい部隊ぶたい)の編成へんせい指示しじした。混成こんせい部隊ぶたいとは陸海りくかいぐんからあつめて編成へんせいされたための名前なまえである。1944ねん9がつ1にち隊長たいちょう任命にんめいされたポール・ティベッツ陸軍りくぐん中佐ちゅうさは、12月に編成へんせい完了かんりょうし(B-29けい14および部隊ぶたい総員そういん1,767にん)、ユタしゅうのウェンドバー基地きち原子げんしばくだん投下とうか秘密ひみつ訓練くんれん開始かいしした。1945ねん2がつには原子げんしばくだん投下とうか基地きちテニアンとう決定けっていされ、部隊ぶたいは1945ねん5がつ18にちにテニアンとう移動いどうし、日本にっぽん本土ほんどへの原爆げんばく投下とうかけた準備じゅんび開始かいしした。

原子げんしばくだん投下とうか阻止そしこころみと挫折ざせつ

編集へんしゅう
 
核分裂かくぶんれつ予言よげんしたボーア

デンマーク理論りろん物理ぶつり学者がくしゃニールス・ボーアは、1939ねん2がつ7にち、ウラン同位どういたいなかウラン235低速ていそく中性子ちゅうせいしによって核分裂かくぶんれつすると予言よげんし、同年どうねん4がつ25にち核分裂かくぶんれつ理論りろんべい物理ぶつり学会がっかい発表はっぴょうした。この時点じてんではボーアは自分じぶん発見はっけん世界せかいにもたらす影響えいきょうおおきさにづいていなかった。

1939ねん9がつ1にちだい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつし、ドイツによるヨーロッパ支配しはい拡大かくだいとユダヤじん迫害はくがいて、ボーアは1943ねん12月にイギリスへのがれた。そこでかれべいえいによる原子力げんしりょく研究けんきゅう平和へいわ利用りようではなく、原子げんしばくだんとして開発かいはつすすめられていることをる。原子げんしばくだんによる世界せかい不安定ふあんていこわれたボーアは、これ以後いごソ連それんふくめた原子力げんしりょく国際こくさい管理かんり協定きょうてい必要ひつようせいべいえい指導しどうしゃうったえることに尽力じんりょくすることになる。

1944ねん5がつ16にちに、ボーアはチャーチルと会談かいだんしたが説得せっとく失敗しっぱい同年どうねん8がつ26にちにはルーズベルトとも会談かいだんしたが同様どうよう失敗しっぱいした。ぎゃく同年どうねん9がつ18にちべいえいのハイドパーク協定きょうていすんでじゅつ)では、ボーアの活動かつどう監視かんしと、当時とうじえいべいとの対立たいりつ姿勢しせい目立めだってきたソ連それんとの接触せっしょく阻止そしまれてしまう。さらに、ルーズベルト死後しごの1945ねん4がつ25にちに、ボーアは科学かがく行政ぎょうせいかんのヴァネヴァー・ブッシュと会談かいだん説得せっとくこころみたが、かれこえとき政権せいけんとどくことはなかった。

また、1944ねん7がつシカゴ大学だいがく冶金やきん研究所けんきゅうじょアーサー・コンプトン発足ほっそくさせたジェフリーズ委員いいんかい原子力げんしりょく計画けいかく将来しょうらいについて検討けんとうおこない、1944ねん11月18にちに「ニュークレオニクス要綱ようこう」をまとめ、原子力げんしりょく平和へいわ利用りようのための開発かいはつ注力ちゅうりょくすべきで、原子げんしばくだんとして都市とし破壊はかいおこなうことを目的もくてきとすべきではないと提言ていげんした。しかし、この提言ていげんかされることがなくなったのは、トルーマンが政権せいけんいでからのことである。

歴史れきし作家さっか鳥居とりいみんは、当初とうしょ、ルーズベルトは、原子げんしばくだん最初さいしょから日本にっぽん投下とうかするつもりはなく、1944ねん5がつ日本にっぽんへの無条件むじょうけん降伏ごうぶく要求ようきゅうげ、アメリカ国務省こくむしょう極東きょくとう局長きょくちょうたいにち強硬きょうこうさくいたスタンリー・クール・ホーンベックから、ちゅうにち大使たいし歴任れきにんしたジョセフ・グルーに交代こうたいするなど、日本にっぽんへの和平わへい工作こうさくおこなっていたとする[30]。また、鳥居とりいは、これらのアメリカがわうごきを、日本にっぽんがわはアメリカぐん損耗そんこう最小限さいしょうげんにするためっているという認識にんしきであったが、ルーズベルトは、中国ちゅうごく国共こっきょう内戦ないせん勃発ぼっぱつすることをおそれており、その予防よぼう兵力へいりょくけたいおもいで、うごいていたとする[30]

これにたいし、ワシントン大学だいがく名誉めいよ教授きょうじゅ日本にっぽん研究けんきゅうしゃのケネス・パイルは、ルーズベルトはドイツや日本にっぽんたい一貫いっかんして無条件むじょうけん降伏ごうぶくもとめたとする[31]

トルーマン政権せいけんぐん攻防こうぼう和平わへい工作こうさく破綻はたん

編集へんしゅう
 
「フランクレポート」を提出ていしゅつしたフランク

1945ねん4がつ12にちルーズベルト急死きゅうししたことによって、急遽きゅうきょふく大統領だいとうりょうだったハリー・S・トルーマンだい33だい大統領だいとうりょう昇進しょうしんした。

ナチス・ドイツ降伏ごうぶくの1945ねん5がつ28にちには、アメリカにかく開発かいはつ進言しんげんしたそのひとであるレオ・シラードが、国務こくむ長官ちょうかんバーンズに原子げんしばくだん使用しよう反対はんたいうったえている[32]

バーンズマンハッタン計画けいかく責任せきにんしゃ一人ひとりとして、ひがしヨーロッパ覇権はけんつよめるソ連それん牽制けんせいするために、日本にっぽんたいする原爆げんばく攻撃こうげき支持しじしており、天皇てんのう護持ごじれられれば、日本にっぽんには終戦しゅうせん交渉こうしょう余地よちがあるとする、戦後せんご日本にっぽん有望ゆうぼう投資とうしさきかんがえる国務こくむ次官じかんグルー、陸軍りくぐん長官ちょうかんスティムソン、海軍かいぐん長官ちょうかんジェームズ・フォレスタルさんにん委員いいんかいとはせい反対はんたい路線ろせんであった。「一発いっぱつ都市としばせる兵器へいきを、我々われわれアメリカが所有しょゆうしていることを事前じぜん警告けいこくすべきである。それでも降伏ごうぶくしなければ原爆げんばく投下とうかすると日本にっぽん政府せいふつたえるべきだ」と主張しゅちょう警告けいこく原爆げんばく投下とうか反対はんたいうったえた陸軍りくぐん次官じかんジョン・J・マクロイたいして、バーンズは「それはアメリカのよわさをしめすものだ、原爆げんばく投下とうかまえ天皇てんのうせい保証ほしょう降伏ごうぶくびかけるのは反対はんたいだ」とべる[33]

1945ねん6がつ11にちには、シカゴ大学だいがくジェイムス・フランクが、グレン・シーボーグ、レオ・シラード、ドナルド・ヒューズ、J・C・スターンス、ユージン・ラビノウィッチ、J・J・ニクソンたち7めい科学かがくしゃ連名れんめい報告ほうこくしょフランクレポート」を大統領だいとうりょう諮問しもん委員いいんかいである暫定ざんてい委員いいんかい提出ていしゅつした[34]。そのなかで、社会しゃかい倫理りんりてき都市としへの原子げんしばくだん投下とうか反対はんたいし、砂漠さばく無人島むじんとうでその威力いりょく各国かっこくにデモンストレーションすることにより戦争せんそう終結しゅうけつ目的もくてきたせると提案ていあんしたが、暫定ざんてい委員いいんかい決定けっていくつがえることはなかった。またどうレポートで、核兵器かくへいき国際こくさい管理かんり必要ひつようせいをもうったえていた[35]

1945ねん7がつ1にちチャーチルえい首相しゅしょうがアメリカによる日本にっぽんへの原爆げんばく使用しよう最終さいしゅう同意どういして署名しょめいしていたことが、のちえい国立こくりつ公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう秘密ひみつ文書ぶんしょ判明はんめいした。打診だしんは、アメリカが核兵器かくへいき開発かいはつ成功せいこうしてもイギリスが同意どういしなければ使用しようできないなどとさだめた1943ねん8がつの「ケベック協定きょうてい」にもとづく。[36]なお、原爆げんばく投下とうかまえにチャーチルは首相しゅしょう退任たいにんしている。

さらに1945ねん7がつ12にち、シカゴ大学だいがく冶金やきん研究所けんきゅうじょ原爆げんばくたいにち使用しようかんするアンケートがあった。それによると、科学かがくしゃ150にんのうちの85%が警告けいこくでの原爆げんばく投下とうか反対はんたい表明ひょうめいしている。7月17にちにもシラードら科学かがくしゃたちが連名れんめい原子げんしばくだん使用しよう反対はんたい大統領だいとうりょうへの請願せいがんしょ提出ていしゅつしたが、原爆げんばく投下とうかまえにトルーマンにとどけられることはなかった[37]。マンハッタン計画けいかく指揮しきかんであるグローヴス陸軍りくぐん少将しょうしょう請願せいがんしょ手元てもとき、大統領だいとうりょうとどかないように妨害ぼうがいしたためであった。

軍人ぐんじんでは、アメリカ太平洋艦隊たいへいようかんたい司令しれい長官ちょうかんチェスター・ニミッツ提督ていとくが、都市としへの投下とうかには消極しょうきょくてきで、ロタとうへのばくげき示唆しさしたという。のち共和党きょうわとうから大統領だいとうりょうとなったドワイト・D・アイゼンハワー将軍しょうぐんは、戦後せんご書簡しょかん[38]回顧かいころくとうで、すで広島ひろしま投下とうかまえの1945ねん7がつ20日はつか当時とうじベルギーのアントワープにていたスティムソン陸軍りくぐん長官ちょうかんらにたいにちせん原子げんしばくだん使用しようはもはや不要ふようであることをべたと主張しゅちょうしている。ただし、おおくの裏付うらづ情報じょうほう調しらべたとされる歴史れきしのバートン・バーンスタインは、アイゼンハワーはおそらくこのようなことはっていないと結論けつろんづけている[39][40]参照さんしょうドワイト・D・アイゼンハワー#広島ひろしまとその原爆げんばく投下とうか反対はんたいかんする問題もんだい)。またどう時期じき、アイゼンハワーは極東きょくとうでの日本にっぽんとの戦争せんそうソ連それん参戦さんせんさせないよう進言しんげんしていたともされ、むしろこちらの結果けっかとして、トルーマンらは日本にっぽん早期そうき降伏ごうぶくさせるために原爆げんばく投下とうか決定けっていしたとするせつもある[41]。(なお、作家さっかきた杜夫もりおのように、原爆げんばく投下とうか日本にっぽん降伏ごうぶく決定けっていはやめ、そのためソ連それんぐん日本にっぽん上陸じょうりくすることなく、日本にっぽん分割ぶんかつ占領せんりょうふせがれたとかんがえる日本人にっぽんじんもいる[42]。)

また連邦れんぽう政府せいふ側近そっきんでも、ラルフ・バードのように原子げんしばくだん使用しようするとしても、事前じぜん警告けいこくしに投下とうかすることに反対はんたいするものもいた。7月24にちポツダム会談かいだんでチャーチルは、1944ねん9月にトルーマンの前任ぜんにんのルーズベルトと日本にっぽんへの原爆げんばく使用しよう密約みつやくした「ハイドパーク協定きょうてい」をし、「警告けいこくなしで使用しようすべきだ」とトルーマンにせまった。大統領だいとうりょうだったトルーマン自身じしんは、自身じしん日記にっきに「原爆げんばく投下とうか場所ばしょは、軍事ぐんじ基地きち目標もくひょうにすることけっして一般いっぱん市民しみんをターゲットにすることがないようにとスティムソンにった。」と記述きじゅつしていたため、戦闘せんとういんである民間みんかんじん殺戮さつりくする原爆げんばく投下とうかには反対はんたいしていたことがあきらかと主張しゅちょうされる。[よう出典しゅってん]

歴史れきしのアレックス・ウェラースタインによれば、従来じゅうらい原爆げんばく使用しよう決定けってい理由りゆうとして、従来じゅうらい2つのおおきなながれがあったとする。ひとつは、戦後せんごまもなくスティムソン[43]やトルーマンによってかたられた説明せつめいで「戦争せんそう早期そうき終結しゅうけつさせ、より多数たすう米兵べいへい日本人にっぽんじん生命せいめいすくうため」に決定けっていされたとするもの、もうひとつは、ガー・アルペロヴィッツがとくに(それ以前いぜんからあったが)1980年代ねんだい-1990年代ねんだい喧伝けんでんした「ソ連それん威力いりょくせつけるため」とするものである[44]。ウェラースタインは、実際じっさい歴史れきし過程かていはより複雑ふくざつ今日きょう歴史れきしはどちらかの単純たんじゅんかんがかた否定ひていする傾向けいこうがあるとし、ウェラースタイン自身じしんはそれまでの様々さまざまげの結果けっかかんがえていて、その意味いみで、上述じょうじゅつのような「(トルーマンの)原爆げんばく使用しよう決定けってい」の物語ものがたりただしくないとしている[44]。グローブスの自伝じでんによれば、投下とうか目標もくひょう委員いいんかいによって京都きょうとふくむ4つの目標もくひょう都市とし当初とうしょえらばれたとし、グローブス自身じしん計画けいかく自体じたいがかなり秘密ひみつにされていたため目標もくひょう委員いいんかい関係かんけいしゃにさえ、よくあるしん兵器へいきひとつとおもわれる可能かのうせいきらい、原爆げんばく使用しよう大統領だいとうりょう原文げんぶん:ワシントン)の権限けんげんとしたが、その一方いっぽうで、グローブスの起草きそうした投下とうか指令しれいしょ文面ぶんめんは、当時とうじポツダムにいたマーシャル参謀さんぼう総長そうちょう(トルーマンのかかわりが曖昧あいまいになっている)のした正式せいしき決定けっているための覚書おぼえがきとともにおくったとする[45]。ウェラースタインは、実際じっさいかく都市とし投下とうかへの総意そういがこういった過程かていとおしてまっていったとかんがえていて、その意味いみでトルーマン自身じしん正式せいしき承認しょうにんしたというタイミングは確認かくにんできないようだとかんがえている[44]。しかし、これは同時どうじにトルーマンが都市とし投下とうか明確めいかく拒否きょひしたこともなかったことも意味いみする。今日きょう我々われわれ原爆げんばく投下とうか発表はっぴょう収録しゅうろく動画どうがでは、トルーマンは明確めいかくにTNT火薬かやく2まんトンをえる破壊はかいりょくっていて、さらに、収録しゅうろくごうあいだにはフィルムがまっているとおもったのか真剣しんけんだった表情ひょうじょうくずして、成功せいこういたよろこびからか満面まんめん笑顔えがおかべている。なお、ウェラースタインは、スチムソンがトルーマンに進言しんげんして京都きょうと投下とうか目標もくひょうからはず過程かていなかで、トルーマンが広島ひろしま多数たすう民間みんかんじんんでいる都市としではなく、たんなる軍事ぐんじ基地きち軍事ぐんじ拠点きょてん誤解ごかいしたふしがあるとしている[46]

ワシントン原爆げんばく投下とうか一報いっぽういたグローブスは、原爆げんばく開発かいはつをした科学かがくしゃたちにたいし「きみたちをほこりにおもう。」とねぎらったという。

原子げんしばくだん投下とうか都市とし選定せんてい経緯けいい

編集へんしゅう

広島ひろしま長崎ながさき原子げんしばくだんによる攻撃こうげき目標もくひょうとなった経緯けいい[47]は、日本にっぽんかく都市としへの通常つうじょう兵器へいきによる精密せいみつ爆撃ばくげき焼夷弾しょういだん爆撃ばくげき日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅう)がつづけられるなかで、以下いかのようなものであった。

1943ねん5月5にち軍事ぐんじ政策せいさく委員いいんかい最初さいしょ原子げんしばくだん使用しようについて議論ぎろんがなされ、「トラックとう集結しゅうけつする日本にっぽん艦隊かんたい投下とうかするのが適当てきとう」というのが大方おおかた意見いけんであった[48]

1944ねん11月24にちからよく3月9にち通常つうじょう兵器へいきによる空爆くうばくだいいちで、軍需ぐんじゅ工場こうじょう主要しゅよう目標もくひょうとした精密せいみつ爆撃ばくげきおこなわれた。ただし、カーチス・ルメイ陸軍りくぐん少将しょうしょうによる焼夷弾しょういだんばくげき実験じっけんてきはじめられていた。

