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飛騨川流域一貫開発計画 - Wikipedia コンテンツにスキップ

飛騨川ひだがわ流域りゅういき一貫いっかん開発かいはつ計画けいかく

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下呂げろながれる飛騨川ひだがわ

飛騨川ひだがわ流域りゅういき一貫いっかん開発かいはつ計画けいかく(ひだがわりゅういきいっかんかいはつけいかく)とは、岐阜ぎふけんながれる一級いっきゅう河川かせんである木曽川きそがわ支流しりゅう飛騨川ひだがわ中心ちゅうしんとしておこなわれただい規模きぼ水力すいりょく発電はつでん計画けいかくである。

1962ねん昭和しょうわ37ねん)より開始かいしされたこの計画けいかくは、ふるくは1911ねん明治めいじ44ねん)より日本にっぽん電力でんりょく[注釈ちゅうしゃく 1]東邦とうほう電力でんりょく[注釈ちゅうしゃく 2]日本にっぽんはつ送電そうでん中部電力ちゅうぶでんりょくによりすすめられ、飛騨川ひだがわ本流ほんりゅう支流しりゅう多数たすう水力すいりょく発電はつでんしょ建設けんせつ発生はっせいした電力でんりょくおも名古屋なごや中心ちゅうしんとした中京ちゅうきょうけん送電そうでんすることを目的もくてきとしており、23箇所かしょ水力すいりょく発電はつでんしょそう出力しゅつりょく114まん3530キロワット[1]電力でんりょくしている。

地理ちり[編集へんしゅう]

加茂かもぐん白川しらかわまち七宗ひちそうまち川辺かわべまちにまたがるすいかい険阻けんそ峡谷きょうこく飛騨ひだ木曽川きそがわ国定こくてい公園こうえん指定していされている。

飛騨川ひだがわ木曽川きそがわ水系すいけいにおける最大さいだいきゅう支流しりゅうである。乗鞍のりくらたけし御嶽山おんたけさん中間ちゅうかん小説しょうせつ映画えいがあゝ野麦峠のむぎとうげ』でられる岐阜ぎふ長野ながのけんさかい野麦峠のむぎとうげ標高ひょうこう1,672メートル)を水源すいげんとし、高山市たかやまし西にしのちみやとうげ付近ふきんよりみなみへとなが下呂げろ温泉おんせん名高なだか下呂げろ貫流かんりゅう流域りゅういき最大さいだい支流しりゅう馬瀬まぜ(まぜ)かわ下呂げろ金山かなやままち金山かなやまきょう付近ふきんわせたのちおおむ南西なんせいながれり、美濃加茂みのかもにおいて木曽川きそがわ合流ごうりゅう太平洋たいへいようそそぐ。りゅう延長えんちょうやく148.0キロメートル流域りゅういき面積めんせきやく2,177平方へいほうキロメートル河川かせんであり[2]規模きぼとしては木曽きそ三川さんせん包括ほうかつされる揖斐川いびがわながやく121.0キロメートル、流域りゅういき面積めんせきやく1,840平方へいほうキロメートル)[3]長良川ながらがわながやく165.7キロメートル、流域りゅういき面積めんせきやく1,985平方へいほうキロメートル)[4]匹敵ひってきし、とく流域りゅういき面積めんせきについては木曽川きそがわ水系すいけいでは最大さいだい面積めんせきゆうする。なお、かつては源流げんりゅう野麦峠のむぎとうげから馬瀬川まぜかわ合流ごうりゅうてんまでを「益田ますだ(ました)かわ」、馬瀬川まぜかわ合流ごうりゅうてんより木曽川きそがわ合流ごうりゅうてんまでを「飛騨川ひだがわ」と呼称こしょうしていたが、1964ねん昭和しょうわ39ねん)に河川かせんほう改訂かいていされ、水系すいけい一貫いっかん管理かんり観点かんてんから源流げんりゅうより木曽川きそがわ合流ごうりゅうてんまでの全域ぜんいき1965ねん昭和しょうわ40ねん)に「飛騨川ひだがわ」と改称かいしょうされた[5]

飛騨川ひだがわ流域りゅういきのほとんどを山地さんちめ、本流ほんりゅう飛騨ひだ木曽川きそがわ国定こくてい公園こうえん指定していされている中山七里なかやましちりすいかいといった険阻けんそ峡谷きょうこく形成けいせいしておりおおむ急流きゅうりゅうである。また飛騨山脈ひださんみゃくはじめとする豪雪ごうせつ地帯ちたい流域りゅういき大半たいはんめるため、年間ねんかんそう降水こうすいりょうやく2,500ミリと多雨たう地帯ちたいでもある。このため急流きゅうりゅうこう落差らくさ豊富ほうふ水量すいりょうという水力すいりょく発電はつでん開発かいはつ好条件こうじょうけんすべそなえる河川かせんであり、只見川ただみがわ黒部川くろべがわ庄川しょうがわ熊野川くまのがわなどとならんで明治めいじ時代じだいより水力すいりょく発電はつでんこう適地てきちとして注目ちゅうもくされていた。飛騨川ひだがわにおける河川かせん開発かいはつはそのほとんどが水力すいりょく発電はつでんもとづくものである。

歴史れきし[編集へんしゅう]

飛騨川ひだがわ水力すいりょく発電はつでん事業じぎょうは1911ねんにその第一歩だいいっぽしるされ、日本にっぽん電力でんりょく東邦とうほう電力でんりょく開発かいはつ競争きょうそう日本にっぽんはつ送電そうでんによる国家こっか管理かんり戦後せんご中部電力ちゅうぶでんりょく一貫いっかん開発かいはつ計画けいかくとしてだい規模きぼ推進すいしんしていった。ここでは飛騨川ひだがわ電力でんりょく開発かいはつとき系列けいれつ記述きじゅつする。

本文ほんぶん表記ひょうきされている水力すいりょく発電はつでんしょ出力しゅつりょくは、運転うんてん開始かいし当時とうじ出力しゅつりょくしるしている。このため現在げんざい出力しゅつりょくとはことなることがある。

開発かいはつ黎明れいめい[編集へんしゅう]

東海とうかい地方ちほうはつ長距離ちょうきょり送電そうでん成功せいこうした長良川ながらがわ発電はつでんしょ長良川ながらがわ)。1910ねん明治めいじ43ねん運転うんてん開始かいし

木曽川きそがわ水系すいけいにおける水力すいりょく発電はつでん事業じぎょうはつ1898ねん明治めいじ31ねん)に当時とうじ八幡やはた水力すいりょく電気でんき長良川ながらがわ支流しりゅうである吉田川よしだがわにごく小規模しょうきぼ発電はつでん設備せつびもうけて郡上こおりかみぐん八幡やはたまち川合かわいむら現在げんざい郡上こおりかみ)に電気でんき供給きょうきゅうしたのが最初さいしょとされている[6]。その名古屋なごや電灯でんとう1910ねん明治めいじ43ねん)に長良川ながらがわ発電はつでんしょ稼働かどうさせ、発電はつでんしょから名古屋なごやまで52キロメートルの長距離ちょうきょり送電そうでん開始かいしする。当時とうじにちしん戦争せんそうにち戦争せんそうともな重工業じゅうこうぎょう発達はったつ、それにともな電力でんりょく需要じゅよう急増きゅうぞうしていたためこれに対応たいおうするための電力でんりょく開発かいはつ日本にっぽん各地かくちさかんに実施じっしされていた。木曽川きそがわ水系すいけい水力すいりょく発電はつでんこう適地てきちとして俄然がぜん注目ちゅうもくされていたが、そのなかでも飛騨川ひだがわとく開発かいはつ地点ちてんとして魅力みりょくてき河川かせんであった。

飛騨川ひだがわでは1914ねん大正たいしょう3ねん)6がつ益田ますだぐん小坂こさかまち現在げんざい下呂げろ)にある製材せいざいしょ用水ようすい利用りようした川井かわい発電はつでんしょ出力しゅつりょく50キロワット)が小坂こさか電灯でんとうによって運転うんてん開始かいしし、付近ふきんの90電力でんりょく供給きょうきゅうしたのが最初さいしょ水力すいりょく発電はつでん事業じぎょうである[7][注釈ちゅうしゃく 3]。その飛騨川ひだがわ流域りゅういきにおいてかく集落しゅうらくごとに自家じか発電はつでんよう発電はつでんしょ建設けんせつされ、それと同時どうじ小坂こさか電灯でんとうはじめ 飛騨ひだ電灯でんとう下呂げろ共立きょうりつ電気でんき佐見川さみがわ水力すいりょく電気でんきなど小規模しょうきぼ電力でんりょく会社かいしゃ設立せつりつされ、飛騨川ひだがわ流域りゅういきにおける電化でんか徐々じょじょ進行しんこうした。こうしたなか長良川ながらがわ発電はつでんしょ建設けんせつたずさわった小林こばやし重正しげまさは、当時とうじ大阪おおさか電灯でんとうとのシェア競争きょうそうに鎬をけずっていた宇治川うじがわ電気でんき[注釈ちゅうしゃく 4]まねきをけ、1911ねん関西電力かんさいでんりょく[注釈ちゅうしゃく 5]設立せつりつさい発起人ほっきにん一人ひとりとして参画さんかくする。関西かんさい方面ほうめん電力でんりょく供給きょうきゅうするため飛騨川ひだがわ河水こうすい利用りようしようと企図きとしていた宇治川うじがわ電気でんきは、岐阜ぎふ名古屋なごやあいだ長距離ちょうきょり送電そうでん成功せいこうしていた小林こばやし技術ぎじゅつ利用りようして飛騨川ひだがわ京都きょうとあいだ送電そうでんもう確立かくりつさせ、大阪おおさか電灯でんとうとのシェア競争きょうそうつという思惑おもわくっていた。小林こばやし飛騨川ひだがわにおける本格ほんかくてき水力すいりょく発電はつでん開発かいはつ目指めざし、瀬戸せと発電はつでんしょ久々野くぐの発電はつでんしょなど4地点ちてん開発かいはつ申請しんせい同年どうねん河川かせん管理かんりしゃである岐阜ぎふ県庁けんちょう[注釈ちゅうしゃく 6]提出ていしゅつした。この小林こばやし計画けいかくあんは、たとえば瀬戸せと発電はつでんしょについては現在げんざい運用うんようされている瀬戸せとだいいち発電はつでんしょとほぼ同様どうよう計画けいかくであり、1910ねんから1913ねん大正たいしょう2ねん)まで当時とうじ逓信ていしんしょうによって実施じっしされていただいいち水力すいりょく発電はつでん調査ちょうさよりも正確せいかく計画けいかくであったとされている[8]

だいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつ以降いこう電力でんりょく需要じゅようはさらに増加ぞうか傾向けいこうせ、これに対処たいしょすべく宇治川うじがわ電気でんき中部ちゅうぶ山岳さんがくながれる河川かせん水力すいりょく発電はつでん開発かいはつ促進そくしんし、関西かんさい方面ほうめん電力でんりょく供給きょうきゅうするためのしん会社かいしゃ設立せつりつ1919ねん大正たいしょう8ねん)にった。これが日本にっぽん電力でんりょくであり発足ほっそくただちに小林こばやし計画けいかくした4発電はつでんしょ着手ちゃくしゅけてうごす。一方いっぽう名古屋なごや電灯でんとうなどを吸収きゅうしゅう合併がっぺいして東海とうかい地方ちほう基盤きばんきずいていた東邦とうほう電力でんりょく当時とうじ飛騨川ひだがわ発電はつでんよう水利すいりけん保有ほゆうしていた岐阜ぎふ興業こうぎょう役員やくいんおくんで、将来しょうらいてき合併がっぺいさせる方向ほうこう1922ねん大正たいしょう11ねん岐阜ぎふ電力でんりょく設立せつりつ飛騨川ひだがわ開発かいはつたらせた。こうして飛騨川ひだがわ水力すいりょく発電はつでん開発かいはつ日本にっぽん電力でんりょく東邦とうほう電力でんりょくによる開発かいはつ競争きょうそう時代じだい移行いこうする。

開発かいはつ競争きょうそう時代じだい[編集へんしゅう]

名倉なくら発電はつでんしょ取水しゅすいもとである名倉なくらダム(飛騨川ひだがわ)。1936ねん昭和しょうわ11ねん完成かんせい
瀬戸せとだい発電はつでんしょ取水しゅすいもとである西村にしむらダム(馬瀬川まぜかわ)。1938ねん昭和しょうわ13ねん完成かんせい
下原しもばる発電はつでんしょ取水しゅすいもとである下原しもばるダム飛騨川ひだがわ)。1938ねん完成かんせい
東邦とうほう電力でんりょく大同だいどう電力でんりょく共同きょうどう事業じぎょうとして建設けんせつされた今渡いまわたりダム木曽川きそがわ)。1939ねん昭和しょうわ14ねん完成かんせい[9]

日本にっぽん電力でんりょく東邦とうほう電力でんりょくによる飛騨川ひだがわ電力でんりょく開発かいはつ競争きょうそうは、まず日本にっぽん電力でんりょくいちさき開発かいはつ着手ちゃくしゅした。小林こばやし計画けいかくした瀬戸せとだいいち馬瀬川まぜかわ小坂こさか久々野くぐのの4発電はつでんしょ計画けいかくを1911ねん岐阜ぎふ県庁けんちょう申請しんせいし、1920ねん大正たいしょう9ねん)に申請しんせい許可きょかされただちに工事こうじ開始かいしされた。まず瀬戸せとだいいち発電はつでんしょ工事こうじよう動力どうりょくげんとなる竹原たけはらがわ発電はつでんしょ工事こうじ着手ちゃくしゅ益田ますだぐん竹原たけはらむら現在げんざい下呂げろ)をながれる飛騨川ひだがわ支流しりゅう竹原たけはらがわ取水しゅすいせきもうけて最大さいだい920キロワットの電力でんりょく発生はっせいさせ、瀬戸せとだいいち発電はつでんしょ工事こうじ現場げんば送電そうでんするという目的もくてきであった。竹原たけはらがわ発電はつでんしょは1921ねん10がつ工事こうじ許可きょかるとわずか1ねんの1922ねん11月に運転うんてん開始かいしした。竹原たけはらがわ発電はつでんしょ完成かんせい日本にっぽん電力でんりょく計画けいかく枢軸すうじくとなる瀬戸せとだいいち発電はつでんしょ建設けんせつ着手ちゃくしゅ益田ますだぐん川西かわにしむら飛騨川ひだがわ本流ほんりゅう取水しゅすいせきである瀬戸せとダム[注釈ちゅうしゃく 7]建設けんせつし、6,600あいだ導水どうすい発電はつでんしょ導水どうすいし2まん894キロワットを発電はつでんする計画けいかくであり、1924ねん大正たいしょう13ねん)3がつ完成かんせいした。つづいて小坂こさか発電はつでんしょ建設けんせつ着手ちゃくしゅ途中とちゅう送電そうでんせん用地ようち買収ばいしゅう軟弱なんじゃく地盤じばんによるなん工事こうじ工期こうき長期ちょうきし、1920ねん工事こうじ着手ちゃくしゅより6ねんついやし1926ねん大正たいしょう15ねん)11月、出力しゅつりょく1まん8000キロワットの発電はつでんしょとして運転うんてん開始かいし小坂こさか発電はつでんしょ完成かんせい今度こんど馬瀬川まぜかわ発電はつでんしょ工事こうじ着手ちゃくしゅ瀬戸せとだい発電はつでんしょ名称めいしょう変更へんこう馬瀬川まぜかわ上流じょうりゅう西村にしむらダム建設けんせつ、そこから全長ぜんちょう9キロメートルのトンネルで飛騨川ひだがわ導水どうすいして最大さいだい2まん1000キロワットを発電はつでんする計画けいかくとした[10]

