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衆議院議員 小沢 一郎 |
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生年月日 |
(1942-05-24) 1942年5月24日(81歳) |
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出身地 |
出生地・東京市下谷区(現:東京都台東区) 本籍地・岩手県水沢市(現:奥州市水沢区) |
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出身校 |
慶應義塾大学 日本大学大学院(中退) |
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学位・資格 |
経済学士 |
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前職 |
大学院生 |
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所属委員会 |
衆・国家基本政策委員会委員 |
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世襲 |
2世 父・小沢佐重喜(衆議院議員) |
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選出選挙区 |
岩手4区 |
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当選回数 |
13回 |
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所属党派 |
民主党(小沢グループ) |
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党役職 |
代表 次の内閣・内閣総理大臣 岩手県総支部連合会最高顧問 |
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会館部屋番号 |
衆・第一議員会館605号室 |
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ウェブサイト |
■小沢一郎ウェブサイト■ |
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小沢 一郎(小澤 一郎、おざわ いちろう、1942年5月24日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(13期)。民主党代表(第6代)。
自治大臣(第34代)、国家公安委員長(第44代)。自由民主党幹事長、新生党代表幹事、新進党党首(第2代)、自由党党首を歴任。
概要
生い立ち
東京市下谷区(現:東京都台東区)御徒町に弁護士で東京府会議員だった小沢佐重喜・ みちの長男として生まれる。本籍地は岩手県水沢市袋町(現:奥州市水沢区袋町)。3歳から14歳まで郷里の水沢で育つ。
水沢市立東水沢中学校(現:奥州市立東水沢中学校)から2年次に文京区立第六中学校に転校し、東京都立小石川高等学校卒業後、弁護士になるため東京大学を目指して2年間浪人したが断念して、慶應義塾大学経済学部に入学する。
政界入り
父の急死により、司法試験受験のために入学した日本大学大学院法学研究科在学中の1969年、第32回衆院選に旧岩手2区から自由民主党公認で立候補し、27歳の若さで当選する。この総選挙を党幹事長として指揮したのが田中角栄で、以後木曜クラブ(田中派)に所属し、田中の下で薫陶を受ける。
党総務局長、衆議院議院運営委員長、第2次中曽根内閣第2次改造内閣では自治大臣兼国家公安委員長を歴任する。しかし、ロッキード事件により党籍を離れたものの、引き続き派閥の領袖として影響力を保ち続けようとする田中に反旗を翻した竹下登、金丸信らと共に派内勉強会「創政会」を結成。のちに経世会(竹下派)として独立する。竹下内閣の発足後、小沢は党・政府の要職を歴任し竹下派七奉行の一人に数えられた(一時的に担いだはずの竹下登はやがて闇の領袖となり田中支配が竹下支配に衣替えしただけのこととなる)。
竹下派支配
竹下内閣では内閣官房副長官に就任。
第1次海部俊樹内閣では党幹事長に就任。自由主義体制の維持を名目に経済団体連合会(経団連)傘下の企業から選挙資金300億円を集め、第39回衆院選に勝利するなどの実績から「剛腕」と称された。
湾岸戦争に自衛隊を派遣することについて、国会で公明党の協力を得るため、東京都知事選挙で党都連(東京都連合会)が推す現職に代わり新人を擁立。選挙で敗北したため責任を取り党幹事長を辞任したが、直後に経世会会長代行に就任。名実とともに派閥のNo.2となり、姻戚関係である竹下、金丸と共に「金竹小(こんちくしょう)」と称される。しかし次第に金丸は小沢に派閥を譲ろうと企図するようになり、竹下との確執を深めていった。
1990年、金丸訪朝団の一員として朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問する。
1991年、海部内閣が政治改革法案が国会で廃案となったことを受け、海部首相が衆議院の解散総選挙を匂わせる発言をしたことで党内の反発を招き総辞職を余儀なくされる(海部おろし)。金丸から後継首相になるよう説得される。金丸の意を受けた渡部恒三なども必死に説得し、また渡辺美智雄や宮沢喜一などには「俺たちは降りるからおまえがやれ」と言われたそうだが、当時49歳であり若すぎる事を理由に、これを固辞する。また6月に心臓病(狭心症)で倒れ健康不安説が出た。
