国立 こくりつ 国会図書館 こっかいとしょかん 所蔵 しょぞう の『南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん 』肇 はじめ 輯巻五 ご 表紙 ひょうし [注釈 ちゅうしゃく 1]
『南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん 』(なんそうさとみはっけんでん、旧 きゅう 字体 じたい :南總里見八犬傳 なんそうさとみはっけんでん )は、江戸 えど 時代 じだい 後期 こうき に曲亭馬琴 きょくていばきん によって著 しる わされた長編 ちょうへん 小説 しょうせつ 、後期 こうき 読本 とくほん 。里見 さとみ 八犬伝 はっけんでん 、あるいは単 たん に八犬伝 はっけんでん とも呼 よ ばれる。
文化 ぶんか 11年 ねん (1814年 ねん )に刊行 かんこう が開始 かいし され、28年 ねん をかけて天保 てんぽう 13年 ねん (1842年 ねん )に完結 かんけつ した、全 ぜん 98巻 かん 、106冊 さつ の大作 たいさく である。上田 うえだ 秋成 あきなり の『雨月物語 うげつものがたり 』などと並 なら んで江戸 えど 時代 じだい の戯作 げさく 文芸 ぶんげい の代表 だいひょう 作 さく であり、日本 にっぽん の長編 ちょうへん 伝奇 でんき 小説 しょうせつ の古典 こてん の一 ひと つである。
伏姫 ふしひめ 神 しん と犬 いぬ 江 こう 親 ちかし 兵衛 ひょうえ 。歌川 うたがわ 国芳 くによし 「本朝 ほんちょう 水 すい 滸伝剛勇 ごうゆう 八 はち 百 ひゃく 人 にん 之 の 一 いち 個 こ ・犬 いぬ 江 こう 親 ちかし 兵衛 ひょうえ 仁 じん 」。
『南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん 』は、室町 むろまち 時代 ときよ 後期 こうき を舞台 ぶたい に、安房 あわ 里見 さとみ 家 か の姫 ひめ ・伏姫 ふしひめ と神 かみ 犬 けん 八 はち 房 ぼう の因縁 いんねん によって結 むす ばれた八 はち 人 にん の若者 わかもの (八犬士 はっけんし )を主人公 しゅじんこう とする長編 ちょうへん 伝奇 でんき 小説 しょうせつ である。共通 きょうつう して「犬 いぬ 」の字 じ を含 ふく む名字 みょうじ を持 も つ八犬士 はっけんし は、それぞれに仁 ひとし ・義 よし ・礼 れい ・智 さとし ・忠 ただし ・信 しん ・孝 こう ・悌 の文字 もじ のある数珠 じゅず の玉 たま (仁義 じんぎ 八 はち 行 ぎょう の玉 たま )を持 も ち、牡丹 ぼたん の形 かたち の痣 あざ が身体 しんたい のどこかにある。関 せき 八 はち 州 しゅう の各地 かくち で生 う まれた彼 かれ らは、それぞれに辛酸 しんさん を嘗 な めながら、因縁 いんねん に導 みちび かれて互 たが いを知 し り、里見 さとみ 家 か の下 した に結集 けっしゅう する。
馬琴 ばきん はこの物語 ものがたり の完成 かんせい に、48歳 さい から76歳 さい に至 いた るまでの後 のち 半生 はんせい を費 つい やした。その途中 とちゅう 失明 しつめい という困難 こんなん に遭遇 そうぐう しながらも、息子 むすこ 宗伯 そうはく の妻 つま であるお路 みち の口述 こうじゅつ 筆記 ひっき により最終 さいしゅう 話 ばなし まで完成 かんせい させることができた。読本 とくほん は発行 はっこう 部数 ぶすう も少 すく なく[注釈 ちゅうしゃく 2] 価格 かかく も高価 こうか であったが、貸本 かしほん によって多 おお くの人々 ひとびと に読 よ まれており[2] 、馬琴 ばきん 自身 じしん 「吾 われ を知 し る者 もの はそれただ八犬伝 はっけんでん か、吾 われ を知 し らざる者 もの もそれただ八犬伝 はっけんでん か」と述 の べる人気 にんき 作品 さくひん であった。明治 めいじ に入 はい ると、坪内 つぼうち 逍遥 しょうよう が『小説 しょうせつ 神髄 しんずい 』において、八犬士 はっけんし を「仁義 じんぎ 八 はち 行 ぎょう の化物 ばけもの にて決 けっ して人間 にんげん とはいひ難 がた かり」と断 だん じ、近代 きんだい 文学 ぶんがく が乗 の り越 こ えるべき旧 きゅう 時代 じだい の戯作 げさく 文学 ぶんがく の代表 だいひょう として『八犬伝 はっけんでん 』を批判 ひはん しているが、このことは、当時 とうじ 『八犬伝 はっけんでん 』が持 も っていた影響 えいきょう 力 りょく の大 おお きさを示 しめ している。逍遥 しょうよう の批判 ひはん 以降 いこう 『八犬伝 はっけんでん 』の評価 ひょうか は没落 ぼつらく していくが、1970年代 ねんだい から80年代 ねんだい にかけて復権 ふっけん し、映画 えいが や漫画 まんが 、小説 しょうせつ 、テレビゲームなどの源泉 げんせん として繰 く り返 かえ し参照 さんしょう されている[3] 。
なお、里見 さとみ 氏 し は実在 じつざい の大名 だいみょう であるが、「八犬伝 はっけんでん で有名 ゆうめい な里見 さとみ 氏 し 」と語 かた られることがある。『八犬伝 はっけんでん 』の持 も つ伝奇 でんき ロマンのイメージは安房 あわ 地域 ちいき をはじめとする里見 さとみ 家 か 関連 かんれん 地 ち の観光 かんこう 宣伝 せんでん に資 し しているが、史実 しじつ とフィクションが混同 こんどう されることもある。
構成 こうせい と出版 しゅっぱん 事情 じじょう [ 編集 へんしゅう ]
『南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん 』は9輯98巻 かん 106冊 さつ からなる。刊行 かんこう 初期 しょき には5巻 かん =5冊 さつ を1輯にまとめて発刊 はっかん していたが、最終 さいしゅう 的 てき には全体 ぜんたい の半数 はんすう 以上 いじょう を「第 だい 9輯」が占 し めるという異様 いよう な構成 こうせい になっている。これは馬琴 ばきん が陰陽 いんよう 思想 しそう における陽 ひ の極 きょく 数 すう である9にこだわったためである[注釈 ちゅうしゃく 3] 。巻数 かんすう と冊数 さっすう が一致 いっち しないのは、上下 じょうげ 分冊 ぶんさつ にした巻 まき があるためである。
『水 みず 滸伝 』などに範 はん をとった章 あきら 回 かい 小説 しょうせつ (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) の形式 けいしき をとっており、物語 ものがたり は「回 かい 」によって区切 くぎ られ、回 かい ごとに内容 ないよう を示 しめ す対句 ついく の題 だい がついている。通常 つうじょう 1冊 さつ に2回 かい が収録 しゅうろく されている。『八犬伝 はっけんでん 』の回数 かいすう は180回 かい と数 かぞ えられるが[5] [6] 、上下 じょうげ 回 かい に分 わ かれる回 かい などもあり、「第 だい 180回 かい 」の数字 すうじ を持 も つ回 かい に至 いた っては「第 だい 百 ひゃく 八 はち 十 じゅう 回 かい 上 じょう 」「第 だい 百 ひゃく 八 はち 十 じゅう 回 かい 下 か 」「第 だい 百 ひゃく 八 はち 十 じゅう 勝 しょう 回 かい 上 じょう 」「第 だい 百 ひゃく 八 はち 十 じゅう 勝 しょう 回 かい 中編 ちゅうへん 」「第 だい 百 ひゃく 八 はち 十 じゅう 勝 しょう 回 かい 下 か 編 へん 大団円 だいだんえん 」に5分割 ぶんかつ されている。
肇 はじめ 輯5冊 さつ の刊行 かんこう は文化 ぶんか 11年 ねん (1814年 ねん )。曲亭馬琴 きょくていばきん はすでに『椿 つばき 説 せつ 弓張月 ゆみはりづき 』(文化 ぶんか 3年 ねん /1806年 ねん - )、『俊寛 しゅんかん 僧都 そうず 島 とう 物語 ものがたり 』(文化 ぶんか 5年 ねん /1808年 ねん )などを上梓 じょうし しており、読本 とくほん 作家 さっか としての名声 めいせい を築 きず いていた。
28年間 ねんかん に版元 はんもと は3回 かい 変 か わった。第 だい 5輯までの25冊 さつ を山 やま 青 あお 堂 どう (山崎 やまざき 平八 へいはち )が出版 しゅっぱん し、山 やま 青 あお 堂 どう から版木 はんぎ を譲 ゆず られた涌泉堂 どう (美濃屋 みのや 甚三郎 さぶろう )が第 だい 6輯を刊行 かんこう した。しかし涌泉堂 どう は資金繰 しきんぐ りに困 こま り、第 だい 7輯刊行 かんこう には文渓堂 ぶんけいどう (丁字 ていじ 屋平 やひら 兵衛 ひょうえ )の助力 じょりょく を得 え ている。その後 ご 、経営 けいえい に行 い き詰 づま った涌泉堂 どう が『八犬伝 はっけんでん 』の版木 はんぎ を上方 かみがた の版元 はんもと に売 う り渡 わた す事態 じたい を起 お こしているが、文渓堂 ぶんけいどう がこれらの版木 はんぎ を買 か い戻 もど している。第 だい 8輯以降 いこう 、文渓堂 ぶんけいどう が『八犬伝 はっけんでん 』の刊行 かんこう を続 つづ けて完成 かんせい に至 いた るとともに、肇 はじめ 輯から第 だい 7輯に関 かん しても刷 す り出 だ している。
執筆 しっぴつ 中 ちゅう 、馬琴 ばきん は天保 てんぽう 4年 ねん (1833年 ねん )頃 ごろ から右目 みぎめ の視力 しりょく が衰 おとろ え、やがて視力 しりょく を失 うしな った。天保 てんぽう 9年 ねん (1838年 ねん )には左目 ひだりめ の視力 しりょく も衰 おとろ えはじめ、天保 てんぽう 11年 ねん (1840年 ねん )11月には執筆 しっぴつ が不可能 ふかのう になった。このため息子 むすこ の嫁 よめ の路 みち (土岐 とき 村 むら 路 ろ )に口述 こうじゅつ 筆記 ひっき させて執筆 しっぴつ を続 つづ けた。馬琴 ばきん が手探 てさぐ りで記 しる し、路 みち が書 か き継 つ いだ原稿 げんこう (第 だい 九 きゅう 輯巻四 よん 十 じゅう 六 ろく =第 だい 177回 かい )が早稲田大学 わせだだいがく に現存 げんそん している。なお、漢字 かんじ をまったく知 し らない路 みち に偏 へん や旁 つくり を教 おし えながら口述 こうじゅつ 筆記 ひっき した、とされることもあるが、これは馬琴 ばきん が「回 かい 外 がい 剰 あま 筆 ふで 」で多分 たぶん に誇張 こちょう した(執筆 しっぴつ 状 じょう 況 きょう そのものを物語 ものがたり 化 か した)苦心 くしん 談 だん が独 ひと り歩 ある きしたものである[7] 。早稲田大学 わせだだいがく 蔵 ぞう の自筆 じひつ 原稿 げんこう では、路 みち が確 たし かな筆 ふで 運 はこ びの整然 せいぜん とした文字 もじ で書 か き継 つ いでいる[7] 。
天保 てんぽう 12年 ねん 8月 がつ 20日 はつか (1841年 ねん 10月4日 にち )、馬琴 ばきん は本編 ほんぺん (第 だい 百 ひゃく 八 はち 十 じゅう 勝 しょう 回 かい 下 か 編 へん 大団円 だいだんえん )を完成 かんせい させた[8] 。
輯・帙 ちつ
冊数 さっすう
回 かい
版元 はんもと
画工 がこう
筆 ふで 工 こう (浄書 じょうしょ )
挿絵 さしえ 彫刻 ちょうこく (剞劂)
出版 しゅっぱん 年 ねん
肇 はじめ 輯
5冊 さつ (巻 まき 之 の 1~巻 まき 之 の 5)
第 だい 1回 かい ~第 だい 10回 かい
山 やま 青 あお 堂 どう
柳川 やながわ 重信 しげのぶ
千 せん 形 かたち 仲道 なかみち
朝倉 あさくら 伊八 いはち 郎 ろう
文化 ぶんか 11年 ねん (1814年 ねん )
第 だい 2輯
5冊 さつ (巻 まき 之 の 1~巻 まき 之 の 5)
第 だい 11回 かい ~第 だい 20回 かい
山 やま 青 あお 堂 どう
柳川 やながわ 重信 しげのぶ
千 せん 形 かたち 仲道 なかみち
朝倉 あさくら 伊八 いはち 郎 ろう
文化 ぶんか 13年 ねん (1816年 ねん )
第 だい 3輯
5冊 さつ (巻 まき 之 の 1~巻 まき 之 の 5)
第 だい 21回 かい ~第 だい 30回 かい
山 やま 青 あお 堂 どう
柳川 やながわ 重信 しげのぶ
千 せん 形 かたち 仲道 なかみち
中村 なかむら 喜作 きさく
文政 ぶんせい 2年 ねん (1819年 ねん )
第 だい 4輯
5冊 さつ (巻 まき 之 の 1~巻 まき 之 の 5)
第 だい 31回 かい ~第 だい 40回 かい
山 やま 青 あお 堂 どう
柳川 やながわ 重信 しげのぶ
千 せん 形 かたち 仲道 なかみち
中村 なかむら 喜作 きさく
文政 ぶんせい 3年 ねん (1820年 ねん )
第 だい 5輯
5冊 さつ (巻 まき 之 の 1~巻 まき 之 の 5)
第 だい 41回 かい ~第 だい 50回 かい
山 やま 青 あお 堂 どう
柳川 やながわ 重信 しげのぶ 渓 けい 斎 とき 英 えい 泉 いずみ
田中 たなか 正造 しょうぞう
中村 なかむら 喜作 きさく 神田 かんだ 庵 あん 驥徳
文政 ぶんせい 6年 ねん (1823年 ねん )
第 だい 6輯
6冊 さつ (巻 まき 之 の 1~巻 まき 之 の 5下 か )
第 だい 51回 かい ~第 だい 61回 かい
涌泉堂 どう
柳川 やながわ 重信 しげのぶ 渓 けい 斎 とき 英 えい 泉 いずみ
谷 たに 金川 かながわ 田中 たなか 正造 しょうぞう
中村 なかむら 喜作 きさく
文政 ぶんせい 10年 ねん (1827年 ねん )
第 だい 7輯
7冊 さつ (巻 まき 之 の 1~巻 まき 之 の 7)
第 だい 62回 かい ~第 だい 73回 かい
涌泉堂 どう
渓 けい 斎 とき 英 えい 泉 いずみ 柳川 やながわ 重信 しげのぶ
筑波 つくば 仙 せん 橘 たちばな 谷 たに 金川 かながわ
天保 てんぽう 元年 がんねん (1830年 ねん )
第 だい 8輯上 うえ 帙 ちつ
5冊 さつ (巻 まき 之 の 1~巻 まき 之 の 4下 か 套)
第 だい 74回 かい ~第 だい 82回 かい
文渓堂 ぶんけいどう
柳川 やながわ 重信 しげのぶ
谷 たに 金川 かながわ
朝倉 あさくら 伊八 いはち 横田 よこた 守 まもる 桜木 さくらぎ 藤吉 とうきち 原 はら 喜 き 知 ち
天保 てんぽう 3年 ねん (1832年 ねん )
第 だい 8輯下 しも 帙 ちつ
5冊 さつ (巻 まき 之 の 5~巻 まき 之 の 8下 か 套)
第 だい 83回 かい ~第 だい 91回 かい
文渓堂 ぶんけいどう
柳川 やながわ 重信 しげのぶ
谷 たに 金川 かながわ 墨田 すみだ 仙 せん 橘 たちばな
朝倉 あさくら 伊八 いはち 横田 よこた 守 まもる 桜木 さくらぎ 藤吉 とうきち 原 はら 喜 き 知 ち 田中 たなか 三 さん 八 はち
天保 てんぽう 4年 ねん (1833年 ねん )
第 だい 9輯上 うえ 套
6冊 さつ (巻 まき 之 の 1~巻 まき 之 の 6)
第 だい 92回 かい ~第 だい 103回 かい
文渓堂 ぶんけいどう
柳川 やながわ 重信 しげのぶ (二 に 世 せい )
谷 たに 金川 かながわ
朝倉 あさくら 伊八 いはち 横田 よこた 守 まもる 桜木 さくらぎ 藤吉 とうきち
天保 てんぽう 6年 ねん (1835年 ねん )
第 だい 9輯中 ちゅう 套
7冊 さつ (巻 まき 之 の 7~巻 まき 之 の 12下 か )
第 だい 104回 かい ~第 だい 115回 かい
文渓堂 ぶんけいどう
柳川 やながわ 重信 しげのぶ (二 に 世 せい )
谷 たに 金川 かながわ 千 せん 方 ぽう 道 どう 友 とも
横田 よこた 守 まもる 桜木 さくらぎ 藤吉 とうきち 高木 たかぎ 翦樫
天保 てんぽう 7年 ねん (1836年 ねん )
第 だい 9輯下 しも 套上
5冊 さつ (巻 まき 之 の 13之 の 14~巻 まき 之 の 18)
第 だい 116回 かい ~第 だい 125回 かい
文渓堂 ぶんけいどう
柳川 やながわ 重信 しげのぶ (二 に 世 せい )
谷 たに 金川 かながわ
横田 よこた 守 まもる 桜木 さくらぎ 藤吉 とうきち 鳥山 とりやま 某 ぼう
天保 てんぽう 8年 ねん (1837年 ねん )
第 だい 9輯下 しも 套中
5冊 さつ (巻 まき 之 の 19~巻 まき 之 の 23)
第 だい 126回 かい ~第 だい 135回 かい
文渓堂 ぶんけいどう
柳川 やながわ 重信 しげのぶ (二 に 世 せい )
谷 たに 金川 かながわ
横田 よこた 守 まもる 桜木 さくらぎ 藤吉 とうきち 森田 もりた 某 ぼう
天保 てんぽう 9年 ねん (1838年 ねん )
第 だい 9輯下 しも 帙 ちつ 之 の 下 した 甲 かぶと 号 ごう
5冊 さつ (巻 まき 之 の 24~巻 まき 之 の 28)
第 だい 136回 かい ~第 だい 145回 かい
文渓堂 ぶんけいどう
柳川 やながわ 重信 しげのぶ (二 に 世 せい )渓 けい 斎 とき 英 えい 泉 いずみ
谷 たに 金川 かながわ 白馬 はくば 台 だい 音成 おとなり
鏤 ちりばめ 廉吉 れんきち 森田 もりた 甲 かぶと 横田 よこた 守 まもる 常盤 ときわ 園 えん
天保 てんぽう 10年 ねん (1839年 ねん )
第 だい 9輯下 しも 帙 ちつ 之 の 下 した 乙 おつ 号 ごう 上 じょう 套
5冊 さつ (巻 まき 之 の 29~巻 まき 之 の 32)
第 だい 146回 かい ~第 だい 153回 かい
文渓堂 ぶんけいどう
柳川 やながわ 重信 しげのぶ (二 に 世 せい )歌川 うたがわ 貞秀 さだひで
谷 たに 金川 かながわ
沢 さわ 金次郎 きんじろう 朝倉 あさくら 伊八 いはち 常盤 ときわ 園 えん 鏤 ちりばめ 近 きん 吉 きち
天保 てんぽう 11年 ねん (1840年 ねん )
