からふとしむね

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重定しげさだこうみん
からふとしむね
からあさ皇帝こうてい
みんぞう明代あきよ
からあさだい2にん皇帝こうてい
統治とうち626ねん9がつ4にち-649ねん7がつ10日とおか(22ねん309てん
前任ぜんにんから高祖こうそふかし
つぎにんとうだかむねおさむ
ふとし上皇じょうこうから高祖こうそふかし(626ねん-635ねん
てんあせ
統治とうち630ねん4がつ20日はつか-649ねん
前任ぜんにんくびにん
つぎにんとうだかむねおさむ
出生しゅっしょう(598-01-28)598ねん1がつ28にち[a]
ずいぶんみかどひらきすめらぎじゅうななねん十二月じゅうにがつじゅうにち
ずいあさ岐州武功ぶこうけんけいぜんみやいま陝西せんせいしょう咸陽武功ぶこうけん
逝世649ねん7がつ10日とおか(649さい—07—10)(51さい
さだかんじゅうさんねんがつじゅうろくにち
やすそう
配偶はいぐうちょうまご皇后こうごう
韋貴
杨贵
楊妃
かげ
つばめいさお
ていけん
じょけん
韋昭よう
あきら某氏ぼうし
婕妤某氏ぼうし
楊婕妤
しょう美人びじん
ちぇ才人さいじん
しょう才人さいじん
武則たけのりてん
宫中嫔某
こう
王妃おうひ楊氏
おう
杨氏
某氏ぼうし
さんひんほろびみやあまね
さんひんほろびみやきん
ひんほろびみや
さんひんほろびあま
ななひんてんとう
  1. うけたまわいぬい
  2. ひろし
  3. つとむ
  4. やすし
  5. ゆう
  6. さだ
  7. おさむとうだかむね
  8. まこと
  9. ぶく
  10. あきら

おんな

  1. じょうじょう公主こうしゅ
  2. なんじみなみ公主こうしゅ
  3. 南平みなみだいら公主こうしゅ
  4. とげやす公主こうしゅ
  5. 長樂ながら公主こうしゅ
  6. あきら公主こうしゅ
  7. ともえりょう公主こうしゅ
  8. やす公主こうしゅ
  9. 東陽とうよう公主こうしゅ
  10. 臨川りんせん公主こうしゅ
  11. 清河きよかわ公主こうしゅ
  12. らんりょう公主こうしゅ
  13. すすむやす公主こうしゅ
  14. 安康あんこう公主こうしゅ
  15. 新興しんこう公主こうしゅ
  16. 城陽じょうよう公主こうしゅ
  17. こう公主こうしゅ
  18. 金山かなやま公主こうしゅ
  19. すすむ公主こうしゅ
  20. 常山つねやま公主こうしゅ
  21. 新城しんじょう公主こうしゅ
  22. つぎおんなていじょうけんぬし
ぜん
みん
時代じだい及年ごう
さだかん:627ねん1がつ23にち-649ねん7がつ10日とおか
谥号
ぶん皇帝こうてい【649年初ねんしょおくりな
文武ぶんぶせい皇帝こうていこうはじめじょうもと元年がんねん(674ねんおくりな
文武ぶんぶ大聖たいせい皇帝こうていげんむね天寶てんぽうはち载(749ねんおくりな
文武ぶんぶ大聖たいせい大廣おおひろこう皇帝こうていげんむね天寶てんぽうじゅうさん载(754ねんおくりな
庙号
ふとしむね
王朝おうちょうからあさ
父親ちちおやから高祖こうそふかし
母親ははおやふときよし皇后こうごう窦氏

からふとしそうみん(598ねん1がつ28にち[a]—649ねん7がつ10日とおか[b][c][d]),からあさだいにん皇帝こうていだい一任いちにん宰相さいしょうから高祖こうそふかし次子じし母親ははおやふときよし皇后こうごう窦氏,ため中國ちゅうごく歷史れきしじょう著名ちょめいてき政治せいじ軍事ぐんじ民族みんぞくどもぬしひらきそうりょう奠定から朝立あさだちこく基礎きそてき贞观」,いん此成ためとうだい乃至ないし中國ちゅうごく歷史れきしじょうさいとおる盛名せいめいてき皇帝こうていいちまたため後世こうせいそうしょうこう仿的明君めいくん典範てんぱんいちざい灭亡东突厥あせこくきさききゅうせい铁勒西域せいいき诸国国王こくおう吐火ようまもる尊稱そんしょうためてんあせ」,なりため首位しゅいてんあせ

みん少年しょうねん从军,曾于かり门关营救ずい炀帝すすむ阳起へいおさむ长安きさき,受封はたこうからあさ建立こんりゅうきさきふうてんさくじょうはたはたおうふとしじょうつかさけんなお书令杰出てき軍事ぐんじりつ平定へいていりょう薛仁杲刘武しゅう建德けんとくおうたかしひとしずいまつ群雄ぐんゆうためとうあさてき建立こんりゅうあずか统一过程立下赫赫战功。

武德ぶとくきゅうねんおおやけもと626ねん)发动玄武げんぶもんへんころせあに太子たいしたてしげるよんおとうと齐王元吉もとよし二人及二人诸子而被立为太子たいしひさから高祖こうそせり退位たいいみん即位そくいためからふとしむね在位ざいい時間じかんただ使用しよういち個年かねんごう贞观

みんのぼりはじめ積極せっきょく聽取ちょうしゅ群臣ぐんしん意見いけん文治ぶんじ天下でんか,开疆つぶせなりため中國ちゅうごく史上しじょう著名ちょめいてき明君めいくん虛心きょしんおさめ諫,在國ざいこく內厲ぎょう節約せつやく使つかい百姓能够休養生息,おわり於使とく社會しゃかい出現しゅつげんりょうこくたいみんやすてき局面きょくめんひらきそう中国ちゅうごく历史うえ著名ちょめいてきさだかん,为后らいてき开元もり(またたたえためひらけ元之もとゆき)以及からあさ130ねんてきもり奠定重要じゅうよう基礎きそみん爱好文学ぶんがくあずか书法,其真迹今仅存すすむほこら铭并じょいしぶみこく。649ねん7がつ10日とおか(贞观じゅうさんねんがつおのれ),みんいんびょうくずし含风殿どの享年きょうねん51岁,在位ざいい23ねん庙号ふとしむね諡號しごうぶん皇帝こうてい」,與原よはらはい文德ふみのり皇后こうごうちょうまごごうそうあきらりょう

生平おいだいら[编辑]

早年そうねん经历[编辑]

ずいぶんみかどひらきすめらぎじゅうななねんじゅうがつつちのえうま[c](598ねん1がつ28にち[b]みん出生しゅっしょう岐州武功ぶこうけんてきけいぜん宮中きゅうちゅう武功ぶこう別館べっかん),當時とうじ擔任たんにんずいあさ岐州刺史ししてきかんぞくかん[1]ふかしあずか竇氏所生しょせいてき嫡次。竇氏ゆうよんいち女兒じょじ,按長幼ちょうよう顺序ためたてしげるたいらようあきら公主こうしゅみんげん元吉もとよしよし于李渊的はは亲元贞皇后こうごうかずみんてきはは亲窦すんでゆう汉人统也ゆう鲜卑统,所以ゆえんみん父子ふしえびす混合こんごう统。

ずい炀帝だいきゅうねん(613ねん),母親ははおやざい涿郡いま北京ぺきん西南せいなんびょう逝,鸿胪てられいろう高士こうしれんちゅうりょうみんがいおいおんなちょうまごのぼりはじめしょうちょうまご皇后こうごうもと配給はいきゅうみんためつま

大業おおわざじゅういちねん(615ねん),くもていきょう授以ひだりたむろまもる大將軍だいしょうぐんたてまついのち援救ざいかりもんせき突厥はじめ畢可あせところりつ大軍たいぐんかこえこまてきずい煬帝ずい煬帝じん詔書しょうしょ綁在木頭きとうじょうすすむ汾河ゆずる詔書しょうしょ順流じゅんりゅう而下,希望きぼう有人ゆうじんいた詔書しょうしょぜんらい救援きゅうえんくもていきょうこう各地かくち招募願意がんい出征しゅっせいてきぐんみんねんただゆうじゅうろくさいまえ應募おうぼ從軍じゅうぐん劃歸くもていきょうてきとばりくもていきょう手下てしたただゆうりょうまん新兵しんぺい,且多步兵ほへいみんこうくもていきょう建議けんぎ:突厥敢圍こま天子てんし認定にんていわが們沒ゆう援軍えんぐん如我們把軍隊ぐんたい前後ぜんこうひしげひらけのべ綿めんすうじゅうゆずるてきぐんしろてん旌旗せいき招展,ばんじょう聽見鉦鼓しょうこ聲聲こえごえあやま以為大軍たいぐんあつさかい,如此才能さいのう不戰ふせん而勝。わか們知わが虛實きょじつりょうへいしょうせっのり勝敗しょうはいなんりょうくもていきょう採納さいのうりょうみんてきうたぐへいけいおさむ突厥,突厥へいいたずいぐんひろしひろし蕩蕩とうとうからま繹不ぜっ果然かぜん以為ずいぐんだい批救へいいた,於是かいかこえ撤退てったい

ずい大業おおわざじゅうねん(616ねん),父親ちちおやふかしますにんずいあさみぎ驍衛將軍しょうぐん大業おおわざじゅうさんねん(617ねん正月しょうがつふかしまた遷任ふとしはらぐん留守るすみん也跟したがえいたふとはらたてしげる元吉もとよし们的异母おとうとさとしうんとめざいかわ东郡いま山西さんせいしょうえい济市)。みんねんじゅうはちがたならいおさむふとしはらふかしりつへいおさむ不幸ふこう深入ふかいり敵陣てきじん無法むほう衝出重圍じゅういみん以輕突圍而進,ちょうゆみしゃてきしょこうみな披靡,すくいふかしまん眾之ちゅう。其後てき步兵ほへいまたいたりふかしあずかみんまた奮擊,大破たいは敌军。

すすむ阳起へい[编辑]

ずいあさ各地かくちはんこえよんおこり戰火せんか瀰漫びまんみん聊生。みん準備じゅんび舉義へい,于是なで百姓ひゃくしょう禮遇れいぐうへい散財さんざいやしなえきゃく江湖こうこ人士じんし、俠客義士ぎし,莫不ねがいこう死力しりょくためからおこり義兵ぎへい做好充分じゅうぶん準備じゅんびみんざいふとしげん结纳长孙顺德刘弘もと窦琮とうひとあずかすすむ阳宫监裴寂かずすすむ阳县れい刘文せいしょう议勸諫父親ちちおや渊起へいはんずい。东突厥支持しじてきてい杨可あせ刘武しゅううらない领了ふとげん附近ふきん汾阳宫,ずい炀帝满李ふち马邑ぐん太守たいしゅ王仁わにきょう无力阻止そし东突厥入おかせずい炀帝ようしょうふかしかず王仁わにきょう捉拿带到问罪,还没ゆう成行しげゆきまたはた赦免しゃめん

とう时,ゆうだい杨氏てき谶语,ずい炀帝いん为担こころてき侄子さとし(炀帝てきあねあね杨丽华てき女婿じょせいかい应谶为帝,いん此诛杀了家族かぞくふかし非常ひじょう担心,ざいみん、裴寂てき动下,决心おこりへいはんずい。偷偷召唤たてしげる元吉もとよし从河东,女婿じょせいしば从长やすまえらいふとはらなながつ渊诛杀了ずい炀帝らい监视てきこおりすすむおうたけしたけきばろうしょうこうくんみやびせっちょちょ勤王きんのうていみだれむかいかいずい天子てんしてきはたごう正式せいしき開始かいし於晉けんおこしへいなみ且得いた宗族そうぞく、姻親てきひびきおうためすすむおこりへいふかし以李みんため敦煌とんこうぐんおおやけみぎりょうぐんとくみつるみぎ三軍さんぐん

渊派刘文せい使东突厥いたりょうはじめ毕可あせてき支持しじたてしげるみん夺取西河にしがわぐん六月ろくがつ正式せいしきおこりへい渊自为大将たいしょう,以长たてしげる次子じしみん左右さゆうだいとく,以よん元吉もとよし留守るすふとはら,进兵だい兴城(长安)。

からあさ建立こんりゅう[编辑]

なながつみんずいふかし出征しゅっせい渊在山西さんせい霍邑與ずいしょうそう老生ろうせい萬精兵相持於霍邑。恰值ひさかてつきふかしあずかちょう裴寂議論ぎろん如暫且回ふとはら以後いごさいはかりごと舉事。みんこんもとめふかし不要ふよう退すさ卻。みんせつ:「原本げんぽんきょうりつ大義たいぎためりょう拯救百姓ひゃくしょうおうとう先攻せんこうにゅう咸陽,號令ごうれい天下でんかぐういたしょうてき就回おそれ隨從ずいじゅうおこり義之よしゆきじんしょうかい一朝いっちょう解體かいたいかいもりふとはら一城かずきこれ,這不ぞく所為しょいやめりょう,怎麼のう保全ほぜん自己じこ!」ただしふかし採納さいのう催促さいそく命令めいれい引軍出發しゅっぱつみんとげだい哭於がい聲聞しょうもんちょうちゅうふかし召問其故,みんせつ:「現在げんざい部隊ぶたい憑藉正義せいぎ出動しゅつどう前進ぜんしんせん鬥就必定ひつじょう勝利しょうり退すさかい就一定會散伙。大家たいか伙於まえてきじん趁機追擊ついげき於後,死亡しぼうしょうごろこく而至,いん此悲きず。」ふかし醒悟而停止ていし撤兵てっぺい

はちがつあめとま,引師霍邑。みん怕宋老生ろうせい不出ふしゅつせん,於是りつりょうすうめい騎兵きへいさきいた霍邑城下じょうか,拿著むちゆびてん劃,こうぞうかこえじょう樣子ようす,以激怒げきどそう老生ろうせいそう老生ろうせい果然かぜんはついか開門かいもん出兵しゅっぺいじょうれつじんふかしあずかけんなり一起列陣於城東,みんしば紹列じん於城みなみ老生ろうせい指揮しき兵士へいし迅速じんそく前進ぜんしんさき逼近ふかし,這時けんなりゆるがせしか墜馬,そう老生ろうせい趁機進攻しんこうふかしあずかけんなり部隊ぶたい後退こうたい卻。みん城南じょうなん高地こうちりつりょうりょうめい騎兵きへいきゅうはせ而下,衝斷りょうそう老生ろうせい部隊ぶたいまたりょうへい奮力進擊しんげきてきぐん大敗たいはいかく扔掉兵器へいき逃跑。そう老生ろうせい退すさかいいた城門じょうもん城上じょうかみ閘門放下ほうかそう老生ろうせいしゅひしげなわそう上城かみしろ砍死,於是霍邑平定へいてい

いたりょう河東かわとうせきちゅう豪傑ごうけつそうちょ奔赴參加さんか義軍ぎぐんみん請求せいきゅう進軍しんぐんいれせき,开えい丰仓赈济百姓ひゃくしょうおさむふく群雄ぐんゆう及眾豪傑ごうけつらいはかりごと京都きょうと同意どうい,从龙门渡黄河こうがさきてい渭北。关中ゆうみんてきあねあねさんむすめとうひとおこりへい响应。京都きょうと附近ふきん官民かんみん豪傑ごうけつ紳士しんしいた軍門ぐんもん請求せいきゅう獻身けんしんほうこう義軍ぎぐんしゃせんけい,扶老攜幼,滿まん於麾みん收納しゅうのう英俊えいしゅんざい而用,遠近えんきん聞者,みならいなげもたれ

とうぐんざい涇陽宿營しゅくえいゆう優秀ゆうしゅう兵士へいしきゅうまんめい擊破げきははんずいぬすめ寇胡じんりゅうはいたか兼併けんぺい其部とめいん開山かいさんりゅうひろしもとたむろちゅう長安ながやすきゅうしろみん自己じこたいへい奔赴ちくとう寇首りょうなかぶんなにはんひとしむかいよしこころざしとうらいあい停留ていりゅう於阿じょう獲得かくとく兵士へいしじゅうさんまんにん長安ながやす父老ふろうおくうししゅいた營門ろうぐんしゃ不可ふかかちすうみん慰問いもんしか後送こうそうはし們,東西とうざい一概いちがいおさむ軍令ぐんれい嚴肅げんしゅく秋毫しゅうごうはんせっちょあずか大軍たいぐんいちおこり平定へいていきょうじょう

十一月じゅういちがつ渊攻かつだいきょう,以代おう杨侑皇帝こうていみことずい炀帝杨广ふとし上皇じょうこう渊自为大丞相じょうしょう唐王とうのうおさむかつずいだい兴城みんかんはいきょうちょういん、受封しんこくこう。陇西てき西にししん霸王薛举满李渊占すえ西京にしぎょうてき儿子薛仁杲はん渊派みん抵御薛仁杲,みんざい扶风击败薛仁杲,薛举暂时ゆう投降とうこう渊的ねん头,谋士郝瑗劝阻。义宁ねん(618ねんはるずいあさ东都らく阳被かわら岗军こうひそか围攻,渊派たて成和しげかずみんりつ军声しょう援助えんじょらく阳,そう试探らく阳能归顺自己じこらく阳的かん员拒绝了渊的援助えんじょたて成和しげかずみんざい此时おもえあずか东都留守るすかん员和ひそかそう夺洛阳的ひかえせい权,于是撤军。さんがつはつじゅう(618ねん4がつ10日とおか),渊改ふうみん为趙こくこう三月さんがつずい炀帝杨广ざいこうみやこ宇文うぶんところ杀,五月ごがつ渊废黜杨侑,しょうみかどあらため国号こくごう为唐,ていだいきょうえきめい長安ながやすからあさ建立こんりゅうみんはい尚書しょうしょれいすすむためはたおう

统一中国ちゅうごく[编辑]

あきらりょうろくこれ什伐あかあお骓、とくつとむ
あきらりょうろく骏之飒露むらさき(复制ひん)、こぶし䯄(复制ひん)、しろ蹄乌

からあさ建立こんりゅう,疆土ただげん于关中和ちゅうわかわ东一带,なお完全かんぜん统治全国ぜんこくいん此,みん經常けいじょう出征しゅっせいさい統一とういつ中國ちゅうごく武德ぶとく元年がんねんおこりみんおや参與さんよよんじょう大戰たいせんやく

平定へいてい西にししん[编辑]

西にししん薛举自立じりつ为秦みかどさいつぎおさむからあさへい锋抵达泾しゅういまあま肃省泾川县) ,から高祖こうそみん为西讨元帅,抵御薛举。みんふか沟高垒,肯与薛举交战,そうようしょう薛举拖垮。ただし此时みん疟疾かいきさきかたおさむ养。临走まえみんれいだい为指挥军队的刘文せいいん开山とく擅自出兵しゅっぺいなながつはつきゅう,刘文せいいん开山いん轻视而出击薛举,败于浅水あさみずげんから军大败,伤亡じゅうろくから军被せり撤回てっかい长安,刘文せいいん开山めん职。薛举获胜きさき,听从郝瑗てきけん议,じゅん备进おさむ长安。はちがつはつきゅう,薛举暴病而亡,其子薛仁杲继はちがつじゅうななから高祖こうそさいみん为元帅,抵御薛仁杲。薛仁杲即位そくいさん个月きさきから军出击,ざい浅水あさみずげんあずか薛仁杲的部将ぶしょうそう罗睺げき战。结果,から军击溃了むね罗睺てき军队,しかきさき袭击薛仁杲。薛仁杲被はさま撤入だか墌城,だい批士へいくだとう。薛仁杲只こうくだからみんはた押送おうそう长安,から高祖こうそ处决。十二月じゅうにがつはついちから高祖こうそ任命にんめいみん为太じょう使つかい节、陕东どうだいぎょうだい

平定へいていかわ[编辑]

武德ぶとくねん(619ねん),りゅう武周ぶしゅう对唐あさ发动おさむ势。きゅうがつじゅうろくおさむおちいふとはら留守るすふとはらてき元吉もとよし弃城逃走とうそうりゅう武周ぶしゅうそう金剛こんごう继续こうみなみ进攻。から高祖こうそ宰相さいしょう裴寂りつ军抵じゅうがつ,裴寂だい败,こん山西さんせいぜんさかい几乎落入りょう武周ぶしゅう手中しゅちゅうから高祖こうそだい惊,こう虑放弃河东(山西さんせいしょう)。みん请命亲率だい军讨伐りゅう武周ぶしゅう高祖こうそ同意どういりつ领军队渡过黄かわみんあずかそうきん刚对峙,还是ぼつゆう马上交战,选择しょうはたそう军拖垮,どう时派いん开山、はた叔宝りつ军击败援助えんじょ叛唐势力てきりゅう武周ぶしゅう部将ぶしょうじょう迟敬とく、寻相。さい终,武德ぶとくさんねん(620ねんよんがつそうきん刚粮草枯くさがれ竭后退すさみんつい击,そうきん刚大败。じょう迟敬とく寻相くだからみん续追击,りゅう武周ぶしゅうそう金剛こんごう逃往东突厥。山西さんせいあきらさかい入唐にっとうあさ手中しゅちゅう

平定へいてい中原なかはら[编辑]

武德ぶとくさんねん(620ねんなつから高祖こうそさいみん东征郑国。619ねんずいあさ末代まつだい皇帝こうてい杨侗ぜん给郑おうおうたかしおうたかししょう皇帝こうてい建立こんりゅうりょう郑国。民兵みんぺいいたり郑都らく阳,おうたかしもとめみんかい绝,开始围攻らく阳。どう时,他派たは部下ぶかぶん别占领了郑国しゅう边的じょう同年どうねんふゆじょらく阳和おうたかしてき侄子おうひろしれつもり卫的じょうこれがい,郑国だい部分ぶぶん地区ちく归属とうあさおうたかしこう河北かほくてきなつおう建德けんとくもとめすけ。窦建德けんとく认为から灭郑こくきさき,就要けん并他てきなつこく,于是同意どうい出兵しゅっぺい他派たは大師だいし劝李みん撤退てったいみん扣留だい师,ぼつゆうかい应窦建德けんとくみんざいへいはたちゅう选派げんかぶと军一せん余人よにん黑衣くろごくろかぶと自己じこりつ领秦叔宝、じょう迟敬とくほど节、翟长孙さく为指挥。

武德ぶとくよんねん(621ねんはるらく阳陷にゅう绝境,なつ军尚抵达,ただしから军也进入こまきょくらく阳城ぼうもたれ飞石ゆみいしゆみ使から军伤ほろび很大。から高祖こうそ听说窦建德けんとくやめ决定ぜん来援らいえんすけおうたかしいのちみん撤退てったいみんふうとくつね长安禀明高祖こうそ,如果から撤退てったいおうたかし势力さい,以后很难取得しゅとく现在てき成功せいこうりょう高祖こうそ于是同意どういみん继续围攻らく阳。なつこくぜん军抵达,みん军将其击溃,しかきさき致书窦建德けんとく,请他撤军。窦建德けんとくてき妻子さいし皇后こうごうかず大臣だいじんしのげけいけん议,应进おさむ山西さんせい南部なんぶてきから军,窦建德けんとくぼつゆう同意どうい,继续こうらく阳进军。みん预料いた建德けんとくてきぎょう动,とめ元吉もとよしゆび挥围おさむらく阳,自己じこ则东进虎ろう关结阵。两军ざいとらろう交战みん败窦建德けんとくはた其俘虏。しょう建德けんとく带到らく阳,おうたかし见到だい惊,そうよう弃洛阳南逃襄阳,ただしてき部将ぶしょう表示ひょうじ现在ただ一能依靠的就是窦建德,窦建德けんとくとりこやめ经没ゆう胜算。おうたかし于是投降とうこう逃回にげまわなつみやこ洺州てき皇后こうごう善行ぜんこうずいきさき投降とうこうからあさ。郑国、なつ国之くにゆき归属とうあさ