1991年10月10日、自由民主党総裁選挙において派閥として支持する候補者を決定するために、出馬表明していた宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博と自身の個人事務所でそれぞれ面談した。しかし宮澤や渡辺のような当選回数・年齢も上の者(三塚は当選回数こそ小沢よりも一回少ないが、年齢は小沢より上だった。)を自分の事務所に招いたことは傲慢であると批判された。このことは後々まで「経世会支配」「剛腕小沢」の象徴的シーンとして取り上げられた(小沢は、「当日はホテルの会場が満室でどこも予約できなかった」と弁明した。[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。宮沢は後に『日本経済新聞』連載の「私の履歴書」の中で、「支持をこちらからお願いしているのだから、出向くのが筋であった」と回顧している。)。
竹下派分裂、羽田派結成
1992年、東京佐川急便事件を巡り、金丸が世論から激しい批判を受け、派閥会長を辞任、議員辞職した。後継会長に小沢は竹下派七奉行のうち金丸に近かった渡部恒三、奥田敬和らと共に羽田孜を擁立し、竹下直系の小渕恵三を推す橋本龍太郎、梶山静六らと対立。当初中立であった参院竹下派に派閥オーナーである竹下自らが関与して小渕支持を決定、この結果として後継会長は小渕に内定した。政争に敗れた小沢は羽田、渡部、奥田らと改革フォーラム21(羽田派)を旗揚げし、派閥は分裂した。
宮沢喜一改造内閣での羽田派の閣僚ポストは、経済企画庁長官(船田元)と科学技術庁長官(中島衛)の2つだけと冷遇された。さらに党幹事長には派閥の後継会長を巡り激しい闘争を演じた小渕派の梶山が就任したことで、羽田派は反主流派に転落した。これに対し小沢は主流派を「守旧派」と、自らを「改革派」と呼び、持論であった政治改革の主張を全面に訴えた。
1993年2月17日、東京佐川急便事件に関して証人喚問を受ける。
自民党離党、細川内閣成立
野党から宮沢内閣不信任案が上程され、1993年6月18日、羽田・小沢派ら自民党議員39名が賛成、16名が欠席する造反により不信任案は255対220で可決された。宮沢内閣は衆議院を解散した(嘘つき解散)。同年6月21日に武村正義らが自民党を離党(新党さきがけを結党)したが、これにより羽田・小沢派の議員に離党を決断させる一因となり、6月23日新生党を結成した。小沢は幹事長にあたる党代表幹事に就任するが、党結成の記者会見を行ったとき会場に姿が見えず「党首(羽田)の陰に隠れて暗躍している」との批判を受けた。
7月18日、第40回衆院選において自民党は過半数割れし、新生党、日本新党、新党さきがけの3新党は躍進した。宮沢は内閣総辞職した(後任の自民党総裁に河野洋平が選出)。
小沢は、総選挙直後から日本新党代表の細川護煕と非公式に会談した。細川は自民党との連立を検討していたが、小沢から首相就任を打診されたことで非自民勢力へと傾斜する。
8月9日、8党派連立の細川内閣が成立した。
細川政権下で小沢は内閣とは別に与党の意思決定機関である「連立与党代表者会議」を開き、公明党書記長の市川雄一とともに政権の主導権を握ろうとし、内閣官房長官として官邸主導を狙うさきがけ代表の武村と激しく対立した。
1994年2月3日 未明、細川は突如、消費税を廃止して7%の福祉目的税を創設するという「国民福祉税」構想を発表し、世論の激しい反発にあう。
これは小沢と大蔵省事務次官の斎藤次郎を中心に決定したことであったが、社会、さきがけ、民社各党の批判に合い、翌日、細川は国民福祉税構想を白紙撤回するに至った。武村官房長官(当時)は、公然と「国民福祉税構想は事前に聞いていない」と発言、小沢との対立はますます先鋭化する。
そのため小沢は細川に武村を外すための内閣改造を要望するも、一連の動きに嫌気がさした細川は、4月に突然辞意を表明した。
改新騒動、羽田内閣
細川の辞意は、小沢には突然の事であったが、直ちに後継首班に向けて始動する。小沢は渡辺美智雄との提携を企図するが、渡辺は自民党離党を決断できず構想は頓挫、連立与党は羽田の後継首班に合意する。しかし、首班指名に先立ち1994年4月25日、新生党、日本新党、民社党などが社会党を除く形で統一会派「改新」を結成したため、社会党の反発を招き、4月26日、社会党は連立政権の離脱を発表する。連立与党側は社会党の連立政権復帰に努力したが、時既に遅く4月28日、羽田内閣は少数与党内閣として成立した。
小沢と羽田の関係に微妙な影が差し始めたのはこの時期からである。羽田内閣は平成6年度予算を成立させたが、少数与党状態の解消をねらって行われた連立与党と社会党との間の政策協議は決裂し、自民党によって内閣不信任案が衆院に提出された。当初は羽田も解散する腹で小沢も同調していたが周囲の声を聞くに至りトーンは下がり解散総選挙を断念。6月25日に内閣総辞職を選択し、羽田内閣は在任期間64日、戦後2番目の短命政権に終わった。
野党転落、新進党結成
羽田の後継に次に狙いを定めたのは、かつて自民党幹事長としてタッグを組んだ元首相の海部俊樹であった。海部は当時自民党政治改革議員連盟会長で、新政策研究会(河本派)代表世話人でもあった。
1994年6月29日、自民党は首班指名選挙で社会党委員長の村山富市に投票する方針を示したため、海部は自民党を離党し、「自由改革連合」を結成、連立与党の首班候補となる。しかし決選投票で261対214で村山に敗れ、小沢は政治家人生において初めて野党の立場に落ちることになる。
新生党内では小沢の責任を追及する声も出たが、旧連立与党を糾合して新・新党の結成を実現するために、小沢の豪腕が必要とされた。
同年9月28日、日本共産党を除く野党各党187人が集まり、衆院会派「改革」の結成を見た。
また同日、衆議院議員186人、参議院議員39人、計225人の国会議員による「新党準備会」が正式に発足し、新党準備実行委員長に小沢が選出された。
小沢を中心に新・新党結成が準備され、同年12月10日に新進党結成大会が行われた。小沢は党首に海部を擁立し、自らは党幹事長に就任する。
1995年7月、第17回参院選では、改選議席19議席を大幅に上回る40議席を獲得し躍進した。同年12月に行われた党首選挙では、羽田・細川らを中心に「小沢外し」の動きがあったため、自ら立候補することを決断、長年の盟友である羽田と激突する。その結果、小沢は羽田を破り、第2代党首に選出された。