一方いっぽう東邦とうほう電力でんりょく岐阜ぎふ電力でんりょく開発かいはつ委託いたくし、1919ねん6がつ日本にっぽん電力でんりょく瀬戸せとだいいち発電はつでんしょより下流かりゅう飛騨川ひだがわにおいて発電はつでん用水ようすい利権りけん獲得かくとくすべく岐阜ぎふ県庁けんちょう申請しんせいよく1920ねん飛騨川ひだがわだいいちだいだいさん発電はつでんしょ計画けいかく許可きょかされて工事こうじ着手ちゃくしゅした。この3発電はつでんしょはその金山かなやま飛騨川ひだがわだいいち飛騨川ひだがわだい発電はつでんしょ名称めいしょうがそれぞれ変更へんこうされ、さらに金山かなやま発電はつでんしょ計画けいかくより下原しもばる発電はつでんしょ計画けいかく分離ぶんり飛騨川ひだがわだいいち発電はつでんしょ七宗ひちそう(ひちそう)発電はつでんしょ名倉なくら発電はつでんしょ分割ぶんかつ飛騨川ひだがわだい発電はつでんしょ上麻生かみあさお発電はつでんしょ名称めいしょう変更へんこうされた。東邦とうほう電力でんりょく最初さいしょ着手ちゃくしゅしたのは飛騨川ひだがわだいいち計画けいかく分割ぶんかつしてできた七宗ひちそう発電はつでんしょで、佐見川さみがわ合流ごうりゅうてん直上ちょくじょうりゅう取水しゅすいせきである七宗ひちそうダム[注釈ちゅうしゃく 8]建設けんせつ、その下流かりゅう発電はつでんしょ建設けんせつ最大さいだい5,650キロワットを発電はつでんする計画けいかく1923ねん大正たいしょう12ねん)1がつ23にち運転うんてん開始かいしつづいて上麻生かみあさお発電はつでんしょ建設けんせつ着手ちゃくしゅする。白川しらかわ合流ごうりゅうてん下流かりゅう取水しゅすいせきである上麻生かみあさおダム[注釈ちゅうしゃく 9]建設けんせつ途中とちゅう支流しりゅう細尾ほそおたに建設けんせつされた細尾ほそおたに(ほそびだに)ダム加茂かもぐん七宗ひちそうまち上麻生かみあさおすいかい発電はつでんしょもうけ、最大さいだい2まん4300キロワットを発電はつでんする。当時とうじ飛騨川ひだがわ最大さいだい発電はつでんしょとなった上麻生かみあさお発電はつでんしょは1926ねん10月29にち運転うんてん開始かいしした。つづいて馬瀬川まぜかわ合流ごうりゅうてん直下ちょっかりゅう建設けんせつする大船渡おおふなとダム[注釈ちゅうしゃく 10]取水しゅすいもととする出力しゅつりょく6,425キロワットの金山かなやま発電はつでんしょ下原しもばるダム取水しゅすいもととする出力しゅつりょく1まん9451キロワットの下原しもばる発電はつでんしょが1926ねんより着手ちゃくしゅされた[11]が、ここで日本にっぽん電力でんりょく計画けいかく東邦とうほう電力でんりょく計画けいかく衝突しょうとつする。

日本にっぽん電力でんりょく先述せんじゅつとお馬瀬川まぜかわ西村にしむらダムを建設けんせつして飛騨川ひだがわ導水どうすいする瀬戸せとだい発電はつでんしょ建設けんせつすすめていたが、これは東邦とうほう電力でんりょく下原しもばる発電はつでんしょ水利すいりけん申請しんせいおこなった5ねん1930ねん昭和しょうわ5ねん)に計画けいかく変更へんこうしたものであり、下原しもばる発電はつでんしょ申請しんせいとはことなる計画けいかくであった。この計画けいかく変更へんこう沿って瀬戸せとだい発電はつでんしょ建設けんせつされると下原しもばる発電はつでんしょ工事こうじ大幅おおはば変更へんこうせまられるほか、こののち東邦とうほう電力でんりょく計画けいかくしていた東村あずまむら発電はつでんしょ計画けいかく費用ひようたい効果こうかめん計画けいかくりたなくなる。東邦とうほう電力でんりょく日本にっぽん電力でんりょくは4年間ねんかん協議きょうぎかさね、瀬戸せとだい発電はつでんしょほう発電はつでん効率こうりついことから東邦とうほう電力でんりょく東村あずまむら発電はつでんしょ計画けいかく中止ちゅうしし、下原しもばる発電はつでんしょについては馬瀬川まぜかわではなく飛騨川ひだがわ水量すいりょう増加ぞうかさせて発電はつでんするという日本にっぽん電力でんりょく有利ゆうり条件じょうけん妥結だけつした。ただし日本にっぽん電力でんりょくは1にちたりとも発電はつでんしょ工事こうじ遅延ちえんゆるされなくなり、おくれた場合ばあい相応そうおう賠償金ばいしょうきん東邦とうほう電力でんりょく支払しはらうというめも同時どうじわされている。日本にっぽん電力でんりょく期日きじつどおり瀬戸せとだい発電はつでんしょ1938ねん昭和しょうわ13ねん)10がつ完成かんせいさせ、東邦とうほう電力でんりょく下原しもばる発電はつでんしょ同年どうねん12がつ完成かんせいさせている。日本にっぽん電力でんりょく瀬戸せとだい発電はつでんしょ運転うんてん開始かいしにより、飛騨川ひだがわ流域りゅういきでの開発かいはつ一区切ひとくぎりをつける[12]

その東邦とうほう電力でんりょく岐阜ぎふ電力でんりょく合併がっぺいし、直接ちょくせつ飛騨川ひだがわ開発かいはつす。加茂かもぐん白川しらかわまち飛騨川ひだがわ建設けんせつした名倉なくらダム[注釈ちゅうしゃく 11]取水しゅすいもととする出力しゅつりょく1まん9678キロワットの名倉なくら発電はつでんしょ1936ねん昭和しょうわ11ねん)に完成かんせいさせ、開発かいはつ飛騨川ひだがわ最下さいかりゅうばす。まず加茂かもぐん川辺かわべまち飛騨川ひだがわ本流ほんりゅう川辺かわべダム建設けんせつし、出力しゅつりょく2まん6500キロワットの川辺かわべ発電はつでんしょ1937ねん昭和しょうわ12ねん3月26にち完成かんせいさせ、さらに発電はつでんによる放流ほうりゅう流量りゅうりょう均衡きんこうとなり、下流かりゅうへの利水りすい河川かせん環境かんきょうへの影響えいきょうふせぐためのぎゃく調整ちょうせい建設けんせつするため飛騨ひだがわ木曽川きそがわ合流ごうりゅうてんにダムを建設けんせつする計画けいかくてた。しかしここで今度こんど木曽川きそがわ本流ほんりゅう水力すいりょく発電はつでん事業じぎょうすすめていた大同だいどう電力でんりょく衝突しょうとつする。

大同だいどう電力でんりょくすで落合おちあいダム大井おおいダム笠置かさぎダムといった発電はつでんようダムを木曽川きそがわ本流ほんりゅう建設けんせつしており、大井おおいダム建設けんせつさいして宮田みやた用水ようすい取水しゅすいこう水没すいぼつすることから下流かりゅう宮田みやた用水ようすい木津用水こつようすいかいして灌漑かんがい恩恵おんけいける農家のうかとのあいだ宮田みやた用水ようすい事件じけんという水利すいりけん問題もんだいかかえていた。この水利すいりけん問題もんだい解決かいけつぎゃく調整ちょうせい目的もくてきを以って東邦とうほう電力でんりょくおな地点ちてんにダムを建設けんせつする構想こうそうてていた。このため事業じぎょう調整ちょうせい必要ひつようとなり両社りょうしゃ協議きょうぎかさねるが、濃尾平野のうびへいや重要じゅうよう水源すいげんである木曽川きそがわみず利用りようにおいて、計画けいかくちゅうのダムは重要じゅうよう役割やくわりたすためすみやかな施工しこう河川かせん管理かんりしゃである岐阜ぎふけん知事ちじよりもとめられた。両社りょうしゃ発電はつでん用水ようすい利権りけんをそれぞれ提供ていきょう共同きょうどう事業じぎょうとしてダムおよ発電はつでんしょ建設けんせつかり、1939ねん昭和しょうわ14ねん)に完成かんせいさせた。これが今渡いまわたりダム今渡いまわたり発電はつでんしょであり、現在げんざい関西電力かんさいでんりょく管理かんりしている[13]

こうして大正たいしょう昭和しょうわ初期しょきにおける飛騨川ひだがわ水力すいりょく発電はつでん開発かいはつ日本にっぽん電力でんりょく東邦とうほう電力でんりょく大同だいどう電力でんりょくという当時とうじ五大ごだい電力でんりょく会社かいしゃのうちのさんしゃ事業じぎょうから複雑ふくざつ様相ようそうとなっていた。しかしこのあいだ日本にっぽん満州まんしゅう事変じへん以降いこう急速きゅうそく戦時せんじ体制たいせいかっており、電力でんりょく事業じぎょう次第しだいにその影響えいきょうけるようになった。

日本にっぽんはつ送電そうでん登場とうじょう[編集へんしゅう]

日本にっぽんはつ送電そうでん計画けいかくした朝日あさひダム朝日あさひ発電はつでんしょ飛騨川ひだがわ)。1953ねん昭和しょうわ28ねん完成かんせい
朝日あさひダムとのあいだ貯水ちょすい融通ゆうずうして飛騨川ひだがわ下流かりゅう発電はつでんしょ出力しゅつりょく増強ぞうきょうさせるあきしんダム秋神川あきがみがわ)。1953ねん完成かんせい

国家こっかそう力戦りきせん至上しじょう命令めいれい政治せいじ主導しゅどうけん掌握しょうあくしていた東條とうじょう英機ひできなどの軍部ぐんぶ統制とうせい圧力あつりょくこうれなくなっただい1近衛このえないかくは、1938ねん1がつだい73かい帝国ていこく議会ぎかい電力でんりょく国家こっか統制とうせいのためのさん法案ほうあん上程じょうてい東邦とうほう電力でんりょく社長しゃちょうであった松永まつながやすしひだりもん電力でんりょく業界ぎょうかいもう反発はんぱつおさえて国家こっか総動員そうどういんほうなどととも電力でんりょく管理かんりほう日本にっぽんはつ送電そうでん株式会社かぶしきがいしゃほうほか1法案ほうあん成立せいりつさせ、これに沿って1939ねん日本にっぽんはつ送電そうでん発足ほっそくさせた。「半官半民はんかんはんみん」とうたってはいたが、経営けいえい人事じんじすべてを内閣ないかくにぎっており事実じじつじょう国家こっかによる電力でんりょく管理かんり開始かいしされた。日本にっぽんはつ送電そうでん出力しゅつりょく5,000キロワット以上いじょう水力すいりょく発電はつでんしょおよびダム、出力しゅつりょく1まんキロワット以上いじょう火力かりょく発電はつでんしょ重要じゅうよう送電そうでん変電へんでん設備せつび管理かんりし、発電はつでん送電そうでん一括いっかつして実施じっしするとどうほうさだめられ、これにともな日本にっぽん各地かくち発電はつでん送電そうでん変電へんでん施設しせつは「出資しゅっし」というかたち強制きょうせい接収せっしゅうされた。

飛騨川ひだがわ建設けんせつされた水力すいりょく発電はつでんしょについてもこのれいれず、接収せっしゅう対象たいしょうとなった。1941ねん昭和しょうわ16ねん配電はいでん統制とうせいれい発令はつれいともな日本にっぽん全国ぜんこく電力でんりょく会社かいしゃ解散かいさんさせられ9配電はいでん会社かいしゃ再編さいへんされたが、このとしの5がつ日本にっぽん電力でんりょく東邦とうほう電力でんりょく所有しょゆうしていたすべての水力すいりょく発電はつでんしょとダムが日本にっぽんはつ送電そうでん接収せっしゅうされ、すべて「くに直轄ちょっかつ管理かんり」となった。日本にっぽんはつ送電そうでん接収せっしゅう飛騨川ひだがわ水力すいりょく発電はつでん事業じぎょうについて、飛騨川ひだがわ上流じょうりゅう大野おおのぐん朝日あさひむら現在げんざい高山たかやま)にだい規模きぼダムしき発電はつでんしょ建設けんせつ計画けいかくする。これが朝日あさひダム朝日あさひ発電はつでんしょであるが太平洋戦争たいへいようせんそう激化げきかともな建設けんせつ物資ぶっし不足ふそく事業じぎょう中断ちゅうだんしたまま終戦しゅうせんむかえた。

