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東京横浜電鉄キハ1形気動車 - Wikipedia コンテンツにスキップ

東京とうきょう横浜よこはま電鉄でんてつキハ1かたち気動車きどうしゃ

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東京とうきょう横浜よこはま電鉄でんてつキハ1かたち気動車きどうしゃ(とうきょうよこはまでんてつキハ1がたきどうしゃ)は、東京急行電鉄とうきょうきゅうこうでんてつ前身ぜんしんである東京とうきょう横浜よこはま電鉄でんてつ東横ひがしよこ電鉄でんてつ)が、1936ねん昭和しょうわ11ねん)に導入どうにゅうしたガソリンカーである。大手おおて私鉄してつ電化でんか区間くかん投入とうにゅうしたガソリンカーというてんでも特異とくいであるが、大型おおがたで、大胆だいたんなヨーロピアンスタイルのながれ線形せんけいボディと、戦前せんぜん私鉄してつ気動車きどうしゃとしてはかずおおい、8りょう一挙いっきょ製造せいぞうされたことでられる。


ガソリンカー導入どうにゅう経緯けいい[編集へんしゅう]

鉄道てつどうにおけるエネルギー効率こうりつからえば、ガソリンエンジンディーゼルエンジンなどの内燃ないねん機関きかん動力どうりょくよりも、電気でんき動力どうりょくほう格段かくだんすぐれている。日本にっぽん恒常こうじょうてき大量たいりょう輸送ゆそうおこな鉄道てつどうでは、ほぼ例外れいがいなく電気でんき動力どうりょくもちい、電車でんしゃ運行うんこうしているが、変電へんでんしょ架線かせんなどの地上ちじょう設備せつびコストが非常ひじょうたかく、輸送ゆそうりょうおおくなければ採算さいさんれない性質せいしつがあり、輸送ゆそうりょく増強ぞうきょうさいには余分よぶん電力でんりょく必要ひつようとすることから、変電へんでんしょなどの容量ようりょう増強ぞうきょう工事こうじおこな必要ひつようきてくる。このような見地けんちからすると、電車でんしゃ運行うんこうするより、電化でんかせずに内燃ないねん機関きかん動力どうりょくもちいるほう有利ゆうりなケースもおおい。日本にっぽんでもおおくの幹線かんせんカル線かるせん電化でんかで、ディーゼルエンジンを搭載とうさいした気動車きどうしゃひろもちいられている。

ガソリンカーの出現しゅつげん[編集へんしゅう]

日本にっぽん鉄道てつどうにおいて、ガソリン機関きかん搭載とうさいしてはしする客車きゃくしゃ、いわゆるガソリンカーをもちいた営業えいぎょう運転うんてんは、1920ねん大正たいしょう9ねん)にはじめておこなわれた(こうあいだ軌道きどうげん福島ふくしまけんいわき1936ねん昭和しょうわ11ねんはいせん)。それ以前いぜんから日本にっぽん電車でんしゃ存在そんざいし、地方ちほうでの運行うんこうれいおおかったが、地上ちじょう設備せつびあまようさず初期しょき投資とうし費用ひようイニシャルコスト)もひくいガソリンカーは、輸送ゆそうりょうすくない閑散かんさん鉄道てつどう路線ろせんには電車でんしゃより総合そうごうてき経済けいざいてきであることから、1920年代ねんだいなか以降いこう急激きゅうげき普及ふきゅうするようになった。

それまで蒸気じょうき機関きかんしゃもちいていた鉄道てつどう会社かいしゃや、あらたに路線ろせん建設けんせつしようとした鉄道てつどう会社かいしゃも、電化でんかによる電車でんしゃ導入どうにゅう計画けいかくりやめ、ガソリンカーにえるケースが続出ぞくしゅつした。この時代じだいには各地かくち零細れいさい事業じぎょうしゃによるバス会社かいしゃ乱立らんりつし、中小ちゅうしょう私鉄してつ手強てごわ競争きょうそう相手あいてとなっていた。対抗たいこうじょう増発ぞうはつして頻繁ひんぱん運転うんてんすることにいたガソリンカーがクローズアップされた。

