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シトロエン・2CV は、フランス のシトロエン が1948年 ねん に発表 はっぴょう した、前輪 ぜんりん 駆動 くどう 方式 ほうしき の乗用車 じょうようしゃ である。
きわめて独創 どくそう 的 てき かつ合理 ごうり 的 てき な設計 せっけい の小型 こがた 大衆 たいしゅう 車 しゃ で、1999年 ねん 、20世紀 せいき を代表 だいひょう する車 くるま を選 えら ぶ「カー・オブ・ザ・センチュリー 」の選考 せんこう 過程 かてい におけるベスト26に入 はい った1台 だい である。
「2CV」はフランス語 ふらんすご で「2馬力 ばりき 」を意味 いみ する deux chevaux (フランス語 ふらんすご 発音 はつおん : [dø ʃ(ə)vo] ドゥ シュヴォ)の略語 りゃくご で、フランスにおけるかつての自動車 じどうしゃ 課税 かぜい 基準 きじゅん である課税 かぜい 馬力 ばりき (フランス語 ふらんすご :C hev al fiscal 、英語 えいご :Tax horsepower )カテゴリのうち、1948年 ねん 当時 とうじ の「2CV」に相当 そうとう していたことに由来 ゆらい するが、実際 じっさい のエンジン出力 しゅつりょく が2馬力 ばりき であったわけではない。後年 こうねん の改良 かいりょう によるパワーアップで税制 ぜいせい 上 じょう 3CV相当 そうとう にまで上 あ がったが、車 くるま 名 めい は2CVのままであった。
ユニークな着想 ちゃくそう を数多 かずおお く盛 も り込 こ んだ簡潔 かんけつ 軽量 けいりょう な構造 こうぞう により、高 たか い操縦 そうじゅう 安定 あんてい 性 せい 、居住 きょじゅう 性 せい 、経済 けいざい 性 せい を同時 どうじ に成立 せいりつ させた。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご のフランスにおけるモータリゼーション の一角 いっかく を担 にな い「国民 こくみん 車 しゃ 」として普及 ふきゅう し、西 にし ヨーロッパ各国 かっこく で広 ひろ く用 もち いられた。そのユーモラス なスタイル と相 あい まって世界 せかい 的 てき に広 ひろ く親 した しまれ、フランスという国 くに とその文化 ぶんか を象徴 しょうちょう するアイコン のひとつに数 かぞ えられるようになった。
2CVは1948年 ねん から1990年 ねん までの42年間 ねんかん 、大 おお きなモデルチェンジ が行 おこな われることなく387万 まん 2,583台 だい が製造 せいぞう された。派生 はせい モデルを含 ふく めると合計 ごうけい 製造 せいぞう 台数 だいすう は124万 まん 6,306台 だい に及 およ ぶ。単一 たんいつ モデルとしては世界 せかい 屈指 くっし のベストセラー ・ロングセラー車 しゃ である。
シトロエンが自動車 じどうしゃ の生産 せいさん を開始 かいし したのは第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の1919年 ねん で、フランスでは後発 こうはつ メーカーであった。しかし、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のフォード・モーター に倣 なら った大量 たいりょう 生産 せいさん システムの導入 どうにゅう によって中 なか - 小型 こがた の高 こう 品質 ひんしつ な自動車 じどうしゃ を廉価 れんか に供給 きょうきゅう し、わずか数 すう 年 ねん でフランス最大 さいだい の自動車 じどうしゃ メーカーに急 きゅう 成長 せいちょう した。この間 あいだ 、1921年 ねん に超 ちょう 小型 こがた 乗用車 じょうようしゃ の「5CV」(英語 えいご 版 ばん )を発表 はっぴょう したが、当時 とうじ のベストセラー車 しゃ となったにもかかわらず1926年 ねん に生産 せいさん を中止 ちゅうし してしまう。これは社主 しゃしゅ のアンドレ・シトロエン が超 ちょう 小型車 こがたしゃ の生産 せいさん ・販売 はんばい をやめ、より大 おお きい中級 ちゅうきゅう 車 しゃ を中心 ちゅうしん とした経営 けいえい 方針 ほうしん へとシフトしたためである。この経営 けいえい 判断 はんだん によって競合 きょうごう メーカーのプジョー やルノー に小型車 こがたしゃ クラスの市場 いちば を奪 うば われる結果 けっか となり、シトロエンの経営 けいえい 基盤 きばん 確立 かくりつ は遠 とお のいた。
シトロエンは1925年 ねん の「B12」でヨーロッパでもいち早 はや く全 ぜん 鋼鉄 こうてつ 製 せい ボディを採用 さいよう 、以後 いご もフローティング・マウントや油圧 ゆあつ ブレーキを導入 どうにゅう [要 よう 出典 しゅってん ] するなど先端 せんたん 技術 ぎじゅつ の採用 さいよう に熱心 ねっしん であった。1932年 ねん には斬新 ざんしん なニューモデルの開発 かいはつ に乗 の り出 だ し、1934年 ねん 、同社 どうしゃ 最初 さいしょ の前輪 ぜんりん 駆動 くどう モデル「7CV」(いわゆる「トラクシオン・アバン 」の最初 さいしょ のモデル)を発表 はっぴょう したが、同年 どうねん 、この前輪 ぜんりん 駆動 くどう 車 しゃ 開発 かいはつ に伴 ともな う膨大 ぼうだい な設備 せつび 投資 とうし によってついに経営 けいえい 破綻 はたん する。これに伴 ともな いアンドレ・シトロエンは経営 けいえい 者 しゃ の地位 ちい を退 しりぞ き、代 か わってフランス最大 さいだい のタイヤ メーカー、ミシュラン が経営 けいえい に参画 さんかく することになった。
この際 さい 、ミシュランから派遣 はけん されてシトロエン副 ふく 社長 しゃちょう 職 しょく に就任 しゅうにん したのが、元 もと 建築 けんちく 技術 ぎじゅつ 者 しゃ であったピエール=ジュール・ブーランジェ(英語 えいご 版 ばん )(1885年 ねん - 1950年 ねん )であった。彼 かれ はミシュラン一族 いちぞく からシトロエン社長 しゃちょう に就任 しゅうにん したピエール・ミシュランとともにシトロエンの経営 けいえい 立 た て直 なお し に奔走 ほんそう し、1937年 ねん のピエール・ミシュランの事故死 じこし に伴 ともな って社長 しゃちょう に就任 しゅうにん 、自身 じしん も1950年 ねん 11月に事故死 じこし するまでその地位 ちい にあり続 つづ けた。
1935年 ねん 夏 なつ 、ピエール・ブーランジェは別荘 べっそう でのバカンス のため、南 みなみ フランスのクレルモン=フェラン の郊外 こうがい へ赴 おもむ いた(クレルモン=フェランはミシュランの本社 ほんしゃ 工場 こうじょう 所在地 しょざいち である)。彼 かれ はそこで、農民 のうみん たちが手押 てお し車 しゃ や牛馬 ぎゅうば の引 ひ く荷車 にぐるま に輸送 ゆそう を頼 たよ っている実態 じったい に気 き づいた。当時 とうじ のフランスの農村 のうそん は近代 きんだい 化 か が遅 おく れ、日常 にちじょう の移動 いどう 手段 しゅだん は19世紀 せいき 以前 いぜん と何 なん ら変 か わらない状態 じょうたい だったのである。ブーランジェは、シトロエンのラインナップに小型 こがた 大衆 たいしゅう 車 しゃ が欠落 けつらく していることを認識 にんしき していた。そこで、農民 のうみん の交通 こうつう 手段 しゅだん に供 きょう しうる廉価 れんか な車 くるま を作 つく れば、新 あら たな市場 いちば を開拓 かいたく でき、シトロエンが手薄 てうす だった小型車 こがたしゃ 分野 ぶんや 再 さい 進出 しんしゅつ のチャンスにもなると着想 ちゃくそう した。
ブーランジェは周到 しゅうとう な市場 いちば 調査 ちょうさ によって、この種 たね の小型車 こがたしゃ に対 たい するニーズの高 たか さをつかみ、将来 しょうらい 性 せい を確信 かくしん した。そして1936年 ねん 、アンドレ・ルフェーブル らシトロエン技術 ぎじゅつ 陣 じん に対 たい し、農民 のうみん 向 む けの小型 こがた 自動車 じどうしゃ 開発 かいはつ を命令 めいれい する。この自動車 じどうしゃ は「Toute Petite Voiture(超 ちょう 小型車 こがたしゃ )」を略 りゃく した「TPV 」の略称 りゃくしょう で呼 よ ばれた。
TPV、のちの「2CV」開発 かいはつ 責任 せきにん 者 しゃ となったルフェーヴル技師 ぎし は、元 もと 航空 こうくう 技術 ぎじゅつ 者 しゃ であった。航空機 こうくうき 開発 かいはつ 技術 ぎじゅつ を学 まな んで第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか に航空機 こうくうき メーカーのヴォワザン に入社 にゅうしゃ し、芸術 げいじゅつ 家 か 肌 はだ の社主 しゃしゅ ガブリエル・ヴォアザン に師事 しじ して軍用 ぐんよう 機 き の設計 せっけい を行 おこな った。戦後 せんご ヴォアザンが高級 こうきゅう 車 しゃ メーカーに業種 ぎょうしゅ 転換 てんかん すると自動車 じどうしゃ 設計 せっけい に転 てん じ、高級 こうきゅう 乗用車 じょうようしゃ やレーシングカーなど高性能 こうせいのう 車 しゃ の開発 かいはつ に携 たずさ わっている。そしてのちヴォアザンの業績 ぎょうせき 悪化 あっか に伴 ともな い退社 たいしゃ 、ルノーを経 へ て1933年 ねん にシトロエン入 い りし、トラクシオン・アバンの開発 かいはつ に参画 さんかく して短期間 たんきかん のうちに完成 かんせい させていた。彼 かれ は天才 てんさい 型 がた の優秀 ゆうしゅう な技術 ぎじゅつ 者 しゃ であり、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご には「2CV」に続 つづ いて未来 みらい 的 てき な設計 せっけい の傑作 けっさく 乗用車 じょうようしゃ 「DS 」の開発 かいはつ にも携 たずさ わっている。
「こうもり傘 がさ に4つの車輪 しゃりん 」 [ 編集 へんしゅう ]
ブーランジェの提示 ていじ した農民 のうみん 車 しゃ のテーマは「こうもり傘 がさ に4つの車輪 しゃりん を付 つ ける」という、簡潔 かんけつ さの極致 きょくち を示唆 しさ するものであった。価格 かかく はアッパーミドルクラスであるトラクシオン・アバンの3分 ぶん の1以下 いか という低 てい 価格 かかく が求 もと められた。
しかし、自 みずか ら自動車 じどうしゃ の運転 うんてん もこなすブーランジェによって具体 ぐたい 的 てき に示 しめ された条件 じょうけん は、技術 ぎじゅつ 陣 じん をして不可能 ふかのう とまで言 い わしめた難題 なんだい だった。それは以下 いか のようなものであった。