ついで、1945ねん3がつ10日とおかから6月15にち通常つうじょう兵器へいきによる空爆くうばくだい以下いかのような大都市だいとし市街地しがいちたいする焼夷弾しょういだん爆撃ばくげきおこなわれた。

 
ポツダム会談かいだんでのトルーマン(ひだりチャーチル、みぎスターリン)

1945ねん4がつ12にちのルーズベルトの急死きゅうしにより、ふく大統領だいとうりょうであったトルーマンが大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。ルーズベルトの原子げんしばくだん政策せいさくいだトルーマンに、「いつ・どこへ」を決定けっていする仕事しごとのこされた。4がつ25にちにスティムソン陸軍りくぐん長官ちょうかんと、マンハッタン計画けいかく指揮しきかんグローヴスがホワイトハウスおとずれ、原爆げんばく投下とうかかんする資料しりょう提出ていしゅつした。しかしこのさいトルーマンは、「資料しりょうるのはきらいだ」とかたったという。

1945ねん4がつ中旬ちゅうじゅんから5がつ中旬ちゅうじゅんに、沖縄おきなわせん支援しえんするため九州きゅうしゅう四国しこく飛行場ひこうじょう重点的じゅうてんてき爆撃ばくげきし、大都市だいとしへの焼夷弾しょういだんばくげき中断ちゅうだんされた。このため京都大きょうとだい空襲くうしゅうおくれた[48]

1945ねん4がつ27にち陸軍りくぐんだい1かい目標もくひょう選定せんてい委員いいんかい (Target Committee) において以下いか決定けっていがなされた。これはアメリカ政府せいふたいしては極秘ごくひもとおこなわれた。

日本にっぽん本土ほんどへのばくげき状況じょうきょうについて、だい20航空こうくうぐんが「邪魔じゃまいしのこらずのぞく」というだいいち目的もくてきをもって、つぎ都市とし系統的けいとうてき爆撃ばくげきしつつあると報告ほうこくした。東京とうきょう都区とく横浜よこはま名古屋なごや大阪おおさか京都きょうと神戸こうべ八幡やはた長崎ながさき[48]
つぎの17都市としおよび地点ちてん研究けんきゅう対象たいしょうとされた。東京とうきょうわん川崎かわさき横浜よこはま名古屋なごや京都きょうと大阪おおさか神戸こうべ広島ひろしまくれ下関しものせき山口やまぐち八幡やはた小倉こくら福岡ふくおか熊本くまもと長崎ながさき佐世保させぼ

1945ねん5がつ10日とおかと11にちだい2かい目標もくひょう選定せんてい委員いいんかいがロスアラモスのオッペンハイマー博士はかせ執務しつむしつひらかれ、8がつはじめに使用しよう予定よていの2はつ原子げんしばくだん投下とうか目標もくひょうとして、つぎの4都市としはじめて選定せんていされた[48]

  1. 京都きょうと:AAきゅう目標もくひょう
  2. 広島ひろしま:AAきゅう目標もくひょう
  3. 横浜よこはま:Aきゅう目標もくひょう
  4. 小倉こくら:Aきゅう目標もくひょう

このとき以下いかの3基準きじゅんしめされた[48]

  • 直径ちょっけい3マイルえるおおきな都市とし地域ちいきにある重要じゅうよう目標もくひょうであること。
  • ばくふうによって効果こうかてき破壊はかいしうるものであること。
  • 1945ねん8がつまで爆撃ばくげきされないままでありそうなもの。

1945ねん5月28にちだい3かい目標もくひょう選定せんてい委員いいんかいひらかれた。京都きょうと広島ひろしま新潟にいがた投下とうかする地点ちてんについて重要じゅうよう決定けっていがされ、横浜よこはま小倉こくら目標もくひょうからはずされた[48]

  • 投下とうか地点ちてんは、気象きしょう条件じょうけんによって都度つど基地きち決定けっていする。
  • 投下とうか地点ちてんは、工業こうぎょう地域ちいき位置いち限定げんていしない。
  • 投下とうか地点ちてんは、都市とし中心ちゅうしん投下とうかするようつとめて、1はつ完全かんぜん破壊はかいする。

これらの原子げんしばくだん投下とうか目標もくひょう都市としへの空爆くうばく禁止きんし決定けっていされた。禁止きんし目的もくてきは、原爆げんばくのもたらす効果こうか正確せいかく測定そくてい把握はあくできるようにするためである。これが目標もくひょうとなった都市としに「空襲くうしゅうがない」という流言りゅうげんみ、一部いちぶ疎開そかい生徒せいと帰郷ききょうや、大都市だいとしからの流入りゅうにゅうまねくこととなった。

1945ねん5月29にち目標もくひょうからはずされた翌日よくじつ横浜よこはまだい空襲くうしゅうおこなわれた。なお、この横浜よこはまだい空襲くうしゅうは、だい3かい目標もくひょう選定せんてい委員いいんかい横浜よこはま目標もくひょうからはずされたからおこなわれたものでなく、横浜よこはまたいして通常つうじょう空襲くうしゅうおこなうために、原子げんしばくだん投下とうか目標もくひょうからはずしたものとおもわれる[49]

1945ねん6月1にち、スティムソン陸軍りくぐん長官ちょうかん委員いいんちょうとする政府せいふ暫定ざんてい委員いいんかいは、

原子げんしばくだん日本にっぽんたいしてできるだけ早期そうき使用しようすべきであり、
それは労働ろうどうしゃ住宅じゅうたくかこまれた軍需ぐんじゅ工場こうじょうたいして使用しようすべきである。
そのさい原子げんしばくだんについてなにらの事前じぜん警告けいこくもしてはならない。

決定けっていした[48]。なお原子げんしばくだん投下とうか事前じぜん警告けいこくについては、BBC(ニューデリー放送ほうそう)やVOA(サイパン放送ほうそう)で通告つうこくされていたというせつもあるが[50]確認かくにんされていない。

この経過けいかなかで、4つの目標もくひょう都市としのうち京都きょうとつぎ理由りゆうからだいいち候補こうほとされていた[48]

  • 人口じんこう100まん大都市だいとしであること。
  • 日本にっぽん古都ことであること。
  • 多数たすう避難ひなんみん罹災りさい工業こうぎょうながみつつあったこと。
  • ちいさな軍需ぐんじゅ工場こうじょう多数たすう存在そんざいしていること。
  • 原子げんしばくだん破壊はかいりょく正確せいかく測定そくてい十分じゅうぶんひろさの市街地しがいちっていること。

しかし、フィリピン総督そうとく時代じだい京都きょうとおとずれたことのあるスティムソン陸軍りくぐん長官ちょうかんつよ反対はんたいにあったことや[ちゅう 3]戦後せんご、「アメリカとしたしい日本にっぽん」をつくじょうで、京都きょうとにはせんすうひゃくねんなが歴史れきしがあり、すうおおくの価値かちある日本にっぽん文化財ぶんかざい点在てんざい、これらを破壊はかいする可能かのうせいのある原子げんしばくだん京都きょうと投下とうかしたならば、戦後せんご日本にっぽん国民こくみんよりおおきな反感はんかん懸念けねんがあるとの観点かんてんから、京都きょうとへの原子げんしばくだん投下とうか問題もんだいであるとされた。

1945ねん6月14にち京都きょうと除外じょがいされ、目標もくひょう小倉こくら広島ひろしま新潟にいがたとなる。しかし京都きょうとへのばくげき禁止きんし命令めいれい継続けいぞくされた[48]

1945ねん6月16にちから終戦しゅうせんまで、通常つうじょう兵器へいきによる空爆くうばくだいさんとなり、中小ちゅうしょう都市としへの焼夷弾しょういだん爆撃ばくげきおこなわれた。

1945ねん6月30にちアメリカぐん統合とうごう参謀さんぼう本部ほんぶダグラス・マッカーサー陸軍りくぐん大将たいしょうチェスター・ニミッツ海軍かいぐん大将たいしょうヘンリー・アーノルド陸軍りくぐん大将たいしょうあてに、原子げんしばくだん投下とうか目標もくひょうえらばれた都市としたいするばくげき禁止きんし指令しれい同様どうよう指令しれいはこれ以前いぜんからはっせられており、ほぼ完全かんぜんまもられていた[48][52]

あたらしい指令しれい統合とうごう参謀さんぼう本部ほんぶによってはっせられないかぎり、かん指揮しきのいかなる部隊ぶたいも、京都きょうと広島ひろしま小倉おぐら新潟にいがた攻撃こうげきしてはならない。
みぎ指令しれいけんは、この指令しれい実行じっこうするのに必要ひつよう最小限さいしょうげんものたちだけの知識ちしきにとどめておくこと。

1945ねん7がつ3にち、それでもなお、京都きょうと京都きょうと盆地ぼんち位置いちしているので原子げんしばくだん効果こうか確認かくにんするには最適さいてきとして投下とうかつよもとめる将校しょうこう科学かがくしゃおお存在そんざいし、そのかえ意見いけんによってふたた京都きょうと候補こうほとなった[48]

1945ねん7がつ16にちトリニティ実験じっけんまえ早朝そうちょう530ふん現地げんち時間じかんグリニッジ時間じかん:11:29:21 GMT)、アメリカ ニューメキシコしゅう アラモゴードからやく80Kmはなれたはん砂漠さばく地帯ちたいで、グローブス少将しょうしょうなどぐん関係かんけいしゃオッペンハイマー代表だいひょうとする科学かがくしゃたちが見守みまもるなか、 プルトニウム使つかった原子げんしばくだん爆発ばくはつ実験じっけん極秘ごくひうらおこなわれ、人類じんるい史上しじょうはじめて成功せいこうした[53]

1945ねん7がつ20日はつかパンプキンばくだんによる模擬もぎ原子げんしばくだん投下とうか訓練くんれん開始かいしされた[49]

1945ねん7がつ21にち、ワシントンのハリソン陸軍りくぐん長官ちょうかん特別とくべつ顧問こもん暫定ざんてい委員いいんかい委員いいんちょう代行だいこう)からポツダム会談かいだん随行ずいこうしてドイツに滞在たいざいしていたスティムソン陸軍りくぐん長官ちょうかんたいして、京都きょうとだいいち目標もくひょうにすることの許可きょかもとめる電報でんぽうがあったが、スティムソンはただちにそれを許可きょかしないむね返電へんでんをし、京都きょうと除外じょがい決定けっていした[48][52]

1945ねん7がつ24にち京都きょうとわりに長崎ながさきが、地形ちけいてき適当てきとう問題もんだいがあるものの目標もくひょうくわえられた。スティムソン陸軍りくぐん長官ちょうかんの7がつ24にち日記にっきには「もし(京都きょうとの)除外じょがいがなされなければ、かかる無茶むちゃ行為こういによってしょうずるであろう残酷ざんこく事態じたいのために、その地域ちいきにおいて日本人にっぽんじん我々われわれ和解わかいさせることが戦後せんご長期間ちょうきかん不可能ふかのうとなり、むしろロシアじん接近せっきんさせることになるだろう(中略ちゅうりゃく満州まんしゅうロシアの侵攻しんこうがあった場合ばあいに、日本にっぽん合衆国がっしゅうこく同調どうちょうさせることをさまたげる手段しゅだんとなるであろう、とわたし指摘してきした。」とあり、アメリカが戦後せんご国際こくさい社会しゃかいにおける政治せいじてき優位ゆういせいたも目的もくてきから、京都きょうと投下とうかあん反対はんたいしたことがうかがえる[48][52]。トルーマン大統領だいとうりょうのポツダム日記にっき7がつ25にちこうにも「目標もくひょうは、水兵すいへいなどの軍事ぐんじぶつ目標もくひょうとし、けっして女性じょせい子供こどもをターゲットにすることいようにと、スティムソンにった。たとえ日本人にっぽんじん野蛮やばんであっても、共通きょうつう福祉ふくしまも世界せかい指導しどうしゃたるわれわれとしては、このおそれるべきばくだんを、かつての首都しゅとにもあたらしい首都しゅとにも投下とうかすることはできない。そのてんわたしとスティムソンは完全かんぜん一致いっちしている。目標もくひょうは、軍事ぐんじぶつかぎられる。」とある[52]

1945ねん7がつ25にち、マンハッタン計画けいかく最高さいこう責任せきにんしゃグローヴスが起草きそうした原爆げんばく投下とうか指令しれいしょがハンディ陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょう代理だいりからスパーツ陸軍りくぐん戦略せんりゃく航空こうくうぐん司令しれいはっせられると同時どうじに、グローブスによれば大統領だいとうりょう正式せいしき承認しょうにんるため、ポツダムにおくられたという[54]。ここで「広島ひろしま小倉おぐら新潟にいがた長崎ながさきのいずれかの都市とし8がつ3にちごろ以降いこう目視もくしばくげき可能かのう天候てんこうに「特殊とくしゅばくだん」を投下とうかする」とされた[48][49][52]。これらの都市とし新旧しんきゅう首都しゅとではないし、軍事ぐんじ都市とし・あるいは戦略せんりゃくてき軍事ぐんじ拠点きょてんといえないこともないが、さきのトルーマンのかんがえとニュアンスがあるようにおもえることについて、歴史れきしのアレックス・ウェラースタインは、トルーマンがスチムソンと京都きょうと投下とうか対象たいしょうからはずはなしをしていくなかで、トルーマンは広島ひろしまとう軍事ぐんじ基地きちなにかのように錯覚さっかくした可能かのうせいがあるとのせつとなえている[55]

1945ねん8がつ2にちだい20航空こうくうぐん司令しれいが「野戦やせん命令めいれいだい13ごう」を発令はつれいし、8がつ6にち原子げんしばくだんによる攻撃こうげきおこなうことが決定けっていした。攻撃こうげきだい1目標もくひょうは「広島ひろしま中心ちゅうしん工業こうぎょう地域ちいき」(照準しょうじゅんてん相生橋あいおいばし付近ふきん)、予備よびだい2目標もくひょうは「小倉おぐら造兵ぞうへいしょうならびに同市どうし中心ちゅうしん」、予備よびだい3目標もくひょうは「長崎ながさき中心ちゅうしん」であった[48][49]

1945ねん8がつ6にち広島ひろしまウラニウムかた原子げんしばくだんリトルボーイ投下とうかされた(広島ひろしまへの原子げんしばくだん投下とうか)。

1945ねん8がつ8にちだい20航空こうくうぐん司令しれいが「野戦やせん命令めいれいだい17ごう」を発令はつれいし、8がつ9にちに2かい原子げんしばくだんによる攻撃こうげきおこなうことが決定けっていした。攻撃こうげきだい1目標もくひょうは「小倉おぐら造兵ぞうへいしょうおよび市街地しがいち」、予備よびだい2目標もくひょうは「長崎ながさきまち」(照準しょうじゅんてん中島なかじまがわしも流域りゅういき常盤ときわきょうからにぎわいきょう付近ふきん)であった[49][56]

1945ねん8がつ9にちだい1目標もくひょう小倉こくら上空じょうくう視界しかい不良ふりょうであったため、だい2目標もくひょうである長崎ながさきプルトニウムかた原子げんしばくだんファットマン投下とうかされた(長崎ながさきへの原子げんしばくだん投下とうか)。小倉おぐら視界しかい不良ふりょうであった理由りゆうには天候てんこう不良ふりょうのほか、八幡はちまんだい空襲くうしゅうしょうじたけむりによるなどのせつがある[57]

関連かんれん:『原爆げんばく投下とうか・10びょう衝撃しょうげき』『くろあめ

模擬もぎ原子げんしばくだん「パンプキン」の投下とうか訓練くんれん

編集へんしゅう

1945ねん7がつ20にち以降いこうだい509混成こんせい部隊ぶたい長崎ながさき投下とうかする原子げんしばくだん(ファットマン)とどう形状けいじょうばくだん通常つうじょう爆薬ばくやくめたパンプキンばくだんそう重量じゅうりょう4,774キログラム、爆薬ばくやく重量じゅうりょう2,858キログラム)の投下とうか訓練くんれんかえした[58]。すなわち、原子げんしばくだん投下とうか予行よこう演習えんしゅうである。テニアンとうから日本にっぽん列島れっとう原子げんしばくだん投下とうか目標もくひょう都市としまで飛行ひこうして都市とし目視もくし観察かんさつしたのちに、その周辺しゅうへんべつ都市とし設定せっていした訓練くんれんよう目標もくひょう地点ちてん正確せいかくにパンプキンを投下とうかする練習れんしゅうべ49かい、30都市としおこなわれた。

パンプキン練習れんしゅう作戦さくせんは、1945ねん7がつ24にち、7がつ26にち、7がつ29にち、8がつ8にちおよ8がつ14にち終戦しゅうせん直前ちょくぜんまでおこなわれた。

