コスモ (英 えい : Cosmo )は、マツダ がかつて生産 せいさん ・販売 はんばい していた乗用車 じょうようしゃ である。
1967年 ねん 5月に日本 にっぽん 車 しゃ 初 はつ のロータリーエンジン 搭載 とうさい 車 しゃ として発売 はつばい され、1972年 ねん の販売 はんばい 終了 しゅうりょう をもって一時 いちじ 的 てき に絶版 ぜっぱん となるも1975年 ねん に復活 ふっかつ 。1990年 ねん には前年 ぜんねん から展開 てんかい されたユーノス ブランドのフラッグシップモデル「ユーノス・コスモ 」として登場 とうじょう し、1996年 ねん まで販売 はんばい された。
全 すべ ての世代 せだい においてクーペ タイプのボディを持 も つ(3代目 だいめ のみ4ドアセダン も設定 せってい )が、その性質 せいしつ は世代 せだい によって大 おお きく異 こと なる。また、3代目 だいめ 以外 いがい は世代 せだい ごとに異 こと なるサブネームをつけて販売 はんばい されていた。
初代 しょだい ・コスモスポーツ(1967年 ねん - 1972年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
1967年 ねん (昭和 しょうわ 42年 ねん )5月 に発売 はつばい されたコスモスポーツは、世界 せかい 初 はつ の実用 じつよう ・量産 りょうさん ロータリーエンジン を搭載 とうさい した自動車 じどうしゃ である。
世界 せかい で初 はじ めて市販 しはん されたロータリーエンジン搭載 とうさい 車 しゃ は、正確 せいかく にはNSU が1964年 ねん (昭和 しょうわ 39年 ねん )に発売 はつばい したリアエンジン 車 くるま のヴァンケルスパイダー であったが、この車 くるま に搭載 とうさい されたエンジンはロータリーエンジン特有 とくゆう の多 おお くの課題 かだい が未 み 解決 かいけつ のままであった。これに対 たい し、コスモスポーツに搭載 とうさい された10A型 がた エンジン は、それらの課題 かだい を克服 こくふく して量産 りょうさん に耐 た えうるものであった。また、ヴァンケルスパイダーはシングルローターエンジンであったため、10A型 がた は多 た 気筒 きとう (マルチローター)ロータリーエンジンとしても世界 せかい 初 はつ の市販 しはん 車 しゃ 用 よう エンジンである。
1968年 ねん (昭和 しょうわ 43年 ねん )8月 がつ 、mazda110Sの名 な でコスモスポーツを擁 よう してニュルブルクリンク で行 おこな われた84時 じ 間 あいだ 耐久 たいきゅう レース 「マラトン・デ・ラ・ルート」に挑戦 ちょうせん した。このレースは、生産 せいさん 車 しゃ のスピードと耐久 たいきゅう 性 せい が競 きそ われる文字通 もじどお りのマラソンレースで、ポルシェ 、ランチア 、BMW 、サーブ 、オペル 、シムカ 、ダットサン などと激戦 げきせん を繰 く り広 ひろ げた。結果 けっか はポルシェ、ランチアに次 つ ぐ総合 そうごう 4位 い (順位 じゅんい は84時 じ 間 あいだ 後 ご の走行 そうこう 距離 きょり で決 き められる)で完走 かんそう した。なお、参加 さんか した59台 だい 中 ちゅう 、完走 かんそう したのはわずか26台 だい であった。
コスモスポーツに搭載 とうさい された10A型 がた エンジン は、それ以降 いこう もファミリアロータリークーペ 、サバンナGT などに搭載 とうさい された。10A型 がた エンジンは5つのハウジング(2つの筒 つつ と3枚 まい の板 いた )で構成 こうせい されており、開発 かいはつ 目的 もくてき が量産 りょうさん 規模 きぼ の小 ちい さいスポーツカー搭載 とうさい 用 よう であるため、エンジンは0813 13 101cの2台 だい のローターハウジングまで含 ふく めて総 そう アルミニウム合金 ごうきん 製 せい であった。コスモスポーツ以後 いご の量産 りょうさん モデルでは、サイドハウジング(フロント、インターミディエイト、リアの3枚 まい )が鋳鉄 ちゅうてつ 製 せい に変更 へんこう されている。コスモスポーツの10A型 がた エンジンは炭素 たんそ 鋼 こう が溶射 されていて高価 こうか かつ手 て の込 こ んだものであるのに対 たい し、10A型 がた エンジンより後 のち のエンジンでは、特殊 とくしゅ 鋳鉄 ちゅうてつ を高周波 こうしゅうは 焼入 やきい れ加工 かこう したものが採用 さいよう され、量産 りょうさん 化 か と低 てい コスト化 か が図 はか られている。また、加工 かこう 法 ほう もコスモスポーツの砂 すな 型 がた 鋳造 ちゅうぞう に対 たい し金 かね 型 がた 鋳造 ちゅうぞう とされ、大量 たいりょう 生産 せいさん された。
コスモスポーツは、前期 ぜんき 型 がた (L10A型 がた )が1967年 ねん (昭和 しょうわ 42年 ねん )に343台 だい 販売 はんばい されたのを皮切 かわき りに、1972年 ねん (昭和 しょうわ 47年 ねん )の後期 こうき 型 がた (L10B型 がた )の最終 さいしゅう 販売 はんばい 車 しゃ まで累計 るいけい 1,176台 だい が販売 はんばい された。
1963年 ねん (昭和 しょうわ 38年 ねん )10月26日 にち から11月10日 にち に開催 かいさい された第 だい 10回 かい 全日本 ぜんにほん 自動車 じどうしゃ ショー (現在 げんざい の東京 とうきょう モーターショー)に、マツダロータリーエンジン として400cc×1ローター(35PS)と400cc×2ローター(70PS)の2種類 しゅるい の試作 しさく エンジンが出展 しゅってん され、あわせて「ロータリーエンジン テスト用 よう 試作 しさく 車 しゃ (コスモスポーツのプロトタイプ)」の写真 しゃしん パネルも会場 かいじょう に掲示 けいじ された[2] 。車両 しゃりょう の展示 てんじ はなかったが[注釈 ちゅうしゃく 1] 、当時 とうじ の松田 まつだ 恒次 つねじ 社長 しゃちょう が自 みずか らコスモスポーツの一 いち 次 じ 試作 しさく 車 しゃ 「MAZDA 802 (L402A)」のステアリングを握 にぎ り、遠路 えんろ はるばる広島 ひろしま から自動車 じどうしゃ ショーの会場 かいじょう に乗 の りつけて話題 わだい をさらった。また、帰路 きろ には各 かく 販売 はんばい 会社 かいしゃ 、メインバンク の住友銀行 すみともぎんこう 、池田 いけだ 勇人 はやと 首相 しゅしょう などを訪問 ほうもん したというエピソードも残 のこ っている。なお、初 はじ めてコスモスポーツのプロトタイプが一般 いっぱん に公表 こうひょう されたのは、自動車 じどうしゃ ショーが開催 かいさい される6日 にち 前 まえ の1963年 ねん 10月 がつ 20日 にち 付 づ けの朝日新聞 あさひしんぶん 紙上 しじょう [4] であり、これは朝日新聞 あさひしんぶん のスクープであった。