戦後せんご1946ねん昭和しょうわ21ねん)6がつ日本にっぽんはつ送電そうでん朝日あさひむら現地げんち事務所じむしょ設置せっちするが、設置せっち当初とうしょ養蚕ようさん小屋こやりて業務ぎょうむおこなうという状況じょうきょうであった。そのなか基礎きそてき資料しりょう収集しゅうしゅうおこなうが1948ねん昭和しょうわ23ねん日本にっぽんはつ送電そうでん戦時せんじ体制たいせい協力きょうりょくした独占どくせん資本しほんであると連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい(GHQ)より過度かど経済けいざいりょく集中しゅうちゅう排除はいじょほう指定していを9配電はいでん会社かいしゃともけ、以後いご電力でんりょくさい編成へんせいについて政界せいかい財界ざいかいんだはげしい論争ろんそう渦中かちゅうたたまれた。最終さいしゅうてききゅう東邦とうほう電力でんりょく社長しゃちょうで、電気でんき事業じぎょうさい編成へんせい審議しんぎかい委員いいんちょうである松永まつなが提案ていあんした「9ブロック分割ぶんかつあん」がGHQにれられ、1951ねん昭和しょうわ26ねんポツダム政令せいれいとして電気でんき事業じぎょうさい編成へんせいれい発令はつれい日本にっぽんはつ送電そうでんと9配電はいでん会社かいしゃ発電はつでん送電そうでん配電はいでん一括いっかつおこなう9電力でんりょく会社かいしゃとして分割ぶんかつ民営みんえいされた。中部ちゅうぶ地方ちほうでは日本にっぽん発送はっそうでん東海とうかい支社ししゃ中部ちゅうぶ配電はいでん合併がっぺいするかたち中部電力ちゅうぶでんりょく誕生たんじょうする。しかし発電はつでん用水ようすい利権りけん帰属きぞくかんしてはきゅう日本にっぽん電力でんりょくきゅう大同だいどう電力でんりょくながれを関西電力かんさいでんりょくとのあいだ木曽川きそがわ水系すいけい水利すいりけん帰属きぞくについて紛糾ふんきゅうする。

豊富ほうふ水量すいりょう高落たかおちゆうし、開発かいはつ水力すいりょく資源しげんおお残存ざんそんする木曽川きそがわ水系すいけい水利すいりけん帰属きぞくは、北陸ほくりく地方ちほう河川かせん同様どうようおおいにめた。最終さいしゅうてき公益こうえき事業じぎょう委員いいんかい裁定さいていによって木曽川きそがわ本流ほんりゅうについては関西電力かんさいでんりょく長良川ながらがわ揖斐川いびがわそして飛騨川ひだがわについては中部電力ちゅうぶでんりょく水利すいりけん継承けいしょうすることで決定けっていし、以降いこう飛騨川ひだがわ水力すいりょく発電はつでんしょとダム、そして発電はつでん用水ようすい利権りけん一切いっさい中部電力ちゅうぶでんりょく所有しょゆうすることになり現在げんざいいた[14]

流域りゅういき一貫いっかん開発かいはつ[編集へんしゅう]

久々野くぐの発電はつでんしょ。1962ねん運転うんてん開始かいし
高根たかねだいいち発電はつでんしょ上部じょうぶ調整ちょうせい高根たかねだいいちダム飛騨川ひだがわ)。1969ねん昭和しょうわ44ねん完成かんせい

飛騨川ひだがわ流域りゅういき水力すいりょく発電はつでん事業じぎょう継承けいしょうした中部電力ちゅうぶでんりょくは、日本にっぽんはつ送電そうでん調査ちょうさしていた朝日あさひ発電はつでんしょとダム工事こうじ着手ちゃくしゅする。当時とうじ電力でんりょく施設しせつ空襲くうしゅうによる破壊はかい酷使こくしによる故障こしょう新規しんき開発かいはつ停滞ていたいにより十全じゅうぜん電力でんりょく供給きょうきゅうはかれなかった。反面はんめん電力でんりょく需要じゅよう民需みんじゅよう電力でんりょく使用しよう制限せいげん解除かいじょされたことで爆発ばくはつてき増加ぞうか結果けっか需給じゅきゅうバランスが崩壊ほうかいして頻繁ひんぱん停電ていでんともな深刻しんこく電力でんりょく不足ふそくおちいった。このためだい規模きぼ貯水池ちょすいちゆうする水力すいりょく発電はつでんしょ建設けんせつすることで年間ねんかんつう安定あんていした電力でんりょく供給きょうきゅうおこない、当時とうじ石炭せきたん不足ふそく稼働かどうりつひくかった火力かりょく発電はつでんしょわる主力しゅりょく設備せつびとしてだい規模きぼなダムをようする水力すいりょく発電はつでんしょ建設けんせつ日本にっぽん各地かくちさかんにおこなわれるようになった。さらに流域りゅういきあいだ効率こうりつてきみず利用りようおこなうことですで運転うんてんしている水力すいりょく発電はつでんしょ出力しゅつりょく年間ねんかん発生はっせい電力でんりょくりょう増加ぞうかさせることも電力でんりょく供給きょうきゅうじょう重要じゅうようとなった。このため飛騨川ひだがわ流域りゅういきでも戦前せんぜんとはことなり流域りゅういき全体ぜんたい水力すいりょく発電はつでん開発かいはつ計画けいかくすすめる必要ひつようしょうじ、朝日あさひ発電はつでんしょ建設けんせつなどをて1962ねん流域りゅういき全体ぜんたいだい規模きぼ水力すいりょく開発かいはつ計画けいかくてた。飛騨川ひだがわ流域りゅういき一貫いっかん開発かいはつ計画けいかく[15]である。

まず朝日あさひ発電はつでんしょについては飛騨川ひだがわ本流ほんりゅう朝日あさひダムを、支流しりゅう秋神川あきがみがわあきしんダム建設けんせつ両方りょうほう貯水池ちょすいちより導水どうすいしたみず発電はつでんしょおくり、2まん500キロワットの発電はつでんおこなう。朝日あさひ発電はつでんしょ1953ねん昭和しょうわ28ねん)にりょうダムととも完成かんせい運転うんてん開始かいしつづいて小坂こさか瀬戸せとだいいち発電はつでんしょあいだのこされた落差らくさ有効ゆうこう利用りようするための東上田ひがしうえだ発電はつでんしょ出力しゅつりょく3まん5000キロワット)の建設けんせつはじまり、飛騨川ひだがわ本流ほんりゅうきゅう小坂こさかまち東上田ひがしうえだ東上田ひがしうえだダム建設けんせつして発電はつでんする水路すいろしき発電はつでんしょとして1955ねん運転うんてん開始かいし。さらに小林こばやし重正しげまさ発案はつあんし1920ねん水利すいりけん使用しよう許可きょかていた久々野くぐの発電はつでんしょ出力しゅつりょく3まん8400キロワット)は1960ねん昭和しょうわ35ねん)より朝日あさひダムの直下ちょっかりゅう久々野くぐのダム建設けんせつ、トンネルによって大野おおのぐん久々野くぐのまち現在げんざい高山たかやま久々野くぐのまち)の発電はつでんしょ送水そうすいするという計画けいかくで、1962ねん運転うんてん開始かいしした。

朝日あさひ東上田ひがしうえだ久々野くぐのの3発電はつでんしょ河川かせん流量りゅうりょう減少げんしょうする冬季とうき渇水かっすいにも安定あんていして発電はつでんし、電力でんりょく需要じゅようのピークに対応たいおう可能かのうとするため建設けんせつされたが、1960年代ねんだいはいるとだい容量ようりょう火力かりょく発電はつでんしょ建設けんせつ活発かっぱつになり次第しだい電力でんりょく開発かいはつ主眼しゅがん水力すいりょくから火力かりょく移行いこうする「ぬしすいしたがえ時代じだいになりつつあった。また原子力げんしりょく発電はつでん実用じつようされはじめた。こうした火力かりょく発電はつでん原子力げんしりょく発電はつでんこう出力しゅつりょく運転うんてん継続けいぞくしなければならないため、緊急きんきゅう即座そくざ出力しゅつりょく増強ぞうきょうする運転うんてん困難こんなんであった。これをおぎな火力かりょく原子力げんしりょくとの連携れんけいはかじょう注目ちゅうもくされたのが揚水ようすい発電はつでんであり、1965ねん7がつには従来じゅうらい飛騨川ひだがわ流域りゅういき一貫いっかん開発かいはつ計画けいかく拡充かくじゅうした飛騨川ひだがわ150まんキロワット一貫いっかん開発かいはつ計画けいかく[16]立案りつあん。その根幹こんかん事業じぎょうとして計画けいかくされたのが高根たかねだいいちだい発電はつでんしょである。飛騨川ひだがわ本流ほんりゅうさい上流じょうりゅう大野おおのぐん高根たかねむら現在げんざい高山たかやま)に高根たかねだいいちダム高根たかねだいダムを、りょうダムのあいだ揚水ようすい発電はつでんおこな高根たかねだいいち発電はつでんしょ出力しゅつりょく34まんキロワット)と、高根たかねだいダムを取水しゅすいもととする高根たかねだい発電はつでんしょ出力しゅつりょく2まん5100キロワット)をそれぞれ建設けんせつして増加ぞうかする電力でんりょく需要じゅよう対応たいおうするというものである。りょう発電はつでんしょ1969ねん昭和しょうわ44ねん)に運転うんてん開始かいしし、飛騨川ひだがわ流域りゅういきにおける電力でんりょく発生はっせいりょう大幅おおはば増加ぞうかした。なお高根たかねだいいちダムは飛騨川ひだがわ流域りゅういきにおける唯一ゆいいつアーチしきコンクリートダムであり、たかさ133.0メートルは飛騨川ひだがわ流域りゅういき随一ずいいちほこだい規模きぼなダムである[注釈ちゅうしゃく 12]

河川かせん総合そうごう開発かいはつへの参加さんか[編集へんしゅう]

馬瀬川まぜかわだいいち発電はつでんしょ上部じょうぶ調整ちょうせい岩屋いわやダム馬瀬川まぜかわ)。東海とうかいさんけんみずがめでもある。1976ねん昭和しょうわ51ねん完成かんせい
馬瀬川まぜかわだいいち発電はつでんしょ下部かぶ調整ちょうせい馬瀬川まぜかわだいダム馬瀬川まぜかわ)。1976ねん完成かんせい
上麻生かみあさおダムみずうみにあるみず資源しげん機構きこう白川しらかわ取水しゅすいこう飛騨川ひだがわ)。ここから木曽川きそがわ用水ようすい取水しゅすいされる。

戦後せんご河川かせん開発かいはつにおいて重要じゅうようだったのは電力でんりょく開発かいはつだけではなく、カスリーン台風たいふう皮切かわきりに連年れんねん日本にっぽんおそった水害すいがい対応たいおうするための治水ちすいと、極端きょくたん食糧しょくりょう不足ふそく対処たいしょするための灌漑かんがい整備せいびがあった。経済けいざい安定あんてい本部ほんぶ木曽川きそがわのほか日本にっぽん主要しゅよう10水系すいけい[注釈ちゅうしゃく 13]対象たいしょう1949ねん昭和しょうわ24ねん多目的たもくてきダムじくとした治水ちすい対策たいさくである河川かせん改訂かいてい改修かいしゅう計画けいかくを、農林省のうりんしょう現在げんざい農林水産省のうりんすいさんしょう)は1948ねんより国営こくえい農業のうぎょう水利すいり事業じぎょう策定さくていし1河川かせん単独たんどくではなくテネシーがわ流域りゅういき開発かいはつ公社こうしゃ(TVA)を模範もはんとした水系すいけい全体ぜんたいでの河川かせん開発かいはつ志向しこうしていた。だい3吉田よしだ内閣ないかくはこうした河川かせん総合そうごう開発かいはつ事業じぎょうをより強力きょうりょく推進すいしんするため、1951ねん国土こくど総合そうごう開発かいはつほう制定せいてい日本にっぽん各地かくちで22地域ちいき選定せんていした特定とくてい地域ちいき総合そうごう開発かいはつ計画けいかく立案りつあんする。

飛騨川ひだがわふく木曽川きそがわ水系すいけいでは1951ねん木曽きそ特定とくてい地域ちいき総合そうごう開発かいはつ計画けいかく閣議かくぎ決定けっていされた。この計画けいかくにおいて飛騨川ひだがわ流域りゅういきおも水力すいりょく発電はつでん主眼しゅがんとした河川かせん開発かいはつ計画けいかくされ、そのなか朝日あさひあきしん久々野くぐの東上田ひがしうえだかくダム・発電はつでんしょ計画けいかく明記めいきされている[17]が、よく1952ねん昭和しょうわ27ねん)3がつには建設省けんせつしょう中部ちゅうぶ地方ちほう建設けんせつきょく現在げんざい国土こくど交通省こうつうしょう中部ちゅうぶ地方ちほう整備せいびきょく)により木曽川きそがわ水系すいけい流域りゅういき計画けいかく策定さくていされ、木曽川きそがわはじ揖斐川いびがわ長良川ながらがわ飛騨川ひだがわ洪水こうずい調節ちょうせつ目的もくてきとしたダムの建設けんせつ計画けいかくされた。これにより木曽川きそがわ水系すいけいには信濃川しなのがわ水系すいけいとの導水どうすいふくむ15箇所かしょ多目的たもくてきダム[注釈ちゅうしゃく 14]建設けんせつして治水ちすい灌漑かんがい、そして水力すいりょく発電はつでんおこな方針ほうしん変更へんこうされ[18]、その手始てはじめに関西電力かんさいでんりょく発電はつでん専用せんようとして建設けんせつしていた丸山まるやまダム木曽川きそがわ)が治水ちすい目的もくてき多目的たもくてきダムに変更へんこうされている。中部電力ちゅうぶでんりょく手掛てがけていた飛騨川ひだがわ流域りゅういきにおいても5箇所かしょ多目的たもくてきダム計画けいかくてられた。

飛騨川ひだがわ本流ほんりゅう久田見くたみダム、支流しりゅう小坂川おさかがわ落合おちあいダム、馬瀬川まぜかわ岩屋いわやダム和良わらがわ岩瀬いわせダムが新規しんき計画けいかくされ、中部電力ちゅうぶでんりょく施工しこうしていた朝日あさひダムについては規模きぼ拡大かくだいして治水ちすい灌漑かんがい目的もくてき追加ついかするというのが計画けいかく骨子こっしである。久田見くたみダム建設けんせつにより上麻生かみあさお発電はつでんしょ取水しゅすいこうである上麻生かみあさおダムが水没すいぼつするが、わりに久田見くたみダムがあらたな取水しゅすいもととなり、出力しゅつりょくも7まん2000キロワットに拡充かくじゅうされる。その反面はんめん朝日あさひダムについては治水ちすい容量ようりょう灌漑かんがい容量ようりょう増設ぞうせつされるため相対そうたいてき発電はつでん容量ようりょうらされ、出力しゅつりょくも1まん9000キロワットに減少げんしょうする[19]。しかしこれらのダム計画けいかくいずれもえとなり[注釈ちゅうしゃく 15]飛騨川ひだがわ開発かいはつ中部電力ちゅうぶでんりょくによる先述せんじゅつ計画けいかくすすめられた。