第 だい 9輯下 しも 帙 ちつ 之 の 下 した 乙 おつ 号 ごう 中 ちゅう 套
5冊 さつ (巻 まき 之 の 33~巻 まき 之 の 35下 か )
第 だい 154回 かい ~第 だい 161回 かい
文渓堂 ぶんけいどう
歌川 うたがわ 貞秀 さだひで
谷 たに 金川 かながわ
沢 さわ 金次郎 きんじろう 常盤 ときわ 園 えん
天保 てんぽう 11年 ねん (1840年 ねん )
第 だい 9輯下 しも 帙 ちつ 下 した 編 へん 之 の 上 うえ
5冊 さつ (巻 まき 之 の 36~巻 まき 之 の 40)
第 だい 162回 かい ~第 だい 166回 かい
文渓堂 ぶんけいどう
柳川 やながわ 重信 しげのぶ (二 に 世 せい )渓 けい 斎 とき 英 えい 泉 いずみ
谷 たに 金川 かながわ
沢 さわ 金次郎 きんじろう 常盤 ときわ 園 えん 高 こう 谷熊 やぐま 五郎 ごろう
天保 てんぽう 12年 ねん (1841年 ねん )
第 だい 9輯下 しも 帙 ちつ 下 した 編 へん 之 の 中 なか
5冊 さつ (巻 まき 之 の 41~巻 まき 之 の 45)
第 だい 167回 かい ~第 だい 176回 かい
文渓堂 ぶんけいどう
柳川 やながわ 重信 しげのぶ (二 に 世 せい )
谷 たに 金川 かながわ
高 こう 谷熊 やぐま 五郎 ごろう 沢 さわ 金次郎 きんじろう
天保 てんぽう 12年 ねん (1841年 ねん )
第 だい 9輯下 しも 帙 ちつ 下 した 編 へん 之 の 下 した
10冊 さつ (巻 まき 之 の 46~巻 まき 之 の 53下 か )
第 だい 177回 かい ~第 だい 180勝 しょう 回 かい 下 か 編 へん 大団円 だいだんえん 回 かい 外 がい 剰 あま 筆 ふで
文渓堂 ぶんけいどう
柳川 やながわ 重信 しげのぶ (二 に 世 せい )渓 けい 斎 とき 英 えい 泉 いずみ
谷 たに 金川 かながわ 亀井 かめい 金 かね 水 すい 対 たい 二 に 楼 ろう 音成 おとなり
高 こう 谷熊 やぐま 五郎 ごろう 沢 さわ 金次郎 きんじろう 米蔵 よねぞう 幸太郎 こうたろう
天保 てんぽう 13年 ねん (1842年 ねん )
『八犬伝 はっけんでん 』の板木 はんぎ は、3千 せん 数 すう 百 ひゃく 枚 まい に及 およ ぶ[9] 。板木 はんぎ は明治維新 めいじいしん 後 ご に和泉屋 いずみや 吉兵衛 きちべえ ・兎 うさぎ 屋 や などの手 て を経 へ て博文 ひろぶみ 館 かん の所有 しょゆう となった。板木 はんぎ を用 もち いた出版 しゅっぱん は明治 めいじ 30年 ねん まで行 おこな われた[10] 。
江戸 えど 時代 じだい には今日 きょう 的 てき な意味 いみ での著作 ちょさく 権 けん は作者 さくしゃ になく[11] 、出版 しゅっぱん 権 けん (板 いた 株 かぶ )は版元 はんもと の間 あいだ で取引 とりひき され、版元 はんもと は自 みずか らが蔵板 ぞうはん する本 ほん を自由 じゆう に再 さい 摺 すり し、板木 はんぎ の仕立 した て直 なお しを行 おこな ったり、改題 かいだい を行 おこな うこともできた[11] [10] 。馬琴 ばきん は刊行 かんこう にあたって挿絵 さしえ や意匠 いしょう にさまざまな指示 しじ を出 だ しているが[12] 、これらの指示 しじ が反映 はんえい されたとみなされる初版 しょはん 初 はつ 摺本 すりほん が、研究 けんきゅう 上 じょう 重視 じゅうし されている[11] [12] 。後 こう 摺本 すりほん にも馬琴 ばきん が関与 かんよ したものと、馬琴 ばきん の関知 かんち しないものがある[12] 。『南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん 』という作品 さくひん の流通 りゅうつう ・普及 ふきゅう の上 うえ では、後 こう 摺本 すりほん の果 は たした役割 やくわり も大 おお きい[10] 。
馬琴 ばきん の手許 てもと にあった『南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん 』(手沢 しゅたく 本 ほん )は国立 こくりつ 国会図書館 こっかいとしょかん に収蔵 しゅうぞう されており、馬琴 ばきん による書 か き入 い れも見 み られる[13] 。明治大学 めいじだいがく 所蔵 しょぞう の板本 はんぽん は初 はつ 摺本 すりほん がそろったものとして評価 ひょうか が高 たか い[11] 。
物語 ものがたり の内容 ないよう [ 編集 へんしゅう ]
長大 ちょうだい な物語 ものがたり の内容 ないよう は、南 みなみ 総 そう 里見 さとみ 家 か の勃興 ぼっこう と伏姫 ふしひめ ・八 はち 房 ぼう の因縁 いんねん を説 と く発端 ほったん 部 ぶ (伏姫 ふしひめ 物語 ものがたり )、関 せき 八 はち 州 しゅう 各地 かくち に生 う まれた八犬士 はっけんし たちの流転 るてん と集結 しゅうけつ の物語 ものがたり (犬 いぬ 士 し 列伝 れつでん )、里見 さとみ 家 か に仕 つか えた八犬士 はっけんし が関東 かんとう 管領 かんりょう ・滸我公方 くぼう 連合 れんごう 軍 ぐん (史実 しじつ 世界 せかい の古河 ふるかわ 公方 くぼう 連合 れんごう 軍 ぐん )との戦争 せんそう (関東 かんとう 大戦 たいせん 、対 たい 管領 かんりょう 戦 せん )を戦 たたか い大団円 だいだんえん へ向 む かう部分 ぶぶん に大 おお きく分 わ けられる。抄 しょう 訳本 やくほん では親 おや 兵衛 ひょうえ の京都 きょうと 物語 ものがたり や管領 かんりょう 戦 せん 以降 いこう が省略 しょうりゃく されることが多 おお い。
安西 あんざい 景 けい 連 れん の首 くび と八 はち 房 ぼう 。月岡 つきおか 芳年 よしとし 「美 よし 勇 いさむ 水 みず 滸傳・里見 さとみ 二郎 じろう 太郎 たろう 義成 よしなり 」
嘉吉 よしきち 元年 がんねん (1441年 ねん )、結城 ゆうき 合戦 かっせん で敗 やぶ れ安房 あわ に落 お ち延 の びた里見 さとみ 義実 よしざね は、滝田 たきた 城主 じょうしゅ 神余 かなまり 光弘 みつひろ を謀殺 ぼうさつ した逆臣 ぎゃくしん 山下 やました 定包 さだかね を、神余 かなまり 旧臣 きゅうしん ・金 きむ 碗 わん ( かなまり ) 八郎 はちろう の協力 きょうりょく を得 え て討 う つ。義実 よしざね は定包 さだかね の妻 つま 玉 たま 梓 あずさ の助命 じょめい を一 いち 度 ど は口 くち にするが、八郎 はちろう に諌 いさ められてその言葉 ことば を翻 ひるがえ す。玉 たま 梓 あずさ は「里見 さとみ の子孫 しそん を畜生道 ちくしょうどう に落 お とし、煩悩 ぼんのう の犬 いぬ にしてやる」と呪詛 じゅそ の言葉 ことば を残 のこ して斬首 ざんしゅ された。
時 とき はくだり長禄 ちょうろく 元年 がんねん (1457年 ねん )、里見 さとみ 領 りょう の飢饉 ききん に乗 じょう じて隣 となり 領 りょう 館山 たてやま の安西 あんざい 景 けい 連 れん が攻 せ めてきた。落城 らくじょう を目前 もくぜん にした義実 よしざね は飼犬 かいいぬ の八 はち 房 ぼう に「景 けい 連 れん の首 くび を取 と ってきたら娘 むすめ の伏姫 ふしひめ を与 あた える」と戯 じゃ れを言 い う。はたして八 はち 房 ぼう は景 けい 連 れん の首 くび を持参 じさん して戻 もど って来 き た。八 はち 房 ぼう は他 た の褒美 ほうび に目 め もくれず、義実 よしざね にあくまでも約束 やくそく の履行 りこう を求 もと め、伏姫 ふしひめ は君主 くんしゅ が言葉 ことば を翻 ひるがえ すことの不可 ふか を説 と き、八 はち 房 ぼう を伴 ともな って富山 とやま ( とやま ) に入 はい った。
富山 とやま で伏姫 ふしひめ は読経 どきょう の日々 ひび を過 す ごし、八 はち 房 ぼう に肉体 にくたい の交 まじ わり を許 ゆる さなかった。翌年 よくねん 、伏姫 ふしひめ は山中 さんちゅう で出会 であ った仙 せん 童 わらわ から、八 はち 房 ぼう が玉 たま 梓 あずさ の呪詛 じゅそ を負 お っていたこと、読経 どきょう の功徳 くどく によりその怨念 おんねん は解消 かいしょう されたものの、八 はち 房 ぼう の気 き を受 う けて種子 しゅし を宿 やど したことが告 つ げられる。懐妊 かいにん を恥 は じた伏姫 ふしひめ は、折 お りしも富山 とやま に入 はい った金 きむ 碗 わん 大輔 だいすけ (八郎 はちろう の子 こ )・里見 さとみ 義実 よしざね の前 まえ で割腹 かっぷく し、胎内 たいない に犬 いぬ の子 こ がいないことを証 あか した。その傷口 きずぐち から流 なが れ出 で た白 しろ 気 き (白 しろ く輝 かがや く不思議 ふしぎ な光 ひかり )は姫 ひめ の数珠 じゅず を空中 くうちゅう に運 はこ び、仁義 じんぎ 八 はち 行 ぎょう の文字 もじ が記 しる された八 やっ つの大玉 おおだま を飛散 ひさん させる。義実 よしざね は後 ご を追 お い自害 じがい しようとした大輔 だいすけ を止 と め、大輔 だいすけ は僧体 そうたい となって、「犬 いぬ 」という字 じ を崩 くず し丶大 ( ちゅだい ) を名乗 なの り、八方 はっぽう に散 ち った玉 たま を求 もと める旅 たび に出 で た。時 とき に長禄 ちょうろく 2年 ねん (1458年 ねん )秋 あき のことであった。
大塚 おおつか 物語 ものがたり [ 編集 へんしゅう ]
歌川 うたがわ 国芳 くによし 「木曽 きそ 街道 かいどう 六 ろく 十 じゅう 九 きゅう 次 じ 之 これ 内 ない ・板橋 いたばし 犬塚 いぬづか 信乃 しの ・蟇 ひき 六 ろく ・左 ひだり 母 はは 次郎 じろう ・土 ど 太郎 たろう 」(1852年 ねん )。蟇 ひき 六 ろく が溺 おぼ れたふりをして信乃 しの を水中 すいちゅう に引 ひ き込 こ み、その間 あいだ に舟 ふね の上 うえ で左 ひだり 母 はは 次 じ 郎 ろう が村雨 むらさめ をすり替 か える場面 ばめん 。
物語 ものがたり は再 ふたた び嘉吉 よしきち 元年 がんねん (1441年 ねん )にさかのぼる。結城 ゆうき 合戦 かっせん に敗 やぶ れた大塚 おおつか 番 ばん 作 さく は、鎌倉 かまくら 公方 くぼう の近習 きんじゅ であった父 ちち から公方 くぼう 家 か の宝刀 ほうとう ・村雨 むらさめ 丸 まる を託 たく されて落 お ち延 の び、長 なが い旅 たび の末 すえ に故郷 こきょう の武蔵 むさし 大塚 おおつか 村 むら に戻 もど った。しかし大塚 おおつか 家 か の家督 かとく と村長 そんちょう の職 しょく は、姉 あね の亀 かめ 篠 しの と蟇 ひき 六 ろく の夫婦 ふうふ に奪 うば われており、番 ばん 作 さく は姓 せい を犬塚 いぬづか と改 あらた めて隠棲 いんせい した。長禄 ちょうろく 4年 ねん (1460年 ねん )、番 ばん 作 さく と妻 つま の手 て 束 たば ( たつか ) の子 こ として生 う まれたのが犬塚 いぬづか 信乃 しの である。
蟇 ひき 六 ろく 夫婦 ふうふ は、番 ばん 作 さく の隠 かく し持 も つ村雨 むらさめ を奪 うば おうと画策 かくさく し、信乃 しの の飼 か い犬 いぬ ・与四郎 よしろう が管領 かんりょう 家 か からの御教書 みぎょうしょ を破損 はそん したと言 い いがかりをつける。番 ばん 作 さく は自害 じがい することで信乃 しの を救 すく うとともに、再興 さいこう された公方 くぼう 家 か (足利 あしかが 成氏 しげうじ )に将来 しょうらい 村雨 むらさめ 丸 まる を献上 けんじょう することを託 たく す。蟇 ひき 六 ろく 夫婦 ふうふ は村人 むらびと の手前 てまえ 信乃 しの を引 ひ き取 と ることとし、養女 ようじょ 浜路 はまじ の将来 しょうらい の婿 むこ とすることにした。蟇 ひき 六 ろく 夫婦 ふうふ は下男 げなん ・額 がく 蔵 ぞう (犬川 いぬかわ 荘 そう 助 すけ )を信乃 しの の監視 かんし にあてる。しかし、ふとしたきっかけから信乃 しの と荘 そう 助 すけ は互 たが いが同 おな じ珠 たま と痣 あざ を持 も っている事 こと を知 し り、義兄弟 ぎきょうだい の契 ちぎ りを結 むす ぶ。二人 ふたり は表向 おもてむ きは不仲 ふなか を装 よそお いながらともに文武 ぶんぶ の研鑽 けんさん に励 はげ む。村人 むらびと の糠 ぬか 助 すけ が死 し に際 さい して珠 たま と痣 あざ を持 も つ息子 むすこ (犬飼 いぬかい 現 げん 八 はち のことだがその時点 じてん で信乃 しの と荘 そう 助 すけ は現 げん 八 はち という名前 なまえ を知 し らない。)がいたことを語 かた ったこと、梅 うめ の木 き に八 はち 房 ぼう の梅 うめ の実 み が生 な り、仁義 じんぎ 八 はち 行 ぎょう の文字 もじ が浮 う かび上 あ がったことから、同 おな じ縁 えん に連 つら なる義兄弟 ぎきょうだい の存在 そんざい を予感 よかん する。
文明 ぶんめい 10年 ねん (1478年 ねん )、信乃 しの 18歳 さい の夏 なつ 6月 がつ 、蟇 ひき 六 ろく 夫婦 ふうふ は信乃 しの に勧 すす めて古河 ふるかわ 公方 くぼう 成氏 しげうじ の許 もと に旅立 たびだ たせる。信乃 しの を亡 な き者 もの として浜路 はまじ を陣 じん 代 だい の側 がわ 妾 わらわ に差 さ し出 だ そうとするたくらみであり、村雨 むらさめ 丸 まる は蟇 ひき 六 ろく 夫婦 ふうふ の指示 しじ で浪人 ろうにん 網 あみ 乾 いぬい ( あぼし ) 左 ひだり 母 はは 二郎 じろう ( さもじろう ) が偽物 にせもの にすりかえていた。信乃 しの を慕 した う浜路 はまじ は旅立 たびだ つ前夜 ぜんや の信乃 しの に情 じょう を訴 うった えるも聞 き き容 い れられず、信乃 しの は去 さ ってしまう。蟇 ひき 六 ろく 夫婦 ふうふ によって婚礼 こんれい の支度 したく が進 すす められていることに悲観 ひかん した浜路 はまじ は縊死 いし を試 こころ みたが、浜路 はまじ を横恋慕 よこれんぼ する網 あみ 乾 いぬい に攫 さら われる。道中 どうちゅう の本郷 ほんごう 円 えん 塚山 つかやま ( まるつかやま ) で、網 あみ 乾 いぬい が本物 ほんもの の村雨 むらさめ 丸 まる を所持 しょじ していると知 し った浜路 はまじ はこれを取 と り返 かえ そうとし、逆上 ぎゃくじょう した網 あみ 乾 いぬい によって斬 き られてしまう。そこに煉 ねり 馬 ば 家 か 旧臣 きゅうしん 犬 いぬ 山道 さんどう 節 ぶし (実 じつ は浜路 はまじ の異母 いぼ 兄 けい )が現 あらわ れ、網 あみ 乾 いぬい を殺害 さつがい する。浜路 はまじ は本物 ほんもの の村雨 むらさめ 丸 まる を信乃 しの に渡 わた すよう道 みち 節 ぶし に頼 たの むが、煉 ねり 馬 ば 家 か を滅 ほろ ぼした関東 かんとう 管領 かんりょう 扇谷 おうぎや 定正 さだまさ に接近 せっきん して殺害 さつがい するため村雨 むらさめ 丸 まる を利用 りよう しようとする道 みち 節 ぶし はこれを拒絶 きょぜつ し、浜路 はまじ は失意 しつい の中 なか で息 いき を引 ひ き取 と る。信乃 しの を栗橋 くりはし まで送 おく った荘 そう 助 すけ がここに行 い き合 あ い、道 みち 節 ぶし と斬 ぎ り合 あ いになるが、道 みち 節 ぶし は火遁 かとん の術 じゅつ を使 つか って逃 のが れた。斬 ぎ り合 あ いの中 なか で二人 ふたり の持 も つ珠 たま が入 い れ替 か わった。荘 そう 助 すけ は浜路 はまじ を葬 ほうむ り、大塚 おおつか への帰路 きろ を急 いそ ぐ。
月岡 つきおか 芳年 よしとし 「芳流閣 ほうりゅうかく 両雄 りょうゆう 動 どう 」
芳流閣 ほうりゅうかく の決闘 けっとう ・古 こ 那 な 屋 や の惨劇 さんげき [ 編集 へんしゅう ]
信乃 しの は滸我で成 しげる 氏 し に謁見 えっけん したが、村雨 むらさめ 丸 まる が贋物 にせもの であった事 こと から管領 かんりょう 方 かた の間 あいだ 者 しゃ と疑 うたが われ襲 おそ われる。防戦 ぼうせん しながら芳流閣 ほうりゅうかく の屋根 やね に追 お い詰 つ められた信乃 しの を捕 と らえるべく、投獄 とうごく されていた捕物 とりもの の名人 めいじん 犬飼 いぬかい 現 げん 八 はち が登場 とうじょう するが、二人 ふたり は組 く み合 あ ううちに利根川 とねがわ に転落 てんらく した。下総 しもふさ 行徳 ぎょうとく へと流 なが れついた二人 ふたり を助 たす けたのは、旅籠 はたご ・古 こ 那 な 屋 や の主人 しゅじん 古 こ 那 な 屋 や 文 ぶん 五 ご 兵衛 ひょうえ と、その子 こ の犬田 いぬた 小 しょう 文吾 ぶんご であった。しかし古 こ 那 な 屋 や に匿 かくま われてまもなく、信乃 しの は破傷風 はしょうふう により瀕死 ひんし の床 ゆか に就 つ く。また、信乃 しの にかけられた追手 おって によって文 ぶん 五 ご 兵衛 ひょうえ も拘引 こういん されてしまう。
