日本 にっぽん への原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか までの道程 どうてい は、その6年 ねん 前 まえ のルーズベルト大統領 だいとうりょう に届 とど けられた科学 かがく 者 しゃ たちの手紙 てがみ にさかのぼる。そして、マンハッタン計画 けいかく (DSM計画 けいかく )により開発 かいはつ 中 ちゅう であった原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の使用 しよう 対象 たいしょう として日本 にっぽん が決定 けってい されたのは1943年 ねん 5月 がつ であった。一方 いっぽう で、原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか を阻止 そし しようと行動 こうどう した人々 ひとびと の存在 そんざい もあった。
具体 ぐたい 的 てき に広島 ひろしま 市 し が目標 もくひょう と決定 けってい されたのは1945年 ねん 5月 がつ 10日 とおか であり、長崎 ながさき 市 し は投下 とうか 直前 ちょくぜん の7月 がつ 24日 にち に予備 よび 目標 もくひょう 地 ち として決定 けってい された。また、京都 きょうと 市 し や新潟 にいがた 市 し や小倉 こくら 市 し (現 げん ・北九州 きたきゅうしゅう 市 し 、長崎 ながさき 市 し に投下 とうか されたファットマン の当初 とうしょ 目標 もくひょう 地 ち )などが候補 こうほ 地 ち とされていた。
イギリスとアメリカと日本 にっぽん における政策 せいさく 上 じょう の背景 はいけい と経緯 けいい
編集 へんしゅう
1939年 ねん 1月 がつ 、イギリス国王 こくおう 書簡 しょかん 局 きょく 発行 はっこう 『年 とし 2回 かい 刊 かん 陸軍 りくぐん 将校 しょうこう リスト 1939年 ねん 1月 がつ 号 ごう 』に、昭和 しょうわ 天皇 てんのう の名 な がイギリス正規 せいき 軍 ぐん の陸軍 りくぐん 元帥 げんすい として掲載 けいさい される[ 16] 。
1939年 ねん 8月 がつ 2日 にち 、アメリカへの亡命 ぼうめい 物理 ぶつり 学者 がくしゃ のレオ・シラード らからの提案 ていあん を受 う けたアルベルト・アインシュタイン がルーズベルト大統領 だいとうりょう に宛 あ てた手紙 てがみ において、原子 げんし 爆 ばく 弾 だん がドイツにより開発 かいはつ される可能 かのう 性 せい に言及 げんきゅう し、核 かく エネルギー開発 かいはつ の支援 しえん を進言 しんげん 。
1939年 ねん 9月1日 にち 、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が始 はじ まる。
1939年 ねん 10月11日 にち 、その手紙 てがみ (アインシュタイン=シラードの手紙 てがみ )がルーズベルト米 べい 大統領 だいとうりょう に届 とど けられる。
1939年 ねん 10月21日 にち 、アメリカはウラン諮問 しもん 委員 いいん 会 かい を設置 せっち 。
1940年 ねん 4月 がつ 10日 とおか 、イギリスが、第 だい 一 いち 回 かい ウラン爆発 ばくはつ 軍事 ぐんじ 応用 おうよう 委員 いいん 会 かい (MAUD委員 いいん 会 かい )の会議 かいぎ を開催 かいさい 。
1940年 ねん 4月 がつ 、理化学研究所 りかがくけんきゅうしょ の仁科 にしな 芳雄 よしお がウラン爆 ばく 弾 だん 計画 けいかく を安田 やすだ 武雄 たけお 陸軍 りくぐん 航空 こうくう 技術 ぎじゅつ 研究所 けんきゅうじょ 長 ちょう に進言 しんげん [ 17] 。
1940年 ねん 4月 がつ 、安田 やすだ 武雄 たけお 中将 ちゅうじょう が部下 ぶか の鈴木 すずき 辰三郎 たつさぶろう [ 注 ちゅう 2] に「原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の製造 せいぞう が可能 かのう であるかどうか」について調査 ちょうさ を命 めい じた。
1940年 ねん 6月 がつ 、鈴木 すずき 辰三郎 たつさぶろう は東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく (現 げん ・東京大学 とうきょうだいがく )の物理 ぶつり 学者 がくしゃ 嵯峨 さが 根 ね 遼 りょう 吉 きち (当時 とうじ は助教授 じょきょうじゅ )の助言 じょげん を得 え て、2か月 げつ 後 ご に「原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の製造 せいぞう が可能 かのう である」ことを主旨 しゅし とする報告 ほうこく 書 しょ を提出 ていしゅつ [ 注 ちゅう 2] 。
1940年 ねん 7月 がつ 6日 にち 、すでに仁科 にしな 芳雄 よしお 等 とう がイギリスの学術 がくじゅつ 雑誌 ざっし 『ネイチャー 』に投稿 とうこう してあった『Fission Products of Uranium produced by Fast Neutrons(高速 こうそく 中性子 ちゅうせいし によって生成 せいせい された核分裂 かくぶんれつ 生成 せいせい 物 ぶつ )』と題 だい する、2個 こ の中性子 ちゅうせいし が放出 ほうしゅつ される (n. 2n) 反応 はんのう や、複数 ふくすう の対象 たいしょう 核分裂 かくぶんれつ を伴 ともな う核分裂 かくぶんれつ 連鎖 れんさ 反応 はんのう (臨界 りんかい 事故 じこ )を起 お こした実験 じっけん 成果 せいか が、掲載 けいさい された[ 18] 。この実験 じっけん では臨界 りんかい 量 りょう を超 こ える天然 てんねん ウラン (ウラン238 -99.3%, ウラン235 -0.7%)に高速 こうそく 中性子 ちゅうせいし を照射 しょうしゃ したわけだが、現在 げんざい ではそのことによってプルトニウム239 が生成 せいせい されることや、核 かく 爆発 ばくはつ を起 お こすことが知 し られている[ 19] 。
1941年 ねん 4月 がつ 、日本 にっぽん 陸軍 りくぐん が理研 りけん に原爆 げんばく の開発 かいはつ を依頼 いらい 。ニ号 ごう 研究 けんきゅう と名付 なづ けられた[ 20] 。
1941年 ねん 7月 がつ 15日 にち 、イギリスのMAUD委員 いいん 会 かい は、ウラン爆 ばく 弾 だん が実現 じつげん 可能 かのう だとする最終 さいしゅう 報告 ほうこく を承認 しょうにん して解散 かいさん 。
1941年 ねん 10月3日 にち 、MAUD委員 いいん 会 かい 最終 さいしゅう 報告 ほうこく 書 しょ が、公式 こうしき にルーズベルト大統領 だいとうりょう に届 とど けられる。
1941年 ねん 11月 末 すえ 、後 のち に連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ の主要 しゅよう メンバーとなるユダヤ人 じん ベアテ・シロタ・ゴードン の母 はは で、日本 にっぽん の貴族 きぞく 院 いん 議員 ぎいん のサロン を主催 しゅさい していたオーギュスティーヌが、夫 おっと レオ・シロタ と共 とも にハワイ から再 さい 来日 らいにち 。
1941年 ねん 12月8日 にち 、日本 にっぽん がイギリス領 りょう マラヤ でマレー作戦 さくせん を、アメリカ準 じゅん 州 しゅう のハワイで真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき を行 おこ ない、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん (大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう /太平洋戦争 たいへいようせんそう )が勃発 ぼっぱつ 。日本 にっぽん とアメリカは敵 てき 味方 みかた として第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に参戦 さんせん することとなった。
1942年 ねん 9月26日 にち 、アメリカの軍需 ぐんじゅ 生産 せいさん 委員 いいん 会 かい (英語 えいご 版 ばん ) が、マンハッタン計画 けいかく を最高 さいこう の戦時 せんじ 優先 ゆうせん 等級 とうきゅう に位置 いち づけた。
1942年 ねん 10月11日 にち 、アメリカはイギリスにマンハッタン計画 けいかく への参画 さんかく を要請 ようせい 。
1944年 ねん 7月 がつ 9日 にち 、朝日新聞 あさひしんぶん に、『決勝 けっしょう の新 しん 兵器 へいき 』と題 だい して「ウラニウムに中性子 ちゅうせいし を当 あ てればよいわけだが、宇宙 うちゅう 線 せん には中性子 ちゅうせいし が含 ふく まれているので、早期 そうき 爆発 ばくはつ の危険 きけん がある。そこで中性子 ちゅうせいし を通 とお さないカドミウム の箱 はこ に詰 つ め、いざという時 とき に覆 くつがえ をとり、連鎖 れんさ 反応 はんのう を防 ふせ ぐために別々 べつべつ に作 つく ったウラニウムを一緒 いっしょ にして中性子 ちゅうせいし を当 あ てればよい。」という記事 きじ が掲載 けいさい された。ウラン原爆 げんばく の起爆 きばく 操作 そうさ と全 まった く同 おな じであった[ 21] 。
1945年 ねん 7月 がつ 26日 にち 、日本 にっぽん への最後 さいご 通告 つうこく としてポツダム宣言 せんげん を発表 はっぴょう した。
フランクリン・ルーズベルト 米 べい 大統領 だいとうりょう
原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の理論 りろん 計算 けいさん をしたオットー・ロベルト・フリッシュ (PJ時 じ のID Card)
マンハッタン計画 けいかく の開発 かいはつ 総 そう 責任 せきにん 者 しゃ のロバート・オッペンハイマー (PJ時 じ のID Card)
1939年 ねん 9月1日 にち に第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ した。ユダヤ人 じん 迫害 はくがい 政策 せいさく を取 と るナチス党 とう 率 ひき いるドイツ から逃 のが れてアメリカに亡命 ぼうめい していた物理 ぶつり 学者 がくしゃ のレオ・シラードたちは、当時 とうじ 研究 けんきゅう が始 はじ まっていた原子 げんし 爆 ばく 弾 だん をドイツが保有 ほゆう することを憂慮 ゆうりょ し、アインシュタインとの相談 そうだん によって、原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の可能 かのう 性 せい と政府 せいふ の注意 ちゅうい 喚起 かんき をルーズベルト大統領 だいとうりょう へ進言 しんげん する手紙 てがみ を作成 さくせい した[ 22] 。アインシュタインの署名 しょめい を得 え たこの手紙 てがみ は1939年 ねん 10月 がつ 11日 にち に届 とど けられた[ 23] 。その手紙 てがみ には原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の原材料 げんざいりょう となるウラニウム (ウラン)鉱石 こうせき の埋蔵 まいぞう 地 ち の位置 いち も示 しめ されていた。ヨーロッパのチェコ のウラン鉱山 こうざん はドイツの支配 しはい 下 か であり、アフリカ のコンゴ のウラン鉱山 こうざん をアメリカが早急 そうきゅう におさえることをほのめかしている[ 24] 。ルーズベルト大統領 だいとうりょう は意見 いけん を受 う けてウラン諮問 しもん 委員 いいん 会 かい を一応 いちおう 発足 ほっそく させたものの、この時点 じてん ではまだ核兵器 かくへいき の実現 じつげん 可能 かのう 性 せい は未知数 みちすう であり、大 おお きな関心 かんしん は示 しめ さなかった[ 25] 。
2年 ねん 後 ご の1941年 ねん 7月 がつ 、イギリスの亡命 ぼうめい 物理 ぶつり 学者 がくしゃ オットー・ロベルト・フリッシュ (Otto Robert Frisch ) とドイツのルドルフ・パイエルス がウラン型 がた 原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の基本 きほん 原理 げんり とこれに必要 ひつよう なウランの臨界 りんかい 量 りょう の理論 りろん 計算 けいさん をレポートにまとめ、これによってイギリスの原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 開発 かいはつ を検討 けんとう する委員 いいん 会 かい であるMAUD委員 いいん 会 かい が作 つく られた[ 26] [ 27] 。そこで初 はじ めて原子 げんし 爆 ばく 弾 だん が実現 じつげん 可能 かのう なものであり、航空 こうくう 爆撃 ばくげき 機 き に搭載 とうさい 可能 かのう な大 おお きさであることが明 あき らかにされた[ 28] [ 29] 。ウィンストン・チャーチル 首相 しゅしょう が北 きた アフリカ でのイギリス軍 ぐん の大敗 たいはい などを憂慮 ゆうりょ してアメリカに働 はたら きかけ、このレポートの内容 ないよう を検討 けんとう したルーズベルト大統領 だいとうりょう は1941年 ねん 10月 がつ に原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の開発 かいはつ を決断 けつだん した。
1942年 ねん 6月 がつ 、ルーズベルトはマンハッタン計画 けいかく を秘密裏 ひみつり に開始 かいし させた。総括 そうかつ 責任 せきにん 者 しゃ にはレズリー・グローヴス 准 じゅん 将 しょう を任命 にんめい した。1943年 ねん 4月 がつ にはニューメキシコ州 しゅう に有名 ゆうめい なロスアラモス国立 こくりつ 研究所 けんきゅうじょ が設置 せっち される。開発 かいはつ 総 そう 責任 せきにん 者 しゃ はロバート・オッペンハイマー 博士 はかせ 。20億 おく ドル の資金 しきん と科学 かがく 者 しゃ ・技術 ぎじゅつ 者 しゃ を総動員 そうどういん したこの国家 こっか 計画 けいかく の技術 ぎじゅつ 上 じょう の中心 ちゅうしん 課題 かだい はウランの濃縮 のうしゅく である。テネシー州 しゅう オークリッジ に巨大 きょだい なウラン濃縮 のうしゅく 工場 こうじょう が建造 けんぞう され、2年 ねん 後 ご の1944年 ねん 6月 がつ には高 こう 濃縮 のうしゅく ウランの製造 せいぞう に目途 もくと がついた。
1944年 ねん 9月 がつ 18日 にち 、ルーズベルトとチャーチルは、ニューヨーク州 しゅう ハイドパークで米 べい 英 えい 首脳 しゅのう 会談 かいだん を行 おこな った。内容 ないよう は核 かく に関 かん する秘密 ひみつ 協定 きょうてい (ハイドパーク協定 きょうてい )であり、原爆 げんばく が完成 かんせい すれば日本 にっぽん への原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか の意志 いし が示 しめ され、核 かく 開発 かいはつ に関 かん する米 べい 英 えい の協力 きょうりょく と将来 しょうらい の核 かく 管理 かんり についての合意 ごうい がなされた。
前後 ぜんご して、ルーズベルトは原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか の実行 じっこう 部隊 ぶたい (第 だい 509混成 こんせい 部隊 ぶたい )の編成 へんせい を指示 しじ した。混成 こんせい 部隊 ぶたい とは陸海 りくかい 軍 ぐん から集 あつ めて編成 へんせい されたための名前 なまえ である。1944年 ねん 9月 がつ 1日 にち に隊長 たいちょう を任命 にんめい されたポール・ティベッツ 陸軍 りくぐん 中佐 ちゅうさ は、12月に編成 へんせい を完了 かんりょう し(B-29 計 けい 14機 き および部隊 ぶたい 総員 そういん 1,767人 にん )、ユタ州 しゅう のウェンドバー基地 きち で原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか の秘密 ひみつ 訓練 くんれん を開始 かいし した。1945年 ねん 2月 がつ には原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか 機 き の基地 きち はテニアン島 とう に決定 けってい され、部隊 ぶたい は1945年 ねん 5月 がつ 18日 にち にテニアン島 とう に移動 いどう し、日本 にっぽん 本土 ほんど への原爆 げんばく 投下 とうか に向 む けた準備 じゅんび を開始 かいし した。
原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか 阻止 そし の試 こころ みと挫折 ざせつ
編集 へんしゅう
核分裂 かくぶんれつ を予言 よげん したボーア
デンマーク の理論 りろん 物理 ぶつり 学者 がくしゃ ニールス・ボーア は、1939年 ねん 2月 がつ 7日 にち 、ウラン同位 どうい 体 たい の中 なか でウラン235 が低速 ていそく 中性子 ちゅうせいし によって核分裂 かくぶんれつ すると予言 よげん し、同年 どうねん 4月 がつ 25日 にち に核分裂 かくぶんれつ の理論 りろん を米 べい 物理 ぶつり 学会 がっかい で発表 はっぴょう した。この時点 じてん ではボーアは自分 じぶん の発見 はっけん が世界 せかい にもたらす影響 えいきょう の大 おお きさに気 き づいていなかった。
1939年 ねん 9月 がつ 1日 にち 、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ し、ドイツによるヨーロッパ支配 しはい 拡大 かくだい とユダヤ人 じん 迫害 はくがい を見 み て、ボーアは1943年 ねん 12月にイギリスへ逃 のが れた。そこで彼 かれ は米 べい 英 えい による原子力 げんしりょく 研究 けんきゅう が平和 へいわ 利用 りよう ではなく、原子 げんし 爆 ばく 弾 だん として開発 かいはつ が進 すす められていることを知 し る。原子 げんし 爆 ばく 弾 だん による世界 せかい の不安定 ふあんてい 化 か を怖 こわ れたボーアは、これ以後 いご ソ連 それん も含 ふく めた原子力 げんしりょく 国際 こくさい 管理 かんり 協定 きょうてい の必要 ひつよう 性 せい を米 べい 英 えい の指導 しどう 者 しゃ に訴 うった えることに尽力 じんりょく することになる。
1944年 ねん 5月 がつ 16日 にち に、ボーアはチャーチルと会談 かいだん したが説得 せっとく に失敗 しっぱい 、同年 どうねん 8月 がつ 26日 にち にはルーズベルトとも会談 かいだん したが同様 どうよう に失敗 しっぱい した。逆 ぎゃく に同年 どうねん 9月 がつ 18日 にち の米 べい 英 えい のハイドパーク協定 きょうてい (既 すんで 述 じゅつ )では、ボーアの活動 かつどう 監視 かんし と、当時 とうじ 英 えい 米 べい との対立 たいりつ 姿勢 しせい が目立 めだ ってきたソ連 それん との接触 せっしょく 阻止 そし が盛 も り込 こ まれてしまう。さらに、ルーズベルト死後 しご の1945年 ねん 4月 がつ 25日 にち に、ボーアは科学 かがく 行政 ぎょうせい 官 かん のヴァネヴァー・ブッシュと会談 かいだん し説得 せっとく を試 こころ みたが、彼 かれ の声 こえ が時 とき の政権 せいけん へ届 とど くことはなかった。
