唐 から 太 ふとし 宗 そう 李 り 世 よ 民 みん (598年 ねん 1月 がつ 28日 にち [a] —649年 ねん 7月 がつ 10日 とおか [b] [c] [d] ),唐 から 朝 あさ 第 だい 二 に 任 にん 皇帝 こうてい 、第 だい 一任 いちにん 宰相 さいしょう 。唐 から 高祖 こうそ 李 り 淵 ふかし 次子 じし ,母親 ははおや 太 ふと 穆 きよし 皇后 こうごう 窦氏,為 ため 中國 ちゅうごく 歷史 れきし 上 じょう 著名 ちょめい 的 てき 政治 せいじ 家 か 、軍事 ぐんじ 家 か 、民族 みんぞく 共 ども 主 ぬし ,開 ひらき 創 そう 了 りょう 奠定唐 から 朝立 あさだち 國 こく 基礎 きそ 的 てき 「贞观之 の 治 ち 」,因 いん 此成為 ため 唐 とう 代 だい 乃至 ないし 中國 ちゅうごく 歷史 れきし 上 じょう 最 さい 享 とおる 負 ふ 盛名 せいめい 的 てき 皇帝 こうてい 之 の 一 いち ,亦 また 是 ぜ 為 ため 後世 こうせい 爭 そう 相 しょう 效 こう 仿的明君 めいくん 典範 てんぱん 之 の 一 いち 。在 ざい 灭亡东突厥 汗 あせ 国 こく 之 の 后 きさき ,被 ひ 九 きゅう 姓 せい 铁勒 、西域 せいいき 诸国国王 こくおう 、吐火羅 ら 葉 よう 護 まもる 尊稱 そんしょう 為 ため 「天 てん 可 か 汗 あせ 」,成 なり 為 ため 首位 しゅい 天 てん 可 か 汗 あせ 。
李 り 世 よ 民 みん 少年 しょうねん 从军,曾于雁 かり 门关 营救隋 ずい 炀帝 。晋 すすむ 阳起兵 へい 攻 おさむ 取 と 长安后 きさき ,受封秦 はた 公 こう 。唐 から 朝 あさ 建立 こんりゅう 后 きさき ,封 ふう 为天 てん 策 さく 上 じょう 将 はた 、秦 はた 王 おう 、太 ふとし 尉 じょう 、司 つかさ 徒 と 兼 けん 尚 なお 书令 ,他 た 是 ぜ 杰出的 てき 軍事 ぐんじ 家 か ,率 りつ 部 ぶ 平定 へいてい 了 りょう 薛仁杲 、刘武周 しゅう 、竇建德 けんとく 、王 おう 世 よ 充 たかし 等 ひとし 隋 ずい 末 まつ 群雄 ぐんゆう ,為 ため 唐 とう 朝 あさ 的 てき 建立 こんりゅう 与 あずか 统一过程立下赫赫战功。
武德 ぶとく 九 きゅう 年 ねん (公 おおやけ 元 もと 626年 ねん )发动玄武 げんぶ 門 もん 之 の 變 へん 殺 ころせ 死 し 兄 あに 长太子 たいし 李 り 建 たて 成 しげる 、四 よん 弟 おとうと 齐王李 り 元吉 もとよし 二人及二人诸子而被立为太子 たいし ,不 ふ 久 ひさ ,唐 から 高祖 こうそ 李 り 渊被 ひ 迫 せり 退位 たいい ,李 り 世 よ 民 みん 即位 そくい ,是 ぜ 為 ため 唐 から 太 ふとし 宗 むね 。在位 ざいい 時間 じかん 只 ただ 使用 しよう 一 いち 個年 かねん 号 ごう —贞观 。
李 り 世 よ 民 みん 登 のぼり 基 はじめ 後 ご ,積極 せっきょく 聽取 ちょうしゅ 群臣 ぐんしん 意見 いけん ,文治 ぶんじ 天下 でんか ,开疆拓 つぶせ 土 ど ,成 なり 為 ため 中國 ちゅうごく 史上 しじょう 著名 ちょめい 的 てき 明君 めいくん 。他 た 虛心 きょしん 納 おさめ 諫,在國 ざいこく 內厲行 ぎょう 節約 せつやく ,使 つかい 百姓能够休養生息,終 おわり 於使得 とく 社會 しゃかい 出現 しゅつげん 了 りょう 國 こく 泰 たい 民 みん 安 やす 的 てき 局面 きょくめん ,開 ひらき 創 そう 中国 ちゅうごく 历史上 うえ 著名 ちょめい 的 てき 貞 さだ 觀 かん 之 の 治 ち ,为后来 らい 的 てき 开元盛 もり 世 よ (亦 また 稱 たたえ 為 ため 開 ひらけ 元之 もとゆき 治 ち )以及唐 から 朝 あさ 130年 ねん 的 てき 盛 もり 世 よ 奠定重要 じゅうよう 基礎 きそ 。李 り 世 よ 民 みん 爱好文学 ぶんがく 与 あずか 书法 ,其真迹今仅存晋 すすむ 祠 ほこら 之 の 铭并序 じょ 碑 いしぶみ 刻 こく 。649年 ねん 7月 がつ 10日 とおか (贞观二 に 十 じゅう 三 さん 年 ねん 五 ご 月 がつ 己 おのれ 巳 み 日 び ),李 り 世 よ 民 みん 因 いん 病 びょう 崩 くずし 于含风殿 どの ,享年 きょうねん 51岁,在位 ざいい 23年 ねん ,庙号 太 ふとし 宗 むね ,諡號 しごう 「文 ぶん 皇帝 こうてい 」,與原 よはら 配 はい 文德 ふみのり 皇后 こうごう 長 ちょう 孫 まご 氏 し 合 ごう 葬 そう 於昭 あきら 陵 りょう 。
生平 おいだいら [ 编辑 ]
早年 そうねん 经历[ 编辑 ]
隋 ずい 文 ぶん 帝 みかど 開 ひらき 皇 すめらぎ 十 じゅう 七 なな 年 ねん 十 じゅう 二 に 月 がつ 戊 つちのえ 午 うま 日 び [c] (598年 ねん 1月 がつ 28日 にち )[b] ,李 り 世 よ 民 みん 出生 しゅっしょう 於岐州 武功 ぶこう 縣 けん 的 てき 慶 けい 善 ぜん 宮中 きゅうちゅう (武功 ぶこう 別館 べっかん ),是 ぜ 當時 とうじ 擔任 たんにん 隋 ずい 朝 あさ 岐州刺史 しし 的 てき 漢 かん 族 ぞく 官 かん 员[1] 李 り 淵 ふかし 與 あずか 竇氏 所生 しょせい 的 てき 嫡次子 こ 。竇氏有 ゆう 四 よん 個 こ 兒 じ 子 こ ,一 いち 個 こ 女兒 じょじ ,按長幼 ちょうよう 顺序為 ため :李 り 建 たて 成 しげる 、平 たいら 陽 よう 昭 あきら 公主 こうしゅ 、李 り 世 よ 民 みん 、李 り 玄 げん 霸 、李 り 元吉 もとよし 。由 よし 于李渊的母 はは 亲元贞皇后 こうごう 和 かず 李 り 世 よ 民 みん 的 てき 母 はは 亲窦氏 し 都 と 既 すんで 有 ゆう 汉人血 ち 统也有 ゆう 鲜卑血 ち 统,所以 ゆえん 李 り 世 よ 民 みん 父子 ふし 是 ぜ 胡 えびす 汉混合 こんごう 血 ち 统。
隋 ずい 炀帝大 だい 业九 きゅう 年 ねん (613年 ねん ),母親 ははおや 在 ざい 涿郡 (治 ち 今 いま 北京 ぺきん 市 し 西南 せいなん )病 びょう 逝,鸿胪寺 てら 治 ち 禮 れい 郎 ろう 高士 こうし 廉 れん 看 み 中 ちゅう 了 りょう 李 り 世 よ 民 みん ,把 わ 外 がい 甥 おい 女 おんな 長 ちょう 孫 まご 氏 し (登 のぼり 基 はじめ 後 ご 稱 しょう 長 ちょう 孫 まご 皇后 こうごう )許 もと 配給 はいきゅう 李 り 世 よ 民 みん 為 ため 妻 つま 。
大業 おおわざ 十 じゅう 一 いち 年 ねん (615年 ねん ),雲 くも 定 てい 興 きょう 被 ひ 授以左 ひだり 屯 たむろ 衛 まもる 大將軍 だいしょうぐん ,奉 たてまつ 命 いのち 援救在 ざい 雁 かり 門 もん 關 せき 被 ひ 突厥 始 はじめ 畢可汗 あせ 所 ところ 率 りつ 大軍 たいぐん 圍 かこえ 困 こま 的 てき 隋 ずい 煬帝 。隋 ずい 煬帝派 は 人 じん 把 わ 詔書 しょうしょ 綁在木頭 きとう 上 じょう ,放 ひ 進 すすむ 汾河讓 ゆずる 詔書 しょうしょ 順流 じゅんりゅう 而下,希望 きぼう 有人 ゆうじん 看 み 到 いた 詔書 しょうしょ 前 ぜん 來 らい 救援 きゅうえん 。雲 くも 定 てい 興 きょう 向 こう 各地 かくち 招募願意 がんい 出征 しゅっせい 的 てき 軍 ぐん 士 し ,李 り 世 よ 民 みん 那 な 年 ねん 只 ただ 有 ゆう 十 じゅう 六 ろく 歲 さい ,前 まえ 去 さ 應募 おうぼ 從軍 じゅうぐん ,被 ひ 劃歸雲 くも 定 てい 興 きょう 的 てき 帳 とばり 下 か 。雲 くも 定 てい 興 きょう 手下 てした 只 ただ 有 ゆう 兩 りょう 萬 まん 新兵 しんぺい ,且多是 ぜ 步兵 ほへい 。李 り 世 よ 民 みん 向 こう 雲 くも 定 てい 興 きょう 建議 けんぎ :突厥敢圍困 こま 天子 てんし ,是 ぜ 認定 にんてい 我 わが 們沒有 ゆう 援軍 えんぐん 。不 ふ 如我們把軍隊 ぐんたい 前後 ぜんこう 拉 ひしげ 開 ひらけ ,延 のべ 綿 めん 數 すう 十 じゅう 里 り ,讓 ゆずる 敵 てき 軍 ぐん 白 しろ 天 てん 看 み 見 み 旌旗 せいき 招展,晚 ばん 上 じょう 聽見鉦鼓 しょうこ 聲聲 こえごえ ,誤 あやま 以為大軍 たいぐん 壓 あつ 境 さかい ,如此才能 さいのう 不戰 ふせん 而勝。若 わか 他 た 們知我 わが 虛實 きょじつ ,兩 りょう 兵 へい 相 しょう 接 せっ ,則 のり 勝敗 しょうはい 難 なん 料 りょう 。雲 くも 定 てい 興 きょう 採納 さいのう 了 りょう 李 り 世 よ 民 みん 的 てき 疑 うたぐ 兵 へい 之 の 計 けい 攻 おさむ 突厥,突厥兵 へい 看 み 到 いた 隋 ずい 軍 ぐん 浩 ひろし 浩 ひろし 蕩蕩 とうとう 絡 からま 繹不絕 ぜっ ,果然 かぜん 以為隋 ずい 軍 ぐん 大 だい 批救兵 へい 到 いた ,於是解 かい 圍 かこえ 撤退 てったい 。
隋 ずい 大業 おおわざ 十 じゅう 二 に 年 ねん (616年 ねん ),父親 ちちおや 李 り 淵 ふかし 升 ます 任 にん 隋 ずい 朝 あさ 右 みぎ 驍衛將軍 しょうぐん 。大業 おおわざ 十 じゅう 三 さん 年 ねん (617年 ねん )正月 しょうがつ ,李 り 淵 ふかし 又 また 遷任太 ふとし 原 はら 郡 ぐん 留守 るす ,李 り 世 よ 民 みん 也跟隨 したがえ 到 いた 太 ふと 原 はら ,李 り 建 たて 成 しげる 、李 り 元吉 もとよし 和 わ 他 た 们的异母弟 おとうと 李 り 智 さとし 云 うん 留 とめ 在 ざい 河 かわ 东郡 (今 いま 山西 さんせい 省 しょう 永 えい 济市 )。李 り 世 よ 民 みん 時 じ 年 ねん 十 じゅう 八 はち 。魏 ぎ 刀 がたな 兒 じ 來 らい 攻 おさむ 太 ふとし 原 はら ,李 り 淵 ふかし 率 りつ 兵 へい 攻 おさむ 打 だ ,不幸 ふこう 深入 ふかいり 敵陣 てきじん ,無法 むほう 衝出重圍 じゅうい 。李 り 世 よ 民 みん 以輕騎 き 突圍而進,張 ちょう 弓 ゆみ 射 しゃ 敵 てき ,所 しょ 向 こう 皆 みな 披靡,救 すくい 李 り 淵 ふかし 於萬 まん 眾之中 ちゅう 。其後敵 てき 步兵 ほへい 又 また 至 いたり ,李 り 淵 ふかし 與 あずか 李 り 世 よ 民 みん 又 また 奮擊,大破 たいは 敌军。
晋 すすむ 阳起兵 へい [ 编辑 ]
隋 ずい 朝 あさ 各地 かくち 反 はん 聲 こえ 四 よん 起 おこり ,戰火 せんか 瀰漫 びまん ,民 みん 不 ふ 聊生。李 り 世 よ 民 みん 準備 じゅんび 舉義兵 へい ,于是撫 なで 恤百姓 ひゃくしょう ,禮遇 れいぐう 士 し 兵 へい ,散財 さんざい 養 やしなえ 客 きゃく ,江湖 こうこ 人士 じんし 、俠客義士 ぎし ,莫不願 ねがい 效 こう 死力 しりょく ,為 ため 李 り 唐 から 起 おこり 義兵 ぎへい 做好充分 じゅうぶん 準備 じゅんび 。李 り 世 よ 民 みん 在 ざい 太 ふとし 原 げん 结纳长孙顺德 、刘弘基 もと 、窦琮 等 とう 人 ひと ,与 あずか 晋 すすむ 阳宫监裴寂 和 かず 晋 すすむ 阳县令 れい 刘文静 せい 商 しょう 议勸諫父親 ちちおや 李 り 渊起兵 へい 反 はん 隋 ずい 。东突厥支持 しじ 的 てき 定 てい 杨可汗 あせ 刘武周 しゅう 占 うらない 领了太 ふと 原 げん 附近 ふきん 汾阳宫,隋 ずい 炀帝不 ふ 满李淵 ふち 和 わ 马邑郡 ぐん 太守 たいしゅ 王仁 わに 恭 きょう 无力阻止 そし 东突厥入侵 おかせ 。隋 ずい 炀帝要 よう 将 しょう 李 り 淵 ふかし 和 かず 王仁 わに 恭 きょう 捉拿带到江 え 都 と 问罪,还没有 ゆう 成行 しげゆき ,又 また 将 はた 其赦免 しゃめん 。
当 とう 时,有 ゆう 李 り 氏 し 取 と 代 だい 杨氏的 てき 谶语,隋 ずい 炀帝因 いん 为担心 こころ 李 り 浑的 てき 侄子李 り 敏 さとし (炀帝的 てき 姐 あね 姐 あね 杨丽华 的 てき 女婿 じょせい )会 かい 应谶为帝,因 いん 此诛杀了李 り 浑家族 かぞく 。李 り 淵 ふかし 非常 ひじょう 担心,在 ざい 李 り 世 よ 民 みん 、裴寂的 てき 鼓 こ 动下,决心起 おこり 兵 へい 反 はん 隋 ずい 。偷偷召唤李 り 建 たて 成 しげる 、李 り 元吉 もとよし 从河东,女婿 じょせい 柴 しば 绍 从长安 やす 前 まえ 来 らい 太 ふと 原 はら 。七 なな 月 がつ ,李 り 渊诛杀了隋 ずい 炀帝派 は 来 らい 监视他 た 的 てき 郡 こおり 丞 すすむ 王 おう 威 たけし 、武 たけ 牙 きば 郎 ろう 將 しょう 高 こう 君 くん 雅 みやび ,接 せっ 著 ちょ 打 だ 著 ちょ “勤王 きんのう 定 てい 亂 みだれ ,迎 むかい 回 かい 隋 ずい 天子 てんし ”的 てき 旗 はた 號 ごう ,正式 せいしき 開始 かいし 於晉陽 ひ 縣 けん 起 おこし 兵 へい ,並 なみ 且得到 いた 李 り 氏 し 宗族 そうぞく 、姻親的 てき 響 ひびき 應 おう ,是 ぜ 為 ため 晉 すすむ 陽 ひ 起 おこり 兵 へい 。李 り 淵 ふかし 以李世 よ 民 みん 為 ため 敦煌 とんこう 郡 ぐん 公 おおやけ 、右 みぎ 領 りょう 軍 ぐん 都 と 督 とく 、統 みつる 右 みぎ 三軍 さんぐん 。
李 り 渊派刘文静 せい 出 で 使 し 东突厥 得 え 到 いた 了 りょう 始 はじめ 毕可汗 あせ 的 てき 支持 しじ ,派 は 李 り 建 たて 成 しげる 、李 り 世 よ 民 みん 夺取西河 にしがわ 郡 ぐん 。六月 ろくがつ ,正式 せいしき 起 おこり 兵 へい 。李 り 渊自为大将 たいしょう 军 ,以长子 こ 李 り 建 たて 成 しげる 、次子 じし 李 り 世 よ 民 みん 为左右 さゆう 大 だい 都 と 督 とく ,以四 よん 子 し 李 り 元吉 もとよし 留守 るす 太 ふと 原 はら ,进兵大 だい 兴城(长安)。
唐 から 朝 あさ 建立 こんりゅう [ 编辑 ]
七 なな 月 がつ ,李 り 世 よ 民 みん 隨 ずい 李 り 淵 ふかし 出征 しゅっせい ,李 り 渊在山西 さんせい 霍邑與隋 ずい 將 しょう 宋 そう 老生 ろうせい 二 に 萬精兵相持於霍邑。恰值久 ひさ 雨 う 糧 かて 盡 つき ,李 り 淵 ふかし 與 あずか 長 ちょう 史 し 裴寂議論 ぎろん ,不 ふ 如暫且回太 ふと 原 はら ,以後 いご 再 さい 圖 ず 謀 はかりごと 舉事。李 り 世 よ 民 みん 懇 こん 求 もとめ 李 り 淵 ふかし 不要 ふよう 退 すさ 卻。李 り 世 よ 民 みん 說 せつ :「原本 げんぽん 興 きょう 立 りつ 大義 たいぎ 是 ぜ 為 ため 了 りょう 拯救百姓 ひゃくしょう ,應 おう 當 とう 先攻 せんこう 入 にゅう 咸陽,號令 ごうれい 天下 でんか ;遇 ぐう 到 いた 小 しょう 敵 てき 就回師 し ,恐 おそれ 怕隨從 ずいじゅう 起 おこり 義之 よしゆき 人 じん 將 しょう 會 かい 一朝 いっちょう 解體 かいたい 。回 かい 去 さ 守 もり 太 ふと 原 はら 一城 かずき 之 これ 地 ち ,這不過 か 是 ぜ 賊 ぞく 寇所為 しょい 罷 やめ 了 りょう ,怎麼能 のう 保全 ほぜん 自己 じこ !」但 ただし 是 ぜ 李 り 淵 ふかし 不 ふ 採納 さいのう ,催促 さいそく 命令 めいれい 引軍出發 しゅっぱつ 。李 り 世 よ 民 みん 遂 とげ 大 だい 哭於外 がい ,聲聞 しょうもん 帳 ちょう 中 ちゅう 。李 り 淵 ふかし 召問其故,李 り 世 よ 民 みん 說 せつ :「現在 げんざい 部隊 ぶたい 憑藉正義 せいぎ 而出動 しゅつどう ,前進 ぜんしん 、戰 せん 鬥就必定 ひつじょう 勝利 しょうり ,退 すさ 回 かい 就一定會散伙。大家 たいか 散 ち 伙於前 まえ ,敵 てき 人 じん 趁機追擊 ついげき 於後,死亡 しぼう 將 しょう 頃 ごろ 刻 こく 而至,因 いん 此悲傷 きず 。」李 り 淵 ふかし 醒悟而停止 ていし 撤兵 てっぺい 。
八 はち 月 がつ ,雨 あめ 停 とま ,引師取 と 霍邑。李 り 世 よ 民 みん 怕宋老生 ろうせい 不出 ふしゅつ 戰 せん ,於是率 りつ 領 りょう 數 すう 名 めい 騎兵 きへい 先 さき 到 いた 霍邑城下 じょうか ,拿著馬 ば 鞭 むち 指 ゆび 點 てん 比 ひ 劃,好 こう 像 ぞう 圍 かこえ 城 じょう 樣子 ようす ,以激怒 げきど 宋 そう 老生 ろうせい 。宋 そう 老生 ろうせい 果然 かぜん 發 はつ 怒 いか ,開門 かいもん 出兵 しゅっぺい ,背 せ 城 じょう 列 れつ 陣 じん 。李 り 淵 ふかし 與 あずか 李 り 建 けん 成 なり 一起列陣於城東,李 り 世 よ 民 みん 和 わ 柴 しば 紹列陣 じん 於城南 みなみ 。老生 ろうせい 指揮 しき 兵士 へいし 迅速 じんそく 前進 ぜんしん ,先 さき 逼近李 り 淵 ふかし ,這時李 り 建 けん 成 なり 忽 ゆるがせ 然 しか 墜馬,宋 そう 老生 ろうせい 趁機進攻 しんこう ,李 り 淵 ふかし 與 あずか 李 り 建 けん 成 なり 部隊 ぶたい 往後退 こうたい 卻。李 り 世 よ 民 みん 自 じ 城南 じょうなん 高地 こうち 率 りつ 領 りょう 兩 りょう 名 めい 騎兵 きへい 急 きゅう 馳 はせ 而下,衝斷了 りょう 宋 そう 老生 ろうせい 部隊 ぶたい ,又 また 領 りょう 兵 へい 奮力進擊 しんげき ,敵 てき 軍 ぐん 大敗 たいはい ,各 かく 扔掉兵器 へいき 逃跑。宋 そう 老生 ろうせい 退 すさ 回 かい 到 いた 城門 じょうもん ,城上 じょうかみ 閘門放下 ほうか ,宋 そう 老生 ろうせい 手 しゅ 拉 ひしげ 繩 なわ 子 こ 想 そう 上城 かみしろ ,被 ひ 砍死,於是霍邑平定 へいてい 。
到 いた 了 りょう 河東 かわとう ,關 せき 中 ちゅう 豪傑 ごうけつ 爭 そう 著 ちょ 奔赴參加 さんか 義軍 ぎぐん 。李 り 世 よ 民 みん 請求 せいきゅう 進軍 しんぐん 入 いれ 關 せき ,开永 えい 丰仓 赈济百姓 ひゃくしょう ,收 おさむ 服 ふく 群雄 ぐんゆう 及眾豪傑 ごうけつ 來 らい 謀 はかりごと 取 と 京都 きょうと 。李 り 渊同意 どうい ,从龙门渡黄河 こうが ,先 さき 定 てい 渭北。关中 有 ゆう 李 り 世 よ 民 みん 的 てき 姐 あね 姐 あね 李 り 三 さん 娘 むすめ 等 とう 人 ひと 起 おこり 兵 へい 响应。京都 きょうと 附近 ふきん 官民 かんみん 及豪傑 ごうけつ 紳士 しんし 到 いた 軍門 ぐんもん 請求 せいきゅう 獻身 けんしん 報 ほう 效 こう 義軍 ぎぐん 者 しゃ 日 び 以千 せん 計 けい ,扶老攜幼,滿 まん 於麾下 か 。李 り 世 よ 民 みん 收納 しゅうのう 英俊 えいしゅん ,擇 よ 才 ざい 而用,遠近 えんきん 聞者,皆 みな 來 らい 投 なげ 靠 もたれ 。
唐 とう 軍 ぐん 在 ざい 涇陽宿營 しゅくえい ,有 ゆう 優秀 ゆうしゅう 兵士 へいし 九 きゅう 萬 まん 名 めい ,擊破 げきは 反 はん 隋 ずい 盗 ぬすめ 寇胡人 じん 劉 りゅう 鷂 はいたか 子 こ ,兼併 けんぺい 其部下 か ,留 とめ 下 か 殷 いん 開山 かいさん 、劉 りゅう 弘 ひろし 基 もと 屯 たむろ 駐 ちゅう 長安 ながやす 舊 きゅう 城 しろ 。李 り 世 よ 民 みん 自己 じこ 帶 たい 兵 へい 奔赴司 し 竹 ちく ,盗 とう 寇首領 りょう 李 り 仲 なか 文 ぶん 、何 なに 潘 はん 仁 ひとし 、向 むかい 善 よし 志 こころざし 等 とう 都 と 來 らい 相 あい 見 み ,停留 ていりゅう 於阿城 じょう ,獲得 かくとく 兵士 へいし 十 じゅう 三 さん 萬 まん 人 にん 。長安 ながやす 父老 ふろう 送 おく 牛 うし 酒 しゅ 到 いた 營門勞 ろう 軍 ぐん 者 しゃ 不可 ふか 勝 かち 數 すう ,李 り 世 よ 民 みん 都 と 加 か 以慰問 いもん ,然 しか 後送 こうそう 走 はし 他 た 們,東西 とうざい 一概 いちがい 不 ふ 收 おさむ 。軍令 ぐんれい 嚴肅 げんしゅく ,秋毫 しゅうごう 無 む 犯 はん 。接 せっ 著 ちょ 與 あずか 大軍 たいぐん 一 いち 起 おこり 平定 へいてい 京 きょう 城 じょう 。
十一月 じゅういちがつ ,李 り 渊攻克 かつ 大 だい 興 きょう ,以代王 おう 杨侑 为皇帝 こうてい ,尊 みこと 隋 ずい 炀帝杨广 为太 ふとし 上皇 じょうこう ,李 り 渊自为大丞相 じょうしょう 、唐王 とうのう 。攻 おさむ 克 かつ 隋 ずい 大 だい 兴城後 ご ,李 り 世 よ 民 みん 官 かん 拜 はい 京 きょう 兆 ちょう 尹 いん 、受封秦 しん 國 こく 公 こう 。陇西的 てき 西 にし 秦 しん 霸王薛举 不 ふ 满李渊占据 すえ 西京 にしぎょう ,派 は 他 た 的 てき 儿子薛仁杲 来 き 犯 はん 。李 り 渊派李 り 世 よ 民 みん 抵御薛仁杲,李 り 世 よ 民 みん 在 ざい 扶风击败薛仁杲,薛举暂时有 ゆう 投降 とうこう 李 り 渊的念 ねん 头,被 ひ 谋士郝瑗 劝阻。义宁二 に 年 ねん (618年 ねん )春 はる ,隋 ずい 朝 あさ 东都洛 らく 阳被瓦 かわら 岗军魏 ぎ 公 こう 李 り 密 ひそか 围攻,李 り 渊派李 り 建 たて 成和 しげかず 李 り 世 よ 民 みん 率 りつ 军声称 しょう 援助 えんじょ 洛 らく 阳,想 そう 试探洛 らく 阳能否 ひ 归顺自己 じこ 。洛 らく 阳的官 かん 员拒绝了李 り 渊的援助 えんじょ ,李 り 建 たて 成和 しげかず 李 り 世 よ 民 みん 在 ざい 此时不 ふ 想 おもえ 与 あずか 东都留守 るす 官 かん 员和李 り 密 ひそか 争 そう 夺洛阳的控 ひかえ 制 せい 权,于是撤军。三 さん 月 がつ 初 はつ 十 じゅう (618年 ねん 4月 がつ 10日 とおか ),李 り 渊改封 ふう 李 り 世 よ 民 みん 为趙國 こく 公 こう 。三月 さんがつ ,隋 ずい 炀帝杨广在 ざい 江 こう 都 みやこ 被 ひ 宇文 うぶん 化 か 及所 ところ 杀,五月 ごがつ ,李 り 渊废黜杨侑,称 しょう 帝 みかど ,改 あらため 国号 こくごう 为唐,定 てい 都 と 大 だい 興 きょう ,易 えき 名 めい 長安 ながやす ,唐 から 朝 あさ 建立 こんりゅう 。李 り 世 よ 民 みん 拜 はい 尚書 しょうしょ 令 れい 、晉 すすむ 為 ため 秦 はた 王 おう 。
统一中国 ちゅうごく [ 编辑 ]
昭 あきら 陵 りょう 六 ろく 骏之 これ 什伐赤 あか 、青 あお 骓、特 とく 勤 つとむ 骠
昭 あきら 陵 りょう 六 ろく 骏之飒露紫 むらさき (复制品 ひん )、拳 こぶし 毛 げ 䯄(复制品 ひん )、白 しろ 蹄乌
唐 から 朝 あさ 建立 こんりゅう 後 ご ,疆土只 ただ 限 げん 于关中和 ちゅうわ 河 かわ 东一带,尚 なお 未 み 完全 かんぜん 统治全国 ぜんこく ,因 いん 此,李 り 世 よ 民 みん 經常 けいじょう 出征 しゅっせい ,最 さい 终統一 とういつ 中國 ちゅうごく 。自 じ 武德 ぶとく 元年 がんねん 起 おこり ,李 り 世 よ 民 みん 親 おや 自 じ 参與 さんよ 四 よん 場 じょう 大戰 たいせん 役 やく 。
平定 へいてい 西 にし 秦 しん [ 编辑 ]
西 にし 秦 しん 薛举自立 じりつ 为秦帝 みかど ,再 さい 次 つぎ 攻 おさむ 打 だ 唐 から 朝 あさ ,兵 へい 锋抵达泾州 しゅう (今 いま 甘 あま 肃省泾川县 ) ,唐 から 高祖 こうそ 派 は 李 り 世 よ 民 みん 为西讨元帅,抵御薛举。李 り 世 よ 民 みん 深 ふか 沟高垒,不 ふ 肯与薛举交战,想 そう 要 よう 将 しょう 薛举拖垮。但 ただし 此时李 り 世 よ 民 みん 身 み 患疟疾 ,回 かい 后 きさき 方 かた 修 おさむ 养。临走前 まえ ,李 り 世 よ 民 みん 令 れい 代 だい 为指挥军队的刘文静 せい 、殷 いん 开山不 ふ 得 とく 擅自出兵 しゅっぺい 。七 なな 月 がつ 初 はつ 九 きゅう ,刘文静 せい 、殷 いん 开山因 いん 轻视而出击薛举,被 ひ 败于浅水 あさみず 原 げん ,唐 から 军大败,伤亡十 じゅう 之 の 五 ご 六 ろく 。唐 から 军被迫 せり 撤回 てっかい 长安,刘文静 せい 、殷 いん 开山被 ひ 免 めん 职。薛举获胜后 きさき ,听从郝瑗的 てき 建 けん 议,准 じゅん 备进攻 おさむ 长安。八 はち 月 がつ 初 はつ 九 きゅう ,薛举暴病而亡,其子薛仁杲继位 い 。八 はち 月 がつ 十 じゅう 七 なな ,唐 から 高祖 こうそ 再 さい 派 は 李 り 世 よ 民 みん 为元帅,抵御薛仁杲。薛仁杲即位 そくい 三 さん 个月后 きさき ,唐 から 军出击,在 ざい 浅水 あさみず 原 げん 与 あずか 薛仁杲的部将 ぶしょう 宗 そう 罗睺激 げき 战。结果,唐 から 军击溃了宗 むね 罗睺的 てき 军队,然 しか 后 きさき 袭击薛仁杲。薛仁杲被迫 はさま 撤入高 だか 墌城,大 だい 批士兵 へい 降 くだ 唐 とう 。薛仁杲只好 こう 降 くだ 唐 から ,李 り 世 よ 民 みん 将 はた 他 た 押送 おうそう 长安,被 ひ 唐 から 高祖 こうそ 处决。十二月 じゅうにがつ 初 はつ 一 いち ,唐 から 高祖 こうそ 任命 にんめい 李 り 世 よ 民 みん 为太尉 じょう 、使 つかい 持 じ 节、陕东道 どう 大 だい 行 ぎょう 台 だい 。
平定 へいてい 河 かわ 东[ 编辑 ]
武德 ぶとく 二 に 年 ねん (619年 ねん ),劉 りゅう 武周 ぶしゅう 对唐朝 あさ 发动攻 おさむ 势。九 きゅう 月 がつ 十 じゅう 六 ろく 攻 おさむ 陷 おちい 太 ふと 原 はら ,留守 るす 太 ふと 原 はら 的 てき 李 り 元吉 もとよし 弃城逃走 とうそう ,劉 りゅう 武周 ぶしゅう 派 は 宋 そう 金剛 こんごう 继续向 こう 南 みなみ 进攻。唐 から 高祖 こうそ 派 は 宰相 さいしょう 裴寂率 りつ 军抵御 ご ,十 じゅう 月 がつ ,裴寂大 だい 败,今 こん 山西 さんせい 全 ぜん 境 さかい 几乎都 と 落入了 りょう 刘武周 ぶしゅう 手中 しゅちゅう 。唐 から 高祖 こうそ 大 だい 惊,考 こう 虑放弃河东(山西 さんせい 省 しょう )。李 り 世 よ 民 みん 请命亲率大 だい 军讨伐劉 りゅう 武周 ぶしゅう 。高祖 こうそ 同意 どうい ,派 は 他 た 率 りつ 领军队渡过黄河 かわ 。李 り 世 よ 民 みん 与 あずか 宋 そう 金 きん 刚对峙,还是没 ぼつ 有 ゆう 马上交战,选择相 しょう 持 じ 将 はた 宋 そう 军拖垮,同 どう 时派殷 いん 开山、秦 はた 叔宝率 りつ 军击败援助 えんじょ 叛唐势力的 てき 劉 りゅう 武周 ぶしゅう 部将 ぶしょう 尉 じょう 迟敬德 とく 、寻相。最 さい 终,武德 ぶとく 三 さん 年 ねん (620年 ねん )四 よん 月 がつ ,宋 そう 金 きん 刚粮草枯 くさがれ 竭后退 すさ ,李 り 世 よ 民 みん 追 つい 击,宋 そう 金 きん 刚大败。尉 じょう 迟敬德 とく 、寻相 降 くだ 唐 から ,李 り 世 よ 民 みん 持 じ 续追击,劉 りゅう 武周 ぶしゅう 、宋 そう 金剛 こんごう 逃往东突厥。山西 さんせい 全 あきら 境 さかい 都 と 落入唐 にっとう 朝 あさ 手中 しゅちゅう 。
平定 へいてい 中原 なかはら [ 编辑 ]
武德 ぶとく 三 さん 年 ねん (620年 ねん )夏 なつ ,唐 から 高祖 こうそ 再 さい 派 は 李 り 世 よ 民 みん 东征郑国。619年 ねん ,隋 ずい 朝 あさ 末代 まつだい 皇帝 こうてい 杨侗 禅 ぜん 位 い 给郑王 おう 王 おう 世 よ 充 たかし ,王 おう 世 よ 充 たかし 称 しょう 皇帝 こうてい ,建立 こんりゅう 了 りょう 郑国。李 り 世 よ 民兵 みんぺい 至 いたり 郑都洛 らく 阳,王 おう 世 よ 充 たかし 求 もとめ 和 わ ,李 り 世 よ 民 みん 回 かい 绝,开始围攻洛 らく 阳。同 どう 时,他派 たは 部下 ぶか 分 ぶん 别占领了郑国周 しゅう 边的城 じょう 池 ち 。同年 どうねん 冬 ふゆ ,除 じょ 洛 らく 阳和王 おう 世 よ 充 たかし 的 てき 侄子王 おう 弘 ひろし 烈 れつ 守 もり 卫的襄 じょう 阳之 これ 外 がい ,郑国大 だい 部分 ぶぶん 地区 ちく 都 と 归属唐 とう 朝 あさ 。王 おう 世 よ 充 たかし 向 こう 河北 かほく 的 てき 夏 なつ 王 おう 窦建德 けんとく 求 もとめ 助 すけ 。窦建德 けんとく 认为唐 から 灭郑国 こく 之 の 后 きさき ,就要兼 けん 并他的 てき 夏 なつ 国 こく ,于是同意 どうい 出兵 しゅっぺい 。他派 たは 李 り 大師 だいし 劝李世 よ 民 みん 撤退 てったい ,李 り 世 よ 民 みん 扣留李 り 大 だい 师,没 ぼつ 有 ゆう 回 かい 应窦建德 けんとく 。李 り 世 よ 民 みん 在 ざい 兵 へい 将 はた 中 ちゅう 选派玄 げん 甲 かぶと 军一千 せん 余人 よにん ,身 み 着 ぎ 黑衣 くろご 黑 くろ 甲 かぶと ,自己 じこ 率 りつ 领秦叔宝、尉 じょう 迟敬德 とく 、程 ほど 知 ち 节、翟长孙 作 さく 为指挥。
武德 ぶとく 四 よん 年 ねん (621年 ねん )春 はる ,洛 らく 阳陷入 にゅう 绝境,夏 なつ 军尚未 み 抵达,但 ただし 唐 から 军也进入困 こま 局 きょく ,洛 らく 阳城防 ぼう 依 よ 靠 もたれ 飞石弓 ゆみ 弩 いしゆみ 使 し 唐 から 军伤亡 ほろび 很大。唐 から 高祖 こうそ 听说窦建德 けんとく 已 やめ 决定前 ぜん 来援 らいえん 助 すけ 王 おう 世 よ 充 たかし ,命 いのち 李 り 世 よ 民 みん 撤退 てったい 。李 り 世 よ 民 みん 派 は 封 ふう 德 とく 彝 つね 去 さ 长安禀明高祖 こうそ ,如果唐 から 军撤退 てったい ,王 おう 世 よ 充 たかし 势力再 さい 振 ふ ,以后很难取得 しゅとく 现在的 てき 成功 せいこう 了 りょう 。高祖 こうそ 于是同意 どうい 李 り 世 よ 民 みん 继续围攻洛 らく 阳。夏 なつ 国 こく 前 ぜん 军抵达,李 り 世 よ 民 みん 派 は 军将其击溃,然 しか 后 きさき 致书窦建德 けんとく ,请他撤军。窦建德 けんとく 的 てき 妻子 さいし 曹皇后 こうごう 和 かず 大臣 だいじん 凌 しのげ 敬 けい 建 けん 议,应进攻 おさむ 山西 さんせい 南部 なんぶ 的 てき 唐 から 军,窦建德 けんとく 没 ぼつ 有 ゆう 同意 どうい ,继续向 こう 洛 らく 阳进军。李 り 世 よ 民 みん 预料到 いた 窦建德 けんとく 的 てき 行 ぎょう 动,留 とめ 下 か 李 り 元吉 もとよし 指 ゆび 挥围攻 おさむ 洛 らく 阳,自己 じこ 则东进虎牢 ろう 关结阵。两军在 ざい 虎 とら 牢 ろう 交战 ,李 り 世 よ 民 みん 打 だ 败窦建德 けんとく ,将 はた 其俘虏。他 た 将 しょう 窦建德 けんとく 带到洛 らく 阳,王 おう 世 よ 充 たかし 见到大 だい 惊,想 そう 要 よう 放 ひ 弃洛阳南逃襄阳,但 ただし 他 た 的 てき 部将 ぶしょう 表示 ひょうじ 现在唯 ただ 一能依靠的就是窦建德,窦建德 けんとく 被 ひ 擒 とりこ ,已 やめ 经没有 ゆう 胜算。王 おう 世 よ 充 たかし 于是投降 とうこう 。逃回 にげまわ 夏 なつ 都 みやこ 洺州 的 てき 曹皇后 こうごう 和 わ 齐善行 ぜんこう 随 ずい 后 きさき 也投降 とうこう 唐 から 朝 あさ 。郑国、夏 なつ 国之 くにゆき 地 ち 都 と 归属唐 とう 朝 あさ 。
