南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん

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八犬伝はっけんでんから転送てんそう
国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん所蔵しょぞうの『南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでんはじめ輯巻表紙ひょうし[注釈ちゅうしゃく 1]

南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』(なんそうさとみはっけんでん、きゅう字体じたい南總里見八犬傳なんそうさとみはっけんでん)は、江戸えど時代じだい後期こうき曲亭馬琴きょくていばきんによってしるわされた長編ちょうへん小説しょうせつ後期こうき読本とくほん里見さとみ八犬伝はっけんでん、あるいはたん八犬伝はっけんでんともばれる。

文化ぶんか11ねん1814ねん)に刊行かんこう開始かいしされ、28ねんをかけて天保てんぽう13ねん1842ねん)に完結かんけつした、ぜん98かん、106さつ大作たいさくである。上田うえだ秋成あきなりの『雨月物語うげつものがたり』などとならんで江戸えど時代じだい戯作げさく文芸ぶんげい代表だいひょうさくであり、日本にっぽん長編ちょうへん伝奇でんき小説しょうせつ古典こてんひとつである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

伏姫ふしひめしんいぬこうちかし兵衛ひょうえ歌川うたがわ国芳くによし本朝ほんちょうすい滸伝剛勇ごうゆうはちひゃくにんいちいぬこうちかし兵衛ひょうえじん」。

南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』は、室町むろまち時代ときよ後期こうき舞台ぶたいに、安房あわ里見さとみひめ伏姫ふしひめかみけんはちぼう因縁いんねんによってむすばれたはちにん若者わかもの八犬士はっけんし)を主人公しゅじんこうとする長編ちょうへん伝奇でんき小説しょうせつである。共通きょうつうして「いぬ」のふく名字みょうじ八犬士はっけんしは、それぞれにひとしよしれいさとしただししんこう文字もじのある数珠じゅずたま仁義じんぎはちぎょうたま)をち、牡丹ぼたんかたちあざ身体しんたいのどこかにある。せきはちしゅう各地かくちまれたかれらは、それぞれに辛酸しんさんめながら、因縁いんねんみちびかれてたがいをり、里見さとみした結集けっしゅうする。

馬琴ばきんはこの物語ものがたり完成かんせいに、48さいから76さいいたるまでののち半生はんせいついやした。その途中とちゅう失明しつめいという困難こんなん遭遇そうぐうしながらも、息子むすこ宗伯そうはくつまであるみち口述こうじゅつ筆記ひっきにより最終さいしゅうばなしまで完成かんせいさせることができた。読本とくほん発行はっこう部数ぶすうすくなく[注釈ちゅうしゃく 2]価格かかく高価こうかであったが、貸本かしほんによっておおくの人々ひとびとまれており[2]馬琴ばきん自身じしんわれものはそれただ八犬伝はっけんでんか、われらざるものもそれただ八犬伝はっけんでんか」とべる人気にんき作品さくひんであった。明治めいじはいると、坪内つぼうち逍遥しょうようが『小説しょうせつ神髄しんずい』において、八犬士はっけんしを「仁義じんぎはちぎょう化物ばけものにてけっして人間にんげんとはいひがたかり」とだんじ、近代きんだい文学ぶんがくえるべききゅう時代じだい戯作げさく文学ぶんがく代表だいひょうとして『八犬伝はっけんでん』を批判ひはんしているが、このことは、当時とうじ八犬伝はっけんでん』がっていた影響えいきょうりょくおおきさをしめしている。逍遥しょうよう批判ひはん以降いこう八犬伝はっけんでん』の評価ひょうか没落ぼつらくしていくが、1970年代ねんだいから80年代ねんだいにかけて復権ふっけんし、映画えいが漫画まんが小説しょうせつ、テレビゲームなどの源泉げんせんとしてかえ参照さんしょうされている[3]

なお、里見さとみ実在じつざい大名だいみょうであるが、「八犬伝はっけんでん有名ゆうめい里見さとみ」とかたられることがある。『八犬伝はっけんでん』の伝奇でんきロマンのイメージは安房あわ地域ちいきをはじめとする里見さとみ関連かんれん観光かんこう宣伝せんでんしているが、史実しじつとフィクションが混同こんどうされることもある。

構成こうせい出版しゅっぱん事情じじょう[編集へんしゅう]

南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』は9輯98かん106さつからなる。刊行かんこう初期しょきには5かん=5さつを1輯にまとめて発刊はっかんしていたが、最終さいしゅうてきには全体ぜんたい半数はんすう以上いじょうを「だい9輯」がめるという異様いよう構成こうせいになっている。これは馬琴ばきん陰陽いんよう思想しそうにおけるきょくすうである9にこだわったためである[注釈ちゅうしゃく 3]巻数かんすう冊数さっすう一致いっちしないのは、上下じょうげ分冊ぶんさつにしたまきがあるためである。

みず滸伝』などにはんをとったあきらかい小説しょうせつ中国語ちゅうごくごばん形式けいしきをとっており、物語ものがたりは「かい」によって区切くぎられ、かいごとに内容ないようしめ対句ついくだいがついている。通常つうじょう1さつに2かい収録しゅうろくされている。『八犬伝はっけんでん』の回数かいすうは180かいかぞえられるが[5][6]上下じょうげかいかれるかいなどもあり、「だい180かい」の数字すうじかいいたっては「だいひゃくはちじゅうかいじょう」「だいひゃくはちじゅうかい」「だいひゃくはちじゅうしょうかいじょう」「だいひゃくはちじゅうしょうかい中編ちゅうへん」「だいひゃくはちじゅうしょうかいへん大団円だいだんえん」に5分割ぶんかつされている。

はじめ輯5さつ刊行かんこう文化ぶんか11ねん(1814ねん)。曲亭馬琴きょくていばきんはすでに『椿つばきせつ弓張月ゆみはりづき』(文化ぶんか3ねん/1806ねん - )、『俊寛しゅんかん僧都そうずとう物語ものがたり』(文化ぶんか5ねん/1808ねん)などを上梓じょうししており、読本とくほん作家さっかとしての名声めいせいきずいていた。

28年間ねんかん版元はんもとは3かいわった。だい5輯までの25さつやまあおどう山崎やまざき平八へいはち)が出版しゅっぱんし、やまあおどうから版木はんぎゆずられた涌泉どう美濃屋みのや三郎さぶろう)がだい6輯を刊行かんこうした。しかし涌泉どう資金繰しきんぐりにこまり、だい7輯刊行かんこうには文渓堂ぶんけいどう丁字ていじ屋平やひら兵衛ひょうえ)の助力じょりょくている。その経営けいえいづまった涌泉どうが『八犬伝はっけんでん』の版木はんぎ上方かみがた版元はんもとわた事態じたいこしているが、文渓堂ぶんけいどうがこれらの版木はんぎもどしている。だい8輯以降いこう文渓堂ぶんけいどうが『八犬伝はっけんでん』の刊行かんこうつづけて完成かんせいいたるとともに、はじめ輯からだい7輯にかんしてもしている。

執筆しっぴつちゅう馬琴ばきん天保てんぽう4ねん(1833ねんごろから右目みぎめ視力しりょくおとろえ、やがて視力しりょくうしなった。天保てんぽう9ねん(1838ねん)には左目ひだりめ視力しりょくおとろえはじめ、天保てんぽう11ねん(1840ねん)11月には執筆しっぴつ不可能ふかのうになった。このため息子むすこよめみち土岐ときむら)に口述こうじゅつ筆記ひっきさせて執筆しっぴつつづけた。馬琴ばきん手探てさぐりでしるし、みちいだ原稿げんこうだいきゅう輯巻よんじゅうろくだい177かい)が早稲田大学わせだだいがく現存げんそんしている。なお、漢字かんじをまったくらないみちへんつくりおしえながら口述こうじゅつ筆記ひっきした、とされることもあるが、これは馬琴ばきんが「かいがいあまふで」で多分たぶん誇張こちょうした(執筆しっぴつじょうきょうそのものを物語ものがたりした)苦心くしんだんひとあるきしたものである[7]早稲田大学わせだだいがくぞう自筆じひつ原稿げんこうでは、みちたしかなふではこびの整然せいぜんとした文字もじいでいる[7]

天保てんぽう12ねん8がつ20日はつか1841ねん10月4にち)、馬琴ばきん本編ほんぺんだいひゃくはちじゅうしょうかいへん大団円だいだんえん)を完成かんせいさせた[8]

輯・ちつ 冊数さっすう かい 版元はんもと 画工がこう ふでこう
浄書じょうしょ
挿絵さしえ彫刻ちょうこく
(剞劂)
出版しゅっぱんねん
はじめ 5さつまき1~まき5) だい1かいだい10かい やまあおどう 柳川やながわ重信しげのぶ せんかたち仲道なかみち 朝倉あさくら伊八いはちろう 文化ぶんか11ねん(1814ねん
だい2輯 5さつまき1~まき5) だい11かいだい20かい やまあおどう 柳川やながわ重信しげのぶ せんかたち仲道なかみち 朝倉あさくら伊八いはちろう 文化ぶんか13ねん(1816ねん
だい3輯 5さつまき1~まき5) だい21かいだい30かい やまあおどう 柳川やながわ重信しげのぶ せんかたち仲道なかみち 中村なかむら喜作きさく 文政ぶんせい2ねん(1819ねん
だい4輯 5さつまき1~まき5) だい31かいだい40かい やまあおどう 柳川やながわ重信しげのぶ せんかたち仲道なかみち 中村なかむら喜作きさく 文政ぶんせい3ねん(1820ねん
だい5輯 5さつまき1~まき5) だい41かいだい50かい やまあおどう 柳川やながわ重信しげのぶ
けいときえいいずみ
田中たなか正造しょうぞう 中村なかむら喜作きさく
神田かんだあん驥徳
文政ぶんせい6ねん(1823ねん
だい6輯 6さつまき1~まき5 だい51かいだい61かい 涌泉どう 柳川やながわ重信しげのぶ
けいときえいいずみ
たに金川かながわ
田中たなか正造しょうぞう
中村なかむら喜作きさく 文政ぶんせい10ねん(1827ねん
だい7輯 7さつまき1~まき7) だい62かいだい73かい 涌泉どう けいときえいいずみ
柳川やながわ重信しげのぶ
筑波つくばせんたちばな
たに金川かながわ
天保てんぽう元年がんねん(1830ねん
だい8輯
うえちつ
5さつまき1~まき4套) だい74かいだい82かい 文渓堂ぶんけいどう 柳川やながわ重信しげのぶ たに金川かながわ 朝倉あさくら伊八いはち
横田よこたまもる
桜木さくらぎ藤吉とうきち
はら
天保てんぽう3ねん(1832ねん
だい8輯
しもちつ
5さつまき5~まき8套) だい83かいだい91かい 文渓堂ぶんけいどう 柳川やながわ重信しげのぶ たに金川かながわ
墨田すみだせんたちばな
朝倉あさくら伊八いはち
横田よこたまもる
桜木さくらぎ藤吉とうきち
はら
田中たなかさんはち
天保てんぽう4ねん(1833ねん
だい9輯
うえ
6さつまき1~まき6) だい92かいだい103かい 文渓堂ぶんけいどう 柳川やながわ重信しげのぶせい たに金川かながわ 朝倉あさくら伊八いはち
横田よこたまもる
桜木さくらぎ藤吉とうきち
天保てんぽう6ねん(1835ねん
だい9輯
ちゅう
7さつまき7~まき12 だい104かいだい115かい 文渓堂ぶんけいどう 柳川やながわ重信しげのぶせい たに金川かながわ
せんぽうどうとも
横田よこたまもる
桜木さくらぎ藤吉とうきち
高木たかぎ翦樫
天保てんぽう7ねん(1836ねん
だい9輯
しも套上
5さつまき1314~まき18) だい116かいだい125かい 文渓堂ぶんけいどう 柳川やながわ重信しげのぶせい たに金川かながわ 横田よこたまもる
桜木さくらぎ藤吉とうきち
鳥山とりやまぼう
天保てんぽう8ねん(1837ねん
だい9輯
しも套中
5さつまき19~まき23) だい126かいだい135かい 文渓堂ぶんけいどう 柳川やながわ重信しげのぶせい たに金川かながわ 横田よこたまもる
桜木さくらぎ藤吉とうきち
森田もりたぼう
天保てんぽう9ねん(1838ねん
だい9輯
しもちつした
かぶとごう
5さつまき24~まき28) だい136かいだい145かい 文渓堂ぶんけいどう 柳川やながわ重信しげのぶせい
けいときえいいずみ
たに金川かながわ
白馬はくばだい音成おとなり
ちりばめ廉吉れんきち
森田もりたかぶと
横田よこたまもる
常盤ときわえん
天保てんぽう10ねん(1839ねん
だい9輯
しもちつした
おつごうじょう
5さつまき29~まき32) だい146かいだい153かい 文渓堂ぶんけいどう 柳川やながわ重信しげのぶせい
歌川うたがわ貞秀さだひで
たに金川かながわ さわ金次郎きんじろう
朝倉あさくら伊八いはち
常盤ときわえん
ちりばめきんきち
天保てんぽう11ねん(1840ねん
だい9輯
しもちつした
おつごうちゅう
5さつまき33~まき35 だい154かいだい161かい 文渓堂ぶんけいどう 歌川うたがわ貞秀さだひで たに金川かながわ さわ金次郎きんじろう
常盤ときわえん
天保てんぽう11ねん(1840ねん
だい9輯
しもちつ
したへんうえ
5さつまき36~まき40) だい162かいだい166かい 文渓堂ぶんけいどう 柳川やながわ重信しげのぶせい
けいときえいいずみ
たに金川かながわ さわ金次郎きんじろう
常盤ときわえん
こう谷熊やぐま五郎ごろう
天保てんぽう12ねん(1841ねん
だい9輯
しもちつ
したへんなか
5さつまき41~まき45) だい167かいだい176かい 文渓堂ぶんけいどう 柳川やながわ重信しげのぶせい たに金川かながわ こう谷熊やぐま五郎ごろう
さわ金次郎きんじろう
天保てんぽう12ねん(1841ねん
だい9輯
しもちつ
したへんした
10さつまき46~まき53 だい177かい
だい180しょうかいへん大団円だいだんえん
かいがいあまふで
文渓堂ぶんけいどう 柳川やながわ重信しげのぶせい
けいときえいいずみ
たに金川かながわ
亀井かめいかねすい
たいろう音成おとなり
こう谷熊やぐま五郎ごろう
さわ金次郎きんじろう
米蔵よねぞう幸太郎こうたろう
天保てんぽう13ねん(1842ねん

