(Translated by https://www.hiragana.jp/)
フランク永井 - Wikipedia コンテンツにスキップ

フランク永井ながい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
フランク永井ながい
335 × 400
基本きほん情報じょうほう
出生しゅっしょうめい 永井ながい 清人きよひと
生誕せいたん 1932ねん3月18にち
出身しゅっしん 日本の旗 日本にっぽん宮城みやぎけん志田しだぐん松山まつやままちげん大崎おおさき
死没しぼつ (2008-10-27) 2008ねん10月27にち(76さいぼつ
職業しょくぎょう 歌手かしゅ
活動かつどう期間きかん 1955ねん - 1985ねん
レーベル ビクターエンタテインメント

フランク 永井ながい(フランク ながい[注釈ちゅうしゃく 1]1932ねん昭和しょうわ7ねん3月18にち - 2008ねん平成へいせい20ねん10月27にち)は日本にっぽんムード歌謡かよう歌手かしゅである。

本名ほんみょう永井ながい 清人きよひと(ながい きよと)。「魅惑みわく低音ていおん」としょうされた独特どくとくゆたかな低音ていおん武器ぶきに、である作曲さっきょく吉田よしだただしよしメロ)とともに都会とかいてきジャズテイストあふれるムード歌謡かようのジャンルをひらき、すうおおくのヒットきょくおくった。

経歴けいれき

[編集へんしゅう]

歌手かしゅデビュー

[編集へんしゅう]

幼少ようしょうちちくし、芝居しばい小屋こや経営けいえいするははそだてられる[1]幼少ようしょうから歌手かしゅつよあこがれがあり、旧制きゅうせい宮城みやぎけん古川ふるかわ中学校ちゅうがっこうげん宮城みやぎけん古川ふるかわ高等こうとう学校がっこう卒業そつぎょう昭和しょうわ26ねんごろに東京とうきょう就職しゅうしょくしていたあにたよ上京じょうきょうし、進駐軍しんちゅうぐんのキャンプでのトレーラー運転うんてんしゅ、アルバイト生活せいかつおくる。その朝霞あさがすみにあったアメリカ駐留ちゅうりゅうぐんのキャンプ・ドレークの下士官かしかんクラブ専属せんぞくジャズ・シンガーとして100ドルの月給げっきゅうかせぎながら、さまざまなのど自慢じまん大会たいかいで「ノド自慢じまんらし」とばれるそのちから発揮はっきしていたが[2]1955ねん昭和しょうわ30ねん)に日本にほんテレビの『素人しろうとのど自慢じまん』の年間ねんかんベストワンにえらばれたのをに、ビクター契約けいやく同年どうねん9がつに「恋人こいびとかえ」でデビューした。

ジャズ得意とくいとしたがヒットにめぐまれず、先輩せんぱい歌手かしゅであるディック・ミネすすめや、作曲さっきょく吉田よしだただしとの出会であいを歌謡かようきょく転向てんこうした。1957ねん昭和しょうわ32ねん)の有楽町ゆうらくちょうそごう2000ねん閉店へいてんキャンペーンソングであった「有楽町ゆうらくちょういましょう」が空前くうぜんのヒットとなり[3]、さらにすで発表はっぴょうしていた「東京とうきょう午前ごぜんさん」「夜霧よぎりだい国道こくどう」も相乗そうじょうヒットとなり、一躍いちやくトップスターとなる。1959ねん昭和しょうわ34ねん)のビクターの歌謡かようきょく流行りゅうこう)レコード売上うりあげで「夜霧よぎりえたチャコ」が年間ねんかん1獲得かくとくしたほか、トップ10ないに5さくがランクインした[4]同年どうねんみずか見出みいだした松尾まつお和子かずこともうたった「東京とうきょうナイト・クラブ」は、デュエットソング定番ていばんとして2000年代ねんだいにおいてもうたがれている。

日本にっぽんレコード大賞たいしょう受賞じゅしょう紅白こうはく歌合戦うたがっせん26かい連続れんぞく出場しゅつじょう

[編集へんしゅう]