自 じ 此李世 よ 民 みん 威 い 望 もち 日 び 隆 たかし ,尤 ゆう 其是在 ざい 虎 とら 牢 ろう 之 の 戰後 せんご 班 はん 師 し 返 かえし 京 きょう 時 じ ,受到长安軍民 ぐんみん 的 てき 隆重 たかしげ 歡迎 かんげい 。高祖 こうそ 为赏赐李世 よ 民 みん 和 わ 李 り 元吉 もとよし 铸币监各三 さん 炉 ろ ,裴寂一 いち 炉 ろ ,让他们自己 じこ 铸币。武德 ぶとく 四 よん 年 ねん 十 じゅう 月 がつ ,封 ふう 為 ため 天 てん 策 さく 上 じょう 將 はた ,領 りょう 司 し 徒 と 、陝東道 とうどう 大 だい 行 くだり 臺 だい 尚書 しょうしょ 令 れい ,食 しょく 邑增 ぞう 至 いたり 二 に 萬 まん 戶 こ 。李 り 淵 ふかし 又 また 下 した 詔 みことのり 特許 とっきょ 天 てん 策 さく 府 ふ 自 じ 置 おけ 官 かん 屬 ぞく ,李 り 世 よ 民 みん 因 いん 此闢弘文 こうぶん 館 かん ,收攬 しゅうらん 四方彥士入館備詢顧問,與 あずか 秦 しん 王 おう 府相 ふそう 結合 けつごう ,儼然 げんぜん 一 いち 個 こ 小 しょう 內閣 。
平定 へいてい 河北 かほく [ 编辑 ]
窦建德 けんとく 被 ひ 李 り 世 よ 民 みん 被 ひ 带回长安后 きさき ,被 ひ 唐 から 高祖 こうそ 处决。武德 ぶとく 四 よん 年 ねん (621年 ねん )冬 ふゆ ,夏 なつ 将 すすむ 劉 りゅう 黑 くろ 闥反抗 こう 唐 とう 朝 あさ ,声 こえ 称 たたえ 要 よう 为窦建德 けんとく 报仇。兖州 徐 じょ 圓 えん 朗 ろう 名 めい 义上在 ざい 王 おう 世 よ 充 たかし 手下 てした 为鲁王 おう ,在 ざい 王 おう 世 よ 充 たかし 失 しつ 败后归顺唐 とう 朝 あさ 。这时,劉 りゅう 黑 くろ 闥与徐 じょ 圓 えん 朗 ろう 结盟,一起 かずき 反 はん 唐 とう 。劉 りゅう 黑 くろ 闥接连击败高祖 こうそ 的 てき 堂 どう 弟 おとうと 淮安王 おう 李 り 神通 じんずう 、义安王 おう 李 り 孝 たかし 常 つね 和 かず 曹国公 こう 李 り 世 よ 勣。至 いたり 此,他 た 几乎收 おさむ 复了原 げん 夏 なつ 国 こく 疆域,定 てい 都 と 洺州,自 じ 封 ふう 为汉东王。武德 ぶとく 五 ご 年 ねん (622年 ねん ),高祖 こうそ 再 さい 派 は 李 り 世 よ 民 みん 和 わ 李 り 元吉 もとよし 率 りつ 军讨伐,经过一 いち 番 ばん 战斗,三 さん 月 がつ 廿 にじゅう 六 ろく ,李 り 世 よ 民 みん 在 ざい 洺水上 じょう 筑坝,然 しか 后 きさき 将 はた 其摧毁,由 ゆかり 此引发的洪水 こうずい 摧毁了 りょう 汉东军。劉 りゅう 黑 くろ 闥逃到东突厥,而李世 よ 民 みん 则向东击败徐圓 えん 朗 ろう 。高祖 こうそ 召李世 よ 民 みん 回 かい 朝 あさ ,于是李 り 元吉 もとよし 、李 り 世 よ 勣、李 り 神通 じんずう 、任 にん 瓌 继续进攻徐 じょ 圓 まどか 朗 あきら ,四 よん 月 がつ 初 はつ 九 きゅう ,李 り 世 よ 民 みん 返 かえし 回 かい 长安。
玄武 げんぶ 門 もん 之 の 變 へん 与 あずか 即位 そくい [ 编辑 ]
618年 ねん ,李 り 渊建立 こんりゅう 唐 から 朝 あさ 為 ため 唐 から 高祖 こうそ ,并立世子 せいし 李 り 建 けん 成 なり 为太子 こ 。太 ふと 原 げん 起 おこり 兵 へい 是 ぜ 李 り 世 よ 民 みん 的 てき 谋略,高祖 こうそ 曾答应他事 たじ 成之 しげゆき 后 きさき 立 りつ 他 た 为太子 たいし ,但 ただし 天下 てんか 平定 へいてい 后 きさき ,李 り 世 よ 民 みん 功名 こうみょう 日 び 盛 もり ,高祖 こうそ 却犹豫 よ 不 ふ 决。[2] 太子 たいし 李 り 建 けん 成 なり 随 したがえ 即 そく 联合四 よん 弟 おとうと 齐王李 り 元吉 もとよし ,共同 きょうどう 排 はい 挤李世 よ 民 みん 。同 どう 时,高祖 こうそ 的 てき 优柔寡断,也使朝 あさ 中 ちゅう 政令 せいれい 相互 そうご 冲突,加速 かそく 了 りょう 诸子的 てき 兵 へい 戎 えびす 相 しょう 见。太子 たいし 、秦 はた 王 おう 和 かず 齐王的 てき 教 きょう 书与皇帝 こうてい 的 てき 诏书具有 ぐゆう 同等 どうとう 效力 こうりょく ,在 ざい 命令 めいれい 相 しょう 互冲突时,官 かん 员们只 ただ 得 とく 执行最 さい 先 さき 到 いた 达的命令 めいれい 。
此後,長兄 ちょうけい 皇太子 こうたいし 李 り 建 たて 成 しげる 知 ち 李 り 世 よ 民 みん 終 おわり 不 ふ 肯屈為 ため 人臣 じんしん ,而李世 よ 民 みん 也認為 ため 是 ぜ 自己 じこ 奠下唐 とう 朝 あさ 開國 かいこく 的 てき 基 もと 業 ぎょう ,遂 とげ 與 あずか 李 り 建 たて 成 しげる 、四 よん 弟 おとうと 齊 ひとし 王 おう 李 り 元吉 もとよし 猜忌 さいき 日 び 深 ふか ,兩派 りょうは 之 の 間 あいだ 互相傾 かたぶけ 軋 ぎし 。李 り 世 よ 民 みん 的 てき 手下 てした 人才 じんさい 济济,李 り 建 けん 成 なり 的 てき 支持 しじ 者 しゃ 只 ただ 有 ゆう 李 り 元吉 もとよし 和 かず 李 り 渊的嫔妃尹 いん 德 いさお 妃 ひ 、张婕妤 等 とう 人 ひと 。
武德 ぶとく 五 ご 年 ねん (622年 ねん )年 ねん 底 そこ ,刘黑闼得到 いた 东突厥颉利 り 可 か 汗 あせ 的 てき 支持 しじ 返 かえし 回 かい 河北 かわきた ,在 ざい 下 した 博之 ひろゆき 战大 だい 胜唐军,李 り 世 よ 民 みん 的 てき 堂 どう 弟 おとうと 淮阳王 おう 李 り 道 みち 玄 げん 阵亡。刘黑闼再次 じ 恢复了 りょう 原 げん 夏 なつ 国 こく 的 てき 大 だい 部分 ぶぶん 领土。李 り 建 けん 成 なり 的 てき 谋士王 おう 珪和魏 ぎ 徵 ちょう 建 けん 议太子 たいし 要 よう 在 ざい 战争中 ちゅう 提 ひさげ 升 ます 自己 じこ 的 てき 声望 せいぼう ,李 り 建 たて 成 しげる 于是向 こう 父 ちち 亲请战。高祖 こうそ 于是派 は 李 り 建 たて 成 しげる 、李 り 元吉 もとよし 率 りつ 军攻打 だ 刘黑闼。武德 ぶとく 六 ろく 年 ねん (623年 ねん ),刘黑闼兵败,被 ひ 诸葛德 とく 威 い 出 で 卖,擒 とりこ 获交给李建 たて 成 しげる 。李 り 建 たて 成 しげる 在 ざい 汉东故 こ 都 と 洺州处决了 りょう 刘黑闼,凯旋回 せんかい 到 いた 长安。此时,唐 から 朝 あさ 基本 きほん 统一中国 ちゅうごく 。
接 せっ 下 か 来 らい 的 てき 几年中 ちゅう ,李 り 世 よ 民 みん 兄弟 きょうだい 之 の 争 そう 愈 いよいよ 演 えんじ 愈 いよいよ 烈 れつ 。在 ざい 此期间,东突厥入侵 おかせ 时,李 り 建 たて 成 しげる 、李 り 世 よ 民 みん 都 と 曾经率 りつ 军防御 ぼうぎょ 。辅公祏 在 ざい 丹 に 阳(今 いま 江 こう 苏省南京 なんきん 市 し )反 はん 唐 から 时,唐 から 高祖 こうそ 任命 にんめい 李 り 世 よ 民 みん 为江州 しゅう 道行 みちゆき 军元帅,攻 おさむ 打 だ 辅公祏,但 ただし 很快取消 とりけし 了 りょう 命令 めいれい ,而派李 り 世 よ 民 みん 的 てき 堂 どう 兄 けい 赵郡王 おう 李 り 孝 たかし 恭 きょう 代 だい 为出征 しゅっせい 。
武德 ぶとく 七 なな 年 ねん (624年 ねん )六 ろく 月 がつ ,李 り 建 けん 成 なり 暗中 あんちゅう 招募骁勇充当 じゅうとう 东宫卫士,郎 ろう 将 しょう 尔朱焕 、校 こう 尉 じょう 桥公山 やま 到 いた 仁 ひとし 智 さとし 宫向避暑 ひしょ 的 てき 唐 から 高祖 こうそ 告 つげ 发。唐 から 高祖 こうそ 大 だい 怒 いか ,将 はた 李 り 建 けん 成 なり 逮捕 たいほ 。李 り 建 けん 成 なり 的 てき 亲信庆州都 と 督 とく 杨文幹 みき 恐 おそれ 惧,起 おこり 兵 へい 谋反。高祖 こうそ 派 は 李 り 世 よ 民 みん 攻 おさむ 打 だ 杨文幹 みき ,许诺平定 へいてい 杨文幹 みき 后 きさき 立 りつ 他 た 为太子 こ 。然 しか 而,李 り 世 よ 民 みん 走 はし 后 きさき ,李 り 元吉 もとよし 和 わ 宰相 さいしょう 封 ふう 德 とく 彝 つね 、尹 いん 德 いさお 妃 ひ 、张婕妤等人 じん 都 と 替 がえ 李 り 建 けん 成 なる 求 もとめ 情 じょう 。李 り 世 よ 民 みん 平定 へいてい 杨文幹 みき 归来后 きさき ,高祖 こうそ 并没有 ゆう 废黜李 り 建 たて 成 しげる ,而是指 ゆび 责李世 よ 民 みん 与 あずか 李 り 建 けん 成 なり 不和 ふわ ,将 はた 李 り 建 けん 成 なり 的 てき 手下 てした 太子 たいし 中 ちゅう 允 まこと 王 おう 珪、左 ひだり 卫率韦挺 和 かず 李 り 世 よ 民 みん 手下 てした 的 てき 天 てん 策 さく 兵曹 へいそう 参 さん 军杜 もり 淹 ,全 ぜん 都 と 流 りゅう 放 ひ 到 いた 巂州(今 いま 四川凉山彝族自治州)。
唐 から 高祖 こうそ 困 こま 于东突厥多 た 次 つぎ 入 いれ 侵 おかせ ,想 そう 要 よう 烧毁长安,迁都樊城。李 り 建 たて 成 しげる 、李 り 元吉 もとよし 、裴寂都 と 表示 ひょうじ 同意 どうい 。而李世 よ 民 みん 坚持反 はん 对,所以 ゆえん 计划未 み 能 のう 实施。同 どう 时,李 り 世 よ 民 みん 也派亲信张亮、王 おう 保 たもつ 等 とう 人前 ひとまえ 往洛阳,加 か 强 きょう 控 ひかえ 制 せい 当地 とうち 军队和 わ 结纳山 やま 东豪杰。
李 り 世 よ 民 みん 曾在李 り 建 けん 成 なり 东宫饮酒,吐血 とけつ 数 すう 升 しょう ,怀疑李 り 建 けん 成 なり 下 か 毒 どく 。[3] 唐 から 高祖 こうそ 于是考 こう 虑派李 り 世 よ 民 みん 出 で 镇洛阳,以防止 ぼうし 兄弟 きょうだい 之 の 间的进一 いち 步 ほ 冲突。但 ただし 李 り 建 たて 成 しげる 、李 り 元吉 もとよし 认为这会给李世 よ 民 みん 一个在洛阳培养势力的机会,于是表示 ひょうじ 反 はん 对。高祖 こうそ 因 いん 此作罢。与 あずか 此同时,李 り 世 よ 民 みん 曾一度造访李元吉府邸,李 り 元吉 もとよし 想 そう 要 よう 刺 とげ 杀李世 よ 民 みん ,李 り 建 けん 成 なり 却下 きゃっか 不 ふ 了 りょう 决心,因 いん 而终止 どめ 了 りょう 行 ぎょう 动。李 り 建 けん 成 なり 有 ゆう 一 いち 匹 ひき 马烈马,很容易 ようい 摔倒骑手,他 た 让李世 よ 民 みん 试骑,导致李 り 世 よ 民 みん 几次摔倒,李 り 世 よ 民 みん 向 むこう 宇文 うぶん 士 し 及表示 ひょうじ 对这种伎俩的不 ふ 屑 くず 。
其中宰相 さいしょう 裴寂 、謀 はかりごと 士 し 王 おう 珪 、魏 ぎ 徵 ちょう 、東宮 とうぐう 衛士 えじ 將領 しょうりょう 薛萬 まん 徹 てっ 等 とう 追隨 ついずい 李 り 建 たて 成 しげる 、李 り 元吉 もとよし 。秦 しん 府 ふ 謀 はかりごと 士 し 杜 もり 如晦 、房 ぼう 玄 げん 齡 よわい ,將領 しょうりょう 秦 はた 叔寶 、尉 じょう 遲 おそ 敬 けい 德 とく 、段 だん 志 こころざし 玄 げん 、侯 ほう 君 くん 集 しゅう 、王 おう 君 くん 廓 くるわ 等 とう 跟從李 り 世 よ 民 みん 。宰相 さいしょう 陳 ちん 叔達 、渭北行軍 こうぐん 典 てん 簽長 ちょう 孫 まご 無 む 忌 き 等 とう 暗中 あんちゅう 支援 しえん 李 り 世 よ 民 みん 。其餘將領 しょうりょう 李 り 靖 やすし 、李 り 世 よ 勣 ,大臣 だいじん 宇文 うぶん 士 し 及等 とう 保持 ほじ 中立 ちゅうりつ 。李 り 世 よ 民 みん 手下 てした 房 ぼう 玄 げん 龄、杜 もり 如晦、长孙无忌一再劝说李世民先对李建成、李 り 元吉 もとよし 下手 へた ,而魏徵 ちょう 则劝说李建 たて 成 しげる 先攻 せんこう 打 だ 李 り 世 よ 民 みん 。李 り 建 けん 成 なり 劝唐高祖 こうそ 翦除房 ぼう 玄 げん 龄、杜 もり 如晦,以及李 り 世 よ 民 みん 的 てき 亲信尉 じょう 迟敬德和 のりかず 程 ほど 知 ち 节 。留 とめ 在 ざい 李 り 世 よ 民 みん 身 み 边的长孙无忌继续劝说李 り 世 よ 民 みん 先 さき 下手 へた 为强。
武德 ぶとく 九 きゅう 年 ねん (626年 ねん )夏 なつ ,东突厥侵犯 しんぱん 唐 から 边境。高祖 こうそ 本来 ほんらい 想 そう 要 よう 派 は 李 り 世 よ 民 みん 率 りつ 军抗击,李 り 建 たて 成 しげる 向 こう 高祖 こうそ 建 けん 议由李 り 元吉 もとよし 做统帅,率 りつ 领李世 よ 民 みん 手下 てした 的 てき 大将 たいしょう 尉 じょう 迟敬德 とく 、程 ほど 知 ち 节、段 だん 志 こころざし 玄 げん 、秦 はた 叔宝等 とう 人 じん 出征 しゅっせい 突厥。太子 たいし 府 ふ 率 りつ 更 さら 丞 すすむ 王 おう 晊密 みつ 报秦王 おう :李 り 建 けん 成 なり 想 おもえ 借 か 此控制 せい 秦 しん 王 おう 的 てき 兵 へい 马,并准备在昆 こん 明 あきら 池 いけ 为李元吉 もとよし 饯行时,设伏兵 へい 杀李世 よ 民 みん 。于是李 り 世 よ 民 みん 决定先 さき 发制人 じん ,[4] 让尉迟敬德 とく 暗中 あんちゅう 召见房 ぼう 玄 げん 龄、杜 もり 如晦回 かい 府 ふ ,夜 よる 间向高祖 こうそ 状 じょう 告 つげ 李 り 建 たて 成 しげる 、李 り 元吉 もとよし 淫乱 いんらん 后 きさき 宫。高祖 こうそ 于是计划第 だい 二天一早召见李建成、李 り 元吉 もとよし ,召宰相 しょう 裴寂、萧瑀、陈叔达调查此案 あん 。次 つぎ 日 び ,即 そく 武德 ぶとく 九 きゅう 年 ねん 六 ろく 月 がつ 初 はつ 四 よん 庚申 こうしん 日 ひ (626年 ねん 7月 がつ 2日 にち ),李 り 建 たて 成和 しげかず 李 り 元吉 もとよし 通 どおり 过首都 しゅと 長安 ながやす 城 じょう 宮城 みやぎ 的 てき 北 きた 门玄武 げんぶ 门附近 きん 时,李 り 世 よ 民 みん 带领手下 てした 进行伏 ふく 击。他 た 亲自射出 しゃしゅつ 一 いち 箭 や ,射殺 しゃさつ 了 りょう 皇太子 こうたいし 李 り 建 たて 成 しげる ,尉 じょう 迟敬德 とく 杀死了 りょう 齊 ひとし 王 おう 李 り 元吉 もとよし ,史 ふみ 稱 しょう 「玄武 げんぶ 門 もん 之 の 變 へん 」。
此後李 り 世 よ 民 みん 的 てき 军队进宫,高祖 こうそ 得知 とくち 情 じょう 况后,知道 ともみち 大 だい 势已去 さ ,讓 ゆずる 出 で 軍政 ぐんせい 大權 たいけん 予 よ 秦 しん 王 おう ,而建成 なり 、元吉 もとよし 则被宣布 せんぷ 为作乱 らん 者 しゃ ,諸子 しょし 则遭诛杀并从宗 むね 籍 せき 中 ちゅう 除名 じょめい 。三 さん 天 てん 后 きさき (六 ろく 月 がつ 初 はつ 七 なな 癸 みずのと 亥 い 日 にち ,7月 がつ 5日 にち ),李 り 世 よ 民 みん 被 ひ 立 たて 为皇太子 たいし ,诏曰:“自今 じこん 军国庶事,无大小 しょう 悉委太子 たいし 处决,然 しか 后 きさき 闻奏”。八 はち 月 がつ 初 はつ 九 きゅう 甲子 きのえね 日 ひ (9月 がつ 4日 にち ),高祖 こうそ 退位 たいい 稱 しょう 太 ふとし 上皇 じょうこう ,禪 ぜん 位 い 於李世 よ 民 みん 。李 り 世 よ 民 みん 登 のぼり 基 はじめ ,是 ぜ 为唐太 ふとし 宗 むね 。当年 とうねん 十 じゅう 月 がつ ,追 つい 封 ふう 李 り 建 けん 成 なり 为息隐王,李 り 元吉 もとよし 为海陵 りょう 剌王。次 つぎ 年 ねん 改元 かいげん 貞 さだ 觀 かん 。642年 ねん ,追 つい 复李建 たて 成 しげる 为隐太子 たいし ,李 り 元吉 もとよし 为巢剌王,并将皇子 おうじ 李 り 福 ぶく 过继李 り 建 けん 成 なり 为嗣(后 きさき 来 らい 另一皇子李明也在唐高宗年间被出继李元吉为嗣)。
貞 さだ 觀 かん 之 の 治 ち [ 编辑 ]
敦煌 とんこう 壁画 へきが 中 ちゅう 的 てき 唐 とう 太 ふとし 宗 むね
太 ふとし 宗 むね 在位 ざいい 期間 きかん ,積極 せっきょく 推行了 りょう 府 ふ 兵制 へいせい 、租庸調 そようちょう 制 せい 和 わ 均 ひとし 田制 たせい ,並 なみ 加 か 強 きょう 科 か 舉制等 とう 政策 せいさく 。貞 さだ 觀 かん 二 に 年 ねん (628年 ねん ),当 とう 时的人口 じんこう 已 やめ 因 いん 隋 ずい 末 まつ 戰爭 せんそう 而銳減 げん ,此时唐 から 朝 あさ 只 ただ 有 ゆう 290萬 まん 戶 こ ,經 けい 太 ふと 宗 そう 君臣 くんしん 23年 ねん 的 てき 努力 どりょく ,社會 しゃかい 安定 あんてい 、經濟 けいざい 恢復 かいふく 並 なみ 穩定發展 はってん ,至 いたり 唐 とう 高 だか 宗 そう 永 ひさし 徽三 さん 年 ねん (652年 ねん ),人口 じんこう 達 たち 到 いた 380萬 まん 戶 こ ,奠下了 りょう 高 だか 宗 むね 、武則 たけのり 天 てん 、玄 げん 宗 むね 年間 ねんかん 大 だい 唐 から 盛 もり 世 よ 的 てき 基礎 きそ ,史 し 稱 しょう 貞 さだ 觀 かん 之 の 治 ち 。
太 ふとし 宗 そう 本身 ほんみ 也是個 こ 既 すんで 英武 ひでたけ 又 また 善 ぜん 辯 べん 之 これ 人 にん ,但 ただし 是 ぜ 有 ゆう 鑑 かん 於帝位 い 得 とく 之 の 不易 ふえき ,加 か 上 じょう 隋 ずい 煬帝本人 ほんにん 亦 また 以雄健 けん 爾 しか 雅 まさ 善 よし 辯 べん 聞名,隋 ずい 卻因此鑄下 か 滅亡 めつぼう 的 てき 大 だい 錯,因 いん 此在位 ざいい 期間 きかん ,太 ふとし 宗 むね 鼓 こ 勵群臣 ぐんしん 批評 ひひょう 他 た 的 てき 決 けつ 策 さく 和風 わふう 格 かく [5] 。其中魏 ぎ 徵 ちょう 廷諫了 りょう 200多 た 次 つぎ ,在廷 ざいてい 上 じょう 直 ちょく 陳 ひね 唐 から 太 ふとし 宗 むね 的 てき 過失 かしつ ,在 ざい 早朝 そうちょう 時 じ 多 た 次 つぎ 發生 はっせい 了 りょう 使 し 太 ふとし 宗 そう 尷尬、下 した 不 ふ 了 りょう 臺 だい 的 てき 狀況 じょうきょう 。晚年 ばんねん 的 てき 太 ふと 宗因 そういん 國 こく 富民 とみん 強 きょう ,納 おさめ 諫的器 き 度 ど 不 ふ 如初期 き ,偶爾也發生 はっせい 誤殺 ごさつ 大臣 だいじん 的 てき 遺憾 いかん ,但 ただし 是 ぜ 大 だい 致上仍克制 せい 、保有 ほゆう 納言 なごん 的 てき 風 ふう 範 はん 。
在 ざい 民族 みんぞく 政策 せいさく 方面 ほうめん ,《资治通 どおり 鉴 》记载唐 から 太 ふとし 宗 そう 在 ざい 贞观二 に 十 じゅう 一 いち 年 ねん (647年 ねん )平定 へいてい 薛延陀时,曾对他 た 的 てき 左右 さゆう 大臣 だいじん 说:「自 じ 古 こ 帝王 ていおう 皆 みな 貴 き 中華 ちゅうか ,賤夷狄 いてき ,朕 ちん 獨 どく 愛 あい 之 の 如一,故 こ 其種落皆視 し 朕 ちん 如父母 ちちはは 。」[6] ,《贞观政 せい 要 よう 》也记载了唐 から 太 ふとし 宗 そう 在 ざい 贞观十 じゅう 三 さん 年 ねん (639年 ねん )封 ふう 阿 おもね 史 し 那 な 思 おもえ 摩 ま 为突厥可汗 あせ 时说道 どう :「中国 ちゅうごく 百姓 ひゃくしょう ,实天下之 したの 根本 こんぽん ,四 よん 夷之 えびすの 人 じん ,乃同枝 えだ 叶 かのう ,扰其根本 こんぽん 以厚枝 えだ 叶 かのう ,而求久安 ひさやす ,未 み 之 これ 有 ゆう 也。初 はつ 不 ふ 纳魏徵 ちょう 言 ごと ,遂 とげ 觉劳费日甚,几失久安 ひさやす 之 の 道 みち 。」
太 ふとし 宗 そう 即 そく 帝位 ていい 不 ふ 久 ひさ ,按秦王 おう 府 ふ 文學 ぶんがく 館 かん 模 も 式 しき ,新設 しんせつ 弘文 こうぶん 館 かん ,進 しん 一步儲備天下文才。另外,太 ふとし 宗 そう 精 きよし 擅書法 ほう ,以行書寫 しょしゃ 碑 ひ ,稱 しょう 「飛白 かすり 」,聞名後世 こうせい 。著名 ちょめい 作品 さくひん 有 ゆう 《溫泉 おんせん 銘 めい 》、《晉 すすむ 祠 ほこら 銘 めい 》等 とう 。晚年 ばんねん 太 ふと 宗 そう 著 ちょ 《帝 みかど 範 はん 》一書以教戒太子李治,總 そう 結 ゆい 了 りょう 他 た 的 てき 施政 しせい 經驗 けいけん ,同時 どうじ 自 じ 評 ひょう 一生 いっしょう 功過 こうか 。史家 しか 曾疑太 ふとし 宗 むね 生前 せいぜん ,指定 してい 以東 いとう 晉 すすむ 書法 しょほう 大家 たいか 王羲之 おうぎし 所作 しょさ 《蘭 らん 亭 てい 集 しゅう 序 じょ 》為 ため 陪葬品 ひん 。近年 きんねん 據 よりどころ 考古學 こうこがく 家 か 和 わ 歷史 れきし 學者 がくしゃ 研究 けんきゅう ,《蘭 らん 亭 てい 集 しゅう 序 じょ 》應 おう 該不在 ざい 太 ふとし 宗之 むねゆき 昭 あきら 陵 りょう ,而在高 だか 宗 むね 、武則 たけのり 天 てん 所 しょ 合 ごう 葬 そう 的 てき 乾 いぬい 陵 りょう 之 これ 中 ちゅう 。
唐 から 太 ふとし 宗 むね 與 あずか 身邊 しんぺん 大臣 だいじん 魏 ぎ 徵 ちょう 、王 おう 珪 、房 ぼう 玄 げん 齡 よわい 、杜 もり 如晦 、虞 おそれ 世 よ 南 みなみ 、褚遂良 りょう 等 ひとし 的 てき 對 たい 答 こたえ 也在開 ひらけ 元 もと 十 じゅう 八 はち (730年 ねん )、十 じゅう 九 きゅう 年間 ねんかん 被 かむ 吳 ご 兢 輯為《貞 さだ 觀 かん 政 せい 要 よう 》一 いち 書 しょ ,以發揚 はつよう 太 ふと 宗 そう 勵精圖 ず 治 ち 的 てき 治國 ちこく 精神 せいしん 。
貞 さだ 觀 かん 初 はつ 政 せい [ 编辑 ]
《步 ふ 辇图》中 ちゅう 的 てき 唐 とう 太 ふとし 宗 むね
太 ふとし 宗 むね 即位 そくい 十 じゅう 天 てん ,就将大 だい 批宫女 おんな 简放出 ほうしゅつ 宫,送 おく 她们回 かい 家 か ,这样她们在民 ざいみん 间成家 か 。太 ふとし 宗 そう 册 さつ 封 ふう 其妻长孙氏 し 为皇后 こうごう ,长子李 り 承 うけたまわ 乾 いぬい 为皇太子 こうたいし 。
太 ふとし 宗 そう 定 じょう 勋臣爵邑,第 だい 一等 いっとう 为长孙无忌 き 、房 ぼう 玄 げん 龄、杜 もり 如晦、尉 じょう 迟敬德 とく 、侯 ほう 君 くん 集 しゅう 。皇帝 こうてい 的 てき 堂 どう 叔淮安王 やすおう 李 り 神通 じんずう 不 ふ 满自己 じこ 位 い 次 じ 在房 ありふさ 杜 もり 之 の 下 しも 时,太 ふとし 宗 そう 说房杜 もり 运筹帷幄 いあく ,功 こう 劳大于在河北 かほく 全 ぜん 军覆没 ぼつ 的 てき 李 り 神通 じんずう 。这让其他反 はん 对之声 ごえ 平 ひら 息 いき ,因 いん 为他们见到 いた 太 ふと 宗 そう 至 いたる 公 おおやけ 行賞 こうしょう ,不 ふ 私 わたし 其親,将 はた 李 り 神通 じんずう 这样的 てき 宗室 そうしつ 排 はい 在 ざい 低位 ていい 。太 ふとし 宗 そう 还以王 おう 爵之礼 れい 安 やす 葬 そう 了 りょう 李 り 建 たて 成和 しげかず 李 り 元吉 もとよし ,并让他 た 们的原 ばら 来 らい 的 てき 属官 ぞっかん 参加 さんか 了 りょう 葬礼 そうれい 。
太 ふとし 宗 そう 从被立 りつ 为太子 こ 之 の 后 きさき 就开始 はじめ 调整朝廷 ちょうてい 人事 じんじ ,任命 にんめい 自己 じこ 信任 しんにん 的 てき 房 ぼう 玄 げん 龄等人 じん 成 なり 为宰相 しょう 。而萧瑀、陈叔达因为在皇帝 こうてい 面前 めんぜん 争 そう 忿,而双双 そう 被 ひ 罢免。萧瑀很快就重新入 しんにゅう 相 しょう ,他 た 在 ざい 太 ふとし 宗 むね 朝 あさ 屡 しばしば 遭罢黜和复职。太 ふとし 宗 むね 非常 ひじょう 重 じゅう 视官员对朝政 ちょうせい 的 てき 批评,使 つかい 他 た 认为朝廷 ちょうてい 的 てき 弊政 へいせい 得 とく 以改变。太 ふとし 宗 そう 特 とく 别信任 にん 魏 ぎ 征 せい ,接受 せつじゅ 了 りょう 魏 ぎ 徵 ちょう 的 てき 很多建 けん 议。黄 き 门侍郎 ろう 王 おう 珪有密奏 みっそう ,交给侍 さむらい 中 ちゅう 高士 こうし 廉 かど 上 じょう 达,高士 こうし 廉 かど 没 ぼつ 有 ゆう 奏 そう 报太宗 むね 。太 ふとし 宗 そう 于是将 はた 高士 こうし 廉 かど 出 で 为安州 しゅう 大 だい 都 と 督 とく 。太 ふとし 宗 そう 以隋炀帝为鉴,赏赐愿 すなお 意 い 进谏的 てき 官 かん 员,尤 ゆう 其是魏 ぎ 徵 ちょう 和 わ 王 おう 珪。太 ふとし 宗 そう 对思想 しそう 持 じ 开放态度,其中在 ざい 文化 ぶんか 上 じょう ,试图努力 どりょく 调和道教 どうきょう 与 あずか 佛教 ぶっきょう 的 てき 矛盾 むじゅん ,这体现在他 た 晚年 ばんねん 所作 しょさ 的 てき 《大 だい 唐 から 三藏 さんぞう 圣教序 じょ 》中 ちゅう 。
燕 つばめ 郡 ぐん 王 おう 李 り 艺本 ほん 是 ぜ 隋 ずい 末 まつ 幽 かそけ 州 しゅう 军阀,后 きさき 归顺唐 とう 朝 あさ ,他 た 在 ざい 武德 ぶとく 年 ねん 间与李 り 建 けん 成 なり 亲近,且得罪 ざい 过李世 よ 民 みん 。太 ふとし 宗 むね 即位 そくい 后 きさき ,李 り 艺不自 じ 安 やす 。贞观元年 がんねん (627年 ねん )正月 しょうがつ ,他 た 在 ざい 豳州叛乱 はんらん 。但 ただし 很快被 ひ 平定 へいてい ,李 り 艺逃亡 とうぼう 中 ちゅう 被 ひ 杀。四 よん 月 がつ ,高祖 こうそ 的 てき 堂 どう 弟 おとうと 、凉州(今 いま 甘 あま 肃省武威 ぶい 市 し )都 みやこ 督 ただし 长乐王 おう 李 り 幼 よう 良 りょう 的 てき 手下 てした 无赖子弟 してい 侵 おかせ 暴百姓 ひゃくしょう ,并且私 わたし 下 か 与 あずか 羌胡贸易。太 ふとし 宗派 しゅうは 宇文 うぶん 士 し 及前去 さ 调查,李 り 幼 よう 良 りょう 的 てき 部下 ぶか 惊恐万 まん 分 ふん ,密 みつ 谋挟持 じ 他 た 逃亡 とうぼう 突厥。太 ふとし 宗 そう 得知 とくち 此事后 きさき ,赐李幼 よう 良 りょう 自尽 じじん 。九月 くがつ ,幽 かそけ 州 しゅう (今 いま 北京 ぺきん 市 し )都 と 督 とく 王 おう 君 くん 廓 くるわ 入朝 にゅうちょう 时,怀疑长史李 り 玄道 げんどう 告 つげ 发他的 てき 不法 ふほう 之 の 事 こと ,于是杀驿吏逃亡 とうぼう 突厥,途中 とちゅう 被 ひ 乡民所 しょ 杀。十 じゅう 月 がつ ,岭南酋长冯盎 、谈殿等 とう 互相攻 おさむ 击,有人 ゆうじん 报告冯盎谋反,太 ふとし 宗 そう 在 ざい 魏 ぎ 徵 ちょう 的 てき 建 けん 议下,派 は 使者 ししゃ 安 やす 抚冯盎,冯盎遣子 こ 入朝 にゅうちょう 。
当年 とうねん 二 に 月 がつ ,太 ふとし 宗 そう 见天下 あもり 州 しゅう 县过多 た ,将 はた 许多州 しゅう 县加以合并。并在州 しゅう 县以上 じょう 设置“道 みち ”,将 はた 唐 から 朝 ちょう 分 ぶん 为十道 どう :关内道 どう 、河南 かなん 道 どう 、河 かわ 东道 、河北 かわきた 道 みち 、山南 さんなん 道 どう 、陇右道 どう 、淮南 ワイナン 道 どう 、江南 こうなん 道 みち 、剑南道 どう 、岭南道 どう 。
滅 めつ 東 ひがし 突厥[ 编辑 ]
武德 ぶとく 九 きゅう 年 ねん (626年 ねん )八 はち 月 がつ ,因 いん 唐 から 朝 あさ 發生 はっせい 玄 げん 武門 ぶもん 之 の 變 へん ,政局 せいきょく 不穩 ふおん ,東 ひがし 突厥伺機入 いれ 侵 おかせ ,攻 おさむ 至 いたり 距首都 しゅと 長安 ながやす 僅40裡 うら 的 てき 涇陽 (今 こん 陝西 せんせい 咸陽涇陽縣 けん ),京師 けいし 震動 しんどう 。此時,長安 ながやす 兵力 へいりょく 不 ふ 過 か 數 すう 萬 まん ,剛 つよし 剛 つよし 即位 そくい 的 てき 太 ふと 宗 そう 被 ひ 迫 せり 設 しつらえ 疑 うたぐ 兵 へい 之 の 計 けい ,親 おや 率 りつ 高士 こうし 廉 れん 、房 ぼう 玄 げん 齡 よわい 等 とう 6騎 き 在 ざい 渭水 隔 へだた 河 かわ 與 あずか 頡利可 か 汗 あせ 對話 たいわ ,怒 いか 斥頡利 り 、突利二 に 可 か 汗 あせ 背 せ 約 やく 。太 ふとし 宗 むね 贈 おく 予 よ 頡利可 か 汗 あせ 金 きん 帛財物 ぶつ ,以求突厥退軍 ぐん ,並 なみ 與 あずか 之 これ 結 ゆい 「渭水之 の 盟 めい 」,突厥兵 へい 於是退去 たいきょ 。《唐 とう 語 ご 林 りん 》記載 きさい 唐 から 太 ふとし 宗 そう 「空 そら 府 ふ 庫 こ 」以求突厥退军,在 ざい 突厥归途时派李 り 靖 やすし 伏 ふく 击,夺回了 りょう 财物,以及数 すう 万 まん 匹 ひき 马。之 これ 後 ご ,太 ふとし 宗 そう 勵精圖 ず 治 ち ,並 なみ 且挑撥 ちょうはつ 頡利、突利二可汗和突厥與鐵勒諸部的關係。627年 ねん ,東 ひがし 突厥內部出現 しゅつげん 分裂 ぶんれつ 。反對 はんたい 頡利可 か 汗 あせ 的 てき 薛延陀 、回 かい 紇 、拔也古 いにしえ 、同 どう 羅 ら 諸 しょ 部落 ぶらく 對 たい 其變革 へんかく 國 こく 俗 ぞく 和 わ 推行的 てき 政令 せいれい 不滿 ふまん ,另立薛延陀為可 か 汗 あせ 。突利可 か 汗 あせ 也暗中 ちゅう 與 あずか 唐 から 聯絡 れんらく ,並 なみ 與 あずか 頡利可 か 汗 あせ 決裂 けつれつ 。臣服 しんぷく 于东突厥的 てき 契 ちぎり 丹 に 首 くび 领大 だい 贺摩会 かい 也归顺唐朝 あさ ,太 ふとし 宗 そう 册 さつ 封 ふう 薛延陀可汗 あせ 夷 えびす 男 おとこ 为真珠 しんじゅ 可 か 汗 あせ 。同時 どうじ 東 ひがし 突厥又 また 遇 ぐう 到 いた 大雪 おおゆき 氣候 きこう ,牲畜大 だい 多 た 被 ひ 凍死 とうし 餓死 がし ,突厥勢力 せいりょく 漸 やや 弱 じゃく 。
突厥这时没 ぼつ 有力 ゆうりょく 量 りょう 庇 ひさし 护最后 きさき 一个隋末割据者——夏 なつ 州 しゅう 割 わり 据 すえ 势力首 くび 领梁 りょう 师都 ,柴 しば 绍和薛万均 ひとし 率 りつ 军围攻 おさむ 梁 やな 都 と 朔 ついたち 方 かた (今 いま 陕西省 しょう 榆林市 し ),貞 さだ 觀 かん 二 に 年 ねん 四 よん 月 がつ 二 に 十 じゅう 六 ろく 壬 みずのえ 寅 とら 日 び (628年 ねん 6月 がつ 3日 にち ),朔 さく 方 かた 人 じん 梁 はり 洛 らく 仁 じん 杀梁师都,归降唐 から 朝 あさ ,唐 から 朝 あさ 统一全国 ぜんこく 。
太 ふとし 宗 そう 决心挑戰 ちょうせん 東 ひがし 突厥在 ざい 東亞 とうあ 的 てき 霸主地位 ちい ,於629年 ねん 八 はち 月 がつ 任命 にんめい 李 り 靖 やすし 、李 り 世 よ 勣 、柴 しば 紹 、李 り 道 みち 宗 むね 等 ひとし 為 ため 行軍 こうぐん 總 そう 管 かん ,令 れい 其出師 し 塞 ふさが 北 きた 。各 かく 路 みち 大 だい 军由李 り 靖 やすし 总制,苏定方 かた 为先锋,出兵 しゅっぺい 征討 せいとう 東 ひがし 突厥。唐 とう 軍 ぐん 在 ざい 李 り 靖 やすし 的 てき 調 しらべ 遣 や 下 した ,貞 さだ 觀 かん 四 よん 年 ねん (630年 ねん )三月頡利兵敗被俘,而后被 ひ 押送 おうそう 到 いた 长安,東 ひがし 突厥滅亡 めつぼう 。
天 てん 可 か 汗 あせ [ 编辑 ]