1920年代ねんだいなかば、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくだい自動車じどうしゃメーカーであるフォードGMが、横浜よこはま日本にっぽんフォード)と大阪おおさか日本にっぽんGM)に相次あいついで工場こうじょう建設けんせつし、大量たいりょう生産せいさん開始かいししたが、これら日本にっぽんせい米国べいこくしゃ販売はんばい普及ふきゅう促進そくしんするため、同時どうじにアメリカからの石油せきゆ輸入ゆにゅうりょう増大ぞうだいした。また、1920ねん世界せかい恐慌きょうこう以降いこう、アメリカの石油せきゆ産業さんぎょう慢性まんせいてき供給きょうきゅう過剰かじょう状態じょうたいにあり[1]1930年代ねんだい初頭しょとうには、日本にっぽんのガソリン価格かかくもアメリカ本土ほんど大差たいさない水準すいじゅんにまで下落げらくしており、これもガソリンカーの普及ふきゅう後押あとおしした。

日本にっぽんのガソリンカーは当初とうしょ安価あんか信頼しんらいせいたか米国べいこくせい自動車じどうしゃようエンジンや変速へんそく流用りゅうようしていたこともあり、全長ぜんちょう3 - 8 m程度ていど自動車じどうしゃみにちょう小形こがたであったが、日本にっぽん車輛しゃりょう製造せいぞう尽力じんりょくにより、以後いごすうねんあいだ急速きゅうそく改良かいりょうすすみ、1930年代ねんだい初頭しょとうには中形ちゅうがた電車でんしゃみの収容しゅうようりょくつ13 mきゅう大形おおがたガソリンカーも出現しゅつげんした。 国有こくゆう鉄道てつどうせん省線しょうせん)を管轄かんかつする鉄道てつどうしょうもこの時流じりゅうり、1929ねん昭和しょうわ4ねん)からガソリンカーの試作しさく開始かいしした。当初とうしょ車体しゃたいおもすぎて性能せいのう不足ふそくとなるなど失敗しっぱいつづいたが、私鉄してつガソリンカーの設計せっけい手法しゅほうれて開発かいはつされた16 m軽量けいりょう車体しゃたい・100 psエンジン搭載とうさいのキハ36900がた1932ねん昭和しょうわ7ねん〉・のちキハ41000かたちとなる)は好成績こうせいせきをあげ、1935ねん昭和しょうわ10ねん)までに100りょう以上いじょうつくられ、全国ぜんこく各地かくち列車れっしゃ増発ぞうはつ実現じつげんする成功せいこうおさめた。

これに鉄道てつどうしょうは、ちょう大型おおがたの20 mきゅうガソリンカーの開発かいはつす。1935ねん昭和しょうわ10ねん)に20 m車体しゃたい・150 psエンジン搭載とうさいキハ42000かたち完成かんせいさせ、これも1937ねん昭和しょうわ12ねん)までに100りょうちかくが製造せいぞうされ、一定いってい実績じっせきげた。 当時とうじ省線しょうせん電化でんかがほとんどすすんでおらず、大都市だいとし近郊きんこうでも蒸気じょうき機関きかんしゃによる運行うんこうおおかったため、電車でんしゃ同様どうよう頻繁ひんぱん運転うんてんができるガソリンカーは利用りようしゃからも歓迎かんげいされた。

当時とうじのガソリンカーは自動車じどうしゃにおけるマニュアルしゃ同様どうよう手動しゅどうしき変速へんそくもちいており、複数ふくすう車両しゃりょう先頭せんとうしゃから一括いっかつして制御せいぎょすることはできなかったが、連結れんけつ運転うんてん場合ばあいには編成へんせい各車かくしゃ運転うんてん乗務じょうむさせ、汽笛きてき合図あいず同時どうじ変速へんそくおこなうやりかた問題もんだいをクリアしていた。このため、実用じつよううえ通常つうじょう3りょう編成へんせい限度げんどであった。