飛騨川ひだがわ流域りゅういきにおいて再度さいど総合そうごう開発かいはつ計画けいかく登場とうじょうしたのは高度こうど経済けいざい成長せいちょう本格ほんかくてきとなる1963ねん昭和しょうわ38ねん)のことである。まず高根たかねだいいちダムの多目的たもくてきダム検討けんとうされたが費用ひようたい効果こうかめん断念だんねんされ、つぎ馬瀬川まぜかわにおいて総合そうごう開発かいはつ計画けいかく検討けんとうされた。すで木曽きそ特定とくてい地域ちいき総合そうごう開発かいはつ計画けいかくにおいて馬瀬川まぜかわ本流ほんりゅう岩屋いわやダム計画けいかく検討けんとうされたが、中部電力ちゅうぶでんりょく高根たかねだいいちだい発電はつでんしょ揚水ようすい発電はつでん開発かいはつ地点ちてんとしてこの岩屋いわや地点ちてん注目ちゅうもくしていた。そこへ木曽川きそがわ中流ちゅうりゅうへの灌漑かんがい目的もくてきとした木曽川きそがわ総合そうごう用水ようすい事業じぎょう農林省のうりんしょう計画けいかく岩屋いわや地点ちてん灌漑かんがいようダムの建設けんせつかんがえたことから1968ねん通商産業省つうしょうさんぎょうしょう灌漑かんがい水力すいりょく発電はつでん目的もくてきとした総合そうごう開発かいはつ計画けいかくとして岩屋いわや地点ちてん正式せいしき採択さいたく岩屋いわやダム計画けいかく復活ふっかつする。ところが今度こんど中京ちゅうきょうけんみず需要じゅよう増加ぞうか対処たいしょするため木曽川きそがわ水系すいけい1965ねん昭和しょうわ40ねん)にみず資源しげん開発かいはつ促進そくしんほうによる開発かいはつ水系すいけい指定していされたことで、水資源開発公団みずしげんかいはつこうだん現在げんざいみず資源しげん機構きこう)が岩屋いわや地点ちてん開発かいはつ対象たいしょうえらび、さらに伊勢湾いせわん台風たいふう以後いご木曽川きそがわ水系すいけい治水ちすい対策たいさくとして建設省けんせつしょう1966ねん昭和しょうわ41ねん)に特定とくてい多目的たもくてきダムほうもとづく岩屋いわやダム計画けいかく発表はっぴょうしたことから事態じたい複雑ふくざつになり、関係かんけいかく省庁しょうちょうとの折衝せっしょう長期ちょうきした[20]

一時いちじ電源でんげん開発かいはつ促進そくしんほうもとづき電源でんげん開発かいはつ事業じぎょう担当たんとうするというあんされたが[21]建設省けんせつしょう農林省のうりんしょう通商産業省つうしょうさんぎょうしょう経済企画庁けいざいきかくちょう中部電力ちゅうぶでんりょくあいだ調整ちょうせいはかられた結果けっか水資源開発公団みずしげんかいはつこうだん事業じぎょう主体しゅたい中部電力ちゅうぶでんりょく電気でんき事業じぎょうしゃとして馬瀬川まぜかわ総合そうごう開発かいはつ事業じぎょうである岩屋いわやダム計画けいかく参加さんかすることが1968ねん昭和しょうわ43ねん)10がつ総理府そうりふ告示こくじだい35ごう公示こうじされた。岩屋いわやダムは飛騨川ひだがわ流域りゅういき最大さいだいそう貯水ちょすい容量ようりょうゆうする多目的たもくてきダムとして建設けんせつされ、岐阜ぎふけん愛知あいちけん三重みえけん北部ほくぶみずがめとして1976ねん昭和しょうわ51ねん完成かんせいする。ダムの施工しこう中部電力ちゅうぶでんりょく担当たんとうし、揚水ようすい発電はつでんである馬瀬川まぜかわだいいち発電はつでんしょ出力しゅつりょく28まん8000キロワット)と、ぎゃく調整ちょうせいけん揚水ようすい発電はつでん下部かぶ調整ちょうせいとして馬瀬川まぜかわだいダム直下ちょっかりゅう建設けんせつ馬瀬川まぜかわだい発電はつでんしょ出力しゅつりょく6まん6400キロワット)を同時どうじ建設けんせつして夏季かき電力でんりょく需要じゅようピーク対応たいおうする態勢たいせいととのえた。なお岩屋いわやダムを水源すいげんとする木曽川きそがわ用水ようすい上麻生かみあさおダム貯水池ちょすいちにおいて取水しゅすいされ、濃尾平野のうびへいや農地のうち灌漑かんがい用水ようすい供給きょうきゅうする[22][23][注釈ちゅうしゃく 16]

なお、河川かせんほう改訂かいていにより発電はつでんようダムなどの利水りすいのみを目的もくてきとするダムにおいても治水ちすいたいする責務せきむ明確めいかくされたことで、1965ねん河川かせんほう施行しこうれいや1966ねん建設省けんせつしょう河川かせん局長きょくちょう通達つうたつたてかわはつだいいちななはちごう施行しこうされ具体ぐたいてき治水ちすい対策たいさく明文化めいぶんかされた。中部電力ちゅうぶでんりょく管理かんりのダムでは大井川おおいがわ本流ほんりゅうはたけなぎだいいちダムはたけなぎだいダム井川いかわダム通達つうたつだい一類いちるいダムに、天竜川てんりゅうがわ本流ほんりゅう泰阜やすおかダム平岡ひらおかダム通達つうたつだいるいダムに、大井川おおいがわ本流ほんりゅう奥泉おくいずみダム通達つうたつだいさんるいダムに指定していされた。木曽川きそがわ水系すいけいでもみず資源しげん機構きこう牧尾まきおダム王滝川おうたきがわ)がだい一類いちるい木曽川きそがわ本流ほんりゅう関西電力かんさいでんりょく落合おちあい大井おおい笠置かさぎダムがだいるい指定していされたが[24]飛騨川ひだがわ流域りゅういきについては最初さいしょから目的もくてき洪水こうずい調節ちょうせつがある岩屋いわやダムとだいほらダム(だい洞川どろがわ[注釈ちゅうしゃく 17]のぞき、中部電力ちゅうぶでんりょく管理かんり発電はつでんようダムについては通達つうたつでどの分類ぶんるい指定していされているかはつまびらかではない。

計画けいかく完了かんりょう[編集へんしゅう]

1987ねん昭和しょうわ62ねん)に完成かんせいしたしん上麻生かみあさお発電はつでんしょひだり)。右側みぎがわ上麻生かみあさお発電はつでんしょ

馬瀬川まぜかわだいいちだい発電はつでんしょ完成かんせいによって、だい規模きぼなダムによる水力すいりょく発電はつでん開発かいはつとうげえる。1977ねん昭和しょうわ52ねん)より水路すいろしき発電はつでんしょである中呂ちゅうろ発電はつでんしょ出力しゅつりょく1まん3300キロワット)の建設けんせつ開始かいしされたが、この発電はつでんしょ瀬戸せとだいいち発電はつでんしょ馬瀬川まぜかわだいいちだい発電はつでんしょ放流ほうりゅうすい有効ゆうこう活用かつようして発電はつでん利用りようするため建設けんせつされたものである。馬瀬ませがわ飛騨川ひだがわむすながさ6.6キロメートルのトンネル工事こうじ阿寺あてら断層だんそうはばまれ難航なんこうしたが、よく1978ねん昭和しょうわ53ねん)に運転うんてん開始かいしした。1983ねん昭和しょうわ58ねん)には支流しりゅう小坂川おさかがわ小坂川おさかがわ発電はつでんしょ出力しゅつりょく2まん1300キロワット)が完成かんせいするが、この小坂川おさかがわ発電はつでんしょ完成かんせいを以って、新規しんき水力すいりょく発電はつでんしょ建設けんせつ終了しゅうりょうし、以後いごすで建設けんせつされた水力すいりょく発電はつでんしょさい開発かいはつへとじくあしうつす。

大正たいしょう時代じだい建設けんせつされた瀬戸せとだいいち発電はつでんしょなどの水力すいりょく発電はつでん施設しせつ長年ながねんにわたる使用しようによって老朽ろうきゅうすすんでおり、またそれ以降いこう完成かんせいした水力すいりょく発電はつでんしょとの連携れんけいはかじょうでは施設しせつ改築かいちくすることでより効率こうりつてき発電はつでんおこなうことが可能かのうとなる。1982ねん昭和しょうわ57ねん)にななむね発電はつでんしょ近傍きんぼうしんななむね発電はつでんしょ出力しゅつりょく2まんキロワット)が、1987ねん昭和しょうわ62ねん)には上麻生かみあさお発電はつでんしょとなりしん上麻生かみあさお発電はつでんしょ出力しゅつりょく6まん1400キロワット)が完成かんせいし、つづける電力でんりょく需要じゅよう対応たいおうしている。また2003ねん平成へいせい15ねん)には瀬戸せとだいいちだい下原しもばる大船渡おおふなと金山かなやま発電はつでんしょ改称かいしょう)、七宗ひちそう佐見川さみがわかく発電はつでんしょ設備せつび改修かいしゅうされている。

現在げんざい飛騨川ひだがわ流域りゅういき存在そんざいする水力すいりょく発電はつでんしょ23箇所かしょのぼり、そのそう出力しゅつりょく114まん3530キロワットたっだい規模きぼ新鋭しんえい火力かりょく発電はつでんしょ1匹敵ひってきする。飛騨川ひだがわ流域りゅういき包蔵ほうぞう水力すいりょく1956ねん昭和しょうわ31ねん)に通商産業省つうしょうさんぎょうしょう実施じっししただいよん水力すいりょく開発かいはつ調査ちょうさによれば116まん7560キロワットあり[25]しん上麻生かみあさお発電はつでんしょ完成かんせいとその発電はつでんしょ改修かいしゅうにより調査ちょうさしめされた包蔵ほうぞう水力すいりょくの97.9パーセントが開発かいはつされ、ほぼ水力すいりょく資源しげん開発かいはつされくしている。したがって現時点げんじてん新規しんき開発かいはつ予定よていされている水力すいりょく発電はつでんしょ計画けいかく存在そんざいしない。また支流しりゅう佐見川さみがわたかさ117.0メートルの佐見川さみがわダムを建設けんせつ出力しゅつりょく1まん5700キロワットを発電はつでんするしん佐見川さみがわ発電はつでんしょ計画けいかく[26]はじめ、新朝日しんあさひ新東しんとう上田うえだにごかわ小原おはらしん名倉なくら中麻生なかあそうなどの水力すいりょく発電はつでんしょ計画けいかくがあったが、費用ひようたい効果こうか地元じもと了承りょうしょうられないなどの理由りゆう構想こうそうのみ、あるいは計画けいかく中止ちゅうししている[27]飛騨川ひだがわ流域りゅういき一貫いっかん開発かいはつ計画けいかく所定しょてい目的もくてきがほぼ達成たっせいされ、しん上麻生かみあさお発電はつでんしょ運転うんてん開始かいしを以って、事実じじつじょう完了かんりょうした。

また、険阻けんそ飛騨川ひだがわ地形ちけいきびしい気候きこう環境かんきょうなか実施じっしされただい規模きぼ開発かいはつ計画けいかくであり、この計画けいかく遂行すいこうにより合計ごうけい138めい労務者ろうむしゃ労働ろうどう災害さいがい殉職じゅんしょくしている[28]名古屋なごやなど東海とうかい地方ちほう発展はってん寄与きよした計画けいかくかげで、飛騨川ひだがわいのちらした人々ひとびとがいたことは、記憶きおくめておく事実じじつである。

発電はつでん送電そうでん施設しせつ[編集へんしゅう]

発電はつでんしょ一覧いちらん[編集へんしゅう]

下表かひょう現在げんざい飛騨川ひだがわ流域りゅういき運転うんてんおこなっている水力すいりょく発電はつでんしょ取水しゅすいもとのダム・せきについて一覧いちらんにしたものである。なお発電はつでんしょせきデータは『飛騨川ひだがわ 流域りゅういき文化ぶんか電力でんりょく』p.878および社団しゃだん法人ほうじん電力でんりょく土木どぼく技術ぎじゅつ協会きょうかい水力すいりょく発電はつでんしょデータベース』、ダムデータは財団ざいだん法人ほうじん日本にっぽんダム協会きょうかい『ダム便覧びんらん岐阜ぎふけんのダムより引用いんようする。また単位たんいについては常時じょうじ認可にんか出力しゅつりょくはキロワット、ダムのたかさはメートル、そう貯水ちょすい容量ようりょうは1,000立方りっぽうメートルである。