50 kgのジャガイモ または樽 たる を載 の せて走 はし れること
60 km/hで走行 そうこう できること
ガソリン 3 Lで100 km以上 いじょう 走 はし れること
荒 あ れた農道 のうどう を走破 そうは できるだけでなく、カゴ一 いち 杯 はい の生 せい 卵 たまご を載 の せて荒 あ れた農道 のうどう を走行 そうこう しても、1つの卵 たまご も割 わ ることなく走 はし れるほど快適 かいてき で乗 の り心地 ごこち がよいこと
車両 しゃりょう 重量 じゅうりょう 300 kg以下 いか
もし必要 ひつよう とあれば、(自動車 じどうしゃ に詳 くわ しくない初心者 しょしんしゃ の)主婦 しゅふ でも簡単 かんたん に運転 うんてん できること
スタイルは重要 じゅうよう ではない
悪 あく 路 ろ 踏破 とうは 力 りょく 、乗 の り心地 ごこち 、経済 けいざい 性 せい のいずれにおいても厳 きび しい条件 じょうけん であるが、それでもブーランジェは実現 じつげん を厳命 げんめい した。その後 ご の技術 ぎじゅつ 陣 じん の努力 どりょく によって、実現 じつげん に至 いた らなかった点 てん こそあったものの、無理 むり 難題 なんだい の多 おお くが満 み たされた。
加 くわ えてブーランジェは、最低限 さいていげん に留 と まらない十 じゅう 二 に 分 ふん な車内 しゃない スペース確保 かくほ も要求 ようきゅう した。身長 しんちょう が2 m近 ちか い大男 おおおとこ であるブーランジェ自身 じしん がシルクハットを被 こうむ っては試作 しさく 車 しゃ に乗 の り込 こ み、帽子 ぼうし が引 ひ っかかるようなデザインは書 か き直 なお しを命 めい じた。この高 たか い天井 てんじょう を要求 ようきゅう する「ハット・テスト」によって、最終 さいしゅう 的 てき にこのクラスの大衆 たいしゅう 車 しゃ としては望外 ぼうがい と言 い っていいほどゆとりある車内 しゃない スペースが確保 かくほ されることになった。
1939年 ねん 製 せい TPV
TPVの後 うし ろ姿 すがた
2019年 ねん 7月 がつ にラ・フェルテ-ヴィダムで開催 かいさい された2CV100周年 しゅうねん 記念 きねん イベントにて初 はつ 公開 こうかい される1994年 ねん に発見 はっけん された3台 だい の「2CV A」
既 すで にトラクシオン・アバンで前輪 ぜんりん 駆動 くどう 車 しゃ の量産 りょうさん 化 か を成功 せいこう させていたアンドレ・ルフェーブルは、TPVの駆動 くどう 方式 ほうしき にも前輪 ぜんりん 駆動 くどう 方式 ほうしき を採用 さいよう した。プロペラシャフトを省略 しょうりゃく でき(軽量 けいりょう 化 か や振動 しんどう 抑制 よくせい 、低 てい 重心 じゅうしん 化 か の効果 こうか がある)、さらに操縦 そうじゅう 安定 あんてい 性 せい にも優 すぐ れていたからである。開発 かいはつ 作業 さぎょう はシトロエン社内 しゃない でも特 とく に機密 きみつ 事項 じこう として秘匿 ひとく され、外部 がいぶ の眼 め に一切 いっさい 触 ふ れることなく進行 しんこう した。
1939年 ねん には、TPVプロジェクトは相当 そうとう に進行 しんこう し、試作 しさく 車 しゃ も完成 かんせい しつつあった。それらはアルミニウム を多用 たよう して軽量 けいりょう 化 か され、外 そと 板 ばん には波 なみ 板 ばん を使 つか うことで強度 きょうど を確保 かくほ した。簡潔 かんけつ な造形 ぞうけい によって、外観 がいかん は屋根 やね になだらかな曲線 きょくせん を持 も ったトタン の物置 ものおき という風体 ふうたい だった。屋根 やね は幌 ほろ による巻 ま き取 と り式 しき のキャンバストップで軽量 けいりょう 化 か と騒音 そうおん 発散 はっさん を図 はか り、座席 ざせき には通常 つうじょう の金属 きんぞく スプリングの代 か わりにゴム ベルトを用 もち いたハンモック構造 こうぞう を採用 さいよう して軽量 けいりょう 化 か した。ヘッドライトはコストダウンと軽量 けいりょう 化 か のため、片側 かたがわ 1個 いっこ だった(当時 とうじ のフランスの法律 ほうりつ ではライト1個 いっこ でも差 さ し支 つか えなかった。後 ご の生産 せいさん 型 がた では2個 こ ライトになった)。パワーユニットは、トラクシオン・アバンの先進 せんしん 的 てき なOHV エンジンを設計 せっけい したモーリス・サンチュラの手 て になる、水冷 すいれい 式 しき エンジンを搭載 とうさい していた。サスペンション・アームは軽量 けいりょう 化 か のためにマグネシウム を使用 しよう していた。サスペンション用 よう のスプリングとしては各 かく 輪 わ ともトーション・バーを3本 ほん 、過 か 荷重 かじゅう 用 よう に1本 ほん 、4輪 りん で合計 ごうけい 16本 ほん 使用 しよう していた。
このモデルは長 なが い間 あいだ 試作 しさく 車 しゃ のみであり、開発 かいはつ は最終 さいしゅう 完成 かんせい には至 いた っていなかったと考 かんが えられていたが、実 じつ は量産 りょうさん 体制 たいせい に入 はい っていたことが1968年 ねん に初 はじ めて判明 はんめい した。パリ西 にし 郊130kmのラ・フェルテ-ヴィダム (La Ferté-Vidame )にある同社 どうしゃ のテストセンターを工事 こうじ 中 ちゅう に、実車 じっしゃ 1台 だい と量産 りょうさん に関 かん する承認 しょうにん 書類 しょるい やナンバープレートなどが発見 はっけん されたのである。それによると、量産 りょうさん 車 しゃ 「2CV A」として正式 せいしき にホモロゲーションを取得 しゅとく したのは1939年 ねん 8月 がつ 23日 にち で、認可 にんか された生産 せいさん 数 すう は100台 だい であった[1] 。しかし、同年 どうねん 9月 がつ 3日 にち に第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ すると生産 せいさん は中止 ちゅうし ・封印 ふういん され、生産 せいさん 中 ちゅう だった車両 しゃりょう の大半 たいはん は破壊 はかい されたり、壁 かべ に埋 う めて隠 かく されたりした[2] 。発見 はっけん された車体 しゃたい は完全 かんぜん にレストアされ[1] 、新車 しんしゃ 同然 どうぜん の姿 すがた でパリの北部 ほくぶ オルネーの「シトロエン・コンセルヴァトワール[注釈 ちゅうしゃく 1] 」に展示 てんじ されている。
その後 ご 、1994年 ねん [3] にはノルマンディーの農家 のうか の屋根裏 やねうら から、さらに3台 だい が発見 はっけん された[4] [注釈 ちゅうしゃく 2] 。これにより「幻 まぼろし の初代 しょだい 2CV A」ともいえるTPVは、試作 しさく 車 しゃ (製作 せいさく 数 すう 不 ふ 詳 しょう )と生産 せいさん 予定 よてい 100台 だい のうち4台 だい の現存 げんそん が確認 かくにん された。新 あら たに発見 はっけん されたこの3台 だい も「シトロエン・コンセルヴァトワール」に収蔵 しゅうぞう され、修復 しゅうふく はせずに展示 てんじ されている。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 勃発 ぼっぱつ 後 ご の1940年 ねん 、フランスはナチス・ドイツ の侵攻 しんこう を受 う けて敗退 はいたい し、パリ をはじめフランス全土 ぜんど の北 きた 半分 はんぶん は占領 せんりょう 地 ち となった。
パリ・ジャベル河岸 かわぎし のシトロエン社 しゃ も占領 せんりょう 軍 ぐん の管理 かんり 下 か に置 お かれたが、経営 けいえい 責任 せきにん 者 しゃ の座 ざ に留 とど まったピエール・ブーランジェは公然 こうぜん とサボタージュ を指揮 しき し、占領 せんりょう 軍 ぐん 向 む けのトラック 生産 せいさん を遅滞 ちたい させたり、時 とき には故意 こい に欠陥 けっかん 車 しゃ を送 おく り出 だ すなどして損害 そんがい を与 あた えるよう努 つと めた。このような会社 かいしゃ を挙 あ げてのレジスタンス運動 うんどう によりブラックリスト に載 の せられながら、ブーランジェは1944年 ねん のフランス解放 かいほう まで巧 たく みに生 い き延 の び、またルイ・ルノー のような占領 せんりょう 軍 ぐん への積極 せっきょく 的 てき 利敵 りてき 行為 こうい も行 おこな わなかったことから、フランス解放 かいほう 後 ご もシトロエン社 しゃ のトップに留 とど まった。
この際 さい 、開発 かいはつ 途上 とじょう だったTPVをナチスの手 て に渡 わた さないため、ブーランジェの命令 めいれい によってTPVプロジェクトの抹消 まっしょう が図 はか られた。戦争 せんそう で実現 じつげん しなかった1939年 ねん のモーターショーのために準備 じゅんび された250台 だい の試作 しさく 車 しゃ は1台 だい を残 のこ して破壊 はかい され、また一部 いちぶ は工場 こうじょう などの壁 かべ に塗 ぬ り込 ご められ、あるいは地中 ちちゅう に埋 う められた。これらは1990年代 ねんだい 以降 いこう 最終 さいしゅう 的 てき に合計 ごうけい 5台 だい が発見 はっけん されている。ナチスとブーランジェ、双方 そうほう の目 め を逃 のが れて破壊 はかい や埋設 まいせつ を免 まぬか れた少数 しょうすう は、ボディを改造 かいぞう して小型 こがた トラック に偽装 ぎそう された。前述 ぜんじゅつ の台数 だいすう と重複 じゅうふく していると思 おも われるが、後 ご の2000年 ねん にミシュラン工場 こうじょう 改築 かいちく の際 さい 、レンガの壁 かべ を壊 こわ したところ中 ちゅう から新 あら たに3台 だい が発見 はっけん されている。
独自 どくじ の研究 けんきゅう 開発 かいはつ が禁 きん じられた困難 こんなん な状況 じょうきょう 下 か ではあったが、ルフェーヴルら技術 ぎじゅつ 者 しゃ たちは、ナチス側 がわ の監視 かんし をかいくぐって、終戦 しゅうせん 後 ご に世 よ に送 おく り出 だ されるべきTPVの開発 かいはつ を進行 しんこう させた。
だがシトロエン社内 しゃない 部 ぶ での検討 けんとう によって、コスト過大 かだい からTPVにアルミニウム を多用 たよう することは困難 こんなん であるという結論 けつろん が出 だ された。やむなくTPVの多 おお くのパーツは、エンジン周 まわ りを除 のぞ いては普通 ふつう 鋼 こう に置 お き換 か えられることになった。
