小笠原おがさわらさんきゅうろう」のはんあいだ差分さぶん

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2014ねん7がつ19にち (土) 12:33時点じてんにおけるはん

小笠原おがさわら さんきゅうろう
おがさわら さんくろう
生年月日せいねんがっぴ 1885ねん4がつ5にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 愛知あいちけん西尾にしおきゅう室場むろばむら
ぼつ年月日ねんがっぴ (1967-12-13) 1967ねん12月13にち(82さいぼつ
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがくげん東京大学とうきょうだいがく
ぜんしょく 台湾たいわん銀行ぎんこう行員こういん
台湾たいわん土地とち開拓かいたく社長しゃちょう
極洋きょくよう捕鯨ほげい代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう
太平洋海運たいへいようかいうん代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう会長かいちょう
所属しょぞく政党せいとう立憲りっけん政友せいゆうかい→)
翼賛よくさん政治せいじかい→)
だい日本にっぽん政治せいじかい→)
日本にっぽん進歩しんぽとう→)
無所属むしょぞく→)
自由党じゆうとう→)
自由民主党じゆうみんしゅとう
称号しょうごう 勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう1964ねん

内閣ないかく だい5吉田よしだ内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1953ねん5月21にち - 1954ねん12月10にち

内閣ないかく だい4吉田よしだ内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1952ねん11月29にち - 1953ねん5月21にち

内閣ないかく だい4吉田よしだ内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1952ねん10月30にち - 1952ねん12月5にち

内閣ないかく ぬさ原内はらうちかく
在任ざいにん期間きかん 1945ねん10月9にち - 1946ねん5月22にち

選挙せんきょ 愛知あいちけんだい4
当選とうせん回数かいすう 3かい
在任ざいにん期間きかん 1952ねん10月2にち - 1958ねん4がつ25にち

その職歴しょくれき
日本の旗 だい4だい 経済けいざい審議庁しんぎちょう長官ちょうかん兼任けんにん
1952ねん11月29にち - 1953ねん3月3にち
日本の旗 衆議院しゅうぎいん議員ぎいん
1932ねん2がつ21にち - 1946ねん5月22にち
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小笠原おがさわら さんきゅうろう(おがさわら さんくろう、1885ねん明治めいじ18ねん4がつ5にち - 1967ねん昭和しょうわ42ねん12月13にち)は、昭和しょうわ日本にっぽん男性だんせい政治せいじ実業じつぎょうもと商工しょうこう大臣だいじん農林のうりん大臣だいじん通商つうしょう産業さんぎょう大臣だいじん大蔵おおくら大臣だいじん西尾にしお名誉めいよ市民しみん

来歴らいれき人物じんぶつ

愛知あいちけん幡豆はずぐん室場むろばむらげん西尾にしお)に、小笠原おがさわらちょう左衛門さえもん三男さんなんさんじょ末子まっしとしてまれる。西尾にしお高等こうとう小学校しょうがっこうだいさん高等こうとう学校がっこうて、1911ねん明治めいじ44ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがくどく法科ほうか卒業そつぎょう台湾たいわん銀行ぎんこう入行にゅうこうする。東京とうきょう支店してん支配人しはいにん代理だいり広東かんとん支店してんちょうささえ合弁ごうべんの「華南かなん銀行ぎんこう」(本店ほんてん台北たいぺい専務せんむとうて、審査しんさだいいち課長かちょうとして、鈴木すずき商店しょうてん破綻はたん処理しょりにあたる。このとき、「自分じぶんには私利しり私欲しよく一切いっさいい」と主張しゅちょうする支配人しはいにん金子かねこ直吉なおきちかって「あなたは“所有しょゆうよく”はいかもれないが、“使用しようよく”については天下てんか無類むるいである。今後こんご私欲しよくいなどとは絶対ぜったいわせませんよ」と単刀直入たんとうちょくにゅうにいいはなち、金子かねこ沈黙ちんもくさせたことがある。