原子げんしばくだん輸送ゆそうとインディアナポリス撃沈げきちん事件じけん

編集へんしゅう
 
じゅう巡洋艦じゅんようかんインディアナポリス

パンプキンばくだんによる訓練くんれん並行へいこうして、完成かんせいした原子げんしばくだん部品ぶひんけての輸送ゆそうおこなわれた。損傷そんしょう修理しゅうりのために戦列せんれつはなれていたアメリカ海軍かいぐんポートランドきゅうじゅう巡洋艦じゅんようかんインディアナポリスは、原子げんしばくだん運搬うんぱん任務にんむあたえられ1945ねん7がつ16にちサンフランシスコ出港しゅっこうし、7がつ28にちにテニアンとう到着とうちゃくした。また、アメリカ陸軍りくぐん航空こうくうたいげんアメリカ空軍くうぐん)のダグラスC-54スカイマスター輸送ゆそうがウラン235のターゲットピースを空輸くうゆした。この原子げんしばくだん最終さいしゅう組立くみたては、テニアンとう基地きちですべて極秘ごくひおこなわれた。

このインディアナポリスは、帰路きろの1945ねん7がつ30にちフィリピンうみで、橋本はしもと以行海軍かいぐん中佐ちゅうさ指揮しきする日本にっぽん海軍かいぐんごうだいはち潜水せんすいかん魚雷ぎょらいによって撃沈げきちんされている(インディアナポリス撃沈げきちん事件じけん)。この潜水せんすいかんは、当時とうじ特攻とっこう兵器へいきである人間にんげん魚雷ぎょらい回天かいてん搭載とうさいしており、回天かいてん隊員たいいんから出撃しゅつげき要求ようきゅうされたが、「雷撃らいげきでやれるとき雷撃らいげきでやる」と通常つうじょう魚雷ぎょらい撃沈げきちんした。インディアナポリスの遭難そうなん電報でんぽう無視むしされ、うみされた乗員じょういんおおくが疲労ひろうてい体温たいおんしょうサメ襲撃しゅうげきにあって死亡しぼうした。そのため、原子げんしばくだんには「インディアナポリス乗員じょういんおもに」と白墨はくぼく(チョーク)でしるされた。インディアナポリス艦長かんちょうチャールズ・バトラー・マクベイ3せい大佐たいさはその軍法ぐんぽう会議かいぎしょせられたが、自艦じかん戦闘せんとうしずめられたために処罰しょばつされた艦長かんちょうめずらしい。だい世界せかい大戦たいせんべいぐん原爆げんばく輸送ゆそう機密きみつ漏洩ろうえいうたがい、橋本はしもと潜水せんすい艦長かんちょうなが尋問じんもんしたが、その襲撃しゅうげき偶然ぐうぜんであった。インディアナポリスがテニアンとうへの往路おうろ撃沈げきちんされていれば、1945ねん8がつ6にち広島ひろしまへの原子げんしばくだん投下とうか不可能ふかのうとなっていた。

日本にっぽん対応たいおう

編集へんしゅう

1945ねん当時とうじ大本営だいほんえい大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん中央ちゅうおう特種とくしゅ情報じょうほうとくじょう)は、サイパンとう方面ほうめんのB-29部隊ぶたいについて、おも電波でんぱ傍受ぼうじゅによってその動向どうこうを24あいだ体制たいせい監視かんししていた。大本営だいほんえい陸軍りくぐんだい2だい6情報じょうほうべいえい)に所属しょぞくしていたほり栄三えいざのち回想かいそうしたところによれば、だい509混成こんせい部隊ぶたいがテニアンとう進出しんしゅつしたことや、進出しんしゅつしてきたB-29のなかいち飛行ひこうちゅう長文ちょうぶん電報でんぽうをワシントンにけて打電だでんしたこと(このようなことは通常つうじょう発生はっせいしない)、それ以前いぜんからサイパン方面ほうめん存在そんざいしていたほかのB-29部隊ぶたい基本きほんてきにV400番台ばんだい、V500番台ばんだい、V700番台ばんだいのコールサインをもちいていたのとことなり、だい509混成こんせい部隊ぶたいがV600番台ばんだいのコールサインを使用しようしていたことから、東京とうきょう杉並すぎなみにあった陸軍りくぐん特殊とくしゅ情報じょうほう現在げんざい高井戸たかいどにある社会しゃかい福祉ふくし法人ほうじん浴風会よくふうかい本館ほんかんない)ではしん部隊ぶたい進出しんしゅつ察知さっちしていた[59]

その1945ねん6がつまつごろから、この「V600番台ばんだい」のB-29がテニアンとう近海きんかい飛行ひこうはじめ、7がつ中旬ちゅうじゅんになると日本にっぽん近海きんかいまで単機たんきまたは2、3しょう編隊へんたい進出しんしゅつしては帰投きとうする行動こうどうかえすようになったことから、これらの機体きたいとくじょうでは「特殊とくしゅ任務にんむ」と警戒けいかいしていた。しかし、これらのB-29が原爆げんばく投下とうか任務にんむのための部隊ぶたいであったことは、原子げんしばくだん投下とうかのトルーマンの演説えんぜつによって判明はんめいしたとのことであり、「特殊とくしゅ任務にんむ」の目的もくてき事前じぜん察知さっちすることはできなかった[60]。だが、事態じたい判明はんめいしたのち長崎ながさき原爆げんばく投下とうか阻止そししようとしなかったのかについては不明ふめいで、付近ふきん当時とうじ日本にっぽんぐんさい新鋭しんえいひとつである紫電しでんあらため装備そうびしただいさんよんさん海軍かいぐん航空こうくうたい待機たいきしていたのにかかわらず、海軍かいぐん部隊ぶたい出撃しゅつげき命令めいれいくださなかったのかについては帝国ていこく陸軍りくぐん中央ちゅうおう特種とくしゅ情報じょうほう高官こうかん情報じょうほうにぎりつぶし、情報じょうほう海軍かいぐんつたえられなかったからだと当時とうじ関係かんけいしゃはインタビュー[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]こたえている[よう出典しゅってん][ちゅう 4]

そもそも、日本にっぽんぐん当時とうじ日本にっぽんでも原子げんしばくだん開発かいはつおこなわれていたにもかかわらず、同盟どうめいこくのドイツやイタリアから亡命ぼうめいしてきた科学かがくしゃたちによるアメリカにおける原子げんしばくだん開発かいはつ進捗しんちょくじょうきょうをほとんど把握はあくしておらず、およそとくじょうにおいては1945ねん「7がつ16にちニューメキシコしゅうあたらしい実験じっけんおこなわれた」との外国がいこく通信つうしんしゃ記事きじについたのみであった[61]

もちろん、これはトリニティ実験じっけんした報道ほうどうであったのであるが、実験じっけん直後ちょくご時点じてんではその内容ないよう公開こうかいされておらず、当時とうじ日本にっぽんぐんにその内容ないようじゅつはなかった。それをまえ、ほりは「原爆げんばくというかたりは、その当時とうじかけらほどもなかった」とかたっている。また、とくじょうでは、当時とうじスウェーデン日本にっぽん大使館たいしかん勤務きんむしていた駐在ちゅうざい武官ぶかんつうじて経由けいゆして入手にゅうしゅしたアメリカ海軍かいぐんのM-209暗号あんごう装置そうちもちいた暗号あんごう解読かいどくすすめていたが、この暗号あんごう解読かいどく作業さぎょうにおいて「nuclear」(原子核げんしかく)の文字もじれつあらわれたのが、広島ひろしま長崎ながさき原子げんしばくだん投下とうかされた直後ちょくごの8がつ11にち[62] のことであった。

当初とうしょは、軍部ぐんぶしんばくだん投下とうかかんする情報じょうほう国民こくみんせていた。やがて、軍部ぐんぶ報道ほうどう統制とうせい徐々じょじょ解除かいじょ広島ひろしま新型しんがたばくだん投下とうかされたことが7にち大本営だいほんえい発表はっぴょうとして新聞しんぶん紙上しじょうでは8にち報道ほうどうされる。報知ほうち新聞しんぶん10日とおかにウランかく爆発ばくはつ威力いりょくについての説明せつめい記事きじかこ記事きじのようなかたちせ、朝日新聞あさひしんぶんが11にちにはトルーマン演説えんぜつ報道ほうどうなか原子げんしばくだん言葉ことばせている。この11にちには長崎ながさきにも新型しんがたばくだんが9にちおとされたことが新聞しんぶんほうじられはじめる。11にちから12にちにかけて日本にっぽん新聞しんぶん各紙かくし広島ひろしま特派とくはいん派遣はけんし、広島ひろしま全滅ぜんめつさせた新型しんがたばくだん正体しょうたいが(当時とうじは、政府せいふ記者きしゃらにとっても断定だんていできるものではなかったために)原爆げんばく可能かのうせいがあることを読者どくしゃかしたうえで、被害ひがいもかなりのものであることが報道ほうどうされるようになっていく。(なお、被災ひさい広島ひろしま写真しゃしん新聞しんぶんるのは8がつ19にちからである。)これによって、当時とうじ自国じこくでも開発かいはつすすめられていたもののその詳細しょうさい機密きみつあつかいであったこともあり、一般いっぱんにはSF小説しょうせつ科学かがく雑誌ざっしなどで「きん未来みらい架空かくう兵器へいき」と紹介しょうかいされていた原爆げんばく発明はつめいされ、日本にっぽん攻撃こうげきけたことを日本にっぽん国民こくみんはじめてったのである[ちゅう 5]

なお、この原爆げんばく報道ほうどうによって、新潟にいがたけんは8がつ11にち新潟にいがた市民しみんたいして「原爆げんばく疎開そかい命令めいれい [2]し、大半たいはん市民しみん新潟にいがたから脱出だっしゅつ新潟にいがた無人むじん都市としになった[63]。その情報じょうほうは8がつ13にちづけ讀賣よみうり報知ほうちげん読売新聞よみうりしんぶん)に記載きさいされた[64]。これは新潟にいがた原爆げんばく投下とうか目標もくひょうリストにはいっているらしいという情報じょうほうながれたからである。原爆げんばく疎開そかいおこなわれた都市とし新潟にいがただけであった。

また東京とうきょうでも、8がつ11にちと12にち単機たんき飛来ひらいしてきたB-29が原爆げんばくかんする伝単でんたん「マリアナ時報じほう」をき、「マリアナ時報じほう」をんだ市民しみんあいだで「まもなく原爆げんばく投下とうかされる」といううわさち、警戒けいかい警報けいほう発令はつれいたびしろいシーツをかぶって防空壕ぼうくうごうはい市民しみん姿すがたられた[65]とくに8がつ11にちは、8がつ8にち空襲くうしゅう捕虜ほりょにしただい7空軍くうぐん搭乗とうじょういんによる「8がつ12にちごろに東京とうきょう原爆げんばく投下とうかされる」とのにせ証言しょうげん大本営だいほんえい陸軍りくぐん特殊とくしゅ情報じょうほう海軍かいぐん大和田おおわだ通信つうしんしょしんけて警戒けいかいレベルをたかめた結果けっか、11にち正午しょうごごろに単機たんき飛来ひらいしてきた偵察ていさつ侵入しんにゅうしてきたB-29を「原爆げんばく搭載とうさい」、味方みかた高射こうしゃほう閃光せんこうを「原爆げんばく閃光せんこう」と勘違かんちがいする始末しまつであったが、それでも飛来ひらいしたB-29を「原爆げんばく搭載とうさい可能かのうせいがある」との放送ほうそうおこなった[66]中央ちゅうおう気象台きしょうだいでもおなじ11にちの14時半じはんごろにふたた単機たんきのB-29が飛来ひらいしてきたさい閃光せんこう確認かくにんしたので職員しょくいん防空壕ぼうくうごうんだが、それは13ごろからっていた雷雨らいうによる稲光いねみつを「原爆げんばく閃光せんこう」と誤認ごにんしたものであった[67]。「東京とうきょうへの原爆げんばく」の情報じょうほうはついには皇室こうしつみみにもはいり、岡部おかべちょうあきら侍従じじゅう昭和しょうわ天皇てんのう大本営だいほんえい付属ふぞくしつ退避たいひさせる判断はんだんをして文庫ぶんこにいた天皇てんのう原爆げんばく威力いりょくかんするデータを奏上そうじょうしたうえで退避たいひすすめて天皇てんのう皇后こうごうとともに付属ふぞくしつ誘導ゆうどうしたが、付属ふぞくしつ岡部おかべ天皇てんのうから原爆げんばくかんして「はじめてくのだよ」「(原爆げんばくことを)武官ぶかんちょうつたえてくれ」などとわれ、岡部おかべは「ぐん天皇てんのう原爆げんばく正確せいかく情報じょうほうつたえていないのではないか」と疑念ぎねんいだくようになったという[68]

1945ねん8がつ15にち終戦しゅうせん午前ごぜんラジオ放送ほうそうで、仁科にしな芳雄よしお博士はかせ原爆げんばく解説かいせつおこなった。さらに8がつ15にち正午しょうご戦争せんそう終結しゅうけつ日本にっぽん国民こくみんげるためにおこなわれたラジオ放送ほうそう玉音ぎょくおん放送ほうそう)で、原爆げんばくについて「てきしん残虐ざんぎゃくナルばくだん使用しようシテ無辜むこ殺傷さっしょう惨害さんがいノ及フしょはかルヘカラサルニいたりル(てきあらたに残虐ざんぎゃくばくだん使用しようして、つみもないものたちを殺傷さっしょうし、悲惨ひさん損害そんがい程度ていど見当けんとうもつけられないまでにいたった)而モなお交戰こうせん繼續けいぞくセムカおわりわが民族みんぞく滅亡めつぼう招來しょうらいスルノミナラスのべ人類じんるい文明ぶんめいヲモやぶ却スヘシ(それなのになお戦争せんそう継続けいぞくすれば、ついには民族みんぞく滅亡めつぼうまねくだけでなく、さらには人類じんるい文明ぶんめいをも破滅はめつさせるにちがいない。)」とみことのりがあった(だい世界せかい大戦たいせんちゅう日本にっぽん軍部ぐんぶにもふたつの原子げんしばくだん開発かいはつ計画けいかく存在そんざいしていた。陸軍りくぐんの「ニごう研究けんきゅう」と海軍かいぐんのF研究けんきゅうである)。

正確せいかく犠牲ぎせいしゃすうなどは、連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい (GHQ / SCAP) 占領せんりょうでは言論げんろん統制とうせいされ、サンフランシスコ講和こうわ条約じょうやく発効はっこう日本にっぽん主権しゅけん回復かいふくした1952ねんはじめて報道ほうどうされた。

新型しんがたばくだんへの心得こころえ

編集へんしゅう

原子げんしばくだん広島ひろしま長崎ながさき投下とうかされたのち日本にっぽん報道ほうどう機関きかん号外ごうがいし、原子げんしばくだんへの対策たいさくとその心得こころえ国民こくみん伝達でんたつしている[69]

東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん 昭和しょうわじゅうねんはちがつじゅういちにちづけ特報とくほうおく仮名がなとう実際じっさい掲載けいさいされたものにのっとっている)

新型しんがたばくだんへの心得こころえ 防空ぼうくう總本部そうほんぶ發表はっぴょう

橫穴よこあなしき防空壕ぼうくうごう有效ゆうこう 初期しょき防火ぼうか火傷かしょう注意ちゅうい

國際こくさいほう無視むしした廣島ひろしま新型しんがたばくだんを、現地げんち出張しゅっちょう視察しさつした陸海りくかいぐんおよび防空ぼうくう總本部そうほんぶ專門せんもん調査ちょうさもとづいて新型しんがたばくだんたいする心得こころえ防空ぼうくう總本部そうほんぶからじゅういちにち發表はっぴょうした、なほさきにかいにわたつて發表はっぴょうされた注意ちゅうい有效ゆうこうであるから今回こんかい左記さき注意ちゅうい追加ついかすれば一層いっそう完璧かんぺきである

いち落下傘らっかさんやうのものが降下こうかするから目撃もくげきしたら確實かくじつ待避たいひすること

鐵筋てっきんコンクリートづくりの建物たてもの安全あんぜんたかいからこれを有效ゆうこう利用りようすること しかしまどガラスは破壞はかいするからこれがための負傷ふしょう注意ちゅういすること、かべはしらがたまどこしかべ待避たいひしょとすると有效ゆうこうである

さん破壞はかいされた建物たてものからはっするから初期しょき防火ぼうか注意ちゅういすること

よん傷害しょうがい爆風ばくふうによるものと火傷かしょうであるがそのうちでも火傷かしょうおおいから火傷かしょう手當てあて心得こころええておくこと、もつとも簡單かんたん火傷かしょう手當てあてほうあぶらるいるか鹽水えんすい濕布しっぷをするがよい