1961ねん昭和しょうわ36ねん)には1922ねん大正たいしょう11ねん)の二村にむら定一さだいち流行りゅうこうきみこい[注釈ちゅうしゃく 2]ジャズふうにアレンジしたリバイバルがだいヒット。同年どうねんだい3かい日本にっぽんレコード大賞たいしょう受賞じゅしょう人気にんき不動ふどうのものとする。吉田よしだとのコンビでも「きりのタンゴ」、「つまこいうるうた」などのヒットにめぐまれたが、なかでも1966ねん昭和しょうわ41ねん)に「大阪おおさかろまん」のBめん収録しゅうろくきょくとして発表はっぴょうされた「おまえに」は、6ねん1972ねん昭和しょうわ47ねん)にはAめんとしてさい発売はつばいされ、さらに5ねん1977ねん昭和しょうわ52ねん)には、新規しんきさい録音ろくおんされた。2000年代ねんだいにおいて一般いっぱんてきかれている「おまえに」は後者こうしゃ録音ろくおんであることがおおい。

また、「きみこいし」をロカビリーふうおよびゴーゴーふうのアレンジでさい録音ろくおんしたり、1973ねん昭和しょうわ48ねん)にはイタリアび、トランペッターのニニ・ロッソ共演きょうえん、レコーディングをおこなった。ニニ・ロッソとは前年ぜんねんの「だい23かいNHK紅白こうはく歌合戦うたがっせん」で「きみこいし」を歌唱かしょうしたさいはつ共演きょうえんしている。

コンサートにおいては、趣向しゅこうらし緻密ちみつげられた構成こうせいのステージングでられ、やく5ねんごとにおおきなリサイタルをひらいたが、そのうちのいくつかは芸術げいじゅつさい受賞じゅしょうしている。永井ながい進駐軍しんちゅうぐんのクラブ歌手かしゅをしていた経験けいけんから英語えいご堪能かんのうであり、ステージでスタンダード・ナンバーや、「きりのタンゴ」の英語えいごばんなどもうたうことがあった。

海外かいがい公演こうえんもこなし、台湾たいわん(ここでの公演こうえんで「きりのタンゴ」英語えいごばんはつ披露ひろうしたという)や韓国かんこくなどでコンサートをおこなっている。とくに1968ねん韓国かんこく公演こうえんは、戦後せんごはじめての朝鮮半島ちょうせんはんとうにおける日本にっぽん流行りゅうこう歌手かしゅらいかん公演こうえん、と半島はんとう話題わだいった。ただし当時とうじ日本語にほんご楽曲がっきょく披露ひろう反日はんにち感情かんじょうから規制きせいされており、当初とうしょ洋楽ようがく限定げんていでのステージングであったが、観客かんきゃくからのつよ要望ようぼうで「有楽町ゆうらくちょういましょう」ほか4きょく日本語にほんご披露ひろうして喝采かっさいびた(当局とうきょく黙認もくにんというかたちった)。[よう出典しゅってん]

NHKいちせき披露ひろうしたこともあるほどの落語らくごきとしてもられ、ステージのMC落語らくごの「あいだ」を参考さんこうにし、日常にちじょうはなしネタになることはつねにメモをり、それをしょうはなし仕立したてて披露ひろうした。自宅じたく電話でんわ保留ほりゅうおんはファンだった8代目だいめさんわらいていらく囃子ばやしにしていた。らく高座こうざでも「フランク永井ながいってひとがあたしを贔屓ひいきにしてくれるんですよ」とはなしており、十八番じゅうはちばんの「らくだ」の屑屋くずや科白せりふに「くず〜うぃ。……低音ていおん魅力みりょくだね。こりゃあ」というくすぐりれていた。8代目だいめかつら文楽ぶんらくとも交流こうりゅうがあり、10代目だいめ柳家やなぎやしょう三治さんじとはゴルフ友達ともだち間柄あいだがらであった。しょうさん高座こうざでははなしのマクラでフランクとの交流こうりゅうかたられることもあった。

またまき伸二しんじも、げいの「ウクレレ漫談まんだん」で「フランク永井ながい低音ていおん魅力みりょくまき伸二しんじ低能ていのう魅力みりょく」というネタを披露ひろうしていた。