1926ねん大正たいしょう15ねんたいぎん退職たいしょく台湾たいわん土地とち開拓かいたく社長しゃちょうスマトラ護謨ごむ拓殖たくしょく監査かんさやくとうつとめたのち1932ねん昭和しょうわ7ねんだい18かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ立憲りっけん政友せいゆうかい公認こうにんきゅう愛知あいち4から立候補りっこうほはつ当選とうせんする。以後いご当選とうせん6かい政友せいゆうかい分裂ぶんれつ中島なかじま所属しょぞくだい日本にっぽん政治せいじかい政務せいむ調査ちょうさふく会長かいちょう大蔵おおくら政務次官せいむじかん小磯こいそ内閣ないかくとう歴任れきにんする。戦後せんごぬさ原内はらうちかく商工しょうこう大臣だいじんとして入閣にゅうかくもと三井みついそう元方もとかた理事りじちょう向井むかい忠晴ただはるもと運輸うんゆ大臣だいじんしょう日山ひやま直登なおとという大物おおもの招聘しょうへいしてそれぞれ貿易ぼうえきちょう長官ちょうかん石炭せきたんちょう長官ちょうかんえ、また大幅おおはば人事じんじ異動いどう断行だんこうして戦後せんご経済けいざい再建さいけんにあたった。

日本にっぽん進歩しんぽとう結成けっせい参加さんかしたが、翼賛よくさん選挙せんきょ翼賛よくさん政治せいじ体制たいせい協議きょうぎかい推薦すいせんけて当選とうせんしたため1946ねん公職こうしょく追放ついほうされた。1951ねん昭和しょうわ26ねん追放ついほう解除かいじょされ、翌年よくねんだい25かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ自由党じゆうとうから復活ふっかつ当選とうせんたす。同年どうねん10がつだい4吉田よしだ内閣ないかく農林のうりん大臣だいじんとして入閣にゅうかくし、同年どうねん12がつ通産つうさん大臣だいじんけん経済けいざい審議庁しんぎちょう長官ちょうかんてんずる(翌年よくねん3がつより通産つうさんしょう専任せんにん)。1953ねん昭和しょうわ28ねん)5がつだい5吉田よしだ内閣ないかく大蔵おおくら大臣だいじん就任しゅうにんし、当時とうじ大幅おおはば赤字あかじとなっていた国際こくさい収支しゅうし改善かいぜんすべく、国内こくない経済けいざい縮小しゅくしょうによって物価ぶっかげて国際こくさい競争きょうそうりょく向上こうじょうはかるため、財政ざいせい金融きんゆう一体いったい政策せいさく推進すいしんした。

1958ねん昭和しょうわ33ねん)、落選らくせんにより政界せいかい引退いんたいし、経済けいざいじんとしての活動かつどう専念せんねんする。日本にっぽん貿易ぼうえき振興しんこうかい南方みなかた農林のうりん協会きょうかいかく会長かいちょう極洋きょくよう捕鯨ほげいげん極洋きょくよう社長しゃちょう相談役そうだんやく太平洋海運たいへいようかいうん社長しゃちょう会長かいちょう相談役そうだんやくなどをつとめた。1964ねん昭和しょうわ39ねん勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう受章じゅしょう。1967ねん昭和しょうわ42ねん)12月13にち、82さい死去しきょ

年譜ねんぷ

年譜ねんぷ[1]