此李みんもちたかしゆう其是ざいとらろう戰後せんごはんかえしきょう,受到长安軍民ぐんみんてき隆重たかしげ歡迎かんげい高祖こうそ为赏赐李みん元吉もとよし铸币监各さん,裴寂いち,让他们自己じこ铸币。武德ぶとくよんねんじゅうがつふうためてんさくじょうはたりょう東道とうどうだいくだりだい尚書しょうしょれいしょくぞういたりまんふかしまたしたみことのり特許とっきょてんさくおけかんぞくみんいん此闢弘文こうぶんかん收攬しゅうらん四方彥士入館備詢顧問,あずかしんおう府相ふそう結合けつごう儼然げんぜんいちしょう內閣

平定へいてい河北かほく[编辑]

建德けんとくみん带回长安きさきから高祖こうそ处决。武德ぶとくよんねん(621ねんふゆなつすすむりゅうくろ闥反こうとうあさこえたたえよう为窦建德けんとく报仇。兖州じょえんろうめい义上ざいおうたかし手下てした为鲁おうざいおうたかししつ败后归顺とうあさ。这时,りゅうくろ闥与じょえんろう结盟,一起かずきはんとうりゅうくろ闥接连击败高祖こうそてきどうおとうと淮安おう神通じんずう、义安おうたかしつねかず曹国こう勣。いたり此,几乎おさむ复了げんなつこく疆域,てい洺州,ふう为汉东王。武德ぶとくねん(622ねん),高祖こうそさいみん元吉もとよしりつ军讨伐,经过いちばん战斗,さんがつ廿にじゅうろくみんざい洺水じょう筑坝,しかきさきはた其摧毁,ゆかり此引发的洪水こうずい摧毁りょう汉东军。りゅうくろ闥逃到东突厥,而李みん则向东击败徐えんろう高祖こうそ召李みんかいあさ,于是元吉もとよし勣、神通じんずうにん继续进攻じょまどかあきらよんがつはつきゅうみんかえしかい长安。

玄武げんぶもんへんあずか即位そくい[编辑]

618ねん建立こんりゅうからあさためから高祖こうそ,并立世子せいしけんなり为太ふとげんおこりへいみんてき谋略,高祖こうそ曾答应他事たじ成之しげゆききさきりつ太子たいしただし天下てんか平定へいていきさきみん功名こうみょうもり高祖こうそ却犹决。[2]太子たいしけんなりしたがえそく联合よんおとうと齐王元吉もとよし共同きょうどうはい挤李みんどう时,高祖こうそてき优柔寡断,也使あさちゅう政令せいれい相互そうご冲突,加速かそくりょう诸子てきへいえびすしょう见。太子たいしはたおうかず齐王てききょう书与皇帝こうていてき诏书具有ぐゆう同等どうとう效力こうりょくざい命令めいれいしょう互冲突时,かん员们ただとく执行さいさきいた达的命令めいれい

此後,長兄ちょうけい皇太子こうたいしたてしげるみんおわり肯屈ため人臣じんしん,而李みん也認ため自己じこ奠下とうあさ開國かいこくてきもとぎょうとげあずかたてしげるよんおとうとひとしおう元吉もとよし猜忌さいきふか兩派りょうはあいだ互相かたぶけぎしみんてき手下てした人才じんさい济济,けんなりてき支持しじしゃただゆう元吉もとよしかず渊的嫔妃いんいさお张婕妤とうひと

武德ぶとくねん(622ねんねんそこ,刘黑闼得いた东突厥颉あせてき支持しじかえしかい河北かわきたざいした博之ひろゆきだい胜唐军,みんてきどうおとうと淮阳おうみちげん阵亡。刘黑闼再恢复りょうげんなつこくてきだい部分ぶぶん领土。けんなりてき谋士おう珪和ちょうけん太子たいしようざい战争ちゅうひさげます自己じこてき声望せいぼうたてしげる于是こうちち亲请战。高祖こうそ于是たてしげる元吉もとよしりつ军攻刘黑闼。武德ぶとくろくねん(623ねん),刘黑闼兵败,诸葛とく卖,とりこ获交给李たてしげるたてしげるざい汉东洺州处决りょう刘黑闼,凯旋回せんかいいた长安。此时,からあさ基本きほん统一中国ちゅうごく

せっらいてき几年ちゅうみん兄弟きょうだいそういよいよえんじいよいよれつざい此期间,东突厥入おかせ时,たてしげるみん曾经りつ防御ぼうぎょ辅公祏ざい阳(いまこう苏省南京なんきんはんから时,から高祖こうそ任命にんめいみん为江しゅう道行みちゆき军元帅,おさむ辅公祏,ただし很快取消とりけしりょう命令めいれい,而派みんてきどうけい赵郡おうたかしきょうだい出征しゅっせい

武德ぶとくななねん(624ねんろくがつけんなり暗中あんちゅう招募骁勇充当じゅうとう东宫卫士,ろうしょう尔朱焕こうじょう桥公やまいたひとしさとし宫向避暑ひしょてきから高祖こうそつげ发。から高祖こうそだいいかはたけんなり逮捕たいほけんなりてき亲信庆州とく杨文みきおそれ惧,おこりへい谋反。高祖こうそみんおさむ杨文みき,许诺平定へいてい杨文みききさきりつ为太しか而,みんはしきさき元吉もとよし宰相さいしょうふうとくつねいんいさお、张婕妤等じんがえけんなるもとめじょうみん平定へいてい杨文みき归来きさき高祖こうそ并没ゆう废黜たてしげる,而是ゆび责李みんあずかけんなり不和ふわはたけんなりてき手下てした太子たいしちゅうまことおう珪、ひだり卫率韦挺かずみん手下てしたてきてんさく兵曹へいそうさんもりぜんりゅういた巂州(いま四川凉山彝族自治州)。

から高祖こうそこま于东突厥つぎいれおかせそうよう烧毁长安,迁都樊城。たてしげる元吉もとよし、裴寂表示ひょうじ同意どうい。而李みん坚持はん对,所以ゆえん计划のう实施。どう时,みん也派亲信张亮、おうたもつとう人前ひとまえ往洛阳,きょうひかえせい当地とうち军队结纳やま东豪杰。

みん曾在けんなり东宫饮酒,吐血とけつすうしょう,怀疑けんなりどく[3]から高祖こうそ于是こう虑派みん镇洛阳,以防止ぼうし兄弟きょうだい间的进いち冲突。ただしたてしげる元吉もとよし认为这会给李みん一个在洛阳培养势力的机会,于是表示ひょうじはん对。高祖こうそいん此作罢。あずか此同时,みん曾一度造访李元吉府邸,元吉もとよしそうようとげ杀李みんけんなり却下きゃっかりょう决心,いん而终どめりょうぎょう动。けんなりゆういちひき马烈马,很容易ようい摔倒骑手,让李みん试骑,导致みん几次摔倒,みんむこう宇文うぶん表示ひょうじ对这种伎俩的くず

其中宰相さいしょう裴寂はかりごとおうちょう東宮とうぐう衛士えじ將領しょうりょうまんてっとう追隨ついずいたてしげる元吉もとよししんはかりごともり如晦ぼうげんよわい將領しょうりょうはた叔寶じょうおそけいとくだんこころざしげんほうくんしゅうおうくんくるわとう跟從みん宰相さいしょうちん叔達、渭北行軍こうぐんてんちょうまごとう暗中あんちゅう支援しえんみん。其餘將領しょうりょうやすし大臣だいじん宇文うぶんとう保持ほじ中立ちゅうりつみん手下てしたぼうげん龄、もり如晦、长孙无忌一再劝说李世民先对李建成、元吉もとよし下手へた,而魏ちょう则劝说李たてしげる先攻せんこうみんけんなり劝唐高祖こうそ翦除ぼうげん龄、もり如晦,以及みんてき亲信じょう迟敬德和のりかずほどとめざいみん边的长孙无忌继续劝说みんさき下手へた为强。

武德ぶとくきゅうねん(626ねんなつ,东突厥侵犯しんぱんから边境。高祖こうそ本来ほんらいそうようみんりつ军抗击,たてしげるこう高祖こうそけん议由元吉もとよし做统帅,りつ领李みん手下てしたてき大将たいしょうじょう迟敬とくほど节、だんこころざしげんはた叔宝とうじん出征しゅっせい突厥。太子たいしりつさらすすむおうみつ报秦おうけんなりおもえ此控せいしんおうてきへい马,并准备在こんあきらいけ为李元吉もとよし饯行时,设伏へい杀李みん。于是みん决定さき发制じん[4]让尉迟敬とく暗中あんちゅう召见ぼうげん龄、もり如晦かいよる间向高祖こうそじょうつげたてしげる元吉もとよし淫乱いんらんきさき宫。高祖こうそ于是计划だい二天一早召见李建成、元吉もとよし,召宰しょう裴寂、萧瑀、陈叔达调查此あんつぎそく武德ぶとくきゅうねんろくがつはつよん庚申こうしん(626ねん7がつ2にち),たて成和しげかず元吉もとよしどおり首都しゅと長安ながやすじょう宮城みやぎてききた玄武げんぶ门附きん时,みん带领手下てした进行ふく击。亲自射出しゃしゅついち射殺しゃさつりょう皇太子こうたいしたてしげるじょう迟敬とく杀死りょうひとしおう元吉もとよしふみしょう玄武げんぶもんへん」。

此後みんてき军队进宫,高祖こうそ得知とくちじょう况后,知道ともみちだい势已ゆずる軍政ぐんせい大權たいけんしんおう,而建なり元吉もとよし则被宣布せんぷ为作らんしゃ諸子しょし则遭诛杀并从むねせきちゅう除名じょめいさんてんきさきろくがつはつななみずのとにち,7がつ5にち),みんたて为皇太子たいし,诏曰:“自今じこん军国庶事,无大しょう悉委太子たいし处决,しかきさき闻奏”。はちがつはつきゅう甲子きのえね(9がつ4にち),高祖こうそ退位たいいしょうふとし上皇じょうこうぜん於李みんみんのぼりはじめ为唐ふとしむね当年とうねんじゅうがつついふうけんなり为息隐王,元吉もとよし为海りょう剌王。つぎねん改元かいげんさだかん。642ねんつい复李たてしげる为隐太子たいし元吉もとよし为巢剌王,并将皇子おうじぶく过继けんなり为嗣(きさきらい另一皇子李明也在唐高宗年间被出继李元吉为嗣)。

さだかん[编辑]

敦煌とんこう壁画へきがちゅうてきとうふとしむね

ふとしむね在位ざいい期間きかん積極せっきょく推行りょう兵制へいせい租庸調そようちょうせいひとし田制たせいなみきょう舉制とう政策せいさくさだかんねん(628ねん),とう时的人口じんこうやめいんずいまつ戰爭せんそう而銳げん,此时からあさただゆう290まんけいふとそう君臣くんしん23ねんてき努力どりょく社會しゃかい安定あんてい經濟けいざい恢復かいふくなみ穩定發展はってんいたりとうだかそうひさしさんねん(652ねん),人口じんこうたちいた380まん,奠下りょうだかむね武則たけのりてんげんむね年間ねんかんだいからもりてき基礎きそしょうさだかん

ふとしそう本身ほんみ也是すんで英武ひでたけまたぜんべんこれにんただしゆうかん於帝とく不易ふえきじょうずい煬帝本人ほんにんまた以雄けんしかまさよしべん聞名,ずい卻因此鑄滅亡めつぼうてきだい錯,いん在位ざいい期間きかんふとしむね群臣ぐんしん批評ひひょうてきけつさく和風わふうかく[5]。其中ちょう廷諫りょう200つぎ在廷ざいていじょうちょくひねからふとしむねてき過失かしつざい早朝そうちょうつぎ發生はっせいりょう使ふとしそう尷尬、したりょうだいてき狀況じょうきょう晚年ばんねんてきふと宗因そういんこく富民とみんきょうおさめ諫的如初,偶爾也發生はっせい誤殺ごさつ大臣だいじんてき遺憾いかんただしだい致上仍克せい保有ほゆう納言なごんてきふうはん

ざい民族みんぞく政策せいさく方面ほうめん,《资治どおり》记载からふとしそうざい贞观じゅういちねん(647ねん平定へいてい薛延陀时,曾对てき左右さゆう大臣だいじん说:「帝王ていおうみな中華ちゅうか,賤夷狄いてきちんどくあい如一,其種落皆ちん父母ちちはは。」[6],《贞观せいよう》也记载了からふとしそうざい贞观じゅうさんねん(639ねんふうおもねおもえ为突厥可あせ时说どう:「中国ちゅうごく百姓ひゃくしょう,实天下之したの根本こんぽんよん夷之えびすのじん,乃同えだかのう,扰其根本こんぽん以厚えだかのう,而求久安ひさやすこれゆう也。はつ纳魏ちょうごととげ觉劳费日甚,几失久安ひさやすみち。」

ふとしそうそく帝位ていいひさ,按秦おう文學ぶんがくかんしき新設しんせつ弘文こうぶんかんしん一步儲備天下文才。另外,ふとしそうきよし擅書ほう,以行書寫しょしゃしょう飛白かすり」,聞名後世こうせい著名ちょめい作品さくひんゆう溫泉おんせんめい》、《すすむほこらめいとう晚年ばんねんふとそうちょみかどはん》一書以教戒太子李治,そうゆいりょうてき施政しせい經驗けいけん同時どうじひょう一生いっしょう功過こうか史家しか曾疑ふとしむね生前せいぜん指定してい以東いとうすすむ書法しょほう大家たいか王羲之おうぎし所作しょさらんていしゅうじょため陪葬ひん近年きんねんよりどころ考古學こうこがく歷史れきし學者がくしゃ研究けんきゅう,《らんていしゅうじょおう該不ざいふとし宗之むねゆきあきらりょう,而在だかむね武則たけのりてんしょごうそうてきいぬいりょうこれちゅう

からふとしむねあずか身邊しんぺん大臣だいじんちょうおうぼうげんよわいもり如晦おそれみなみ褚遂りょうひとしてきたいこたえ也在ひらけもとじゅうはち(730ねん)、じゅうきゅう年間ねんかんかむ輯為《さだかんせいよういちしょ,以發揚はつようふとそう勵精てき治國ちこく精神せいしん

さだかんはつせい[编辑]

辇图》ちゅうてきとうふとしむね

ふとしむね即位そくいじゅうてん,就将だい批宫おんな放出ほうしゅつ宫,おく她们かい,这样她们在民ざいみん间成ふとしそうさつふう其妻长孙皇后こうごう,长子うけたまわいぬい皇太子こうたいし

ふとしそうじょう勋臣爵邑,だい一等いっとう为长孙无ぼうげん龄、もり如晦、じょう迟敬とくほうくんしゅう皇帝こうていてきどう叔淮安王やすおう神通じんずう自己じこ在房ありふさもりしも时,ふとしそう说房もり运筹帷幄いあくこう劳大于在河北かほくぜん军覆ぼつてき神通じんずう。这让其他はん对之ごえひらいきいん为他们见いたふとそういたるおおやけ行賞こうしょうわたし其親,はた神通じんずう这样てき宗室そうしつはいざい低位ていいふとしそう还以おう爵之れいやすそうりょうたて成和しげかず元吉もとよし,并让们的ばららいてき属官ぞっかん参加さんかりょう葬礼そうれい

ふとしそう从被りつ为太きさき就开はじめ调整朝廷ちょうてい人事じんじ任命にんめい自己じこ信任しんにんてきぼうげん龄等じんなり为宰しょう。而萧瑀、陈叔达因为在皇帝こうてい面前めんぜんそう忿,而双そう罢免。萧瑀很快就重新入しんにゅうしょうざいふとしむねあさしばしば遭罢黜和复职。ふとしむね非常ひじょうじゅう视官员对朝政ちょうせいてき批评,使つかい认为朝廷ちょうていてき弊政へいせいとく以改变。ふとしそうとく别信にんせい接受せつじゅりょうちょうてき很多けん议。门侍ろうおう珪有密奏みっそう,交给さむらいちゅう高士こうしかどじょう达,高士こうしかどぼつゆうそう报太むねふとしそう于是はた高士こうしかど为安しゅうだいとくふとしそう以隋炀帝为鉴,赏赐すなお进谏てきかん员,ゆう其是ちょうおう珪。ふとしそう思想しそう开放态度,其中ざい文化ぶんかじょう,试图努力どりょく调和道教どうきょうあずか佛教ぶっきょうてき矛盾むじゅん,这体现在晚年ばんねん所作しょさてきだいから三藏さんぞう圣教じょちゅう

つばめぐんおうほんずいまつかそけしゅう军阀,きさき归顺とうあさざい武德ぶとくねん间与けんなり亲近,且得ざい过李みんふとしむね即位そくいきさき艺不やす。贞观元年がんねん(627ねん正月しょうがつざい豳州叛乱はんらんただし很快平定へいてい逃亡とうぼうちゅう杀。よんがつ高祖こうそてきどうおとうと、凉州(いまあま肃省武威ぶいみやこただし长乐おうようりょうてき手下てした无赖子弟していおかせ百姓ひゃくしょう,并且わたしあずか羌胡贸易。ふとし宗派しゅうは宇文うぶん及前调查,ようりょうてき部下ぶか惊恐まんふんみつ谋挟逃亡とうぼう突厥。ふとしそう得知とくち此事きさき,赐李ようりょう自尽じじん九月くがつかそけしゅういま北京ぺきんとくおうくんくるわ入朝にゅうちょう时,怀疑长史玄道げんどうつげ发他てき不法ふほうこと,于是杀驿吏逃亡とうぼう突厥,途中とちゅう乡民しょ杀。じゅうがつ,岭南酋长冯盎、谈殿とう互相おさむ击,有人ゆうじん报告冯盎谋反,ふとしそうざいちょうてきけん议下,使者ししゃやす抚冯盎,冯盎遣入朝にゅうちょう

当年とうねんがつふとしそう天下あもりしゅう县过はた许多しゅう县加以合并。并在しゅう县以じょう设置“みち”,はたからちょうぶん为十どう关内どう河南かなんどうかわ东道河北かわきたみち山南さんなんどう陇右どう淮南ワイナンどう江南こうなんみち剑南どう岭南どう

めつひがし突厥[编辑]

武德ぶとくきゅうねん(626ねんはちがついんからあさ發生はっせいげん武門ぶもんへん政局せいきょく不穩ふおんひがし突厥伺機いれおかせおさむいたり首都しゅと長安ながやす僅40うらてき涇陽こん陝西せんせい咸陽涇陽けん),京師けいし震動しんどう。此時,長安ながやす兵力へいりょくすうまんつよしつよし即位そくいてきふとそうせりしつらえうたぐへいけいおやりつ高士こうしれんぼうげんよわいとう6ざい渭水へだたかわあずか頡利あせ對話たいわいか斥頡、突利あせやくふとしむねおく頡利あせきん帛財ぶつ,以求突厥退ぐんなみあずかこれゆい渭水めい」,突厥へい於是退去たいきょ。《とうりん記載きさいからふとしそうそら」以求突厥退军,ざい突厥归途时派やすしふく击,夺回りょう财物,以及すうまんひき马。これふとしそう勵精なみ挑撥ちょうはつ頡利、突利二可汗和突厥與鐵勒諸部的關係。627ねんひがし突厥內部出現しゅつげん分裂ぶんれつ反對はんたい頡利あせてき薛延陀かい拔也いにしえどうしょ部落ぶらくたい變革へんかくこくぞく推行てき政令せいれい不滿ふまん,另立薛延陀為あせ。突利あせ也暗ちゅうあずかから聯絡れんらくなみあずか頡利あせ決裂けつれつ臣服しんぷく于东突厥てきちぎりくびだい贺摩かい也归顺唐あさふとしそうさつふう薛延陀可あせえびすおとこ真珠しんじゅあせ同時どうじひがし突厥またぐういた大雪おおゆき氣候きこう,牲畜だい凍死とうし餓死がし,突厥勢力せいりょくややじゃく

突厥这时ぼつ有力ゆうりょくりょうひさし护最きさき一个隋末割据者——なつしゅうわりすえ势力くびりょう师都しば绍和薛万ひとしりつ军围おさむやなついたちかたいま陕西しょう榆林),さだかんねんよんがつじゅうろくみずのえとら(628ねん6がつ3にち),さくかたじんはりらくじん杀梁师都,归降からあさからあさ统一全国ぜんこく

ふとしそう决心挑戰ちょうせんひがし突厥ざい東亞とうあてき霸主地位ちい,於629ねんはちがつ任命にんめいやすししばみちむねひとしため行軍こうぐんそうかんれい其出ふさがきたかくみちだい军由やすし总制,苏定かた为先锋,出兵しゅっぺい征討せいとうひがし突厥。とうぐんざいやすしてき調しらべしたさだかんよんねん(630ねん)三月頡利兵敗被俘,而后押送おうそういた长安,ひがし突厥滅亡めつぼう

てんあせ[编辑]

616ねんいたり649ねんとうふとそうみん統治とうちてき疆域
不同ふどう顏色かおいろ表示ひょうじからふとしそうみん征服せいふくてきしゅう地區ちく
   山西さんせい(617ねんみん父親ちちおやふとしげん太守たいしゅふかしおこりへいはんずい
   ずい唐國からくにこう(618ねん建立こんりゅうからあさ(618ねん,626ねんまえ完全かんぜんようゆうぜんずい領土りょうど
   そぎひらひがし突厥(630ねん-682ねん
以上いじょう三部分为唐太宗固定统治的疆域
   吐蕃接受せつじゅとうてきさつふう(641ねん-670ねん
   平定へいてい西にし突厥(642ねん-665ねん
同上どうじょう)併綠しゅう(640ねん-648ねんみどりしゅう北部ほくぶ;648ねんみどりしゅう南部なんぶ
   征服せいふく高句麗こうくり(661ねん-668ねん
顏色かおいろ最深さいしんてきりょういろためとうあさ建立こんりゅうはつてき根據地こんきょち,以及掃平ずいまつ割據かっきょ勢力せいりょくこれてきしゅうけん-民政みんせい體系たいけい疆域;較淺てききた西にし二方為削平東、西にし突厥てきみやこまもる-軍政ぐんせい體系たいけい疆域(とうだかむねあらわけいねんれつおけしゅうけん軍政ぐんせい民政みんせい並行へいこう西南せいなんかた吐蕃そくぞく於羈縻統治下ちかてき屬國ぞっこくとき叛時さい東部とうぶてき高麗こうらいすんでぞく於安東都とうとまもる轄境、またれつおけしゅうけんため軍政ぐんせい民政みんせい體系たいけい並行へいこう疆域。あたりかいため標示ひょうじとうしつ疆域最大さいだい範圍はんいもちいおわりからみな如是にょぜやすみだれ中原なかはら大亂たいらん现藩镇割すえ现象,とうまつ农民战争これ軍政ぐんせい體系たいけいてき節度せつど使刺史しし紛紛ふんぷん割據かっきょ中央ちゅうおう政令せいれい