八犬伝はっけんでん』の板木はんぎは、3せんすうひゃくまいおよ[9]板木はんぎ明治維新めいじいしん和泉屋いずみや吉兵衛きちべえうさぎなどの博文ひろぶみかん所有しょゆうとなった。板木はんぎもちいた出版しゅっぱん明治めいじ30ねんまでおこなわれた[10]

江戸えど時代じだいには今日きょうてき意味いみでの著作ちょさくけん作者さくしゃになく[11]出版しゅっぱんけんいたかぶ)は版元はんもとあいだ取引とりひきされ、版元はんもとみずからが蔵板ぞうはんするほん自由じゆうさいすりし、板木はんぎ仕立したなおしをおこなったり、改題かいだいおこなうこともできた[11][10]馬琴ばきん刊行かんこうにあたって挿絵さしえ意匠いしょうにさまざまな指示しじしているが[12]、これらの指示しじ反映はんえいされたとみなされる初版しょはんはつ摺本すりほんが、研究けんきゅうじょう重視じゅうしされている[11][12]こう摺本すりほんにも馬琴ばきん関与かんよしたものと、馬琴ばきん関知かんちしないものがある[12]。『南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』という作品さくひん流通りゅうつう普及ふきゅううえでは、こう摺本すりほんたした役割やくわりおおきい[10]

馬琴ばきん手許てもとにあった『南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』(手沢しゅたくほん)は国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん収蔵しゅうぞうされており、馬琴ばきんによるれもられる[13]明治大学めいじだいがく所蔵しょぞう板本はんぽんはつ摺本すりほんがそろったものとして評価ひょうかたか[11]

物語ものがたり内容ないよう[編集へんしゅう]

長大ちょうだい物語ものがたり内容ないようは、みなみそう里見さとみ勃興ぼっこう伏姫ふしひめはちぼう因縁いんねん発端ほったん伏姫ふしひめ物語ものがたり)、せきはちしゅう各地かくちまれた八犬士はっけんしたちの流転るてん集結しゅうけつ物語ものがたりいぬ列伝れつでん)、里見さとみつかえた八犬士はっけんし関東かんとう管領かんりょう・滸我公方くぼう連合れんごうぐん史実しじつ世界せかい古河ふるかわ公方くぼう連合れんごうぐん)との戦争せんそう関東かんとう大戦たいせんたい管領かんりょうせん)をたたか大団円だいだんえんかう部分ぶぶんおおきくけられる。しょう訳本やくほんではおや兵衛ひょうえ京都きょうと物語ものがたり管領かんりょうせん以降いこう省略しょうりゃくされることがおおい。

発端ほったん[編集へんしゅう]

安西あんざいけいれんくびはちぼう月岡つきおか芳年よしとしよしいさむみず滸傳・里見さとみ二郎じろう太郎たろう義成よしなり

嘉吉よしきち元年がんねん(1441ねん)、結城ゆうき合戦かっせんやぶ安房あわびた里見さとみ義実よしざねは、滝田たきた城主じょうしゅ神余かなまり光弘みつひろ謀殺ぼうさつした逆臣ぎゃくしん山下やました定包さだかねを、神余かなまり旧臣きゅうしんきむわんかなまり八郎はちろう協力きょうりょくつ。義実よしざね定包さだかねつまたまあずさ助命じょめいいちくちにするが、八郎はちろういさめられてその言葉ことばひるがえす。たまあずさは「里見さとみ子孫しそん畜生道ちくしょうどうとし、煩悩ぼんのういぬにしてやる」と呪詛じゅそ言葉ことばのこして斬首ざんしゅされた。

ときはくだり長禄ちょうろく元年がんねん(1457ねん)、里見さとみりょう飢饉ききんじょうじてとなりりょう館山たてやま安西あんざいけいれんめてきた。落城らくじょう目前もくぜんにした義実よしざね飼犬かいいぬはちぼうに「けいれんくびってきたらむすめ伏姫ふしひめあたえる」とじゃれをう。はたしてはちぼうけいれんくび持参じさんしてもどってた。はちぼう褒美ほうびもくれず、義実よしざねにあくまでも約束やくそく履行りこうもとめ、伏姫ふしひめ君主くんしゅ言葉ことばひるがえすことの不可ふかき、はちぼうともなって富山とやまとやまはいった。

富山とやま伏姫ふしひめ読経どきょう日々ひびごし、はちぼう肉体にくたいまじわりゆるさなかった。翌年よくねん伏姫ふしひめ山中さんちゅう出会であったせんわらわから、はちぼうたまあずさ呪詛じゅそっていたこと、読経どきょう功徳くどくによりその怨念おんねん解消かいしょうされたものの、はちぼうけて種子しゅし宿やどしたことがげられる。懐妊かいにんじた伏姫ふしひめは、りしも富山とやまはいったきむわん大輔だいすけ八郎はちろう)・里見さとみ義実よしざねまえ割腹かっぷくし、胎内たいないいぬがいないことをあかした。その傷口きずぐちからながしろしろかがや不思議ふしぎひかり)はひめ数珠じゅず空中くうちゅうはこび、仁義じんぎはちぎょう文字もじしるされたやっつの大玉おおだま飛散ひさんさせる。義実よしざね自害じがいしようとした大輔だいすけめ、大輔だいすけ僧体そうたいとなって、「いぬ」というくず丶大ちゅだい名乗なのり、八方はっぽうったたまもとめるたびた。とき長禄ちょうろく2ねん(1458ねんあきのことであった。

いぬ列伝れつでん[編集へんしゅう]

大塚おおつか物語ものがたり[編集へんしゅう]

歌川うたがわ国芳くによし木曽きそ街道かいどうろくじゅうきゅうこれない板橋いたばし 犬塚いぬづか信乃しのひきろくひだりはは次郎じろう太郎たろう」(1852ねん)。ひきろくおぼれたふりをして信乃しの水中すいちゅうみ、そのあいだふねうえひだりははろう村雨むらさめをすりえる場面ばめん

物語ものがたりふたた嘉吉よしきち元年がんねん(1441ねん)にさかのぼる。結城ゆうき合戦かっせんやぶれた大塚おおつかばんさくは、鎌倉かまくら公方くぼう近習きんじゅであったちちから公方くぼう宝刀ほうとう村雨むらさめまるたくされてび、ながたびすえ故郷こきょう武蔵むさし大塚おおつかむらもどった。しかし大塚おおつか家督かとく村長そんちょうしょくは、あねかめしのひきろく夫婦ふうふうばわれており、ばんさくせい犬塚いぬづかあらためて隠棲いんせいした。長禄ちょうろく4ねん(1460ねん)、ばんさくつまたばたつかとしてまれたのが犬塚いぬづか信乃しのである。

ひきろく夫婦ふうふは、ばんさくかく村雨むらさめうばおうと画策かくさくし、信乃しのいぬ与四郎よしろう管領かんりょうからの御教書みぎょうしょ破損はそんしたといがかりをつける。ばんさく自害じがいすることで信乃しのすくうとともに、再興さいこうされた公方くぼう足利あしかが成氏しげうじ)に将来しょうらい村雨むらさめまる献上けんじょうすることをたくす。ひきろく夫婦ふうふ村人むらびと手前てまえ信乃しのることとし、養女ようじょ浜路はまじ将来しょうらい婿むことすることにした。ひきろく夫婦ふうふ下男げなんがくぞう犬川いぬかわそうすけ)を信乃しの監視かんしにあてる。しかし、ふとしたきっかけから信乃しのそうすけたがいがおなたまあざっていることり、義兄弟ぎきょうだいちぎりをむすぶ。二人ふたり表向おもてむきは不仲ふなかよそおいながらともに文武ぶんぶ研鑽けんさんはげむ。村人むらびとぬかすけさいしてたまあざ息子むすこ犬飼いぬかいげんはちのことだがその時点じてん信乃しのそうすけげんはちという名前なまえらない。)がいたことをかたったこと、うめはちぼううめり、仁義じんぎはちぎょう文字もじかびがったことから、おなえんつらなる義兄弟ぎきょうだい存在そんざい予感よかんする。

文明ぶんめい10ねん(1478ねん)、信乃しの18さいなつ6がつひきろく夫婦ふうふ信乃しのすすめて古河ふるかわ公方くぼう成氏しげうじもと旅立たびだたせる。信乃しのものとして浜路はまじじんだいがわわらわそうとするたくらみであり、村雨むらさめまるひきろく夫婦ふうふ指示しじ浪人ろうにんあみいぬいあぼしひだりはは二郎じろうさもじろう偽物にせものにすりかえていた。信乃しのした浜路はまじ旅立たびだ前夜ぜんや信乃しのじょううったえるもれられず、信乃しのってしまう。ひきろく夫婦ふうふによって婚礼こんれい支度したくすすめられていることに悲観ひかんした浜路はまじ縊死いしこころみたが、浜路はまじ横恋慕よこれんぼするあみいぬいさらわれる。道中どうちゅう本郷ほんごうえん塚山つかやままるつかやまで、あみいぬい本物ほんもの村雨むらさめまる所持しょじしているとった浜路はまじはこれをかえそうとし、逆上ぎゃくじょうしたあみいぬいによってられてしまう。そこにねり旧臣きゅうしんいぬ山道さんどうぶしじつ浜路はまじ異母いぼけい)があらわれ、あみいぬい殺害さつがいする。浜路はまじ本物ほんもの村雨むらさめまる信乃しのわたすようみちぶしたのむが、ねりほろぼした関東かんとう管領かんりょう扇谷おうぎや定正さだまさ接近せっきんして殺害さつがいするため村雨むらさめまる利用りようしようとするみちぶしはこれを拒絶きょぜつし、浜路はまじ失意しついなかいきる。信乃しの栗橋くりはしまでおくったそうすけがここにい、みちぶしいになるが、みちぶし火遁かとんじゅつ使つかってのがれた。いのなか二人ふたりたまわった。そうすけ浜路はまじほうむり、大塚おおつかへの帰路きろいそぐ。

月岡つきおか芳年よしとし芳流閣ほうりゅうかく両雄りょうゆうどう

芳流閣ほうりゅうかく決闘けっとう惨劇さんげき[編集へんしゅう]

信乃しのは滸我でしげる謁見えっけんしたが、村雨むらさめまる贋物にせものであったことから管領かんりょうかたあいだしゃうたがわれおそわれる。防戦ぼうせんしながら芳流閣ほうりゅうかく屋根やねめられた信乃しのらえるべく、投獄とうごくされていた捕物とりもの名人めいじん犬飼いぬかいげんはち登場とうじょうするが、二人ふたりううちに利根川とねがわ転落てんらくした。下総しもふさ行徳ぎょうとくへとながれついた二人ふたりたすけたのは、旅籠はたご主人しゅじんぶん兵衛ひょうえと、その犬田いぬたしょう文吾ぶんごであった。しかしかくまわれてまもなく、信乃しの破傷風はしょうふうにより瀕死ひんしゆかく。また、信乃しのにかけられた追手おってによってぶん兵衛ひょうえ拘引こういんされてしまう。

しょう文吾ぶんごいもうとぬまぬいおっとである山林さんりんぼうはちしょう文吾ぶんごといさかいをこしており、ぬまとその幼子おさなごだいはち実家じっかであるかえしていた。小文おぶみわれらの留守るすちゅうしかけた山林さんりんぼうはちは、おたずものになっている信乃しのわたせとせまり、かえってしょう文吾ぶんごられる。このなかで、あにおっとあいだはいったぬま大八だいはちぼうはちによって殺傷さっしょうされてしまう。じつはこの惨劇さんげきは、ぼうはちみずからのいえとの過去かこあく因縁いんねんぼうはち祖父そふが、しょう文吾ぶんごぬま伯父おじ殺害さつがいしていた)を清算せいさんするために仕組しくんだものであり、信乃しのているみずからのくびえに危機ききすくおうとしたのであった。結果けっかとして信乃しのぼうはち夫妻ふさい犠牲ぎせいすくわれることとなった。おりしも居合いあわせた丶大によって、里見さとみ伏姫ふしひめ物語ものがたりかたられ、たまいぬたちがそのえんつらなることがげられる。また、んだとおもわれた大八だいはちいきかえしてたまあざしめし、だいはちもまたいぬ一人ひとりであることがあきらかになる。大八だいはちは丶大によっていぬこうちかし兵衛ひょうえさだめられた。

ぼうはちくびぶん兵衛ひょうえ釈放しゃくほうさせつつ、ひそかにぼうはちぬま夫婦ふうふ埋葬まいそうして惨劇さんげき始末しまつをつけた信乃しのしょう文吾ぶんごげんはちは、そうすけむかえるため大塚おおつかかう。一方いっぽう、丶大・ぶん兵衛ひょうえみょうしんぼうはちはは)らはおや兵衛ひょうえともなって安房あわかうが、途中とちゅうで丶大いちぎょう暴漢ぼうかんおそわれ、おや兵衛ひょうえ神隠かみがくしにう。

いぬ会同かいどうあらやま離散りさん[編集へんしゅう]

これよりさき、大塚おおつかではひきろく夫妻ふさい浜路はまじじんだい婚礼こんれいひらこうとしたが、浜路はまじ失踪しっそうした(あみいぬいによって拉致らちされていた)ために、激怒げきどしたじんだいらにころされた。そのかえいたそうすけじんだいらによっておそわれるが、これをかえちにする。しかし、そうすけ領主りょうしゅによってとらえられ、主人しゅじんごろしのつみせられて死罪しざいとされた。行徳ぎょうとくから神宮じんぐう河原かわらまでやってさんいぬ船頭せんどう姨雪よんろうじついぬ山道さんどうぶし郎党ろうとう)からこのことをき、情報じょうほうあつめてそうすけすくうことを計画けいかく。まさにそうすけ処刑しょけいおこなわれようとする刑場けいじょうやぶり、そうすけ救出きゅうしゅつする。追手おってをかけられたよんいぬ危地きちすくったのは、よんろうとそのちからしゃくはちであった。よんいぬは、よんろう言葉ことばしたがい、よんろうとゆかりのあるおとおんらす上野うえのこくあらやまかった。

よんいぬ途中とちゅういぬ山道さんどうぶし管領かんりょう扇谷おうぎや定正さだまさかたきちを仕掛しかけたさわぎにまれながら、おとおんじつみちぶし乳母うばちからしゃくはちはは)がよめたち(曳手・たんふし)とらすあらやまいえにたどりく。みちぶしせいよんろうもそれぞれここに合流ごうりゅうする。たま因縁いんねんったみちぶし村雨むらさめまる信乃しのかえし、邪法じゃほうである火遁かとんじゅつてていぬれにくわわる。しかしそこへきょ田助たすけともひきいる管領かんりょう軍勢ぐんぜい襲撃しゅうげきし、いぬたちは離散りさん余儀よぎなくされる。文明ぶんめい10ねん(1478ねん)7がつ7にちのことであった。