小 しょう 文吾 ぶんご の妹 いもうと ・沼 ぬま 藺 い ( ぬい ) の夫 おっと である山林 さんりん 房 ぼう 八 はち は小 しょう 文吾 ぶんご といさかいを起 お こしており、沼 ぬま 藺 い とその幼子 おさなご 大 だい 八 はち を実家 じっか である古 こ 那 な 屋 や に帰 かえ していた。小文 おぶみ 吾 われ らの留守 るす 中 ちゅう に古 こ 那 な 屋 や に押 お しかけた山林 さんりん 房 ぼう 八 はち は、お尋 たず ね者 もの になっている信乃 しの を引 ひ き渡 わた せと迫 せま り、帰 かえ って来 き た小 しょう 文吾 ぶんご に斬 き られる。この中 なか で、兄 あに と夫 おっと の間 あいだ に入 はい った沼 ぬま 藺 い と大八 だいはち は房 ぼう 八 はち によって殺傷 さっしょう されてしまう。実 じつ はこの惨劇 さんげき は、房 ぼう 八 はち が自 みずか らの家 いえ と古 こ 那 な 屋 や との過去 かこ の悪 あく 因縁 いんねん (房 ぼう 八 はち の祖父 そふ が、小 しょう 文吾 ぶんご ・沼 ぬま 藺 い の伯父 おじ を殺害 さつがい していた)を清算 せいさん するために仕組 しく んだものであり、信乃 しの に似 に ている自 みずか らの首 くび と引 ひ き換 か えに古 こ 那 な 屋 や の危機 きき を救 すく おうとしたのであった。結果 けっか として信乃 しの は房 ぼう 八 はち 夫妻 ふさい の犠牲 ぎせい で救 すく われることとなった。おりしも古 こ 那 な 屋 や に居合 いあ わせた丶大によって、里見 さとみ 家 か の伏姫 ふしひめ の物語 ものがたり が語 かた られ、珠 たま を持 も つ犬 いぬ 士 し たちがその縁 えん に連 つら なることが告 つ げられる。また、死 し んだと思 おも われた大八 だいはち が息 いき を吹 ふ き返 かえ して珠 たま と痣 あざ を示 しめ し、大 だい 八 はち もまた犬 いぬ 士 し の一人 ひとり であることが明 あき らかになる。大八 だいはち は丶大によって犬 いぬ 江 こう 親 ちかし 兵衛 ひょうえ の名 な を定 さだ められた。
房 ぼう 八 はち の首 くび で文 ぶん 五 ご 兵衛 ひょうえ を釈放 しゃくほう させつつ、密 ひそ かに房 ぼう 八 はち ・沼 ぬま 藺 い 夫婦 ふうふ を埋葬 まいそう して惨劇 さんげき の始末 しまつ をつけた信乃 しの ・小 しょう 文吾 ぶんご ・現 げん 八 はち は、荘 そう 助 すけ を迎 むか えるため大塚 おおつか へ向 む かう。一方 いっぽう 、丶大・文 ぶん 五 ご 兵衛 ひょうえ ・妙 みょう 真 しん (房 ぼう 八 はち の母 はは )らは親 おや 兵衛 ひょうえ を伴 ともな って安房 あわ に向 む かうが、途中 とちゅう で丶大一 いち 行 ぎょう は暴漢 ぼうかん に襲 おそ われ、親 おや 兵衛 ひょうえ は神隠 かみがく しに遭 あ う。
五 ご 犬 いぬ 士 し 会同 かいどう ・荒 あら 芽 め 山 やま の離散 りさん [ 編集 へんしゅう ]
これよりさき、大塚 おおつか では蟇 ひき 六 ろく 夫妻 ふさい が浜路 はまじ と陣 じん 代 だい の婚礼 こんれい を開 ひら こうとしたが、浜路 はまじ が失踪 しっそう した(網 あみ 乾 いぬい によって拉致 らち されていた)ために、激怒 げきど した陣 じん 代 だい らに殺 ころ された。その場 ば に帰 かえ り着 つ いた荘 そう 助 すけ は陣 じん 代 だい らによって襲 おそ われるが、これを返 かえ り討 う ちにする。しかし、荘 そう 助 すけ は領主 りょうしゅ によって捕 とら えられ、主人 しゅじん 殺 ごろ しの罪 つみ が着 き せられて死罪 しざい とされた。行徳 ぎょうとく から神宮 じんぐう 河原 かわら までやって来 き た三 さん 犬 いぬ 士 し は船頭 せんどう の姨雪世 よ 四 よん 郎 ろう (実 じつ は犬 いぬ 山道 さんどう 節 ぶし の郎党 ろうとう )からこのことを聞 き き、情報 じょうほう を集 あつ めて荘 そう 助 すけ を救 すく うことを計画 けいかく 。まさに荘 そう 助 すけ の処刑 しょけい が行 おこな われようとする刑場 けいじょう を破 やぶ り、荘 そう 助 すけ を救出 きゅうしゅつ する。追手 おって をかけられた四 よん 犬 いぬ 士 し の危地 きち を救 すく ったのは、世 よ 四 よん 郎 ろう とその子 こ 力 ちから 二 に ・尺 しゃく 八 はち であった。四 よん 犬 いぬ 士 し は、世 よ 四 よん 郎 ろう の言葉 ことば に従 したが い、世 よ 四 よん 郎 ろう とゆかりのある音 おと 音 おん が暮 く らす上野 うえの 国 こく 荒 あら 芽 め 山 やま に向 む かった。
四 よん 犬 いぬ 士 し は途中 とちゅう 、犬 いぬ 山道 さんどう 節 ぶし が管領 かんりょう 扇谷 おうぎや 定正 さだまさ に仇 かたき 討 う ちを仕掛 しか けた騒 さわ ぎに巻 ま き込 こ まれながら、音 おと 音 おん (実 じつ は道 みち 節 ぶし の乳母 うば 、力 ちから 二 に ・尺 しゃく 八 はち の母 はは )が嫁 よめ たち(曳手・単 たん 節 ふし )と暮 く らす荒 あら 芽 め 山 やま の家 いえ にたどり着 つ く。道 みち 節 ぶし ・世 せい 四 よん 郎 ろう もそれぞれここに合流 ごうりゅう する。珠 たま の因縁 いんねん を知 し った道 みち 節 ぶし は村雨 むらさめ 丸 まる を信乃 しの に返 かえ し、邪法 じゃほう である火遁 かとん の術 じゅつ を捨 す てて犬 いぬ 士 し の群 む れに加 くわ わる。しかしそこへ巨 きょ 田助 たすけ 友 とも 率 ひき いる管領 かんりょう 家 か の軍勢 ぐんぜい が襲撃 しゅうげき し、犬 いぬ 士 し たちは離散 りさん を余儀 よぎ なくされる。文明 ぶんめい 10年 ねん (1478年 ねん )7月 がつ 7日 にち のことであった。
対 たい 牛 うし 楼 ろう の仇 かたき 討 う ち[ 編集 へんしゅう ]
荒 あら 芽 め 山 やま から武蔵 むさし 国 こく に逃 のが れた小 しょう 文吾 ぶんご は、宿 やど を貸 か した旅人 たびびと を襲 おそ っていた盗賊 とうぞく の並 なみ 四 よん 郎 ろう を返 かえ り討 う ちにする。並 なみ 四 よん 郎 ろう の妻 つま ・船虫 ふなむし は小 しょう 文吾 ぶんご に謝礼 しゃれい として尺八 しゃくはち (実 じつ は領主 りょうしゅ である千葉 ちば 家 か の重宝 ちょうほう であった名 めい 笛 ふえ ・嵐山 あらしやま )を渡 わた したが、これは罠 わな であった。船虫 ふなむし は石浜 いしはま 城 しろ 主 おも ・千葉 ちば 家 か の眼 め 代 だい に小文 おぶみ 吾 われ を盗人 ぬすっと として突 つ き出 だ すが、尺八 しゃくはち をいぶかしんだ小 しょう 文吾 ぶんご がひそかに返 かえ していたために罠 わな は不発 ふはつ に終 お わる。小 しょう 文吾 ぶんご は千葉 ちば 家 か の家老 がろう ・馬 うま 加 か 大 だい 記 き に引 ひ き合 あ わされるが、実 じつ は大 だい 記 き こそがかつて船虫 ふなむし 夫婦 ふうふ に嵐山 あらしやま を盗 ぬす ませた黒幕 くろまく であった。大 だい 記 き は小 しょう 文吾 ぶんご の才覚 さいかく を見抜 みぬ き、自 みずか らの主家 しゅか への謀反 むほん に加担 かたん するよう持 も ちかけるが断 ことわ られる。小 しょう 文吾 ぶんご は警戒 けいかい した大 だい 記 き によって城内 きうち に軟禁 なんきん される。抑留 よくりゅう はそのまま1年 ねん 近 ちか く続 つづ いたが、その間 あいだ に小 しょう 文吾 ぶんご は老僕 ろうぼく の口 くち から、かつて大 だい 記 き が千葉 ちば 家 か の重臣 じゅうしん 粟 あわ 飯原 いいはら 胤 たね 度 ど を排除 はいじょ して権力 けんりょく を掌握 しょうあく するために行 い った策謀 さくぼう の話 はなし を聞 き く。寛 ひろし 正 せい 6年 ねん (1465年 ねん )、大 だい 記 き は同僚 どうりょう の籠山 かごやま 逸 いっ 東 あずま 太 ふとし に胤 たね 度 ど を殺 ころ させ、逸 いっ 東 あずま 太 ふとし も千葉 ちば 家 か にいられないよう仕向 しむ けた上 うえ 、粟 あわ 飯原 いいはら 一族 いちぞく を子女 しじょ に至 いた るまで皆殺 みなごろ しにしたのであった。
石浜 いしはま 城下 じょうか に女 おんな 田楽 でんがく 師 し が連 つ れ立 だ って訪 おとず れたが、そのうちの一人 ひとり である美貌 びぼう の旦 だん 開 ひらき 野 の ( あさけの ) を大 だい 記 き は留 と め置 お いた。旦 だん 開 ひらき 野 の は大 だい 記 き が小 しょう 文吾 ぶんご に送 おく り込 こ んだ暗殺 あんさつ 者 しゃ を仕留 しと めて小 しょう 文吾 ぶんご と語 かた らい、いずれは夫婦 ふうふ となる約束 やくそく を交 か わす。実 じつ は旦 だん 開 ひらき 野 の は男 おとこ であり、粟 あわ 飯原 いいはら 胤 たね 度 ど の遺児 いじ ・犬 いぬ 坂 ざか 毛 げ 野 の であった。文明 ぶんめい 11年 ねん (1479年 ねん )5月 がつ 、毛 もう 野 の は仇 かたき と狙 ねら う馬 うま 加 か 大 だい 記 き を城内 じょうない の楼閣 ろうかく 「対 たい 牛 うし 楼 ろう 」で討 う ち果 は たす。正体 しょうたい を明 あ かした毛 もう 野 の と小文 おぶみ 吾 われ は混乱 こんらん に乗 じょう じて城 しろ を脱出 だっしゅつ するが、2人 ふたり は川 かわ を渡 わた ろうと試 こころ みるうちに離 はな れ離 ばな れとなる。
庚申山 こうしんさん の妖猫退治 たいじ [ 編集 へんしゅう ]
荒 あら 芽 め 山 やま の離散 りさん 後 ご 、諸国 しょこく を巡 めぐ った現 げん 八 はち は、文明 ぶんめい 12年 ねん (1480年 ねん )9月 がつ に下野 げや 国 こく 網 あみ 苧 からむし ( あしお ) を訪 おとず れ、庚申山 こうしんさん 山中 さんちゅう に住 す まう妖猫の話 はなし を聞 き く。期 き せずして庚申山 こうしんさん に分 わ け入 はい った現 げん 八 はち は妖猫と遭遇 そうぐう し、弓 ゆみ をもって妖猫の左目 ひだりめ を射 い る。現 げん 八 はち が山頂 さんちょう の岩窟 がんくつ で会 あ った亡霊 ぼうれい は赤岩 あかいわ 一角 いっかく を名乗 なの り、自 みずか らを殺 ころ した妖猫が「赤岩 あかいわ 一角 いっかく 」に成 な り代 か わっていることを語 かた り、妖猫を父 ちち と信 しん じて疑 うたが わない実子 じっし の犬村 いぬむら 角太郎 かくたろう (犬村 いぬむら 大角 だいかく 。母方 ははかた 親族 しんぞく の犬村 いぬむら 家 か に養 やしな われた)に真実 しんじつ を伝 つた えるよう依頼 いらい する。また、一角 いっかく は大角 おおすみ が現 げん 八 はち と同 おな じ因縁 いんねん に連 つら なることも告 つ げる。山 やま を降 お りた現 げん 八 はち は、麓 ふもと の返 かえし 璧( たまがえし ) の里 さと に大角 おおすみ の草庵 そうあん を訪 と う。大角 おおすみ の妻 つま である雛 ひな 衣 ころも の腹 はら は懐妊 かいにん の模様 もよう を示 しめ しており、身 み に覚 おぼ えのない大角 おおすみ は不義 ふぎ を疑 うたが って雛 ひな 衣 ころも を離縁 りえん 、自 みずか らは返 かえし 璧の庵 あん に蟄居 ちっきょ していたのであった。
偽 にせ 赤岩 あかいわ 一角 いっかく (実 じつ は妖猫)は、後妻 ごさい に納 おさ まっていた船虫 ふなむし とともに大角 おおすみ を訪 おとず れ、雛 ひな 衣 ころも を復縁 ふくえん させた。これは偽 にせ 一角 いっかく が目 め の治療 ちりょう のために孕 はら み子 こ の肝 きも とその母 はは の心臓 しんぞう とを要求 ようきゅう するためのものであった。大角 おおすみ は孝心 こうしん に迫 せま られて窮 きゅう したが、夫 おっと を救 すく い自 みずか らの潔白 けっぱく を明 あ かすために雛 ひな 衣 ころも は割腹 かっぷく する。その腹中 ふくちゅう からは珠 たま が飛 と び出 だ して偽 にせ 一角 いっかく を撃 う った。以前 いぜん 雛 ひな 衣 ころも が病 やまい となった際 さい 、大角 おおすみ は珠 たま をひたした水 みず を飲 の ませたのだが、雛 ひな 衣 ころも は珠 たま を誤 あやま 飲 のま してまい、その後 ご 懐妊 かいにん と見 み られる様子 ようす が現 あらわ れたのであった。大角 おおすみ は現 げん 八 はち とともに正体 しょうたい を現 あらわ した妖猫を退治 たいじ した。大角 おおすみ は妻 つま の喪 も に服 ふく し、家財 かざい を処分 しょぶん して、文明 ぶんめい 13年 ねん (1481年 ねん )2月 がつ に現 げん 八 はち とともに犬 いぬ 士 し として故郷 こきょう から旅立 たびだ つ。
荒 あら 芽 め 山 やま の離散 りさん 後 ご 、諸国 しょこく を巡 めぐ った信乃 しの は、文明 ぶんめい 13年 ねん (1481年 ねん )10月 がつ に甲斐 かい 国 こく を訪 おとず れた。信乃 しの はここで武田 たけだ 家 か 家臣 かしん の泡雪 あわゆき 奈四郎 ろう に鉄砲 てっぽう で誤 あやま 射 さ されてトラブルとなり、仲裁 ちゅうさい に入 はい った猿 さる 石村 いしむら 村長 そんちょう ・四 よん 六 ろく 城木 しろき 工作 こうさく ( よろぎむくさく ) の家 いえ に逗留 とうりゅう することになる。降雪 こうせつ によって逗留 とうりゅう は長引 ながび くが、木工 もっこう 作 さく の家 いえ には浜路 はまじ という名前 なまえ の養女 ようじょ がいた。ある夜 よる 、この浜路 はまじ に大塚 おおつか 村 むら の浜路 はまじ の霊 れい が乗 の り移 うつ り、信乃 しの に想 おも いを伝 つた える出来事 できごと があった。木工 もっこう 作 さく の後妻 ごさい である夏 なつ 引( なびき ) らがその場 ば に踏 ふ み込 こ んで騒動 そうどう となるが、信乃 しの と語 かた らった木工 もっこう 作 さく はさまざまな因縁 いんねん に感 かん じ入 い り、浜路 はまじ を信乃 しの に嫁 とつ がせることを考 かんが える。
夏 なつ 引は泡雪 あわゆき 奈四郎 ろう と不倫 ふりん の仲 なか にあり、浜路 はまじ を疎 うと ましく思 おも っていた。木工 もっこう 作 さく は奈四郎 ろう の許 もと を訪 たず ねて口論 こうろん となり、逆上 ぎゃくじょう した奈四郎 ろう は木 き 工作 こうさく を撃 う ち殺 ころ す。夏 なつ 引と奈四郎 ろう はその罪 つみ を信乃 しの にかぶせようと石 いし 禾( いさわ ) の指 ゆび 月 がつ 院 いん で謀議 ぼうぎ をめぐらす。武田 たけだ 家 か の眼 め 代 だい によって信乃 しの は村長 そんちょう 殺 ごろ しの疑 うたが いで捕縛 ほばく され、浜路 はまじ も同道 どうどう させられた。
実 じつ は、眼 め 代 だい は犬 いぬ 山道 さんどう 節 ぶし が変装 へんそう していたものであった。指 ゆび 月 がつ 院 いん は故 こ あって丶大が住持 じゅうじ を務 つと めることになり、そこにたまたま荘 そう 助 すけ ・道 みち 節 ぶし らが立 た ち寄 よ ったことから犬 いぬ 士 し の捜索 そうさく 拠点 きょてん になっていた(この時 とき は道 みち 節 ぶし が近辺 きんぺん の、荘 そう 助 すけ が遠方 えんぽう の探索 たんさく に当 あ たっていた)。夏 なつ 引と奈四郎 ろう の謀議 ぼうぎ は小坊主 こぼうず に立 た ち聞 ぎ きされ、信乃 しの や浜路 はまじ のことも知 し られたのであった。道 みち 節 ぶし の後 のち にやって来 き た本物 ほんもの の眼 め 代 だい も偽装 ぎそう 工作 こうさく の不審 ふしん に気 き づいて夏 なつ 引らは拘引 こういん され、奈四郎 ろう は逃亡 とうぼう したが悪行 あくぎょう の報 むく いを受 う けることになる。
指 ゆび 月 がつ 院 いん で丶大はまた、浜路 はまじ は実 じつ は里見 さとみ 家 か の姫 ひめ (義実 よしざね から家督 かとく を譲 ゆず られた里見 さとみ 義成 よしなり の五 ご 女 じょ )で、幼少 ようしょう 時 じ に大鷲 おおわし に攫 さら われた浜路 はまじ 姫 ひめ であったということを伝 つた える。道 みち 節 ぶし ・信乃 しの は安房 あわ へ向 む かう浜路 はまじ 姫 ひめ を隅田川 すみだがわ まで送 おく って別 わか れ、残 のこ る犬 いぬ 士 し を探 さが す旅 たび に出 で る。
『南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん 』第 だい 七 なな 輯巻之 の 七 なな (文政 ぶんせい 13年 ねん (1830年 ねん )刊 かん )内 ない の挿絵 さしえ 「自若 じじゃく として小 しょう 文吾 ぶんご 暴牛を駐 ちゅう む」(柳川 やながわ 重 しげる 宣 せん 画 が )
文明 ぶんめい 14年 ねん (1482年 ねん )3月 がつ 、越後 えちご 国 こく 小千谷 おじや を訪 おとず れた小 しょう 文吾 ぶんご は、石亀 いしがめ 屋 や 次 じ 団 だん 太 ふとし の好意 こうい によって逗留 とうりゅう する。この地 ち の山賊 さんぞく ・酒 さけ 顛二( しゅてんじ ) の妻 つま になっていた船虫 ふなむし はこのことを知 し り、按摩 あんま に変装 へんそう して目 め を病 や んだ小 しょう 文吾 ぶんご を襲撃 しゅうげき するが、珠 たま の奇瑞 きずい によって救 すく われる。船虫 ふなむし は町人 ちょうにん に捕 と らえられ「神慮 しんりょ 任 まか し」という放置 ほうち の刑 けい を受 う けるが、おりしも小千谷 おじや にやって来 き た荘 そう 助 すけ はそのことを知 し らずに船虫 ふなむし を助 たす けてしまう。酒 さけ 顛二の砦 とりで に案内 あんない された荘 そう 助 すけ は、かれらが賊 ぞく であることを知 し って退治 たいじ する。