一 いち 次 じ 試作 しさく 車 しゃ は少 すく なくとも2台 だい 存在 そんざい し、「広 こう 5 そ 32-85」のナンバープレート(1963年 ねん 8月 がつ 登録 とうろく )が取 と りつけられた個体 こたい は、前後 ぜんご ウィンドウのウェザーストリップにメッキモールがなく、ワイパーは平行 へいこう 式 しき の3ブレードで、クォーターピラーのエンブレム取 と り付 つ け位置 いち は下 した 寄 よ り、カーラジオのアンテナの取付 とりつ け位置 いち はリアガラスとトランクリッドの間 あいだ 、横長 よこなが のテールランプは中央 ちゅうおう に仕切 しき りのある四 よん 灯 とう タイプ、という仕様 しよう であった[5] [6] [7] [8] 。「広 こう 5 そ 57-35」のナンバープレート(1963年 ねん 10月 がつ 登録 とうろく )が取 と りつけられた個体 こたい は、前後 ぜんご ウィンドウのウェザーストリップにメッキモールがあり、ワイパーは平行 へいこう 式 しき の2ブレードで、クォーターピラーのエンブレム取 と り付 つ け位置 いち はピラーの中央 ちゅうおう 、カーラジオのアンテナの取付 とりつ け位置 いち は右 みぎ リアフェンダー上部 じょうぶ 、横長 よこなが のテールランプは中央 ちゅうおう に仕切 しき りがなく外観 がいかん 上 じょう は2灯 とう 式 しき に見 み えるものであった(内部 ないぶ に仕込 しこ まれていたランプの数 かず は、32-85車 しゃ に準 じゅん じていたと思 おも われる)[9] [10] [11] 。
この2台 だい の「MAZDA 802」が、サプライズとして自動車 じどうしゃ ショーの駐車 ちゅうしゃ 場 じょう に姿 すがた を現 あらわ した[12] 。一 いち 次 じ 試作 しさく 車 しゃ は、自動車 じどうしゃ ショーが開催 かいさい されるまでに5台 だい 製作 せいさく されている[12] 。
翌 よく 1964年 ねん (昭和 しょうわ 39年 ねん )の9月26日 にち から10月9日 にち にかけて開催 かいさい された第 だい 11回 かい 東京 とうきょう モーターショーに、初 はじ めて実車 じっしゃ (プロトタイプ )が正式 せいしき に出展 しゅってん された。出展 しゅってん 時 じ の名称 めいしょう は「MAZDA COSMO 」であった。搭載 とうさい されたエンジンは、399cc×2ローターのL8A型 がた (70ps/6,000rpm)で、二 に 次 じ 試作 しさく 車 しゃ にあたり、一 いち 次 じ 試作 しさく 車 しゃ とはテール部分 ぶぶん の意匠 いしょう が大幅 おおはば に異 こと なり量産 りょうさん 型 がた に近 ちか いものとなっていた。また、サイドウインドウに三角 さんかく 窓 まど が追加 ついか され、ワイパーは2ブレードの対向 たいこう 式 しき となり、外観 がいかん 上 じょう の特徴 とくちょう の一 ひと つであるフロントフェンダーのルーバーが、一 いち 次 じ 試作 しさく 車 しゃ の6つ穴 あな メッキ物 ぶつ から細 ほそ いスリットのメッキ物 ぶつ に変更 へんこう されていた[13] 。二 に 次 じ 試作 しさく 車 しゃ までは、ルーフの後部 こうぶ に左右 さゆう のクォーターピラーまで覆 おお う白 しろ いカバーが取 と りつけられていた[14] ことも、外観 がいかん 上 じょう の大 おお きな特徴 とくちょう であった。二 に 次 じ 試作 しさく 車 しゃ は複数 ふくすう 製作 せいさく され、ワイパーが平行 へいこう 式 しき 2ブレードのもの、ホイールカバーがハーフカバータイプで5穴 あな のホイールが装着 そうちゃく されたもの、センターロック式 しき のワイヤースポークホイールが装着 そうちゃく されたもの、クォーターピラーの幅 はば が狭 せま いもの、カウルトップの通気 つうき 口 こう が一 いち 次 じ 試作 しさく 車 しゃ と同様 どうよう に格子 こうし 状 じょう のもの、フロントフェンダーサイドのエアアウトレットがルーバー状 じょう でないもの、ドアのアウターハンドルが長 なが くドアパネルに窪 くぼ みがないもの、フロントウインカーのレンズがアンバー色 しょく のものなど、様々 さまざま な仕様 しよう が存在 そんざい した[15] [16] [17] 。
1965年 ねん (昭和 しょうわ 40年 ねん )10月29日 にち から11月1日 にち に開催 かいさい された第 だい 12回 かい 東京 とうきょう モーターショーにもコスモスポーツのプロトタイプが出展 しゅってん された。出展 しゅってん 車 しゃ の名称 めいしょう はこの年 とし も「MAZDA COSMO」であった。ショーの会場 かいじょう で配布 はいふ されたパンフレットには「革命 かくめい 的 てき なエンジンは(中略 ちゅうりゃく )ローター数 すう 2、単 たん 室 しつ 容積 ようせき 500cc」と記載 きさい されていたことから、出展 しゅってん 車 しゃ には491cc×2の10A型 がた エンジンのプロトタイプが搭載 とうさい されていたと考 かんが えられる。三 さん 次 じ 試作 しさく 車 しゃ と思 おも われる出展 しゅってん 車 しゃ は、白 しろ いルーフカバーが省略 しょうりゃく されルーフ全面 ぜんめん とクォーターピラーが白 しろ 塗装 とそう となり、フルカバータイプのホイールカバーの意匠 いしょう が少々 しょうしょう 変更 へんこう されていた。また、フロントフェンダーのルーバーがフェンダーパネルに直接 ちょくせつ スリットをプレス成型 せいけい した簡素 かんそ なものとなっていた。これは、部品 ぶひん 点数 てんすう と製造 せいぞう ラインでの工数 こうすう を削減 さくげん しコストを下 さ げるための設計 せっけい 変更 へんこう とされる。この時 とき の展示 てんじ 車 しゃ は最終 さいしゅう 生産 せいさん 型 がた と発表 はっぴょう され、全国 ぜんこく 各地 かくち のマツダディーラー に委託 いたく して実用 じつよう 化 か テストを行 おこな うことが発表 はっぴょう された[18] 。「社外 しゃがい 委託 いたく 試験 しけん 車 しゃ 」と名付 なづ けられた試作 しさく 車 しゃ は、車体 しゃたい 各部 かくぶ の特徴 とくちょう から三 さん 次 じ 試作 しさく 車 しゃ の「MAZDA COSMO」あるいは三 さん 次 じ 試作 しさく 車 しゃ の改良 かいりょう 型 がた だったと推察 すいさつ される。社外 しゃがい 委託 いたく 試験 しけん は当初 とうしょ 、1965年 ねん (昭和 しょうわ 40年 ねん )8月 がつ から開始 かいし され、30台 だい が試験 しけん 車 しゃ として貸与 たいよ される予定 よてい であった[19] 。