たいうしろうかたき[編集へんしゅう]

あらやまから武蔵むさしこくのがれたしょう文吾ぶんごは、宿やどした旅人たびびとおそっていた盗賊とうぞくなみよんろうかえちにする。なみよんろうつま船虫ふなむししょう文吾ぶんご謝礼しゃれいとして尺八しゃくはちじつ領主りょうしゅである千葉ちば重宝ちょうほうであっためいふえ嵐山あらしやま)をわたしたが、これはわなであった。船虫ふなむし石浜いしはましろおも千葉ちばだい小文おぶみわれ盗人ぬすっととしてすが、尺八しゃくはちをいぶかしんだしょう文吾ぶんごがひそかにかえしていたためにわな不発ふはつわる。しょう文吾ぶんご千葉ちば家老がろううまだいわされるが、じつだいこそがかつて船虫ふなむし夫婦ふうふ嵐山あらしやまぬすませた黒幕くろまくであった。だいしょう文吾ぶんご才覚さいかく見抜みぬき、みずからの主家しゅかへの謀反むほん加担かたんするようちかけるがことわられる。しょう文吾ぶんご警戒けいかいしただいによって城内きうち軟禁なんきんされる。抑留よくりゅうはそのまま1ねんちかつづいたが、そのあいだしょう文吾ぶんご老僕ろうぼくくちから、かつてだい千葉ちば重臣じゅうしんあわ飯原いいはらたね排除はいじょして権力けんりょく掌握しょうあくするためにった策謀さくぼうはなしく。ひろしせい6ねん(1465ねん)、だい同僚どうりょう籠山かごやまいっあずまふとしたねころさせ、いっあずまふとし千葉ちばにいられないよう仕向しむけたうえあわ飯原いいはら一族いちぞく子女しじょいたるまで皆殺みなごろしにしたのであった。

石浜いしはま城下じょうかおんな田楽でんがくっておとずれたが、そのうちの一人ひとりである美貌びぼうだんひらきあさけのだいいた。だんひらきだいしょう文吾ぶんごおくんだ暗殺あんさつしゃ仕留しとめてしょう文吾ぶんごかたらい、いずれは夫婦ふうふとなる約束やくそくわす。じつだんひらきおとこであり、あわ飯原いいはらたね遺児いじいぬざかであった。文明ぶんめい11ねん(1479ねん)5がつもうかたきねらうまだい城内じょうない楼閣ろうかくたいうしろう」でたす。正体しょうたいかしたもう小文おぶみわれ混乱こんらんじょうじてしろ脱出だっしゅつするが、2人ふたりかわわたろうとこころみるうちにはなばなれとなる。

庚申山こうしんさんの妖猫退治たいじ[編集へんしゅう]

あらやま離散りさん諸国しょこくめぐったげんはちは、文明ぶんめい12ねん(1480ねん)9がつ下野げやこくあみからむしあしおおとずれ、庚申山こうしんさん山中さんちゅうまう妖猫のはなしく。せずして庚申山こうしんさんはいったげんはちは妖猫と遭遇そうぐうし、ゆみをもって妖猫の左目ひだりめる。げんはち山頂さんちょう岩窟がんくつった亡霊ぼうれい赤岩あかいわ一角いっかく名乗なのり、みずからをころした妖猫が「赤岩あかいわ一角いっかく」にわっていることをかたり、妖猫をちちしんじてうたがわない実子じっし犬村いぬむら角太郎かくたろう犬村いぬむら大角だいかく母方ははかた親族しんぞく犬村いぬむらやしなわれた)に真実しんじつつたえるよう依頼いらいする。また、一角いっかく大角おおすみげんはちおな因縁いんねんつらなることもげる。やまりたげんはちは、ふもとかえしたまがえしさと大角おおすみ草庵そうあんう。大角おおすみつまであるひなころもはら懐妊かいにん模様もようしめしており、おぼえのない大角おおすみ不義ふぎうたがってひなころも離縁りえんみずからはかえし璧のあん蟄居ちっきょしていたのであった。

にせ赤岩あかいわ一角いっかくじつは妖猫)は、後妻ごさいおさまっていた船虫ふなむしとともに大角おおすみおとずれ、ひなころも復縁ふくえんさせた。これはにせ一角いっかく治療ちりょうのためにはらきもとそのはは心臓しんぞうとを要求ようきゅうするためのものであった。大角おおすみ孝心こうしんせまられてきゅうしたが、おっとすくみずからの潔白けっぱくかすためにひなころも割腹かっぷくする。その腹中ふくちゅうからはたましてにせ一角いっかくった。以前いぜんひなころもやまいとなったさい大角おおすみたまをひたしたみずませたのだが、ひなころもたまあやまのましてまい、その懐妊かいにんられる様子ようすあらわれたのであった。大角おおすみげんはちとともに正体しょうたいあらわした妖猫を退治たいじした。大角おおすみつまふくし、家財かざい処分しょぶんして、文明ぶんめい13ねん(1481ねん)2がつげんはちとともにいぬとして故郷こきょうから旅立たびだつ。

甲斐かい物語ものがたり[編集へんしゅう]

あらやま離散りさん諸国しょこくめぐった信乃しのは、文明ぶんめい13ねん(1481ねん)10がつ甲斐かいこくおとずれた。信乃しのはここで武田たけだ家臣かしん泡雪あわゆき奈四ろう鉄砲てっぽうあやまされてトラブルとなり、仲裁ちゅうさいはいったさる石村いしむら村長そんちょうよんろく城木しろき工作こうさくよろぎむくさくいえ逗留とうりゅうすることになる。降雪こうせつによって逗留とうりゅう長引ながびくが、木工もっこうさくいえには浜路はまじという名前なまえ養女ようじょがいた。あるよる、この浜路はまじ大塚おおつかむら浜路はまじれいうつり、信乃しのおもいをつたえる出来事できごとがあった。木工もっこうさく後妻ごさいであるなつなびきらがそのんで騒動そうどうとなるが、信乃しのかたらった木工もっこうさくはさまざまな因縁いんねんかんり、浜路はまじ信乃しのとつがせることをかんがえる。

なつ引は泡雪あわゆき奈四ろう不倫ふりんなかにあり、浜路はまじうとましくおもっていた。木工もっこうさくは奈四ろうもとたずねて口論こうろんとなり、逆上ぎゃくじょうした奈四ろう工作こうさくころす。なつ引と奈四ろうはそのつみ信乃しのにかぶせようといしいさわゆびがついん謀議ぼうぎをめぐらす。武田たけだだいによって信乃しの村長そんちょうごろしのうたがいで捕縛ほばくされ、浜路はまじ同道どうどうさせられた。

じつは、だいいぬ山道さんどうぶし変装へんそうしていたものであった。ゆびがついんあって丶大が住持じゅうじつとめることになり、そこにたまたまそうすけみちぶしらがったことからいぬ捜索そうさく拠点きょてんになっていた(このときみちぶし近辺きんぺんの、そうすけ遠方えんぽう探索たんさくたっていた)。なつ引と奈四ろう謀議ぼうぎ小坊主こぼうずきされ、信乃しの浜路はまじのこともられたのであった。みちぶしのちにやって本物ほんものだい偽装ぎそう工作こうさく不審ふしんづいてなつ引らは拘引こういんされ、奈四ろう逃亡とうぼうしたが悪行あくぎょうむくいをけることになる。

ゆびがついんで丶大はまた、浜路はまじじつ里見さとみひめ義実よしざねから家督かとくゆずられた里見さとみ義成よしなりじょ)で、幼少ようしょう大鷲おおわしさらわれた浜路はまじひめであったということをつたえる。みちぶし信乃しの安房あわかう浜路はまじひめ隅田川すみだがわまでおくってわかれ、のこいぬさがたびる。

越後えちご物語ものがたり[編集へんしゅう]

南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでんだいなな輯巻なな文政ぶんせい13ねん(1830ねんかんない挿絵さしえ自若じじゃくとしてしょう文吾ぶんご暴牛をちゅうむ」(柳川やながわしげるせん

文明ぶんめい14ねん(1482ねん)3がつ越後えちごこく小千谷おじやおとずれたしょう文吾ぶんごは、石亀いしがめだんふとし好意こういによって逗留とうりゅうする。この山賊さんぞくさけ顛二しゅてんじつまになっていた船虫ふなむしはこのことをり、按摩あんま変装へんそうしてんだしょう文吾ぶんご襲撃しゅうげきするが、たま奇瑞きずいによってすくわれる。船虫ふなむし町人ちょうにんらえられ「神慮しんりょまかし」という放置ほうちけいけるが、おりしも小千谷おじやにやってそうすけはそのことをらずに船虫ふなむしたすけてしまう。さけ顛二のとりで案内あんないされたそうすけは、かれらがぞくであることをって退治たいじする。

そうすけ小文おぶみわれ再会さいかいするが、二人ふたりはこのおさめる長尾ながお景春かげはるははえびらだい刀自とじえびらのおおとじらえられ、あやうく処刑しょけいされそうになる。そうすけちち恩義おんぎのある長尾ちょうび家臣かしんいね戸津とつまもるたすけによって危機ききだっした二人ふたりは、いし禾にかう途中とちゅう信濃しなので、乞食こじき姿すがたをやつしたもう邂逅かいこうする。このときもうっていた「落葉らくよう」のかたなをめぐってそうすけもううが(それぞれがちちにゆかりのかたなかんがえ、実際じっさい双方そうほう関係かんけいがあった)、からいついたしょう文吾ぶんご仲裁ちゅうさいはいった。二人ふたりもう里見さとみとのえんつたえるが、もうはもうひとりのかたき籠山かごやまいっあずまふとしへの復讐ふくしゅうちかっており、宿やど漢詩かんしのこして姿すがたした。

すずしげりんかたき[編集へんしゅう]

文明ぶんめい14ねん(1482ねん)9がつげんはち大角おおすみ信乃しのみちぶしよんいぬは、武蔵むさしこく穂北ほきたそう邂逅かいこうする。こおりかきざんさんひきいる穂北ほきたそうは、結城ゆうき合戦かっせん残党ざんとう豊島としま遺臣いしんなど、管領かんりょうこころよおもわない郷士ごうしたちの自治じちさとであった。当初とうしょ盗賊とうぞく間違まちがえられるという出会であかたをしたいぬたちと穂北ほきたそうであるが、ざんさんむすめである聡明そうめいじゅう判断はんだん伏姫ふしひめしん加護かごもあって誤解ごかいけ、いぬたちはこのあらたな拠点きょてんとすることになる。げんはち大角おおすみはいったんゆびがついんき、そうすけ小文おぶみわれ合流ごうりゅうすることになった。

そのころものよんろう名乗なの湯島天神ゆしまてんじん放下ほうかとなっていた。文明ぶんめい15ねん(1483ねん)1がつ20日はつか扇谷おうぎや定正さだまさ夫人ふじんかに目前もくぜんかなめのまえさるすくったことから、もうかに目前もくぜんおよび扇谷おうぎだに忠臣ちゅうしんかわこいもり如の知遇ちぐうる。力量りきりょう見定みさだめられたもうは、かに目前もくぜんかわこいもりから奸臣かんしん竜山たつやまめん太夫たゆう殺害さつがい依頼いらいされる。竜山たつやまめん太夫たゆうこそは、もうかたき籠山かごやまいっあずまふとしであった。翌日よくじつ小田原おだわら北条ほうじょう使節しせつとして派遣はけんされる籠山かごやま襲撃しゅうげきする計画けいかくてられるが、これをきしたみちぶしもうかたきちにじょうじ、穂北ほきた郷士ごうしたちとともに挙兵きょへいすることを計画けいかくする。そのよるろくいぬ司馬しばはま結集けっしゅうするが、この場所ばしょ船虫ふなむしつじくんをしながら強盗ごうとう殺人さつじんおこな場所ばしょであった。いぬたちとさまざまなあく因縁いんねんつこの悪女あくじょは、出陣しゅつじん門出かどでとしてうしかく誅戮ちゅうりくされた。

1がつ21にちすずしげりんすずのもり籠山かごやまって本懐ほんかいげたころ、信乃しの扇谷おうぎだに本城ほんじょうである五十子いかごじょうとし、みちぶし出陣しゅつじんした定正さだまさ軍勢ぐんぜいやぶる。戦場せんじょうけつけたかわこい孝嗣たかしまもり如の)から、かに目前もくぜんかわこいもり如が自害じがいしたことをかされたいぬたちは、もうみちぶしらが通謀つうぼうしていたわけではないことを説明せつめいしてへい退しりぞいた。

ゆびがついん後任こうにん住持じゅうじわたした丶大は、下総しもうさ結城ゆうき結城ゆうき合戦かっせん戦死せんししゃだい法要ほうようおこなうこととした。なないぬたちは結城ゆうきかう。

おや兵衛ひょうえさい登場とうじょう以後いご[編集へんしゅう]

ひきもとふじらんはちいぬ具足ぐそく[編集へんしゅう]

さん代目だいめ歌川うたがわ豊国ほうこく豊国とよくに揮毫きごう奇術きじゅつきおい』より「あまみょう椿つばき

里見さとみ従属じゅうぞくしていた上総かずさ館山たてやま城主じょうしゅひきもとふじは、盗賊とうぞくせがれから幸運こううんめぐまれていちしろおもがった人物じんぶつである。はちひゃく比丘尼びくにみょう椿つばき幻術げんじゅつによって、浜路はまじひめ姿すがたふじは、浜路はまじひめ恋慕れんぼして婚姻こんいんねがうも、義成よしなりことわられる。みょう椿つばき助力じょりょくふじは、文明ぶんめい15ねん(1483ねん)1がつ里見さとみ嫡男ちゃくなんどおり人質ひとじちにとり、里見さとみ反旗はんきひるがえした。里見さとみ軍勢ぐんぜい人質ひとじち妖術ようじゅつなやまされ、館山たてやまじょうめあぐねた。2月、富山とやまおとずれたろうほう里見さとみ義実よしざね刺客しかくおそわれたが、このときいぬこうちかし兵衛ひょうえ名乗なのだい童子どうじあらわれて危難きなんすくう。おや兵衛ひょうえの「神隠かみがくし」は伏姫ふしひめしんによるもので(このことは「神隠かみがくし」挿絵さしえ読者どくしゃには示唆しさされている)、いぬこうちかし兵衛ひょうえ伏姫ふしひめしん庇護ひごかれ、じつ年齢ねんれい以上いじょう成長せいちょうげていたのであった。また、あらやま行方ゆくえ不明ふめいとなったおとおんせいよんろう夫婦ふうふらも富山とやまみちびかれていた。おや兵衛ひょうえすみやかにふじらん鎮定ちんていする。