荘 そう 助 すけ と小文 おぶみ 吾 われ は再会 さいかい するが、二人 ふたり はこの地 ち を治 おさ める長尾 ながお 景春 かげはる の母 はは ・箙 えびら 大 だい 刀自 とじ ( えびらのおおとじ ) に捕 と らえられ、危 あや うく処刑 しょけい されそうになる。荘 そう 助 すけ の父 ちち に恩義 おんぎ のある長尾 ちょうび 家 か 家臣 かしん ・稲 いね 戸津 とつ 衛 まもる の助 たす けによって危機 きき を脱 だっ した二人 ふたり は、石 いし 禾に向 む かう途中 とちゅう の信濃 しなの 路 ろ で、乞食 こじき 姿 すがた に身 み をやつした毛 もう 野 の と邂逅 かいこう する。この時 とき 、毛 もう 野 の が持 も っていた「落葉 らくよう 」の刀 かたな をめぐって荘 そう 助 すけ と毛 もう 野 の が斬 き り合 あ うが(それぞれが父 ちち にゆかりの刀 かたな と考 かんが え、実際 じっさい 双方 そうほう に関係 かんけい があった)、後 ご から追 お いついた小 しょう 文吾 ぶんご が仲裁 ちゅうさい に入 はい った。二人 ふたり は毛 もう 野 の に里見 さとみ 家 か との縁 えん を伝 つた えるが、毛 もう 野 の はもうひとりの仇 かたき ・籠山 かごやま 逸 いっ 東 あずま 太 ふとし への復讐 ふくしゅう を誓 ちか っており、宿 やど に漢詩 かんし を書 か き残 のこ して姿 すがた を消 け した。
鈴 すず 茂 しげ 林 りん の仇 かたき 討 う ち[ 編集 へんしゅう ]
文明 ぶんめい 14年 ねん (1482年 ねん )9月 がつ 、現 げん 八 はち と大角 おおすみ 、信乃 しの と道 みち 節 ぶし の四 よん 犬 いぬ 士 し は、武蔵 むさし 国 こく 穂北 ほきた 荘 そう で邂逅 かいこう する。氷 こおり 垣 かき 残 ざん 三 さん が率 ひき いる穂北 ほきた 荘 そう は、結城 ゆうき 合戦 かっせん の残党 ざんとう や豊島 としま 家 か の遺臣 いしん など、管領 かんりょう 家 か を快 こころよ く思 おも わない郷士 ごうし たちの自治 じち の里 さと であった。当初 とうしょ は盗賊 とうぞく と間違 まちが えられるという出会 であ い方 かた をした犬 いぬ 士 し たちと穂北 ほきた 荘 そう であるが、残 ざん 三 さん の娘 むすめ である聡明 そうめい な重 じゅう 戸 と の判断 はんだん や伏姫 ふしひめ 神 しん の加護 かご もあって誤解 ごかい は解 と け、犬 いぬ 士 し たちはこの地 ち を新 あら たな拠点 きょてん とすることになる。現 げん 八 はち と大角 おおすみ はいったん指 ゆび 月 がつ 院 いん に行 い き、荘 そう 助 すけ ・小文 おぶみ 吾 われ と合流 ごうりゅう することになった。
そのころ毛 け 野 の は物 もの 四 よん 郎 ろう と名乗 なの り湯島天神 ゆしまてんじん で放下 ほうか 師 し となっていた。文明 ぶんめい 15年 ねん (1483年 ねん )1月 がつ 20日 はつか 、扇谷 おうぎや 定正 さだまさ 夫人 ふじん 蟹 かに 目前 もくぜん ( かなめのまえ ) の猿 さる を救 すく ったことから、毛 もう 野 の は蟹 かに 目前 もくぜん および扇谷 おうぎだに 家 か の忠臣 ちゅうしん ・河 かわ 鯉 こい 守 もり 如の知遇 ちぐう を得 え る。力量 りきりょう を見定 みさだ められた毛 もう 野 の は、蟹 かに 目前 もくぜん と河 かわ 鯉 こい 守 もり 如 し から奸臣 かんしん ・竜山 たつやま 免 めん 太夫 たゆう の殺害 さつがい を依頼 いらい される。竜山 たつやま 免 めん 太夫 たゆう こそは、毛 もう 野 の の仇 かたき ・籠山 かごやま 逸 いっ 東 あずま 太 ふとし であった。翌日 よくじつ 小田原 おだわら 北条 ほうじょう 家 か に使節 しせつ として派遣 はけん される籠山 かごやま を襲撃 しゅうげき する計画 けいかく が立 た てられるが、これを立 た ち聞 ぎ きした道 みち 節 ぶし は毛 もう 野 の の仇 かたき 討 う ちに乗 じょう じ、穂北 ほきた 郷士 ごうし たちとともに挙兵 きょへい することを計画 けいかく する。その夜 よる 、六 ろく 犬 いぬ 士 し は司馬 しば 浜 はま に結集 けっしゅう するが、この場所 ばしょ は船虫 ふなむし が辻 つじ 君 くん をしながら強盗 ごうとう 殺人 さつじん を行 おこな う場所 ばしょ であった。犬 いぬ 士 し たちとさまざまな悪 あく 因縁 いんねん を持 も つこの悪女 あくじょ は、出陣 しゅつじん の門出 かどで として牛 うし の角 かく で誅戮 ちゅうりく された。
1月 がつ 21日 にち 、鈴 すず 茂 しげ 林 りん ( すずのもり ) で毛 け 野 の が籠山 かごやま を討 う って本懐 ほんかい を遂 と げたころ、信乃 しの は扇谷 おうぎだに 家 か の本城 ほんじょう である五十子 いかご 城 じょう を攻 せ め落 お とし、道 みち 節 ぶし は出陣 しゅつじん した定正 さだまさ の軍勢 ぐんぜい を打 う ち破 やぶ る。戦場 せんじょう に駆 か けつけた河 かわ 鯉 こい 孝嗣 たかし (守 まもり 如の子 こ )から、蟹 かに 目前 もくぜん と河 かわ 鯉 こい 守 もり 如が自害 じがい したことを聞 き かされた犬 いぬ 士 し たちは、毛 もう 野 の と道 みち 節 ぶし らが通謀 つうぼう していたわけではないことを説明 せつめい して兵 へい を退 しりぞ いた。
指 ゆび 月 がつ 院 いん を後任 こうにん の住持 じゅうじ に引 ひ き渡 わた した丶大は、下総 しもうさ 結城 ゆうき で結城 ゆうき 合戦 かっせん 戦死 せんし 者 しゃ の大 だい 法要 ほうよう を行 おこな うこととした。七 なな 犬 いぬ 士 し たちは結城 ゆうき に向 む かう。
親 おや 兵衛 ひょうえ 再 さい 登場 とうじょう 以後 いご [ 編集 へんしゅう ]
蟇 ひき 田 た 素 もと 藤 ふじ の乱 らん ・八 はち 犬 いぬ 具足 ぐそく [ 編集 へんしゅう ]
三 さん 代目 だいめ 歌川 うたがわ 豊国 ほうこく 『豊国 とよくに 揮毫 きごう 奇術 きじゅつ 競 きおい 』より「尼 あま 妙 みょう 椿 つばき 」
里見 さとみ 家 か に従属 じゅうぞく していた上総 かずさ 館山 たてやま 城主 じょうしゅ 蟇 ひき 田 た 素 もと 藤 ふじ は、盗賊 とうぞく の倅 せがれ から幸運 こううん に恵 めぐ まれて一 いち 城 しろ の主 おも に成 な り上 あ がった人物 じんぶつ である。八 はち 百 ひゃく 比丘尼 びくに 妙 みょう 椿 つばき の幻術 げんじゅつ によって、浜路 はまじ 姫 ひめ の姿 すがた を見 み た素 す 藤 ふじ は、浜路 はまじ 姫 ひめ に恋慕 れんぼ して婚姻 こんいん を願 ねが うも、義成 よしなり に断 ことわ られる。妙 みょう 椿 つばき の助力 じょりょく を得 え た素 す 藤 ふじ は、文明 ぶんめい 15年 ねん (1483年 ねん )1月 がつ 、里見 さとみ 家 か の嫡男 ちゃくなん ・義 ぎ 通 どおり を人質 ひとじち にとり、里見 さとみ 家 か に反旗 はんき を翻 ひるがえ した。里見 さとみ の軍勢 ぐんぜい は人質 ひとじち と妖術 ようじゅつ に悩 なや まされ、館山 たてやま 城 じょう を攻 せ めあぐねた。2月、富山 とやま を訪 おとず れた老 ろう 侯 ほう 里見 さとみ 義実 よしざね は刺客 しかく に襲 おそ われたが、このとき犬 いぬ 江 こう 親 ちかし 兵衛 ひょうえ と名乗 なの る大 だい 童子 どうじ が現 あらわ れて危難 きなん を救 すく う。親 おや 兵衛 ひょうえ の「神隠 かみがく し」は伏姫 ふしひめ 神 しん によるもので(このことは「神隠 かみがく し」時 じ の挿絵 さしえ で読者 どくしゃ には示唆 しさ されている)、犬 いぬ 江 こう 親 ちかし 兵衛 ひょうえ は伏姫 ふしひめ 神 しん の庇護 ひご 下 か に置 お かれ、実 じつ 年齢 ねんれい 以上 いじょう の成長 せいちょう を遂 と げていたのであった。また、荒 あら 芽 め 山 やま で行方 ゆくえ 不明 ふめい となった音 おと 音 おん ・世 せい 四 よん 郎 ろう 夫婦 ふうふ らも富山 とやま に導 みちび かれていた。親 おや 兵衛 ひょうえ は速 すみ やかに素 す 藤 ふじ の乱 らん を鎮定 ちんてい する。
ひとたびは助命 じょめい され追放 ついほう された素 す 藤 ふじ であったが、妙 みょう 椿 つばき とともに再 さい 乱 らん の機 き をうかがう。3月に妙 みょう 椿 つばき は幻術 げんじゅつ によって、親 おや 兵衛 ひょうえ が浜路 はまじ 姫 ひめ と密通 みっつう しているという疑 うたが いを義成 よしなり に持 も たせることに成功 せいこう した。義成 よしなり は親 おや 兵衛 ひょうえ を結城 ゆうき に向 む かわせ、また珠 たま からも引 ひ き離 はな してしまう(ただし、親 おや 兵衛 ひょうえ の珠 たま は自 みずか ら親 おや 兵衛 ひょうえ の許 もと に戻 もど る)。親 おや 兵衛 ひょうえ がいない里見 さとみ 家 か の領国 りょうごく では、素 す 藤 ふじ と妙 みょう 椿 つばき が上総 かずさ 館山 たてやま 城 じょう を奪取 だっしゅ した。
親 おや 兵衛 ひょうえ は不 ふ 忍 にん 池 ち のほとりで、扇谷 おうぎや 家 か の奸臣 かんしん たちの讒言 ざんげん に遭 あ った河 かわ 鯉 こい 孝嗣 たかし が処刑 しょけい されようとするところに遭遇 そうぐう する。孝嗣 たかし の危難 きなん を救 すく ったのは、河 かわ 鯉 こい 家 か に恩義 おんぎ を持 も つ政木 まさき 狐 きつね であった。孝嗣 たかし は名 な を政木 まさき 大全 たいぜん と改 あらた めて里見 さとみ 家 か に仕 つか えることとする。義成 よしなり は幻術 げんじゅつ により親 おや 兵衛 ひょうえ を疑 うたが ったことを覚 さと る。誤解 ごかい が解 と かれた親 おや 兵衛 ひょうえ は上総 かずさ 館山 たてやま に赴 おもむ き、4月 がつ 13日 にち に素 す 藤 ふじ を討 う った。退治 たいじ された妙 みょう 椿 つばき が現 あらわ した本体 ほんたい は、玉 たま 梓 あずさ の怨念 おんねん の宿 やど った狸 たぬき であった。
一方 いっぽう 結城 ゆうき では、悪僧 あくそう 徳用 とくよう と一部 いちぶ の結城 ゆうき 家 か 重臣 じゅうしん が法要 ほうよう の妨害 ぼうがい を図 はか った。七 なな 犬 いぬ 士 し は協力 きょうりょく して襲撃 しゅうげき 者 しゃ と戦 たたか い、素 す 藤 ふじ の再 さい 乱 らん を鎮定 ちんてい して駆 か けつけた親 おや 兵衛 ひょうえ も合流 ごうりゅう し、ここに八犬士 はっけんし は集結 しゅうけつ する。文明 ぶんめい 15年 ねん (1483年 ねん )4月 がつ 16日 にち のことであった。結城 ゆうき 家 か が介入 かいにゅう して事態 じたい は収拾 しゅうしゅう される。犬 いぬ 士 し たちはともに安房 あわ に赴 おもむ き、里見 さとみ 家 か に仕 つか えることとなった。
親 おや 兵衛 ひょうえ の京都 きょうと 物語 ものがたり [ 編集 へんしゅう ]
八犬士 はっけんし の結集 けっしゅう を見 み た里見 さとみ 義実 よしざね であったが、丶大が出家 しゅっけ したことで金 きむ 碗 わん 氏 し が絶 た えることを惜 お しみ、八犬士 はっけんし の姓 せい (氏 し ・本姓 ほんせい 参照 さんしょう [注釈 ちゅうしゃく 4] )を金 きむ 碗 わん に改 あらた めることを提案 ていあん 、改姓 かいせい 許可 きょか を得 え るため朝廷 ちょうてい に使節 しせつ を派遣 はけん することとする。使者 ししゃ に選 えら ばれたのが犬 いぬ 江 こう 親 ちかし 兵衛 ひょうえ で、文明 ぶんめい 15年 ねん (1483年 ねん )7月 がつ に京都 きょうと に向 む け出発 しゅっぱつ し、8月 がつ に入京 にゅうきょう して朝廷 ちょうてい から許可 きょか を得 え た。しかし、美貌 びぼう の親 おや 兵衛 ひょうえ は管領 かんりょう 細 ほそ 河 かわ 政 せい 元 もと に気 き に入 い られて抑留 よくりゅう されてしまう。親 おや 兵衛 ひょうえ は「京 きょう の五 ご 虎 とら 」と称 しょう される武芸 ぶげい の達人 たつじん たちや、結城 ゆうき を追 お われ京都 きょうと に戻 もど っていた悪僧 あくそう 徳用 とくよう (父 ちち は細 ほそ 河 かわ 家 か の執事 しつじ )との試合 しあい を行 おこな い、大 おお いに武勇 ぶゆう を示 しめ した。10月、巨勢 こせ 金岡 かなおか の描 えが いた画 が の虎 とら が抜 ぬ け出 で て京都 きょうと を騒 さわ がす事件 じけん が発生 はっせい する。11月、虎 とら を退治 たいじ した親 おや 兵衛 ひょうえ は、褒賞 ほうしょう として帰国 きこく を認 みと めることを細 ほそ 河 かわ 政 せい 元 もと に認 みと めさせ、安房 あわ への帰国 きこく の途 と に就 つ く。
文明 ぶんめい 15年 ねん (1483年 ねん )冬 ふゆ 、犬 いぬ 士 し たちを恨 うら む扇谷 おうぎや 定正 さだまさ は、山内 やまうち 顕定 あきさだ ・足利 あしかが 成 しげる 氏 し らと語 かた らい、里見 さとみ 討伐 とうばつ の連合 れんごう 軍 ぐん を起 お こした。里見 さとみ 家 か は犬 いぬ 士 し たちを行徳 ぎょうとく 口 くち ・国府台 こうのだい ・洲崎 すざき 沖 おき の三 さん 方面 ほうめん の防禦 ぼうぎょ 使 し として派遣 はけん し、水陸 すいりく で合戦 かっせん が行 おこな われた。京都 きょうと から帰還 きかん した親 おや 兵衛 ひょうえ や、行方 ゆくえ 不明 ふめい になっていた政木 まさき 大全 たいぜん も参 さん 陣 じん し、里見 さとみ 軍 ぐん は各地 かくち で大 だい 勝利 しょうり を収 おさ め、諸 しょ 将 しょう を捕虜 ほりょ とした。
文明 ぶんめい 16年 ねん (1484年 ねん )4月 がつ 、朝廷 ちょうてい から停戦 ていせん の勅使 ちょくし が訪 おとず れて和議 わぎ が結 むす ばれ、里見 さとみ 家 か は占領 せんりょう した諸 しょ 城 しろ を返還 へんかん した。信乃 しの は、捕虜 ほりょ となっていた成 しげる 氏 し に村雨 むらさめ 丸 まる を献上 けんじょう し、父子 ふし 三 さん 代 だい の宿願 しゅくがん を遂 と げた。
八犬士 はっけんし は里見 さとみ 義成 よしなり の八 はち 人 にん の姫 ひめ と結婚 けっこん し、城 しろ を与 あた えられ重臣 じゅうしん となる。時 とき は流 なが れ、犬 いぬ 士 し たちの痣 あざ や珠 たま の文字 もじ は消 き え、奇瑞 きずい も失 うしな われた。丶大は安房 あわ の四 よん 周 しゅう に配 はい する仏像 ぶつぞう の眼 め として犬 いぬ 士 し たちに数珠玉 じゅずだま を返上 へんじょう させる。
里見 さとみ 家 か 第 だい 三 さん 代 だい 当主 とうしゅ の義 ぎ 通 どおり が没 ぼっ すると、高齢 こうれい になった犬 いぬ 士 し たちは子供 こども に家督 かとく を譲 ゆず り富山 とやま に籠 こも った。彼 かれ らは仙人 せんにん となったことが示唆 しさ される。里見 さとみ 家 か もやがて道 みち を失 うしな って戦乱 せんらん に明 あ け暮 く れ、十 じゅう 代 だい で滅 ほろ ぶことになる。
原典 げんてん には、馬琴 ばきん による小説 しょうせつ 仕立 した ての「あとがき」が置 お かれている。里見 さとみ 家 か の事跡 じせき を尋 たず ねる廻国 かいこく の頭陀 ずだ (僧侶 そうりょ )との会話 かいわ という形式 けいしき で、馬琴 ばきん が用 もち いた参考 さんこう 史料 しりょう の開示 かいじ 、里見 さとみ 氏 し の史実 しじつ (当時 とうじ の軍記 ぐんき 物 ぶつ にもとづく)や安房 あわ の地理 ちり の解説 かいせつ がなされている。このほか、著者 ちょしゃ の失明 しつめい の事実 じじつ が読者 どくしゃ に明 あ かされ、筆記 ひっき 者 しゃ お路 みち との労苦 ろうく が語 かた られるとともに、お路 みち への慰労 いろう の言葉 ことば が書 か かれている。
作中 さくちゅう の用語 ようご [ 編集 へんしゅう ]
八 やっ つの霊 れい 玉 だま
仙 せん 翁 おう (行者 ぎょうじゃ の翁 おきな )から伏姫 ふしひめ に譲 ゆず られた水晶 すいしょう の数珠 じゅず 。108つの玉 たま の内 うち の8つの大玉 おおだま で、「仁義 じんぎ 礼 れい 智 さとし 忠信 ちゅうしん 孝悌 こうてい 」と現 あらわ れていたが、八 はち 房 ぼう が伏姫 ふしひめ を恋 こ い慕 した うようになってからは「如是 にょぜ 畜生 ちくしょう 発 はつ 菩提心 ぼだいしん 」の8文字 もじ がひとつずつ浮 う かぶようになった。伏姫 ふしひめ の自害 じがい に伴 ともな って数珠 じゅず が飛散 ひさん する際 さい にそれぞれの玉 たま の文字 もじ が「仁 ひとし ・義 よし ・礼 れい ・智 さとし ・忠 ただし ・信 しん ・孝 こう ・悌」と変 か わったものである。残 のこ りの100個 こ の小玉 こだま は繋 つな ぎなおされて、丶大法師 ほうし が数珠 じゅず として常 つね に携帯 けいたい している。八犬士 はっけんし 同士 どうし の距離 きょり が近 ちか づくと感応 かんおう しあってその存在 そんざい を教 おし え、肉体 にくたい 的 てき な傷 きず や病気 びょうき の治癒 ちゆ を早 はや める力 ちから を持 も っている。
元 もと は儒教 じゅきょう で説 と かれる5つの徳目 とくもく 、五常 ごじょう (五徳 ごとく とも言 い われる)に忠 ただし ・孝 こう ・悌 を足 た した教 おし えが元 もと となっている。