横穴よこあなしき防空壕ぼうくうごう堅固けんご待避たいひごう同樣どうよう有效ゆうこうである

ろくしろ衣類いるい火傷かしょうふせぐために有效ゆうこうである(ただしろ着衣ちゃくい小型こがた場合ばあい目標もくひょうとなりやすい、よく注意ちゅういのこと)

なな待避たいひごう入口いりくち出來できるだけふさぐのがよろしい

はちだこつぼしき防空壕ぼうくうごういたいちまいでもしておくと有效ゆうこうである

だい3はつ以降いこう原子げんしばくだん投下とうか準備じゅんび

編集へんしゅう

8がつ10日とおかハリー・トルーマン大統領だいとうりょう日本にっぽん降伏ごうぶくちかづいているという情勢じょうせい判断はんだんにより、一連いちれん原爆げんばく投下とうか計画けいかく一旦いったん停止ていしめいじたものの[70]終戦しゅうせん直前ちょくぜん、アメリカは出来できかぎりいくつかの原子げんしばくだん製造せいぞう順次じゅんじすすめており、長崎ながさきへの原子げんしばくだん投下とうかも、だい3はつ以降いこう原爆げんばくとす準備じゅんびにゅうろうとしていた。8月19にちに3はつ、9月にだい4、5はつ、10月にだい6~8はつ投下とうか可能かのうとしており、さらに本土ほんど上陸じょうりく侵攻しんこうまえにまとめて投下とうかすることも検討けんとうされていた[70]

8がつ15にち日本にっぽん降伏ごうぶく表明ひょうめいするわずか数時間すうじかんまえ米国べいこく時間じかん14にち)、トルーマンは英国えいこく外交がいこうかんまえに「だいさん原爆げんばく投下とうか命令めいれいする以外いがい選択肢せんたくしはない」とらしていたが、日本にっぽん降伏ごうぶくしたことでだい3はつ以降いこう原子げんしばくだん日本にっぽん投下とうかされることはなかった[71]

かりだい3はつ原子げんしばくだん投下とうか命令めいれいくだったさい、その候補こうほ小倉こくら京都きょうと新潟にいがたなど諸説しょせつあるが、1945ねん8がつ14にち愛知あいちけんおこなわれた7はつパンプキンばくだん投下とうかは、3はつ原子げんしばくだん投下とうか訓練くんれんであったとされ、いずれもばくげき京都きょうと上空じょうくう経由けいゆしたのち愛知あいちけん投下とうかしていることから、だいさん原子げんしばくだん標的ひょうてき京都きょうとであったとかんがえられる理由りゆうひとつとなっている[48]。また、プルトニウムコアの輸送ゆそう遂行すいこうされて原爆げんばく完成かんせいさせたのち、8がつ19にち20日はつか東京とうきょう投下とうかする予定よていであったという情報じょうほうもある[72]2003ねんテレビ朝日てれびあさひの「ザ・スクープ」による取材しゅざい報道ほうどうでは、8がつ17にち東京とうきょう投下とうか予定よていだったとしている[73]

また前述ぜんじゅつのように広島ひろしま長崎ながさき投下とうかされた新型しんがたばくだんが、新潟にいがたにもとされるとの畠田はただ昌福まさとみ新潟にいがた県知事けんちじ見解けんかいにより、「つみ市民しみん皆殺みなごろしにしようとするてき作戦さくせん肩透かたすかしをくらわせる」とべたうえで、新潟にいがた中心ちゅうしんから5やく20キロメートル)以上いじょう疎開そかいすることをもとめた布告ふこくを8がつ11にちしたため、新潟にいがた中心ちゅうしん終戦しゅうせん直後ちょくごまで無人むじん状態じょうたいになった[63]。ただ、新潟にいがたへの投下とうかについては出撃しゅつげき基地きちのテニアンとうからとおうえ目標もくひょう都市とし規模きぼちいさすぎることとうから、8がつ6にち、8がつ9にちとも予備よび投下とうか目標もくひょうにすらえらばれなかったという[74][75]

極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん

編集へんしゅう

極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん東京とうきょう裁判さいばん)において連合れんごうこくがわニュルンベルク裁判さいばん東京とうきょう裁判さいばんとの統一とういつせいもとめていたが、インドラダ・ビノード・パール判事はんじはその同意どうい判決はんけつしょなかで、日本にっぽんぐんによる残虐ざんぎゃく行為こうい事例じれいが「ヨーロッパ枢軸すうじく重大じゅうだい戦争せんそう犯罪はんざいじん裁判さいばんにおいて、証拠しょうこによりて立証りっしょうされたと判決はんけつされたところのそれとは、まったくことなった立脚りっきゃくてんっている[76]」と、戦争せんそう犯罪はんざいじんがそれぞれの指令しれいくだしたとニュルンベルク裁判さいばん認定にんていされたナチス・ドイツの事例じれいとの重要じゅうようちがいを指摘してきしたうえで、「(米国べいこくの)原爆げんばく使用しよう決定けっていした政策せいさくこそがホロコースト唯一ゆいいつ比例ひれいする行為こうい」とろんじ、米国べいこくによる原爆げんばく投下とうかこそが、国家こっかによる戦闘せんとういん生命せいめい財産ざいさん差別さべつ破壊はかいとしてナチスによるホロコーストにせる唯一ゆいいつのものであるとした。

どう趣旨しゅし弁論べんろん弁護士べんごしによってもなされ、ベン・ブルース・ブレイクニー弁護人べんごにん1946ねん5月14にち弁護べんごがわ反証はんしょう段階だんかい冒頭ぼうとうで、アメリカの原子げんしばくだん投下とうか問題もんだいげ、「キッド提督ていとく真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきによる殺人さつじんざいになるならば、我々われわれは、広島ひろしま原爆げんばく投下とうかしたもの(ポール・ティベッツ)をげることができる。投下とうか計画けいかくした参謀さんぼうちょうカール・スパーツ)の承知しょうちしている。そのくに元首げんしゅ名前なまえ[ちゅう 6]承知しょうちしている。かれらは、殺人さつじんざい意識いしきしていたか?してはいまい。我々われわれもそうおもう。それはかれらの戦闘せんとう行為こうい正義せいぎで、てき行為こうい正義せいぎだからではなく、戦争せんそう自体じたい犯罪はんざいではないからである。なん罪科つみとがでいかなる証拠しょうこ戦争せんそうによる殺人さつじん違法いほうなのか。原爆げんばく投下とうかしたものがいる。この投下とうか計画けいかくし、その実行じっこうめいじ、これを黙認もくにんしたものがいる。そのものたちさばいているのだ。かれらも殺人さつじんしゃではないか」と発言はつげんした。なおこの発言はつげんはじまると、チャーターでさだめられているはず同時どうじ通訳つうやく停止ていしし、日本語にほんご速記そっきろくにもこの部分ぶぶんのみ「以下いか通訳つうやくなし」としか記載きさいされなかった[77]。ブレイクニー弁護人べんごにんは、1947ねん3月3にちにも、原子げんしばくだんあきらかにハーグ陸戦りくせん条約じょうやくだいよんこう禁止きんしする兵器へいきだと指摘してきした。またイギリスのアーサー・S・コミンズ・カー検察官けんさつかんによる「連合れんごうこくがどんな武器ぶき使用しようしようとほん審理しんりにはなんらの関係かんけいもない」との反駁はんばくたいし、日本にっぽんはそれにたいして報復ほうふくする権利けんりがある、と主張しゅちょうした。

またパールは1952ねん11月、広島ひろしま訪問ほうもんし、講演こうえん世界せかいぐ」では「広島ひろしま長崎ながさき原爆げんばくとうぜられたとき、どのようないいわけがされたか、なにのためにとうぜられなければならなかったか」[78]など、原爆げんばく投下とうかつよ非難ひなんした[79]講演こうえんでは、「いったいあの場合ばあい、アメリカは原子げんしばくだんとうずべきなん理由りゆうがあっただろうか。日本にっぽんはすでに降伏ごうぶくすべき用意よういができておった」「これを投下とうかしたところのくに(アメリカ)から、真実味しんじつみのある、しんからの懺悔ざんげ言葉ことばをいまだにいたことがない」、連合れんごうこくがわの「いくせんにんかの白人はくじん軍隊ぐんたい犠牲ぎせいにしないため」といういいぶんたいしては「その代償だいしょうとして、つみのないところの老人ろうじんや、子供こどもや、婦人ふじんを、あるいは一般いっぱん平和へいわてき生活せいかつをいとなむ市民しみんを、いくまんにんいくじゅうまんにんころしてもいいというのだろうか」「われわれはこうした手合てあいと、ふたたび人道じんどう平和へいわについてかたいたくはない」として、きわめてつよ原爆げんばく投下とうか批判ひはんした。

被爆ひばくしゃへの認識にんしき対応たいおう

編集へんしゅう

日本にっぽん世界せかい唯一ゆいいつ戦争せんそうにおける原子げんしばくだん直接ちょくせつ被害ひがいけたくにであるが、この経験けいけんは、だい世界せかい大戦たいせんだい東亜とうあ戦争せんそう/太平洋戦争たいへいようせんそう終結しゅうけつ直後ちょくごから、米国べいこく国務省こくむしょううち原子げんしばくだん使用しよう反対はんたいしたものたちの予想よそう[80] にもはんし、日本にっぽん国民こくみん反米はんべい感情かんじょう報復ほうふく意識いしきにはつながっていない。1946ねん日本にっぽんでのアメリカ戦略せんりゃくばくげき調査ちょうさだんによるだい規模きぼ調査ちょうさ結果けっかによると、広島ひろしま長崎ながさきでは19%、日本にっぽん全体ぜんたいでもわずか12%の調査ちょうさしゃのみが、原爆げんばく投下とうかたいしアメリカににくしみをかんじたという。また戦後せんご20年間ねんかん書籍しょせき新聞しんぶん雑誌ざっし原爆げんばく関係かんけい記事きじでは、おおむね原爆げんばく悲惨ひさんさをうったえるものがおおく、アメリカへのうらみはほとんどないという。しかしこれらの「沈黙ちんもく」は、その生活せいかつ必死ひっし心情しんじょう吐露とろする余裕よゆうがなかったことや、被爆ひばくによる悲惨ひさん経験けいけんおもしたくない、就職しゅうしょく結婚けっこんでの差別さべつ偏見へんけんのがれたい、犠牲ぎせいになった同胞どうほういて自分じぶんのみがのこったうしろめたさなどの感情かんじょうがあると推察すいさつされ、また占領せんりょうぐんによる検閲けんえつが1945ねん9月19にちから1949ねん10がつまつまでおこなわれ、被爆ひばくしゃ自己じこ経験けいけんかたることはもとより、原爆げんばくかんする科学かがくてき医学いがくてき情報じょうほう公開こうかいまできんじられたことが背景はいけいとしてある[81]

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救護きゅうご目的もくてきとしない被爆ひばくしゃ詳細しょうさい健康けんこう被害ひがい調査ちょうさ原爆げんばく投下とうか直後ちょくごから日本にっぽんがわにより開始かいしされた。この日本にっぽんがわ調査ちょうさ報告ほうこくしょ戦後せんごただちに米国べいこくがわすべ英訳えいやくされてわたされた。これは米国べいこく提出ていしゅつ命令めいれいによるものではなく、自主じしゅてきなものであり、戦後せんご日本にっぽんがわ米国べいこく調査ちょうさ積極せっきょくてき協力きょうりょくしていたことが、米国べいこく公文書こうぶんしょ公開こうかいによってあきらかになっている。これらの調査ちょうさ詳細しょうさいかつ執拗しつようで、被爆ひばくしゃ治療ちりょうとは関係かんけいのない薬物やくぶつ投与とうよし、その反応はんのうるといったものまでなされていた。調査ちょうさ結果けっか米国べいこくかく戦略せんりゃくじょう資料しりょうとなり、なが被爆ひばくしゃ救済きゅうさいもちいられることはなかった[82]

原子げんしばくだん日本にっぽん国民こくみんにもたらしたものは、反米はんべい感情かんじょうではなく、放射能ほうしゃのう放射線ほうしゃせんたいする「恐怖きょうふ」であった[80]。そしてそれは戦後せんごしばらくのあいだ被爆ひばくしゃ直接ちょくせつけられた。新聞しんぶん雑誌ざっしなどにおいても被爆ひばくしゃは「放射能ほうしゃのうをうつす存在そんざい」あるいはおも火傷かしょうあとから「奇異きい対象たいしょう」などとしてあつかわれることがあり、被爆ひばくしゃたいする偏見へんけん差別さべつおおくあった。このためすくなからず被爆ひばくしゃ自身じしん被爆ひばくした事実じじつかくしてらすようになっていった。今日きょう日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかいは、これを戦後せんごのGHQによる言論げんろん統制とうせい影響えいきょう、すなわちまさしく原爆げんばくかんする報道ほうどうがなされなかったために、当時とうじ放射能ほうしゃのう放射線ほうしゃせん知識ちしき一般いっぱんてきでなかったこととあいまって、あやまった認識にんしき日本にっぽん国民こくみんあいだ蔓延まんえんしたためであったと分析ぶんせき公表こうひょうしている[83]。また、RCC記者きしゃであったあきしん利彦としひこは、当時とうじ被爆ひばくしゃ報道ほうどう機関きかんたいするつよ反感はんかん反発はんぱつ実態じったいについて証言しょうげんしている[84]。この日本にっぽん国民こくみん放射能ほうしゃのう放射線ほうしゃせんたいする「恐怖きょうふ」は、当時とうじ米国べいこく優位ゆういにあった原子力げんしりょく産業さんぎょう日本にっぽん進出しんしゅつ決定的けっていてきはばむものともなり、日本にっぽん主権しゅけん回復かいふく米国べいこく民間みんかん中心ちゅうしん莫大ばくだい経費けいひとうじ、原子力げんしりょく平和へいわ利用りようキャンペーンを日本にっぽん国内こくない各地かくち展開てんかいしている[80]

被爆ひばくしゃへの救護きゅうご施策しさくは1945ねん10がつかく救護きゅうごしょ閉鎖へいさをもって終了しゅうりょうし、以降いこうなん公的こうてき支援しえんもなされない状況じょうきょうながつづいた。くに被爆ひばくしゃ援護えんご施策しさくは、1957ねん4がつの「原子げんしばくだん被爆ひばくしゃ医療いりょうとうかんする法律ほうりつ」(原爆げんばく医療いりょうほう施行しこうより、実質じっしつてきには1960ねん8がつに「特別とくべつ被爆ひばくしゃ制度せいど」が創設そうせつされて以降いこうである。しかしこの被爆ひばくしゃ援護えんご施策しさく限定げんていてきで、救済きゅうさいされない被爆ひばくしゃおおく、おおむ充実じゅうじつしたのはじつに1995ねん7がつの「原子げんしばくだん被爆ひばくしゃたいする援護えんごかんする法律ほうりつ」(被爆ひばくしゃ援護えんごほう)の施行しこう以降いこうである[85]

東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょ1963ねん12月7にち、「被爆ひばくしゃ損害そんがい賠償ばいしょう請求せいきゅうけんたない」として、「日本にっぽんへのアメリカぐんによる原子げんしばくだん投下とうか国際こくさいほう違反いはんしたものであり、また同時どうじ大日本帝国だいにっぽんていこく戦争せんそう責任せきにんみとめ、日本にっぽんこく十分じゅうぶん救済きゅうさいさくるべきは立法府りっぽうふおよ内閣ないかく責務せきむである」とする判決はんけつくだ確定かくていした[86][87]以降いこう今日きょういたるまで、日本にっぽん国内こくない被爆ひばくしゃ関連かんれん施策しさくあるいは裁判さいばんにおいて、この基本きほんてきかんがかた準用じゅんようされつづけている。

しかし今日きょう日本にっぽんでは「核兵器かくへいき廃絶はいぜつ運動うんどう関心かんしんはなく、具体ぐたいてき参加さんかしたこともない」とするひとが20だい、30だい男女だんじょで23~25%いるとする調査ちょうさ結果けっか[88] や、平和へいわ活動かつどう経験けいけんかつ参加さんかしたくないとするひとが23%いるという調査ちょうさ結果けっか[89] などから、とく若年じゃくねんそう中心ちゅうしんとして、「広島ひろしま長崎ながさきへの原爆げんばく投下とうかたいする問題もんだい意識いしき希薄きはくすすんでいる」とされる一方いっぽうで、「原爆げんばく投下とうかにおける体験たいけん継承けいしょう重要じゅうようせい認識にんしきとは裏腹うらはらに、継承けいしょうがうまくいっていない」とする回答かいとう[90] や、平和へいわ教育きょういく不十分ふじゅうぶんさを指摘してきする調査ちょうさ結果けっか[91]ている。 終戦しゅうせん直後ちょくごはともかく、こういった今日きょういたるも原爆げんばく投下とうかかんしてアメリカの加害かがい責任せきにんうことなく、その原因げんいん責任せきにんすべてを、おおむね日本にっぽん軍部ぐんぶなどにもとめ「過去かこのものにする」世論せろんは、やはり戦後せんごのGHQによる言論げんろん統制とうせいによって形成けいせいされたものだとする意見いけんもあるが[92]これについてはほかにも類似るいじの、あるいはまったことなる意見いけん[よう出典しゅってん]があり、本稿ほんこうではひかえる。