河川かせん
発電はつでんしょ
常時じょうじ出力しゅつりょく
最大さいだい出力しゅつりょく
発電はつでん形式けいしき
ダム
型式けいしき
たか
そう貯水ちょすい容量ようりょう
運転うんてん開始かいしねん
所在地しょざいち
備考びこう
飛騨川ひだがわ 高根たかねだいいち 0 340,000 揚水ようすい 高根たかねだいいちダム アーチ 133.0 43,600 1969 高山市たかやまし
飛騨川ひだがわ 高根たかねだい 590 25,100 ダム水路すいろしき 高根たかねだいダム 中空なかぞら重力じゅうりょく 69.0 11,927 1969 高山市たかやまし
飛騨川ひだがわ
秋神川あきがみがわ
朝日あさひ 6,700 20,500 ダムしき 朝日あさひダム
あきしんダム
重力じゅうりょく
重力じゅうりょく
87.0
74.0
25,513
17,584
1953 高山市たかやまし
飛騨川ひだがわ 久々野くぐの 12,200 38,400 水路すいろしき 久々野くぐのダム 重力じゅうりょく 26.7 1,247 1962 高山市たかやまし
飛騨川ひだがわ 小坂こさか 17,400 49,400 水路すいろしき 小坂こさかダム せき 10.9 - 1930 下呂げろ 1966ねん増設ぞうせつ
飛騨川ひだがわ 東上田ひがしうえだ 16,400 35,000 水路すいろしき 東上田ひがしうえだダム 重力じゅうりょく 18.0 1,065 1954 下呂げろ
飛騨川ひだがわ 瀬戸せとだいいち 7,740 28,200 水路すいろしき 瀬戸せとダム せき 5.4 - 1924 下呂げろ
飛騨川ひだがわ 中呂ちゅうろ 0 13,300 水路すいろしき - - - - 1978 下呂げろ
飛騨川ひだがわ 下原しもばる 3,800 22,200 ダム水路すいろしき 下原しもばるダム 重力じゅうりょく 23.9 2,936 1938 下呂げろ
飛騨川ひだがわ 大船おおふなわたる 2,800 6,400 水路すいろしき 大船渡おおふなとダム せき 13.0 1,660 1929 下呂げろ
飛騨川ひだがわ しんななむね 0 20,000 水路すいろしき 大船渡おおふなとダム せき 13.0 1,660 1982 下呂げろ
飛騨川ひだがわ 七宗ひちそう 3,900 6,200 ダム水路すいろしき 七宗ひちそうダム せき 10.6 783 1925 加茂かもぐん白川しらかわまち
飛騨川ひだがわ 名倉なくら 9,200 22,200 ダム水路すいろしき 名倉なくらダム せき 13.5 1,151 1936 加茂かもぐん白川しらかわまち
飛騨川ひだがわ
細尾ほそおたに
上麻生かみあさお 16,300 27,000 ダム水路すいろしき 上麻生かみあさおダム
細尾ほそおたにダム
せき
重力じゅうりょく
13.2
22.4
706
71
1926 加茂かもぐん七宗ひちそうまち
飛騨川ひだがわ しん上麻生かみあさお 0 61,400 ダム水路すいろしき 名倉なくらダム せき 13.5 1,151 1987 加茂かもぐん七宗ひちそうまち
飛騨川ひだがわ 川辺かわべ 7,200 30,000 水路すいろしき 川辺かわべダム 重力じゅうりょく 27.0 12,815 1937 加茂かもぐん川辺かわべまち
小坂川おさかがわ 小坂川おさかがわ 4,300 21,300 水路すいろしき 兵衛谷ひょうえたにダム せき 14.6 - 1983 下呂げろ
竹原たけはらがわ 竹原たけはらがわ 300 1,200 水路すいろしき 竹原たけはらがわダム せき 3.6 - 1922 下呂げろ
馬瀬川まぜかわ 瀬戸せとだい 4,400 21,000 水路すいろしき 西村にしむらダム
弓掛ゆがけダム
重力じゅうりょく
せき
17.5
4.7
276
-
1938 下呂げろ
馬瀬川まぜかわ 馬瀬川まぜかわだいいち 0 288,000 揚水ようすい 岩屋いわやダム ロックフィル 127.5 173,500 1976 下呂げろ 多目的たもくてき
馬瀬川まぜかわ 馬瀬川まぜかわだい 0 66,400 ダムしき 馬瀬川まぜかわだいダム 重力じゅうりょく 44.5 9,736 1976 下呂げろ
佐見川さみがわ 佐見川さみがわ 83 330 水路すいろしき 佐見川さみがわダム せき 10.0 - 1928 加茂かもぐん白川しらかわまち

送電そうでん[編集へんしゅう]

飛騨川ひだがわ流域りゅういき一貫いっかん開発かいはつ計画けいかく建設けんせつされた水力すいりょく発電はつでんしょされた電力でんりょくは、いくつかのこうあつ送電そうでんせん経由けいゆして名古屋なごや長野ながのけん方面ほうめん北陸ほくりく地方ちほう送電そうでんされている。

1954ねん昭和しょうわ29ねん)5がつ最初さいしょ完成かんせいした幹線かんせん朝日あさひ発電はつでんしょから飛騨川ひだがわ本流ほんりゅうかく発電はつでんしょ経由けいゆして川辺かわべ発電はつでんしょいた全長ぜんちょう86キロメートル、15まんボルト回線かいせん鉄塔てっとう159送電そうでんせんもうである。かく発電はつでんしょ発電はつでんされた電力でんりょく川辺かわべ発電はつでんしょから愛知あいちけん岩倉いわくらにある岩倉いわくら変電へんでんしょて、三重みえけん四日市よっかいちにある三重みえ変電へんでんしょまでおくられる。幹線かんせん完成かんせい直後ちょくごには北陸ほくりく方面ほうめん電力でんりょく融通ゆうずうするために北陸ほくりく連絡れんらくせん完成かんせいする。これは朝日あさひ久々野くぐの発電はつでんしょなかあいだてん付近ふきんより分岐ぶんきして北上ほくじょうし、富山とやまけんへといた全長ぜんちょう25キロメートルの幹線かんせんである。建設けんせつについては北陸電力ほくりくでんりょく工事こうじ折半せっぱんして施工しこうされた。これにより飛騨川ひだがわ電力でんりょく北陸ほくりく方面ほうめんにも融通ゆうずうされるようになった。

1969ねんには高根たかねだいいち発電はつでんしょ建設けんせつともない、ちょう高圧こうあつ送電そうでんせんとして高根たかね幹線かんせん建設けんせつされる。この幹線かんせん全長ぜんちょう91キロメートル、27まんボルト回線かいせん鉄塔てっとう222送電そうでんせんもうであり、高根たかねだいいち発電はつでんしょから馬瀬川まぜかわだいいち発電はつでんしょ岐阜ぎふけんせきせき開閉かいへいしょへといたる。さらに1970ねん昭和しょうわ45ねん)10がつには高根たかねだいいち発電はつでんしょ起点きてんとする高根たかねちゅうしんじいち号線ごうせん完成かんせいする。これは高根たかねだいいち発電はつでんしょから野麦峠のむぎとうげえて長野ながのけん塩尻しおじりにあるなかしんじ変電へんでんしょ電力でんりょく送電そうでんする全長ぜんちょう48キロメートルの送電そうでんせんもうであり、完成かんせいによって今度こんど長野ながのけんへも飛騨川ひだがわ電力でんりょく送電そうでんされることになった。1973ねん昭和しょうわ48ねん)には号線ごうせん増設ぞうせつされている。これにより高根たかね幹線かんせん長野ながのけん塩尻しおじりから飛騨川ひだがわ流域りゅういき最大さいだいきゅう水力すいりょく発電はつでんしょである高根たかねだいいち馬瀬川まぜかわだいいち発電はつでんしょ経由けいゆして岐阜ぎふけんせきいた長大ちょうだい送電そうでんせんもうになった[29]

バス事故じことダム操作そうさ[編集へんしゅう]

1926ねん大正たいしょう15ねん)に完成かんせいした上麻生かみあさおダム飛騨川ひだがわ)。飛騨川ひだがわバス転落てんらく事故じこ救助きゅうじょ活動かつどうおおきな役割やくわりになった。
事故じこ現場げんばはた建立こんりゅうされた慰霊いれい天心てんしん白菊しらぎくとう

1968ねん8がつ18にちおりからの集中しゅうちゅう豪雨ごううによって飛騨川ひだがわ沿いの国道こくどう41ごうはしっていた観光かんこうバス2だい上麻生かみあさおダム直下ちょっか飛騨川ひだがわ転落てんらく、104めい死者ししゃ日本にっぽんのバス事故じこ史上しじょう最悪さいあく事故じこ発生はっせいした。飛騨川ひだがわバス転落てんらく事故じこである。この事故じこさいし、人命じんめい救助きゅうじょ観点かんてんから飛騨川ひだがわ流域りゅういき一貫いっかん開発かいはつ計画けいかく建設けんせつされたダム・発電はつでんしょ異例いれいともえる操作そうさおこなっている。

事故じこ当時とうじ飛騨川ひだがわ台風たいふうくずれの豪雨ごううによって水位すいい大幅おおはば増水ぞうすいしており、かつすいかいという険阻けんそ峡谷きょうこくにバスが転落てんらくしていたため、バスのげと乗客じょうきゃく救助きゅうじょ活動かつどう難航なんこうきわめていた。陸上りくじょう自衛隊じえいたい守山もりやま駐屯ちゅうとんはじ岐阜ぎふ県警けんけい消防しょうぼうなどが救助きゅうじょ活動かつどうたっていたが、飛騨川ひだがわ流域りゅういきのダムや発電はつでんしょ管理かんりする中部電力ちゅうぶでんりょく要請ようせいけて岐阜ぎふ支店してんちょう本部ほんぶちょうとして社員しゃいんべ380めい管理かんりよう舟艇しゅうてい350そう動員どういんして支援しえん体制たいせいはいっていた。しかし濁流だくりゅう渦巻うずま飛騨ひだがわ救助きゅうじょ活動かつどう難航なんこうきわめていることもあり、事故じこ翌日よくじつ8がつ19にち上麻生かみあさお発電はつでんしょぜん取水しゅすい発電はつでんおこなってダム下流かりゅう水位すいいげ、転落てんらくした2だいのうち1だいげを支援しえんした。しかしかわなかぼっしているのこり1だい救助きゅうじょ水位すいいがかなり低下ていかしないかぎ困難こんなんであった。

8がつ21にち中部電力ちゅうぶでんりょく本社ほんしゃ会議かいぎおこない、救助きゅうじょ活動かつどう援護えんご目的もくてき上麻生かみあさお名倉なくらりょう発電はつでんしょとダムを利用りようして飛騨川ひだがわ水位すいい極限きょくげんまでげる「水位すいいれい作戦さくせん」の実施じっし決定けってい捜索そうさく本部ほんぶ連絡れんらく会議かいぎ提案ていあん了承りょうしょうされた。まず上麻生かみあさおダムの貯水ちょすいすべ放流ほうりゅうして貯水池ちょすいちそらにし、上流じょうりゅうにある名倉なくら発電はつでんしょではぜん出力しゅつりょく運転うんてんおこな取水しゅすいこうである名倉なくらダムに極力きょくりょく貯水ちょすいする。上麻生かみあさおダムがそらになったところで名倉なくらダムから放流ほうりゅうおこない、上麻生かみあさおダムはゲートぜんとざして可能かのうかぎ洪水こうずい貯留ちょりゅう同時どうじ上麻生かみあさお発電はつでんしょぜん出力しゅつりょく運転うんてんおこない、ダムみずうみから取水しゅすいすることで水位すいい上昇じょうしょうおさえる。この上麻生かみあさおダムぜん操作そうさによりみずがなくなった飛騨川ひだがわ捜索そうさくたいはいのこる1だい捜索そうさくするという内容ないようであった。ダムとはいえ上麻生かみあさおダムはきわめて小規模しょうきぼでかつ治水ちすい容量ようりょうゆうしないことから、いち間違まちがえればダム決壊けっかいつながる操作そうさであるが、飛騨川ひだがわ流量りゅうりょう正常せいじょうもどるまでつことがゆるされないため、ダム管理かんりじょう異例いれい操作そうさ8がつ22にちより8がつ23にちまでの2日間にちかんにわたり岐阜ぎふ支店してんちょう指揮しきおこなわれた。

ダムがぜん操作そうさおこなってから満水まんすいになるまでは30ふんしか時間じかん余裕よゆうかったため、操作そうさ反復はんぷくしておこなわれた。その30分間ふんかん海上かいじょう自衛隊じえいたい横須賀よこすか基地きち潜水せんすい部隊ぶたい陸上りくじょう自衛隊じえいたい豊川駐屯地とよかわちゅうとんち施設しせつ大隊だいたいによってのこる1だいげられた。しかし乗客じょうきゃくのほとんどは下流かりゅうながされていたため、今度こんど下流かりゅうにある川辺かわべダムのぜん放流ほうりゅう操作そうさを1937ねん完成かんせい以来いらいはじめて実施じっし、ダムみずうみであるすいみずうみそらにして捜索そうさく活動かつどう支援しえんした。大正たいしょう時代じだいより飛騨川ひだがわ開発かいはつたずさわり地形ちけいみずぶんデータが蓄積ちくせきしていることが、このような異例いれい放流ほうりゅう操作そうさおこなえた要因よういんとなっている。なお、事故じこ地点ちてん付近ふきん建立こんりゅうされた慰霊いれい・「天心てんしん白菊しらぎくとう」は、上麻生かみあさお発電はつでんしょ職員しょくいんによる清掃せいそう活動かつどう月例げつれい奉仕ほうしとして現在げんざいつづけられている[30]

補償ほしょう[編集へんしゅう]

飛騨川ひだがわ流域りゅういき一貫いっかん開発かいはつ計画けいかくにおいて建設けんせつされた発電はつでんしょやダムは多数たすうのぼるが、建設けんせつともな地元じもと住民じゅうみんとの補償ほしょう問題もんだい解決かいけつけてとおれない課題かだいであった。ダム建設けんせつによって故郷こきょう水没すいぼつする住民じゅうみんへの一般いっぱん補償ほしょう漁業ぎょぎょうさかんな飛騨川ひだがわ漁業ぎょぎょう補償ほしょう発電はつでんしょ取水しゅすい灌漑かんがい用水ようすい取水しゅすいとの整合せいごうせい問題もんだいとなった農業のうぎょう補償ほしょうなど、いくつもの補償ほしょう案件あんけん山積さんせきしており、その解決かいけつには相応そうおう努力どりょく必要ひつようであった。計画けいかく進行しんこうによる住民じゅうみん犠牲ぎせいは、こうしただい規模きぼ河川かせん開発かいはつにおける最大さいだい問題もんだいとなっている。

一般いっぱん公共こうきょう補償ほしょう[編集へんしゅう]

飛騨川ひだがわ流域りゅういきのダム開発かいはつにおいて、住民じゅうみん移転いてんともな一般いっぱん補償ほしょう実施じっしされたのは川辺かわべ発電はつでんしょ・ダムの23最初さいしょである[31]下表かひょう発電はつでんしょ・ダム建設けんせつによって移転いてん余儀よぎなくされた住民じゅうみん戸数こすうである。

かく発電はつでんしょ建設けんせつともな移転いてん戸数こすう単位たんい[32]
発電はつでんしょ 川辺かわべ 朝日あさひ 東上田ひがしうえだ 久々野くぐの 新小しんこざか 高根たかねだいいち
高根たかねだい
馬瀬川まぜかわだいいち
馬瀬川まぜかわだい
中呂ちゅうろ
移転いてん戸数こすう 23 66 10 11 0 69 157
30
3

川辺かわべダムについては当時とうじ東邦とうほう電力でんりょく施工しこうしており、電力でんりょく開発かいはつ国家こっかてき重要じゅうようせいいて最終さいしゅうてきには円満えんまん解決かいけつされたと『飛騨川ひだがわ 流域りゅういき文化ぶんか電力でんりょく』でべられているが、詳細しょうさい不明ふめいである。戦後せんご最初さいしょ補償ほしょう案件あんけんとなったのは朝日あさひ発電はつでんしょ朝日あさひダム・あきしんダムにおける一般いっぱん補償ほしょうであり、りょうダム合計ごうけいで66水没すいぼつすることになった。当初とうしょ朝日あさひむら久々野くぐのまちといった関係かんけい自治体じちたいはダム建設けんせつ歓迎かんげい朝日あさひダムに水没すいぼつする地区ちく住民じゅうみんおおむねダム建設けんせつ否定ひていてきではなかったが、1951ねん発電はつでん効率こうりつ向上こうじょうのためたかさを一律いちりつ12メートルたかくすると発表はっぴょうしたところ、当初とうしょ水没すいぼつ戸数こすう24くわえ42あらたに水没すいぼつするため住民じゅうみんこぞって反発はんぱつ当初とうしょ融和ゆうわてきだった朝日あさひむら久々野くぐのまちもダム建設けんせつ否定ひていてき姿勢しせいせ、補償ほしょう交渉こうしょう深夜しんやおよんだ。最終さいしゅうてきには日下部くさかべ禮一れいいち高山たかやま市長しちょう飛騨ひだ選出せんしゅつ前田まえだ義雄よしお岐阜ぎふ県議会けんぎかい議員ぎいん高山たかやま商工しょうこう会議かいぎしょ代替だいたい斡旋あっせんすることで解決かいけつした[33]