村雨 むらさめ (村雨 むらさめ 丸 まる )
鎌倉 かまくら 公方 くぼう 足利 あしかが 家 か に伝 つた わる宝刀 ほうとう で、殺気 さっき をもって抜 ぬ き放 はな てば刀身 とうしん から水気 みずけ が立 た ち上 のぼ る。八犬伝 はっけんでん 世界 せかい ではその特徴 とくちょう とともに広 ひろ く知 し れ渡 わた った刀 かたな である。結城 ゆうき 落城 らくじょう の際 さい 、公方 くぼう 家 か の近習 きんじゅ であった大塚 おおつか 匠 たくみ 作 さく から一 いち 子 し ・番 ばん 作 さく に託 たく され、番 ばん 作 さく はその死 し に際 さい して子 こ の犬塚 いぬづか 信乃 しの にこの刀 かたな を滸我公方 くぼう 成 しげる 氏 し に献上 けんじょう することを託 たく した。
安房 あわ 国 こく は里見 さとみ 氏 し の領国 りょうごく で、平群 へぐり 郡 ぐん ・安房 あわ 郡 ぐん ・朝 あさ 夷 えびす 郡 ぐん ・長 なが 狭 せま 郡 ぐん の4郡 ぐん で構成 こうせい される。『八犬伝 はっけんでん 』では発端 ほったん 部 ぶ の舞台 ぶたい であり、物語 ものがたり の後半 こうはん でも犬 いぬ 江 こう 親 ちかし 兵衛 ひょうえ の再 さい 登場 とうじょう 、八犬士 はっけんし の結集 けっしゅう と里見 さとみ 家 か への仕官 しかん によって舞台 ぶたい となる。『八犬伝 はっけんでん 』の発端 ほったん 部 ぶ は、軍記 ぐんき 物 ぶつ に記 しる された「里見 さとみ 義実 よしざね の安房 あわ 入国 にゅうこく 伝説 でんせつ 」(後述 こうじゅつ )を土台 どだい に作 つく られている。
富山 とみやま (とやま)
安房 あわ 随一 ずいいち の高峰 こうほう として描 えが かれる八犬伝 はっけんでん 世界 せかい の聖地 せいち 。発端 ほったん 、伏姫 ふしひめ はこの山 やま で自害 じがい し、大団円 だいだんえん で犬 いぬ 士 し たちはこの山 やま に消 き えた。
実在 じつざい する富山 とやま (南 みなみ 房総 ぼうそう 市 し )は「とみさん」と読 よ み、標高 ひょうこう 349メートルの山 やま である。
館山 たてやま 城 じょう (たてやまじょう)
『八犬伝 はっけんでん 』では発端 ほったん で安西 あんざい 景 けい 連 れん の居城 きょじょう として、大団円 だいだんえん では犬 いぬ 江 こう 親 ちかし 兵衛 ひょうえ に与 あた えられる城 しろ として登場 とうじょう する。諸 もろ 書 しょ でもしばしば混同 こんどう されるが、蟇 ひき 田 た 素 もと 藤 ふじ が居城 きょじょう とした「館山 たてやま 城 じょう 」は上総 かずさ 国 こく にあり、安西 あんざい 氏 し の旧 きゅう 城 しろ とは別 べつ である。
実際 じっさい の館山 たてやま 城 しろ (館山 たてやま 市 し )には、史実 しじつ の里見 さとみ 氏 し が戦国 せんごく 時代 じだい 末 まつ に本拠 ほんきょ を移 うつ した。現在 げんざい 、模擬 もぎ 天守 てんしゅ は館山 たてやま 市立 しりつ 博物館 はくぶつかん 分館 ぶんかん となっている。
八犬伝 はっけんでん の物語 ものがたり の多 おお くは武蔵 むさし 国 こく 、とくに江戸 えど の近郊 きんこう で展開 てんかい する。本 ほん 作 さく に江戸城 えどじょう は登場 とうじょう しないが、これは江戸 えど 幕府 ばくふ に対 たい する遠慮 えんりょ とされる。
五十子 いかご 城 じょう (いさらごじょう)
『八犬伝 はっけんでん 』に登場 とうじょう する架空 かくう の城 しろ 。扇谷 おうぎや 定正 さだまさ の本城 ほんじょう である。作中 さくちゅう の地理 ちり 描写 びょうしゃ から、武蔵 むさし 国 こく 荏原 えばら 郡 ぐん 伊 い 皿 さら 子 こ 付近 ふきん に位置 いち するとされている。犬塚 いぬづか 信乃 しの に攻 せ め落 お とされ、関東 かんとう 大戦 たいせん でも占領 せんりょう された。城 しろ の名 な は伏姫 ふしひめ の母 はは 五 ご 十 じゅう 子 し (いさらご)と同 どう 字 じ ・同音 どうおん である。
室町 むろまち 時代 じだい 中期 ちゅうき の関東 かんとう 地方 ちほう には五十子 いかご 城 じょう という城 しろ が実在 じつざい したが、所在地 しょざいち はまったく異 こと なり(埼玉 さいたま 県 けん 本庄 ほんじょう 市 し )、「いかこ(いかっこ、いかつこ、いらこ)じょう」と読 よ む。史実 しじつ の五十子 いかご 城 じょう は山内 やまうち 上杉 うえすぎ 氏 し が足利 あしかが 成 しげる 氏 し に対抗 たいこう して築城 ちくじょう したもので、上杉 うえすぎ 顕定 あきさだ に反旗 はんき を翻 ひるがえ した長尾 ながお 景春 かげはる がこの城 しろ を攻 せ め落 お とした五 ご 十 じゅう 子 し の戦 たたか い (1477年 ねん )は、関東 かんとう 地方 ちほう の戦国 せんごく 史 し の画 が 期 き のひとつである。
穂北 ほきた (ほきた)
『八犬伝 はっけんでん 』に登場 とうじょう する架空 かくう の荘園 しょうえん 。氷 こおり 垣 かき 残 ざん 三 さん ら、結城 ゆうき 合戦 かっせん の参加 さんか 者 しゃ や豊島 としま 家 か の残党 ざんとう が、周辺 しゅうへん の2郷 きょう (梅田 うめだ ・柳原 やなぎはら )とともに自治 じち 的 てき な支配 しはい をおこなっており、管領 かんりょう 扇谷 おうぎや 定正 さだまさ に戦 たたか いを挑 いど む八犬士 はっけんし が拠点 きょてん とした。
梅田 うめだ ・柳原 やなぎはら と隣接 りんせつ するという地理 ちり 的 てき 描写 びょうしゃ から、保木間 ほきま (東京 とうきょう 都 と 足立 あだち 区 く )に比定 ひてい される。
国府台 こうのだい (こうのだい)
下総 しもうさ 国府台 こうのだい 。八犬伝 はっけんでん では関東 かんとう 大戦 たいせん の際 さい に合戦 かっせん が行 おこな われた。
史実 しじつ では、里見 さとみ 氏 し と北条 ほうじょう 氏 し の間 あいだ でおよそ前後 ぜんご 2度 ど にわたる国府台 こうのだい 合戦 かっせん が行 おこな われ、いずれも里 さと 見方 みかた が敗 やぶ れている。
館山 たてやま 城 じょう (たてやまじょう)
『八犬伝 はっけんでん 』に登場 とうじょう する架空 かくう の城 しろ 。蟇 ひき 田 た 素 もと 藤 ふじ の居城 きょじょう で、二 に 度 ど にわたる叛乱 はんらん の舞台 ぶたい となった。上総 かずさ 国 こく 夷隅 いすみ 郡 ぐん の「殿台 とのだい 」にあり、上総 かずさ 広常 ひろつね の館 かん のあとと設定 せってい されている[注釈 ちゅうしゃく 5] 。
荒 あら 芽 め 山 さん (あらめやま)
『八犬伝 はっけんでん 』に登場 とうじょう する架空 かくう の山 やま 。上野 うえの 国 こく に位置 いち する。音 おと 音 おん の庵 あん があり、五 ご 犬 いぬ 士 し の会同 かいどう と離散 りさん の舞台 ぶたい となった。
地理 ちり 的 てき 描写 びょうしゃ から荒船山 あらふねやま に比定 ひてい される。
甲斐 かい 国 こく は武田 たけだ 氏 し (武田 たけだ 信 しん 昌 あきら )の領国 りょうごく である。作中 さくちゅう 、犬塚 いぬづか 信乃 しの と後 ご の浜路 はまじ (浜路 はまじ 姫 ひめ )をめぐる物語 ものがたり が展開 てんかい する。
馬琴 ばきん は自身 じしん が甲斐 かい を訪 おとず れた記録 きろく は無 な いものの兄 あに の興 きょう 旨 むね が甲府 こうふ 勤番 きんばん として赴任 ふにん しており、他 た 作品 さくひん や随筆 ずいひつ などでもしばしば甲斐 かい に関 かん する事情 じじょう が記 しる される事 こと があり、随筆 ずいひつ の中 なか で興 きょう 旨 むね 書簡 しょかん からヒントを得 え ている事 こと が記 しる されていることから、興 きょう 旨 むね を通 つう じて甲斐 かい 国 こく に関 かん する知識 ちしき を得 え ていたと考 かんが えられている。
石 いし 禾(いさわ)
石 いし 禾は史実 しじつ 世界 せかい の石和 いさわ (現在 げんざい の笛吹 ふえふき 市 し 石和 いさわ 町 まち )で、戦国 せんごく 時代 じだい に甲府 こうふ へ移転 いてん される以前 いぜん の甲斐 かい 守護 しゅご 武田 たけだ 氏 し の居館 きょかん 所在地 しょざいち であった。八犬伝 はっけんでん 作中 さくちゅう でも武田 たけだ 氏 し の本拠 ほんきょ として描 えが かれる。物語 ものがたり 中盤 ちゅうばん では丶大 が当地 とうち の寺 てら 「指 ゆび 月 がつ 院 いん 」の住職 じゅうしょく となり、犬 いぬ 士 し 探索 たんさく の拠点 きょてん となっていた。
春王 はるおう ・安王 やすおう の墓 はか (岐阜 ぎふ 県 けん 不破 ふわ 郡 ぐん 垂井 たるい 町 まち )
結城 ゆうき 合戦 かっせん
『八犬伝 はっけんでん 』冒頭 ぼうとう に配 はい されている合戦 かっせん 。永 えい 享 とおる 10年 ねん (1438年 ねん )の永 えい 享 とおる の乱 らん で滅 ほろ ぼされた鎌倉 かまくら 公方 くぼう 足利 あしかが 持氏 もちうじ の遺児 いじ ・春王丸 はるおうまる と安王丸 やすおうまる を奉 ほう じた関東 かんとう の諸 しょ 将 しょう が、永 えい 享 とおる 12年 ねん (1440年 ねん )結城 ゆうき 氏朝 うじとも の居城 きょじょう 結城 ゆうき 城 じょう に拠 よ って室町 むろまち 幕府 ばくふ に叛旗 はんき を翻 ひるがえ した。翌 よく 嘉吉 よしきち 元年 がんねん (1441年 ねん )4月 がつ 16日 にち 、結城 ゆうき 方 かた は敗 やぶ れ、捕 と らえられた春王丸 はるおうまる と安王丸 やすおうまる も京都 きょうと に連行 れんこう される途中 とちゅう の5月16日 にち 、将軍 しょうぐん 足利 あしかが 義教 よしのり の命 いのち により美濃 みの 国 こく 垂井 たるい 宿 やど の金蓮寺 かなはすじ で殺害 さつがい されたというのが史実 しじつ である。
『八犬伝 はっけんでん 』においては、永 えい 享 とおる 11年 ねん (1439年 ねん )春 はる 頃 ごろ から「籠城 ろうじょう 三 さん 年 ねん に及 およ ぶ」戦 たたか い[14] となっている。里見 さとみ 季 き 基 もと ・義実 よしざね 親子 おやこ 、大塚 おおつか 匠 たくみ 作 さく ・番 ばん 作 さく 親子 おやこ が結城 ゆうき 方 かた で参戦 さんせん しており、結城 ゆうき 城 じょう の落城 らくじょう は南 みなみ 総 そう に落 お ち延 の びて勢力 せいりょく を築 きず く里見 さとみ 家 か の物語 ものがたり と、鎌倉 かまくら 公方 くぼう 家 か の名刀 めいとう 村雨 むらさめ 丸 まる を預 あず かる大塚 おおつか 家 か の物語 ものがたり の発端 ほったん となる。登場 とうじょう 人物 じんぶつ ではほかに穂北 ほきた の氷 こおり 垣 かき 残 ざん 三 さん が結城 ゆうき 方 かた の参戦 さんせん 者 しゃ であり、名 な のみ登場 とうじょう する井 い 丹 に 三 さん (犬塚 いぬづか 信乃 しの の外祖父 がいそふ )、下河辺 しもこうべ 為 ため 清 きよし (浜路 はまじ 姫 ひめ の外祖父 がいそふ )などもやはり結城 ゆうき 方 かた で討死 うちじに をしている。一方 いっぽう で幕府 ばくふ 軍 ぐん 総 そう 大将 たいしょう を務 つと める関東 かんとう 管領 かんりょう 上杉 うえすぎ 清方 きよかた (作中 さくちゅう では触 ふ れられていないが、史実 しじつ では上杉 うえすぎ 顕定 あきさだ の祖父 そふ にあたる)以下 いか 、上杉 うえすぎ 家 か は幕府 ばくふ 軍 ぐん 側 がわ で登場 とうじょう する。八犬士 はっけんし 結集 けっしゅう の場 ば になったのは、結城 ゆうき 合戦 かっせん の死者 ししゃ を弔 とむら う結城 ゆうき での法要 ほうよう の場 ば であった。
春王 はるおう と安王 やすおう (両 りょう 公達 きんだち )が金蓮寺 かなはすじ で処刑 しょけい されるのは史実 しじつ に沿 そ っているが、『八犬伝 はっけんでん 』作中 さくちゅう においては両 りょう 公達 きんだち 奪還 だっかん の機 き を窺 うかが い幕府 ばくふ 軍 ぐん にまぎれていた大塚 おおつか 匠 たくみ 作 さく ・番 ばん 作 さく 親子 おやこ が、それぞれ刑場 けいじょう に乱入 らんにゅう して両 りょう 公達 きんだち の首 くび の奪取 だっしゅ を図 はか った。両 りょう 公達 きんだち (および殺害 さつがい された匠 たくみ 作 さく )の首 くび は大塚 おおつか 番 ばん 作 さく によって刑場 けいじょう から奪取 だっしゅ され、吉 よし 蘇 そ (木曽 きそ )の御坂 みさか 峠 とうげ 付近 ふきん [注釈 ちゅうしゃく 6] の井 い 家 か の菩提寺 ぼだいじ である拈 ひね 華 はな 庵 あん (ここで匠 たくみ 作 さく は、妻 つま となる手 て 束 たば と邂逅 かいこう した)にある、井 い 丹 に 三 さん 夫妻 ふさい の墓 はか の傍 かたわ らに葬 ほうむ られた。『八犬伝 はっけんでん 』結末 けつまつ 部 ぶ (第 だい 180回 かい 上 じょう )では、対 たい 管領 かんりょう 戦 せん 和睦 わぼく 後 ご の文明 ぶんめい 16年 ねん (1484年 ねん )、丶大・蜑 あま 崎 さき 照文 てるぶみ とともに上洛 じょうらく した八犬士 はっけんし たちが帰途 きと 金蓮寺 かなはすじ を訪問 ほうもん し、おりしも奇瑞 きずい によって導 みちび かれた人々 ひとびと の手 て によってもたらされた両 りょう 公達 きんだち と匠 たくみ 作 さく の三 みっ つの髑髏 しゃれこうべ を改葬 かいそう して法要 ほうよう を行 おこな う物語 ものがたり がある。作中 さくちゅう の設定 せってい によれば、金蓮寺 かなはすじ に現存 げんそん する春王 はるおう ・安王 やすおう の墓石 はかいし はこの時 とき に作 つく られたものである。
里見 さとみ 義実 よしざね の安房 あわ 入国 にゅうこく
『八犬伝 はっけんでん 』発端 ほったん 部 ぶ は、江戸 えど 時代 じだい に里見 さとみ 氏 し 関連 かんれん の軍記 ぐんき 物 ぶつ に書 か かれた、「里見 さとみ 義実 よしざね の安房 あわ 入国 にゅうこく 伝説 でんせつ 」と呼 よ ばれる説話 せつわ を題材 だいざい としている。『 里見 さとみ 代 だい 々記 き 』『 里見 さとみ 九 きゅう 代 だい 記 き 』『里見 さとみ 軍記 ぐんき 』といった軍記 ぐんき 物 ぶつ は、里見 さとみ 家 か 旧臣 きゅうしん であった山田 やまだ 遠江 とおとうみ 介 かい が寛永 かんえい 8年 ねん (1631年 ねん )に著 あらわ し、書写 しょしゃ によって広 ひろ まっていったとされる[15] 。
軍記 ぐんき 物 ぶつ によれば、安房 あわ 国 こく は鎌倉 かまくら 時代 じだい 以来 いらい 、平群 へぐり 郡 ぐん (平 たいら 郡 ぐん )の安西 あんざい 氏 し 、安房 あわ 郡 ぐん の神 かみ 余 あまり 氏 し 、朝 ちょう 夷 えびす 郡 ぐん の丸 まる 氏 し 、長 なが 狭 せま 郡 ぐん の東条 とうじょう 氏 し (これら4氏 し は『吾妻 あづま 鏡 きょう 』などの歴史 れきし 書 しょ や記録 きろく 類 るい にも登場 とうじょう している)がそれぞれの郡 ぐん を支配 しはい してきた。室町 むろまち 時代 じだい 後期 こうき [注釈 ちゅうしゃく 7] 、神余 かなまり 景 けい 貞 さだ に仕 つか えていた山下 やました 定 じょう 兼 けん が主君 しゅくん を討 う って所領 しょりょう を奪 うば い、安房 あわ 郡 ぐん を山下 やました 郡 ぐん と改 あらた めるなどしたために国内 こくない が混乱 こんらん した[注釈 ちゅうしゃく 8] 。おりしも、里見 さとみ 義実 よしざね は木曽 きそ 氏 し 元 もと ・堀内 ほりうち 貞行 さだゆき という2人 ふたり の家臣 かしん (両 りょう 名 な は『八犬伝 はっけんでん 』にも登場 とうじょう する)を伴 ともな って結城 ゆうき 合戦 かっせん から安房 あわ 国 こく 白浜 しらはま に落 お ち延 の びていたが、混乱 こんらん していた安房 あわ 一 いち 国 こく を平定 へいてい した、というのが「伝説 でんせつ 」の骨子 こっし である[注釈 ちゅうしゃく 9] 。
『八犬伝 はっけんでん 』作中 さくちゅう では、神余 かなまり 景 けい 貞 さだ が神余 かなまり 光弘 みつひろ 、山下 やました 定 じょう 兼 けん が山下 やました 定包 さだかね とされ、安房 あわ 郡 ぐん を山下 やました 郡 ぐん に改 あらた めたエピソードは、滝田 たきた を玉 たま 下 か に改 あらた めたという話 はなし に利用 りよう している。ただし軍記 ぐんき 物 ぶつ とは勢力 せいりょく 配置 はいち や平定 へいてい の経緯 けいい が異 こと なっており、『八犬伝 はっけんでん 』では神 かみ 余 あまり 氏 し (東条 とうじょう 氏 し の一族 いちぞく とされている)が平群 へぐり 郡 ぐん ・長 ちょう 狭 せま 郡 ぐん を治 おさ め、安西 あんざい 景 けい 連 れん が安房 あわ 郡 ぐん を治 おさ めている。軍記 ぐんき 物 ぶつ では東条 とうじょう 攻略 こうりゃく で義実 よしざね の安房 あわ 平定 へいてい が完成 かんせい するが、『八犬伝 はっけんでん 』では東条 とうじょう 攻略 こうりゃく から平定 へいてい が始 はじ まる。また軍記 ぐんき 物 ぶつ では里見 さとみ 氏 し に降 ふ って協力 きょうりょく する安西 あんざい 氏 し が、『八犬伝 はっけんでん 』ではしばらく義実 よしざね と安房 あわ 国 こく を二分 にぶん して並立 へいりつ し、敵対 てきたい する[注釈 ちゅうしゃく 10] 。