原子げんしばくだん投下とうかによってしょうじた悲劇ひげきは、21世紀せいきはいった現在げんざいにおいてもなお終結しゅうけつしているものとはいえない[93]兵器へいき原子げんしばくだんによる人的じんてき被害ひがい決定的けっていてき相違そういは、強力きょうりょく原爆げんばく放射線ほうしゃせん放射能ほうしゃのうによってもたらされた難治なんじせい疾患しっかん永続えいぞくてき後遺症こういしょうばんはつせい疾患しっかんふくむ)にあり、のこった被爆ひばくしゃやその家族かぞく現在げんざいもなお、現実げんじつてき労苦ろうくいるものとなっている。これはすくなくともすべての被爆ひばくしゃくなるまでつづくものとされると主張しゅちょうしている[94][95]現在げんざいのところ公式こうしきには(日本国にっぽんこく政府せいふなどの見解けんかいとしては)否定ひていされているものの、医学いがくてき見地けんちなどから、被爆ひばくしゃや、そのおや被爆ひばくせい)さらに被爆ひばくさんせいへの健康けんこうてき遺伝いでんてき影響えいきょうについて、調査ちょうさ研究けんきゅう継続けいぞくされている[よう追加ついか記述きじゅつ][94] 反面はんめんりになったもの[96] もある。 また、広島ひろしま長崎ながさき両市りょうしでは被爆ひばくせいへの健康けんこう診断しんだん任意にんい検診けんしん)もおこなわれている[97][98]

2012ねん6がつ3にち長崎ながさき原爆げんばく資料しりょうかん開催かいさいされただい53かい原子げんしばくだん障害しょうがい研究けんきゅうかい広島大学ひろしまだいがく鎌田かまたなななん名誉めいよ教授きょうじゅらによる「広島ひろしま原爆げんばく被爆ひばくしゃどもにおける白血病はっけつびょう発生はっせいについて」の研究けんきゅう結果けっか発表はっぴょう、すなわち広島大学ひろしまだいがく原爆げんばく放射線ほうしゃせん医科いかがく研究所けんきゅうじょ研究けんきゅうグループの長期ちょうき調査ちょうさ結果けっか報告ほうこくにおいて、被爆ひばくせい白血病はっけつびょう発症はっしょうりつたかい、とく両親りょうしんともに被爆ひばくしゃ場合ばあい白血病はっけつびょう発症はっしょうりつたかいことが50ねんわた統計とうけい結果けっかよりあきらかにされた。これにより、まだ一部いちぶしか解明かいめいされたとしかいえないが、医学いがくてきすくなくとも被爆ひばくせいへの遺伝いでんてき影響えいきょう否定ひていはできないことがあきらかにされた[99]

被爆ひばくしゃ使つかった人体じんたい実験じっけん

編集へんしゅう

東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくげん東京大学とうきょうだいがく)で、1945ねん8がつ6にち広島ひろしまと9にち長崎ながさき原爆げんばくによる被爆ひばくしゃ使つかって、戦後せんご2ねん以上いじょうわた日本国にっぽんこく憲法けんぽう施行しこうも、あらゆる人体じんたい実験じっけん実施じっしされたことを、NHKが、2010ねん8がつ6にちNHKスペシャル『封印ふういんされた原爆げんばく報告ほうこくしょ』にて調査ちょうさ報道ほうどうした。 その報道ほうどう内容ないようつぎとお[100][101]

字幕じまく昭和しょうわ20ねん8がつにち広島ひろしま昭和しょうわ20ねん8がつ9にち長崎ながさき

ナレーター:広島ひろしま長崎ながさき相次あいついで投下とうかされた原子げんしばくだん、そのとしだけで、わせて20まんにんひとたちがくなりました。原爆げんばく投下とうか直後ちょくご軍部ぐんぶによってはじめられた調査ちょうさは、終戦しゅうせんともに、その規模きぼ一気いっき拡大かくだいします。くにだい号令ごうれい全国ぜんこく大学だいがくなどから、1300にん医師いし科学かがくしゃたちがあつまりました。調査ちょうさ巨大きょだい国家こっかプロジェクトとなったのです。2ねん以上いじょうかけた調査ちょうさ結果けっかは、181さつ。1まんページにおよ報告ほうこくしょにまとめられました。大半たいはんが、放射能ほうしゃのうによって被曝ひばくしゃからだにどのような症状しょうじょうるのか、調しらべた記録きろくです。日本にっぽんはそのすべてを英語えいご翻訳ほんやくし、アメリカへとわたしていました。

字幕じまく東京大学とうきょうだいがく

ナレーター:日本にっぽんくにいきあつめてった原爆げんばく調査ちょうさ参加さんかした医師いしは、どのようなおもいで被曝ひばくしゃったのか。山村やまむら秀夫ひでおさん90さい都築つづき教授きょうじゅひきいる東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく調査ちょうさだん一員いちいんでした。当時とうじ医学部いがくぶ卒業そつぎょうして2ねん医師いしだった山村やまむらさん。調査ちょうさすべてアメリカのためであり、被曝ひばくしゃのためにっている意識いしきかったといます。

山村やまむらさん:もういっさいだって、結果けっか日本にっぽん公表こうひょうすることももちろんダメだし、おたがいにって相談そうだんするということもできませんですから。とにかく自分じぶんたちで調しらべたら全部ぜんぶむこうにすと。

ナレーター:山村やまむらさんがめいじられたのは、被曝ひばくしゃ使つかったある実験じっけんでした。報告ほうこくしょ番号ばんごう23、山村やまむらさんの論文ろんぶんです。被曝ひばくしゃアドレナリン血圧けつあつ上昇じょうしょうさせるホルモン注射ちゅうしゃし、その反応はんのう調しらべていました。12にんうち6にんは、わずかな反応はんのうしかしめさなかった。山村やまむらさんたちは、こうした治療ちりょうとは関係かんけいのない検査けんさ毎日まいにちおこなっていました。調しらべられることはすべおこなうのが、調査ちょうさ方針ほうしんだったといます。

山村やまむらさん:きてるひと生前せいぜんにどういう変化へんかこしているかということを、すこしでもなにかの手掛てがかりはつけて、調しらべるということだけでしたから、それ以外いがいなににもないですね。あんまりのこともかんがえれなかったですね。とにかくそれだけやると。

NHKインタビューアー:いまとなってみたらどうおかんじになりますか?そのことは。

山村やまむらさん:(苦笑くしょう)、いまとなってみたらねぇ。そうですねえ、まあもっとにいい方法ほうほうがあったのかもれませんけど、だけどいま全然ぜんぜんちがいますからねぇ、そのとき社会しゃかいてき状況じょうきょうがね。

評価ひょうか歴史れきし認識にんしき

編集へんしゅう

日本にっぽん

編集へんしゅう

広島ひろしま平和へいわ記念きねん公園こうえん慰霊いれいにある「あやまちはかえしませんから」の「主語しゅご問題もんだい」(だれあやまちをかえさないのか?)や、昭和しょうわ天皇てんのうによる「原爆げんばくはやむをない」発言はつげん後述こうじゅつ[102]もと長崎ながさき市長しちょう本島もとじまひとしの「日本にっぽんぐんこした戦争せんそうたいする当然とうぜんむくい」発言はつげん[103]もと防衛ぼうえいしょう久間くま章生あきおによる「原爆げんばくはしょうがない」発言はつげん[104] など枚挙まいきょ[よう説明せつめい]にいとまがなく、被爆ひばくしゃやその遺族いぞく家族かぞく団体だんたいなどからの批判ひはんや、抗議こうぎ行動こうどう[ちゅう 7]えない。なお、湾岸わんがん戦争せんそう以降いこうにアメリカぐんなどが使用しようしている劣化れっかウランだんについては、その放射能ほうしゃのうによる被害ひがいがあるとして、原水禁げんすいきんなどの団体だんたい抗議こうぎおこなっている[ちゅう 8]キリスト教徒きりすときょうと社会しゃかいがくもの橋爪はしづめだい三郎さぶろうは、キリストきょうけんでは広島ひろしま長崎ながさき原爆げんばくからソドムとゴモラ滅亡めつぼう連想れんそうされるものであるとっている[106][ちゅう 9]

昭和しょうわ天皇てんのう発言はつげん

編集へんしゅう

1975ねん10月31にち昭和しょうわ天皇てんのう訪米ほうべいから帰国きこくしたさいおこなわれた日本にっぽん記者きしゃクラブ主催しゅさい記者きしゃ会見かいけんで、記者きしゃからの質問しつもんたいし、つぎのように返答へんとうした[108][109]

[い] 陛下へいかは、ホワイトハウス晩餐ばんさんかい席上せきじょう、「わたしふかかなしみとするあの戦争せんそう」というご発言はつげんをなさいましたが、このことは、陛下へいかが、開戦かいせんふくめて、戦争せんそうそのものにたいして責任せきにんかんじておられるという意味いみですか? また陛下へいかは、いわゆる戦争せんそう責任せきにんについて、どのようにおかんがえになっておられますか?(ザ・タイムズ記者きしゃ
[天皇てんのう] そういう言葉ことばのアヤについては、わたしはそういう文学ぶんがく方面ほうめんはあまり研究けんきゅうしていないので、よくわかりませんから、そういう問題もんだいについてはおこたえできかねます。
[い] 戦争せんそう終結しゅうけつにあたって、広島ひろしま原爆げんばく投下とうかされたことを、どのようにけとめられましたか? (中国放送ちゅうごくほうそう記者きしゃあきしん利彦としひこ
[天皇てんのう] 原子げんしばくだん投下とうかされたことにたいしては遺憾いかんおもっておりますが、こういう戦争せんそうちゅうであることですから、どうも、広島ひろしま市民しみんたいしてはどくであるが、やむをないこととわたしおもっております。

このなかで、原爆げんばく投下とうかたいする所感しょかん質問しつもんについて、昭和しょうわ天皇てんのう広島ひろしま市民しみんどくだとべて遺憾いかん表明ひょうめいしつつ、「戦争せんそうちゅうのことだからやむをないこと」とべており、被爆ひばくしゃ団体だんたいなど[よう出典しゅってん]抗議こうぎする事態じたいになった。とくに、広島ひろしまけん被団協ひだんきょう森滝もりたき市郎いちろう宮内庁くないちょう抗議こうぎぶんした[よう出典しゅってん]ときには、宇佐美うさみあつし宮内庁くないちょう長官ちょうかん発言はつげん補足ほそくとして、『天皇てんのう原爆げんばく投下とうか肯定こうていする意味いみあいのご発言はつげんではない。ご自身じしんとしてはそれをめることが出来できなかったことを遺憾いかんおもわれて、「やむをなかった」のお言葉ことばになったとおもう。だい大戦たいせん犠牲ぎせいとなった人々ひとびといまなお原爆げんばく災禍さいかくるしむ広島ひろしま長崎ながさきりょう市民しみんしんくだかれておられるりょう陛下へいかのご真情しんじょう理解りかいしてほしい』と回答かいとうした[110][ちゅう 10]

昭和しょうわ天皇てんのう発言はつげん擁護ようごする意見いけんもある。漫画まんが小林こばやしよしのりの『昭和しょうわ天皇てんのうろん』ではこの発言はつげんれ、アメリカから帰国きこくしたばかりで、日米にちべい関係かんけい良好りょうこうだったことが背景はいけいにあり、また昭和しょうわ天皇てんのう発言はつげんは、久間くま章生あきおの「原爆げんばくによって北海道ほっかいどう占領せんりょうされずにんだ」「わたしはアメリカをうらむつもりはない」という感謝かんしゃするような発言はつげんはしていないことから、天皇てんのう久間くま発言はつげんちがいを説明せつめいしている。また昭和しょうわ天皇てんのう発言はつげんなま中継ちゅうけい記者きしゃ会見かいけんきゅうかれた質問しつもんであるのにたいし、久間くま発言はつげん講演こうえんによる自発じはつてき発言はつげんである。

はん天皇てんのうせい論者ろんしゃである栗原くりはら貞子さだこは「終戦しゅうせん詔書しょうしょられる原子げんしばくだん残虐ざんぎゃくせいへの非難ひなんせ、原爆げんばく投下とうか容認ようにんとなっているのは、たんさんじゅうねんによる風化ふうか意味いみするもの」「天皇てんのう原爆げんばく投下とうか肯定こうていしている」[111]べたが、「日本にっぽん会議かいぎ広島ひろしま公式こうしきサイトでは天皇てんのう広島ひろしまとの関係かんけいあつかっており(日本にっぽん会議かいぎ広島ひろしま:天皇陛下てんのうへいか広島ひろしま)、1975ねん失言しつげんげているが、終戦しゅうせん詔書しょうしょの「しん残虐ざんぎゃくナルばくだん使用しようシテしき無辜むこ殺傷さっしょう惨害さんがいノ及フしょ」とった発言はつげんからけっして原爆げんばく容認ようにんしていたわけでないとべている。原爆げんばく投下とうか早速さっそく日本にっぽん政府せいふスイス政府せいふつうじて原爆げんばく投下とうかたいする抗議こうぎぶんおくり、『ヒロシマ平和へいわメディア』の「過去かこ広島ひろしま新聞しんぶんから」には、実際じっさい1945ねん昭和しょうわ天皇てんのう広島ひろしま長崎ながさき侍従じじゅうさき派遣はけんして惨状さんじょう視察しさつ救護きゅうご関係かんけいしゃ激励げきれいするよう指示しじしており、1971ねんに「原爆げんばくにあった被爆ひばく患者かんじゃには、今後こんご援助えんじょ援護えんごをさしのべるよういちそう努力どりょくをするように」とべ、さらに原爆げんばく慰霊いれい原爆げんばく病院びょういん訪問ほうもん1974ねんには昭和しょうわ天皇てんのうあき園遊会えんゆうかいじゅうふじ文夫ふみお広島ひろしま原爆げんばく病院びょういんちょう伝言でんごんし「患者かんじゃ方々かたがたによろしくつたえてください」と激励げきれいしたことが掲載けいさいされている。天皇てんのうせい廃止はいしろんものであり、昭和しょうわ天皇てんのうはげしく批判ひはんしている漫画まんが中沢なかざわあきらは『「はだしのゲン」への手紙てがみ』でこの発言はつげんたいしてはげしく批判ひはんしておらず、「被爆ひばくしゃ土下座どげざしてあやまってほしかった」とべており、中沢なかざわ著書ちょしょでもこのことを批判ひはんしたりしていない。

原爆げんばく裁判さいばん

編集へんしゅう

1955ねん昭和しょうわ30ねんねん4がつ広島ひろしま下田しもだ隆一りゅういちら3めいくに相手あいてとして、東京とうきょう地裁ちさい損害そんがい賠償ばいしょうとアメリカの原爆げんばく投下とうか国際こくさいほう違反いはんとすることをもとめて訴訟そしょう提起ていきした。東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょは、1963ねん昭和しょうわ38ねん)12月7にち、「広島ひろしま長崎ながさき両市りょうしたいする原子げんしばくだんによるばくげきは、ぼうもり都市としたいする無差別むさべつばくげきとして、当時とうじ国際こくさいほうからて、違法いほう戦闘せんとう行為こういであるとするのが相当そうとうである」、「原子げんしばくだんのもたらす苦痛くつうは、どくどくガス以上いじょうのものといっても過言かごんではなく、このような残虐ざんぎゃくばくだん投下とうかした行為こういは、必要ひつよう苦痛くつうあたえてはならないという戦争せんそうほう基本きほん原則げんそく違反いはんしているということができよう」、「国家こっかみずからの権限けんげん責任せきにんにおいて開始かいしした戦争せんそうにより、おおくの人々ひとびとみちびき、障害しょうがいわせ、不安ふあん生活せいかつんだのである。しかもその被害ひがい甚大じんだいなことは、とうてい一般いっぱん戦災せんさいしゃではない。被告ひこくがこれにかんが十分じゅうぶん救済きゅうさいさくるべきことは、多言たげんようしないであろう。それは立法府りっぽうふおよ内閣ないかく責務せきむである。ほん訴訟そしょうをみるにつけ、政治せいじ貧困ひんこんなげかずにはおられない」とし、べいぐん広島ひろしま長崎ながさきへの原爆げんばく投下とうかは、国際こくさいほう違反いはんすると判決はんけつした[112][113]