また、1944年 ねん 7月 がつ にシカゴ大学 だいがく 冶金 やきん 研究所 けんきゅうじょ のアーサー・コンプトン が発足 ほっそく させたジェフリーズ委員 いいん 会 かい が原子力 げんしりょく 計画 けいかく の将来 しょうらい について検討 けんとう を行 おこな い、1944年 ねん 11月18日 にち に「ニュークレオニクス要綱 ようこう 」をまとめ、原子力 げんしりょく は平和 へいわ 利用 りよう のための開発 かいはつ に注力 ちゅうりょく すべきで、原子 げんし 爆 ばく 弾 だん として都市 とし 破壊 はかい を行 おこな うことを目的 もくてき とすべきではないと提言 ていげん した。しかし、この提言 ていげん が生 い かされることがなくなったのは、トルーマンが政権 せいけん を引 ひ き継 つ いでからのことである。
歴史 れきし 作家 さっか の鳥居 とりい 民 みん は、当初 とうしょ 、ルーズベルトは、原子 げんし 爆 ばく 弾 だん を最初 さいしょ から日本 にっぽん に投下 とうか するつもりはなく、1944年 ねん 5月 がつ に日本 にっぽん への無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく の要求 ようきゅう を取 と り下 さ げ、アメリカ国務省 こくむしょう 極東 きょくとう 局長 きょくちょう を対 たい 日 にち 強硬 きょうこう 策 さく を布 し いたスタンリー・クール・ホーンベック から、駐 ちゅう 日 にち 大使 たいし を歴任 れきにん したジョセフ・グルーに交代 こうたい するなど、日本 にっぽん への和平 わへい 工作 こうさく を行 おこな っていたとする[ 30] 。また、鳥居 とりい は、これらのアメリカ側 がわ の動 うご きを、日本 にっぽん 側 がわ はアメリカ軍 ぐん の損耗 そんこう を最小限 さいしょうげん にするため行 い っているという認識 にんしき であったが、ルーズベルトは、中国 ちゅうごく で国共 こっきょう 内戦 ないせん が勃発 ぼっぱつ することを恐 おそ れており、その予防 よぼう に兵力 へいりょく を振 ふ り向 む けたい思 おも いで、動 うご いていたとする[ 30] 。
これに対 たい し、ワシントン大学 だいがく 名誉 めいよ 教授 きょうじゅ で日本 にっぽん 研究 けんきゅう 者 しゃ のケネス・パイルは、ルーズベルトはドイツや日本 にっぽん に対 たい し一貫 いっかん して無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく を求 もと めたとする[ 31] 。
トルーマン政権 せいけん と軍 ぐん の攻防 こうぼう 、和平 わへい 工作 こうさく の破綻 はたん
編集 へんしゅう
「フランクレポート」を提出 ていしゅつ したフランク
1945年 ねん 4月 がつ 12日 にち にルーズベルト が急死 きゅうし したことによって、急遽 きゅうきょ 、副 ふく 大統領 だいとうりょう だったハリー・S・トルーマン が第 だい 33代 だい 大統領 だいとうりょう に昇進 しょうしん した。
ナチス・ドイツ 降伏 ごうぶく 後 ご の1945年 ねん 5月 がつ 28日 にち には、アメリカに核 かく 開発 かいはつ を進言 しんげん したその人 ひと であるレオ・シラードが、後 ご の国務 こくむ 長官 ちょうかん バーンズに原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 使用 しよう の反対 はんたい を訴 うった えている[ 32] 。
バーンズ はマンハッタン計画 けいかく の責任 せきにん 者 しゃ の一人 ひとり として、東 ひがし ヨーロッパ で覇権 はけん を強 つよ めるソ連 それん を牽制 けんせい するために、日本 にっぽん に対 たい する原爆 げんばく 攻撃 こうげき を支持 しじ しており、天皇 てんのう の護持 ごじ が容 い れられれば、日本 にっぽん には終戦 しゅうせん 交渉 こうしょう の余地 よち があるとする、戦後 せんご 日本 にっぽん を有望 ゆうぼう な投資 とうし 先 さき と考 かんが える国務 こくむ 次官 じかん グルー、陸軍 りくぐん 長官 ちょうかん スティムソン、海軍 かいぐん 長官 ちょうかん ジェームズ・フォレスタル ら三 さん 人 にん 委員 いいん 会 かい とは正 せい 反対 はんたい の路線 ろせん であった。「一発 いっぱつ で都市 とし を吹 ふ っ飛 と ばせる兵器 へいき を、我々 われわれ アメリカが所有 しょゆう していることを事前 じぜん 警告 けいこく すべきである。それでも降伏 ごうぶく しなければ原爆 げんばく を投下 とうか すると日本 にっぽん 政府 せいふ に伝 つた えるべきだ」と主張 しゅちょう し無 む 警告 けいこく の原爆 げんばく 投下 とうか に反対 はんたい を訴 うった えた陸軍 りくぐん 次官 じかん のジョン・J・マクロイ に対 たい して、バーンズは「それはアメリカの弱 よわ さを示 しめ すものだ、原爆 げんばく 投下 とうか 前 まえ に天皇 てんのう 制 せい を保証 ほしょう し降伏 ごうぶく を呼 よ びかけるのは反対 はんたい だ」と述 の べる[ 33] 。
1945年 ねん 6月 がつ 11日 にち には、シカゴ大学 だいがく のジェイムス・フランク が、グレン・シーボーグ 、レオ・シラード、ドナルド・ヒューズ、J・C・スターンス、ユージン・ラビノウィッチ 、J・J・ニクソンたち7名 めい の科学 かがく 者 しゃ と連名 れんめい で報告 ほうこく 書 しょ 「フランクレポート 」を大統領 だいとうりょう 諮問 しもん 委員 いいん 会 かい である暫定 ざんてい 委員 いいん 会 かい に提出 ていしゅつ した[ 34] 。その中 なか で、社会 しゃかい 倫理 りんり 的 てき に都市 とし への原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか に反対 はんたい し、砂漠 さばく か無人島 むじんとう でその威力 いりょく を各国 かっこく にデモンストレーションすることにより戦争 せんそう 終結 しゅうけつ の目的 もくてき が果 は たせると提案 ていあん したが、暫定 ざんてい 委員 いいん 会 かい の決定 けってい が覆 くつがえ ることはなかった。また同 どう レポートで、核兵器 かくへいき の国際 こくさい 管理 かんり の必要 ひつよう 性 せい をも訴 うった えていた[ 35] 。
1945年 ねん 7月 がつ 1日 にち 、チャーチル 英 えい 首相 しゅしょう がアメリカによる日本 にっぽん への原爆 げんばく 使用 しよう に最終 さいしゅう 同意 どうい して署名 しょめい していたことが、後 のち に英 えい 国立 こくりつ 公文書 こうぶんしょ 館 かん 所蔵 しょぞう の秘密 ひみつ 文書 ぶんしょ で判明 はんめい した。打診 だしん は、アメリカが核兵器 かくへいき 開発 かいはつ に成功 せいこう してもイギリスが同意 どうい しなければ使用 しよう できないなどと定 さだ めた1943年 ねん 8月 がつ の「ケベック協定 きょうてい 」に基 もと づく。[ 36] なお、原爆 げんばく 投下 とうか 前 まえ にチャーチルは首相 しゅしょう を退任 たいにん している。
さらに1945年 ねん 7月 がつ 12日 にち 、シカゴ大学 だいがく 冶金 やきん 研究所 けんきゅうじょ で原爆 げんばく の対 たい 日 にち 使用 しよう に関 かん するアンケートがあった。それによると、科学 かがく 者 しゃ 150人 にん のうちの85%が無 む 警告 けいこく での原爆 げんばく 投下 とうか に反対 はんたい を表明 ひょうめい している。7月17日 にち にもシラードら科学 かがく 者 しゃ たちが連名 れんめい で原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 使用 しよう 反対 はんたい の大統領 だいとうりょう への請願 せいがん 書 しょ を提出 ていしゅつ したが、原爆 げんばく 投下 とうか 前 まえ にトルーマンに届 とど けられることはなかった[ 37] 。マンハッタン計画 けいかく の指揮 しき 官 かん であるグローヴス陸軍 りくぐん 少将 しょうしょう が請願 せいがん 書 しょ を手元 てもと に置 お き、大統領 だいとうりょう に届 とど かないように妨害 ぼうがい したためであった。
軍人 ぐんじん では、アメリカ太平洋艦隊 たいへいようかんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん チェスター・ニミッツ 提督 ていとく が、都市 とし への投下 とうか には消極 しょうきょく 的 てき で、ロタ島 とう への爆 ばく 撃 げき を示唆 しさ したという。後 のち に共和党 きょうわとう から大統領 だいとうりょう となったドワイト・D・アイゼンハワー 将軍 しょうぐん は、戦後 せんご の書簡 しょかん [ 38] や回顧 かいこ 録 ろく 等 とう で、既 すで に広島 ひろしま 投下 とうか 前 まえ の1945年 ねん 7月 がつ 20日 はつか に当時 とうじ ベルギーのアントワープに来 き ていたスティムソン陸軍 りくぐん 長官 ちょうかん らに対 たい 日 にち 戦 せん に原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の使用 しよう はもはや不要 ふよう であることを述 の べたと主張 しゅちょう している。ただし、多 おお くの裏付 うらづ け情報 じょうほう を調 しら べたとされる歴史 れきし 家 か のバートン・バーンスタインは、アイゼンハワーはおそらくこのようなことは言 い っていないと結論 けつろん づけている[ 39] [ 40] (参照 さんしょう :ドワイト・D・アイゼンハワー#広島 ひろしま とその原爆 げんばく 投下 とうか 反対 はんたい に関 かん する問題 もんだい )。また同 どう 時期 じき 、アイゼンハワーは極東 きょくとう での日本 にっぽん との戦争 せんそう にソ連 それん を参戦 さんせん させないよう進言 しんげん していたともされ、寧 むし ろこちらの結果 けっか として、トルーマンらは日本 にっぽん を早期 そうき 降伏 ごうぶく させるために原爆 げんばく 投下 とうか を決定 けってい したとする説 せつ もある[ 41] 。(なお、作家 さっか の北 きた 杜夫 もりお のように、原爆 げんばく 投下 とうか が日本 にっぽん の降伏 ごうぶく 決定 けってい を早 はや め、そのためソ連 それん 軍 ぐん が日本 にっぽん に上陸 じょうりく することなく、日本 にっぽん の分割 ぶんかつ 占領 せんりょう が防 ふせ がれたと考 かんが える日本人 にっぽんじん もいる[ 42] 。)
また連邦 れんぽう 政府 せいふ 側近 そっきん でも、ラルフ・バード のように原子 げんし 爆 ばく 弾 だん を使用 しよう するとしても、事前 じぜん 警告 けいこく 無 な しに投下 とうか することに反対 はんたい する者 もの もいた。7月24日 にち のポツダム会談 かいだん でチャーチルは、1944年 ねん 9月 にトルーマンの前任 ぜんにん のルーズベルトと日本 にっぽん への原爆 げんばく 使用 しよう を密約 みつやく した「ハイドパーク協定 きょうてい 」を持 も ち出 だ し、「警告 けいこく なしで使用 しよう すべきだ」とトルーマンに迫 せま った。大統領 だいとうりょう だったトルーマン自身 じしん は、自身 じしん の日記 にっき に「原爆 げんばく の投下 とうか 場所 ばしょ は、軍事 ぐんじ 基地 きち を目標 もくひょう にする事 こと 。決 けっ して一般 いっぱん 市民 しみん をターゲットにする事 こと がないようにとスティムソンに言 い った。」と記述 きじゅつ していたため、非 ひ 戦闘 せんとう 員 いん である民間 みんかん 人 じん を殺戮 さつりく する原爆 げんばく 投下 とうか には反対 はんたい していたことが明 あき らかと主張 しゅちょう される。[要 よう 出典 しゅってん ]
歴史 れきし 家 か のアレックス・ウェラースタインによれば、従来 じゅうらい 、原爆 げんばく 使用 しよう の決定 けってい 理由 りゆう として、従来 じゅうらい 2つの大 おお きな流 なが れがあったとする。一 ひと つは、戦後 せんご まもなくスティムソン[ 43] やトルーマンによって語 かた られた説明 せつめい で「戦争 せんそう を早期 そうき 終結 しゅうけつ させ、より多数 たすう の米兵 べいへい と日本人 にっぽんじん の生命 せいめい を救 すく うため」に決定 けってい されたとするもの、もう一 ひと つは、ガー・アルペロヴィッツが特 とく に(それ以前 いぜん からあったが)1980年代 ねんだい -1990年代 ねんだい に喧伝 けんでん した「ソ連 それん に威力 いりょく を見 み せつけるため」とするものである[ 44] 。ウェラースタインは、実際 じっさい の歴史 れきし 過程 かてい はより複雑 ふくざつ で今日 きょう の歴史 れきし 家 か はどちらかの単純 たんじゅん な考 かんが え方 かた は否定 ひてい する傾向 けいこう があるとし、ウェラースタイン自身 じしん はそれまでの様々 さまざま な積 つ み上 あ げの結果 けっか と考 かんが えていて、その意味 いみ で、上述 じょうじゅつ のような「(トルーマンの)原爆 げんばく 使用 しよう 決定 けってい 」の物語 ものがたり は正 ただ しくないとしている[ 44] 。グローブスの自伝 じでん によれば、投下 とうか 目標 もくひょう 委員 いいん 会 かい によって京都 きょうと を含 ふく む4つの目標 もくひょう 都市 とし が当初 とうしょ 選 えら ばれたとし、グローブス自身 じしん は計画 けいかく 自体 じたい がかなり秘密 ひみつ にされていたため目標 もくひょう 委員 いいん 会 かい 関係 かんけい 者 しゃ にさえ、よくある新 しん 兵器 へいき の一 ひと つと思 おも われる可能 かのう 性 せい を嫌 きら い、原爆 げんばく の使用 しよう は大統領 だいとうりょう (原文 げんぶん :ワシントン)の権限 けんげん としたが、その一方 いっぽう で、グローブスの起草 きそう した投下 とうか 指令 しれい 書 しょ の文面 ぶんめん は、当時 とうじ ポツダムにいたマーシャル参謀 さんぼう 総長 そうちょう (トルーマンの関 かかわ りが曖昧 あいまい になっている)の下 した に正式 せいしき 決定 けってい を得 え るための覚書 おぼえがき とともに送 おく ったとする[ 45] 。ウェラースタインは、実際 じっさい の各 かく 都市 とし 投下 とうか への総意 そうい がこういった過程 かてい を通 とお して決 き まっていったと考 かんが えていて、その意味 いみ でトルーマン自身 じしん が正式 せいしき に承認 しょうにん したというタイミングは確認 かくにん できないようだと考 かんが えている[ 44] 。しかし、これは同時 どうじ にトルーマンが都市 とし 投下 とうか を明確 めいかく に拒否 きょひ したこともなかったことも意味 いみ する。今日 きょう 我々 われわれ が見 み る原爆 げんばく 投下 とうか 発表 はっぴょう の収録 しゅうろく 動画 どうが では、トルーマンは明確 めいかく にTNT火薬 かやく 2万 まん トンを超 こ える破壊 はかい 力 りょく と言 い っていて、さらに、収録 しゅうろく の合 ごう い間 あいだ にはフィルムが止 と まっていると思 おも ったのか真剣 しんけん だった表情 ひょうじょう を崩 くず して、成功 せいこう を聞 き いた喜 よろこ びからか満面 まんめん の笑顔 えがお を浮 う かべている。なお、ウェラースタインは、スチムソンがトルーマンに進言 しんげん して京都 きょうと を投下 とうか 目標 もくひょう から外 はず す過程 かてい の中 なか で、トルーマンが広島 ひろしま を多数 たすう の民間 みんかん 人 じん も住 す んでいる都市 とし ではなく、単 たん なる軍事 ぐんじ 基地 きち か軍事 ぐんじ 拠点 きょてん と誤解 ごかい した節 ふし があるとしている[ 46] 。
ワシントン で原爆 げんばく 投下 とうか の一報 いっぽう を聞 き いたグローブスは、原爆 げんばく 開発 かいはつ をした科学 かがく 者 しゃ たちに対 たい し「君 きみ たちを誇 ほこ りに思 おも う。」とねぎらったという。
原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか 都市 とし の選定 せんてい 経緯 けいい
編集 へんしゅう
広島 ひろしま 市 し と長崎 ながさき 市 し が原子 げんし 爆 ばく 弾 だん による攻撃 こうげき 目標 もくひょう となった経緯 けいい [ 47] は、日本 にっぽん の各 かく 都市 とし への通常 つうじょう 兵器 へいき による精密 せいみつ 爆撃 ばくげき や焼夷弾 しょういだん 爆撃 ばくげき (日本 にっぽん 本土 ほんど 空襲 くうしゅう )が続 つづ けられる中 なか で、以下 いか のようなものであった。
1943年 ねん 5月5日 にち の軍事 ぐんじ 政策 せいさく 委員 いいん 会 かい で最初 さいしょ の原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 使用 しよう について議論 ぎろん がなされ、「トラック島 とう に集結 しゅうけつ する日本 にっぽん 艦隊 かんたい に投下 とうか するのが適当 てきとう 」というのが大方 おおかた の意見 いけん であった[ 48] 。
1944年 ねん 11月24日 にち から翌 よく 3月9日 にち は通常 つうじょう 兵器 へいき による空爆 くうばく 第 だい 一 いち 期 き で、軍需 ぐんじゅ 工場 こうじょう を主要 しゅよう な目標 もくひょう とした精密 せいみつ 爆撃 ばくげき が行 おこな われた。ただし、カーチス・ルメイ 陸軍 りくぐん 少将 しょうしょう による焼夷弾 しょういだん 爆 ばく 撃 げき も実験 じっけん 的 てき に始 はじ められていた。
ついで、1945年 ねん 3月 がつ 10日 とおか から6月15日 にち は通常 つうじょう 兵器 へいき による空爆 くうばく 第 だい 二 に 期 き で以下 いか のような大都市 だいとし の市街地 しがいち に対 たい する焼夷弾 しょういだん 爆撃 ばくげき が行 おこな われた。
ポツダム会談 かいだん でのトルーマン(左 ひだり チャーチル、右 みぎ スターリン)
1945年 ねん 4月 がつ 12日 にち のルーズベルトの急死 きゅうし により、副 ふく 大統領 だいとうりょう であったトルーマンが大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん した。ルーズベルトの原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 政策 せいさく を継 つ いだトルーマンに、「いつ・どこへ」を決定 けってい する仕事 しごと が残 のこ された。4月 がつ 25日 にち にスティムソン陸軍 りくぐん 長官 ちょうかん と、マンハッタン計画 けいかく 指揮 しき 官 かん グローヴスがホワイトハウス を訪 おとず れ、原爆 げんばく 投下 とうか に関 かん する資料 しりょう を提出 ていしゅつ した。しかしこの際 さい トルーマンは、「資料 しりょう を見 み るのは嫌 きら いだ」と語 かた ったという。