ひとたびは助命じょめいされ追放ついほうされたふじであったが、みょう椿つばきとともにさいらんをうかがう。3月にみょう椿つばき幻術げんじゅつによって、おや兵衛ひょうえ浜路はまじひめ密通みっつうしているといううたがいを義成よしなりたせることに成功せいこうした。義成よしなりおや兵衛ひょうえ結城ゆうきかわせ、またたまからもはなしてしまう(ただし、おや兵衛ひょうえたまみずかおや兵衛ひょうえもともどる)。おや兵衛ひょうえがいない里見さとみ領国りょうごくでは、ふじみょう椿つばき上総かずさ館山たてやまじょう奪取だっしゅした。

おや兵衛ひょうえにんのほとりで、扇谷おうぎや奸臣かんしんたちの讒言ざんげんったかわこい孝嗣たかし処刑しょけいされようとするところに遭遇そうぐうする。孝嗣たかし危難きなんすくったのは、かわこい恩義おんぎ政木まさききつねであった。孝嗣たかし政木まさき大全たいぜんあらためて里見さとみつかえることとする。義成よしなり幻術げんじゅつによりおや兵衛ひょうえうたがったことをさとる。誤解ごかいかれたおや兵衛ひょうえ上総かずさ館山たてやまおもむき、4がつ13にちふじった。退治たいじされたみょう椿つばきあらわした本体ほんたいは、たまあずさ怨念おんねん宿やどったたぬきであった。

一方いっぽう結城ゆうきでは、悪僧あくそう徳用とくよう一部いちぶ結城ゆうき重臣じゅうしん法要ほうよう妨害ぼうがいはかった。なないぬ協力きょうりょくして襲撃しゅうげきしゃたたかい、ふじさいらん鎮定ちんていしてけつけたおや兵衛ひょうえ合流ごうりゅうし、ここに八犬士はっけんし集結しゅうけつする。文明ぶんめい15ねん(1483ねん)4がつ16にちのことであった。結城ゆうき介入かいにゅうして事態じたい収拾しゅうしゅうされる。いぬたちはともに安房あわおもむき、里見さとみつかえることとなった。

おや兵衛ひょうえ京都きょうと物語ものがたり[編集へんしゅう]

八犬士はっけんし結集けっしゅう里見さとみ義実よしざねであったが、丶大が出家しゅっけしたことできむわんえることをしみ、八犬士はっけんしせい本姓ほんせい参照さんしょう[注釈ちゅうしゃく 4])をきむわんあらためることを提案ていあん改姓かいせい許可きょかるため朝廷ちょうてい使節しせつ派遣はけんすることとする。使者ししゃえらばれたのがいぬこうちかし兵衛ひょうえで、文明ぶんめい15ねん(1483ねん)7がつ京都きょうと出発しゅっぱつし、8がつ入京にゅうきょうして朝廷ちょうていから許可きょかた。しかし、美貌びぼうおや兵衛ひょうえ管領かんりょうほそかわせいもとられて抑留よくりゅうされてしまう。おや兵衛ひょうえは「きょうとら」としょうされる武芸ぶげい達人たつじんたちや、結城ゆうきわれ京都きょうともどっていた悪僧あくそう徳用とくようちちほそかわ執事しつじ)との試合しあいおこない、おおいに武勇ぶゆうしめした。10月、巨勢こせ金岡かなおかえがいたとら京都きょうとさわがす事件じけん発生はっせいする。11月、とら退治たいじしたおや兵衛ひょうえは、褒賞ほうしょうとして帰国きこくみとめることをほそかわせいもとみとめさせ、安房あわへの帰国きこくく。

関東かんとう大戦たいせん[編集へんしゅう]

文明ぶんめい15ねん(1483ねんふゆいぬたちをうら扇谷おうぎや定正さだまさは、山内やまうち顕定あきさだ足利あしかがしげるらとかたらい、里見さとみ討伐とうばつ連合れんごうぐんこした。里見さとみいぬたちを行徳ぎょうとくくち国府台こうのだい洲崎すざきおきさん方面ほうめん防禦ぼうぎょ使として派遣はけんし、水陸すいりく合戦かっせんおこなわれた。京都きょうとから帰還きかんしたおや兵衛ひょうえや、行方ゆくえ不明ふめいになっていた政木まさき大全たいぜんさんじんし、里見さとみぐん各地かくちだい勝利しょうりおさめ、しょしょう捕虜ほりょとした。

文明ぶんめい16ねん(1484ねん)4がつ朝廷ちょうていから停戦ていせん勅使ちょくしおとずれて和議わぎむすばれ、里見さとみ占領せんりょうしたしょしろ返還へんかんした。信乃しのは、捕虜ほりょとなっていたしげる村雨むらさめまる献上けんじょうし、父子ふしさんだい宿願しゅくがんげた。

大団円だいだんえん[編集へんしゅう]

八犬士はっけんし里見さとみ義成よしなりはちにんひめ結婚けっこんし、しろあたえられ重臣じゅうしんとなる。ときながれ、いぬたちのあざたま文字もじえ、奇瑞きずいうしなわれた。丶大は安房あわよんしゅうはいする仏像ぶつぞうとしていぬたちに数珠玉じゅずだま返上へんじょうさせる。

里見さとみだいさんだい当主とうしゅどおりぼっすると、高齢こうれいになったいぬたちは子供こども家督かとくゆず富山とやまこもった。かれらは仙人せんにんとなったことが示唆しさされる。里見さとみもやがてみちうしなって戦乱せんらんれ、じゅうだいほろぶことになる。

かいがいあまふで[編集へんしゅう]

原典げんてんには、馬琴ばきんによる小説しょうせつ仕立したての「あとがき」がかれている。里見さとみ事跡じせきたずねる廻国かいこく頭陀ずだ僧侶そうりょ)との会話かいわという形式けいしきで、馬琴ばきんもちいた参考さんこう史料しりょう開示かいじ里見さとみ史実しじつ当時とうじ軍記ぐんきぶつにもとづく)や安房あわ地理ちり解説かいせつがなされている。このほか、著者ちょしゃ失明しつめい事実じじつ読者どくしゃかされ、筆記ひっきしゃみちとの労苦ろうくかたられるとともに、おみちへの慰労いろう言葉ことばかれている。

作中さくちゅう用語ようご[編集へんしゅう]

人名じんめい[編集へんしゅう]

物品ぶっぴん[編集へんしゅう]

やっつのれいだま
せんおう行者ぎょうじゃおきな)から伏姫ふしひめゆずられた水晶すいしょう数珠じゅず。108つのたまうちの8つの大玉おおだまで、「仁義じんぎれいさとし忠信ちゅうしん孝悌こうてい」とあらわれていたが、はちぼう伏姫ふしひめしたうようになってからは「如是にょぜ畜生ちくしょうはつ菩提心ぼだいしん」の8文字もじがひとつずつかぶようになった。伏姫ふしひめ自害じがいともなって数珠じゅず飛散ひさんするさいにそれぞれのたま文字もじが「ひとしよしれいさとしただししんこう・悌」とわったものである。のこりの100小玉こだまつなぎなおされて、丶大法師ほうし数珠じゅずとしてつね携帯けいたいしている。八犬士はっけんし同士どうし距離きょりちかづくと感応かんおうしあってその存在そんざいおしえ、肉体にくたいてききず病気びょうき治癒ちゆはやめるちからっている。
もと儒教じゅきょうかれる5つの徳目とくもく五常ごじょう五徳ごとくともわれる)にただしこうしたおしえがもととなっている。
村雨むらさめ村雨むらさめまる
鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかがつたわる宝刀ほうとうで、殺気さっきをもってはなてば刀身とうしんから水気みずけのぼる。八犬伝はっけんでん世界せかいではその特徴とくちょうとともにひろわたったかたなである。結城ゆうき落城らくじょうさい公方くぼう近習きんじゅであった大塚おおつかたくみさくからいちばんさくたくされ、ばんさくはそのさいして犬塚いぬづか信乃しのにこのかたなを滸我公方くぼうしげる献上けんじょうすることをたくした。

地名ちめい[編集へんしゅう]

安房あわこく[編集へんしゅう]

安房あわこく里見さとみ領国りょうごくで、平群へぐりぐん安房あわぐんあさえびすぐんながせまぐんの4ぐん構成こうせいされる。『八犬伝はっけんでん』では発端ほったん舞台ぶたいであり、物語ものがたり後半こうはんでもいぬこうちかし兵衛ひょうえさい登場とうじょう八犬士はっけんし結集けっしゅう里見さとみへの仕官しかんによって舞台ぶたいとなる。『八犬伝はっけんでん』の発端ほったんは、軍記ぐんきぶつしるされた「里見さとみ義実よしざね安房あわ入国にゅうこく伝説でんせつ」(後述こうじゅつ)を土台どだいつくられている。

富山とみやま(とやま)
安房あわ随一ずいいち高峰こうほうとしてえがかれる八犬伝はっけんでん世界せかい聖地せいち発端ほったん伏姫ふしひめはこのやま自害じがいし、大団円だいだんえんいぬたちはこのやまえた。
実在じつざいする富山とやまみなみ房総ぼうそう)は「とみさん」とみ、標高ひょうこう349メートルのやまである。
館山たてやまじょう(たてやまじょう)
八犬伝はっけんでん』では発端ほったん安西あんざいけいれん居城きょじょうとして、大団円だいだんえんではいぬこうちかし兵衛ひょうえあたえられるしろとして登場とうじょうする。もろしょでもしばしば混同こんどうされるが、ひきもとふじ居城きょじょうとした「館山たてやまじょう」は上総かずさこくにあり、安西あんざいきゅうしろとはべつである。
実際じっさい館山たてやましろ館山たてやま)には、史実しじつ里見さとみ戦国せんごく時代じだいまつ本拠ほんきょうつした。現在げんざい模擬もぎ天守てんしゅ館山たてやま市立しりつ博物館はくぶつかん分館ぶんかんとなっている。

武蔵むさしこく[編集へんしゅう]

八犬伝はっけんでん物語ものがたりおおくは武蔵むさしこく、とくに江戸えど近郊きんこう展開てんかいする。ほんさく江戸城えどじょう登場とうじょうしないが、これは江戸えど幕府ばくふたいする遠慮えんりょとされる。

五十子いかごじょう(いさらごじょう)
八犬伝はっけんでん』に登場とうじょうする架空かくうしろ扇谷おうぎや定正さだまさ本城ほんじょうである。作中さくちゅう地理ちり描写びょうしゃから、武蔵むさしこく荏原えばらぐんさら付近ふきん位置いちするとされている。犬塚いぬづか信乃しのとされ、関東かんとう大戦たいせんでも占領せんりょうされた。しろ伏姫ふしひめははじゅう(いさらご)とどう同音どうおんである。
室町むろまち時代じだい中期ちゅうき関東かんとう地方ちほうには五十子いかごじょうというしろ実在じつざいしたが、所在地しょざいちはまったくことなり(埼玉さいたまけん本庄ほんじょう)、「いかこ(いかっこ、いかつこ、いらこ)じょう」とむ。史実しじつ五十子いかごじょう山内やまうち上杉うえすぎ足利あしかがしげる対抗たいこうして築城ちくじょうしたもので、上杉うえすぎ顕定あきさだ反旗はんきひるがえした長尾ながお景春かげはるがこのしろとしたじゅうたたか(1477ねん)は、関東かんとう地方ちほう戦国せんごくのひとつである。
穂北ほきた(ほきた)
八犬伝はっけんでん』に登場とうじょうする架空かくう荘園しょうえんこおりかきざんさんら、結城ゆうき合戦かっせん参加さんかしゃ豊島としま残党ざんとうが、周辺しゅうへんの2きょう梅田うめだ柳原やなぎはら)とともに自治じちてき支配しはいをおこなっており、管領かんりょう扇谷おうぎや定正さだまさたたかいをいど八犬士はっけんし拠点きょてんとした。
梅田うめだ柳原やなぎはら隣接りんせつするという地理ちりてき描写びょうしゃから、保木間ほきま東京とうきょう足立あだち)に比定ひていされる。

下総しもうさこく[編集へんしゅう]

国府台こうのだい(こうのだい)
下総しもうさ国府台こうのだい八犬伝はっけんでんでは関東かんとう大戦たいせんさい合戦かっせんおこなわれた。
史実しじつでは、里見さとみ北条ほうじょうあいだでおよそ前後ぜんご2にわたる国府台こうのだい合戦かっせんおこなわれ、いずれもさと見方みかたやぶれている。

上総かずさこく[編集へんしゅう]

館山たてやまじょう(たてやまじょう)
八犬伝はっけんでん』に登場とうじょうする架空かくうしろひきもとふじ居城きょじょうで、にわたる叛乱はんらん舞台ぶたいとなった。上総かずさこく夷隅いすみぐんの「殿台とのだい」にあり、上総かずさ広常ひろつねかんのあとと設定せっていされている[注釈ちゅうしゃく 5]

上野うえのこく[編集へんしゅう]

あらさん(あらめやま)
八犬伝はっけんでん』に登場とうじょうする架空かくうやま上野うえのこく位置いちする。おとおんあんがあり、いぬ会同かいどう離散りさん舞台ぶたいとなった。
地理ちりてき描写びょうしゃから荒船山あらふねやま比定ひていされる。

甲斐かいこく[編集へんしゅう]

甲斐かいこく武田たけだ武田たけだしんあきら)の領国りょうごくである。作中さくちゅう犬塚いぬづか信乃しの浜路はまじ浜路はまじひめ)をめぐる物語ものがたり展開てんかいする。

馬琴ばきん自身じしん甲斐かいおとずれた記録きろくいもののあにきょうむね甲府こうふ勤番きんばんとして赴任ふにんしており、作品さくひん随筆ずいひつなどでもしばしば甲斐かいかんする事情じじょうしるされることがあり、随筆ずいひつなかきょうむね書簡しょかんからヒントをていることしるされていることから、きょうむねつうじて甲斐かいこくかんする知識ちしきていたとかんがえられている。