アメリカ・イギリス

編集へんしゅう

客観きゃっかんてき世論せろん調査ちょうさなどによる、大衆たいしゅう認識にんしき実態じったいることのできる資料しりょうとぼしい。しかし当時とうじ関係かんけいしゃなど(広島ひろしま原爆げんばく投下とうか作戦さくせん実行じっこうしゃなど)は、60ねん経過けいかのインタビューでも、広島ひろしま長崎ながさきへの原爆げんばく投下とうかを「日本にっぽん無条件むじょうけん降伏ごうぶくうながすためにった」との認識にんしきしめしている[114]。しかし一方いっぽう今日きょう核兵器かくへいき所有しょゆうこく増加ぞうかし、アメリカ同時どうじ多発たはつテロ事件じけん以降いこう国家こっかではなくテロリストによる核兵器かくへいき使用しよう脅威きょうい見地けんちから派生はせいして、米国べいこく政府せいふないでも賛否さんぴ両論りょうろんとなり、米国べいこく政府せいふ要人ようじん平和へいわ祈念きねん公園こうえん訪問ほうもんもされるようになった[115]。Wikipedia英語えいごばんでは賛成さんせい反対はんたい論争ろんそうなども見受みうけられる(各論かくろんのディベートはen:Debate over the atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki参照さんしょう)。しかし、2024ねんには依然いぜんとして原爆げんばく投下とうか肯定こうていろん米国べいこく政府せいふ見解けんかいであり、大勢おおぜいめる[116][117]

終戦しゅうせん直後ちょくごはGHQの検閲けんえつがあり、『原爆げんばく体験たいけん』を出版しゅっぱんするとき原爆げんばく文学ぶんがく原爆げんばく記録きろくたいするアメリカ占領せんりょうぐんによる検閲けんえつ発禁はっきん歴然れきぜんとあった[118]

もと陸軍りくぐん長官ちょうかんのスティムソンが「ハーパーズ・マガジン」194ごう(1947ねん2月刊げっかん)に投稿とうこうした論文ろんぶんでは、日本にっぽん本土ほんどへの上陸じょうりく作戦さくせんダウンフォール作戦さくせん」による米兵べいへいあらたな犠牲ぎせいは100まんにん推定すいていされ、戦争せんそう早期そうき終結しゅうけつのために原子げんしばくだん使用しよう有効ゆうこうであったとの説明せつめいがなされており、この論文ろんぶん原爆げんばく投下とうか妥当だとうであったとするアメリカ政府せいふ公式こうしき解釈かいしゃく形成けいせいするじょう重要じゅうよう役割やくわりたしている[119]。しかし、スティムソンの見解けんかいスタンフォード大学だいがくバートン・バーンスタインによって、きびしく批判ひはんされている[119]。バーンスタインはまた、原爆げんばく投下とうか目的もくてきが「一般いっぱん市民しみんへの殺戮さつりく[120]かつ、「日本にっぽんへの懲罰ちょうばつ[121][ちゅう 11]であることをあきらかにしている。原爆げんばく投下とうか問題もんだいさい検討けんとうするアメリカの研究けんきゅうしゃあいだでは、「原爆げんばく投下とうかは、日本にっぽんへの上陸じょうりく作戦さくせんけるためにも、早期そうき戦争せんそう終結しゅうけつさせるためにも必要ひつようではなかった」、「原爆げんばく投下とうかによって回避かいひされたとされる犠牲ぎせいしゃ公式こうしき解釈かいしゃくでの推定すいていすう『50まんにん』あるいは『100まんにん』には根拠こんきょがない」などのてんでほぼ合意ごういたっしている[119]。またバーンスタインは被爆ひばくしたアメリカへい捕虜ほりょについてあつかっている。原爆げんばく投下とうか直前ちょくぜん、アメリカはイギリス情報じょうほうから「広島ひろしまアメリカじん捕虜ほりょがいる」と通告つうこくけていたがこれを無視むしされ、アメリカ戦略せんりゃく空軍くうぐん司令しれい極秘ごくひ電報でんぽう(45ねん7がつ30にちづけ)によるとどう司令しれい長崎ながさきにはアメリカじん捕虜ほりょ収容しゅうようしょがあることを確認かくにん、ワシントンに打電だでんされたが、投下とうか強行きょうこうされた。結局けっきょく長崎ながさき原爆げんばく目標もくひょうすこしずれたため、やく1,400にんのアメリカじん捕虜ほりょたすかった。長崎ながさき福岡ふくおか俘虜ふりょ収容しゅうようしょだい14ふんしょ収容しゅうようされた捕虜ほりょたちは、三菱重工みつびしじゅうこう長崎造船所なかざきぞうせんじょはたらかされ、だい14ふんしょ敗戦はいせんオランダじん152にんオーストラリアひと24にんイギリスじん19にんの195にん収容しゅうようし、原爆げんばくで8にん死亡しぼうした[122]。アメリカ政府せいふ被爆ひばくしたアメリカへい捕虜ほりょのことを秘密ひみつにしていた理由りゆうについて、どう教授きょうじゅは「アメリカ国民こくみん大半たいはん支持しじした原爆げんばく投下とうかでアメリカへいころされていたとなれば、世論せろん批判ひはんわり、だい2大戦たいせん直後ちょくご冷戦れいせん激化げきかなかでのかく戦略せんりゃく重要じゅうよう影響えいきょうをもたらす、と懸念けねんしたからではないか」とかたり、「一般いっぱん市民しみんはもちろん、味方みかた軍人ぐんじんまで犠牲ぎせいにしても平気へいきな“戦争せんそう狂気きょうき”を告発こくはつしたい」とべている。どう教授きょうじゅは「政府せいふはある時点じてんからみとめるようになりましたが名前なまえ公表こうひょうしていません、政府せいふ自分じぶんにとって不都合ふつごうなことは公表こうひょうしないものです。」と電話でんわおうじている[123]じつ捕虜ほりょ以外いがいにもアメリカ国籍こくせき被爆ひばくしゃはいる。戦前せんぜん広島ひろしまけんが「移民いみんけん」であったことを背景はいけいに、被爆ひばく当時とうじ広島ひろしまには開戦かいせん以前いぜん親戚しんせきへの訪問ほうもん日本にっぽん国内こくないへの進学しんがく理由りゆうとしてひろし、開戦かいせんによりそのまままい不能ふのうとなった多数たすう日系にっけいアメリカじん在住ざいじゅうし、被爆ひばくした[124]詳細しょうさい日系にっけいアメリカじん被爆ひばくしゃより。

軍事ぐんじ戦略せんりゃく思想家しそうかベイジル・リデル=ハートは、アメリカによる日本にっぽんへの原子げんしばくだん投下とうかについて、日本にっぽん降伏ごうぶくはすでに時間じかん問題もんだいとなっていたので、このような兵器へいきもちいる必要ひつようせいかったと批判ひはんしている。さらに、連合れんごうこくがわ無条件むじょうけん降伏ごうぶく要求ようきゅうが、戦争せんそう長引ながびかせる一因いちいんとなり、なんひゃくまんにんもの犠牲ぎせい余分よぶん結果けっかになったとも論評ろんぴょうしている[125][ちゅう 12]

田原たはら総一朗そういちろうヘンリー・キッシンジャーたいして日本にっぽんへの原子げんしばくだん投下とうかについてインタビューしたことがあり、「あなたかた広島ひろしま長崎ながさき原爆げんばくとした。そしてまったくなんざいもない一般いっぱん市民しみん大量たいりょうころした。この責任せきにんをアメリカはどうとるつもりなのか」と質問しつもんしたら、キッシンジャーは「広島ひろしま長崎ながさき原爆げんばくとさなければ日本にっぽん本土ほんど決戦けっせんをやるつもりだった。本土ほんど決戦けっせんなんひゃくまんにん、あるいはいちせんまんにん以上いじょう日本人にっぽんじんくなるはずだった。原爆げんばくとすことでその人数にんずうをかなりらしたんだから、むしろ日本にっぽんはアメリカに感謝かんしゃすべきだ」とこたえたという。ストーンは「キッシンジャーの見方みかたわたしたちの見方みかたとはまったくちがいます。わたしたちは広島ひろしま長崎ながさきへの原爆げんばく投下とうか必要ひつようなかったとおもっていますし、キッシンジャーはなにもわかっていないひとだとおもいます。かれはノーベル平和へいわしょう受賞じゅしょうしましたが、同時どうじ南米なんべい各地かくちでのアメリカの残虐ざんぎゃく行為こういかかわったということで、戦争せんそう犯罪はんざいじんとして入国にゅうこくできないくにもたくさんあるようです」とべた[126]

1991ねん雑誌ざっしへの寄稿きこうにて、ケネディ政権せいけんとジョンソン政権せいけん国家こっか安全あんぜん保障ほしょう担当たんとう補佐ほさかんつとめたマクジョージ・バンディは、原爆げんばく投下とうか必要ひつようせいには疑問ぎもんのこるとしつつ、真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきからはじまった戦争せんそう終止符しゅうしふつという歴史れきしてき使命しめいがあったともべている[127]

1992ねん5月、米国べいこく上院じょういん議員ぎいんのアーネスト・ホーリングズは、当時とうじ衆議院しゅうぎいん議員ぎいんであった石原いしはら慎太郎しんたろうが「日本人にっぽんじんは(怠惰たいだ無学むがくな)アメリカじんよりいい製品せいひんをつくる」という発言はつげんをしたのにたいして、「だれ原子げんしばくだん発明はつめいしたのかわすれたようだから、キノコくも写真しゃしんに“怠惰たいだ無学むがくなアメリカじんによってつくられ、日本にっぽん試験しけんされた米国べいこくさん”というキャプションをつけろ」という発言はつげんをした[ちゅう 13][129]。ホーリングスは「冗談じょうだん」として発言はつげんしたが、これは当時とうじ日本にっぽんのマスコミでかなり非難ひなんされ、のち謝罪しゃざいした。

1994ねん9月、スミソニアン国立こくりつ航空こうくう宇宙うちゅう博物館はくぶつかん原爆げんばく投下とうか50周年しゅうねん特別とくべつてん展示てんじ内容ないよう修正しゅうせいするようにもとめる決議けつぎが、上院じょういん全会ぜんかい一致いっち可決かけつされた[130]展示てんじ内容ないよう大幅おおはば修正しゅうせいされた[131][132]

1994ねん11月、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく郵便ゆうびん公社こうしゃが1995ねん9がつだい世界せかい大戦たいせん50周年しゅうねん切手きってとして、キノコくもに「Atomic bombs hasten the end of war, August 1945」(原爆げんばく投下とうか戦争せんそう終結しゅうけつはやめた)と説明せつめいはいった図案ずあん公表こうひょうした[133]。この切手きってたいして、日本にっぽん政府せいふなどからつよ反発はんぱつけ、べつ図案ずあん変更へんこうされたが、アメリカではそれにたいする反発はんぱつもあり、アメリカにおける原爆げんばく投下とうか妥当だとうであったとする歴史れきし認識にんしき垣間見かいまみせるものであった(詳細しょうさい原爆げんばく切手きって発行はっこう問題もんだい参考さんこうのこと)。

1994ねん12月にCNNの討論とうろん番組ばんぐみ・クロスファイアにもり義久よしひさ出演しゅつえんし、司会しかいジョン・スヌヌもと大統領だいとうりょう首席しゅせき補佐ほさかん政治せいじ評論ひょうろんマイク・キンズレー英語えいごばんチャールズ・スウィーニー退役たいえき少将しょうしょう歴史れきし学者がくしゃガー・アルペロビッツ論争ろんそうひろげた[134]古森こうもりが「原爆げんばく投下とうか時点じてんではべいがわはもう日本にっぽん降伏ごうぶく確実視かくじつししていた。ソ連それん参戦さんせんもあり、とくに2はつ長崎ながさきへの投下とうか戦争せんそう早期そうき終結しゅうけつ目的もくてきならば必要ひつようだった。もし日本にっぽんがわ原爆げんばく威力いりょくしめすことが目的もくてきならば、無人島むじんとうにでも過疎かそにでも投下とうかすれば、十分じゅうぶんだっただろう。合計ごうけい20まん以上いじょう民間みんかんじん犠牲ぎせい戦争せんそう継続けいぞく場合ばあい戦死せんししゃ予測よそくすうでは正当せいとうはできない」とべいがわ原爆げんばく投下とうか正当せいとうろん批判ひはんすると、スヌヌやキンズレーは日本にっぽんぐん真珠湾しんじゅわん奇襲きしゅう攻撃こうげき中国ちゅうごくなどアジア各地かくちでの殺戮さつりく行為こうい言及げんきゅうし、「もし日本にっぽんぐん原爆げんばく保有ほゆうしていれば、間違まちがいなく使つかっただろう」「だから原爆げんばく投下とうかはやむをず、正当せいとうでさえあった」と反論はんろんした[134]古森こうもり持論じろんえなかったものの、スヌヌらの主張しゅちょうも「『べいがわてば、それはそうだろうと』内心ないしんおもった」と『産経新聞さんけいしんぶん』(2007ねん7がつ28にち)にいた[134]


1995ねん4がつビル・クリントン大統領だいとうりょうは、原爆げんばくかんしてアメリカは日本にっぽんあやま義理ぎりはないとべた[135][136][137]

アメリカの哲学てつがくしゃジョン・ロールズは、1995ねん雑誌ざっしDissentに掲載けいさいした論文ろんぶん「Reflections on Hiroshima:50 Years after Hiroshima(原爆げんばく投下とうかはなぜ不正ふせいなのか?:ヒロシマから50ねん[138]」において、原爆げんばく投下とうかを「すさまじい道徳どうとくてき悪行あくぎょう」と批判ひはんした[139]

1997ねん歴史れきしべい原子力げんしりょく制御せいぎょ委員いいんかい主席しゅせきJ・サミュエル・ウォーカー(英語えいごばん参照さんしょう)は『原爆げんばく投下とうかとトルーマン』を発表はっぴょう[140]、「このすうねん公開こうかいされた外交がいこう文書ぶんしょ当時とうじべい政府せいふ高官こうかん日記にっき詳細しょうさい分析ぶんせきにより、なぜアメリカが原爆げんばく使用しようしたかがぞう明確めいかくになってきた。日本にっぽん本土ほんど侵攻しんこうけるためにも早期そうき終戦しゅうせんにも原爆げんばく必要ひつようなかったこと、原爆げんばく以外いがい容易ようい外交がいこうてき手段しゅだんがありトルーマンはそれをっていたこと、原爆げんばくはアメリカの若者わかもの50まんにんいのちすくったというこけのえた主張しゅちょうまった根拠こんきょがない、というてん我々われわれ研究けんきゅうしゃたち意見いけん一致いっちした。」とも発言はつげんしている。

1999ねんカリフォルニアしゅう議会ぎかいヘイデンほう決議けつぎされたのにともな日本にっぽん政府せいふたいする戦争せんそう犯罪はんざいへの謝罪しゃざい犠牲ぎせいしゃへの賠償ばいしょうもとめる決議けつぎがカリフォルニアしゅう議会ぎかい採決さいけつされたさいには、「原爆げんばく投下とうかはアメリカ政府せいふによる残虐ざんぎゃく行為こういではないか」という主張しゅちょうたいし、「原爆げんばくすくえた人間にんげんおおい」といった主張しゅちょう民主党みんしゅとう議員ぎいんから発言はつげんされる程度ていど認識にんしきであった[141]

イギリスの哲学てつがくしゃA・C・グレイリングは、2006ねんにAmong the Dead Cities:Was the Allied Bombing of Civilians in WWII a Necessity or a Crime?[142]邦訳ほうやくだい空襲くうしゅう原爆げんばく本当ほんとう必要ひつようだったのか」[143])を発表はっぴょうし、差別さべつばくげきへの反対はんたいろん擁護ようごろんをともに検証けんしょうした。

2010ねん8がつ6にちちゅうにち米国べいこく大使たいしジョン・ルース米国べいこく公式こうしき代表だいひょうとしてはじめて広島ひろしま平和へいわ祈念きねん式典しきてん参列さんれつした。しかし慰霊いれいへの献花けんかもなく、犠牲ぎせいしゃたいする言葉ことばもなかった。なお式典しきてん大使館たいしかんつうじて、未来みらいのために核兵器かくへいき廃絶はいぜつ努力どりょくするむねのコメントがされた。