616年 ねん 至 いたり 649年 ねん 唐 とう 太 ふと 宗 そう 李 り 世 よ 民 みん 統治 とうち 的 てき 疆域 不同 ふどう 顏色 かおいろ 表示 ひょうじ 唐 から 太 ふとし 宗 そう 李 り 世 よ 民 みん 征服 せいふく 的 てき 亞 あ 洲 しゅう 地區 ちく 山西 さんせい (617年 ねん ,李 り 世 よ 民 みん 鼓 こ 勵父親 ちちおや 、太 ふとし 原 げん 太守 たいしゅ 李 り 淵 ふかし 起 おこり 兵 へい 反 はん 隋 ずい )
隋 ずい 之 の 唐國 からくに 公 こう (618年 ねん )建立 こんりゅう 唐 から 朝 あさ (618年 ねん ,626年 ねん 前 まえ 完全 かんぜん 擁 よう 有 ゆう 前 ぜん 隋 ずい 領土 りょうど )
削 そぎ 平 ひら 東 ひがし 突厥(630年 ねん -682年 ねん )
以上 いじょう 三部分为唐太宗固定统治的疆域 吐蕃接受 せつじゅ 唐 とう 的 てき 册 さつ 封 ふう (641年 ねん -670年 ねん )
平定 へいてい 西 にし 突厥(642年 ねん -665年 ねん )
(同上 どうじょう )併綠洲 しゅう (640年 ねん -648年 ねん :綠 みどり 洲 しゅう 北部 ほくぶ ;648年 ねん :綠 みどり 洲 しゅう 南部 なんぶ ) 征服 せいふく 高句麗 こうくり (661年 ねん -668年 ねん )
顏色 かおいろ 最深 さいしん 的 てき 兩 りょう 色 いろ 為 ため 唐 とう 朝 あさ 建立 こんりゅう 之 の 初 はつ 的 てき 根據地 こんきょち ,以及掃平隋 ずい 末 まつ 割據 かっきょ 勢力 せいりょく 之 これ 後 ご 的 てき 州 しゅう 縣 けん -民政 みんせい 體系 たいけい 疆域;較淺的 てき 北 きた 、西 にし 二方為削平東、西 にし 突厥後 ご 的 てき 都 みやこ 護 まもる -軍政 ぐんせい 體系 たいけい 疆域(唐 とう 高 だか 宗 むね 顯 あらわ 慶 けい 二 に 年 ねん 列 れつ 置 おけ 州 しゅう 縣 けん ,軍政 ぐんせい 民政 みんせい 並行 へいこう ;西南 せいなん 方 かた 之 の 吐蕃則 そく 屬 ぞく 於羈縻統治下 ちか 的 てき 屬國 ぞっこく 、時 とき 叛時附 ふ ;最 さい 東部 とうぶ 的 てき 高麗 こうらい 故 こ 地 ち 既 すんで 屬 ぞく 於安東都 とうと 護 まもる 府 ふ 之 の 轄境、又 また 列 れつ 置 おけ 州 しゅう 縣 けん ,為 ため 軍政 ぐんせい 民政 みんせい 體系 たいけい 並行 へいこう 疆域。邊 あたり 界 かい 為 ため 標示 ひょうじ 唐 とう 室 しつ 疆域最大 さいだい 範圍 はんい 之 の 用 もちい ,非 ひ 終 おわり 唐 から 世 よ 皆 みな 如是 にょぜ ,安 やす 史 し 之 の 亂 みだれ 後 ご 中原 なかはら 大亂 たいらん ,出 で 现藩镇割据 すえ 现象,唐 とう 末 まつ 农民战争之 これ 後 ご ,軍政 ぐんせい 體系 たいけい 下 か 的 てき 節度 せつど 使 し 、刺史 しし 紛紛 ふんぷん 割據 かっきょ ,不 ふ 聽中央 ちゅうおう 政令 せいれい 。
東 ひがし 突厥滅亡 めつぼう 後 ご ,温 ゆたか 彦博主 ぬし 张将突厥人 じん 留 とめ 在 ざい 唐 とう 朝 あさ 邊 あたり 防 ぼう 體系 たいけい 之 の 內作为防御 ご 缓冲,魏 ぎ 徵 ちょう 则主张将突厥人 じん 驅逐 くちく 塞外 さいがい 。太 ふとし 宗 むね 接受 せつじゅ 了 りょう 温 ゆたか 彦博的 てき 建 けん 议,于是唐 から 朝 あさ 在 ざい 東 ひがし 突厥突利可 か 汗 あせ 故 こ 地 ち 設置 せっち 順 じゅん 、祐 ゆう 、化 か 、長 ちょう 四 よん 州都 しゅうと 督 とく 府 ふ ,頡利可 か 汗 あせ 故 こ 地 ち 置 おけ 定 てい 襄 じょう 都 と 督 とく 府 ふ 、雲 くも 中 なか 都 と 督 とく 府 ふ ,仍由部落 ぶらく 酋长作 さく 为都督 とく 、刺史 しし ,而没有 ゆう 任命 にんめい 新 しん 的 てき 封 ふう 疆大吏来统治。漠 ばく 北 きた 和 わ 西域 せいいき 諸國 しょこく 君主 くんしゅ 在 ざい 長安 ながやす 尊稱 そんしょう 太 ふと 宗 そう 為 ため 「天 てん 可 か 汗 あせ 」,意 い 為 ため 天下 てんか 總 そう 皇帝 こうてい 或 ある 天下 てんか 共 ども 主 ぬし 。「天 てん 可 か 汗 あせ 」除 じょ 了 りょう 是 ぜ 一種對唐朝皇帝的榮銜,還 かえ 是 ぜ 一種有實質意義的國際組織體系,以維持 いじ 當時 とうじ 絲 いと 綢之路 ろ 途 と 徑 みち 各 かく 同盟 どうめい 國 こく 的 てき 集 しゅう 體 たい 安全 あんぜん 與 あずか 貿易 ぼうえき 秩序 ちつじょ 。
贞观五 ご 年 ねん (631年 ねん ),太 ふとし 宗 そう 命 いのち 大臣 だいじん 讨论郡 ぐん 县制和 わ 封建 ほうけん 制 せい 的 てき 利 り 弊 へい ,魏 ぎ 徵 ちょう 、李 り 百 ひゃく 药等 とう 人 ひと 反 はん 对封建 ほうけん 制 せい ,颜师古 いにしえ 建 けん 议让宗室 そうしつ 子弟 してい 和 わ 功臣 こうしん 担任 たんにん 刺史 しし ,勿令过大,间以州 しゅう 县,杂错而居,各 かく 取 と 郡 ぐん 县制和 わ 封建 ほうけん 制 せい 的 てき 优势。太 ふとし 宗 むね 同意 どうい 了 りょう 颜师古 いにしえ 之 の 议。东突厥灭亡 ほろび 后 きさき ,大臣 だいじん 多 た 次 つぎ 请求太 ふと 宗 そう 在 ざい 泰山 たいざん 封 ふう 禅 ぜん ,太 ふとし 宗 そう 开始表示 ひょうじ 拒 こばめ 绝,后 きさき 来 らい 他 た 的 てき 信念 しんねん 动摇时,又 また 被 ひ 魏 ぎ 徵 ちょう 一 いち 再 さい 劝阻,魏 ぎ 徵 しるし 指出 さしで 封 ふう 禅 ぜん 会 かい 导致百姓供顿劳费、开支巨大 きょだい ,而且让远夷 えびす 君 くん 长看到 いた 中 ちゅう 原因 げんいん 战乱导致的 てき 荒 あら 芜,对国防 こくぼう 也不益 えき 。太 ふとし 宗 そう 于是采 さい 纳了他 た 的 てき 建 けん 议。
贞观八 はち 年 ねん (634年 ねん ),太 ふとし 宗派 しゅうは 李 り 靖 やすし 、萧瑀等 とう 十 じゅう 三位高官为诸道黜陟大使,巡 じゅん 视地方 ちほう 官 かん 能否 のうひ 查明民 みん 苦 く ,安 やす 抚贫民 みん ,选拔贤能。李 り 靖 やすし 最初 さいしょ 推荐魏 ぎ 徵 ちょう ,太 ふとし 宗 そう 不 ふ 同意 どうい ,说魏徵 ちょう 要 よう 留 とめ 在 ざい 自己 じこ 身 み 边指出 で 他 た 的 てき 错误,他 た 一天都不能让魏徵离开。
平定 へいてい 吐谷浑[ 编辑 ]
吐谷渾 可 か 汗 あせ 伏 ふく 允 まこと 聽信大臣 だいじん 天 てん 柱 ばしら 王 おう 的 てき 建議 けんぎ ,屢次侵犯 しんぱん 唐 から 朝 あさ 的 てき 西部 せいぶ 邊境 へんきょう 。伏 ふく 允 まこと 曾想让他的 てき 儿子尊王 そんのう 迎 むかえ 娶 めと 唐 から 朝 あさ 公主 こうしゅ ,太 ふとし 宗 そう 坚持让尊王 おう 来 らい 长安举行婚礼 こんれい ,于是和 わ 亲未成 みせい 。634年 ねん ,扣留唐 から 朝 あさ 使者 ししゃ 趙 ちょう 德 いさお 楷,六 ろく 月 がつ ,太 ふとし 宗 そう 以段 だん 志 こころざし 玄 げん 、樊兴為 ため 行軍 こうぐん 總 そう 管 かん ,討伐 とうばつ 伏 ふく 允 まこと 。吐谷浑军队机动性强 きょう ,避免正面 しょうめん 交锋,段 だん 志 こころざし 玄 げん 虽未战败,但 ただし 也未能 のう 大 だい 获全胜。十二月 じゅうにがつ ,又 また 以李 り 靖 やすし 、侯 ほう 君 くん 集 しゅう 、李 り 道 みち 宗 そう 、李 り 大 だい 亮 あきら 、李 り 道彦 みちひこ 、高 こう 甑 こしき 生 せい 等 とう 為 ため 行軍 こうぐん 總 そう 管 かん ,率 りつ 领薛万 まん 均 ひとし 、薛万 まん 彻、契 ちぎり 苾何力 りょく 等 とう 将 はた 领,大 だい 舉討吐谷渾。635年 ねん ,李 り 靖 やすし 大 だい 军队击溃吐谷浑,伏 ふく 允 まこと 敗走 はいそう ,被 ひ 部下 ぶか 所 しょ 殺 ころせ 。伏 ふく 允 まこと 之子 ゆきこ 慕容順 じゅん 殺 ころせ 死 し 天 てん 柱 ばしら 王 おう ,自立 じりつ 為 ため 可 か 汗 あせ ,投降 とうこう 唐 から 朝 あさ ,太 ふとし 宗 そう 冊 さつ 封 ふう 慕容順 じゅん 為 ため 吐谷渾可汗 あせ 。慕容順 じゅん 死後 しご ,636年 ねん ,太 ふとし 宗 そう 冊 さつ 封 ふう 慕容順 じゅん 之子 ゆきこ 諾 だく 曷缽為 ため 吐谷渾可汗 あせ 。
氏族 しぞく 志 こころざし [ 编辑 ]
635年 ねん 五 ご 月 がつ ,太 ふとし 上皇 じょうこう 高祖 こうそ 李 り 渊驾崩 くずれ ,太 ふとし 宗 そう 在 ざい 服 ふく 丧期间,曾短暂让太子 たいし 李 り 承 うけたまわ 乾 いぬい 监国,六 ろく 月 がつ ,太 ふとし 宗重 むねしげ 新 しん 听政,此后仍授权李承 うけたまわ 乾 いぬい 处理细务。636年 ねん 春 はる ,太 ふとし 宗 むね 任命 にんめい 皇 すめらぎ 弟 おとうと 、皇子 おうじ 为刺史 し ,按授命 いのち 之 の 地 ち 更改 こうかい 王 おう 号 ごう 。636年 ねん 秋 あき ,长孙皇后 こうごう 去 さ 世 よ ,太 ふとし 宗 そう 悲痛 ひつう 哀悼 あいとう ,亲笔为她题碑文 ひぶん 。
637年 ねん 夏 なつ ,太 ふとし 宗重 むねしげ 新 しん 考 こう 虑分封 ぶんぽう 制 せい ,制定 せいてい 了 りょう 刺史 しし 袭封制度 せいど 。将 はた 皇 すめらぎ 弟 おとうと 、皇子 おうじ 和 わ 功臣 こうしん 除 じょ 保留 ほりゅう 现有职位外 がい ,还获得 とく 了 りょう 州 しゅう 刺史 しし 的 てき 职位,并可以传给他们的后 きさき 代 だい 。于是设立了 りょう 35个世袭刺史 し 及都督 とく [e] 。不 ふ 久 ひさ 后 きさき ,这个计划遭到了 りょう 以长孙无忌 き 为首的 てき 功臣 こうしん 们的反 はん 对,639年 ねん ,太 ふとし 宗 そう 于是取消 とりけし 了 りょう 这一制度 せいど 。
太 ふとし 宗 そう 不 ふ 满崔、卢、李 り 、郑等山 やま 东士族 ぞく ,认为他 た 们自衿 えり 高 だか 门。638年 ねん ,命 いのち 高士 こうし 廉 れん 、韦挺、令 れい 狐 きつね 德 とく 棻 、岑文本 ほん 编撰《氏族 しぞく 志 こころざし 》,意 い 图将士族 しぞく 根 ね 据 すえ 名望 めいぼう 、功 こう 勋、善 ぜん 恶分为九类。然 しか 而,在 ざい 高士 こうし 廉 れん 提 つつみ 交的初稿 しょこう 中 ちゅう ,仍然将 しょう 崔 ちぇ 民 みん 幹 みき 的 まと 博 はく 陵 りょう 崔 ちぇ 氏 し 列 れつ 为第一等 いっとう 。太 ふとし 宗 そう 不 ふ 满,因 いん 为他指出 さしで 高士 こうし 廉 れん 只 ただ 看 み 传统名望 めいぼう ,不 ふ 看 み 近世 きんせい 功 こう 勋。因 よし 此,太 ふとし 宗 そう 亲自干 ひ 预修改 あらため ,以皇族 ぞく 李 り 姓 せい 为首,外戚 がいせき 长孙氏 し 为次,将 はた 崔 ちぇ 氏 し 家族 かぞく 降 くだ 为三 さん 等 とう 。
和親 わしん 吐蕃[ 编辑 ]
阎立本 ほん 所 ところ 绘的《步 ふ 辇图 》,图为唐 から 太 ふとし 宗 むね 接 せっ 见吐蕃 使者 ししゃ 禄 ろく 东赞 。
在 ざい 青 あお 藏 ぞう 高原 こうげん 上 うえ ,吐蕃 日 ひ 漸 やや 興起 こうき ,至 いたり 六 ろく 世紀 せいき 末 まつ 與 あずか 吐谷浑 [f] 、蘇 そ 毗為 ため 高 だか 原上 はるがみ 三 さん 大 だい 勢力 せいりょく 。七 なな 世 せい 纪初,贊 さん 普 ひろし 松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 即位 そくい ,統一 とういつ 了 りょう 高原 こうげん ,又 また 征服 せいふく 了 りょう 位 い 於西藏 とりぞう 西部 せいぶ 的 てき 蘇 そ 毗 、阿 おもね 里 さと 地區 ちく 的 てき 羊 ひつじ 同 どう 和 わ 尼 あま 婆 ばば 羅 ら (今 いま 尼 あま 泊 はく 尔 )。
634年 ねん ,吐蕃 贊 さん 普 ひろし 松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 遣 や 使 つかい 與 あずか 唐 から 朝 あさ 修好 しゅうこう ,唐 から 朝 あさ 也派使臣 ししん 冯德遐入蕃 しげる 。636年 ねん ,松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 派 は 專 せん 使 し 去 さ 長安 ながやす 請婚,唐 から 朝 あさ 不 ふ 允 まこと 。638年 ねん ,松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 遂 とげ 借 か 口 くち 唐 とう 朝 あさ 屬國 ぞっこく 吐谷渾從中 ちゅう 作 さく 梗,亲自指 ゆび 挥大约20万 まん 吐蕃军,出兵 しゅっぺい 入 にゅう 侵 おかせ 吐谷渾,并开始 はじめ 攻 おさむ 击唐朝 あさ 的 てき 松 まつ 州 しゅう (今 こん 四川 しせん 阿 おもね 坝藏族 ぞく 羌族自治 じち 州 しゅう )。但 ただし 同 どう 时松赞干布 ぬの 又 また 派遣 はけん 使者 ししゃ 到 いた 唐 から 朝国 あさくに 都 と 长安再 さい 次 つぎ 请求,并宣称 たたえ 他 た 们打算 ださん 欢迎公主 こうしゅ 。唐 から 太 ふとし 宗派 しゅうは 侯 ほう 君 くん 集 しゅう 为当弥 わたる 道行 みちゆき 军大总管指 ゆび 挥5万 まん 军队,执失思 おもえ 力 りょく 、牛 うし 进达 、刘简 协助,援救松 まつ 州 しゅう 。与 あずか 此同时,吐蕃军正在 ざい 围困松 まつ 州 しゅう 的 てき 首 くび 县-嘉 よしみ 诚(今 こん 四川 しせん 松 まつ 潘 はん ),但 ただし 唐 から 军先遣 せんけん 部 ぶ 队在牛 うし 进达指 ゆび 挥下,打 だ 败了吐蕃军。唐 とう 軍 ぐん 在 ざい 松 まつ 州 しゅう 大勝 たいしょう 吐蕃軍 ぐん ,但 ただし 唐 から 朝 あさ 也見識到了 りょう 吐蕃的 てき 力量 りきりょう 。640年 ねん ,松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 又 また 派 は 大臣 だいじん 祿 ろく 東 ひがし 贊 さん 使 つかい 唐 から 求婚 きゅうこん ,唐 から 太 ふとし 宗 むね 便 びん 以宗室 しつ 之 の 女 おんな 文成 ふみなり 公主 こうしゅ 許嫁 いいなずけ 於吐蕃 しげる 贊 さん 普 ひろし 松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの ,並 なみ 派 は 禮 れい 部 ぶ 尚書 しょうしょ 江夏 えなつ 王 おう 李 り 道 どう 宗 むね 持 じ 節 ぶし 護送 ごそう 。641年 ねん ,唐 とう 室 しつ 文成 ふみなり 公主 こうしゅ 下 しも 嫁 よめ 於吐蕃 的 てき 松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの ,吐蕃赞普于是接受 せつじゅ 唐 から 朝 あさ 的 てき 册 さつ 封 ふう 。《新 しん 唐 とう 書 しょ 》記載 きさい 文成 ふみなり 公主 こうしゅ 入 にゅう 蕃 しげる 时,松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 親 おや 迎 むかえ 於柏海 うみ 。吐蕃派 は 豪族 ごうぞく 子弟 してい 到 いた 长安学 がく 习《诗》、《书》。唐 とう 高 だか 宗 むね 继位后 きさき ,又 また 通 つう 过赏赐松赞干布 ぬの 和 かず 文成 ふみなり 公主 こうしゅ 把 わ 各種 かくしゅ 漢 かん 地 ち 的 てき 生產 せいさん 技術 ぎじゅつ 轉入 てんにゅう 吐蕃。
觀 かん 史書 ししょ 己 おのれ [ 编辑 ]
貞 さだ 觀 かん 九 きゅう 年 ねん 十 じゅう 月 がつ ,即 そく 李 り 淵 ふかし 死後 しご 五 ご 個月 かげつ ,李 り 世 よ 民 みん 第 だい 一 いち 次 じ 要求 ようきゅう 觀覽 かんらん 《起居 ききょ 注 ちゅう 》,未遂 みすい [7] 。
《貞 さだ 觀 かん 政 せい 要 よう ·卷 まき 七 なな ·論文 ろんぶん 史 し 第 だい 二 に 十 じゅう 八 はち 》記載 きさい :貞 さだ 觀 かん 十 じゅう 三 さん 年 ねん ,褚遂良 りょう 為 ため 諫議大夫 たいふ ,兼 けん 知 ち 太 ふと 宗 そう 《起居 ききょ 註》。唐 から 太 ふとし 宗 そう 欲 よく 查看起居 ききょ 註,褚遂良 りょう 以「不 ふ 聞帝王 おう 躬自觀 かん 史 し 」為 ため 由 よし 拒絕 きょぜつ 了 りょう 。唐 から 太 ふとし 宗 むね 說 せつ :「朕 ちん 有 ゆう 不善 ふぜん ,卿 きょう 必記耶?」褚遂良 りょう 說 せつ :「臣 しん 職 しょく 當 とう 載 の 筆 ふで ,何 なに 不 ふ 書 しょ 之 の ?」黃門 こうもん 侍 さむらい 郎 ろう 劉 りゅう 洎進言 しんげん :「人君 じんくん 有 ゆう 過失 かしつ ,如日月 がつ 之 の 蝕,人 にん 皆 みな 見 み 之 これ 。設 しつらえ 令 れい 遂 とげ 良 よ 不 ふ 記 き ,天下 てんか 之 の 人 ひと 皆 みな 記 き 之 の 矣。」《舊 きゅう 唐 とう 書 しょ ·褚遂良 りょう 傳 でん 》和 かず 《資 し 治 ち 通 どおり 鑑 かん ·唐 から 紀 き 十 じゅう 二 に 》也載有 ゆう 此事。
次 つぎ 年 ねん (640年 ねん ),唐 から 太 ふとし 宗 むね 再度 さいど 要求 ようきゅう 看 み 《起居 ききょ 注 ちゅう 》,宰相 さいしょう 房 ぼう 玄 げん 齡 よわい 等 とう 人 ひと 就刪減 げん 整理 せいり 國史 こくし ,撰 せん 寫 うつし 成 なり 《高祖 こうそ 實錄 じつろく 》和 かず 《太 ふとし 宗 そう 實錄 じつろく 》各 かく 二 に 十 じゅう 卷 かん 。當 とう 太 ふとし 宗 むね 見 み 到 いた 「六 ろく 月 がつ 四 よん 日 にち 事 ごと ,語 ご 多 おお 微 ほろ 文 ぶん 」——指 ゆび 史官 しかん 對當 たいとう 年 ねん 玄武 げんぶ 門 もん 事變 じへん 內容含糊其辭,多 た 有 ゆう 隱 かくれ 諱 いみな 文飾 ぶんしょく 之 の 語 かたり ,便 びん 以当年 ねん 房 ぼう 玄 げん 齡 よわい 劝他政 せい 变时“遵周 しゅう 公 こう 之 これ 事 ごと ,外 そと 宁区夏 なつ ,内 ない 安 やす 宗 むね 社 しゃ ”的 てき 说法,向 こう 房 ぼう 玄 げん 齡 よわい 表示 ひょうじ :不 ふ 必替他 た 遮 さえぎ 遮 さえぎ 掩掩,反 はん 正 せい 玄 げん 武門 ぶもん 事件 じけん 本來 ほんらい 就是像 ぞう 「周 しゅう 公 こう 誅管、蔡 ,季 き 友 とも 鴆 叔牙 」之 の 義 ぎ 舉,目的 もくてき 是 ぜ 為 ため 了 りょう 「安 やす 社稷 しゃしょく 、利 り 萬民 ばんみん 」,要求 ようきゅう 「削 そぎ 去 さ 浮詞,直書 じきしょ 其事」。《資 し 治 ち 通 どおり 鑑 かん ·唐 から 紀 き 十 じゅう 三 さん 》亦 また 有 ゆう 記載 きさい 。
這一行為 こうい 遭到章 あきら 太 たい 炎 えん 指 ゆび 責 せめ :「太 ふとし 宗 むね 即 そく 立 りつ ,懼於身 み 後 ご 名 めい ,始 はじめ 以宰相 しょう 監修 かんしゅう 國史 こくし ,故 こ 兩朝 りょうちょう 《實錄 じつろく 》無 む 信 しん 辭 じ [8] 。」吕思勉 つとむ 、黄 き 永年 えいねん 等 とう 學者 がくしゃ 也附和章 かずあき 太 たい 炎 えん 的 てき 观点,认为唐 から 太 ふとし 宗 そう 对史书记载有所 しょ 修 おさむ 饰。
諸子 しょし 奪 だつ 嫡[ 编辑 ]
皇子 おうじ 亲王出 で 任 にん 地方 ちほう 刺史 しし ,唯 ただ 有 ゆう 魏 ぎ 王 おう 李 り 泰 やすし 、晋 すすむ 王 おう 李 り 治 おさむ 留 とめ 在 ざい 长安。李 り 泰 やすし 受到太 ふとし 宗 むね 的 てき 重 じゅう 视。太 ふとし 宗因 そういん 为李泰 たい 喜 き 欢文学 ぶんがく ,允 まこと 许李泰 たい 聘请文人 ぶんじん 作 さく 为僚属 ぞく ,编纂《括 くく 地 ち 志 こころざし 》。长孙皇后 こうごう 去 さ 世 よ 后 きさき ,因 いん 为李泰 たい 受宠,出 で 现了太 ふとし 宗 むね 可能 かのう 让他取 と 代 だい 太子 たいし 李 り 承 うけたまわ 乾 いぬい 的 てき 议论,李 り 承 うけたまわ 乾 いぬい 的 てき 支持 しじ 度 ど 开始减弱。
到 いた 642年 ねん ,李 り 泰 やすし 已 やめ 经有了 りょう 取 と 代 だい 太子 たいし 的 てき 野心 やしん ,一些官员开始分化为太子派和魏王派。太 ふとし 宗 そう 在 ざい 魏 ぎ 徵 ちょう 、褚遂良 りょう 的 てき 劝说下 か ,采 さい 取 と 行 あるき 动表明 ひょうめい 稳固太子 たいし 的 てき 地位 ちい 。但 ただし 他 た 继续偏 へん 爱李 り 泰 やすし 的 てき 做法,不断 ふだん 引起大臣 だいじん 们的猜测。643年 ねん 春 はる ,魏 ぎ 徵 ちょう 去 さ 世 よ ,太 ふとし 宗 そう 悲痛 ひつう 哀悼 あいとう ,亲自为魏徵 ちょう 立 りつ 碑 ひ ,并在魏 ぎ 徵 ちょう 去 さ 世 よ 前 まえ ,许诺将 はた 女 おんな 儿衡山公主 こうしゅ 嫁 よめ 给魏徵 ちょう 的 てき 儿子魏 ぎ 叔玉 。太 ふとし 宗派 しゅうは 人 じん 在 ざい 凌 しのげ 烟 けむり 阁绘制 せい 二 に 十 じゅう 四 よん 功臣 こうしん 图 。
643年 ねん 春 はる ,太 ふとし 宗 むね 五 ご 子 し 齐王李 り 祐 ゆう 因 いん 长史权万纪常加于他诸多限制,而愤愤不平 ふへい ,于是他 た 杀了权万 まん 纪,在 ざい 齐州起 おこり 兵 へい 叛乱 はんらん 。太 ふとし 宗派 しゅうは 李 り 世 よ 勣讨伐打 だ 李 り 祐 ゆう ,大 だい 军未至 いたり ,李 り 祐 ゆう 就被自己 じこ 的 てき 部下 ぶか 杜 もり 行 ぎょう 敏 さとし 俘送到 いた 长安,太 ふとし 宗 そう 命 いのち 他 た 在 ざい 内侍 ないし 省 しょう 自 じ 杀,同 どう 党 とう 四 よん 十 じゅう 四 よん 人 にん 被 ひ 诛,其馀不 ふ 问。
太子 たいし 李 り 承 うけたまわ 乾 いぬい 经常说突厥语,穿 ほじ 着 ちゃく 突厥服装 ふくそう ,甚至在 ざい 自己 じこ 的 てき 住所 じゅうしょ 里 さと 搭起帐篷,模 かたぎ 仿突厥可汗 あせ 。李 り 承 うけたまわ 乾 いぬい 怕太宗 むね 废黜自己 じこ 而立 じりつ 李 り 泰 やすし ,与 あずか 侯 ほう 君 くん 集 しゅう 、太 ふとし 宗之 むねゆき 弟 おとうと 汉王李元 りげん 昌 あきら 、将 はた 军李安 やす 俨、他 た 的 てき 姑 しゅうと 表 ひょう 兄 けい 赵节 、杜 もり 如晦之子 ゆきこ 杜 もり 荷 に 等 とう 人 ひと 合 あい 谋夺位 い 。在 ざい 追 つい 查李 り 祐之 ひろゆき 乱 らん 时,李 り 承 うけたまわ 乾 いぬい 的 てき 侍 さむらい 卫纥干 ひ 承 うけたまわ 基 もと 被 ひ 牵连,为了自 じ 救 すくえ ,他 た 揭发李 り 承 うけたまわ 乾 いぬい 的 てき 阴谋。太 ふとし 宗 そう 闻讯大 だい 惊,命 いのち 长孙无忌、房 ぼう 玄 げん 龄、萧瑀、李 り 世 よ 勣,会同 かいどう 大 だい 理 り 、中 ちゅう 书、门下等 とう 官署 かんしょ 进行联合调查。太 ふとし 宗 そう 在 ざい 通事 つうじ 舍人 とねり 来 らい 济的建 けん 议下,太 ふとし 宗 そう 废黜李 り 承 うけたまわ 乾 いぬい 的 てき 太子 たいし 之 の 位 くらい ,而没有 ゆう 杀他,命 いのち 李元 りげん 昌 あきら 自 じ 杀,侯 ほう 君 くん 集 しゅう 、李 り 安 やすし 俨、赵节、杜 もり 荷 に 被 ひ 处决。
李 り 承 うけたまわ 乾 いぬい 被 ひ 废黜后 きさき ,太 ふとし 宗 そう 向 こう 李 り 泰 やすし 许诺,立 たて 他 た 为太子 こ 。但 ただし 随 ずい 着 ぎ 深入 ふかいり 调查,太 ふとし 宗 そう 认为李 り 承 うけたまわ 乾 いぬい 的 てき 谋反是 ぜ 受到李 り 泰 やすし 的 てき 逼迫 ひっぱく ,因 いん 此决定 てい 废黜李 り 泰 やすし 。
《資 し 治 ち 通 どおり 鑑 かん 》記載 きさい ,太 ふとし 宗 そう 貞 さだ 觀 かん 十 じゅう 七年廢太子李承乾之後、改 あらため 立 りつ 李 り 治 おさむ 為 ため 皇太子 こうたいし 之 の 前 まえ ,李 り 世 よ 民 みん 之 の 三 さん 子 し 一 いち 弟 おとうと (長子 ちょうし 李 り 承 うけたまわ 乾 ひ 、四 よん 子 し 李 り 泰 やすし 、五 ご 子 し 李 り 祐 ゆう 、及七 なな 弟 おとうと 李元 りげん 昌 あきら )俱謀取 と 帝位 ていい ,致太宗 むね 心 こころ 灰 はい 意 い 冷 ひや 之 の 曲折 きょくせつ ,史 し 載 の :「承 うけたまわ 乾 いぬい 既 すんで 廢 はい ,上 うえ 御 ご 兩 りょう 儀 ただし 殿 どの ,群臣 ぐんしん 俱出,獨 どく 留 とめ 長 ちょう 孫 まご 無 む 忌 き 、房 ぼう 玄 げん 齡 よわい 、李 り 世 よ 勣、褚遂良 りょう ,謂 いい 曰:『我 わが 三子 みつご 一 いち 弟 おとうと ,所為 しょい 如是 にょぜ ,我 わが 心 しん 誠 まこと 無聊 ぶりょう 賴 よりゆき !』因 いん 自 じ 投 とう 於床,無 む 忌 き 等 とう 登 とう 前 ぜん 扶抱,上 うえ 又 また 抽佩刀 がたな 欲 よく 自刎 じふん ,遂 とげ 良 よ 奪 だつ 刀 かたな 以授晉 すすむ 王 おう 治 おさむ 。」[9]
太 ふとし 宗 そう 决定立 ていりつ 晋 すすむ 王 おう 李 り 治 おさむ 为太子 たいし ,李 り 承 うけたまわ 乾 いぬい 流 りゅう 放 ひ 了 りょう 黔州,李 り 泰 やすし 出 で 居 きょ 均 ひとし 州 しゅう 。太 ふとし 宗 そう 为太子 たいし 李 り 治 おさむ 选良家 か 女 おんな 充 たかし 实东宫,被 ひ 李 り 治 おさむ 推辞。太 ふとし 宗 そう 怀疑李 り 治 おさむ 的 てき 仁 じん 弱 じゃく 性格 せいかく ,是 ぜ 否 ひ 足 あし 以继承天下 でんか ,他 た 咨询长孙无忌是 ぜ 否 いや 可 か 以立自己 じこ 和 わ 隋 ずい 炀帝之 の 女 じょ 杨妃之子 ゆきこ 吴王李 り 恪 つとむ 为太子 たいし ,被 ひ 长孙无忌坚决反 はん 对而未成 みせい 。
由 よし 于魏征 せい 生前 せいぜん 曾推荐侯君 くん 集 しゅう 和 わ 杜 もり 正 せい 伦有宰相 さいしょう 之 の 才 ざい ,太 ふとし 宗 そう 开始怀疑魏 ぎ 征 せい 也参与 さんよ 了 りょう 阴谋。于是扑倒了 りょう 自己 じこ 撰 せん 写 うつし 的 てき 魏 ぎ 征 せい 之 の 碑 いしぶみ ,取消 とりけし 了 りょう 魏 ぎ 叔玉与 あずか 衡山公主 こうしゅ 的 てき 婚 こん 约。
征討 せいとう 高句麗 こうくり [ 编辑 ]
唐 から 太 ふとし 宗 そう 征 ただし 讨高 こう 句 く 丽示 しめせ 意 い 图
642年 ねん 冬 ふゆ ,高句麗 こうくり 发生政 せい 变,最 さい 终导致了唐 とう 朝 あさ 和 わ 高 だか 句 く 丽的战争。642年 ねん 天 てん ,高 こう 句 く 丽榮 さかえ 留 とめ 王 おう 不 ふ 满東部 ぶ 大人 おとな 淵 ふち 蓋 ぶた 蘇 そ 文 あや 专横,与 あずか 他 た 的 てき 大臣 だいじん 密 みつ 谋杀死 し 渊盖苏文。渊盖苏文得 え 到 いた 消息 しょうそく ,发动政 せい 变,殺 ころせ 死 し 了 りょう 荣留王 おう 和 かず 同 どう 谋官员。拥立荣留王 おう 的 てき 侄子高藏 たかぞう 為 ため 王 おう ,並 なみ 自 じ 封 ふう 為 ため 「大 だい 莫離支 ささえ 」攝政 せっしょう 。有人 ゆうじん 建 けん 议攻打 だ 高 だか 句 く 丽,最初 さいしょ 太 ふと 宗 そう 表示 ひょうじ 拒 こばめ 绝。
644年 ねん ,高 こう 句 く 丽攻打 だ 新 しん 罗 ,新 しん 罗请求 もとめ 唐 から 朝 あさ 援助 えんじょ 。為 ため 征討 せいとう 淵 ふち 蓋 ぶた 蘇 そ 文和 ふみかず 保護 ほご 唐 から 朝 あさ 的 てき 盟友 めいゆう 新 しん 羅 ら ,唐 から 太 ふとし 宗 むね 認 みとめ 為 ため 有 ゆう 必要 ひつよう 對 たい 高句麗 こうくり 開戰 かいせん 。他 た 逮捕 たいほ 了 りょう 盖苏文 ぶん 派 は 到 いた 唐 から 朝 あさ 的 てき 使者 ししゃ ,宣布 せんぷ 其弑逆 しいぎゃく 之 の 罪 つみ 。644年 ねん ,太 ふとし 宗 むね 率 りつ 領 りょう 李 り 世 よ 勣、李 り 道 みち 宗 そう 、張 ちょう 亮 あきら 和 わ 長 ちょう 孫 まご 無 む 忌 き 統 すべ 軍 ぐん 10萬 まん 親 おや 征 せい 高句麗 こうくり 。645年 ねん ,太 ふとし 宗 むね 率 りつ 领唐军攻占 うらない 了 りょう 辽东(今 こん 辽宁省 しょう 辽阳市 し ),衝破高句麗 こうくり 的 てき 防 ぼう 線 せん 準 じゅん 備攻打 だ 高句麗 こうくり 國 こく 都 と 平壤 ぴょんやん ,似 に 乎大功 たいこう 在 ざい 即 そく 。太 ふとし 宗 そう 亲自率 りつ 领唐军三 さん 万 まん ,击败高 だか 句 く 丽将军高 こう 延寿 えんじゅ 、高 こう 惠 めぐみ 真 しん 率 りつ 领的十 じゅう 五 ご 万 まん 大 だい 军,围攻安 やす 市城 いちしろ (今 こん 遼寧 りょうねい 省 しょう 鞍山 あんざん 海 うみ 城市 じょうし )。不 ふ 料 りょう 在 ざい 安 やす 市 し 受阻,再 さい 也無法 ほう 前 まえ 行 ぎょう 。深 ふか 秋 あき 时节,唐 から 军粮草 くさ 枯竭,冬 ふゆ 天 てん 将 はた 至 いたり ,太 ふとし 宗 そう 于是撤军。他 た 后 きさき 悔贸然 しか 亲征,说:“魏 ぎ 征 せい 若 わか 在 ざい ,不 ふ 使 つかい 我 わが 有 ゆう 是 これ 行 ぎょう 也。”他 た 重 じゅう 新 しん 为魏征 せい 立 りつ 碑 ひ ,召见魏 ぎ 征 せい 妻 つま 儿,深 ふか 加 か 劳赐。
在 ざい 這之後 ご ,太 ふとし 宗 むね 對 たい 高句麗 こうくり 的 てき 進攻 しんこう 僅維持 いじ 在 ざい 一些小規模的突襲。646年 ねん ,唐 から 朝 あさ 與 あずか 回 かい 紇擊滅 げきめつ 薛延陀 後 ご ,647年 ねん ,唐 から 太 ふとし 宗 むね 令 れい 牛 うし 進達 しんたつ 率 りつ 兵 へい 從 したがえ 海上 かいじょう 、李 り 世 よ 勣率兵 へい 從 したがえ 陸路 りくろ 攻 おさむ 打 だ 遼東 りゃおとん 半島 はんとう 。648年 ねん ,太 ふとし 宗 そう 再 さい 派 は 薛萬 まん 徹 てっ 率 りつ 軍 ぐん 從 したがえ 海上 うながみ 攻 おさむ 打 だ 鴨 かも 綠 みどり 江 こう 口 くち 。隨 ずい 後 ご ,唐 から 開始 かいし 集結 しゅうけつ 陸海 りくかい 部隊 ぶたい 準備 じゅんび 在 ざい 649年 ねん 再 さい 一次大規模攻高句麗。不 ふ 過 か 太 ふとし 宗 そう 於649年 ねん 去 さ 世 よ 後 ご ,新 しん 皇帝 こうてい 唐 とう 高 だか 宗 むね 暫停東征 とうせい 的 てき 計 けい 劃。668年 ねん ,高 こう 宗 はじめ 聯合 れんごう 新 しん 羅 ら 滅亡 めつぼう 高句麗 こうくり ,載 の 籍 せき 戶數 こすう 69.7萬 まん 。並 なみ 建立 こんりゅう 安東 あんどう 都 みやこ 護 まもる 府 ふ 等 とう 加 か 以控制 せい 遼東 りゃおとん 。