1885ねん明治めいじ18ねん) 4がつ5にち誕生たんじょうちち小笠原おがさわらちょう左衛門さえもんははせい。
1895ねん明治めいじ28ねん) 3がつしつじょう尋常じんじょう小学校しょうがっこう卒業そつぎょう、4がつ西尾にしお高等こうとう小学校しょうがっこう入学にゅうがく
1897ねん明治めいじ30ねん) 10がつちちちょう左衛門さえもん死去しきょ
1899ねん明治めいじ32ねん) 3月西尾にしお高等こうとう小学校しょうがっこう卒業そつぎょうさけ醸造じょうぞういとな西倉にしくら合資ごうし会社かいしゃ入社にゅうしゃ西倉にしくら実業じつぎょう補習ほしゅう学校がっこうにおいて学校がっこうちょう疋田ひきたかつら太郎たろうより醸造じょうぞうまなぶ。
1901ねん明治めいじ34ねん) 疋田ひきたかつら太郎たろうより東京とうきょう高等こうとう工業こうぎょう学校がっこうへの進学しんがくつよすすめられ、家族かぞく同意どういて3がつ西倉にしくら合資ごうし会社かいしゃ退職たいしょく上京じょうきょう築地つきじ工手こうしゅ学校がっこう入学にゅうがくするが東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく同校どうこうへの進学しんがく決心けっしんし、4がつ築地つきじ工手こうしゅ学校がっこう退学たいがく。12月私立しりつ大成たいせい中学校ちゅうがっこう欠員けついん募集ぼしゅう試験しけん受験じゅけんだいさん学年がくねん編入へんにゅう
1902ねん明治めいじ35ねん) 7がつ学力がくりょく不足ふそく痛感つうかん大成たいせい中学ちゅうがく退学たいがく正則せいそく英語えいご学校がっこうじゅんてんもとめごうしゃはい英語えいご数学すうがくまなぶ。
1903ねん明治めいじ36ねん) 4がつ私立しりついくぶんかん中学ちゅうがく編入へんにゅう試験しけん受験じゅけんだい学年がくねん入学にゅうがく
1904ねん明治めいじ37ねん) 3がついくぶんかん中学ちゅうがく卒業そつぎょう。9月だいさん高等こうとう学校がっこう大学だいがく一部いちぶおつるい入学にゅうがく
1907ねん明治めいじ40ねん) 7がつだいさん高等こうとう学校がっこう大学だいがく卒業そつぎょう。9月東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく法律ほうりつ学科がっか独逸どいつほう研修けんしゅう)に入学にゅうがく
1911ねん明治めいじ44ねん) 7がつ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく卒業そつぎょう。9月みかどだい岡野おかの敬次郎けいじろう教授きょうじゅ推薦すいせん株式会社かぶしきがいしゃ台湾たいわん銀行ぎんこう入社にゅうしゃ東京とうきょう支店してん勤務きんむ
1912ねん明治めいじ45ねん) 5月ははせい死去しきょ
1916ねん大正たいしょう5ねん) 台湾たいわん銀行ぎんこう中国ちゅうごく広東かんとん支店してんちょう
1919ねん大正たいしょう8ねん) 1がつ台湾たいわん銀行ぎんこう総務そうむ異動いどう華南かなん銀行ぎんこう専務せんむ取締役とりしまりやく兼務けんむ。5月華南かなん銀行ぎんこう専務せんむ兼務けんむのまましんよしみ支店してんちょう