1966年 ねん (昭和 しょうわ 41年 ねん )10月26日 にち から11月8日 にち に開催 かいさい された第 だい 13回 かい 全日本 ぜんにほん 自動車 じどうしゃ ショーにも、続 つづ けてコスモスポーツのプロトタイプが出展 しゅってん された。出展 しゅってん 車 しゃ の名称 めいしょう は「MAZDA COSMO SPORTS 」だった(市販 しはん モデルの名称 めいしょう は「MAZDA COSMO SPORT 」)。実用 じつよう 化 か テストに基 もと づいてさらなる改良 かいりょう が加 くわ えられ、1967年 ねん (昭和 しょうわ 42年 ねん )春 はる 発売 はつばい 予定 よてい 、価格 かかく 未定 みてい とアナウンスされた[20] 。
市販 しはん までに、社外 しゃがい 委託 いたく 試験 しけん は各地 かくち のディーラーに貸与 たいよ された「MAZDA COSMO」47台 だい [21] により、1966年 ねん (昭和 しょうわ 41年 ねん )1月 がつ から12月 がつ まで1年 ねん の期間 きかん を費 つい やして実施 じっし され、その間 あいだ 、本社 ほんしゃ では試作 しさく 車 しゃ による10万 まん kmに及 およ ぶ連続 れんぞく 耐久 たいきゅう テストを含 ふく み、総 そう 距離 きょり 300万 まん kmにも達 たっ する走行 そうこう テストが行 おこな われた。
コスモスポーツの前期 ぜんき 型 がた L10Aには、10A型 がた ロータリーエンジン(491 cc ×2)が搭載 とうさい された。9.4の高 こう 圧縮 あっしゅく 比 ひ とツインプラグ によって110 PS /7,000 rpm 、13.3 kgf ·m /3,500 rpm を発生 はっせい する。車 くるま 重 じゅう は940kg と比較的 ひかくてき 軽量 けいりょう であった。
エンジン以外 いがい の基本 きほん レイアウトは、この時代 じだい では常識 じょうしき 的 てき であったフロントエンジン・リアドライブ であるが、当時 とうじ の日本 にっぽん 製 せい 乗用車 じょうようしゃ としては相当 そうとう に高度 こうど なスペックが奢 おご られていた。サスペンション はフロントがダブルウィッシュボーン +コイルスプリングの独立 どくりつ 懸架 けんか 、リアは独立 どくりつ 懸架 けんか こそ断念 だんねん されたが、バネ下 か 重量 じゅうりょう の軽減 けいげん を図 はか り、ド・ディオンアクスル をリーフスプリングで吊 つ る形式 けいしき が採用 さいよう された。ステアリング ギアにはクイックなラック・アンド・ピニオン 形式 けいしき を採用 さいよう している。トランスミッション は4速 そく フルシンクロ で、ブレーキは前輪 ぜんりん がダンロップ型 がた ディスク 、後 こう 輪 わ はアルフィン・ドラム であった。なおブレーキは前後 ぜんご 2系統 けいとう が独立 どくりつ したタンデムマスターシリンダー式 しき となっており、どちらかが故障 こしょう した場合 ばあい に備 そな えた安全 あんぜん 性 せい の高 たか いものとなっていた。
ロータリーエンジンは極力 きょくりょく 低 ひく く、そして後方 こうほう に搭載 とうさい され、後 ご のマツダのアイデンティティー ともなるフロント・ミッドシップ の発想 はっそう が既 すで に生 い かされていた。重量 じゅうりょう 物 ぶつ であるバッテリー は、前期 ぜんき 型 がた ではトランク に置 お かれ、後期 こうき 型 がた では助手 じょしゅ 席 せき 後部 こうぶ に設 もう けられたツマミで開閉 かいへい する蓋 ぶた 付 つ きのケースに収 おさ められた。
ロータリーエンジン搭載 とうさい 用 よう に専用 せんよう 設計 せっけい されたボディはセミモノコック 方式 ほうしき である。ボディは開口 かいこう 部 ぶ 以外 いがい には継 つ ぎ目 め がなく、ハンドメイドのスペシャルティカー然 しか としたものであった。また、開口 かいこう 部 ぶ のリッド類 るい は来 き たるべき高速 こうそく 時代 じだい を見越 みこ して、全 すべ て安全 あんぜん な前 まえ ヒンジ (エンジンフードは逆 ぎゃく アリゲーター)とされた。デザインにあたっては革新 かくしん 的 てき なロータリーエンジンにふさわしい、大胆 だいたん かつ斬新 ざんしん なスタイルが望 のぞ まれた。開発 かいはつ 当初 とうしょ 、当時 とうじ の社長 しゃちょう である松田 まつだ 恒次 つねじ から「売 う り出 だ すつもりのないイメージカーだ」と言 い われたからこそ、この思 おも い切 き ったスタイリングが生 う まれたともされる。
全 ぜん 高 こう は1,165 mm と低 ひく かった。「軽量 けいりょう コンパクトなロータリーエンジンでなければ成 な しえないデザインを」という、学芸 がくげい 大 だい 卒業 そつぎょう のマツダ初 はつ のデザイナー小林 こばやし 平治 へいじ の意図 いと はその低 ひく さに結実 けつじつ し、伸 の びやかなリア・オーバーハング 、ボディー中央 ちゅうおう を走 はし るプレス ラインとあいまって、コスモスポーツの未来 みらい 的 てき なイメージをさらに強調 きょうちょう している。ボンネット の低 ひく さとエンジンフード(リッド)の小 ちい ささは、ロータリーエンジンのコンパクトさを暗示 あんじ している。また、バンパー を境 さかい に上下 じょうげ に分 わ けたテールランプ も特徴 とくちょう 的 てき である。ただし、全長 ぜんちょう に比 ひ してリアオーバーハングが大 おお きいスタイルのため、運動 うんどう 性 せい の面 めん では不利 ふり なものとなり、「スポーツ」の名 な とは裏腹 うらはら にむしろグランツーリスモ としての性格 せいかく が強 つよ くなった。
後期 こうき 型 がた コスモスポーツのインパネ (トヨタ博物館 はくぶつかん )
フルパッドのダッシュボード に組 く み合 あ わされるアルミニウムのインパネは艶 つや 消 け しの黒 くろ で統一 とういつ され、無 む 反射 はんしゃ ガラスの7連 れん メーター (左 ひだり から時計 とけい 、燃料 ねんりょう 計 けい 、電流 でんりゅう 計 けい 、速度 そくど 計 けい 、タコメーター 、油 あぶら 温 ゆたか 計 けい 、水温 すいおん 計 けい の順 じゅん )が整然 せいぜん と並 なら ぶ。内装 ないそう は天井 てんじょう も含 ふく めて黒 くろ のビニールレザー のフルトリム とされ、通気 つうき 性 せい を考慮 こうりょ し、シート中央 ちゅうおう のみ白黒 しろくろ の千鳥 ちどり 格子 こうし 柄 え のウール を使用 しよう している。なお、前期 ぜんき 型 がた は法制 ほうせい 化 か 前 まえ のため、ヘッドレスト を持 も たない。