いし禾(いさわ)
いし禾は史実しじつ世界せかい石和いさわ現在げんざい笛吹ふえふき石和いさわまち)で、戦国せんごく時代じだい甲府こうふ移転いてんされる以前いぜん甲斐かい守護しゅご武田たけだ居館きょかん所在地しょざいちであった。八犬伝はっけんでん作中さくちゅうでも武田たけだ本拠ほんきょとしてえがかれる。物語ものがたり中盤ちゅうばんでは丶大当地とうちてらゆびがついん」の住職じゅうしょくとなり、いぬ探索たんさく拠点きょてんとなっていた。

事件じけん[編集へんしゅう]

春王はるおう安王やすおうはか岐阜ぎふけん不破ふわぐん垂井たるいまち
結城ゆうき合戦かっせん
八犬伝はっけんでん冒頭ぼうとうはいされている合戦かっせんえいとおる10ねん1438ねん)のえいとおるらんほろぼされた鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが持氏もちうじ遺児いじ春王丸はるおうまる安王丸やすおうまるほうじた関東かんとうしょしょうが、えいとおる12ねん1440ねん結城ゆうき氏朝うじとも居城きょじょう結城ゆうきじょうって室町むろまち幕府ばくふ叛旗はんきひるがえした。よく嘉吉よしきち元年がんねん1441ねん4がつ16にち結城ゆうきかたやぶれ、らえられた春王丸はるおうまる安王丸やすおうまる京都きょうと連行れんこうされる途中とちゅう5月16にち将軍しょうぐん足利あしかが義教よしのりいのちにより美濃みのこく垂井たるい宿やど金蓮寺かなはすじ殺害さつがいされたというのが史実しじつである。
八犬伝はっけんでん』においては、えいとおる11ねん(1439ねんはるごろから「籠城ろうじょうさんねんおよぶ」たたか[14]となっている。里見さとみもと義実よしざね親子おやこ大塚おおつかたくみさくばんさく親子おやこ結城ゆうきかた参戦さんせんしており、結城ゆうきじょう落城らくじょうみなみそうびて勢力せいりょくきず里見さとみ物語ものがたりと、鎌倉かまくら公方くぼう名刀めいとう村雨むらさめまるあずかる大塚おおつか物語ものがたり発端ほったんとなる。登場とうじょう人物じんぶつではほかに穂北ほきたこおりかきざんさん結城ゆうきかた参戦さんせんしゃであり、のみ登場とうじょうするさん犬塚いぬづか信乃しの外祖父がいそふ)、下河辺しもこうべためきよし浜路はまじひめ外祖父がいそふ)などもやはり結城ゆうきかた討死うちじにをしている。一方いっぽう幕府ばくふぐんそう大将たいしょうつとめる関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ清方きよかた作中さくちゅうではれられていないが、史実しじつでは上杉うえすぎ顕定あきさだ祖父そふにあたる)以下いか上杉うえすぎ幕府ばくふぐんがわ登場とうじょうする。八犬士はっけんし結集けっしゅうになったのは、結城ゆうき合戦かっせん死者ししゃとむら結城ゆうきでの法要ほうようであった。
春王はるおう安王やすおうりょう公達きんだち)が金蓮寺かなはすじ処刑しょけいされるのは史実しじつ沿っているが、『八犬伝はっけんでん作中さくちゅうにおいてはりょう公達きんだち奪還だっかんうかが幕府ばくふぐんにまぎれていた大塚おおつかたくみさくばんさく親子おやこが、それぞれ刑場けいじょう乱入らんにゅうしてりょう公達きんだちくび奪取だっしゅはかった。りょう公達きんだち(および殺害さつがいされたたくみさく)のくび大塚おおつかばんさくによって刑場けいじょうから奪取だっしゅされ、よし木曽きそ)の御坂みさかとうげ付近ふきん[注釈ちゅうしゃく 6]菩提寺ぼだいじであるひねはなあん(ここでたくみさくは、つまとなるたば邂逅かいこうした)にある、さん夫妻ふさいはかかたわらにほうむられた。『八犬伝はっけんでん結末けつまつだい180かいじょう)では、たい管領かんりょうせん和睦わぼく文明ぶんめい16ねん1484ねん)、丶大・あまさき照文てるぶみとともに上洛じょうらくした八犬士はっけんしたちが帰途きと金蓮寺かなはすじ訪問ほうもんし、おりしも奇瑞きずいによってみちびかれた人々ひとびとによってもたらされたりょう公達きんだちたくみさくみっつの髑髏しゃれこうべ改葬かいそうして法要ほうようおこな物語ものがたりがある。作中さくちゅう設定せっていによれば、金蓮寺かなはすじ現存げんそんする春王はるおう安王やすおう墓石はかいしはこのときつくられたものである。
里見さとみ義実よしざね安房あわ入国にゅうこく
八犬伝はっけんでん発端ほったんは、江戸えど時代じだい里見さとみ関連かんれん軍記ぐんきぶつかれた、「里見さとみ義実よしざね安房あわ入国にゅうこく伝説でんせつ」とばれる説話せつわ題材だいざいとしている。『 里見さとみだい』『 里見さとみきゅうだい』『里見さとみ軍記ぐんき』といった軍記ぐんきぶつは、里見さとみ旧臣きゅうしんであった山田やまだ遠江とおとうみかい寛永かんえい8ねん(1631ねん)にあらわし、書写しょしゃによってひろまっていったとされる[15]
軍記ぐんきぶつによれば、安房あわこく鎌倉かまくら時代じだい以来いらい平群へぐりぐんたいらぐん)の安西あんざい安房あわぐんかみあまりちょうえびすぐんまるながせまぐん東条とうじょう(これら4は『吾妻あづまきょう』などの歴史れきししょ記録きろくるいにも登場とうじょうしている)がそれぞれのぐん支配しはいしてきた。室町むろまち時代じだい後期こうき[注釈ちゅうしゃく 7]神余かなまりけいさだつかえていた山下やましたじょうけん主君しゅくんって所領しょりょううばい、安房あわぐん山下やましたぐんあらためるなどしたために国内こくない混乱こんらんした[注釈ちゅうしゃく 8]。おりしも、里見さとみ義実よしざね木曽きそもと堀内ほりうち貞行さだゆきという2人ふたり家臣かしんりょうは『八犬伝はっけんでん』にも登場とうじょうする)をともなって結城ゆうき合戦かっせんから安房あわこく白浜しらはまびていたが、混乱こんらんしていた安房あわいちこく平定へいていした、というのが「伝説でんせつ」の骨子こっしである[注釈ちゅうしゃく 9]
八犬伝はっけんでん作中さくちゅうでは、神余かなまりけいさだ神余かなまり光弘みつひろ山下やましたじょうけん山下やました定包さだかねとされ、安房あわぐん山下やましたぐんあらためたエピソードは、滝田たきたたまあらためたというはなし利用りようしている。ただし軍記ぐんきぶつとは勢力せいりょく配置はいち平定へいてい経緯けいいことなっており、『八犬伝はっけんでん』ではかみあまり東条とうじょう一族いちぞくとされている)が平群へぐりぐんちょうせまぐんおさめ、安西あんざいけいれん安房あわぐんおさめている。軍記ぐんきぶつでは東条とうじょう攻略こうりゃく義実よしざね安房あわ平定へいてい完成かんせいするが、『八犬伝はっけんでん』では東条とうじょう攻略こうりゃくから平定へいていはじまる。また軍記ぐんきぶつでは里見さとみって協力きょうりょくする安西あんざいが、『八犬伝はっけんでん』ではしばらく義実よしざね安房あわこく二分にぶんして並立へいりつし、敵対てきたいする[注釈ちゅうしゃく 10]
関東かんとう大戦たいせんたい管領かんりょうせん
八犬伝はっけんでん』における架空かくう合戦かっせん作中さくちゅう文明ぶんめい15ねん1483ねんふゆ関東かんとう管領かんりょう扇谷おうぎや定正さだまさ山内やまうち顕定あきさだ)・滸我公方くぼう足利あしかが成氏しげうじ)・三浦みうらよしどう千葉ちばたね連合れんごうぐん里見さとみによる戦争せんそう行徳ぎょうとくこう国府台こうのだい洲崎すざきおきさんヶ所かしょ戦場せんじょうとするこの戦争せんそう総称そうしょう原典げんてんちゅうにはないが、研究けんきゅうしゃによって「関東かんとう大戦たいせん」「たい関東かんとう管領かんりょうせん」などとづけられている。
合戦かっせん描写びょうしゃは『三国志さんごくし演義えんぎ』や『みず滸伝』『戦国せんごくさく』などを下敷したじきにしている。内田魯庵うちだろあんたい管領かんりょうせん描写びょうしゃについて、軍記ぐんきぶつとしての精細せいさいくと酷評こくひょうしているが[19]雄大ゆうだい規模きぼ物語ものがたり展開てんかいきょへんまくきとするじょう無用むようではないと評価ひょうかしており[20]、また戦後せんご物語ものがたりだいきゅう輯巻よんじゅうきゅうだい179かい以下いか)については因縁いんねん因果いんが解決かいけつあたえるものとしてたか評価ひょうかしている[21]

概念がいねん[編集へんしゅう]

名詮自性みょうせんじしょう
はそのものの本性ほんしょうをあらわすという仏教ぶっきょう用語ようご名詮自性みょうせんじしょう[注釈ちゅうしゃく 11]援用えんようしたものである。
主要しゅよう人物じんぶつには、物語ものがたり世界せかいにおいてあらかじめさだめられた宿命しゅくめいかかわるものがあり、その意味いみかされることで因果いんが成就じょうじゅしたことを証明しょうめいする。たとえば、伏姫ふしひめの「ふく」は「ひとにしていぬしたがう」をあらわし、おや兵衛ひょうえ両親りょうしんであるぼうはちぬま(ぬい)夫婦ふうふは「はちぼう・いぬ」を転倒てんとうさせたものである。
役行者えんのぎょうじゃ(えんのぎょうじゃ)
役行者えんのぎょうじゃ江戸えど時代じだい文芸ぶんげい作品さくひん多用たようされた一種いっしゅ神格しんかくである[注釈ちゅうしゃく 12]役行者えんのぎょうじゃゆかりの養老ようろうてら参拝さんぱいした伏姫ふしひめいちぎょうまえ示現じげんし、伏姫ふしひめ仁義じんぎはちぎょう数珠じゅずさづけた。高田たかだまもるによれば、一言ひとことぬし使役しえきする役行者えんのぎょうじゃは「げんとがめ」をてのひらり、里見さとみ義実よしざねたまあずさたいする助命じょめい約束やくそくひるがえしたところからしょうじた因果いんがてのひらることを象徴しょうちょうする。
如是にょぜ畜生ちくしょうはつ菩提心ぼだいしん(にょぜちくしょうほつぼだいしん)
伏姫ふしひめ数珠じゅずに「仁義じんぎれいさとし忠信ちゅうしん孝悌こうてい」にわって文字もじはちぼうひょういたたまあずさきよしれいとともに文字もじもともどる。のち、ひきもとふじらんだい)で、おや兵衛ひょうえ仁玉にったまたれたみょう椿つばきじつは妖狸)の屍骸しがいにこの文字もじあらわれた。

出典しゅってん解釈かいしゃく[編集へんしゅう]

里見さとみ八犬士はっけんし」の出典しゅってん[編集へんしゅう]

里見さとみ八犬士はっけんし」は、もともととおる2ねん(1717ねん)に刊行かんこうされた槇島まきしま昭武あきたけへん和漢わかんおんしゃくしょげんこう節用せつようしゅう』(「増補ぞうほあいるいだい節用せつようしゅう」とも。馬琴ばきんはじめ輯にした「八犬士はっけんしでんじょ[22]に「まきこう」として言及げんきゅうしている)に、「尼子あまこじゅう勇士ゆうし」などとともに掲載けいさいされた武士ぶし名前なまえのリストである。『和漢わかんおんしゃくしょげんこう節用せつようしゅう』では「いぬ山道さんどうぶし犬塚いぬづか信濃しなの犬田いぬたゆたかいぬざか上野うえの犬飼いぬかいはじめはち犬川いぬかわそうすけいぬこうしん兵衛ひょうえ犬村いぬむら大学だいがく」の列挙れっきょされている。

かれらの活動かつどう時期じき事跡じせきはもとより、実在じつざいしたかどうかもあきらかではない。馬琴ばきんは、実在じつざいしたかもしれない8にん武士ぶし物語ものがたりではなく、かれらのりた伝奇でんき小説しょうせつ稗史はいし)をつくると言明げんめいしている。

登場とうじょう人物じんぶつの「モデル」[編集へんしゅう]

馬琴ばきん言明げんめいするものではないが、八犬士はっけんしやその作中さくちゅう登場とうじょう人物じんぶつについて、歴史れきしじょう人物じんぶつかさね、「モデル」と主張しゅちょうするせつがある。

はちけん[編集へんしゅう]

史実しじつ里見さとみ最後さいご当主とうしゅであった館山たてやま藩主はんしゅ里見さとみ忠義ただよしは、江戸えど幕府ばくふによって伯耆ほうきこくてんふうされ(倉吉くらよしはん参照さんしょう)、1622ねんにそのぼっした。このとき忠義ちゅうぎ殉死じゅんしした8にん家臣かしんがあり、戒名かいみょう共通きょうつうして「けん」のはいることからはちけんしょうされる[注釈ちゅうしゃく 13]かれらのはか鳥取とっとりけん倉吉くらよし大岳おおたけいんにあり、また倉吉くらよしから分骨ぶんこつしたはか館山たてやましろふもとてられている。

この「はちけん」を八犬士はっけんしのモデルにもとめるせつもある。たとえば川名かわなのぼるは「この殉死じゅんししたはちにんはなしで、ふと『南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』をおもす。馬琴ばきんはどこかでこのはち殉死じゅんししゃはなしいたのではなかろうか。殉死じゅんししゃ気持きもちは、『八犬伝はっけんでん』のなか八犬士はっけんしのようなはたらきをしてふたた里見さとみ再興さいこうしたかったにちがいない。」とべている[23]

もっとも、この言説げんせつひろまったのは『八犬伝はっけんでん』が一世いっせい風靡ふうびしてからとも指摘してきされる[24]

たねひめ伏姫ふしひめせつ[編集へんしゅう]

里見さとみよしむすめ正木まさきしんしげるとついだたねひめは、おっとだい国府台こうのだい合戦かっせん(1564ねん)でうしなうと、わかくして出家しゅっけして養老渓谷ようろうけいこくちかくの宝林寺ほうりんじ現在げんざい市原いちはら朝生原あそうばら)に隠棲いんせい[注釈ちゅうしゃく 14]、そこで生涯しょうがいごした[25][26]。このたねひめ伏姫ふしひめのモデルととなえるせつがある[26]