より経済けいざいせいすぐれたディーゼルエンジン日本にっぽん気動車きどうしゃへの採用さいようれいは、1928ねん昭和しょうわ3ねん)に雨宮あまみや製作所せいさくしょがドイツのMANせい船舶せんぱくようエンジンを搭載とうさいして製造せいぞうした長岡ながおか鉄道てつどうキロ1かたち最初さいしょとされる。その、1932ねん昭和しょうわ7ねん)にはこうわか鉄道てつどうドイツこくダイムラー・ベンツせいメルセデス・ベンツOM 5-S気動車きどうしゃようとして採用さいようした。前者ぜんしゃはそのにエンジンと駆動くどうけい一般いっぱんてきなガソリンカーなみに改造かいぞうされ、後者こうしゃも7ねんほどでエンジンをくだして客車きゃくしゃされるなど、いずれも保守ほしゅ難渋なんじゅうしたようで、戦前せんぜん戦中せんちゅう日本にっぽん技術ぎじゅつ工業こうぎょう水準すいじゅんでは、ディーゼルカーの設計せっけい生産せいさん保守ほしゅ困難こんなんで、ひろくは普及ふきゅうしなかった。

電気でんき鉄道てつどうでの輸送ゆそうりょく増強ぞうきょうさいしては、車両しゃりょうぞう備のほか、変電へんでんしょなど地上ちじょう設備せつび強化きょうか不可欠ふかけつであるが、これには多額たがくのコストをようする。場合ばあいによっては一部いちぶ運用うんようにガソリンカーをもちいたほうが、設備せつび投資とうしがくとう比較ひかく検討けんとうすれば増発ぞうはつていコストでむ、というのがメーカーのアピールであった。 中小ちゅうしょう私鉄してつではこの提案ていあんったれいいくれいられたが、大都市だいとし発着はっちゃくする電化でんか私鉄してつ実際じっさいにこのさく導入どうにゅうしたのはほん形式けいしき導入どうにゅうした東横ひがしよこ電鉄でんてつのみ[2]である。

東横ひがしよこ電鉄でんてつのワンマン経営けいえいしゃであった五島ごしま慶太けいたは、コスト計算けいさんきわめてシビアな人物じんぶつであった。1930年代ねんだい中期ちゅうき東横ひがしよこ電鉄でんてつでは利用りようきゃく増加ぞうかともなって輸送ゆそうりょく増強ぞうきょう急務きゅうむであったが、五島ごしまはこれにさいしコストダウンのため、ガソリンカーの導入どうにゅう検討けんとうした。地上ちじょう設備せつび増強ぞうきょう車両しゃりょう製造せいぞう費用ひようとその減価げんか償却しょうきゃく等々とうとう電車でんしゃぞう備との徹底てっていした費用ひよう比較ひかくおこなわれた結果けっか、ガソリンカー導入どうにゅうほう若干じゃっかん有利ゆうりであるという結論けつろんたっした[3]。このさいには、機械きかいしき気動車きどうしゃでネックとなる、総括そうかつ制御せいぎょ不能ふのうによる運転うんてん複数ふくすう乗務じょうむまでも計算けいさんれられていたという。キハ1かたちはこうして導入どうにゅうされたものである。

実際じっさいには、1937ねん昭和しょうわ12ねん)ににちちゅう戦争せんそう勃発ぼっぱつ以降いこう戦争せんそう激化げきかによる統制とうせいでガソリン価格かかく暴騰ぼうとうしてガソリンカーの運行うんこうコストは急上昇きゅうじょうしょう、メーカーの提示ていじした「皮算用かわざんよう」はあえなく破綻はたんした[4]電化でんか私鉄してつのガソリンカーのおおくは、電化でんか私鉄してつ売却ばいきゃくされ、あるいは電車でんしゃ改造かいぞうされるなどの経過けいか辿たどっている。