日本にっぽんレコード大賞たいしょうでは大賞たいしょうを1かい歌唱かしょうしょうを2かい特別とくべつしょうを3かい受賞じゅしょうしている。NHK紅白こうはく歌合戦うたがっせん常連じょうれん出場しゅつじょうしゃとしてもられ、1957ねん昭和しょうわ32ねん)のだい8かいから1982ねん昭和しょうわ57ねん)のだい33かいまで連続れんぞく26かい出場しゅつじょうし、現役げんえき出場しゅつじょう島倉しまくら千代子ちよこならんで最多さいた出場しゅつじょうしゃ記録きろくっていた。昭和しょうわ50年代ねんだい以後いごも「おまえに」「公園こうえん手品てじな」「WOMAN」(山下やました達郎たつお作詞さくし作曲さっきょく)などヒットさく話題わだいさくおくし、1980年代ねんだいはいってからも自身じしんうた原点げんてんであるジャズ・スタンダードを精力せいりょくてきうたはじめるなど、歌謡かようかいには比較的ひかくてきめずらしい演歌えんかけい大御所おおごしょ歌手かしゅとして存在そんざいかんしめしていた。

しかし1983ねん昭和しょうわ58ねん)の「だい34かいNHK紅白こうはく歌合戦うたがっせん」は落選らくせんとなった。このことは当時とうじ永井ながいにとっておおきなショックだったともわれ、自身じしんは「今年ことし紅白こうはくにはなれない」とコメントしていたという。[よう出典しゅってん]その自殺じさつ未遂みすい事件じけん後述こうじゅつ)の影響えいきょうで、紅白こうはく歌合戦うたがっせんへのカムバック出演しゅつえんたすことはできなかった。

自殺じさつ未遂みすい

[編集へんしゅう]

1985ねん昭和しょうわ60ねん10月21にち当時とうじ53さい)、自宅じたく階段かいだんでロープをくく首吊くびつ自殺じさつはかる。そのすうふん永井ながい夫人ふじんによって発見はっけんされ、発見はっけんはやかったこともありかろうじて一命いちめいめた。だがのう障害しょうがいのこり、会話かいわ不自由ふじゆうとなったほか、記憶きおくとぼしくなるなどの後遺症こういしょうわずらってしまう[5]

一時いちじリハビリ治療ちりょうによって看護かんご冗談じょうだんえるほどにまで回復かいふくし、早期そうき復帰ふっき見込みこみもったほどであった。しかしそのはそれ以上いじょう回復かいふくしなかったばかりか次第しだい悪化あっかしはじめる。家族かぞく関係かんけいしゃ四国しこくでの転地てんち療養りょうようなど、様々さまざま方法ほうほうこころみたものの結局けっきょく好転こうてんしなかった。やがて周囲しゅうい復帰ふっき絶望ぜつぼうてき見切みきりをつけるが、恩師おんし吉田よしだただしだけは最期さいごまであきらめず永井ながいをよく見舞みまい、周囲しゅういにも「フランクにうたわせたいきょくがいっぱいあるんだ」とかたっていた。

1959ねん永井ながい27さい当時とうじ)に結婚けっこんして以来いらい愛妻あいさいとしてられたが夫婦ふうふあいだ子供こどもはなかった。四半世紀しはんせいき以上いじょうった夫人ふじんは、永井ながい介護かいご問題もんだいおよび財産ざいさん問題もんだいでの親族しんぞくとのトラブルによる心労しんろうからうつびょうわずらい、[よう出典しゅってん]夫人ふじんも1991ねんにガス自殺じさつはか一命いちめいめたが、家事かじはできない健康けんこう状態じょうたいになっていたという[6]1992ねん6がつ21にち永井ながい夫人ふじん離婚りこん。その仙台せんだいから上京じょうきょうした実姉じっし一緒いっしょらしていたが、実姉じっし高齢こうれいであることや金銭きんせんてき問題もんだいから自宅じたく売却ばいきゃくし、実姉じっしとともに有料ゆうりょう老人ろうじんホーム入居にゅうきょ介護かいごけていた。[よう出典しゅってん]自宅じたく跡地あとちパプアニューギニア大使館たいしかんとなっている[7]

76さい死去しきょ

[編集へんしゅう]
フランク永井ながい展示てんじしつがある大崎おおさき松山まつやまふるさと歴史れきしかん

2008ねん平成へいせい20ねん10月27にち東京とうきょう自宅じたく肺炎はいえんのため死去しきょ[8]。76さいだった。一般いっぱんへの情報じょうほう公開こうかいまえに、葬儀そうぎ告別こくべつしき密葬みっそうおこなわれた。喪主もしゅ実姉じっしつとめた。