しかし、この党首選挙直後に投票者名簿が破棄されるなど、選挙結果が不明瞭であったため、羽田との決裂は決定的なものとなり、党内に更なる亀裂を生じさせた。
1996年10月20日に第41回衆院選が行われ、新進党は小沢の党党首選での主張を党公約「国民との五つの契約」として消費税率の3%据え置き、18兆円減税を公約したものの、改選前の160議席を4議席減らして156議席に止まり、事実上敗北した。
新進党解散、分裂
総選挙後、党内に小沢に対する反発が強まり、離党者が続出した。羽田孜や細川護熙らは非主流派を構成し、
1996年12月26日、羽田、奥田敬和、岩国哲人ら衆参議員13名は新進党を離党、太陽党を結成する。
1997年、小沢は自民党(当時)の亀井静香らと提携する、いわゆる「保保連合」路線に大きく舵を切る。しかし新進党内には、こうした保保連合路線に対して二大政党制を志向する立場から反対する勢力も顕在化し、鹿野道彦は政策研究会「改革会議」を結成する。
12月18日の党首選挙で小沢は鹿野を破り再選された。この党首選に先立ち公明が次期参院選を独自で闘う方針を決定し、新進党離れが加速する。党首に再選された小沢は、純化路線を取り、新進党内の旧公明党グループ・公友会、旧民社党グループ・民友会にそれぞれ解散を要求。12月27日に小沢は旧公明党の参院議員を分党し公明に合流させるとし、新進党の分党と新党の結成を発表した。新進党内は蜂の巣をつついたような混乱に陥り、分党を決定した両院議員総会は、混沌の内に終わった。
自由党結成
1998年1月6日、自由党を結成、小沢は党首に就任する。当初、100名以上の衆参両議員が集まると思われたが、結局、衆院議員42名、参院議員12名の計54名が参加するに留まり、野党第1党の座を民主党に譲り渡した。
同年7月12日の第18回参院選では苦戦必至と思われていたが小沢人気もあり比例代表で514万票、合計6議席を獲得し善戦した。参院選後の臨時国会では、首班指名に民主党代表の菅直人を野党統一候補に臨み、参院では自民党の小渕恵三を抑え菅が指名された(衆院では小渕が指名されたため、衆議院の優越の原則から小渕が首相に就任した)。
小沢は参院での野党共闘により政府・自民党を追い込む戦略であったが、菅は「政局にしない」と発言、金融再生法の制定で自民党と協力したことにより野党共闘はほころびを見せた。
自自連立
1998年10月、小沢は内閣官房長官の野中広務と会談、連立交渉を開始する。そして紆余曲折を経て同年11月19日、小渕首相との間で自自連立政権について合意した。
1999年1月14日正式に自自連立政権が成立し、党幹事長の野田毅が自治大臣として入閣、小沢は5年ぶりに与党へ復帰する。
衆議院議員定数50削減、閣僚ポストの削減、および政府委員制度の廃止と党首討論設置を含む国会改革がこの連立の主な成果として挙げられる。
自自公連立、連立離脱、自由党分裂
1999年7月、公明党が政権に参画し、自自公連立政権が成立する。自民、公明両党で参院の過半数を抑えることになったため政権内部での自由党の存在感は低下していった。自自両党の選挙協力も遅々として進まず、小沢は自民党総裁の小渕総理大臣に対して自自両党の解散、新しい保守政党の結成を要求した。両者は2000年4月1日、会談するが、合意に達せず、結局連立を解消することになる。この直後、小渕は脳梗塞で倒れた。
自由党は、小沢を支持する連立離脱派と野田毅、二階俊博などの連立残留派に分裂し、残留派は保守党を結成する(分裂の結果、自由党は衆院議員18名、参院議員4名の計22名に半減、保守党には26名が参加)。小沢と袂を分かった保守党側は政党助成金を半分づつ分け合うために分党を要求したが、自由党側はこれを拒否。保守党議員は離党扱いになり、政党助成金を全く得られず総選挙を迎えることとなった。
2000年6月25日の分裂直後に行われた第42回衆院選では苦戦が予想されたが、小沢人気もあり比例代表で約660万票を獲得、現有議席を上回る22議席を獲得し善戦する。
このとき、約20億円を投じたとされるテレビCM(小沢が顔を殴られる)は話題になり、自由党が善戦した要因の一つとされる(一方、保守党は7議席へと激減)。
2001年1月、将来の指導者育成を目指し、党内に小沢一郎政治塾(小沢塾)を開設した。小沢塾は民主党との合併後、小沢個人の私塾として運営されている。
同年7月29日の第19回参院選では小泉人気により、自民に追い風が吹き、小沢王国と呼ばれる参院岩手選挙区でも大苦戦を強いられたが、なんとか僅差で勝利し面目を保った。しかし、議席数は前回と同じ6を維持したものの、自由党の比例代表は約420万票に止まった。
民由合併
2002年、民主党代表の鳩山由紀夫は、党内の求心力を強化するため野党結集の必要性を感じ、小沢に接近した。当時、小沢自身も自由党の支持母体の弱体化・反対等により、自由党で選挙を戦うには限界を感じていたため、2人の思惑が一致した。
鳩山は民主党と自由党の合併に向けた協議を行うことを発表するが、党内調整が不十分であったこと及び小沢に対する拒否反応の為に頓挫、代表としての求心力を失い代表辞任を余儀なくされた。その後の代表に選出された菅直人は鳩山路線を引き継いで民由合併を促進、菅と小沢の間で合併は党名・綱領・役員は民主党の現体制の維持と言うことで合意が成立。
2003年9月26日、自由党は民主党と正式に合併し、小沢は党代表代行に就任した。2003年11月9日の第43回衆院選で民主党は政権交代への期待もあり公示前議席よりも40議席増の177議席を獲得した。
民由合併後、小沢が最初に提携したのが旧社会党系の横路孝弘だった。小沢と横路は安全保障面での政策を擦り合わせ、その後横路と旧社民勢力は小沢と行動を近くすることになる。また小沢は野党結集のために社民党へも民主党への合流を呼びかけたが失敗に終わった。
民主党に移った小沢はそれまでの新自由主義から「地方経済」と「雇用」の重視の方針を打ち出した。