漢籍かんせき中国ちゅうごく白話はくわ小説しょうせつ[編集へんしゅう]

八犬伝はっけんでん』には博覧強記はくらんきょうきをうたわれた馬琴ばきん漢学かんがく教養きょうよう中国ちゅうごく白話はくわ小説しょうせつへの造詣ぞうけいが、ときに「衒学げんがくてき」とひょうされるほど引用いんようされたり、物語ものがたり構成こうせいまれたりしている。その作中さくちゅうおりれて引用いんようされる漢籍かんせきが、フィクションである「稗史はいし」の世界せかい奥行おくゆきをたせている[よう出典しゅってん]。たとえばだいいちかいにおいて、白竜はくりゅう昇天しょうてん里見さとみ義実よしざね古今ここん典籍てんせき引用いんようしてりゅう解説かいせつするくだり[注釈ちゅうしゃく 15]はよくられている。

八犬伝はっけんでん』にもっともおおきな影響えいきょうあたえた白話はくわ小説しょうせつは『みず滸伝』である。たとえば「いぬ列伝れつでん」の筋立すじだてに『みず滸伝』の構想こうそう散見さんけんされる[27][28][29][30]馬琴ばきんは『高尾たかおせんぶん』『傾城けいせいすい滸伝』などの翻案ほんあん作品さくひん執筆しっぴつしただけでなく[31][32]原典げんてん翻訳ほんやく新編しんぺんすい滸画でん』の刊行かんこうかかわったほか[33][34][35]きむきよしによるななじゅうかいほんみず滸伝の成立せいりつ参照さんしょう)を批判ひはんしてひゃくじゅうかいほん正統せいとうとする批評ひひょうおこなうなど、『みず滸伝』の精読せいどくしゃであった。

みず滸伝』以外いがいでは『三国志さんごくし演義えんぎ』がおお参照さんしょうされている[36]。とくに関東かんとう大戦たいせん描写びょうしゃにおいて顕著けんちょであり、たとえば洲崎すざきおき海戦かいせんあかかべたたかなおししたものである。また、『ふうしん演義えんぎ』からの影響えいきょう指摘してきするせつもある[よう出典しゅってん]

軍記ぐんきぶつ地誌ちし[編集へんしゅう]

馬琴ばきんは「かいがいあまふで」において、みなみそう里見さとみについてしるした「史書ししょ」として『里見さとみ』『里見さとみきゅうだい』『房総ぼうそう治乱ちらん』『里見さとみ軍記ぐんき』をげ、また『北条ほうじょうだい』『きのえようぐんかん』『本朝ほんちょう三国志さんごくし』などの「俗書ぞくしょ」にも里見さとみへの言及げんきゅうがあることをべている。また、とくに近年きんねんちょとして中村なかむらこく房総ぼうそうこころざしりょう』のげている。

馬琴ばきんが「史書ししょ」としてげた書籍しょせきは、今日きょうでは創作そうさくまじえた軍記ぐんきぶつとみなされている。八犬伝はっけんでんは「里見さとみ義実よしざね安房あわ入国にゅうこく伝説でんせつ」を発端ほったんのモチーフとし、後日ごじつだんとして里見さとみよしゆたか里見さとみみのる親子おやことの確執かくしついぬかかたたか)にれているが、これらの記述きじゅつはこうした軍記ぐんきぶつ依拠いきょしている。今日きょう歴史れきしがくでは、どう時代じだい史料しりょう検討けんとうなどをとおして、初期しょき里見さとみ歴史れきし従来じゅうらいしんじられてきた姿すがたおおきくことなることが指摘してきされている[よう出典しゅってん]

越後えちご小千谷おじや描写びょうしゃには、当時とうじ親交しんこうのあった鈴木すずき牧之ぼくし北越ほくえつゆき』の原稿げんこう参照さんしょうされており、同地どうちおこなわれるうしかくとっ作中さくちゅうまれている。

馬琴ばきんの「隠微いんび[編集へんしゅう]

馬琴ばきんは、みずからの創作そうさく技法ぎほうとして「稗史はいしななのり」をまとめ、『八犬伝はっけんでんだいきゅう輯巻なな付言ふげんとしてしるしている。このうち「隠微いんび」は、物語ものがたりにはぶんがいに「深意しんい」があるとするものである。「ひゃくねんのち知音ちいんを俟てさとらしめんとす」という馬琴ばきん言葉ことばには、おおくの読者どくしゃ研究けんきゅうしゃ魅了みりょうされてきた。

八犬伝はっけんでん』の物語ものがたり構造こうぞう人物じんぶつ配置はいちには仏教ぶっきょう説話せつわ日本にっぽん神話しんわ、あるいは民間みんかん信仰しんこうなどのモチーフがふくあいてき投影とうえいされていると解釈かいしゃくする研究けんきゅうしゃもいる。「かくされた出典しゅってん」と解釈かいしゃくされたものに以下いかのようなものがあげられる。

はち文殊もんじゅ曼荼羅まんだら
高田たかだまもる提唱ていしょう獅子しし(=はちぼう)に騎乗きじょうする文殊もんじゅ菩薩ぼさつ(=伏姫ふしひめ)のイメージ(はち文殊もんじゅ菩薩ぼさつ)が投影とうえいされているとする。このせつによれば「八犬士はっけんしのうちにん女装じょそうして登場とうじょうする理由りゆう」は、文殊もんじゅ菩薩ぼさつしたがはちだい童子どうじのうちにん比丘びく女児じょじ)であることにもとめられ、「いぬあざ牡丹ぼたんである理由りゆう」は牡丹ぼたんにおいが獅子しし(=はちぼう)のちからおさえる霊力れいりょくがあることで説明せつめいされる。また、後半こうはんあらわれる政木まさき大全たいぜんが「じゅんいぬ」としてぐうされるのは文殊もんじゅ菩薩ぼさつ従者じゅうしゃであるぜんざい童子どうじ投影とうえいされているためとされている。
北斗七星ほくとしちせい
八犬伝はっけんでん刊行かんこう開始かいしまえされた刊行かんこう予告よこくから、一時いちじ馬琴ばきんには『ごうるいだい節用せつようしゅう』の記述きじゅつ無視むししてまで物語ものがたりを「なないぬでん」とする構想こうそうがあったという。高田たかだまもる八犬士はっけんし北斗七星ほくとしちせいのイメージが投影とうえいされているとも指摘してきしている。七星ななえひとミザールにある「輔星(ぼし」を8番目ばんめほしなすことにより齟齬そごをなくしているが、これによって「八犬士はっけんしのうちいちにん子供こどもとして登場とうじょうする理由りゆう」も説明せつめいできるとする。

徳田とくたたけしらによって『八犬伝はっけんでん』に執筆しっぴつ当時とうじ社会しゃかい情勢じょうせいへの馬琴ばきん批評ひひょう見出みいだ解釈かいしゃく存在そんざいする[よう出典しゅってん]おや兵衛ひょうえ造形ぞうけいにはちこわしさいあらわれたというだい童子どうじ姿すがたかさねられており、またおや兵衛ひょうえ京都きょうと物語ものがたり登場とうじょうする足利あしかが義政よしまさ批判ひはん大御所おおごしょ徳川とくがわ家斉いえなり批判ひはんが、とら退治たいじ物語ものがたりには大塩おおしお平八郎へいはちろうらん1837ねん)の隠喩いんゆがあるともされる[よう出典しゅってん]。また、小谷野こやのあつし里見さとみ領国りょうごく日本にっぽんのミニチュアととらえ、領民りょうみん組織そしきしておこなわれた里見さとみ軍事ぐんじ訓練くんれん描写びょうしゃなどに江戸えど時代じだい後期こうき海防かいぼうろんとの関係かんけい見出みいだしている。

研究けんきゅう紹介しょうかい[編集へんしゅう]

八犬伝はっけんでん』は江戸えど時代じだい戯作げさく文芸ぶんげい代表だいひょうさくひとつであり、大衆たいしゅう文化ぶんかへの影響えいきょうりょくおおきなものであったが、江戸えど読本とくほんへの文学ぶんがくてき評価ひょうかひくさもあいまって、ながらく文学ぶんがく研究けんきゅう主要しゅよう対象たいしょうとはされてこなかった。

1980ねんに『八犬伝はっけんでん世界せかい』を上梓じょうしした高田たかだまもるは、副題ふくだいに「伝奇でんきロマンの復権ふっけん」をかかげ、「典拠てんきょ」にかんする大胆だいたん解釈かいしゃくした。これにたいしては実証じっしょうせい徳田とくたたけしとのあいだ論争ろんそうおこなわれた。近年きんねんは、文学ぶんがく分野ぶんやでの学術がくじゅつ研究けんきゅうすすめられ、江戸えど思想しそう研究けんきゅう資料しりょうとして利用りようされるようにもなっている。八犬伝はっけんでん研究けんきゅうしゃには以下いかのような人物じんぶつがいる。

海外かいがいへの紹介しょうかい[編集へんしゅう]

日本にっぽん国外こくがいでは、1983ねん映画えいが里見さとみ八犬伝はっけんでん』やアニメ『THE八犬伝はっけんでん』といった派生はせい作品さくひんつうじて八犬伝はっけんでんられている。

英語えいごへの翻訳ほんやくは、ドナルド・キーンによる「浜路はまじクドキ」の部分ぶぶん英訳えいやく[37]や、Chris Drake による部分ぶぶんやく[38]などがられている。現時点げんじてんでは、完訳かんやく刊行かんこうおこなわれていないが、日本にっぽん文学ぶんがく研究けんきゅうしゃによる翻訳ほんやくこころみが進行しんこうちゅうであり、随時ずいじブログじょう一般いっぱん公開こうかいされている[39]

中国ちゅうごくへは、いつきはてわけにより1992ねん南開みなみびらき大学だいがく出版しゅっぱんしゃよりぜん4かん発行はっこうされている[40]

文献ぶんけん[編集へんしゅう]

原典げんてん校訂こうてい[編集へんしゅう]

現代げんだいやく[編集へんしゅう]

アレンジ(脚色きゃくしょく)のつよいものは「南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん題材だいざいにした作品さくひん#小説しょうせつふし参照さんしょう
  • 白井しらい喬二きょうじわけ現代げんだいやく 南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』(河出かわで文庫ぶんこ上下じょうげ)、2003ねんISBN 4002002705
    日本にっぽん古典こてん文庫ぶんこ19 南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』(河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、1976ねん新装しんそうばん1988ねん)の文庫ぶんこ初刊しょかんは1956ねん
    抄訳しょうやくだが前半ぜんはんはほぼ全訳ぜんやく後半こうはんくほど省略しょうりゃくすすみ、わりのほうはほとんど筋書すじがきにちかい。
  • 山田野やまだのおっとわけ八犬伝はっけんでんぜん8かん太平たいへい出版しゅっぱんしゃ、1985ねんISBN 480312101X ほか
    児童じどうしょだが、全訳ぜんやくおこなっている。
  • 羽深はぶかただしやく南総里見八犬傳なんそうさとみはっけんでん既刊きかん6かんぜん10かん予定よていだったが、7かん以降いこう刊行かんこう)(JICC出版しゅっぱんきょく宝島社たからじましゃ、1985ねん - 1992ねんISBN 9784880630915ほか
    完訳かんやくまき振分ふりわけ岩波いわなみ文庫ぶんこばん一致いっちするので、底本ていほん岩波いわなみきゅう文庫ぶんこばん推測すいそくされる。4かんまでは「門坂かどさかりゅう 」、5かんから「吉田よしだ光彦みつひこ装画そうがである。馬琴ばきんじょばつなども全訳ぜんやくしている。ある程度ていど原文げんぶんもちいられている文字もじ表記ひょうきかすため仮名がなませようとする個所かしょもある。途中とちゅうから日本にっぽん名著めいちょ全集ぜんしゅうばん参照さんしょうしたらしく付録ふろくにその一部いちぶれられている。
  • 徳田とくたたけしわけ日本にっぽん文学ぶんがく 古典こてんへん 45 南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』(ほるぷ出版しゅっぱん、1987ねん)。抄訳しょうやく
  • 安西あんざい篤子あつこ安西あんざい篤子あつこ南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん わたしの古典こてん』(集英社しゅうえいしゃ、1986ねん集英社しゅうえいしゃ文庫ぶんこ、1996ねん)。抄訳しょうやく翻案ほんあんあり
  • 栗本くりもとかおるわけ里見さとみ八犬伝はっけんでん 少年しょうねん少女しょうじょ古典こてん文学ぶんがくかん』(講談社こうだんしゃ、1993ねん新装しんそうばん2001ねん、2010ねん)。抄訳しょうやく児童じどうしょ翻案ほんあんあり
  • 平岩ひらいわ弓枝ゆみえさく佐多さた芳郎よしお南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』(中公ちゅうこう文庫ぶんこ、1995ねん)。抄訳しょうやく翻案ほんあんあり。読売新聞よみうりしんぶん日曜にちようばん(1992 - 93ねん)に連載れんさい
  • 鈴木すずきわけ南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん 現代げんだい歴史れきし文学ぶんがく』 (うえした つとむまこと出版しゅっぱん、2004ねん)。詳細しょうさい抄訳しょうやく ISBN 458507063X
  • 丸屋まるやおけはちわけ全訳ぜんやく南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』(げんうみ書房しょぼう、2003ねん改訂かいていばん2007ねんISBN 4901891014
    2さつぐみでのはこにゅうセット。底本ていほん岩波いわなみ文庫ぶんこ旧版きゅうばんかいがいあまふでまでやくしているが、かくへんじょばつなどは最初さいしょのものをのぞわけくわえて原本げんぽん区切くぎりを無視むしして、独自どくじあきらてをおこなっている。距離きょり時間じかん表記ひょうき現代げんだいのものに変改へんかいしている。逐語ちくごやくではない箇所かしょがあり、岩波いわなみ文庫本ぶんこぼん原文げんぶん比較ひかくすると訳出やくしゅつされていない章句しょうくすくなくない。(たとえば、「かいがいあまふで」の「公田くでん」のじょうなど)
  • 石川いしかわひろしへん南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』(角川かどかわソフィア文庫ぶんこビギナーズ・クラシックス、2007ねん)。へんやくでの入門にゅうもんしょ

研究けんきゅう書籍しょせき[編集へんしゅう]