滅 めつ 薛延陀[ 编辑 ]
東 ひがし 突厥滅亡 めつぼう 後 ご ,薛延陀 的 てき 真珠 しんじゅ 可 か 汗 あせ 乙 おつ 失 しつ 夷 えびす 男 おとこ 接 せっ 管 かん 了 りょう 東 ひがし 突厥的 てき 故 こ 土 ど 。薛延陀表面 めん 臣服 しんぷく 於唐朝 あさ ,暗中 あんちゅう 却扩充 たかし 自己 じこ 的 てき 力量 りきりょう 。638年 ねん ,对于薛延陀逐渐强大 だい ,太 ふとし 宗 そう 怕之后 きさき 难以控 ひかえ 制 せい ,于是给真珠 しんじゅ 可 か 汗 あせ 的 てき 两个儿子拔灼、颉利苾授予 よ 小 しょう 可 か 汗 あせ 的 てき 头衔,试图在 ざい 他 た 们内部 ないぶ 制 せい 造 づくり 矛盾 むじゅん 。
639年 ねん 夏 なつ ,突利可 か 汗 あせ 之 の 弟 おとうと 结社率 りつ 与 あずか 突利可 か 汗 あせ 之子 ゆきこ 贺逻鹘 勾结,计划刺 とげ 杀太宗 むね 。他 た 们本打算 ださん 等 とう 着 ぎ 晋 すすむ 王 おう 李 り 治 ち 一早离开行宫时,趁机袭击。而到了 りょう 计划的 てき 当 とう 天 てん ,晋 すすむ 王 おう 没 ぼつ 有 ゆう 离开宫殿,结社率 りつ 于是提 つつみ 早 そう 行 ゆき 动,但 ただし 很快失 しつ 败,被 ひ 俘虏处决。这次事件 じけん 之 の 后 きさき ,大臣 だいじん 们建议将突厥人 じん 从河套地区 ちく 的 てき 黄河 こうが 以南 いなん 遣 や 返 かえし 到 いた 黄河 こうが 以北 いほく 。太 ふとし 宗 そう 也試圖 ず 恢復 かいふく 東 ひがし 突厥,以抗衡薛延 のべ 陀的崛起。639年 ねん 秋 あき ,太 ふとし 宗 そう 册 さつ 封 ふう 突厥王族 おうぞく 怀化郡 ぐん 王 おう 李 り 思 おもえ 摩 ま (阿 おもね 史 し 那 な 思 おもえ 摩 ま )为乙弥 わたる 泥 どろ 孰俟利 り 苾可汗 あせ ,作 さく 为重建 けん 的 てき 东突厥国家 こっか 的 てき 首 くび 领,将 はた 诸州安置 あんち 的 てき 所有 しょゆう 突厥和 わ 胡 えびす 人 じん 都 と 交给了 りょう 他 た 。突厥人 じん 害 がい 怕薛延 のべ 陀,不 ふ 敢出塞 ふさが 。太 ふとし 宗 むね 下 か 诏让真珠 しんじゅ 可 か 汗 あせ 与 あずか 李 り 思 おもえ 摩 ま 保持 ほじ 和平 わへい ,各 かく 守 まもり 漠 ばく 北 きた 和 かず 漠 ばく 南 みなみ ,不 ふ 互相攻 おさむ 击。在 ざい 真珠 しんじゅ 可 か 汗 あせ 保 ほ 证不进攻后 きさき ,突厥人 じん 于是出 で 塞 ふさが 在 ざい 漠 ばく 南 みなみ 建 けん 牙 きば 。
薛延陀为避免新 しん 恢复的 てき 东突厥站稳脚跟,與 あずか 其進行 しんこう 了 りょう 多 た 次 つぎ 戰爭 せんそう 。641年 ねん 冬 ふゆ ,真珠 しんじゅ 可 か 汗 あせ 听说太 ふとし 宗 むね 即 そく 将 はた 在 ざい 泰山 たいざん 封 ふう 禅 ぜん ,无法支持 しじ 东突厥,于是派 は 其子大度 たいど 设率军攻打 だ 东突厥。李 り 思 おもえ 摩 ま 被 ひ 迫 せり 退 すさ 入 にゅう 长城。太 ふとし 宗 そう 為 ため 保 ほ 住 じゅう 東 ひがし 突厥,命 いのち 李 り 世 よ 勣与 あずか 张俭、李 り 大 だい 亮 あきら 、张士贵 、李 り 袭誉率 りつ 军攻打 だ 薛延陀。李 り 世 よ 勣很快 かい 在 ざい 诺真河 かわ (流 ながれ 经今内 ない 蒙 こうむ 古 こ 包 つつみ 头市)击败大度 たいど 设,大度 たいど 设逃走 とうそう 。
642年 ねん ,薛延陀尽管 かん 名 めい 义上顺从唐 とう 朝 あさ ,但 ただし 已 やめ 经构成 なり 了 りょう 严重的 てき 威 い 胁。太 ふとし 宗 そう 这时有 ゆう 两种选择:武力 ぶりょく 征服 せいふく 或 ある 将 はた 女 おんな 儿嫁给真珠 しんじゅ 可 か 汗 あせ 进行和 わ 亲。唐 から 朝 あさ 将 はた 领、契 ちぎり 苾部落 ぶらく 的 てき 首 くび 领契 ちぎり 苾何力 りょく ,被 ひ 部下 ぶか 掳走,献 けんじ 给薛延 のべ 陀。为了赎回契 ちぎり 苾何力 りょく ,太 ふとし 宗 むね 同意 どうい 将 はた 女 おんな 儿新 しん 兴公主 ぬし 嫁 よめ 给真珠 しんじゅ 可 か 汗 あせ ,真珠 しんじゅ 可 か 汗 あせ 于是释放了 りょう 契 ちぎり 苾何力 りょく 。643年 ねん ,唐 から 太 ふとし 宗 そう 认为自己 じこ 向 むかい 真珠 まじゅ 可 か 汗 あせ 许诺和 わ 亲并不 ふ 明智 めいち ,所以 ゆえん 向 こう 薛延陀要聘礼:五 ご 万 まん 匹 ひき 马、一万头牛和骆驼、十 じゅう 万 まん 只 ただ 羊 ひつじ 。真珠 しんじゅ 可 か 汗 あせ 同意 どうい ,但 ただし 无法立 ほうりゅう 即 そく 交纳。太 ふとし 宗 そう 以此为由,取消 とりけし 了 りょう 婚 こん 约。
但 ただし 是 ぜ 644年 ねん ,趁太宗 むね 征伐 せいばつ 高句麗 こうくり 的 てき 機會 きかい ,薛延陀部隊 たい 發起 ほっき 新 しん 一 いち 輪 りん 攻勢 こうせい ,擊 げき 敗 はい 東 ひがし 突厥,东突厥部众抛弃了可 か 汗 あせ 李 り 思 おもえ 摩 ま ,逃回 にげまわ 唐 から 朝 あさ 境内 けいだい 。阿 おもね 史 し 那 な 思 おもえ 摩 ま 只 ただ 得 え 逃回 にげまわ 云 うん 州 しゅう ,太 ふとし 宗 そう 以他为右武 たけ 卫将军。隨 ずい 後 ご ,高句麗 こうくり 尋 ひろ 求 もとめ 薛延陀援助 えんじょ ,但 ただし 夷 えびす 男 おとこ 希望 きぼう 避免與 あずか 唐 から 朝 あさ 直 ちょく 接戰 せっせん 鬥。
645年 ねん ,夷 えびす 男 おとこ 死後 しご ,他 た 的 てき 兒 じ 子 こ 多 た 彌 わたる 可 か 汗 あせ 拔灼開始 かいし 和 わ 唐 とう 軍 ぐん 作戰 さくせん ,攻 おさむ 打 だ 唐 とう 朝 あさ 黄河 こうが 以南 いなん 和 わ 夏 なつ 州 しゅう 。646年 ねん ,唐 から 将 しょう 乔师望 もち 、执失思 おもえ 力 りょく 率 りつ 軍 ぐん 反擊 はんげき 並 なみ 打 だ 敗 はい 拔灼後 ご ,薛延陀的附 ふ 庸 いさお 回 かい 紇 、仆骨 、同 どう 罗等 ひとし 鐵 てつ 勒部落 ぶらく 也乘机 つくえ 出兵 しゅっぺい 造反 ぞうはん 。太 ふとし 宗 そう 得知 とくち 后 きさき ,派 は 李 り 道 みち 宗 そう 、阿 おもね 史 し 那 な 社 しゃ 尔、执失思 おもえ 力 りょく 、契 ちぎり 苾何力 りょく 、薛万 まん 彻、张俭率 りつ 军大举进攻 おさむ 薛延陀。薛延陀受到 いた 多 おお 方 かた 攻 おさむ 击,回 かい 纥军將 はた 多 た 弥 わたる 可 か 汗 あせ 殺 ころせ 死 し 。余 よ 下 か 的 てき 薛延陀人纷纷逃亡 とうぼう ,拥立拔灼的 てき 堂 どう 兄 けい 咄摩支 ささえ 为伊 い 特 とく 勿失可 か 汗 あせ ,咄摩支 ささえ 向 こう 唐 とう 朝 あさ 表示 ひょうじ 取消 とりけし 可 か 汗 あせ 之 これ 号 ごう 。李 り 世 よ 勣军至 いたり 郁 いく 督 とく 军山,咄摩支 ささえ 的 てき 部落 ぶらく 还想顽抗,被 ひ 唐 から 军击败。咄摩支 ささえ 向 こう 唐 とう 軍 ぐん 投降 とうこう ,被 ひ 带到长安,结束了 りょう 其对漠 ばく 北 きた 的 てき 统治。薛延陀滅亡 めつぼう 后 きさき ,其他臣服 しんぷく 于薛延 のべ 陀的部族 ぶぞく ,此时也都表示 ひょうじ 臣服 しんぷく 于唐朝 あさ ,以太宗 むね 为天可 か 汗 あせ 。
太 ふとし 宗 そう 於鐵勒故地 ち 設 しつらえ 六 ろく 府 ふ 七 なな 州 しゅう :瀚海府 ふ (回 かい 紇)、金 きむ 微 ほろ 府 ふ (僕 ぼく 骨 こつ )、燕 つばめ 然 しか 府 ふ (多 た 濫葛)、盧 の 山 やま 府 ふ (思 おもえ 結 ゆい )、龜 かめ 林 はやし 府 ふ (同 どう 羅 ら )、幽 かそけ 陵 りょう 府 ふ (拔野古 いにしえ )。七 なな 州 しゅう :皋蘭州 しゅう (渾)、高 こう 闕州(斛薛)、雞鹿州 しゅう (奚結)、雞田州 しゅう (阿 おもね 跌)、榆溪州 しゅう (契 ちぎり 苾)、蹛林州 しゅう (思 おもえ 結 ゆい 別 べつ 部 ぶ )、窴顏州 しゅう (白 しろ 霫)。由 ゆかり 燕 つばめ 然 しか 都 みやこ 護 まもる 府 ふ 管理 かんり ,治 ち 所在 しょざい 陰 かげ 山 やま 之 これ 麓 ふもと (今 いま 內蒙古 いにしえ 杭 くい 錦 にしき 後 ご 旗 はた ),轄境東 ひがし 到 いた 大 だい 興 きょう 安 やす 嶺 みね 、西 にし 到 いた 阿 おもね 爾 しか 泰山 たいざん 、南 みなみ 到 いた 戈 ほこ 壁 かべ 、北 きた 到 いた 貝 かい 加 か 爾 なんじ 湖 みずうみ 的 てき 整 せい 個 こ 蒙 こうむ 古 こ 高原 こうげん 。回 かい 纥的首 くび 领吐迷度 ど ,虽顺服 ふく 唐 とう 朝 あさ ,但 ただし 也试图控制 せい 漠 ばく 北 きた ,648年 ねん 他 た 被 ひ 侄子谋杀,直 ちょく 到 いた 九 きゅう 十 じゅう 多年 たねん 后 きさき ,回 かい 纥汗国 こく 才 ざい 得 とく 以建立 こんりゅう 。
设立安西 あんざい 四 よん 镇 [ 编辑 ]
唐 から 太 ふとし 宗 そう 时期与 あずか 西域 せいいき 诸国战争示 しめせ 意 い 图
唐 から 太 ふとし 宗 そう 滅 めつ 東 ひがし 突厥後 ご ,開始 かいし 對 たい 西域 せいいき (即 そく 現代 げんだい 新 しん 疆和 わ 中 ちゅう 亞 あ 地區 ちく )的 てき 西 にし 突厥 以及一些鬆散結盟綠 みどり 洲 しゅう 國家 こっか 的 てき 施 ほどこせ 加 か 軍事 ぐんじ 實力 じつりょく ,其主要 よう 針 はり 對 たい 西 にし 突厥,以恢復 かいふく 兩 りょう 漢 かん 以來 いらい 對 たい 西域 せいいき 的 てき 統治 とうち 。从640年 ねん 开始,太 ふとし 宗 そう 进行一系列针对西突厥及其在塔里木盆地绿洲仆从国的战役。西 にし 突厥与 あずか 唐 から 朝 あさ 之 の 间的斗 と 争 そう ,持 もち 续到太 ふと 宗 そう 之子 ゆきこ 高 だか 宗 むね 在位 ざいい 时的657年 ねん ,西 にし 突厥战败被 ひ 唐 とう 朝 あさ 彻底征服 せいふく 。
632年 ねん ,疏勒国 こく 、于阗国 こく 向 こう 唐 とう 朝 あさ 入 にゅう 贡,635年 ねん ,处月国 こく (伊 い 犁河流域 りゅういき )向 こう 唐 とう 朝 あさ 入 にゅう 贡,636年 ねん ,朱 しゅ 俱波 (今 いま 新 しん 疆叶 かのう 城 しろ )向 こう 唐 とう 朝 あさ 入 にゅう 贡。高 こう 昌 あきら 王 おう 麴文泰 やすし 原本 げんぽん 臣服 しんぷく 于唐朝 あさ ,因 いん 为攻打 だ 焉耆,就和唐 から 朝 あさ 的 てき 矛盾 むじゅん 越来 ごえく 越 えつ 大 だい ,他 た 與 あずか 西 にし 突厥欲 よく 谷 だに 設 しつらえ 聯合 れんごう ,阻礙西域 せいいき 商 しょう 路 ろ ,進攻 しんこう 唐 から 朝 あさ 的 てき 伊 い 州 しゅう 。639年 ねん 冬 ふゆ ,太 ふとし 宗 そう 以侯君 くん 集 しゅう 為 ため 交河道 どう 行軍 こうぐん 大 だい 總 そう 管 かん ,与 あずか 薛万均率兵出擊高昌王麴文泰。640年 ねん ,唐 とう 軍 ぐん 至 いたり 磧口,麴文泰 たい 驚 おどろき 懼而病死 びょうし 。其子麴智盛 もり 即位 そくい 後 ご 不 ふ 久 ひさ ,侯 ほう 君 くん 集 しゅう 圍 かこえ 城 じょう ,麴智盛 もり 请罪,侯 ほう 君 くん 集 しゅう 要求 ようきゅう 他出 たしゅつ 城 じょう 投降 とうこう ,麴智盛 もり 没 ぼつ 有 ゆう 统一。侯 ほう 君 くん 集 しゅう 击败西 にし 突厥在 ざい 可 か 汗 あせ 浮图城 じょう 的 てき 援军,麴智盛 もり 于是献 けんじ 城 じょう 投降 とうこう 唐 とう 軍 ぐん 。高 こう 昌 あきら 國 こく 三 さん 州 しゅう 、五 ご 縣 けん 、二 に 十 じゅう 二 に 城 しろ ,八 はち 千 せん 戶 こ 、三 さん 萬 まん 餘人 よにん 歸屬 きぞく 唐 から 朝 あさ ,高 こう 昌 あきら 國 こく 結束 けっそく 。魏 ぎ 徵 しるし 指出 さしで 在高 ありだか 昌 あきら 驻军,花 はな 费和人力 じんりき 成本 なりもと 都 と 很高,建 けん 议太宗 むね 让麴智 さとし 盛 もり 继续为高昌 あきら 王 おう 。太 ふとし 宗 むね 没 ぼつ 有 ゆう 同意 どうい ,唐 から 朝 あさ 在高 ありだか 昌 あきら 設置 せっち 西 にし 州 しゅう ,将 はた 其全境 さかい 并入唐 にっとう 朝 あさ 的 てき 版 ばん 图。
640年 ねん ,唐 から 朝 あさ 在 ざい 交河城 じょう 設 しつらえ 安西 あんざい 都 みやこ 護 まもる 府 ふ ,用 よう 以針對 たい 西 にし 突厥和 わ 管理 かんり 西域 せいいき 。焉耆王 おう 龙突骑支协助唐 とう 朝 あさ 征 せい 讨高昌 あきら ,之 これ 后 きさき 又 また 与 あずか 西 にし 突厥结盟,644年 ねん ,西 にし 突厥的 てき 盟友 めいゆう 焉耆 攻 おさむ 打 だ 西 にし 州 しゅう ,安西 あんざい 都 と 護 まもる 郭 かく 孝 たかし 恪 つとむ 為 ため 西 にし 州 しゅう 道行 みちゆき 軍 ぐん 總 そう 管 かん ,从安西 にし (即 そく 高 こう 昌 あきら )出兵 しゅっぺい 討伐 とうばつ 依 よ 附 ふ 西 にし 突厥的 てき 焉耆 ,佔領焉耆,俘虜 ふりょ 國王 こくおう 龍 りゅう 突騎支 ささえ ,立 たて 其弟龙栗婆 ばば 准 じゅん 摄国事 ごと 。但 ただし 後來 こうらい ,西 にし 突厥大臣 だいじん 屈 こごめ 利 り 啜 すす 随 ずい 后 きさき 攻 おさむ 陷 おちい 焉耆,俘获龙栗婆 ばば 准 なぞらえ ,焉耆再 さい 次 つぎ 脫 だつ 離 はなれ 唐 とう 朝 あさ 。屈 こごめ 利 り 啜 すす 惧怕唐 から 朝 あさ 势力,不 ふ 久 ひさ 撤出,焉耆贵族立 りつ 龙突骑支堂 どう 弟 おとうと 龙薛婆 ばば 阿 おもね 那 な 支 ささえ 为王。
648年 ねん ,唐 から 太 ふとし 宗 むね 派遣 はけん 阿 おもね 史 し 那 な 社 しゃ 爾 なんじ 、郭 かく 孝 たかし 恪 つとむ 率 りつ 軍 ぐん 討伐 とうばつ 依 よ 附 ふ 西 にし 突厥的 てき 焉耆和 わ 龜 かめ 茲 (今新 いまじん 疆阿 おもね 克 かつ 蘇 そ 地区 ちく 库车县 ),唐 から 军击斩龙薛婆阿 おもね 那 な 支 ささえ ,立 たて 他 た 的 てき 堂 どう 弟 おとうと 龙先那 な 准 じゅん 为王。阿 おもね 史 し 那 な 社 しゃ 尔进军龟兹,俘虏其王白 しろ 诃黎布 ぬの 失 しつ 毕,立 たて 其弟为王,征服 せいふく 兩國 りょうこく 。然 しか 後 のち 疏勒 和 わ 于闐 歸 かえり 附 ふ 唐 から 朝 あさ ,將 はた 安西 あんざい 都 と 護 まもる 府 ふ 遷至龜 かめ 茲 ,撫 なで 寧 やすし 西域 せいいき ,統 みつる 龜 かめ 茲、焉耆、于闐 、疏勒 四國 しこく ,史 し 稱 しょう 安西 あんざい 四 よん 鎮 。
贞观疆域 [ 编辑 ]
唐 から 太 ふとし 宗 そう 贞观年 ねん 间的唐 とう 朝 あさ 疆域
在 ざい 北方 ほっぽう ,貞 さだ 觀 かん 四 よん 年 ねん (630年 ねん ),唐 から 军滅亡 めつぼう 東 ひがし 突厥 ,漠 ばく 南成 なんせい 為 ため 唐 から 势力范围。貞 さだ 觀 かん 二 に 十 じゅう 年 ねん (646年 ねん ),又 また 一 いち 舉消滅 しょうめつ 了 りょう 薛延陀 汗 あせ 國 こく ,至 いたり 此大漠 ばく 南北 なんぼく 广大地区 ちく 皆 みな 為 ため 唐 とう 的 てき 势力范围。唐 から 朝廷 ちょうてい 在 ざい 漠 ばく 北 きた 設立 せつりつ 安 やす 北都 ほくと 护府 ,在 ざい 漠 ばく 南 みなみ 設立 せつりつ 单于都 と 护府 ,建立 こんりゅう 了 りょう 南 みなみ 至 いたる 罗伏州 しゅう (今 いま 越 こし 南 みなみ 河 かわ 静 せい )、北 きた 括 くく 玄 げん 阙州 (後 ご 改名 かいめい 余 あまり 吾 われ 州 しゅう ,今 いま 安 あん 加 か 拉 ひしげ 河 かわ 地区 ちく )、西 にし 及安息 あんそく 州 しゅう (今 いま 乌兹别克斯坦 布 ぬの 哈拉 )、东临哥勿州 しゅう (今 いま 吉 よし 林 りん 通 つう 化 か )的 てき 辽阔疆域。
在 ざい 西北 せいほく ,貞 さだ 觀 かん 四 よん 年 ねん ,唐 から 朝廷 ちょうてい 在 ざい 伊 い 吾 われ 七城 しちじょう 設立 せつりつ 西 にし 伊 い 州 しゅう ,開始 かいし 經營 けいえい 西域 せいいき 。貞 さだ 觀 かん 二 に 十 じゅう 二 に 年 ねん (648年 ねん ),郭 かく 孝 たかし 恪 つとむ 击败龟兹国 こく ,把 わ 安西 あんざい 都 と 护府治 ち 所 しょ 迁至龟兹 [g] 。
在 ざい 东北,645年 ねん 唐 とう 太 ふと 宗 そう 征 ただし 讨高句 く 丽未果 はて ,唐 とう 高 だか 宗 そう 在 ざい 668年 ねん 乃联合 あい 新 しん 罗灭高 だか 句 く 丽,设立安 やす 东都护府 。
渐不克 かつ 终 [ 编辑 ]
面 めん 對 たい 自己 じこ 空前 くうぜん 的 てき 文治 ぶんじ 武功 ぶこう ,太 ふとし 宗 むね 到 いた 晚年 ばんねん 也出現 しゅつげん 一 いち 些過失 かしつ 。首 くび 先 さき 納 おさめ 諫不如貞觀 かん 早期 そうき 積極 せっきょく ,比 ひ 如貞觀 かん 十 じゅう 年 ねん ,魏 ぎ 徵 ちょう 發現 はつげん 他 た 「漸 やや 惡 あく 直言 ちょくげん 」。其次奢侈 しゃし 之 の 風 ふう 日 び 重 じゅう 。不 ふ 過 か 晚年 ばんねん 他 ほか 還 かえ 是能 これよし 反省 はんせい 自己 じこ 過度 かど 奢 おご 靡的錯誤 さくご 。司馬 しば 光 ひかり 說 せつ 唐 から 太 ふとし 宗 むね :「好尚 こうしょう 功名 こうみょう ,不 ふ 及禮樂 れいがく ,父子 ふし 兄弟 きょうだい 之 の 間 あいだ ,慚德多 た 矣」。[10] 同 どう 时,太 ふとし 宗 むね 晚年 ばんねん 也由早年 そうねん 的 てき 清 きよ 静 しずか 转为奢纵,营建宫殿,计划封 ふう 禅 ぜん 泰山 たいざん 等 とう ,并自辩“百姓无事则骄逸,劳役则易使 し ”,魏 ぎ 征 せい 因 いん 此谏到“恐 おそれ 非 ひ 兴邦之 の 至言 しげん ,岂安人 じん 之 の 长算?”不 ふ 过由于太宗 むね 晚年 ばんねん 能 のう 够清醒认识自己 じこ 的 てき 问题,所以 ゆえん 也能进行调整,因 いん 此虽然 しか 太 ふとし 宗 むね 晚年 ばんねん 存在 そんざい 这些过失,最 さい 终没有 ゆう 出 で 现败亡 ほろび 的 てき 危机,“功 いさお 大 だい 过微,故 こ 业不堕”,维持了 りょう 贞观之 の 治 ち 的 てき 局面 きょくめん 。[11]
与 あずか 拜 はい 占 うらない 庭 にわ 帝国 ていこく 的 てき 联系[ 编辑 ]
《大秦 たいしん 景 けい 教 きょう 流行 りゅうこう 中国 ちゅうごく 碑 ひ 》
《旧 きゅう 唐 から 书》和 かず 《新 しん 唐 から 书》提 ひさげ 到 いた 了 りょう 拂 はらい 菻 (拜 はい 占 うらない 庭 にわ 帝国 ていこく )几次出 で 使 し 唐 とう 朝 あさ 。认为拂 はらい 菻相当 とう 于之前 まえ 的 てき 大秦 たいしん (汉代时指罗马帝国 ていこく )。643年 ねん 波多 はた 力 つとむ (君 きみ 士 し 坦 ひろし 斯二 に 世 せい )向 むかい 太 ふとし 宗 そう 皇帝 こうてい 派遣 はけん 使臣 ししん ,[12] 献上 けんじょう 红玻璃和绿宝石 せき 等 とう 礼物 れいもつ 。[13] 这些史 し 书也粗略 そりゃく 记载了 りょう 拂 はらい 菻的风俗和 わ 君 きみ 士 し 坦 ひろし 丁 ちょう 堡的 まと 城 じょう 墙,[14] 以及大食 たいしょく (阿 おもね 拉 ひしげ 伯 はく 帝国 ていこく )大将 たいしょう 军摩栧(穆 きよし 阿 おもね 维叶一 いち 世 せい ,在 ざい 成 なり 为哈里 さと 发之前 ぜん 担任 たんにん 叙 じょ 利 り 亚 总督)将 はた 其包围,迫 さこ 使 つかい 拜 はい 占 うらない 庭 にわ 人 じん 请和的 てき 战争。[13] [15] 萨珊帝国 ていこく 的 てき 最 さい 后 きさき 一 いち 位 い 统治者 しゃ 伊 い 嗣俟三 さん 世 せい 在 ざい 哈里发政权 攻 おさむ 打 だ 波 なみ 斯核心 こころ 脏地带时,派遣 はけん 使者 ししゃ 到 いた 中 ちゅう 亚费尔干纳的宗主 そうしゅ 国 こく 唐 とう 朝 あさ 寻求太 ふと 宗 そう 皇帝 こうてい 的 てき 援助 えんじょ 。这可能 かのう 促使拜 はい 占 うらない 庭 にわ 人 じん 在 ざい 叙 じょ 利 り 亚被穆 きよし 斯林占 うらない 领的情 じょう 况下,派遣 はけん 使 し 节前往中国 こく 。[16] 唐 から 朝 あさ 的 てき 史料 しりょう 还记录了在 ざい 伊 い 斯兰哈里发征服 せいふく 波 は 斯后,萨珊王朝 おうちょう 的 てき 王子 おうじ 卑路斯三 さん 世 せい 逃往唐 とう 朝 あさ 的 てき 情 じょう 况。[17]
在 ざい 太 ふとし 宗 そう 统治下 か 中国 ちゅうごく 向中 むこうなか 亚扩张,似 に 乎已经引起 おこり 了 りょう 西方 せいほう 世界 せかい 的 てき 注意 ちゅうい 。狄奥菲拉克 かつ 特 とく ·西 にし 莫卡塔 とう 是 これ 希 まれ 拉 ひしげ 克 かつ 略 りゃく 统治时期的 てき 拜 はい 占 うらない 庭 にわ 帝国 ていこく 历史学 がく 家 か ,他 た 写 うつし 道 どう ,桃 もも 花石 はないし (Taugast 、Taugas 、古 こ 突厥语 : Tabghach ,一说语源来自建立北 きた 魏 たかし 的 てき 鲜卑 族 ぞく 拓 つぶせ 跋 ばつ 氏 し ),[18] 是 ぜ 一个伟大的东方帝国,被 ひ 突厥人 じん 统治, 首都 しゅと 在 ざい 印度 いんど 东北约1500英里 えり 处,称 しょう 之 の 为胡 えびす 姆丹 (来 らい 自 じ 突厥语Khumdan,意思 いし 是 ぜ 长安)。那 な 里 さと 有 ゆう 偶像 ぐうぞう 崇拜 すうはい ,但 ただし 人 ひと 们很聪明,遵照正 せい 义公正 こうせい 的 てき 法律 ほうりつ 而生活 せいかつ 。[19] 他 た 将 しょう 中国 ちゅうごく 描绘为被一 いち 条 じょう 大河 たいが (即 そく 长江 )分割 ぶんかつ ,这条大河 おおかわ 是 ただし 两个交战敌对国家 こっか 之 の 间的边界。在 ざい 拜 はい 占 うらない 庭 にわ 皇帝 こうてい 莫里斯 统治期 き 间,北方 ほっぽう 人 じん 黑衣 くろご 国 こく 征服 せいふく 了 りょう 南方 なんぽう 的 てき 红衣国 こく 。[20] 该记述 じゅつ 可能 かのう 与 あずか 隋 ずい 文 ぶん 帝 みかど 灭亡陈朝、统一中 ちゅう 国有 こくゆう 关。[20] 西 にし 莫卡塔 とう 将 はた 桃 もも 花石 はないし 的 てき 统治者 しゃ 称 しょう 为ταϊσαν,解 かい 释为天 てん 之子 ゆきこ ,可能 かのう 是 ぜ 天子 てんし 之 の 意 い ,也可以与当 とう 时统治者 ちしゃ 太 ふとし 宗 むね 一词的对音有关。[21]
去 さ 世 よ [ 编辑 ]
貞 さだ 觀 かん 二 に 十 じゅう 二 に 年 ねん (648年 ねん )正月 しょうがつ ,唐 から 太 ふとし 宗 むね 撰 せん 寫 うつし 《帝 みかど 範 はん 》十 じゅう 二 に 篇 へん 頒賜給 きゅう 太子 たいし 李 り 治 おさむ 。貞 さだ 觀 かん 二 に 十 じゅう 三 さん 年 ねん (649年 ねん ),唐 から 太 ふとし 宗 そう 得 とく 了 りょう 痢疾(一種 いっしゅ 傳染 でんせん 病 びょう ) ,醫 い 治 ち 最終 さいしゅう 無效 むこう (一說是服用天竺长生藥致暴病不救[22] ),命 いのち 李 り 治 おさむ 到 いた 金 きむ 掖 わき 門 もん 代理 だいり 國事 こくじ 。貞 さだ 觀 かん 二 に 十 じゅう 三 さん 年 ねん 五 ご 月 がつ 二 に 十 じゅう 六 ろく 日 にち (649年 ねん 7月 がつ 10日 とおか ),唐 から 太 ふとし 宗 そう 李 り 世 よ 民 みん 崩 くずし 逝于終 おわり 南山 なんざん 翠 みどり 微 ほろ 宮 みや 含風殿 どの 內,享年 きょうねん 五 ご 十 じゅう 一 いち 岁,在位 ざいい 二 に 十 じゅう 三 さん 年 ねん ,初 はつ 谥文 ぶん 皇帝 こうてい ,庙号太 ふとし 宗 むね ,葬 そう 唐 から 昭 あきら 陵 りょう (位 い 于今中國 ちゅうごく 陝西 せんせい 省 しょう 禮 れい 泉 いずみ 縣 けん 東北 とうほく 50多 た 里山 さとやま 峰 ほう 上 じょう ),唐 とう 高 だか 宗 むね 上 うえ 元 もと 元年 がんねん (674年 ねん )加 か 谥文武 ぶんぶ 圣皇帝 こうてい ,唐 から 玄 げん 宗 むね 天寶 てんぽう 八 はち 年 ねん (749年 ねん )加 か 谥文武 ぶんぶ 大 だい 圣皇帝 こうてい ,天寶 てんぽう 十 じゅう 三 さん 年 ねん (754年 ねん )加 か 谥文武 ぶんぶ 大 だい 圣大广孝皇帝 こうてい 。
評價 ひょうか [ 编辑 ]
《貞 さだ 觀 かん 政 せい 要 よう 》贊 さん 貞 さだ 觀 かん 之 の 治 ち :官吏 かんり 多 た 自 じ 清 きよし 謹,王公 おうこう 妃 ひ 主 ぬし 之 の 家 いえ ,大 だい 姓 せい 豪 ごう 猾之伍 ご ,無 む 敢侵欺細人 じん 。商 しょう 旅 たび 野次 やじ ,无复盗 ぬすめ 贼,囹圄 れいご 常 つね 空 そら ,去年 きょねん 犯 はん 死者 ししゃ 仅二 に 十 じゅう 九 きゅう 人 にん 。又 また 频致丰稔,米 べい 斗 と 三 さん 钱,马牛布野 ふの ,外 そと 户不闭,行旅 こうりょ 自 じ 京 きょう 师至于岭表 ひょう ,自 じ 山 やま 东至于沧海 うみ ,皆 みな 不 ふ 赍粮,取 と 给于路 ろ 。入山 にゅうざん 东村落 そんらく ,行 ぎょう 客 きゃく 经过者 しゃ ,必厚加 か 供 きょう 待 まて ,或 ある 发时有 ゆう 赠遗。此皆古昔 こせき 未 み 有 ゆう 也。
后 きさき 晋 すすむ 官 かん 修 おさむ 正史 せいし 《旧 きゅう 唐 から 书 》刘昫 等 ひとし 的 てき 評價 ひょうか 是 ぜ :“史 ふみ 臣 しん 曰:臣 しん 观文皇帝 こうてい 发迹多 た 奇 き ,聪明神武 じんむ 。拔人物 ぶつ 则不私 わたし 于党,负志业则咸尽其才。所以 ゆえん 屈 こごめ 突、尉 じょう 迟,由 ゆかり 仇 かたき 敌而愿 すなお 倾心膂;马周、刘洎,自 じ 疏远而卒委 い 钧衡。终平泰 たい 阶,谅由斯道 しどう 。尝试论之:础润云 うん 兴,虫 むし 鸣螽跃。虽尧、舜 しゅん 之 の 圣,不能 ふのう 用 よう 檮杌、穷奇而治平 ひら ;伊 い 、吕之贤,不能 ふのう 为夏桀、殷 いん 辛 からし 而昌盛 もり 。君臣 くんしん 之 の 际,遭遇 そうぐう 斯难,以至抉 こじ 目 め 剖心,虫 むし 流 りゅう 筋 すじ 擢,良 りょう 由 よし 遭值之 の 异也。以房、魏 ぎ 之 の 智 さとし ,不 ふ 逾于丘 おか 、轲,遂 とげ 能 のう 尊 みこと 主 ぬし 庇 ひさし 民 みん 者 しゃ ,遭时也。或 ある 曰:以太宗之 むねゆき 贤,失 しつ 爱于昆 こん 弟 おとうと ,失 しつ 教 きょう 于诸子 こ ,何 なに 也?曰:然 しか ,舜 しゅん 不能 ふのう 仁 じん 四 よん 罪 ざい ,尧不能 ふのう 训丹朱 しゅ ,斯前志 こころざし 也。当 とう 神 かみ 尧任谗之年 ねん ,建 たて 成 しげる 忌 き 功 こう 之 の 日 にち ,苟除畏 かしこ 逼,孰顾分 ぶん 崩 くずれ ,变故之 の 兴,间不容 よう 发,方 ぽう 惧“毁巢”之 の 祸,宁虞“尺 しゃく 布 ぬの ”之 の 谣?承 うけたまわ 乾 いぬい 之 の 愚 ぐ ,圣父不能 ふのう 移 うつり 也。若 わか 文 ぶん 皇 すめらぎ 自 じ 定 てい 储于哲 あきら 嗣,不 ふ 骋志于高丽;用人 ようにん 如贞观之初 はつ ,纳谏比 ひ 魏 ぎ 徵 ちょう 之 の 日 ひ 。况周发、周 しゅう 成之 しげゆき 世 よ 袭,我 わが 有 ゆう 遗妍;较汉文 ぶん 、汉武之 の 恢弘,彼 かれ 多 た 惭德。迹其听断不惑 ふわく ,从善如流,千 せん 载可称 たたえ ,一人 ひとり 而已!赞曰:昌 あきら 、发启国 こく ,一 いち 门三 さん 圣。文 ぶん 定 てい 高位 こうい ,友 とも 于不令 れい 。管 かん 、蔡既诛,成 なり 、康 かん 道正 みちまさ 。贞观之 の 风,到 いた 今 こん 歌 うた 咏。”[23]
北 きた 宋 そう 官 かん 修正 しゅうせい 史 し 《新 しん 唐 から 书 》欧 おう 阳修 、宋 そう 祁等 ひとし 的 てき 評價 ひょうか 是 ぜ :“甚矣,至 いたり 治之 はるゆき 君 くん 不世出 ふせいしゅつ 也!禹有天下 でんか ,传十 じゅう 有 ゆう 六 ろく 王 おう ,而少康 かん 有 ゆう 中 ちゅう 兴之业。汤有天下 でんか ,传二 に 十 じゅう 八 はち 王 おう ,而其甚盛者 しゃ ,号 ごう 称 たたえ 三 さん 宗 むね 。武 たけ 王 おう 有 ゆう 天下 でんか ,传三 さん 十 じゅう 六 ろく 王 おう ,而成、康之 やすゆき 治 ち 与 あずか 宣之 のぶゆき 功 こう ,其余无所称 しょう 焉。虽《诗》、《书》所 しょ 载,时有阙略,然 しか 三 さん 代 だい 千 せん 有 ゆう 七 なな 百 ひゃく 余 よ 年 ねん ,传七 なな 十 じゅう 余 あまり 君 くん ,其卓然 たくぜん 著 ちょ 见于后 きさき 世 よ 者 しゃ ,此六 ろく 七 なな 君 くん 而已。呜呼,可 か 谓难得 とく 也!唐 から 有 ゆう 天下 でんか ,传世二 に 十 じゅう ,其可称 しょう 者 しゃ 三 さん 君 くん ,玄 げん 宗 むね 、宪宗皆 みな 不 ふ 克 かつ 其终,盛 もり 哉,太 ふとし 宗之 むねゆき 烈 れつ 也!其除隋 ずい 之 の 乱 みだれ ,比 ひ 迹汤、武 たけ ;致治之 の 美 よし ,庶几成 なり 、康 かん 。自 じ 古 こ 功德 くどく 兼 けん 隆 たかし ,由 ゆかり 汉以来 いらい 未 ひつじ 之 の 有 ゆう 也。至 いたり 其牵于多爱,复立浮图,好 こう 大喜 だいぎ 功 こう ,勤 つとむ 兵 へい 于远,此中材 ざい 庸 いさお 主 ぬし 之 の 所 ところ 常 つね 为。然 しか 《春秋 しゅんじゅう 》之 これ 法 ほう ,常 つね 责备于贤者 しゃ ,是 ぜ 以后世 よ 君子 くんし 之 の 欲 よく 成人 せいじん 之 の 美 び 者 しゃ ,莫不叹息于斯焉。”[24]
《新 しん 唐 から 书·北狄 ほくてき 列 れつ 传》:唐 とう 之 の 德 とく 大 だい 矣!際 きわ 天 てん 所 しょ 覆 くつがえ ,悉臣而屬之 の ;薄 うす 海 うみ 內外,無 む 不 ふ 州 しゅう 縣 けん ,遂 とげ 尊 みこと 天子 てんし 曰“天 てん 可 か 汗 あせ ”。三 さん 王 おう 以來 いらい ,未 み 有 ゆう 以過之 の 。至 いたり 荒 あら 區 く 君 くん 長 ちょう ,待 まち 唐 から 璽纛乃能國 こく ;一 いち 為 ため 不 ふ 賓 まろうど ,隨 ずい 輒夷縛 ばく 。故 こ 蠻琛夷 えびす 寶 たから ,踵 かかと 相 しょう 逮於廷。
陆九渊 《象山 ぞうざん 语要·卷 まき 三 さん 十 じゅう 一 いち ·论德仁 じん 功利 こうり 》:“太 ふとし 宗 むね 富有 ふゆう 天下 でんか ,贵为天子 てんし ,功 こう 业皆其所自 じ 致,而能俯首抑 そもそも 意 い ,听拂逆 ぎゃく 之 の 辞 やめ 于畴昔 むかし 所 しょ 恶之臣 しん 。呜呼!此其所以 ゆえん 致贞观之治 ち ,庶几于三 さん 代 だい 之 の 王者 おうじゃ 乎?”