当初、小沢派になると見られていた新自由主義的な「小さな政府研究会」には参加せず、東北出身議員だけをあつめて「東北議員団連盟」を結成し、地域主義への転向の姿勢を見せた。
一兵卒
2004年5月、年金未納問題による混乱の責任を取り党代表を辞任した菅直人の後継代表に内定。しかし直後に小沢自身も国民年金が強制加入制度になる1986年以前に未加入だったとして代表就任を辞退した。代わって党幹事長だった岡田克也が代表に就任した。
同年7月11日、第20回参院選では政府与党の年金法案が争点となり、それに反対した民主党に追い風が吹き、選挙区と比例代表合わせて50議席を獲得し、改選議席数で自民党(49議席)を上回る勝利を収めた。小沢は参院選後、岡田の要請により党副代表に就任。
2005年9月11日、郵政民営化の是非を争点にした第44回衆院選が行われたが現有議席を60近く減らす惨敗(小沢の片腕と言われ、党派を超えて一目置かれていた藤井裕久も落選)を喫し、岡田は代表辞意を表明。
その後の党代表選で前原誠司が選出され、小沢は党代表代行への就任を依頼されたが、岡田執行部の党副代表であり総選挙惨敗の責任の一端があるとして、これを固辞した。
民主党代表就任
2006年
3月31日に前原が「堀江メール問題」の責任を取って党代表辞任を表明した後、小沢は「先頭に立って党を再生して政権交代ののろしを上げる決意」と記者会見で述べ、後継代表選への出馬を表明。
各社世論調査での国民の期待は軒並み小沢が優勢であった。4月7日に行われた民主党代表選における立候補演説は、小沢のそれまでの政治生活を総括し、民主党のあるべき政策を述べ、生き残るためには民主党のみならず自分自身が変わらざるを得ないと宣言したものであり、党の内外に感銘を与えた。結果は大差で菅直人を破り、党代表に選出された。代表選後、小沢は、党内外に挙党一致体制をアピールするため、党代表の座を争った菅を党代表代行・鳩山由紀夫を党幹事長にするトロイカ体制を敷いた、また前執行部と次の内閣メンバー全員を残留させた。
小沢が党代表に就任した直後、4月23日の衆議院千葉7区補欠選挙では、メール問題での逆風から当選は難しいと思われていたが、民主党への期待により、僅差ながら勝利(これにより党内の求心力が高まり9月12日に無投票で民主党代表に再選が内定)。
自身が代表に就任してから、政令指定都市・都道府県の首長選挙に関しては原則として相乗り禁止の方針を打ち出した。
5月9日の会見で、衆院本会議を欠席しがちな理由として「食後すぐに仕事にとりかからないなど、医者の忠告を守っている」と、自身の体調管理を理由に挙げたことに関し、「議会軽視だ」と各方面から厳しい批判を受けた。また、自身の健康状態を語ったことに対して様々な憶測が流れた。
9月25日臨時党大会で正式に代表に再選された後、狭心症の発作の兆候を感じたため、都内の病院に検査入院をする。1991年に狭心症で入院した過去もある。10月5日に退院し、自身の動脈硬化が進んでいることを明らかにした。
北朝鮮が核実験を行った後の朝鮮半島情勢は「周辺事態法」を適用できるかどうかを巡り、「周辺事態法は適用できない」とする小沢一郎らトロイカ体制の見解を発表した。
しかし、これに対して前原誠司前代表を始めとする党内から「周辺事態法は適用できる」とする意見表明が行われ、また民主党の外交・防衛部門は、「小沢代表らトロイカ体制の見解は民主党の公式見解ではない」と発表し、安全保障政策をめぐる民主党内の対立・不一致が表面化した。
小沢は「核武装の論議を是認すれば『非核三原則を守る』という言葉も国民や国際社会に受け入れられない」と指摘した。しかし、その考えに不満を持つ一部保守層などが、自由党党首時代2002年の小沢の発言である「日本は一朝で数千発の核弾頭を持てる。」と日本の核保有能力について発言したことと比較して批判したが、核を持つ能力があるということと持つべきでないと述べることは矛盾することではない。
防衛庁の「省」昇格に対し、自由党時代から防衛庁の省への昇格を主張していた小沢は「国防の任に当たる省庁が内閣府の一外局でしかない状態は良いことではない」と述べた。民主党内には依然反対の声があったため衆院安全保障委員会での防衛「省」昇格関連法案の審議に欠席したが、最終的に代表である小沢の最終決断により「省」昇格法案の賛成に回った。
11月の福島県知事選では社民党、沖縄県知事選では共産党、社民党などと共闘。福島県知事選では与党推薦候補を破ったが、沖縄県知事選では与党推薦候補に敗れた。
沖縄県知事選で共産党、社民党など民主党とは支持層や政策の異なる政党と共闘し敗れたことから、野党共闘のあり方について見直しを迫られることとなる。
2007年
2007年2月4日に参院選の前哨戦といわれた愛知県知事選と北九州市長選が行われ、北九州市長選は野党推薦候補が勝利、愛知県知事選は事前調査での劣勢を挽回したものの与党候補に惜敗した。この善戦は柳澤伯夫厚生労働大臣による「(女性は)出産する機械」発言に対する批判票が民主党推薦候補へ流れたためと見られている。この間の国会において、小沢は柳澤大臣が辞任するまで審議を拒否する戦術を主導し、辞任に追い込むことに失敗したものの「柳澤発言」の争点化に成功した。
しかし一方では、耐震補強など重要な内容を含む補正予算の審議を拒否することに対し、「野党が国会議員の責任を放棄している」と与党に批判される。
4月8日に統一地方選挙の前半戦が行われ、地元・岩手県の知事選で小沢チルドレンの代表格である達増拓也が出馬、2位以下に3倍近い差をつける圧勝で小沢王国健在を見せ付けた。また岩手県議選でも過半数は獲得できなかったものの議席を増やし第1党を維持した。自民VS民主の対決になった5つの知事選では2勝3敗で負け越したものの、道府県議選・政令市議選では民主党は230議席(合併前の自由党含む)から145議席増え375議席に躍進した。
4月22日に統一補欠選挙が行われ、参院沖縄で惜敗したものの、参院福島で圧勝し1勝1敗と代表としての面目を辛うじて保った。又、同日行われた統一地方選挙の後半戦では市町村合併の影響か市議選で、自民党が過去最低議席数になった他、他党が前回議席を割り込む中、民主党は3割近く議席を伸ばした。