1945年 ねん 4月 がつ 中旬 ちゅうじゅん から5月 がつ 中旬 ちゅうじゅん に、沖縄 おきなわ 戦 せん を支援 しえん するため九州 きゅうしゅう と四国 しこく の飛行場 ひこうじょう を重点的 じゅうてんてき に爆撃 ばくげき し、大都市 だいとし への焼夷弾 しょういだん 爆 ばく 撃 げき は中断 ちゅうだん された。このため京都大 きょうとだい 空襲 くうしゅう が遅 おく れた[ 48] 。
1945年 ねん 4月 がつ 27日 にち 、陸軍 りくぐん の第 だい 1回 かい 目標 もくひょう 選定 せんてい 委員 いいん 会 かい (Target Committee) において以下 いか の決定 けってい がなされた。これはアメリカ政府 せいふ に対 たい しては極秘 ごくひ の元 もと に行 おこな われた。
日本 にっぽん 本土 ほんど への爆 ばく 撃 げき 状況 じょうきょう について、第 だい 20航空 こうくう 軍 ぐん が「邪魔 じゃま な石 いし は残 のこ らず取 と り除 のぞ く」という第 だい 一 いち の目的 もくてき をもって、次 つぎ の都市 とし を系統的 けいとうてき に爆撃 ばくげき しつつあると報告 ほうこく した。東京 とうきょう 都区 とく 部 ぶ 、横浜 よこはま 市 し 、名古屋 なごや 市 し 、大阪 おおさか 市 し 、京都 きょうと 市 し 、神戸 こうべ 市 し 、八幡 やはた 市 し 、長崎 ながさき 市 し [ 48] 。
次 つぎ の17都市 とし および地点 ちてん が研究 けんきゅう 対象 たいしょう とされた。東京 とうきょう 湾 わん 、川崎 かわさき 市 し 、横浜 よこはま 市 し 、名古屋 なごや 市 し 、京都 きょうと 市 し 、大阪 おおさか 市 し 、神戸 こうべ 市 し 、広島 ひろしま 市 し 、呉 くれ 市 し 、下関 しものせき 市 し 、山口 やまぐち 市 し 、八幡 やはた 市 し 、小倉 こくら 市 し 、福岡 ふくおか 市 し 、熊本 くまもと 市 し 、長崎 ながさき 市 し 、佐世保 させぼ 市 し 。
1945年 ねん 5月 がつ 10日 とおか と11日 にち の第 だい 2回 かい 目標 もくひょう 選定 せんてい 委員 いいん 会 かい がロスアラモスのオッペンハイマー博士 はかせ の執務 しつむ 室 しつ で開 ひら かれ、8月 がつ 初 はじ めに使用 しよう 予定 よてい の2発 はつ の原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の投下 とうか 目標 もくひょう として、次 つぎ の4都市 とし が初 はじ めて選定 せんてい された[ 48] 。
京都 きょうと 市 し :AA級 きゅう 目標 もくひょう
広島 ひろしま 市 し :AA級 きゅう 目標 もくひょう
横浜 よこはま 市 し :A級 きゅう 目標 もくひょう
小倉 こくら 市 し :A級 きゅう 目標 もくひょう
このとき以下 いか の3基準 きじゅん が示 しめ された[ 48] 。
直径 ちょっけい 3マイル を超 こ える大 おお きな都市 とし 地域 ちいき にある重要 じゅうよう 目標 もくひょう であること。
爆 ばく 風 ふう によって効果 こうか 的 てき に破壊 はかい しうるものであること。
1945年 ねん 8月 がつ まで爆撃 ばくげき されないままでありそうなもの。
1945年 ねん 5月28日 にち 、第 だい 3回 かい 目標 もくひょう 選定 せんてい 委員 いいん 会 かい が開 ひら かれた。京都 きょうと 市 し 、広島 ひろしま 市 し 、新潟 にいがた 市 し に投下 とうか する地点 ちてん について重要 じゅうよう な決定 けってい がされ、横浜 よこはま 市 し と小倉 こくら 市 し が目標 もくひょう から外 はず された[ 48] 。
投下 とうか 地点 ちてん は、気象 きしょう 条件 じょうけん によって都度 つど 、基地 きち で決定 けってい する。
投下 とうか 地点 ちてん は、工業 こうぎょう 地域 ちいき の位置 いち に限定 げんてい しない。
投下 とうか 地点 ちてん は、都市 とし の中心 ちゅうしん に投下 とうか するよう努 つと めて、1発 はつ で完全 かんぜん に破壊 はかい する。
これらの原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか 目標 もくひょう 都市 とし への空爆 くうばく の禁止 きんし が決定 けってい された。禁止 きんし の目的 もくてき は、原爆 げんばく のもたらす効果 こうか を正確 せいかく に測定 そくてい 把握 はあく できるようにするためである。これが目標 もくひょう となった都市 とし に「空襲 くうしゅう がない」という流言 りゅうげん を生 う み、一部 いちぶ 疎開 そかい 生徒 せいと の帰郷 ききょう や、他 た の大都市 だいとし からの流入 りゅうにゅう を招 まね くこととなった。
1945年 ねん 5月29日 にち 、目標 もくひょう から外 はず された翌日 よくじつ に横浜 よこはま 大 だい 空襲 くうしゅう が行 おこな われた。なお、この横浜 よこはま 大 だい 空襲 くうしゅう は、第 だい 3回 かい 目標 もくひょう 選定 せんてい 委員 いいん 会 かい で横浜 よこはま が目標 もくひょう から外 はず されたから行 おこな われたものでなく、横浜 よこはま に対 たい して通常 つうじょう 空襲 くうしゅう を行 おこな うために、原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の投下 とうか 目標 もくひょう から外 はず したものと思 おも われる[ 49] 。
1945年 ねん 6月1日 にち 、スティムソン陸軍 りくぐん 長官 ちょうかん を委員 いいん 長 ちょう とする政府 せいふ の暫定 ざんてい 委員 いいん 会 かい は、
原子 げんし 爆 ばく 弾 だん は日本 にっぽん に対 たい してできるだけ早期 そうき に使用 しよう すべきであり、
それは労働 ろうどう 者 しゃ の住宅 じゅうたく に囲 かこ まれた軍需 ぐんじゅ 工場 こうじょう に対 たい して使用 しよう すべきである。
その際 さい 、原子 げんし 爆 ばく 弾 だん について何 なに らの事前 じぜん 警告 けいこく もしてはならない。
と決定 けってい した[ 48] 。なお原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか の事前 じぜん 警告 けいこく については、BBC (ニューデリー放送 ほうそう )やVOA (サイパン放送 ほうそう )で通告 つうこく されていたという説 せつ もあるが[ 50] 、確認 かくにん されていない。
この経過 けいか の中 なか で、4つの目標 もくひょう 都市 とし のうち京都 きょうと が次 つぎ の理由 りゆう から第 だい 一 いち 候補 こうほ 地 ち とされていた[ 48] 。
人口 じんこう 100万 まん を超 こ す大都市 だいとし であること。
日本 にっぽん の古都 こと であること。
多数 たすう の避難 ひなん 民 みん と罹災 りさい 工業 こうぎょう が流 なが れ込 こ みつつあったこと。
小 ちい さな軍需 ぐんじゅ 工場 こうじょう が多数 たすう 存在 そんざい していること。
原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の破壊 はかい 力 りょく を正確 せいかく に測定 そくてい し得 え る十分 じゅうぶん な広 ひろ さの市街地 しがいち を持 も っていること。
しかし、フィリピン総督 そうとく 時代 じだい に京都 きょうと を訪 おとず れたことのあるスティムソン陸軍 りくぐん 長官 ちょうかん の強 つよ い反対 はんたい にあったことや[ 注 ちゅう 3] 、戦後 せんご 、「アメリカと親 した しい 日本 にっぽん 」を創 つく る上 じょう で、京都 きょうと には千 せん 数 すう 百 ひゃく 年 ねん の長 なが い歴史 れきし があり、数 すう 多 おお くの価値 かち ある日本 にっぽん の文化財 ぶんかざい が点在 てんざい 、これらを破壊 はかい する可能 かのう 性 せい のある原子 げんし 爆 ばく 弾 だん を京都 きょうと に投下 とうか したならば、戦後 せんご 、日本 にっぽん 国民 こくみん より大 おお きな反感 はんかん を買 か う懸念 けねん があるとの観点 かんてん から、京都 きょうと への原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか は問題 もんだい であるとされた。
1945年 ねん 6月14日 にち 、京都 きょうと 市 し が除外 じょがい され、目標 もくひょう が小倉 こくら 市 し 、広島 ひろしま 市 し 、新潟 にいがた 市 し となる。しかし京都 きょうと への爆 ばく 撃 げき 禁止 きんし 命令 めいれい は継続 けいぞく された[ 48] 。
1945年 ねん 6月16日 にち から終戦 しゅうせん まで、通常 つうじょう 兵器 へいき による空爆 くうばく 第 だい 三 さん 期 き となり、中小 ちゅうしょう 都市 とし への焼夷弾 しょういだん 爆撃 ばくげき が行 おこな われた。
1945年 ねん 6月30日 にち 、アメリカ軍 ぐん 統合 とうごう 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ がダグラス・マッカーサー 陸軍 りくぐん 大将 たいしょう 、チェスター・ニミッツ 海軍 かいぐん 大将 たいしょう 、ヘンリー・アーノルド 陸軍 りくぐん 大将 たいしょう 宛 あて に、原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか 目標 もくひょう に選 えら ばれた都市 とし に対 たい する爆 ばく 撃 げき の禁止 きんし を指令 しれい 。同様 どうよう の指令 しれい はこれ以前 いぜん から発 はっ せられており、ほぼ完全 かんぜん に守 まも られていた[ 48] [ 52] 。
新 あたら しい指令 しれい が統合 とうごう 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ によって発 はっ せられない限 かぎ り、貴 き 官 かん 指揮 しき 下 か のいかなる部隊 ぶたい も、京都 きょうと ・広島 ひろしま ・小倉 おぐら ・新潟 にいがた を攻撃 こうげき してはならない。
右 みぎ の指令 しれい の件 けん は、この指令 しれい を実行 じっこう するのに必要 ひつよう な最小限 さいしょうげん の者 もの たちだけの知識 ちしき にとどめておくこと。
1945年 ねん 7月 がつ 3日 にち 、それでもなお、京都 きょうと 市 し が京都 きょうと 盆地 ぼんち に位置 いち しているので原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の効果 こうか を確認 かくにん するには最適 さいてき として投下 とうか を強 つよ く求 もと める将校 しょうこう 、科学 かがく 者 しゃ も多 おお く存在 そんざい し、その巻 ま き返 かえ し意見 いけん によって再 ふたた び京都 きょうと 市 し が候補 こうほ 地 ち となった[ 48] 。
1945年 ねん 7月 がつ 16日 にち 、トリニティ実験 じっけん 。日 ひ の出 で 前 まえ の早朝 そうちょう 5時 じ 30分 ふん (現地 げんち 時間 じかん 、グリニッジ時間 じかん :11:29:21 GMT)、アメリカ ニューメキシコ州 しゅう アラモゴード から約 やく 80Km離 はな れた半 はん 砂漠 さばく 地帯 ちたい で、グローブス少将 しょうしょう など軍 ぐん 関係 かんけい 者 しゃ やオッペンハイマー を代表 だいひょう とする科学 かがく 者 しゃ たちが見守 みまも るなか、 プルトニウム を使 つか った原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の爆発 ばくはつ 実験 じっけん が極秘 ごくひ 裏 うら に行 おこな われ、人類 じんるい 史上 しじょう 初 はじ めて成功 せいこう した[ 53] 。
1945年 ねん 7月 がつ 20日 はつか 、パンプキン爆 ばく 弾 だん による模擬 もぎ 原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の投下 とうか 訓練 くんれん が開始 かいし された[ 49] 。
1945年 ねん 7月 がつ 21日 にち 、ワシントンのハリソン陸軍 りくぐん 長官 ちょうかん 特別 とくべつ 顧問 こもん (暫定 ざんてい 委員 いいん 会 かい 委員 いいん 長 ちょう 代行 だいこう )からポツダム会談 かいだん に随行 ずいこう してドイツに滞在 たいざい していたスティムソン陸軍 りくぐん 長官 ちょうかん に対 たい して、京都 きょうと を第 だい 一 いち 目標 もくひょう にすることの許可 きょか を求 もと める電報 でんぽう があったが、スティムソンは直 ただ ちにそれを許可 きょか しない旨 むね の返電 へんでん をし、京都 きょうと 市 し の除外 じょがい が決定 けってい した[ 48] [ 52] 。
1945年 ねん 7月 がつ 24日 にち 、京都 きょうと 市 し の代 か わりに長崎 ながさき 市 し が、地形 ちけい 的 てき に不 ふ 適当 てきとう な問題 もんだい があるものの目標 もくひょう に加 くわ えられた。スティムソン陸軍 りくぐん 長官 ちょうかん の7月 がつ 24日 にち の日記 にっき には「もし(京都 きょうと の)除外 じょがい がなされなければ、かかる無茶 むちゃ な行為 こうい によって生 しょう ずるであろう残酷 ざんこく な事態 じたい のために、その地域 ちいき において日本人 にっぽんじん を我々 われわれ と和解 わかい させることが戦後 せんご 長期間 ちょうきかん 不可能 ふかのう となり、むしろロシア人 じん に接近 せっきん させることになるだろう(中略 ちゅうりゃく )満州 まんしゅう でロシアの侵攻 しんこう があった場合 ばあい に、日本 にっぽん を合衆国 がっしゅうこく に同調 どうちょう させることを妨 さまた げる手段 しゅだん となるであろう、と私 わたし は指摘 してき した。」とあり、アメリカが戦後 せんご の国際 こくさい 社会 しゃかい における政治 せいじ 的 てき 優位 ゆうい 性 せい を保 たも つ目的 もくてき から、京都 きょうと 投下 とうか 案 あん に反対 はんたい したことが窺 うかが える[ 48] [ 52] 。トルーマン大統領 だいとうりょう のポツダム日記 にっき 7月 がつ 25日 にち の項 こう にも「目標 もくひょう は、水兵 すいへい などの軍事 ぐんじ 物 ぶつ を目標 もくひょう とし、決 けっ して女性 じょせい や子供 こども をターゲットにする事 こと が無 な いようにと、スティムソンに言 い った。たとえ日本人 にっぽんじん が野蛮 やばん であっても、共通 きょうつう の福祉 ふくし を守 まも る世界 せかい の指導 しどう 者 しゃ たるわれわれとしては、この恐 おそれ るべき爆 ばく 弾 だん を、かつての首都 しゅと にも新 あたら しい首都 しゅと にも投下 とうか することはできない。その点 てん で私 わたし とスティムソンは完全 かんぜん に一致 いっち している。目標 もくひょう は、軍事 ぐんじ 物 ぶつ に限 かぎ られる。」とある[ 52] 。
1945年 ねん 7月 がつ 25日 にち 、マンハッタン計画 けいかく の最高 さいこう 責任 せきにん 者 しゃ グローヴスが起草 きそう した原爆 げんばく 投下 とうか 指令 しれい 書 しょ がハンディ陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう 代理 だいり からスパーツ陸軍 りくぐん 戦略 せんりゃく 航空 こうくう 軍 ぐん 司令 しれい に発 はっ せられると同時 どうじ に、グローブスによれば大統領 だいとうりょう の正式 せいしき の承認 しょうにん を得 え るため、ポツダムに送 おく られたという[ 54] 。ここで「広島 ひろしま ・小倉 おぐら ・新潟 にいがた ・長崎 ながさき のいずれかの都市 とし に8月 がつ 3日 にち ごろ以降 いこう の目視 もくし 爆 ばく 撃 げき 可能 かのう な天候 てんこう の日 ひ に「特殊 とくしゅ 爆 ばく 弾 だん 」を投下 とうか する」とされた[ 48] [ 49] [ 52] 。これらの都市 とし は新旧 しんきゅう の首都 しゅと ではないし、軍事 ぐんじ 都市 とし ・あるいは戦略 せんりゃく 的 てき 軍事 ぐんじ 拠点 きょてん といえないこともないが、先 さき のトルーマンの考 かんが えとニュアンスがあるように思 おも えることについて、歴史 れきし 家 か のアレックス・ウェラースタインは、トルーマンがスチムソンと京都 きょうと を投下 とうか 対象 たいしょう から外 はず す話 はなし をしていく中 なか で、トルーマンは広島 ひろしま 等 とう を軍事 ぐんじ 基地 きち か何 なに かのように錯覚 さっかく した可能 かのう 性 せい があるとの説 せつ を唱 とな えている[ 55] 。
1945年 ねん 8月 がつ 2日 にち 、第 だい 20航空 こうくう 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ が「野戦 やせん 命令 めいれい 第 だい 13号 ごう 」を発令 はつれい し、8月 がつ 6日 にち に原子 げんし 爆 ばく 弾 だん による攻撃 こうげき を行 おこな うことが決定 けってい した。攻撃 こうげき の第 だい 1目標 もくひょう は「広島 ひろしま 市 し 中心 ちゅうしん 部 ぶ と工業 こうぎょう 地域 ちいき 」(照準 しょうじゅん 点 てん は相生橋 あいおいばし 付近 ふきん )、予備 よび の第 だい 2目標 もくひょう は「小倉 おぐら 造兵 ぞうへい 廠 しょう ならびに同市 どうし 中心 ちゅうしん 部 ぶ 」、予備 よび の第 だい 3目標 もくひょう は「長崎 ながさき 市 し 中心 ちゅうしん 部 ぶ 」であった[ 48] [ 49] 。
1945年 ねん 8月 がつ 6日 にち 、広島 ひろしま 市 し にウラニウム 型 かた 原子 げんし 爆 ばく 弾 だん リトルボーイ が投下 とうか された(広島 ひろしま 市 し への原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか )。
1945年 ねん 8月 がつ 8日 にち 、第 だい 20航空 こうくう 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ が「野戦 やせん 命令 めいれい 第 だい 17号 ごう 」を発令 はつれい し、8月 がつ 9日 にち に2回 かい 目 め の原子 げんし 爆 ばく 弾 だん による攻撃 こうげき を行 おこな うことが決定 けってい した。攻撃 こうげき の第 だい 1目標 もくひょう は「小倉 おぐら 造兵 ぞうへい 廠 しょう および市街地 しがいち 」、予備 よび の第 だい 2目標 もくひょう は「長崎 ながさき 市 し 街 まち 地 ち 」(照準 しょうじゅん 点 てん は中島 なかじま 川 がわ 下 しも 流域 りゅういき の常盤 ときわ 橋 きょう から賑 にぎわい 橋 きょう 付近 ふきん )であった[ 49] [ 56] 。
1945年 ねん 8月 がつ 9日 にち 、第 だい 1目標 もくひょう の小倉 こくら 市 し 上空 じょうくう が視界 しかい 不良 ふりょう であったため、第 だい 2目標 もくひょう である長崎 ながさき 市 し にプルトニウム 型 かた 原子 げんし 爆 ばく 弾 だん ファットマン が投下 とうか された(長崎 ながさき 市 し への原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか )。小倉 おぐら が視界 しかい 不良 ふりょう であった理由 りゆう には天候 てんこう 不良 ふりょう のほか、八幡 はちまん 大 だい 空襲 くうしゅう で生 しょう じた煙 けむり によるなどの説 せつ がある[ 57] 。