1944年 ねん の連合 れんごう 国 こく 勝利 しょうり に伴 ともな うフランス解放 かいほう によってTPVの本格 ほんかく 的 てき な開発 かいはつ 作業 さぎょう が再開 さいかい された。
試作 しさく 車 しゃ 用 よう にモーリス・サンチュラが設計 せっけい した水冷 すいれい エンジンは、改良 かいりょう を重 かさ ねても不調 ふちょう であった。このため、高級 こうきゅう スポーツカーメーカーのタルボ から1941年 ねん に移籍 いせき してきた有能 ゆうのう なエンジン技術 ぎじゅつ 者 しゃ ワルテル・ベッキア (Walter Becchia 1896-1976)が、水平 すいへい 対向 たいこう 2気筒 きとう レイアウトを踏襲 とうしゅう しつつ、新 あら たに信頼 しんらい 性 せい の高 たか い空冷 くうれい エンジンを開発 かいはつ して問題 もんだい を解決 かいけつ した。
またボディデザインは、イタリア 人 ひと の社内 しゃない デザイナーであり、トラクシオン・アバンやのちの「DS」のデザインも手掛 てが けたフラミニオ・ベルトーニ の手 て で、コンセプトを維持 いじ しつつも改良 かいりょう を加 くわ えられた。
発表 はっぴょう と嘲笑 ちょうしょう [ 編集 へんしゅう ]
1949年 ねん -1960年 ねん 型 かた 初 はじ めてサロンで公開 こうかい されたタイプAと同型 どうけい モデル 1950年 ねん 製 せい 。1954年 ねん 以降 いこう のタイプAZLとはグリルの形状 けいじょう 等 とう に差異 さい がある。
1954年 ねん -1960年 ねん 型 がた タイプAZL-Belgium
1948年 ねん 10月7日 にち 、シトロエン2CVはフランス最大 さいだい のモーターショーであるパリ・サロン において公 おおやけ に発表 はっぴょう された。
多数 たすう のマスコミ・観客 かんきゃく が見守 みまも る中 なか 、ブーランジェ社長 しゃちょう によって紹介 しょうかい され、除幕 じょまく された「ニューモデル」の2CVは、あまりにも奇妙 きみょう なスタイルで、観衆 かんしゅう をぼう然 ぜん とさせ、立 た ち会 あ ったフランス共和 きょうわ 国 こく 大統領 だいとうりょう のヴァンサン・オリオール をして困惑 こんわく せしめたという。しかしながら、この問題 もんだい はブーランジェのメディアへのショー前 ぜん 公示 こうじ 不足 ふそく が大 おお きな原因 げんいん であったとする見解 けんかい もある。
この時点 じてん で、競合 きょうごう するルノー の750ccリアエンジン の大衆 たいしゅう 車 しゃ 「4CV 」や、プジョー の1クラス上 じょう の1,300cc車 しゃ 「203 」がすでにデビューしており、それら他社 たしゃ 製 せい の戦後 せんご 型 がた ニューモデルがごく「まとも」な自動車 じどうしゃ であっただけに、2CVの奇 き 怪 あや さが際 きわ だった。
居合 いあ わせたジャーナリスト達 たち は2CVを見 み て「醜 みにく いアヒルの子 こ 」「乳母車 うばぐるま 」と嘲笑 ちょうしょう し、居合 いあ わせたアメリカ人 じん ジャーナリストは「この『ブリキの缶詰 かんづめ 』に缶切 かんき りを付 つ けろ」と揶揄 やゆ した。前衛 ぜんえい 派 は 詩人 しじん で皮肉 ひにく 屋 や の作家 さっか ボリス・ヴィアン は2CVを「回 まわ る異状 いじょう 」と評 ひょう した。だがしかし、大衆 たいしゅう は2CVを支持 しじ し、シトロエン社 しゃ はすぐさま数 すう 年 ねん 分 ぶん のバックオーダーを抱 かか える事 こと となった。
ピエール・ブーランジェはこの自動車 じどうしゃ の成功 せいこう を確信 かくしん していた。2CVがその奇矯 ききょう な外見 がいけん とは裏腹 うらはら に、あらゆる面 めん で合理 ごうり 的 てき な裏付 うらづ けを持 も って設計 せっけい され、市場 いちば ニーズに合致 がっち した自動車 じどうしゃ であるという自信 じしん を持 も っていたからである。
もっとも彼 かれ は2CVの未曾有 みぞう の成功 せいこう を完全 かんぜん に見納 みおさ めないうちに、1950年 ねん 、自 みずか ら運転 うんてん するトラクシオン・アバンの事故 じこ で死亡 しぼう した。
先行 せんこう 量産 りょうさん モデルは「特 とく に2CVを必要 ひつよう としている」と考 かんが えられた希望 きぼう 者 しゃ に優先 ゆうせん 販売 はんばい され、日常 にちじょう における実際 じっさい の使用 しよう 条件 じょうけん について詳細 しょうさい なモニタリングが行 おこな われた。それらはフィードバックされ、技術 ぎじゅつ 改良 かいりょう と販売 はんばい 方針 ほうしん の改善 かいぜん に活用 かつよう された。
2CVが廉価 れんか なだけでなく、維持 いじ 費 ひ も低廉 ていれん で扱 あつか いやすくて信頼 しんらい 性 せい に富 と み、高 たか い実用 じつよう 性 せい と汎用 はんよう 性 せい を有 ゆう していることは、短期間 たんきかん のうちに大衆 たいしゅう ユーザーたちに理解 りかい された。1949年 ねん の生産 せいさん はスターターの必要 ひつよう 性 せい などの問題 もんだい 点 てん があり、同年 どうねん 7月 がつ より始 はじ まり日産 にっさん 4台 だい :876台 だい に留 とど まったが、翌 よく 1950年 ねん には6,196台 だい と、月産 げっさん 400台 だい のペースで量産 りょうさん されるようになり 1951年 ねん には生産 せいさん 台数 だいすう は14,592台 だい になった。以後 いご も生産 せいさん ペースは順調 じゅんちょう に増加 ぞうか していった。
フランス国民 こくみん はこのエキセントリックな自動車 じどうしゃ の外見 がいけん にも早々 そうそう に慣 な れ、2CVは数 すう 年 ねん のうちに広 ひろ く普及 ふきゅう した。街角 まちかど や田舎道 いなかみち に2CVが停 とま まる姿 すがた は、フランスの日常 にちじょう 的 てき 光景 こうけい の一 ひと つとなった。
更 さら にはヨーロッパ各国 かっこく にも広範 こうはん に輸出 ゆしゅつ され、ことにその経済 けいざい 性 せい と悪 あく 路 ろ 踏破 とうは 能力 のうりょく は各地 かくち のユーザーに歓迎 かんげい された。イギリス などにおいて現地 げんち 生産 せいさん も行 おこな われている。
ドーリーの後 うし ろ姿 すがた
シトロエンはその後 ご 、排気 はいき 量 りょう 拡大 かくだい や内 うち 外装 がいそう のマイナーチェンジなどを重 かさ ねて2CVをアップデートしていくとともに派生 はせい モデルを多数 たすう 開発 かいはつ して小型車 こがたしゃ 分野 ぶんや のラインナップを充実 じゅうじつ させた。1967年 ねん に後継 こうけい モデルと思 おも われる「ディアーヌ 」 を発表 はっぴょう したが、結果 けっか として2CVはそれよりも長生 ながい きすることになった。ことに1970年代 ねんだい のオイルショック は、2CVの経済 けいざい 性 せい という特長 とくちょう を際 きわ だたせることになった。
また優 すぐ れた経済 けいざい 性 せい と走 はし 覇 は 能力 のうりょく とを併 あわ せ持 も つ2CVに着目 ちゃくもく した欧州 おうしゅう の若者 わかもの 達 たち は、世界 せかい 旅行 りょこう の手段 しゅだん として2CVを選 えら び、北 きた はノルウェー、東 ひがし にモンゴル を抜 ぬ けて日本 にっぽん 、西 にし にアラスカ 、南 みなみ にアフリカ を走 はし り抜 ぬ けた。更 さら には世界 せかい 一周 いっしゅう 旅行 りょこう に出 で かけて50ヶ国 かこく 、8つの砂漠 さばく を走 はし り約 やく 10万 まん kmを走 はし 覇 は したコンビもあった。
1970年代 ねんだい 後半 こうはん になると、ボディの外観 がいかん 形状 けいじょう や基本 きほん 的 てき なメカニズムは維持 いじ したまま、外装 がいそう やインテリアを特別 とくべつ 仕様 しよう とした限定 げんてい モデルが登場 とうじょう した[注釈 ちゅうしゃく 3] 。最初 さいしょ に発売 はつばい した「2CV スポット」までは「2CV-4」、それ以降 いこう は「2CV-6」をベースとしたモデルである。
「2CV トレーフル」のレプリカ[注釈 ちゅうしゃく 4]
1974年 ねん 「2CV トレーフル 」(Trèfle) - 「クローバー」を意味 いみ するフランス語 ふらんすご が名付 なづ けられたモデル。鮮 あざ やかなヘリオスイエロー (jaune Hélios/AC336[注釈 ちゅうしゃく 5] ) のボディにフェンダーのみを黒 くろ (noir/AC200) で塗装 とそう する。試作 しさく のみで流通 りゅうつう には至 いた らなかった。
「2CV スポット」
1976年 ねん 「2CV スポット 」(Spot) - 発売 はつばい された限定 げんてい モデルでは唯一 ゆいいつ 2CV-4がベース。角形 かくがた ヘッドライトとオレンジ (orange Ténéré/AC329) とスノーホワイト (blanche Meije/AC088) の塗装 とそう 、オレンジと白 しろ のストライプのソフトトップ、オレンジのインテリアで構成 こうせい された、華 はな やかなリゾートビーチをイメージしたモデル。4月より、限定 げんてい 2500台 だい 。
修復 しゅうふく された「2CV バスケット」
1976年 ねん 「2CV バスケット 」(Basket) - シトロエンが1976年 ねん に主催 しゅさい した2CVのグラフィックコンテストで優勝 ゆうしょう したクレア・パニエ (Claire Pagniez) の応募 おうぼ 作品 さくひん を実車 じっしゃ 化 か したもの。応募 おうぼ 者 しゃ は当時 とうじ デザイン学校 がっこう の学生 がくせい で、若者 わかもの らしくバスケットシューズをイメージしたデザインの作品 さくひん で、実車 じっしゃ は2台 だい (3台 だい とも)が製造 せいぞう された。
1980-1990年 ねん 「2CV チャールストン 」(Charleston) - クラシカルなダークレッド (rouge Delage/AC446) と黒 くろ のツートーン塗装 とそう で1980年 ねん 10月に8000台 だい 限定 げんてい のモデルとして登場 とうじょう し、1981年 ねん 7月 がつ に量産 りょうさん 型 がた のレギュラーモデルとなった。量産 りょうさん 型 がた では、限定 げんてい モデルのカラーの他 ほか 、鮮 あざ やかなヘリオスイエローと黒 くろ (1981年 ねん 7月 がつ - 1983年 ねん 6月 がつ )、1984年 ねん 7月 がつ からはライトグレー (gris Cormoran/AC057) とナイトグレー (gris Nocturne/AC099) のカラー・パターンも加 くわ わった。なお、限定 げんてい 車 しゃ と量産 りょうさん 型 がた では内装 ないそう ・外装 がいそう ともに細部 さいぶ に差異 さい がある。
