小笠原 三 九 郎
おがさわら さんくろう | |
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3 | |
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その | |
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来歴 ・人物
1926
1958
年譜
- 1885
年 (明治 18年 ) 4月 5日 誕生 。父 小笠原 長 左衛門 ・母 せい。 - 1895
年 (明治 28年 ) 3月 室 場 尋常 小学校 卒業 、4月 西尾 高等 小学校 に入学 。 - 1897
年 (明治 30年 ) 10月 父 長 左衛門 死去 。 - 1899
年 (明治 32年 ) 3月西尾 高等 小学校 を卒業 、酒 醸造 を営 む西倉 合資 会社 に入社 。西倉 実業 補習 学校 において学校 長 疋田 桂 太郎 より醸造 を学 ぶ。 - 1901
年 (明治 34年 )疋田 桂 太郎 より東京 高等 工業 学校 への進学 を強 く勧 められ、家族 の同意 を得 て3月 西倉 合資 会社 を退職 し上京 。築地 工手 学校 に入学 するが東京 帝国 大学 を見 て同校 への進学 を決心 し、4月 築地 工手 学校 を退学 。12月私立 大成 中学校 の欠員 募集 試験 を受験 し第 三 学年 に編入 。 - 1902
年 (明治 35年 ) 7月 学力 不足 を痛感 し大成 中学 を退学 。正則 英語 学校 ・順 天 求 合 社 に入 り英語 ・数学 を学 ぶ。 - 1903
年 (明治 36年 ) 4月 私立 郁 文 館 中学 編入 試験 を受験 し第 五 学年 に入学 。 - 1904
年 (明治 37年 ) 3月 郁 文 館 中学 を卒業 。9月第 三 高等 学校 大学 予 科 一部 乙 類 に入学 。 - 1907
年 (明治 40年 ) 7月 第 三 高等 学校 大学 予 科 を卒業 。9月東京 帝国 大学 法科 大学 法律 学科 (独逸 法 研修 )に入学 。 - 1911
年 (明治 44年 ) 7月 東京 帝国 大学 を卒業 。9月帝 大 岡野 敬次郎 教授 の推薦 を得 て株式会社 台湾 銀行 に入社 、東京 支店 勤務 。 - 1912
年 (明治 45年 ) 5月母 せい死去 。 - 1916
年 (大正 5年 )台湾 銀行 (中国 )広東 支店 長 。 - 1919
年 (大正 8年 ) 1月 台湾 銀行 総務 部 に異動 、華南 銀行 専務 取締役 を兼務 。5月華南 銀行 専務 兼務 のまま新 嘉 坡支店 長 。 - 1921
年 (大正 10年 ) 1月より5月 まで東 インド視察 渡航 。7月台湾 銀行 に大蔵省 検査 が入 り、台湾 銀行 不良 債権 の華南 銀行 肩代 わりが明 らかになったことにより、小笠原 を含 む華南 銀行 常任 役員 5名 が華南 銀行 (台湾 銀行 )を退職 。しかし台湾 銀行 の人材 不足 や、問題 の債権 処理 に小笠原 は何 ら係 っていなかったことから台湾 銀行 に復帰 し、審査 第 一 部長 として台湾 銀行 不良 債権 処理 を担当 する。 - 1926
年 (大正 15年 ) 4月 5日 台湾 銀行 を退職 。以降 、南洋 倉庫 監査 役 ・大和 護謨 栽培 (後 の兼松日産農林 )取締役 ・スマトラ護謨 拓殖 監査 役 ・台湾 土地 開拓 社長 等 を歴任 。 - 1928
年 (昭和 3年 )第 16回 衆議院 総 選挙 で愛知 県 4区 より立候補 するが落選 。 - 1932
年 (昭和 7年 )第 18回 衆院 選 で立憲 政友 会 公認 として立候補 し初 当選 。 - 1945
年 (昭和 20年 ) 10月 幣 原内 閣 に商工 大臣 として初 入閣 。 - 1946
