(Translated by https://www.hiragana.jp/)
宇佐神宮 - Wikipedia コンテンツにスキップ

宇佐うさ神宮じんぐう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
宇佐うさ八幡宮はちまんぐうから転送てんそう
宇佐うさ神宮じんぐう
宇佐神宮南中楼門
南中なんちゅう楼門ろうもんけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい
所在地しょざいち 大分おおいたけん宇佐うさ南宇佐みなみうさ2859
位置いち 北緯ほくい3331ふん34びょう 東経とうけい13122ふん29びょう / 北緯ほくい33.52611 東経とうけい131.37472 / 33.52611; 131.37472 (宇佐うさ神宮じんぐう)座標ざひょう: 北緯ほくい3331ふん34びょう 東経とうけい13122ふん29びょう / 北緯ほくい33.52611 東経とうけい131.37472 / 33.52611; 131.37472 (宇佐うさ神宮じんぐう)
主祭しゅさいしん 八幡はちまん大神おおがみ応神天皇おうじんてんのう
うり大神だいじん
神功じんぐう皇后こうごう
社格しゃかくひとし 式内しきないしゃめい神大しんだい3しゃ
豊前ぶぜんこく一宮いちのみや
きゅうかんぬさ大社たいしゃ
みことのりさいしゃ
別表べっぴょう神社じんじゃ
創建そうけん かみひさし2ねん725ねん
本殿ほんでん様式ようしき 八幡やはたづくり
別名べつめい 宇佐うさ八幡やはた
宇佐うさ八幡宮はちまんぐう
札所ふだしょとう 日本にっぽんさんだい八幡宮はちまんぐう
例祭れいさい 3月18にち
おも神事しんじ 勅使ちょくしさい
地図ちず
地図
宇佐神宮の位置(大分県内)
宇佐神宮
宇佐うさ神宮じんぐう
宇佐神宮の位置(日本内)
宇佐神宮
宇佐うさ神宮じんぐう
テンプレートを表示ひょうじ
宇佐うさ八幡宮はちまんぐう、1928ねん

宇佐うさ神宮じんぐう(うさじんぐう)は、大分おおいたけん宇佐うさにある神社じんじゃ式内しきないしゃ名神めいしん大社たいしゃ3しゃ)、豊前ぶぜんこく一宮いちのみやみことのりさいしゃきゅう社格しゃかくかんぬさ大社たいしゃで、現在げんざい神社じんじゃ本庁ほんちょう別表べっぴょう神社じんじゃ

全国ぜんこく最多さいたやく44,000しゃある八幡宮はちまんぐうそう本社ほんしゃである。石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう筥崎宮はこざきぐう(または鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう)ととも日本にっぽんさんだい八幡宮はちまんぐうひとつ。古代こだいにおいては伊勢神宮いせじんぐうともしょ宗廟そうびょうとしてあつかわれた[1]八幡やはた宇佐うさみやまたは八幡はちまんだい菩薩ぼさつ宇佐うさみやなどとばれた。また神仏しんぶつ分離ぶんり以前いぜん神宮寺じんぐうじ弥勒寺みろくじ後述こうじゅつ)と一体いったいのものとして、正式せいしきには宇佐うさ八幡宮はちまんぐう弥勒寺みろくじしょうしていた。

現在げんざいでも通称つうしょうとして宇佐うさ八幡やはたともばれる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

大分おおいたけん北部ほくぶ国東半島くにさきはんとう御許山おもとさん標高ひょうこう647m)山麓さんろく鎮座ちんざする。本殿ほんでん小高こだか丘陵きゅうりょう小椋おぐらやま亀山かめやま山頂さんちょう鎮座ちんざする上宮かみみやとその山麓さんろく鎮座ちんざする下宮したみやとからなり、そのまわりに社殿しゃでんひろがっている。境内けいだいくに史跡しせき指定していされ、本殿ほんでん3むね国宝こくほう指定していされている。

八幡宮はちまんぐうそう本社ほんしゃでありふるくから皇室こうしつ崇敬すうけいけているほか、しょうとく天皇てんのう時代じだい宇佐うさ八幡宮はちまんぐう神託しんたく事件じけんでもられる。参拝さんぱい一般いっぱんことなり、はいよん拍手はくしゅいちはい作法さほうとしている。

祭神さいじん[編集へんしゅう]

主祭しゅさいしん以下いかの3はしら

主神しゅしんは、一之かずゆき御殿ごてんまつられている八幡はちまん大神おおがみ応神天皇おうじんてんのうであるが、ただ実際じっさい宇佐うさ神宮じんぐう本殿ほんでん主神しゅしん位置いちである中央ちゅうおう配置はいちされているのはうり大神だいじんであり、なぜそうなっているのかはなぞとされている。また下宮したみやでも主祭しゅさいしんおなじであるが、一之かずゆき神殿しんでんそう殿どのにはだい神祖しんそ神社じんじゃとして大神おおがみいのち(おおがのひぎのみこと)がまつられる。