「2CV チャールストン」の限定 げんてい モデル。ヘッドランプハウスがダークレッドの仕上 しあ げである。
「2CV チャールストン」(手前 てまえ ) 。量産 りょうさん 型 がた モデルのヘッドランプハウスはクローム仕上 しあ げ。
1981年 ねん にリリースされたイエロー×ブラックのモデル。
1984年 ねん 7月 がつ に参入 さんにゅう されたグレー系 けい モデル。
人気 にんき 車種 しゃしゅ のため、こうしたオリジナルカラーリングによるレストアも多 おお い。
2 CV 007
1981年 ねん 「2CV 007 」 - 同年 どうねん の映画 えいが 「 007 ユア・アイズ・オンリー 」(原題 げんだい 「For Your Eyes Only」、英 えい 米 べい 合作 がっさく )公開 こうかい を記念 きねん したモデル。劇 げき 中 ちゅう でヒロインのメリナ・ハブロック(演 えんじ : キャロル・ブーケ )の所有 しょゆう 車 しゃ として2CVが登場 とうじょう し、ジェームス・ボンド (演 えんじ : ロジャー・ムーア )が運転 うんてん するカーチェイスシーンがある。撮影 さつえい 用 よう にはシャーシ、エンジンをスタント用 よう に改造 かいぞう し、角 かく 型 がた ヘッドランプを付 つ けた「2CV-6クラブ イエローミモザ」が計 けい 6台 だい 作 つく られ、そのうち3台 だい が使用 しよう された。市販 しはん 車 しゃ は丸 まる 型 がた ヘッドランプにヘリオスイエローの「2CV-6スペシャル」をベースに「007」のロゴマークや劇 げき 中 ちゅう で受 う けた銃創 じゅうそう をデカールで表現 ひょうげん する。10月より500台 だい を限定 げんてい 発売 はつばい した。
メリリャ の自動車 じどうしゃ 歴史 れきし 博物館 はくぶつかん に保存 ほぞん される「2CV マルカテロ」。
1982年 ねん 「2CV マルカテロ 」(Marcatelo) - 同年 どうねん に開催 かいさい された第 だい 12回 かい サッカーFIFAワールドカップ スペイン大会 たいかい 本 ほん 大会 たいかい へフランスが出場 しゅつじょう した記念 きねん のモデル。前述 ぜんじゅつ のコンテスト優勝 ゆうしょう 作品 さくひん に触発 しょくはつ されたサッカーシューズをイメージしたデザインで、スペインチームのシンボルカラーである鮮 あざ やかなスカーレット (rouge-orange) と白 しろ (blanc) のカラーリングで、限定 げんてい 数 すう は300台 だい であった。
今 こん 大会 たいかい より本戦 ほんせん 出場 しゅつじょう 国 こく を24ヶ国 かこく に増加 ぞうか して行 おこな われたこの年 とし のFIFAワールドカップ本 ほん 大会 たいかい において、フランスは決勝 けっしょう トーナメント (4ヶ国 かこく 進出 しんしゅつ ) まで進 すす んだが、準決勝 じゅんけっしょう で西 にし ドイツにPK負 ま け、3位 い 決定 けってい 戦 せん でもポーランドに敗 やぶ れた。
2 CV フランス3
1983-1984年 ねん 「2CV フランス3 」(France 3) - ヨットレース「アメリカズカップ 」第 だい 25回 かい 大会 たいかい へのフランスチーム出場 しゅつじょう を記念 きねん したモデル。艇 てい 名 めい 「フランス三世 さんぜ 号 ごう 」に因 ちな む命名 めいめい 。スノー・ホワイトの車体 しゃたい の側面 そくめん には波 なみ をイメージした青 あお い曲線 きょくせん 模様 もよう を、ボンネットフード、ソフトトップ、トランクドアに中心 ちゅうしん 線 せん に沿 そ って同 おな じ色 しょく の2対 つい のバンドを描 えが き、トランクドアの左下 ひだりした にはフランス三世 さんぜ 号 ごう のデカールを貼 は る。1983年 ねん 4月 がつ から翌年 よくねん 4月 がつ まで、2000台 だい の限定 げんてい 販売 はんばい 。なお、ヨットレースの結果 けっか は、大会 たいかい 創設 そうせつ 以来 いらい 132年間 ねんかん に亙 わた り優勝 ゆうしょう を独占 どくせん してきたアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のチームが初 はじ めて敗北 はいぼく を喫 きっ する歴史 れきし 的 てき 大会 たいかい となったが、フランスチームは予選 よせん 敗退 はいたい であった。
1985年 ねん 3月 がつ 「2CV ファイヤーボール 」(Fire Ball) - スイス限定 げんてい で販売 はんばい された。ボディカラーはゼラニウムレッド (rouge Géranium/AC435)。側面 そくめん にはエンジンルームから噴 ふ き出 だ す炎 ほのお の図柄 ずがら 、トランクドアにはデザイン化 か した「FIRE BALL」の文字 もじ が書 か かれた火 ひ の玉 たま のデカールを貼 は る[5] 。
2CV エンテ・グルナ
1985年 ねん 「2CV エンテ・グルナ 」(Ente Grün) - 「緑 みどり のアヒル」を意味 いみ するドイツ語 ご で命名 めいめい されたスイス限定 げんてい のモデル。ドイツ語 ご 圏 けん で2CVが「Die Ente」(あひる)の愛称 あいしょう で親 した しまれていたことに因 ちな む[6] 。インテリアには「アミ 」用 よう のダッシュボードやシングルスポークのステアリングホイール等 とう を装備 そうび し、ボディカラーは鮮 あざ やかな黄 き 緑色 みどりいろ (vert Bamboo/AC533) をメインに蒼 あお 瓦 かわら 色 しょく (vert Tuilerie/AC531=濃 こ い緑色 みどりいろ ) をアクセントに加 くわ えたツートーン。ゴーグルとヘルメットを着 つ けたアヒルのキャラクターのイラストを両側 りょうがわ フロントドアとトランクドアに示 しめ す。イラストに添 そ えられた英語 えいご とドイツ語 ご をミックスした「I fly bleifrei」の文字 もじ は「無鉛 むえん で行 い こう」程度 ていど の意味 いみ で、有 ゆう 鉛 なまり 燃料 ねんりょう に対 たい する規制 きせい が強化 きょうか され始 はじ めた頃 ころ のスローガン。 このモデルも無鉛 むえん ガソリン車 しゃ である[7] 。
「2CV ドーリー」 1985年 ねん 10月 がつ に登場 とうじょう したカラー・パターン
1985-1986年 ねん 「2CV ドーリー 」(Dolly) - これまでの限定 げんてい モデルの成功 せいこう を承 う けて発売 はつばい されたツートーンカラーモデル。命名 めいめい は、1964年 ねん に初演 しょえん されたアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のミュージカル「ハロー・ドーリー! 」(のちに映画 えいが 化 か もされた)の主人公 しゅじんこう ・ドーリー (本名 ほんみょう :ドリー・ギャラガー・リーヴァイ。「ドーリー」はその愛称 あいしょう ) の名 な に因 ちな む。前後 ぜんご のフェンダーとボディ側面 そくめん の一部 いちぶ 、およびトランクドア、ソフトトップに他 た の部分 ぶぶん とは異 こと なる色 いろ を配 はい したモデルで、1985年 ねん 3月 がつ (3パターン、計 けい 3000台 だい ) 、同 どう 10月 がつ (3パターン、計 けい 2000台 だい ) 、1986年 ねん 4月 がつ (1985年 ねん 10月 がつ 発売 はつばい のうち2パターンを継続 けいぞく し、1パターン追加 ついか 、計 けい 2000台 だい ) の3回 かい に亙 わた り、7種類 しゅるい のカラー・パターン[8] が販売 はんばい された (年 とし 式 しき も含 ふく めると全 ぜん 9種類 しゅるい ) 。インテリアも随所 ずいしょ に特別 とくべつ の装備 そうび が設 もう けられた。
タクシーとして利用 りよう される「2CV ココリコ」 2013年 ねん 撮影 さつえい
1986年 ねん 「2CV ココリコ 」(Cocorico) - フランスの第 だい 13回 かい サッカーFIFAワールドカップ メキシコ大会 たいかい 本 ほん 大会 たいかい 出場 しゅつじょう を記念 きねん したモデル。大会 たいかい 終了 しゅうりょう 後 ご の10月 がつ から1000台 だい が限定 げんてい 発売 はつばい された。スノー・ホワイトのベースに側面 そくめん 側 がわ の窓 まど より下部 かぶ 分 ぶん (前輪 ぜんりん フェンダーと後 こう 輪 わ フェンダーより後方 こうほう 部分 ぶぶん を除 のぞ く)にトリコロールのグラデーションをあしらい、インテリアはジーンズ風 ふう とした。外装 がいそう のトリコロール・グラデーションは安価 あんか に仕上 しあ げるためにステッカーによるものであった。
この年 とし のFIFAワールドカップにおいてフランスは、16ヶ国 かこく による決勝 けっしょう トーナメントに進出 しんしゅつ 、準決勝 じゅんけっしょう で西 にし ドイツに敗 やぶ れたものの3位 い 決定 けってい 戦 せん では延長 えんちょう の末 すえ にベルギーを破 やぶ る活躍 かつやく を見 み せた。しかしココリコは、あまりにも目立 めだ ちすぎて愛国 あいこく 的 てき すぎると見 み 做され、他 た の限定 げんてい シリーズと比 くら べて商業 しょうぎょう 的 てき には成功 せいこう しなかった。最後 さいご の1台 だい が売 う れたのは、発売 はつばい から6ヶ月 かげつ 経 た った1987年 ねん 3月 がつ であった。
1987年 ねん 「ザウス・エンテ 」(Sauss Ente) - 「俊足 しゅんそく アヒル」程度 ていど の意味 いみ のドイツ語 ご で名付 なづ けられたドイツ限定 げんてい モデル。生産 せいさん 数 すう は400台 だい 。ボディカラーは先述 せんじゅつ の「2CV エンテ・グルナ」と同色 どうしょく で、両側 りょうがわ ドアとドランクドアに「エンテ・グルナ」と同 おな じアヒルのキャラクターが疾走 しっそう するイラストをあしらったデカールを貼 は る。各 かく イラストには「Sausss Ente」と「VON 0 AUF 100 IN 59,4 s」(0から100まで59.4秒 びょう ) の文字 もじ がある。内装 ないそう もアミ用 よう のダッシュボードやシングルスポークのステアリングホイール等 とう を装備 そうび した「エンテ・グルナ」同様 どうよう の特別 とくべつ 装備 そうび [9] 。
2CV バンブー
1987-1988年 ねん 「バンブー 」 - イギリスおよびアイルランド限定 げんてい 販売 はんばい 。ボディは鮮 あざ やかな黄 き 緑色 みどりいろ で、フロントドア両側 りょうがわ とトランクドアに竹 たけ のイラストと竹 たけ をデザインした筆 ふで 線 せん で書 か いた「BAMBOO」の文字 もじ から成 な るロゴマークが描 えが かれる。