関東 かんとう 大戦 たいせん (対 たい 管領 かんりょう 戦 せん )
『八犬伝 はっけんでん 』における架空 かくう の合戦 かっせん 。作中 さくちゅう の文明 ぶんめい 15年 ねん (1483年 ねん )冬 ふゆ 、関東 かんとう 管領 かんりょう (扇谷 おうぎや 定正 さだまさ ・山内 やまうち 顕定 あきさだ )・滸我公方 くぼう (足利 あしかが 成氏 しげうじ )・三浦 みうら 義 よし 同 どう ・千葉 ちば 自 じ 胤 たね の連合 れんごう 軍 ぐん と里見 さとみ 家 か による戦争 せんそう 。行徳 ぎょうとく 口 こう ・国府台 こうのだい ・洲崎 すざき 沖 おき の三 さん ヶ所 かしょ を戦場 せんじょう とするこの戦争 せんそう の総称 そうしょう は原典 げんてん 中 ちゅう にはないが、研究 けんきゅう 者 しゃ によって「関東 かんとう 大戦 たいせん 」「対 たい (関東 かんとう )管領 かんりょう 戦 せん 」などと名 な づけられている。
合戦 かっせん の描写 びょうしゃ は『三国志 さんごくし 演義 えんぎ 』や『水 みず 滸伝』『戦国 せんごく 策 さく 』などを下敷 したじ きにしている。内田魯庵 うちだろあん は対 たい 管領 かんりょう 戦 せん の描写 びょうしゃ について、軍記 ぐんき 物 ぶつ としての精細 せいさい を欠 か くと酷評 こくひょう しているが[19] 、雄大 ゆうだい な規模 きぼ で物語 ものがたり を展開 てんかい し巨 きょ 篇 へん の幕 まく 引 び きとする上 じょう で無用 むよう ではないと評価 ひょうか しており[20] 、また戦後 せんご の物語 ものがたり (第 だい 九 きゅう 輯巻四 よん 十 じゅう 九 きゅう (第 だい 179回 かい 下 か )以下 いか )については因縁 いんねん 因果 いんが の解決 かいけつ を与 あた えるものとして高 たか く評価 ひょうか している[21] 。
名詮自性 みょうせんじしょう
名 な はそのものの本性 ほんしょう をあらわすという意 い 。仏教 ぶっきょう 用語 ようご 「名詮自性 みょうせんじしょう 」[注釈 ちゅうしゃく 11] を援用 えんよう したものである。
主要 しゅよう 人物 じんぶつ の名 な には、物語 ものがたり 世界 せかい においてあらかじめ定 さだ められた宿命 しゅくめい に関 かか わるものがあり、その名 な の意味 いみ が解 と き明 あ かされることで因果 いんが が成就 じょうじゅ したことを証明 しょうめい する。たとえば、伏姫 ふしひめ の「伏 ふく 」は「人 ひと にして犬 いぬ に従 したが う」意 い をあらわし、親 おや 兵衛 ひょうえ の両親 りょうしん である房 ぼう 八 はち ・沼 ぬま 藺 い (ぬい)夫婦 ふうふ の名 な は「八 はち 房 ぼう ・いぬ」を転倒 てんとう させたものである。
役行者 えんのぎょうじゃ (えんのぎょうじゃ)
役行者 えんのぎょうじゃ は江戸 えど 時代 じだい の文芸 ぶんげい 作品 さくひん で多用 たよう された一種 いっしゅ の神格 しんかく である[注釈 ちゅうしゃく 12] 。役行者 えんのぎょうじゃ ゆかりの養老 ようろう 寺 てら に参拝 さんぱい した伏姫 ふしひめ 一 いち 行 ぎょう の前 まえ に示現 じげん し、伏姫 ふしひめ に仁義 じんぎ 八 はち 行 ぎょう の数珠 じゅず を授 さづ けた。高田 たかだ 衛 まもる によれば、一言 ひとこと 主 ぬし を使役 しえき する役行者 えんのぎょうじゃ は「言 げん の咎 とがめ 」を掌 てのひら り、里見 さとみ 義実 よしざね が玉 たま 梓 あずさ に対 たい する助命 じょめい の約束 やくそく を翻 ひるがえ したところから生 しょう じた因果 いんが を掌 てのひら ることを象徴 しょうちょう する。
如是 にょぜ 畜生 ちくしょう 発 はつ 菩提心 ぼだいしん (にょぜちくしょうほつぼだいしん)
伏姫 ふしひめ の数珠 じゅず に「仁義 じんぎ 礼 れい 智 さとし 忠信 ちゅうしん 孝悌 こうてい 」に代 か わって浮 う き出 で た文字 もじ 。八 はち 房 ぼう に取 と り憑 ひょう いた玉 たま 梓 あずさ の浄 きよし 霊 れい とともに文字 もじ は元 もと に戻 もど る。のち、蟇 ひき 田 た 素 もと 藤 ふじ の乱 らん (第 だい 二 に 次 じ )で、親 おや 兵衛 ひょうえ の仁玉 にったま に撃 う たれた妙 みょう 椿 つばき (実 じつ は妖狸)の屍骸 しがい の背 せ にこの文字 もじ が現 あらわ れた。
出典 しゅってん と解釈 かいしゃく [ 編集 へんしゅう ]
「里見 さとみ 八犬士 はっけんし 」の出典 しゅってん [ 編集 へんしゅう ]
「里見 さとみ 八犬士 はっけんし 」は、もともと享 とおる 保 ほ 2年 ねん (1717年 ねん )に刊行 かんこう された槇島 まきしま 昭武 あきたけ 編 へん 『和漢 わかん 音 おん 釈 しゃく 書 しょ 言 げん 字 じ 考 こう 節用 せつよう 集 しゅう 』(「増補 ぞうほ 合 あい 類 るい 大 だい 節用 せつよう 集 しゅう 」とも。馬琴 ばきん は肇 はじめ 輯に付 ふ した「八犬士 はっけんし 伝 でん 序 じょ 」[22] に「槇 まき 氏 し 字 じ 考 こう 」として言及 げんきゅう している)に、「尼子 あまこ 十 じゅう 勇士 ゆうし 」などとともに掲載 けいさい された武士 ぶし の名前 なまえ のリストである。『和漢 わかん 音 おん 釈 しゃく 書 しょ 言 げん 字 じ 考 こう 節用 せつよう 集 しゅう 』では「犬 いぬ 山道 さんどう 節 ぶし ・犬塚 いぬづか 信濃 しなの ・犬田 いぬた 豊 ゆたか 後 ご ・犬 いぬ 坂 ざか 上野 うえの ・犬飼 いぬかい 源 はじめ 八 はち ・犬川 いぬかわ 荘 そう 助 すけ ・犬 いぬ 江 こう 新 しん 兵衛 ひょうえ ・犬村 いぬむら 大学 だいがく 」の名 な が列挙 れっきょ されている。
かれらの活動 かつどう 時期 じき や事跡 じせき はもとより、実在 じつざい したかどうかも明 あき らかではない。馬琴 ばきん は、実在 じつざい したかもしれない8人 にん の武士 ぶし の物語 ものがたり ではなく、彼 かれ らの名 な を借 か りた伝奇 でんき 小説 しょうせつ (稗史 はいし )をつくると言明 げんめい している。
登場 とうじょう 人物 じんぶつ の「モデル」[ 編集 へんしゅう ]
馬琴 ばきん が言明 げんめい するものではないが、八犬士 はっけんし やその他 た の作中 さくちゅう 登場 とうじょう 人物 じんぶつ について、歴史 れきし 上 じょう の人物 じんぶつ と重 かさ ね、「モデル」と主張 しゅちょう する説 せつ がある。
史実 しじつ の里見 さとみ 家 か 最後 さいご の当主 とうしゅ であった館山 たてやま 藩主 はんしゅ 里見 さとみ 忠義 ただよし は、江戸 えど 幕府 ばくふ によって伯耆 ほうき 国 こく に転 てん 封 ふう され(倉吉 くらよし 藩 はん 参照 さんしょう )、1622年 ねん にその地 ち で没 ぼっ した。このとき忠義 ちゅうぎ に殉死 じゅんし した8人 にん の家臣 かしん があり、戒名 かいみょう に共通 きょうつう して「賢 けん 」の字 じ が入 はい ることから八 はち 賢 けん 士 し と称 しょう される[注釈 ちゅうしゃく 13] 。彼 かれ らの墓 はか は鳥取 とっとり 県 けん 倉吉 くらよし 市 し の大岳 おおたけ 院 いん にあり、また倉吉 くらよし から分骨 ぶんこつ した墓 はか が館山 たてやま 城 しろ の麓 ふもと に建 た てられている。
この「八 はち 賢 けん 士 し 」を八犬士 はっけんし のモデルに求 もと める説 せつ もある。例 たと えば川名 かわな 登 のぼる は「この殉死 じゅんし した八 はち 人 にん の話 はなし で、ふと『南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん 』を思 おも い出 だ す。馬琴 ばきん はどこかでこの八 はち 殉死 じゅんし 者 しゃ の話 はなし を聞 き いたのではなかろうか。殉死 じゅんし 者 しゃ の気持 きもち は、『八犬伝 はっけんでん 』の中 なか の八犬士 はっけんし のような働 はたら きをして再 ふたた び里見 さとみ 家 か を再興 さいこう したかったにちがいない。」と述 の べている[23] 。
もっとも、この言説 げんせつ が広 ひろ まったのは『八犬伝 はっけんでん 』が一世 いっせい を風靡 ふうび してからとも指摘 してき される。
種 たね 姫 ひめ =伏姫 ふしひめ 説 せつ [ 編集 へんしゅう ]
里見 さとみ 義 よし 堯 の娘 むすめ で正木 まさき 信 しん 茂 しげる に嫁 とつ いだ種 たね 姫 ひめ は、夫 おっと を第 だい 二 に 次 じ 国府台 こうのだい 合戦 かっせん (1564年 ねん )で失 うしな うと、若 わか くして出家 しゅっけ して養老渓谷 ようろうけいこく 近 ちか くの宝林寺 ほうりんじ (現在 げんざい の市原 いちはら 市 し 朝生原 あそうばら )に隠棲 いんせい し[注釈 ちゅうしゃく 14] 、そこで生涯 しょうがい を過 す ごした[25] [26] 。この種 たね 姫 ひめ を伏姫 ふしひめ のモデルと唱 とな える説 せつ がある[26] 。
漢籍 かんせき と中国 ちゅうごく 白話 はくわ 小説 しょうせつ [ 編集 へんしゅう ]
『八犬伝 はっけんでん 』には博覧強記 はくらんきょうき をうたわれた馬琴 ばきん の漢学 かんがく 教養 きょうよう や中国 ちゅうごく 白話 はくわ 小説 しょうせつ への造詣 ぞうけい が、ときに「衒学 げんがく 的 てき 」と評 ひょう されるほど引用 いんよう されたり、物語 ものがたり 構成 こうせい に組 く み込 こ まれたりしている。その作中 さくちゅう で折 おり に触 ふ れて引用 いんよう される漢籍 かんせき が、フィクションである「稗史 はいし 」の世界 せかい に奥行 おくゆ きを持 も たせている[要 よう 出典 しゅってん ] 。たとえば第 だい 一 いち 回 かい において、白竜 はくりゅう の昇天 しょうてん を見 み た里見 さとみ 義実 よしざね が古今 ここん の典籍 てんせき を引用 いんよう して竜 りゅう を解説 かいせつ するくだり[注釈 ちゅうしゃく 15] はよく知 し られている。
『八犬伝 はっけんでん 』にもっとも大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた白話 はくわ 小説 しょうせつ は『水 みず 滸伝 』である。たとえば「犬 いぬ 士 し 列伝 れつでん 」の筋立 すじだ てに『水 みず 滸伝』の構想 こうそう が散見 さんけん される。馬琴 ばきん は『高尾 たかお 船 せん 字 じ 文 ぶん 』『傾城 けいせい 水 すい 滸伝 』などの翻案 ほんあん 作品 さくひん を執筆 しっぴつ しただけでなく[31] [32] 、原典 げんてん の翻訳 ほんやく 『新編 しんぺん 水 すい 滸画伝 でん 』の刊行 かんこう に関 かか わったほか、金 きむ 聖 きよし 歎 による七 なな 十 じゅう 回 かい 本 ほん (水 みず 滸伝の成立 せいりつ 史 し 参照 さんしょう )を批判 ひはん して百 ひゃく 二 に 十 じゅう 回 かい 本 ほん を正統 せいとう とする批評 ひひょう を行 おこな うなど、『水 みず 滸伝』の精読 せいどく 者 しゃ であった。
『水 みず 滸伝』以外 いがい では『三国志 さんごくし 演義 えんぎ 』が多 おお く参照 さんしょう されている[36] 。とくに関東 かんとう 大戦 たいせん の描写 びょうしゃ において顕著 けんちょ であり、たとえば洲崎 すざき 沖 おき 海戦 かいせん は赤 あか 壁 かべ の戦 たたか い を焼 や き直 なおし したものである。また、『封 ふう 神 しん 演義 えんぎ 』からの影響 えいきょう を指摘 してき する説 せつ もある[要 よう 出典 しゅってん ] 。
軍記 ぐんき 物 ぶつ ・地誌 ちし [ 編集 へんしゅう ]
馬琴 ばきん は「回 かい 外 がい 剰 あま 筆 ふで 」において、南 みなみ 総 そう 里見 さとみ 家 か について記 しる した「史書 ししょ 」として『里見 さとみ 記 き 』『里見 さとみ 九 きゅう 代 だい 記 き 』『房総 ぼうそう 治乱 ちらん 記 き 』『里見 さとみ 軍記 ぐんき 』を挙 あ げ、また『北条 ほうじょう 五 ご 代 だい 記 き 』『甲 きのえ 陽 よう 軍 ぐん 鑑 かん 』『本朝 ほんちょう 三国志 さんごくし 』などの「俗書 ぞくしょ 」にも里見 さとみ 家 か への言及 げんきゅう があることを述 の べている。また、とくに近年 きんねん の著 ちょ として中村 なかむら 国 こく 香 が 『房総 ぼうそう 志 こころざし 料 りょう 』の名 な を挙 あ げている。
馬琴 ばきん が「史書 ししょ 」として取 と り上 あ げた書籍 しょせき は、今日 きょう では創作 そうさく を交 まじ えた軍記 ぐんき 物 ぶつ とみなされている。八犬伝 はっけんでん は「里見 さとみ 義実 よしざね の安房 あわ 入国 にゅうこく 伝説 でんせつ 」を発端 ほったん 部 ぶ のモチーフとし、後日 ごじつ 談 だん として里見 さとみ 義 よし 豊 ゆたか と里見 さとみ 実 みのる 堯 ・義 ぎ 堯親子 おやこ との確執 かくしつ (犬 いぬ 懸 かか の戦 たたか い )に触 ふ れているが、これらの記述 きじゅつ はこうした軍記 ぐんき 物 ぶつ に依拠 いきょ している。今日 きょう の歴史 れきし 学 がく では、同 どう 時代 じだい 史料 しりょう の検討 けんとう などを通 とお して、初期 しょき 里見 さとみ 氏 し の歴史 れきし は従来 じゅうらい 信 しん じられてきた姿 すがた と大 おお きく異 こと なることが指摘 してき されている[要 よう 出典 しゅってん ] 。
越後 えちご 小千谷 おじや の描写 びょうしゃ には、当時 とうじ 親交 しんこう のあった鈴木 すずき 牧之 ぼくし 『北越 ほくえつ 雪 ゆき 譜 ふ 』の原稿 げんこう が参照 さんしょう されており、同地 どうち で行 おこな われる牛 うし の角 かく 突 とっ き が作中 さくちゅう に取 と り込 こ まれている。
馬琴 ばきん の「隠微 いんび 」[ 編集 へんしゅう ]
馬琴 ばきん は、みずからの創作 そうさく 技法 ぎほう として「稗史 はいし 七 なな 則 のり 」をまとめ、『八犬伝 はっけんでん 』第 だい 九 きゅう 輯巻之 の 七 なな に付言 ふげん として記 しる している。このうち「隠微 いんび 」は、物語 ものがたり には文 ぶん 外 がい に「深意 しんい 」があるとするものである。「百 ひゃく 年 ねん の後 のち 知音 ちいん を俟て是 ぜ を悟 さと らしめんとす」という馬琴 ばきん の言葉 ことば には、多 おお くの読者 どくしゃ や研究 けんきゅう 者 しゃ が魅了 みりょう されてきた。
『八犬伝 はっけんでん 』の物語 ものがたり 構造 こうぞう や人物 じんぶつ 配置 はいち には仏教 ぶっきょう 説話 せつわ や日本 にっぽん 神話 しんわ 、あるいは民間 みんかん 信仰 しんこう などのモチーフが複 ふく 合 あい 的 てき に投影 とうえい されていると解釈 かいしゃく する研究 けんきゅう 者 しゃ もいる。「隠 かく された出典 しゅってん 」と解釈 かいしゃく されたものに以下 いか のようなものがあげられる。
八 はち 字 じ 文殊 もんじゅ 曼荼羅 まんだら
高田 たかだ 衛 まもる が提唱 ていしょう 。獅子 しし (=八 はち 房 ぼう )に騎乗 きじょう する文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ (=伏姫 ふしひめ )のイメージ(八 はち 字 じ 文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ )が投影 とうえい されているとする。この説 せつ によれば「八犬士 はっけんし のうち二 に 人 にん が女装 じょそう して登場 とうじょう する理由 りゆう 」は、文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ に従 したが う八 はち 大 だい 童子 どうじ のうち二 に 人 にん が比丘 びく (女児 じょじ )であることに求 もと められ、「犬 いぬ 士 し の痣 あざ が牡丹 ぼたん である理由 りゆう 」は牡丹 ぼたん の匂 にお いが獅子 しし (=八 はち 房 ぼう )の力 ちから を抑 おさ える霊力 れいりょく があることで説明 せつめい される。また、後半 こうはん に現 あらわ れる政木 まさき 大全 たいぜん が「準 じゅん 犬 いぬ 士 し 」として遇 ぐう されるのは文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ の従者 じゅうしゃ である善 ぜん 財 ざい 童子 どうじ が投影 とうえい されているためとされている。
北斗七星 ほくとしちせい
『八犬伝 はっけんでん 』刊行 かんこう 開始 かいし 前 まえ に出 だ された刊行 かんこう 予告 よこく から、一時 いちじ 馬琴 ばきん には『合 ごう 類 るい 大 だい 節用 せつよう 集 しゅう 』の記述 きじゅつ を無視 むし してまで物語 ものがたり を「七 なな 犬 いぬ 伝 でん 」とする構想 こうそう があったという。高田 たかだ 衛 まもる は八犬士 はっけんし に北斗七星 ほくとしちせい のイメージが投影 とうえい されているとも指摘 してき している。七星 ななえ の一 ひと つミザール にある「輔星(添 そ え星 ぼし ) 」を8番目 ばんめ の星 ほし と見 み なすことにより齟齬 そご をなくしているが、これによって「八犬士 はっけんし のうち一 いち 人 にん が子供 こども として登場 とうじょう する理由 りゆう 」も説明 せつめい できるとする。