戒名かいみょうは「えいいさおいんどうかん慈調きよし居士こじ(えいとくいんどうかんじちょうせいこじ)」。身内みうちだけの密葬みっそうだったため、2009ねん2がつ27にち永井ながいふるくから音楽おんがく芸能げいのう関係かんけいしゃによって「フランク永井ながいしのかい」がいとなまれた[9]

2009ねん3月2にち出身しゅっしんである宮城みやぎけん大崎おおさきの「特別とくべつ功績こうせきしゃだい1ごうえらばれる。特別とくべつ功績こうせきしょう名誉めいよ市民しみんじゅんじた業績ぎょうせきのあった故人こじん対象たいしょうで、2がつ創設そうせつされた。また2009ねん10月27にちには大崎おおさき松山まつやまふるさと歴史れきしかんうちに、トロフィーやレコード、愛用あいようひんなどを展示てんじする「フランク永井ながい展示てんじしつ」がオープンした。2009ねん3月16にちには大崎おおさき松山まつやま体育館たいいくかんで「だい1かいフランク永井ながいうたコンクール」が開催かいさいされ、以降いこう毎年まいとし3がつ開催かいさいされるようになった[10]

エピソード

[編集へんしゅう]
  • 永井ながい熱烈ねつれつ東京とうきょう讀賣よみうり巨人軍きょじんぐんファンとしてもられた。1982ねん、テレビ番組ばんぐみで「巨人きょじん優勝ゆうしょうしなかったら丸坊主まるぼうずになる」と宣言せんげんした司会しかいしゃ徳光とくみつ和夫かずお当時とうじ日本にほんテレビアナウンサー)が、巨人きょじん中日ちゅうにちドラゴンズに0.5ゲーム優勝ゆうしょうのがしたため公約こうやくどお丸坊主まるぼうずになったのにたいし、永井ながいは「いさおちゃん、来年らいねん1983ねん優勝ゆうしょうすればいいんだよ。オレだってくやしかったんだから」とって、徳光とくみつなぐさめた[11]という。なお実際じっさい巨人きょじんよく1983ねん優勝ゆうしょうしている。
  • ビクターのフランク永井ながいのヒットをけ、テイチクレコード対抗たいこうとして、ジェームス三木みきという新人しんじん歌手かしゅをデビューさせ、懸命けんめいしたもののまったず、その歌手かしゅ歌手かしゅ廃業はいぎょうしてシナリオライター転向てんこうした。