2007年の参議院選挙に向けて「生活維新」を掲げた民主党の宣伝CMに出演。しかし春先まで全国に流されていた第1弾のCMでは小沢代表が船頭から吹き飛ばされるシーンがあり、「入院騒ぎを思い出す」と一部から顰蹙を買ったが、小沢・菅・鳩山というトロイカ体制を明示し、参院選への党の結束をアピールした。参院選投票1ヶ月前の6月からはキャッチフレーズを「生活維新」から「生活が、第一。」に変わり、分かりやすい表現に変更する。
また新らしいバージョンでは「一般人の方々」を出演させ始め「国民に近い存在」を印象付け、更に投票1週間前のバージョンでは小沢と「一般人の方々」が不満をぶつけるように一人づつ机を叩くシーンで、「決断」という意思を印象付けた。
6月からの「一般人の方々」を主にした「不満」、投票1週間前からのそれに小沢を加えた「決断」と、今までの民主党には無い戦略的で凝ったCMであった。
7月8日、マスコミ報道では民主優勢と見た小沢は、同年7月29日の第21回参議院議員通常選挙で野党で過半数の議席を獲得できなかった場合は、「野党の代表をいつまで務めていてもしょうがない」と民主党代表を辞任し、次期衆議院議員選挙に立候補せず政界引退することを明らかにした。これにより自身の責任ラインを明確化し、逆に参院戦の惨敗後、辞任しない意向を表した安倍晋三首相への批判と差別化を謀ることに成功。根強い小沢人気も相まり更に民主への追い風を強めた。
7月9日、ニコニコ動画に小沢がメッセージ動画出演。政治家として初めて。コメントには辛口コメントが多く賛否両論を巻き起こしたものの話題になった。
7月29日の第21回参議院議員通常選挙で民主党は60議席を獲得し参議院第1党となり、野党全体(共産党を含む)でも過半数を得た。この選挙では、小沢の30人を超える秘書が、1人区を中心とした激戦区に選挙戦術指導のため入り、直接指導した。1人区行脚と言われた小沢本人による梃入れと合わせて、選挙戦術の卓越さを遺憾なく発揮した選挙となった。
選挙開票当日は「医者からの忠告」を理由に休養を取っていたとし、小沢はマスコミの前に姿を見せなかった[1]が、7月31日の党常任幹事会に多くの報道陣が駆けつける中で出席、小沢は公約通り衆議院議員を今後も続けることを宣言した。
8月8日には11月に期限切れとなるテロ対策特別措置法問題についてマスコミ公開の中、シーファー駐日米大使と会談、8月30日にはドイツのメルケル首相と会談した。
安倍首相が9月12日に辞意を表明した。辞任の主な理由として「小沢代表との党首会談が実現しなかったこと」としたが、小沢は即刻会見を開きこれを全面的に否定。辞任理由の無責任さに批判も出て病気への憶測も目立ち始めたことから、24日に再度安倍首相が会見を開き、辞任の本当の理由は病気であったことを明かした。また、小沢代表との党首会談の前に辞任を既に決意していたことを明かし、12日の会見で辞任理由としていたことを事実上撤回した。
9月25日、内閣総理大臣指名選挙で、衆議院は福田康夫、参議院は決選投票の末(小沢133票、福田106票)小沢を内閣総理大臣に指名した。衆議院の優越規定に基づき福田が首相となったが、両院の指名が異なったのは小渕恵三内閣下で民主党の菅直人が指名されて以来、9年ぶり4度目である。
かつて田中角栄の懐刀だった小沢と福田の因縁の戦いは、「第二の角福戦争」と呼ばれている。しかし当人たちにはそのつもりが全く無いようで、福田を舌鋒鋭く批判する角栄の娘の田中真紀子元外相の方が注目され、これが真の「第二の角福戦争」だと見る向きもある。
2007年10月、自民党の与謝野馨議員と囲碁で対決した。二人は政界きっての囲碁の実力者で2時間半の激戦の末、小沢が勝負を制した。小沢は「こっち(与謝野氏)は正統派だしね」、与謝野馨前官房長官も「(小沢氏との)最後の一局は、4、5年前、私が負けたんですよ」と互いに勝負の感想を述べた。
2007年11月4日、辞意を固めた。
2007年11月2日、小沢代表は自民党の福田総裁と会談し、会談後、民主党を連立政権に参加させるため党内をまとめることを表明した。だが、直後の役員会で「大政翼賛会になる」等、党内の反対にあい、2時間後に連立を拒絶した。大連立構想は、福田首相側から提案があったとされているが、小沢が以前から大連立を福田首相に持ちかけていたとの報道も行われた。また、鳩山幹事長は、3日、京都府京田辺市内で「首相が小沢氏の考えを丸飲みしただけ。」と発言した。
小沢は連立の利点として「参院選で訴えた政策が実現できる」、欠点として「自分たちだけの力で政権を取るという、本当の意味での政権交代にならない」ことを説明した。自民・公明の選挙強力を切り崩すために大連立を持ちかけたとの報道もなされた。
国会運営
小沢の国会での論戦は、前代表である前原誠司の「対案路線」ではなく、「対立軸路線」で与党とは対決姿勢を鮮明にしている。自著の『「日本改造計画」』では、「過半数が賛成している案を、少数のダダっ子がいて、その子をなだめるために、いいなりになってすべてを変えてしまう」のは「少数者の横暴」だと述べている。小沢は今でも「審議を十分に行えば」与党による採決も止むを得ないという立場を取るが、議員数の多さを背景に強行採決した場合には徹底抗戦や審議拒否も辞さない戦う野党の姿勢を示している。
ただ、この姿勢は審議拒否を度々行うことで「充分な審議を放棄した」「与党案の成立を手助けしている」との批判を生むことがある。
主な政治的主張
小沢の政治的主張は、論理的な思考方法と強い説得力に特色がある。最初の著作である「日本改造計画」によって全国的に広い階層の支持者を獲得した。また旧政治体制を崩壊させた小選挙区制の導入は、小沢の影響力によるところが大きい。2004年に公表した現行憲法の下での国連派遣部隊構想、さらにそれを発展させた2007年10月に公表した国際安全保障政策は、現行憲法との論理的整合性を維持しながら日本の国際安全保障政策を探求したものといえる。
- 憲法改正(憲法96条)の為の国民投票法案