徳田 とくた 武 たけし らによって『八犬伝 はっけんでん 』に執筆 しっぴつ 当時 とうじ の社会 しゃかい 情勢 じょうせい への馬琴 ばきん の批評 ひひょう を見出 みいだ す解釈 かいしゃく も存在 そんざい する[要 よう 出典 しゅってん ] 。親 おや 兵衛 ひょうえ の造形 ぞうけい には打 う ちこわし の際 さい に現 あらわ れたという大 だい 童子 どうじ の姿 すがた が重 かさ ねられており、また親 おや 兵衛 ひょうえ の京都 きょうと 物語 ものがたり に登場 とうじょう する足利 あしかが 義政 よしまさ 批判 ひはん に大御所 おおごしょ 徳川 とくがわ 家斉 いえなり 批判 ひはん が、虎 とら 退治 たいじ の物語 ものがたり には大塩 おおしお 平八郎 へいはちろう の乱 らん (1837年 ねん )の隠喩 いんゆ があるともされる[要 よう 出典 しゅってん ] 。また、小谷野 こやの 敦 あつし は里見 さとみ の領国 りょうごく を日本 にっぽん のミニチュアととらえ、領民 りょうみん を組織 そしき して行 おこな われた里見 さとみ 家 か の軍事 ぐんじ 訓練 くんれん の描写 びょうしゃ などに江戸 えど 時代 じだい 後期 こうき の海防 かいぼう 論 ろん との関係 かんけい を見出 みいだ している。
研究 けんきゅう と紹介 しょうかい [ 編集 へんしゅう ]
『八犬伝 はっけんでん 』は江戸 えど 時代 じだい の戯作 げさく 文芸 ぶんげい の代表 だいひょう 作 さく の一 ひと つであり、大衆 たいしゅう 文化 ぶんか への影響 えいきょう 力 りょく も大 おお きなものであったが、江戸 えど 読本 とくほん への文学 ぶんがく 的 てき 評価 ひょうか の低 ひく さもあいまって、長 なが らく文学 ぶんがく 研究 けんきゅう の主要 しゅよう な対象 たいしょう とはされてこなかった。
1980年 ねん に『八犬伝 はっけんでん の世界 せかい 』を上梓 じょうし した高田 たかだ 衛 まもる は、副題 ふくだい に「伝奇 でんき ロマンの復権 ふっけん 」を掲 かか げ、「典拠 てんきょ 」に関 かん する大胆 だいたん な解釈 かいしゃく を打 う ち出 だ した。これに対 たい しては実証 じっしょう 性 せい を問 と う徳田 とくた 武 たけし との間 あいだ で論争 ろんそう が行 おこな われた。近年 きんねん は、文学 ぶんがく 分野 ぶんや での学術 がくじゅつ 研究 けんきゅう も進 すす められ、江戸 えど 思想 しそう 史 し 研究 けんきゅう の資料 しりょう として利用 りよう されるようにもなっている。八犬伝 はっけんでん の研究 けんきゅう 者 しゃ には以下 いか のような人物 じんぶつ がいる。
海外 かいがい への紹介 しょうかい [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん 国外 こくがい では、1983年 ねん の映画 えいが 『里見 さとみ 八犬伝 はっけんでん 』やアニメ『THE八犬伝 はっけんでん 』といった派生 はせい 作品 さくひん を通 つう じて八犬伝 はっけんでん の名 な が知 し られている。
英語 えいご への翻訳 ほんやく は、ドナルド・キーン による「浜路 はまじ クドキ」の部分 ぶぶん 英訳 えいやく [37] や、Chris Drake による部分 ぶぶん 訳 やく [38] などが知 し られている。現時点 げんじてん では、完訳 かんやく ・刊行 かんこう は行 おこな われていないが、日本 にっぽん 文学 ぶんがく 研究 けんきゅう 者 しゃ による翻訳 ほんやく の試 こころ みが進行 しんこう 中 ちゅう であり、随時 ずいじ ブログ上 じょう で一般 いっぱん 公開 こうかい されている[39] 。
中国 ちゅうごく 語 ご へは、李 り 樹 いつき 果 はて 訳 わけ により1992年 ねん に南開 みなみびらき 大学 だいがく 出版 しゅっぱん 社 しゃ より全 ぜん 4巻 かん で発行 はっこう されている[40] 。
アレンジ(脚色 きゃくしょく )の強 つよ いものは「南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん を題材 だいざい にした作品 さくひん 」#小説 しょうせつ 節 ふし を参照 さんしょう 。
白井 しらい 喬二 きょうじ 訳 わけ 『現代 げんだい 語 ご 訳 やく 南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん 』(河出 かわで 文庫 ぶんこ (上下 じょうげ )、2003年 ねん )ISBN 4002002705
『日本 にっぽん 古典 こてん 文庫 ぶんこ 19 南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん 』(河出書房新社 かわでしょぼうしんしゃ 、1976年 ねん 、新装 しんそう 版 ばん 1988年 ねん )の文庫 ぶんこ 化 か 。初刊 しょかん は1956年 ねん
抄訳 しょうやく だが前半 ぜんはん 部 ぶ はほぼ全訳 ぜんやく 、後半 こうはん に行 い くほど省略 しょうりゃく が進 すす み、終 お わりの方 ほう はほとんど筋書 すじが きに近 ちか い。
山田野 やまだの 理 り 夫 おっと 訳 わけ 『八犬伝 はっけんでん 』全 ぜん 8巻 かん (太平 たいへい 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1985年 ねん ) ISBN 480312101X ほか
児童 じどう 書 しょ だが、全訳 ぜんやく を行 おこな っている。
羽深 はぶか 律 ただし 訳 やく 『南総里見八犬傳 なんそうさとみはっけんでん 』既刊 きかん 6巻 かん (全 ぜん 10巻 かん の予定 よてい だったが、7巻 かん 目 め 以降 いこう が未 み 刊行 かんこう )(JICC出版 しゅっぱん 局 きょく ⇒宝島社 たからじましゃ 、1985年 ねん - 1992年 ねん )ISBN 9784880630915 ほか
完訳 かんやく ・巻 まき 次 じ の振分 ふりわけ は岩波 いわなみ 文庫 ぶんこ 版 ばん と一致 いっち するので、底本 ていほん は岩波 いわなみ (旧 きゅう 文庫 ぶんこ )版 ばん と推測 すいそく される。4巻 かん 目 め までは「門坂 かどさか 流 りゅう 画 が 」、5巻 かん から「吉田 よしだ 光彦 みつひこ 」装画 そうが である。馬琴 ばきん の序 じょ 、跋 ばつ なども全訳 ぜんやく している。ある程度 ていど 原文 げんぶん に用 もち いられている文字 もじ 表記 ひょうき を生 い かすため振 ふ り仮名 がな で読 よ ませようとする個所 かしょ もある。途中 とちゅう から日本 にっぽん 名著 めいちょ 全集 ぜんしゅう 版 ばん も参照 さんしょう したらしく付録 ふろく にその一部 いちぶ が取 と り入 い れられている。
徳田 とくた 武 たけし 訳 わけ 『日本 にっぽん の文学 ぶんがく 古典 こてん 編 へん 45 南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん 』(ほるぷ出版 しゅっぱん 、1987年 ねん )。抄訳 しょうやく
安西 あんざい 篤子 あつこ 『安西 あんざい 篤子 あつこ の南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん わたしの古典 こてん 』(集英社 しゅうえいしゃ 、1986年 ねん /集英社 しゅうえいしゃ 文庫 ぶんこ 、1996年 ねん )。抄訳 しょうやく ・翻案 ほんあん あり
栗本 くりもと 薫 かおる 訳 わけ 『里見 さとみ 八犬伝 はっけんでん 少年 しょうねん 少女 しょうじょ 古典 こてん 文学 ぶんがく 館 かん 』(講談社 こうだんしゃ 、1993年 ねん 、新装 しんそう 版 ばん 2001年 ねん 、2010年 ねん )。抄訳 しょうやく ・児童 じどう 書 しょ ・翻案 ほんあん あり
平岩 ひらいわ 弓枝 ゆみえ 作 さく ・佐多 さた 芳郎 よしお 画 が 『南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん 』(中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ 、1995年 ねん )。抄訳 しょうやく ・翻案 ほんあん あり。読売新聞 よみうりしんぶん 日曜 にちよう 版 ばん (1992 - 93年 ねん )に連載 れんさい
鈴木 すずき 邑訳 わけ 『南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん 現代 げんだい 語 ご で読 よ む歴史 れきし 文学 ぶんがく 』 (上 うえ ・下 した 勉 つとむ 誠 まこと 出版 しゅっぱん 、2004年 ねん )。詳細 しょうさい な抄訳 しょうやく ISBN 458507063X
丸屋 まるや おけ八 はち 訳 わけ 『全訳 ぜんやく 南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん 』(言 げん 海 うみ 書房 しょぼう 、2003年 ねん 。改訂 かいてい 版 ばん 2007年 ねん )ISBN 4901891014
2冊 さつ 組 ぐみ での函 はこ 入 にゅう セット。底本 ていほん は岩波 いわなみ 文庫 ぶんこ 旧版 きゅうばん 。回 かい 外 がい 剰 あま 筆 ふで まで訳 やく しているが、各 かく 編 へん の序 じょ 、跋 ばつ などは最初 さいしょ のものを除 のぞ き未 み 訳 わけ 。加 くわ えて原本 げんぽん の区切 くぎ りを無視 むし して、独自 どくじ で章 あきら 立 だ てを行 おこな っている。距離 きょり や時間 じかん 表記 ひょうき を現代 げんだい のものに変改 へんかい している。逐語 ちくご 訳 やく ではない箇所 かしょ があり、岩波 いわなみ 文庫本 ぶんこぼん の原文 げんぶん と比較 ひかく すると訳出 やくしゅつ されていない章句 しょうく も少 すく なくない。(例 たと えば、「回 かい 外 がい 剰 あま 筆 ふで 」の「公田 くでん 」の条 じょう など)
石川 いしかわ 博 ひろし 編 へん 『南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん 』(角川 かどかわ ソフィア文庫 ぶんこ ビギナーズ・クラシックス、2007年 ねん )。編 へん 訳 やく での入門 にゅうもん 書 しょ
研究 けんきゅう 書籍 しょせき [ 編集 へんしゅう ]
『図説 ずせつ 日本 にっぽん の古典 こてん 19 曲亭馬琴 きょくていばきん 』(集英社 しゅうえいしゃ 、1989年 ねん )。水野 みずの 稔 みのる ほか著 ちょ
『新潮 しんちょう 古典 こてん 文学 ぶんがく アルバム23 滝沢 たきざわ 馬琴 ばきん 』(新潮社 しんちょうしゃ 、1991年 ねん )。徳田 とくた 武 たけし ・森田 もりた 誠 まこと 吾 われ 編著 へんちょ
犬 いぬ 藤 ふじ 九郎 くろう 佐 さ 宏 ひろし 『図解 ずかい 里見 さとみ 八犬伝 はっけんでん 』(新 しん 紀元 きげん 社 しゃ 、2008年 ねん )
南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん を題材 だいざい にした作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
歌川 うたがわ 国芳 くによし 「犬 いぬ 阪 ばん 毛 もう 野 の ・岩井 いわい 紫若 しじゃく 」
Category:八犬伝 はっけんでん を題材 だいざい とした作品 さくひん も参照 さんしょう 。
人気 にんき 作品 さくひん であった『八犬伝 はっけんでん 』は、刊行 かんこう 中 ちゅう からすでに歌舞伎 かぶき の演目 えんもく になり、抄録 しょうろく や翻案 ほんあん 作品 さくひん 、亜流 ありゅう 作品 さくひん を生 う み出 だ した[41] 。現在 げんざい でも、日本 にっぽん で生 う まれたファンタジーの古典 こてん として多 おお くの作品 さくひん に参照 さんしょう されており、登場 とうじょう 人物 じんぶつ の名 な やモチーフの借用 しゃくよう はしばしば行 おこな われている。本 ほん 作 さく は現在 げんざい に至 いた るまで大衆 たいしゅう 文学 ぶんがく ・ドラマ・漫画 まんが ・アニメ・ゲームなど各 かく ジャンルの創作 そうさく に影響 えいきょう を与 あた え、多 おお くの翻案 ほんあん が生 う み出 だ された[3] 。「前世 ぜんせい の因縁 いんねん に結 むす ばれた義兄弟 ぎきょうだい 」「共通 きょうつう する聖 ひじり 痕 こん ・霊 れい 玉 だま ・名前 なまえ の文字 もじ 」「抜 ぬ けば水気 みずけ を放 はな つ名刀 めいとう ・村雨 むらさめ 」などのモチーフを借 か りた作品 さくひん は枚挙 まいきょ にいとまがない。また、現代 げんだい と価値 かち 観 かん の異 こと なる時代 じだい に書 か かれた古典 こてん で、しかも長大 ちょうだい であることもあり、『八犬伝 はっけんでん 』の名 な を冠 かん していても原作 げんさく から自由 じゆう に新 あら たな世界 せかい を創作 そうさく している翻案 ほんあん 作品 さくひん が多 おお い。原作 げんさく を志向 しこう した作品 さくひん であってもさまざまなレベルの再 さい 解釈 かいしゃく が行 おこな われ、現代 げんだい の作品 さくひん として蘇生 そせい されている。また、『八犬伝 はっけんでん 』執筆 しっぴつ 時 じ の馬琴 ばきん のエピソードも、芥川 あくたがわ 龍之介 りゅうのすけ 『戯作 げさく 三昧 ざんまい 』などの創作 そうさく の題材 だいざい となっている。
その他 た の伝統 でんとう 的 てき 演芸 えんげい 分野 ぶんや [ 編集 へんしゅう ]
2代目 だいめ 歌川 うたがわ 国貞 くにさだ 「八犬伝犬之草紙之内・里見 さとみ 勇 いさむ 臣 しん 森口 もりぐち 九郎 くろう 」。八犬伝 はっけんでん のアレンジ版 ばん である『犬 いぬ の草紙 そうし 』をもとにした歌舞伎 かぶき の役者 やくしゃ 絵 え 。中村 なかむら 玉 たま 助 すけ (3代目 だいめ 中村 なかむら 歌右衛門 うたえもん )演 えん じる「森口 もりぐち 九郎 くろう 」は原典 げんてん の堀内 ほりうち 貞行 さだゆき にあたる[43] 。
1913年 ねん の映画 えいが 『八犬伝 はっけんでん 』。女形 おんながた 映画 えいが 俳優 はいゆう の立花 たちばな 貞二郎 ていじろう 。
1954年 ねん の映画 えいが 『里見 さとみ 八犬伝 はっけんでん 』(東映 とうえい )ポスター
1954年 ねん の映画 えいが 『里見 さとみ 八犬伝 はっけんでん 』(東映 とうえい )。東 ひがし 千 せん 代 だい 之 の 介 かい と千原 ちはら しのぶ
南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん (本山 もとやま 一城 かずき 、1985年 ねん )
「旺文社 おうぶんしゃ 名作 めいさく まんがシリーズ」中 ちゅう の一 いち 冊 さつ [45] 。
八犬伝 はっけんでん (碧 あお 也ぴんく 、連載 れんさい :1989年 ねん -2002年 ねん )
OVA『THE八犬伝 はっけんでん 』のタイアップとして始 はじ まったが、原作 げんさく の漫画 まんが 化 か に移行 いこう した長編 ちょうへん 作品 さくひん 。ニュータイプ100%コミックス版 ばん で全 ぜん 15巻 かん 、ホーム社 しゃ 漫画 まんが 文庫 ぶんこ 版 ばん (2004年 ねん )では全 ぜん 8巻 かん 。
マンガ南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん (宮 みや 添育男 おとこ 、1991年 ねん -1992年 ねん )
河出書房新社 かわでしょぼうしんしゃ より3巻 かん 。徳田 とくた 武 たけし が監修 かんしゅう にクレジットされている。
南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん (森 もり 有子 ゆうこ 、1993年 ねん )
「くもん のまんが古典 こてん 文学 ぶんがく 館 かん 」シリーズの一 いち 冊 さつ [46] 。
八 はち 房 ぼう 恋 こい 抄 しょう (篠原 しのはら 烏 がらす 童 わらわ 、雑誌 ざっし 掲載 けいさい :1994年 ねん )
雑誌 ざっし 『ハロウィン 』に掲載 けいさい された短編 たんぺん 作品 さくひん 。発端 ほったん 部 ぶ の漫画 まんが 化 か 。
八犬士 はっけんし (岡村 おかむら 賢二 けんじ 、連載 れんさい :2005年 ねん -2006年 ねん )
犬塚 いぬづか 信乃 しの を主人公 しゅじんこう とする物語 ものがたり で、大塚 おおつか から古 こ 那 な 屋 や までの物語 ものがたり (および発端 ほったん )が描 えが かれる。単行本 たんこうぼん 全 ぜん 2巻 かん 。
戦国 せんごく 里見 さとみ 八犬伝 はっけんでん ―Episode Zero(江川 えがわ 達也 たつや 、連載 れんさい :2009年 ねん )
『戦国 せんごく 八犬伝 はっけんでん 』のタイトルで携帯 けいたい コミックとして連載 れんさい 。里見 さとみ 義実 よしざね を主人公 しゅじんこう とする発端 ほったん 部 ぶ の物語 ものがたり 。単行本 たんこうぼん 化 か に際 さい し『戦国 せんごく 里見 さとみ 八犬伝 はっけんでん ―Episode Zero』(全 ぜん 1冊 さつ )となる。