概要がいよう[編集へんしゅう]

製造せいぞう当時とうじ東横ひがしよこ電車でんしゃ多数たすう納入のうにゅうしていた川崎かわさき車輛しゃりょうげん川崎重工業かわさきじゅうこうぎょう車両しゃりょうカンパニー)が担当たんとうし、1936ねん昭和しょうわ11ねん)4がつから6がつにかけてキハ1 - 8までの8りょう順次じゅんじ竣工しゅんこうしている。このかず鉄道てつどうしょう制式せいしきしゃべつにすると、日本にっぽん国内こくないけの単一たんいつ形式けいしきガソリンカーとしては、だい世界せかい大戦たいせんまえではだい2量産りょうさん記録きろくで、最多さいた記録きろく1930ねんから1931ねんにかけて日本車輌製造にっぽんしゃりょうせいぞう日本にっぽん車輌しゃりょう本店ほんてん名古屋鉄道なごやてつどう前身ぜんしんであるめい鉄道てつどう納入のうにゅうした、キボ50かたちの10りょうである。

1930年代ねんだい川崎かわさき車輛しゃりょうは、蒸気じょうき機関きかんしゃ電車でんしゃ製造せいぞうではすで大手おおて企業きぎょうであったが、ガソリンカー製造せいぞうでは後発こうはつであった。こうわか鉄道てつどうキニ6など日本にっぽん車輌しゃりょうとの競作きょうさく大型おおがたガソリンカーも製造せいぞうしていたが、ガソリンカー市場いちばではつね大手おおて先発せんぱつメーカーである日本にっぽん車輌しゃりょう後塵こうじんはいしていた。

ゆえにガソリンカーの分野ぶんやでは国鉄こくてつけのキハ4100042000かたち製造せいぞうおもであった川崎かわさきであるが、そのなかでは東横ひがしよこキハ1かたち力作りきさくえるものである。

車体しゃたい[編集へんしゅう]

車体しゃたい両端りょうたん運転うんてんだいそなえる3とびらしゃで、がわまど配置はいちは11D (1) 5D (1) 4 (1) D11(D:きゃくようとびら括弧かっこ数字すうじ戸袋とぶくろまど)となっており、乗務じょうむいんとびらもうけられておらず、乗務じょうむいんきゃくようとびらから出入でいりする。

構造こうぞうてきにはたいわくうえはしらててはりわたして荷重におも負担ふたんし、これに屋根やね側板そくばんなどをける、従来じゅうらいどおりの設計せっけいである。もっとも、てにはアーク溶接ようせつ多用たようされ、車体しゃたいすそきゃくようとびらりょうわきはしら、それにがわまど上部じょうぶなど、設計せっけい当時とうじ工作こうさく技術ぎじゅつでは溶接ようせつ強度きょうど確保かくほ)が困難こんなん重要じゅうよう箇所かしょかぎってリベット接合せつごうもちいられている。

車体しゃたいちょうは17.0 m戦前せんぜん私鉄してつけガソリンカーとしては、滋賀しがけんこうわか鉄道てつどうが1931ねん昭和しょうわ6ねん以降いこう導入どうにゅうしたキニ4キニ9かたちの17.4 mに大形おおがた車体しゃたいである。

車体しゃたいりょうはし前後ぜんごきゃくようとびら付近ふきんからゆるやかにしぼり、きょくりつことなり、屋根やねからゆかめんまでゆるやかな円弧えんこえが固定こていまいまど構成こうせいつまめん接合はぎあわした大胆だいたんりゅう線形せんけいで、戦前せんぜん日本にっぽんせい気動車きどうしゃでもとく洗練せんれんされた、インダストリアルデザインひとつである[5]