関連 かんれん :『原爆 げんばく 投下 とうか ・10秒 びょう の衝撃 しょうげき 』『黒 くろ い雨 あめ 』
模擬 もぎ 原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 「パンプキン」の投下 とうか 訓練 くんれん
編集 へんしゅう
1945年 ねん 7月 がつ 20日 にち 以降 いこう 、第 だい 509混成 こんせい 部隊 ぶたい は長崎 ながさき に投下 とうか する原子 げんし 爆 ばく 弾 だん (ファットマン)と同 どう 形状 けいじょう の爆 ばく 弾 だん に通常 つうじょう 爆薬 ばくやく を詰 つ めたパンプキン爆 ばく 弾 だん (総 そう 重量 じゅうりょう 4,774キログラム、爆薬 ばくやく 重量 じゅうりょう 2,858キログラム)の投下 とうか 訓練 くんれん を繰 く り返 かえ した[ 58] 。すなわち、原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の投下 とうか 予行 よこう 演習 えんしゅう である。テニアン島 とう から日本 にっぽん 列島 れっとう の原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか 目標 もくひょう 都市 とし まで飛行 ひこう して都市 とし を目視 もくし 観察 かんさつ した後 のち に、その周辺 しゅうへん の別 べつ な都市 とし に設定 せってい した訓練 くんれん 用 よう の目標 もくひょう 地点 ちてん に正確 せいかく にパンプキンを投下 とうか する練習 れんしゅう が延 の べ49回 かい 、30都市 とし で行 おこな われた。
パンプキン練習 れんしゅう 作戦 さくせん は、1945年 ねん 7月 がつ 24日 にち 、7月 がつ 26日 にち 、7月 がつ 29日 にち 、8月 がつ 8日 にち 及 およ び8月 がつ 14日 にち と終戦 しゅうせん 直前 ちょくぜん まで行 おこな われた。
原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の輸送 ゆそう とインディアナポリス撃沈 げきちん 事件 じけん
編集 へんしゅう
重 じゅう 巡洋艦 じゅんようかん インディアナポリス
パンプキン爆 ばく 弾 だん による訓練 くんれん に並行 へいこう して、完成 かんせい した原子 げんし 爆 ばく 弾 だん を部品 ぶひん に分 わ けての輸送 ゆそう が行 おこな われた。損傷 そんしょう の修理 しゅうり のために戦列 せんれつ を離 はな れていたアメリカ海軍 かいぐん のポートランド級 きゅう 重 じゅう 巡洋艦 じゅんようかん インディアナポリス は、原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 運搬 うんぱん の任務 にんむ を与 あた えられ1945年 ねん 7月 がつ 16日 にち にサンフランシスコ を出港 しゅっこう し、7月 がつ 28日 にち にテニアン島 とう に到着 とうちゃく した。また、アメリカ陸軍 りくぐん 航空 こうくう 隊 たい (現 げん ・アメリカ空軍 くうぐん )のダグラス C-54スカイマスター 輸送 ゆそう 機 き がウラン235のターゲットピースを空輸 くうゆ した。この原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の最終 さいしゅう 組立 くみたて は、テニアン島 とう の基地 きち ですべて極秘 ごくひ に行 おこな われた。
このインディアナポリスは、帰路 きろ の1945年 ねん 7月 がつ 30日 にち フィリピン海 うみ で、橋本 はしもと 以行海軍 かいぐん 中佐 ちゅうさ が指揮 しき する日本 にっぽん 海軍 かいぐん の伊 い 号 ごう 第 だい 五 ご 八 はち 潜水 せんすい 艦 かん の魚雷 ぎょらい によって撃沈 げきちん されている(インディアナポリス撃沈 げきちん 事件 じけん )。この潜水 せんすい 艦 かん は、当時 とうじ 、特攻 とっこう 兵器 へいき である人間 にんげん 魚雷 ぎょらい 回天 かいてん を搭載 とうさい しており、回天 かいてん 隊員 たいいん から出撃 しゅつげき 要求 ようきゅう が出 だ されたが、「雷撃 らいげき でやれる時 とき は雷撃 らいげき でやる」と通常 つうじょう 魚雷 ぎょらい で撃沈 げきちん した。インディアナポリスの遭難 そうなん 電報 でんぽう は無視 むし され、海 うみ に投 な げ出 だ された乗員 じょういん の多 おお くが疲労 ひろう ・低 てい 体温 たいおん 症 しょう ・サメ の襲撃 しゅうげき にあって死亡 しぼう した。そのため、原子 げんし 爆 ばく 弾 だん には「インディアナポリス乗員 じょういん の思 おも い出 で に」と白墨 はくぼく (チョーク)で記 しる された。インディアナポリス艦長 かんちょう チャールズ・バトラー・マクベイ3世 せい 大佐 たいさ はその後 ご 軍法 ぐんぽう 会議 かいぎ に処 しょ せられたが、自艦 じかん を戦闘 せんとう で沈 しず められたために処罰 しょばつ された艦長 かんちょう は珍 めずら しい。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、米 べい 軍 ぐん は原爆 げんばく 輸送 ゆそう の機密 きみつ 漏洩 ろうえい を疑 うたが い、橋本 はしもと 潜水 せんすい 艦長 かんちょう を長 なが く尋問 じんもん したが、その襲撃 しゅうげき は偶然 ぐうぜん であった。インディアナポリスがテニアン島 とう への往路 おうろ に撃沈 げきちん されていれば、1945年 ねん 8月 がつ 6日 にち の広島 ひろしま 市 し への原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか は不可能 ふかのう となっていた。
1945年 ねん 当時 とうじ 、大本営 だいほんえい と大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん 中央 ちゅうおう 特種 とくしゅ 情報 じょうほう 部 ぶ (特 とく 情 じょう 部 ぶ )は、サイパン島 とう 方面 ほうめん のB-29部隊 ぶたい について、主 おも に電波 でんぱ 傍受 ぼうじゅ によってその動向 どうこう を24時 じ 間 あいだ 体制 たいせい で監視 かんし していた。大本営 だいほんえい 陸軍 りくぐん 部 ぶ 第 だい 2部 ぶ 第 だい 6課 か (情報 じょうほう 部 ぶ 米 べい 英 えい 課 か )に所属 しょぞく していた堀 ほり 栄三 えいざ が後 のち に回想 かいそう したところによれば、第 だい 509混成 こんせい 部隊 ぶたい がテニアン島 とう に進出 しんしゅつ したことや、進出 しんしゅつ してきたB-29の中 なか の一 いち 機 き が飛行 ひこう 中 ちゅう に長文 ちょうぶん の電報 でんぽう をワシントンに向 む けて打電 だでん したこと(このようなことは通常 つうじょう 発生 はっせい しない)、それ以前 いぜん からサイパン方面 ほうめん に存在 そんざい していた他 ほか のB-29部隊 ぶたい が基本 きほん 的 てき にV400番台 ばんだい 、V500番台 ばんだい 、V700番台 ばんだい のコールサインを用 もち いていたのと異 こと なり、第 だい 509混成 こんせい 部隊 ぶたい がV600番台 ばんだい のコールサインを使用 しよう していたことから、東京 とうきょう 都 と 杉並 すぎなみ 区 く にあった陸軍 りくぐん 特殊 とくしゅ 情報 じょうほう 部 ぶ (現在 げんざい 、高井戸 たかいど にある社会 しゃかい 福祉 ふくし 法人 ほうじん 浴風会 よくふうかい 本館 ほんかん 内 ない )では新 しん 部隊 ぶたい の進出 しんしゅつ を察知 さっち していた[ 59] 。
その後 ご 1945年 ねん 6月 がつ 末 まつ ごろから、この「V600番台 ばんだい 」のB-29がテニアン島 とう 近海 きんかい を飛行 ひこう し始 はじ め、7月 がつ 中旬 ちゅうじゅん になると日本 にっぽん 近海 きんかい まで単機 たんき または2、3機 き の小 しょう 編隊 へんたい で進出 しんしゅつ しては帰投 きとう する行動 こうどう を繰 く り返 かえ すようになったことから、これらの機体 きたい を特 とく 情 じょう 部 ぶ では「特殊 とくしゅ 任務 にんむ 機 き 」と呼 よ び警戒 けいかい していた。しかし、これらのB-29が原爆 げんばく 投下 とうか 任務 にんむ のための部隊 ぶたい であったことは、原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか 後 ご のトルーマンの演説 えんぜつ によって判明 はんめい したとのことであり、「特殊 とくしゅ 任務 にんむ 機 き 」の目的 もくてき を事前 じぜん に察知 さっち することはできなかった[ 60] 。だが、事態 じたい が判明 はんめい した後 のち の長崎 ながさき 原爆 げんばく 投下 とうか を阻止 そし しようとしなかったのかについては不明 ふめい で、付近 ふきん に当時 とうじ 日本 にっぽん 軍 ぐん の最 さい 新鋭 しんえい 機 き の一 ひと つである紫電 しでん 改 あらため を装備 そうび した第 だい 三 さん 四 よん 三 さん 海軍 かいぐん 航空 こうくう 隊 たい が待機 たいき していたのに関 かか わらず、海軍 かいぐん が部隊 ぶたい に出撃 しゅつげき 命令 めいれい を下 くだ さなかったのかについては帝国 ていこく 陸軍 りくぐん 中央 ちゅうおう 特種 とくしゅ 情報 じょうほう 部 ぶ の高官 こうかん が情報 じょうほう を握 にぎ りつぶし、情報 じょうほう が海軍 かいぐん へ伝 つた えられなかったからだと当時 とうじ の関係 かんけい 者 しゃ はインタビュー[要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] で答 こた えている[要 よう 出典 しゅってん ] [ 注 ちゅう 4] 。
そもそも、日本 にっぽん 軍 ぐん は当時 とうじ 日本 にっぽん でも原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 開発 かいはつ が行 おこな われていたにもかかわらず、同盟 どうめい 国 こく のドイツやイタリア から亡命 ぼうめい してきた科学 かがく 者 しゃ たちによるアメリカにおける原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 開発 かいはつ の進捗 しんちょく 状 じょう 況 きょう をほとんど把握 はあく しておらず、およそ特 とく 情 じょう 部 ぶ においては1945年 ねん 「7月 がつ 16日 にち ニューメキシコ州 しゅう で新 あたら しい実験 じっけん が行 おこな われた」との外国 がいこく 通信 つうしん 社 しゃ の記事 きじ が目 め についたのみであった[ 61] 。
もちろん、これはトリニティ実験 じっけん を指 さ した報道 ほうどう であったのであるが、実験 じっけん 直後 ちょくご の時点 じてん ではその内容 ないよう は公開 こうかい されておらず、当時 とうじ の日本 にっぽん 軍 ぐん にその内容 ないよう を知 し る術 じゅつ はなかった。それを踏 ふ まえ、堀 ほり は「原爆 げんばく という語 かたり は、その当時 とうじ かけらほどもなかった」と語 かた っている。また、特 とく 情 じょう 部 ぶ では、当時 とうじ スウェーデン の日本 にっぽん 大使館 たいしかん に勤務 きんむ していた駐在 ちゅうざい 武官 ぶかん を通 つう じて経由 けいゆ して入手 にゅうしゅ したアメリカ海軍 かいぐん のM-209暗号 あんごう 装置 そうち を用 もち いた暗号 あんごう 解読 かいどく も進 すす めていたが、この暗号 あんごう 解読 かいどく 作業 さぎょう において「nuclear」(原子核 げんしかく )の文字 もじ 列 れつ が現 あらわ れたのが、広島 ひろしま と長崎 ながさき に原子 げんし 爆 ばく 弾 だん が投下 とうか された直後 ちょくご の8月 がつ 11日 にち [ 62] のことであった。
当初 とうしょ は、軍部 ぐんぶ は新 しん 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか に関 かん する情報 じょうほう を国民 こくみん に伏 ふ せていた。やがて、軍部 ぐんぶ は報道 ほうどう 統制 とうせい を徐々 じょじょ に解除 かいじょ 、広島 ひろしま に新型 しんがた 爆 ばく 弾 だん が投下 とうか されたことが7日 にち 付 づ け大本営 だいほんえい 発表 はっぴょう として新聞 しんぶん 紙上 しじょう では8日 にち に報道 ほうどう される。報知 ほうち 新聞 しんぶん が10日 とおか にウラン核 かく 爆発 ばくはつ の威力 いりょく についての説明 せつめい 記事 きじ を囲 かこ み記事 きじ のような形 かたち で載 の せ、朝日新聞 あさひしんぶん が11日 にち にはトルーマン演説 えんぜつ の報道 ほうどう の中 なか で原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の言葉 ことば を載 の せている。この11日 にち には長崎 ながさき にも新型 しんがた 爆 ばく 弾 だん が9日 にち に落 おと されたことが新聞 しんぶん で報 ほう じられ始 はじ める。11日 にち から12日 にち にかけて日本 にっぽん の新聞 しんぶん 各紙 かくし は広島 ひろしま に特派 とくは 員 いん を派遣 はけん し、広島 ひろしま を全滅 ぜんめつ させた新型 しんがた 爆 ばく 弾 だん の正体 しょうたい が(当時 とうじ は、政府 せいふ や記者 きしゃ らにとっても断定 だんてい できるものではなかった為 ため に)原爆 げんばく の可能 かのう 性 せい があることを読者 どくしゃ に明 あ かした上 うえ で、被害 ひがい もかなりのものであることが報道 ほうどう されるようになっていく。(なお、被災 ひさい 後 ご の広島 ひろしま の写真 しゃしん が新聞 しんぶん に載 の るのは8月 がつ 19日 にち からである。)これによって、当時 とうじ 自国 じこく でも開発 かいはつ が進 すす められていたもののその詳細 しょうさい は機密 きみつ 扱 あつか いであったこともあり、一般 いっぱん にはSF小説 しょうせつ 、科学 かがく 雑誌 ざっし などで「近 きん 未来 みらい の架空 かくう 兵器 へいき 」と紹介 しょうかい されていた原爆 げんばく が発明 はつめい され、日本 にっぽん が攻撃 こうげき を受 う けたことを日本 にっぽん 国民 こくみん は初 はじ めて知 し ったのである[ 注 ちゅう 5] 。
なお、この原爆 げんばく 報道 ほうどう によって、新潟 にいがた 県 けん は8月 がつ 11日 にち に新潟 にいがた 市民 しみん に対 たい して「原爆 げんばく 疎開 そかい 」命令 めいれい [2] を出 だ し、大半 たいはん の市民 しみん が新潟 にいがた 市 し から脱出 だっしゅつ し新潟 にいがた 市 し は無人 むじん 都市 とし になった。その情報 じょうほう は8月 がつ 13日 にち 付 づけ の讀賣 よみうり 報知 ほうち (現 げん ・読売新聞 よみうりしんぶん )に記載 きさい された[ 64] 。これは新潟 にいがた 市 し も原爆 げんばく 投下 とうか の目標 もくひょう リストに入 はい っているらしいという情報 じょうほう が流 なが れたからである。原爆 げんばく 疎開 そかい が行 おこな われた都市 とし は新潟 にいがた 市 し だけであった。
また東京 とうきょう でも、8月 がつ 11日 にち と12日 にち に単機 たんき 飛来 ひらい してきたB-29が原爆 げんばく に関 かん する伝単 でんたん 「マリアナ時報 じほう 」を撒 ま き、「マリアナ時報 じほう 」を読 よ んだ市民 しみん の間 あいだ で「まもなく原爆 げんばく が投下 とうか される」という噂 うわさ が立 た ち、警戒 けいかい 警報 けいほう 発令 はつれい の度 たび に白 しろ いシーツをかぶって防空壕 ぼうくうごう に入 はい る市民 しみん の姿 すがた が見 み られた。特 とく に8月 がつ 11日 にち は、8月 がつ 8日 にち の空襲 くうしゅう で捕虜 ほりょ にした第 だい 7空軍 くうぐん の搭乗 とうじょう 員 いん による「8月 がつ 12日 にち ごろに東京 とうきょう に原爆 げんばく が投下 とうか される」との偽 にせ の証言 しょうげん を大本営 だいほんえい や陸軍 りくぐん 特殊 とくしゅ 情報 じょうほう 部 ぶ 、海軍 かいぐん 大和田 おおわだ 通信 つうしん 所 しょ が真 しん に受 う けて警戒 けいかい レベルを高 たか めた結果 けっか 、11日 にち 正午 しょうご ごろに単機 たんき で飛来 ひらい してきた偵察 ていさつ 侵入 しんにゅう してきたB-29を「原爆 げんばく 搭載 とうさい 機 き 」、味方 みかた の高射 こうしゃ 砲 ほう の閃光 せんこう を「原爆 げんばく の閃光 せんこう 」と勘違 かんちが いする始末 しまつ であったが、それでも飛来 ひらい したB-29を「原爆 げんばく 搭載 とうさい 機 き の可能 かのう 性 せい がある」との放送 ほうそう を行 おこな った。中央 ちゅうおう 気象台 きしょうだい でも同 おな じ11日 にち の14時半 じはん ごろに再 ふたた び単機 たんき のB-29が飛来 ひらい してきた際 さい に閃光 せんこう を確認 かくにん したので職員 しょくいん が防空壕 ぼうくうごう に逃 に げ込 こ んだが、それは13時 じ ごろから降 ふ っていた雷雨 らいう による稲光 いねみつ を「原爆 げんばく の閃光 せんこう 」と誤認 ごにん したものであった。「東京 とうきょう への原爆 げんばく 」の情報 じょうほう はついには皇室 こうしつ の耳 みみ にも入 はい り、岡部 おかべ 長 ちょう 章 あきら 侍従 じじゅう は昭和 しょうわ 天皇 てんのう を大本営 だいほんえい 付属 ふぞく 室 しつ に退避 たいひ させる判断 はんだん をして御 ご 文庫 ぶんこ にいた天皇 てんのう に原爆 げんばく の威力 いりょく に関 かん するデータを奏上 そうじょう したうえで退避 たいひ を勧 すす めて天皇 てんのう 、皇后 こうごう とともに付属 ふぞく 室 しつ に誘導 ゆうどう したが、付属 ふぞく 室 しつ で岡部 おかべ は天皇 てんのう から原爆 げんばく に関 かん して「初 はじ めて聞 き くのだよ」「(原爆 げんばく の事 こと を)武官 ぶかん 長 ちょう に伝 つた えてくれ」などと言 い われ、岡部 おかべ は「軍 ぐん は天皇 てんのう に原爆 げんばく の正確 せいかく な情報 じょうほう を伝 つた えていないのではないか」と疑念 ぎねん を抱 いだ くようになったという。