2013ねんなつ、アメリカの映画えいが監督かんとくオリバー・ストーンは、被爆ひばく広島ひろしま長崎ながさきはつ訪問ほうもんした。ストーンはトルーマン政権せいけんないではおおくのぐん幹部かんぶが、空襲くうしゅうけて疲弊ひへいし、降伏ごうぶく寸前すんぜんだった日本にっぽん原爆げんばく使つかっても意味いみがないと進言しんげんしていたが、それでもみみさなかったのは、たいにち参戦さんせんへとうごいていたソ連それん牽引けんいんするためと批判ひはんしている[144][ちゅう 14]。ストーンとともに『オリバー・ストーンがかたるもうひとつのアメリカ』を手掛てがけたピーター・カズニック歴史れきしがく教授きょうじゅによると、年配ねんぱい世代せだいひとたちはトルーマン大統領だいとうりょう英雄えいゆうだったとしんじているのは「原爆げんばく投下とうかによって、戦争せんそうはやわらせ、100まんにんのアメリカへい生命せいめいすくわれた」という「原爆げんばく神話しんわ」をしんじているためであり、どう教授きょうじゅ講演こうえんで、だい世界せかい大戦たいせん当時とうじの7にんべいぐん最高さいこう幹部かんぶのうちの6にんまでが原爆げんばく投下とうか不要ふよう道徳どうとくてきではないとっていたとはなすと、これをいた退役たいえき軍人ぐんじんらは衝撃しょうげきけるとべた[145][ちゅう 15]。またカズニックは後述こうじゅつウィリアム・リーヒ同様どうように、トルーマンが日本にっぽんソ連それん和平わへい仲介ちゅうかいしたことを意図いとてき無視むししたことを批判ひはんしている[145]

2016ねん5月27にち当時とうじのアメリカ大統領だいとうりょうバラク・オバマ大統領だいとうりょうは、現職げんしょく大統領だいとうりょうとしてはじめて広島ひろしま訪問ほうもんし(バラク・オバマの広島ひろしま訪問ほうもん)、慰霊いれいへの献花けんか所感しょかんべている。そのなかで「このそら広島ひろしま)-にがったキノコくものイメージのなかに、わたしたちは人類じんるい矛盾むじゅんつよきつけられます。」と原爆げんばく投下とうかについて批判ひはんてき発言はつげんをしたが具体ぐたいてき謝罪しゃざいとうはなく、発言はつげん全体ぜんたいとしてはだい世界せかい大戦たいせん自体じたい批判ひはんかくなき世界せかい目指めざすといった内容ないようであった。同年どうねん、アメリカのビル・オライリー原爆げんばく投下とうか正当せいとうする『Killing the Rising Sun:How America Vanquished World War II Japan. Henry Holt.(2016ねん)』がだいベストセラーとなっている。

2016ねんに、ピーター・カズニックはオリバー・ストーンとともにロサンゼルス・タイムズに「広島ひろしまへの原爆げんばく投下とうか世界せかいえたが、戦争せんそう終結しゅうけつさせてはいない」という記事きじ寄稿きこうした。そこには、ソ連それん侵攻しんこうにより日本にっぽん敗戦はいせん決定的けっていてきになることをトルーマンは理解りかいしていたが原爆げんばく投下とうか決断けつだんしたことをべた。

2020ねん8がつ6にちロサンゼルス・タイムズは、戦後せんご75周年しゅうねんの「広島ひろしま平和へいわ記念きねん」にあわせ、歴史れきしガー・アルペロビッツとジョージ・メイソン大学だいがくのマーティン・シャーウィン教授きょうじゅの「アメリカの指導しどうしゃたちは、戦争せんそうつために日本にっぽん原爆げんばくとさなくてもいいことをっていた。いずれにしても実行じっこうしてしまった」という論考ろんこう掲載けいさいした。二人ふたり主要しゅよう論点ろんてんは、以下いかの6てんであった。

  • (1)1945ねん8がつ日本にっぽん都市としへの核兵器かくへいき使用しようについて、率直そっちょく全国ぜんこくてき対話たいわおこな絶好ぜっこう機会きかいである。
  • (2)原爆げんばくにより早期そうき戦争せんそう終結しゅうけつさせ、なんじゅうまんにんもの米国べいこくじん、そしてなんひゃくまんにんもの日本人にっぽんじんいのちすくったとの主張しゅちょう事実じじつではない。
  • (3)アメリカと日本にっぽん公文書こうぶんしょからられた圧倒的あっとうてき多数たすう歴史れきしてき証拠しょうこからは、たとえ原爆げんばく使用しようされなくとも日本にっぽん降伏ごうぶくしていたと結論けつろんづけられる。
  • (4)東郷とうごう茂徳しげのり外相がいしょうは1945ねん7がつ日本にっぽんわって降伏ごうぶく条件じょうけん調停ちょうていするためソ連それん協力きょうりょくもとめようとしていた。
  • (5)鈴木すずき貫太郎かんたろう首相しゅしょうは1945ねん8がつ13にち、「ソ連それん満州まんしゅう朝鮮ちょうせん樺太からふとだけでなく、北海道ほっかいどう占領せんりょうするだろう。日本にっぽん基盤きばん破壊はかいされるまえにアメリカと取引とりひきし、戦争せんそう終結しゅうけつさせたい」とかんがえていた。
  • (6)1945ねん米国べいこくの8にんの5つほしりく海軍かいぐん将官しょうかんのうち、アイゼンハワー、マッカーサー、ニミッツら7にんは、「原爆げんばく投下とうか軍事ぐんじてき必要ひつようであったか、道徳どうとくてき非難ひなんされるべきこと、あるいはその両方りょうほうだった」とべた。

以上いじょうしめし、従来じゅうらいの「原爆げんばく投下とうかによる戦争せんそう早期そうき終結しゅうけつへの貢献こうけん」を否定ひていしている。シャーウィン教授きょうじゅは、かねてから「日本にっぽんへの原爆げんばく投下とうか必要ひつようであった」との主張しゅちょう展開てんかいしており、2002ねん8がつ広島ひろしまでの国際こくさいシンポジウムにて、以下いかの4てん指摘してきした。

  • (1)だい2世界せかい大戦たいせんわろうとしていたあの時期じき日本にっぽん都市とし原爆げんばく投下とうかする必然ひつぜんせいはなかった。
  • (2)当時とうじのトルーマン大統領だいとうりょうとバーンズ国務こくむ長官ちょうかんが、戦後せんごソ連それんたいおどしをかけるために、原爆げんばく投下とうか決断けつだんしたものだった。
  • (3)核兵器かくへいきさえ保有ほゆうすれば、戦争せんそう勝利しょうりして、アメリカの管理かんりでの平和へいわ保証ほしょうされるという信念しんねん醸成じょうせいされてしまった。
  • (4)過去かこ広島ひろしま長崎ながさきへの原爆げんばく投下とうかかんするアメリカじん議論ぎろんは、実際じっさいにはこらなかった事件じけんによって歪曲わいきょくされている。日本にっぽんへの原爆げんばく投下とうか教訓きょうくんが、その朝鮮ちょうせん戦争せんそうキューバ危機ききベトナム戦争せんそうとうでのかく使用しよう抑制よくせいされたとの論調ろんちょうがその好例こうれいである。

以上いじょうのことから、だい世界せかい大戦たいせん早期そうき終結しゅうけつよりも、戦後せんごソビエト連邦れんぽうとのきや、核兵器かくへいきもちいた安全あんぜん保障ほしょう構想こうそう構築こうちく優先ゆうせんされていたなどと力説りきせつしている。1945ねん7がつべいえいソポツダム会談かいだんでは、だい2世界せかい大戦たいせん戦後せんご処理しょりはなわれた。そのとき記録きろくによれば、日本にっぽんとの戦争せんそう終結しゅうけつ選択肢せんたくしは4つあり、(1)本土ほんど上陸じょうりく作戦さくせんおこなう、(2)皇室こうしつ維持いじ条件じょうけんとして、全面ぜんめん降伏ごうぶく、(3)原子げんしばくだん投下とうかする、(4)ソ連それん参戦さんせんつ、であった。アメリカは、皇室こうしつ維持いじという条件じょうけん提示ていじすれば、日本にっぽん降伏ごうぶくする可能かのうせいきわめてたかいことをっていたようである。トルーマン大統領だいとうりょうは「日本にっぽん降伏ごうぶくさせるには原爆げんばく投下とうか本土ほんど上陸じょうりくしか選択肢せんたくしがない」というつよいアピールをおこない、「多数たすうのアメリカへいいのちまもるため原爆げんばく投下とうかえらんだ」という理由りゆうかかげたが、これはりょう歴史れきし主張しゅちょうとお事実じじつではなく、ソ連それん原爆げんばく威力いりょくせつけ、戦後せんごたい外交がいこう優位ゆういつことが目的もくてきだったのかもしれない[146]

ワシントン・ポストは、毎週まいしゅう「5つの俗説ぞくせつ」として、世間せけん流布るふされている通説つうせつたいする反論はんろんおこなっている。先週せんしゅうかいでは、アメリカによる広島ひろしま長崎ながさきへの原爆げんばく投下とうかが70ねんむかえるにあたり、カリフォルニア大学だいがく名誉めいよ教授きょうじゅであるグレッグ・ハーケンによる原爆げんばく投下とうかかんする通説つうせつへの異議いぎ掲載けいさいしている[147]。 「原爆げんばくかんする5つの俗説ぞくせつ」として以下いかのものがげられている。

  1. 原爆げんばく戦争せんそうわらせた。
  2. 原爆げんばくが50まんにんのアメリカじんいのちすくった。
  3. 原爆げんばくのほかは日本にっぽん侵攻しんこうしかなかった。
  4. 原爆げんばく投下とうかまえ日本にっぽん警告けいこくがあった。
  5. 原爆げんばくでロシア(ソ連それん)にたいする外交がいこうてき有利ゆうりさをるようタイミングがはかられたし、実際じっさい初期しょき冷戦れいせんにはふだとなった。

これらにたいし、ハーケン教授きょうじゅ以下いかのように反論はんろんする。

  1. 最新さいしん研究けんきゅうでは、日本にっぽん政府せいふ終戦しゅうせんへの仲介ちゅうかいしゃとして期待きたいしていたソ連それんが8がつ9にち予想よそうがいたいにち参戦さんせん開始かいししたことのほうが、日本にっぽん政府せいふにはおおきな衝撃しょうげきであったと結論けつろんづけられている。
  2. トルーマンべい大統領だいとうりょう回顧かいころくでは、ぐん幹部かんぶが「日本にっぽん侵攻しんこうにより50まんにんのアメリカじんいのちうしなわれたであろう」とべた、と記載きさいされているが、実際じっさいかずはもっとすくなかった。スタンフォード大学だいがくのバートン・バーンスタイン教授きょうじゅは、「アメリカ統合とうごう戦争せんそう計画けいかく委員いいんかい(US Joint War Plans Committee)は日本にっぽん侵攻しんこうによる負傷ふしょうしゃは19まん3000にん死者ししゃは4まんにん予測よそくしていた」とべている。
  3. 原爆げんばく投下とうか以外いがいにも、通常つうじょうばくげき海上かいじょう封鎖ふうさのほかに2つの選択肢せんたくし当時とうじにおいてもかんがえられていた。1つは、日本にっぽんなどから政府せいふ要人ようじんまねき、無人むじん地帯ちたい富士山ふじさん爆発ばくはつさせ、威力いりょくせつける。これは、その当時とうじ原爆げんばくが2つしかなく、デモンストレーションが不発ふはつわる可能かのうせいがあるため却下きゃっかされた。2つは、条件じょうけん降伏ごうぶくれること。日本にっぽん政府せいふは「天皇てんのう戦争せんそう犯罪はんざいしゃとしない」という条件じょうけんもとめていたが、アメリカがわ無条件むじょうけん降伏ごうぶく主張しゅちょうしたため実現じつげんしなかった。
  4. 7がつ26にちにポツダム宣言せんげんはっされたのち受諾じゅだくしなければ「即刻そっこく徹底てっていした破壊はかい」を警告けいこくするチラシが投下とうかされたり、トルーマン大統領だいとうりょうがラジオ演説えんぜつべた、いままでにないようなそらからの破壊はかい、といったような警告けいこくはあった。しかし、広島ひろしま長崎ながさきへの具体ぐたいてき警告けいこくはなされていない。原爆げんばくせたばくげき撃墜げきついおそれたため。
  5. 実際じっさいには、原爆げんばく準備じゅんびができ次第しだいすぐに投下とうかされたし、原爆げんばくソ連それんとの外交がいこうふだになることをのぞんだトルーマン大統領だいとうりょう国務こくむ長官ちょうかんジェームズ・バーンズは戦後せんご、「かれらはおびやかされたりしない」と失望しつぼうした。

アメリカがわ原爆げんばく投下とうかたいする批判ひはん

編集へんしゅう

日本にっぽんへの原爆げんばく投下とうかたいするアメリカがわ批判ひはんについては『ハリー・S・トルーマン#日本にっぽんへの原爆げんばく投下とうかかんして』を参照さんしょう

アメリカがわ原爆げんばく投下とうかたいするコメント

編集へんしゅう

太平洋戦争たいへいようせんそう直後ちょくごにはアメリカがわにも原爆げんばく投下とうか批判ひはんする意見いけんがあった。とくに原爆げんばく投下とうか民主党みんしゅとうのトルーマン政権せいけんおこなわれたため、戦争せんそう直後ちょくご共和党きょうわとう政治せいじあるいは退役たいえき共和党きょうわとうであることを表明ひょうめいした高級こうきゅう軍人ぐんじんにもおおかった。その共和党きょうわとうのアイゼンハワー政権せいけん大量たいりょうたたかえからま核兵器かくへいき配備はいびすすめられた[148]のであるが、歴史れきしのウェラースタインによれば、現在げんざい米国べいこくでは一般いっぱんに、共和党きょうわとういんとくにぐん関係かんけいしゃ過去かこかえって原爆げんばく投下とうか賛成さんせいで、リベラル原爆げんばく投下とうかあやまちあるいは戦争せんそう犯罪はんざい中間ちゅうかんにあるものと傾向けいこうがありがちなため、このてんはよくべい国民こくみんにも混乱こんらんされるとしている[149]

「いかなる詭弁きべんもちいようと、原爆げんばく投下とうかしゅ目的もくてきが、戦闘せんとういんではなくおんな子供こども老人ろうじんなどの戦闘せんとういん殺傷さっしょうであったことを否定ひていすることはできない。そもそもアメリカは日本にっぽん挑発ちょうはつしなければけっして真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきされることはなかっただろう。」 ハーバート・フーバー
だい31だいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう
「アメリカはこの戦争せんそう外交がいこうてき手段しゅだん終了しゅうりょうさせられた。原爆げんばく投下とうか不要ふようだった。日本にっぽん犠牲ぎせいはあまりにも必要ひつよう巨大きょだいすぎた。わたし東京とうきょうだい空襲くうしゅうにおいて、同僚どうりょうたちと、いかにして日本にっぽん民間みんかんじん効率こうりつてき殺傷さっしょうできるか計画けいかくした。その結果けっかいちばんおんな子供こどもなどの戦闘せんとういんを10まんにんころしたのである。もし戦争せんそうけていればわたし間違まちがいなく戦争せんそう犯罪はんざいじんとなっていただろう。では、アメリカがったから、それらの行為こうい正当せいとうされるのか?? 我々われわれ戦争せんそう犯罪はんざいおこなったんだ。一体全体いったいぜんたいどうして、日本にっぽんの67の主要しゅよう都市とし爆撃ばくげきし、広島ひろしま長崎ながさきまで原爆げんばくで、アメリカが破滅はめつさせ虐殺ぎゃくさつする必要ひつようがあったというのか。」 ロバート・マクナマラ
投下とうか当時とうじはルメイの部下ぶか
のち世界銀行せかいぎんこう総裁そうさい
ケネディ政権せいけん国防こくぼう長官ちょうかん