また、運転うんてんせきわき車体しゃたいしぼられている部分ぶぶんには三角さんかくまどがあり、これは換気かんきのため外側そとがわひらくことができた。ただし、このまどではまどからかおしてプラットホーム確認かくにんできないため、きゃくようとびらとこの三角さんかくまどあいだ細長ほそながい1だん下降かこうまど設置せっちすることで車掌しゃしょうのホーム確認かくにんなど客扱きゃくあつか作業さぎょう容易よういにしている。

ぜんあきらとう屋根やねじょう中央ちゅうおうしきで1とう搭載とうさいし、腰部ようぶ尾灯びとう左右さゆう腰板こしいたはんしきで2だん配置はいちで、さらにりょうはし運転うんてんだい部分ぶぶんあめとい省略しょうりゃくされており、ここも欧州おうしゅう調ちょう造形ぞうけいである。

りょうはしきゃくようとびらから前面ぜんめんにかけての運転うんてんだい部分ぶぶんにはみじかはいさわうつわはしはりおおかくすようにけられており、これもながれ線形せんけいのシルエットの一部いちぶ構成こうせいしている。くわえて製造せいぞう当初とうしょは、当時とうじ川崎かわさき車輛しゃりょう私鉄してつけガソリンカーにこのんで装備そうびした「カウキャッチャーふうはいさわうつわがスカートのしたけられており、一見いっけんすると日本にっぽん鉄道てつどう車両しゃりょうとはえない外観がいかんであった。

側面そくめんには大型おおがたの2だん上昇じょうしょうしきまどならび、まどじょう補強ほきょうたいウインドウヘッダー)はまくばん内側うちがわけるようにしてかくされており、平滑へいかつ洗練せんれんされたサイドビューを構成こうせいしている。電車でんしゃ運行うんこう路線ろせんでの運用うんようのため、おおくのガソリンカーのようなひくいホームでの運用うんようかんがえず、ステップもうけていない。

独特どくとくなスタイルの一方いっぽうで、まど寸法すんぽうるとはば790 mmたかさ850 mmでモハ510がたデハ3450かたち更新こうしんまえ)と同一どういつである。これは当時とうじから部品ぶひん共通きょうつう思想しそうからガラス備品びひん共通きょうつうねらったとされている。

車内しゃないかくきゃくようとびらあいだロングシート設置せっちし、運転うんてんだいはんしつしきである。

主要しゅよう機器きき[編集へんしゅう]

エンジン・変速へんそく[編集へんしゅう]

エンジン川崎かわさきKP170(排気はいきりょう16.98 L水冷すいれい直列ちょくれつ8気筒きとう連続れんぞくていかく出力しゅつりょく170 PS / 1,500 rpm)で、実質じっしつてきには鉄道てつどうしょうキハ42000かたちよう制式せいしきエンジンであるGMH17そのもの[6]である。

ただし、連続れんぞくていかく出力しゅつりょく150 PS / 1,500 rpm のGMH17とはことなり、170 PS / 1,500 rpm を公称こうしょうしているが、その理由りゆうさだかではない。このGMH17は通常つうじょう私鉄してつガソリンカーようとしてはおおきすぎた[7]ため、日本にっぽん内地ないちでは東横ひがしよこ以外いがいでの採用さいようれいはない。

変速へんそく方式ほうしき機械きかいしきで4だん変速へんそくのD211、クラッチはキハ42000がた同様どうよう空気圧くうきあつによる遠隔えんかく制御せいぎょおこなう。これらは基本きほんてきには鉄道てつどうしょう標準ひょうじゅんひん相当そうとうであるが、キハ42000かたち高速こうそく運転うんてん重視じゅうしして逆転ぎゃくてん内装ないそう最終さいしゅう減速げんそく歯車はぐるまをキハ41000がたの3.489から2.976に変更へんこうしたD208を採用さいようしていたのにたいし、ほん形式けいしきではキハ41000とおなじ3.489(加速かそく重視じゅうし)のD207のままとなっている。

台車だいしゃ[編集へんしゅう]