ひがし突厥滅亡めつぼうゆたか彦博ぬし张将突厥じんとめざいとうあさあたりぼう體系たいけい內作为防缓冲,ちょう则主张将突厥じん驅逐くちく塞外さいがいふとしむね接受せつじゅりょうゆたか彦博てきけん议,于是からあさざいひがし突厥突利あせ設置せっちじゅんゆうちょうよん州都しゅうととく,頡利あせおけていじょうとくくもなかとく,仍由部落ぶらく酋长さく为都とく刺史しし,而没ゆう任命にんめいしんてきふう疆大吏来统治。ばくきた西域せいいき諸國しょこく君主くんしゅざい長安ながやす尊稱そんしょうふとそうためてんあせ」,ため天下てんかそう皇帝こうていある天下てんかどもぬし。「てんあせじょりょう一種對唐朝皇帝的榮銜,かえ一種有實質意義的國際組織體系,以維持いじ當時とうじいと綢之みちかく同盟どうめいこくてきしゅうたい安全あんぜんあずか貿易ぼうえき秩序ちつじょ

贞观ねん(631ねん),ふとしそういのち大臣だいじん讨论ぐん县制封建ほうけんせいてきへいちょうひゃくとうひとはん封建ほうけんせい颜师いにしえけん议让宗室そうしつ子弟してい功臣こうしん担任たんにん刺史しし,勿令过大,间以しゅう县,杂错而居,かくぐん县制封建ほうけんせいてき优势。ふとしむね同意どういりょう颜师いにしえ议。东突厥灭ほろびきさき大臣だいじんつぎ请求ふとそうざい泰山たいざんふうぜんふとしそう开始表示ひょうじこばめ绝,きさきらいてき信念しんねん动摇时,またちょういちさい劝阻,しるし指出さしでふうぜんかい导致百姓供顿劳费、开支巨大きょだい,而且让远えびすくん长看いたちゅう原因げんいん战乱导致てきあら芜,对国防こくぼう也不えきふとしそう于是さい纳了てきけん议。

贞观はちねん(634ねん),ふとし宗派しゅうはやすし、萧瑀とうじゅう三位高官为诸道黜陟大使,じゅん地方ちほうかん能否のうひ查明みんやす抚贫みん,选拔贤能。やすし最初さいしょ推荐ちょうふとしそう同意どうい,说魏ちょうようとめざい自己じこ边指てき错误,一天都不能让魏徵离开。

平定へいてい吐谷浑[编辑]

吐谷渾あせふくまこと聽信大臣だいじんてんばしらおうてき建議けんぎ,屢次侵犯しんぱんからあさてき西部せいぶ邊境へんきょうふくまこと曾想让他てき儿子尊王そんのうむかえめとからあさ公主こうしゅふとしそう坚持让尊おうらい长安举行婚礼こんれい,于是未成みせい。634ねん,扣留からあさ使者ししゃちょういさお楷,ろくがつふとしそうだんこころざしげん、樊兴ため行軍こうぐんそうかん討伐とうばつふくまこと。吐谷浑军队机动性きょう,避免正面しょうめん交锋,だんこころざしげん虽未战败,ただし也未のうだい获全胜。十二月じゅうにがつまたやすしほうくんしゅうみちそうだいあきら道彦みちひここうこしきせいとうため行軍こうぐんそうかんりつ领薛まんひとし、薛まん彻、ちぎり苾何りょくとうはた领,だい舉討吐谷渾。635ねんやすしだい军队击溃吐谷浑,ふくまこと敗走はいそう部下ぶかしょころせふくまこと之子ゆきこ慕容じゅんころせてんばしらおう自立じりつためあせ投降とうこうからあさふとしそうさつふう慕容じゅんため吐谷渾可あせ。慕容じゅん死後しご,636ねんふとしそうさつふう慕容じゅん之子ゆきこだく曷缽ため吐谷渾可あせ

氏族しぞくこころざし[编辑]

635ねんがつふとし上皇じょうこう高祖こうそ渊驾くずれふとしそうざいふく丧期间,曾短暂让太子たいしうけたまわいぬい监国,ろくがつふとし宗重むねしげしん听政,此后仍授权李うけたまわいぬい处理细务。636ねんはるふとしむね任命にんめいすめらぎおとうと皇子おうじ为刺,按授いのち更改こうかいおうごう。636ねんあき,长孙皇后こうごうふとしそう悲痛ひつう哀悼あいとう,亲笔为她题碑文ひぶん

637ねんなつふとし宗重むねしげしんこう分封ぶんぽうせい制定せいていりょう刺史しし袭封制度せいどはたすめらぎおとうと皇子おうじ功臣こうしんじょ保留ほりゅう现有职位がい,还获とくりょうしゅう刺史ししてき职位,并可以传给他们的きさきだい。于是设立りょう35个世袭刺及都とく[e]ひさきさき,这个计划遭到りょう以长孙无为首てき功臣こうしん们的はん对,639ねんふとしそう于是取消とりけしりょう这一制度せいど

ふとしそう满崔、卢、、郑等やま东士ぞく,认为们自えりだか门。638ねんいのち高士こうしれん、韦挺、れいきつねとく、岑文ほん编撰《氏族しぞくこころざし》,图将士族しぞくすえ名望めいぼうこう勋、ぜん恶分为九类。しか而,ざい高士こうしれんつつみ交的初稿しょこうちゅう,仍然しょうちぇみんみきまとはくりょうちぇれつ为第一等いっとうふとしそう满,いん为他指出さしで高士こうしれんただ传统名望めいぼう近世きんせいこう勋。よし此,ふとしそう亲自预修あらため,以皇ぞくせい为首,外戚がいせき长孙为次,はたちぇ家族かぞくくださんとう

和親わしん吐蕃[编辑]

阎立ほんところ绘的《辇图》,图为からふとしむねせっ吐蕃使者ししゃろく东赞

ざいあおぞう高原こうげんうえ吐蕃やや興起こうきいたりろく世紀せいきまつあずか吐谷浑[f]ためだか原上はるがみさんだい勢力せいりょくななせい纪初,さんひろしまつさんぬの即位そくい統一とういつりょう高原こうげんまた征服せいふくりょう西藏とりぞう西部せいぶてきおもねさと地區ちくてきひつじどうあまばばいまあまはく)。

634ねん吐蕃さんひろしまつさんぬの使つかいあずかからあさ修好しゅうこうからあさ也派使臣ししん冯德遐入しげる。636ねんまつさんぬのせん使長安ながやす請婚,からあさまこと。638ねんまつさんぬのとげくちとうあさ屬國ぞっこく吐谷渾從ちゅうさく梗,亲自ゆび挥大约20まん吐蕃军,出兵しゅっぺいにゅうおかせ吐谷渾,并开はじめおさむ击唐あさてきまつしゅうこん四川しせんおもね坝藏ぞく羌族自治じちしゅう)。ただしどう时松赞干ぬのまた派遣はけん使者ししゃいたから朝国あさくに长安さいつぎ请求,并宣たたえ打算ださん欢迎公主こうしゅからふとし宗派しゅうはほうくんしゅう为当わたる道行みちゆき军大总管ゆび挥5まん军队,执失おもえりょくうし进达刘简协助,援救まつしゅうあずか此同时,吐蕃军正ざい围困まつしゅうてきくび县-よしみ诚(こん四川しせんまつはん),ただしから先遣せんけん队在うし进达ゆび挥下,败了吐蕃军。とうぐんざいまつしゅう大勝たいしょう吐蕃ぐんただしからあさ也見識到りょう吐蕃てき力量りきりょう。640ねんまつさんぬのまた大臣だいじん祿ろくひがしさん使つかいから求婚きゅうこんからふとしむね便びん以宗しつおんな文成ふみなり公主こうしゅ許嫁いいなずけ於吐しげるさんひろしまつさんぬのなみれい尚書しょうしょ江夏えなつおうどうむねぶし護送ごそう。641ねんとうしつ文成ふみなり公主こうしゅしもよめ吐蕃てきまつさんぬの,吐蕃赞普于是接受せつじゅからあさてきさつふう。《しんとうしょ記載きさい文成ふみなり公主こうしゅにゅうしげる时,まつさんぬのおやむかえ於柏うみ。吐蕃豪族ごうぞく子弟していいた长安がく习《诗》、《书》。とうだかむね继位きさきまたつう过赏赐松赞干ぬのかず文成ふみなり公主こうしゅ各種かくしゅかんてき生產せいさん技術ぎじゅつ轉入てんにゅう吐蕃。

かん史書ししょおのれ[编辑]

さだかんきゅうねんじゅうがつそくふかし死後しご個月かげつみんだいいち要求ようきゅう觀覽かんらん起居ききょちゅう》,未遂みすい[7]

さだかんせいよう·まきなな·論文ろんぶんだいじゅうはち記載きさいさだかんじゅうさんねん褚遂りょうため諫議大夫たいふけんふとそう起居ききょ註》。からふとしそうよく查看起居ききょ註,褚遂りょう以「聞帝おう躬自かんためよし拒絕きょぜつりょうからふとしむねせつ:「ちんゆう不善ふぜんきょう必記耶?」褚遂りょうせつ:「しんしょくとうふでなにしょ?」黃門こうもんさむらいろうりゅう進言しんげん:「人君じんくんゆう過失かしつ,如日がつ蝕,にんみなこれしつらえれいとげ天下てんかひとみな矣。」《きゅうとうしょ·褚遂りょうでんかずどおりかん·からじゅう》也載ゆう此事。

つぎねん(640ねん),からふとしむね再度さいど要求ようきゅう起居ききょちゅう》,宰相さいしょうぼうげんよわいとうひと就刪げん整理せいり國史こくしせんうつしなり高祖こうそ實錄じつろくかずふとしそう實錄じつろくかくじゅうかんとうふとしむねいたろくがつよんにちごとおおほろぶん」——ゆび史官しかん對當たいとうねん玄武げんぶもん事變じへん內容含糊其辭,ゆうかくれいみな文飾ぶんしょくかたり便びん以当ねんぼうげんよわい劝他せい变时“遵しゅうこうこれごとそと宁区なつないやすむねしゃてき说法,こうぼうげんよわい表示ひょうじ必替さえぎさえぎ掩掩,はんせいげん武門ぶもん事件じけん本來ほんらい就是ぞうしゅうこう誅管、蔡とも叔牙舉,目的もくてきためりょうやす社稷しゃしょく萬民ばんみん」,要求ようきゅうそぎ浮詞,直書じきしょ其事」。《どおりかん·からじゅうさんまたゆう記載きさい

這一行為こうい遭到あきらたいえんゆびせめ:「ふとしむねそくりつ,懼於めいはじめ以宰しょう監修かんしゅう國史こくし兩朝りょうちょう實錄じつろくしん[8]。」吕思つとむ永年えいねんとう學者がくしゃ也附和章かずあきたいえんてき观点,认为からふとしそう对史书记载有しょおさむ饰。

諸子しょしだつ[编辑]

皇子おうじ亲王にん地方ちほう刺史ししただゆうおうやすしすすむおうおさむとめざい长安。やすし受到ふとしむねてきじゅう视。ふとし宗因そういん为李たい文学ぶんがくまこと许李たい聘请文人ぶんじんさく为僚ぞく,编纂《くくこころざし》。长孙皇后こうごうきさきいん为李たい受宠,现了ふとしむね可能かのう让他だい太子たいしうけたまわいぬいてき议论,うけたまわいぬいてき支持しじ开始减弱。

いた642ねんやすしやめ经有りょうだい太子たいしてき野心やしん,一些官员开始分化为太子派和魏王派。ふとしそうざいちょう、褚遂りょうてき劝说さいあるき表明ひょうめい稳固太子たいしてき地位ちいただし继续へんやすしてき做法,不断ふだん引起大臣だいじん们的猜测。643ねんはるちょうふとしそう悲痛ひつう哀悼あいとう,亲自为魏ちょうりつ,并在ちょうまえ,许诺はたおんな衡山公主こうしゅよめ给魏ちょうてき儿子叔玉ふとし宗派しゅうはじんざいしのげけむり阁绘せいじゅうよん功臣こうしん

643ねんはるふとしむね齐王ゆういん长史权万纪常加于他诸多限制,而愤愤不平ふへい,于是杀了权まん纪,ざい齐州おこりへい叛乱はんらんふとし宗派しゅうは勣讨伐ゆうだい军未いたりゆう就被自己じこてき部下ぶかもりぎょうさとし俘送いた长安,ふとしそういのちざい内侍ないししょう杀,どうとうよんじゅうよんにん诛,其馀问。

太子たいしうけたまわいぬい经常说突厥语,穿ほじちゃく突厥服装ふくそう,甚至ざい自己じこてき住所じゅうしょさと搭起帐篷,かたぎ仿突厥可あせうけたまわいぬい怕太むね废黜自己じこ而立じりつやすしあずかほうくんしゅうふとし宗之むねゆきおとうと汉王李元りげんあきらはた军李やす俨、てきしゅうとひょうけい赵节もり如晦之子ゆきこもりとうひとあい谋夺ざいつい祐之ひろゆきらん时,うけたまわいぬいてきさむらい卫纥うけたまわもと牵连,为了すくえ揭发うけたまわいぬいてき阴谋。ふとしそう闻讯だい惊,いのち长孙无忌、ぼうげん龄、萧瑀、勣,会同かいどうだいちゅう书、门下とう官署かんしょ进行联合调查。ふとしそうざい通事つうじ舍人とねりらい济的けん议下,ふとしそう废黜うけたまわいぬいてき太子たいしくらい,而没ゆう杀他,いのち李元りげんあきら杀,ほうくんしゅうやすし俨、赵节、もり处决。

うけたまわいぬい废黜きさきふとしそうこうやすし许诺,たて为太ただしずい深入ふかいり调查,ふとしそう认为うけたまわいぬいてき谋反受到やすしてき逼迫ひっぱくいん此决てい废黜やすし

どおりかん記載きさいふとしそうさだかんじゅう七年廢太子李承乾之後、あらためりつおさむため皇太子こうたいしまえみんさんいちおとうと長子ちょうしうけたまわよんやすしゆう、及ななおとうと李元りげんあきら)俱謀帝位ていい,致太むねこころはいひや曲折きょくせつ:「うけたまわいぬいすんではいうえりょうただし殿どの群臣ぐんしん俱出,どくとめちょうまごぼうげんよわい勣、褚遂りょういい曰:『わが三子みつごいちおとうと所為しょい如是にょぜわがしんまこと無聊ぶりょうよりゆき!』いんとう於床,とうとうぜん扶抱,うえまた抽佩がたなよく自刎じふんとげだつかたな以授すすむおうおさむ。」[9]

ふとしそう定立ていりつすすむおうおさむ太子たいしうけたまわいぬいりゅうりょう黔州,やすしきょひとししゅうふとしそう太子たいしおさむ选良おんなたかし实东宫,おさむ推辞。ふとしそう怀疑おさむてきじんじゃく性格せいかくあし以继承天下でんか咨询长孙无忌いや以立自己じこずい炀帝じょ杨妃之子ゆきこ吴王つとむ太子たいし长孙无忌坚决はん对而未成みせい

よし于魏せい生前せいぜん曾推荐侯くんしゅうもりせい伦有宰相さいしょうざいふとしそう开始怀疑せい参与さんよりょう阴谋。于是扑倒りょう自己じこせんうつしてきせいいしぶみ取消とりけしりょう叔玉あずか衡山公主こうしゅてきこん约。

征討せいとう高句麗こうくり[编辑]

からふとしそうただしこうしめせ

642ねんふゆ高句麗こうくり发生せい变,さい终导致了とうあさだか丽的战争。642ねんてんこうさかえとめおう满東大人おとなふちぶたあや专横,あずかてき大臣だいじんみつ谋杀渊盖苏文。渊盖苏文いた消息しょうそく,发动せい变,ころせりょう荣留おうかずどう谋官员。拥立荣留おうてき侄子高藏たかぞうためおうなみふうためだい莫離ささえ攝政せっしょう有人ゆうじんけん议攻だか丽,最初さいしょふとそう表示ひょうじこばめ绝。

644ねんこう丽攻しんしん罗请もとめからあさ援助えんじょため征討せいとうふちぶた文和ふみかず保護ほごからあさてき盟友めいゆうしんからふとしむねみとめためゆう必要ひつようたい高句麗こうくり開戰かいせん逮捕たいほりょう盖苏ぶんいたからあさてき使者ししゃ宣布せんぷ弑逆しいぎゃくつみ。644ねんふとしむねりつりょう勣、みちそうちょうあきらちょうまごすべぐん10まんおやせい高句麗こうくり。645ねんふとしむねりつ领唐军攻うらないりょう辽东(こん辽宁しょう辽阳),衝破高句麗こうくりてきぼうせんじゅん備攻高句麗こうくりこく平壤ぴょんやん大功たいこうざいそくふとしそう亲自りつ领唐军さんまん,击败だか丽将军こう延寿えんじゅこうめぐみしんりつ领的じゅうまんだい军,围攻やす市城いちしろこん遼寧りょうねいしょう鞍山あんざんうみ城市じょうし)。りょうざいやす受阻,さい也無ほうまえぎょうふかあき时节,から军粮くさ枯竭,ふゆてんはたいたりふとしそう于是撤军。きさき悔贸しか亲征,说:“せいわかざい使つかいわがゆうこれぎょう也。”じゅうしん为魏せいりつ,召见せいつま儿,ふか劳赐。

ざい這之ふとしむねたい高句麗こうくりてき進攻しんこう維持いじざい一些小規模的突襲。646ねんからあさあずかかい擊滅げきめつ薛延陀,647ねんからふとしむねれいうし進達しんたつりつへいしたがえ海上かいじょう勣率へいしたがえ陸路りくろおさむ遼東りゃおとん半島はんとう。648ねんふとしそうさいまんてっりつぐんしたがえ海上うながみおさむかもみどりこうくちずいから開始かいし集結しゅうけつ陸海りくかい部隊ぶたい準備じゅんびざい649ねんさい一次大規模攻高句麗。ふとしそう於649ねんしん皇帝こうていとうだかむね暫停東征とうせいてきけい劃。668ねんこうはじめ聯合れんごうしん滅亡めつぼう高句麗こうくりせき戶數こすう69.7まんなみ建立こんりゅう安東あんどうみやこまもるとう以控せい遼東りゃおとん

めつ薛延陀[编辑]

ひがし突厥滅亡めつぼう薛延陀てき真珠しんじゅあせおつしつえびすおとこせっかんりょうひがし突厥てき。薛延陀表めん臣服しんぷく於唐あさ暗中あんちゅう却扩たかし自己じこてき力量りきりょう。638ねん,对于薛延陀逐渐强だいふとしそう怕之きさき难以ひかえせい,于是给真珠しんじゅあせてき两个儿子拔灼、颉利苾授しょうあせてき头衔,试图ざい内部ないぶせいづくり矛盾むじゅん

639ねんなつ,突利あせおとうと结社りつあずか突利あせ之子ゆきこ贺逻鹘勾结,计划とげ杀太むね们本打算ださんとうすすむおう一早离开行宫时,趁机袭击。而到りょう计划てきとうてんすすむおうぼつゆう离开宫殿,结社りつ于是つつみそうゆき动,ただし很快しつ败,俘虏处决。这次事件じけんきさき大臣だいじん们建议将突厥じん从河套地区ちくてき黄河こうが以南いなんかえしいた黄河こうが以北いほくふとしそう也試恢復かいふくひがし突厥,以抗衡薛のべ陀的崛起。639ねんあきふとしそうさつふう突厥王族おうぞく怀化ぐんおうおもえおもねおもえ)为乙わたるどろ孰俟苾可あせさく为重けんてき东突厥国家こっかてきくび领,はた诸州安置あんちてき所有しょゆう突厥えびすじん交给りょう。突厥じんがい怕薛のべ陀,敢出ふさがふとしむね诏让真珠しんじゅあせあずかおもえ保持ほじ和平わへいかくまもりばくきたかずばくみなみ互相おさむ击。ざい真珠しんじゅあせ证不进攻きさき,突厥じん于是ふさがざいばくみなみけんきば

薛延陀为避免しん恢复てき东突厥站稳脚跟,あずか進行しんこうりょうつぎ戰爭せんそう。641ねんふゆ真珠しんじゅあせ听说ふとしむねそくはたざい泰山たいざんふうぜん,无法支持しじ东突厥,于是其子大度たいど设率军攻东突厥。おもえせり退すさにゅう长城。ふとしそうためじゅうひがし突厥,いのちあずか张俭、だいあきら张士贵袭誉りつ军攻薛延陀。勣很かいざい诺真かわながれ经今ないこうむつつみ头市)击败大度たいど设,大度たいど逃走とうそう

642ねん,薛延陀尽かんめい义上顺从とうあさただしやめ经构なりりょう严重てき胁。ふとしそう这时ゆう两种选择:武力ぶりょく征服せいふくあるはたおんな儿嫁给真珠しんじゅあせ进行亲。からあさはた领、ちぎり部落ぶらくてきくびちぎり苾何りょく部下ぶか掳走,けんじ给薛のべ陀。为了赎回ちぎり苾何りょくふとしむね同意どういはたおんなしん兴公ぬしよめ真珠しんじゅあせ真珠しんじゅあせ于是释放りょうちぎり苾何りょく。643ねんからふとしそう认为自己じこむかい真珠まじゅあせ许诺亲并明智めいち所以ゆえんこう薛延陀要聘礼:まんひき马、一万头牛和骆驼、じゅうまんただひつじ真珠しんじゅあせ同意どういただし法立ほうりゅうそく交纳。ふとしそう以此为由,取消とりけしりょうこん约。

ただし644ねん,趁太むね征伐せいばつ高句麗こうくりてき機會きかい,薛延陀部たい發起ほっきしんいちりん攻勢こうせいげきはいひがし突厥,东突厥部众抛弃了あせおもえ逃回にげまわからあさ境内けいだいおもねおもえただ逃回にげまわうんしゅうふとしそう以他为右たけ卫将军。ずい高句麗こうくりひろもとめ薛延陀援助えんじょただしえびすおとこ希望きぼう避免あずかからあさちょく接戰せっせん鬥。

645ねんえびすおとこ死後しごてきわたるあせ拔灼開始かいしとうぐん作戰さくせんおさむとうあさ黄河こうが以南いなんなつしゅう。646ねんからしょう乔师もち、执失おもえりょくりつぐん反擊はんげきなみはい拔灼,薛延陀的いさおかい仆骨どうひとしてつ部落ぶらく也乘つくえ出兵しゅっぺい造反ぞうはんふとしそう得知とくちきさきみちそうおもねしゃ尔、执失おもえりょくちぎり苾何りょく、薛まん彻、张俭りつ军大举进おさむ薛延陀。薛延陀受いたおおかたおさむ击,かい纥军はたわたるあせころせてき薛延陀人纷纷逃亡とうぼう,拥立拔灼てきどうけい咄摩ささえとく勿失あせ,咄摩ささえこうとうあさ表示ひょうじ取消とりけしあせこれごう勣军いたりいくとく军山,咄摩ささえてき部落ぶらく还想顽抗,から军击败。咄摩ささえこうとうぐん投降とうこう带到长安,结束りょう其对ばくきたてき统治。薛延陀滅亡めつぼうきさき,其他臣服しんぷく于薛のべ陀的部族ぶぞく,此时也都表示ひょうじ臣服しんぷく于唐あさ,以太むね为天あせ