  • 高田たかだまもる完本かんぽん 八犬伝はっけんでん世界せかい筑摩書房ちくましょぼうちくま学芸がくげい文庫ぶんこ〉、2005ねんISBN 4480089403 
    八犬伝はっけんでん世界せかい伝奇でんきロマンの復権ふっけん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、1980ねんISBN 4121005953 改訂かいてい増補ぞうほ
  • 小谷野こやのあつし新編しんぺん 八犬伝はっけんでんあやぎぬそう筑摩書房ちくましょぼう〈ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ〉、2000ねんISBN 4480085408 
    八犬伝はっけんでんあやぎぬそう福武書店ふくたけしょてん、1990ねんISBN 482883320X 改訂かいてい増補ぞうほ
  • 川村かわむら二郎じろう里見さとみ八犬伝はっけんでん岩波書店いわなみしょてん古典こてんむ〉、1984ねんISBN 4000044664 のちに「どう時代じだいライブラリー」1997ねんISBN 4002603288
  • しんじ純一じゅんいつ馬琴ばきん大夢だいむ 里見さとみ八犬伝はっけんでん世界せかい岩波書店いわなみしょてん、2004ねんISBN 4000244248 
  • まご琳淨『日本にっぽん近世きんせいにおける白話はくわ小説しょうせつ受容じゅよう曲亭馬琴きょくていばきんと『みず滸傳』』汲古書院しょいん、2021ねんISBN 9784762936579 

図説ずせつ[編集へんしゅう]

  • 図説ずせつ日本にっぽん古典こてん19 曲亭馬琴きょくていばきん』(集英社しゅうえいしゃ、1989ねん)。水野みずのみのるほかちょ
  • 新潮しんちょう古典こてん文学ぶんがくアルバム23 滝沢たきざわ馬琴ばきん』(新潮社しんちょうしゃ、1991ねん)。徳田とくたたけし森田もりたまことわれ編著へんちょ
  • いぬふじ九郎くろうひろし図解ずかい里見さとみ八犬伝はっけんでん』(しん紀元きげんしゃ、2008ねん

南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん題材だいざいにした作品さくひん[編集へんしゅう]

歌川うたがわ国芳くによしいぬばんもう岩井いわい紫若しじゃく

Category:八犬伝はっけんでん題材だいざいとした作品さくひん参照さんしょう

人気にんき作品さくひんであった『八犬伝はっけんでん』は、刊行かんこうちゅうからすでに歌舞伎かぶき演目えんもくになり、抄録しょうろく翻案ほんあん作品さくひん亜流ありゅう作品さくひんした[41]現在げんざいでも、日本にっぽんまれたファンタジーの古典こてんとしておおくの作品さくひん参照さんしょうされており、登場とうじょう人物じんぶつやモチーフの借用しゃくようはしばしばおこなわれている。ほんさく現在げんざいいたるまで大衆たいしゅう文学ぶんがく・ドラマ・漫画まんが・アニメ・ゲームなどかくジャンルの創作そうさく影響えいきょうあたえ、おおくの翻案ほんあんされた[3]。「前世ぜんせい因縁いんねんむすばれた義兄弟ぎきょうだい」「共通きょうつうするひじりこんれいだま名前なまえ文字もじ」「けば水気みずけはな名刀めいとう村雨むらさめ」などのモチーフをりた作品さくひん枚挙まいきょにいとまがない。また、現代げんだい価値かちかんことなる時代じだいかれた古典こてんで、しかも長大ちょうだいであることもあり、『八犬伝はっけんでん』のかんしていても原作げんさくから自由じゆうあらたな世界せかい創作そうさくしている翻案ほんあん作品さくひんおおい。原作げんさく志向しこうした作品さくひんであってもさまざまなレベルのさい解釈かいしゃくおこなわれ、現代げんだい作品さくひんとして蘇生そせいされている。また、『八犬伝はっけんでん執筆しっぴつ馬琴ばきんのエピソードも、芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ戯作げさく三昧ざんまい』などの創作そうさく題材だいざいとなっている。

歌舞伎かぶき[編集へんしゅう]

その伝統でんとうてき演芸えんげい分野ぶんや[編集へんしゅう]

小説しょうせつ[編集へんしゅう]

2代目だいめ歌川うたがわ国貞くにさだ「八犬伝犬之草紙之内・里見さとみいさむしん森口もりぐち九郎くろう」。八犬伝はっけんでんのアレンジばんである『いぬ草紙そうし』をもとにした歌舞伎かぶき役者やくしゃ中村なかむらたますけ3代目だいめ中村なかむら歌右衛門うたえもんえんじる「森口もりぐち九郎くろう」は原典げんてん堀内ほりうち貞行さだゆきにあたる[43]

映画えいが[編集へんしゅう]

1913ねん映画えいが八犬伝はっけんでん』。女形おんながた映画えいが俳優はいゆう立花たちばな貞二郎ていじろう
1954ねん映画えいが里見さとみ八犬伝はっけんでん』(東映とうえい)ポスター
1954ねん映画えいが里見さとみ八犬伝はっけんでん』(東映とうえい)。ひがしせんだいかい千原ちはらしのぶ

テレビドラマ[編集へんしゅう]

近代きんだい演劇えんげき[編集へんしゅう]

漫画まんが[編集へんしゅう]

  • 南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん本山もとやま一城かずき、1985ねん
    旺文社おうぶんしゃ名作めいさくまんがシリーズ」ちゅういちさつ[45]
  • 八犬伝はっけんでんあお也ぴんく連載れんさい:1989ねん-2002ねん
    OVA『THE八犬伝はっけんでん』のタイアップとしてはじまったが、原作げんさく漫画まんが移行いこうした長編ちょうへん作品さくひん。ニュータイプ100%コミックスばんぜん15かん、ホームしゃ漫画まんが文庫ぶんこばん(2004ねん)ではぜん8かん
  • マンガ南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでんみや添育おとこ、1991ねん-1992ねん
    河出書房新社かわでしょぼうしんしゃより3かん徳田とくたたけし監修かんしゅうにクレジットされている。
  • 南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでんもり有子ゆうこ、1993ねん
    くもんのまんが古典こてん文学ぶんがくかん」シリーズのいちさつ[46]
  • はちぼうこいしょう篠原しのはらがらすわらわ雑誌ざっし掲載けいさい:1994ねん
    雑誌ざっしハロウィン』に掲載けいさいされた短編たんぺん作品さくひん発端ほったん漫画まんが
  • 八犬士はっけんし岡村おかむら賢二けんじ連載れんさい:2005ねん-2006ねん
    犬塚いぬづか信乃しの主人公しゅじんこうとする物語ものがたりで、大塚おおつかからまでの物語ものがたり(および発端ほったん)がえがかれる。単行本たんこうぼんぜん2かん
  • 戦国せんごく里見さとみ八犬伝はっけんでん―Episode Zero(江川えがわ達也たつや連載れんさい:2009ねん
    戦国せんごく八犬伝はっけんでん』のタイトルで携帯けいたいコミックとして連載れんさい里見さとみ義実よしざね主人公しゅじんこうとする発端ほったん物語ものがたり単行本たんこうぼんさいし『戦国せんごく里見さとみ八犬伝はっけんでん―Episode Zero』(ぜん1さつ)となる。
  • まんがで南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん上地うえちゆう小金こがねふりちりひいらぎゆたか、2015ねん
    学研がっけんまんが 日本にっぽん古典こてん」シリーズのいちさついぬこうちかし兵衛ひょうえ主人公しゅじんこう板坂いたさか則子のりこ監修かんしゅうにクレジットされている。

ゲーム[編集へんしゅう]

その[編集へんしゅう]

  • 倉吉くらよし八犬伝はっけんでん時代じだいえておつかえします~(倉吉くらよし観光かんこうMICE協会きょうかい・エンバウンド、2021ねん-)
    倉吉くらよしつたわる八犬士はっけんしのモデルになったとわれるはちけん伝承でんしょうをモチーフにされた現代げんだいばん八犬伝はっけんでん
    ファンとまち一緒いっしょはちにん男子だんしたちしていくことたのしむ聖地せいち巡礼じゅんれいがたオリジナルキャラクター作品さくひん
    YouTubeにて、倉吉くらよし舞台ぶたい八犬士はっけんし活躍かつやくするドラマツアーが配信はいしんされている。

南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん執筆しっぴつ題材だいざいにした作品さくひん[編集へんしゅう]

南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん執筆しっぴつ馬琴ばきんえがいた小説しょうせつ作品さくひんとして、以下いかのようなものがある。

南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん題材だいざいにした施設しせつ行事ぎょうじ[編集へんしゅう]

施設しせつ名所めいしょ[編集へんしゅう]

南総里見八犬伝の聖地・富山(千葉県南房総市)
南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん聖地せいち富山とやま千葉ちばけんみなみ房総ぼうそう
館山城(千葉県館山市)
館山たてやまじょう千葉ちばけん館山たてやま
弘法寺の伏姫桜(千葉県市川市)
弘法ぐほうてら伏姫ふしひめさくら千葉ちばけん市川いちかわ
  • 富山とやま千葉ちばけんみなみ房総ぼうそう
    伏姫ふしひめかごくつ」があり、八犬伝はっけんでんゆかりの観光かんこうとなっている[47]。『八犬伝はっけんでん』の普及ふきゅうにつれて、現実げんじつ富山とやま(とみさん)はいわば「聖地せいち」となり、もともと山中さんちゅうにあった洞窟どうくつが「伏姫ふしひめ洞窟どうくつ」とむすびつけられた[15]。1912ねん大正たいしょう元年がんねん)に富山とやま登山とざんどう整備せいびされたさい登山とざんどうくち石碑せきひてられたが、側面そくめんに「里見さとみ伏姫ふしひめかごくつ」にいたることがしるされている[15]かごくつちかくにははちぼうはか見立みたてられた「犬塚いぬづか」の石碑せきひつが、これも大正たいしょう時代じだい建立こんりゅうである[47]現在げんざいられる「かごくつ」の山門さんもん遊歩道ゆうほどうなどは1996ねん平成へいせい8ねん)に整備せいびされた。
    富山とやま山頂さんちょう観音堂かんのんどう作中さくちゅうでは伏姫ふしひめ菩提ぼだいとむらうためにてられたと設定せっていされている)のかたわらには、1919ねん大正たいしょう8ねん)に「やまたかきゆえにたっとからず きょくていおきなれいひつによりてこのやまながしへにたかとうとし」と前書ぜんしょのある巖谷いわや小波さざなみ句碑くひ(「水茎みずぐきこうやまわらいけり」)がてられた[15][47]。また富山とやまの2つのみね中間ちゅうかんに「里見さとみ八犬士はっけんし終焉しゅうえん」の標柱ひょうちゅうがある。
  • 伏姫ふしひめ公園こうえん千葉ちばけんみなみ房総ぼうそう市部しぶ[48]
    富山とやま最寄もよりの岩井いわいえきまえにあり、「伏姫ふしひめはちぼう」の銅像どうぞうっている[47]
  • はちぼう公園こうえん千葉ちばけんみなみ房総ぼうそう犬掛いぬかけ[49]
    作中さくちゅうはちぼう生誕せいたん描写びょうしゃされている犬掛いぬかけ地区ちくにあり、「はちぼうたぬきぞう」がっている[47]
  • 滝田たきたしろ千葉ちばけんみなみ房総ぼうそう上滝田かみたきだ
    作中さくちゅうでは神余かなまり光弘みつひろ山下やました定包さだかね里見さとみ義実よしざね居城きょじょうとして発端ほったん主要しゅよう舞台ぶたいとなるしろ[47][注釈ちゅうしゃく 16]伏姫ふしひめはちぼうのブロンズぞうがある[47]
  • 館山たてやましろ千葉ちばけん館山たてやま
    史実しじつ里見さとみ館山たてやまはん)が16世紀せいきまつ築城ちくじょうした館山たてやまじょう城跡じょうせき城山しろやま公園こうえんとして整備せいびされている。模擬もぎ天守てんしゅ館山たてやま市立しりつ博物館はくぶつかん分館ぶんかんとなっており、浮世絵うきよえなどの八犬伝はっけんでん関連かんれん資料しりょう収集しゅうしゅうしている。
  • 伏姫ふしひめさくら千葉ちばけん市川いちかわ
    国府台こうのだい程近ほどちか真間ままさん弘法ぐほうてらにある樹齢じゅれい400ねん枝垂桜しだれざくらは、『八犬伝はっけんでん』にちなみ「伏姫ふしひめさくら」としょうされている。
    滝沢たきざわ馬琴ばきん誕生たんじょう」モニュメント(東京とうきょう江東こうとう
  • 滝沢たきざわ馬琴ばきん誕生たんじょう」モニュメント(東京とうきょう江東こうとう
    旗本はたもと松平まつだいら信成のぶなり屋敷やしきあとつ。このモニュメントは、『南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』の冊子さっし106さつ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん所蔵しょぞうのものの原寸げんすんだい)を2つのやまかさねた形状けいじょうをしている[50]
  • 大岳おおたけいん鳥取とっとりけん倉吉くらよし
    里見さとみ忠義ただよしはちけん墓所はかしょ

行事ぎょうじ祭事さいじ[編集へんしゅう]