年 (昭和 21年 ) 5月幣 原内 閣 総 辞職 。公職 追放 に伴 い政治 活動 を停止 。7月日本 貿易 振興 会 会長 、8月 極洋 捕鯨 (現 株式会社 極洋 )監査 役 に就任 する。 - 1947
年 (昭和 22年 ) 6月 財団 法人 東京 連合 防火 協会 会長 (1949年 退任 )に就任 。12月極洋 捕鯨 取締役 に就任 。 - 1950
年 (昭和 25年 ) 12月極洋 捕鯨 社長 に就任 (1952年 11月退任 )。 - 1951
年 (昭和 26年 ) 2月 太平洋海運 (現 日本郵船 子会社 )を設立 し社長 に就任 (1954年 退任 )。6月公職 追放 が解除 され、8月 自由党 に入党 する。 - 1952
年 (昭和 27年 ) 10月 第 25回 衆院 選 に自由党 公認 として立候補 し当選 。第 4次 吉田 内閣 で農林 大臣 に就任 、11月通商 産業 大臣 ・経済 審議庁 長官 を兼任 (12月より通産 大臣 専任 )。 - 1953
年 (昭和 28年 ) 5月第 5次 吉田 内閣 で大蔵 大臣 に就任 。 - 1954
年 (昭和 29年 ) 12月7日 吉田 内閣 総 辞職 。翌日 自由党 顧問 に就任 。 - 1955
年 (昭和 30年 ) 3月10日妻 栄子 死去 。5月 太平洋海運 社長 に再 就任 。11月自由党 が解党 し自由民主党 が発足 、自由民主党 顧問 に就任 。 - 1958
年 (昭和 33年 )第 28回 衆院 選 で落選 し政界 引退 。 - 1967
年 (昭和 42年 )、12月13日 死去 。
エピソード
大蔵省 検査 と岡田 信 のこと- 1921
年 (大正 10年 )、台湾 銀行 に大蔵省 岡田 信 特別 銀行 課長 を責任 者 とする検査 が入 った。これより先 に、台湾 銀行 の貸出 中 不良 とみられるものの相当 額 が華南 銀行 貸出 に肩代 わりが行 われていた。岡田 課長 の追求 は華南 銀行 に及 び華南 銀行 の減配 ・整理 にまで話 が及 ぶこととなり、対向 の為 役員 全員 の総 辞職 を申 し入 れたが岡田 の考 えにまったく影響 を及 ぼすこと無 く、結果 的 に華南 銀行 常勤 役員 5名 が全員 辞職 するすることとなった。華南 銀行 整理 案 に関 して小笠原 と岡田 との間 で激論 が交 わされたが、結果 的 に二人 の間 に個人 としての信用 が芽生 え、華南 銀行 退職 後 は小笠原 を台湾 銀行 で重用 すべきとの口添 えが岡田 より台湾 銀行 中川 頭取 に対 し行 われた[2]。 小笠原 が東京 に定住 することとなると、岡田 と小笠原 は共 にダンスレッスンを習 ったり、酒席 を共 にして抱負 を語 り合 ったりした。一時期 暮 らした池袋 の家 も岡田 の自宅 の近 くと言 うことで買 い求 めたものであり、また岡田 が市川 に転居 した後 は家族 で苺 狩 りに岡田 宅 に邪魔 するなど家族 ぐるみで付 き合 った。岡田 は大蔵省 を退任 したあと内務省 官僚 の南 弘 に引 っ張 られ東洋 拓殖 理事 や台湾 総督 府 財務局 長 ・北海道拓殖銀行 頭取 になったが、ある晩 岡田 が自宅 に来 て「満州 興銀 総裁 にならないかと言 う話 あるが、どう思 うか」との相談 を受 けた。小笠原 は「率直 に言 うと今 は満州 時代 で国内 の経済 すら満州 に引 き回 される状況 にある。僕 なら受 ける。満州 から帰 ってきたら大蔵 畑 の指導 者 になれば良 い」と回答 した。岡田 は「君 も勧 めるなら行 って一 働 きしてくるか」と語 った。岡田 は満州 興銀 総裁 として頗 る評判 も高 かった。剛直 ・恬淡 ・親切 で人情 に篤 く進 んで他人 の難 を救 う人 であったため、満州 で敵 の弾丸 に倒 れることとなったのではないか、岡田 の死 が悼 まれてたまらない[3]。岡田 へのアドバイスが今 までの人生 の中 で最 も後悔 すべきことがらだ[4]。