- 与党の国民投票法案には反対。
- (世論調査で国民の半数が2007年の通常国会での与党案の成立を支持したことに対し)「党の方針はすでに決まっている。変更する状況ができない限り、変更されることはない。」と与党案に反対する姿勢を明確にした。しかし、改憲に賛同する民主党内の勢力は小沢の方針に反発しており、今後改憲を睨んだ政局の再編がなされるのではという憶測も一部では流れている。
- 憲法9条問題
- 「専守防衛」に徹する。
- 憲法前文の平和主義と憲法9条の第一項と第二項は保持。第9.5条として平和のための国際協力と国連待機軍の設置を付加。
- 憲法を一部改正して国連待機軍を創設し、自衛隊は国防に専念させる。
- 個別的であれ集団的であれ、自衛権は我が国が急迫不正の侵害を受けた場合に限って行使。急迫不正の定義は明確にしない。
- 戦争には前線も後方支援も関係はない。
- 「集団的自衛権」(イラク戦争型)の行使 ‐ 一部国家による有志連合の参加には反対。
- これに基づいて、テロ対策特別措置法に反対している。
- 「集団安全保障」(湾岸戦争型)の行使 ‐ 国連が承認した国連軍、多国籍軍の参加には賛成。
- 小沢は国際治安支援部隊に対しては容認しており、ダルフール紛争への部隊の参加、国連治安支援部隊(ISAF)への参加など国連中心主義を強調している。
- ただし、その際の武器の使用基準見直しについては明言していない。
- 核武装
- 軍事的、政治的にも何のプラスにもならない。議論もしてはいけない。党内には、核保有を認める意見や核武装を議論すべきとの意見があり、北朝鮮核問題を受け党内の分裂が表面化した。
- A級戦犯、靖国神社
- 東京裁判は不当な報復裁判であり、A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう問題ではない。ただし当時の国家指導者は敗戦責任があり、天皇陛下が参拝できるよう靖国神社から削除すべき。
- 行く行かないは個人の自由。ただし公約をし、政治信念で行くのならば8月15日に公式参拝を行うべき。
- 靖国神社は戊辰戦争の招魂社だと言う問題がある。私は賊軍の岩手出身だ。
- 日米中関係
- 最も重要なのは同盟を結んでいる日米関係だが、沖縄県知事選で「反日米安保・反自衛隊」が持論の候補を推薦し、与党からはまとまりがないと批判された。
- 日米中は二等辺三角形でも正三角形でもどんな形であれ正常な関係にならなければいけない。
- 日米、日中の人的交流を緊密化するための多面的な交流事業を長年にわたって推進している。
- 永住外国人の地方参政権
- 旧植民地政策により日本に移住、戦後そのまま在住した永住外国人・その家族が日本国籍を獲得しにくい場合でも、その歴史的事情を勘案し、また地域の住民との連帯感を醸成するために地方参政権を与えるべき。
- 労働組合との関係
- 未組織労働者や市民層からの支持を増やすことで協調的に労組との関係を維持する。
- 社会保障、年金問題
- 厚生年金、共済年金、国民年金、それに議員年金も含めすべての年金を一元化
- 1人月額6万円を支給する基礎年金と従来の保険料方式を維持した所得比例年金の2階建て。
- 消費税は5%のまま全額を福祉目的税化する。しかし、消費税5%分(約13兆円)だけでは年金の基礎部分を賄えないため、必要な財源は既存予算から捻出するように努力する。また、「給付する人を低所得者に限るため、13兆円で足りる」と反論した。しかし、13兆円では、国民の半数にしか年金が支給できないとの批判がある。
- 教育改革
- 与党案とは異なる民主党独自の「教育基本法」の制定。5歳から高校まで義務教育を広げる。
- 「子ども手当て」と親と同居の「親手当」。
- 教師などの教育職員は国家公務員として身分を安定させる。その代わり争議権を認めない。
- 農業改革
- わが国の安全保障を確保するためには現在49%に低下している食料自給率を先進国並みに高めることが必要である。これを実現するためには、単に今輸入している畜産物などをそのまま自給に切り替えるということでは農地の少ない日本では実現は困難である。動物たんぱく質よりも植物たんぱく質中心の日本型食生活の普及、高収量、環境耐性作物を開発するための研究開発の充実等の政策を長期にわたって実施することが必要である。
また、農家、農村の活力を再生するために、穀物などの主要農産物について農家ごとの収入と費用の差額を補填する戸別所得保障制度を導入することが有効である。これに伴い、現在講じている輸入関税などの国境措置は不要となる。
- 格差是正
- 管理職は自由競争だが、非管理職は終身雇用。
- 社会的格差の是正
- 挫折した経営者・労働者の再起、再就職の支援制度の拡充。
- 経済
- 小さな政府ではなく、「官で出来ることは官で、民で出来ることは民で」。無駄な公共事業を極力減らしていく方針。
- 地方分権
- 中央集権体制から地方主権体制への移行。
- 補助金を地方に一括交付。
- 市町村を300程度に集約。
- 選挙協力
- 思想的には保守であるが、自公政権打倒のためには共産党を含めた全野党による選挙協力も辞さないことを表明している(「参院選候補選定「直接やる。カギは1人区」」)。社会党の社公民路線以来、「非自民・非共産」として、共産外しが常態となっていた野党第一党の代表としては異例の見解である。そのため、自公からはもちろん、党内の反共主義者からの批判も見られる。もっとも、共産党も現時点では「市場主義重視」の民主党の「第三の道」路線に対して自公共々批判的であるため、この可能性は薄いものと見られる。
- 外交
- 対中外交を重視しており、インドや中央アジア,インドネシアとの外交関係を重視した安倍内閣の外交方針に批判的であった。
人物
人物評
- 田中角栄の長男である正法は5歳で亡くなったが、その長男と小沢が同じ1942年生まれであったため、角栄は小沢を息子のように可愛がったとされる。
- 金丸信は小沢、羽田孜、梶山静六の3人を「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と評した。