  • みなみそう里見さとみまつり千葉ちばけん館山たてやま[51]
    毎年まいとし10がつ開催かいさいされている観光かんこうイベント。1982ねん市立しりつ博物館はくぶつかん分館ぶんかん館山たてやまじょう模擬もぎ天守てんしゅ)の完成かんせい記念きねんしてだい1かい開催かいさいされた[52]史実しじつ里見さとみ顕彰けんしょうとともに八犬伝はっけんでん世界せかい再現さいげんする仮装かそうパレードがおこなわれる[52]伏姫ふしひめやく八犬士はっけんしやく原則げんそくてき一般いっぱん公募こうぼされるが、実行じっこう委員いいんかいからの依頼いらいによって千葉ちば県知事けんちじ堂本どうもと暁子あきこ(2009ねん)やみなみ房総ぼうそう出身しゅっしんである乃木坂のぎざか46高山たかやま一実かずみ(2011ねん)が伏姫ふしひめやくつとめたこともある[53]
  • せきがね里見さとみまつり鳥取とっとりけん倉吉くらよし
    関金せきがね温泉おんせんで9がつだいいち日曜日にちようび開催かいさい。2014ねんだい29かいむかえた[54]里見さとみ忠義ただよし主従しゅうじゅう鎮魂ちんこんのための神事しんじおこなうほか、ステージイベントがおこなわれる[54]
  • 倉吉くらよし里見さとみ時代じだい行列ぎょうれつ鳥取とっとりけん倉吉くらよし
    大岳おおたけいんがある倉吉くらよし打吹うつぶき玉川たまがわで、9月だいいち日曜日にちようび開催かいさい主催しゅさいはNPO法人ほうじん養生ようじょうさと[54]。「せきがね里見さとみまつり」と連携れんけいするかたちで2006ねんから実施じっしされている[55]大岳おおたけいん里見さとみ忠義ただよしはちけん法要ほうようおこない、また仮装かそう行列ぎょうれつおこな[54]はちけん八犬士はっけんしのモデルという観点かんてんから、行列ぎょうれつにおける「はちけん」には八犬士はっけんしのイメージがたくされている[54]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ なお wikimedia commons にあるこのファイルは pdfファイルになっており、20さつぶん表紙ひょうし閲覧えつらんできる
  2. ^ 濱田はまだ啓介けいすけ研究けんきゅう(「馬琴ばきんをめぐる書肆しょし作者さくしゃ読者どくしゃ問題もんだい」)によれば、『八犬伝はっけんでん初版しょはんは300で、こうすりぶん上方かみがた発送はっそうぶんわせても発行はっこう年中ねんじゅう発行はっこう部数ぶすうは650-750程度ていどとされる。一方いっぽうどう時代じだい馬琴ばきんやなぎてい種彦たねひこごうまきは5000-8000程度ていどられた[1]
  3. ^ はちかげすうおわりなり。……きゅうすうおわりなり。かかればはちいぬえいぜんつてきょくきゅう輯にむすぶこと、その所以ゆえん(ゆえ)なきにしもあらずかし」[4]
  4. ^ 改姓かいせい犬塚いぬづか信乃しのの「正式せいしきな」名前なまえは、「犬塚いぬづか信乃しのきんわん宿禰すくね戍孝」となる。
  5. ^ 上総かずさ広常ひろつねかん所在地しょざいちには諸説しょせつがあり、布施ふせむら殿台とのだい現在げんざいいすみ下布施しもぶせ)にあるとするもそのひとつ。『房総ぼうそうこころざしりょう』などでも採用さいようされている。
  6. ^ 御嶽おんたけ大井おおいあいだ」(だい180かいじょう岩波いわなみ文庫ぶんこばん10かんp.177)にある「小篠こしのむら」(だい180かいじょう岩波いわなみ文庫ぶんこばん10かんp.194)
  7. ^ しょほんによってことなるが、嘉吉よしきち - えいとおるとされることがおおい。
  8. ^ 山下やましたじょうけん謀反むほん動乱どうらんしるした書籍しょせき江戸えど時代じだい軍記ぐんきぶつ以前いぜんにはさかのぼれず、史料しりょうてきうらづけがられないため、山下やましたじょうけんによる下剋上げこくじょう事実じじつであるかは不明ふめいである。ただし、建治けんじ元年がんねん1275ねん)に京都きょうとろくじょう八幡宮はちまんぐう造営ぞうえいさいもちいられた注文ちゅうもん(「ろくじょう八幡宮はちまんぐう造営ぞうえい注文ちゅうもん」)のなか安房あわ武士ぶしとして「安東あんどう太郎たろうあと東条とうじょうあく三郎さぶろうあと安西あんざい大夫たいふあとまる五郎ごろうあと多々良たたら七郎しちろう太郎たろうあと山下やました太郎たろう」の6めい(なお、安東あんどう安房あわぐん安東あんどうきょう多々良たたら平群へぐりぐん多々良たたらそう拠点きょてんとする在地ざいち武士ぶしとされている)がしるされており、かみあまりわりに山下やました名前なまえしるされているてん注目ちゅうもくされる。山下やましたかみあまり一族いちぞくであった可能かのうせいがある[16]
  9. ^ 里見さとみだい[17]では、「ぐんぬし」としてたいらぐん勝山かちやま安西あんざい勝峯かつみね安房あわぐん神余かなまりかねあまり景春かげはるちょうえびすぐん石堂いしどうだにまるもとしゅんながせまこおりひさしいずみ東条とうじょう重永しげなが登場とうじょうし、かねあまり景春かげはる山下やました左衛門さえもんたれる。安西あんざいまる山下やましたつが、のこりょうめぐってあらそい、安西あんざいまるほろぼす。かねあまり遺臣いしん里見さとみ義実よしざね大将たいしょうむかえる。義実よしざね千代ちよげんみなみ房総ぼうそうせんだい)に出陣しゅつじんしたところ、安西あんざい勝峯かつみね降伏ごうぶく義実よしざね安西あんざい先鋒せんぽうとしてながせまぐんみ、金山かなやまじょう籠城ろうじょうする東条とうじょう重永しげながほろぼしていちこく平定へいていする。『房総ぼうそう里見さとみ[18]では、神余かなまり景春かげはるった山下やました左衛門さえもんを、安西あんざい勝峯かつみねまるもとしゅんったのち対立たいりつしたところは共通きょうつうであるが、まる義実よしざねむかれ、安西あんざいほろぼされずにわっている。また、東条とうじょう重永しげなが山下やました左衛門さえもんむすめとつがせていたとする。
  10. ^ 八犬伝はっけんでん』では安西あんざいけいれんはちぼうくびられて安西あんざい勢力せいりょく滅亡めつぼうするが、物語ものがたり後半こうはん安西あんざい麻呂まろ一族いちぞく人物じんぶつ登場とうじょうし、里見さとみつかえて活躍かつやくする。
  11. ^ なり唯識ゆいしきろん』の「名詮自性みょうせんじしょう かい差別さべつ ぶんそく ためしょ」による。本来ほんらい言語げんご哲学てつがくくものであり、固有名詞こゆうめいし命名めいめい問題もんだいとしたものではない。
  12. ^ 高田たかだまもるデウス・エクス・マキナになぞらえている。
  13. ^ くも凉院」の院号いんごうと「しん」「けん」の共通きょうつうする。「しん」と「けん」の主君しゅくん里見さとみ忠義ただよし戒名かいみょうくもはれいん殿どのぜん拾遺しゅういこころ叟賢凉大居士こじ)に共通きょうつうしている。
  14. ^ 安房あわ白浜しらはまたね林寺はやしじ現在げんざいみなみ房総ぼうそう白浜しらはままち下沢しもさわ)にじゅうしたともわれる[25]
  15. ^ 研究けんきゅうしゃによって「りゅうまなぶ」と呼称こしょうされる[よう出典しゅってん]
  16. ^ ただし史実しじつではかみあまりとも里見さとみ義実よしざねとも関係かんけいはない[47]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 本多ほんだ朱里じゅりやなぎてい種彦たねひこ読本とくほん魅力みりょく』(臨川りんせん書店しょてん、2006ねん)、p.18
  2. ^ 本多ほんだ朱里じゅりやなぎてい種彦たねひこ読本とくほん魅力みりょく』(臨川りんせん書店しょてん、2006ねん)、pp.18-19
  3. ^ a b 這子 : 東北大学とうほくだいがく附属ふぞく図書館としょかんほう 連載れんさい江戸えどあそび-けっこうたのしいエコレジャー」をめぐ話題わだいから(2)よむたのしみ 2.「偉大いだいなるエンタテインメント」小説しょうせつ-『南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん (東北大学とうほくだいがく, 2007-03-31)
  4. ^ 「八犬伝第九輯中帙附言」、岩波いわなみ文庫ぶんこばんだい6かんpp.5-6
  5. ^ 南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん”. ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてんコトバンク所収しょしゅう. 2014ねん12月11にち閲覧えつらん
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  7. ^ a b 高木たかぎはじめ. “八犬伝はっけんでん」をむ-文学ぶんがく史上しじょう位置いちづけ”. 2016ねん9がつ2にち閲覧えつらん
  8. ^ かいがいあまふで」、岩波いわなみ文庫ぶんこばん10かんp.325
  9. ^ 八犬伝はっけんでんまめ知識ちしき”. 南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん. 新潮社しんちょうしゃ. 2016ねん9がつ10日とおか閲覧えつらん
  10. ^ a b c 高木たかぎはじめ. “江戸えど読本とくほんのち摺本すりほん活版かっぱんほん”. 2021ねん3がつ11にち閲覧えつらん
  11. ^ a b c d 畑野はたの繭子まゆこ貴重きちょうしょ紹介しょうかい南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん」『明治大学めいじだいがく図書館としょかん紀要きようだい3ごう明治大学めいじだいがく図書館としょかん紀要きよう編集へんしゅう委員いいんかい、1999ねん1がつ、162-168ぺーじISSN 1342-808XNAID 1200014396032021ねん3がつ11にち閲覧えつらん 
  12. ^ a b c 高木たかぎはじめ. “八犬伝はっけんでん後裔こうえい”. 2021ねん3がつ11にち閲覧えつらん
  13. ^ 戯作げさくしゃ著述ちょじゅつ生活せいかつ 1”. 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん開館かいかん60周年しゅうねん記念きねん貴重きちょう書展しょてん. 国立こくりつ国会こっかい図書館としょかん. 2014ねん12月26にち閲覧えつらん
  14. ^ だいいちかい岩波いわなみ文庫ぶんこばんだい1かんp.18
  15. ^ a b c d 里見さとみ顕彰けんしょう研究けんきゅう歴史れきし”. さとみ物語ものがたり テキストばん. 館山たてやま市立しりつ博物館はくぶつかん. 2018ねん4がつ4にち閲覧えつらん
  16. ^ 松本まつもと一夫かずおだいさんへんだい八章はっしょう 安房あわ守護しゅご結城ゆうき補任ほにん」『東国とうごく守護しゅご歴史れきしてき特質とくしつ岩田いわた書院しょいん、2001ねんISBN 978-4-87294-225-5 
  17. ^ 房総ぼうそう叢書そうしょ だいかん 軍記ぐんき所収しょしゅう
  18. ^ 房総ぼうそう叢書そうしょ だいさんかん 史伝しでんいち)』所収しょしゅう
  19. ^ 内田魯庵うちだろあん八犬伝はっけんでんだんあまり」、岩波いわなみ文庫ぶんこばんだい10かんp.370
  20. ^ 内田魯庵うちだろあん八犬伝はっけんでんだんあまり」、岩波いわなみ文庫ぶんこばんだい10かんp.371
  21. ^ 内田魯庵うちだろあん八犬伝はっけんでんだんあまり」、岩波いわなみ文庫ぶんこばんだい10かんp.367
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  24. ^ 高田たかだ 1980, pp. 123–124.
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  28. ^ まご琳淨 2021, pp. 199–230(初出しょしゅつは「『南總里見八犬傳なんそうさとみはっけんでん』における『みず滸傳』の受容じゅよういぬざか中心ちゅうしんに」『和漢わかんぶん研究けんきゅう』17、2019ねん
  29. ^ まご琳淨 2021, pp. 231–257(初出しょしゅつは「『八犬伝はっけんでんいぬ列伝れつでん構想こうそうかんする考察こうさつ:『みず滸伝』の受容じゅようとおして」『京都府立大学きょうとふりつだいがく学術がくじゅつ報告ほうこく人文じんぶん』72、2020ねん
  30. ^ まご琳淨 2021, pp. 259–270(本書ほんしょろし)
  31. ^ 武藤むとう元昭もとあき馬琴ばきん初期しょき黄表紙きびょうしをめぐって:読本とくほん高尾たかおせんぶん』まで」『青山あおやまぶんだい6ごう、1976ねん、89-98ぺーじ 
  32. ^ かずら綿めん正一しょういち傾城けいせいすい滸伝をむ:馬琴ばきん小説しょうせつ手法しゅほう」『沖縄国際大学おきなわこくさいだいがく日本語にほんご日本にっぽん文学ぶんがく研究けんきゅうだい18かんだい2ごう、2014ねん、39-74ぺーじ 
  33. ^ まご琳淨 2021, pp. 81–101(初出しょしゅつは「『新編しんぺんすい滸畫でん』「こうてい原本げんぽんしょほん研究けんきゅう:『みず滸傳』しょ版本はんぽんとの關係かんけい中心ちゅうしんに」『和漢わかんぶん研究けんきゅう』15、2017ねん
  34. ^ まご琳淨 2021, pp. 121–159(初出しょしゅつは「馬琴ばきん手澤しゅたくほん忠義ちゅうぎすい滸傳』の語釈ごしゃくしょいれについて」『和漢わかんぶん研究けんきゅう』16、2018ねん
  35. ^ まご琳淨 2021, pp. 103–119(初出しょしゅつは「『新編しんぺんすい滸畫でん』における『通俗つうぞく忠義ちゅうぎすい滸傳』の利用りよう」『和漢わかんぶん研究けんきゅう』18、2020ねん
  36. ^ 中西なかにしすすむいむ紹璗へんにちちゅう文化ぶんか交流こうりゅう叢書そうしょだい6かん文学ぶんがく大修館書店たいしゅうかんしょてん、1995ねん12月。ISBN 446913046X
  37. ^ Keene, Donald (Ed.) ([1955] 1960) Anthology of Japanese Literature: from the earliest era to the mid-nineteenth century, pp. 423-428, New York, NY: Grove Press. ISBN 0-8021-5058-6
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  39. ^ The Legend of the Eight Samurai Hounds
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  41. ^ 以下いか外部がいぶサイトでも関連かんれん作品さくひん列挙れっきょ解説かいせつおこなわれているので、参照さんしょうされたい。南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん白龍はくりゅうてい 白龍はくりゅうてい・パロディとう
  42. ^ 高木たかぎはじめ『八犬義士誉勇猛』-解題かいだい翻刻ほんこく
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  44. ^ 役所広司やくしょこうじ滝沢たきざわ馬琴ばきん内野うちのきよし葛飾かつしか北斎ほくさい! 山田やまだかぜ太郎たろう八犬伝はっけんでん文彦ふみひこ監督かんとく映画えいが. 映画えいが.com (株式会社かぶしきがいしゃエイガ・ドット・コム). (2024ねん3がつ15にち). https://eiga.com/news/20240315/3/ 2024ねん3がつ15にち閲覧えつらん 
  45. ^ 全巻ぜんかん無料むりょう南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん - 本山もとやま一城かずき | 男性だんせい漫画まんが放題ほうだい”. マンガ図書館としょかんZ. 2023ねん5がつ18にち閲覧えつらん
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  54. ^ a b c d e 里見さとみ忠義ただよしおおやけ 伯耆ほうきこく倉吉くらよしにゅうふう400ねん―「南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん刊行かんこう200ねん記念きねん関連かんれん行事ぎょうじ”. 倉吉くらよし. 2015ねん6がつ10日とおか閲覧えつらん
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外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

原文げんぶんテキスト[編集へんしゅう]

英語えいごやく[編集へんしゅう]

紹介しょうかい[編集へんしゅう]

漫画まんが[編集へんしゅう]