政界 進出 - 1925
年 (大正 14年 )秋 、小笠原 は台湾 銀行 頭取 を退任 間 もない中川 小 十郎 から連絡 を受 け訪問 した。中川 は台 銀 を退職 したとは言 え貴族 院 議員 で立命館大学 総長 を勤 めており政界 に対 して隠然 たる力 を持 っていた。その様 な中川 から「君 のような悍馬 は新 頭取 には無理 かもしれないし、君 も今 の台 銀 で働 くのは面白 くなかろう。僕 は君 をよく知 っているつもりだが、君 の素質 なら政治 家 となるのが一番 大 きく伸 びる見込 みがあると思 う。もし君 がその気 なら、資金 の方 は僕 ができるだけ心配 するから、君 は選挙 区 を選 びたまえ。郷里 の三河 が適当 と思 うならば、早速 、郷里 の県 会議 員 だとか、町村 長 だとか、地方 有力 者 その他 の人々 と接触 することのつとめて、その準備 に取 り掛 からなければならない。それ等 の人々 で僕 に会 わせた方 がよいと言 う人 がいたら、いつでも会 ってあげるから、紹介 ないし引 っ張 ってくれば君 のためになるようにお取 り計 らいするから」と、中川 自身 が既 に小笠原 の政界 進出 を決 めたような話 を出 された。実際 小笠原 も台 銀 については身 を引 くべき時期 との考 えを持 っていたため、中川 の話 は小笠原 にとって渡 りに船 の話 であった。その後 、中川 は小笠原 に会 うたびに政界 進出 を勧 め、小笠原 も漸 く意 を決 し1926年 (大正 15年 )4月 の選挙 の立候補 すべく台 銀 を退職 した[5]。
友人 ・知人
著作
- 「
南洋 紀要 」(小笠原 三 九郎 著 1927年 ) - 「
金 買 入 法 と金 の諸 問題 」(小笠原 三 九郎 著 立 命 館 出版 部 1934年 ) - 「
国政 一新 論叢 高橋 財政 の再 吟味 (小笠原 三 九 郎 )・鉄 関税 引下 に就 いての数 箇の疑点 (小笠原 三 九 郎 )」(言 海 書房 1935年 ) - 「
事変 下 の予算 と経済 (昭和 13至 14年版 )」(小笠原 三 九郎 著 立 命 館 出版 部 1939年 ) - 「
東亜 共栄 圏 と経済 」(小笠原 三 九郎 著 大 日本 法令 出版 1941年 ) - 「
日本 の財政 :現状 と将来 」(小笠原 三 九郎 著 実業之日本社 1954年 ) - 「ことわざ
処世 訓 上巻 下巻 」(小笠原 三 九郎 著 学風 書院 1958年 ) - 「
私 の自己 診断 」(小笠原 三 九郎 著 実業之日本社 1962年 ) - 「
人生 は短 い:自伝 上巻 下巻 」(小笠原 三 九 郎 述 小笠原 秀郎 1967年 )
家族
父 小笠原 長 左衛門 母 せい(犬 養 吉右衛門 の姉 )長兄 市次郎 (愛知 県 幡豆 郡 室場 村 村長 ・村会 議員 等 を歴任 する。)次男 夏目 長四郎 (夏目 家 の養子 となる。愛知 県 額田 郡 幸田 村 村長 ・郵便 局長 等 を歴任 する。)長女 鈴木 了 順 尼 (知足 寺 庵主 )三 女 沢田 性 順 尼
脚注
参考 文献
- 「
小笠原 三 九 郎 伝 」(常盤 嘉治 著 東洋 書 館 1957年 ) - 「
金融 界 5(7)1953年 7月 小笠原 三 九 郎 」(金融 界 社 ) - 「
経済 新潮 1(7)1953年 7月 小笠原 三 九 郎 経済 人 ・時 の人 」(経済 新潮社 ) - 「
経済 知識 (172)1965年 4月 思 い出 の政治 家 ・小笠原 三 九 郎 松本 幸輝 久 」(新 経済 知識 社 ) - 「
農業 と経済 34(7)1968年 7月 小笠原 三 九 郎 (戦後 歴代 農相 論 13)」(昭和堂 )
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