歴史れきし[編集へんしゅう]

創建そうけん[編集へんしゅう]

宇佐うさ神宮じんぐう託宣たくせんしゅうである『八幡やはた宇佐うさみや御託宣ごたくせんしゅう』には、筥崎宮はこざきぐう神託しんたくいて、「宇佐うさみやより穂浪ほなみ大分おおいたみやわが本宮ほんぐうなり」とあり、筑前ちくぜんこく穂波ほなみぐん現在げんざい福岡ふくおかけん飯塚いいづか)の大分おおいた八幡宮はちまんぐう宇佐うさ神宮じんぐう本宮もとみやであり、筥崎宮はこざきぐうもとみやであるとある。宇佐うさ神宮じんぐう元宮もとみやは、福岡ふくおかけん築上ちくじょうぐん築上ちくじょうまちにある矢幡やはた八幡宮はちまんぐうげん金富かなとみ神社じんじゃ)であるとするせつや、大分おおいたけん中津なかつこも神社じんじゃ(こもじんじゃ)も元宮もとみやとして有力ゆうりょくされている。

また、しゃでんとうによれば、欽明天皇てんのう32ねん571ねん?)、宇佐うさぐんうまやみね菱形ひしがたあいだ鍛冶かじおう(かじおう)ち、大神おおがみよしいのるとさんさいわらわとなり、「は、譽田ほんだ天皇てんのう廣幡ひろはた八幡やはた麻呂まろ(註:応神天皇おうじんてんのうのこと)、護国ごこく霊験れいけんだい菩薩ぼさつ」と託宣たくせんがあったとある[2]宇佐うさ神宮じんぐうをはじめとする八幡宮はちまんぐうだい部分ぶぶん応神天皇おうじんてんのう誉田ほんだ天皇てんのう)を祭神さいじんとするのはそのためとかんがえられる。

当社とうしゃみなみ御許山おもとさん山頂さんちょうには奥宮おくのみやとして3つの巨石きょせきまつ大元おおもと神社じんじゃがあり、豪族ごうぞく宇佐うさいわ信仰しんこう当初とうしょ形態けいたいであろうともいわれている。そこに、からししま[ちゅう 1]うり大神だいじん信仰しんこうんだとかんがえられるが、古来こらいからのヒメヒコ文化ぶんかかんがえあわせればヒメガミ信仰しんこう当時とうじには当然とうぜんのことであったとかんがえられる。からししまのち宇佐うさからししまきょうみ、からししまきょう周辺しゅうへん稲積いなづみろく神社じんじゃ(いなずみろく、稲積いなづみ神社じんじゃとも)、おつ咩神しゃ(おとめ)、さらに酒井さかいいずみ神社じんじゃぐん神社じんじゃ(ごうぜ。むかししゃとも)と社殿しゃでん建築けんちくした。

たかしたかし天皇てんのう年間ねんかん(588? - 592ねん?)に鷹居たかいしゃ(たかいしゃ)がてられた[3]

飛鳥あすか時代ときよ[編集へんしゅう]

大化たいか6ねん(650ねん前後ぜんこう須佐すさおとこいのち大国たいこく主命しゅうめいてんいのち)らが開拓かいたくしたとする出雲いずもこく八幡宮はちまんぐう建立こんりゅう勧請かんじょうした(松崎まつざき八幡宮はちまんぐう須佐すさ神社じんじゃ[4]

奈良なら時代じだい[編集へんしゅう]

社殿しゃでんは、宇佐うさ亀山かめやまかみひさし2ねん725ねん)に一之かずゆき殿どの造営ぞうえいされた。以後いご天平てんぺい元年がんねん729ねん)に二之にの殿でんひろしひとし14ねん823ねん)に三之さんの殿でん造営ぞうえいされて現在げんざい形式けいしき本殿ほんでん完成かんせいしたとつたえられている。

天平てんぴょう12ねん740ねん)の藤原ふじわらひろ嗣のらんさいには、官軍かんぐん大将軍だいしょうぐん大野東おおのひがしじん決戦けっせんまえ戦勝せんしょう祈願きがんした。また、天平てんぴょう15ねん743ねん)の東大寺とうだいじ造営ぞうえいさい宮司ぐうじとう託宣たくせんたずさえて上京じょうきょうし、造営ぞうえい支援しえんしたことから中央ちゅうおうとのむすびつきをつよめた。

神護かんごけいくも3ねん769ねん)の宇佐うさ八幡宮はちまんぐう託宣たくせん事件じけん道鏡どうきょう事件じけん)では皇位こうい継承けいしょうまで関与かんよするなど、伊勢神宮いせじんぐうほど皇室こうしつ宗廟そうびょうとして崇拝すうはい対象たいしょうとなり繁栄はんえいし、信仰しんこうあつめた。

平安へいあん時代じだい[編集へんしゅう]