1945年 ねん 8月 がつ 15日 にち 終戦 しゅうせん の日 ひ の午前 ごぜん のラジオ 放送 ほうそう で、仁科 にしな 芳雄 よしお 博士 はかせ は原爆 げんばく の解説 かいせつ を行 おこな った。さらに8月 がつ 15日 にち 正午 しょうご 、戦争 せんそう の終結 しゅうけつ を日本 にっぽん 国民 こくみん に告 つ げるために行 おこな われたラジオ放送 ほうそう (玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう )で、原爆 げんばく について「敵 てき ハ新 しん ニ残虐 ざんぎゃく ナル爆 ばく 彈 だん ヲ使用 しよう シテ無辜 むこ ヲ殺傷 さっしょう シ惨害 さんがい ノ及フ所 しょ 眞 ま ニ測 はか ルヘカラサルニ至 いたり ル(敵 てき は新 あら たに残虐 ざんぎゃく な爆 ばく 弾 だん を使用 しよう して、罪 つみ もない者 もの たちを殺傷 さっしょう し、悲惨 ひさん な損害 そんがい の程度 ていど は見当 けんとう もつけられないまでに至 いた った)而モ尚 なお 交戰 こうせん ヲ繼續 けいぞく セムカ終 おわり ニ我 わが カ民族 みんぞく ノ滅亡 めつぼう ヲ招來 しょうらい スルノミナラス延 のべ テ人類 じんるい ノ文明 ぶんめい ヲモ破 やぶ 却スヘシ(それなのになお戦争 せんそう を継続 けいぞく すれば、ついには我 わ が民族 みんぞく の滅亡 めつぼう を招 まね くだけでなく、さらには人類 じんるい の文明 ぶんめい をも破滅 はめつ させるに違 ちが いない。)」と詔 みことのり があった(第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう 、日本 にっぽん の軍部 ぐんぶ にも二 ふた つの原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 開発 かいはつ 計画 けいかく が存在 そんざい していた。陸軍 りくぐん の「ニ号 ごう 研究 けんきゅう 」と海軍 かいぐん のF研究 けんきゅう である)。
正確 せいかく な犠牲 ぎせい 者 しゃ 数 すう などは、連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (GHQ / SCAP) 占領 せんりょう 下 か では言論 げんろん 統制 とうせい され、サンフランシスコ講和 こうわ 条約 じょうやく 発効 はっこう で日本 にっぽん が主権 しゅけん を回復 かいふく した1952年 ねん に初 はじ めて報道 ほうどう された。
原子 げんし 爆 ばく 弾 だん が広島 ひろしま ・長崎 ながさき に投下 とうか された後 のち 、日本 にっぽん の報道 ほうどう 機関 きかん は号外 ごうがい を出 だ し、原子 げんし 爆 ばく 弾 だん への対策 たいさく とその心得 こころえ を国民 こくみん へ伝達 でんたつ している[ 69] 。
東京 とうきょう 朝日新聞 あさひしんぶん 昭和 しょうわ 二 に 十 じゅう 年 ねん 八 はち 月 がつ 十 じゅう 一 いち 日 にち 付 づけ 特報 とくほう (送 おく り仮名 がな 等 とう は実際 じっさい に掲載 けいさい されたものに則 のっと っている)
新型 しんがた 爆 ばく 彈 だん への心得 こころえ 防空 ぼうくう 總本部 そうほんぶ 發表 はっぴょう
橫穴 よこあな 式 しき 防空壕 ぼうくうごう が有效 ゆうこう 初期 しょき 防火 ぼうか ・火傷 かしょう に注意 ちゅうい
國際 こくさい 法 ほう を無視 むし した廣島 ひろしま の新型 しんがた 爆 ばく 彈 だん を、現地 げんち に出張 しゅっちょう 、視察 しさつ した陸海 りくかい 軍 ぐん および防空 ぼうくう 總本部 そうほんぶ の專門 せんもん 家 か の調査 ちょうさ に基 もとづ いて新型 しんがた 爆 ばく 彈 だん に對 たい する心得 こころえ を防空 ぼうくう 總本部 そうほんぶ から十 じゅう 一 いち 日 にち 發表 はっぴょう した、なほさきに二 に 回 かい にわたつて發表 はっぴょう された注意 ちゅうい は有效 ゆうこう であるから今回 こんかい の左記 さき 注意 ちゅうい を追加 ついか すれば一層 いっそう 完璧 かんぺき である
一 いち 、落下傘 らっかさん やうのものが降下 こうか するから目撃 もくげき したら確實 かくじつ に待避 たいひ すること
二 に 、鐵筋 てっきん コンクリート造 づく りの建物 たてもの は安全 あんぜん 度 ど が高 たか いからこれを有效 ゆうこう に利用 りよう すること しかし窓 まど ガラスは破壞 はかい するからこれがための負傷 ふしょう を注意 ちゅうい すること、壁 かべ 、柱 はしら 型 がた 、窓 まど 下 か 、腰 こし 壁 かべ を待避 たいひ 所 しょ とすると有效 ゆうこう である
三 さん 、破壞 はかい された建物 たてもの から火 ひ を發 はっ するから初期 しょき 防火 ぼうか に注意 ちゅうい すること
四 よん 、傷害 しょうがい は爆風 ばくふう によるものと火傷 かしょう であるがそのうちでも火傷 かしょう が多 おお いから火傷 かしょう の手當 てあて を心得 こころえ えておくこと、もつとも簡單 かんたん な火傷 かしょう の手當 てあて 法 ほう は油 あぶら 類 るい を塗 ぬ るか鹽水 えんすい で濕布 しっぷ をするがよい
五 ご 、横穴 よこあな 式 しき 防空壕 ぼうくうごう は堅固 けんご な待避 たいひ 壕 ごう と同樣 どうよう に有效 ゆうこう である
六 ろく 、白 しろ い衣類 いるい は火傷 かしょう を防 ふせ ぐために有效 ゆうこう である(但 ただ し白 しろ い着衣 ちゃくい は小型 こがた 機 き の場合 ばあい は目標 もくひょう となり易 やす い、よく注意 ちゅうい のこと)
七 なな 、待避 たいひ 壕 ごう の入口 いりくち は出來 でき るだけふさぐのがよろしい
八 はち 、
蛸 だこ 壺 つぼ 式 しき 防空壕 ぼうくうごう は
板 いた 一 いち 枚 まい でもしておくと
有效 ゆうこう である
第 だい 3発 はつ 目 め 以降 いこう の原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか 準備 じゅんび
編集 へんしゅう
8月 がつ 10日 とおか 、ハリー・トルーマン 大統領 だいとうりょう は日本 にっぽん 降伏 ごうぶく が近 ちか づいているという情勢 じょうせい 判断 はんだん により、一連 いちれん の原爆 げんばく 投下 とうか 計画 けいかく の一旦 いったん 停止 ていし を命 めい じたものの[ 70] 、終戦 しゅうせん 直前 ちょくぜん 、アメリカは出来 でき る限 かぎ りいくつかの原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の製造 せいぞう を順次 じゅんじ 進 すす めており、長崎 ながさき への原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか 後 ご も、第 だい 3発 はつ 目 め 以降 いこう の原爆 げんばく を落 お とす準備 じゅんび に入 にゅう ろうとしていた。8月19日 にち に3発 はつ 目 め 、9月に第 だい 4、5発 はつ 目 め 、10月に第 だい 6~8発 はつ 目 め の投下 とうか を可能 かのう としており、さらに本土 ほんど 上陸 じょうりく 侵攻 しんこう 前 まえ にまとめて投下 とうか することも検討 けんとう されていた[ 70] 。
8月 がつ 15日 にち に日本 にっぽん が降伏 ごうぶく を表明 ひょうめい するわずか数時間 すうじかん 前 まえ (米国 べいこく 時間 じかん 14日 にち )、トルーマンは英国 えいこく 外交 がいこう 官 かん を前 まえ に「第 だい 三 さん の原爆 げんばく 投下 とうか を命令 めいれい する以外 いがい に選択肢 せんたくし はない」と漏 も らしていたが、日本 にっぽん が降伏 ごうぶく したことで第 だい 3発 はつ 目 め 以降 いこう の原子 げんし 爆 ばく 弾 だん が日本 にっぽん に投下 とうか されることはなかった[ 71] 。
仮 かり に第 だい 3発 はつ 目 め の原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の投下 とうか 命令 めいれい が下 くだ った際 さい 、その候補 こうほ 地 ち は小倉 こくら 市 し 、京都 きょうと 市 し 、新潟 にいがた 市 し など諸説 しょせつ あるが、1945年 ねん 8月 がつ 14日 にち に愛知 あいち 県 けん で行 おこな われた7発 はつ のパンプキン爆 ばく 弾 だん の投下 とうか は、3発 はつ 目 め の原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の投下 とうか 訓練 くんれん であったとされ、いずれも爆 ばく 撃 げき 機 き が京都 きょうと 上空 じょうくう を経由 けいゆ した後 のち に愛知 あいち 県 けん に投下 とうか していることから、第 だい 三 さん の原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の標的 ひょうてき は京都 きょうと 市 し であったと考 かんが えられる理由 りゆう の一 ひと つとなっている[ 48] 。また、プルトニウムコアの輸送 ゆそう が遂行 すいこう されて原爆 げんばく を完成 かんせい させた後 のち 、8月 がつ 19日 にち か20日 はつか に東京 とうきょう に投下 とうか する予定 よてい であったという情報 じょうほう もある[ 72] 。2003年 ねん のテレビ朝日 てれびあさひ の「ザ・スクープ 」による取材 しゅざい 報道 ほうどう では、8月 がつ 17日 にち に東京 とうきょう に投下 とうか 予定 よてい だったとしている[ 73] 。
また前述 ぜんじゅつ のように広島 ひろしま 市 し ・長崎 ながさき 市 し に投下 とうか された新型 しんがた 爆 ばく 弾 だん が、新潟 にいがた 市 し にも落 お とされるとの畠田 はただ 昌福 まさとみ 新潟 にいがた 県知事 けんちじ の見解 けんかい により、「罪 つみ の無 な い市民 しみん を皆殺 みなごろ しにしようとする敵 てき の作戦 さくせん に肩透 かたす かしをくらわせる」と述 の べた上 うえ で、新潟 にいがた 市 し の中心 ちゅうしん から5里 り (約 やく 20キロメートル)以上 いじょう 疎開 そかい することを求 もと めた布告 ふこく を8月 がつ 11日 にち に出 だ したため、新潟 にいがた 市 し の中心 ちゅうしん 部 ぶ が終戦 しゅうせん 直後 ちょくご まで無人 むじん 状態 じょうたい になった。ただ、新潟 にいがた への投下 とうか については出撃 しゅつげき 基地 きち のテニアン島 とう から遠 とお い上 うえ 、目標 もくひょう の都市 とし 規模 きぼ が小 ちい さすぎること等 とう から、8月 がつ 6日 にち 、8月 がつ 9日 にち 共 とも に予備 よび 投下 とうか 目標 もくひょう にすら選 えら ばれなかったという[ 74] [ 75] 。
広島 ひろしま 平和 へいわ 記念 きねん 公園 こうえん の慰霊 いれい 碑 ひ にある「過 あやま ちは繰 く り返 かえ しませんから」の「主語 しゅご 問題 もんだい 」(誰 だれ が過 あやま ちを繰 く り返 かえ さないのか?)や、昭和 しょうわ 天皇 てんのう による「原爆 げんばく はやむを得 え ない」発言 はつげん (後述 こうじゅつ )[ 102] 、元 もと 長崎 ながさき 市長 しちょう 本島 もとじま 等 ひとし の「日本 にっぽん 軍 ぐん が起 お こした戦争 せんそう に対 たい する当然 とうぜん の報 むく い」発言 はつげん [ 103] 、元 もと 防衛 ぼうえい 相 しょう の久間 くま 章生 あきお による「原爆 げんばく はしょうがない」発言 はつげん [ 104] など枚挙 まいきょ [要 よう 説明 せつめい ] にいとまがなく、被爆 ひばく 者 しゃ やその遺族 いぞく ・家族 かぞく 団体 だんたい などからの批判 ひはん や、抗議 こうぎ 行動 こうどう [ 注 ちゅう 7] が絶 た えない。なお、湾岸 わんがん 戦争 せんそう 以降 いこう にアメリカ軍 ぐん などが使用 しよう している劣化 れっか ウラン弾 だん については、その放射能 ほうしゃのう による被害 ひがい があるとして、原水禁 げんすいきん などの団体 だんたい が抗議 こうぎ を行 おこな っている[ 注 ちゅう 8] 。キリスト教徒 きりすときょうと で社会 しゃかい 学 がく 者 もの の橋爪 はしづめ 大 だい 三郎 さぶろう は、キリスト教 きょう 圏 けん では広島 ひろしま と長崎 ながさき の原爆 げんばく からソドムとゴモラ の滅亡 めつぼう が連想 れんそう されるものであると言 い っている[ 106] [ 注 ちゅう 9] 。
1975年 ねん 10月31日 にち 、昭和 しょうわ 天皇 てんのう は訪米 ほうべい から帰国 きこく した際 さい に行 おこな われた日本 にっぽん 記者 きしゃ クラブ主催 しゅさい の記者 きしゃ 会見 かいけん で、記者 きしゃ からの質問 しつもん に対 たい し、次 つぎ のように返答 へんとう した[ 108] [ 109] 。
[問 と い] 陛下 へいか は、ホワイトハウス の晩餐 ばんさん 会 かい の席上 せきじょう 、「私 わたし が深 ふか く悲 かな しみとするあの戦争 せんそう 」というご発言 はつげん をなさいましたが、このことは、陛下 へいか が、開戦 かいせん を含 ふく めて、戦争 せんそう そのものに対 たい して責任 せきにん を感 かん じておられるという意味 いみ ですか? また陛下 へいか は、いわゆる戦争 せんそう 責任 せきにん について、どのようにお考 かんが えになっておられますか?(ザ・タイムズ 記者 きしゃ )
[天皇 てんのう ] そういう言葉 ことば のアヤについては、私 わたし はそういう文学 ぶんがく 方面 ほうめん はあまり研究 けんきゅう していないので、よくわかりませんから、そういう問題 もんだい についてはお答 こた えできかねます。
[問 と い] 戦争 せんそう 終結 しゅうけつ にあたって、広島 ひろしま に原爆 げんばく が投下 とうか されたことを、どのように受 う けとめられましたか? (中国放送 ちゅうごくほうそう 記者 きしゃ 秋 あき 信 しん 利彦 としひこ )
[天皇 てんのう ] 原子 げんし 爆 ばく 弾 だん が投下 とうか されたことに対 たい しては遺憾 いかん に思 おも っておりますが、こういう戦争 せんそう 中 ちゅう であることですから、どうも、広島 ひろしま 市民 しみん に対 たい しては気 き の毒 どく であるが、やむを得 え ないことと私 わたし は思 おも っております。
この中 なか で、原爆 げんばく 投下 とうか に対 たい する所感 しょかん 質問 しつもん について、昭和 しょうわ 天皇 てんのう は広島 ひろしま 市民 しみん を気 き の毒 どく だと述 の べて遺憾 いかん の意 い を表明 ひょうめい しつつ、「戦争 せんそう 中 ちゅう のことだからやむを得 え ないこと」と述 の べており、被爆 ひばく 者 しゃ 団体 だんたい など[要 よう 出典 しゅってん ] が抗議 こうぎ する事態 じたい になった。特 とく に、広島 ひろしま 県 けん 被団協 ひだんきょう の森滝 もりたき 市郎 いちろう が宮内庁 くないちょう へ抗議 こうぎ 文 ぶん を出 だ した[要 よう 出典 しゅってん ] 時 とき には、宇佐美 うさみ 毅 あつし 宮内庁 くないちょう 長官 ちょうかん が発言 はつげん の補足 ほそく として、『天皇 てんのう が原爆 げんばく 投下 とうか を肯定 こうてい する意味 いみ あいのご発言 はつげん ではない。ご自身 じしん としてはそれを止 と めることが出来 でき なかったことを遺憾 いかん に思 おも われて、「やむを得 え なかった 」のお言葉 ことば になったと思 おも う。第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん の犠牲 ぎせい となった人々 ひとびと 、今 いま なお原爆 げんばく の災禍 さいか に苦 くる しむ広島 ひろしま 、長崎 ながさき 両 りょう 市民 しみん に心 しん を砕 くだ かれておられる両 りょう 陛下 へいか のご真情 しんじょう を理解 りかい してほしい』と回答 かいとう した[ 110] [ 注 ちゅう 10] 。
昭和 しょうわ 天皇 てんのう の発言 はつげん を擁護 ようご する意見 いけん もある。漫画 まんが 家 か の小林 こばやし よしのり の『昭和 しょうわ 天皇 てんのう 論 ろん 』ではこの発言 はつげん に触 ふ れ、アメリカから帰国 きこく したばかりで、日米 にちべい 関係 かんけい が良好 りょうこう だったことが背景 はいけい にあり、また昭和 しょうわ 天皇 てんのう の発言 はつげん は、久間 くま 章生 あきお の「原爆 げんばく によって北海道 ほっかいどう は占領 せんりょう されずに済 す んだ」「私 わたし はアメリカを恨 うら むつもりはない」という感謝 かんしゃ するような発言 はつげん はしていないことから、天皇 てんのう と久間 くま の発言 はつげん の違 ちが いを説明 せつめい している。また昭和 しょうわ 天皇 てんのう の発言 はつげん は生 なま 中継 ちゅうけい の記者 きしゃ 会見 かいけん で急 きゅう に聞 き かれた質問 しつもん であるのに対 たい し、久間 くま の発言 はつげん は講演 こうえん による自発 じはつ 的 てき な発言 はつげん である。
反 はん 天皇 てんのう 制 せい 論者 ろんしゃ である栗原 くりはら 貞子 さだこ は「終戦 しゅうせん の詔書 しょうしょ に見 み られる原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の残虐 ざんぎゃく 性 せい への非難 ひなん は消 き え失 う せ、原爆 げんばく 投下 とうか の容認 ようにん となっているのは、単 たん に三 さん 十 じゅう 年 ねん による風化 ふうか を意味 いみ するもの」「天皇 てんのう が原爆 げんばく 投下 とうか を肯定 こうてい している」[ 111] と述 の べたが、「日本 にっぽん 会議 かいぎ 広島 ひろしま 」公式 こうしき サイトでは天皇 てんのう と広島 ひろしま との関係 かんけい を扱 あつか っており(日本 にっぽん 会議 かいぎ 広島 ひろしま :天皇陛下 てんのうへいか と広島 ひろしま )、1975年 ねん の失言 しつげん を取 と り上 あ げているが、終戦 しゅうせん の詔書 しょうしょ の「新 しん ニ残虐 ざんぎゃく ナル爆 ばく 弾 だん ヲ使用 しよう シテ頻 しき ニ無辜 むこ ヲ殺傷 さっしょう シ惨害 さんがい ノ及フ所 しょ 」と言 い った発言 はつげん から決 けっ して原爆 げんばく を容認 ようにん していたわけでないと述 の べている。原爆 げんばく 投下 とうか 後 ご に早速 さっそく 日本 にっぽん 政府 せいふ はスイス 政府 せいふ を通 つう じて原爆 げんばく 投下 とうか に対 たい する抗議 こうぎ 文 ぶん を送 おく り、『ヒロシマ平和 へいわ メディア 』の「過去 かこ の広島 ひろしま 新聞 しんぶん から」には、実際 じっさい 1945年 ねん に昭和 しょうわ 天皇 てんのう が広島 ひろしま 、長崎 ながさき 市 し に侍従 じじゅう を真 ま っ先 さき に派遣 はけん して惨状 さんじょう を視察 しさつ し救護 きゅうご 関係 かんけい 者 しゃ を激励 げきれい するよう指示 しじ しており、1971年 ねん に「原爆 げんばく にあった被爆 ひばく 患者 かんじゃ には、今後 こんご も援助 えんじょ 、援護 えんご の手 て をさしのべるよう一 いち 層 そう の努力 どりょく をするように」と述 の べ、さらに原爆 げんばく 慰霊 いれい 碑 ひ や原爆 げんばく 病院 びょういん に訪問 ほうもん 、1974年 ねん には昭和 しょうわ 天皇 てんのう が秋 あき の園遊会 えんゆうかい で重 じゅう 藤 ふじ 文夫 ふみお 広島 ひろしま 原爆 げんばく 病院 びょういん 長 ちょう に伝言 でんごん し「患者 かんじゃ の方々 かたがた によろしく伝 つた えて下 くだ さい」と激励 げきれい したことが掲載 けいさい されている。天皇 てんのう 制 せい 廃止 はいし 論 ろん 者 もの であり、昭和 しょうわ 天皇 てんのう を激 はげ しく批判 ひはん している漫画 まんが 家 か の中沢 なかざわ 啓 あきら 治 ち は『「はだしのゲン」への手紙 てがみ 』でこの発言 はつげん に対 たい して激 はげ しく批判 ひはん しておらず、「被爆 ひばく 者 しゃ に土下座 どげざ して謝 あやま ってほしかった」と述 の べており、中沢 なかざわ は他 た の著書 ちょしょ でもこのことを批判 ひはん したりしていない。