1988-1989年 ねん 「ペリエ デザイン 」(Perrier design) - フランスの天然 てんねん 炭酸 たんさん 入 い りミネラルウォーター「ペリエ 」の販促 はんそく 用 よう に作 つく られたラッピングカ―[注釈 ちゅうしゃく 6] 。製造 せいぞう 数 すう はペリエの発売 はつばい 会社 かいしゃ が発注 はっちゅう し納入 のうにゅう された1台 だい のみ。
1988-1989年 ねん 「2CV ペリエ 」 - 同 おな じペリエに因 ちな む市販 しはん モデル。ブリュッセル工場 こうじょう 製造 せいぞう によるスノー・ホワイトの 「2CV 6スペシャル」がベースで、ベルギーとルクセンブルクでのみ販売 はんばい された。ボンネットの中央 ちゅうおう トップにはペリエのキャラクターであるゴリラの「フー (Fhou) 」の小 しょう 像 ぞう が取 と り付 つ けられ (任意 にんい の着脱 ちゃくだつ 可能 かのう ) 、伸 の ばした腕 うで の先 さき からは涙 なみだ を象徴 しょうちょう する液体 えきたい が流下 りゅうか した跡 あと を示 しめ す模様 もよう が、ボンネット面 めん にペリエのシンボルカラーである緑色 みどりいろ のステッカーで施 ほどこ される。ギアレバーノブも緑色 みどりいろ で、ステアリングホイール中央 ちゅうおう と、トランクドアの左下 ひだりした にはペリエのロゴがあしらわれた。センターコンソールの位置 いち にペリエのボトル6本 ほん が入 はい る12 Vの冷蔵庫 れいぞうこ が配置 はいち され、キャビンの4枚 まい のドアの内側 うちがわ には棍棒 こんぼう やペリエの瓶 びん を持 も ったフーの小 ちい さなイラストが複数 ふくすう 描 えが かれた[10]
1951年 ねん - 2CV タイプAのセンターピラーから後 うし ろを箱 はこ 形 がた の荷 に 室 しつ にしたユーティリティー(バン )、AU えーゆー (後 ご のAK)発表 はっぴょう 。
1954年 ねん - 425ccエンジンのタイプAZのユーティリティー、AZU 発表 はっぴょう 。
1958年 ねん - 2基 き のエンジンを前後 ぜんご に積 つ む4WD 車 くるま 、4×4サハラ(Sahara : タイプAW)発表 はっぴょう 。
AK
AZU
通常 つうじょう の2CVと同 おな じくボンネット内 ない に搭載 とうさい される「2CV サハラ」の前輪 ぜんりん 用 よう エンジン。
トランクルームに搭載 とうさい された「2CV サハラ」の後 のち 輪 わ 用 よう エンジン。
「2CV サハラ」外観 がいかん 。トランクルームにエンジンが入 はい ったのでスペアタイヤはボンネット上 じょう に搭載 とうさい する。
ポニー FAFの
前身 ぜんしん 。1972
年 ねん 、ギリシャの
会社 かいしゃ ナムコが
生産 せいさん して30,000
台 だい を
売 う り
上 あ げた。
テイヨール タンガラ
Lomax 224
Hoffmann 2cv Cabrio
だが1980年代 ねんだい に至 いた ると、基本 きほん 設計 せっけい が余 あま りにも古 ふる くなり過 す ぎ、衝突 しょうとつ 安全 あんぜん 対策 たいさく や排気 はいき ガス浄化 じょうか 対策 たいさく などに対応 たいおう したアップデートが困難 こんなん になってしまった。それにつれて販売 はんばい 台数 だいすう も低下 ていか 、1988年 ねん にフランス本国 ほんごく での生産 せいさん が終了 しゅうりょう し、ポルトガル 工場 こうじょう での生産 せいさん も1990年 ねん に終了 しゅうりょう した。
40年 ねん に渡 わた る長 なが いモデルスパンはビートルこと「フォルクスワーゲン・タイプ1 」や初代 しょだい 「ミニ 」と肩 かた を並 なら べるものであった。
全長 ぜんちょう ×全幅 ぜんぷく ×全 ぜん 高 こう は3,830×1,480×1,600mmで、全 ぜん 高 こう を除 のぞ いては現代 げんだい の小振 こぶ りな1,000~1,300cc級 きゅう 乗用車 じょうようしゃ 並 な みのサイズである(初期 しょき は全長 ぜんちょう 3,780mm)。重量 じゅうりょう は極 きわ めて軽 かる く、375ccの初期 しょき 形 がた で495kg、602ccの末期 まっき 形 がた で590kgに過 す ぎない。安全 あんぜん 対策 たいさく 装備 そうび がほとんど備 そな わっていないという実情 じつじょう はあるが、サイズに比 ひ して極 きわ めて軽量 けいりょう で、その構造 こうぞう が簡潔 かんけつ かつ合理 ごうり 化 か されている事実 じじつ を伺 うかが うことができる。
発表 はっぴょう 時 じ から絶 た えず悪口 わるぐち や嘲笑 ちょうしょう の的 てき に、更 さら には無数 むすう の冗談 じょうだん の種 たね になったスタイルであるが、きわめて合理 ごうり 性 せい に富 と んだ機能 きのう 的 てき デザインである。実用 じつよう 性 せい を最 さい 重視 じゅうし しつつも、結果 けっか として極 きわ めて個性 こせい 的 てき かつユニークなスタイルとなった外観 がいかん は、現在 げんざい でも多 おお くの支持 しじ 者 しゃ を集 あつ めている。
1960年 ねん までは外 そと 板 ばん の一部 いちぶ (エンジンフード等 とう )に強度 きょうど 確保 かくほ のため波 なみ 板 ばん 構造 こうぞう を用 もち いており、機能 きのう 優先 ゆうせん な外見 がいけん だった(1961年 ねん 以降 いこう は 5本 ほん 峰 ほう の補強 ほきょう 外 がい 板 いた となった)。
タイプAZAのドアとステアリングホイール。
タイプAZA リアクオーターピラーにウインドウがなく、方向 ほうこう 指示 しじ 器 き が付 つ く。
前 ぜん ドアが前 ぜん ヒンジとなり、Cピラーに窓 まど が入 はい った6ライト型 がた 後期 こうき 2CVのボディ構造 こうぞう がよく分 わ かる写真 しゃしん 。この時代 じだい でも後 うし ろのドアは簡単 かんたん に外 はず せる
原 はら 設計 せっけい が1930年代 ねんだい である自動車 じどうしゃ らしく、ガラスエリアが狭 せま くフロントフェンダー も独立 どくりつ した古 ふる い形態 けいたい を残 のこ している。ボンネット(エンジンフード)は強度 きょうど 確保 かくほ のため強 つよ い丸 まる みを帯 お びており、その両 りょう 脇 わき に外 そと 付 づ けされたヘッドランプ と相 あい まって、2CV独特 どくとく の動物 どうぶつ 的 てき でユーモラスなフロントスタイルを形成 けいせい している。このヘッドランプは、静 せい 荷重 におも による姿勢 しせい 変化 へんか が大 おお きい2CVに合 あ わせ、簡単 かんたん に、一 いち 度 ど に両側 りょうがわ の光 ひかり 軸 じく 調節 ちょうせつ ができる設計 せっけい となっている。
フロントグリル は細 ほそ い横縞 よこじま 状 じょう の大型 おおがた グリルで、エンジンフードはフェンダーのすぐ上 じょう から開 ひら く構造 こうぞう だった。1961年 ねん にフードと共 とも にグリルも小型 こがた 化 か され荒 あら い横縞 よこじま となった。どちらも、寒冷 かんれい 時 じ にエンジンのオーバークール を防 ふせ ぐための布 ぬの ジャケット、またはプラスチックカバーが用意 ようい されていた。
客室 きゃくしつ 部分 ぶぶん は4ドアを標準 ひょうじゅん とする。初期 しょき のドアは中央 ちゅうおう のピラーを中心 ちゅうしん に対称 たいしょう に開 ひら き、上 うえ に引 ひ き抜 ぬ くことで簡単 かんたん に取 と り外 はず すことも出来 でき た。1964年 ねん に安全 あんぜん 上 じょう の理由 りゆう から前 ぜん ヒンジとなった。
居住 きょじゅう 性 せい を重視 じゅうし して円弧 えんこ 状 じょう の高 たか い屋根 やね を備 そな え、ガラス は簡素 かんそ 化 か のため平面 へいめん ガラスしか使 つか われていない。側面 そくめん も複雑 ふくざつ な曲線 きょくせん は持 も たず、幅員 ふくいん の有効 ゆうこう 活用 かつよう のため1930年代 ねんだい の多 おお くの自動車 じどうしゃ のようなホイールベース 間 あいだ の外部 がいぶ ステップ は無 な く、この点 てん では同 どう 時代 じだい のフォルクスワーゲン・ビートルよりモダンであった。徹底 てってい した機能 きのう 主義 しゅぎ 的 てき デザインには、同 どう 時代 じだい を代表 だいひょう する近代 きんだい 建築 けんちく 家 か ル・コルビュジエ からの影響 えいきょう が指摘 してき されている。
ル・コルビュジエは建築 けんちく 家 か としての合理 ごうり 主義 しゅぎ から、第 だい 一 いち 次 じ 大戦 たいせん 後 ご のシトロエンによる自動車 じどうしゃ 量産 りょうさん の企図 きと に共感 きょうかん を抱 だ いており、建築 けんちく の分野 ぶんや において同様 どうよう なマスプロダクションや合理 ごうり 化 か を目 め した1920年 ねん 以降 いこう のコンセプトには、シトロエンへのオマージュを含 ふく んだ「シトロアン(Citrohan)住宅 じゅうたく 」という名 な が与 あた えられた(ル・コルビュジエの建築 けんちく 作品 さくひん -近代 きんだい 建築 けんちく 運動 うんどう への顕著 けんちょ な貢献 こうけん - も参照 さんしょう )。更 さら に1928年 ねん からは自 みずか ら、"Voiture Minimum"(最小限 さいしょうげん の車 くるま 、ミニマムカー)という独自 どくじ の小型車 こがたしゃ コンセプトを打 う ち出 だ し、1936年 ねん にはあくまでモックアップ ではあるが、3座 ざ +1座 ざ でリアエンジン の超 ちょう 小型車 こがたしゃ デザインを発表 はっぴょう した。その平面 へいめん と円弧 えんこ を多用 たよう した単純 たんじゅん なスタイルは、ほどなく後 ご を追 お って(秘密 ひみつ に)開発 かいはつ されたシトロエン試作 しさく 車 しゃ に類似 るいじ しており、一方 いっぽう それ以前 いぜん からル・コルビュジエ自身 じしん が愛用 あいよう していたヴォワザン車 しゃ からの影響 えいきょう も垣間見 かいまみ える。
前部 ぜんぶ 窓 まど 下 か にはパネルを開閉 かいへい するタイプの原始 げんし 的 てき だが効率 こうりつ よく通風 つうふう できるベンチレーター を備 そな える。虫 むし や落 お ち葉 ば 等 とう の異物 いぶつ 侵入 しんにゅう 防止 ぼうし 目的 もくてき で、開口 かいこう 部 ぶ に金網 かなあみ が張 は られている。