1921ねん大正たいしょう10ねん) 1月より5がつまでひがしインド視察しさつ渡航とこう。7月台湾たいわん銀行ぎんこう大蔵省おおくらしょう検査けんさはいり、台湾たいわん銀行ぎんこう不良ふりょう債権さいけん華南かなん銀行ぎんこう肩代かたがわりがあきらかになったことにより、小笠原おがさわらふく華南かなん銀行ぎんこう常任じょうにん役員やくいん5めい華南かなん銀行ぎんこう台湾たいわん銀行ぎんこう)を退職たいしょく。しかし台湾たいわん銀行ぎんこう人材じんざい不足ふそくや、問題もんだい債権さいけん処理しょり小笠原おがさわらなんかかっていなかったことから台湾たいわん銀行ぎんこう復帰ふっきし、審査しんさだいいち部長ぶちょうとして台湾たいわん銀行ぎんこう不良ふりょう債権さいけん処理しょり担当たんとうする。
1926ねん大正たいしょう15ねん) 4がつ5にち台湾たいわん銀行ぎんこう退職たいしょく以降いこう南洋なんよう倉庫そうこ監査かんさやく大和やまと護謨ごむ栽培さいばい兼松日産農林かねまつにっさんのうりん取締役とりしまりやく・スマトラ護謨ごむ拓殖たくしょく監査かんさやく台湾たいわん土地とち開拓かいたく社長しゃちょうとう歴任れきにん
1928ねん昭和しょうわ3ねん) だい16かい衆議院しゅうぎいんそう選挙せんきょ愛知あいちけん4より立候補りっこうほするが落選らくせん
1932ねん昭和しょうわ7ねん) だい18かい衆院しゅういんせん立憲りっけん政友せいゆうかい公認こうにんとして立候補りっこうほはつ当選とうせん
1945ねん昭和しょうわ20ねん) 10がつぬさ原内はらうちかく商工しょうこう大臣だいじんとしてはつ入閣にゅうかく
1946ねん昭和しょうわ21ねん) 5月ぬさ原内はらうちかくそう辞職じしょく公職こうしょく追放ついほうともな政治せいじ活動かつどう停止ていし。7月日本にっぽん貿易ぼうえき振興しんこうかい会長かいちょう、8がつ極洋きょくよう捕鯨ほげいげん株式会社かぶしきがいしゃ極洋きょくよう監査かんさやく就任しゅうにんする。
1947ねん昭和しょうわ22ねん) 6がつ財団ざいだん法人ほうじん東京とうきょう連合れんごう防火ぼうか協会きょうかい会長かいちょう(1949ねん退任たいにん)に就任しゅうにん。12月極洋きょくよう捕鯨ほげい取締役とりしまりやく就任しゅうにん
1950ねん昭和しょうわ25ねん) 12月極洋きょくよう捕鯨ほげい社長しゃちょう就任しゅうにん(1952ねん11月退任たいにん)。
1951ねん昭和しょうわ26ねん) 2がつ太平洋海運たいへいようかいうんげん日本郵船にっぽんゆうせん子会社こがいしゃ)を設立せつりつ社長しゃちょう就任しゅうにん(1954ねん退任たいにん)。6月公職こうしょく追放ついほう解除かいじょされ、8がつ自由党じゆうとう入党にゅうとうする。
1952ねん昭和しょうわ27ねん) 10がつだい25かい衆院しゅういんせん自由党じゆうとう公認こうにんとして立候補りっこうほ当選とうせんだい4吉田よしだ内閣ないかく農林のうりん大臣だいじん就任しゅうにん、11月通商つうしょう産業さんぎょう大臣だいじん経済けいざい審議庁しんぎちょう長官ちょうかん兼任けんにん(12月より通産つうさん大臣だいじん専任せんにん)。
1953ねん昭和しょうわ28ねん) 5月だい5吉田よしだ内閣ないかく大蔵おおくら大臣だいじん就任しゅうにん
1954ねん昭和しょうわ29ねん) 12月7にち吉田よしだ内閣ないかくそう辞職じしょく翌日よくじつ自由党じゆうとう顧問こもん就任しゅうにん
1955ねん昭和しょうわ30ねん) 3月10日妻ひづま栄子えいこ死去しきょ。5がつ太平洋海運たいへいようかいうん社長しゃちょうさい就任しゅうにん。11月自由党じゆうとう解党かいとう自由民主党じゆうみんしゅとう発足ほっそく自由民主党じゆうみんしゅとう顧問こもん就任しゅうにん
1958ねん昭和しょうわ33ねん) だい28かい衆院しゅういんせん落選らくせん政界せいかい引退いんたい
1967ねん昭和しょうわ42ねん)、12月13にち死去しきょ