ふとしそう於鐵勒故しつらえろくななしゅう:瀚海かい紇)、きむほろぼくこつ)、つばめしか濫葛)、やまおもえゆい)、かめはやしどう)、かそけりょう(拔野いにしえ)。ななしゅう:皋蘭しゅう(渾)、こう闕州(斛薛)、雞鹿しゅう(奚結)、雞田しゅうおもね跌)、榆溪しゅうちぎり苾)、蹛林しゅうおもえゆいべつ)、窴顏しゅうしろ霫)。ゆかりつばめしかみやこまもる管理かんり所在しょざいかげやまこれふもといま內蒙いにしえくいにしきはた),轄境ひがしいただいきょうやすみね西にしいたおもねしか泰山たいざんみなみいたほこかべきたいたかいなんじみずうみてきせいこうむ高原こうげんかい纥的くび吐迷,虽顺ふくとうあさただし也试图控せいばくきた,648ねん侄子谋杀,ちょくいたきゅうじゅう多年たねんきさきかい纥汗こくざいとく建立こんりゅう

设立安西あんざいよん[编辑]

からふとしそう时期あずか西域せいいき诸国战争しめせ

からふとしそうめつひがし突厥開始かいしたい西域せいいきそく現代げんだいしんちゅう地區ちくてき西にし突厥以及一些鬆散結盟みどりしゅう國家こっかてきほどこせ軍事ぐんじ實力じつりょく,其主ようはりたい西にし突厥,以恢復かいふくりょうかん以來いらいたい西域せいいきてき統治とうち。从640ねん开始,ふとしそう进行一系列针对西突厥及其在塔里木盆地绿洲仆从国的战役。西にし突厥あずかからあさ间的そうもち续到ふとそう之子ゆきこだかむね在位ざいい时的657ねん西にし突厥战败とうあさ彻底征服せいふく

632ねん疏勒こく于阗こくこうとうあさにゅう贡,635ねん,处月こく犁河流域りゅういきこうとうあさにゅう贡,636ねんしゅ俱波いましんかのうしろこうとうあさにゅう贡。こうあきらおう麴文やすし原本げんぽん臣服しんぷく于唐あさいん为攻焉耆,就和からあさてき矛盾むじゅん越来ごえくえつだいあずか西にし突厥よくだにしつらえ聯合れんごう,阻礙西域せいいきしょう進攻しんこうからあさてきしゅう。639ねんふゆふとしそう以侯くんしゅうため交河どう行軍こうぐんだいそうかんあずか薛万均率兵出擊高昌王麴文泰。640ねんとうぐんいたり磧口,麴文たいおどろき懼而病死びょうし。其子麴智もり即位そくいひさほうくんしゅうかこえじょう,麴智もり请罪,ほうくんしゅう要求ようきゅう他出たしゅつじょう投降とうこう,麴智もりぼつゆう统一。ほうくんしゅう击败西にし突厥ざいあせ浮图じょうてき援军,麴智もり于是けんじじょう投降とうこうとうぐんこうあきらこくさんしゅうけんじゅうしろはちせんさんまん餘人よにん歸屬きぞくからあさこうあきらこく結束けっそくしるし指出さしで在高ありだかあきら驻军,はな费和人力じんりき成本なりもと很高,けん议太むね让麴さとしもり继续为高あきらおうふとしむねぼつゆう同意どういからあさ在高ありだかあきら設置せっち西にししゅうはた其全さかい入唐にっとうあさてきばん图。

640ねんからあさざい交河じょうしつらえ安西あんざいみやこまもるよう以針たい西にし突厥管理かんり西域せいいき。焉耆おう龙突骑支协助とうあさせい讨高あきらこれきさきまたあずか西にし突厥结盟,644ねん西にし突厥てき盟友めいゆう焉耆おさむ西にししゅう安西あんざいまもるかくたかしつとむため西にししゅう道行みちゆきぐんそうかん,从安西にしそくこうあきら出兵しゅっぺい討伐とうばつ西にし突厥てき焉耆,佔領焉耆,俘虜ふりょ國王こくおうりゅう突騎ささえたて其弟龙栗ばばじゅん摄国ごとただし後來こうらい西にし突厥大臣だいじんこごめすすずいきさきおさむおちい焉耆,俘获龙栗ばばなぞらえ,焉耆さいつぎだつはなれとうあさこごめすす惧怕からあさ势力,ひさ撤出,焉耆贵族りつ龙突骑支どうおとうと龙薛ばばおもねささえ为王。

648ねんからふとしむね派遣はけんおもねしゃなんじかくたかしつとむりつぐん討伐とうばつ西にし突厥てき焉耆かめ今新いまじんおもねかつ地区ちく库车县),から军击斩龙薛婆おもねささえたててきどうおとうと龙先じゅん为王。おもねしゃ尔进军龟兹,俘虏其王しろ诃黎ぬのしつ毕,たて其弟为王,征服せいふく兩國りょうこくしかのち疏勒于闐かえりからあさはた安西あんざいまもる遷至かめなでやすし西域せいいきみつるかめ茲、焉耆、于闐疏勒四國しこくしょう安西あんざいよん

贞观疆域[编辑]

からふとしそう贞观ねん间的とうあさ疆域

ざい北方ほっぽうさだかんよんねん(630ねん),から滅亡めつぼうひがし突厥ばく南成なんせいためから势力范围。さだかんじゅうねん(646ねん),またいち消滅しょうめつりょう薛延陀あせこくいたり此大ばく南北なんぼく广大地区ちくみなためとうてき势力范围。から朝廷ちょうていざいばくきた設立せつりつやす北都ほくと护府ざいばくみなみ設立せつりつ单于护府建立こんりゅうりょうみなみいたる罗伏しゅういまこしみなみかわせい)、きたくくげん阙州改名かいめいあまりわれしゅういまあんひしげかわ地区ちく)、西にし安息あんそくしゅういま乌兹别克斯坦ぬの哈拉)、东临哥勿しゅういまよしりんつうてき辽阔疆域。

ざい西北せいほくさだかんよんねんから朝廷ちょうていざいわれ七城しちじょう設立せつりつ西にししゅう開始かいし經營けいえい西域せいいきさだかんじゅうねん(648ねん),かくたかしつとむ击败龟兹こく安西あんざい护府しょ迁至龟兹[g]

ざい东北,645ねんとうふとそうただし讨高丽未はてとうだかそうざい668ねん乃联あいしん罗灭だか丽,设立やす东都护府

渐不かつ[编辑]

めんたい自己じこ空前くうぜんてき文治ぶんじ武功ぶこうふとしむねいた晚年ばんねん出現しゅつげんいち過失かしつくびさきおさめ諫不如貞かん早期そうき積極せっきょく如貞かんじゅうねんちょう發現はつげんややあく直言ちょくげん」。其次奢侈しゃしふうじゅう晚年ばんねんほかかえ是能これよし反省はんせい自己じこ過度かどおご靡的錯誤さくご司馬しばひかりせつからふとしむね:「好尚こうしょう功名こうみょう禮樂れいがく父子ふし兄弟きょうだいあいだ,慚德矣」。[10]どう时,ふとしむね晚年ばんねん也由早年そうねんてききよしずか转为奢纵,营建宫殿,计划ふうぜん泰山たいざんとう,并自辩“百姓无事则骄逸,劳役则易使”,せいいん此谏到“おそれ兴邦至言しげん,岂安じん长算?”过由于太むね晚年ばんねんのう够清醒认识自己じこてき问题,所以ゆえん也能进行调整,いん此虽しかふとしむね晚年ばんねん存在そんざい这些过失,さい终没ゆう现败ほろびてき危机,“いさおだい过微,业不堕”,维持りょう贞观てき局面きょくめん[11]

あずかはいうらないにわ帝国ていこくてき联系[编辑]

大秦たいしんけいきょう流行りゅうこう中国ちゅうごく

きゅうから书》かずしんから书》ひさげいたりょうはらいはいうらないにわ帝国ていこく)几次使とうあさ。认为はらい菻相とう于之まえてき大秦たいしん(汉代时指罗马帝国ていこく)。643ねん波多はたつとむきみひろしせいむかいふとしそう皇帝こうてい派遣はけん使臣ししん[12]献上けんじょう红玻璃和绿宝せきとう礼物れいもつ[13]这些书也粗略そりゃく记载りょうはらい菻的风俗きみひろしちょうまとじょう墙,[14]以及大食たいしょくおもねひしげはく帝国ていこく大将たいしょう军摩栧(きよしおもね维叶いちせいざいなり为哈さと发之ぜん担任たんにんじょ总督)はた其包围,さこ使つかいはいうらないにわじん请和てき战争。[13][15]萨珊帝国ていこくてきさいきさきいち统治しゃ嗣俟さんせいざい哈里发政权おさむなみ斯核こころ脏地带时,派遣はけん使者ししゃいたちゅう亚费尔干纳的宗主そうしゅこくとうあさ寻求ふとそう皇帝こうていてき援助えんじょ。这可能かのう促使はいうらないにわじんざいじょ亚被きよし斯林うらない领的じょう况下,派遣はけん使节前往中こく[16]からあさてき史料しりょう还记录了ざい斯兰哈里发征服せいふく斯后,萨珊王朝おうちょうてき王子おうじ卑路斯さんせい逃往とうあさてきじょう况。[17]

ざいふとしそう统治中国ちゅうごく向中むこうなか亚扩张,乎已经引おこりりょう西方せいほう世界せかいてき注意ちゅうい狄奥菲拉かつとく·西にし莫卡とうこれまれひしげかつりゃく统治时期てきはいうらないにわ帝国ていこく历史がくうつしどうもも花石はないしTaugastTaugas突厥语: Tabghach,一说语源来自建立きたたかしてき鲜卑ぞくつぶせばつ),[18]一个伟大的东方帝国,突厥じん统治, 首都しゅとざい印度いんど东北约1500英里えり处,しょうえびす姆丹らい突厥语Khumdan,意思いし长安)。さとゆう偶像ぐうぞう崇拜すうはいただしひと们很聪明,遵照せい公正こうせいてき法律ほうりつ生活せいかつ[19]しょう中国ちゅうごく描绘为被いちじょう大河たいがそく长江分割ぶんかつ,这条大河おおかわただし两个交战敌对国家こっか间的边界。ざいはいうらないにわ皇帝こうてい莫里斯统治间,北方ほっぽうじん黑衣くろごこく征服せいふくりょう南方なんぽうてき红衣こく[20]该记じゅつ可能かのうあずかずいぶんみかど灭亡陈朝、统一ちゅう国有こくゆう关。[20]西にし莫卡とうはたもも花石はないしてき统治しゃしょう为ταϊσαν,かい释为てん之子ゆきこ可能かのう天子てんし,也可以与とう时统治者ちしゃふとしむね一词的对音有关。[21]

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さだかんじゅうねん(648ねん正月しょうがつからふとしむねせんうつしみかどはんじゅうへん頒賜きゅう太子たいしおさむさだかんじゅうさんねん(649ねん),からふとしそうとくりょう痢疾(一種いっしゅ傳染でんせんびょう最終さいしゅう無效むこう(一說是服用天竺长生藥致暴病不救[22]),いのちおさむいたきむわきもん代理だいり國事こくじさだかんじゅうさんねんがつじゅうろくにち(649ねん7がつ10日とおか),からふとしそうみんくずし逝于おわり南山なんざんみどりほろみや含風殿どの內,享年きょうねんじゅういち岁,在位ざいいじゅうさんねんはつぶん皇帝こうてい,庙号ふとしむねそうからあきらりょう于今中國ちゅうごく陝西せんせいしょうれいいずみけん東北とうほく50里山さとやまほうじょう),とうだかむねうえもと元年がんねん(674ねん文武ぶんぶ皇帝こうていからげんむね天寶てんぽうはちねん(749ねん文武ぶんぶだい皇帝こうてい天寶てんぽうじゅうさんねん(754ねん文武ぶんぶだい圣大广孝皇帝こうてい

評價ひょうか[编辑]

  • さだかんせいようさんさだかん官吏かんりきよし謹,王公おうこうぬしいえだいせいごう猾之敢侵欺細じんしょうたび野次やじ,无复ぬすめ贼,囹圄れいごつねそら去年きょねんはん死者ししゃじゅうきゅうにんまた频致丰稔,べいさん钱,马牛布野ふのそと户不闭,行旅こうりょきょう师至于岭ひょうやま东至于沧うみみな赍粮,给于入山にゅうざん村落そんらくぎょうきゃく经过しゃ,必厚きょうまてある发时ゆう赠遗。此皆古昔こせきゆう也。
  • きさきすすむかんおさむ正史せいしきゅうから刘昫ひとしてき評價ひょうか:“ふみしん曰:しん观文皇帝こうてい发迹,聪明神武じんむ。拔人ぶつ则不わたし于党,负志业则咸尽其才。所以ゆえんこごめ突、じょう迟,ゆかりかたき敌而すなお倾心膂;马周、刘洎,疏远而卒钧衡。终平たい阶,谅由斯道しどう。尝试论之:础润うん兴,むし鸣螽跃。虽尧、しゅん圣,不能ふのうよう檮杌、穷奇而治ひら、吕之贤,不能ふのう为夏桀、いんからし而昌もり君臣くんしん际,遭遇そうぐう斯难,以至こじ剖心,むしりゅうすじ擢,りょうよし遭值异也。以房、さとし逾于おか、轲,とげのうみことぬしひさしみんしゃ,遭时也。ある曰:以太宗之むねゆき贤,しつ爱于こんおとうとしつきょう于诸なに也?曰:しかしゅん不能ふのうじんよんざい,尧不能ふのう训丹しゅ,斯前こころざし也。とうかみ尧任谗之ねんたてしげるこうにち,苟除かしこ逼,孰顾ぶんくずれ,变故兴,间不よう发,ぽう惧“毁巢”祸,宁虞“しゃくぬの谣?うけたまわいぬい,圣父不能ふのううつり也。わかぶんすめらぎてい储于あきら嗣,骋志于高丽;用人ようにん如贞观之はつ,纳谏ちょう。况周发、しゅう成之しげゆき袭,わがゆう遗妍;较汉ぶん、汉武恢弘,かれ惭德。迹其听断不惑ふわく,从善如流,せん载可たたえ一人ひとり而已!赞曰:あきら、发启こくいちさん圣。ぶんてい高位こういとも于不れいかん、蔡既诛,なりかん道正みちまさ。贞观风,いたこんうた咏。”[23]
  • きたそうかん修正しゅうせいしんからおう阳修そうひとしてき評價ひょうか:“甚矣,いたり治之はるゆきくん不世出ふせいしゅつ也!禹有天下でんか,传じゅうゆうろくおう,而少かんゆうちゅう兴之业。汤有天下でんか,传じゅうはちおう,而其甚盛しゃごうたたえさんむねたけおうゆう天下でんか,传さんじゅうろくおう,而成、康之やすゆきあずか宣之のぶゆきこう,其余无所しょう焉。虽《诗》、《书》しょ载,时有阙略,しかさんだいせんゆうななひゃくねん,传ななじゅうあまりくん,其卓然たくぜんちょ见于きさきしゃ,此ろくななくん而已。呜呼,谓难とく也!からゆう天下でんか,传世じゅう,其可しょうしゃさんくんげんむね、宪宗みなかつ其终,もり哉,ふとし宗之むねゆきれつ也!其除ずいみだれ迹汤、たけ;致治よし,庶几なりかん功德くどくけんたかしゆかり以来いらいひつじゆう也。いたり其牵于多爱,复立浮图,こう大喜だいぎこうつとむへい于远,此中ざいいさおぬしところつね为。しか春秋しゅんじゅうこれほうつね责备于贤しゃ以后君子くんしよく成人せいじんしゃ,莫不叹息于斯焉。”[24]
  • しんから书·北狄ほくてきれつ传》:とうとくだい矣!きわてんしょくつがえ,悉臣而屬うすうみ內外,しゅうけんとげみこと天子てんし曰“てんあせ”。さんおう以來いらいゆう以過いたりあらくんちょうまちから璽纛乃能こくいちためまろうどずい輒夷ばく蠻琛えびすたからかかとしょう逮於廷。
  • 陆九渊象山ぞうざん语要·まきさんじゅういち·论德じん功利こうり》:“ふとしむね富有ふゆう天下でんか,贵为天子てんしこう业皆其所致,而能俯首そもそも,听拂ぎゃくやめ于畴むかししょ恶之しん。呜呼!此其所以ゆえん致贞观之,庶几于さんだい王者おうじゃ乎?”
  • しゅあずか陈亮书:“ふとし宗之むねゆきこころ,则吾おそれ其无一不出于人欲也。ちょく以其のうかりひとしかり义,以行其私。而当时与そうしゃ才能さいのう既出きしゅつ其下,また不知ふちゆうじん义之饬。以彼ぜん于此,而得以成其功尔。”“论后世人せじん不当ふとうつき绳以古人こじん礼法れいほう。毕竟高祖こうそ不当ふとうりつたてしげる。”“ふとしそういさおだか天下てんかしょけいぞくまた无安顿处,ただ高祖こうそ不善ふぜん处置りょう。”
  • ぶんてんさち古代こだいじょうもとまき:ぶんてんさち殿どの试卷》:ふとし宗全そうぜん不知ふちどう、闺门耻、はた相之あいの夸、すえねん辽东いちぎょう、终不能ふのう以克其血气之暴、其心也骄。
  • 元朝がんちょうほこちょくざいさだかんせいようしゅうろんちゅうせつ:“おっとふと宗之むねゆき於正こころ修身しゅうしんみちひとし明倫めいりんこれかたまことゆう愧於二帝三王之事矣。しか其屈おのれ而納諫,にんけん而使のう恭儉きょうけん而節よう寬厚かんこう而愛みんまたさんだい而下,絕無ぜつむ而僅ゆうしゃ也。人君じんくん其善しゃ而從,其不善ふぜんしゃ而改あに交有しょえき乎!”這裡所說しょせつふとしそうざいせいしん修身しゅうしんひとし明倫めいりん方面ほうめんゆう愧于みかどさんおうこと主要しゅようゆびふとしむねあずか其兄けんなりてき皇位こういそう
  • 明朝みょうちょうかんおさむ皇帝こうてい实录《明太めんたい实录》记载,明太めんたいしゅもとあきらざいひろしななねんはちがつはついちにち(1374ねん9がつ7にち),亲自ぜん南京なんきん历代帝王ていおう祭祀さいしさんすめらぎみかどなつ禹王しょう汤王しゅうたけしおう高祖こうそ光武みつたけみかどずいぶんみかどからふとしむねそうふとしもといちどもじゅうなな帝王ていおう[25],其中对からふとしそうみんてきしゅくぶん:“おもんみからふとしそう皇帝こうてい英姿えいし盖世,たけじょう四方しほう,贞观しき昭文あきふみとくゆうくん天下でんかとく而安まんせいこうしゃ也。げんあきら以菲とく天佑てんゆうじんすけきみ临天,继承中国ちゅうごく帝王ていおうせい统,ふくねんれつ圣去やめ远,かみ在天ざいてん万古ばんこ长存,たかし报之れい举行,祭祀さいしゆう阙。ようはじめしん庙宇于京师,れつじょ圣像及历だい开基帝王ていおうまい岁祀以春、あきなかがつえい为常てんこんれい奠之はつ,谨奉牲醴、庶品致祭,ふく惟神かんながら鉴。なおとおる!”[26]
  • 明憲あきのりむねざいいのち儒臣訂正ていせいじゅうかんさだかんせいよううつしどう:“ふとしそうざいからためいちだい英明えいめいきみ,其濟世さいせいやすしみんえらゆうなりれつたく不可ふか及已。ところ惜者,せいしん修身しゅうしんゆう愧于みかどさんおうみち,而治じゅん也。”
  • もう泽东评价みん说:“みんてき工作こうさく方法ほうほうゆうよん”,“のう军无みんみぎしゃ,其次则しゅもとあきらみみ。”[27][28][29][30]
  • おうなかずいとうだい》:“とうだいてき皇帝こうていうらからふとしそう早年そうねんてきからげんむねからせんむねみやこただし杰出てき皇帝こうてい。”“わが们认为旧てき封建ほうけん歷史れきし对‘さだかん渲染とくゆうてん過分かぶんてき。……かたしかざいとうふとそう统治てきじゅう多年たねん间,人口じんこうゆうりょう较大てきぞう长,ただしずいごくもり时户すう,还不いた二分にぶんいち。”“ちょう疏文中也ちゅうや说到:‘こんらく以东,暨于うみ岱,灌莽きょ泽,茫茫ぼうぼう千里せんり人煙じんえん斷絕だんぜつ,鸡犬闻。道路どうろ萧条,进退艰阻。’”“封建ほうけん歷史れきしさだかん時期じきとうさく理想りそうてき太平たいへいもりかず實際じっさい情況じょうきょうゆう很大距離きょりてき。”
  • 吕思つとむずいとうだい》:“からふとしそう过中ざい,论其きょう俭之とく,及忧ふかおもえ远之资,实尚如宋たけみかどさら无论りょうたけしみかど;其武りゃくまた如梁たけみかどさら无论そうたけしみかど,陈武みかど矣!”