1955年 ねん (昭和 しょうわ 30年 ねん )年 ねん 4月 がつ 、広島 ひろしま の下田 しもだ 隆一 りゅういち ら3名 めい が国 くに を相手 あいて として、東京 とうきょう 地裁 ちさい に損害 そんがい 賠償 ばいしょう とアメリカの原爆 げんばく 投下 とうか を国際 こくさい 法 ほう 違反 いはん とすることを求 もと めて訴訟 そしょう を提起 ていき した。東京 とうきょう 地方裁判所 ちほうさいばんしょ は、1963年 ねん (昭和 しょうわ 38年 ねん )12月7日 にち 、「広島 ひろしま 、長崎 ながさき 両市 りょうし に対 たい する原子 げんし 爆 ばく 弾 だん による爆 ばく 撃 げき は、無 む 防 ぼう 守 もり 都市 とし に対 たい する無差別 むさべつ 爆 ばく 撃 げき として、当時 とうじ の国際 こくさい 法 ほう から見 み て、違法 いほう な戦闘 せんとう 行為 こうい であると解 げ するのが相当 そうとう である」、「原子 げんし 爆 ばく 弾 だん のもたらす苦痛 くつう は、毒 どく 、毒 どく ガス以上 いじょう のものといっても過言 かごん ではなく、このような残虐 ざんぎゃく な爆 ばく 弾 だん を投下 とうか した行為 こうい は、不 ふ 必要 ひつよう な苦痛 くつう を与 あた えてはならないという戦争 せんそう 法 ほう の基本 きほん 原則 げんそく に違反 いはん しているということができよう」、「国家 こっか は自 みずか らの権限 けんげん と責任 せきにん において開始 かいし した戦争 せんそう により、多 おお くの人々 ひとびと を死 し に導 みちび き、障害 しょうがい を負 お わせ、不安 ふあん な生活 せいかつ に追 お い込 こ んだのである。しかもその被害 ひがい の甚大 じんだい なことは、とうてい一般 いっぱん 戦災 せんさい 者 しゃ の比 ひ ではない。被告 ひこく がこれに鑑 かんが み十分 じゅうぶん な救済 きゅうさい 策 さく を執 と るべきことは、多言 たげん を要 よう しないであろう。それは立法府 りっぽうふ 及 およ び内閣 ないかく の責務 せきむ である。本 ほん 訴訟 そしょう をみるにつけ、政治 せいじ の貧困 ひんこん を嘆 なげ かずにはおられない」とし、米 べい 軍 ぐん の広島 ひろしま ・長崎 ながさき への原爆 げんばく 投下 とうか は、国際 こくさい 法 ほう に違反 いはん すると判決 はんけつ した[ 112] [ 113] 。
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(2012年 ねん 9月 がつ )
客観 きゃっかん 的 てき な世論 せろん 調査 ちょうさ などによる、大衆 たいしゅう 認識 にんしき の実態 じったい を知 し ることのできる資料 しりょう は乏 とぼ しい。しかし当時 とうじ の関係 かんけい 者 しゃ など(広島 ひろしま 原爆 げんばく 投下 とうか 作戦 さくせん 実行 じっこう 者 しゃ など)は、60年 ねん 経過 けいか 後 ご のインタビューでも、広島 ひろしま 、長崎 ながさき への原爆 げんばく 投下 とうか を「日本 にっぽん に無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく を促 うなが すために行 い った」との認識 にんしき を示 しめ している[ 114] 。しかし一方 いっぽう で今日 きょう 、核兵器 かくへいき 所有 しょゆう 国 こく が増加 ぞうか し、アメリカ同時 どうじ 多発 たはつ テロ事件 じけん 以降 いこう 、国家 こっか ではなくテロリスト による核兵器 かくへいき 使用 しよう の脅威 きょうい の見地 けんち から派生 はせい して、米国 べいこく 政府 せいふ 内 ない でも賛否 さんぴ 両論 りょうろん となり、米国 べいこく 政府 せいふ 要人 ようじん の平和 へいわ 祈念 きねん 公園 こうえん 訪問 ほうもん もされるようになった[ 115] 。Wikipedia英語 えいご 版 ばん では賛成 さんせい 派 は と反対 はんたい 派 は の論争 ろんそう なども見受 みう けられる(各論 かくろん のディベートはen:Debate over the atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki 参照 さんしょう )。しかし、2024年 ねん には依然 いぜん として原爆 げんばく 投下 とうか 肯定 こうてい 論 ろん が米国 べいこく 政府 せいふ 見解 けんかい であり、大勢 おおぜい を占 し める[ 116] [ 117] 。
終戦 しゅうせん 直後 ちょくご はGHQの検閲 けんえつ があり、『原爆 げんばく 体験 たいけん 記 き 』を出版 しゅっぱん する時 とき に原爆 げんばく 文学 ぶんがく や原爆 げんばく 記録 きろく に対 たい するアメリカ占領 せんりょう 軍 ぐん による検閲 けんえつ 、発禁 はっきん が歴然 れきぜん とあった[ 118] 。
元 もと 陸軍 りくぐん 長官 ちょうかん のスティムソンが「ハーパーズ・マガジン」194号 ごう (1947年 ねん 2月刊 げっかん )に投稿 とうこう した論文 ろんぶん では、日本 にっぽん 本土 ほんど への上陸 じょうりく 作戦 さくせん 「ダウンフォール作戦 さくせん 」による米兵 べいへい の新 あら たな犠牲 ぎせい は100万 まん 人 にん と推定 すいてい され、戦争 せんそう の早期 そうき 終結 しゅうけつ のために原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の使用 しよう は有効 ゆうこう であったとの説明 せつめい がなされており、この論文 ろんぶん は原爆 げんばく 投下 とうか を妥当 だとう であったとするアメリカ政府 せいふ の公式 こうしき 解釈 かいしゃく を形成 けいせい する上 じょう で重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たしている[ 119] 。しかし、スティムソンの見解 けんかい はスタンフォード大学 だいがく のバートン・バーンスタイン によって、厳 きび しく批判 ひはん されている[ 119] 。バーンスタインはまた、原爆 げんばく 投下 とうか の目的 もくてき が「一般 いっぱん 市民 しみん への殺戮 さつりく 」[ 120] かつ、「日本 にっぽん への懲罰 ちょうばつ 」[ 121] [ 注 ちゅう 11] であることを明 あき らかにしている。原爆 げんばく 投下 とうか 問題 もんだい を再 さい 検討 けんとう するアメリカの研究 けんきゅう 者 しゃ の間 あいだ では、「原爆 げんばく の投下 とうか は、日本 にっぽん への上陸 じょうりく 作戦 さくせん を避 さ けるためにも、早期 そうき に戦争 せんそう を終結 しゅうけつ させるためにも必要 ひつよう ではなかった」、「原爆 げんばく 投下 とうか によって回避 かいひ されたとされる犠牲 ぎせい 者 しゃ の公式 こうしき 解釈 かいしゃく での推定 すいてい 数 すう 『50万 まん 人 にん 』あるいは『100万 まん 人 にん 』には根拠 こんきょ がない」などの点 てん でほぼ合意 ごうい に達 たっ している[ 119] 。またバーンスタインは被爆 ひばく したアメリカ兵 へい 捕虜 ほりょ について扱 あつか っている。原爆 げんばく 投下 とうか の直前 ちょくぜん 、アメリカはイギリス情報 じょうほう 部 ぶ から「広島 ひろしま にアメリカ人 じん 捕虜 ほりょ がいる」と通告 つうこく を受 う けていたがこれを無視 むし され、アメリカ戦略 せんりゃく 空軍 くうぐん 司令 しれい 部 ぶ の極秘 ごくひ 電報 でんぽう (45年 ねん 7月 がつ 30日 にち 付 づけ )によると同 どう 司令 しれい 部 ぶ は長崎 ながさき にはアメリカ人 じん 捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ があることを確認 かくにん 、ワシントンに打電 だでん されたが、投下 とうか は強行 きょうこう された。結局 けっきょく 、長崎 ながさき の原爆 げんばく は目標 もくひょう を少 すこ しずれたため、約 やく 1,400人 にん のアメリカ人 じん 捕虜 ほりょ は助 たす かった。長崎 ながさき 市 し の福岡 ふくおか 俘虜 ふりょ 収容 しゅうよう 所 しょ 第 だい 14分 ふん 所 しょ に収容 しゅうよう された捕虜 ほりょ たち は、三菱重工 みつびしじゅうこう 長崎造船所 なかざきぞうせんじょ で働 はたら かされ、第 だい 14分 ふん 所 しょ は敗戦 はいせん 時 じ 、オランダ人 じん 152人 にん ・オーストラリア 人 ひと 24人 にん ・イギリス人 じん 19人 にん の195人 にん を収容 しゅうよう し、原爆 げんばく で8人 にん が死亡 しぼう した[ 122] 。アメリカ政府 せいふ が被爆 ひばく 死 し したアメリカ兵 へい 捕虜 ほりょ のことを秘密 ひみつ にしていた理由 りゆう について、同 どう 教授 きょうじゅ は「アメリカ国民 こくみん の大半 たいはん が支持 しじ した原爆 げんばく 投下 とうか でアメリカ兵 へい が殺 ころ されていたとなれば、世論 せろん は批判 ひはん に変 か わり、第 だい 2次 じ 大戦 たいせん 直後 ちょくご の冷戦 れいせん 激化 げきか の中 なか での核 かく 戦略 せんりゃく に重要 じゅうよう な影響 えいきょう をもたらす、と懸念 けねん したからではないか」と語 かた り、「一般 いっぱん 市民 しみん はもちろん、味方 みかた の軍人 ぐんじん まで犠牲 ぎせい にしても平気 へいき な“戦争 せんそう の狂気 きょうき ”を告発 こくはつ したい」と述 の べている。同 どう 教授 きょうじゅ は「政府 せいふ はある時点 じてん から認 みと めるようになりましたが名前 なまえ は公表 こうひょう していません、政府 せいふ は自分 じぶん にとって不都合 ふつごう なことは公表 こうひょう しないものです。」と電話 でんわ で応 おう じている[ 123] 。実 じつ は捕虜 ほりょ 以外 いがい にもアメリカ国籍 こくせき の被爆 ひばく 者 しゃ はいる。戦前 せんぜん 期 き の広島 ひろしま 県 けん が「移民 いみん 県 けん 」であったことを背景 はいけい に、被爆 ひばく 当時 とうじ の広島 ひろしま 市 し には開戦 かいせん 以前 いぜん に親戚 しんせき への訪問 ほうもん や日本 にっぽん 国内 こくない への進学 しんがく を理由 りゆう として来 き 広 ひろ し、開戦 かいせん によりそのまま帰 き 米 まい 不能 ふのう となった多数 たすう の日系 にっけい アメリカ人 じん が在住 ざいじゅう し、被爆 ひばく した[ 124] 。詳細 しょうさい は日系 にっけい アメリカ人 じん 被爆 ひばく 者 しゃ より。
軍事 ぐんじ 戦略 せんりゃく 思想家 しそうか のベイジル・リデル=ハート は、アメリカによる日本 にっぽん への原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか について、日本 にっぽん の降伏 ごうぶく はすでに時間 じかん の問題 もんだい となっていたので、このような兵器 へいき を用 もち いる必要 ひつよう 性 せい は無 な かったと批判 ひはん している。さらに、連合 れんごう 国 こく 側 がわ の無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく 要求 ようきゅう が、戦争 せんそう を長引 ながび かせる一因 いちいん となり、何 なん 百 ひゃく 万 まん 人 にん もの犠牲 ぎせい を余分 よぶん に出 だ す結果 けっか になったとも論評 ろんぴょう している[ 125] [ 注 ちゅう 12] 。
田原 たはら 総一朗 そういちろう はヘンリー・キッシンジャー に対 たい して日本 にっぽん への原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか についてインタビューしたことがあり、「あなた方 かた は広島 ひろしま と長崎 ながさき に原爆 げんばく を落 お とした。そしてまったく何 なん の罪 ざい もない一般 いっぱん 市民 しみん を大量 たいりょう に殺 ころ した。この責任 せきにん をアメリカはどうとるつもりなのか」と質問 しつもん したら、キッシンジャーは「広島 ひろしま と長崎 ながさき に原爆 げんばく を落 お とさなければ日本 にっぽん は本土 ほんど 決戦 けっせん をやるつもりだった。本土 ほんど 決戦 けっせん で何 なん 百 ひゃく 万 まん 人 にん 、あるいは一 いち 千 せん 万 まん 人 にん 以上 いじょう の日本人 にっぽんじん が亡 な くなるはずだった。原爆 げんばく を落 お とすことでその人数 にんずう をかなり減 へ らしたんだから、むしろ日本 にっぽん はアメリカに感謝 かんしゃ すべきだ」と答 こた えたという。ストーンは「キッシンジャーの見方 みかた は私 わたし たちの見方 みかた とはまったく違 ちが います。私 わたし たちは広島 ひろしま ・長崎 ながさき への原爆 げんばく 投下 とうか は必要 ひつよう なかったと思 おも っていますし、キッシンジャーは何 なに もわかっていない人 ひと だと思 おも います。彼 かれ はノーベル平和 へいわ 賞 しょう を受賞 じゅしょう しましたが、同時 どうじ に南米 なんべい 各地 かくち でのアメリカの残虐 ざんぎゃく 行為 こうい に関 かか わったということで、戦争 せんそう 犯罪 はんざい 人 じん として入国 にゅうこく できない国 くに もたくさんあるようです」と述 の べた[ 126] 。
1991年 ねん 、雑誌 ざっし への寄稿 きこう にて、ケネディ政権 せいけん とジョンソン政権 せいけん で国家 こっか 安全 あんぜん 保障 ほしょう 担当 たんとう 補佐 ほさ 官 かん を務 つと めたマクジョージ・バンディ は、原爆 げんばく 投下 とうか の必要 ひつよう 性 せい には疑問 ぎもん が残 のこ るとしつつ、真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき から始 はじ まった戦争 せんそう に終止符 しゅうしふ を打 う つという歴史 れきし 的 てき 使命 しめい があったとも述 の べている[ 127] 。
1992年 ねん 5月、米国 べいこく 上院 じょういん 議員 ぎいん のアーネスト・ホーリングズは、当時 とうじ 衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん であった石原 いしはら 慎太郎 しんたろう が「日本人 にっぽんじん は(怠惰 たいだ で無学 むがく な)アメリカ人 じん よりいい製品 せいひん をつくる」という発言 はつげん をしたのに対 たい して、「誰 だれ が原子 げんし 爆 ばく 弾 だん を発明 はつめい したのか忘 わす れたようだから、キノコ雲 くも の写真 しゃしん に“怠惰 たいだ で無学 むがく なアメリカ人 じん によって作 つく られ、日本 にっぽん で試験 しけん された米国 べいこく 産 さん ”というキャプションをつけろ」という発言 はつげん をした[ 注 ちゅう 13] [ 129] 。ホーリングスは「冗談 じょうだん 」として発言 はつげん したが、これは当時 とうじ 日本 にっぽん のマスコミでかなり非難 ひなん され、のち謝罪 しゃざい した。
1994年 ねん 9月、スミソニアン国立 こくりつ 航空 こうくう 宇宙 うちゅう 博物館 はくぶつかん の原爆 げんばく 投下 とうか 50周年 しゅうねん 特別 とくべつ 展 てん の展示 てんじ 内容 ないよう を修正 しゅうせい するように求 もと める決議 けつぎ が、上院 じょういん で全会 ぜんかい 一致 いっち で可決 かけつ された[ 130] 。展示 てんじ 内容 ないよう は大幅 おおはば に修正 しゅうせい された[ 131] [ 132] 。
1994年 ねん 11月、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 郵便 ゆうびん 公社 こうしゃ が1995年 ねん 9月 がつ に第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 50周年 しゅうねん 切手 きって として、キノコ雲 くも に「Atomic bombs hasten the end of war, August 1945」(原爆 げんばく 投下 とうか が戦争 せんそう 終結 しゅうけつ を早 はや めた)と説明 せつめい が入 はい った図案 ずあん を公表 こうひょう した[ 133] 。この切手 きって に対 たい して、日本 にっぽん 政府 せいふ などから強 つよ い反発 はんぱつ を受 う け、別 べつ の図案 ずあん に変更 へんこう されたが、アメリカではそれに対 たい する反発 はんぱつ もあり、アメリカにおける原爆 げんばく 投下 とうか は妥当 だとう であったとする歴史 れきし 認識 にんしき を垣間見 かいまみ せるものであった(詳細 しょうさい は原爆 げんばく 切手 きって 発行 はっこう 問題 もんだい を参考 さんこう のこと)。
1994年 ねん 12月にCNNの討論 とうろん 番組 ばんぐみ ・クロスファイアに古 こ 森 もり 義久 よしひさ が出演 しゅつえん し、司会 しかい のジョン・スヌヌ 元 もと 大統領 だいとうりょう 首席 しゅせき 補佐 ほさ 官 かん や政治 せいじ 評論 ひょうろん 家 か のマイク・キンズレー (英語 えいご 版 ばん ) 、チャールズ・スウィーニー 退役 たいえき 少将 しょうしょう 、歴史 れきし 学者 がくしゃ のガー・アルペロビッツ と論争 ろんそう を繰 く り広 ひろ げた[ 134] 。古森 こうもり が「原爆 げんばく 投下 とうか の時点 じてん では米 べい 側 がわ はもう日本 にっぽん の降伏 ごうぶく を確実視 かくじつし していた。ソ連 それん の参戦 さんせん もあり、とくに2発 はつ 目 め の長崎 ながさき への投下 とうか は戦争 せんそう の早期 そうき 終結 しゅうけつ が目的 もくてき ならば不 ふ 必要 ひつよう だった。もし日本 にっぽん 側 がわ に原爆 げんばく の威力 いりょく を示 しめ すことが目的 もくてき ならば、無人島 むじんとう にでも過疎 かそ 地 ち にでも投下 とうか すれば、十分 じゅうぶん だっただろう。合計 ごうけい 20万 まん 以上 いじょう の民間 みんかん 人 じん の犠牲 ぎせい は戦争 せんそう 継続 けいぞく の場合 ばあい の戦死 せんし 者 しゃ の予測 よそく 数 すう では正当 せいとう 化 か はできない」と米 べい 側 がわ の原爆 げんばく 投下 とうか 正当 せいとう 論 ろん を批判 ひはん すると、スヌヌやキンズレーは日本 にっぽん 軍 ぐん の真珠湾 しんじゅわん 奇襲 きしゅう 攻撃 こうげき や中国 ちゅうごく などアジア各地 かくち での殺戮 さつりく 行為 こうい に言及 げんきゅう し、「もし日本 にっぽん 軍 ぐん が原爆 げんばく を保有 ほゆう していれば、間違 まちが いなく使 つか っただろう」「だから原爆 げんばく 投下 とうか はやむを得 え ず、正当 せいとう でさえあった」と反論 はんろん した[ 134] 。古森 こうもり は持論 じろん を変 か えなかったものの、スヌヌらの主張 しゅちょう も「『米 べい 側 がわ に立 た てば、それはそうだろうと』内心 ないしん 思 おも った」と『産経新聞 さんけいしんぶん 』(2007年 ねん 7月 がつ 28日 にち )に書 か いた[ 134] 。