平安へいあん時代じだい中期ちゅうきの『延喜えんぎしきかみめいちょう』には、3かみが「豊前ぶぜんこく宇佐うさぐん 八幡はちまんだい菩薩ぼさつ宇佐うさみや」、「豊前ぶぜんこく宇佐うさぐん うり神社じんじゃ」、「豊前ぶぜんこく宇佐うさぐん だいたいひめびょう神社じんじゃ」として記載きさいされ、いずれも名神めいしん大社たいしゃれつしている。

また、平安へいあん時代じだいだい宮司ぐうじ大神おおがみ(おおがし)が武家ぶけなどにかれていったため空位くういになっただい宮司ぐうじに、宇佐うさがつき宇佐うさ神宮じんぐう神宮寺じんぐうじ弥勒寺みろくじとともに九州きゅうしゅう最大さいだい荘園しょうえん領主りょうしゅとなった。また神職しんしょくぼうかん武士ぶしとしても活動かつどうしており[ちゅう 2]、このため近郊きんこうの(とく豊後ぶんごこくの)有力ゆうりょく武士ぶしとしばしば敵対てきたいしている。

源平げんぺい争乱そうらんには平清盛たいらのきよもりむすめつまとするだい宮司ぐうじ宇佐うさおおやけどおりたいらかたにつく。屋島やしまたたかから敗走はいそうするそう大将たいしょう平宗盛たいらのむねもり平家ひらか一門いちもん宇佐うさ神宮じんぐうたよってつか安徳天皇あんとくてんのうともおおやけどおりだて滞在たいざいしていたが、豊後ぶんご緒方おがた惟義これよしみなもとほうについて叛逆はんぎゃくしたこともあり庇護ひごしきれなかった(このとき悲嘆ひたんしたたいらきよしけい自殺じさつしたという場所ばしょに、小松こまつづかばれる石碑せきひ五輪ごりんとうがある)。またこのとき緒方おがたによって神宮じんぐう焼討やきうちにあったという。この焼討やきうちのとき神体しんたいかねぼうとのせつもある)が強奪ごうだつされた。こののち発見はっけんされるが、朝廷ちょうてい裁定さいていにより石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう管理かんりすることになった[ちゅう 3]

中世ちゅうせい以降いこう[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら時代ときよもとでも当時とうじほか社寺しゃじ同様どうよう加持かじ祈祷きとうおこなっている。このさい活躍かつやくした宇佐うさおおやけおおやけどおり玄孫げんそん)は、社領しゃりょう回復かいふく成功せいこうして中興ちゅうこうあおがれた。その宇佐うさいたおおやけれん鎌倉かまくら幕府ばくふ倒幕とうばくにおいても活躍かつやくして、のちなつけ親王しんのう擁立ようりつ参加さんかしている。

戦国せんごく時代じだいには豊後ぶんご守護しゅご戦国せんごく大名だいみょう大友おおともと、豊前ぶぜんこくばしていた中国ちゅうごく地方ちほう覇者はしゃ大内おおうち(のちには毛利もうり)とのあいだ板挟いたばさみになり、大内おおうち庇護ひごはい大友おおとも対立たいりつした。とく大内おおうち盛見もりみ大内おおうち義隆よしたかだいには手厚てあつ保護ほごされ、消失しょうしつした社殿しゃでん造営ぞうえい復興ふっこうおこなわれた。また、宇佐うさ神宮じんぐうには大内おおうちからおくられた神宝しんぽうもいくつかのこされている。しかし、だいやすしてらへんにより大内おおうち義隆よしたかほろびるとうしたてうしない、大友おおとも宗麟そうりんふたたちされ、このときは大宮おおみやつかさ宮成みやなりこうけんらは北九州きたきゅうしゅういた八幡やはたまでびることとなった。

豊臣とよとみ秀吉ひでよし九州きゅうしゅう平定へいてい豊前ぶぜんには毛利もうり、ついで黒田くろだ相次あいついで有力ゆうりょく大名だいみょう進駐しんちゅうした。

江戸えど時代じだいには、宇佐うさ一帯いったい中津なかつはん佐賀さがはん天領てんりょうなどが複雑ふくざつ土地とちとなった。そのなかに、幕府ばくふから寄進きしんされた宇佐うさ神宮じんぐう神領しんりょう存続そんぞくすることになった。

1871ねん (明治めいじ4ねん)には近代きんだい社格しゃかく制度せいどにおいて、「宇佐うさ神社じんじゃ」としてかんぬさ大社たいしゃれつかくされた。

神職しんしょく[編集へんしゅう]

宇佐うさ神宮じんぐう神職しんしょくたばねるだい宮司ぐうじは、大神おおがみつとめた。

平安へいあん時代じだい中頃なかごろまでは大神おおがみつとめたが、宮司ぐうじしょく子孫しそんほうり小山田おやまだゆずり、そのまったなくなっていたうさぎすな彦 (ウサツヒコ) らの子孫しそん宇佐うさてから歴代れきだいしゅくしょくとなり、宇佐うさであるみや成家なりいえいた津家つげ岩根いわね安心院あじむ世襲せしゅうして一族いちぞくだい宮司ぐうじあらそうことになる。

鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき宇佐うさおおやけだいから宇佐うさは2いえかれ、あにおおやけなりみや成家なりいえおとうとおおやけれんいた津家つげしょうした。以後いごこの2いえ交互こうごだい宮司ぐうじしょく明治めいじいたっている。なお、一時いちじ宇佐うさ一族いちぞく出光いでみつだい宮司ぐうじとなっている。

戦後せんごしゅくみや成家なりいえ男爵だんしゃく返上へんじょう宇佐うさふくして祭祀さいしはなれ、以後いごいた津家つげ継承けいしょう祭祀さいしおこなっていた。平成へいせい16ねん2004ねん)ごろよりいた宮司ぐうじわって代務だいむしゃかれるようになった。

宮司ぐうじ継承けいしょうめぐ騒動そうどう[編集へんしゅう]

2006ねん平成へいせい18ねん)、中津なかつこも神社じんじゃ宮司ぐうじ始祖しそ宇佐うさ春海はるみけんだい宮司ぐうじ)が79だい宇佐うさ神宮じんぐう宮司ぐうじ就任しゅうにんした。夕刊ゆうかんフジによると、神職しんしょくになってあいだもない世襲せしゅう女性じょせい(78だい宮司ぐうじ長女ちょうじょ)の代役だいやくだったという[5]。79だい宮司ぐうじ2008ねん平成へいせい20ねん)8がつ病死びょうしすると、宇佐うさ神宮じんぐう責任せきにん役員やくいんかいは、けん宮司ぐうじとなっていた世襲せしゅう女性じょせい後任こうにん宮司ぐうじとして神社じんじゃ本庁ほんちょう推薦すいせんしたが、神社じんじゃ本庁ほんちょうがわ女性じょせい経験けいけん不足ふそくであるとして承認しょうにんせず、宮司ぐうじしょく空席くうせきになった[5]

2009ねん平成へいせい21ねん)に神社じんじゃ本庁ほんちょう大分おおいたけん神社じんじゃちょう穴井あないしんひさちょうちょうとくにん宮司ぐうじ選出せんしゅつする[6][7]と、宇佐うさ神宮じんぐう責任せきにん役員やくいんかい氏子うじこ総代そうだいかいはこれに反対はんたいして、女性じょせいけん宮司ぐうじの80だい宮司ぐうじ就任しゅうにんめ、神社じんじゃ本庁ほんちょう離脱りだつとどけ提出ていしゅつした[7][8][9]

女性じょせいけん宮司ぐうじ2010ねん平成へいせい22ねん)3がつ神社じんじゃ本庁ほんちょう相手取あいてど宮司ぐうじしょく地位ちい保全ほぜんもとめて大分おおいた地裁ちさい中津なかつ支部しぶ提訴ていそするも、請求せいきゅう棄却ききゃくとなり敗訴はいそ2011ねん平成へいせい23ねん)11月29にちには福岡ふくおか高裁こうさいでも控訴こうそ棄却ききゃく敗訴はいそ[10]最高裁さいこうさいにて2013ねん平成へいせい25ねん)5がつ9にち女性じょせいがわ上告じょうこく退しりぞけられ、敗訴はいそ確定かくていした[11]

2013ねん平成へいせい25ねん)、宮司ぐうじ地位ちいみとめられなかった女性じょせいけん宮司ぐうじが、職場しょくば環境かんきょう業務ぎょうむ内容ないよう不満ふまんいだ改善かいぜん要求ようきゅう裁判さいばんこしたが、それにたいし、神宮じんぐうがわ女性じょせいけん宮司ぐうじ勤務きんむ態度たいど問題もんだいがあるとして給与きゅうよ大幅おおはばカットした。対立たいりつから社務しゃむしょ小競こぜいがあり、女性じょせいけん宮司ぐうじ全治ぜんち3週間しゅうかんのけがをわされたとして男性だんせいけん宮司ぐうじ告訴こくそした[12]

2014ねん平成へいせい26ねん)5がつ15にち神社じんじゃ本庁ほんちょう女性じょせいけん宮司ぐうじから免職めんしょくし、宇佐うさ神宮じんぐう女性じょせい解雇かいこした[13]

2015ねん平成へいせい27ねん)12月、宇佐うさ神宮じんぐう氏子うじこ総代そうだい大分おおいたけん神社じんじゃちょう宇佐うさ支部しぶ役員やくいんが、穴井あない宮司ぐうじには職務しょくむ遂行すいこう能力のうりょく欠如けつじょしているとして、解任かいにんもとめる嘆願たんがんしょ神社じんじゃ本庁ほんちょう提出ていしゅつした[14]よく2016ねん平成へいせい28ねん)、穴井あない宮司ぐうじ神社じんじゃ本庁ほんちょうすべきた白川しらかわ道久みちひさあてに2がつ2にちづけ退職たいしょくねがい提出ていしゅつ[15]し、同月どうげつ19にち受理じゅりされた[16]