出生しゅっしょう年月としつきそう[编辑]

すえ贞观せいようみんてきせいじゅうがつみずのとうしすえ资治どおりみんてきせいじゅうがつみずのとすえきゅうから民生みんせい于隋开皇じゅうはちねんじゅうがつつちのえうま(599ねん1がつ23にち),いん此李みんてきせい应为じゅうがつ份。すえきゅうから书》みんそつねんじゅう岁,其弟げん无考;すえしんからみんそつねんじゅうさん岁,其弟げん霸年じゅう六岁死于隋大业十年(614ねん),则李げん霸生そつねん为公もと599-614ねん,而李民生みんせいそつねん为公もと597-649ねんみんじゅうがつ出生しゅっしょう民生みんせいそつ年月としつき为598ねん1がつ-649ねん7がつあずかげん霸(599-614)为同はは兄弟きょうだい。《しんから书》推翻りょうきゅうから书》关于みんてきせいそつ年月としつき增加ぞうかりょうげん霸的せいそつねん使つかいみんあずかげん霸的せいそつさらしんえびす如雷ちょみん传》そく以《しんから书》为依すえこう证李みんてき出生しゅっしょう年月としつき为隋开皇じゅうななねんじゅうがつつちのえうま(598ねん1がつ28にち)。

きゅうから しんから
みんなまそつねん 598-649(じゅう岁) 597-649(じゅうさん岁)
诸史补正みんなまそつ年月としつき 599.1.23-649.7.10 598.1.28-649.7.10
げんなまそつねん 无记载 599-614(じゅうろく岁)
みんあずかげん相差おうさつねん 不可ふか计算 相差おうさつ两岁

しんから增加ぞうかりょうげんまとせいそつねん岁,补正りょうみんてきせいそつねん岁,补充りょうきゅうからちゅうぼつゆうてきちん贵史りょう,《しんから书》あずかきゅうから书》どうれつ为《じゅうよん钦定かんすええびす如雷こう证:“民生みんせい于开すめらぎじゅう八年十二月之说亦难成立,いん窦氏ざいいたじゅう三个月的时间里先后两次生子的可能性虽然不能完全排除,ただし就常じょう而言,这种可能かのうせい也不だい”。すえみん同母どうぼおとうとげんじゅう六岁时死于大业十年,而倒推出げん霸生于开すめらぎじゅうきゅうねん所以ゆえんわか民生みんせい于开すめらぎじゅうはちねん十二月じゅうにがつ,则李げん霸最迟生于开すめらぎじゅうきゅうねん十二月じゅうにがつ,两兄弟きょうだい生辰せいしん过近,ふと可能かのう

軼事いつじ[编辑]

からふとしそう畫像がぞう

改名かいめい[编辑]

きゅうとうしょ·本紀ほんぎだいふとしむねじょう》记载,みんよんさい,其父ふかしにん岐州刺史ししゆういち書生しょせい自稱じしょうぜんしょうはいおとずれふかしせつ:“おおやけ贵人也,且有贵子。”いたみん時又ときまたせつ:“龙凤姿すがた天日てんじつひょうねんしょうじゅう,必能济世やすみん矣。”ふかしがい怕這ばなしはしじんついころせ書生しょせい書生しょせい卻忽しかしつ蹤了。於是ふかし就取“濟世さいせいやすみんきゅうみん命名めいめい[31]

すくい[编辑]

よりどころ新舊しんきゅうとうしょふとしそう本紀ほんぎみんじゅうろくさいさんぐん,跟隨ずいしょうくもていきょういちずい煬帝楊廣かこえくもていきょうぐんせめすくいみんけんじけい佈疑じん,嚇退てきぐんすくいかい天子てんし[32]

尚書しょうしょれい[编辑]

よし於唐ふとそうざい即位そくいぜん曾當尚書しょうしょれいとうふとしそう皇帝こうてい大臣だいじん敢任其職,於是こう這個職務しょくむ就幾乎不授人,尚書しょうしょしょうてき長官ちょうかん就只しつらえひだりみぎぼくしゃよう其他官員かんいん以「どう中書ちゅうしょ門下もんかさんひんてきあたま銜參あずか朝政ちょうせい執行しっこう宰相さいしょう職務しょくむ至高しこう宗時むねときまたもちい低級ていきゅう官員かんいん以「どう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごとてきあたま銜參あずか朝政ちょうせい執行しっこう宰相さいしょう職務しょくむひだりみぎぼくしゃなりりょう聽令執行しっこうてき官員かんいん不能ふのう參加さんか大政たいせいからちゅうむねかみ龙政变復辟ふくへきこれぼくしゃ就非宰相さいしょう職務しょくむ中書ちゅうしょれいさむらいちゅうざいやすみだれこう也不常設じょうせつりょうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごとなりりょう宰相さいしょうさい普遍ふへんてき名稱めいしょう

たけいさお[编辑]

だいから新語しんご·卷一けんいちふとしそうつぎ曾在えん囿內狩獵しゅりょう,一群野豬從森林中衝出。ふとしそう舉弓よん射殺しゃさつりょうよんせきただしかえゆう一頭雄野豬向馬匹直衝而來。吏部尚書しょうしょから慌忙下馬げばあずかこれ搏鬥。ふとしむね拔劍ばっけん砍死豬,えみちょたいとう儉說,「てんさくちょう不見上ふみがみしょうげきぞく耶?なに懼之甚!」から儉當そく回答かいとうどう:「かん以馬じょうとく馬上もうえ理之まさゆき陛下へいか以神たけじょう四方しほうあにふくたくまし雄心ゆうしん於一じゅう!」ふとしそうさとしとくから說得せっとく有理ゆうり,於是停止ていしりょう狩獵しゅりょう[33]

避讳[编辑]

おさむのぼりはじめためりょう表示ひょうじたいてき父親ちちおやみんてき無比むひ尊敬そんけい進行しんこうりょういちこう重要じゅうよう規定きていそくさい使用しようかずみん”這兩個りゃんこ。 這個規定きていしるべ致了「觀世音菩薩かんぜおんぼさつ」這個名字みょうじてき改變かいへんしたがえ此稱ため觀音かんのん菩薩ぼさつ」。ざいとうふとそうみんてき統治とうち時期じき,"觀世音菩薩かんぜおんぼさつ"這個稱呼しょうこ經常けいじょうざいだいから相關そうかん文獻ぶんけん和文わぶんちゅう出現しゅつげんしか而,からふとしそう,這個稱呼しょうこへんとく相對そうたい常見つねみ,逐漸あわりょう歷史れきし舞台ぶたい。 這個變化へんか反映はんえいりょう不同ふどう歷史れきし時期じき統治とうちしゃたい於宗きょう和文わぶん方面ほうめんてきせきちゅうへんこのみてき變化へんかただし也有やゆう說法せっぽうみとめため觀音かんのん菩薩ぼさつただ觀世音菩薩かんぜおんぼさつてき簡稱。とうだい清涼せいりょうきよしかん法師ほうし指出さしでざい梵文ぼんぶん古本ふるほんちゅう存在そんざいりょうたね不同ふどうてき名稱めいしょう,1927ねんしん出土しゅつどてき抄本しょうほんちゅう,以 अवलोकितस्वर(Avalokitasvara)ため觀音かんのん菩薩ぼさつてき名稱めいしょうあかしじつりょうてき說法せっぽう。「しゃば」(स्वर svara),意思いしため聲音こわね」,Avalokitasvara 意譯いやくため觀音かんのん」,ばと出生しゅっしょうざい西域せいいき地區ちく所見しょけんてきおう該就這個版本はんぽんよし此,觀音かんのん菩薩ぼさつなみいんため避諱而出現しゅつげんてき名稱めいしょう根據こんきょとうだいげんおうてき說法せっぽう,這可能かのう於不どう地區ちく方言ほうげんところしるべ致的。[34]

書法しょほう[编辑]

からふとしむねしゅ书《溫泉おんせんめい》(局部きょくぶつぶせへん

みんこく愛書あいしょほう,其書ほう以隸書見しょけんちょうなみ且酷愛書あいしょほう名品めいひんらんていじょ》(そくらんていしゅうじょ》,王羲之おうぎし書法しょほう珍品ちんぴん王羲之おうぎしてきじゅうふんおおへん,就一「これ就有じゅうすうしゅ變化へんか),相傳そうでん當年とうねんぼう大臣だいじんぶとむねゆう鬱結うっけつなん紓,もん原因げんいん知道ともみち其欲どくらんていじょ》,於是便びんあずか辯才べんさい和尚おしょう王羲之おうぎし當年とうねんすみたから輾轉てんてんでんいたりななせいまご智永ともえ智永ともえ出家しゅっけためそうまたはたぼく寶傳ほうでん弟子でし辯才べんさい和尚おしょう)鬥智最後さいごおわり於為みん獲得かくとく。而王羲之おうぎし本願ほんがんなみそうらんていじょ》落入君王くんのう手成てなるため陪葬ひんただし最後さいご結果けっかことあずかねがいたがえ,《らんていじょ最終さいしゅうなりためからふとしむねてき陪葬ひん

ふとしそうふところはいたか[编辑]

とうだいりゅうずいからよしみばなしふとしそう曾经饲养过一ただ十分じゅうぶん爱它,经常它架ざいひじじょう玩赏。いちいたちょうぜんらいそうごと,就把鹞藏ざいりょう怀里。ちょう端倪たんげい,汇报事情じじょう时就顺势むかいふとしそう讲述古代こだい帝王ていおうよし于安いっとおる乐而亡国ぼうこくてき故事こじ暗中あんちゅう劝谏ふとしむねちょうそうごと故意こい拖了很久,鹞最终被捂死ざいりょうふとしそう怀里[35]

ぶんすめらぎおもえおんな[编辑]

功臣こうしん长孙顺德いんおんな儿逝而大びょうふとしそう认为顺德けい鲜卑贵胄,武将ぶしょう却十分挂念儿女之情,いん此心せいひなえびす,对ぼうげん说:“顺德无刚气,いん儿女牵爱而致大病たいびょういたり于吗?”[36]きさきらいすすむ阳公ぬし夭,ねんじゅうふとしむね非常ひじょう傷心しょうしんゆうさん十多天吃不下飯,每日まいにち哀傷あいしょうすうじゅういん身体しんたい急速きゅうそくしょう瘦。大臣だいじん們前らいすすむふとしむねかいどう:「ちん哪裡不知ふちどう這樣悲爱すみ於事呢。わがただにんじゅう啊,ちん也不知道ともみちため甚麼いんもかい這樣[37]。」きたそうしょう也说からふとしそう儿女牵爱,不能ふのう[38]

すすむ公主こうしゅきさきからふとしむね命令めいれいゆう关官员用すすむ阳公ぬしふう邑的あまり钱在公主こうしゅつくり营建ふつほこら,以此为公主こうしゅてき往生おうじょう祈祷きとう[39]

大臣だいじん[编辑]

じゅうはち學士がくし[编辑]

  1. はたおうぞくもり如晦
  2. はたおうしつぼうげんよわい
  3. てんさく從事じゅうじちゅうろう于志やすし
  4. てんさくぐん咨祭しゅちょう
  5. てんさくしつ薛收
  6. はたおう文學ぶんがく褚亮
  7. 國子くにこじょきょうりく德明のりあき
  8. はたおう文學ぶんがく姚思れん
  9. 國子くにこじょきょうあな穎達
  10. はたおうおも簿玄道げんどう
  11. てんさくくらまもるもと
  12. はたおうしつおそれみなみ
  13. はたおうさんぐん蔡允きょう
  14. はたおうさんぐんかおしょう
  15. そうしゅうそうかんもとけいむね
  16. はたおうさんぐん薛元けい
  17. 國子くにこじょきょうぶたぶんたち
  18. はたおう咨議てん

しのげけむりかくじゅうよん功臣こうしん[编辑]

  1. つかさちょうこくおおやけちょうまご
  2. つかさそらあげ州都しゅうととく河間こうまもとおうたかしきょう
  3. つかさそら、萊國なりこうもり如晦
  4. つかさそら相州あいしゅうとく太子たいしふとしてい國文こくぶんさだおおやけちょう
  5. つかさそらはりこくおおやけぼうげんよわい
  6. 開府かいふどうさんつかさ尚書しょうしょみぎぼくしゃさるこくおおやけ高士こうしれん
  7. 開府かいふどうさんつかさ、鄂國こうじょうおそけいとく
  8. 特進とくしんまもるこくおおやけやすし
  9. 特進とくしんそうこくおおやけしょう
  10. 輔國大將軍だいしょうぐんあげ州都しゅうととく、褒忠たけしおおやけだんこころざしげん
  11. 輔國大將軍だいしょうぐん、夔國こうりゅうひろしもと
  12. 尚書しょうしょひだりぼくしゃ、蔣忠こうこごめ突通つきとお
  13. 陝東道行みちゆきだいみぎぼくしゃ、鄖節こういん開山かいさん
  14. 荊州とく、譙襄こうしば
  15. 荊州とく、邳襄こうちょうまご順德じゅんとく
  16. らく州都しゅうととく、鄖國こうちょうあきら
  17. ひかり祿ろく大夫たいふ、吏部尚書しょうしょひねこくおおやけほうくんしゅう
  18. ひだり驍衛大將軍だいしょうぐん、郯襄こうちょうこう
  19. ひだりりょうぐん大將軍だいしょうぐんこくおおやけほどぶし
  20. れい尚書しょうしょ永興りょうごぶん懿公おそれみなみ
  21. 戶部とべ尚書しょうしょ、渝襄こうりゅうまさしかい
  22. ひかり祿ろく大夫たいふ戶部とべ尚書しょうしょ、莒國こうから
  23. ひかり祿ろく大夫たいふ兵部ひょうぶ尚書しょうしょ英國えいこくこう
  24. じょ州都しゅうととくえびすたけしおおやけはた叔寶

宰相さいしょう[编辑]

年代ねんだい なお书左仆射 なお书右仆射 さむらいちゅう ちゅう书令 まいり政事せいじとう どう中書ちゅうしょ門下もんかさんひん
武德ぶとくきゅうねんへいいぬ
(626ねん
萧瑀じゅうがつめん ふうとくつね 陈叔达じゅうがつめん
高士こうしれん
ぼうげん
宇文うぶん
贞观元年がんねんひのと
(627ねん
萧瑀ろくがつにん十二月じゅうにがつ ふうとくつねろくがつそつ
长孙无忌なながつにん
高士こうしれんはちがつめん ぼうげん
宇文うぶんきゅうがつ
もり九月御史大夫检校吏部尚书,さん朝政ちょうせい
贞观ねん戊子ぼし
(628ねん
长孙无忌正月しょうがつ もり如晦正月しょうがつ,检校
おう十二月じゅうにがつもり
ぼうげん
やすし正月しょうがつ,检校,さんがつ,关内道行みちゆき军大总管
もりまいり朝政ちょうせいじゅうがつそつ
贞观さんねんおのれうし
(629ねん
ぼうげん もり如晦十二月じゅうにがつ おうもり ぼうげんがつ转左仆射
やすしきゅうがつていじょう道行みちゆき军大总管
ちょうがつ书监,まいり朝政ちょうせい
贞观よんねんかのえとら
(630ねん
ぼうげん やすし おうがつにん やすしはちがつ转右仆射
ゆたか彦博がつにん
ちょうまいり朝政ちょうせい
萧瑀がつ大夫たいふまいり朝政ちょうせいなながつ
戴胄二月民部尚书检校吏部尚书,さん朝政ちょうせい
ほうくんしゅうじゅういちがつ兵部ひょうぶなお书,まいり朝政ちょうせい
贞观ねんからし
(631ねん
ぼうげん やすし おう ゆたか彦博 ちょうまいり朝政ちょうせい
戴胄まいり朝政ちょうせい
ほうくんしゅうまいり朝政ちょうせい
贞观ろくねんみずのえたつ
(632ねん
ぼうげん やすし おう
ちょう检校
ゆたか彦博 ちょうまいり朝政ちょうせい五月ごがつ检校さむらいちゅう
戴胄まいり朝政ちょうせい
ほうくんしゅうまいり朝政ちょうせいさんがついたりじゅうがつちょう
贞观ななねん癸巳きし
(633ねん
ぼうげん やすし おうさんがつ
ちょうさんがつにん
ゆたか彦博 戴胄まいり朝政ちょうせいろくがつそつ
ほうくんしゅうまいり朝政ちょうせい
贞观はちねんかぶとうま
(634ねん
ぼうげん やすしじゅうがつたいらあきら政事せいじ十一月じゅういちがつ ちょう ゆたか彦博 ほうくんしゅうまいり朝政ちょうせいじゅう二月积石道行军总管
贞观きゅうねん乙未おとみ
(635ねん
ぼうげん ちょう ゆたか彦博 ほうくんしゅうまいり朝政ちょうせい
萧瑀十一月じゅういちがつとく进,まいり朝政ちょうせい
贞观じゅうねんへいさる
(636ねん
ぼうげん ゆたか彦博 ちょうろくがつ罢,仍知门下しょうごと
楊師どうろくがつにん
ゆたか彦博ろくがつ转右仆射 ほうくんしゅうまいり朝政ちょうせい
萧瑀まいり朝政ちょうせい十二月じゅうにがつ
ちょうろくがつとく进,まいり得失とくしつ
贞观じゅういちねんちょうとり
(637ねん
ぼうげん ゆたか彦博ろくがつそつ ちょう门下しょうごと
楊師どう
ほうくんしゅうまいり朝政ちょうせい
ちょうまいり得失とくしつ
贞观じゅうねんつちのえいぬ
(638ねん
ぼうげん 高士こうしれんなながつにん ちょう门下しょうごと
楊師どう
ほうくんしゅうまいり朝政ちょうせい,八月当弥道行军大总管
ちょうまいり得失とくしつ
贞观じゅうさんねんおのれ
(639ねん
ぼうげん 高士こうしれん ちょう门下しょうごと
楊師どう十一月じゅういちがつ转中书令
楊師どう ほうくんしゅうまいり朝政ちょうせいじゅう二月交河道行军大总管
ちょうまいり得失とくしつ
りゅう十一月じゅういちがつ黃門こうもんさむらいろうまいり政事せいじ
贞观じゅうよんねんかのえ
(640ねん
ぼうげん 高士こうしれん ちょう门下しょうごと 楊師どう ほうくんしゅうまいり朝政ちょうせい十二月じゅうにがつ
ちょうまいり得失とくしつ
りゅうまいり政事せいじ
贞观じゅうねんからしうし
(641ねん
ぼうげん 高士こうしれん ちょう门下しょうごと 楊師どう ほうくんしゅうまいり朝政ちょうせい
ちょうまいり得失とくしつ
りゅうまいり政事せいじ
贞观じゅうろくねんみずのえとら
(642ねん
ぼうげんなながつ为司むなし 高士こうしれん ちょう门下しょうごときゅうがつ 楊師どう ほうくんしゅうまいり朝政ちょうせい
ちょうまいり得失とくしつきゅうがつ
りゅうまいり政事せいじ
岑文ほん正月しょうがつ中書ちゅうしょさむらいろうせんてん機密きみつ
贞观じゅうななねんみずのと
(643ねん
ぼうげんなながついたりじゅうがつちょう 高士こうしれんろくがつ转同さんひん 楊師どうよんがつ ほうくんしゅうまいり朝政ちょうせいよんがつ
りゅうまいり政事せいじ
岑文ほんせんてん機密きみつ
ちょうあきらはちがつ刑部おさかべ尚書しょうしょまいり朝政ちょうせい
萧瑀よんがつとく进、太子たいしふとし
よんがつ兵部ひょうぶなお书、とく进、太子たいし詹事
高士こうしれんろくがつ开府仪同さんつかさたいらあきら政事せいじ
贞观じゅうはちねんかぶとたつ
(644ねん
ぼうげん りゅう 岑文ほん
马周はちがつもり
りゅうまいり政事せいじはちがつ转侍ちゅう
岑文ほんせんてん機密きみつはちがつ转中书令
ちょうあきらまいり朝政ちょうせい
褚遂りょうきゅうがつ门侍ろうまいり朝政ちょうせい
萧瑀
じゅう一月辽东道行军大总管
高士こうしれん
贞观じゅうきゅうねんおつ
(645ねん
ぼうげん りゅう二月於定州同掌機務,じゅうがつ赐死
长孙无忌さんがつ
岑文ほんよんがつそつ
马周二月於定州同掌機務
杨师どうさんがつ摄,十一月じゅういちがつめん
ちょうあきらまいり朝政ちょうせい
褚遂りょうまいり朝政ちょうせい
许敬むね二月以左庶子於定州同掌機務
こう二月以右庶子於定州同掌機務
ちょうこうなり二月以少詹事於定州同掌機務
萧瑀
じゅう一月辽东道行军大总管
高士こうしれん二月摄太子太傅,於定しゅうどうてのひらつとむ
贞观じゅうねん丙午ひのえうま
(646ねん
ぼうげん 马周 ちょうあきらまいり朝政ちょうせいさんがつ
褚遂りょうまいり朝政ちょうせい
萧瑀よんがつ

高士こうしれん
贞观じゅういちねん丁未ていみ
(647ねん
ぼうげん 马周 褚遂りょうまいり朝政ちょうせいじゅうがつちょう 三月辽东道行军大总管
高士こうしれん正月しょうがつそつ
贞观じゅうねんつちのえさる
(648ねん
ぼうげんなながつそつ 马周正月しょうがつそつ
长孙无忌正月しょうがつ检校,なお书、门下さんしょうごと
褚遂りょう
褚遂りょう二月起复參豫朝政,きゅうがつ转中书令
ちぇひとし正月しょうがつちゅう书侍ろうまいりつとむがつ除名じょめい
贞观じゅうさんねんおのれとり
(649ねん
长孙无忌检校,なお书、门下さんしょうごと
褚遂りょう
五月ごがつ

家庭かてい[编辑]

いえ[编辑]

家族かぞく血統けっとう[编辑]

から皇室こうしつみみきさき裔自きょざいとうふと宗時むねとき,曾有和尚おしょうほうみとめためから先祖せんぞためつぶせばつこれみみあずか隴西後代こうだい,引起からふとしそう不滿ふまんとうふとしむね[40]

先祖せんぞとらてき兄弟きょうだいめいためおこりあたまあずか乞豆漢人かんど名字みょうじ馮承ひとし认為から家族かぞくゆう可能かのう出身しゅっしんえびすじん[41]根據こんきょあたらしおさむ本草ほんぞう記載きさいあずかからふとしむねしょういむこうもち推論すいろんみん可能かのうようゆうえびすじん血統けっとう[42]ちんとらつとむみとめためとうさき雖為漢人かんどただしざいとらこれ,其家族かぞく長期ちょうきあずかえびす人通ひとどおりこんこんゆうえびすぞく血統けっとう[43],其祖ははあずか母親ははおやみな出身しゅっしん鮮卑,みん本人ほんにんようゆうえびすぞく血統けっとうため明確めいかく事實じじつ[44]。( ただし鮮卑也有やゆうしょうかんぞく血統けっとう長期ちょうきかんぞくどおりこん中華民國ちゅうかみんこく學者がくしゃせんきよし[45]薩孟たけし[46]あずか岑仲つとむとうひとみなゆう類似るいじ意見いけん[47]

りゅう盼遂[48]あずかおうきりよわい[49]こうよりどころみとめため民家みんかぞくおうため鮮卑つぶせばつ後裔こうえい,這個說法せっぽう曾引おこり討論とうろん[50][51]よしためとうあさ先人せんじん曾被たまものせい大野おおの台灣たいわん學者がくしゃりゅうまなぶ[52]あずか中国ちゅうごく学者がくしゃ苏日ともえ达拉哈,のり主張しゅちょうから家族かぞく先祖せんぞおう出自しゅつじこうしゃ[53]

妻妾さいしょう[编辑]

  • よし于史りょうかけしつれつてききさき宫、ひめわらわ诸人可能かのうゆうじゅう复。

皇后こうごう[编辑]

[编辑]

  • 韋珪[j]おもて泽。きたあまねふとしでん韦孝宽曾孫そうそんおんな韦圆なりおんななまおうまこと臨川りんせん公主こうしゅはじめきょうみことふう纪国たいなま於公もと597ねん,薨於こうもと665ねん享年きょうねん69さい。陪葬あきらりょうあずか前夫ぜんふたかしゆういちじょふとしそうふうていじょう县主性情せいじょう簡素かんそ矜持きょうじはしそう,頗有ぶんさい
  • 杨贵[k]なまちょうおうぶくふう赵国たいせいそつねんしょう。陪葬あきらりょう
  • 楊妃[l]ずい炀帝おんななまくれおうつとむしょく悼王なまそつねんしょうはかそう不明ふめい
  • 阴妃阴世师これおんななまひとしおうゆうせいそつねんしょうはかそう不明ふめいうたぐためあきらりょうかげ嬪墓。
  • つばめいさお[m]つばめたから寿ひさしおんなずい观王杨雄そと孙女。さきふうけん遷德生越おごせたかしおうさだこう殤王ふうえつこくたいなま於隋大業おおわざねんおおやけもと609ねん),咸亨ねんおおやけもと671ねん),享年きょうねん63さい。陪葬あきらりょうたけ则天おもてあね泰山たいざんふうぜんつばめふとしにん终献。
  • ていけん[n]なまそつねん不祥ふしょう。仅《とうかいよう記載きさい陪葬あきらりょう目前もくぜんひさし發現はつげん其墓そう
  • けんじょめぐみ[o]じょ孝德たかのりおんななま武德ぶとくはちねんおおやけもと626ねん),ゆかり才人さいじんるい进至ひんたかしよう。薨於なが徽元ねんおおやけもと650ねん),享年きょうねん24さいおくけん,陪葬あきらりょう石室いしむろ