1995年 ねん 4月 がつ 、ビル・クリントン 大統領 だいとうりょう は、原爆 げんばく に関 かん してアメリカは日本 にっぽん に謝 あやま る義理 ぎり はないと述 の べた[ 135] [ 136] [ 137] 。
アメリカの哲学 てつがく 者 しゃ ジョン・ロールズ は、1995年 ねん 雑誌 ざっし Dissentに掲載 けいさい した論文 ろんぶん 「Reflections on Hiroshima:50 Years after Hiroshima(原爆 げんばく 投下 とうか はなぜ不正 ふせい なのか?:ヒロシマから50年 ねん )[ 138] 」において、原爆 げんばく 投下 とうか を「すさまじい道徳 どうとく 的 てき 悪行 あくぎょう 」と批判 ひはん した[ 139] 。
1997年 ねん に歴史 れきし 家 か で米 べい 原子力 げんしりょく 制御 せいぎょ 委員 いいん 会 かい 主席 しゅせき J・サミュエル・ウォーカー(英語 えいご 版 ばん 参照 さんしょう )は『原爆 げんばく 投下 とうか とトルーマン』を発表 はっぴょう [ 140] 、「この数 すう 年 ねん 公開 こうかい された外交 がいこう 文書 ぶんしょ と当時 とうじ の米 べい 政府 せいふ 高官 こうかん の日記 にっき の詳細 しょうさい な分析 ぶんせき により、なぜアメリカが原爆 げんばく を使用 しよう したかが増 ぞう 々明確 めいかく になってきた。日本 にっぽん 本土 ほんど 侵攻 しんこう を避 さ けるためにも早期 そうき 終戦 しゅうせん にも原爆 げんばく は必要 ひつよう なかったこと、原爆 げんばく 以外 いがい の容易 ようい な外交 がいこう 的 てき 手段 しゅだん がありトルーマンはそれを知 し っていたこと、原爆 げんばく はアメリカの若者 わかもの 50万 まん 人 にん の命 いのち を救 すく ったというこけの生 は えた主張 しゅちょう に全 まった く根拠 こんきょ がない、という点 てん で我々 われわれ 研究 けんきゅう 者 しゃ 達 たち の意見 いけん は一致 いっち した。」とも発言 はつげん している。
1999年 ねん にカリフォルニア州 しゅう 議会 ぎかい でヘイデン法 ほう が決議 けつぎ されたのに伴 ともな う日本 にっぽん 政府 せいふ に対 たい する戦争 せんそう 犯罪 はんざい への謝罪 しゃざい と犠牲 ぎせい 者 しゃ への賠償 ばいしょう を求 もと める決議 けつぎ がカリフォルニア州 しゅう 議会 ぎかい で採決 さいけつ された際 さい には、「原爆 げんばく 投下 とうか はアメリカ政府 せいふ による残虐 ざんぎゃく 行為 こうい ではないか」という主張 しゅちょう に対 たい し、「原爆 げんばく で救 すく えた人間 にんげん は多 おお い」といった主張 しゅちょう が民主党 みんしゅとう 議員 ぎいん から発言 はつげん される程度 ていど の認識 にんしき であった[ 141] 。
イギリスの哲学 てつがく 者 しゃ A・C・グレイリングは、2006年 ねん にAmong the Dead Cities:Was the Allied Bombing of Civilians in WWII a Necessity or a Crime?[ 142] (邦訳 ほうやく 「大 だい 空襲 くうしゅう と原爆 げんばく は本当 ほんとう に必要 ひつよう だったのか」[ 143] )を発表 はっぴょう し、無 む 差別 さべつ 爆 ばく 撃 げき への反対 はんたい 論 ろん 、擁護 ようご 論 ろん をともに検証 けんしょう した。
2010年 ねん 8月 がつ 6日 にち 、駐 ちゅう 日 にち 米国 べいこく 大使 たいし ジョン・ルース が米国 べいこく 公式 こうしき 代表 だいひょう として初 はじ めて広島 ひろしま の平和 へいわ 祈念 きねん 式典 しきてん に参列 さんれつ した。しかし慰霊 いれい 碑 ひ への献花 けんか もなく、犠牲 ぎせい 者 しゃ に対 たい する言葉 ことば もなかった。なお式典 しきてん 後 ご 、大使館 たいしかん を通 つう じて、未来 みらい のために核兵器 かくへいき 廃絶 はいぜつ に努力 どりょく する旨 むね のコメントが出 だ された。
2013年 ねん 夏 なつ 、アメリカの映画 えいが 監督 かんとく オリバー・ストーン は、被爆 ひばく 地 ち の広島 ひろしま ・長崎 ながさき を初 はつ 訪問 ほうもん した。ストーンはトルーマン政権 せいけん 内 ない では多 おお くの軍 ぐん 幹部 かんぶ が、空襲 くうしゅう を受 う けて疲弊 ひへい し、降伏 ごうぶく 寸前 すんぜん だった日本 にっぽん に原爆 げんばく を使 つか っても意味 いみ がないと進言 しんげん していたが、それでも耳 みみ を貸 か さなかったのは、対 たい 日 にち 参戦 さんせん へと動 うご いていたソ連 それん を牽引 けんいん するためと批判 ひはん している[ 144] [ 注 ちゅう 14] 。ストーンとともに『オリバー・ストーンが語 かた るもうひとつのアメリカ史 し 』を手掛 てが けたピーター・カズニック 歴史 れきし 学 がく 教授 きょうじゅ によると、年配 ねんぱい の世代 せだい の人 ひと たちはトルーマン大統領 だいとうりょう は英雄 えいゆう だったと信 しん じているのは「原爆 げんばく 投下 とうか によって、戦争 せんそう を早 はや く終 お わらせ、100万 まん 人 にん のアメリカ兵 へい の生命 せいめい が救 すく われた」という「原爆 げんばく 神話 しんわ 」を信 しん じているためであり、同 どう 教授 きょうじゅ が講演 こうえん で、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 当時 とうじ の7人 にん の米 べい 軍 ぐん 最高 さいこう 幹部 かんぶ のうちの6人 にん までが原爆 げんばく 投下 とうか は不要 ふよう か道徳 どうとく 的 てき ではないと言 い っていたと話 はな すと、これを聞 き いた退役 たいえき 軍人 ぐんじん らは衝撃 しょうげき を受 う けると述 の べた[ 145] [ 注 ちゅう 15] 。またカズニックは後述 こうじゅつ のウィリアム・リーヒ 同様 どうよう に、トルーマンが日本 にっぽん がソ連 それん に和平 わへい 仲介 ちゅうかい したことを意図 いと 的 てき に無視 むし したことを批判 ひはん している[ 145] 。
2016年 ねん 5月27日 にち 、当時 とうじ のアメリカ大統領 だいとうりょう バラク・オバマ 大統領 だいとうりょう は、現職 げんしょく の大統領 だいとうりょう として初 はじ めて広島 ひろしま を訪問 ほうもん し(バラク・オバマの広島 ひろしま 訪問 ほうもん )、慰霊 いれい 碑 ひ への献花 けんか 後 ご 所感 しょかん を述 の べている。その中 なか で「この空 そら (広島 ひろしま )-に上 あ がったキノコ雲 くも のイメージのなかに、私 わたし たちは人類 じんるい の矛盾 むじゅん を強 つよ く突 つ きつけられます。」と原爆 げんばく 投下 とうか について批判 ひはん 的 てき な発言 はつげん をしたが具体 ぐたい 的 てき な謝罪 しゃざい 等 とう はなく、発言 はつげん 全体 ぜんたい としては第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 自体 じたい を批判 ひはん し核 かく なき世界 せかい を目指 めざ すといった内容 ないよう であった。同年 どうねん 、アメリカのビル・オライリー が原爆 げんばく 投下 とうか を正当 せいとう 化 か する『Killing the Rising Sun:How America Vanquished World War II Japan. Henry Holt.(2016年 ねん )』が大 だい ベストセラーとなっている。
2016年 ねん に、ピーター・カズニックはオリバー・ストーンとともにロサンゼルス・タイムズに「広島 ひろしま への原爆 げんばく 投下 とうか は世界 せかい を変 か えたが、戦争 せんそう を終結 しゅうけつ させてはいない」という記事 きじ を寄稿 きこう した。そこには、ソ連 それん の侵攻 しんこう により日本 にっぽん の敗戦 はいせん が決定的 けっていてき になることをトルーマンは理解 りかい していたが原爆 げんばく の投下 とうか を決断 けつだん したことを述 の べた。
2020年 ねん 8月 がつ 6日 にち 、ロサンゼルス・タイムズ 誌 し は、戦後 せんご 75周年 しゅうねん の「広島 ひろしま 平和 へいわ 記念 きねん 日 び 」にあわせ、歴史 れきし 家 か ガー・アルペロビッツとジョージ・メイソン大学 だいがく のマーティン・シャーウィン教授 きょうじゅ の「アメリカの指導 しどう 者 しゃ たちは、戦争 せんそう に勝 か つために日本 にっぽん に原爆 げんばく を落 お とさなくてもいいことを知 し っていた。いずれにしても実行 じっこう してしまった」という論考 ろんこう を掲載 けいさい した。二人 ふたり の主要 しゅよう な論点 ろんてん は、以下 いか の6点 てん であった。
(1)1945年 ねん 8月 がつ の日本 にっぽん の都市 とし への核兵器 かくへいき 使用 しよう について、率直 そっちょく に全国 ぜんこく 的 てき な対話 たいわ を行 おこな う絶好 ぜっこう の機会 きかい である。
(2)原爆 げんばく により早期 そうき に戦争 せんそう を終結 しゅうけつ させ、何 なん 十 じゅう 万 まん 人 にん もの米国 べいこく 人 じん 、そして何 なん 百 ひゃく 万 まん 人 にん もの日本人 にっぽんじん の命 いのち を救 すく ったとの主張 しゅちょう は事実 じじつ ではない。
(3)アメリカと日本 にっぽん の公文書 こうぶんしょ から得 え られた圧倒的 あっとうてき 多数 たすう の歴史 れきし 的 てき 証拠 しょうこ からは、たとえ原爆 げんばく が使用 しよう されなくとも日本 にっぽん は降伏 ごうぶく していたと結論 けつろん づけられる。
(4)東郷 とうごう 茂徳 しげのり 外相 がいしょう は1945年 ねん 7月 がつ 、日本 にっぽん に代 か わって降伏 ごうぶく 条件 じょうけん を調停 ちょうてい するためソ連 それん に協力 きょうりょく を求 もと めようとしていた。
(5)鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 首相 しゅしょう は1945年 ねん 8月 がつ 13日 にち 、「ソ連 それん は満州 まんしゅう 、朝鮮 ちょうせん 、樺太 からふと だけでなく、北海道 ほっかいどう も占領 せんりょう するだろう。日本 にっぽん の基盤 きばん が破壊 はかい される前 まえ にアメリカと取引 とりひき し、戦争 せんそう を終結 しゅうけつ させたい」と考 かんが えていた。
(6)1945年 ねん 、米国 べいこく の8人 にん の5つ星 ほし 陸 りく 海軍 かいぐん 将官 しょうかん のうち、アイゼンハワー、マッカーサー、ニミッツら7人 にん は、「原爆 げんばく 投下 とうか は軍事 ぐんじ 的 てき に不 ふ 必要 ひつよう であったか、道徳 どうとく 的 てき に非難 ひなん されるべきこと、あるいはその両方 りょうほう だった」と述 の べた。
以上 いじょう を示 しめ し、従来 じゅうらい の「原爆 げんばく 投下 とうか による戦争 せんそう の早期 そうき 終結 しゅうけつ への貢献 こうけん 」を否定 ひてい している。シャーウィン教授 きょうじゅ は、かねてから「日本 にっぽん への原爆 げんばく 投下 とうか は不 ふ 必要 ひつよう であった」との主張 しゅちょう を展開 てんかい しており、2002年 ねん 8月 がつ 、広島 ひろしま での国際 こくさい シンポジウムにて、以下 いか の4点 てん を指摘 してき した。
(1)第 だい 2次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が終 お わろうとしていたあの時期 じき に日本 にっぽん の都市 とし に原爆 げんばく を投下 とうか する必然 ひつぜん 性 せい はなかった。
(2)当時 とうじ のトルーマン大統領 だいとうりょう とバーンズ国務 こくむ 長官 ちょうかん が、戦後 せんご ソ連 それん に対 たい し脅 おど しをかけるために、原爆 げんばく 投下 とうか を決断 けつだん したものだった。
(3)核兵器 かくへいき さえ保有 ほゆう すれば、戦争 せんそう に勝利 しょうり して、アメリカの管理 かんり 下 か での平和 へいわ が保証 ほしょう されるという信念 しんねん が醸成 じょうせい されてしまった。
(4)過去 かこ の広島 ひろしま ・長崎 ながさき への原爆 げんばく 投下 とうか に関 かん するアメリカ人 じん の議論 ぎろん は、実際 じっさい には起 お こらなかった事件 じけん によって歪曲 わいきょく されている。日本 にっぽん への原爆 げんばく 投下 とうか の教訓 きょうくん が、その後 ご の朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう 、キューバ危機 きき 、ベトナム戦争 せんそう 等 とう での核 かく の使用 しよう が抑制 よくせい されたとの論調 ろんちょう がその好例 こうれい である。
以上 いじょう のことから、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の早期 そうき 終結 しゅうけつ よりも、戦後 せんご のソビエト連邦 れんぽう との駆 か け引 ひ きや、核兵器 かくへいき を用 もち いた安全 あんぜん 保障 ほしょう 構想 こうそう 構築 こうちく が優先 ゆうせん されていたなどと力説 りきせつ している。1945年 ねん 7月 がつ の米 べい 英 えい ソポツダム会談 かいだん では、第 だい 2次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の戦後 せんご 処理 しょり が話 はな し合 あ われた。その時 とき の記録 きろく によれば、日本 にっぽん との戦争 せんそう 終結 しゅうけつ の選択肢 せんたくし は4つあり、(1)本土 ほんど 上陸 じょうりく 作戦 さくせん を行 おこな う、(2)皇室 こうしつ 維持 いじ を条件 じょうけん として、全面 ぜんめん 降伏 ごうぶく 、(3)原子 げんし 爆 ばく 弾 だん を投下 とうか する、(4)ソ連 それん の参戦 さんせん を待 ま つ、であった。アメリカは、皇室 こうしつ 維持 いじ という条件 じょうけん を提示 ていじ すれば、日本 にっぽん が降伏 ごうぶく する可能 かのう 性 せい が極 きわ めて高 たか いことを知 し っていたようである。トルーマン大統領 だいとうりょう は「日本 にっぽん を降伏 ごうぶく させるには原爆 げんばく 投下 とうか か本土 ほんど 上陸 じょうりく しか選択肢 せんたくし がない」という強 つよ いアピールを行 おこな い、「多数 たすう のアメリカ兵 へい の命 いのち を守 まも るため原爆 げんばく 投下 とうか を選 えら んだ」という理由 りゆう を掲 かか げたが、これは両 りょう 歴史 れきし 家 か の主張 しゅちょう の通 とお り事実 じじつ ではなく、ソ連 それん に原爆 げんばく の威力 いりょく を見 み せつけ、戦後 せんご の対 たい ソ外交 がいこう で優位 ゆうい に立 た つことが目的 もくてき だったのかもしれない[ 146] 。
ワシントン・ポスト紙 し は、毎週 まいしゅう 「5つの俗説 ぞくせつ 」として、世間 せけん に流布 るふ されている通説 つうせつ に対 たい する反論 はんろん を行 おこな っている。先週 せんしゅう の回 かい では、アメリカによる広島 ひろしま ・長崎 ながさき への原爆 げんばく 投下 とうか が70年 ねん を迎 むか えるにあたり、カリフォルニア大学 だいがく 名誉 めいよ 教授 きょうじゅ であるグレッグ・ハーケンによる原爆 げんばく 投下 とうか に関 かん する通説 つうせつ への異議 いぎ を掲載 けいさい している[ 147] 。
「原爆 げんばく に関 かん する5つの俗説 ぞくせつ 」として以下 いか のものが挙 あ げられている。
原爆 げんばく が戦争 せんそう を終 お わらせた。
原爆 げんばく が50万 まん 人 にん のアメリカ人 じん の命 いのち を救 すく った。
原爆 げんばく のほかは日本 にっぽん 侵攻 しんこう しかなかった。
原爆 げんばく 投下 とうか 前 まえ に日本 にっぽん に警告 けいこく があった。
原爆 げんばく でロシア(ソ連 それん )に対 たい する外交 がいこう 的 てき 有利 ゆうり さを得 え るようタイミングが図 はか られたし、実際 じっさい に初期 しょき の冷戦 れいせん 時 じ には切 き り札 ふだ となった。
これらに対 たい し、ハーケン教授 きょうじゅ は以下 いか のように反論 はんろん する。
最新 さいしん の研究 けんきゅう では、日本 にっぽん 政府 せいふ が終戦 しゅうせん への仲介 ちゅうかい 者 しゃ として期待 きたい していたソ連 それん が8月 がつ 9日 にち に予想 よそう 外 がい の対 たい 日 にち 参戦 さんせん を開始 かいし したことのほうが、日本 にっぽん 政府 せいふ には大 おお きな衝撃 しょうげき であったと結論 けつろん づけられている。
トルーマン米 べい 大統領 だいとうりょう の回顧 かいこ 録 ろく では、軍 ぐん 幹部 かんぶ が「日本 にっぽん 侵攻 しんこう により50万 まん 人 にん のアメリカ人 じん の命 いのち が失 うしな われたであろう」と述 の べた、と記載 きさい されているが、実際 じっさい の数 かず はもっと少 すく なかった。スタンフォード大学 だいがく のバートン・バーンスタイン教授 きょうじゅ は、「アメリカ統合 とうごう 戦争 せんそう 計画 けいかく 委員 いいん 会 かい (US Joint War Plans Committee)は日本 にっぽん 侵攻 しんこう による負傷 ふしょう 者 しゃ は19万 まん 3000人 にん 、死者 ししゃ は4万 まん 人 にん と予測 よそく していた」と述 の べている。
原爆 げんばく 投下 とうか 以外 いがい にも、通常 つうじょう の爆 ばく 撃 げき と海上 かいじょう 封鎖 ふうさ のほかに2つの選択肢 せんたくし が当時 とうじ においても考 かんが えられていた。1つは、日本 にっぽん などから政府 せいふ 要人 ようじん を招 まね き、無人 むじん 地帯 ちたい か富士山 ふじさん で爆発 ばくはつ させ、威力 いりょく を見 み せつける。これは、その当時 とうじ に原爆 げんばく が2つしかなく、デモンストレーションが不発 ふはつ に終 お わる可能 かのう 性 せい があるため却下 きゃっか された。2つ目 め は、条件 じょうけん 付 つ き降伏 ごうぶく を受 う け入 い れること。日本 にっぽん 政府 せいふ は「天皇 てんのう を戦争 せんそう 犯罪 はんざい 者 しゃ としない」という条件 じょうけん を求 もと めていたが、アメリカ側 がわ は無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく を主張 しゅちょう したため実現 じつげん しなかった。