前後 ぜんご に調節 ちょうせつ 可能 かのう (テレスコピック)な3本 ほん スポーク のウッドステアリングホイール(一部 いちぶ 、1970年 ねん - 1971年 ねん 式 しき :ナルディ 社 しゃ 製 せい Φ ふぁい 380)が標準 ひょうじゅん となっている。床 ゆか 敷物 しきもの は真 ま っ赤 か な絨毯 じゅうたん で、シフトノブ は自然 しぜん に手 て を下 お ろした位置 いち にあり、腕 うで を大 おお きく動 うご かすこと無 な く操作 そうさ できるショートストロークとなっている。クラリオン 製 せい オートラジオ 、トグル スイッチ を上下 じょうげ に作動 さどう させるタイプのセミオート・アンテナ 、メーター照度 しょうど 調節 ちょうせつ 、ホーン 音質 おんしつ 切替 きりか え(市街地 しがいち 用 もちい 、高速 こうそく 用 よう )、2スピードワイパー (払拭 ふっしょく 中 ちゅう にスイッチを切 き っても停止 ていし 位置 いち に復帰 ふっき するタイプ。高速 こうそく 時 じ の浮 うわ き上 あ がりを防止 ぼうし するフィン付 つ き)、さらにマップ・足元 あしもと (ドア開閉 かいへい 連動 れんどう )・グローブボックス ・トランクの各 かく ランプなども標準 ひょうじゅん で装備 そうび されていた。
ドアは二 に 段 だん チェッカーであり、スマートに乗 の り降 お りできるように考 かんが えられていた。座席 ざせき の後 うし ろには手荷物 てにもつ を置 お くためのスペースが設 もう けられ、固定 こてい 用 よう ベルトも装備 そうび されていた。リアガラスは非常 ひじょう に曲 きょく 率 りつ の大 おお きなものが用 もち いられ、室内 しつない の開放 かいほう 感 かん を高 たか めた。RX-8 、および歴代 れきだい RX-7 のリアガラスは、このオマージュ とされる。助手 じょしゅ 席 せき 側 がわ サンバイザー裏面 りめん には鏡 かがみ 、足元 あしもと にはフットレスト 、グローブボックス脇 わき にはアシストグリップも装備 そうび された。
内装 ないそう のデザインは、相馬 そうま 亮一 りょういち をチーフとする内装 ないそう チームが担当 たんとう した[22] 。
価格 かかく は148万 まん 円 えん で、同 どう 時期 じき の趣味 しゅみ 性 せい の高 たか い車種 しゃしゅ で比較 ひかく すると、いすゞ・117クーペ の172万 まん 円 えん やトヨタ・2000GT の238万 まん 円 えん ほどではないが、ダットサン・フェアレディ 2000の88万 まん 円 えん 、日産 にっさん プリンス・スカイライン 2000GT-Bの94万 まん 円 えん と比 くら べるとはるかに高価 こうか であった。
ロータリーエンジンの走 はし りは、レシプロエンジン とはまさに異 い 次元 じげん の感覚 かんかく をもたらした。当時 とうじ 、ほとんどのレシプロエンジン搭載 とうさい の国産 こくさん 車 しゃ は4,000 rpmを過 す ぎたあたりから騒音 そうおん と振動 しんどう が大 おお きくなり、100 km/h を超 こ える高速 こうそく 走行 そうこう では会話 かいわ すら困難 こんなん となり、怒鳴 どな りあうようにしなければならないこともたたあった。しかし、ロータリーエンジンはレッドゾーン の7,000 rpmまで静粛 せいしゅく かつスムーズに吹 ふ けあがった。
カーグラフィック 誌 し によるマツダ製 せい ロータリーエンジン車 しゃ の燃費 ねんぴ テスト結果 けっか を以下 いか に示 しめ す。
コスモスポーツ (L10A) :8.3 km/L (試験 しけん 距離 きょり :公道 こうどう 998 km、サーキット108 km、1967年 ねん 9月 がつ 号 ごう )
カペラロータリークーペGS :7.07 km/L (試験 しけん 距離 きょり :4,300.6 km、1970年 ねん 10月 がつ 号 ごう )
サバンナRX-7リミテッド (SA22C) :7.68 km/L (試験 しけん 距離 きょり :1,555 km、1978年 ねん 6月 がつ 号 ごう )
サバンナRX-7 GT-X (FC3S) :5.0 km/L (試験 しけん 距離 きょり :1,007 km、1985年 ねん 12月号 ごう )
アンフィニRX-7 type R (FD3S) :5.2 km/L (試験 しけん 距離 きょり :970 km、1992年 ねん 2月 がつ 号 ごう )
各 かく 年代 ねんだい の道路 どうろ 事情 じじょう やテスト条件 じょうけん の相違 そうい などから一概 いちがい に結論 けつろん 付 つ けられないが、以上 いじょう の車 くるま の中 なか では、燃費 ねんぴ 性能 せいのう でトップの値 ね を記録 きろく している。
コスモスポーツ後期 こうき ・斜 なな め前方 ぜんぽう より(トヨタ博物館 はくぶつかん 、2007年 ねん 2月 がつ 撮影 さつえい )
コスモスポーツ後期 こうき ・後部 こうぶ (マツダミュージアム、2005年 ねん 3月 がつ 撮影 さつえい )
コスモスポーツ後期 こうき ・右側 みぎがわ 面 めん (マツダミュージアム、2005年 ねん 3月 がつ 撮影 さつえい )
1968年 ねん (昭和 しょうわ 43年 ねん )7月 がつ には早 はや くもマイナーチェンジ (L10AからL10Bに形式 けいしき 変更 へんこう )が行 おこな われ、ラジエーター エアインテーク の拡大 かくだい 、ブレーキ冷却 れいきゃく 口 こう の新設 しんせつ 、ホイールベース ・トレッド の拡大 かくだい 、トランスミッション の5速 そく 化 か 、前後 ぜんご ブレーキへのハイドロマスター(倍 ばい 力 りょく 装置 そうち )が装着 そうちゃく された。ラジアルタイヤ 標準 ひょうじゅん 化 か (155HR15)、ポートタイミングの変更 へんこう にともなう吸入 きゅうにゅう 効率 こうりつ 向上 こうじょう によるパワーアップ(110 PS /13.3 kgf·m → 128 PS /14.2 kgf·m)等 とう を施 ほどこ された。この結果 けっか 、最高 さいこう 速 そく は185 km/h → 200 km/h、0-400 m 加速 かそく も16.3秒 びょう → 15.8秒 びょう となった。