同月どうげつ神社じんじゃ本庁ほんちょうぜん総務そうむ部長ぶちょう大分おおいたけん大分おおいたにある吸日女神めがみしゃ宮司ぐうじ長男ちょうなん後任こうにん宮司ぐうじ就任しゅうにんしたが[16]2017ねん平成へいせい29ねん)5がつには大分おおいたけん神社じんじゃちょう宇佐うさ支部しぶが、しん宮司ぐうじこうあつてき独善どくぜんてきで、関係かんけい修復しゅうふくをするしん皆無かいむであるとして、宇佐うさ神宮じんぐう祭典さいてんへの協力きょうりょく寄付きふ要請ようせい拒否きょひすることを決議けつぎするとともに、支部しぶ事務じむきょく宇佐うさ神宮じんぐうないから宇佐うさ市内しない桜岡さくらがおか神社じんじゃうつし、両者りょうしゃ絶縁ぜつえん状態じょうたいになった[17][18]

神階しんかい[編集へんしゅう]

八幡はちまんだい菩薩ぼさつ宇佐うさみや
うり神社じんじゃ

境内けいだい[編集へんしゅう]

建造けんぞうぶつ
  • 南中なんちゅう楼門ろうもん勅使ちょくしもん
入母屋いりもやづくりひのきがわ神宮じんぐう内郭ないかくみなみ正門せいもんで、通常つうじょうひらかない。けん指定してい文化財ぶんかざい
  • 宇佐うさ鳥居とりい
西にし大門おおもんまえ木造もくぞう鳥居とりい宇佐うさ古来こらい形式けいしきをもち、がくたばはなくたいはしらじょうく。けん指定してい文化財ぶんかざい
  • 高倉たかくら (たかくら)
よせとうづくりひのきがわ葺。けん指定してい文化財ぶんかざい
  • 頓宮とんぐう (とんぐう)
御旅所おたびしょ相当そうとうする。神幸しんこうさいさい祭神さいじん一時いちじ滞在たいざいする。
その
  • 菱形ひしがた - 神池かみいけ
  • 初澤はつざわいけ
  • 寄藻川よりもがわ - 御許山おもとさんみなもとはっして当社とうしゃ神域しんいきながれるかわ

なお、ふるくは弥勒寺みろくじという神宮寺じんぐうじ正確せいかくには石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうぞくする)があったが、廃仏毀釈はいぶつきしゃくによりこわされ、礎石そせきのみがのこっている。かつてどうてらがあった場所ばしょ北側きたがわには、社務しゃむしょ相当そうとうする神宮じんぐうちょう神宝しんぽうおさめる宝物ほうもつかん存在そんざいする。

末社まっしゃ[編集へんしゅう]

摂社せっしゃ[編集へんしゅう]

若宮わかみや神社じんじゃ
境内けいだいしゃ


さかいがいしゃ
  • 大尾たいび神社じんじゃ (おお-)
    • 祭神さいじん八幡やはた大神だいじん
    • 境内けいだい東方とうほう大尾たいび山頂さんちょう鎮座ちんざ八幡はちまん大神おおがみ奈良ならへの行幸ぎょうこうののち、上宮かみみやうつるまで鎮座ちんざしたとされる。
  • だいもと神社じんじゃ (おもと-) - 奥宮おくのみや
    • 境内けいだい南方なんぽう御許山おもとさん(おもとさん)山頂さんちょう鎮座ちんざ御許山おもとさんは、うり大神おおがみ地上ちじょう最初さいしょったとされている。3つの巨石きょせきうり大神おおがみ宗像むなかたさん女神めがみ)の顕現けんげんとしてまつる。日本書紀にほんしょきだいろくだんだいさんいちしょには宇佐うさとうちその宗像むなかた遷座せんざとあり、神社じんじゃでは宇佐うさとう当地とうち比定ひていする。
大尾たいび神社じんじゃ
行幸ぎょうこうかいはちしゃさかいがいしゃ
当社とうしゃ関係かんけいふかさかいがい8摂社せっしゃで、かつてはすうねんごとに巡行じゅんこうする行幸ぎょうこうかいおこなわれていた。
  • 大根川おおねがわ神社じんじゃ宇佐うさ佐野さの
  • おつ咩神しゃ宇佐うさ下乙女しもおとめ
  • いずみ神社じんじゃ宇佐うさ辛島からしまいずみ
  • ぐん神社じんじゃ宇佐うさ樋田ひだ
  • 鷹居たかい神社じんじゃ宇佐うさ東上田ひがしうえだ
  • ふえ神社じんじゃ豊後高田ぶんごたかだかい
  • 妻垣つまがけ神社じんじゃ宇佐うさ安心院あじむまち妻垣つまがけ大門おおもん
  • 小山田おやまだ神社じんじゃ宇佐うさ北宇佐きたうさ

末社まっしゃ[編集へんしゅう]