原爆げんばく投下とうかは、米国べいこく兵士へいしいのちすくうためにはまった必要ひつようのないものだった。我々われわれ日本にっぽん原爆げんばく投下とうかする必要ひつようはなかった。」 ドワイト・アイゼンハワー
欧州おうしゅう戦線せんせん連合れんごう国軍こくぐんそう司令しれいかん
だい34だいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう
日本にっぽんソ連それん和平わへい仲介ちゅうかいたのんだとった1945ねん6がつわたし参謀さんぼうたちに、戦争せんそうわりだ、とげた。ところがワシントンのトルーマン政権せいけん突如とつじょ日本にっぽん原爆げんばく投下とうかした。わたし投下とうかのニュースをいたとき激怒げきどした。」 ダグラス・マッカーサー
太平洋たいへいよう戦線せんせん連合れんごう国軍こくぐんそう司令しれいかん
日本にっぽん上空じょうくう偵察ていさつべいぐんは、日本にっぽん戦争せんそう継続けいぞく能力のうりょくがないことをっていた。また天皇てんのう地位ちい保全ほぜんさえみとめれば、実際じっさい原爆げんばく投下とうかもアメリカはそれをみとめたのだが、日本にっぽん降伏ごうぶくする用意よういがあることもっていた。だがトルーマン大統領だいとうりょうはそれをっていながら無視むしした。ソ連それん和平わへい仲介ちゅうかい日本にっぽん依頼いらいしたこともかれ無視むしした。この野蛮やばんばくだん日本にっぽん投下とうかしたことは、なんの意味いみたなかった。海上かいじょう封鎖ふうさ十分じゅうぶん効果こうかげていた。このしん兵器へいきばくだん、とぶことはあやまりである。これはばくだんでもなければ爆発ばくはつぶつでもない。これは”毒物どくぶつ”である。おそろしい放射能ほうしゃのうによる被害ひがいが、爆発ばくはつによる殺傷さっしょうりょくをはるかにえたものなのだ。アメリカは原爆げんばく投下とうかしたことで、中世ちゅうせい虐殺ぎゃくさつにまみれた暗黒あんこく時代じだい倫理りんり基準きじゅん採用さいようしたことになる。わたしはこのようなたたかかた訓練くんれんされていないし、おんな子供こども虐殺ぎゃくさつして戦争せんそうったということはできない!」 ウイリアム・ダニエル・リーヒ
アメリカ海軍かいぐん提督ていとく
大統領だいとうりょう主席しゅせき補佐ほさかん
最初さいしょ原子げんしばくだん必要ひつよう実験じっけんであった。これをいちでも投下とうかしたのはあやまりだった。(…中略ちゅうりゃく…)原爆げんばく多数たすう日本人にっぽんじんころした。しかし日本人にっぽんじんはかなりまえからロシアをつうじて和平わへい打診だしんをしていた」 ウィリアム・ハルゼー・Jr.
太平洋艦隊たいへいようかんたいだいさん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん
(のち元帥げんすい
「ロシアの参戦さんせん原爆げんばくがなくとも、戦争せんそう週間しゅうかんわっていただろう(…中略ちゅうりゃく…)原子げんしばくだん戦争せんそう終結しゅうけつとはなん関係かんけいがなかった」 カーティス・E・ルメイ
アメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐん少将しょうしょう
(のち空軍くうぐん参謀さんぼう総長そうちょう
「(原爆げんばく上陸じょうりく作戦さくせんかという選択せんたくかんして)ジレンマは不要ふようなものだった。なぜなら、じっくりつつもりさえあれば、海上かいじょう封鎖ふうさによっていずれ石油せきゆべい薬品やくひん必需ひつじゅひん不足ふそくし、日本人にっぽんじん窮乏きゅうぼうして降伏ごうぶくせざるをなくなったからだ」 アーネスト・J・キング
アメリカ海軍かいぐん元帥げんすい
艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんけん海軍かいぐん作戦さくせん部長ぶちょう
わたしはトルーマンに、広島ひろしま破壊はかいしめ写真しゃしんしめした。大統領だいとうりょうは、それをて、我々われわれわなければならないおそるべき責任せきにんについて、わたし吐露とろした。」 ヘンリー・スティムソン
アメリカ陸軍りくぐん長官ちょうかん


「ドイツがアメリカに原爆げんばくとしたとしましょう。そのドイツが戦争せんそうけたとします。その場合ばあい我々われわれアメリカ国民こくみんだれが”原爆げんばく投下とうか戦争せんそう犯罪はんざいとし、首謀しゅぼうしゃ極刑きょっけいしょす”ことに異議いぎとなえるでしょうか?原爆げんばく投下とうか外交がいこうてきにも人道的じんどうてきにも人類じんるい史上しじょう最悪さいあく失敗しっぱいだったのです。」 レオ・シラード
マンハッタン計画けいかく参画さんかく科学かがくしゃ
おおくの人々ひとびとんでいるのはわかっていた。よろこびはなかった」[150][ちゅう 16] モリス・ジェプソン
エノラゲイごう機関きかん


日本にっぽんとの戦争せんそうへのロシアの参入さんにゅうは、その終結しゅうけつはやめる決定的けっていてき要素ようそであり、原子げんしばくだんひとつも投下とうかされなかったとしても、その事実じじつわらなかった」 クレア・リー・シェンノート
アメリカ陸軍りくぐん航空こうくうたい大尉たいい
(のち少将しょうしょう
軍人ぐんじんとして命令めいれいけた以上いじょう任務にんむ遂行すいこうするのは当然とうぜん[151] ポール・ティベッツ
エノラゲイごう機長きちょう

中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく

編集へんしゅう

毛沢東もうたくとう日本にっぽんへの原爆げんばく投下とうかつよ衝撃しょうげきけ、以来いらい原子げんしばくだん中国ちゅうごく保有ほゆうしたいとかんがえるようになった[152]。のちにソ連それんからの技術ぎじゅつ供与きょうよ原子げんしばくだん保有ほゆう成功せいこうした。

戦後せんご40ねん1985ねん8がつ中国共産党ちゅうごくきょうさんとう代表だいひょう広島ひろしま平和へいわ記念きねん公園こうえん花輪はなわ贈呈ぞうてい人民日報じんみんにっぽうがこれにかんし、原爆げんばく投下とうかを「べいみかど暴行ぼうこう」として批判ひはんした。

一方いっぽう中国ちゅうごく歴史れきし教科書きょうかしょでは、原爆げんばく投下とうかふくめた日本にっぽんたいする戦争せんそう行為こういは、「はんファシズム戦争せんそう」としてとらえて肯定こうていする姿勢しせい明白めいはくである。毛沢東もうたくとうらの日本人にっぽんじんみん無罪むざいろん戦争せんそう責任せきにん当時とうじ日本にっぽん軍部ぐんぶにあり、日本人にっぽんじんみん無罪むざいとするかんが[152])を継承けいしょうしつつ、アジアへの加害かがいしゃは「日本にっぽん国民こくみん」や「日本にっぽん」そのものではなく、あくまで「日本にっぽん帝国ていこく主義しゅぎ」「日本にっぽんファシズム」であるとし、日本にっぽん国民こくみん大半たいはんは「被害ひがいしゃ」としてあつかわれ、中国ちゅうごく人民じんみん同様どうよう苦難くなんめてきたとされている。すなわちアメリカによる原爆げんばく投下とうか正当せいとうなものであったが、その結果けっか被爆ひばくしゃ多大ただい苦難くなんいるものとなったという認識にんしきである[153]。また中国ちゅうごく教科書きょうかしょにおいては、日本にっぽん使つかわれる「終戦しゅうせん」という言葉ことば容認ようにんされておらず、あくまでも「敗戦はいせん」、「日本にっぽん帝国ていこく主義しゅぎ」「日本にっぽんファシズム」を曖昧あいまいなものにしないという姿勢しせいつらぬかれている[154]

韓国かんこく

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一方いっぽう韓国かんこく義務ぎむ教育きょういく課程かてい使つかわれる韓国かんこく教科書きょうかしょ1970年代ねんだいより国定こくてい教科書きょうかしょとなっているが、このなか原爆げんばくかんする「特筆とくひつ」はなく「にちみかど」という言葉ことば明確めいかくもちいて、併合へいごうから独立どくりつ8・15ひかりふく)までの記載きさいがなされているのみである[155]。『中学校ちゅうがっこう 社会しゃかい2』(内容ないよう世界せかい)と『高等こうとう学校がっこう 世界せかい』には「日本にっぽん原爆げんばく投下とうかされて終戦しゅうせん」などみじかいてある。なお被爆ひばくしゃについては、ソンジ文化ぶんかしゃの『中学校ちゅうがっこう 社会しゃかい2』など、くわしくかれている教科書きょうかしょもある。

韓国かんこく場合ばあい日本にっぽん政府せいふ戦争せんそう責任せきにん」をい、被爆ひばくしゃ健康けんこう手帳てちょう交付こうふ申請しんせいみとめられてこれを所有しょゆうするざいかん在日ざいにち韓国かんこくじん被爆ひばくしゃがあり、日本にっぽん国内こくない日本人にっぽんじん被爆ひばくしゃひとしく治療ちりょうけているひとがいる。

韓国かんこくの『中央日報ちゅうおうにっぽう』が2013ねん5がつ20日はつかづけのコラムにて、日本にっぽんへの原爆げんばく投下とうかかみ懲罰ちょうばつ主張しゅちょう[156]ざい韓国かんこく日本にっぽん大使館たいしかん中央日報ちゅうおうにっぽうたい抗議こうぎをおこなったほか、かんよしえら官房かんぼう長官ちょうかん被爆ひばく市長しちょうどうコラムを批判ひはんした。中央日報ちゅうおうにっぽうは、「コラムは執筆しっぴつした論説ろんせつ委員いいん個人こじんてき視角しかく主張しゅちょうもとづくもので、中央日報ちゅうおうにっぽう立場たちばではない」と反論はんろん[157]記事きじ撤回てっかい拒絶きょぜつした[158][159]韓国かんこく外務省がいむしょうも、「コラムの内容ないよう執筆しっぴつしゃ意見いけんであり、韓国かんこく政府せいふ見解けんかいではない」との立場たちば表明ひょうめいした[160]

また、韓国かんこくの『朝鮮日報ちょうせんにっぽう』が2015ねん8がつ14にちづけきむはじめあきら文化ぶんか次長じちょうのコラムにて、日本にっぽん原爆げんばく被害ひがいしゃへの追悼ついとう戦争せんそう加害かがいしゃであることからそむけさせる「犠牲ぎせいしゃコスプレ」であると非難ひなんしている[161]

2010ねん2がつ23にちイランアリー・ラリジャニ国会こっかい議長ぎちょう衆議院しゅうぎいん招待しょうたい訪日ほうにち[162]同月どうげつ27にちには長崎ながさきおとずれ、長崎ながさき原爆げんばく資料しりょうかん見学けんがくしたのち、「広島ひろしま原爆げんばく投下とうかして核兵器かくへいき影響えいきょうおおきさをりながら、長崎ながさきにもとした」とべ、ホロコーストよりも、アメリカの核兵器かくへいき使用しよう問題もんだいにするべきだとの認識にんしきしめ[163]、「世界せかいひとつでも原爆げんばく存在そんざいすれば人類じんるいへの脅威きょういだ。人々ひとびとは、かくのない世界せかいけてがるべきだ」と感想かんそうべた。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ アメリカぐん記録きろくによる投下とうか時刻じこくは、午前ごぜん1058ふん
  2. ^ a b ごう研究けんきゅう
  3. ^ カリフォルニア州立しゅうりつ大学だいがくノースリッジこう歴史れきしがく教授きょうじゅのロナルド・シェイファー『アメリカの日本にっぽん空襲くうしゅうにモラルはあったか―戦略せんりゃくばくげき道義どうぎてき問題もんだい』(くさおもえしゃ、1996ねん・2007ねん原著げんちょは Ronald Schaffer:Wings of judgment:American bombing in World War II、Oxford University Press, 1985ねん)によれば、京都きょうと原爆げんばく投下とうかされなかった理由りゆうは、スティムソン陸軍りくぐん長官ちょうかんの「感傷かんしょう」によるとされる。スティムソンは1920年代ねんだいに3かい京都きょうとおとずれており、その文化ぶんかてき宗教しゅうきょうてき重要じゅうようせい認識にんしきしていた[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]。マクロイ陸軍りくぐん次官補じかんほに「もし自分じぶん提案ていあんされている標的ひょうてきリストから京都きょうと除外じょがいしたら、きみわたしを「感傷かんしょうてき老人ろうじん」とおもうか」とたずねたという[51]
  4. ^ ほりの『情報じょうほうなき国家こっか悲劇ひげき』(kindle 3968)の記述きじゅつ広島ひろしま原爆げんばく投下とうかかんするものであり、長崎ながさき原爆げんばく投下とうかかんする記述きじゅつはない。だいさんよんさん海軍かいぐん航空こうくうたいは、長崎ながさきから40キロほどはなれた、大村湾おおむらわんはさんだ大村おおむら航空こうくう基地きち駐屯ちゅうとんしていた。『源田げんたけん 改訂かいてい増補ぞうほばん』(kindle 8481)には「はちがつきゅうにち志賀しが飛行ひこう隊長たいちょう飛行ひこう作業さぎょうをやめて(当直とうちょく待機たいき飛行ひこうたいべつとして)「休養きゅうよう」とした。「燃料ねんりょう機材きざいどもとぼしく、飛行ひこうちょう隊長たいちょう分隊ぶんたいちょう搭乗とうじょういん一緒いっしょに、大村おおむら裏山うらやま登山とざんすることとなった(以下いかりゃく)」としているほりの『情報じょうほうなき国家こっか悲劇ひげき』(kindle 3968)は陸軍りくぐん中央ちゅうおう特種とくしゅ情報じょうほうが「ヌクレア(かくの)」という単語たんご解読かいどくしたのは、8がつ11にちであると記載きさいしている。
  5. ^ 原爆げんばく報道ほうどう戦後せんごになって連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれいによって禁止きんしされたのであるが、被爆ひばく直後ちょくご広島ひろしまからの生々なまなましいルポルタージュは、戦時せんじちゅうプロパガンダふくむにせよ資料しりょうてき価値かちおおきい。
  6. ^ ハリー・S・トルーマン。なお原爆げんばく開発かいはつおよび投下とうかについて署名しょめいしたのはフランクリン・ルーズベルト
  7. ^ いちれいとして、1989ねん長崎ながさき平和へいわ公園こうえんおとずれたアメリカ海軍かいぐん艦長かんちょうが、犠牲ぎせいしゃのために献花けんかをしようとしたさい長崎ながさき原爆げんばく被災ひさいしゃ協議きょうぎ会員かいいんらによるはげしい抗議こうぎにより平和へいわ記念きねんぞうへの献花けんか断念だんねんし、その献花けんかみつけられる事態じたい発展はってんしている[105]
  8. ^ 同様どうよう事例じれいとして、永井ながいたかし博士はかせ原爆げんばくくなった信徒しんとらの葬儀そうぎミサでの生贄いけにえ発言はつげん(cf:浦上うらかみ燔祭せつ)で、遺族いぞく生存せいぞんした信徒しんとらが反発はんぱつしている[よう出典しゅってん]
  9. ^ ここにおいて橋爪はしづめ評論ひょうろん加藤かとうのりよういに原子げんしばくだん投下とうか日本にっぽんにおける原子力げんしりょく発電はつでん政策せいさくろんじるのであるが、原爆げんばく投下とうかされてなぜ日本にっぽん原発げんぱつ建設けんせつしてきたのか、加藤かとうによるとそれはかく利用りようの「あやまち」であるよりは、幸福こうふく繁栄はんえいへの「反転はんてん」であり、そのような幸福こうふく繁栄はんえいへの祈念きねん福島ふくしま原発げんぱつ事故じここうもなお権利けんりゆうするのであるという[107]
  10. ^ この天皇てんのうへの抗議こうぎにより、宮内庁くないちょう以後いご取材しゅざいなどにたいしては事前じぜんにかなりきびしい措置そちをとるようになっている[よう出典しゅってん]
  11. ^ 産経新聞さんけいしんぶん (1994) によると、外交がいこう専門せんもん「フォーリン・アフェアーズ」1995ねん1がつ7にちごう掲載けいさいとのこと。
  12. ^ カイロ宣言せんげん日本語にほんごやくには、「さんだい同盟どうめいこく海路かいろ陸路りくろ及空リ其ノ野蛮やばんナル敵国てきこくたい仮借かしゃくナキ弾圧だんあつフルノ決意けつい表明ひょうめいセリみぎ弾圧だんあつすんで増大ぞうだいシツツアリ」と記載きさいされている。
  13. ^ 原文げんぶんは they "should draw a mushroom cloud and put under it:'Made in America by lazy and illiterate Americans and tested in Japan[128]"。
  14. ^ ストーンはベトナム戦争せんそう従軍じゅうぐん体験たいけんから映画えいがプラトーン』を製作せいさくした40さいごろまでは歴史れきしの「原爆げんばく正当せいとうろん」にとらわれており、自分じぶんむすめ高校こうこう教科書きょうかしょ広島ひろしま長崎ながさきについての記述きじゅつ原爆げんばく投下とうか正当せいとうするひどいものともべた[よう出典しゅってん]
  15. ^ 1995ねんに、スミソニアン博物館はくぶつかん企画きかくした原爆げんばく投下とうかエノラ・ゲイと広島ひろしま長崎ながさき被爆ひばく資料しりょうならべて展示てんじする原爆げんばくてんは、退役たいえき軍人ぐんじんらのもう反対はんたい中止ちゅうしになったが、20ねんの2015ねん原爆げんばく投下とうかをめぐる言説げんせつ挑戦ちょうせんするような作品さくひん好意こういてき反応はんのうせられるのは、20ねんまえもう反対はんたいした世代せだいおおくはくなり、原爆げんばく投下とうか決定けっていをめぐる議論ぎろん沈静ちんせいしたためとカズニックはべている[145]
  16. ^ しかし日本にっぽん新聞しんぶん取材しゅざいには原爆げんばく投下とうか肯定こうていする発言はつげんをしている[よう出典しゅってん]

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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