マイナーチェンジによって、当時 とうじ としては高級 こうきゅう 品 ひん であったヂーゼル機器 きき 製 せい のカークーラー がオプションで装着 そうちゃく 可能 かのう となった。このヂーゼル機器 きき 製 せい クーラーの価格 かかく は40万 まん 円 えん を超 こ えたという。ユニットは座席 ざせき 後 うし ろの手荷物 てにもつ スペースに置 お かれたため、冷風 れいふう は後方 こうほう から吹 ふ き出 だ す形 かたち であった。コスモスポーツ専用 せんよう 設計 せっけい のクーラーであったため効 き きは悪 わる くなかったが、スナッチが発生 はっせい しにくいロータリーはTOPギアで低速 ていそく 走行 そうこう が可能 かのう であったため、当時 とうじ の取扱 とりあつかい 説明 せつめい 書 しょ では「クーラ装着 そうちゃく 車 しゃ はクーラ作動 さどう 時 じ 、シフトをTOPおよびO・T にし、エンジン回転 かいてん 1,500rpm以下 いか の低 てい 回転 かいてん でノロノロ運転 うんてん している場合 ばあい オーバ・ヒート気味 ぎみ になることがありますので、このような場合 ばあい はシフトを2速 すみや か3速 そく にして運転 うんてん してください。」(原文 げんぶん )と注意 ちゅうい を促 うなが している。
また室内 しつない のウォッシャー・ワイパー ・ディマー・ターンシグナル の4スイッチが、1本 ほん のコンビネーション・レバーにまとめられた。3点 てん 式 しき シートベルト 、調整 ちょうせい 可能 かのう なヘッドレスト も後期 こうき 型 がた より装備 そうび された。駐車 ちゅうしゃ 灯 とう (エンジン始動 しどう 時 じ 自動 じどう 消灯 しょうとう )や非常 ひじょう 灯 とう も装備 そうび された。
この後期 こうき 型 がた (L10B)の価格 かかく は158万 まん 円 えん であった。なお、車両 しゃりょう 型式 けいしき 名 めい はL10Bとなり、エンジンの排気 はいき 量 りょう は変 か わらず型式 けいしき も10A型 がた のままであったが、ポート やキャブレター 、マフラー などの仕様 しよう が数 すう 回 かい 変更 へんこう された。
コスモスポーツの発売 はつばい に合 あ わせ、東洋工業 とうようこうぎょう は、1967年 ねん 6月1日 にち の新聞 しんぶん 各紙 かくし に「世界 せかい の注目 ちゅうもく をあつめてロータリーエンジン搭載 とうさい 車 しゃ いよいよ登場 とうじょう !」と題 だい する全面 ぜんめん 広告 こうこく を出 だ した。その広告 こうこく は全面 ぜんめん であることを生 い かし、市販 しはん 量産 りょうさん 車 しゃ としては世界 せかい 初 はつ のエンジンであること、耐久 たいきゅう 性 せい 、革新 かくしん 性 せい 、スムーズさ、スタイリング、保証 ほしょう 制度 せいど 、装備 そうび 、発表 はっぴょう 会 かい の告知 こくち 等 とう を訴 うった えるものであった。その翌日 よくじつ の6月2日 にち 、今度 こんど はトヨタ自動車 とよたじどうしゃ が2000GT の全面広告 ぜんめんこうこく を出 だ しており、当時 とうじ のトヨタのマツダ・ロータリーに対 たい する対抗 たいこう 意識 いしき が垣間見 かいまみ える。
その後 ご 、6月6日 にち から11日 にち にかけて、東京 とうきょう 都 と 中央 ちゅうおう 区 く 日本橋 にほんばし の髙島屋 や で、コスモスポーツ発表 はっぴょう 会 かい が開催 かいさい された。コスモスポーツ1号車 ごうしゃ が出品 しゅっぴん され、展示 てんじ 会 かい ・撮影 さつえい 会 かい ・試乗 しじょう 会 かい といった内容 ないよう であった。
松下電器産業 まつしたでんきさんぎょう (現 げん パナソニック )創業 そうぎょう 者 しゃ の松下 まつした 幸之助 こうのすけ は松田 まつだ 恒次 つねじ と親交 しんこう があり、ロータリーエンジン を評価 ひょうか して、コスモスポーツの顧客 こきゃく 第 だい 一 いち 号 ごう となった[23] 。
翌 よく 1967年 ねん (昭和 しょうわ 42年 ねん )には、調布 ちょうふ - 八王子 はちおうじ 間 あいだ が開通 かいつう した中央 ちゅうおう 自動車 じどうしゃ 道 どう に、高速 こうそく パトロールカー として警視庁 けいしちょう 第 だい 八 はち 方面 ほうめん 交通 こうつう 機動 きどう 隊 たい に配備 はいび された。
1971年 ねん (昭和 しょうわ 46年 ねん )の特撮 とくさつ テレビ番組 ばんぐみ 『帰 かえ ってきたウルトラマン 』にて、防衛 ぼうえい チームMATの専用 せんよう 車両 しゃりょう 「マットビハイクル」として後期 こうき 型 がた が登場 とうじょう している。その未来 みらい 的 てき なフォルムを生 い かして、大 おお きな改造 かいぞう は無 な く[注釈 ちゅうしゃく 2] ほぼ量産 りょうさん 車 しゃ そのままの外観 がいかん で使用 しよう されている。また、同 どう 作 さく のオマージュ要素 ようそ が強 つよ い「ヱヴァンゲリヲン新 しん 劇場 げきじょう 版 ばん 」にもNERV官 かん 用 よう 車 しゃ として登場 とうじょう している。
月刊 げっかん コロコロコミック で連載 れんさい されていた刑事 けいじ マンガ「リトルコップ 」では主人公 しゅじんこう の愛車 あいしゃ として登場 とうじょう 。主人公 しゅじんこう の父親 ちちおや の形見 かたみ でもあり、覆面 ふくめん パトカー仕様 しよう という設定 せってい だった。
2代目 だいめ ・コスモAP/コスモL(1975年 ねん - 1981年 ねん ) [ 編集 へんしゅう ]
コスモスポーツの生産 せいさん 中止 ちゅうし から3年 ねん 後 ご の1975年 ねん 10月 がつ に「コスモAP 」として復活 ふっかつ 。「AP」はアンチポリューション(公害 こうがい 対策 たいさく )の意味 いみ である。オイルショック 後 のち にマツダが初 はじ めて発表 はっぴょう したモデルで、コスモスポーツと路線 ろせん の異 こと なるスペシャルティカー となった背景 はいけい には、北米 ほくべい 市場 いちば の要求 ようきゅう があった。このため内装 ないそう 、装備 そうび に至 いた っても高級 こうきゅう 感 かん と豪華 ごうか さを押 お し出 だ したものとなり、赤 あか いボディカラーとともに注目 ちゅうもく を受 う ける存在 そんざい となった。CMキャラクターは宇佐美 うさみ 恵子 けいこ 。しばたはつみ の『マイ・ラグジュアリー・ナイト 』をCMソングに起用 きよう し、同 どう 曲 きょく は大 だい ヒットを記録 きろく した。