7月 がつ 26日 にち にポツダム宣言 せんげん が発 はっ された後 のち 、受諾 じゅだく しなければ「即刻 そっこく の徹底 てってい した破壊 はかい 」を警告 けいこく するチラシが投下 とうか されたり、トルーマン大統領 だいとうりょう がラジオ演説 えんぜつ で述 の べた、今 いま までにないような空 そら からの破壊 はかい 、といったような警告 けいこく はあった。しかし、広島 ひろしま や長崎 ながさき への具体 ぐたい 的 てき な警告 けいこく はなされていない。原爆 げんばく を載 の せた爆 ばく 撃 げき 機 き の撃墜 げきつい を恐 おそ れたため。
実際 じっさい には、原爆 げんばく は準備 じゅんび ができ次第 しだい すぐに投下 とうか されたし、原爆 げんばく がソ連 それん との外交 がいこう で切 き り札 ふだ になることを望 のぞ んだトルーマン大統領 だいとうりょう 時 じ の国務 こくむ 長官 ちょうかん ジェームズ・バーンズは戦後 せんご 、「彼 かれ らは脅 おびや かされたりしない」と失望 しつぼう した。
アメリカ側 がわ の原爆 げんばく 投下 とうか に対 たい する批判 ひはん
編集 へんしゅう
日本 にっぽん への原爆 げんばく 投下 とうか に対 たい するアメリカ側 がわ の批判 ひはん については『ハリー・S・トルーマン#日本 にっぽん への原爆 げんばく 投下 とうか に関 かん して 』を参照 さんしょう
アメリカ側 がわ の原爆 げんばく 投下 とうか に対 たい するコメント
編集 へんしゅう
太平洋戦争 たいへいようせんそう 直後 ちょくご にはアメリカ側 がわ にも原爆 げんばく 投下 とうか を批判 ひはん する意見 いけん があった。とくに原爆 げんばく 投下 とうか が民主党 みんしゅとう のトルーマン政権 せいけん 下 か で行 おこな われたため、戦争 せんそう 直後 ちょくご は共和党 きょうわとう 政治 せいじ 家 か あるいは退役 たいえき 後 ご に共和党 きょうわとう 派 は であることを表明 ひょうめい した高級 こうきゅう 軍人 ぐんじん にも多 おお かった。その後 ご 、共和党 きょうわとう のアイゼンハワー政権 せいけん 下 か で大量 たいりょう の戦 たたかえ 絡 からま 核兵器 かくへいき の配備 はいび が進 すす められた[ 148] のであるが、歴史 れきし 家 か のウェラースタインによれば、現在 げんざい の米国 べいこく では一般 いっぱん に、共和党 きょうわとう 員 いん とくに軍 ぐん 関係 かんけい 者 しゃ が過去 かこ を振 ふ り返 かえ って原爆 げんばく 投下 とうか に賛成 さんせい で、リベラル派 は は原爆 げんばく 投下 とうか を過 あやま ちあるいは戦争 せんそう 犯罪 はんざい の中間 ちゅうかん にあるものと見 み る傾向 けいこう がありがちなため、この点 てん はよく米 べい 国民 こくみん にも混乱 こんらん されるとしている[ 149] 。
「いかなる詭弁 きべん を用 もち いようと、原爆 げんばく 投下 とうか の主 しゅ 目的 もくてき が、戦闘 せんとう 員 いん ではなく女 おんな 子供 こども 老人 ろうじん などの非 ひ 戦闘 せんとう 員 いん の殺傷 さっしょう であったことを否定 ひてい することはできない。そもそもアメリカは日本 にっぽん を挑発 ちょうはつ しなければ決 けっ して真珠湾 しんじゅわん を攻撃 こうげき されることはなかっただろう。」
ハーバート・フーバー 第 だい 31代 だい アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 大統領 だいとうりょう
「アメリカはこの戦争 せんそう を外交 がいこう 的 てき 手段 しゅだん で終了 しゅうりょう させられた。原爆 げんばく 投下 とうか は不要 ふよう だった。日本 にっぽん の犠牲 ぎせい はあまりにも不 ふ 必要 ひつよう に巨大 きょだい すぎた。私 わたし は東京 とうきょう 大 だい 空襲 くうしゅう において、同僚 どうりょう 達 たち と、いかにして日本 にっぽん の民間 みんかん 人 じん を効率 こうりつ 的 てき に殺傷 さっしょう できるか計画 けいかく した。その結果 けっか 一 いち 晩 ばん で女 おんな 子供 こども などの非 ひ 戦闘 せんとう 員 いん を10万 まん 人 にん 焼 や き殺 ころ したのである。もし戦争 せんそう に負 ま けていれば私 わたし は間違 まちが いなく戦争 せんそう 犯罪 はんざい 人 じん となっていただろう。では、アメリカが勝 か ったから、それらの行為 こうい は正当 せいとう 化 か されるのか?? 我々 われわれ は戦争 せんそう 犯罪 はんざい を行 おこな ったんだ。一体全体 いったいぜんたい どうして、日本 にっぽん の67の主要 しゅよう 都市 とし を爆撃 ばくげき し、広島 ひろしま ・長崎 ながさき まで原爆 げんばく で、アメリカが破滅 はめつ させ虐殺 ぎゃくさつ する必要 ひつよう があったというのか。」
ロバート・マクナマラ 投下 とうか 当時 とうじ はルメイの部下 ぶか のち世界銀行 せかいぎんこう 総裁 そうさい ケネディ政権 せいけん 国防 こくぼう 長官 ちょうかん
「原爆 げんばく 投下 とうか は、米国 べいこく 兵士 へいし の命 いのち を救 すく うためには全 まった く必要 ひつよう のないものだった。我々 われわれ は日本 にっぽん に原爆 げんばく を投下 とうか する必要 ひつよう はなかった。」
ドワイト・アイゼンハワー 欧州 おうしゅう 戦線 せんせん 連合 れんごう 国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん 第 だい 34代 だい アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 大統領 だいとうりょう
「日本 にっぽん がソ連 それん に和平 わへい 仲介 ちゅうかい を頼 たの んだと知 し った1945年 ねん 6月 がつ 、私 わたし は参謀 さんぼう 達 たち に、戦争 せんそう は終 お わりだ、と告 つ げた。ところがワシントンのトルーマン政権 せいけん は突如 とつじょ 日本 にっぽん に原爆 げんばく を投下 とうか した。私 わたし は投下 とうか のニュースを聞 き いたとき激怒 げきど した。」
ダグラス・マッカーサー 太平洋 たいへいよう 戦線 せんせん 連合 れんごう 国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん
「日本 にっぽん 上空 じょうくう の偵察 ていさつ で米 べい 軍 ぐん は、日本 にっぽん に戦争 せんそう 継続 けいぞく 能力 のうりょく がないことを知 し っていた。また天皇 てんのう の地位 ちい 保全 ほぜん さえ認 みと めれば、実際 じっさい 原爆 げんばく 投下 とうか 後 ご もアメリカはそれを認 みと めたのだが、日本 にっぽん は降伏 ごうぶく する用意 ようい があることも知 し っていた。だがトルーマン大統領 だいとうりょう はそれを知 し っていながら無視 むし した。ソ連 それん に和平 わへい 仲介 ちゅうかい を日本 にっぽん が依頼 いらい したことも彼 かれ は無視 むし した。この野蛮 やばん な爆 ばく 弾 だん を日本 にっぽん に投下 とうか したことは、なんの意味 いみ を持 も たなかった。海上 かいじょう 封鎖 ふうさ は十分 じゅうぶん な効果 こうか を挙 あ げていた。この新 しん 兵器 へいき を爆 ばく 弾 だん 、と呼 よ ぶことは誤 あやま りである。これは爆 ばく 弾 だん でもなければ爆発 ばくはつ 物 ぶつ でもない。これは”毒物 どくぶつ ”である。恐 おそ ろしい放射能 ほうしゃのう による被害 ひがい が、爆発 ばくはつ による殺傷 さっしょう 力 りょく をはるかに超 こ えたものなのだ。アメリカは原爆 げんばく を投下 とうか したことで、中世 ちゅうせい の虐殺 ぎゃくさつ にまみれた暗黒 あんこく 時代 じだい の倫理 りんり 基準 きじゅん を採用 さいよう したことになる。私 わたし はこのような戦 たたか い方 かた を訓練 くんれん されていないし、女 おんな 子供 こども を虐殺 ぎゃくさつ して戦争 せんそう に勝 か ったということはできない!」
ウイリアム・ダニエル・リーヒ アメリカ海軍 かいぐん 提督 ていとく 大統領 だいとうりょう 主席 しゅせき 補佐 ほさ 官 かん
「最初 さいしょ の原子 げんし 爆 ばく 弾 だん は不 ふ 必要 ひつよう な実験 じっけん であった。これを一 いち 度 ど でも投下 とうか したのは誤 あやま りだった。(…中略 ちゅうりゃく …)原爆 げんばく は多数 たすう の日本人 にっぽんじん を殺 ころ した。しかし日本人 にっぽんじん はかなり前 まえ からロシアを通 つう じて和平 わへい の打診 だしん をしていた」
ウィリアム・ハルゼー・Jr. 太平洋艦隊 たいへいようかんたい 第 だい 三 さん 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん (のち元帥 げんすい )
「ロシアの参戦 さんせん と原爆 げんばく がなくとも、戦争 せんそう は二 に 週間 しゅうかん で終 お わっていただろう(…中略 ちゅうりゃく …)原子 げんし 爆 ばく 弾 だん は戦争 せんそう の終結 しゅうけつ とは何 なん ら関係 かんけい がなかった」
カーティス・E・ルメイ アメリカ陸軍 りくぐん 航空 こうくう 軍 ぐん 少将 しょうしょう (のち空軍 くうぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう )
「(原爆 げんばく か上陸 じょうりく 作戦 さくせん かという選択 せんたく に関 かん して)ジレンマは不要 ふよう なものだった。なぜなら、じっくり待 ま つつもりさえあれば、海上 かいじょう 封鎖 ふうさ によっていずれ石油 せきゆ 、米 べい 、薬品 やくひん や他 た の必需 ひつじゅ 品 ひん が不足 ふそく し、日本人 にっぽんじん は窮乏 きゅうぼう して降伏 ごうぶく せざるをなくなったからだ」
アーネスト・J・キング アメリカ海軍 かいぐん 元帥 げんすい 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん 兼 けん 海軍 かいぐん 作戦 さくせん 部長 ぶちょう
「私 わたし はトルーマンに、広島 ひろしま の破壊 はかい を示 しめ す写真 しゃしん を示 しめ した。大統領 だいとうりょう は、それを見 み て、我々 われわれ が負 お わなければならない恐 おそ るべき責任 せきにん について、私 わたし に吐露 とろ した。」
ヘンリー・スティムソン アメリカ陸軍 りくぐん 長官 ちょうかん
「ドイツがアメリカに原爆 げんばく を落 お としたとしましょう。その後 ご ドイツが戦争 せんそう に負 ま けたとします。その場合 ばあい 我々 われわれ アメリカ国民 こくみん の誰 だれ が”原爆 げんばく 投下 とうか を戦争 せんそう 犯罪 はんざい とし、首謀 しゅぼう 者 しゃ を極刑 きょっけい に処 しょ す”ことに異議 いぎ を唱 とな えるでしょうか?原爆 げんばく 投下 とうか は外交 がいこう 的 てき にも人道的 じんどうてき にも人類 じんるい 史上 しじょう 最悪 さいあく の失敗 しっぱい だったのです。」
レオ・シラード マンハッタン計画 けいかく 参画 さんかく の科学 かがく 者 しゃ
「多 おお くの人々 ひとびと が死 し んでいるのはわかっていた。喜 よろこ びはなかった」[ 150] [ 注 ちゅう 16]
モリス・ジェプソン エノラゲイ号 ごう 機関 きかん 士 し
「日本 にっぽん との戦争 せんそう へのロシアの参入 さんにゅう は、その終結 しゅうけつ を早 はや める決定的 けっていてき 要素 ようそ であり、原子 げんし 爆 ばく 弾 だん が一 ひと つも投下 とうか されなかったとしても、その事実 じじつ は変 か わらなかった」
クレア・リー・シェンノート アメリカ陸軍 りくぐん 航空 こうくう 隊 たい 大尉 たいい (のち少将 しょうしょう )
「軍人 ぐんじん として命令 めいれい を受 う けた以上 いじょう 、任務 にんむ を遂行 すいこう するのは当然 とうぜん 」[ 151]
ポール・ティベッツ エノラゲイ号 ごう 機長 きちょう
毛沢東 もうたくとう は日本 にっぽん への原爆 げんばく 投下 とうか に強 つよ い衝撃 しょうげき を受 う け、以来 いらい 、原子 げんし 爆 ばく 弾 だん を中国 ちゅうごく も保有 ほゆう したいと考 かんが えるようになった[ 152] 。のちにソ連 それん からの技術 ぎじゅつ 供与 きょうよ で原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の保有 ほゆう に成功 せいこう した。
戦後 せんご 40年 ねん の1985年 ねん 8月 がつ 、中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 代表 だいひょう が広島 ひろしま 平和 へいわ 記念 きねん 公園 こうえん で花輪 はなわ を贈呈 ぞうてい 、人民日報 じんみんにっぽう がこれに関 かん し、原爆 げんばく 投下 とうか を「米 べい 帝 みかど の暴行 ぼうこう 」として批判 ひはん した。
一方 いっぽう で中国 ちゅうごく の歴史 れきし 教科書 きょうかしょ では、原爆 げんばく 投下 とうか を含 ふく めた日本 にっぽん に対 たい する戦争 せんそう 行為 こうい は、「反 はん ファシズム戦争 せんそう 」としてとらえて肯定 こうてい する姿勢 しせい が明白 めいはく である。毛沢東 もうたくとう らの日本人 にっぽんじん 民 みん 無罪 むざい 論 ろん (戦争 せんそう の責任 せきにん は当時 とうじ の日本 にっぽん 軍部 ぐんぶ にあり、日本人 にっぽんじん 民 みん は無罪 むざい とする考 かんが え[ 152] )を継承 けいしょう しつつ、アジア への加害 かがい 者 しゃ は「日本 にっぽん 国民 こくみん 」や「日本 にっぽん 」そのものではなく、あくまで「日本 にっぽん 帝国 ていこく 主義 しゅぎ 」「日本 にっぽん ファシズム 」であるとし、日本 にっぽん 国民 こくみん の大半 たいはん は「被害 ひがい 者 しゃ 」として扱 あつか われ、中国 ちゅうごく 人民 じんみん と同様 どうよう な苦難 くなん を嘗 な めてきたとされている。すなわちアメリカによる原爆 げんばく 投下 とうか は正当 せいとう なものであったが、その結果 けっか は被爆 ひばく 者 しゃ に多大 ただい な苦難 くなん を強 し いるものとなったという認識 にんしき である[ 153] 。また中国 ちゅうごく の教科書 きょうかしょ においては、日本 にっぽん で使 つか われる「終戦 しゅうせん 」という言葉 ことば は容認 ようにん されておらず、あくまでも「敗戦 はいせん 」、「日本 にっぽん 帝国 ていこく 主義 しゅぎ 」「日本 にっぽん ファシズム」を曖昧 あいまい なものにしないという姿勢 しせい が貫 つらぬ かれている[ 154] 。
一方 いっぽう 、韓国 かんこく の義務 ぎむ 教育 きょういく 課程 かてい で使 つか われる韓国 かんこく 史 し 教科書 きょうかしょ は1970年代 ねんだい より国定 こくてい 教科書 きょうかしょ となっているが、この中 なか で原爆 げんばく に関 かん する「特筆 とくひつ 」はなく「日 にち 帝 みかど 」という言葉 ことば を明確 めいかく に用 もち いて、併合 へいごう から独立 どくりつ (8・15光 ひかり 復 ふく )までの記載 きさい がなされているのみである[ 155] 。『中学校 ちゅうがっこう 社会 しゃかい 2』(内容 ないよう は世界 せかい 史 し )と『高等 こうとう 学校 がっこう 世界 せかい 史 し 』には「日本 にっぽん に原爆 げんばく が投下 とうか されて終戦 しゅうせん 」など短 みじか く書 か いてある。なお被爆 ひばく 者 しゃ については、ソンジ文化 ぶんか 社 しゃ の『中学校 ちゅうがっこう 社会 しゃかい 2』など、詳 くわ しく書 か かれている教科書 きょうかしょ もある。
韓国 かんこく の場合 ばあい 「日本 にっぽん 政府 せいふ の戦争 せんそう 責任 せきにん 」を問 と い、被爆 ひばく 者 しゃ 健康 けんこう 手帳 てちょう の交付 こうふ を申請 しんせい 、認 みと められてこれを所有 しょゆう する在 ざい 韓 かん ・在日 ざいにち 韓国 かんこく 人 じん 被爆 ひばく 者 しゃ があり、日本 にっぽん 国内 こくない で日本人 にっぽんじん 被爆 ひばく 者 しゃ と等 ひと しく治療 ちりょう を受 う けている人 ひと がいる。
韓国 かんこく の『中央日報 ちゅうおうにっぽう 』が2013年 ねん 5月 がつ 20日 はつか 付 づけ のコラムにて、日本 にっぽん への原爆 げんばく 投下 とうか を神 かみ の懲罰 ちょうばつ と主張 しゅちょう [ 156] 。在 ざい 韓国 かんこく 日本 にっぽん 大使館 たいしかん が中央日報 ちゅうおうにっぽう に対 たい し抗議 こうぎ をおこなったほか、菅 かん 義 よし 偉 えら 官房 かんぼう 長官 ちょうかん や被爆 ひばく 地 ち の市長 しちょう も同 どう コラムを批判 ひはん した。中央日報 ちゅうおうにっぽう は、「コラムは執筆 しっぴつ した論説 ろんせつ 委員 いいん の個人 こじん 的 てき な視角 しかく と主張 しゅちょう に基 もと づくもので、中央日報 ちゅうおうにっぽう の立場 たちば ではない」と反論 はんろん し[ 157] 、記事 きじ の撤回 てっかい を拒絶 きょぜつ した[ 158] [ 159] 。韓国 かんこく 外務省 がいむしょう も、「コラムの内容 ないよう は執筆 しっぴつ 者 しゃ の意見 いけん であり、韓国 かんこく 政府 せいふ の見解 けんかい ではない」との立場 たちば を表明 ひょうめい した[ 160] 。
また、韓国 かんこく の『朝鮮日報 ちょうせんにっぽう 』が2015年 ねん 8月 がつ 14日 にち 付 づけ の金 きむ 基 はじめ 哲 あきら 文化 ぶんか 部 ぶ 次長 じちょう のコラムにて、日本 にっぽん の原爆 げんばく 被害 ひがい 者 しゃ への追悼 ついとう を戦争 せんそう の加害 かがい 者 しゃ であることから目 め を背 そむ けさせる「犠牲 ぎせい 者 しゃ コスプレ 」であると非難 ひなん している[ 161] 。
2010年 ねん 2月 がつ 23日 にち 、イラン のアリー・ラリジャニ 国会 こっかい 議長 ぎちょう が衆議院 しゅうぎいん の招待 しょうたい で訪日 ほうにち し[ 162] 、同月 どうげつ 27日 にち には長崎 ながさき 市 し を訪 おとず れ、長崎 ながさき 原爆 げんばく 資料 しりょう 館 かん を見学 けんがく した後 のち 、「広島 ひろしま に原爆 げんばく を投下 とうか して核兵器 かくへいき の影響 えいきょう の大 おお きさを知 し りながら、長崎 ながさき にも落 お とした」と述 の べ、ホロコーストよりも、アメリカの核兵器 かくへいき 使用 しよう を問題 もんだい にするべきだとの認識 にんしき を示 しめ し[ 163] 、「世界 せかい に一 ひと つでも原爆 げんばく が存在 そんざい すれば人類 じんるい への脅威 きょうい だ。人々 ひとびと は、核 かく のない世界 せかい に向 む けて立 た ち上 あ がるべきだ」と感想 かんそう を述 の べた。