台車だいしゃ日本にっぽん車輛しゃりょう製造せいぞう試行錯誤しこうさくごすえ確立かくりつし、当時とうじ気動車きどうしゃでほぼスタンダードな方式ほうしきとなっていたじく2,000mmのひしわくがたじくばね台車だいしゃで、軸受じくうけにはローラーベアリング採用さいようする。

これも鉄道てつどうしょうTR29相当そうとうひんである。

ブレーキ[編集へんしゅう]

ブレーキは連結れんけつ運転うんてん重視じゅうししない運用うんよう計画けいかくから、鉄道てつどうしょう制式せいしき気動車きどうしゃ標準ひょうじゅん採用さいようされていた自動じどう直通ちょくつう兼用けんようのGPSブレーキではなく、より簡素かんそ構造こうぞうのSME非常ひじょうべん直通ちょくつうブレーキブレーキとともに搭載とうさいしている。ただし、非常ひじょうかん直通ちょくつうかんの2ほん空気くうきかんコック連結れんけつわき用意よういされており、連結れんけつ運転うんてん対応たいおう可能かのうとなっている。

連結れんけつ[編集へんしゅう]

連結れんけつ鉄道てつどうしょうでも制式せいしき採用さいようされていた、自動じどう連結れんけつから「自動じどう連結れんけつ解放かいほう」の機能きのう省略しょうりゃく軽量けいりょうはかった簡易かんい連結れんけつ[8]装着そうちゃくする。

この連結れんけつ強度きょうどひく連結れんけつ解放かいほう不便ふべんであったが、連結れんけつ運転うんてんをほとんどおこなわないほん形式けいしきではとく問題もんだいないと判断はんだんされ、軽量けいりょうのメリットを重視じゅうしして採用さいようされている。

運用うんよう[編集へんしゅう]

ほん形式けいしき電車でんしゃ比較ひかくした場合ばあい出力しゅつりょく不足ふそくいちじるしく、計画けいかくちゅう急行きゅうこう普通ふつう列車れっしゃダイヤでの走行そうこう試験しけん結果けっかのぼせん多摩川たまがわえんまえげん多摩川たまがわ)に停車ていしゃすると、多摩川たまがわえんまえ - 田園調布でんえんちょうふあいだにあった連続れんぞく勾配こうばいのぼることは無理むり判明はんめいした。

このため、専用せんようダイヤを設定せっていうえ急行きゅうこう充当じゅうとうされたが、実際じっさい運用うんようされるとエンジントラブルの多発たはつなやまされ、また、前記ぜんき田園調布でんえんちょうふ - 多摩川たまがわえんぜんあいだとう勾配こうばい区間くかんでの出力しゅつりょく不足ふそくはいかんともしがたいものであった。

そうこうするうち、1937ねん昭和しょうわ12ねん)のにちちゅう戦争せんそう勃発ぼっぱつともな燃料ねんりょう統制とうせいによって、ガソリンカーの運行うんこうコスト急騰きゅうとう、キハ1がた活用かつよう早期そうきあきらめられ、以降いこう本来ほんらい電車でんしゃぞう備で輸送ゆそうりょく増強ぞうきょうがなされることになったが、加速かそく性能せいのう不十分ふじゅうぶんさとにちちゅう戦争せんそうともな燃料ねんりょう統制とうせいによって東横ひがしよこ電鉄でんてつでの運用うんよう短期間たんきかんまり、1939ねん昭和しょうわ14ねん)にははやくも五日市いつかいち鉄道てつどうげん東日本旅客鉄道ひがしにほんりょかくてつどう五日市線いつかいちせん)にキハ2・8の2りょう売却ばいきゃく前年ぜんねんより貸出かしだし)された。この2りょうのち五日市いつかいち鉄道てつどうみなみたけし鉄道てつどう国鉄こくてつ買収ばいしゅうされるにともな国鉄こくてつせきとなったが、戦後せんご1950ねん昭和しょうわ25ねん)に鹿島かしま参宮さんぐう鉄道てつどうげん関東かんとう鉄道てつどうおよび鹿島かしま鉄道てつどう)にはらげられ、同社どうしゃのキハ42201・42202として1970年代ねんだい後半こうはんまで鉾田線ほこたせんにて運用うんよう、このあいだにディーゼルカーに改造かいぞうされた。42201は、末期まっきにはながれ線形せんけい運転うんてんだい切妻きりづまがた改造かいぞうされている[9]