まんがで読 よ む 南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん (上地 うえち 優 ゆう 歩 ふ ・小金 こがね 瓜 ふり ちり ・柊 ひいらぎ ゆたか 、2015年 ねん )
「学研 がっけん まんが 日本 にっぽん の古典 こてん 」シリーズの一 いち 冊 さつ 。犬 いぬ 江 こう 親 ちかし 兵衛 ひょうえ が主人公 しゅじんこう 。板坂 いたさか 則子 のりこ が監修 かんしゅう にクレジットされている。
倉吉 くらよし 八犬伝 はっけんでん ~時代 じだい を越 こ えてお仕 つか えします~(倉吉 くらよし 観光 かんこう MICE協会 きょうかい ・エンバウンド、2021年 ねん -)
倉吉 くらよし 市 し で伝 つた わる八犬士 はっけんし のモデルになったと言 い われる八 はち 賢 けん 士 し の伝承 でんしょう をモチーフに産 う み出 だ された現代 げんだい 版 ばん 八犬伝 はっけんでん 。
ファンと街 まち が一緒 いっしょ に八 はち 人 にん の男子 だんし 達 たち を推 お していく事 こと を楽 たの しむ聖地 せいち 巡礼 じゅんれい 型 がた オリジナルキャラクター作品 さくひん 。
YouTubeにて、倉吉 くらよし を舞台 ぶたい に八犬士 はっけんし が活躍 かつやく するドラマツアーが配信 はいしん されている。
南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん の執筆 しっぴつ を題材 だいざい にした作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん 執筆 しっぴつ 時 じ の馬琴 ばきん を描 えが いた小説 しょうせつ 作品 さくひん として、以下 いか のようなものがある。
南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん を題材 だいざい にした施設 しせつ ・行事 ぎょうじ [ 編集 へんしゅう ]
南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん の聖地 せいち ・富山 とやま (千葉 ちば 県 けん 南 みなみ 房総 ぼうそう 市 し )
館山 たてやま 城 じょう (千葉 ちば 県 けん 館山 たてやま 市 し )
弘法 ぐほう 寺 てら の伏姫 ふしひめ 桜 さくら (千葉 ちば 県 けん 市川 いちかわ 市 し )
富山 とやま (千葉 ちば 県 けん 南 みなみ 房総 ぼうそう 市 し )
「伏姫 ふしひめ 籠 かご 窟 くつ 」があり、八犬伝 はっけんでん ゆかりの観光 かんこう 地 ち となっている[47] 。『八犬伝 はっけんでん 』の普及 ふきゅう につれて、現実 げんじつ の富山 とやま (とみさん)はいわば「聖地 せいち 」となり、もともと山中 さんちゅう にあった洞窟 どうくつ が「伏姫 ふしひめ の洞窟 どうくつ 」と結 むす びつけられた[15] 。1912年 ねん (大正 たいしょう 元年 がんねん )に富山 とやま に登山 とざん 道 どう が整備 せいび された際 さい 、登山 とざん 道 どう 入 い り口 くち に石碑 せきひ が立 た てられたが、側面 そくめん に「里見 さとみ 伏姫 ふしひめ ノ籠 かご 窟 くつ 」に至 いた ることが記 しる されている[15] 。籠 かご 窟 くつ の近 ちか くには八 はち 房 ぼう の墓 はか に見立 みた てられた「犬塚 いぬづか 」の石碑 せきひ も立 た つが、これも大正 たいしょう 時代 じだい の建立 こんりゅう である[47] 。現在 げんざい 見 み られる「籠 かご 窟 くつ 」の山門 さんもん や遊歩道 ゆうほどう などは1996年 ねん (平成 へいせい 8年 ねん )に整備 せいび された。
富山 とやま 山頂 さんちょう の観音堂 かんのんどう (作中 さくちゅう では伏姫 ふしひめ の菩提 ぼだい を弔 とむら うために建 た てられたと設定 せってい されている)の傍 かたわ らには、1919年 ねん (大正 たいしょう 8年 ねん )に「山 やま 高 たか きゆえに貴 たっと からず 曲 きょく 亭 てい 翁 おきな の霊 れい 筆 ひつ によりてこの山 やま の名 な 長 なが しへに高 たか く尊 とうと し」と前書 ぜんしょ のある巖谷 いわや 小波 さざなみ の句碑 くひ (「水茎 みずぐき の香 こう に山 やま も笑 わら いけり」)が建 た てられた[15] [47] 。また富山 とやま の2つの峰 みね の中間 ちゅうかん に「里見 さとみ 八犬士 はっけんし 終焉 しゅうえん の地 ち 」の標柱 ひょうちゅう がある。
伏姫 ふしひめ 公園 こうえん (千葉 ちば 県 けん 南 みなみ 房総 ぼうそう 市 し 市部 しぶ )[48]
富山 とやま 最寄 もよ りの岩井 いわい 駅 えき 前 まえ にあり、「伏姫 ふしひめ と八 はち 房 ぼう 」の銅像 どうぞう が建 た っている[47] 。
八 はち 房 ぼう 公園 こうえん (千葉 ちば 県 けん 南 みなみ 房総 ぼうそう 市 し 犬掛 いぬかけ )[49]
作中 さくちゅう で八 はち 房 ぼう の生誕 せいたん 地 ち と描写 びょうしゃ されている犬掛 いぬかけ 地区 ちく にあり、「八 はち 房 ぼう と狸 たぬき の像 ぞう 」が建 た っている[47] 。
滝田 たきた 城 しろ (千葉 ちば 県 けん 南 みなみ 房総 ぼうそう 市 し 上滝田 かみたきだ )
作中 さくちゅう では神余 かなまり 光弘 みつひろ ・山下 やました 定包 さだかね ・里見 さとみ 義実 よしざね の居城 きょじょう として発端 ほったん 部 ぶ の主要 しゅよう な舞台 ぶたい となる城 しろ [47] [注釈 ちゅうしゃく 16] 。伏姫 ふしひめ と八 はち 房 ぼう のブロンズ像 ぞう がある[47] 。
館山 たてやま 城 しろ (千葉 ちば 県 けん 館山 たてやま 市 し )
史実 しじつ の里見 さとみ 家 か (館山 たてやま 藩 はん )が16世紀 せいき 末 まつ に築城 ちくじょう した館山 たてやま 城 じょう の城跡 じょうせき 。城山 しろやま 公園 こうえん として整備 せいび されている。模擬 もぎ 天守 てんしゅ は館山 たてやま 市立 しりつ 博物館 はくぶつかん 分館 ぶんかん となっており、浮世絵 うきよえ などの八犬伝 はっけんでん 関連 かんれん の資料 しりょう を収集 しゅうしゅう している。
伏姫 ふしひめ 桜 さくら (千葉 ちば 県 けん 市川 いちかわ 市 し )
国府台 こうのだい に程近 ほどちか い真間 まま 山 さん 弘法 ぐほう 寺 てら にある樹齢 じゅれい 400年 ねん の枝垂桜 しだれざくら は、『八犬伝 はっけんでん 』に因 ちな み「伏姫 ふしひめ 桜 さくら 」と称 しょう されている。「滝沢 たきざわ 馬琴 ばきん 誕生 たんじょう の地 ち 」モニュメント(東京 とうきょう 都 と 江東 こうとう 区 く )
「滝沢 たきざわ 馬琴 ばきん 誕生 たんじょう の地 ち 」モニュメント(東京 とうきょう 都 と 江東 こうとう 区 く )
旗本 はたもと 松平 まつだいら 信成 のぶなり 屋敷 やしき の跡 あと に立 た つ。このモニュメントは、『南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん 』の冊子 さっし 106冊 さつ (国立 こくりつ 国会図書館 こっかいとしょかん 所蔵 しょぞう のものの原寸 げんすん 大 だい )を2つの山 やま に積 つ み重 かさ ねた形状 けいじょう をしている[50] 。
大岳 おおたけ 院 いん (鳥取 とっとり 県 けん 倉吉 くらよし 市 し )
里見 さとみ 忠義 ただよし と八 はち 賢 けん 士 し の墓所 はかしょ
南 みなみ 総 そう 里見 さとみ まつり (千葉 ちば 県 けん 館山 たてやま 市 し )[51]
毎年 まいとし 10月 がつ に開催 かいさい されている観光 かんこう イベント。1982年 ねん に市立 しりつ 博物館 はくぶつかん 分館 ぶんかん (館山 たてやま 城 じょう 模擬 もぎ 天守 てんしゅ )の完成 かんせい を記念 きねん して第 だい 1回 かい が開催 かいさい された[52] 。史実 しじつ 里見 さとみ 氏 し の顕彰 けんしょう とともに八犬伝 はっけんでん の世界 せかい を再現 さいげん する仮装 かそう パレードが行 おこな われる[52] 。伏姫 ふしひめ 役 やく ・八犬士 はっけんし 役 やく は原則 げんそく 的 てき に一般 いっぱん 公募 こうぼ されるが、実行 じっこう 委員 いいん 会 かい からの依頼 いらい によって千葉 ちば 県知事 けんちじ の堂本 どうもと 暁子 あきこ (2009年 ねん )や南 みなみ 房総 ぼうそう 市 し 出身 しゅっしん である乃木坂 のぎざか 46 の高山 たかやま 一実 かずみ (2011年 ねん )が伏姫 ふしひめ 役 やく を務 つと めたこともある[53] 。
せきがね里見 さとみ まつり (鳥取 とっとり 県 けん 倉吉 くらよし 市 し )
関金 せきがね 温泉 おんせん で9月 がつ 第 だい 一 いち 日曜日 にちようび 開催 かいさい 。2014年 ねん に第 だい 29回 かい を迎 むか えた[54] 。里見 さとみ 忠義 ただよし 主従 しゅうじゅう の鎮魂 ちんこん のための神事 しんじ を行 おこな うほか、ステージイベントが行 おこな われる[54] 。
倉吉 くらよし 里見 さとみ 時代 じだい 行列 ぎょうれつ (鳥取 とっとり 県 けん 倉吉 くらよし 市 し )
大岳 おおたけ 院 いん がある倉吉 くらよし 市 し 打吹 うつぶき 玉川 たまがわ で、9月第 だい 一 いち 日曜日 にちようび 開催 かいさい 。主催 しゅさい はNPO法人 ほうじん 養生 ようじょう の郷 さと [54] 。「せきがね里見 さとみ まつり」と連携 れんけい する形 かたち で2006年 ねん から実施 じっし されている[55] 。大岳 おおたけ 院 いん で里見 さとみ 忠義 ただよし と八 はち 賢 けん 士 し の法要 ほうよう を行 おこな い、また仮装 かそう 行列 ぎょうれつ を行 おこな う[54] 。八 はち 賢 けん 士 し が八犬士 はっけんし のモデルという観点 かんてん から、行列 ぎょうれつ における「八 はち 賢 けん 士 し 」には八犬士 はっけんし のイメージが託 たく されている[54] 。
^ なお wikimedia commons にあるこのファイルは pdfファイルになっており、20冊 さつ 分 ぶん の表紙 ひょうし が閲覧 えつらん できる
^ 濱田 はまだ 啓介 けいすけ の研究 けんきゅう (「馬琴 ばきん をめぐる書肆 しょし ・作者 さくしゃ ・読者 どくしゃ の問題 もんだい 」)によれば、『八犬伝 はっけんでん 』初版 しょはん は300部 ぶ で、後 こう 摺 すり 分 ぶん や上方 かみがた 発送 はっそう 分 ぶん を合 あ わせても発行 はっこう 年中 ねんじゅう の発行 はっこう 部数 ぶすう は650-750部 ぶ 程度 ていど とされる。一方 いっぽう 、同 どう 時代 じだい の馬琴 ばきん や柳 やなぎ 亭 てい 種彦 たねひこ の合 ごう 巻 まき は5000部 ぶ -8000部 ぶ 程度 ていど 刷 ず られた[1] 。
^ 「八 はち は陰 かげ 数 すう の終 おわ りなり。……九 きゅう は陽 ひ 数 すう の終 おわ りなり。かかれば八 はち 犬 いぬ 英 えい 士 し の全 ぜん 伝 つて 、局 きょく を九 きゅう 輯に結 むす ぶこと、その所以 ゆえん (ゆえ)なきにしもあらずかし」[4]
^ 改姓 かいせい 後 ご の犬塚 いぬづか 信乃 しの の「正式 せいしき な」名前 なまえ は、「犬塚 いぬづか 信乃 しの 金 きん 碗 わん 宿禰 すくね 戍孝」となる。
^ 上総 かずさ 広常 ひろつね の館 かん の所在地 しょざいち には諸説 しょせつ があり、布施 ふせ 村 むら 殿台 とのだい (現在 げんざい のいすみ市 し 下布施 しもぶせ )にあるとするもその一 ひと つ。『房総 ぼうそう 志 こころざし 料 りょう 』などでも採用 さいよう されている。
^ 「御嶽 おんたけ ・大井 おおい の間 あいだ 」(第 だい 180回 かい 上 じょう 、岩波 いわなみ 文庫 ぶんこ 版 ばん 10巻 かん p.177)にある「小篠 こしの 村 むら 」(第 だい 180回 かい 上 じょう 、岩波 いわなみ 文庫 ぶんこ 版 ばん 10巻 かん p.194)
^ 諸 しょ 本 ほん によって異 こと なるが、嘉吉 よしきち - 永 えい 享 とおる 期 き とされることが多 おお い。
^ 山下 やました 定 じょう 兼 けん の謀反 むほん と動乱 どうらん を記 しる した書籍 しょせき は江戸 えど 時代 じだい の軍記 ぐんき 物 ぶつ 以前 いぜん には遡 さかのぼ れず、史料 しりょう 的 てき 裏 うら づけが得 え られないため、山下 やました 定 じょう 兼 けん による下剋上 げこくじょう が事実 じじつ であるかは不明 ふめい である。ただし、建治 けんじ 元年 がんねん (1275年 ねん )に京都 きょうと の六 ろく 条 じょう 八幡宮 はちまんぐう 造営 ぞうえい の際 さい に用 もち いられた注文 ちゅうもん (「六 ろく 条 じょう 八幡宮 はちまんぐう 造営 ぞうえい 注文 ちゅうもん 」)の中 なか に安房 あわ の武士 ぶし として「安東 あんどう 太郎 たろう 跡 あと 、東条 とうじょう 悪 あく 三郎 さぶろう 跡 あと 、安西 あんざい 大夫 たいふ 跡 あと 、丸 まる 五郎 ごろう 跡 あと 、多々良 たたら 七郎 しちろう 太郎 たろう 跡 あと 、山下 やました 太郎 たろう 」の6名 めい (なお、安東 あんどう 氏 し は安房 あわ 郡 ぐん 安東 あんどう 郷 きょう 、多々良 たたら 氏 し は平群 へぐり 郡 ぐん 多々良 たたら 荘 そう を拠点 きょてん とする在地 ざいち 武士 ぶし とされている)が記 しる されており、神 かみ 余 あまり 氏 し の代 か わりに山下 やました 氏 し の名前 なまえ が記 しる されている点 てん は注目 ちゅうもく される。山下 やました 氏 し は神 かみ 余 あまり 氏 し の一族 いちぞく であった可能 かのう 性 せい がある[16] 。
^ 『里見 さとみ 代 だい 々記 き 』[17] では、「郡 ぐん 主 ぬし 」として平 たいら 郡 ぐん 勝山 かちやま の安西 あんざい 勝峯 かつみね 、安房 あわ 郡 ぐん 神余 かなまり の金 かね 余 あまり 景春 かげはる 、朝 ちょう 夷 えびす 郡 ぐん 石堂 いしどう 谷 だに の丸 まる 元 もと 俊 しゅん 、長 なが 狭 せま 郡 こおり 永 ひさし 泉 いずみ の東条 とうじょう 重永 しげなが が登場 とうじょう し、金 かね 余 あまり 景春 かげはる が山下 やました 左衛門 さえもん に討 う たれる。安西 あんざい と丸 まる は山下 やました を討 う つが、遺 のこ 領 りょう を巡 めぐ って争 あらそ い、安西 あんざい が丸 まる を滅 ほろ ぼす。金 かね 余 あまり の遺臣 いしん は里見 さとみ 義実 よしざね を大将 たいしょう に迎 むか える。義実 よしざね が千代 ちよ (現 げん ・南 みなみ 房総 ぼうそう 市 し 千 せん 代 だい )に出陣 しゅつじん したところ、安西 あんざい 勝峯 かつみね は降伏 ごうぶく 。義実 よしざね は安西 あんざい を先鋒 せんぽう として長 なが 狭 せま 郡 ぐん に攻 せ め込 こ み、金山 かなやま 城 じょう に籠城 ろうじょう する東条 とうじょう 重永 しげなが を滅 ほろ ぼして一 いち 国 こく を平定 へいてい する。『房総 ぼうそう 里見 さとみ 誌 し 』[18] では、神余 かなまり 景春 かげはる を討 う った山下 やました 左衛門 さえもん を、安西 あんざい 勝峯 かつみね と丸 まる 元 もと 俊 しゅん が討 う ったのち対立 たいりつ したところは共通 きょうつう であるが、丸 まる は義実 よしざね を迎 むか え入 い れ、安西 あんざい に滅 ほろ ぼされずに終 お わっている。また、東条 とうじょう 重永 しげなが は山下 やました 左衛門 さえもん に娘 むすめ を嫁 とつ がせていたとする。
^ 『八犬伝 はっけんでん 』では安西 あんざい 景 けい 連 れん が八 はち 房 ぼう に首 くび を取 と られて安西 あんざい 氏 し の勢力 せいりょく は滅亡 めつぼう するが、物語 ものがたり 後半 こうはん で安西 あんざい ・麻呂 まろ の一族 いちぞく の人物 じんぶつ が登場 とうじょう し、里見 さとみ 家 か に仕 つか えて活躍 かつやく する。
^ 『成 なり 唯識 ゆいしき 論 ろん 』の「名詮自性 みょうせんじしょう 句 く 詮 かい 差別 さべつ 文 ぶん 即 そく 是 ぜ 字 じ 為 ため 二 に 所 しょ 依 よ 」による。本来 ほんらい は言語 げんご 哲学 てつがく を説 と くものであり、固有名詞 こゆうめいし の命名 めいめい を問題 もんだい としたものではない。
^ 高田 たかだ 衛 まもる はデウス・エクス・マキナ になぞらえている。
^ 「雲 くも 凉院」の院号 いんごう と「心 しん 」「賢 けん 」の二 に 字 じ が共通 きょうつう する。「心 しん 」と「賢 けん 」の二 に 字 じ は主君 しゅくん 里見 さとみ 忠義 ただよし の戒名 かいみょう (雲 くも 晴 はれ 院 いん 殿 どの 前 ぜん 拾遺 しゅうい 心 こころ 叟賢凉大居士 こじ )に共通 きょうつう している。
^ 安房 あわ 白浜 しらはま の種 たね 林寺 はやしじ (現在 げんざい の南 みなみ 房総 ぼうそう 市 し 白浜 しらはま 町 まち 下沢 しもさわ )に住 じゅう したとも言 い われる[25] 。
^ 研究 けんきゅう 者 しゃ によって「龍 りゅう 学 まなぶ 」と呼称 こしょう される[要 よう 出典 しゅってん ] 。
^ ただし史実 しじつ では神 かみ 余 あまり 氏 し とも里見 さとみ 義実 よしざね とも関係 かんけい はない[47] 。