朱 しゅ 熹与 あずか 陈亮 书:“太 ふとし 宗之 むねゆき 心 こころ ,则吾恐 おそれ 其无一不出于人欲也。直 ちょく 以其能 のう 假 かり 仁 ひとし 假 かり 义,以行其私。而当时与之 の 争 そう 者 しゃ ,才能 さいのう 知 ち 术既出 きしゅつ 其下,又 また 不知 ふち 有 ゆう 仁 じん 义之可 か 饬。是 ぜ 以彼善 ぜん 于此,而得以成其功尔。”“论后世人 せじん ,不当 ふとう 尽 つき 绳以古人 こじん 礼法 れいほう 。毕竟高祖 こうそ 不当 ふとう 立 りつ 建 たて 成 しげる 。”“太 ふとし 宗 そう 功 いさお 高 だか ,天下 てんか 所 しょ 系 けい 属 ぞく ,亦 また 自 じ 无安顿处,只 ただ 高祖 こうそ 不善 ふぜん 处置了 りょう 。”
文 ぶん 天 てん 祥 さち 《古代 こだい 状 じょう 元 もと 卷 まき :文 ぶん 天 てん 祥 さち 殿 どの 试卷》:太 ふとし 宗全 そうぜん 不知 ふち 道 どう 、闺门之 の 耻、将 はた 相之 あいの 夸、末 すえ 年 ねん 辽东一 いち 行 ぎょう 、终不能 ふのう 以克其血气之暴、其心也骄。
元朝 がんちょう 戈 ほこ 直 ちょく 在 ざい 《貞 さだ 觀 かん 政 せい 要 よう 》集 しゅう 論 ろん 中 ちゅう 說 せつ :“夫 おっと 太 ふと 宗之 むねゆき 於正心 こころ 修身 しゅうしん 之 の 道 みち ,齊 ひとし 家 か 明倫 めいりん 之 これ 方 かた ,誠 まこと 有 ゆう 愧於二帝三王之事矣。然 しか 其屈己 おのれ 而納諫,任 にん 賢 けん 而使能 のう ,恭儉 きょうけん 而節用 よう ,寬厚 かんこう 而愛民 みん ,亦 また 三 さん 代 だい 而下,絕無 ぜつむ 而僅有 ゆう 者 しゃ 也。後 ご 之 の 人君 じんくん ,擇 よ 其善者 しゃ 而從之 の ,其不善 ふぜん 者 しゃ 而改之 の ,豈 あに 不 ふ 交有所 しょ 益 えき 乎!”這裡所說 しょせつ ,太 ふとし 宗 そう 在 ざい 正 せい 心 しん 修身 しゅうしん ,齊 ひとし 家 か 明倫 めいりん 方面 ほうめん ,有 ゆう 愧于二 に 帝 みかど 三 さん 王 おう 之 の 事 こと ,主要 しゅよう 是 ぜ 指 ゆび 太 ふとし 宗 むね 與 あずか 其兄李 り 建 けん 成 なり 的 てき 皇位 こうい 之 の 爭 そう 。
明朝 みょうちょう 官 かん 修 おさむ 皇帝 こうてい 实录《明太 めんたい 祖 そ 实录 》记载,明太 めんたい 祖 そ 朱 しゅ 元 もと 璋 あきら 在 ざい 洪 ひろし 武 ぶ 七 なな 年 ねん 八 はち 月 がつ 初 はつ 一 いち 日 にち (1374年 ねん 9月 がつ 7日 にち ),亲自前 ぜん 往南京 なんきん 历代帝王 ていおう 庙祭祀 さいし 三 さん 皇 すめらぎ 、五 ご 帝 みかど 、夏 なつ 禹王 、商 しょう 汤王 、周 しゅう 武 たけし 王 おう 、汉高祖 こうそ 、汉光武 みつたけ 帝 みかど 、隋 ずい 文 ぶん 帝 みかど ,唐 から 太 ふとし 宗 むね 、宋 そう 太 ふとし 祖 そ 、元 もと 世 よ 祖 そ 一 いち 共 ども 十 じゅう 七 なな 位 い 帝王 ていおう [25] ,其中对唐 から 太 ふとし 宗 そう 李 り 世 よ 民 みん 的 てき 祝 しゅく 文 ぶん 是 ぜ :“惟 おもんみ 唐 から 太 ふとし 宗 そう 皇帝 こうてい 英姿 えいし 盖世,武 たけ 定 じょう 四方 しほう ,贞观之 の 治 ち ,式 しき 昭文 あきふみ 德 とく 。有 ゆう 君 くん 天下 でんか 之 の 德 とく 而安万 まん 世 せい 之 の 功 こう 者 しゃ 也。元 げん 璋 あきら 以菲德 とく 荷 に 天佑 てんゆう 人 じん 助 すけ ,君 きみ 临天下 か ,继承中国 ちゅうごく 帝王 ていおう 正 せい 统,伏 ふく 念 ねん 列 れつ 圣去世 よ 已 やめ 远,神 かみ 灵在天 ざいてん ,万古 ばんこ 长存,崇 たかし 报之礼 れい ,多 た 未 み 举行,故 こ 于祭祀 さいし 有 ゆう 阙。是 ぜ 用 よう 肇 はじめ 新 しん 庙宇于京师,列 れつ 序 じょ 圣像及历代 だい 开基帝王 ていおう ,每 まい 岁祀以春、秋 あき 仲 なか 月 がつ ,永 えい 为常典 てん 。今 こん 礼 れい 奠之初 はつ ,谨奉牲醴、庶品致祭,伏 ふく 惟神 かんながら 鉴。尚 なお 享 とおる !”[26]
明憲 あきのり 宗 むね 在 ざい 命 いのち 儒臣訂正 ていせい 重 じゅう 刊 かん 《貞 さだ 觀 かん 政 せい 要 よう 》時 じ 寫 うつし 道 どう :“太 ふとし 宗 そう 在 ざい 唐 から 為 ため 一 いち 代 だい 英明 えいめい 之 の 君 きみ ,其濟世 さいせい 康 やすし 民 みん ,偉 えら 有 ゆう 成 なり 烈 れつ ,卓 たく 乎不可 ふか 及已。所 ところ 可 か 惜者,正 せい 心 しん 修身 しゅうしん ,有 ゆう 愧于二 に 帝 みかど 三 さん 王 おう 之 の 道 みち ,而治未 み 純 じゅん 也。”
毛 もう 泽东 评价李 り 世 よ 民 みん 说:“李 り 世 よ 民 みん 的 てき 工作 こうさく 方法 ほうほう 有 ゆう 四 よん ”,“自 じ 古 こ 能 のう 军无出 で 李 り 世 よ 民 みん 之 の 右 みぎ 者 しゃ ,其次则朱 しゅ 元 もと 璋 あきら 耳 みみ 。”[27] [28] [29] [30]
王 おう 仲 なか 荦 《隋 ずい 唐 とう 五 ご 代 だい 史 し 》:“唐 とう 代 だい 的 てき 皇帝 こうてい 裡 うら ,唐 から 太 ふとし 宗 そう ,早年 そうねん 的 てき 唐 から 玄 げん 宗 むね ,唐 から 宣 せん 宗 むね ,都 みやこ 是 ただし 杰出的 てき 皇帝 こうてい 。”“我 わが 们认为旧日 び 的 てき 封建 ほうけん 歷史 れきし 家 か 对‘貞 さだ 觀 かん 之 の 治 ち ’是 ぜ 渲染得 とく 有 ゆう 點 てん 過分 かぶん 的 てき 。……固 かた 然 しか ,在 ざい 唐 とう 太 ふと 宗 そう 统治的 てき 二 に 十 じゅう 多年 たねん 间,人口 じんこう 有 ゆう 了 りょう 较大的 てき 增 ぞう 长,但 ただし 比 ひ 之 の 隋 ずい 極 ごく 盛 もり 时户数 すう ,还不到 いた 二分 にぶん 之 の 一 いち 。”“魏 ぎ 徵 ちょう 疏文中也 ちゅうや 说到:‘今 こん 自 じ 伊 い 洛 らく 以东,暨于海 うみ 岱,灌莽巨 きょ 泽,茫茫 ぼうぼう 千里 せんり 、人煙 じんえん 斷絕 だんぜつ ,鸡犬不 ふ 闻。道路 どうろ 萧条,进退艰阻。’”“封建 ほうけん 歷史 れきし 家 か 把 わ 貞 さだ 觀 かん 時期 じき 當 とう 作 さく 理想 りそう 的 てき 太平 たいへい 盛 もり 世 よ ,和 かず 實際 じっさい 情況 じょうきょう 是 ぜ 有 ゆう 很大距離 きょり 的 てき 。”
吕思勉 つとむ 《隋 ずい 唐 とう 五 ご 代 だい 史 し 》:“唐 から 太 ふとし 宗 そう 不 ふ 过中材 ざい ,论其恭 きょう 俭之德 とく ,及忧深 ふか 思 おもえ 远之资,实尚不 ふ 如宋武 たけ 帝 みかど ,更 さら 无论梁 りょう 武 たけし 帝 みかど ;其武略 りゃく 亦 また 不 ふ 如梁武 たけ 帝 みかど ,更 さら 无论宋 そう 武 たけし 帝 みかど ,陈武帝 みかど 矣!”
出生 しゅっしょう 年月 としつき 争 そう 议[ 编辑 ]
据 すえ 《贞观政 せい 要 よう 》李 り 世 よ 民 みん 的 てき 生 せい 日 び 是 ぜ 十 じゅう 二 に 月 がつ 癸 みずのと 丑 うし ,据 すえ 《资治通 どおり 鉴 》李 り 世 よ 民 みん 的 てき 生 せい 日 び 是 ぜ 十 じゅう 二 に 月 がつ 癸 みずのと 未 み ,据 すえ 《旧 きゅう 唐 から 书 》李 り 世 よ 民生 みんせい 于隋开皇十 じゅう 八 はち 年 ねん 十 じゅう 二 に 月 がつ 戊 つちのえ 午 うま (599年 ねん 1月 がつ 23日 にち ),因 いん 此李世 よ 民 みん 的 てき 生 せい 日 び 应为十 じゅう 二 に 月 がつ 份。据 すえ 《旧 きゅう 唐 から 书》李 り 世 よ 民 みん 卒 そつ 年 ねん 五 ご 十 じゅう 二 に 岁,其弟李 り 玄 げん 霸 无考;据 すえ 《新 しん 唐 から 书 》李 り 世 よ 民 みん 卒 そつ 年 ねん 五 ご 十 じゅう 三 さん 岁,其弟李 り 玄 げん 霸年十 じゅう 六岁死于隋大业十年(614年 ねん ),则李玄 げん 霸生卒 そつ 年 ねん 为公元 もと 599-614年 ねん ,而李世 よ 民生 みんせい 卒 そつ 年 ねん 为公元 もと 597-649年 ねん ;李 り 世 よ 民 みん 以十 じゅう 二 に 月 がつ 出生 しゅっしょう ,李 り 世 よ 民生 みんせい 卒 そつ 年月 としつき 为598年 ねん 1月 がつ -649年 ねん 7月 がつ ,与 あずか 李 り 玄 げん 霸(599-614)为同母 はは 兄弟 きょうだい 。《新 しん 唐 から 书》推翻了 りょう 《旧 きゅう 唐 から 书》关于李 り 世 よ 民 みん 的 てき 生 せい 卒 そつ 年月 としつき ,增加 ぞうか 了 りょう 李 り 玄 げん 霸的生 せい 卒 そつ 年 ねん ,使 つかい 李 り 世 よ 民 みん 与 あずか 李 り 玄 げん 霸的生 せい 卒 そつ 更 さら 可 か 信 しん 。胡 えびす 如雷著 ちょ 《李 り 世 よ 民 みん 传》即 そく 以《新 しん 唐 から 书》为依据 すえ ,考 こう 证李世 よ 民 みん 的 てき 出生 しゅっしょう 年月 としつき 为隋开皇十 じゅう 七 なな 年 ねん 十 じゅう 二 に 月 がつ 戊 つちのえ 午 うま (598年 ねん 1月 がつ 28日 にち )。
《旧 きゅう 唐 から 书 》
《新 しん 唐 から 书 》
李 り 世 よ 民 みん 生 なま 卒 そつ 年 ねん
598-649(五 ご 十 じゅう 二 に 岁)
597-649(五 ご 十 じゅう 三 さん 岁)
依 よ 诸史补正李 り 世 よ 民 みん 生 なま 卒 そつ 年月 としつき
599.1.23-649.7.10
598.1.28-649.7.10
李 り 玄 げん 霸生 なま 卒 そつ 年 ねん
无记载
599-614(十 じゅう 六 ろく 岁)
李 り 世 よ 民 みん 与 あずか 李 り 玄 げん 霸相差 おうさつ 年 ねん 岁
不可 ふか 计算
相差 おうさつ 两岁
《新 しん 唐 から 书 》增加 ぞうか 了 りょう 李 り 玄 げん 霸的 まと 生 せい 卒 そつ 年 ねん 岁,补正了 りょう 李 り 世 よ 民 みん 的 てき 生 せい 卒 そつ 年 ねん 岁,补充了 りょう 《旧 きゅう 唐 から 书 》中 ちゅう 没 ぼつ 有 ゆう 的 てき 珍 ちん 贵史料 りょう ,《新 しん 唐 から 书》与 あずか 《旧 きゅう 唐 から 书》同 どう 被 ひ 列 れつ 为《二 に 十 じゅう 四 よん 史 し 》之 の 钦定官 かん 史 し 。据 すえ 胡 えびす 如雷考 こう 证:“李 り 世 よ 民生 みんせい 于开皇 すめらぎ 十 じゅう 八年十二月之说亦难成立,因 いん 窦氏 在 ざい 不 ふ 到 いた 十 じゅう 三个月的时间里先后两次生子的可能性虽然不能完全排除,但 ただし 就常情 じょう 而言,这种可能 かのう 性 せい 也不大 だい ”。根 ね 据 すえ 李 り 世 よ 民 みん 同母 どうぼ 弟 おとうと 李 り 玄 げん 霸十 じゅう 六岁时死于大业十年,而倒推出李 り 玄 げん 霸生于开皇 すめらぎ 十 じゅう 九 きゅう 年 ねん ,所以 ゆえん 若 わか 李 り 世 よ 民生 みんせい 于开皇 すめらぎ 十 じゅう 八 はち 年 ねん 十二月 じゅうにがつ ,则李玄 げん 霸最迟生于开皇 すめらぎ 十 じゅう 九 きゅう 年 ねん 十二月 じゅうにがつ ,两兄弟 きょうだい 生辰 せいしん 过近,不 ふ 太 ふと 可能 かのう 。
軼事 いつじ [ 编辑 ]
唐 から 太 ふとし 宗 そう 畫像 がぞう
改名 かいめい [ 编辑 ]
《舊 きゅう 唐 とう 書 しょ ·本紀 ほんぎ 第 だい 二 に :太 ふとし 宗 むね 上 じょう 》记载,李 り 世 よ 民 みん 四 よん 歲 さい 時 じ ,其父李 り 淵 ふかし 任 にん 岐州刺史 しし ,有 ゆう 一 いち 書生 しょせい 自稱 じしょう 善 ぜん 相 しょう ,拜 はい 訪 おとずれ 李 り 淵 ふかし 說 せつ :“公 おおやけ 贵人也,且有贵子。”見 み 到 いた 李 り 世 よ 民 みん 時又 ときまた 說 せつ :“龙凤之 の 姿 すがた ,天日 てんじつ 之 の 表 ひょう ,年 ねん 将 しょう 二 に 十 じゅう ,必能济世安 やす 民 みん 矣。”李 り 淵 ふかし 害 がい 怕這話 ばなし 走 はし 漏 も ,派 は 人 じん 去 さ 追 つい 殺 ころせ 書生 しょせい ,書生 しょせい 卻忽然 しか 失 しつ 蹤了。於是李 り 淵 ふかし 就取“濟世 さいせい 安 やす 民 みん ”之 の 意 い 給 きゅう 李 り 世 よ 民 みん 命名 めいめい 。[31]
救 すくい 駕 が [ 编辑 ]
據 よりどころ 新舊 しんきゅう 唐 とう 書 しょ 太 ふとし 宗 そう 本紀 ほんぎ ,李 り 世 よ 民 みん 十 じゅう 六 ろく 歲 さい 時 じ 參 さん 軍 ぐん ,跟隨隋 ずい 將 しょう 雲 くも 定 てい 興 きょう ,一 いち 次 じ 隋 ずい 煬帝楊廣 被 ひ 圍 かこえ ,雲 くも 定 てい 興 きょう 軍 ぐん 負 ふ 責 せめ 救 すくい 駕 が ,李 り 世 よ 民 みん 獻 けんじ 計 けい ,故 こ 佈疑陣 じん ,嚇退敵 てき 軍 ぐん ,救 すくい 回 かい 天子 てんし [32] 。
尚書 しょうしょ 令 れい [ 编辑 ]
由 よし 於唐太 ふと 宗 そう 在 ざい 即位 そくい 前 ぜん 曾當過 か 尚書 しょうしょ 令 れい ,故 こ 當 とう 太 ふとし 宗 そう 做皇帝 こうてい 後 ご ,大臣 だいじん 多 た 不 ふ 敢任其職,於是之 の 後 こう 這個職務 しょくむ 就幾乎不授人,尚書 しょうしょ 省 しょう 的 てき 長官 ちょうかん 就只設 しつらえ 左 ひだり 、右 みぎ 僕 ぼく 射 しゃ ,後 ご 用 よう 其他官員 かんいん 以「同 どう 中書 ちゅうしょ 門下 もんか 三 さん 品 ひん 」的 てき 頭 あたま 銜參預 あずか 朝政 ちょうせい ,執行 しっこう 宰相 さいしょう 職務 しょくむ 。至高 しこう 宗時 むねとき ,又 また 用 もちい 低級 ていきゅう 官員 かんいん 以「同 どう 中書 ちゅうしょ 門 もん 下平 しもだいら 章 あきら 事 ごと 」的 てき 頭 あたま 銜參預 あずか 朝政 ちょうせい ,執行 しっこう 宰相 さいしょう 職務 しょくむ 。左 ひだり 、右 みぎ 僕 ぼく 射 しゃ 成 なり 了 りょう 聽令執行 しっこう 的 てき 官員 かんいん ,不能 ふのう 參加 さんか 大政 たいせい ,唐 から 中 ちゅう 宗 むね 神 かみ 龙政变復辟 ふくへき 之 これ 後 ご ,僕 ぼく 射 しゃ 就非宰相 さいしょう 職務 しょくむ 。中書 ちゅうしょ 令 れい 、侍 さむらい 中 ちゅう 在 ざい 安 やす 史 し 之 の 亂 みだれ 後 こう 也不常設 じょうせつ 了 りょう 。同 どう 中書 ちゅうしょ 門 もん 下平 しもだいら 章 あきら 事 ごと 成 なり 了 りょう 宰相 さいしょう 最 さい 普遍 ふへん 的 てき 名稱 めいしょう 。
武 たけ 功 いさお [ 编辑 ]
《大 だい 唐 から 新語 しんご ·卷一 けんいち 》載 の ,太 ふとし 宗 そう 繼 つぎ 位 い 後 ご 曾在苑 えん 囿內狩獵 しゅりょう ,一群野豬從森林中衝出。太 ふとし 宗 そう 舉弓四 よん 箭 や 射殺 しゃさつ 了 りょう 四 よん 隻 せき ,但 ただし 還 かえ 是 ぜ 有 ゆう 一頭雄野豬向馬匹直衝而來。吏部尚書 しょうしょ 唐 から 儉 慌忙下馬 げば ,與 あずか 之 これ 搏鬥。太 ふとし 宗 むね 拔劍 ばっけん 砍死野 の 豬,笑 えみ 著 ちょ 對 たい 唐 とう 儉說,「天 てん 策 さく 長 ちょう 史 し ,不見上 ふみがみ 將 しょう 擊 げき 賊 ぞく 耶?何 なに 懼之甚!」唐 から 儉當即 そく 回答 かいとう 道 どう :「漢 かん 祖 そ 以馬上 じょう 得 とく 之 の ,不 ふ 以馬上 もうえ 理之 まさゆき 。陛下 へいか 以神武 たけ 定 じょう 四方 しほう ,豈 あに 復 ふく 逞 たくまし 雄心 ゆうしん 於一獸 じゅう !」太 ふとし 宗 そう 覺 さとし 得 とく 唐 から 儉說得 せっとく 有理 ゆうり ,於是停止 ていし 了 りょう 狩獵 しゅりょう 。[33]
李 り 治 おさむ 登 のぼり 基 はじめ 後 ご ,為 ため 了 りょう 表示 ひょうじ 對 たい 他 た 的 てき 父親 ちちおや 李 り 世 よ 民 みん 的 てき 無比 むひ 尊敬 そんけい ,進行 しんこう 了 りょう 一 いち 項 こう 重要 じゅうよう 規定 きてい ,即 そく 不 ふ 再 さい 使用 しよう “世 よ ”和 かず “民 みん ”這兩個 りゃんこ 字 じ 。 這個規定 きてい 導 しるべ 致了「觀世音菩薩 かんぜおんぼさつ 」這個名字 みょうじ 的 てき 改變 かいへん ,從 したがえ 此稱為 ため 「觀音 かんのん 菩薩 ぼさつ 」。在 ざい 唐 とう 太 ふと 宗 そう 李 り 世 よ 民 みん 的 てき 統治 とうち 時期 じき ,"觀世音菩薩 かんぜおんぼさつ "這個稱呼 しょうこ 經常 けいじょう 在 ざい 大 だい 唐 から 相關 そうかん 文獻 ぶんけん 和文 わぶん 化 か 中 ちゅう 出現 しゅつげん 。 然 しか 而,唐 から 太 ふとし 宗 そう 過 か 世 よ 後 ご ,這個稱呼 しょうこ 變 へん 得 とく 相對 そうたい 不 ふ 常見 つねみ ,逐漸淡 あわ 出 で 了 りょう 歷史 れきし 舞台 ぶたい 。 這個變化 へんか 反映 はんえい 了 りょう 不同 ふどう 歷史 れきし 時期 じき 和 わ 統治 とうち 者 しゃ 對 たい 於宗教 きょう 和文 わぶん 化 か 方面 ほうめん 的 てき 關 せき 注 ちゅう 和 わ 偏 へん 好 このみ 的 てき 變化 へんか 。但 ただし 也有 やゆう 說法 せっぽう 認 みとめ 為 ため 「觀音 かんのん 菩薩 ぼさつ 」只 ただ 是 ぜ 「觀世音菩薩 かんぜおんぼさつ 」的 てき 簡稱。唐 とう 代 だい 清涼 せいりょう 澄 きよし 觀 かん 法師 ほうし 指出 さしで 在 ざい 梵文 ぼんぶん 古本 ふるほん 中 ちゅう 存在 そんざい 兩 りょう 種 たね 不同 ふどう 的 てき 名稱 めいしょう ,1927年 ねん 新 しん 疆出土 しゅつど 的 てき 古 こ 抄本 しょうほん 中 ちゅう ,以 अवलोकितस्वर(Avalokitasvara)為 ため 觀音 かんのん 菩薩 ぼさつ 的 てき 名稱 めいしょう ,證 あかし 實 じつ 了 りょう 他 た 的 てき 說法 せっぽう 。「娑 しゃば 伐 き 羅 ら 」(स्वर svara),意思 いし 為 ため 「聲音 こわね 」,Avalokitasvara 可 か 意譯 いやく 為 ため 「觀音 かんのん 」,鳩 ばと 摩 ま 羅 ら 什出生 しゅっしょう 在 ざい 西域 せいいき 地區 ちく ,所見 しょけん 的 てき 應 おう 該就是 ぜ 這個版本 はんぽん 。因 よし 此,觀音 かんのん 菩薩 ぼさつ 並 なみ 非 ひ 是 ぜ 因 いん 為 ため 避諱而出現 しゅつげん 的 てき 名稱 めいしょう 。根據 こんきょ 唐 とう 代 だい 玄 げん 應 おう 的 てき 說法 せっぽう ,這可能 かのう 是 ぜ 來 き 自 じ 於不同 どう 地區 ちく 方言 ほうげん 所 ところ 導 しるべ 致的。[34]
書法 しょほう [ 编辑 ]
唐 から 太 ふとし 宗 むね 手 しゅ 书《溫泉 おんせん 銘 めい 》(局部 きょくぶ )拓 つぶせ 片 へん
李 り 世 よ 民 みん 酷 こく 愛書 あいしょ 法 ほう ,其書法 ほう 以隸書見 しょけん 長 ちょう ,並 なみ 且酷愛書 あいしょ 法 ほう 名品 めいひん 《蘭 らん 亭 てい 序 じょ 》(即 そく 《蘭 らん 亭 てい 集 しゅう 序 じょ 》,王羲之 おうぎし 書法 しょほう 珍品 ちんぴん ,王羲之 おうぎし 的 てき 字 じ 十 じゅう 分 ふん 多 おお 變 へん ,就一「之 これ 」字 じ 就有十 じゅう 數 すう 種 しゅ 變化 へんか 之 の 多 た ),相傳 そうでん 當年 とうねん 某 ぼう 大臣 だいじん 見 み 太 ぶと 宗 むね 似 に 有 ゆう 鬱結 うっけつ 難 なん 紓,問 もん 之 の 原因 げんいん ,知道 ともみち 其欲得 どく 《蘭 らん 亭 てい 序 じょ 》,於是便 びん 與 あずか 辯才 べんさい 和尚 おしょう (王羲之 おうぎし 當年 とうねん 墨 すみ 寶 たから 輾轉 てんてん 傳 でん 至 いたり 其七 なな 世 せい 孫 まご 智永 ともえ ,智永 ともえ 出家 しゅっけ 為 ため 僧 そう ,又 また 將 はた 墨 ぼく 寶傳 ほうでん 予 よ 其弟子 でし 辯才 べんさい 和尚 おしょう )鬥智最後 さいご 終 おわり 於為李 り 世 よ 民 みん 獲得 かくとく 。而王羲之 おうぎし 本願 ほんがん 並 なみ 不 ふ 想 そう 《蘭 らん 亭 てい 序 じょ 》落入君王 くんのう 之 の 手成 てなる 為 ため 陪葬品 ひん 。但 ただし 最後 さいご 結果 けっか 事 こと 與 あずか 願 ねがい 違 たがえ ,《蘭 らん 亭 てい 序 じょ 》最終 さいしゅう 成 なり 為 ため 唐 から 太 ふとし 宗 むね 的 てき 陪葬品 ひん 。
太 ふとし 宗 そう 懷 ふところ 鷂 はいたか [ 编辑 ]
唐 とう 代 だい 劉 りゅう 餗 《隋 ずい 唐 から 嘉 よしみ 話 ばなし 》載 の ,太 ふとし 宗 そう 曾经饲养过一只 ただ 鹞 ,十分 じゅうぶん 喜 き 爱它,经常把 わ 它架在 ざい 手 て 臂 ひじ 上 じょう 玩赏。一 いち 次 じ 看 み 到 いた 魏 ぎ 徵 ちょう 前 ぜん 来 らい 奏 そう 事 ごと ,就把鹞藏在 ざい 了 りょう 怀里。魏 ぎ 徵 ちょう 看 み 出 で 端倪 たんげい ,汇报事情 じじょう 时就顺势向 むかい 太 ふとし 宗 そう 讲述古代 こだい 帝王 ていおう 由 よし 于安逸 いっ 享 とおる 乐而亡国 ぼうこく 的 てき 故事 こじ ,暗中 あんちゅう 劝谏太 ふとし 宗 むね 。魏 ぎ 徵 ちょう 奏 そう 事 ごと 时故意 こい 拖了很久,鹞最终被捂死在 ざい 了 りょう 太 ふとし 宗 そう 怀里[35] 。
文 ぶん 皇 すめらぎ 思 おもえ 女 おんな [ 编辑 ]
功臣 こうしん 长孙顺德 因 いん 女 おんな 儿逝世 よ 而大病 びょう 。太 ふとし 宗 そう 认为顺德系 けい 出 で 鲜卑贵胄,身 み 为武将 ぶしょう 却十分挂念儿女之情,因 いん 此心生 せい 鄙 ひな 夷 えびす ,对房 ぼう 玄 げん 龄 说:“顺德无刚气,因 いん 儿女牵爱而致大病 たいびょう ,至 いたり 于吗?”[36] 。后 きさき 来 らい 晋 すすむ 阳公主 ぬし 早 さ 夭,年 ねん 十 じゅう 二 に ,太 ふとし 宗 むね 非常 ひじょう 傷心 しょうしん ,有 ゆう 三 さん 十多天吃不下飯,每日 まいにち 哀傷 あいしょう 数 すう 十 じゅう 次 じ ,因 いん 此身体 しんたい 急速 きゅうそく 消 しょう 瘦。大臣 だいじん 們前來 らい 勸 すすむ 他 た ,太 ふとし 宗 むね 回 かい 道 どう :「朕 ちん 哪裡不知 ふち 道 どう 這樣悲爱無 む 濟 すみ 於事呢。我 わが 只 ただ 是 ぜ 忍 にん 不 ふ 住 じゅう 啊,朕 ちん 也不知道 ともみち 為 ため 甚麼 いんも 會 かい 這樣[37] 。」北 きた 宋 そう 時 じ 庄 しょう 绰 也说唐 から 太 ふとし 宗 そう 儿女牵爱,不能 ふのう 自 じ 拔[38] 。
晉 すすむ 陽 ひ 公主 こうしゅ 去 さ 世 よ 后 きさき ,唐 から 太 ふとし 宗 むね 下 か 诏命令 めいれい 有 ゆう 关官员用晋 すすむ 阳公主 ぬし 封 ふう 邑的余 あまり 钱在公主 こうしゅ 墓 ぼ 旁 つくり 营建佛 ふつ 祠 ほこら ,以此为公主 こうしゅ 的 てき 往生 おうじょう 祈祷 きとう [39] 。
大臣 だいじん [ 编辑 ]
十 じゅう 八 はち 學士 がくし [ 编辑 ]
秦 はた 王 おう 府 ふ 屬 ぞく 杜 もり 如晦
秦 はた 王 おう 府 ふ 記 き 室 しつ 房 ぼう 玄 げん 齡 よわい
天 てん 策 さく 府 ふ 從事 じゅうじ 中 ちゅう 郎 ろう 于志寧 やすし
天 てん 策 さく 府 ふ 軍 ぐん 咨祭酒 しゅ 蘇 そ 世 よ 長 ちょう
天 てん 策 さく 府 ふ 記 き 室 しつ 薛收
秦 はた 王 おう 府 ふ 文學 ぶんがく 褚亮
國子 くにこ 助 じょ 教 きょう 陸 りく 德明 のりあき
秦 はた 王 おう 府 ふ 文學 ぶんがく 姚思廉 れん
國子 くにこ 助 じょ 教 きょう 孔 あな 穎達
秦 はた 王 おう 府 ふ 主 おも 簿 ぼ 李 り 玄道 げんどう
天 てん 策 さく 府 ふ 倉 くら 曹李 り 守 まもる 素 もと
秦 はた 王 おう 府 ふ 記 き 室 しつ 虞 おそれ 世 よ 南 みなみ
秦 はた 王 おう 府 ふ 參 さん 軍 ぐん 蔡允恭 きょう
秦 はた 王 おう 府 ふ 參 さん 軍 ぐん 顏 かお 相 しょう 時 じ
宋 そう 州 しゅう 總 そう 管 かん 府 ふ 戶 と 曹許 もと 敬 けい 宗 むね
秦 はた 王 おう 府 ふ 參 さん 軍 ぐん 薛元敬 けい
國子 くにこ 助 じょ 教 きょう 蓋 ぶた 文 ぶん 達 たち
秦 はた 王 おう 府 ふ 咨議典 てん 簽蘇 そ 勖
凌 しのげ 煙 けむり 閣 かく 二 に 十 じゅう 四 よん 功臣 こうしん [ 编辑 ]
司 つかさ 徒 と 、趙 ちょう 國 こく 公 おおやけ 長 ちょう 孫 まご 無 む 忌 き
故 こ 司 つかさ 空 そら 、揚 あげ 州都 しゅうと 督 とく 、河間 こうま 元 もと 王 おう 李 り 孝 たかし 恭 きょう
故 こ 司 つかさ 空 そら 、萊國成 なり 公 こう 杜 もり 如晦
故 こ 司 つかさ 空 そら 、相州 あいしゅう 都 と 督 とく 、太子 たいし 太 ふとし 師 し 、鄭 てい 國文 こくぶん 貞 さだ 公 おおやけ 魏 ぎ 徵 ちょう
司 つかさ 空 そら 、梁 はり 國 こく 公 おおやけ 房 ぼう 玄 げん 齡 よわい
開府 かいふ 儀 ぎ 同 どう 三 さん 司 つかさ 、尚書 しょうしょ 右 みぎ 僕 ぼく 射 しゃ 、申 さる 國 こく 公 おおやけ 高士 こうし 廉 れん
開府 かいふ 儀 ぎ 同 どう 三 さん 司 つかさ 、鄂國公 こう 尉 じょう 遲 おそ 敬 けい 德 とく
特進 とくしん 、衛 まもる 國 こく 公 おおやけ 李 り 靖 やすし
特進 とくしん 、宋 そう 國 こく 公 おおやけ 蕭 しょう 瑀
故 こ 輔國大將軍 だいしょうぐん 、揚 あげ 州都 しゅうと 督 とく 、褒忠壯 たけし 公 おおやけ 段 だん 志 こころざし 玄 げん
輔國大將軍 だいしょうぐん 、夔國公 こう 劉 りゅう 弘 ひろし 基 もと
故 こ 尚書 しょうしょ 左 ひだり 僕 ぼく 射 しゃ 、蔣忠公 こう 屈 こごめ 突通 つきとお
故 こ 陝東道行 みちゆき 台 だい 右 みぎ 僕 ぼく 射 しゃ 、鄖節公 こう 殷 いん 開山 かいさん
故 こ 荊州都 と 督 とく 、譙襄公 こう 柴 しば 紹
故 こ 荊州都 と 督 とく 、邳襄公 こう 長 ちょう 孫 まご 順德 じゅんとく
洛 らく 州都 しゅうと 督 とく 、鄖國公 こう 張 ちょう 亮 あきら
光 ひかり 祿 ろく 大夫 たいふ 、吏部尚書 しょうしょ 、陳 ひね 國 こく 公 おおやけ 侯 ほう 君 くん 集 しゅう
故 こ 左 ひだり 驍衛大將軍 だいしょうぐん 、郯襄公 こう 張 ちょう 公 こう 謹
左 ひだり 領 りょう 軍 ぐん 大將軍 だいしょうぐん 、盧 の 國 こく 公 おおやけ 程 ほど 知 ち 節 ぶし
故 こ 禮 れい 部 ぶ 尚書 しょうしょ 、永興 りょうご 文 ぶん 懿公虞 おそれ 世 よ 南 みなみ
故 こ 戶部 とべ 尚書 しょうしょ 、渝襄公 こう 劉 りゅう 政 まさし 會 かい
光 ひかり 祿 ろく 大夫 たいふ 、戶部 とべ 尚書 しょうしょ 、莒國公 こう 唐 から 儉
光 ひかり 祿 ろく 大夫 たいふ 、兵部 ひょうぶ 尚書 しょうしょ 、英國 えいこく 公 こう 李 り 世 よ 勣
故 こ 徐 じょ 州都 しゅうと 督 とく 、胡 えびす 壯 たけし 公 おおやけ 秦 はた 叔寶
宰相 さいしょう [ 编辑 ]
家庭 かてい [ 编辑 ]
家 いえ 世 よ [ 编辑 ]
唐 から 太 ふとし 宗 そう 李 り 世 よ 民 みん 的 てき 祖先 そせん
家族 かぞく 血統 けっとう [ 编辑 ]
唐 から 皇室 こうしつ 以李 り 耳 みみ 后 きさき 裔自居 きょ 。在 ざい 唐 とう 太 ふと 宗時 むねとき ,曾有和尚 おしょう 法 ほう 琳認 みとめ 為 ため 李 り 唐 から 先祖 せんぞ 為 ため 拓 つぶせ 跋 ばつ 氏 し 之 これ 後 ご ,非 ひ 李 り 耳 みみ 與 あずか 隴西李 り 氏 し 後代 こうだい ,引起唐 から 太 ふとし 宗 そう 不滿 ふまん ,被 ひ 唐 とう 太 ふとし 宗 むね 下 か 狱[40] 。
其先祖 せんぞ 李 り 虎 とら 的 てき 兄弟 きょうだい 名 めい 為 ため 起 おこり 頭 あたま 與 あずか 乞豆 ,非 ひ 漢人 かんど 名字 みょうじ ,馮承鈞 ひとし 认為李 り 唐 から 家族 かぞく 有 ゆう 可能 かのう 出身 しゅっしん 胡 えびす 人 じん [41] 。根據 こんきょ 《新 あたらし 修 おさむ 本草 ほんぞう 》記載 きさい 與 あずか 唐 から 太 ふとし 宗 むね 畫 が 相 しょう ,嚴 いむ 耕 こう 望 もち 推論 すいろん 李 り 世 よ 民 みん 可能 かのう 擁 よう 有 ゆう 胡 えびす 人 じん 血統 けっとう [42] 。陳 ちん 寅 とら 恪 つとむ 認 みとめ 為 ため 李 り 唐 とう 先 さき 世 よ 雖為漢人 かんど ,但 ただし 在 ざい 李 り 虎 とら 之 これ 後 ご ,其家族 かぞく 長期 ちょうき 與 あずか 胡 えびす 人通 ひとどおり 婚 こん ,混 こん 有 ゆう 胡 えびす 族 ぞく 血統 けっとう [43] ,其祖母 はは 與 あずか 其母親 ははおや 皆 みな 出身 しゅっしん 鮮卑,李 り 世 よ 民 みん 本人 ほんにん 擁 よう 有 ゆう 胡 えびす 族 ぞく 血統 けっとう 為 ため 明確 めいかく 事實 じじつ [44] 。( 但 ただし 鮮卑也有 やゆう 不 ふ 少 しょう 漢 かん 族 ぞく 血統 けっとう ,長期 ちょうき 漢 かん 族 ぞく 通 どおり 婚 こん )中華民國 ちゅうかみんこく 學者 がくしゃ 錢 せん 穆 きよし [45] 、薩孟武 たけし [46] 與 あずか 岑仲勉 つとむ 等 とう 人 ひと 皆 みな 有 ゆう 類似 るいじ 意見 いけん [47] 。
劉 りゅう 盼遂[48] 與 あずか 王 おう 桐 きり 齡 よわい [49] 考 こう 據 よりどころ 認 みとめ 為 ため 李 り 世 よ 民家 みんか 族 ぞく 應 おう 為 ため 鮮卑拓 つぶせ 跋 ばつ 氏 し 後裔 こうえい ,這個說法 せっぽう 曾引起 おこり 討論 とうろん [50] [51] 。因 よし 為 ため 唐 とう 朝 あさ 先人 せんじん 曾被賜 たまもの 姓 せい 大野 おおの 氏 し ,台灣 たいわん 學者 がくしゃ 劉 りゅう 學 まなぶ 銚[52] 與 あずか 中国 ちゅうごく 学者 がくしゃ 苏日巴 ともえ 达拉哈,則 のり 主張 しゅちょう 李 り 唐 から 家族 かぞく 先祖 せんぞ 應 おう 出自 しゅつじ 高 こう 車 しゃ [53] 。
妻妾 さいしょう [ 编辑 ]
由 よし 于史料 りょう 缺 かけ 失 しつ ,列 れつ 出 で 的 てき 后 きさき 宫、姬 ひめ 妾 わらわ 诸人可能 かのう 有 ゆう 重 じゅう 复。
皇后 こうごう [ 编辑 ]
貴 き 妃 ひ 韋珪 [j] :表 おもて 字 じ 泽。北 きた 周 あまね 太 ふとし 傅 でん 韦孝宽 曾孫 そうそん 女 おんな ,韦圆成 なり 女 おんな 。生 なま 紀 き 王 おう 李 り 慎 まこと 、臨川 りんせん 公主 こうしゅ 李 り 孟 はじめ 姜 きょう 。尊 みこと 封 ふう 纪国太 たい 妃 ひ 。生 なま 於公元 もと 597年 ねん ,薨於公 こう 元 もと 665年 ねん ,享年 きょうねん 69歲 さい 。陪葬昭 あきら 陵 りょう 。与 あずか 前夫 ぜんふ 李 り 孝 たかし 珉有 ゆう 一 いち 女 じょ ,太 ふとし 宗 そう 封 ふう 定 てい 襄 じょう 县主 。性情 せいじょう 簡素 かんそ ,矜持 きょうじ 端 はし 莊 そう ,頗有文 ぶん 采 さい 。
杨贵妃 ひ [k] :生 なま 趙 ちょう 王 おう 李 り 福 ぶく ,封 ふう 赵国太 たい 妃 ひ 。生 せい 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう 。陪葬昭 あきら 陵 りょう 。
楊妃 [l] :隋 ずい 炀帝女 おんな ,生 なま 吳 くれ 王 おう 李 り 恪 つとむ 、蜀 しょく 悼王李 り 愔 ,生 なま 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう 。墓 はか 葬 そう 不明 ふめい 。
阴妃 :阴世师 之 これ 女 おんな 。生 なま 齊 ひとし 王 おう 李 り 祐 ゆう 。生 せい 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう 。墓 はか 葬 そう 不明 ふめい ,疑 うたぐ 為 ため 昭 あきら 陵 りょう 陰 かげ 嬪墓。
燕 つばめ 德 いさお 妃 ひ [m] :燕 つばめ 宝 たから 寿 ひさし 女 おんな ,隋 ずい 观王杨雄 外 そと 孙女。先 さき 封 ふう 賢 けん 妃 ひ ,後 ご 遷德妃 ひ 。生越 おごせ 敬 たかし 王 おう 李 り 貞 さだ 、江 こう 殤王李 り 囂 。封 ふう 越 えつ 国 こく 太 たい 妃 ひ 。生 なま 於隋大業 おおわざ 五 ご 年 ねん (公 おおやけ 元 もと 609年 ねん ),咸亨二 に 年 ねん (公 おおやけ 元 もと 671年 ねん ),享年 きょうねん 63歲 さい 。陪葬昭 あきら 陵 りょう 。武 たけ 则天之 の 表 おもて 姐 あね 。泰山 たいざん 封 ふう 禪 ぜん ,燕 つばめ 太 ふとし 妃 ひ 任 にん 终献。
鄭 てい 賢 けん 妃 ひ [n] :生 なま 卒 そつ 年 ねん 不祥 ふしょう 。仅《唐 とう 會 かい 要 よう 》記載 きさい 陪葬昭 あきら 陵 りょう ,目前 もくぜん 尚 ひさし 無 む 發現 はつげん 其墓葬 そう 。
賢 けん 妃 ひ 徐 じょ 惠 めぐみ [o] :徐 じょ 孝德 たかのり 女 おんな 。生 なま 於武德 ぶとく 八 はち 年 ねん (公 おおやけ 元 もと 626年 ねん ),由 ゆかり 才人 さいじん 累 るい 进至二 に 品 ひん 充 たかし 容 よう 。薨於永 なが 徽元年 ねん (公 おおやけ 元 もと 650年 ねん ),享年 きょうねん 24歲 さい 。贈 おく 賢 けん 妃 ひ ,陪葬昭 あきら 陵 りょう 石室 いしむろ 。
昭 あきら 儀 ぎ 某氏 ぼうし :生 なま 於隋仁 じん 壽 ことぶき 元年 がんねん (公 おおやけ 元 もと 601年 ねん ),薨於永 えい 淳 あつし 元年 がんねん 八 はち 月 がつ 二 に 十 じゅう 四 よん 日 にち (公 おおやけ 元 もと 682年 ねん ),享年 きょうねん 81歲 さい ,十 じゅう 月 がつ 十 じゅう 一 いち 日 にち 陪葬昭 あきら 陵 りょう 。現有 げんゆう 昭 あきら 陵墓 りょうぼ 誌 し 一方 いっぽう 。
昭 あきら 容 よう 韋尼子 こ :韦孝宽 曾孫 そうそん 女 おんな ,韦匡伯 はく 長女 ちょうじょ ,韦贵妃 ひ 堂 どう 妹 いもうと 。生 なま 於隋大業 おおわざ 三 さん 年 ねん (公 おおやけ 元 もと 607年 ねん ),薨於顯 あらわ 慶 けい 元年 がんねん 九月八日長安崇聖宮,享年 きょうねん 50歲 さい ,十 じゅう 月 がつ 十 じゅう 八 はち 日 にち 陪葬昭 あきら 陵 りょう 。前夫 ぜんふ 王 おう 玄 げん 应 。現有 げんゆう 昭 あきら 陵墓 りょうぼ 誌 し 一方 いっぽう 。
下 しも 嫔某氏 し :豫 よ 章 あきら 公主 こうしゅ 母 はは 。
世 よ 婦 ふ [ 编辑 ]