- 石原慎太郎は「私は彼を評価しません。あの人ほどアメリカの言いなりになった人はいない」と評した。[2]
- 周囲からは東北人気質も相まって朴訥な人物と評されている。そのことから説明する努力に欠け、側近が離れる一因となっていると指摘される。本人曰く「去るもの追わず。来るもの拒まず」。
- 党内外での小沢アレルギーの存在が指摘され、これは若手議員よりも自民党当時を知る議員により強いとされる。「独断専行、側近政治、顔が見えない」との批判や、自民党分裂とその後の分裂工作、新進党分裂・解党と、小沢自身の非常にしたたかな戦略がその原因に挙げられる。
- 自民党幹事長時代に、二日酔いで全国幹事長会議をすっぽかしたり、選挙で負けそうになると選挙の指揮を放り出して外遊に行っていたため、ワースト1幹事長という評価もある。[1]
人物像
- 田中派から独立した経世会に所属した国会議員で唯一、田中の裁判をすべて欠かさず傍聴した。旧田中派の中では唯一田中家・田中真紀子から許されているため、現在でも命日には田中家を訪問している。そのため親交が深く、田中真紀子の自民党離党、民主党会派入りに小沢は尽力している。また、「政治の父は田中角栄」と公言している。
- 「豪腕」「壊し屋」「日本最後の政治屋」と称され、「政治とは権力闘争である」という政治観の持ち主である。[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。平成不況の最中、政治改革などを主唱して権力闘争に明け暮れていると、財界主流派からは批判された。
- 私生活では恐妻家として知られている。
- 新生党代表幹事時代には番記者との懇談会を廃止し、これまでの記者クラブ中心の会見から海外メディアや週刊誌記者なども会見に参加できるようにし注目を集めたが、自分の意に沿わぬ記事を書いたメディアと対立を起こしたりした。
- 自民党離党直前に発売した『日本改造計画』は政治家の著作としては異例の70万部を超える売上を記録し、1993年を代表するベストセラーに。自らの政策・政見を広く国民に問うもので、小沢の理念を基に官僚や専門家を中心に政策としてまとめた。また続編も計画されている。
- 2006年4月の衆議院千葉7区補欠選挙で党の広告に柴犬の「もも」を起用。補選で「もも」は小沢代表や候補者たちの応援に出向き話題をさらった。また小沢によれば10歳を超える飼い犬の「ちび」と似ているらしい。ちなみに「ちび」は高齢のため散歩に行けない。
- 1999年4月に韓国を訪問した際、同月18日に日本の党幹部・閣僚クラスの政治家としては初めて(当時)となる、ソウルにある金九、尹奉吉、李奉昌、白貞基といった、嘗ての抗日独立運動家の墓地を参拝した。この事に関して、東亜日報は「新しい韓日関係のため韓国に近づこうとする努力の一環として評価している」と報じ、文化日報は「極右保守的なカラーを薄めるための高度の計算だとの指摘もある」と述べた。
- 歴史上の人物では、西郷隆盛を尊敬するものの、政治家としては、大久保利通を目指していると述べている。
- ニートについて、以下のように徹底した自助努力を要求している。またニートの親については、「僕は自宅で小鳥を飼っているが、親鳥はヒナが大きくなるまでは一生懸命に世話をするが、一定の時期がくると冷たいほど突き放して巣立ちさせる。ニートの親は動物にも劣るといっても過言ではない」と評し、その責任を激しく糾弾している[2]。
- (ニート問題に関する発言)
- -本人たちは「誰の迷惑にもなっていない」と言うかもしれないが、親の稼ぎで食わしてもらっているうえ、国民全体で支える公共的サービスは享受している。病気でもない働き盛りの若者が、漠然と他人に寄生して生きているなど、とんでもない。-
- -政府は「少子高齢化の進む人口減少社会で、経済の活力を一段と失わせかねない」として、今後、ニートの就職支援に本腰を入れるというが、果たしてそんな次元の話なのか。僕に言わせれば対策は簡単だ。一定の猶予を与えて、親が子供を家から追い出せばいい。無理矢理でも自分の力で人生を生きさせるのだ。追い詰められれば、彼らも必死に考えて行動するはずだ。それでも働きたくないというなら、勝手にすればいい。その代わり、親の世話には一切ならず、他人に迷惑(犯罪も含む)もかけず、公共的サービスも受けないことだ。無人島でも行って自給自足の生活でもすればいい。-
- 小沢は、日米、日中の交流が世界の平和と安定に不可欠と考えて、政治家としての公的な仕事とは別に自分のライフワークとして草の根レベルの国際交流活動を続けている。米国とは1990年に「ジョン万次郎の会」を立ち上げ、1992年に財団法人ジョン万次郎ホイットフールド記念国際草の根交流センターを設立した。一年置きに、日本と米国を会場として、数十人の家族が相手国の家庭に滞在して草の根交流を図るもので、昨年は16回がコロラド州で、今年は17回が石川県の能登で開催された。このほか、2001年以来日本に関心の高いシカゴ市の特定中学校の生徒を毎年20人程度日本に招待している。
中国とは、1986年に第1回長城計画が中華全国青年連合会の協力を得て開催され、青年指導者、大学生を毎年数十名を招待し、日本からは、国会議員、一般人が参加し、今年は第15回を迎えた。
このような活動は、実施団体とともに小沢事務所が担当し、このためもあり、複数の外国人の大学院留学生が事務所で働いている。
事務所費問題
2007年1月、自身の資金管理団体「陸山会」が2005年分の政治資金収支報告書に4億円を超える不透明な事務所費を計上していることが発覚した。鳩山幹事長は『(小沢から)「東京都世田谷区内に約3億6500万円相当の土地と建物を購入し、費用を事務所費として計上した」と聞いており「全く問題ない」』と反論した。
自身の資金管理団体が10億円を超す不動産を保有し(小沢個人名義で保有)、またその一部を賃貸運用していることなどが発覚し、物議を醸した。それに対し小沢は1月の衆院代表質問で、これらの「支出の詳細、領収書、関係書類を含め公表する用意がある」とし、同じく事務所費問題を抱える自民党に対し、大臣など責任ある立場の議員に公表を迫った。