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  • あきら某氏ぼうしなま於隋じんことぶき元年がんねんおおやけもと601ねん),薨於えいあつし元年がんねんはちがつじゅうよんにちおおやけもと682ねん),享年きょうねん81さいじゅうがつじゅういちにち陪葬あきらりょう現有げんゆうあきら陵墓りょうぼ一方いっぽう
  • あきらよう韋尼韦孝宽曾孫そうそんおんな韦匡はく長女ちょうじょ,韦贵どういもうとなま於隋大業おおわざさんねんおおやけもと607ねん),薨於あらわけい元年がんねん九月八日長安崇聖宮,享年きょうねん50さいじゅうがつじゅうはちにち陪葬あきらりょう前夫ぜんふおうげん現有げんゆうあきら陵墓りょうぼ一方いっぽう
  • しも嫔某あきら公主こうしゅはは

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  • 婕妤某氏ぼうし生年せいねんしょう,麟德ねんそつ,陪葬あきらりょうはかこころざしだいとう婕妤三品亡尼墓志铭並序》。
  • 楊婕妤楊恭どうだいさんじょなまそつねんしょうはかそう不明ふめい
  • 萧美じんしょう鑠第じょなまそつねんしょうはかそう不明ふめい
  • ちぇ才人さいじんちぇ宏道ひろみち長女ちょうじょなまそつねんしょうはかそう不明ふめい
  • 萧才じんしょう鏗第じょなまそつねんしょうはかそう不明ふめい
  • たけ才人さいじん後來こうらいてき武則たけのりてん):そくとうだかむね则天皇后こうごうたけ曌。武士ぶしおんなさだかんひん才人さいじんいれかんぎょうてらさいいれみやためだかむねひんあきらしんふうため皇后こうごうさいしょうみかど

其他わらわしつ[编辑]

女官にょかん、宫人[编辑]

  • さんひんほろびみやあまね三品みしな宮人みやびとなまそつねんしょう,陪葬あきらりょう
  • さんひんほろびみやきん武德ぶとくはちねん(625ねん出生しゅっしょうたれよんねん(688ねんじゅういちがつじゅうろくにちそつねんろくじゅうよん岁,永昌えいしょう元年がんねん(689ねん正月しょうがつじゅうさんにち陪葬あきらりょうはかこころざしだいとうほろびさんひんあまきんひつぎ
  • ほろびみやひんひん宮人みやびと姓名せいめいしょう生年せいねんしょう,薨於あらわけいねん(657ねんうるう正月しょうがつじゅうろくあきらりょうみやがつじゅうよんにち陪葬あきらりょう現有げんゆうあきら陵墓りょうぼ一方いっぽう
  • さんひんほろびあま三品みしな宮人みやびと姓名せいめいしょう出家しゅっけためあまなまそつねんしょう,陪葬あきらりょう
  • ななひんてんとうなまそつねんしょう姓名せいめいしょう,陪葬あきらりょう

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からふとしむね共有きょうゆう14[54]

  1. うけたまわいぬい[q]ははちょうまご皇后こうごうなま武德ぶとく元年がんねんおおやけもと618ねん),そつ於貞かんじゅうきゅうねんおおやけもと645ねん),ねん28さい。陪葬あきらりょう常山つねやまぐんおう中山ちゅうざんぐんおう皇太子こうたいしはい太子たいしおくつねやま愍王
  2. ひろし[r]ははしょうせいそつねんしょう。嗣楚おうおくすわえおう
  3. つとむ[s]ははずい煬帝おんな楊妃。なま武德ぶとくねんおおやけもと619ねん),薨於ながよんねんがつおおやけもと653ねん),享年きょうねん34さいおくつかさそらはかそうしょうちょうすなぐんおうかんおうしょくおうくれおうはいため庶人→おくうつはやしぐんおうくれおう
  4. やすし[t]ははちょうまご皇后こうごうなま武德ぶとくさんねんおおやけもと620ねん),えいさんねんおおやけもと652ねん)薨於鄖鄉けんねん33さいおくふとじょう、雍州まきそう於薨むべぐんおうまもるおうえつおうおうひがしらいぐんおうじゅんぐんおう→濮恭おう
  5. ゆう[u]ははかげ生年せいねんしょうそつ於貞かんじゅうななねんおおやけもと645ねん)。はかそうしょうむべぐんおうすわえおうつばめおうひとしおうはいため庶人
  6. [v]ははずい煬帝おんな楊妃。生年せいねんしょういぬいふうねん(667ねんそつ於流はいともえしゅうおくえきしゅうだいとく,陪葬あきらりょうはりおうしょくおう→貶為庶人→涪陵ぐんおうしょく悼王
  7. ははおう生年せいねんしょう,薨上元年がんねんあいだおくつかさそら、荊州だいとく,陪葬あきらりょう。郯王→蔣王
  8. さだ[w]ははつばめいさおなま武德ぶとくはちねんおおやけもと626ねん),薨於たれさんねんおおやけもと688ねん),享年きょうねん62さい。陪葬あきらりょうかんおうはらおうこしたかしおう
  9. おさむ[x]ははちょうまご皇后こうごうすすむおう皇太子こうたいしとうだかむね
  10. まこと[y]はは韋貴生年せいねんしょう,薨於永昌えいしょう元年がんねんおおやけもと689ねん)。陪葬あきらりょうさるおうおう
  11. ははつばめいさお生年せいねんしょうそつ於貞かんろくねん正月しょうがつおおやけもと633ねん)。こう殤王
  12. ははしょう生年せいねんしょうそつ於貞かんねんよんがつおおやけもと632ねん)。だいおう
  13. ぶく[z]はは楊貴妃ようきひなま於貞かんはちねんおおやけもと635ねん),薨於咸亨元年がんねんおおやけもと670ねん),おくつかさそら、并州とく,陪葬あきらりょうちょうおう
  14. あきら[aa]はは元吉もとよしつま剌王楊氏。せいそつねんしょう。陪葬あきらりょう。曹恭おう

おんな[编辑]

しんから书》[55]记唐ふとそう共有きょうゆう21女兒じょじ出生しゅっしょう顺序见于个人记载:

  1. じょうじょう公主こうしゅ[ab],长女:はは不明ふめいしもよめしょうするど生年せいねんしょう。陪葬あきらりょう
  2. なんじみなみ公主こうしゅだいさんじょ[56]はは不明ふめいはや薨。せいそつねんしょうはかそうしょう
  3. 南平みなみだいら公主こうしゅはは不明ふめいしもよめおうたかしただし,以累斥嶺みなみさらよめりゅうげんせいそつねんしょう。陪葬あきらりょう
  4. とげやす公主こうしゅはは不明ふめいしもよめ竇逵,逵死,またよめおう大禮たいれいせいそつねんしょう。陪葬あきらりょう
  5. 長樂ながら公主こうしゅ[ac]麗質れいしつだいじょははちょうまご皇后こうごうしもよめちょうまごおきなま武德ぶとくよんねんおおやけもと621ねん),薨於さだかんじゅうななねんおおやけもと643ねんはちがつじゅうにち享年きょうねん23さい。陪葬あきらりょう
  6. あきら公主こうしゅ[ad]はは宮中きゅうちゅう嬪,しもよめからせいそつねんしょう。陪葬あきらりょう
  7. ともえりょう公主こうしゅ[ae]はは不明ふめいしもよめしばれいたけし生年せいねんしょう,薨於ながよんねんがつはかそうしょう
  8. やす公主こうしゅはは不明ふめいしもよめふみじんひょうなまそつねんしょう,陪葬あきらりょう
  9. 東陽とうよう公主こうしゅはは不明ふめいしもよめこう履行りこうなまそつねんしょう,陪葬あきらりょう
  10. 臨川りんせん公主こうしゅ[af]だいじゅういちあるだいじゅうじょおもてはじめきょう」,はは韋貴しもよめしゅうどうつとむなま武德ぶとくななねんおおやけもと624ねん),そつ於永じゅん初年しょねんおおやけもと682ねん),享年きょうねん58さい。陪葬あきらりょう
  11. 清河きよかわ公主こうしゅ[ag]めいたかし」,おもてとくけん」,はは不明ふめいしもよめほどふところあきらなま武德ぶとくななねんおおやけもと624ねん),そつ於麟とく元年がんねんおおやけもと664ねん),享年きょうねん41さい。陪葬あきらりょう
  12. らんりょう公主こうしゅ[ah]だいじゅうきゅうじょめいよし」,おもてうららさだ」,はは不明ふめいしもよめ竇懷悊生年せいねんしょうやまい逝於とうだかむねあらわけいさんねんおおやけもと658ねんはちがつ。陪葬あきらりょう
  13. すすむやす公主こうしゅはは不明ふめいしもよめ韋思やすまたよめ楊仁輅なまそつねんしょう。陪葬あきらりょう
  14. 安康あんこう公主こうしゅはは不明ふめいしもよめどくはかりごとせいそつねんしょう。陪葬あきらりょう
  15. 新興しんこう公主こうしゅはは不明ふめいしもよめちょうまごせいそつねんしょう。陪葬あきらりょう
  16. 城陽じょうよう公主こうしゅ[ai]ははちょうまご皇后こうごうしもよめもりまたよめ薛瓘せいそつねんしょう。陪葬あきらりょう
  17. こう阳公ぬし[aj]はは不明ふめいしもよめぼう遺愛いあい生年せいねんしょう,薨於ながよんねんがつはかそうしょう
  18. 金山かなやま公主こうしゅはは不明ふめいはや薨。せいそつねんしょうはかそうしょう
  19. すすむ公主こうしゅ[ak]おもて明達めいたつ」,ははちょうまご皇后こうごう及下よめせいそつねんしょう,薨年じゅうはかそうしょう
  20. 常山つねやま公主こうしゅはは不明ふめいなまそつねんしょうぼつゆうよめはかそうしょう
  21. 新城しんじょう公主こうしゅ[al]ははちょうまご皇后こうごうはつよめちょうまごかいこうよめ韋正のり生年せいねんしょう,薨於りゅうついたちさんねん。陪葬あきらりょう

つぎおんな[编辑]

  1. ていじょうけんぬし,韋貴あずか前夫ぜんふたかし所生しょせいおんなよめおもねただし

あい关文艺作品さくひん[编辑]

しょう[编辑]

かげ作品さくひん[编辑]

かざりえんじえんじいん かげ作品さくひん
楊群 からふとしそうゆう》(1970ねん
馮粹 ずい唐風とうふうくも》(1976ねん
中村なかむら敦夫あつお 西にしゆう》(1978ねんにちげき
おうひかり 少林寺しょうりんじ》(1982ねん
なえ侨伟 决战玄武げんぶ》(1984ねん
こう たけ则天》(1984ねん
刘兆铭 《薛仁贵征东》(1985ねん
《薛丁やませい西にし》(1986ねん
张志あきら 西にしゆう》(1986ねん
りょう修身しゅうしん 一代女皇武则天》(1986ねん
刘青うん だい运河》(1987ねん
佟瑞さと だい唐名とうみょうしょう》(1990ねん
おうこころざし 侠骨きょうこつ风流》(1992ねん
にん秉基 さんこく》(1992ねんかんげき
はちす だい唐風とうふうくもろく》(1992ねんでんうたおどけ
夏木なつき阳介 西にしゆう》(1993ねんにちげき
はやししゅん からふとしそうみん》(1993ねん
鲍国やす たけ则天》(1995ねん
张兆辉 ずいとうぐんえいかい》(1996ねん
布袋ほてい和尚おしょう》(1999ねん
おうむかいふかし ずいからえんじ》(1996ねん
郑柏麟 西にしゆう》(1996ねん
こげおんしゅん ゆう龙惊凤》(1997ねん
黄海こうかい 花木はなき》(1998ねん
濮存昕 镜花缘传》(1998ねん
はん志文しぶみ 西にしゆう》(1998ねん
樊少すめらぎ しん少林寺しょうりんじ》(2000ねん
おうあきら 乱世らんせいももはな》(2000ねん
おうひかり 西にしゆう记后传》(2000ねん
唐国からくにきょう だいからじょう》(2001ねん
贞观长歌》(2007ねん
武則たけのりてん秘史ひし》(2011ねん
ひろし宇宙うちゅう 文成ふみなり公主こうしゅ》(2001ねん
陈荣たかし 锦绣りょう》(2001ねん
高雄たかお 齐天だい圣孙悟空ごくう》(2002ねん
郑国霖 ずいから英雄えいゆう》(2003ねん
ずいから英雄えいゆう3、4》(2014ねん
热血长安》(2017ねん
陈宝こく うつりさんたおせうみ樊梨はな》(2003ねん
廖启さとし 烽火ほうか奇遇きぐう结良缘》(2003ねん
なに润东 はたおうみん传奇》(2004ねん
于洋 傻小もと》(2004ねん
杨升 千古せんこ风流いち坛醋》(2004ねん)
刘威 无字》(2004ねん
阮德锵 だいとうそう龙传》(2004ねん
寇振うみ 至尊しそん红颜》(2005ねん
じょひとし
はしら
渊盖苏文》(2006ねんかんげき
沈晓うみ 开创もり》(2006ねん
しゅん 风尘さん侠之红拂おんな》(2006ねん
おう卫国 薛仁贵传》(2006ねん
そう龙台 だい祚荣》(2006ねんかんげき
马跃 贞观》(2007ねん
だいから儿女ぎょう》(2021ねん
はやしこころざし 少林寺しょうりんじ传奇2》(2008ねん
刘长纯 大明だいめい》(纪录へん)(2009ねん)
かくほう 公主こうしゅよめいた》(2010ねん
しゅおよげ 西にしゆう》(2010ねん
汤镇むね 西にしゆう》(2011ねん
吴庆あきら だいとうそう龙传长生诀》(2011ねん
黄海こうかい から宫美じん天下でんか》(2011ねん
贺刚 ぼくあん》(2012ねん
马天宇[am] のきながえけんてんあと》(2012ねん
しょうぐん ずいから英雄えいゆう1、2》(2012ねん
いんうけたまわもと 大王だいおう》(2012ねんかんげき
もりあつし ずいからえんじ》(2013ねん
なにちゅう じょう迟恭》(2013ねん
张丰あつし たけこびむすめ传奇》(2014ねん
はたしゅん 天下てんか长安》(2018ねん
ちょうさとし から》(2018ねん
ぼくまことゆう やす市城いちしろ》(2018ねん韓國かんこくでんかげ
刘倬廷 玄武げんぶ门之殇》(2018ねん
かずら奕德 しょうはやししょう英雄えいゆう》(2018ねん
ちょう宇翾 天真てんしん西にしゆう记》(2019ねん
谭凯 ふうおこり霓裳》(2021ねん
耿乐 长歌ぎょう》(2021ねん

动漫[编辑]

電子でんし遊戲ゆうぎ[编辑]

注釋ちゅうしゃく[编辑]