側面 そくめん 窓 まど は複雑 ふくざつ な巻 ま き上 あ げ機構 きこう を省 はぶ き、中央 ちゅうおう から水平 すいへい 線 せん 方向 ほうこう にヒンジを持 も つ二 ふた つ折 お れ式 しき である。開 あ け放 はな しておくときは、下 した 半分 はんぶん を外側 そとがわ から上 うえ に回転 かいてん させて固定 こてい 式 しき の爪 つめ に引 ひ っ掛 か けておく。固定 こてい せずに走行 そうこう することもでき、雨 あめ や雪 ゆき の中 なか でも適度 てきど に曇 くも り止 と めのための換気 かんき が可能 かのう 。初期 しょき のモデルには方向 ほうこう 指示 しじ 器 き がなく、ドライバーがこの状態 じょうたい で窓 まど を開 あ け、腕 うで を外 そと に出 だ して手 て 信号 しんごう で指示 しじ することを想定 そうてい していた。プリミティブの極致 きょくち であった。
リアフェンダーは曲面 きょくめん を持 も った脱着 だっちゃく 式 しき で、後 こう 輪 わ を半分 はんぶん カバーするスパッツ 状 じょう である。タイヤ交換 こうかん の場合 ばあい 、ジャッキ アップすればスイングアームで吊 つ られた後 のち 輪 わ は自然 しぜん に垂下 すいか して作業 さぎょう 可能 かのう な状態 じょうたい になるので、フェンダーを着 つ けたままでも実用 じつよう 上 じょう の問題 もんだい はない。
屋根 やね はキャンバス 製 せい が標準 ひょうじゅん で、好天 こうてん 時 じ には後方 こうほう に巻 ま き取 と ってオープンにできる。初期 しょき 型 がた はトランク の蓋 ぶた までもが幌 ほろ 製 せい だったが、1957年 ねん 金属 きんぞく 製 せい となった。キャンバストップとしたのは、軽量 けいりょう 化 か やコストダウンの他 ほか 、空冷 くうれい エンジンの騒音 そうおん を車内 しゃない から発散 はっさん させる効果 こうか も狙 ねら ったものである。このため、背 せ の高 たか い荷物 にもつ も屋根 やね を開 あ ければ簡単 かんたん に運 はこ べた。2CVの広告 こうこく イラストには、キャンバストップを取 と り払 はら って背 せ の高 たか い柱時計 はしらどけい や箪笥 たんす などを積 つ み込 こ み疾走 しっそう しているものも見 み られたが、これは決 けっ して誇大 こだい 広告 こうこく ではなかった。
他 ほか にも、中央 ちゅうおう に1つだったブレーキランプ を標準 ひょうじゅん 的 てき な2つに、太 ふと いCピラー に窓 まど を付 つ けるなど、大小 だいしょう さまざまな改良 かいりょう が加 くわ えられたが、基本 きほん 的 てき な形状 けいじょう は42年間 ねんかん 変 か わらなかった。
2CVのインパネ部分 ぶぶん 。写真 しゃしん 右側 みぎがわ にダッシュボードから伸 の びるシフトレバー が見 み える
大人 おとな 4人 にん が無理 むり なく乗車 じょうしゃ できる。排気 はいき 量 りょう に比 ひ してスペースは非常 ひじょう なゆとりがあり、排気 はいき 量 りょう 400 cc以下 いか の自動車 じどうしゃ でこれほどの居住 きょじゅう 性 せい を実現 じつげん した例 れい は世 よ にも稀 まれ である。ただし、車内 しゃない 幅 はば は開発 かいはつ された時代 じだい 相応 そうおう に狭 せま い。
内装 ないそう はごく簡素 かんそ であり、計器 けいき 類 るい やスイッチは「運転 うんてん に必要 ひつよう な最低限 さいていげん 」しか装備 そうび されていない。その初期 しょき には燃料 ねんりょう 計 けい すら装備 そうび されておらず、燃料 ねんりょう 残 ざん 量 りょう はタンク内 ない に計量 けいりょう 棒 ぼう を差 さ し入 い れて読 よ み取 と るしかなかった。ただし、これは同 どう 時代 じだい の他 ほか の大衆 たいしゅう 車 しゃ も同様 どうよう であり、特別 とくべつ なものではない。ダッシュボード (?)下 した にはドライバーの膝 ひざ 上 じょう の高 たか さで横 よこ 方向 ほうこう 一 いち 杯 はい のトレーがあり、小物 こもの を置 お きやすい。
ステアリング・ホイール は長年 ながねん 丸 まる パイプを組 く み合 あ わせた簡素 かんそ な2本 ほん スポーク仕様 しよう だったが、1970年代 ねんだい 以降 いこう にはグレードによってシトロエンの上級 じょうきゅう クラスと同 おな じく片 かた 持 も ち式 しき の1本 ほん スポークモデルもあった。1本 ほん スポークなら事故 じこ でドライバーがステアリング・ホイールに叩 たた きつけられても、折 お れることで衝撃 しょうげき をある程度 ていど 吸収 きゅうしゅう できると見込 みこ んだものである。
パイプフレームで骨格 こっかく を構築 こうちく されたシートは、ゴムベルトでキャンバスを吊 つ って表皮 ひょうひ を張 は っただけの簡素 かんそ きわまりない軽量 けいりょう 設計 せっけい で、ハンモック とも例 たと えられるが、乗客 じょうきゃく の身体 しんたい によくなじみ、乗 の り心地 ごこち は優秀 ゆうしゅう である。パイプフレームは床 ゆか 面 めん に左右 さゆう 2本 ほん の爪 つめ によって差 さ し込 こ まれただけであり、後期 こうき モデルの前 ぜん 席 せき はスライド機能 きのう を持 も ったシートレールが採用 さいよう されているが、前 ぜん 席 せき ・後 こう 席 せき とも脱着 だっちゃく は容易 ようい で軽 かる いため、出先 でさき で取 と り外 はず して屋外 おくがい のベンチ代 か わりに利用 りよう することもできる。着座 ちゃくざ 位置 いち は高 たか めで、レッグスペースを稼 かせ いでいる。
床 ゆか 面 めん はほとんどフラットである。プロペラシャフト やその他 た 諸々 もろもろ の機器 きき による突起 とっき がなく、居住 きょじゅう スペース確保 かくほ に貢献 こうけん している。
フロントウインドシールド のワイパー の動力 どうりょく は負 ふ 圧 あつ でも電動 でんどう でもなかった。前輪 ぜんりん を駆動 くどう するギアケースから引 ひ き出 だ されたスピードメーター 駆動 くどう 用 よう のワイヤーケーブルの途中 とちゅう にウォームギア を仕込 しこ み、ワイパーの駆動 くどう の動力 どうりょく にも利用 りよう したのである。このためスピードメーターは、ワイパーを駆動 くどう しやすいステアリングの左上 ひだりうえ 端 はし に置 お かれた。ワイパーの動作 どうさ 速度 そくど は速力 そくりょく に比例 ひれい し、高速 こうそく 走行 そうこう 時 じ では速 はや すぎ、低速 ていそく 時 じ では遅 おそ すぎ、使 つか い勝手 がって はけっして良 よ くはなかった。その構造 こうぞう 上 じょう 、停車 ていしゃ 中 ちゅう は作動 さどう しなかったので、ワイパーのスイッチノブを押 お し込 こ み、手 て でノブを廻 まわ すことによって、ワイパーを手動 しゅどう で動 うご かすことも可能 かのう であった。のちに電動 でんどう 式 しき ワイパーに改良 かいりょう され、スピードメーターもステアリングコラム上 じょう に移 うつ った。
ヒーターは、空冷 くうれい エンジンの冷却 れいきゃく 風 ふう を車内 しゃない に送 おく り込 こ むもの であるが、熱量 ねつりょう 不足 ふそく に加 くわ え、ファンが装着 そうちゃく されていないことから、余 あま り効 き きは良 よ くない。ガソリン燃焼 ねんしょう 式 しき の独立 どくりつ ヒーター を装備 そうび するケースもあった。生産 せいさん モデルでは、クーラー は最後 さいご まで装備 そうび されなかった(後 こう 付 づ けのクーラーは存在 そんざい する)。
ホイールベース は2,400 mmと、小 ちい さな排気 はいき 量 りょう の割 わり に長 なが く、前後 ぜんご とも1,260 mmのトレッド も1940年代 ねんだい 当時 とうじ の小型車 こがたしゃ としては広 ひろ い。このゆとりが走行 そうこう 性能 せいのう の確保 かくほ につながっている。基本 きほん 構成 こうせい は、強固 きょうこ なプラットフォームフレーム がそのままフロアパネルとなり、前後 ぜんご にサスペンションアームを、また前方 ぜんぽう にエンジンを始 はじ めとするドライブトレーン をオーバーハングさせている。この上 うえ に簡素 かんそ な設計 せっけい の軽量 けいりょう ボディを架 か 装 そう する。
サスペンション は、フロントがリーディングアーム 、リアがトレーリングアーム で、 前後 ぜんご のサスペンション・アームはそれぞれコイルスプリングに接続 せつぞく され、これらのスプリングは床下 ゆかした で前後 ぜんご 方向 ほうこう に配置 はいち されたサスペンション・シリンダー内 ない に収 おさ められているが、このシリンダーは「半 はん 浮動 ふどう 状態 じょうたい 」で、初期 しょき は左右 さゆう の「たけのこバネ (英語 えいご 版 ばん ) 」により、後 のち にエンジン・パワーの強化 きょうか に伴 ともな いゴム・ブッシュによる「半 はん 固定 こてい 」状態 じょうたい となってその移動 いどう を制限 せいげん され、最終 さいしゅう 的 てき には「固定 こてい 」された。前述 ぜんじゅつ した「前後 ぜんご 関連 かんれん 懸架 けんか 」とは、前輪 ぜんりん - ロッド - ( コイル - サスペンション・シリンダー: pot de suspension - コイル) - ロッド - 後 こう 輪 わ と結 むす ばれており、コイルばね を2倍 ばい に柔 やわ らかく使 つか う、シトロエン社 しゃ が考案 こうあん した「軽 けい 車両 しゃりょう 用 よう サスペンション」である。
左右 さゆう それぞれの前後 ぜんご アームからはロッドが伸 の び、サイドシル 下 した でスプリングを介 かい して連結 れんけつ されている。この「前後 ぜんご 関連 かんれん 懸架 けんか 」により、前輪 ぜんりん が突 つ き上 あ げを受 う けると前輪 ぜんりん 側 がわ のスプリングが収縮 しゅうしゅく しサスペンション・シリンダーは前方 ぜんぽう に移動 いどう し、後 こう 輪 わ ロッドを引 ひ き後 ご 輪 わ を下 さ げて 車体 しゃたい をフラットに保 たも つよう働 はたら く仕掛 しか けで、サスペンションの柔軟 じゅうなん 性 せい と路面 ろめん 追従 ついしょう 性 せい を大 おお きく高 たか めた。悪 あく 路 ろ への強 つよ さの秘密 ひみつ がここにある。この前後 ぜんご 関連 かんれん 式 しき ばねはまた、旋回 せんかい 時 じ に車体 しゃたい ロール を抑制 よくせい する。旋回 せんかい 外輪 がいりん では、ばねが前後 ぜんご 輪 わ 両方 りょうほう のバウンドに逆 さか らう方向 ほうこう に働 はたら き、ローリング角度 かくど を減少 げんしょう させる。もっとも、この前後 ぜんご 関連 かんれん ばねのレート自体 じたい は圧倒的 あっとうてき に低 ひく く、またリーディング/トレーリングのサスペンション・リンケージ はロールセンター を極端 きょくたん に低 ひく く保 たも つため、本質 ほんしつ 的 てき に旋回 せんかい 時 じ のロールが極端 きょくたん に大 おお きく、しばしば横転 おうてん しそうに見 み える。しかし実際 じっさい には車体 しゃたい 重心 じゅうしん 高 だか はそれほど高 たか くなく、また上述 じょうじゅつ した様 よう にロールセンターが低 ひく くジャッキング・アップ・フォースを殆 ほとん ど発生 はっせい させないので、横転 おうてん までの限界 げんかい は想像 そうぞう 以上 いじょう に高 たか く、軽量 けいりょう で低 てい 出力 しゅつりょく ゆえ、シャシ 性能 せいのう には余裕 よゆう があり、ロードホールディングと操縦 そうじゅう 安定 あんてい 性 せい に優 すぐ れている。またこの構造 こうぞう ゆえ、荷重 かじゅう が大 おお きければ大 おお きいほど実質 じっしつ 的 てき なホイールベースが伸 の び、安定 あんてい 性 せい を確保 かくほ する方向 ほうこう に働 はたら くようになっている。