2月20日、国会内での記者会見で、東京・世田谷区に約3億7000万円の秘書宿舎を建設し、加えて不動産取引の仲介手数料や登記費用として1100万円を計上したという、2003年~2005年の事務所費などを公開した。公開に対し「一歩進んだ」と好意的にとらえる社説が多い。一方、10億円は国民の常識からかけ離れているとの批判もあるが、それだけ支援者からの寄付金が多かったということであり、また不動産を所有しても政治資金団体の財産なので問題はないと主張した。
同時に、資金管理団体の小沢名義の資産を個人資産にしないという確認書を公開した。これは、文字通り政治活動のために使われるものとして所有されたものであり、個人財産ではなく、いわば公共的財産である。確認書ではなく、公正証書として遺言書を残すべきだとの意見を述べる者もあるが、資金管理団体が取得したことは資金報告書から明らかであり、また公表された確認書により、小沢の個人財産に含まれないことは当然であり、小沢の遺族が相続財産として処理しようとすれば、他人の財産を勝手に処分することになり資金管理団体やマスコミが許さないはずである。またこれらの書類公開に際しては、報道陣に領収書などの撮影、コピーを許可せず、確認書が作成された日付がごく最近なのではないかという意見があるが、確認書はたとえ最近作成されたとしても、法律的な効力には関係ないはずである。
自由党、民主党からの収入が不動産取得に使用されたため、(個人の資産に)税金を投入したとの批判を受けた。だが、岡田克也から「引き継いだのは小額だった」と一蹴された。海部内閣の幹事長時代、財界から100億円を集めた小沢の手腕や、金竹小と並び称された金丸、竹下の蓄財からすれば税金からの収入以外で小沢が一定の資金を動かせることは想像に難くない。
小沢代表が公開したのは所有する10億円の個人名義不動産のうち、わずか4割相当に過ぎず、公開したとは言えないと言われている。だが、2007年1月の衆院代表質問での小沢による「一斉公開要求」に応じた政府与党の内閣総理大臣・閣僚・自民党幹部は一人もいない。小沢ただ一人公開したことで公開しない自民党を批判、それによってそれが争点となった参院選で有利に戦えることになり、民主党圧勝の一因に。
その後2007年10月9日、参院選で与野党逆転した後、初の本格的論戦で注目されていた衆議院予算委員会総括質疑の初日、「陸山会」が政治資金で購入したマンションの部屋をコンサルタント会社と財団法人に事務所として貸し、2002年から2006年の間に賃料計980万円を得ていたことが報じられた。
政治資金規正法は、預貯金や国債など以外での政治資金の運用を禁じており、同法に抵触する疑いもあるとの批判がある。
これに対し、9日に民主党の鳩山由紀夫幹事長は「法に触れるようなことは何もしていない」とコメントし、「このタイミングで問題化させるのは政治的意図があるからではないのか」とも切り返した。また小沢代表も翌10日の記者会見で「1円単位で領収書を公開した2月時点で(メディアから)追及は全く無かった。それが半年以上も経過した今回一面トップで報じることは、政治的思惑でもって意図的に誹謗中傷した報道であると認識している」とし、これを一面で報じた毎日新聞をはじめ報道を批判するなど強く不快感を示した。なおこれらの違法性を強く否定しつつも今後不動産の売却を進めていく考えを表明した。
政策秘書公職選挙法違反容疑
第21回参議院議員通常選挙で当選した同党の青木愛の選挙運動員が事務所の指示を受け、参院選公示前日の7月11日、業者に依頼して選挙ポスター付きの看板設置に関する契約を1本当たり500円で千数百万円分の契約を結んだ疑いで逮捕された。
青木氏陣営から「看板に政党ポスターを張って設置し、公示後に選挙運動ポスターに張り替えるよう」発注を受けていた。
印刷会社社長らは、実際に選挙ポスター付きの看板を立てたアルバイトらに「職務質問されたらボランティアだと答えろ」などと指示をしていたため、違法性を認識していたと判断し選挙運動員と印刷会社社長らが逮捕。
印刷会社社長が警察からの事情聴取で、小沢の政策秘書に報告しその内容を掴んでいたのではないかとも取れる供述を行なった。
これに対し、小沢の政策秘書は「選挙違反ではない」と反論。小沢自身も8月31日の記者会見で「選挙違反に当たるような行為は一切していないという(秘書からの)報告で、私もそう思っている」と捜査や報道を批判し強く不快感を示した。朝日新聞は8月30日の朝刊一面に「小沢氏秘書、立件へ詰め」という見出しの記事を載せた。しかし、9月14日、千葉地検は逮捕した印刷会社社長らを「選挙違反にはあたるが、違法性の程度が比較的軽かった」と判断、起訴猶予処分とした。これによって捜査は終結し小沢氏秘書の立件は無くなった。
一族
家族・親族
系譜
竹中藤右衛門━━┳寿美
(14代) ┃
┣竹中宏平━━竹中祐二
┃ ┃
┗竹中錬一 ┃
┃ ┃
米内光政━━━━和子 ┃
(元首相) ┃
┃
┏竹下勇造━━━━┳竹下登━━┳公子
┃ ┃(元首相)┃
┗武永貞一 ┣竹下三郎 ┃
┃ ┃
┗竹下亘 ┃
┃ ┃
┃ ┣まる子
福田正━━━━━┳雅子 ┃
┣福田実 ┃
┗和子 ┃
┃ ┃
小沢佐重喜━━━━小沢一郎 ┃
┗一子
┃
金丸信━━━金丸康信
文献
著書
共著
関連文献
雑誌関連文献抄
- 中央公論2004年2月号 「小沢一郎×横路孝弘」
- 週刊金曜日2005年1月14日号「本多勝一 憂刻ニッポン」
- アエラ2006年1月23日号 後藤正治「小沢一郎 思想政治家で終わるのか」
- 世界2007年11月号 小沢一郎 「公開書簡今こそ国際安全保障の原則確立を」
関連人物
関連項目
脚注
- ^ 参考文献:奥島貞雄『自民党幹事長室の30年』 (中央公論新社、2002年)
- ^ 豪腕コラム 第226回(『夕刊フジ』2005年3月25日)
外部リンク
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