東上田ひがしうえだ発電はつでんしょ・ダムでは当時とうじ田子倉たごくらダム補償ほしょう事件じけんはじめダム補償ほしょう交渉こうしょうにおいて高額こうがく補償ほしょうきん妥結だけつ報道ほうどうされていたこともあり、住民じゅうみん高額こうがく補償ほしょうきん要求ようきゅう一時いちじ事業じぎょうしゃ中部電力ちゅうぶでんりょく発電はつでんしょ建設けんせつ断念だんねんして大井川おおいがわ水系すいけい開発かいはつじくあしうつそうとするなど決裂けつれつ寸前すんぜんいたった[34]。この時期じき水源すいげん地域ちいき対策たいさく特別とくべつ措置そちほうなどの水没すいぼつ住民じゅうみんたいするほう整備せいび未熟みじゅくだったこともあり、岐阜ぎふけん当局とうきょく周辺しゅうへん市町村しちょうそん斡旋あっせんにより解決かいけつはかられるケースがおおかった。高根たかねだいいちだい発電はつでんしょ高根たかねだいいちだいダムの補償ほしょう交渉こうしょうでは1963ねん閣議かくぎ決定けっていされた「電源でんげん開発かいはつとうともな損失そんしつ補償ほしょう基準きじゅん」が策定さくていされたことから基準きじゅん沿った補償ほしょう交渉こうしょう実施じっしされたが、高根たかねだいいちだいについては多額たがく補償ほしょうきんりによる住民じゅうみん生活せいかつ基盤きばん崩壊ほうかいふせぐため現金げんきんわり社債しゃさい提供ていきょうして堅実けんじつ資金しきん運用うんよう提案ていあん水没すいぼつする69のうち64おうじている[35]

馬瀬川まぜかわだいいち発電はつでんしょ岩屋いわやダムでは水没すいぼつ戸数こすうが157多数たすうのぼり、補償ほしょう交渉こうしょう担当たんとうした中部電力ちゅうぶでんりょく地元じもと住民じゅうみんあいだ水没すいぼつ見舞みまいきん支給しきゅうめぐ当初とうしょはげしい対立たいりつがあった。しかし岐阜ぎふけん水没すいぼつ見舞みまいきん呈示ていじ前向まえむきな姿勢しせいしめした段階だんかいから住民じゅうみん態度たいど軟化なんか岐阜ぎふけん益田ますだぐん金山かなやままち現在げんざい下呂げろちょう斡旋あっせん、また水没すいぼつはしないがダム建設けんせつによって地域ちいきから地理ちりてき孤立こりつする少数しょうすう残存ざんそんしゃ補償ほしょうれるなど事業じぎょうしゃがわ譲歩じょうほしたため、住民じゅうみんがわ事業じぎょうしゃがわ提示ていじする補償ほしょう基準きじゅん合意ごうい水没すいぼつ住民じゅうみん移転いてんふくだい規模きぼなダムとしては異例いれいの3ねん交渉こうしょう妥結だけつしている[36]。ダム規模きぼ同等どうとう当時とうじはげしい反対はんたい運動うんどうにより事業じぎょう長期ちょうきしていたはちじょうダム吾妻川あがつまがわ)、大滝おおたきダムかわ)、川辺川かわべがわダム川辺川かわべがわ)などとくらべほぼ円満えんまん解決かいけつであり、水没すいぼつ予定よていにはダム反対はんたい運動うんどうによくられる「ダム反対はんたい」の看板かんばんのぼりまったくみられなかったという[37]

一般いっぱん補償ほしょうについては水源すいげん地域ちいき対策たいさく特別とくべつ措置そちほうといったほう整備せいびがない状態じょうたいであったが、基本きほんてきには流域りゅういき自治体じちたい電力でんりょく開発かいはつ理解りかいしめ交渉こうしょう妥結だけつのために様々さまざま斡旋あっせんおこなったことが、頑強がんきょう反対はんたい運動うんどうにまで発展はってんしなかった理由りゆうである。一方いっぽう公共こうきょう補償ほしょうについては報奨ほうしょうきんという名目めいもく学校がっこう消防しょうぼう施設しせつ医療いりょう機関きかん建設けんせつ道路どうろ上下水道じょうげすいどう整備せいびなどが中部電力ちゅうぶでんりょく負担ふたん実施じっしされ、とく道路どうろについては劣悪れつあくだった道路どうろ事情じじょう改善かいぜん寄与きよしている。またダムや発電はつでんしょ建設けんせつともな固定こてい資産しさんぜい収入しゅうにゅう自治体じちたい財政ざいせいにおいて無視むしできない位置いち[注釈ちゅうしゃく 18]1974ねん昭和しょうわ49ねん)には電源でんげんさんほう電源でんげん開発かいはつ促進そくしん税法ぜいほう発電はつでんよう施設しせつ周辺しゅうへん地域ちいき整備せいびほう電源でんげん開発かいはつ促進そくしん対策たいさく特別とくべつ会計かいけいほう)が施行しこうされ、とく発電はつでんよう施設しせつ周辺しゅうへん地域ちいき整備せいびほうについては完成かんせいして年月としつき経過けいかした発電はつでんしょ対象たいしょうになることから自治体じちたい公共こうきょう事業じぎょう整備せいび役立やくだっている。

その反面はんめんおおくの住民じゅうみん移転いてんしたことにより過疎かそ進行しんこうきゅう朝日あさひむらでは60300めい高山たかやまなどに移転いてんしたため急激きゅうげき人口じんこう減少げんしょうきゅう高根たかねむらでは人口じんこうの16.5パーセント、世帯せたいすうの16パーセントにたる65350めいがやはり高山たかやまなどに移転いてん過疎かそ拍車はくしゃけ、きゅう金山かなやままちでは152836めいきゅう馬瀬ませむらではとく下山げざん地区ちくが25155めい集落しゅうらく全体ぜんたいせきなどへ移転いてん。これらの地域ちいきでは深刻しんこく過疎かそまねいている[38]

漁業ぎょぎょう補償ほしょう[編集へんしゅう]

河川かせん維持いじ放流ほうりゅうおこな東上田ひがしうえだダム(飛騨川ひだがわ)。1954ねん昭和しょうわ29ねん完成かんせい
濁水だくすい問題もんだい契機けいき設置せっちされた朝日あさひダムの表面ひょうめん取水しゅすい設備せつび
秋神貯水池あきがみちょすいち大物おおものアマゴおおれる。

飛騨川ひだがわ流域りゅういきのほとんどを山地さんちめているが、植生しょくせい良好りょうこう水源すいげん涵養かんよう(かんよう)も保持ほじされていた。これが水生すいせい昆虫こんちゅう藻類そうるい繁殖はんしょくうながし、さらに魚類ぎょるい棲息せいそくするというこう循環じゅんかんしていた。飛騨川ひだがわ支流しりゅう馬瀬川まぜかわアユりがとくさかんなほか、イワナアマゴウナギコイなど豊富ほうふ漁業ぎょぎょう資源しげんゆうする河川かせんであった。しかし水力すいりょく発電はつでんしょとくにダムを建設けんせつすることでアユなどの遡上そじょうする魚類ぎょるい深刻しんこく影響えいきょうけるほか、工事こうじちゅう濁水だくすい河川かせん環境かんきょう悪化あっかするなど漁業ぎょぎょう生計せいけいてる関係かんけいしゃにとっては死活しかつ問題もんだいであり、日本にっぽん各地かくちのダム開発かいはつでは漁業ぎょぎょうけん保有ほゆうする漁業ぎょぎょう協同きょうどう組合くみあいとの漁業ぎょぎょう補償ほしょう交渉こうしょうとく困難こんなんきわめていた。

飛騨川ひだがわでもれいれず、漁業ぎょぎょう補償ほしょう一般いっぱん補償ほしょうくらべはるかに交渉こうしょう難航なんこうした。日本にっぽん電力でんりょく東邦とうほう電力でんりょくきそって開発かいはつおこなっていた大正たいしょう時代じだい飛騨川ひだがわ漁業ぎょぎょう協同きょうどう組合くみあい存在そんざいせず、またダム自体じたいたかさがひくおさえられていた。さらに岐阜ぎふけん当局とうきょくがダム建設けんせつ許可きょかする条件じょうけんとして魚道ぎょどう設置せっち義務付ぎむづけていたため、上麻生かみあさお七宗ひちそう大船渡おおふなとなどのダムには魚道ぎょどう設置せっちされ、魚類ぎょるい遡上そじょうには支障ししょうたしていなかった[39]。しかし戦後せんごはいると小坂こさかダムをさかい上流じょうりゅう益田川ますだがわ上流じょうりゅう漁業ぎょぎょう協同きょうどう組合くみあい下流かりゅう益田川ますだがわ漁業ぎょぎょう協同きょうどう組合くみあいさい下流かりゅう飛騨川ひだがわ漁業ぎょぎょう協同きょうどう組合くみあいだいしゅ共同きょうどう漁業ぎょぎょう免許めんきょ取得しゅとくして漁業ぎょぎょうけん管理かんり[40]馬瀬川まぜかわでも馬瀬川まぜかわ上流じょうりゅう下流かりゅう漁業ぎょぎょう協同きょうどう組合くみあい漁業ぎょぎょうけん管理かんりしており、漁業ぎょぎょう資源しげん衰微すいびするダム・発電はつでんしょ建設けんせつには頑強がんきょう反対はんたいした。とく戦後せんごのダム建設けんせつ朝日あさひダムなど魚道ぎょどう設置せっち物理ぶつりてき不可能ふかのうなハイダムをおお建設けんせつしていたことから、より解決かいけつ困難こんなんになっていた。

朝日あさひダムからはじまった漁業ぎょぎょう補償ほしょう交渉こうしょうは、魚道ぎょどう設置せっち可否かひめぐ意見いけん対立たいりつ最終さいしゅうてき魚道ぎょどうもうけないわりに東上田ひがしうえだダムでは漁業ぎょぎょう資源しげん保護ほごのための河川かせん維持いじ放流ほうりゅうおこない、また益田ますだぐん萩原はぎはらまち現在げんざい下呂げろ)に岐阜ぎふけん水産すいさん試験場しけんじょう大垣おおがきから誘致ゆうち養殖ようしょく促進そくしんするなど対策たいさくおこなって妥結だけつした[41]。しかし1965ねん7がつ飛騨川ひだがわ流域りゅういき集中しゅうちゅう豪雨ごううおそい、朝日あさひダムに合流ごうりゅうする渓谷けいこくがけくず多発たはつ。それが原因げんいん濁水だくすいながすうねんにわたって飛騨川ひだがわにご朝日あさひダム濁水だくすい問題もんだい発生はっせいした。

飛騨川ひだがわ濁水だくすいとしっても一向いっこう解決かいけつする気配けはいせず、朝日あさひダムの放流ほうりゅう高根たかねだいいちダムのコンクリートほねざい採取さいしゅ原因げんいんもとめた益田川ますだがわ漁業ぎょぎょう協同きょうどう組合くみあい濁水だくすい解決かいけつ中部電力ちゅうぶでんりょくたいして強硬きょうこう主張しゅちょう濁水だくすい飛騨川ひだがわバス転落てんらく事故じこ捜索そうさく困難こんなんにさせている一因いちいんであると世論せろんうったえ、中部電力ちゅうぶでんりょく補償ほしょうおうじなければ高根たかねだいいちダム工事こうじ現場げんば実力じつりょく行使こうしを以って工事こうじ停止ていしさせるとまで強硬きょうこう姿勢しせいった。飛騨川ひだがわ流域りゅういき町村ちょうそんちょう町村ちょうそん議会ぎかい議長ぎちょう下呂げろ温泉おんせんはじめとする町村ちょうそん観光かんこう協会きょうかいなども漁協ぎょきょう主張しゅちょう同意どういし、1966ねん飛騨川ひだがわ公害こうがい対策たいさく協議きょうぎかい設置せっちされ濁水だくすい問題もんだい公害こうがい問題もんだい発展はってんする気配けはいせた。さらには岐阜ぎふけん公害こうがい対策たいさく協議きょうぎかい岐阜ぎふ県議会けんぎかい公害こうがい対策たいさく特別とくべつ委員いいんかいもうけられる事態じたい発展はってんし、政治せいじ問題もんだいとなった[42]濁水だくすい問題もんだいへの反発はんぱつたかまりダムを管理かんりする中部電力ちゅうぶでんりょく小坂こさか発電はつでんしょ増設ぞうせつ高根たかねだいいちだい発電はつでんしょ工事こうじ、さらには馬瀬川まぜかわだいいちだい発電はつでんしょ計画けいかく遅延ちえん飛騨川ひだがわ流域りゅういき一貫いっかん開発かいはつ計画けいかく停滞ていたいする。最終さいしゅうてきには事態じたいおも岐阜ぎふけん当局とうきょく仲裁ちゅうさいし、けん斡旋あっせんあん収拾しゅうしゅうさせるにいたった。中部電力ちゅうぶでんりょく朝日あさひダムに表面ひょうめん取水しゅすい設備せつび設置せっちし、比較的ひかくてき清浄せいじょう貯水池ちょすいち上層じょうそうみず放流ほうりゅうすることで飛騨川ひだがわ濁水だくすい解消かいしょうする対策たいさく[43]ほか、上流じょうりゅう発電はつでんしょぐん運用うんよう改善かいぜん東上田ひがしうえだダムの放流ほうりゅうすいを15ppm以下いかおさえる、秋神貯水池あきがみちょすいち清浄せいじょうみず朝日貯水池あさひちょすいち導水どうすい濁水だくすい軽減けいげんはかるなどの恒久こうきゅう対策たいさくおこなうことで1972ねん昭和しょうわ47ねん)3がつ岐阜ぎふ県庁けんちょう公害こうがい対策たいさく事務じむきょくとの協定きょうてい締結ていけつにより一連いちれん問題もんだい発生はっせいから6ねん解決かいけつした[44]