ユニークなのはダンパー で、登場 とうじょう 時 じ から各 かく 輪 わ 2種類 しゅるい の減衰 げんすい 装置 そうち を持 も っていた。
ばね上 じょう (車体 しゃたい )の振動 しんどう の減衰 げんすい はリーディング/トレーリング・リンクの車体 しゃたい 側 がわ ピックアップポイントのフリクション により得 え ている。このフリクション式 しき はサスペンションの縮 ちぢ み側 がわ にも伸 の び側 がわ にも同様 どうよう の減衰 げんすい 力 りょく が作用 さよう することになり、一般 いっぱん 的 てき に縮 ちぢ み側 がわ より伸 の び側 がわ の減衰 げんすい 力 りょく を高 たか めなければならない自動車 じどうしゃ のサスペンションでは不都合 ふつごう が生 しょう じるが、当時 とうじ 既 すで にオートバイ では同様 どうよう のフリクション式 しき 減衰 げんすい 器 き が一定 いってい の成功 せいこう を示 しめ していたので、2CVの設計 せっけい 年次 ねんじ を考慮 こうりょ すると採用 さいよう は妥当 だとう である。
2CVのユニークな点 てん は、ばね下 か (空気 くうき 入 い りタイヤをばね、リンク類 るい やハブ 、ステアリングナックル (英語 えいご 版 ばん ) などをマス とするばねマス系 けい )の減衰 げんすい に、各 かく 輪 わ のサスペンションアームに取 と り付 つ けられた筒 つつ 型 がた ケース内 ない に組込 くみこ まれたコイルスプリング上端 じょうたん に錘 おもり を固定 こてい して、コイルスプリングと錘 おもり で決 き められる固有 こゆう 振動 しんどう 数 すう で車体 しゃたい の振動 しんどう を打 う ち消 け す「慣性 かんせい ダンパー」(動 どう 吸振器 き )を用 もち いた点 てん である。このばね下 か 制 せい 振 ふ 装置 そうち は、他 た にはブリヂストン が近年 きんねん インホイールモーター 式 しき 電気 でんき 自動車 じどうしゃ 向 む けに研究 けんきゅう している例 れい があるだけで、非常 ひじょう にユニークな設計 せっけい 思想 しそう である。
ダンパーを各 かく 輪 わ で2種類 しゅるい ずつ持 も つというのは一見 いっけん 無駄 むだ な様 よう だが、通常 つうじょう 、ばね上 じょう の共振 きょうしん 周波数 しゅうはすう は1.2 - 1.5 Hz 、一方 いっぽう ばね下 か の共振 きょうしん 周波数 しゅうはすう は10 - 13 Hz へるつ 付近 ふきん にあり、それぞれの振動 しんどう 減衰 げんすい の為 ため に個別 こべつ の減衰 げんすい 器 き を用 もち いる手法 しゅほう は、振動 しんどう 工学 こうがく 的 てき には正当 せいとう な手段 しゅだん と言 い える。しかし実際 じっさい には、機械 きかい 的 てき なフリクションに頼 たよ ったリーディング / トレーリング・リンクの減衰 げんすい 装置 そうち は減衰 げんすい 力 りょく を安定 あんてい して発生 はっせい させることが困難 こんなん であり、また、ばね下 か の動 どう 吸振器 き は寸法 すんぽう や重量 じゅうりょう の問題 もんだい から設計 せっけい が難 むずか しく、必 かなら ずしも効果 こうか 的 てき とは言 い い難 がた い。後 のち にテレスコピック 油圧 ゆあつ ダンパが後 こう 輪 わ 側 がわ に採用 さいよう されたが、これらの2CVに特有 とくゆう な減衰 げんすい 器 き は1970年代 ねんだい まで使用 しよう し続 つづ けられた。これらの組 く み合 あ わせは、エンジン出力 しゅつりょく により決定 けってい されている。
タイヤ はミシュラン 製 せい が標準 ひょうじゅん である。1950年代 ねんだい の125/400 mm(16インチ相当 そうとう ) - 125/15クラスのタイヤは、バルーンタイヤの登場 とうじょう した後 のち の時代 じだい にも関 かか わらず非常 ひじょう に細 ほそ いが、径 みち が大 おお きくまた接地 せっち 面 めん が縦長 たてなが で小 ちい さいことで、転 ころ がり抵抗 ていこう を押 お さえ、パワーロスを減 へ らしつつ、必要 ひつよう 十分 じゅうぶん なグリップ力 りょく は確保 かくほ できるというメリットがある。ミシュランは1948年 ねん 、世界 せかい 初 はつ のラジアルタイヤ 「ミシュランX」を市場 いちば に送 おく り出 だ したが、ほどなくこの2CV用 よう サイズのタイヤにもラジアルタイヤが用意 ようい された。現在 げんざい の日本 にっぽん 国内 こくない においては、ミシュランX-125R15の取扱 とりあつか いはあるが、在庫 ざいこ 不足 ふそく のため入手 にゅうしゅ は非常 ひじょう に難 むずか しい。代 か わりのタイヤとして、ミシュランZX-135R15や、一部 いちぶ の業者 ぎょうしゃ が扱 あつか うファイアストン F560-125R15や、台湾 たいわん メーカーのタイヤが装着 そうちゃく される事 こと も多 おお い。
ブレーキ はシトロエンの標準 ひょうじゅん で当初 とうしょ から油圧 ゆあつ だが、フロントはインボードブレーキで、長期 ちょうき に渡 わた って前後 ぜんご ともドラムブレーキ であったが、末期 まっき 型 がた はフロントがインボードのままディスクブレーキ となった。
前輪 ぜんりん 駆動 くどう 車 しゃ でネックとなる技術 ぎじゅつ の一 ひと つは、前輪 ぜんりん を駆動 くどう するためのドライブシャフト・ジョイントである。2CVが設計 せっけい された時代 じだい には、自動車 じどうしゃ 用 よう の等 ひとし 速 そく ジョイント は未 いま だ量産 りょうさん されておらず、トラクシオン・アバン ではダブル・カルダン型 がた のジョイントが使用 しよう されていた。ダブル・カルダン・ジョイント は広義 こうぎ では等 ひとし 速 そく ジョイント であるが、商用 しょうよう 貨物 かもつ 仕様 しよう であるフルゴネット および派生 はせい モデルのアミ6 の一部 いちぶ モデルにダブル・カルダン型 がた のジョイントが使用 しよう されたものの、2CVではダブル・カルダン型 がた のジョイントは使用 しよう されず、シングル・カルダン型 がた ジョイントが使用 しよう された。のちのモデルでは等 ひとし 速 そく ジョイントを装備 そうび している。
602 ccエンジン車 しゃ のエンジンルームを前方 ぜんぽう から見 み る。エンジンシュラウドから冷却 れいきゃく 空気 くうき の排気 はいき ダクトが伸 の びており、通常 つうじょう はフェンダー内 ない のホイールハウスへ直接 ちょくせつ 排気 はいき 、寒冷 かんれい 時 じ はヒーター熱源 ねつげん として客室 きゃくしつ 内 ない に導入 どうにゅう する
強制 きょうせい 空冷 くうれい 水平 すいへい 対向 たいこう 2気筒 きとう OHV のガソリンエンジン を、車体 しゃたい 前 ぜん 端 はし にオーバーハングして搭載 とうさい された。一見 いっけん 農 のう 機 き 用 よう 発動 はつどう 機 き のように簡素 かんそ で騒々 そうぞう しい代物 しろもの ながら、その実 み きわめて高度 こうど な内容 ないよう を備 そな える緻密 ちみつ な設計 せっけい であり、主要 しゅよう 部分 ぶぶん はガスケット なしで組 く み立 た てられている。設計 せっけい 者 しゃ のワルテル・ベッキアは、前 まえ 職 しょく のタルボ社 しゃ 在籍 ざいせき 時 じ には高性能 こうせいのう 車 しゃ 用 よう のハイスペックエンジンを設計 せっけい していた人物 じんぶつ である。
ベッキアがエンジンを空冷 くうれい 式 しき としたのは、1930年代 ねんだい - 1940年代 ねんだい の水冷 すいれい エンジンにおいて冷却 れいきゃく 系統 けいとう の不調 ふちょう がしばしばエンジントラブルの原因 げんいん となっており、またTPV試作 しさく 初期 しょき に搭載 とうさい されたモーリス・サンチュラ設計 せっけい の水冷 すいれい エンジンが寒冷 かんれい 時 じ のコールドスタート を困難 こんなん としていたためである。更 さら に軽量 けいりょう 化 か 、簡略 かんりゃく 化 か の効果 こうか も狙 ねら った。空冷 くうれい 方式 ほうしき の採用 さいよう に限 かぎ らず、このエンジンからはトラブルの原因 げんいん となる要素 ようそ は努 つと めて排除 はいじょ され、基本 きほん 的 てき に故障 こしょう しにくい構造 こうぞう になっている。
気筒 きとう 数 すう は快適 かいてき さを損 そこ なう手前 てまえ の極力 きょくりょく まで減 へ らされた2気筒 きとう で、BMW などのオートバイ エンジンなどを参考 さんこう にし、コンパクトで一 いち 次 じ 振動 しんどう の心配 しんぱい のない水平 すいへい 対向 たいこう 式 しき を採用 さいよう した[注釈 ちゅうしゃく 7] 。材質 ざいしつ は1940年代 ねんだい としては先進 せんしん 的 てき なアルミ合金 ごうきん を用 もち いて軽量 けいりょう 化 か 、燃焼 ねんしょう 室 しつ は高 こう 効率 こうりつ な半球 はんきゅう 式 しき で、バルブのレイアウトは吸排気 はいき 効率 こうりつ の高 たか いクロスフロー 型 かた とした。半球 はんきゅう 型 がた 燃焼 ねんしょう 室 しつ とクロスフロー型 がた 弁 べん 配置 はいち は、当時 とうじ 、レーシングカー に採用 さいよう される技術 ぎじゅつ であった。エンジン前方 ぜんぽう に大 おお きな強制 きょうせい 冷却 れいきゃく ファンを直結 ちょっけつ し、エンジン全体 ぜんたい を冷却 れいきゃく する。なおかつエンジン直前 ちょくぜん に置 お かれたオイルクーラー も同時 どうじ に冷却 れいきゃく される設計 せっけい である。