のこり6りょう1938ねん昭和しょうわ13ねん)12月から1940ねん昭和しょうわ15ねん)9がつにかけて、東横ひがしよこ資本しほん系列けいれつ電化でんか路線ろせんである神中かみなか鉄道てつどうげん相模鉄道さがみてつどう)に譲渡ゆずりわたされた。神中かみなか鉄道てつどうは1940ねん当時とうじガソリンカー・ディーゼルカー大小だいしょう合計ごうけい20りょうちかくも保有ほゆうする先進せんしんてき鉄道てつどう会社かいしゃで、1935ねん昭和しょうわ10ねん)から1940ねん昭和しょうわ15ねん)までに国産こくさんエンジン搭載とうさいのディーゼルカーを11りょう製造せいぞうして運行うんこう実績じっせきげていた。しかし、燃料ねんりょう統制とうせい木炭もくたん石炭せきたんなどのだいもえガス発生はっせい装置そうち木炭もくたん自動車じどうしゃ参照さんしょう)の活用かつよういられるようになると、そのたね燃料ねんりょう使つかえないディーゼルカーは不利ふりになり、わってきゅう東横ひがしよこのガソリンカーが主力しゅりょくとなった。これらの一部いちぶ1942ねん昭和しょうわ17ねん以降いこう、コーライト(石炭せきたん低温ていおん乾留かんりゅうして製造せいぞうするはんなりコークスの商品しょうひんめい)・無煙炭むえんたんようだいもえガス発生はっせい装置そうち装備そうびされただいもえしゃとなり、流線型りゅうせんけいぜん頭部とうぶだいもえそとけした姿すがた運用うんようされた。

日立ひたち電鉄でんてつクハ2501(もとキハ4)

1943ねん昭和しょうわ18ねん)には神中かみなか鉄道てつどう相模鉄道さがみてつどう当時とうじげん東日本旅客鉄道ひがしにほんりょかくてつどう相模さがみせん)に合併がっぺいされたことで相模鉄道さがみてつどうせきとなり、きゅう相模鉄道さがみてつどうせん国家こっか買収ばいしゅうふる神中かみなかせん電化でんかともなって、1947ねん昭和しょうわ22ねんごろまでに電車でんしゃ動力どうりょく制御せいぎょしゃ)に改造かいぞう、クハ1110かたち1111 - 1115ごうとなった[10][11]。このうちクハ1113・1114ごうは1947ねん昭和しょうわ22ねん)3がつから翌年よくねん6がつ一時期いちじき車両しゃりょう不足ふそく応援おうえんのため再度さいど東横線とうよこせん復帰ふっきして運用うんようされた[11]