おも作品さくひん

[編集へんしゅう]
有楽町ゆうらくちょういましょう

ほんこうには代表だいひょうきょく記載きさいくわしいディスコグラフィーはフランク永井ながいのディスコグラフィー参照さんしょう

  • 13800えん 1957ねん昭和しょうわ32ねん) - 13800えんは、当時とうじ大卒だいそつ初任しょにんきゅう平均へいきんがく
  • 東京とうきょう午前ごぜんさん 1957ねん昭和しょうわ32ねん
  • 夜霧よぎりだい国道こくどう 1957ねん昭和しょうわ32ねん
  • 有楽町ゆうらくちょういましょう 1957ねん昭和しょうわ32ねん) - 読売よみうり会館かいかん開業かいぎょうした有楽町ゆうらくちょうそごうのキャンペーンソング。本来ほんらい三浦みうらこういち予定よていさくだったが、作曲さっきょくした吉田よしだただしつよ希望きぼう永井ながいまわった。
  • 羽田はたはつ750ふん 1958ねん昭和しょうわ33ねん
  • 街角まちかどのギター 1958ねん昭和しょうわ33ねん
  • 西にし銀座ぎんざ駅前えきまえ 1958ねん昭和しょうわ33ねん
  • こいさんのラブ・コール 1958ねん昭和しょうわ33ねん
  • ラブ・レター 1958ねん昭和しょうわ33ねん
  • おれさびしいんだ 1958ねん昭和しょうわ33ねん
  • 夜霧よぎりえたチャコ 1959ねん昭和しょうわ34ねん
  • 東京とうきょうナイト・クラブ 1959ねん昭和しょうわ34ねん) - 松尾まつお和子かずことのデュエットきょく
  • こいよる 1959ねん昭和しょうわ34ねん
  • つめたいキッス 1959ねん昭和しょうわ34ねん
  • 1960ねん昭和しょうわ35ねん
  • 大阪おおさか野郎やろう 1960ねん昭和しょうわ35ねん
  • 東京とうきょうカチート 1960ねん昭和しょうわ35ねん
  • きみこい 1961ねん昭和しょうわ36ねん) - もと二村にむら定一さだいちのヒットきょく1928ねん昭和しょうわ3ねん))。
  • かなしみはえない 1962ねん昭和しょうわ35ねん
  • 初恋はつこい 1962ねん昭和しょうわ35ねん
  • きりのタンゴ 1962ねん昭和しょうわ37ねん
  • しん東京とうきょう小唄こうた 1962ねん昭和しょうわ37ねん
  • あかちゃんは王様おうさま1963ねん昭和しょうわ38ねん
  • 戦場せんじょうこい 1963ねん昭和しょうわ38ねん
  • いたくて 1963ねん昭和しょうわ38ねん
  • 冬子どんこというおんな 1964ねん昭和しょうわ39ねん
  • 国道こくどう18号線ごうせん 1964ねん昭和しょうわ39ねん) - 松尾まつお和子かずことのデュエットきょく
  • 大阪おおさかぐらし 1964ねん昭和しょうわ39ねん
  • 悲恋ひれんのワルツ 1964ねん昭和しょうわ39ねん
  • こいうた(ラブ・コール) 1964ねん昭和しょうわ39ねん
  • わたしゃ人生じんせい大学生だいがくせい 1965ねん昭和しょうわ40ねん
  • つまこいうるうた 1965ねん昭和しょうわ40ねん
  • かえしておくれ いますぐに 1965ねん昭和しょうわ40ねん) - ザ・ピーナッツボニージャックス市川いちかわ染五郎そめごろう松本まつもと幸四郎こうしろう (9代目だいめ))との競作きょうさく吉展よしのりちゃん誘拐ゆうかい殺人さつじん事件じけん犯人はんにんへのびかけのうたで、犯人はんにん逮捕たいほ封印ふういんされた(のちにCDされている)。
  • 東京とうきょうしぐれ 1965ねん昭和しょうわ40ねん
  • 大阪おおさかろまん 1966ねん昭和しょうわ41ねん
  • 船場ふなばごころ 1967ねん昭和しょうわ42ねん
  • 加茂川かもがわブルース 1968ねん昭和しょうわ43ねん
  • おまえに 1977ねん昭和しょうわ52ねん) - もとは「大阪おおさかろまん」Bめんきょく1972ねん昭和しょうわ47ねん)にもシングル発売はつばい
  • 11ぎから 1977ねん昭和しょうわ52ねん) - 松尾まつお和子かずことのデュエットきょく
  • 公園こうえん手品てじな 1978ねん昭和しょうわ53ねん)- 永井ながい自身じしんによるリメイク。もとは1958ねん昭和しょうわ33ねん)の作品さくひん
  • WOMAN 1982ねん昭和しょうわ57ねん) - 山下やました達郎たつおプロデュース作品さくひん同年どうねんサントリー『樹氷じゅひょうCMイメージソング。
  • 六本木ろっぽんぎワルツ 1985ねん昭和しょうわ60ねん) - 生前せいぜん最後さいごのレコーディングきょくとなった。

映画えいが

[編集へんしゅう]
  • 有楽町ゆうらくちょういましょう』(1957ねん大映だいえい)- 映画えいが冒頭ぼうとう主題歌しゅだいか歌唱かしょう
  • 夜霧よぎりだい国道こくどう』(1958ねん日活にっかつ)- 本人ほんにん歌手かしゅやく
  • 西にし銀座ぎんざ駅前えきまえ』(1958ねん日活にっかつ)- うたとジョッキー
  • 羽田はたはつ750ふん』(1958ねん日活にっかつ)- テストドライバー永井ながい通称つうしょうフランク)やく

ほか多数たすう

テレビ番組ばんぐみ

[編集へんしゅう]

受賞じゅしょうれき

[編集へんしゅう]
日本にっぽんレコード大賞たいしょう
そのしょう
  • 1965ねん昭和しょうわ40ねん) - リサイタル「慕情ぼじょう-うたともに10ねん」 - 芸術げいじゅつさい奨励しょうれいしょう
  • 1970ねん昭和しょうわ45ねん) - リサイタル「ある歌手かしゅよろこびとかなしみの記録きろく」 - 芸術げいじゅつさい優秀ゆうしゅうしょう
  • 1971ねん昭和しょうわ46ねん) - 芸術げいじゅつ選奨せんしょう文部もんぶ大臣だいじんしょう歌謡かようきょく歌手かしゅとしてはつ受賞じゅしょう