通常 つうじょう のレシプロエンジン では、ピストンからの動力 どうりょく をクランクシャフト に伝 つた えるコンロッド は2ピースの分割 ぶんかつ 式 しき として、ボルト留 と めでクランクシャフトに脱着 だっちゃく するようになっている。
ところが2CV用 よう エンジンでは、コンロッドはクランク穴 あな の空 あ いた一体 いったい 式 しき として、工場 こうじょう で窒素 ちっそ 冷却 れいきゃく した組 く み立 た て式 しき クランクシャフトを圧入 あつにゅう してしまうやり方 かた を取 と った。これで強度 きょうど と工作 こうさく 精度 せいど を高 たか めようという大胆 だいたん 不敵 ふてき な発想 はっそう である。クランクシャフトとコンロッドは分離 ぶんり 不能 ふのう となるが、現実 げんじつ にはほとんど分離 ぶんり を要 よう さないので、これでもよいと割 わ り切 き られた。
点火 てんか 機構 きこう もトラブル排除 はいじょ のため徹底 てってい 簡素 かんそ 化 か ・単純 たんじゅん 化 か され、確実 かくじつ な作動 さどう と長期 ちょうき のメンテナンスフリーを実現 じつげん している。クランクスローは180度 ど であるが、点火 てんか は1回転 かいてん 毎 ごと の左右 さゆう 等間隔 とうかんかく ではなく、2回転 かいてん 毎 ごと に左右 さゆう シリンダーが同時 どうじ 点火 てんか される。更 さら に、排気 はいき 行程 こうてい のピストン上 うえ 死 し 点 てん 時 とき にも両 りょう シリンダーのプラグが「捨 す て火 ひ 」とも言 い うべき空 そら のスパークを発生 はっせい する構造 こうぞう である。エンジンのトルク確保 かくほ の面 めん ではやや不利 ふり であるが、単純 たんじゅん 化 か 優先 ゆうせん でこの手法 しゅほう を採用 さいよう した。2CVエンジンのフライホイール が大 おお きいのは、この同時 どうじ 点火 てんか に対 たい する回転 かいてん 円滑 えんかつ 化 か の一策 いっさく である。
ワルテル・ベッキアは、2CVの2気筒 きとう エンジンが極 きわ めて低 てい 出力 しゅつりょく であるため、ユーザーに常時 じょうじ 過 か 負荷 ふか の高 こう 回転 かいてん 状態 じょうたい で用 もち いられることを見越 みこ した設計 せっけい を行 おこな っていた。実際 じっさい に非力 ひりき ながら頑丈 がんじょう で、スロットル 全開 ぜんかい での連続 れんぞく 走行 そうこう にもよく耐 た えた。未開 みかい 地 ち でのエンジンオイル 切 き れのため、やむなくバナナ から採 と った油 あぶら (植物 しょくぶつ 油 ゆ )をエンジンオイル代 か わりに使 つか ったケースがあるが、それでもトラブル無 な く走 はし れたという。
試作 しさく 中 ちゅう は、電動 でんどう セルフスターター を搭載 とうさい せず、運転 うんてん 席 せき から農業 のうぎょう 用 よう 発動 はつどう 機 はた や汎用 はんよう エンジン同様 どうよう にワイヤーを手 て で引 ひ いてスタートさせるリコイルスターター であった。これも簡素 かんそ 化 か を旨 むね としたピエール・ブーランジェの命令 めいれい による仕様 しよう である。
ところが、試作 しさく 車 しゃ をワイヤー始動 しどう させようとした女性 じょせい 秘書 ひしょ が爪 つめ を割 わ ってしまい、これに懲 こ りたブーランジェは即刻 そっこく スターターモーターの搭載 とうさい を命令 めいれい した。ベッキアは最初 さいしょ からスターターモーターの装備 そうび を前提 ぜんてい としてエンジンを設計 せっけい しており、社長 しゃちょう の急 きゅう な指令 しれい による仕様 しよう 変更 へんこう は簡単 かんたん に実行 じっこう された。従 したが って生産 せいさん 型 がた の2CVは全車 ぜんしゃ セルフスターター装備 そうび である。もちろんタイヤレンチを兼 か ねたスターティング・ハンドル によるエンジン始動 しどう も最終 さいしゅう 型 がた まで可能 かのう であった。これは、バッテリー の消耗 しょうもう した状態 じょうたい や寒冷 かんれい 地 ち での始動 しどう に非常 ひじょう に役立 やくだ った。
1948年 ねん 当初 とうしょ はボア×ストローク が62 mmのスクエアで、375 cc(9 HP/3,500 rpm)の極少 きょくしょう 出力 しゅつりょく に過 す ぎなかった(それでも最初 さいしょ の2CVは最高 さいこう 55 km/hに到達 とうたつ した)。
1955年 ねん 以降 いこう ボアを66 mmに広 ひろ げて排気 はいき 量 りょう 425 ccに拡大 かくだい され、出力 しゅつりょく は12 HP/3,500 rpmとなった。最高 さいこう 速度 そくど 75 km/h。更 さら に1963年 ねん には圧縮 あっしゅく 比 ひ を上 あ げて16.5 HP/4,200 rpm、最高 さいこう 速度 そくど 90 km/hとなる。
1968年 ねん - 「アミ 6 」など上級 じょうきゅう モデル搭載 とうさい の602 cc(ボア×ストロークは74×70 mm)を移入 いにゅう 、28 HP、最高 さいこう 110 km/hに強化 きょうか される。税法 ぜいほう 上 じょう は3CV級 きゅう となるが、車 くるま 名 めい は2CVのままであった(「2CV 6」と称 しょう した)。小 しょう 排気 はいき 量 りょう 型 がた もしばらく「2CV 4」の名称 めいしょう で生産 せいさん され、こちらは435 ccで21HPを発生 はっせい した。
1970年 ねん - 602 ccに強力 きょうりょく 型 がた 設定 せってい 、32 HPに。
1979年 ねん - 602 ccは29 HP/5,750 rpmに。燃費 ねんぴ を改善 かいぜん 。
4段式 だんしき シンクロメッシュ ギアボックス(1速 そく ・後進 こうしん のみノンシンクロ)。このクラスの大衆 たいしゅう 車 しゃ での4段 だん 変速 へんそく かつシンクロメッシュ装備 そうび は、1948年 ねん 当時 とうじ 、望外 ぼうがい の高度 こうど な設計 せっけい である。
開発 かいはつ 中 ちゅう 、ピエール・ブーランジェは「農民 のうみん の妻 つま に複雑 ふくざつ な4段 だん トランスミッションは扱 あつか いきれない」として3段 だん とするよう厳命 げんめい したが、ワルテル・ベッキアは超 ちょう 低 てい 出力 しゅつりょく のエンジンパワーを最大限 さいだいげん に有効 ゆうこう 利用 りよう するため4段式 だんしき ミッションを採用 さいよう した。
「4速 そく はあくまでもオーバードライブ ギアである」というベッキアの主張 しゅちょう で、ブーランジェはしぶしぶ納得 なっとく したという。この「い訳 いわけ 」のためか、初期 しょき 形 がた 2CVの4速 そく ギアは「4」ではなく、高速 こうそく ・オーバードライブ「surmultipliee」を意味 いみ する「S」と表記 ひょうき された。もっとも実際 じっさい の4速 そく のギアレシオはオーバードライブどころか、逆 ぎゃく に一般 いっぱん 的 てき 自動車 じどうしゃ の常道 じょうどう であった1.00(直結 ちょっけつ )よりも遅 おそ い1.47で、極力 きょくりょく クロスレシオな設定 せってい に近 ちか づけて非力 ひりき を補 おぎな う狙 ねら いは明 あき らかであった。
トランスミッション が運転 うんてん 席 せき よりやや前方 ぜんぽう に配置 はいち されているため、ギアボックス真上 まうえ にロッドを立 た ち上 あ げて、ダッシュボード中央 ちゅうおう から突出 とっしゅつ したシフトレバー に連結 れんけつ した。トランスミッションが車両 しゃりょう 最前 さいぜん 部 ぶ に配置 はいち されたトラクシオン・アバンの手法 しゅほう を踏襲 とうしゅう したもので、至 いた って簡潔 かんけつ かつ作動 さどう 確実 かくじつ な構造 こうぞう であった。後年 こうねん に言 い うインパネシフト の一種 いっしゅ だが、フロアシフト、コラムシフトのいずれでもない変 か わった形態 けいたい である。このおかげで一般 いっぱん 的 てき な自動車 じどうしゃ と違 ちが って床 ゆか からシフトレバーが突出 つきだ せず、足元 あしもと を広 ひろ く使 つか える。
変速 へんそく 操作 そうさ も独特 どくとく で、ニュートラルからレバーを左 ひだり に倒 たお し前 まえ に押 お すと後進 こうしん 、そのまま手前 てまえ に引 ひ くと1速 そく 、ニュートラルでレバーを起 お こし前方 ぜんぽう に押 お すと2速 そく 、そのまま手前 てまえ に引 ひ くと3速 そく 、ニュートラルでレバーを右 みぎ に倒 たお し押 お すと4速 そく である。
のちには遠心 えんしん 式 しき 自動 じどう クラッチ を装備 そうび したモデルも出現 しゅつげん しているが、自動 じどう 変速 へんそく 機 き は導入 どうにゅう されなかった。
登場 とうじょう 作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
^ プジョー・シトロエンの跡地 あとち に2001年 ねん に開設 かいせつ されたクラシックモデルの保管 ほかん ・展示 てんじ 施設 しせつ 。
^ 2000年 ねん に、当時 とうじ の親会社 おやがいしゃ であるミシュランの工場 こうじょう を改築 かいちく する際 さい に発見 はっけん されたもので、壁 かべ 内 ない に塗 ぬ り込 ご められていたとする資料 しりょう [2] もあるが、「1990年代 ねんだい 半 なか ば」とするサイトには発見 はっけん 当時 とうじ の写真 しゃしん として屋根裏 やねうら のような場所 ばしょ に車体 しゃたい の並 なら ぶ画像 がぞう や、屋根 やね を壊 こわ してフォークリフトで搬出 はんしゅつ する画像 がぞう を掲載 けいさい する。
^ 詳細 しょうさい は、フランス語 ふらんすご 版 ばん およびWikimedia Commons を参照 さんしょう のこと
^ 1979年 ねん 7月 がつ に登場 とうじょう した「2CV-6スペシャル」の銘板 めいばん が見 み えるので、オリジナルではない。
^ 「AC~」は2CVに使用 しよう 可能 かのう なカラーレファレンスによる色 いろ 番号 ばんごう 。以下 いか 同 おな じ。
^ 参照 さんしょう 画像 がぞう
^ フィアット の技術 ぎじゅつ 者 しゃ であったダンテ・ジアコーサ はミニマムトランスポーターの最適 さいてき 解 かい をフィアット・600 とし、会社 かいしゃ からさらに小 ちい さい500の開発 かいはつ を押 お し付 つ けられた際 さい 、直列 ちょくれつ 2気筒 きとう エンジンの採用 さいよう に最後 さいご まで反対 はんたい し続 つづ けた理由 りゆう が、直 ちょく 2特有 とくゆう の振動 しんどう であった。