婕妤 某氏 ぼうし :生年 せいねん 不 ふ 詳 しょう ,麟德二 に 年 ねん 卒 そつ ,陪葬昭 あきら 陵 りょう ,墓 はか 志 こころざし 《大 だい 唐 とう 故 こ 婕妤三品亡尼墓志铭並序》。
楊婕妤 :楊恭道 どう 第 だい 三 さん 女 じょ ,生 なま 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう ,墓 はか 葬 そう 不明 ふめい 。
萧美人 じん :蕭 しょう 鑠第二 に 女 じょ ,生 なま 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう ,墓 はか 葬 そう 不明 ふめい 。
崔 ちぇ 才人 さいじん :崔 ちぇ 宏道 ひろみち 長女 ちょうじょ ,生 なま 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう ,墓 はか 葬 そう 不明 ふめい 。
萧才人 じん :蕭 しょう 鏗第二 に 女 じょ ,生 なま 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう ,墓 はか 葬 そう 不明 ふめい 。
武 たけ 才人 さいじん (後來 こうらい 的 てき 武則 たけのり 天 てん ):即 そく 唐 とう 高 だか 宗 むね 则天皇后 こうごう 武 たけ 曌。武士 ぶし 彠女 おんな 。貞 さだ 觀 かん 時 じ 五 ご 品 ひん 才人 さいじん ,後 ご 入 いれ 感 かん 業 ぎょう 寺 てら 。再 さい 入 いれ 宮 みや 為 ため 高 だか 宗 むね 二 に 品 ひん 昭 あきら 儀 ぎ ,進 しん 封 ふう 為 ため 皇后 こうごう ,再 さい 後 ご 稱 しょう 帝 みかど 。
其他妾 わらわ 室 しつ [ 编辑 ]
女官 にょかん 、宫人[ 编辑 ]
三 さん 品 ひん 亡 ほろび 宮 みや 周 あまね 氏 し :三品 みしな 宮人 みやびと ,生 なま 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう ,陪葬昭 あきら 陵 りょう 。
三 さん 品 ひん 亡 ほろび 宮 みや 金 きん 氏 し :武德 ぶとく 八 はち 年 ねん (625年 ねん )出生 しゅっしょう ,垂 たれ 拱四 よん 年 ねん (688年 ねん )十 じゅう 一 いち 月 がつ 二 に 十 じゅう 六 ろく 日 にち 卒 そつ ,年 ねん 六 ろく 十 じゅう 四 よん 岁,永昌 えいしょう 元年 がんねん (689年 ねん )正月 しょうがつ 十 じゅう 三 さん 日 にち 陪葬昭 あきら 陵 りょう ,墓 はか 志 こころざし 《大 だい 唐 とう 故 こ 亡 ほろび 宫三 さん 品 ひん 尼 あま 金 きん 氏 し 之 の 柩 ひつぎ 》
亡 ほろび 宮 みや 五 ご 品 ひん :五 ご 品 ひん 宮人 みやびと ,姓名 せいめい 不 ふ 詳 しょう ,生年 せいねん 不 ふ 詳 しょう ,薨於顯 あらわ 慶 けい 二 に 年 ねん (657年 ねん )閏 うるう 正月 しょうがつ 二 に 十 じゅう 六 ろく 昭 あきら 陵 りょう 宮 みや ,二 に 月 がつ 十 じゅう 四 よん 日 にち 陪葬昭 あきら 陵 りょう 。現有 げんゆう 昭 あきら 陵墓 りょうぼ 誌 し 一方 いっぽう 。
三 さん 品 ひん 亡 ほろび 尼 あま :三品 みしな 宮人 みやびと ,姓名 せいめい 不 ふ 詳 しょう ,後 ご 出家 しゅっけ 為 ため 尼 あま ,生 なま 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう ,陪葬昭 あきら 陵 りょう 。
七 なな 品 ひん 典 てん 燈 とう :生 なま 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう ,姓名 せいめい 不 ふ 詳 しょう ,陪葬昭 あきら 陵 りょう 。
唐 から 太 ふとし 宗 むね 共有 きょうゆう 14位 い 兒 じ 子 こ [54] :
李 り 承 うけたまわ 乾 いぬい [q] :母 はは 長 ちょう 孫 まご 皇后 こうごう 。生 なま 於武德 ぶとく 元年 がんねん (公 おおやけ 元 もと 618年 ねん ),卒 そつ 於貞觀 かん 十 じゅう 九 きゅう 年 ねん (公 おおやけ 元 もと 645年 ねん ),年 ねん 28歲 さい 。陪葬昭 あきら 陵 りょう 。常山 つねやま 郡 ぐん 王 おう →中山 ちゅうざん 郡 ぐん 王 おう →皇太子 こうたいし →廢 はい 太子 たいし →贈 おく 恆 つね 山 やま 愍王
李 り 寬 ひろし [r] :母 はは 不 ふ 詳 しょう ,早 さ 薨 。生 せい 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう 。嗣楚王 おう →贈 おく 楚 すわえ 王 おう
李 り 恪 つとむ [s] :母 はは 隋 ずい 煬帝女 おんな 楊妃。生 なま 於武德 ぶとく 二 に 年 ねん (公 おおやけ 元 もと 619年 ねん ),薨於永 なが 徽四 よん 年 ねん 二 に 月 がつ (公 おおやけ 元 もと 653年 ねん ),享年 きょうねん 34歲 さい 。贈 おく 司 つかさ 空 そら ,墓 はか 葬 そう 不 ふ 詳 しょう 。長 ちょう 沙 すな 郡 ぐん 王 おう →漢 かん 王 おう →蜀 しょく 王 おう →吳 くれ 王 おう →廢 はい 為 ため 庶人→贈 おく 鬱 うつ 林 はやし 郡 ぐん 王 おう →吳 くれ 王 おう
李 り 泰 やすし [t] :母 はは 長 ちょう 孫 まご 皇后 こうごう 。生 なま 於武德 ぶとく 三 さん 年 ねん (公 おおやけ 元 もと 620年 ねん ),永 えい 徽三 さん 年 ねん (公 おおやけ 元 もと 652年 ねん )薨於鄖鄉縣 けん ,時 じ 年 ねん 33歲 さい 。贈 おく 太 ふと 尉 じょう 、雍州牧 まき ,葬 そう 於薨地 ち 。宜 むべ 都 と 郡 ぐん 王 おう →衛 まもる 王 おう →越 えつ 王 おう →魏 ぎ 王 おう →東 ひがし 來 らい 郡 ぐん 王 おう →順 じゅん 陽 ひ 郡 ぐん 王 おう →濮恭王 おう
李 り 祐 ゆう [u] :母 はは 陰 かげ 妃 ひ ,生年 せいねん 不 ふ 詳 しょう ,卒 そつ 於貞觀 かん 十 じゅう 七 なな 年 ねん (公 おおやけ 元 もと 645年 ねん )。墓 はか 葬 そう 不 ふ 詳 しょう 。宜 むべ 陽 ひ 郡 ぐん 王 おう →楚 すわえ 王 おう →燕 つばめ 王 おう →齊 ひとし 王 おう →廢 はい 為 ため 庶人
李 り 愔[v] :母 はは 隋 ずい 煬帝女 おんな 楊妃。生年 せいねん 不 ふ 詳 しょう ,乾 いぬい 封 ふう 二 に 年 ねん (667年 ねん )卒 そつ 於流配 はい 地 ち 巴 ともえ 州 しゅう 。贈 おく 益 えき 州 しゅう 大 だい 都 と 督 とく ,陪葬昭 あきら 陵 りょう 。梁 はり 王 おう →蜀 しょく 王 おう →貶為庶人→涪陵郡 ぐん 王 おう →蜀 しょく 悼王
李 り 惲 :母 はは 王 おう 氏 し ,生年 せいねん 不 ふ 詳 しょう ,薨上元年 がんねん 間 あいだ 。贈 おく 司 つかさ 空 そら 、荊州大 だい 都 と 督 とく ,陪葬昭 あきら 陵 りょう 。郯王→蔣王
李 り 貞 さだ [w] :母 はは 燕 つばめ 德 いさお 妃 ひ 。生 なま 於武德 ぶとく 八 はち 年 ねん (公 おおやけ 元 もと 626年 ねん ),薨於垂 たれ 拱三 さん 年 ねん (公 おおやけ 元 もと 688年 ねん ),享年 きょうねん 62歲 さい 。陪葬昭 あきら 陵 りょう 。漢 かん 王 おう →原 はら 王 おう →越 こし 敬 たかし 王 おう
李 り 治 おさむ [x] :母 はは 長 ちょう 孫 まご 皇后 こうごう 。晉 すすむ 王 おう →皇太子 こうたいし →唐 とう 高 だか 宗 むね
李 り 慎 まこと [y] :母 はは 韋貴妃 ひ ,生年 せいねん 不 ふ 詳 しょう ,薨於永昌 えいしょう 元年 がんねん (公 おおやけ 元 もと 689年 ねん )。陪葬昭 あきら 陵 りょう 。申 さる 王 おう →紀 き 王 おう
李 り 囂 :母 はは 燕 つばめ 德 いさお 妃 ひ ,早 さ 薨 。生年 せいねん 不 ふ 詳 しょう ,卒 そつ 於貞觀 かん 六 ろく 年 ねん 正月 しょうがつ (公 おおやけ 元 もと 633年 ねん )。江 こう 殤王
李 り 簡 :母 はは 不 ふ 詳 しょう ,早 さ 薨 。生年 せいねん 不 ふ 詳 しょう ,卒 そつ 於貞觀 かん 五 ご 年 ねん 四 よん 月 がつ (公 おおやけ 元 もと 632年 ねん )。代 だい 王 おう
李 り 福 ぶく [z] :母 はは 楊貴妃 ようきひ 。生 なま 於貞觀 かん 八 はち 年 ねん (公 おおやけ 元 もと 635年 ねん ),薨於咸亨元年 がんねん (公 おおやけ 元 もと 670年 ねん ),贈 おく 司 つかさ 空 そら 、并州都 と 督 とく ,陪葬昭 あきら 陵 りょう 。趙 ちょう 王 おう
李 り 明 あきら [aa] :母 はは 李 り 元吉 もとよし 妻 つま 巢 す 剌王妃 ひ 楊氏。生 せい 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう 。陪葬昭 あきら 陵 りょう 。曹恭王 おう
女 おんな [ 编辑 ]
《新 しん 唐 から 书》[55] 记唐太 ふと 宗 そう 共有 きょうゆう 21位 い 女兒 じょじ ,出生 しゅっしょう 顺序见于个人记载:
襄 じょう 城 じょう 公主 こうしゅ [ab] ,长女:母 はは 不明 ふめい ,下 しも 嫁 よめ 蕭 しょう 銳 するど 。生年 せいねん 不 ふ 詳 しょう 。陪葬昭 あきら 陵 りょう 。
汝 なんじ 南 みなみ 公主 こうしゅ :第 だい 三 さん 女 じょ [56] ,母 はは 不明 ふめい ,早 はや 薨。生 せい 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう 。墓 はか 葬 そう 不 ふ 詳 しょう 。
南平 みなみだいら 公主 こうしゅ :母 はは 不明 ふめい ,下 しも 嫁 よめ 王 おう 敬 たかし 直 ただし ,以累斥嶺南 みなみ ,更 さら 嫁 よめ 劉 りゅう 玄 げん 意 い 。生 せい 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう 。陪葬昭 あきら 陵 りょう 。
遂 とげ 安 やす 公主 こうしゅ :母 はは 不明 ふめい ,下 しも 嫁 よめ 竇逵 ,逵死,又 また 嫁 よめ 王 おう 大禮 たいれい 。生 せい 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう 。陪葬昭 あきら 陵 りょう 。
長樂 ながら 公主 こうしゅ [ac] 李 り 麗質 れいしつ ,第 だい 五 ご 女 じょ :母 はは 長 ちょう 孫 まご 皇后 こうごう ,下 しも 嫁 よめ 長 ちょう 孫 まご 沖 おき 。生 なま 於武德 ぶとく 四 よん 年 ねん (公 おおやけ 元 もと 621年 ねん ),薨於貞 さだ 觀 かん 十 じゅう 七 なな 年 ねん (公 おおやけ 元 もと 643年 ねん )八 はち 月 がつ 十 じゅう 日 にち ,享年 きょうねん 23歲 さい 。陪葬昭 あきら 陵 りょう 。
豫 よ 章 あきら 公主 こうしゅ [ad] :母 はは 宮中 きゅうちゅう 下 か 嬪,下 しも 嫁 よめ 唐 から 義 ぎ 識 。生 せい 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう 。陪葬昭 あきら 陵 りょう 。
巴 ともえ 陵 りょう 公主 こうしゅ [ae] :母 はは 不明 ふめい ,下 しも 嫁 よめ 柴 しば 令 れい 武 たけし ,生年 せいねん 不 ふ 詳 しょう ,薨於永 なが 徽四 よん 年 ねん 二 に 月 がつ 。墓 はか 葬 そう 不 ふ 詳 しょう 。
普 ふ 安 やす 公主 こうしゅ :母 はは 不明 ふめい ,下 しも 嫁 よめ 史 ふみ 仁 じん 表 ひょう ,生 なま 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう ,陪葬昭 あきら 陵 りょう 。
東陽 とうよう 公主 こうしゅ :母 はは 不明 ふめい ,下 しも 嫁 よめ 高 こう 履行 りこう ,生 なま 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう ,陪葬昭 あきら 陵 りょう 。
臨川 りんせん 公主 こうしゅ [af] ,第 だい 十 じゅう 一 いち 或 ある 第 だい 十 じゅう 二 に 女 じょ :表 おもて 字 じ 「孟 はじめ 姜 きょう 」,母 はは 韋貴妃 ひ ,下 しも 嫁 よめ 周 しゅう 道 どう 務 つとむ 。生 なま 於武德 ぶとく 七 なな 年 ねん (公 おおやけ 元 もと 624年 ねん ),卒 そつ 於永淳 じゅん 初年 しょねん (公 おおやけ 元 もと 682年 ねん ),享年 きょうねん 58歲 さい 。陪葬昭 あきら 陵 りょう 。
清河 きよかわ 公主 こうしゅ [ag] :名 めい 「敬 たかし 」,表 おもて 字 じ 「德 とく 賢 けん 」,母 はは 不明 ふめい ,下 しも 嫁 よめ 程 ほど 懷 ふところ 亮 あきら 。生 なま 於武德 ぶとく 七 なな 年 ねん (公 おおやけ 元 もと 624年 ねん ),卒 そつ 於麟德 とく 元年 がんねん (公 おおやけ 元 もと 664年 ねん ),享年 きょうねん 41歲 さい 。陪葬昭 あきら 陵 りょう 。
蘭 らん 陵 りょう 公主 こうしゅ [ah] ,第 だい 十 じゅう 九 きゅう 女 じょ :名 めい 「淑 よし 」,表 おもて 字 じ 「麗 うらら 貞 さだ 」,母 はは 不明 ふめい ,下 しも 嫁 よめ 竇懷悊 。生年 せいねん 不 ふ 詳 しょう ,病 やまい 逝於唐 とう 高 だか 宗 むね 顯 あらわ 慶 けい 三 さん 年 ねん (公 おおやけ 元 もと 658年 ねん )八 はち 月 がつ 。陪葬昭 あきら 陵 りょう 。
晉 すすむ 安 やす 公主 こうしゅ :母 はは 不明 ふめい ,下 しも 嫁 よめ 韋思安 やす ,又 また 嫁 よめ 楊仁輅 ,生 なま 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう 。陪葬昭 あきら 陵 りょう 。
安康 あんこう 公主 こうしゅ :母 はは 不明 ふめい ,下 しも 嫁 よめ 獨 どく 孤 こ 謀 はかりごと 。生 せい 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう 。陪葬昭 あきら 陵 りょう 。
新興 しんこう 公主 こうしゅ :母 はは 不明 ふめい ,下 しも 嫁 よめ 長 ちょう 孫 まご 曦 。生 せい 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう 。陪葬昭 あきら 陵 りょう 。
城陽 じょうよう 公主 こうしゅ [ai] :母 はは 長 ちょう 孫 まご 皇后 こうごう ,下 しも 嫁 よめ 杜 もり 荷 に ,又 また 嫁 よめ 薛瓘 。生 せい 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう 。陪葬昭 あきら 陵 りょう 。
高 こう 阳公主 ぬし [aj] :母 はは 不明 ふめい ,下 しも 嫁 よめ 房 ぼう 遺愛 いあい 。生年 せいねん 不 ふ 詳 しょう ,薨於永 なが 徽四 よん 年 ねん 二 に 月 がつ 。墓 はか 葬 そう 不 ふ 詳 しょう 。
金山 かなやま 公主 こうしゅ :母 はは 不明 ふめい ,早 はや 薨。生 せい 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう 。墓 はか 葬 そう 不 ふ 詳 しょう 。
晉 すすむ 陽 ひ 公主 こうしゅ [ak] :表 おもて 字 じ 「明達 めいたつ 」,母 はは 長 ちょう 孫 まご 皇后 こうごう ,未 み 及下嫁 よめ 。生 せい 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう ,薨年十 じゅう 二 に 。墓 はか 葬 そう 不 ふ 詳 しょう 。
常山 つねやま 公主 こうしゅ :母 はは 不明 ふめい ,生 なま 卒 そつ 年 ねん 不 ふ 詳 しょう 。沒 ぼつ 有 ゆう 下 か 嫁 よめ 。墓 はか 葬 そう 不 ふ 詳 しょう 。
新城 しんじょう 公主 こうしゅ [al] :母 はは 長 ちょう 孫 まご 皇后 こうごう ,初 はつ 嫁 よめ 長 ちょう 孫 まご 詮 かい ,後 こう 嫁 よめ 韋正矩 のり 。生年 せいねん 不 ふ 詳 しょう ,薨於龍 りゅう 朔 ついたち 三 さん 年 ねん 。陪葬昭 あきら 陵 りょう 。
繼 つぎ 女 おんな [ 编辑 ]
定 てい 襄 じょう 縣 けん 主 ぬし 李 り 氏 し ,韋貴妃 ひ 與 あずか 前夫 ぜんふ 李 り 孝 たかし 珉所生 しょせい 之 の 女 おんな ,嫁 よめ 阿 おもね 史 し 那 な 忠 ただし 。
相 あい 关文艺作品 さくひん [ 编辑 ]
小 しょう 说[ 编辑 ]
影 かげ 视作品 さくひん [ 编辑 ]
電子 でんし 遊戲 ゆうぎ [ 编辑 ]
注釋 ちゅうしゃく [ 编辑 ]
^ 1.0 1.1 其同母 はは 弟 おとうと 李 り 玄 げん 霸 于599年生 ねんせい ,故 こ 李 り 世 よ 民生 みんせい 于598年 ねん 比 ひ 他 た 长一岁。
^ 2.0 2.1 (据 すえ 《新 しん 唐 から 书 》记载,李 り 世 よ 民 みん 卒 そつ 於貞觀 かん 二 に 十 じゅう 三 さん 年 ねん 五 ご 月 がつ 廿 にじゅう 六 ろく 己 おのれ 巳 み 日 び (公 おおやけ 元 もと 649年 ねん 7月 がつ 10日 とおか ),年 ねん 五 ご 十 じゅう 三 さん 歲 さい ,应生于開 ひらき 皇 すめらぎ 十 じゅう 七 なな 年 ねん 十二月 じゅうにがつ 即 そく 598年 ねん 1月 がつ 份)
^ 3.0 3.1 「隋 ずい 開 ひらき 皇 すめらぎ 十 じゅう 八 はち 年 ねん 十二月 じゅうにがつ 戊 つちのえ 午 うま ,生 なま 於武功 こう 之 の 別館 べっかん 。」(劉 りゅう 昫 《舊 きゅう 唐 とう 書 しょ ·卷 まき 二 に :本紀 ほんぎ 第 だい 二 に 》),換算 かんさん 為 ため 公 おおやけ 曆 れき 即 そく 599年 ねん 1月 がつ 23日 にち
^ 「二 に 十 じゅう 三 さん 年 ねん ……五月 ごがつ ……己 おのれ 巳 み ,皇帝 こうてい 崩 くずし 於含風 ふう 殿 どの 」(歐 おう 陽 ひ 修 おさむ 《新 しん 唐 とう 書 しょ ·卷 まき 二 に :本紀 ほんぎ 第 だい 二 に 》),換算 かんさん 為 ため 公 おおやけ 曆 れき 即 そく 7月 がつ 10日 とおか [1] (页面存 そん 档备份 ,存 そん 于互联网档案 あん 馆 ) 。
^ 荆州 都 と 督 とく 荆王李 り 元 もと 景 けい 、梁 やな 州 しゅう 都 と 督 とく 汉王李元 りげん 昌 あきら 、徐 じょ 州 しゅう 都 みやこ 督 ただし 徐 じょ 王 おう 李 り 元 もと 礼 れい 、潞州 都 と 督 とく 韩王李元 りげん 嘉 よしみ 、遂 とげ 州 しゅう 都 と 督 とく 彭王李 り 元 もと 则、郑州 刺史 しし 郑王李 り 元 もと 懿、绛州 刺史 しし 霍王李 り 元 もと 轨、虢州 刺史 しし 虢王李 り 凤、豫 よ 州 しゅう 刺史 しし 道 どう 王 おう 李 り 元 もと 庆、邓州 刺史 しし 邓王李元 りげん 裕 ひろし 、寿 ことぶき 州 しゅう 刺史 しし 舒王李元 りげん 名 めい 、幽 かそけ 州 しゅう 都 みやこ 督 ただし 燕 つばめ 王 おう 李 り 灵夔、苏州 刺史 しし 许王李元 りげん 祥 さち 、安 やす 州 しゅう 都 と 督 とく 吴王李 り 恪 つとむ 、相州 あいしゅう 都 みやこ 督 ただし 魏 ぎ 王 おう 李 り 泰 やすし 、齐州 都 と 督 とく 齐王李 り 祐 ゆう 、益 えき 州 しゅう 都 みやこ 督 ただし 蜀 しょく 王 おう 李 り 愔、襄 じょう 州 しゅう 刺史 しし 蒋王李 り 惲、扬州 都 みやこ 督 ただし 越 えつ 王 おう 李 り 贞、并州 都 みやこ 督 ただし 晋 すすむ 王 おう 李 り 治 おさむ 、秦 しん 州 しゅう 都 と 督 とく 纪王李 り 慎 まこと 、赵州 刺史 しし 赵国公 こう 长孙无忌、宋 そう 州 しゅう 刺史 しし 梁 はり 国 こく 公房 こうぼう 玄 げん 龄、密 みつ 州 しゅう 刺史 しし 莱国公 こう 杜 もり 如晦、濮州 刺史 しし 卫国公 こう 李 り 靖 やすし 、申 さる 州 しゅう 刺史 しし 申 さる 国 こく 公 おおやけ 高士 こうし 廉 れん 、陳 ひね 州 しゅう 刺史 しし 陈国公 おおやけ 侯 こう 君 くん 集 しゅう 、鄂州 刺史 しし 江夏 えなつ 郡 ぐん 王 おう 李 り 道 みち 宗 そう 、观州 刺史 しし 河 かわ 间郡王 おう 李 り 孝 たかし 恭 きょう 、宣 せん 州 しゅう 刺史 しし 鄂国公 こう 尉 じょう 迟敬德 とく 、蕲州 刺史 しし 英国 えいこく 公 こう 李 り 世 よ 勣、金 きむ 州 しゅう 刺史 しし 褒国公 こう 段 だん 志 こころざし 玄 げん 、普 ひろし 州 しゅう 刺史 しし 卢国公 こう 程 ほど 知 ち 节、朗 ろう 州 しゅう 刺史 しし 夔国公 こう 刘弘基 もと 、澧州 刺史 しし 郧国公 こう 张亮
^ 繁 しげる :「吐谷渾 」,简 :「吐谷浑 」,拼音 :Tǔyùhún ,注 ちゅう 音 おと :ㄊㄨˇㄩˋㄏㄨㄣˊ ,音 おと 同 どう 「土 ど 育 そだて 魂 たましい 」 。
^ 繁 しげる :「龜 かめ 茲 」,简 :「龟兹 」,拼音 :Qiūcí ,注 ちゅう 音 おと :ㄑㄧㄡㄘˊ ,音 おと 同 どう 「丘 おか 辞 じ 」 。
^ 8.0 8.1 8.2 太 ふとし 宗 むね 東征 とうせい 高句麗 こうくり 期間 きかん ,在 ざい 定 じょう 州 しゅう 輔助太子 たいし 的 てき 臨時 りんじ 宰相 さいしょう 。
^ 長 ちょう 孫 まご 皇后 こうごう :中國 ちゅうごく 歷史 れきし 上 じょう 最 さい 偉大 いだい 的 てき 皇后 こうごう 之 の 一 いち ,當代 とうだい 歷史 れきし 學 がく 家 か 評論 ひょうろん 最 さい 知性 ちせい 的 てき 皇后 こうごう 。唐 から 太 ふとし 宗 そう 李 り 世 よ 民 みん 一生 いっしょう 的 てき 摯愛。與 あずか 貞 さだ 觀 かん 群臣 ぐんしん 一起輔佐太宗成就了貞觀之治。她的賢 けん 德 とく 為 ため 後 ご 人稱 にんしょう 道 どう 的 てき 重要 じゅうよう 原因 げんいん 是 ぜ 她能及時化 か 解 ほどけ 太 ぶと 宗 むね 的 てき 怒氣 どき 保護 ほご 著 ちょ 貞 さだ 觀 かん 群臣 ぐんしん 們【其中最 さい 著名 ちょめい 的 てき 事件 じけん 為 ため 主 ぬし 明 あきら 臣 しん 直 ただし :《舊 きゅう 唐 とう 書 しょ 》后妃 こうひ 傳 でん 下 か 贊 さん 曰:坤 ひつじさる 德 とく 既 すんで 軌,彤管有 ゆう 煒。韋、武 たけ 喪 も 邦 くに ,毒 どく 侔蛇虺。陰 かげ 教 きょう 斯僻,嬪風浸 ひた 毀。賢哉 けんや 長 ちょう 孫 まご ,母 はは 儀 ぎ 何 なん 偉 えら 。(宋 そう )范祖禹評:唐 から 太 ふとし 宗 そう 嘗罷朝 あさ ,怒 いか 曰:「會 かい 須殺此田舍 いなか 翁 おきな !」時文 じぶん 德 とく 皇后 こうごう 謂 いい 帝 みかど 曰:「誰 だれ 觸 さわ 忤陛下 か ?」帝 みかど 曰:「魏 ぎ 徵 ちょう 每 ごと 廷辱我 が 。」后 きさき 退 すさ ,具 ぐ 朝 あさ 服 ふく 立 りつ 於廷。帝 みかど 大 だい 驚 おどろき 曰:「皇后 こうごう 何 なん 為 ため 若 わか 是 ぜ ?」後 ご 曰:「妾 わらわ 聞主明 あかり 臣 しん 直 じき 。今 こん 魏 ぎ 徵 ちょう 直 じき 。由 よし 陛下 へいか 之 の 明 あきら 故 こ 也!妾 わらわ 敢不賀 が ?」帝 みかど 乃悅。臣 しん 祖 そ 禹曰:詩人 しじん 美 び 后妃 こうひ ,輔佐 ほさ 君子 くんし 、求 もとめ 賢 けん 審 しん 官 かん ,國家 こっか 將 はた 興 きょう ,必有淑 よし 哲之 てつゆき 配 はい ,儆戒以成君子 くんし 之 の 德 とく 。若 わか 長 ちょう 孫 まご 皇后 こうごう 感 かん 悟 さとる 太 ふとし 宗 そう ,其可謂 いい 賢 けん 矣。(宋 そう )真 ま 德 とく 秀 しゅう 評 ひょう :文 ぶん 德長 とくなが 孫 まご 後 ご 之 の 賢 けん ,其行事 ぎょうじ 皆 みな 可 か 為 ため 後世 こうせい 法 ほう 。方 ほう 太 ふとし 宗之 むねゆき 怒 いか 魏 ぎ 徵 ちょう 也,非 ひ 後 ご 從容 しょうよう 開 ひらき 捄,則 のり 徵 ちょう 不 ふ 得 とく 免 めん 矣!其為君德 くんとく 之 の 累 るい 可 か 勝 かち 計 けい 耶?一言而全直臣於將死之際,立 たて 太 ふとし 宗 そう 於無過 か 之 これ 地 ち ,雖古之 の 賢 けん 後 ご 何 なん 以逾此?吁可仰 おおせ 哉!吁可仰 おおせ 哉!】。皇后 こうごう 去 さ 世 よ 後 ご ,太 ふとし 宗 そう 哀傷 あいしょう 不 ふ 已 やめ ,建 けん 層 そう 觀 かん 遠 どお 眺 ながめ 昭 あきら 陵 りょう 【「望 もち 陵 りょう 毀觀」此事記載 きさい 於正史 し 《新 しん 唐 とう 書 しょ 》魏 ぎ 征 せい 傳 でん 與 あずか 《資 し 治 ち 通 どおり 鑒》:太 ふとし 宗 むね 葬 そう 文德 ふみのり 皇后 こうごう 於昭陵 りょう ,上 うえ 念 ねん 後 ご 不 ふ 已 やめ ,乃於苑 えん 中 ちゅう 作 さく 層 そう 觀 かん ,以望昭 あきら 陵 りょう 。嘗引魏 ぎ 征 せい 同 どう 登 とう ,使 つかい 視 し 之 の ,征 せい 熟視 じゅくし 之 の 曰:「臣 しん 昏毛,不 ふ 能見 のみ 。」上 じょう 指示 しじ 之 の ,征 せい 曰:「以為陛下 へいか 望 もち 獻 けんじ 陵 りょう ,若 わか 昭 あきら 陵 りょう ,則 のり 臣 しん 故 こ 見 み 之 の 矣。」上 じょう 泣,為之 ためゆき 毀觀】。並 なみ 親 おや 自 じ 撫養 むや 皇后 こうごう 留 とめ 下 か 的 てき 幼子 おさなご 幼女 ようじょ 晉 すすむ 王 おう 李 り 治 おさむ 和 かず 晉 すすむ 陽 ひ 公主 こうしゅ 【此事在 ざい 多 た 部 ぶ 正史 せいし 裡 うら 均 ひとし 有 ゆう 記載 きさい ,如《新 しん 、舊 きゅう 唐 とう 書 しょ ·晉 すすむ 陽 ひ 公主 こうしゅ 傳 でん 》與 あずか 《冊 さつ 府 ふ 元 もと 龜 かめ 》等 とう 】。太 ふとし 宗 そう 崩 くずし ,與 あずか 皇后 こうごう 同 どう 穴 あな 合 ごう 葬 そう 昭 あきら 陵 りょう 【「合 ごう 葬 そう 昭 あきら 陵 りょう 」記載 きさい 於《唐 とう 會 かい 要 よう 》卷 まき 二 に 十 じゅう :至 いたり 二 に 十 じゅう 三 さん 年 ねん 八 はち 月 がつ 十 じゅう 八 はち 日 にち 。山陵 さんりょう 畢。陵 りょう 在 ざい 醴泉縣 けん 。因 よし 九 きゅう 嵕層峰 ほう 。鑿山南面 なんめん 。深 ふか 七 なな 十 じゅう 五 ご 丈 たけ 。為 ため 元宮 もとみや 。緣 えん 山 やま 傍 はた 巖 いわお 。架 か 樑為棧道 さんどう 。懸絕 けんぜつ 百 ひゃく 仞。繞 にょう 山 やま 二 に 百 ひゃく 三 さん 十 じゅう 步 ほ 。始 はじめ 達 たち 元 もと 宮門 きゅうもん 。頂上 ちょうじょう 亦 また 起 おこり 游 ゆう 殿 どの 。文德 ふみのり 皇后 こうごう 即 そく 元宮 もとみや 後 ご 。有 ゆう 五 ご 重 じゅう 石門 せきもん 。其門外 がい 於雙棧道 さんどう 上起 かみおこし 捨。宮人 みやびと 供養 くよう 如平常 へいじょう 。及太宗 むね 山陵 さんりょう 畢。宮人 みやびと 欲 ほし 依 よ 故事 こじ 留 とめ 棧道 さんどう 。惟 おもんみ 舊 きゅう 山陵 さんりょう 使 し 閻立德 とく 奏 そう 曰。元宮 もとみや 棧道 さんどう 。本 ほん 留 とめ 擬 なずらえ 有 ゆう 今日 きょう 。今 こん 既 すんで 始終 しじゅう 永 えい 畢。與 あずか 前 ぜん 事 こと 不同 ふどう 。謹按故事 こじ 。惟 おもんみ 有 ゆう 寢 ね 宮 みや 安 やす 供養 くよう 奉 たてまつ 之 これ 法 ほう 。而無陵 りょう 上 じょう 侍 さむらい 衛 まもる 之 の 儀 ぎ 。望 もち 除 じょ 棧道 さんどう 。固 かた 同 どう 山嶽 さんがく 。上 うえ 嗚咽 おえつ 不 ふ 許 もと 。長 ちょう 孫 まご 無 む 忌 き 等 とう 援引 えんいん 禮 れい 經 けい 。重 じゅう 有 ゆう 表 ひょう 請。乃依奏 そう 。】。
^ 韋貴妃 ひ :初 はつ 嫁 よめ 李 り 珉,生 なま 定 てい 襄 じょう 縣 けん 主 ぬし ;後 ご 嫁 よめ 太 ふと 宗 そう ,貞 さだ 觀 かん 元年 がんねん 四 よん 月 がつ 一 いち 號 ごう 封 ふう 貴 とうと 妃 ひ ,永 えい 徽朝封 ふう 紀國 きのくに 太 たい 妃 ひ 。現有 げんゆう 昭 あきら 陵墓 りょうぼ 誌 し 一方 いっぽう ,《紀國 きのくに 太 たい 妃 ひ 碑 ひ 》一方 いっぽう ,碑文 ひぶん 已 やめ 泯。
^ 杨贵妃 ひ :《新 しん 唐 とう 書 しょ 》、《舊 きゅう 唐 とう 書 しょ 》亦 また 稱 しょう 之 の 為 ため 「楊妃」,「貴 たか 妃 ひ 」徽號見 み 於李福 ぶく 墓誌 ぼし ,獲 え 封 ふう 時間 じかん 不明 ふめい ,永 えい 徽朝封 ふう 趙 ちょう 國 こく 太 たい 妃 ひ 。目前 もくぜん 墓 はか 葬 そう 尚 なお 未 み 確定 かくてい ,墓 はか 葬 そう 情況 じょうきょう 不知 ふち 。另有《趙 ちょう 國 こく 楊太妃 ひ 碑 ひ 》,記錄 きろく 於宋代 だい 《京 きょう 兆 ちょう 金石 きんせき 錄 ろく 》和 かず 《寶 たから 刻 こく 類 るい 編 へん 》中 ちゅう ,只 ただ 記錄 きろく 了 りょう 相關 そうかん 描述,碑文 ひぶん 未記 みき ,立 たて 碑 いしぶみ 時間 じかん 不明 ふめい ,李 り 儼 げん 撰 せん ,暢 とおる 整 せい 書 しょ ,碑 いしぶみ 已 やめ 佚。
^ 楊妃 :隋 ずい 煬帝女 おんな 。
^ 燕 つばめ 德 いさお 妃 ひ :禮 れい 聘入秦 しん 王 おう 府 ふ ,封 ふう 貴人 きじん 。貞 さだ 觀 かん 朝原 あさばら 為 ため 賢 けん 妃 ひ ,後 ご 封 ふう 德 とく 妃 ひ ,永 えい 徽朝封 ふう 越 えつ 國 こく 太 たい 妃 ひ ,現有 げんゆう 昭 あきら 陵墓 りょうぼ 誌 し 一方 いっぽう 。
^ 鄭 てい 賢 けん 妃 ひ :疑 うたぐ 為 ため 貞 さだ 觀 かん 十 じゅう 七 なな 年 ねん 封 ふう 。
^ 徐 じょ 賢 けん 妃 ひ :初 はつ 為 ため 才人 さいじん 、婕妤進 しん 封 ふう 昭 あきら 容 よう ,太 ふとし 宗 そう 崩 くずし 後 ご 哀 あい 慕成疾 やまし ,不 ふ 肯進藥 やく 而薨。死後 しご 被 ひ 高 こう 宗 はじめ 追 つい 封 ふう 賢 けん 妃 ひ
^ 巢 す 王妃 おうひ 杨氏 :《新 しん 唐 とう 書 しょ 》與 あずか 《資 し 治 ち 通 どおり 鑒》所載 しょさい 其為李 り 元吉 もとよし 之 の 妻 つま ,唐 から 太 ふとし 宗 そう 曾想立 りつ 之 の 為 ため 后 きさき ,遭魏征 せい 後 ご 諫止,其子李 り 明 あきら 過 か 繼 つぎ 李 り 元吉 もとよし ,太 ふとし 宗 そう 未 み 授其封 ふうじ ,但 ただし 應 おう 注意 ちゅうい ,親王 しんのう 妃 ひ 亦 また 為 ため 正 せい 一品 いっぴん ;《舊 きゅう 唐 とう 書 しょ 》未 み 言 げん 此事。
^ 李 り 承 うけたまわ 乾 いぬい (以下 いか 諸 しょ 皇子 おうじ 皆 みな 參考 さんこう 自 じ 此卷,不 ふ 贅 ぜい 述 じゅつ ):唐 から 太 ふとし 宗 そう 嫡長子 ちょうし ,深 ふか 得 え 太 ふとし 宗 むね 寵愛 ちょうあい 【以下 いか 所有 しょゆう 事跡 じせき 均 ひとし 記載 きさい 於史書 しょ 。①《兩 りょう 唐 とう 書 しょ 承 うけたまわ 乾 いぬい 傳 つたえ 》記載 きさい :「甫 はじめ 八 はち 歲 さい ,特 とく 敏惠 としえ ,帝 みかど 愛 あい 之 の 。」、「時 どき 年 ねん 八 はち 歲 さい ,性 せい 聰 さと 敏 さとし ,太 ふとし 宗 そう 甚愛之 の 。」②《唐 とう 會 かい 要 よう ◎卷 まき 五 ご 十 じゅう 》及多部 ぶ 佛教 ぶっきょう 史書 ししょ 記載 きさい :「貞 さだ 觀 かん 五年承乾生病,本來 ほんらい 不 ふ 怎麼信 しん 宗教 しゅうきょう 的 てき 太 ふとし 宗 むね 一下子就修了一廟一觀,廟 びょう 名 めい 普 ふ 光 こう ,觀 かん 名西 めいせい 華 はな ,就是為 ため 了 りょう 替 がえ 愛子 あいこ 祈 いのり 福 ぶく ;另外還 かえ 在 ざい 五 ご 月 がつ 壬 みずのえ 午 うま (24日 にち ),大赦 たいしゃ 天下 でんか 。」③貞 さだ 觀 かん 7年 ねん ,承 うけたまわ 乾 いぬい 又 また 得 とく 病 びょう 。《釋氏 しゃくし 通 どおり 鑒》等 とう 多 た 部 ぶ 佛教 ぶっきょう 史書 ししょ 記載 きさい :「普 ひろし 度 ど 僧尼 そうに 三 さん 千人因太子染患。眾治無效 むこう 。敕延波 は 頗入內。一 いち 百 ひゃく 餘 よ 日 にち 。帝 みかど 每 ごと 詢法要 ほうよう 。太子 たいし 疾 やまし 愈 いよいよ 。頗辭出 で 本寺 ほんじ 。賜 たまもの 綾 あや 帛六 ろく 十 じゅう 段 だん 等 とう 。④因 いん 為 ため 承 うけたまわ 乾 いぬい 生 せい 病 びょう ,唐 から 太 ふとし 宗 そう 連 れん 書 しょ 都 と 不 ふ 讓 ゆずる 他 た 多讀 たどく 。《冊 さつ 府 ふ 元 もと 龜 かめ ‧儲 もうか 宮部 みやべ ‧才智 さいち 》記載 きさい :「唐 から 太子 たいし 承 うけたまわ 乾 ひ ,太 ふとし 宗 そう 長子 ながこ 。少 しょう 敏惠 としえ ,太 ふとし 宗 そう 甚愛之 の 。貞 さだ 觀 かん 八 はち 年 ねん 九 きゅう 月 がつ ,太子 たいし 來朝 らいちょう 。太 ふとし 宗 そう 謂 いい 侍臣 じしん 曰:我 わが 以承乾 いぬい 多 た 疾病 しっぺい ,不 ふ 令 れい 讀書 どくしょ ,但 ただし 與 あずか 孔 あな 穎達評論 ひょうろん 古事 ふるごと 。我 わが 試 ためし 令 れい 作 さく 數 すう 紙 し ,書 しょ 言 げん 經國 けいこく 大體 だいたい ,立 たて 成 なり 三 さん 紙 し ,頗有可 か 觀 かん ,先 さき 論 ろん 刑 けい 獄 ごく 為重 ためしげ ,深 ふか 得 え 經 けい 邦之 くにゆき 要 よう 也。」⑤兩 りょう 唐 とう 書 しょ 等 とう 記載 きさい :「承 うけたまわ 乾死 ひじに 後 ご ,太 ふとし 宗 そう 專門 せんもん 為 ため 他 た 罷 やめ 朝 あさ ,並 なみ 以國公 こう 之 の 禮 れい 葬 そう 之 の 。」】,後 こう 因 いん 嫉妒同母 どうぼ 弟 おとうと 李 り 泰 やすし 受寵而懷疑 かいぎ 唐 から 太 ふとし 宗 そう 改 あらため 立 りつ ,於貞觀 かん 十 じゅう 七 なな 年 ねん 謀反 むほん 被 ひ 廢 はい 。當時 とうじ 所有 しょゆう 從犯 じゅうはん 都 と 定 てい 了 りょう 死罪 しざい ,按律主犯 しゅはん 承 うけたまわ 乾 いぬい 更 さら 是 ぜ 死罪 しざい ,但 ただし 因 いん 唐 から 太 ふとし 宗 そう 不 ふ 捨賜死 し ,最後 さいご 按通事 つうじ 舍人 とねり 來 らい 濟 すみ 的 てき 處理 しょり 方法 ほうほう 【通 つう 鑒等史書 ししょ 記載 きさい :「夏 なつ ,四 よん 月 がつ ,庚 かのえ 辰 たつ 朔 ついたち ,承 うけたまわ 基 もと 上 じょう 變 へん ,告 つげ 太子 たいし 謀反 ぼうほん 。敕長孫 まご 無 む 忌 き 、房 ぼう 玄 げん 齡 よわい 、蕭 しょう 瑀、李 り 世 よ 績與大 だい 理 り 、中書 ちゅうしょ 、門下 もんか 參 さん 鞫之,反 はん 形 かたち 已 やめ 具 ぐ 。上 うえ 謂 いい 侍臣 じしん :「將 はた 何 なに 以處承 うけたまわ 乾 いぬい ?」群臣 ぐんしん 莫敢對 たい ,通事 つうじ 舍人 とねり 來 らい 濟 ずみ 進 しん 曰:「陛下 へいか 不 ふ 失 しつ 為 ため 慈父 じふ ,太子 たいし 得 とく 盡 つき 天 てん 年 ねん ,則 のり 善 ぜん 矣!」上 じょう 從 したがえ 之 これ 。濟 すみ ,護 まもる 兒 じ 之子 ゆきこ 也。」】,廢 はい 為 ため 庶人,流 りゅう 放 ひ 黔州,後 ご 病死 びょうし ,葬 そう 於卒地 ち 。卒 そつ 年 ねん 墓誌 ぼし 記載 きさい 為 ため 貞 さだ 觀 かん 十 じゅう 七 なな 年 ねん ,史書 ししょ 記載 きさい 為 ため 貞 さだ 觀 かん 十 じゅう 九 きゅう 年 ねん ,此處 ここら 取 と 墓誌 ぼし 說 せつ 。開 ひらき 元年 がんねん 間 あいだ ,以孫李 り 適 てき 之 の 請,追贈 ついぞう 王 おう 爵謚號 ごう ,歸 き 葬 そう 昭 あきら 陵 りょう 。現有 げんゆう 昭 あきら 陵墓 りょうぼ 誌 し 一方 いっぽう 。