1951ねん10がつつまめん流線型りゅうせんけいからまるつま改造かいぞう、さらに形式けいしきクハ2500かたちとなっている。相模鉄道さがみてつどう車両しゃりょう近代きんだいともなって日立ひたち電鉄でんてつに2りょう(クハ2500かたち)、日立製作所ひたちせいさくしょ水戸みと工場こうじょう[12]に1りょう上田うえだ丸子まるこ電鉄でんてつに2りょうクハ270かたち)がそれぞれ譲渡じょうとされ、とく日立ひたち電鉄でんてつへの譲渡じょうとしゃ1992ねん平成へいせい4ねん)まで運用うんようされていた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 伊藤いとう武夫たけお. “[https://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2009/45-2_02-02.pdf だいいち世界せかい大戦たいせん輸入ゆにゅう原油げんゆ精製せいせい株式会社かぶしきがいしゃ石油せきゆ共同きょうどう販売はんばいしょ事例じれい─]”. 立命館大学りつめいかんだいがく. 2023ねん8がつ19にち閲覧えつらん
  2. ^ ただし、大阪おおさか電気でんき軌道きどう貨物かもつ電車でんしゃ電動でんどう貨車かしゃ)の気動車きどうしゃ検討けんとうした形跡けいせきがあり、計画けいかく現存げんそんしている。
  3. ^ 東急とうきゅう50ねんによると、当時とうじ電車でんしゃ1りょうの4まんえんたいしガソリンカーは3まん5せんえん割安わりやす変電へんでんしょ増強ぞうきょうにはさらに9まんえんようした。
  4. ^ さらに1941ねん昭和しょうわ16ねん)には、日本にっぽん陸軍りくぐん南部なんぶふつしるし進駐しんちゅうたいする制裁せいさい措置そちとして、アメリカが石油せきゆたいにち全面ぜんめん禁輸きんゆった。
  5. ^ もっとも、これは当時とうじドイツこくフランスなどのりゅう線形せんけい電車でんしゃ気動車きどうしゃ影響えいきょう色濃いろこい。
  6. ^ 川崎かわさき車輛しゃりょう鉄道てつどうしょうけにGMH17・GMF13(直列ちょくれつ6気筒きとう)エンジンを製造せいぞう供給きょうきゅうしており、GMF13についても相当そうとうひんをKW127としてこうわか鉄道てつどう納入のうにゅうしている。
  7. ^ たとえばほん形式けいしきよりも大型おおがたこうわかキニ4がたではウォーケシャ(en:Waukesha Engines)6RB(排気はいきりょう11 L、120 HP / 1,600 rpm)、キニ9がたでもGMF13搭載とうさいで、いずれもGMH17よりもしょう排気はいきりょう機関きかんである。ただし、戦後せんごはこれらもGMH17のディーゼルエンジンばんであるDMH17B機関きかんかわそうしている。
  8. ^ 川崎かわさきしき簡易かんい連結れんけつ呼称こしょうする。ただし、実態じったい日本車輌製造にっぽんしゃりょうせいぞう開発かいはつした簡易かんい連結れんけつデッドコピーしなであり、その構造こうぞうにオリジナルである日本車輌製造にっぽんしゃりょうせいぞうせいとの差異さいはない。
  9. ^ どう時代じだいこうわか鉄道てつどう実施じっししていた総括そうかつ気動車きどうしゃによる気動車きどうしゃ列車れっしゃ構想こうそう影響えいきょうされ、将来しょうらい総括そうかつ制御せいぎょ改造かいぞううえ編成へんせいなかあいだしゃとして使用しよう可能かのうとすることを念頭ねんとういた改造かいぞうであったとされる。ただし、この計画けいかく実現じつげんせず、これら2りょう機械きかいしき変速へんそく搭載とうさいのまま廃車はいしゃまで使用しようされた。
  10. ^ キハ5のみ1942ねん昭和しょうわ17ねん)4がつ事故じこのためきゅうしゃ復帰ふっきせず、1948ねん昭和しょうわ23ねん)8がつ19にち廃車はいしゃされた。
  11. ^ a b 大正たいしょう出版しゅっぱん回想かいそう東京とうきょう急行きゅうこう1』p.17 。
  12. ^ 勝田かつたえき水戸みと工場こうじょうむすんだ専用せんようせん。1959ねんにクハ2503が譲渡じょうとされ国鉄こくてつオハ31がたとも通勤つうきん列車れっしゃとしてバッテリー機関きかんしゃ牽引けんいんされ使用しようされた。(古沢ふるさわあきら近藤こんどう明徳あきのり日立製作所ひたちせいさくしょ水戸みと工場こうじょう通勤つうきんしゃ」『鉄道てつどうファン』No.76)

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]