境内けいだいしゃ
  • 春日しゅんじつ神社じんじゃ - 祭神さいじんてん屋根やねいのち上宮かみみや楼門ろうもんない鎮座ちんざ八幡やはた大神だいじんわき殿どの祭神さいじんてん屋根やねいのちは、神功しんこう皇后こうごうたすけたとされる
  • はち神社じんじゃ (やこ-) - 祭神さいじん八幡やはた大神だいじん八王子はちおうじ上宮かみみや回廊かいろうくすのき鎮座ちんざ社殿しゃでんはない)
  • 亀山かめやま神社じんじゃ - 祭神さいじんだい山積さんせきみこと亀山かめやま中腹ちゅうふく鎮座ちんざ祭神さいじん亀山かめやま上宮かみみや鎮座ちんざするやま名前なまえ)のかみ
  • 八坂神社やさかじんじゃ - 祭神さいじん須佐すさおとこいのち下宮したみやちかくに鎮座ちんざ
  • たくみ祖神そしんしゃ (もくしょうそ-) - 祭神さいじんおけいのちいにしえせま知命ちめい菱形ひしがたちかくに鎮座ちんざ祭神さいじん職人しょくにん守護神しゅごじん
  • 水分すいぶん神社じんじゃ (みくまり-) - 祭神さいじんこう龗神天水てんすいぶんしんくに水分すいぶんしんてん汲匏しんくに汲匏しん境内けいだい菱形ひしがた小島こじま鎮座ちんざ
  • 天満てんま神社じんじゃ - 祭神さいじん菅原すがわら道真みちざね
  • まもる皇神すめがみしゃ - 祭神さいじん和気清麻呂わけのきよまろ大尾山おびざん中腹ちゅうふく鎮座ちんざ
  • 北辰ほくしん神社じんじゃ - 祭神さいじん本宮ほんぐう地主じぬししんつたえられる造化ぞうかさんかみ上宮かみみや楼門ろうもんない鎮座ちんざうり大神だいじんわき殿どのといわれる。社殿しゃでんけん指定してい文化財ぶんかざい

など、末社まっしゃほかにも多数たすう鎮座ちんざする。

祭事さいじ[編集へんしゅう]

式年しきねんさい[編集へんしゅう]

勅使ちょくしさい勅使ちょくし下向げこう
  • 臨時りんじ奉幣ほうへいさい勅使ちょくしさい
10ねんに1おこなわれる(前回ぜんかい平成へいせい27ねん10月6にち)。
奈良なら時代じだい天平てんぺい年間ねんかんから平安へいあん時代じだいまで、天皇てんのう代替だいがわりなど重要じゅうようには宇佐うさ使(うさづかい)という勅使ちょくし朝廷ちょうていから派遣はけんされていた。宇佐うさ八幡宮はちまんぐう神託しんたく事件じけんにちなみ、宇佐うさ使和気清麻呂わけのきよまろ子孫しそんである和気わけつとめるのが通例つうれいであった(ただし菅原すがわら道真みちざね左遷させんされたさいなどには藤原ふじわらから人選じんせんされている)。なお宇佐うさ使たてたけし復活ふっかつしたが、ふたた停止ていしされた。
のべとおる元年がんねん(1744ねん)に復活ふっかつし、大正たいしょう時代じだいから皇室こうしつから侍従じじゅうしょくあるいはてのひらてんしょくなどの勅使ちょくしが10ねんおきに派遣はけんされる勅使ちょくしさいとなって現在げんざいつづいている。

年間ねんかん祭事さいじ[編集へんしゅう]

文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

とうみや建築けんちく様式ようしき八幡やはたづくりばれ、本殿ほんでん国宝こくほう指定していされている。また、宝物ほうもつかんには国宝こくほう孔雀くじゃくぶんかおる(くじゃくもんけい)ほか多数たすう文化財ぶんかざいおさめている。

国宝こくほう[編集へんしゅう]

  • 本殿ほんでんだいいち殿どのからだいさん殿どのいたる3むね
  • 孔雀くじゃくぶんかおる (くじゃくもん けい) - 個人こじん所有しょゆう宇佐うさ神宮じんぐう文化財ぶんかざい保護ほごほうもとづく管理かんり団体だんたい指定していされている[ちゅう 4])。鎌倉かまくら時代じだいうけたまわもと3ねん(1209ねんめい宇佐うさ神宮じんぐう神宮寺じんぐうじ弥勒寺みろくじ伝来でんらいしたもの。

重要じゅうよう文化財ぶんかざいくに指定してい[編集へんしゅう]