  1. ^ 1.0 1.1 其同ははおとうとげん于599年生ねんせい民生みんせい于598ねん长一岁。
  2. ^ 2.0 2.1 すえしんから》记载,みんそつ於貞かんじゅうさんねんがつ廿にじゅうろくおのれおおやけもと649ねん7がつ10日とおか),ねんじゅうさんさい,应生于ひらきすめらぎじゅうななねん十二月じゅうにがつそく598ねん1がつ份)
  3. ^ 3.0 3.1 ずいひらきすめらぎじゅうはちねん十二月じゅうにがつつちのえうまなま於武こう別館べっかん。」(りゅうきゅうとうしょ·まき本紀ほんぎだい》),換算かんさんためおおやけれきそく599ねん1がつ23にち
  4. ^ じゅうさんねん……五月ごがつ……おのれ皇帝こうていくずし於含ふう殿どの」(おうおさむしんとうしょ·まき本紀ほんぎだい》),換算かんさんためおおやけれきそく7がつ10日とおか[1]页面そん档备份そん互联网档あん) 。
  5. ^ 荆州とく荆王もとけいやなしゅうとく汉王李元りげんあきらじょしゅうみやこただしじょおうもとれい潞州とく韩王李元りげんよしみとげしゅうとく彭王もと则、郑州刺史しし郑王もと懿、绛州刺史しし霍王もと轨、虢州刺史しし虢王凤、しゅう刺史ししどうおうもと庆、邓州刺史しし邓王李元りげんひろし寿ことぶきしゅう刺史しし舒王李元りげんめいかそけしゅうみやこただしつばめおう灵夔、苏州刺史しし许王李元りげんさちやすしゅうとく吴王つとむ相州あいしゅうみやこただしおうやすし齐州とく齐王ゆうえきしゅうみやこただししょくおう愔、じょうしゅう刺史しし蒋王惲、扬州みやこただしえつおう贞、并州みやこただしすすむおうおさむしんしゅうとく纪王まこと赵州刺史しし赵国こう长孙无忌、そうしゅう刺史ししはりこく公房こうぼうげん龄、みつしゅう刺史しし莱国こうもり如晦、濮州刺史しし卫国こうやすしさるしゅう刺史ししさるこくおおやけ高士こうしれんひねしゅう刺史しし陈国おおやけこうくんしゅう鄂州刺史しし江夏えなつぐんおうみちそう观州刺史ししかわ间郡おうたかしきょうせんしゅう刺史しし鄂国こうじょう迟敬とく蕲州刺史しし英国えいこくこう勣、きむしゅう刺史しし褒国こうだんこころざしげんひろししゅう刺史しし卢国こうほど节、ろうしゅう刺史しし夔国こう刘弘もと澧州刺史しし郧国こう张亮
  6. ^ しげる:「吐谷渾」,:「吐谷浑」,拼音Tǔyùhúnちゅうおとㄊㄨˇㄩˋㄏㄨㄣˊおとどうそだてたましい
  7. ^ しげる:「かめ」,:「龟兹」,拼音Qiūcíちゅうおとㄑㄧㄡㄘˊおとどうおか
  8. ^ 8.0 8.1 8.2 ふとしむね東征とうせい高句麗こうくり期間きかんざいじょうしゅう輔助太子たいしてき臨時りんじ宰相さいしょう
  9. ^ ちょうまご皇后こうごう中國ちゅうごく歷史れきしじょうさい偉大いだいてき皇后こうごういち當代とうだい歷史れきしがく評論ひょうろんさい知性ちせいてき皇后こうごうからふとしそうみん一生いっしょうてき摯愛。あずかさだかん群臣ぐんしん一起輔佐太宗成就了貞觀之治。她的けんとくため人稱にんしょうどうてき重要じゅうよう原因げんいん她能及時ほどけぶとむねてき怒氣どき保護ほごちょさだかん群臣ぐんしん們【其中さい著名ちょめいてき事件じけんためぬしあきらしんただし:《きゅうとうしょ后妃こうひでんさん曰:ひつじさるとくすんで軌,彤管ゆう煒。韋、たけくにどく侔蛇虺。かげきょう斯僻,嬪風ひた毀。賢哉けんやちょうまごははなんえら。(そう)范祖禹評:からふとしそう嘗罷あさいか曰:「かい須殺此田舍いなかおきな!」時文じぶんとく皇后こうごういいみかど曰:「だれさわ忤陛?」みかど曰:「ちょうごと廷辱。」きさき退すさあさふくりつ於廷。みかどだいおどろき曰:「皇后こうごうなんためわか?」曰:「わらわ聞主あかりしんじきこんちょうじきよし陛下へいかあきら也!わらわ敢不?」みかど乃悅。しん禹曰:詩人しじん后妃こうひ輔佐ほさ君子くんしもとめけんしんかん國家こっかはたきょう,必有よし哲之てつゆきはい,儆戒以成君子くんしとくわかちょうまご皇后こうごうかんさとるふとしそう,其可いいけん矣。(そうとくしゅうひょうぶん德長とくながまごけん,其行事ぎょうじみなため後世こうせいほうほうふとし宗之むねゆきいかちょう也,從容しょうようひらき捄,のりちょうとくめん矣!其為君德くんとくるいかちけい耶?一言而全直臣於將死之際,たてふとしそう於無これ,雖古けんなん以逾此?吁可おおせ哉!吁可おおせ哉!】。皇后こうごうふとしそう哀傷あいしょうやめけんそうかんどおながめあきらりょう【「もちりょう毀觀」此事記載きさい於正しんとうしょせいでんあずかどおり鑒》:ふとしむねそう文德ふみのり皇后こうごう於昭りょううえねんやめ,乃於えんちゅうさくそうかん,以望あきらりょう。嘗引せいどうとう使つかいせい熟視じゅくし曰:「しん昏毛,能見のみ。」じょう指示しじせい曰:「以為陛下へいかもちけんじりょうわかあきらりょうのりしん矣。」じょう泣,為之ためゆき毀觀】。なみおや撫養むや皇后こうごうとめてき幼子おさなご幼女ようじょすすむおうおさむかずすすむ公主こうしゅ【此事ざい正史せいしうらひとしゆう記載きさい,如《しんきゅうとうしょ·すすむ公主こうしゅでんあずかさつもとかめとう】。ふとしそうくずしあずか皇后こうごうどうあなごうそうあきらりょう【「ごうそうあきらりょう記載きさい於《とうかいようまきじゅういたりじゅうさんねんはちがつじゅうはちにち山陵さんりょう畢。りょうざい醴泉けんよしきゅう嵕層ほう。鑿山南面なんめんふかななじゅうたけため元宮もとみやえんやまはたいわお樑為棧道さんどう懸絕けんぜつひゃく仞。にょうやまひゃくさんじゅうはじめたちもと宮門きゅうもん頂上ちょうじょうまたおこりゆう殿どの文德ふみのり皇后こうごうそく元宮もとみやゆうじゅう石門せきもん。其門がい於雙棧道さんどう上起かみおこし捨。宮人みやびと供養くよう平常へいじょう。及太むね山陵さんりょう畢。宮人みやびとほし故事こじとめ棧道さんどうおもんみきゅう山陵さんりょう使閻立とくそう曰。元宮もとみや棧道さんどうほんとめなずらえゆう今日きょうこんすんで始終しじゅうえい畢。あずかぜんこと不同ふどう。謹按故事こじおもんみゆうみややす供養くようたてまつこれほう。而無りょうじょうさむらいまもるもちじょ棧道さんどうかたどう山嶽さんがくうえ嗚咽おえつもとちょうまごとう援引えんいんれいけいじゅうゆうひょう請。乃依そう。】。
  10. ^ 韋貴はつよめ珉,なまていじょうけんぬしよめふとそうさだかん元年がんねんよんがついちごうふうとうとえい徽朝ふう紀國きのくにたい現有げんゆうあきら陵墓りょうぼ一方いっぽう,《紀國きのくにたい一方いっぽう碑文ひぶんやめ泯。
  11. ^ 杨贵:《しんとうしょ》、《きゅうとうしょまたしょうため「楊妃」,「たか」徽號於李ぶく墓誌ぼしふう時間じかん不明ふめいえい徽朝ふうちょうこくたい目前もくぜんはかそうなお確定かくていはかそう情況じょうきょう不知ふち。另有《ちょうこく楊太》,記錄きろく於宋だいきょうちょう金石きんせきろくかずたからこくるいへんちゅうただ記錄きろくりょう相關そうかん描述,碑文ひぶん未記みきたていしぶみ時間じかん不明ふめいげんせんとおるせいしょいしぶみやめ佚。
  12. ^ 楊妃ずい煬帝おんな
  13. ^ つばめいさおれい聘入しんおうふう貴人きじんさだかん朝原あさばらためけんふうとくえい徽朝ふうえつこくたい現有げんゆうあきら陵墓りょうぼ一方いっぽう
  14. ^ ていけんうたぐためさだかんじゅうななねんふう
  15. ^ じょけんはつため才人さいじん、婕妤しんふうあきらようふとしそうくずしあい慕成やまし肯進やく而薨。死後しごこうはじめついふうけん
  16. ^ 王妃おうひ杨氏:《しんとうしょあずかどおり鑒》所載しょさい其為元吉もとよしつまからふとしそう曾想りつためきさき,遭魏せい諫止,其子あきらつぎ元吉もとよしふとしそう授其ふうじただしおう注意ちゅうい親王しんのうまたためせい一品いっぴん;《きゅうとうしょげん此事。
  17. ^ うけたまわいぬい以下いかしょ皇子おうじみな參考さんこう此卷,ぜいじゅつ):からふとしそう長子ちょうしふかふとしむね寵愛ちょうあい以下いか所有しょゆう事跡じせきひとし記載きさい於史しょ。①《りょうとうしょうけたまわいぬいつたえ記載きさい:「はじめはちさいとく敏惠としえみかどあい。」、「どきねんはちさいせいさとさとしふとしそう甚愛。」②《とうかいようまきじゅう》及多佛教ぶっきょう史書ししょ記載きさい:「さだかん五年承乾生病,本來ほんらい怎麼しん宗教しゅうきょうてきふとしむね一下子就修了一廟一觀,びょうめいこうかん名西めいせいはな,就是ためりょうがえ愛子あいこいのりぶく;另外かえざいがつみずのえうま(24にち),大赦たいしゃ天下でんか。」③さだかん7ねんうけたまわいぬいまたとくびょう。《釋氏しゃくしどおり鑒》とう佛教ぶっきょう史書ししょ記載きさい:「ひろし僧尼そうにさん千人因太子染患。眾治無效むこう。敕延頗入內。いちひゃくにちみかどごと法要ほうよう太子たいしやましいよいよ。頗辭本寺ほんじたまものあやろくじゅうだんとう。④いんためうけたまわいぬいせいびょうからふとしそうれんしょゆずる多讀たどく。《さつもとかめもうか宮部みやべ才智さいち記載きさい:「から太子たいしうけたまわふとしそう長子ながこしょう敏惠としえふとしそう甚愛さだかんはちねんきゅうがつ太子たいし來朝らいちょうふとしそういい侍臣じしん曰:わが以承いぬい疾病しっぺいれい讀書どくしょただしあずかあな穎達評論ひょうろん古事ふるごとわがためしれいさくすうしょげん經國けいこく大體だいたいたてなりさん,頗有かんさきろんけいごく為重ためしげふかけい邦之くにゆきよう也。」⑤りょうとうしょとう記載きさい:「うけたまわ乾死ひじにふとしそう專門せんもんためやめあさなみ以國こうれいそう。」】,こういん嫉妒同母どうぼおとうとやすし受寵而懷疑かいぎからふとしそうあらためりつ,於貞かんじゅうななねん謀反むほんはい當時とうじ所有しょゆう從犯じゅうはんていりょう死罪しざい,按律主犯しゅはんうけたまわいぬいさら死罪しざいただしいんからふとしそう捨賜最後さいご通事つうじ舍人とねりらいすみてき處理しょり方法ほうほうつう鑒等史書ししょ記載きさい:「なつよんがつかのえたつついたちうけたまわもとじょうへんつげ太子たいし謀反ぼうほん。敕長まごぼうげんよわいしょう瑀、績與だい中書ちゅうしょ門下もんかさん鞫之,はんかたちやめうえいい侍臣じしん:「はたなに以處うけたまわいぬい?」群臣ぐんしん莫敢たい通事つうじ舍人とねりらいずみしん曰:「陛下へいかしつため慈父じふ太子たいしとくつきてんねんのりぜん矣!」じょうしたがえこれすみまもる之子ゆきこ也。」】,はいため庶人,りゅう黔州,病死びょうしそう於卒そつねん墓誌ぼし記載きさいためさだかんじゅうななねん史書ししょ記載きさいためさだかんじゅうきゅうねん此處ここら墓誌ぼしせつひらき元年がんねんあいだ,以孫てき請,追贈ついぞうおう爵謚ごうそうあきらりょう現有げんゆうあきら陵墓りょうぼ一方いっぽう
  18. ^ ひろし高祖こうそみことのりつぎすわえあいおうさとしくもさだかんはつついふう
  19. ^ つとむゆう文武ぶんぶざい,《きゅうとうしょふとそうつねしょう其類おのれ」,《とうかいよう記載きさい「嘗稱其類おのれ」,史書ししょしょう其「けん」,ふとしむねしょあい【《さつもとかめまきひゃくろくじゅうろく宗室そうしつ貌‧ざいげい記載きさい:「おうつとむふとしむねだい三子少善騎射太宗甚愛之」かずだいから新語しんごこくにんじゅうななまた記載きさい:「おうつとむはは曰楊,煬帝おんな也。つとむぜん騎射きしゃふとしそうゆうあいうけたまわいぬいすんではいだてだかむねため太子たいしまたよくりつつとむちょうまご諫曰:「すすむ王仁わにあつしまもりぶんしゅ也。且舉棋不定ふていぜんあきらしょ戒。もうかくらいいたりじゅうあによろしすうえき?」ふとしそう曰:「ちんまた如此,不能ふのう相違そういおもねしゅうと悔也。」ゆかりつとむあずかきょうこうむね即位そくいぼう遺愛いあいとう謀反ぼうほん,敕無推之。遺愛いあいまれむね引恪,冀以めんすんであずかつとむゆうすきいん而斃つとむ。臨刑ののし曰:「ちょうまご竊弄けん,構害りょうぜんわかむねしゃゆうれいとう其族めつ!」ひさ,竟如其言。」】。からふとしそうざいだてりょうおさむみとめため其「懦」,わたし曾與ちょうまご商量しょうりょうあらためりつ庶子しょしちゅう年長ねんちょうてきつとむ,遭反對はんたい後作あとさくやめ,《新舊しんきゅうとうしょ評價ひょうかからふとしむねりつもうか不當ふとうまことため憾事。こういんぼう遺愛いあい謀反ぼうほんあん冤致天下てんか絕望ぜつぼううみ內冤,以國こうれいそう於長やす附近ふきんちゅうそうかみりゅう年間ねんかんふくおう爵。現有げんゆう墓誌ぼし一方藏於西安市長安區博物館。
  20. ^ やすしははちょうまご皇后こうごうまさこう文學ぶんがく書法しょほう出色しゅっしょくちょゆう《擴地》及《文集ぶんしゅうじゅうかんこん以失でん),明代あきよちょうおうぶんしょう其為書畫しょが鑒賞於《きよし秘藏ひぞうまきあかり·ちょうおうぶんせん),やすしふか受太むね寵愛ちょうあい,受寵事件じけんさら舉不しょう舉【以下いか所有しょゆう事跡じせきひとし記載きさい於史しょ。 ①さだかんせいようとう記載きさい:「えつおうちょうまご皇后こうごう所生しょせい太子たいしかいおとうとさとさと絕倫ぜつりんふとしそうとくしょちょうこと。」、「おう文德ふみのり皇后こうごう所生しょせいふとしそうとくしょちょうこと。」、「たかしおうやすしちょうかんむり諸王しょおうもりおさむだいたく。」②りょうとうしょとう記載きさい:「按照常例じょうれい皇子おうじ成年せいねんよういた自己じこてき封地ほうちじょうやすし就硬父親ちちおやとめりょう。 ③りょうとうしょやすしでん記載きさい:「いんためやすし文學ぶんがくふとしそうとくれいざいおうおけ文學ぶんがくかんにんやすし引召學士がくし。」④りょうとうしょやすしつてとう記載きさい:「やすしこれゆたか,『こしはらひろしだい,趨拜ややなん』,ふとしむね特別とくべつ命令めいれい以乘しょう輿こしじょうあさ。⑤やすしてき封地ほうちとおとお超過ちょうか諸王しょおうれい如《とうかいよう記載きさい:「さだかんねんがつおうつとむじょ使ぶしだいとくえき綿めん邛眉みやびとうはちしゅうしょ軍事ぐんじえきしゅう刺史しし。濮王たいじょ使ぶしだいとくあげしゅうつねうみほとびすわえ、舒、いおりほりことぶき、歙、くいせんあずまあつしみなみとうじゅうろくしゅうしょ軍事ぐんじあげしゅう刺史しし。」⑥やすしじょりょうとくてきあたま銜外,かえ雍州まき及左たけこう大將軍だいしょうぐんきゅうとうしょふとしそう本紀ほんぎとう記載きさい:「はちねんみずのえこしおうやすしため雍州まき。、じゅういちねんはる正月しょうがつ癸巳きしおうやすしため雍州まきひだりたけしこう大將軍だいしょうぐん。⑦ふとそう外出がいしゅつかり經常けいじょうおうやすしたいざい身邊しんぺん。《どおり鑒》:「おう穎悟えいごしたがえゆうみゆき。」⑧史書ししょ記載きさい:「さだかんじゅうよんねん正月しょうがつきのえとらふとしむねりょう一趟李泰的魏王府(ざいのべやすしぼう),馬上もうえ大赦たいしゃ雍州及長やすかえまぬかれのべやすしぼう百姓ひゃくしょういちねんてき租賦,またたまものきゅうおうてき官員かんいん東西とうざい。」⑨りょうとうしょとう記載きさい:「さだかんじゅうねんやすしへんくく地誌ちしかん畢後,まい月給げっきゅうやすし大量たいりょう財物ざいぶつ,甚至超過ちょうか太子たいし褚遂りょう諫。」⑩やすしじょりょうのべやすしぼうたくがいふとしむねかえたまものやすし洛陽らくよう住宅じゅうたくあずか長安ながやす芙蓉ふようえんしんとうしょちょうやすし公主こうしゅでん:「たかしおうやすしだい東西とうざいつきいちぼう,瀦沼さんひゃくうね。」、《太平たいへい御覽ごらんまきいちひゃくきゅうじゅうなな芙蓉ふようえんほんずい離宮りきゅうきょさんじゅうごろ周回しゅうかいじゅうななさだかんちゅうたまものおうやすし。⑾史書ししょ記載きさい:「ふとしそうゆずるやすし入居にゅうきょ皇宮こうぐうてき武德たけのり殿どのせい諫,せいざいすすむ諫時也說やすしふとしむねてき愛子あいこ』。」⑿史書ししょ記載きさい:「いんため有人ゆうじんせつ大臣だいじんたいおうやすし夠恭けいふとしそう就把重臣じゅうしん們找らい發作ほっさせい諫。」⒀きゅうとうしょやすしでんあずかさつもとかめ記載きさい:「やすしごとふとしそうざい貶斥てき詔書しょうしょうら仍然せつちん愛子あいこしょ鍾心。よう而聰れい,頗好文學ぶんがくおんぐうごく於崇じゅう爵位しゃくい逾於ちょうあきら』。」⒁きゅうとうしょやすしでん記載きさい:「やすし貶後,ふとしむねかえせつ:『たい文辭ぶんじ美麗びれいあに非才ひさいわが中心ちゅうしんねんたいきょうとうしょ』。」⒂史書ししょ記載きさい:「さだかんじゅういちねんまたすすむふうやすしため濮王。」⒃やすし長子ちょうし欣的墓誌ぼし顯示けんじ欣四歲時被帶入皇宮由祖父母也就是太宗和長孫皇后來撫養。】,也因此而もえ生野いくのしん爭奪そうだつ皇位こうい貶。雖如此,ふとしむね依然いぜん非常ひじょう思念しねん後進こうしんふうため濮王。司馬しばひかりみとめためからふとしむねたいやすしてききょう而誅」以私あい左右さゆう國政こくせいまことためふと宗之むねゆき遠見とおみ。而太むね當時とうじだてやすしてき理由りゆうたいりつのりうけたまわあずかみな不全ふぜんりつのりうけたまわあずかたいみな恙矣」(引號內,於多正史せいし)。
  21. ^ ゆうこういん謀反むほんつみたまもの,貶為庶人,以國こうれいそう於長やす附近ふきん
  22. ^ さだかんぼうねんいん遊獵ゆうりょう毆打おうだ官員かんいん彈劾だんがいふとしそう屢教其不あらためはついか斥責:「禽獸きんじゅう調伏ちょうぶく以馴擾於じん鐵石てっせき鐫煉,ため方圓ほうえんうつわいたり如愔しゃ,曾不如禽じゅう鐵石てっせき乎!」そぎふう邑及こくかんはんつとむ被害ひがいいん同母どうぼ而受牽連貶為庶人。鹹亨年間ねんかんそうあきらりょうふくおう爵。
  23. ^ さだこうはんへいはい改姓かいせい「虺」,かみりゅう初年しょねんふくかんふく爵;ひらけもとよんねんみことのりついふく爵土,れい備禮改葬かいそう
  24. ^ とうだかむねははちょうまご皇后こうごうあずかいもうといもうとすすむ公主こうしゅ一起被唐太宗親自撫養,ふか寵愛ちょうあい以下いか所有しょゆう事跡じせきひとし記載きさい於史しょりょうとうしょとう記載きさい:「はつふとしそうあいすすむおう使つかいかく。」、「こうはじめためすすむおう,以文とく皇后こうごうさい少子しょうしくずし累年るいねんふとしそう憐之,れいかく。」、「しかすすむおう陛下へいかおや撫養むやいたり成立せいりつうえきよしふか慈,へんしょ鍾愛しょうあい。」②おさむ出生しゅっしょうてき特殊とくしゅ待遇たいぐうりょうとうしょふとしそう本紀ほんぎ記載きさい:「(さだかんねんろくがつかのえとら皇子おうじ治生はるおうたげひん以上いじょうたまもの帛有,仍賜天下でんか日生にっせいしゃあわ。」③史書ししょ記載きさい:「治和ちわ同母どうぼ哥哥泰一やすいちさまいたりょう年齡ねんれいふとそう卻不ゆずる其之かん。」④きゅうとうしょだかむね本紀ほんぎ及冊もとかめ記載きさい:「いんためざい皇后こうごう經常けいじょう傷心しょうしんふとしそう『屢加慰撫いぶゆかりとくふかちょう』。」⑤史書ししょ記載きさい:「皇后こうごうおさむゆかりふとしそうちかし撫養むや長大ちょうだい。」⑥しんとうしょあずかどおり記載きさい:「ふとしむねたびかりつねすすむおうおさむたいざい身邊しんぺん。」。⑦「おさむため親王しんのうじょりょうとくてきあたま銜外,かえみぎたけこう大將軍だいしょうぐん記載きさい於舊とうしょだかむね本紀ほんぎ」⑧「りつため太子たいしふとしむねゆう玩時仍要たいちょ大臣だいじん諫。りょうとうしょちょうこうなりでん記載きさいふくうけたまわ皇太子こうたいししたがえこうれいしゅうしん以為皇太子こうたいしやしなえとく春宮とうぐう日月じつげついくはなえびすどお邇,佇聽よしみおん。如因以監こくせったいひゃくりょう決斷けつだん庶務しょむあきら習政すんでため京師けいし重鎮じゅうちん,且示四方しほう盛德せいとくあずか其出陪私あい,曷若俯從公道こうどう?」⑨「ふとそう出征しゅっせいだかうららきゅうおさむうつし私信ししんせつ『憶奴ほっ』。兩度りょうどじょう兩度りょうどだい內書,やつひょう,耶耶よくつね少時しょうじあいだゆるがせとくやつ手書しゅしょほうむすめ患,ゆういちひたすらほどけよく更生こうせい今日きょうやめただしあたま風發ふうはつしん便びんそくほう耶耶。わかしょうゆう疾患しっかんそくいちいちほうこんとく遼東りゃおとん消息しょうそくろくじょうおく,憶奴ほっ不知ふちなんけい使つかいかえ,耶耶,敕。」】。たてため太子たいしおう該離ひらき父親ちちおやきょ東宮とうぐうただしからふとしそう卻不捨硬とめざい身邊しんぺん,十天半月才回東宮一趟,褚遂りょうりゅう洎在さだかん18、20ねんしょうつぎしん諫,要求ようきゅうふとむねおさむかい東宮とうぐう。褚、りゅうすすむ諫的理由りゆう不可ふか於私あい於多正史せいし)。
  25. ^ まこといんえつおうさだごと改姓かいせい「虺」,かみりゅう初年しょねんふくかんふく爵。
  26. ^ ぶくふとしそうみことのりつぎかくれ太子たいしたてしげる,陪葬あきらりょう
  27. ^ あきらこうはじめみことのりつぎとげおう元吉もとよしえいたかしちゅうすわあずか庶人けん通謀つうぼうくだふうれいりょうおう,徙於黔州。とくしゃ祐希ゆきむね,逼脅れい自殺じさつけいくもちゅうけいくも元年がんねんあきらひつぎ於京
  28. ^ じょうじょう公主こうしゅ公主こうしゅまさ有禮ありのりふとしそうみことのりためしょ公主こうしゅ公主こうしゅべつだいえいねん薨,こうはじめ舉哀,登樓とうろう哭送靈柩れいきゅう
  29. ^ 長樂ながら公主こうしゅからふとしそうとくしょ鍾愛しょうあいよめいんからふとしそうかなめきゅうてきよめ妝倍於長公主こうしゅ而被せい諫【《たかしていこう諫錄》○諫優長樂ながら公主こうしゅれいすう記載きさい:「長樂ながら公主こうしゅはたふとしそういいぼうげんよわいとう曰:「長樂ながら公主こうしゅ皇后こうごう所生しょせいちん皇后こうごうなみしょ鍾愛しょうあいいまはたれいすうよくゆうしょ。」ぼうげんよわいとう鹹曰:「陛下へいかしょあいよくしょうなにためとく請倍えいよしみ公主こうしゅ。」】。はかそう封土ほうどためくつがえがたはかしつ石門せきもんさんみちざいあきらりょうやめ發掘はっくつてき陪葬ちゅう僅此いちれい現有げんゆうあきら陵墓りょうぼ一方いっぽう
  30. ^ あきら公主こうしゅ早年そうねんははよしちょうまご皇后こうごう撫養むや長大ちょうだい
  31. ^ ともえりょう公主こうしゅえいよんねん以「謀反むほんざいたまものあらわけい年間ねんかんおくけい公主こうしゅたてびょう於墓,よんさい以少ろう
  32. ^ 臨川りんせん公主こうしゅはかこころざしさくじゅういちじょふう公主こうしゅ诏作じゅうじょ公主こうしゅこう籀隸,のうぞくぶんえい徽初ねんしんふうちょう公主こうしゅ恩賞おんしょうたくことからこう宗時むねときうえ孝德たかのり頌》,こうはじめみことのり褒謝現有げんゆうあきら陵墓りょうぼ一方いっぽう石刻せっこく詔書しょうしょ一方いっぽう
  33. ^ 清河きよかわ公主こうしゅさだかん二年詔封清河郡公主,しょくさんせんねんやくさい目前もくぜんしょからふとしそうみんしょ女中じょちゅう受封年紀としのり最小さいしょうしゃはかそう封土ほうどため圓錐えんすいがた現有げんゆうあきらりょうはんぽうたて於麟とくはつげんせんとおるせいしょ
  34. ^ らんりょう公主こうしゅさだかんじゅうねん(637ねんふうらんりょう公主こうしゅ根據こんきょ碑文ひぶん,薨年ばん於顯けいよんねん墓誌ぼしためだいじゅうきゅうじょはかそう封土ほうどため圓錐えんすいがた現有げんゆうあきら陵墓りょうぼ一方いっぽうよしせん,駙馬竇懷悊親しょ
  35. ^ 城陽じょうよう公主こうしゅ:「駙馬もりいん功臣こうしん子弟していなお公主こうしゅふうぐんこう」(引號內記載きさい於《きゅうとうしょ·もり如晦でん》:「はつ以功臣子しんしなお城陽じょうよう公主こうしゅたまもの爵襄ぐんこう,授尚じょうたてまつ。」),公主こうしゅ再嫁さいか薛瓘まえからふとしそうせんかど為之ためゆきぼく。麟德はつ公主こうしゅいんみこ蠱事,あずか薛瓘貶至房州ぼうしゅう;鹹亨ちゅうしゅ薨而瓘卒,そうひつぎかえ京師けいしはかそう封土ほうどためくつがえがた
  36. ^ こう阳公ぬし:駙馬ぼう遺愛いあいえいよんねん以「謀反むほんざいたまものあらわけい年間ねんかんおく合浦がつぽ公主こうしゅ
  37. ^ すすむ公主こうしゅ皇后こうごうあずか乃兄おさむ一起被唐太宗親自撫養,ためふとそうさいため寵愛ちょうあいてき女兒じょじ受宮ちゅうあい公主こうしゅからふとしそう悲痛ひつうよくぜっいち個月かげつ飲食いんしょくけい諫,みことのり官員かんいん登記とうき公主こうしゅふう邑所あまこれ建造けんぞうふつほこら於墓つくり
  38. ^ 新城しんじょう公主こうしゅはつふう衡山公主こうしゅ最初さいしょもとはいあずかせいてき長子ちょうし叔玉,よしせい生前せいぜん所謂いわゆるこもじん失當しっとう、邀名うり直之なおゆきざいからふとし宗因そういん而悔こん。「さだかん23ねんよし新城しんじょうよめちょうまごかいふとしそうとくます其公爹長まごみさおため岐州刺史しし」(引號內記載きさい於《きゅうとうしょ外戚がいせきでん》)。根據こんきょ墓誌ぼし新城しんじょういずるよめざいさだかん23ねん2がつ6にち。「而太そうただしざい當年とうねん5がつてき,也就せつざいやまいじゅう期間きかんふとしむねかえ惦記ちょ女兒じょじてきこんごと希望きぼうざいまえ她的こんごと辦完,いたり於為守孝もりたか3ねんふけあやま青春せいしゅんただしよし於公ぬし婚禮こんれい過程かていふと複雜ふくざつふとしむねてき這個願望がんぼうぼつゆう實現じつげん。」(引號內,未見みけん於正えい徽元ねん新城しんじょうすすむさむらいちゅう于志やすしじょう反對はんたいみとめため公主こうしゅいんためちち守孝もりたかさんねんかたのうよめ於《きゅうとうしょ》于志やすしつてとう)。こうよめ韋正のり外傳がいでん駙馬まち新城しんじょう失禮しつれい公主こうしゅ暴薨,こうはじめみことのり官員かんいん問罪もんざい,韋正のり不能ふのう辯解べんかい誅殺ちゅうさつ公主こうしゅ後世こうせい引為「傲婦」【《さつもとかめ·まきななひゃくはちじゅうはちそうろく智識ちしき》:薛克構為戶部とべろうちゅうぞく紹,城陽じょうよう公主こうしゅ也,なお太平たいへい公主こうしゅ。紹之はたこん也,あに顗以公主こうしゅちょうもり深憂しんゆう,以問かつ構。かつ構曰:「みかどおいひさしおも由來ゆらい故事こじわか以恭まきこうまたなに懼也!しかむろゆう傲婦,ぜんしょあくひなことわざ曰:『めととく公主こうしゅ平地ひらちかいかん』。とお則平のりひらぶたぬし,妖孽致敗;きんのり新城しんじょうすすむやすためしょ誡。われ聞新じょう以病而卒,夫子ふうし受其戮辱。すすむ安之やすゆきうしあと上聞じょうぶんゆう敕推あん其事,汴州司法しほうおもえただし有司ゆうしどく元康もとやすとう,以穢污之じょうどう時流じりゅうはいつえけつしゃじゅうゆういちにんとばりうすきあきらゆう如此しゃおっと天資てんし淑德しゅくとく,以配君子くんし欲求よっきゅう患者かんじゃなん矣哉!」顗雖だい懼,而竟敢言。】そう皇后こうごうれい封土ほうどためくつがえがた(註:根據こんきょちか年來ねんらいてき考古こうこ實測じっそくからあきらりょう新城しんじょうちょう公主こうしゅはか發掘はっくつ簡報》,《しんとうしょしょ新城しんじょう公主こうしゅ皇后こうごうれい口實こうじつめぐみ。)
  39. ^ 播出时因じょう节与历史はらゆう相去あいさり甚远,かくしょく改名かいめい为“吕承こころざし”。