2代目 だいめ ルーチェ のモノコック のフロアパネルを共用 きょうよう 化 か して、マツダのフラッグシップモデル として、サスペンション・内装 ないそう ・装備 そうび を新 しん 設計 せっけい した。新 しん 設計 せっけい したパーツは、他 た のマツダ車 しゃ への流用 りゅうよう (ルーチェやカペラ等 とう )を考慮 こうりょ して、部品 ぶひん 共用 きょうよう 化 か によるコストダウン効果 こうか を狙 ねら った。
前期 ぜんき 型 がた は丸 まる 型 がた 4灯 とう のヘッドランプ とL字 じ 型 がた のテールランプ 、縦 たて 基調 きちょう のラジエーター グリル と、マツダ独自 どくじ の空 そら 力 りょく 理論 りろん [注釈 ちゅうしゃく 3] に基 もと づくエンジンフード 先端 せんたん の処理 しょり が特徴 とくちょう であった。1979年 ねん のマイナーチェンジでは、異 こと 型 がた 角形 かくがた 2灯 とう のヘッドランプと格子 こうし 調 ちょう のグリル、横長 よこなが のテールランプへと変更 へんこう され、雰囲気 ふんいき が一変 いっぺん した。
エンジンは135PSの13B型 がた エンジン 、125PSの12A型 がた エンジン 、レシプロエンジン の2,000cc(MA型 がた )、1,800cc(VC型 がた )の4タイプのバリエーションがあった。このうち、レシプロの2000㏄のエンジン(MA型 がた )は、キャブレター による三 さん 元 げん 触媒 しょくばい を使用 しよう したエンジンで、業界 ぎょうかい 初 はつ のエンジンとなり、コスモLの発表 はっぴょう 時 じ に追加 ついか した。1800㏄のVC型 がた は、サーマルリアクター 式 しき の公害 こうがい 対策 たいさく を行 おこな っていたので、徐々 じょじょ にMA型 がた に変更 へんこう されていった。
サスペンションは、フロントはロアアームをAアームにしたストラット式 しき 、リアは5リンク式 しき を採用 さいよう した。
当時 とうじ は折 おり からの自動車 じどうしゃ 排出 はいしゅつ ガス規制 きせい の影響 えいきょう によって、スポーツモデルが次々 つぎつぎ と消 き えていこうとしている時期 じき であり、その中 なか で登場 とうじょう したパワフルなコスモAPは一際 ひときわ 目立 めだ つ存在 そんざい となり、発売 はつばい から半年 はんとし で2万 まん 台 だい を売 う り上 あ げる大 だい ヒット作 さく となった。
輸出 ゆしゅつ 名 めい はロータリーエンジン搭載 とうさい 車 しゃ が「マツダ・RX-5」、レシプロエンジン搭載 とうさい 車 しゃ が「マツダ・121」であった。
コスモAPから遅 おく れること2年 ねん 、1977年 ねん 7月 がつ に派生 はせい モデルとして「コスモL 」が追加 ついか された。“L”はランドウトップの頭文字 かしらもじ で、高級 こうきゅう 馬車 ばしゃ であるランドーレット の屋根 やね 形式 けいしき に由来 ゆらい する名前 なまえ である。最大 さいだい の特徴 とくちょう は、その名 な のとおりランドウトップにある。コスモAPではファストバック であったが、コスモLではノッチバック + オペラウインドウ(英語 えいご 版 ばん ) + ハーフレザーのトップ(車両 しゃりょう の屋根 やね )となっていた。これも北米 ほくべい 市場 いちば からの強 つよ い要求 ようきゅう によるもので、マスタング をはじめトヨタ のカローラ およびセリカ なども2種類 しゅるい のバックスタイルのクーペボディをそろえている。
ランドウトップのコスモLはリアシートの頭上 ずじょう 高 だか に余裕 よゆう があり、居住 きょじゅう 性 せい が良 よ いことと、クオーターウインドウ(オペラウィンドウと呼称 こしょう していた)が小 ちい さく、プライバシー が守 まも れることで、コスモAPとの性能 せいのう 、装備 そうび の違 ちが いは無 な くとも、やや高 たか い年齢 ねんれい 層 そう に向 む けた高級 こうきゅう モデルとしての位置 いち づけであった。
1979年 ねん マイナーチェンジ。APと同様 どうよう にフロントマスクを異 こと 型 がた 角形 かくがた 2灯 とう のヘッドランプと格子 こうし 調 ちょう のグリルに変更 へんこう した。
市場 いちば での評価 ひょうか とは別 べつ に、工場 こうじょう 内 うち での評価 ひょうか は全 まった く異 こと なるものがあった。ファストバック車両 しゃりょう の場合 ばあい は、プレスした車体 しゃたい パネルを溶接 ようせつ する際 さい 、Cピラーの溶接 ようせつ 部分 ぶぶん が表 ひょう に出 で てしまうので、通常 つうじょう は半田 はんだ で表面 ひょうめん を埋 う めてなだらかに仕上 しあ げる工程 こうてい があった。ランドウトップでは、この工程 こうてい を省略 しょうりゃく できたので鉛 なまり 公害 こうがい も発生 はっせい せず、その意味 いみ で高 たか い評価 ひょうか を得 え ることになった。
3代目 だいめ ・コスモ(1981年 ねん - 1990年 ねん ) [ 編集 へんしゅう ]
歴代 れきだい で唯一 ゆいいつ サブネームが付 ふ されず「コスモ」の単独 たんどく 車 しゃ 名 めい となる。4代目 だいめ ルーチェ とは姉妹 しまい 車 しゃ の関係 かんけい にある。ボディタイプは3種類 しゅるい で、1981年 ねん 9月1日 にち [26] に2ドアハードトップが先行 せんこう 発売 はつばい され、1か月 げつ 後 ご の同年 どうねん 10月1日 にち [27] に4ドアハードトップ、2週間 しゅうかん 後 ご の10月16日 にち [28] に4ドアサルーン(セダン)およびロータリーエンジン搭載 とうさい 車 しゃ がそれぞれ発表 はっぴょう された。CMソングは中本 なかもと マリ の「Sing Our Song Together」。
空 そら 力 りょく に配慮 はいりょ されたデザインが特徴 とくちょう であり、ハードトップは4灯 とう 式 しき のリトラクタブル・ヘッドライト を持 も つ。2ドアのCd値 ち は当時 とうじ としては世界 せかい トップクラスの0.32を記録 きろく していた。
エンジンは当初 とうしょ 、従来 じゅうらい 型 がた と同 おな じMA型 がた 4気筒 きとう 2,000ccレシプロエンジン(EGIおよびキャブレター仕様 しよう )のみが先行 せんこう 発売 はつばい されたが、後 のち に2,200ccディーゼルエンジン(サルーンのみ)、12A型 がた ロータリーエンジン(573cc×2)が追加 ついか された。