  • 木造もくぞう神像しんぞう5若宮わかみや神体しんたい
    • だい鷦鷯みそさざいいのち(おおさざきのみこと)坐像ざぞう
    • 大葉おおばえだ皇子おうじ(おおばえのみこ)坐像ざぞう
    • しょうえだ皇子おうじ(こばえのみこ)坐像ざぞう
    • 雌鳥めんどり皇女おうじょ(めどりのみこ)坐像ざぞう
    • はやぶさ総別そうべつ皇子おうじ(はやぶさわけのみこ)坐像ざぞう若宮わかみや鎮座ちんざ
  • どうがね朝鮮ちょうせんがね) - てんふくよんねん904ねん云々うんぬん左文さぶんめいあり。日本にっぽんにある朝鮮ちょうせんがねなかでは2番目ばんめふる
  • 白鞘しらさやにゅうけん(しらさやいり けん) - ながさ93.5cm、りょうづくり。正平しょうへい13ねん1358ねんなつけ親王しんのうせい西にし大将軍だいしょうぐんとして活躍かつやくしているさいに、武運ぶうん長久ちょうきゅう祈願きがんして奉納ほうのうしたけん
  • 豊前ぶぜんこく宇佐うさみや絵図えず[ちゅう 5]
  • 宇佐うさ神宮じんぐう造営ぞうえい 3ぶく
  • 宇佐うさみや神領しんりょうだいきょう - 個人こじん所有しょゆう宇佐うさ神宮じんぐう文化財ぶんかざい保護ほごほうもとづく管理かんり団体だんたい指定していされている[ちゅう 6]

出典しゅってん:2000ねんまでの指定してい物件ぶっけんについては、『国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい大全たいぜん 別巻べっかん』(所有しょゆうしゃべつ総合そうごう目録もくろく名称めいしょうそう索引さくいん統計とうけい資料しりょう)(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、2000)による。

史跡しせきくに指定してい[編集へんしゅう]

  • 宇佐うさ神宮じんぐう境内けいだい

天然記念物てんねんきねんぶつくに指定してい[編集へんしゅう]

  • 宇佐うさ神宮じんぐうしゃくさむら

大分おおいたけん指定してい文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

現地げんち情報じょうほう[編集へんしゅう]

どう神宮じんぐう上宮かみみや参拝さんぱいようスロープカー。乗車じょうしゃには寸志すんし必要ひつよう
所在地しょざいち
上宮かみみや参拝さんぱい時間じかん
  • 4がつから9がつ:530ふんから21
  • 10月から3がつ:6から21
  • 祈祷きとう受付うけつけは9から16
交通こうつうアクセス
保存ほぞんされている蒸気じょうき機関きかんしゃ