岩屋いわやダムをはじめとする馬瀬川まぜかわだいいちだい発電はつでんしょでは長良川ながらがわならぶアユの宝庫ほうこであった馬瀬川まぜかわにダムを建設けんせつすることに馬瀬川まぜかわ上流じょうりゅう下流かりゅう漁業ぎょぎょう協同きょうどう組合くみあい反発はんぱつとく下流かりゅう漁協ぎょきょう瀬戸せとだい発電はつでんしょ取水しゅすいもとである西村にしむら弓掛ゆがけダムの撤去てっきょもとめるなど強硬きょうこう姿勢しせいった。このけん岐阜ぎふけん仲裁ちゅうさいはいりょうダムに魚道ぎょどう新設しんせつする、またアユ養殖ようしょく施設しせつ新設しんせつするなどの条件じょうけん妥結だけつした[45]中呂ちゅうろ発電はつでんしょでは度重たびかさなるダム・発電はつでんしょ建設けんせつ漁場ぎょじょう縮小しゅくしょう縮小しゅくしょうけた益田川ますだがわ漁業ぎょぎょう協同きょうどう組合くみあい反対はんたい交渉こうしょう妥結だけつに3ねんついやしている[46]下表かひょう漁業ぎょぎょう補償ほしょう交渉こうしょうにおいて中部電力ちゅうぶでんりょくかく漁協ぎょきょう支払しはらった補償ほしょうきん一覧いちらんひょうである。

かく発電はつでんしょにおける漁業ぎょぎょう補償ほしょうがく単位たんいえん[47]
漁協ぎょきょう\発電はつでんしょ 朝日あさひ 東上田ひがしうえだ 久々野くぐの 新小しんこざか 高根たかねだいいち
高根たかねだい
馬瀬川まぜかわだいいち
馬瀬川まぜかわだい
中呂ちゅうろ
益田川ますだがわ上流じょうりゅう 12,880,000 60,300,000 70,000,000 3,300,000 46,700,000 - -
益田川ますだがわ 3,700,000 17,100,000 12,000,000 18,000,000 114,500,000
飛騨川ひだがわ - - - - - 10,500,000 -
馬瀬川まぜかわ上流じょうりゅう - - - - - 57,500,000 -
馬瀬川まぜかわ下流かりゅう - - - - - 320,000,000 -
共同きょうどう漁場ぎょじょう[注釈ちゅうしゃく 19] - - - - - 9,600,000 -

このように漁業ぎょぎょう補償ほしょう難航なんこうきわめた。漁協ぎょきょうとしては水力すいりょく発電はつでんしょやダム建設けんせつにより生業せいぎょうである漁場ぎょじょうかえうしなわれるため、将来しょうらい生活せいかつ不安ふあんおぼえたための反対はんたい運動うんどうであったが、電力でんりょく開発かいはつ重要じゅうようせい認識にんしきしていたため最終さいしゅうてきには苦渋くじゅう決断けつだんおこなっている。飛騨川ひだがわ多数たすうのダムが建設けんせつされたことで回遊かいゆうぎょ遡上そじょう只見川ただみがわなどと同様どうよう絶望ぜつぼうてきになったが、一方いっぽう陸封りくふうぎょとなったアマゴなどが巨大きょだいしており、秋神貯水池あきがみちょすいちなどではあらたな漁業ぎょぎょう資源しげんとなっている。飛騨川ひだがわ水質すいしつ管理かんりについては朝日あさひダム濁水だくすい問題もんだい教訓きょうくんとして高根たかねだいいちダムなどにも選択せんたく取水しゅすい設備せつび設置せっち濁水だくすい防止ぼうし対策たいさくこうじている。2006ねん平成へいせい18ねん)7がつ洪水こうずいにおいてその効果こうか発揮はっきされ、財団ざいだん法人ほうじんダム水源すいげん環境かんきょう整備せいびセンターより「ダム・せき危機きき管理かんり業務ぎょうむ顕彰けんしょう奨励しょうれいしょう」を受賞じゅしょうしている[48]

農業のうぎょう補償ほしょう[編集へんしゅう]

ワラビ部分ぶぶん加工かこうしてつくられるワラビ飛騨ひだ川上かわかみ流域りゅういき特産とくさんひん

農業のうぎょう関連かんれんする補償ほしょうとしてはダム建設けんせつともな農地のうち水没すいぼつたいする補償ほしょう特産とくさんひん栽培さいばいたいする補償ほしょう慣行かんこう水利すいりけんたいする補償ほしょうの3種類しゅるい飛騨川ひだがわ流域りゅういき水力すいりょく発電はつでん事業じぎょうではられた。ここではこうしゃについて解説かいせつする。

特産とくさんひん補償ほしょうについては朝日あさひダムと高根たかねだいいちダムにおいてられた。当時とうじ朝日あさひむら高根たかねむらではワラビからワラビ生産せいさんしており、高根たかねむらでは特産とくさんひんとして多額たがく収入しゅうにゅうげており生活せいかつ基盤きばんひとつであった。しかしダム建設けんせつともな移転いてんする住民じゅうみんなかには、ワラビ生産せいさん不可能ふかのうになるため収入しゅうにゅうざされる。このため減収げんしゅうたいする補償ほしょうもとめられ、生活せいかつ再建さいけん一環いっかんとして補償ほしょう転出てんしゅつ住民じゅうみんおこなわれた[49]

一方いっぽう慣行かんこう水利すいりけんたいする補償ほしょうは、おも農業のうぎょう用水ようすい取水しゅすいがダムや発電はつでんしょ建設けんせつによって取水しゅすいりょう減少げんしょうし、十分じゅうぶん灌漑かんがいおこなわれなくなることにたいする補償ほしょうである。これは戦前せんぜん戦後せんごわず、発電はつでんしょ建設けんせつ水利すいりけん取得しゅとくするさい交付こうふされる水利すいり使用しよう許可きょか命令めいれいしょ、あるいは水利すいり使用しよう規則きそくにおいてこれら慣行かんこう水利すいりけん使用しよう支障ししょうたさないようにしなければならないとさだめられているためであり、農業のうぎょう保護ほご対策たいさくとして水利すいりけん使用しよう許認可きょにんかけん河川かせん管理かんりしゃとく注文ちゅうもんしていた。

飛騨川ひだがわ水力すいりょく発電はつでん開発かいはつ場合ばあい瀬戸せとだい発電はつでんしょ朝日あさひ発電はつでんしょ久々野くぐの発電はつでんしょ小坂こさか発電はつでんしょにおいて頭首とうしゅこう新設しんせつ取水しゅすいせきからの河川かせん維持いじ放流ほうりゅうによって慣行かんこう水利すいりけんぶん流量りゅうりょう維持いじする対策たいさくられており、多目的たもくてきダムや治水ちすいダムにおける目的もくてきひと特定とくてい利水りすい事実じじつじょう実施じっしされている。馬瀬川まぜかわだい発電はつでんしょでは発電はつでん用水ようすい利権りけんにより取水しゅすいされるみず農業のうぎょう用水ようすい取水しゅすい支障ししょうたすことからあらたに揚水ようすい施設しせつ建設けんせつした。東上田ひがしうえだ発電はつでんしょでは流域りゅういききゅう萩原はぎはらまち丘陵きゅうりょう農地のうちおおいとなまれているため、ダム建設けんせつともな取水しゅすいりょう減少げんしょう不安ふあん土地とち改良かいりょう反対はんたいしていた。またダムから発電はつでんしょ導水どうすいするためのトンネル工事こうじ水脈すいみゃくったことから、渓流けいりゅう枯渇こかつしたりみずすくなくなることで農業のうぎょう用水ようすい11けん、800水道すいどう供給きょうきゅう被害ひがいあたえた。このため補償ほしょう支払しはらいのほか頭首とうしゅこう新設しんせつ簡易かんい水道すいどう整備せいびなどの対策たいさく実施じっししている[50]

益田川ますだがわ流木りゅうぼく事件じけん[編集へんしゅう]

1937ねん昭和しょうわ12ねん)に完成かんせいした川辺かわべダムと川辺かわべ発電はつでんしょ左側ひだりがわ魚道ぎょどう放流ほうりゅうようゲートあいだ舟運しゅううんよう通路つうろがある。

流木りゅうぼくたいする補償ほしょうおも戦前せんぜん一時期いちじきられた補償ほしょう形態けいたいであり、戦後せんご佐久間さくまダム天竜川てんりゅうがわ)や長安ながやすこうダム那賀川なかがわ)など少数しょうすうまり現在げんざい実施じっしされていない。飛騨川ひだがわ流域りゅういき山林さんりん江戸えど時代じだい加茂かもぐん一部いちぶ尾張おわりはん領地りょうちとして[51]明治めいじ時代じだい皇室こうしつ御料林ごりょうりんとして管理かんりされるりんであった。そのそう面積めんせきは20まんヘクタールにもおよび、ヒノキスギモミなどが生育せいいくするため江戸えど時代じだい以降いこう林業りんぎょうさかんになった。当時とうじ飛騨川ひだがわ流域りゅういき険阻けんそ峡谷きょうこくのためみちらしいみち存在そんざいせず、木材もくざい名古屋なごや方面ほうめん運搬うんぱんするにはもっぱ流木りゅうぼくによる輸送ゆそうおこなわれていた。ながれた木材もくざい現在げんざい加茂かもぐん七宗ひちそうまち下麻生しもあさおにていかだにみなおされ、木曽川きそがわくだって名古屋なごや輸送ゆそうされた。こうした流木りゅうぼくおこなわれるのは洪水こうずいける意味いみから水量すいりょうすくない冬季とうきおこなわれるが、往々おうおうにして急流きゅうりゅう河川かせん流木りゅうぼく実施じっしされていたことから、急流きゅうりゅう河川かせんこのんでおこなわれた水力すいりょく発電はつでん開発かいはつ流木りゅうぼく途絶とぜつさせるため流木りゅうぼく業者ぎょうしゃとの相性あいしょうわるかった。しかも流木りゅうぼくさかんにおこなわれる冬季とうきみずすくないため、水力すいりょく発電はつでんしょ水量すいりょう確保かくほするためにとく取水しゅすい強化きょうかする時期じきであり、水量すいりょうすくなくなって流木りゅうぼく支障ししょうたすことで流木りゅうぼく業者ぎょうしゃ不満ふまんたかまる一方いっぽうであった[52]

これらの理由りゆう電力でんりょく会社かいしゃ流木りゅうぼく業者ぎょうしゃ紛争ふんそうはしばしばはげしいものとなった。とくられているのが、庄川しょうがわにおいて浅野あさの総一郎そういちろうひきいる庄川しょうがわ水力すいりょく電気でんきとびしゅう木材もくざいが、小牧こまきダム建設けんせつ慣行かんこう流木りゅうぼくけん有無うむめぐ長期ちょうきにわたって法廷ほうてい闘争とうそうにまで発展はってんした庄川しょうがわ流木りゅうぼく事件じけんである[53]。この庄川しょうがわ流木りゅうぼく事件じけんさきんじ、とびしゅう木材もくざい飛騨川ひだがわにおいても日本にっぽん電力でんりょくとのあいだ慣行かんこう流木りゅうぼくけんめぐ激烈げきれつ紛争ふんそうを1920ねんから1924ねんまでひろげていた。これを益田川ますだがわ流木りゅうぼく事件じけんぶ。契機けいきとなったのは日本にっぽん電力でんりょく瀬戸せとだいいち発電はつでんしょ建設けんせつするさいに、河川かせん管理かんりしゃである岐阜ぎふ県知事けんちじから流木りゅうぼくけん保全ほぜんのため冬季とうき流木りゅうぼくシーズンには毎秒まいびょう400立方りっぽうしゃく放流ほうりゅう義務ぎむ許可きょか条件じょうけんとしたことにはじまる。しかしこれをおこなうと冬季とうき取水しゅすいりょう激減げきげん発電はつでん能力のうりょく最大さいだいで2まん7000キロワットの能力のうりょくがわずか2,000キロワットじゃく低下ていかし、発電はつでんしょとしてようさなくなる。このため発電はつでんしょ導水どうすいする導水どうすい流木りゅうぼく用水路ようすいろ兼用けんようさせ、発電はつでん能力のうりょく維持いじはか折衷せっちゅうあん県知事けんちじ提示ていじし、許可きょかけた。ところが飛騨川ひだがわ流木りゅうぼくいちけていたとびしゅう木材もくざい当初とうしょ条件じょうけん遵守じゅんしゅするよう強硬きょうこう異議いぎ申立もうしたてて、折衷せっちゅうあんとする日本にっぽん電力でんりょくとのあいだはげしい対立たいりつまねき、瀬戸せとダムに貯留ちょりゅうした木材もくざい流下りゅうかうながすためのゲートの開放かいほうめぐ両者りょうしゃ一触即発いっしょくそくはつ衝突しょうとつ寸前すんぜんにまでいたった[54]

事態じたい重視じゅうしした岐阜ぎふけん県議会けんぎかい議長ぎちょう仲介ちゅうかいやくとして調停ちょうていはいり、木材もくざい輸送ゆそうかんする輸送ゆそう期間きかん遵守じゅんしゅ流木りゅうぼく従事じゅうじしゃへの賃金ちんぎん負担ふたん輸送ゆそう期間きかん超過ちょうかした場合ばあい損失そんしつてんをんだ覚書おぼえがきとびしゅう木材もくざいわし、わりに折衷せっちゅうあんとびしゅう木材もくざいみとめることで合意ごういはかられ、4年間ねんかんおよ紛争ふんそう解決かいけつした。この益田川ますだがわ流木りゅうぼく事件じけん以降いこう流木りゅうぼくけん維持いじのためダムには魚道ぎょどう流木りゅうぼくばんである流木りゅうぼくもうけて流木りゅうぼく円滑えんかつにさせることが絶対ぜったい条件じょうけんとなり、川辺かわべダム建設けんせつまでは流木りゅうぼく舟運しゅううん確保かくほのためのレール敷設ふせつおこなわれた[55]。しかし1934ねん昭和しょうわ9ねん10月25にち高山本線たかやまほんせん岐阜ぎふえき高山たかやまえきあいだ全通ぜんつうしたことで木材もくざい輸送ゆそう一挙いっきょ鉄道てつどう輸送ゆそうえられ、流木りゅうぼくによる木材もくざい輸送ゆそう衰退すいたい戦後せんごまったられなくなりダムや発電はつでんしょ建設けんせつにおいて流木りゅうぼく補償ほしょうおこな必要ひつようせいはなくなった。

ダムと観光かんこう[編集へんしゅう]