12A型 がた ロータリーエンジンは新 あら たに6PI(シックスピーアイ)と名付 なづ けられた、6ポートインダクションを採用 さいよう 。これは従来 じゅうらい 1ローターあたりプライマリーポート、セカンダリーポートと吸気 きゅうき ポートを2つ(2段階 だんかい )設 もう けていたものを、新 あら たにセカンダリーポートをメインポートと排 はい 圧 あつ で開閉 かいへい する補助 ほじょ ポートとに分割 ぶんかつ し、1ローター毎 ごと 3ポート(3段階 だんかい )、2ローターで計 けい 6ポートとしていた。これによって回転 かいてん 数 すう や負荷 ふか に見合 みあ った吸気 きゅうき タイミングの最適 さいてき 化 か を図 はか り、燃費 ねんぴ や出力 しゅつりょく の向上 こうじょう に寄与 きよ した。
1982年 ねん 9月[29] 、12A型 がた ロータリーターボ 車 くるま を発売 はつばい 。ロータリーエンジンとターボの組 く み合 あ わせはルーチェとともに世界 せかい 初 はつ である。「全域 ぜんいき ・全 ぜん 速 そく ターボ」と名付 なづ けられたこのエンジンは、1982年 ねん 当時 とうじ の日本 にっぽん 車 しゃ の中 なか ではトップクラスの性能 せいのう を誇 ほこ り、1980年代 ねんだい に繰 く り広 ひろ げられる性能 せいのう 戦争 せんそう に先鞭 せんべん をつけた。
インテリアでは、デジタル ながら面積 めんせき 変化 へんか で情報 じょうほう を伝 つた えるスピードメーター 、サテライトスイッチの影響 えいきょう が見 み られるメーターナセル両 りょう 端 はし に配 はい したエアコン 、灯火 ともしび 類 るい 、ワイパー などのスイッチ、カセットテープ (コンパクトカセット )を見 み せるデザインの正 せい 立 だて 型 がた トランスポートを採用 さいよう したカーオーディオ (三菱電機 みつびしでんき と共同 きょうどう 開発 かいはつ )、シートバックの中折 なかお れ機構 きこう などに特徴 とくちょう がある。
自動車 じどうしゃ ジャーナリストの三本 みもと 和彦 かずひこ は1982年 ねん 9月 がつ 、茨城 いばらき 県 けん 筑波 つくば 郡 ぐん 谷田部 やたべ 町 まち (現 げん ・つくば市 し )の日本 にっぽん 自動車 じどうしゃ 研究所 けんきゅうじょ 高速 こうそく 周回 しゅうかい 路 ろ において、コスモロータリーターボの24時 じ 間 あいだ 耐久 たいきゅう テストを行 おこな った。高速 こうそく 耐久 たいきゅう トライアルとしてはトヨタ・2000GT によるものが有名 ゆうめい であるが、6時 じ 間 あいだ 時点 じてん での2000GTの新 しん 国際 こくさい 記録 きろく 210.42km/hを上回 うわまわ っていた(2000GTは最終 さいしゅう 的 てき に72時 じ 間 あいだ で平均 へいきん 206.02km/h)。
1983年 ねん 10月、マイナーチェンジ。個性 こせい 的 てき なデザインからかルーチェともども販売 はんばい が芳 かんば しくなく、4ドアハードトップのフロントマスクを一般 いっぱん 的 てき な固定 こてい 式 しき ヘッドライトへと変更 へんこう (2ドアハードトップはリトラクタブル・ヘッドライトを継続 けいぞく )。同時 どうじ に4ドア車 しゃ に13B型 がた ロータリースーパーインジェクション車 しゃ を設定 せってい する。キャッチコピーは「咲 さ いてるオトコの。~BIG RUN 」。CMソングは西松 にしまつ 一博 かずひろ の「咲 さ いてるオトコの。」。
1984年 ねん 9月、2ドアハードトップをマイナーチェンジ。「GT」以外 いがい の改良 かいりょう を行 おこな い、4ドア同様 どうよう の固定 こてい 式 しき ヘッドライトへと変更 へんこう された。
1985年 ねん 5月、モデル末期 まっき のグレード整理 せいり と販売 はんばい テコ入 てこい れとして、レシプロエンジン車 しゃ に「ジェンティール」シリーズを投入 とうにゅう 。
1986年 ねん 9月、ルーチェのフルモデルチェンジと同時 どうじ に4ドアサルーンを廃止 はいし し、2/4ドアハードトップのみに整理 せいり 。
1988年 ねん 10月、ボディーカラー一部 いちぶ 差 さ し替 か え
1990年 ねん 4月 がつ 、ユーノス・コスモの登場 とうじょう により生産 せいさん 終了 しゅうりょう 。
4ドアハードトップ2000 EGI XG-X リア
4ドア ロータリーターボリミテッド リア
3代目 だいめ コスモ 12A型 がた ターボエンジン
4代目 だいめ ・ユーノスコスモ(1990年 ねん - 1996年 ねん ) [ 編集 へんしゅう ]
1990年 ねん 4月発売 はつばい 。ボディは2ドアクーペのみ。当時 とうじ のマツダは販売 はんばい チャンネルの拡充 かくじゅう を図 はか っており(マツダ、ユーノス 、アンフィニ 、オートザム 、オートラマ )、この車 くるま はユーノスブランドのフラッグシップ として登場 とうじょう した。キャッチコピーは『クーペ・ダイナミズム 』。
コスモとしては初代 しょだい 以来 いらい となるロータリーエンジン専用 せんよう 車 しゃ であり、2ローターの13B-REW型 がた と、市販 しはん 車 しゃ では世界 せかい 初 はつ となる3ローターの20B-REW型 がた の2種類 しゅるい が設定 せってい された。いずれもシーケンシャルツインターボ で、これは日本 にっぽん 車 しゃ としては初 はつ の採用 さいよう であった。この車 くるま に使用 しよう されたユーノスのエンブレムはコスモスポーツのようなローターを象 かたど ったものである。
耳目 じもく を集 あつ めた世界 せかい 初 はつ の「CCS」と呼 よ ばれるGPS カーナビ (三菱電機 みつびしでんき と共同 きょうどう 開発 かいはつ )を、20B搭載 とうさい 車 しゃ のTYPE-E.CCSグレードに標準 ひょうじゅん 装備 そうび した。また、高級 こうきゅう クーペらしく内装 ないそう にも相応 そうおう のこだわりがあり、イタリアで誂 あつら えたウッドパネルをインパネに装着 そうちゃく 、しかし全面 ぜんめん に貼 は るようなことはせず効果 こうか 的 てき に配 はい して品 しな よくまとめられていた。さらに、フルオートエアコンの操作 そうさ はカーナビディスプレイを兼 か ねるタッチパネル でのみ操作 そうさ が可能 かのう という当時 とうじ としては画期的 かっきてき な方式 ほうしき で、以降 いこう 各社 かくしゃ でも高級 こうきゅう 車 しゃ を中心 ちゅうしん に普及 ふきゅう することとなった。カーナビが標準 ひょうじゅん 装備 そうび されない場合 ばあい は液晶 えきしょう 付 つ きフルオートエアコン操作 そうさ パネルが付 つ く。グレードはTYPE-ECCS・TYPE-E・TYPE-S(前期 ぜんき ・中期 ちゅうき 型 がた )・TYPE-SX(後期 こうき 型 がた のみ)。プラットフォーム はマツダ・JCプラットフォーム を採用 さいよう している。