参考さんこう文献ぶんけん[编辑]

  1. ^ 陈寅つとむとうだい政治せいじじゅつ论稿》:“とうさきわか赵郡やぶ落户’そく赵郡かりおかせぱい’。……しか则李から统其はつほん华夏,其与胡夷こいこん杂,乃一较晚之事实也。”
    吕思つとむ中国ちゅうごく通史つうし·だいさんじゅうはちしょうずいあさとうあさてきもり》:“からあさ自称じしょう为西すずし暠之きさききんひとまたゆううたぐ其为えびすぞくてきしんいや必论,民族みんぞくてきとくせい,乃文化ぶんか而非统。からあさじょふとそう太子たいしうけたまわいぬい具有ぐゆうえびすてきせい质,いん此时てき文化ぶんかあいよう而被废外,其余ゆび不出ふしゅつ一些胡化的性质来,其当认为汉民ぞく无疑りょう。”
  2. ^ 资治どおり鉴·まきだいいちひゃくきゅうじゅう·から纪六》:上之うえのおこりへいすすむ阳也,みなしんおうみん谋,うえ谓世みん曰:“わかことなり,则天みななんじしょ致,とう以汝为太。”みんはい且辞。及为唐王とうのうはたまた请以みん世子せいしうえすすむりつせいみん固辞こじ而止。太子たいしたてしげるせい宽简,酒色しゅしょくゆう畋;齐王元吉もとよし过失;みな无宠于上。みん功名こうみょうもりうえつね有意ゆうい以代たてしげるたてしげるないやす,乃与元吉もとよし协谋,きょう倾世みんかく引树とうとも
  3. ^ 资治どおり鉴·まきだいいちひゃくきゅうじゅういち·から纪七》:たてしげるよる召世みん,饮酒而鸩せいみん暴心つう吐血とけつすうしょう,淮安おう神通じんずう扶之还西宫。
  4. ^ 资治どおり鉴·まきだいいちひゃくきゅうじゅういち·から纪七》:りつさらすすむおう密告みっこくみん曰:“太子たいし语齐おう:‘こんなんじとくしんおう骁将精兵せいびょう,拥数まんこれ众,われあずかしんおう饯汝于昆あかり使つかい壮士そうしひしげ杀之于幕そううん暴卒,主上しゅじょうむべ不信ふしんわれとう使つかいじん进说,れい授吾国事こくじけいとくとうすんでにゅうなんじしゅむべ悉坑,孰敢不服ふふく!’”
  5. ^ つうまき192からふとしそうさだかん元年がんねん,「うえこう騎射きしゃまごふくとぎ諫,以為:『天子てんしきょそくきゅうもんぎょうそく警蹕けいひつよく苟自尊嚴そんげん,乃為社稷しゃしょくせいみんけい也。陛下へいかこうはしうま射的しゃてき以娛えつ近臣きんしん,此乃少年しょうねんため諸王しょおう所為しょい今日きょう天子てんし事業じぎょう也。すんで所以ゆえんやすやしなえせい躬,また所以ゆえんけい後世こうせいしんきゅうため陛下へいか。』うええついく,以伏とぎため諫議大夫たいふ。」かんだい》:「ふくとぎ武德ぶとくちゅう萬年主簿上疏極諫,ふとしむねいかいのち引出これふくとぎ曰:『しんやすしあずかせきりゅう逢游於地願事ねがいごと陛下へいか。』ふとしそう曰:『ちんためしきょうみみきょうのうわかちんなんゆう社稷しゃしょく!』いのち授之さんひんおさむしん曰:『ふくとぎただし陛下へいか自主じしゅ簿授之さんひんあきら陛下へいかふか矣,請授ひん。』とげはいため諫議大夫たいふ。」
  6. ^ つかさ马光. 《资治どおり鉴·から纪》贞观じゅういちねん五月ごがつじょう. 
  7. ^ とうかいよう·かん雜錄ざつろくじょう》:さだかんきゅうねんじゅうがつ諫議大夫たいふ朱子しゅしおご上表じょうひょう曰:今月こんげつじゅうろくにち陛下へいか聖旨せいしはつとくおん,以起居ききょ記錄きろくしょ帝王ていおうぞういな前代ぜんだいただしぞう史官しかんにんぬしこんよくおや觀覽かんらんよう知得ちとくしつ
  8. ^ しょからかくれ太子たいしでん
  9. ^ つう鉴纪ごと本末ほんまつ·まきじゅうはち·ふとそう平内へいないらん》、《つう鉴纪ごと本末ほんまつ·まきじゅうはち·ふと宗易そうえき太子たいしこと連載れんさい
  10. ^ 司馬しばひかり:《稽古けいころくまきじゅう
  11. ^ 赵克尧许どう勋著 《からふとしそう传》人民じんみん出版しゅっぱんしゃ2004ねんISBN 978-7-01-000480-8だい122页-127页
  12. ^ Adshead, S. A. M., China in World History 2nd, New York: Palgrave Macmillan and St. Martin's Press, 1995 [1988], ISBN 978-0-333-62132-5 , pp. 104–106.
  13. ^ 13.0 13.1 Hirth, Friedrich. Jerome S. Arkenberg , 编. East Asian History Sourcebook: Chinese Accounts of Rome, Byzantium and the Middle East, c. 91 B.C.E. – 1643 C.E.. Fordham.edu. Fordham University. 2000 [1885] [14 September 2016]. (原始げんし内容ないようそん于2014-09-10). 
  14. ^ Ball, Warwick, Rome in the East: Transformation of an Empire 2nd, London: Routledge, 2016, ISBN 978-0-415-72078-6  pp. 152–153
  15. ^ Yule, Henry, Cathay and the Way Thither: Being a Collection of Medieval Notices of China, Vol I: Preliminary Essay on the Intercourse Between China and the Western Nations Previous to the Discovery of the Cape Route, Hakluyt Society, 1915 , pp. 48–49.
  16. ^ Yule (1915), pp. 54–55.
  17. ^ Schafer, Edward H., The Golden Peaches of Samarkand: A study of T'ang Exotics, University of California Press, 1985 , pp. 10, 25–26.
  18. ^ Luttwak, Edward N., The Grand Strategy of the Byzantine Empire, The Belknap Press of Harvard University Press, 2009 , p. 168.
  19. ^ Yule (1915), pp 29–31; footnote No. 3 on p. 31.
  20. ^ 20.0 20.1 Yule (1915), p. 30; footnote No. 2 on p. 30.
  21. ^ Yule (1915), p 29; footnote No. 4 on p. 29.
  22. ^ きゅうとうしょ·郝處しゅんつてからふとしそうみんふくえびすそう長生ちょうせいやくとげ致暴やましすくい。」「ときしゃざい於胡じんはたさるあらわ戮,またおそれわらい夷狄いてきほうとげくだり。」
  23. ^ きゅうから书·ふとそう本紀ほんぎ. [2011-06-20]. (原始げんし内容ないようそん于2020-11-04). 
  24. ^ しんから书·ふとそう本紀ほんぎ. [2011-06-20]. (原始げんし内容ないようそん于2020-12-06). 
  25. ^ すえだい明太めんたいだか皇帝こうてい实录》(简称《明太めんたい实录》)まききゅうじゅう记载,明太めんたいしゅもとあきらざいひろしななねんはちがつはついちにち,亲自ぜん南京なんきん历代帝王ていおう祭祀さいしふくいたりもとじゅうなな帝王ていおう,这じゅうなな帝王ていおうぶん别是:さんすめらぎふくほのおみかどみかど)、みかどしょうひろし颛顼こうからしからおそれしゅん)、さんおうなつ禹王、しょう汤王、しゅうたけしおう)、汉高祖こうそ、汉光武みつたけみかどずいぶんみかどからふとしそうそうふとしもとひろしじゅういちねん(1388ねんずいぶんみかどてき塑像そぞう撤出南京なんきん历代帝王ていおう庙,すえだい明太めんたいだか皇帝こうてい实录》(简称《明太めんたい实录》)まきいちひゃくはちじゅうはち记载:ひろしじゅういちねんはる正月しょうがつつちのえうまかんまつ历代帝王ていおうはつ,历代帝王ていおうしつまつふく羲至もとじゅうななみかどいたりずいぶんみかど,凡じゅうろくみかど,为五しつちゅうさんしつさんすめらぎみかどさんおう如旧,さい东一しつ则汉高祖こうそ光武みつたけからふとしそうさい西にし一室则宋太祖、もと,从祀めいしん凡四坛,东庑だいいちきゅうにん风后皋陶、龙、はくえきでん召公奭召虎张良曹参西にし庑第いちきゅうにんちからまきはくえびすいんしゅうこうだん太公望たいこうぼうほう萧何陈平,东庑だいじゅうにんしゅう冯异ぼうげん龄、やすしあきらはんよしたけ华黎ひろし尔忽はく西にし庑第きゅうにん邓禹诸葛あきらもり如晦、かく曹彬韩世ただし张浚ひろし尔术あかろうあつし。”
  26. ^ らいみなもと于《だい明太めんたいだか皇帝こうてい实录》(简称《明太めんたい实录》)まき九十二的相关记载。
  27. ^ 中共ちゅうきょう中央ちゅうおう文献ぶんけん研究けんきゅうしつ. 《もう泽东读文せき批语しゅう》. 北京ぺきん: 中央ちゅうおう文献ぶんけん出版しゅっぱんしゃ. 1997-01-01: だい55、56页. ISBN 9787507301540 ちゅうぶん(简体)). 
  28. ^ もう泽东てん评历だい帝王ていおう纣王能文のうぶんのうたけ很有ほんこと. 凤凰网. [2007ねん11月15にち]. (原始げんし内容ないようそん于2007ねん12月24にちちゅうぶん(简体)). 
  29. ^ もう泽东みょう语评てん历代帝王ていおう. 中国ちゅうごく网. [2007-08-22]. (原始げんし内容ないようそん于2008-04-26) ちゅうぶん(简体)). 
  30. ^ もう泽东对历だい帝王ていおうてき评说》. しん华网. [2007ねん11月15にち]. (原始げんし内容ないようそん于2007ねん11月19にちちゅうぶん(简体)). 
  31. ^ きゅうとうしょ·本紀ほんぎだいふとしむねじょう》:高祖こうそ临岐しゅうふとしそう时年よん岁。ゆう书生げんぜんしょう,谒高祖こうそ曰:“おおやけ贵人也,且有贵子。”见太むね,曰:“龙凤姿すがた天日てんじつひょうねんしょうじゅう,必能济世やすみん矣。”高祖こうそ惧其げん泄,はた杀之,ゆるがせしつ所在しょざいいんさい“济世やすみん义以为名焉。
  32. ^ 《资治どおり鉴‧まきだいいちひゃくはちじゅうずい纪六》
  33. ^ だいから新語しんご·まきいち》:ふとしむねもう兽于えんないゆうぐんいのこ突出とっしゅつりんちゅうふとしそう引弓しゃよん发殪よんいのこゆう一雄かずおいのこ直来なおらい冲马,吏部なお书唐俭下马搏ふとしそう拔剑だんいのこ,顾而わらい曰:“てんさく长史,见上はた击贼耶何惧之甚?”俭对曰:“汉祖以马じょうとく以马うえ理之まさゆき陛下へいか以神たけじょう四方しほう,岂复たくまし雄心ゆうしん于一兽!”ふとしそう善之よしゆきいんいのち罢猎。
  34. ^ げんおう一切經いっさいきょう音義おんぎまき:「舊譯きゅうやく觀世音かんぜおんあるげん光世みつよおんなみなまりまたひろ天竺てんじくようほんみなうんしゃばばのりやくため自在じざい雪山ゆきやま以來いらいけいほんみなうん娑婆しゃばのりやくためおんとう以舍、しゃばりょうこえ相近すけちかとげ致訛しつ。」
  35. ^ ずいからよしみ》:ふとしそうとく鹞,绝俊异,わたしひじもち见郑こう(せい),乃藏于怀。公知こうちとげぜんしろごといん语古帝王ていおういっほろ以讽谏。语久,みかど惜鹞且死,而素严敬せいよくつき其言。せい语不时尽,鹞死怀中。
  36. ^ しんから书·まきいちひゃくいちじゅうはち·れつさんじゅう
  37. ^ しんから书·まききゅうじゅうろく·れつ传第はち》:薨年じゅうみかどさんしゅんつねぜん日数にっすうじゅうあいいん以癯羸。群臣ぐんしん进勉,みかど曰:“ちんみぞ不知ふち悲爱无益?而不能ふのうやめわがまた不知ふち其所以然。”
  38. ^ きたそう·鸡肋编
  39. ^ しんから书·まききゅうじゅうろく·れつ传第はち》:いん有司ゆうし簿しゅ汤沐あまり赀,营佛ほこら侧。
  40. ^ から护法すな门法琳别传》まきさん:“みかど曰:ちんほんけいろう聃,东周隐德,まつかのううけたまわ嗣,おこり陇西,……ちん所以ゆえんみこと乎祖风,こういちじょううえあつし乎本”“琳闻,つぶせ拔达阇,からげん陛下へいか,斯即其苗,はしら陇西ながれ也。”《から护法すな门法琳别传》:“みかど时大いか竖目,问法师曰:ちん闻周そうめい异姓为后,みことじゅう亲寔よしさきいにしえなに为追逐其たん禽鼠两端。广引がたげん,备陈逊之喻。擢发すうざい此犹轻,つきちく书愆かた斯未拟。爬毁ちん祢。谤黩ちん先人せんじん。如此かなめくんゆうじょ!”
  41. ^ 馮承ひとしとうだいはなしげるえびすこう〉,發表はっぴょう於《東方とうほう雜誌ざっし》27かん17ごう收入しゅうにゅう《馮承ひとし西北せいほく論集ろんしゅう》,中國ちゅうごく國際こくさいこう出版しゅっぱんしゃ,2013ねん
  42. ^ いむこうもち經驗けいけんだん》:「《あたらしおさむ本草ほんぞうじゅうなながますえじょううん:『がますえ……なま隴西、はら、燉煌山谷さんや。』ほんちゅう:『こく使つかいじん賚來。……此國じんこえけん耐寒たいかんぶたしょく斯乎?』……這條材料ざいりょう顯示けんじ北朝ほくちょうじんあるもとゆび鮮卑じんこえけん。……北朝鮮きたちょうせん人體じんたいこえけん其他史料しりょうかんがえ,你想這條史料しりょう重要じゅうよう。閻立ほん歷代れきだい帝王ていおうこうぞうとうふとしむねとく很肥ゆたか大概たいがいいんため本有ほんゆうえびすじん血統けっとう?」
  43. ^ ちんとらつとむから氏族しぞく推測すいそく後記こうき〉:「から一族いちぞく所以ゆえん崛興,ぶた塞外さいがい野蠻やばん精悍せいかん注入ちゅうにゅう中原なかはら文化ぶんか頹廢軀,きゅうしみすんでじょしんじゅうけい擴大かくだい恢張,とげのうべつそう空前くうぜんきょく。」
  44. ^ ちんとらつとむとうだい政治せいじじゅつろん稿こう》:「わか以女けいははすべごととうだい創業そうぎょう及初君主くんしゅ,如高祖こうそははためどくふとし宗之むねゆきははため竇氏,そく紇豆りょうこう宗之むねゆきははためちょうまごみなえびすしゅ,而非かんぞくから皇室こうしつ女系じょけいははすべざつゆうえびすぞくたねせいしょども。」
  45. ^ せんきよし國史こくし大綱たいこうだいへんだい27しょうしんてき統一とういつ盛運せいうん下之したの對外たいがい姿態したい〉:「きんひとゆうぬしからためしげるせいしゃ,其事しんじいなかくよりどころしかから高祖こうそふかしははどくふとしそうはは竇氏,外祖母がいそぼ宇文うぶんこうはじめははちょうまごげんむねはは竇氏,みなえびすぞく也。のりからけいふかしみえびすよういさかいろん。」
  46. ^ 薩孟たけ西遊せいゆうあずか中國ちゅうごく古代こだい政治せいじ》:「ずいから統一とういつはななつ,而隋から皇室こうしつみなとりこかんしょうざつ。……から高祖こうそふかしとらざいしゅうたまもの大野おおのかんいたりばしらこく大將軍だいしょうぐん,遷太じょう高祖こうそきさき竇氏雖為華人かじんしかひがしかんれいみかどほろび奔匈やつとげため部落ぶらく大人おとな,其血統けっとうぞくかんえびす雜種ざっしゅふとしむねめとちょうまごためきさきちょうまご乃是鮮卑種族しゅぞくずいから皇室こうしつ雖然かんえびす雜種ざっしゅ,而卻きょため華人かじん。」
  47. ^ 岑仲つとむずいとう》:「わたるからけいきんひと提出ていしゅつりょうこう問題もんだい:其一為繆鳳林漢胡混合之北統。茲列舉李血統けっとう如下:のぞきどくちょうまごぞく鮮卑うたぐそと,竇氏さき相傳そうでんこうかん奔匈やつせつしゃまた如漠北之きたのぞくわれじんたい上古じょうこのう深入ふかいり研究けんきゅう,此等問題もんだいやめさと重要じゅうよう。萊忙だっごと:『とくじんほこため優越ゆうえつ人種じんしゅ,且是純粹じゅんすいてきだく曼種,實際じっさいうえそくかれやからやめさい複雜ふくざつてき混血こんけつ,此種現象げんしょう世界せかいじょうかく民族みんぞく殆莫みなしか。』りゅう盼遂曾著《からためしげるせいこうさんへん最後さいごまた取消とりけし其說,しかなおゆうふかしんじうたぐしゃ。」
  48. ^ りゅう盼遂〈からためしげるせいこう〉、〈からためしげるせいこうつづけ〉、〈からためしげるせいさんこう〉,發表はっぴょう於《おんなだい學術がくじゅつ季刊きかん》。
  49. ^ おうきりよわい〈楊隋とうさき系統けいとうこう〉,發表はっぴょう於《おんなだい學術がくじゅつ季刊きかん》,1932ねん
  50. ^ むかいいたるとうだい長安ながやすあずか西域せいいき文明ぶんめい》:「から氏族しぞくよりどころ最近さいきんかくいえ考證こうしょう于蕃せい有可ゆかしん。」
  51. ^ ちんのぼるはら國史こくし舊聞きゅうぶん》,台北たいぺいあきら文書ぶんしょきょく,1984ねん出版しゅっぱん
  52. ^ りゅうまなぶ銚《だいりょう王朝おうちょうあおうし白馬しろうまくろちぎり》:「如果したがえ民族みんぞくてき成分せいぶんらいからあさてき建國けんこくしゃ家族かぞくえびすかんむかいらい學界がっかい爭論そうろん焦點しょうてんふかしてき先人せんじん曾在鮮卑ぞく宇文うぶんてききたしゅうたまものせい大野おおの,而高しゃぞく(也就てつ勒、敕勒)なか也有やゆう大野おおの一族有濃厚的胡族血統。」,台北たいぺい風格ふうかく藝術げいじゅつ創作そうさくぼう出版しゅっぱん,2012ねん初版しょはん
  53. ^ 苏日ともえ达拉哈著《こうむぞくぞくげんしんこう》,民族みんぞく出版しゅっぱんしゃ,1986ねん
  54. ^ しんとうしょ·ふと宗子むねこしんとうしょ·ふとそう諸子しょし
  55. ^ しんとうしょ·しょみかど公主こうしゅ列傳れつでん
  56. ^ まいり见:《なんじみなみ公主こうしゅこころざし》。

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维基文库中的相关文本:欽定きんてい古今ここん圖書としょ集成しゅうせい·明倫めいりん彙編·すめらぎごくてん·だいじゅうよんかん》,出自しゅつじ陈梦かみなり古今ここん圖書としょ集成しゅうせい
维基文库中的相关文本:きゅうとうしょ·まき2》,出自しゅつじ刘昫きゅうとうしょ
维基文库中的相关文本:きゅうとうしょ·まき3》,出自しゅつじ刘昫きゅうとうしょ
维基文库中的相关文本:しんとうしょ/まき002》,出自しゅつじしんとうしょ

まいり[编辑]

からふとしむね
出生しゅっしょう于:598ねん1がつ28にち逝世於:649ねん7がつ10日とおか
統治とうちしゃあたま
前任ぜんにん
ちちから高祖こうそ
ふかし
からあさ皇帝こうてい
626ねん9がつ4にち-649ねん7がつ10日とおか
つぎにん
きゅうとうだかむね
おさむ
中國ちゅうごく皇帝こうてい
626ねん-649ねん
しんあたま
630ねん东突厥万国ばんこく来朝らいちょう
はじめじょう尊号そんごう,乃延よう
皇帝こうてい·てんあせ
630ねん4がつ—649ねん7がつ
中国ちゅうごく爵位しゃくい
しんあたま
から高祖こうそはじめふう
とう · はたおう
618ねん6がつ18にち—626ねん9がつ4にち
ふうごう停止ていし
原因げんいん:继位だい
军职
しんあたま
からあさ建立こんりゅう
ふとしじょう
618ねん-626ねん
つぎにん
ちょうまご
しんあたま
からあさ建立こんりゅう
てんさくじょうはた
618ねん-626ねん
そらかけ
した一位持有相同頭銜者:
うまいん
からあさ政府せいふかん
しんあたま
からあさ建立こんりゅう
からあさ·尚書しょうしょれい
618ねん-626ねん
つぎにん
からあさ·つかさ
621ねん-626ねん
つぎにん
元吉もとよし
前任ぜんにん
杨恭ひとし
からあさ·中書ちゅうしょれい
625ねん-626ねん
つぎにん
ぼうげん