エピソード

大蔵省おおくらしょう検査けんさ岡田おかだしんのこと
1921ねん大正たいしょう10ねん)、台湾たいわん銀行ぎんこう大蔵省おおくらしょう岡田おかだしん特別とくべつ銀行ぎんこう課長かちょう責任せきにんしゃとする検査けんさはいった。これよりさきに、台湾たいわん銀行ぎんこう貸出かしだしちゅう不良ふりょうとみられるものの相当そうとうがく華南かなん銀行ぎんこう貸出かしだし肩代かたがわりがおこなわれていた。岡田おかだ課長かちょう追求ついきゅう華南かなん銀行ぎんこうおよ華南かなん銀行ぎんこう減配げんぱい整理せいりにまではなしおよぶこととなり、対向たいこうため役員やくいん全員ぜんいんそう辞職じしょくもうれたが岡田おかだかんがえにまったく影響えいきょうおよぼすことく、結果けっかてき華南かなん銀行ぎんこう常勤じょうきん役員やくいん5めい全員ぜんいん辞職じしょくするすることとなった。華南かなん銀行ぎんこう整理せいりあんかんして小笠原おがさわら岡田おかだとのあいだ激論げきろんわされたが、結果けっかてき二人ふたりあいだ個人こじんとしての信用しんよう芽生めばえ、華南かなん銀行ぎんこう退職たいしょく小笠原おがさわら台湾たいわん銀行ぎんこう重用じゅうようすべきとの口添くちぞえが岡田おかだより台湾たいわん銀行ぎんこう中川なかがわ頭取とうどりたいおこなわれた[2]
小笠原おがさわら東京とうきょう定住ていじゅうすることとなると、岡田おかだ小笠原おがさわらともにダンスレッスンをならったり、酒席しゅせきともにして抱負ほうふかたったりした。一時期いちじきらした池袋いけぶくろいえ岡田おかだ自宅じたくちかくとうことでもとめたものであり、また岡田おかだ市川いちかわ転居てんきょしたのち家族かぞくいちごりに岡田おかだたく邪魔じゃまするなど家族かぞくぐるみでった。岡田おかだ大蔵省おおくらしょう退任たいにんしたあと内務省ないむしょう官僚かんりょうみなみひろしられ東洋とうよう拓殖たくしょく理事りじ台湾たいわん総督そうとく財務局ざいむきょくちょう北海道拓殖銀行ほっかいどうたくしょくぎんこう頭取とうどりになったが、あるばん岡田おかだ自宅じたくて「満州まんしゅう興銀こうぎん総裁そうさいにならないかとはなしあるが、どうおもうか」との相談そうだんけた。小笠原おがさわらは「率直そっちょくうといま満州まんしゅう時代じだい国内こくない経済けいざいすら満州まんしゅうまわされる状況じょうきょうにある。ぼくならける。満州まんしゅうからかえってきたら大蔵おおくらはたけ指導しどうしゃになればい」と回答かいとうした。岡田おかだは「くんすすめるならっていちはたらきしてくるか」とかたった。岡田おかだ満州まんしゅう興銀こうぎん総裁そうさいとしてすこぶ評判ひょうばんたかかった。剛直ごうちょく恬淡てんたん親切しんせつ人情にんじょうあつすすんで他人たにんなんすくひとであったため、満州まんしゅうてき弾丸だんがんたおれることとなったのではないか、岡田おかだいたまれてたまらない[3]岡田おかだへのアドバイスがいままでの人生じんせいなかもっと後悔こうかいすべきことがらだ[4]
政界せいかい進出しんしゅつ
1925ねん大正たいしょう14ねんあき小笠原おがさわら台湾たいわん銀行ぎんこう頭取とうどり退任たいにんあいだもない中川なかがわしょう十郎じゅうろうから連絡れんらく訪問ほうもんした。中川なかがわたいぎん退職たいしょくしたとは貴族きぞくいん議員ぎいん立命館大学りつめいかんだいがく総長そうちょうつとめており政界せいかいたいして隠然いんぜんたるちからっていた。そのよう中川なかがわから「きみのような悍馬かんばしん頭取とうどりには無理むりかもしれないし、きみいまたいぎんはたらくのは面白おもしろくなかろう。ぼくきみをよくっているつもりだが、きみ素質そしつなら政治せいじとなるのが一番いちばんおおきくびる見込みこみがあるとおもう。もしきみがそのなら、資金しきんほうぼくができるだけ心配しんぱいするから、きみ選挙せんきょえらびたまえ。郷里きょうり三河みかわ適当てきとうおもうならば、早速さっそく郷里きょうりけん会議かいぎいんだとか、町村ちょうそんちょうだとか、地方ちほう有力ゆうりょくしゃその人々ひとびと接触せっしょくすることのつとめて、その準備じゅんびからなければならない。それとう人々ひとびとぼくわせたほうがよいとひとがいたら、いつでもってあげるから、紹介しょうかいないしってくればきみのためになるようにおはからいするから」と、中川なかがわ自身じしんすで小笠原おがさわら政界せいかい進出しんしゅつめたようなはなしされた。実際じっさい小笠原おがさわらたいぎんについてはくべき時期じきとのかんがえをっていたため、中川なかがわはなし小笠原おがさわらにとってわたりにふねはなしであった。その中川なかがわ小笠原おがさわらうたびに政界せいかい進出しんしゅつすすめ、小笠原おがさわらようやけっし1926ねん大正たいしょう15ねん)4がつ選挙せんきょ立候補りっこうほすべくたいぎん退職たいしょくした[5]

友人ゆうじん知人ちじん

著作ちょさく

  • 南洋なんよう紀要きよう」(小笠原おがさわらさん九郎くろうちょ 1927ねん
  • きんかいいれほうかねしょ問題もんだい」(小笠原おがさわらさん九郎くろうちょ りついのちかん出版しゅっぱん 1934ねん
  • 国政こくせい一新いっしん論叢ろんそう 高橋たかはし財政ざいせいさい吟味ぎんみ(小笠原おがさわらさんきゅうろう)・てつ関税かんぜい引下ひきさげいてのすう箇の疑点ぎてん(小笠原おがさわらさんきゅうろう)」(ごとうみ書房しょぼう 1935ねん
  • 事変じへん予算よさん経済けいざい昭和しょうわ13いたり14年版ねんばん)」(小笠原おがさわらさん九郎くろうちょ りついのちかん出版しゅっぱん 1939ねん
  • 東亜とうあ共栄きょうえいけん経済けいざい」(小笠原おがさわらさん九郎くろうちょ だい日本にっぽん法令ほうれい出版しゅっぱん 1941ねん
  • 日本にっぽん財政ざいせい:現状げんじょう将来しょうらい」(小笠原おがさわらさん九郎くろうちょ 実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ 1954ねん
  • 「ことわざ処世しょせいくん 上巻じょうかん下巻げかん」(小笠原おがさわらさん九郎くろうちょ 学風がくふう書院しょいん 1958ねん
  • わたし自己じこ診断しんだん」(小笠原おがさわらさん九郎くろうちょ 実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ 1962ねん
  • 人生じんせいみじかい:自伝じでん 上巻じょうかん下巻げかん」(小笠原おがさわらさんきゅうろうじゅつ 小笠原おがさわら秀郎ひでお 1967ねん