バス

くるま

補足ほそく事項じこう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく
  1. ^ スサノオの五十猛いそたけいのち始祖しそとされる氏族しぞくで、当初とうしょ香春かわらたけし山麓さんろくみ、その現在げんざい中津なかつ大貞おおさだこも神社じんじゃ神官しんかんもしくは巫女ふじょつとめていたとされている。
  2. ^ たとえば豊臣とよとみ政権せいけん黒田くろだ中津なかつ赴任ふにんしてきたさいだい宮司ぐうじのひとつみやしげるぼうかん時枝ときえだ黒田くろだ配下はいかはいったことがられている。
  3. ^ ちなみに神社じんじゃとしての石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうはもともと宇佐うさ神宮じんぐうから八幡やはたしん分霊ぶんれいしたものであり、宇佐うさ神宮じんぐうのほうが本社ほんしゃである。しかし寺院じいんとしては宇佐うさ八幡宮はちまんぐう弥勒寺みろくじ石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう護国寺ごこくじ末寺まつじという関係かんけいにあり(いずれも天台宗てんだいしゅう)、石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうのほうがきょうちか朝廷ちょうていから直接ちょくせつ崇敬すうけいされたこともあり、そのも「どちらがかくじょうか」については宇佐うさ神宮じんぐう石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうあいだ意見いけん相違そういがあった。
  4. ^ 管理かんり団体だんたい指定してい告示こくじ昭和しょうわ58ねん6がつ17にち文化庁ぶんかちょう告示こくじだい12ごう
  5. ^ 平成へいせい25ねん6がつ19にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい113ごう
  6. ^ 管理かんり団体だんたい指定してい告示こくじ昭和しょうわ58ねん6がつ17にち文化庁ぶんかちょう告示こくじだい12ごう
出典しゅってん
  1. ^ 宇佐うさについて”. 宇佐うさ観光かんこう協会きょうかい. 2012ねん1がつ1にち閲覧えつらん。 “古代こだいよりさかえ-、神仏しんぶつ習合しゅうごう八幡やはたしん誕生たんじょうし-、うちなる伊勢いせそとなる八幡やはたしょ宗廟そうびょうとして発展はってん-”
  2. ^ 扶桑ふそう略記りゃっき』(『東大寺とうだいじ要録ようろく』、『宮寺みやでらろくごとしょう』)。
  3. ^ 稲積いなづみろく神社じんじゃ稲積いなづみ神社じんじゃ)は、宇佐うさ宇中561。おつ咩神しゃどう下乙女しもおとめ宮本みやもと1343。酒井さかいいずみ神社じんじゃは、どう辛島からしまいずみ1。ぐん神社じんじゃは、どう樋田ひだしゃ187-1。鷹居たかいしゃは、どう上田うえだ1435。
  4. ^ 松崎まつざき八幡宮はちまんぐう」(山口やまぐちけんはぎ須佐すさ)。須佐すさ神社じんじゃ島根しまねけん出雲いずも佐田さたまち須佐すさ)は『出雲いずもこく風土記ふどき』に須佐すさしゃとして掲載けいさい
  5. ^ a b ““かみよし”なきたたかい!? 世襲せしゅうvs神社じんじゃ本庁ほんちょうふか対立たいりつ. ZAKZAK (夕刊ゆうかんフジ). (2009ねん3がつ16にち). オリジナルの2016ねん9がつ20日はつか時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160920025652/http://www.zakzak.co.jp/top/200903/t2009031636_all.html 2024ねん1がつ17にち閲覧えつらん 
  6. ^ 宇佐うさ神宮じんぐう:80だい宮司ぐうじ穴井あないさん[リンク]毎日新聞まいにちしんぶん、2009ねん3がつ4にち
  7. ^ a b 宇佐うさ神宮じんぐう宮司ぐうじしょく 法廷ほうてい闘争とうそうへ【大分おおいたのニュース】 大分おおいた合同ごうどう新聞しんぶん[リンク]
  8. ^ 宇佐うさ神宮じんぐう宮司ぐうじ2人ふたり 神社じんじゃ本庁ほんちょうVS氏子うじこ総代そうだいかい 法廷ほうてい闘争とうそう[リンク]毎日新聞まいにちしんぶん、2009ねん3がつ9にち
  9. ^ 宇佐うさ神宮じんぐう後継こうけいあらそい、訴訟そしょう検討けんとう しん宮司ぐうじ選出せんしゅつ世襲せしゅうがわ反発はんぱつ[リンク]毎日新聞まいにちしんぶん、2009ねん3がつ8にち
  10. ^ 読売新聞よみうりしんぶん、2011ねん11月29にち
  11. ^ 大分おおいた宇佐うさ神宮じんぐう宮司ぐうじ訴訟そしょう:世襲せしゅうがわ敗訴はいそ確定かくてい毎日新聞まいにちしんぶん、2013ねん5がつ10日とおか
  12. ^ 宇佐うさ神宮じんぐうまた火種ひだね 市民しみんはや正常せいじょうを」大分合同新聞社おおいたごうどうしんぶんしゃ、2013ねん10がつ1にち
  13. ^ 宇佐うさ神宮じんぐう世襲せしゅうけん宮司ぐうじから免職めんしょく 神社じんじゃ本庁ほんちょう異例いれい措置そちに「やむをず」”. 産経さんけいニュース (産経新聞さんけいしんぶん). (2014ねん5がつ27にち). オリジナルの2014ねん5がつ27にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://archive.is/bz6cR 2016ねん5がつ3にち閲覧えつらん 
  14. ^ 宮司ぐうじ辞任じにん意向いこう 宇佐うさ神宮じんぐう. 大分おおいた合同ごうどう新聞しんぶん. (2016ねん2がつ11にち). https://www.oita-press.co.jp/1010000000/2016/02/11/002801536 2016ねん7がつ23にち閲覧えつらん 
  15. ^ 宇佐うさ神宮じんぐう穴井あない宮司ぐうじ退職たいしょくねがい 神社じんじゃ本庁ほんちょう後継こうけい要請ようせいけん支部しぶなど反対はんたい表明ひょうめい大分おおいた. 毎日新聞まいにちしんぶん. (2016ねん2がつ12にち). http://mainichi.jp/articles/20160212/ddl/k44/040/186000c 2016ねん7がつ23にち閲覧えつらん 
  16. ^ a b 宇佐うさ神宮じんぐう穴井あない宮司ぐうじ退職たいしょくねがい受理じゅり 後任こうにん小野おの. 毎日新聞まいにちしんぶん. (2016ねん2がつ19にち). https://mainichi.jp/articles/20160220/k00/00m/040/060000c 2016ねん7がつ23にち閲覧えつらん 
  17. ^ 神社じんじゃ本庁ほんちょう恐怖きょうふ政治せいじ」の実態じったい地方ちほうだい神社じんじゃ全面ぜんめん戦争せんそう ダイヤモンド・オンライン、2017ねん7がつ5にち
  18. ^ 絶縁ぜつえん状態じょうたい 宇佐うさ神宮じんぐうけん神社じんじゃちょう支部しぶ宮司ぐうじ就任しゅうにん支部しぶがわまつ協力きょうりょくしない」/神宮じんぐうがわあゆ気配けはいなし /大分おおいた 毎日新聞まいにちしんぶん、2016ねん6がつ7にち
  19. ^ 摂社せっしゃかんしては、公式こうしきサイトのほか、宇佐うさ八幡はちまん末社まっしゃ国東半島くにさきはんとうかぜ発信はっしん個人こじんサイト])、宇佐うさ神宮じんぐうげん松子まつこ個人こじんサイト])を参考さんこう記載きさい

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]