^ 李 り 寬 ひろし :高祖 こうそ 詔 みことのり 過 か 繼 つぎ 楚 すわえ 哀 あい 王 おう 李 り 智 さとし 雲 くも ,貞 さだ 觀 かん 初 はつ 追 つい 封 ふう 。
^ 李 り 恪 つとむ :有 ゆう 文武 ぶんぶ 才 ざい ,《舊 きゅう 唐 とう 書 しょ 》載 の 太 ふと 宗 そう 「常 つね 稱 しょう 其類己 おのれ 」,《唐 とう 會 かい 要 よう 》記載 きさい 「嘗稱其類己 おのれ 」,史書 ししょ 稱 しょう 其「賢 けん 」,太 ふとし 宗 むね 所 しょ 愛 あい 【《冊 さつ 府 ふ 元 もと 龜 かめ ●卷 まき 二 に 百 ひゃく 六 ろく 十 じゅう 六 ろく ◎宗室 そうしつ 部 ぶ ‧儀 ぎ 貌‧材 ざい 藝 げい 》記載 きさい :「吳 ご 王 おう 恪 つとむ 太 ふとし 宗 むね 第 だい 三子少善騎射太宗甚愛之」和 かず 《大 だい 唐 から 新語 しんご 。酷 こく 忍 にん 二 に 十 じゅう 七 なな 》亦 また 記載 きさい :「吳 ご 王 おう 恪 つとむ 母 はは 曰楊妃 ひ ,煬帝女 おんな 也。恪 つとむ 善 ぜん 騎射 きしゃ ,太 ふとし 宗 そう 尤 ゆう 愛 あい 之 の 。承 うけたまわ 乾 いぬい 既 すんで 廢 はい ,立 だて 高 だか 宗 むね 為 ため 太子 たいし ,又 また 欲 よく 立 りつ 恪 つとむ 。長 ちょう 孫 まご 無 む 忌 き 諫曰:「晉 すすむ 王仁 わに 厚 あつし ,守 まもり 文 ぶん 之 の 良 よ 主 しゅ 也。且舉棋不定 ふてい ,前 ぜん 哲 あきら 所 しょ 戒。儲 もうか 位 くらい 至 いたり 重 じゅう ,豈 あに 宜 よろし 數 すう 易 えき ?」太 ふとし 宗 そう 曰:「朕 ちん 意 い 亦 また 如此,不能 ふのう 相違 そうい ,阿 おもね 舅 しゅうと 後 ご 無 む 悔也。」由 ゆかり 是 ぜ 恪 つとむ 與 あずか 無 む 忌 き 不 ふ 協 きょう 。高 こう 宗 むね 即位 そくい ,房 ぼう 遺愛 いあい 等 とう 謀反 ぼうほん ,敕無忌 き 推之。遺愛 いあい 希 まれ 旨 むね 引恪,冀以獲 え 免 めん 。無 む 忌 き 既 すんで 與 あずか 恪 つとむ 有 ゆう 隙 すき ,因 いん 而斃恪 つとむ 。臨刑罵 ののし 曰:「長 ちょう 孫 まご 無 む 忌 き 竊弄威 い 權 けん ,構害良 りょう 善 ぜん 。若 わか 宗 むね 社 しゃ 有 ゆう 靈 れい ,當 とう 見 み 其族滅 めつ !」不 ふ 久 ひさ ,竟如其言。」】。唐 から 太 ふとし 宗 そう 在 ざい 立 だて 了 りょう 李 り 治 おさむ 後 ご ,認 みとめ 為 ため 其「懦」,私 わたし 下 か 曾與長 ちょう 孫 まご 無 む 忌 き 商量 しょうりょう 改 あらため 立 りつ 庶子 しょし 中 ちゅう 年長 ねんちょう 的 てき 李 り 恪 つとむ ,遭反對 はんたい 後作 あとさく 罷 やめ ,《新舊 しんきゅう 唐 とう 書 しょ 》評價 ひょうか 唐 から 太 ふとし 宗 むね 立 りつ 儲 もうか 不當 ふとう ,誠 まこと 為 ため 憾事。後 こう 因 いん 「房 ぼう 遺愛 いあい 謀反 ぼうほん 案 あん 」被 ひ 冤致死 し ,天下 てんか 絕望 ぜつぼう ,海 うみ 內冤之 の ,以國公 こう 禮 れい 葬 そう 於長安 やす 附近 ふきん 。中 ちゅう 宗 そう 神 かみ 龍 りゅう 年間 ねんかん 復 ふく 王 おう 爵。現有 げんゆう 墓誌 ぼし 一方藏於西安市長安區博物館。
^ 李 り 泰 やすし :母 はは 長 ちょう 孫 まご 皇后 こうごう ,雅 まさ 好 こう 文學 ぶんがく ,書法 しょほう 出色 しゅっしょく ,著 ちょ 有 ゆう 《擴地誌 し 》及《文集 ぶんしゅう 》二 に 十 じゅう 卷 かん (今 こん 以失傳 でん ),明代 あきよ 張 ちょう 應 おう 文 ぶん 稱 しょう 其為書畫 しょが 鑒賞家 か (見 み 於《清 きよし 秘藏 ひぞう 》卷 まき 下 か 明 あかり ·張 ちょう 應 おう 文 ぶん 撰 せん ),李 り 泰 やすし 深 ふか 受太宗 むね 寵愛 ちょうあい ,受寵事件 じけん 更 さら 是 ぜ 舉不勝 しょう 舉【以下 いか 所有 しょゆう 事跡 じせき 均 ひとし 記載 きさい 於史書 しょ 。
①貞 さだ 觀 かん 政 せい 要 よう 等 とう 記載 きさい :「越 えつ 王 おう ,長 ちょう 孫 まご 皇后 こうごう 所生 しょせい ,太子 たいし 介 かい 弟 おとうと ,聰 さと 敏 さと 絕倫 ぜつりん ,太 ふとし 宗 そう 特 とく 所 しょ 寵 ちょう 異 こと 。」、「魏 ぎ 王 おう ,文德 ふみのり 皇后 こうごう 所生 しょせい ,太 ふとし 宗 そう 特 とく 所 しょ 寵 ちょう 異 こと 。」、「魏 たかし 王 おう 泰 やすし 寵 ちょう 冠 かんむり 諸王 しょおう ,盛 もり 修 おさむ 第 だい 宅 たく 。」②兩 りょう 唐 とう 書 しょ 等 とう 記載 きさい :「按照常例 じょうれい ,皇子 おうじ 成年 せいねん 後 ご ,要 よう 到 いた 自己 じこ 的 てき 封地 ほうち 上 じょう 去 さ ,可 か 是 ぜ 李 り 泰 やすし 就硬是 ぜ 被 ひ 父親 ちちおや 留 とめ 下 か 了 りょう 。
③兩 りょう 唐 とう 書 しょ 李 り 泰 やすし 傳 でん 記載 きさい :「因 いん 為 ため 李 り 泰 やすし 喜 き 歡文學 ぶんがく ,太 ふとし 宗 そう 特 とく 令 れい 在 ざい 魏 ぎ 王 おう 府 ふ 置 おけ 文學 ぶんがく 館 かん ,任 にん 李 り 泰 やすし 引召學士 がくし 。」④兩 りょう 唐 とう 書 しょ 李 り 泰 やすし 傳 つて 等 とう 記載 きさい :「李 り 泰 やすし 是 これ 個 こ 胖 ゆたか 子 こ ,『腰 こし 腹 はら 洪 ひろし 大 だい ,趨拜稍 やや 難 なん 』,太 ふとし 宗 むね 特別 とくべつ 命令 めいれい 他 た 可 か 以乘小 しょう 輿 こし 上 じょう 朝 あさ 。⑤李 り 泰 やすし 的 てき 封地 ほうち 遠 とお 遠 とお 超過 ちょうか 諸王 しょおう ,例 れい 如《唐 とう 會 かい 要 よう 》記載 きさい :「貞 さだ 觀 かん 二 に 年 ねん 五 ご 月 がつ ,吳 ご 王 おう 恪 つとむ 除 じょ 使 し 持 じ 節 ぶし 大 だい 都 と 督 とく 益 えき 綿 めん 邛眉雅 みやび 等 とう 八 はち 州 しゅう 諸 しょ 軍事 ぐんじ ,益 えき 州 しゅう 刺史 しし 。濮王泰 たい 除 じょ 使 し 持 じ 節 ぶし 大 だい 都 と 督 とく 揚 あげ 州 しゅう 、常 つね 、海 うみ 、潤 ほとび 、楚 すわえ 、舒、廬 いおり 、濠 ほり 、壽 ことぶき 、歙、蘇 そ 、杭 くい 、宣 せん 、東 あずま 睦 あつし 、南 みなみ 和 わ 等 とう 十 じゅう 六 ろく 州 しゅう 諸 しょ 軍事 ぐんじ ,揚 あげ 州 しゅう 刺史 しし 。」⑥李 り 泰 やすし 除 じょ 了 りょう 都 と 督 とく 的 てき 頭 あたま 銜外,還 かえ 是 ぜ 雍州牧 まき 及左武 たけ 候 こう 大將軍 だいしょうぐん 。舊 きゅう 唐 とう 書 しょ 太 ふとし 宗 そう 本紀 ほんぎ 等 とう 記載 きさい :「八 はち 年 ねん 壬 みずのえ 子 こ ,越 こし 王 おう 泰 やすし 為 ため 雍州牧 まき 。、十 じゅう 一 いち 年 ねん 春 はる 正月 しょうがつ 癸巳 きし ,加 か 魏 ぎ 王 おう 泰 やすし 為 ため 雍州牧 まき 、左 ひだり 武 たけし 候 こう 大將軍 だいしょうぐん 。⑦太 ふと 宗 そう 外出 がいしゅつ 度 ど 假 かり ,經常 けいじょう 把 わ 魏 ぎ 王 おう 李 り 泰 やすし 帶 たい 在 ざい 身邊 しんぺん 。《資 し 治 ち 通 どおり 鑒》載 の :「魏 ぎ 王 おう 穎悟 えいご ,多 た 從 したがえ 游 ゆう 幸 みゆき 。」⑧多 た 部 ぶ 史書 ししょ 記載 きさい :「貞 さだ 觀 かん 十 じゅう 四 よん 年 ねん 正月 しょうがつ 甲 きのえ 寅 とら ,太 ふとし 宗 むね 去 さ 了 りょう 一趟李泰的魏王府(在 ざい 延 のべ 康 やすし 坊 ぼう ),馬上 もうえ 大赦 たいしゃ 雍州及長安 やす ,還 かえ 免 まぬかれ 去 ざ 延 のべ 康 やすし 坊 ぼう 百姓 ひゃくしょう 一 いち 年 ねん 的 てき 租賦,又 また 賜 たまもの 給 きゅう 魏 ぎ 王 おう 府 ふ 的 てき 官員 かんいん 東西 とうざい 。」⑨兩 りょう 唐 とう 書 しょ 等 とう 記載 きさい :「貞 さだ 觀 かん 十 じゅう 五 ご 年 ねん ,李 り 泰 やすし 編 へん 《括 くく 地誌 ちし 》完 かん 畢後,每 まい 月給 げっきゅう 李 り 泰 やすし 大量 たいりょう 財物 ざいぶつ ,甚至超過 ちょうか 太子 たいし ,被 ひ 褚遂良 りょう 諫。」⑩李 り 泰 やすし 除 じょ 了 りょう 延 のべ 康 やすし 坊 ぼう 宅 たく 外 がい ,太 ふとし 宗 むね 還 かえ 賜 たまもの 李 り 泰 やすし 洛陽 らくよう 住宅 じゅうたく 與 あずか 長安 ながやす 芙蓉 ふよう 園 えん 。新 しん 唐 とう 書 しょ 長 ちょう 寧 やすし 公主 こうしゅ 傳 でん :「魏 たかし 王 おう 泰 やすし 故 こ 第 だい ,東西 とうざい 盡 つき 一 いち 坊 ぼう ,瀦沼三 さん 百 ひゃく 畝 うね 。」、《太平 たいへい 御覽 ごらん 》卷 まき 一 いち 百 ひゃく 九 きゅう 十 じゅう 七 なな :芙蓉 ふよう 園 えん ,本 ほん 隋 ずい 氏 し 之 の 離宮 りきゅう ,居 きょ 地 ち 三 さん 十 じゅう 頃 ごろ ,周回 しゅうかい 十 じゅう 七 なな 里 り ,貞 さだ 觀 かん 中 ちゅう 賜 たまもの 魏 ぎ 王 おう 泰 やすし 。⑾多 た 部 ぶ 史書 ししょ 記載 きさい :「太 ふとし 宗 そう 讓 ゆずる 李 り 泰 やすし 入居 にゅうきょ 皇宮 こうぐう 的 てき 武德 たけのり 殿 どの ,被 ひ 魏 ぎ 征 せい 諫,魏 ぎ 征 せい 在 ざい 進 すすむ 諫時也說李 り 泰 やすし 是 ぜ 太 ふとし 宗 むね 的 てき 『愛子 あいこ 』。」⑿多 た 部 ぶ 史書 ししょ 記載 きさい :「因 いん 為 ため 有人 ゆうじん 說 せつ 大臣 だいじん 對 たい 魏 ぎ 王 おう 泰 やすし 不 ふ 夠恭敬 けい ,太 ふとし 宗 そう 就把重臣 じゅうしん 們找來 らい 發作 ほっさ ,被 ひ 魏 ぎ 征 せい 諫。」⒀舊 きゅう 唐 とう 書 しょ 李 り 泰 やすし 傳 でん 與 あずか 冊 さつ 府 ふ 元 もと 龜 かめ 記載 きさい :「李 り 泰 やすし 出 で 事 ごと ,太 ふとし 宗 そう 在 ざい 貶斥他 た 的 てき 詔書 しょうしょ 裡 うら 仍然說 せつ 他 た 是 ぜ 『朕 ちん 之 の 愛子 あいこ ,實 み 所 しょ 鍾心。幼 よう 而聰令 れい ,頗好文學 ぶんがく ,恩 おん 遇 ぐう 極 ごく 於崇重 じゅう ,爵位 しゃくい 逾於寵 ちょう 章 あきら 』。」⒁舊 きゅう 唐 とう 書 しょ 李 り 泰 やすし 傳 でん 記載 きさい :「李 り 泰 やすし 被 ひ 貶後,太 ふとし 宗 むね 還 かえ 說 せつ :『泰 たい 文辭 ぶんじ 美麗 びれい ,豈 あに 非才 ひさい 士 し 。我 わが 中心 ちゅうしん 念 ねん 泰 たい ,卿 きょう 等 とう 所 しょ 知 ち 』。」⒂多 た 部 ぶ 史書 ししょ 記載 きさい :「貞 さだ 觀 かん 二 に 十 じゅう 一 いち 年 ねん ,又 また 進 すすむ 封 ふう 李 り 泰 やすし 為 ため 濮王。」⒃李 り 泰 やすし 長子 ちょうし 李 り 欣的墓誌 ぼし 顯示 けんじ ,李 り 欣四歲時被帶入皇宮由祖父母也就是太宗和長孫皇后來撫養。】,也因此而萌 もえ 生野 いくの 心 しん ,爭奪 そうだつ 皇位 こうい 被 ひ 貶。雖如此,太 ふとし 宗 むね 依然 いぜん 非常 ひじょう 思念 しねん 他 た ,後進 こうしん 封 ふう 為 ため 濮王。司馬 しば 光 ひかり 認 みとめ 為 ため 唐 から 太 ふとし 宗 むね 對 たい 李 り 泰 やすし 的 てき 「不 ふ 教 きょう 而誅」是 ぜ 不 ふ 以私愛 あい 而左右 さゆう 國政 こくせい ,誠 まこと 為 ため 太 ふと 宗之 むねゆき 遠見 とおみ 。而太宗 むね 當時 とうじ 不 ふ 立 だて 李 り 泰 やすし 的 てき 理由 りゆう 是 ぜ 「泰 たい 立 りつ ,則 のり 承 うけたまわ 乾 ひ 與 あずか 治 ち 皆 みな 不全 ふぜん ;治 ち 立 りつ ,則 のり 承 うけたまわ 乾 ひ 與 あずか 泰 たい 皆 みな 無 む 恙矣」(引號內,見 み 於多部 ぶ 正史 せいし )。
^ 李 り 祐 ゆう :後 こう 因 いん 「謀反 むほん 」罪 つみ 賜 たまもの 死 し ,貶為庶人,以國公 こう 禮 れい 葬 そう 於長安 やす 附近 ふきん 。
^ 李 り 愔 :貞 さだ 觀 かん 某 ぼう 年 ねん ,因 いん 遊獵 ゆうりょう 無 む 度 ど 、毆打 おうだ 官員 かんいん 彈劾 だんがい ,太 ふとし 宗 そう 屢教其不改 あらため ,發 はつ 怒 いか 斥責:「禽獸 きんじゅう 調伏 ちょうぶく ,可 か 以馴擾於人 じん ;鐵石 てっせき 鐫煉,可 か 為 ため 方圓 ほうえん 之 の 器 うつわ 。至 いたり 如愔者 しゃ ,曾不如禽獸 じゅう 鐵石 てっせき 乎!」削 そぎ 封 ふう 邑及國 こく 官 かん 之 の 半 はん 。李 り 恪 つとむ 被害 ひがい ,因 いん 同母 どうぼ 而受牽連被 ひ 貶為庶人。鹹亨年間 ねんかん 歸 き 葬 そう 昭 あきら 陵 りょう ,復 ふく 王 おう 爵。
^ 李 り 貞 さだ :後 こう 反 はん 武 ぶ 後 ご 兵 へい 敗 はい 死 し ,被 ひ 武 ぶ 後 ご 改姓 かいせい 「虺」,神 かみ 龍 りゅう 初年 しょねん 復 ふく 官 かん 復 ふく 爵;開 ひらけ 元 もと 四 よん 年 ねん ,詔 みことのり 追 つい 復 ふく 爵土,令 れい 備禮改葬 かいそう 。
^ 唐 とう 高 だか 宗 むね :母 はは 長 ちょう 孫 まご 皇后 こうごう 去 さ 世 よ 後 ご ,與 あずか 妹 いもうと 妹 いもうと 晉 すすむ 陽 ひ 公主 こうしゅ 一起被唐太宗親自撫養,深 ふか 得 え 寵愛 ちょうあい 【以下 いか 所有 しょゆう 事跡 じせき 均 ひとし 記載 きさい 於史書 しょ 。兩 りょう 唐 とう 書 しょ 等 とう 記載 きさい :「初 はつ ,太 ふとし 宗 そう 愛 あい 晉 すすむ 王 おう ,不 ふ 使 つかい 出 で 閣 かく 。」、「高 こう 宗 はじめ 為 ため 晉 すすむ 王 おう ,以文德 とく 皇后 こうごう 最 さい 少子 しょうし ,後 ご 崩 くずし 後 ご 累年 るいねん ,太 ふとし 宗 そう 憐之,不 ふ 令 れい 出 で 閣 かく 。」、「然 しか 晉 すすむ 王 おう ,陛下 へいか 親 おや 自 じ 撫養 むや ,至 いたり 於成立 せいりつ ,上 うえ 聖 きよし 深 ふか 慈,偏 へん 所 しょ 鍾愛 しょうあい 。」②李 り 治 おさむ 出生 しゅっしょう 時 じ 的 てき 特殊 とくしゅ 待遇 たいぐう ,兩 りょう 唐 とう 書 しょ 太 ふとし 宗 そう 本紀 ほんぎ 記載 きさい :「(貞 さだ 觀 かん )二 に 年 ねん 六 ろく 月 がつ 庚 かのえ 寅 とら ,皇子 おうじ 治生 はるお ,宴 うたげ 五 ご 品 ひん 以上 いじょう ,賜 たまもの 帛有差 さ ,仍賜天下 でんか 是 ぜ 日生 にっせい 者 しゃ 粟 あわ 。」③多 た 部 ぶ 史書 ししょ 記載 きさい :「李 り 治和 ちわ 同母 どうぼ 哥哥李 り 泰一 やすいち 樣 さま ,到 いた 了 りょう 年齡 ねんれい 太 ふと 宗 そう 卻不讓 ゆずる 其之官 かん 。」④舊 きゅう 唐 とう 書 しょ 高 だか 宗 むね 本紀 ほんぎ 及冊府 ふ 元 もと 龜 かめ 記載 きさい :「因 いん 為 ため 在 ざい 皇后 こうごう 去 さ 世 よ 後 ご 經常 けいじょう 傷心 しょうしん ,太 ふとし 宗 そう 『屢加慰撫 いぶ ,由 ゆかり 是 ぜ 特 とく 深 ふか 寵 ちょう 異 い 』。」⑤多 た 部 ぶ 史書 ししょ 記載 きさい :「皇后 こうごう 去 さ 世 よ 後 ご ,李 り 治 おさむ 由 ゆかり 太 ふとし 宗 そう 親 ちかし 自 じ 撫養 むや 長大 ちょうだい 。」⑥新 しん 唐 とう 書 しょ 與 あずか 資 し 治 ち 通 どおり 鑒記載 きさい :「太 ふとし 宗 むね 出 で 去 ざ 度 たび 假 かり ,常 つね 把 わ 晉 すすむ 王 おう 李 り 治 おさむ 帶 たい 在 ざい 身邊 しんぺん 。」。⑦「李 り 治 おさむ 為 ため 親王 しんのう 時 じ 除 じょ 了 りょう 都 と 督 とく 的 てき 頭 あたま 銜外,還 かえ 是 ぜ 右 みぎ 武 たけ 候 こう 大將軍 だいしょうぐん 。記載 きさい 於舊唐 とう 書 しょ 高 だか 宗 むね 本紀 ほんぎ 」⑧「立 りつ 為 ため 太子 たいし 後 ご ,太 ふとし 宗 むね 出 で 去 ざ 遊 ゆう 玩時仍要帶 たい 著 ちょ ,被 ひ 大臣 だいじん 諫。兩 りょう 唐 とう 書 しょ 張 ちょう 行 こう 成 なり 傳 でん 記載 きさい :伏 ふく 承 うけたまわ 皇太子 こうたいし 從 したがえ 幸 こう 靈 れい 州 しゅう ,臣 しん 愚 ぐ 以為皇太子 こうたいし 養 やしなえ 德 とく 春宮 とうぐう ,日月 じつげつ 未 み 幾 いく ,華 はな 夷 えびす 遠 どお 邇,佇聽嘉 よしみ 音 おん 。如因以監國 こく ,接 せっ 對 たい 百 ひゃく 寮 りょう ,決斷 けつだん 庶務 しょむ ,明 あきら 習政理 り ,既 すんで 為 ため 京師 けいし 重鎮 じゅうちん ,且示四方 しほう 盛德 せいとく ,與 あずか 其出陪私愛 あい ,曷若俯從公道 こうどう ?」⑨「太 ふと 宗 そう 出征 しゅっせい 高 だか 麗 うらら ,給 きゅう 李 り 治 おさむ 寫 うつし 私信 ししん 說 せつ 『憶奴欲 ほっ 死 し 』。兩度 りょうど 帖 じょう :兩度 りょうど 得 え 大 だい 內書,不 ふ 見 み 奴 やつ 表 ひょう ,耶耶忌 き 欲 よく 恆 つね 死 し ,少時 しょうじ 間 あいだ 忽 ゆるがせ 得 とく 奴 やつ 手書 しゅしょ ,報 ほう 娘 むすめ 子 こ 患,憂 ゆう 惶一 いち 時 じ 頓 ひたすら 解 ほどけ ,欲 よく 似 に 死 し 而更生 こうせい ,今日 きょう 已 やめ 後 ご ,但 ただし 頭 あたま 風發 ふうはつ ,信 しん 便 びん 即 そく 報 ほう 耶耶。若 わか 少 しょう 有 ゆう 疾患 しっかん ,即 そく 一 いち 一 いち 具 ぐ 報 ほう 。今 こん 得 とく 遼東 りゃおとん 消息 しょうそく ,錄 ろく 狀 じょう 送 おく ,憶奴欲 ほっ 死 し ,不知 ふち 何 なん 計 けい 使 つかい 還 かえ 具 ぐ ,耶耶,敕。」】。立 たて 為 ため 太子 たいし 後 ご ,應 おう 該離開 ひらき 父親 ちちおや 出 で 居 きょ 東宮 とうぐう ,但 ただし 唐 から 太 ふとし 宗 そう 卻不捨硬把 わ 他 た 留 とめ 在 ざい 身邊 しんぺん ,十天半月才回東宮一趟,褚遂良 りょう 、劉 りゅう 洎在貞 さだ 觀 かん 18、20年 ねん 相 しょう 繼 つぎ 進 しん 諫,要求 ようきゅう 太 ふと 宗 むね 放 ひ 李 り 治 おさむ 回 かい 東宮 とうぐう 。褚、劉 りゅう 進 すすむ 諫的理由 りゆう 是 ぜ 不可 ふか 過 か 於私愛 あい (見 み 於多部 ぶ 正史 せいし )。
^ 李 り 慎 まこと :因 いん 越 えつ 王 おう 貞 さだ 事 ごと ,被 ひ 武 ぶ 後 ご 改姓 かいせい 「虺」,神 かみ 龍 りゅう 初年 しょねん 復 ふく 官 かん 復 ふく 爵。
^ 李 り 福 ぶく :太 ふとし 宗 そう 詔 みことのり 過 か 繼 つぎ 隱 かくれ 太子 たいし 李 り 建 たて 成 しげる ,陪葬昭 あきら 陵 りょう 。
^ 李 り 明 あきら :高 こう 宗 はじめ 詔 みことのり 過 か 繼 つぎ 巢 す 刺 とげ 王 おう 李 り 元吉 もとよし 。永 えい 崇 たかし 中 ちゅう ,坐 すわ 與 あずか 庶人賢 けん 通謀 つうぼう ,降 くだ 封 ふう 零 れい 陵 りょう 王 おう ,徙於黔州。都 と 督 とく 謝 しゃ 祐希 ゆき 旨 むね ,逼脅令 れい 自殺 じさつ 。景 けい 雲 くも 中 ちゅう ,景 けい 雲 くも 元年 がんねん ,明 あきら 喪 も 柩 ひつぎ 歸 き 於京師 し 。
^ 襄 じょう 城 じょう 公主 こうしゅ :公主 こうしゅ 雅 まさ 有禮 ありのり 度 ど ,太 ふとし 宗 そう 詔 みことのり 為 ため 諸 しょ 公主 こうしゅ 師 し ,辭 じ 公主 こうしゅ 別 べつ 第 だい 。永 えい 徽二 に 年 ねん 薨,高 こう 宗 はじめ 舉哀,登樓 とうろう 哭送靈柩 れいきゅう 。
^ 長樂 ながら 公主 こうしゅ :唐 から 太 ふとし 宗 そう 特 とく 所 しょ 鍾愛 しょうあい ,出 で 嫁 よめ 時 じ 因 いん 唐 から 太 ふとし 宗 そう 要 かなめ 給 きゅう 的 てき 嫁 よめ 妝倍於長公主 こうしゅ 而被魏 ぎ 征 せい 諫【《魏 たかし 鄭 てい 公 こう 諫錄》○諫優長樂 ながら 公主 こうしゅ 禮 れい 數 すう 》記載 きさい :「長樂 ながら 公主 こうしゅ 將 はた 出 で 降 ぶ ,太 ふとし 宗 そう 謂 いい 房 ぼう 玄 げん 齡 よわい 等 とう 曰:「長樂 ながら 公主 こうしゅ ,皇后 こうごう 所生 しょせい ,朕 ちん 及皇后 こうごう 並 なみ 所 しょ 鍾愛 しょうあい 。今 いま 將 はた 出 で 降 ぶ ,禮 れい 數 すう 欲 よく 有 ゆう 所 しょ 加 か 。」房 ぼう 玄 げん 齡 よわい 等 とう 鹹曰:「陛下 へいか 所 しょ 愛 あい ,欲 よく 少 しょう 加 か 之 の ,何 なに 為 ため 不 ふ 得 とく 請倍永 えい 嘉 よしみ 公主 こうしゅ 。」】。墓 はか 葬 そう 封土 ほうど 為 ため 覆 くつがえ 斗 と 型 がた ,墓 はか 室 しつ 石門 せきもん 三 さん 道 みち ,在 ざい 昭 あきら 陵 りょう 已 やめ 發掘 はっくつ 的 てき 陪葬墓 ぼ 中 ちゅう 僅此一 いち 例 れい ,現有 げんゆう 昭 あきら 陵墓 りょうぼ 誌 し 一方 いっぽう 。
^ 豫 よ 章 あきら 公主 こうしゅ :早年 そうねん 喪 も 母 はは ,由 よし 長 ちょう 孫 まご 皇后 こうごう 撫養 むや 長大 ちょうだい 。
^ 巴 ともえ 陵 りょう 公主 こうしゅ :永 えい 徽四 よん 年 ねん 以「謀反 むほん 罪 ざい 」賜 たまもの 死 し ,顯 あらわ 慶 けい 年間 ねんかん ,贈 おく 比 ひ 景 けい 公主 こうしゅ ,立 たて 廟 びょう 於墓,四 よん 時 じ 祭 さい 以少牢 ろう 。
^ 臨川 りんせん 公主 こうしゅ :墓 はか 志 こころざし 作 さく 十 じゅう 一 いち 女 じょ 、封 ふう 公主 こうしゅ 诏作十 じゅう 二 に 女 じょ ,公主 こうしゅ 工 こう 籀隸,能 のう 屬 ぞく 文 ぶん 。永 えい 徽初年 ねん ,進 しん 封 ふう 長 ちょう 公主 こうしゅ ,恩賞 おんしょう 卓 たく 異 こと 。唐 から 高 こう 宗時 むねとき ,上 うえ 《孝德 たかのり 頌》,高 こう 宗 はじめ 下 か 詔 みことのり 褒謝之 の 。現有 げんゆう 昭 あきら 陵墓 りょうぼ 誌 し 一方 いっぽう ,石刻 せっこく 詔書 しょうしょ 一方 いっぽう 。
^ 清河 きよかわ 公主 こうしゅ :貞 さだ 觀 かん 二年詔封清河郡公主,食 しょく 邑三 さん 千 せん 戶 こ ,年 ねん 約 やく 五 ご 歲 さい ,是 ぜ 目前 もくぜん 所 しょ 知 ち 唐 から 太 ふとし 宗 そう 李 り 世 よ 民 みん 諸 しょ 女中 じょちゅう 受封年紀 としのり 最小 さいしょう 者 しゃ 。墓 はか 葬 そう 封土 ほうど 為 ため 圓錐 えんすい 型 がた ,現有 げんゆう 昭 あきら 陵 りょう 碑 ひ 半 はん 方 ぽう ,立 たて 於麟德 とく 初 はつ ,李 り 儼 げん 撰 せん ,暢 とおる 整 せい 書 しょ 。
^ 蘭 らん 陵 りょう 公主 こうしゅ :貞 さだ 觀 かん 十 じゅう 年 ねん (637年 ねん )封 ふう 蘭 らん 陵 りょう 公主 こうしゅ 根據 こんきょ 碑文 ひぶん ,薨年不 ふ 晚 ばん 於顯慶 けい 四 よん 年 ねん ;墓誌 ぼし 為 ため 第 だい 十 じゅう 九 きゅう 女 じょ 。墓 はか 葬 そう 封土 ほうど 為 ため 圓錐 えんすい 型 がた ,現有 げんゆう 昭 あきら 陵墓 りょうぼ 碑 ひ 一方 いっぽう ,李 り 義 よし 府 ふ 撰 せん ,駙馬竇懷悊親書 しょ 。
^ 城陽 じょうよう 公主 こうしゅ :「駙馬杜 もり 荷 に 因 いん 功臣 こうしん 子弟 してい 尚 なお 公主 こうしゅ 封 ふう 郡 ぐん 公 こう 」(引號內記載 きさい 於《舊 きゅう 唐 とう 書 しょ ·杜 もり 如晦傳 でん 》:「初 はつ ,荷 に 以功臣子 しんし 尚 なお 城陽 じょうよう 公主 こうしゅ ,賜 たまもの 爵襄陽 ひ 郡 ぐん 公 こう ,授尚乘 じょう 奉 たてまつ 御 ご 。」),公主 こうしゅ 再嫁 さいか 薛瓘前 まえ ,唐 から 太 ふとし 宗 そう 專 せん 門 かど 為之 ためゆき 卜 ぼく 。麟德初 はつ ,公主 こうしゅ 因 いん 巫 みこ 蠱事,與 あずか 薛瓘被 ひ 貶至房州 ぼうしゅう ;鹹亨中 ちゅう ,主 しゅ 薨而瓘卒,雙 そう 柩 ひつぎ 還 かえ 京師 けいし 。墓 はか 葬 そう 封土 ほうど 為 ため 覆 くつがえ 斗 と 型 がた 。
^ 高 こう 阳公主 ぬし :駙馬房 ぼう 遺愛 いあい ,永 えい 徽四 よん 年 ねん 以「謀反 むほん 罪 ざい 」賜 たまもの 死 し ,顯 あらわ 慶 けい 年間 ねんかん ,贈 おく 合浦 がつぽ 公主 こうしゅ 。
^ 晉 すすむ 陽 ひ 公主 こうしゅ :皇后 こうごう 去 さ 世 よ 後 ご ,與 あずか 乃兄李 り 治 おさむ 一起被唐太宗親自撫養,為 ため 太 ふと 宗 そう 最 さい 為 ため 寵愛 ちょうあい 的 てき 女兒 じょじ ,多 た 受宮中 ちゅう 喜 き 愛 あい 。公主 こうしゅ 去 さ 世 よ ,唐 から 太 ふとし 宗 そう 悲痛 ひつう 欲 よく 絕 ぜっ ,一 いち 個月 かげつ 飲食 いんしょく 不 ふ 佳 けい ,被 ひ 諫,詔 みことのり 官員 かんいん 登記 とうき 公主 こうしゅ 封 ふう 邑所剩 あま 之 これ 資 し ,建造 けんぞう 佛 ふつ 祠 ほこら 於墓旁 つくり 。
^ 新城 しんじょう 公主 こうしゅ :初 はつ 封 ふう 衡山公主 こうしゅ ,最初 さいしょ 許 もと 配 はい 與 あずか 魏 ぎ 征 せい 的 てき 長子 ちょうし 魏 ぎ 叔玉,後 ご 因 よし 魏 ぎ 征 せい 生前 せいぜん 所謂 いわゆる 薦 こも 人 じん 失當 しっとう 、邀名賣 うり 直之 なおゆき 罪 ざい ,唐 から 太 ふとし 宗因 そういん 而悔婚 こん 。「貞 さだ 觀 かん 23年 ねん 因 よし 新城 しんじょう 嫁 よめ 長 ちょう 孫 まご 詮 かい ,太 ふとし 宗 そう 特 とく 升 ます 其公爹長孫 まご 操 みさお 為 ため 岐州刺史 しし 」(引號內記載 きさい 於《舊 きゅう 唐 とう 書 しょ ‧外戚 がいせき 傳 でん 》)。根據 こんきょ 墓誌 ぼし ,新城 しんじょう 出 いずる 嫁 よめ 在 ざい 貞 さだ 觀 かん 23年 ねん 2月 がつ 6日 にち 。「而太宗 そう 是 ただし 在 ざい 當年 とうねん 5月 がつ 去 さ 世 よ 的 てき ,也就是 ぜ 說 せつ 在 ざい 病 やまい 重 じゅう 期間 きかん ,太 ふとし 宗 むね 還 かえ 惦記著 ちょ 女兒 じょじ 的 てき 婚 こん 事 ごと ,希望 きぼう 在 ざい 死 し 前 まえ 把 わ 她的婚 こん 事 ごと 辦完,不 ふ 至 いたり 於為守孝 もりたか 3年 ねん 耽 ふけ 誤 あやま 青春 せいしゅん 但 ただし 由 よし 於公主 ぬし 婚禮 こんれい 過程 かてい 太 ふと 複雜 ふくざつ ,太 ふとし 宗 むね 的 てき 這個願望 がんぼう 沒 ぼつ 有 ゆう 實現 じつげん 。」(引號內,未見 みけん 於正史 し )永 えい 徽元年 ねん 新城 しんじょう 將 すすむ 出 で 降 ぶ ,侍 さむらい 中 ちゅう 于志寧 やすし 上 じょう 疏反對 はんたい ,認 みとめ 為 ため 公主 こうしゅ 因 いん 為 ため 父 ちち 守孝 もりたか 三 さん 年 ねん 方 かた 能 のう 下 か 嫁 よめ (載 の 於《舊 きゅう 唐 とう 書 しょ 》于志寧 やすし 傳 つて 等 とう )。後 こう 嫁 よめ 韋正矩 のり ,外傳 がいでん 駙馬待 まち 新城 しんじょう 失禮 しつれい ,後 ご 公主 こうしゅ 暴薨,高 こう 宗 はじめ 詔 みことのり 官員 かんいん 問罪 もんざい ,韋正矩 のり 不能 ふのう 辯解 べんかい ,被 ひ 誅殺 ちゅうさつ ,公主 こうしゅ 被 ひ 後世 こうせい 引為「傲婦」【《冊 さつ 府 ふ 元 もと 龜 かめ ·卷 まき 七 なな 百 ひゃく 八 はち 十 じゅう 八 はち ◎總 そう 錄 ろく 部 ぶ ‧智識 ちしき 》:薛克構為戶部 とべ 郎 ろう 中 ちゅう 。族 ぞく 子 こ 紹,城陽 じょうよう 公主 こうしゅ 子 こ 也,尚 なお 太平 たいへい 公主 こうしゅ 。紹之將 はた 婚 こん 也,兄 あに 顗以公主 こうしゅ 寵 ちょう 盛 もり ,深憂 しんゆう 之 の ,以問克 かつ 構。克 かつ 構曰:「帝 みかど 甥 おい 尚 ひさし 主 おも ,由來 ゆらい 故事 こじ 。若 わか 以恭慎 まき 行 こう 之 の ,亦 また 何 なに 懼也!然 しか 室 むろ 有 ゆう 傲婦,善 ぜん 士 し 所 しょ 惡 あく 。故 こ 鄙 ひな 諺 ことわざ 曰:『娶 めと 婦 ふ 得 とく 公主 こうしゅ ,平地 ひらち 買 かい 官 かん 府 ふ 』。遠 とお 則平 のりひら 陽 ひ 、蓋 ぶた 主 ぬし ,妖孽致敗;近 きん 則 のり 新城 しんじょう 、晉 すすむ 安 やす ,為 ため 時 じ 所 しょ 誡。吾 われ 聞新城 じょう 以病而卒,夫子 ふうし 受其戮辱。晉 すすむ 安之 やすゆき 丑 うし 跡 あと 上聞 じょうぶん ,有 ゆう 敕推案 あん 其事,汴州司法 しほう 李 り 思 おもえ 禎 ただし 、有司 ゆうし 御 ご 獨 どく 孤 こ 元康 もとやす 等 とう ,以穢污之狀 じょう 同 どう 時流 じりゅう 配 はい 、杖 つえ 決 けつ 者 しゃ 十 じゅう 有 ゆう 一 いち 人 にん 。帷 とばり 薄 うすき 彰 あきら 露 ろ 有 ゆう 如此者 しゃ ,非 ひ 夫 おっと 天資 てんし 淑德 しゅくとく ,以配君子 くんし ,欲求 よっきゅう 無 む 患者 かんじゃ 難 なん 矣哉!」顗雖大 だい 懼,而竟不 ふ 敢言。】葬 そう 以皇后 こうごう 禮 れい ,封土 ほうど 為 ため 覆 くつがえ 斗 と 型 がた (註:根據 こんきょ 近 ちか 年來 ねんらい 的 てき 考古 こうこ 實測 じっそく 和 わ 《唐 から 昭 あきら 陵 りょう 新城 しんじょう 長 ちょう 公主 こうしゅ 墓 はか 發掘 はっくつ 簡報》,《新 しん 唐 とう 書 しょ 所 しょ 記 き 》新城 しんじょう 公主 こうしゅ 墓 ぼ 之 の 「皇后 こうごう 禮 れい 」口實 こうじつ 不 ふ 惠 めぐみ 。)
^ 播出时因情 じょう 节与历史和 わ 原 はら 游 ゆう 戏相去 あいさり 甚远,角 かく 色 しょく 改名 かいめい 为“吕承志 こころざし ”。
参考 さんこう 文献 ぶんけん [ 编辑 ]
^ 陈寅恪 つとむ 《唐 とう 代 だい 政治 せいじ 史 し 述 じゅつ 论稿》:“李 り 唐 とう 先 さき 世 よ 若 わか 非 ひ 赵郡李 り 氏 し 之 の ‘破 やぶ 落户’即 そく 是 ぜ 赵郡李 り 氏 し 之 の ‘假 かり 冒 おかせ 牌 ぱい ’。……然 しか 则李唐 から 血 ち 统其初 はつ 本 ほん 是 ぜ 华夏,其与胡夷 こい 混 こん 杂,乃一较晚之事实也。”吕思勉 つとむ 《中国 ちゅうごく 通史 つうし ·第 だい 三 さん 十 じゅう 八 はち 章 しょう :隋 ずい 朝 あさ 和 わ 唐 とう 朝 あさ 的 てき 盛 もり 世 よ 》:“唐 から 朝 あさ 自称 じしょう 为西涼 すずし 李 り 暠之后 きさき ,近 きん 人 ひと 亦 また 有 ゆう 疑 うたぐ 其为胡 えびす 族 ぞく 的 てき ,信 しん 否 いや 可 か 不 ふ 必论,民族 みんぞく 的 てき 特 とく 征 せい ,乃文化 ぶんか 而非血 ち 统。唐 から 朝 あさ 除 じょ 太 ふと 宗 そう 太子 たいし 承 うけたまわ 乾 いぬい 具有 ぐゆう 胡 えびす 化 か 的 てき 性 せい 质,因 いん 和 わ 此时的 てき 文化 ぶんか 不 ふ 相 あい 容 よう 而被废外,其余指 ゆび 不出 ふしゅつ 一些胡化的性质来,其当认为汉民族 ぞく 无疑了 りょう 。”
^ 《资治通 どおり 鉴·卷 まき 第 だい 一 いち 百 ひゃく 九 きゅう 十 じゅう ·唐 から 纪六 》:上之 うえの 起 おこり 兵 へい 晋 すすむ 阳也,皆 みな 秦 しん 王 おう 世 よ 民 みん 之 の 谋,上 うえ 谓世民 みん 曰:“若 わか 事 こと 成 なり ,则天下 か 皆 みな 汝 なんじ 所 しょ 致,当 とう 以汝为太子 こ 。”世 よ 民 みん 拜 はい 且辞。及为唐王 とうのう ,将 はた 佐 さ 亦 また 请以世 よ 民 みん 为世子 せいし ,上 うえ 将 すすむ 立 りつ 之 の ,世 せい 民 みん 固辞 こじ 而止。太子 たいし 建 たて 成 しげる ,性 せい 宽简,喜 き 酒色 しゅしょく 游 ゆう 畋;齐王元吉 もとよし ,多 た 过失;皆 みな 无宠于上。世 よ 民 みん 功名 こうみょう 日 び 盛 もり ,上 うえ 常 つね 有意 ゆうい 以代建 たて 成 しげる ,建 たて 成 しげる 内 ない 不 ふ 自 じ 安 やす ,乃与元吉 もとよし 协谋,共 きょう 倾世民 みん ,各 かく 引树党 とう 友 とも 。
^ 《资治通 どおり 鉴·卷 まき 第 だい 一 いち 百 ひゃく 九 きゅう 十 じゅう 一 いち ·唐 から 纪七 》:建 たて 成 しげる 夜 よる 召世民 みん ,饮酒而鸩之 の ,世 せい 民 みん 暴心痛 つう ,吐血 とけつ 数 すう 升 しょう ,淮安王 おう 神通 じんずう 扶之还西宫。
^ 《资治通 どおり 鉴·卷 まき 第 だい 一 いち 百 ひゃく 九 きゅう 十 じゅう 一 いち ·唐 から 纪七 》:率 りつ 更 さら 丞 すすむ 王 おう 晊密告 みっこく 世 よ 民 みん 曰:“太子 たいし 语齐王 おう :‘今 こん 汝 なんじ 得 とく 秦 しん 王 おう 骁将精兵 せいびょう ,拥数万 まん 之 これ 众,吾 われ 与 あずか 秦 しん 王 おう 饯汝于昆明 あかり 池 ち ,使 つかい 壮士 そうし 拉 ひしげ 杀之于幕下 か ,奏 そう 云 うん 暴卒,主上 しゅじょう 宜 むべ 无不信 ふしん 。吾 われ 当 とう 使 つかい 人 じん 进说,令 れい 授吾国事 こくじ 。敬 けい 德 とく 等 とう 既 すんで 入 にゅう 汝 なんじ 手 しゅ ,宜 むべ 悉坑之 の ,孰敢不服 ふふく !’”