家族かぞく

  • ちち 小笠原おがさわらちょう左衛門さえもん
  • はは せい(いぬやしなえ吉右衛門きちえもんあね
  • 長兄ちょうけい 市次郎いちじろう愛知あいちけん幡豆はずぐん室場むろばむら村長そんちょう村会そんかい議員ぎいんとう歴任れきにんする。)
  • 次男じなん 夏目なつめ長四郎ちょうしろう夏目なつめ養子ようしとなる。愛知あいちけん額田ぬかたぐん幸田こうだむら村長そんちょう郵便ゆうびん局長きょくちょうとう歴任れきにんする。)
  • 長女ちょうじょ 鈴木すずきりょうじゅんあま知足ちそくてら庵主あんしゅ
  • さんじょ 沢田さわだせいじゅんあま

脚注きゃくちゅう

  1. ^ 人生じんせいみじか自伝じでん 小笠原おがさわらさんきゅうろうりゃく年譜ねんぷ」(小笠原おがさわらさん九郎くろうちょ 昭和しょうわ42ねん
  2. ^ 人生じんせいみじか自伝じでん 銀行ぎんこう検査けんさ役員やくいん辞職じしょく」(小笠原おがさわらさん九郎くろうちょ 昭和しょうわ42ねん
  3. ^ 人生じんせいみじか自伝じでん 岡田おかだしんのこと」(小笠原おがさわらさん九郎くろうちょ 昭和しょうわ42ねん
  4. ^ 小笠原おがさわらさんきゅうろう 岡田おかだしん遺族いぞくへの言葉ことば
  5. ^ 人生じんせいみじか自伝じでん 政界せいかい進出しんしゅつ準備じゅんび」(小笠原おがさわらさん九郎くろうちょ 昭和しょうわ42ねん

参考さんこう文献ぶんけん

  • 小笠原おがさわらさんきゅうろうでん」(常盤ひたち嘉治よしはるちょ 東洋とうようしょかん 1957ねん
  • 金融きんゆうかい5(7)1953ねん7がつ 小笠原おがさわらさんきゅうろう」(金融きんゆうかいしゃ
  • 経済けいざい新潮しんちょう1(7)1953ねん7がつ 小笠原おがさわらさんきゅうろう 経済けいざいじんひと」(経済けいざい新潮社しんちょうしゃ
  • 経済けいざい知識ちしき(172)1965ねん4がつ おも政治せいじ小笠原おがさわらさんきゅうろう 松本まつもと幸輝ゆきてるひさ」(しん経済けいざい知識ちしきしゃ
  • 農業のうぎょう経済けいざい34(7)1968ねん7がつ 小笠原おがさわらさんきゅうろう(戦後せんご歴代れきだい農相のうしょうろん13)」(昭和堂しょうわどう
公職こうしょく
先代せんだい
向井むかい忠晴ただはる
日本の旗 大蔵おおくら大臣だいじん
だい57だい:1953 - 1954
次代じだい
いち万田まんだ尚登なおと
先代せんだい
池田いけだ勇人はやと
日本の旗 通商つうしょう産業さんぎょう大臣だいじん
だい8-9だい:1952 - 1953
次代じだい
岡野おかのきよしごう
先代せんだい
池田いけだ勇人はやと
日本の旗 経済けいざい審議庁しんぎちょう長官ちょうかん
だい4だい:1952 - 1953
次代じだい
水田みずた三喜男みきお
先代せんだい
広川ひろかわひろしぜん
日本の旗 農林のうりん大臣だいじん
だい14だい:1952
次代じだい
広川ひろかわひろしぜん
先代せんだい
中島なかじま知久平ちくへい
日本の旗 商工しょうこう大臣だいじん
だい27だい:1945-1946
次代じだい
ほししま二郎じろう