マツダエンジニアの夢 ゆめ であった「V型 がた 12気筒 きとう エンジン並 なみ の滑 なめ らかさを持 も つ」と言 い われる3ローターの20Bエンジンは非常 ひじょう に高 こう 出力 しゅつりょく で、当初 とうしょ 333馬力 ばりき で設計 せっけい されていたが、当時 とうじ の運輸省 うんゆしょう の行政 ぎょうせい 指導 しどう によって280馬力 ばりき の国内 こくない 自主 じしゅ 規制 きせい 枠 わく 内 ない に収 おさ めることが必要 ひつよう となり、デチューンのうえ市販 しはん された。ターボへの排 はい 圧 あつ を低 ひく くし最高 さいこう 出力 しゅつりょく を抑 おさ えるため、13Bと比較 ひかく して排気 はいき ポートが変更 へんこう されている。20Bのローターとローターハウジングは13Bと同 どう 寸 すん である。20Bの自動車 じどうしゃ 税 ぜい 種別 しゅべつ 割 わり における排気 はいき 量 りょう 区分 くぶん は「2,500cc超 ちょう から3,000 cc以下 いか 」の区分 くぶん に該当 がいとう する。
その出力 しゅつりょく と構造 こうぞう 故 こ 、メディアによっては「リッター3キロの超 ちょう 高 こう 燃費 ねんぴ 車 しゃ 」と紹介 しょうかい されることもあり[31] 、市街地 しがいち 走行 そうこう での実際 じっさい の燃費 ねんぴ は2km/Lを維持 いじ するのが精一杯 せいいっぱい で、条件 じょうけん によっては1km/L台 だい にまで悪化 あっか することもあった[32] 。
シーケンシャルツインターボは、FD3S型 がた RX-7に搭載 とうさい されているものとは異 こと なり、プライマリー側 がわ とセカンダリー側 がわ で異 こと なるサイズのタービンが採用 さいよう された。20B搭載 とうさい 車 しゃ のマフラーは高 こう 回転 かいてん 域 いき で経路 けいろ が変更 へんこう される可変 かへん 排気 はいき 機能 きのう が採用 さいよう されており、4本 ほん のマフラーが回転 かいてん により開口 かいこう ポート数 すう が変化 へんか している。外観 がいかん では13B搭載 とうさい 車 しゃ のテールパイプが2本 ほん 出 だ しであるのに対 たい し、20B搭載 とうさい 車 しゃ では4本 ほん 出 だ しとなっている。
トランスミッションは全 ぜん グレードで4速 そく ATのみが設定 せってい され、MT の設定 せってい はない。高 こう 出力 しゅつりょく エンジンと当時 とうじ としては大柄 おおがら な車体 しゃたい であったにもかかわらず、タイヤサイズは前後 ぜんご とも215/60R15という一般 いっぱん 的 てき なものであった。
1991年 ねん (平成 へいせい 3年 ねん )、ハードサスペンションやBBS のホイールを装着 そうちゃく した特別 とくべつ 仕様 しよう 車 しゃ 、TYPE-SXが登場 とうじょう した。
なお、開発 かいはつ 当初 とうしょ はサンルーフ の装備 そうび が企画 きかく されており、液晶 えきしょう を用 もち いた先進 せんしん 的 てき な透過 とうか 率 りつ 可変 かへん 式 しき が予定 よてい されていた。生産 せいさん 車 しゃ にも専用 せんよう 回路 かいろ が存在 そんざい していたが、ノイズ処理 しょり や耐久 たいきゅう 性 せい などの問題 もんだい をクリアできず、販売 はんばい の低迷 ていめい でコスモ自体 じたい の採算 さいさん が見込 みこ めなくなったため断念 だんねん された。
1995年 ねん 8月 がつ [33] 、生産 せいさん 終了 しゅうりょう 。在庫 ざいこ 対応 たいおう 分 ぶん のみの販売 はんばい となる。
1996年 ねん 6月 がつ 、在庫 ざいこ 対応 たいおう 分 ぶん がすべて完売 かんばい し販売 はんばい 終了 しゅうりょう 。販売 はんばい 期間 きかん 中 ちゅう の新車 しんしゃ 登録 とうろく 台数 だいすう の累計 るいけい は8,842台 だい [30] 。後継 こうけい 車 しゃ はなくモデル廃止 はいし となり、コスモの車 くるま 名 めい は生産 せいさん 中断 ちゅうだん 期間 きかん を含 ふく めて29年間 ねんかん の歴史 れきし に終止符 しゅうしふ を打 う った。
マツダスピード が製作 せいさく し、2002年 ねん の東京 とうきょう オートサロン に出展 しゅってん されたコンセプトカー 。NB型 がた ロードスター をベースにコスモスポーツを再現 さいげん した内 うち 外装 がいそう に変更 へんこう し、砲丸 ほうがん 型 がた サイドミラーを採用 さいよう するなどレトロな雰囲気 ふんいき が漂 ただよ うが、ウインカーやテールランプには高 こう 輝度 きど LED を多用 たよう しており、部分 ぶぶん 的 てき には未来 みらい 的 てき なイメージも強調 きょうちょう している。エンジンは最高 さいこう 出力 しゅつりょく 250 PSを発生 はっせい する新型 しんがた ロータリーエンジン「RENESIS 」を搭載 とうさい 。これは後 ご のRX-8 に搭載 とうさい されるエンジンと同 おな じものである。300万 まん 円 えん 台 だい で限定 げんてい 販売 はんばい モデルとして発売 はつばい される計画 けいかく もあったが、市販 しはん には至 いた らなかった[34] 。
車 くるま 名 めい の由来 ゆらい [ 編集 へんしゅう ]
イタリア語 ご で宇宙 うちゅう を意味 いみ する「コスモ」(COSMO)から。「宇宙 うちゅう 時代 じだい にふさわしいエンジンを」という願 ねが いが込 こ められている。また、宇宙 うちゅう をギリシャ語 ご で「コスモス」(KOSMOS)と読 よ むが、そちらは関係 かんけい していない。
^ コスモスポーツのプロトタイプを出展 しゅってん しなかった理由 りゆう について、社長 しゃちょう の松田 まつだ は「ロータリー・エンジンを始 はじ め、マツダ・ルーチェ、ファミリアなどの新型 しんがた 車 しゃ を発表 はっぴょう したうえに、ロータリー・エンジン搭載 とうさい 車 しゃ まで出品 しゅっぴん することは、他社 たしゃ に対 たい して刺激 しげき があまりにも大 おお き過 す ぎることを懸念 けねん したため」と説明 せつめい している[3] 。
^ 第 だい 32話 わ 「落日 らくじつ の決闘 けっとう 」では、迷彩 めいさい 色 しょく に塗 ぬ られ屋根 やね 上 じょう にロケットランチャーを搭載 とうさい した改造 かいぞう 車 しゃ が登場 とうじょう している。
^ この空 そら 力 りょく 理論 りろん は4代目 だいめ ファミリア と3代目 だいめ カペラ にも取 と り入 い れられている。
ウィキメディア・コモンズには、
マツダ・コスモ に
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