^ 《通 つう 鑒 》卷 まき 192載 の ,唐 から 太 ふとし 宗 そう 貞 さだ 觀 かん 元年 がんねん ,「上 うえ 好 こう 騎射 きしゃ ,孫 まご 伏 ふく 伽 とぎ 諫,以為:『天子 てんし 居 きょ 則 そく 九 きゅう 門 もん ,行 ぎょう 則 そく 警蹕 けいひつ ,非 ひ 欲 よく 苟自尊嚴 そんげん ,乃為社稷 しゃしょく 生 せい 民 みん 之 の 計 けい 也。陛下 へいか 好 こう 自 じ 走 はし 馬 うま 射的 しゃてき 以娛悅 えつ 近臣 きんしん ,此乃少年 しょうねん 為 ため 諸王 しょおう 時 じ 所為 しょい ,非 ひ 今日 きょう 天子 てんし 事業 じぎょう 也。既 すんで 非 ひ 所以 ゆえん 安 やす 養 やしなえ 聖 せい 躬,又 また 非 ひ 所以 ゆえん 儀 ぎ 刑 けい 後世 こうせい ,臣 しん 窮 きゅう 為 ため 陛下 へいか 不 ふ 取 と 。』上 うえ 悅 えつ 。未 み 幾 いく ,以伏伽 とぎ 為 ため 諫議大夫 たいふ 。」韓 かん 琬 《御 ご 史 し 台 だい 記 き 》:「伏 ふく 伽 とぎ ,武德 ぶとく 中 ちゅう 自 じ 萬年主簿上疏極諫,太 ふとし 宗 むね 怒 いか ,命 いのち 引出斬 き 之 これ 。伏 ふく 伽 とぎ 曰:『臣 しん 寧 やすし 與 あずか 關 せき 龍 りゅう 逢游於地下 か ,不 ふ 願事 ねがいごと 陛下 へいか 。』太 ふとし 宗 そう 曰:『朕 ちん 試 ためし 卿 きょう 耳 みみ 。卿 きょう 能 のう 若 わか 是 ぜ ,朕 ちん 何 なん 憂 ゆう 社稷 しゃしょく !』命 いのち 授之三 さん 品 ひん 。宰 おさむ 臣 しん 曰:『伏 ふく 伽 とぎ 匡 ただし 陛下 へいか 之 の 過 か ,自主 じしゅ 簿 ぼ 授之三 さん 品 ひん ,彰 あきら 陛下 へいか 之 の 過 か 深 ふか 矣,請授之 の 五 ご 品 ひん 。』遂 とげ 拜 はい 為 ため 諫議大夫 たいふ 。」
^ 司 つかさ 马光. 《资治通 どおり 鉴·唐 から 纪》贞观二 に 十 じゅう 一 いち 年 ねん 五月 ごがつ 条 じょう .
^ 《唐 とう 會 かい 要 よう ·史 し 館 かん 雜錄 ざつろく 上 じょう 》:貞 さだ 觀 かん 九 きゅう 年 ねん 十 じゅう 月 がつ ,諫議大夫 たいふ 朱子 しゅし 奢 おご 上表 じょうひょう 曰:今月 こんげつ 十 じゅう 六 ろく 日 にち ,陛下 へいか 出 で 聖旨 せいし ,發 はつ 德 とく 音 おん ,以起居 ききょ 記錄 きろく 書 しょ 帝王 ていおう 藏 ぞう 否 いな ,前代 ぜんだい 但 ただし 藏 ぞう 之 の 史官 しかん ,人 にん 主 ぬし 不 ふ 見 み 。今 こん 欲 よく 親 おや 自 じ 觀覽 かんらん ,用 よう 知得 ちとく 失 しつ 。
^ 《書 しょ 唐 から 隱 かくれ 太子 たいし 傳 でん 後 ご 》
^ 《通 つう 鉴纪事 ごと 本末 ほんまつ ·卷 まき 二 に 十 じゅう 八 はち ·太 ふと 宗 そう 平内 へいない 乱 らん 》、《通 つう 鉴纪事 ごと 本末 ほんまつ ·卷 まき 二 に 十 じゅう 八 はち ·太 ふと 宗易 そうえき 太子 たいし 》二 に 事 こと 連載 れんさい
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^ Yule (1915), p 29; footnote No. 4 on p. 29.
^ 《舊 きゅう 唐 とう 書 しょ ·郝處俊 しゅん 傳 つて 》載 の ,唐 から 太 ふとし 宗 そう 李 り 世 よ 民 みん 「服 ふく 胡 えびす 僧 そう 長生 ちょうせい 藥 やく ,遂 とげ 致暴疾 やまし 不 ふ 救 すくい 。」「時 とき 議 ぎ 者 しゃ 歸 き 罪 ざい 於胡人 じん ,將 はた 申 さる 顯 あらわ 戮,又 また 恐 おそれ 取 ど 笑 わらい 夷狄 いてき ,法 ほう 遂 とげ 不 ふ 行 くだり 。」
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^ 根 ね 据 すえ 《大 だい 明太 めんたい 祖 そ 高 だか 皇帝 こうてい 实录》(简称《明太 めんたい 祖 そ 实录》)卷 まき 九 きゅう 十 じゅう 二 に 记载,明太 めんたい 祖 そ 朱 しゅ 元 もと 璋 あきら 在 ざい 洪 ひろし 武 ぶ 七 なな 年 ねん 八 はち 月 がつ 初 はつ 一 いち 日 にち ,亲自前 ぜん 往南京 なんきん 历代帝王 ていおう 庙祭祀 さいし 从伏 ふく 羲至 いたり 元 もと 世 よ 祖 そ 十 じゅう 七 なな 位 い 帝王 ていおう ,这十 じゅう 七 なな 位 い 帝王 ていおう 分 ぶん 别是:三 さん 皇 すめらぎ (伏 ふく 羲 、炎 ほのお 帝 みかど 、黄 き 帝 みかど )、五 ご 帝 みかど (少 しょう 昊 ひろし 、颛顼 、高 こう 辛 からし 、唐 から 尧 、虞 おそれ 舜 しゅん )、三 さん 王 おう (夏 なつ 禹王、商 しょう 汤王、周 しゅう 武 たけし 王 おう )、汉高祖 こうそ 、汉光武 みつたけ 帝 みかど 、隋 ずい 文 ぶん 帝 みかど ,唐 から 太 ふとし 宗 そう 、宋 そう 太 ふとし 祖 そ 、元 もと 世 よ 祖 そ 。洪 ひろし 武 ぶ 二 に 十 じゅう 一 いち 年 ねん (1388年 ねん )隋 ずい 文 ぶん 帝 みかど 的 てき 塑像 そぞう 被 ひ 撤出南京 なんきん 历代帝王 ていおう 庙,根 ね 据 すえ 《大 だい 明太 めんたい 祖 そ 高 だか 皇帝 こうてい 实录》(简称《明太 めんたい 祖 そ 实录》)卷 まき 之 の 一 いち 百 ひゃく 八 はち 十 じゅう 八 はち 记载:洪 ひろし 武 ぶ 二 に 十 じゅう 一 いち 年 ねん 春 はる 正月 しょうがつ “戊 つちのえ 午 うま ,遣 や 官 かん 祀 まつ 历代帝王 ていおう 。初 はつ ,历代帝王 ていおう 庙五 ご 室 しつ 祀 まつ ,伏 ふく 羲至元 もと 世 よ 祖 そ 凡十 じゅう 七 なな 帝 みかど 。至 いたり 是 ぜ ,去 さ 隋 ずい 文 ぶん 帝 みかど ,凡十 じゅう 六 ろく 帝 みかど ,为五室 しつ ,中 ちゅう 三 さん 室 しつ 居 い 三 さん 皇 すめらぎ 、五 ご 帝 みかど 、三 さん 王 おう 如旧,最 さい 东一室 しつ 则汉高祖 こうそ 、光武 みつたけ 、唐 から 太 ふとし 宗 そう ,最 さい 西 にし 一室则宋太祖、元 もと 世 よ 祖 そ ,从祀名 めい 臣 しん 凡四坛,东庑第 だい 一 いち 坛九 きゅう 人 にん ,风后 、皋陶 、龙、伯 はく 益 えき 、傅 でん 说 、召公奭 、召虎 、张良 、曹参 ,西 にし 庑第一 いち 坛九 きゅう 人 にん ,力 ちから 牧 まき 、夔 、伯 はく 夷 えびす 、伊 い 尹 いん 、周 しゅう 公 こう 旦 だん 、太公望 たいこうぼう 、方 ほう 叔 、萧何 、陈平 ,东庑第 だい 二 に 坛十 じゅう 人 にん ,周 しゅう 勃 、冯异 、房 ぼう 玄 げん 龄、李 り 靖 やすし 、李 り 晟 あきら 、潘 はん 美 よし 、岳 たけ 飞 、木 き 华黎 、博 ひろし 尔忽 、伯 はく 颜 ,西 にし 庑第二 に 坛九 きゅう 人 にん ,邓禹 、诸葛亮 あきら 、杜 もり 如晦、郭 かく 子 こ 仪 、曹彬 、韩世忠 ただし 、张浚 、博 ひろし 尔术 、赤 あか 老 ろう 温 あつし 。”
^ 来 らい 源 みなもと 于《大 だい 明太 めんたい 祖 そ 高 だか 皇帝 こうてい 实录》(简称《明太 めんたい 祖 そ 实录》)卷 まき 九十二的相关记载。
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^ 《舊 きゅう 唐 とう 書 しょ ·本紀 ほんぎ 第 だい 二 に :太 ふとし 宗 むね 上 じょう 》:高祖 こうそ 之 の 临岐州 しゅう ,太 ふとし 宗 そう 时年四 よん 岁。有 ゆう 书生自 じ 言 げん 善 ぜん 相 しょう ,谒高祖 こうそ 曰:“公 おおやけ 贵人也,且有贵子。”见太宗 むね ,曰:“龙凤之 の 姿 すがた ,天日 てんじつ 之 の 表 ひょう ,年 ねん 将 しょう 二 に 十 じゅう ,必能济世安 やす 民 みん 矣。”高祖 こうそ 惧其言 げん 泄,将 はた 杀之,忽 ゆるがせ 失 しつ 所在 しょざい ,因 いん 采 さい “济世安 やす 民 みん ”之 の 义以为名焉。
^ 《资治通 どおり 鉴‧卷 まき 第 だい 一 いち 百 ひゃく 八 はち 十 じゅう 二 に ‧隋 ずい 纪六》
^ 《大 だい 唐 から 新語 しんご ·卷 まき 一 いち 》:太 ふとし 宗 むね 射 い 猛 もう 兽于苑 えん 内 ない ,有 ゆう 群 ぐん 豕 いのこ 突出 とっしゅつ 林 りん 中 ちゅう ,太 ふとし 宗 そう 引弓射 しゃ 之 の ,四 よん 发殪四 よん 豕 いのこ 。有 ゆう 一雄 かずお 豕 いのこ ,直来 なおらい 冲马,吏部尚 なお 书唐俭下马搏之 の 。太 ふとし 宗 そう 拔剑断 だん 豕 いのこ ,顾而笑 わらい 曰:“天 てん 策 さく 长史,不 ふ 见上将 はた 击贼耶何惧之甚?”俭对曰:“汉祖以马上 じょう 得 とく 之 の ,不 ふ 以马上 うえ 理之 まさゆき 。陛下 へいか 以神武 たけ 定 じょう 四方 しほう ,岂复逞 たくまし 雄心 ゆうしん 于一兽!”太 ふとし 宗 そう 善之 よしゆき ,因 いん 命 いのち 罢猎。
^ 玄 げん 應 おう 《一切經 いっさいきょう 音義 おんぎ 》卷 まき 五 ご :「舊譯 きゅうやく 觀世音 かんぜおん ,或 ある 言 げん 光世 みつよ 音 おん ,並 なみ 訛 なまり 。又 また 尋 ひろ 天竺 てんじく 多 た 羅 ら 葉 よう 本 ほん ,皆 みな 云 うん 舍 しゃ 婆 ばば 羅 ら ,則 のり 譯 やく 為 ため 自在 じざい 。雪山 ゆきやま 以來 いらい 經 けい 本 ほん ,皆 みな 云 うん 娑婆 しゃば 羅 ら ,則 のり 譯 やく 為 ため 音 おん 。當 とう 以舍、娑 しゃば 兩 りょう 聲 こえ 相近 すけちか ,遂 とげ 致訛失 しつ 。」
^ 《隋 ずい 唐 から 嘉 よしみ 话 》:太 ふとし 宗 そう 得 とく 鹞,绝俊异,私 わたし 自 じ 臂 ひじ 之 の 。望 もち 见郑公 こう (魏 ぎ 征 せい ),乃藏于怀。公知 こうち 之 の ,遂 とげ 前 ぜん 白 しろ 事 ごと ,因 いん 语古帝王 ていおう 逸 いっ 豫 よ ,微 ほろ 以讽谏。语久,帝 みかど 惜鹞且死,而素严敬征 せい ,欲 よく 尽 つき 其言。征 せい 语不时尽,鹞死怀中。
^ 《新 しん 唐 から 书·卷 まき 一 いち 百 ひゃく 一 いち 十 じゅう 八 はち ·列 れつ 传三 さん 十 じゅう 》
^ 《新 しん 唐 から 书·卷 まき 九 きゅう 十 じゅう 六 ろく ·列 れつ 传第八 はち 》:薨年十 じゅう 二 に 。帝 みかど 阅三 さん 旬 しゅん 不 ふ 常 つね 膳 ぜん ,日数 にっすう 十 じゅう 哀 あい ,因 いん 以癯羸。群臣 ぐんしん 进勉,帝 みかど 曰:“朕 ちん 渠 みぞ 不知 ふち 悲爱无益?而不能 ふのう 已 やめ ,我 わが 亦 また 不知 ふち 其所以然。”
^ 《北 きた 宋 そう ·鸡肋编 》
^ 《新 しん 唐 から 书·卷 まき 九 きゅう 十 じゅう 六 ろく ·列 れつ 传第八 はち 》:因 いん 诏有司 ゆうし 簿 ぼ 主 しゅ 汤沐余 あまり 赀,营佛祠 ほこら 墓 ぼ 侧。
^ 《唐 から 护法沙 すな 门法琳别传》卷 まき 三 さん :“帝 みかど 曰:朕 ちん 本 ほん 系 けい 老 ろう 聃,东周隐德,末 まつ 叶 かのう 承 うけたまわ 嗣,起 おこり 自 じ 陇西,……朕 ちん 所以 ゆえん 尊 みこと 乎祖风,高 こう 出 で 一 いち 乘 じょう 之 の 上 うえ ,敦 あつし 乎本化 か ”“琳闻,拓 つぶせ 拔达阇,唐 から 言 げん 李 り 氏 し 。陛下 へいか 之 の 李 り ,斯即其苗,非 ひ 柱 はしら 下 か 陇西之 の 流 ながれ 也。”《唐 から 护法沙 すな 门法琳别传》:“帝 みかど 时大怒 いか 竖目,问法师曰:朕 ちん 闻周之 の 宗 そう 盟 めい 异姓为后,尊 みこと 祖 そ 重 じゅう 亲寔由 よし 先 さき 古 いにしえ ,何 なに 为追逐其短 たん 禽鼠两端。广引形 がた 似 に 之 の 言 げん ,备陈不 ふ 逊之喻。擢发数 すう 罪 ざい 比 ひ 此犹轻,尽 つき 竹 ちく 书愆方 かた 斯未拟。爬毁朕 ちん 之 の 祖 そ 祢。谤黩朕 ちん 之 の 先人 せんじん 。如此要 かなめ 君 くん 理 り 有 ゆう 不 ふ 恕 じょ !”
^ 馮承鈞 ひとし 〈唐 とう 代 だい 華 はな 化 か 蕃 しげる 胡 えびす 考 こう 〉,發表 はっぴょう 於《東方 とうほう 雜誌 ざっし 》27卷 かん 17號 ごう ,收入 しゅうにゅう 《馮承鈞 ひとし 西北 せいほく 史 し 地 ち 論集 ろんしゅう 》,中國 ちゅうごく 國際 こくさい 廣 こう 播出版 しゅっぱん 社 しゃ ,2013年 ねん 。
^ 嚴 いむ 耕 こう 望 もち 《治 ち 史 し 經驗 けいけん 談 だん 》:「《新 あたらし 修 おさむ 本草 ほんぞう 》十 じゅう 七 なな 〈蒲 がま 陶 すえ 條 じょう 〉云 うん :『蒲 がま 陶 すえ ……生 なま 隴西、五 ご 原 はら 、燉煌山谷 さんや 。』本 ほん 注 ちゅう :『魏 ぎ 國 こく 使 つかい 人 じん 多 た 賚來。……此國人 じん 多 た 肥 こえ 健 けん 耐寒 たいかん ,蓋 ぶた 食 しょく 斯乎?』……這條材料 ざいりょう 顯示 けんじ 北朝 ほくちょう 人 じん ,或 ある 許 もと 指 ゆび 鮮卑人 じん ,多 た 肥 こえ 健 けん 。……北朝鮮 きたちょうせん 卑人體 じんたい 肥 こえ 健 けん 似 に 無 む 其他史料 しりょう 可 か 考 かんがえ ,你想這條史料 しりょう 多 た 麼重要 じゅうよう 。閻立本 ほん 繪 え 歷代 れきだい 帝王 ていおう 圖 ず ,好 こう 像 ぞう 把 わ 唐 とう 太 ふとし 宗 むね 畫 が 得 とく 很肥胖 ゆたか ,大概 たいがい 因 いん 為 ため 他 た 本有 ほんゆう 胡 えびす 人 じん 血統 けっとう ?」
^ 陳 ちん 寅 とら 恪 つとむ 〈李 り 唐 から 氏族 しぞく 推測 すいそく 之 の 後記 こうき 〉:「李 り 唐 から 一族 いちぞく 之 の 所以 ゆえん 崛興,蓋 ぶた 取 と 塞外 さいがい 野蠻 やばん 精悍 せいかん 之 の 血 ち ,注入 ちゅうにゅう 中原 なかはら 文化 ぶんか 頹廢之 の 軀,舊 きゅう 染 しみ 既 すんで 除 じょ ,新 しん 機 き 重 じゅう 啟 けい ,擴大 かくだい 恢張,遂 とげ 能 のう 別 べつ 創 そう 空前 くうぜん 之 の 世 よ 局 きょく 。」
^ 陳 ちん 寅 とら 恪 つとむ 《唐 とう 代 だい 政治 せいじ 史 し 述 じゅつ 論 ろん 稿 こう 》:「若 わか 以女系 けい 母 はは 統 すべ 言 ごと 之 の ,唐 とう 代 だい 創業 そうぎょう 及初期 き 君主 くんしゅ ,如高祖 こうそ 之 の 母 はは 為 ため 獨 どく 孤 こ 氏 し ,太 ふとし 宗之 むねゆき 母 はは 為 ため 竇氏,即 そく 紇豆陵 りょう 氏 し ,高 こう 宗之 むねゆき 母 はは 為 ため 長 ちょう 孫 まご 氏 し ,皆 みな 是 ぜ 胡 えびす 種 しゅ ,而非漢 かん 族 ぞく 。故 こ 李 り 唐 から 皇室 こうしつ 之 の 女系 じょけい 母 はは 統 すべ 雜 ざつ 有 ゆう 胡 えびす 族 ぞく 血 ち 胤 たね ,世 せい 所 しょ 共 ども 知 ち 。」
^ 錢 せん 穆 きよし 《國史 こくし 大綱 たいこう 》第 だい 五 ご 編 へん 第 だい 27章 しょう 〈新 しん 的 てき 統一 とういつ 盛運 せいうん 下之 したの 對外 たいがい 姿態 したい 〉:「近 きん 人 ひと 有 ゆう 主 ぬし 李 り 唐 から 為 ため 蕃 しげる 姓 せい 者 しゃ ,其事信 しんじ 否 いな ,無 む 確 かく 據 よりどころ 。然 しか 唐 から 高祖 こうそ 李 り 淵 ふかし 母 はは 獨 どく 孤 こ 氏 し ,太 ふとし 宗 そう 母 はは 竇氏,外祖母 がいそぼ 宇文 うぶん 氏 し ,高 こう 宗 はじめ 母 はは 長 ちょう 孫 まご 氏 し ,玄 げん 宗 むね 母 はは 竇氏,皆 みな 胡 えびす 族 ぞく 也。則 のり 李 り 唐 から 世 よ 系 けい 之 の 深 ふか 染 しみ 胡 えびす 化 か ,不 ふ 容 よう 諍 いさかい 論 ろん 。」
^ 薩孟武 たけ 《西遊 せいゆう 記 き 與 あずか 中國 ちゅうごく 古代 こだい 政治 せいじ 》:「隋 ずい 唐 から 統一 とういつ 華 はな 夏 なつ ,而隋唐 から 皇室 こうしつ 皆 みな 是 ぜ 虜 とりこ 漢 かん 相 しょう 雜 ざつ 。……唐 から 高祖 こうそ 李 り 淵 ふかし ,祖 そ 虎 とら 在 ざい 周 しゅう 賜 たまもの 大野 おおの 氏 し ,官 かん 至 いたり 柱 ばしら 國 こく 大將軍 だいしょうぐん ,遷太尉 じょう 。高祖 こうそ 后 きさき 竇氏雖為華人 かじん ,然 しか 東 ひがし 漢 かん 靈 れい 帝 みかど 時 じ ,亡 ほろび 奔匈奴 やつ 。遂 とげ 為 ため 部落 ぶらく 大人 おとな ,其血統 けっとう 似 に 屬 ぞく 漢 かん 胡 えびす 雜種 ざっしゅ 。太 ふとし 宗 むね 娶 めと 長 ちょう 孫 まご 氏 し 為 ため 后 きさき ,長 ちょう 孫 まご 氏 し 乃是鮮卑種族 しゅぞく 。隋 ずい 唐 から 皇室 こうしつ 雖然是 ぜ 漢 かん 胡 えびす 雜種 ざっしゅ ,而卻自 じ 居 きょ 為 ため 華人 かじん 。」
^ 岑仲勉 つとむ 《隋 ずい 唐 とう 史 し 》:「涉 わたる 李 り 唐 から 世 よ 系 けい ,近 きん 人 ひと 曾提出 ていしゅつ 兩 りょう 項 こう 問題 もんだい :其一為繆鳳林漢胡混合之北統。茲列舉李氏 し 之 の 血統 けっとう 如下:除 のぞき 獨 どく 孤 こ 、長 ちょう 孫 まご 都 と 屬 ぞく 鮮卑無 な 疑 うたぐ 外 そと ,竇氏之 の 先 さき ,相傳 そうでん 自 じ 後 こう 漢 かん 奔匈奴 やつ ,故 こ 說 せつ 者 しゃ 亦 また 視 し 如漠北之 きたの 族 ぞく 。吾 われ 人 じん 對 たい 上古 じょうこ 史 し 能 のう 深入 ふかいり 研究 けんきゅう ,此等問題 もんだい ,已 やめ 覺 さと 不 ふ 甚重要 じゅうよう 。萊忙脫 だっ 氏 し 言 ごと :『德 とく 人 じん 自 じ 誇 ほこ 為 ため 優越 ゆうえつ 人種 じんしゅ ,且是純粹 じゅんすい 的 てき 諾 だく 曼種,實際 じっさい 上 うえ 則 そく 彼 かれ 輩 やから 已 やめ 是 ぜ 最 さい 複雜 ふくざつ 的 てき 混血 こんけつ ,此種現象 げんしょう ,世界 せかい 上 じょう 各 かく 民族 みんぞく 殆莫不 ふ 皆 みな 然 しか 。』劉 りゅう 盼遂曾著《李 り 唐 から 為 ため 蕃 しげる 姓 せい 考 こう 》三 さん 篇 へん ,最後 さいご 又 また 自 じ 取消 とりけし 其說,然 しか 猶 なお 有 ゆう 深 ふか 信 しんじ 不 ふ 疑 うたぐ 者 しゃ 。」
^ 見 み 劉 りゅう 盼遂〈李 り 唐 から 為 ため 蕃 しげる 姓 せい 考 こう 〉、〈李 り 唐 から 為 ため 蕃 しげる 姓 せい 考 こう 續 つづけ 〉、〈李 り 唐 から 為 ため 蕃 しげる 姓 せい 三 さん 考 こう 〉,發表 はっぴょう 於《女 おんな 師 し 大 だい 學術 がくじゅつ 季刊 きかん 》。
^ 見 み 王 おう 桐 きり 齡 よわい 〈楊隋李 り 唐 とう 先 さき 世 よ 系統 けいとう 考 こう 〉,發表 はっぴょう 於《女 おんな 師 し 大 だい 學術 がくじゅつ 季刊 きかん 》,1932年 ねん 。
^ 向 むかい 達 いたる 《唐 とう 代 だい 長安 ながやす 與 あずか 西域 せいいき 文明 ぶんめい 》:「李 り 唐 から 氏族 しぞく ,據 よりどころ 最近 さいきん 各 かく 家 いえ 考證 こうしょう ,出 で 于蕃姓 せい ,似 に 有可 ゆか 信 しん 。」
^ 見 み 陳 ちん 登 のぼる 原 はら 《國史 こくし 舊聞 きゅうぶん 》,台北 たいぺい :明 あきら 文書 ぶんしょ 局 きょく ,1984年 ねん 出版 しゅっぱん 。
^ 劉 りゅう 學 まなぶ 銚《大 だい 遼 りょう 王朝 おうちょう :青 あお 牛 うし 、白馬 しろうま 、黑 くろ 契 ちぎり 丹 に 》:「如果從 したがえ 民族 みんぞく 的 てき 成分 せいぶん 來 らい 看 み ,唐 から 朝 あさ 的 てき 建國 けんこく 者 しゃ 李 り 氏 し 家族 かぞく 是 ぜ 胡 えびす 是 ぜ 漢 かん ,向 むかい 來 らい 是 ぜ 史 し 學界 がっかい 爭論 そうろん 焦點 しょうてん 。李 り 淵 ふかし 的 てき 先人 せんじん 曾在鮮卑族 ぞく 宇文 うぶん 氏 し 的 てき 北 きた 周 しゅう 時 じ ,被 ひ 賜 たまもの 姓 せい 大野 おおの 氏 し ,而高車 しゃ 族 ぞく (也就是 ぜ 鐵 てつ 勒、敕勒)中 なか 也有 やゆう 大野 おおの 氏 し ,可 か 見 み 李 り 氏 し 一族有濃厚的胡族血統。」,台北 たいぺい 風格 ふうかく 司 し 藝術 げいじゅつ 創作 そうさく 坊 ぼう 出版 しゅっぱん ,2012年 ねん 初版 しょはん 。
^ 苏日巴 ともえ 达拉哈著《蒙 こうむ 古 こ 族 ぞく 族 ぞく 源 げん 新 しん 考 こう 》,民族 みんぞく 出版 しゅっぱん 社 しゃ ,1986年 ねん 。
^ 《新 しん 唐 とう 書 しょ ·太 ふと 宗子 むねこ 》 ,《新 しん 唐 とう 書 しょ ·太 ふと 宗 そう 諸子 しょし 》
^ 《新 しん 唐 とう 書 しょ ·諸 しょ 帝 みかど 公主 こうしゅ 列傳 れつでん 》
^ 参 まいり 见:《汝 なんじ 南 みなみ 公主 こうしゅ 墓 ぼ 志 こころざし 》。
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《欽定 きんてい 古今 ここん 圖書 としょ 集成 しゅうせい ·明倫 めいりん 彙編·皇 すめらぎ 極 ごく 典 てん ·第 だい 五 ご 十 じゅう 四 よん 卷 かん 》,出自 しゅつじ 陈梦雷 かみなり 《古今 ここん 圖書 としょ 集成 しゅうせい 》
《舊 きゅう 唐 とう 書 しょ ·卷 まき 2 》,出自 しゅつじ 刘昫 《舊 きゅう 唐 とう 書 しょ 》
《舊 きゅう 唐 とう 書 しょ ·卷 まき 3 》,出自 しゅつじ 刘昫 《舊 きゅう 唐 とう 書 しょ 》
《新 しん 唐 とう 書 しょ /卷 まき 002 》,出自 しゅつじ 《新 しん 唐 とう 書 しょ 》
参 まいり 见[ 编辑 ]
父母 ちちはは 兄弟 きょうだい 姊妹 后妃 こうひ 皇子 おうじ 皇女 おうじょ