NHK紅白こうはく歌合戦うたがっせん出場しゅつじょうれき

[編集へんしゅう]

永井ながいは1957ねん昭和しょうわ32ねん)のだい8かいはつ出場しゅつじょう以来いらい、1976ねん昭和しょうわ51ねん)のだい27かいおなじくだい8かいはつ出場しゅつじょう島倉しまくら千代子ちよことも史上しじょうはつの20かい連続れんぞく出場しゅつじょう記録きろく樹立じゅりつ。その、1982ねん昭和しょうわ57ねん)まで連続れんぞく26かい出場しゅつじょうした。また三波みなみ春夫はるお1984ねん昭和しょうわ59ねん)に27かい出場しゅつじょうめるまでしろぐみ史上しじょう最多さいた出場しゅつじょうしゃであった。

年度ねんど/放送ほうそうかい かい 曲目きょくもく 出演しゅつえんじゅん 対戦たいせん相手あいて 備考びこう
1957ねん昭和しょうわ32ねん)/だい8かい はつ 東京とうきょう午前ごぜんさん 10/25 大津おおつ美子よしこ 紅白こうはくはつ出場しゅつじょう
1958ねん昭和しょうわ33ねん)/だい9かい 2 西にし銀座ぎんざ駅前えきまえ 10/25 越路こしじ吹雪ふぶき
1959ねん昭和しょうわ34ねん)/だい10かい 3 おれさびしいんだ 12/25 ペギぺぎ葉山はやま
1960ねん昭和しょうわ35ねん)/だい11かい 4 東京とうきょうカチート 12/27 越路こしじ吹雪ふぶき(2)
1961ねん昭和しょうわ36ねん)/だい12かい 5 きみこい 12/25 ペギぺぎ葉山はやま(2)
1962ねん昭和しょうわ37ねん)/だい13かい 6 きりのタンゴ 24/25 西田にしだ佐知子さちこ トリまえ
1963ねん昭和しょうわ38ねん)/だい14かい 7 いたくて 16/25 越路こしじ吹雪ふぶき(3)
1964ねん昭和しょうわ39ねん)/だい15かい 8 大阪おおさかぐらし 15/25 ペギぺぎ葉山はやま(3)
1965ねん昭和しょうわ40ねん)/だい16かい 9 東京とうきょうしぐれ 22/25 坂本さかもとスミ子すみこ
1966ねん昭和しょうわ41ねん)/だい17かい 10 大阪おおさかろまん 24/25 西田にしだ佐知子さちこ(2) トリまえ(2)
1967ねん昭和しょうわ42ねん)/だい18かい 11 生命せいめいあるかぎ 11/23 きし洋子ようこ
1968ねん昭和しょうわ43ねん)/だい19かい 12 加茂川かもがわブルース 07/23 三沢みさわあけみ(2)
1969ねん昭和しょうわ44ねん)/だい20かい 13 きみこいし(2かい 20/23 ザ・ピーナッツ
1970ねん昭和しょうわ45ねん)/だい21かい 14 大阪おおさかなが 15/24 辺見へんみマリ
1971ねん昭和しょうわ46ねん)/だい22かい 15 羽田はたはつ750ふん 17/25 本田ほんだ路津子るつこ
1972ねん昭和しょうわ47ねん)/だい23かい 16 きみこいし(3かい 18/23 島倉しまくら千代子ちよこ トランペットに
ニニ・ロッソ参加さんか
1973ねん昭和しょうわ48ねん)/だい24かい 17 有楽町ゆうらくちょういましょう 17/22 佐良さら直美なおみ
1974ねん昭和しょうわ49ねん)/だい25かい 18 おまえに 22/25 青江あおえ三奈みな
1975ねん昭和しょうわ50ねん)/だい26かい 19 きみこいし(4かい 20/24 八代やしろ亜紀あき
1976ねん昭和しょうわ51ねん)/だい27かい 20 東京とうきょう午前ごぜんさん(2かい 18/24 島倉しまくら千代子ちよこ(2)
1977ねん昭和しょうわ52ねん)/だい28かい 21 おまえに(2かい 16/24 いしだあゆみ
1978ねん昭和しょうわ53ねん)/だい29かい 22 公園こうえん手品てじな 14/24 水前寺すいぜんじ清子きよこ
1979ねん昭和しょうわ54ねん)/だい30かい 23 東京とうきょう午前ごぜんさん(3かい 17/23 島倉しまくら千代子ちよこ(3)
1980ねん昭和しょうわ55ねん)/だい31かい 24 こいはお洒落しゃれ 14/23 島倉しまくら千代子ちよこ(4)
1981ねん昭和しょうわ56ねん)/だい32かい 25 おまえに(3かい 09/22 島倉しまくら千代子ちよこ(5)
1982ねん昭和しょうわ57ねん)/だい33かい 26 有楽町ゆうらくちょういましょう(2かい 10/22 青江あおえ三奈みな(2) 生涯しょうがい最後さいご紅白こうはく出場しゅつじょう
  • 対戦たいせん相手あいて歌手かしゅめいの()ない数字すうじはその歌手かしゅとの対戦たいせん回数かいすうあらわす。
  • 曲名きょくめいのちの(○かい)は紅白こうはく披露ひろうされた回数かいすうあらわす。
  • 出演しゅつえんじゅんは「(出演しゅつえんじゅん)/ (出場しゅつじょうしゃすう)」であらわす。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ アクセントは中高なかだかがた[フ/ランクなが\い]である。
  2. ^ オリジナルの歌詞かし佐々ささくれないはなによるものであったが、そのこんにちられる時雨しぐれ音羽おとわによる歌詞かしでリメイクされ、1928ねん昭和しょうわ3ねん)10がつにレコード発売はつばいされたものがリバイバルでだいヒットした。したがってフランク永井ながいばんは2度目どめのリバイバル・ヒットとなる。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ BS朝日あさひ昭和しょうわ偉人いじんでん」#121 2019ねん1がつ16にち
  2. ^ きみこいし〜フランク永井ながいベストヒット」VICTOR
  3. ^ もり国松くにまつ巨人きょじん昭和しょうわ30ねんぐみのささやかなご褒美ほうびメシ”. ひがしスポWeb (2020ねん7がつ29にち). 2021ねん3がつ22にち閲覧えつらん
  4. ^ 流行りゅうこうことしのたり レコード各社かくしゃのベスト・テンから」『毎日新聞まいにちしんぶん』1959ねん12月26にちづけ東京とうきょう夕刊ゆうかん、3めん
  5. ^ フランク永井ながいさん死去しきょ低音ていおん魅力みりょくもどらず日刊にっかんスポーツ2008ねん11月2にち94ふん
  6. ^ 離婚りこんしたもと夫人ふじんは「消息しょうそく不明ふめい」スポニチAnex2008ねん11月3にち
  7. ^ フランク永井ながいさん自宅じたく跡地あとち大使館たいしかん建設けんせつ”. 日刊スポにっかんすぽツ新聞社つしんぶんしゃ日刊にっかんスポーツ) (2009ねん11月29にち). 2024ねん7がつ28にち閲覧えつらん
  8. ^ フランク永井ながいさん死去しきょしていた 日刊にっかんスポーツ2008ねん11月2にち、2008ねん11月2にち閲覧えつらん
  9. ^ “フランク永井ながいさんしのび「有楽町ゆうらくちょう…」合唱がっしょう. スポニチ (スポすぽツニッポン新聞社つにっぽんしんぶんしゃ). (2009ねん2がつ28にち). オリジナルの2009ねん2がつ28にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090228220313/https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2009/02/28/11.html 2009ねん2がつ28にち閲覧えつらん 
  10. ^ “「魅惑みわく低音ていおん」フランク永井ながい出身しゅっしんで「有楽町ゆうらくちょういましょう」などうたぐコンサート久々ひさびさ開催かいさい. 読売新聞よみうりしんぶんオンライン (読売新聞社よみうりしんぶんしゃ). (2023ねん12月23にち). オリジナルの2023ねん12月23にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20231223062547/https://www.yomiuri.co.jp/culture/music/20231221-OYT1T50251/ 
  11. ^ 徳光とくみつ和夫かずお著書ちょしょ企業きぎょうない自由じゆうじんのすすめ』より。[ようページ番号ばんごう]

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]