下原しもばるダム湖畔こはん通過つうかする高山本線たかやまほんせん特急とっきゅうワイドビューひだ鉄道てつどうファン撮影さつえいスポットである。

飛騨川ひだがわ流域りゅういき建設けんせつされたダムは発電はつでん利用りようされているだけではなく、地域ちいきのレジャーにも利用りようされている。とく川辺かわべダムについてはおだやかな水面すいめんボート競技きょうぎてきしており、1970ねん岐阜ぎふけん川辺かわべ漕艇そうていじょう人造湖じんぞうこであるすいみずうみもうけられた。日本にっぽんローイング協会きょうかい認定にんていする国際こくさいAきゅうボートコースに認定にんていされており、インターハイなどおおくの大会たいかい開催かいさいされる日本にっぽん有数ゆうすうのコースで、2012ねん平成へいせい24ねん開催かいさい予定よてい岐阜ぎふ国体こくたいのボート競技きょうぎ会場かいじょう決定けっていしている[56]。また観光かんこうめんではダムや発電はつでんしょ半数はんすう以上いじょうが、現在げんざい下呂げろ金山かなやままち集中しゅうちゅうしていることからきゅう金山かなやままちでは「ダムのまち」として観光かんこうひとつにげていた[57]。またアユやアマゴなどが高根たかねだいいちダムの人造湖じんぞうこである高根乗鞍湖たかねのりくらこ岩屋いわやダムの人造湖じんぞうこである東仙峡金山湖とうせんきょうかなやまこなどの人造湖じんぞうこることができる[注釈ちゅうしゃく 20]下原しもばるダムは左岸さがん高山本線たかやまほんせん通過つうかするが、ダム建設けんせつさい線路せんろ水没すいぼつするためあらたに鉄橋てっきょうもうけた[58]。この下原しもばるダムみずうみわた鉄橋てっきょう高山本線たかやまほんせんにおける撮影さつえいスポットのひとつとしてられ、休日きゅうじつには鉄道てつどうファン撮影さつえいのためにおとずれている。国道こくどう41ごう国道こくどう361ごう沿いからは建設けんせつされたダムのおおくを容易よういのぞむことが可能かのうである。

しかし飛騨川ひだがわ流域りゅういきのダムはほとんどが管理かんりじょう理由りゆうで、みず資源しげん機構きこう管理かんりしている岩屋いわやダムとダムのてんはし(てんば)が生活せいかつよう道路どうろとして利用りようされる瀬戸せとダム、七宗ひちそうダム、大船渡おおふなとダム、馬瀬川まぜかわだいダム以外いがい一般人いっぱんじん立入たちいりきびしく規制きせいされている。発電はつでんしょ中部電力ちゅうぶでんりょく許可きょかないかぎすべ立入禁止たちいりきんしである。かつては高根たかねだいいちダムもりが可能かのうであり、ふゆからはるけてはゆきこうむった乗鞍岳のりくらだけ正面しょうめんのぞむことが出来できたが、発電はつでんしょ・ダムの無人むじん管理かんり実施じっしされて以降いこう立入禁止たちいりきんしとなった。国土こくど交通省こうつうしょうみず資源しげん機構きこうかく地方自治体ちほうじちたい積極せっきょくてきにダムを観光かんこう資源しげんとして開放かいほうしているのとは対照たいしょうてき[注釈ちゅうしゃく 21]国土こくど交通省こうつうしょう直轄ちょっかつダムのほか都道府県とどうふけん営ダム電力でんりょく会社かいしゃ管理かんりダムなども発行はっこう開始かいししたトレーディングカードであるダムカードも、飛騨川ひだがわ流域りゅういきでは岩屋いわやダムしか発行はっこうしていない。

年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

1911ねん関西電力かんさいでんりょく発起人ほっきにんによる瀬戸せとだいいち発電はつでんしょなど4発電はつでんしょ水利すいりけん申請しんせいはじまる飛騨川ひだがわ流域りゅういき水力すいりょく発電はつでん開発かいはつは、戦後せんご飛騨川ひだがわ流域りゅういき一貫いっかん開発かいはつ計画けいかくとしてだい規模きぼ展開てんかいされ、1987ねんしん上麻生かみあさお発電はつでんしょ運転うんてん開始かいしまで76年間ねんかん新規しんき水力すいりょく発電はつでん事業じぎょうつづけられた。ここでは年表ねんぴょう形式けいしき開発かいはつ歴史れきししるす。

西暦せいれき 年号ねんごう 出来事できごと
1911ねん 明治めいじ44ねん 関西電力かんさいでんりょく発起人ほっきにん久々野くぐの小坂こさか瀬戸せとだいいち馬瀬川まぜかわ瀬戸せとだい発電はつでんしょ水利すいりけん取得しゅとく岐阜ぎふけん申請しんせいする。
1914ねん 大正たいしょう3ねん 小坂こさか電灯でんとう製材せいざいしょ川井かわい発電はつでんしょ建設けんせつ運転うんてん開始かいし飛騨川ひだがわ流域りゅういきはつ水力すいりょく発電はつでんしょ
1919ねん 大正たいしょう8ねん 日本にっぽん電力でんりょく発足ほっそく
岐阜ぎふ興業こうぎょう発起人ほっきにん飛騨川ひだがわだいいちだいだいさん発電はつでんしょ水利すいりけん取得しゅとく岐阜ぎふけん申請しんせいする。
1920ねん 大正たいしょう9ねん 益田川ますだがわ流木りゅうぼく事件じけん勃発ぼっぱつ
1921ねん 大正たいしょう10ねん 瀬戸せとだいいち竹原たけはらがわ発電はつでんしょ着工ちゃっこう
大同だいどう電力でんりょく発足ほっそく
1922ねん 大正たいしょう11ねん 竹原たけはらがわ発電はつでんしょ運転うんてん開始かいし飛騨川ひだがわ流域りゅういき現存げんそんする最古さいこ水力すいりょく発電はつでんしょ
東邦とうほう電力でんりょく発足ほっそく
岐阜ぎふ興業こうぎょう東邦とうほう電力でんりょくより役員やくいん岐阜ぎふ電力でんりょく改称かいしょう
1924ねん 大正たいしょう13ねん 瀬戸せとだいいち発電はつでんしょ運転うんてん開始かいし瀬戸せとダム完成かんせい
益田川ますだがわ流木りゅうぼく事件じけん岐阜ぎふけん仲裁ちゅうさい解決かいけつ
1925ねん 大正たいしょう14ねん 七宗ひちそう発電はつでんしょ運転うんてん開始かいし七宗ひちそうダム完成かんせい
1926ねん 大正たいしょう15ねん 東邦とうほう電力でんりょく岐阜ぎふ電力でんりょく吸収きゅうしゅう合併がっぺい
上麻生かみあさお発電はつでんしょ運転うんてん開始かいし上麻生かみあさおダム細尾ほそおたにダム完成かんせい
1928ねん 昭和しょうわ3ねん 佐見川さみがわ発電はつでんしょ運転うんてん開始かいし
1929ねん 昭和しょうわ4ねん 大船おおふなわたる金山かなやま発電はつでんしょ運転うんてん開始かいし大船渡おおふなとダム完成かんせい
1930ねん 昭和しょうわ5ねん 小坂こさか発電はつでんしょ運転うんてん開始かいし小坂こさかダム完成かんせい
瀬戸せとだい発電はつでんしょ変更へんこう申請しんせい。これにともな日本にっぽん電力でんりょく東邦とうほう電力でんりょくあいだ水利すいりけん問題もんだい勃発ぼっぱつ
1934ねん 昭和しょうわ9ねん 日本にっぽん電力でんりょく東邦とうほう電力でんりょく瀬戸せとだい発電はつでんしょにおける水利すいりけん問題もんだい交渉こうしょう妥結だけつ
1936ねん 昭和しょうわ11ねん 名倉なくら発電はつでんしょ運転うんてん開始かいし名倉なくらダム完成かんせい
1937ねん 昭和しょうわ12ねん 川辺かわべ発電はつでんしょ運転うんてん開始かいし川辺かわべダム完成かんせい
1938ねん 昭和しょうわ13ねん 瀬戸せとだい発電はつでんしょ運転うんてん開始かいし西村にしむらダム完成かんせい
下原しもばる発電はつでんしょ運転うんてん開始かいし下原しもばるダム完成かんせい
1939ねん 昭和しょうわ14ねん 日本にっぽんはつ送電そうでん発足ほっそく
東邦とうほう電力でんりょく大同だいどう電力でんりょく共同きょうどう事業じぎょうである今渡いまわたり発電はつでんしょ運転うんてん開始かいし今渡いまわたりダム完成かんせい
1941ねん 昭和しょうわ16ねん 配電はいでん統制とうせいれい発令はつれい
飛騨川ひだがわ流域りゅういきぜん水力すいりょく発電はつでんしょ日本にっぽんはつ送電そうでん接収せっしゅうされる。
1942ねん 昭和しょうわ17ねん 中部ちゅうぶ配電はいでん発足ほっそく
1946ねん 昭和しょうわ21ねん 日本にっぽん発送はっそうでん東海とうかい支店してん朝日あさひ発電はつでんしょ朝日あさひダム調査ちょうさ開始かいし
1948ねん 昭和しょうわ23ねん 日本にっぽんはつ送電そうでん・9配電はいでん会社かいしゃ過度かど経済けいざいりょく集中しゅうちゅう排除はいじょほう指定していされる。
1950ねん 昭和しょうわ25ねん ポツダム政令せいれいもとづく電気でんき事業じぎょうさい編成へんせいれい発令はつれい日本にっぽんはつ送電そうでん分割ぶんかつ民営みんえい
1951ねん 昭和しょうわ26ねん 中部電力ちゅうぶでんりょく発足ほっそく飛騨川ひだがわ流域りゅういき水力すいりょく発電はつでん施設しせつ発電はつでん用水ようすい利権りけん継承けいしょう
国土こくど総合そうごう開発かいはつほうもとづき木曽きそ特定とくてい地域ちいき総合そうごう開発かいはつ計画けいかく閣議かくぎ決定けってい朝日あさひなど3発電はつでんしょ4ダム計画けいかくまれる。
1953ねん 昭和しょうわ28ねん 朝日あさひ発電はつでんしょ運転うんてん開始かいし朝日あさひダム・あきしんダム完成かんせい
1954ねん 昭和しょうわ29ねん 東上田ひがしうえだ発電はつでんしょ運転うんてん開始かいし東上田ひがしうえだダム完成かんせい
1962ねん 昭和しょうわ37ねん 飛騨川ひだがわ流域りゅういき一貫いっかん開発かいはつ計画けいかく発表はっぴょう
みず資源しげん開発かいはつ促進そくしんほう施行しこう水資源開発公団みずしげんかいはつこうだん発足ほっそく
久々野くぐの発電はつでんしょ運転うんてん開始かいし久々野くぐのダム完成かんせい
1964ねん 昭和しょうわ39ねん 河川かせんほう改訂かいてい飛騨川ひだがわ一級いっきゅう河川かせん指定していされる。
1965ねん 昭和しょうわ40ねん 飛騨川ひだがわ本流ほんりゅう全域ぜんいきが「飛騨川ひだがわ」の名称めいしょう統一とういつされる。
飛騨川ひだがわ150まんキロワット一貫いっかん開発かいはつ計画けいかく発表はっぴょう
木曽川きそがわ水系すいけいみず資源しげん開発かいはつ促進そくしんほうもとづく開発かいはつ水系すいけい指定していされる。
朝日あさひダム濁水だくすい問題もんだい表面ひょうめんする。
1966ねん 昭和しょうわ41ねん 小坂こさか発電はつでんしょ増設ぞうせつ
濁水だくすい問題もんだいたい流域りゅういき町村ちょうそん漁協ぎょきょう観光かんこう協会きょうかいなどが飛騨川ひだがわ公害こうがい対策たいさく協議きょうぎかい設置せっちする。
1968ねん 昭和しょうわ43ねん 中部電力ちゅうぶでんりょく馬瀬川まぜかわ総合そうごう開発かいはつ事業じぎょう電気でんき事業じぎょうしゃとして参加さんか
飛騨川ひだがわバス転落てんらく事故じこ発生はっせい中部電力ちゅうぶでんりょく水位すいいれい作戦さくせん」で救助きゅうじょ活動かつどう援護えんごする。
1969ねん 昭和しょうわ44ねん 高根たかねだいいちだい発電はつでんしょ運転うんてん開始かいし高根たかねだいいちダム高根たかねだいダム完成かんせい
1970ねん 昭和しょうわ45ねん 川辺かわべダムの人造湖じんぞうこすいみずうみ岐阜ぎふけん川辺かわべ漕艇そうていじょう開設かいせつされる。
1972ねん 昭和しょうわ47ねん 岐阜ぎふけんとのあいだ濁水だくすい対策たいさく協定きょうてい締結ていけつされ、朝日あさひダム濁水だくすい問題もんだい終結しゅうけつ
1974ねん 昭和しょうわ49ねん 電源でんげんさんほう施行しこう馬瀬川まぜかわだいいち発電はつでんしょだいいち対象たいしょう指定していされる。
1976ねん 昭和しょうわ51ねん 馬瀬川まぜかわだいいちだい発電はつでんしょ運転うんてん開始かいし岩屋いわやダム馬瀬川まぜかわだいダム完成かんせい
1978ねん 昭和しょうわ53ねん 中呂ちゅうろ発電はつでんしょ運転うんてん開始かいし
1982ねん 昭和しょうわ57ねん しんななむね発電はつでんしょ運転うんてん開始かいし
1983ねん 昭和しょうわ58ねん 小坂川おさかがわ発電はつでんしょ運転うんてん開始かいし兵衛谷ひょうえたにダム完成かんせい
1987ねん 昭和しょうわ62ねん しん上麻生かみあさお発電はつでんしょ運転うんてん開始かいし飛騨川ひだがわ流域りゅういき一貫いっかん開発かいはつ計画けいかくもとづく新規しんき水力すいりょく開発かいはつおおむ終了しゅうりょうする。
2003ねん 平成へいせい15ねん 瀬戸せとだいいちだい下原しもばる大船渡おおふなと七宗ひちそう佐見川さみがわかく発電はつでんしょ改修かいしゅうされ、発電はつでん出力しゅつりょく増強ぞうきょうされる。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 建設省けんせつしょう国土こくど総合そうごう開発かいはつ特定とくてい地域ちいきしおり』、1951ねん
  • 建設省けんせつしょう河川かせんきょく開発かいはつ河川かせん総合そうごう開発かいはつ調査ちょうさ実績じっせき概要がいようだいいちかん、1955ねん
  • 建設省けんせつしょう河川かせんきょく開発かいはつ河川かせん総合そうごう開発かいはつ調査ちょうさ実績じっせき概要がいようだいかん、1955ねん
  • 建設省けんせつしょう河川かせんきょく監修かんしゅう財団ざいだん法人ほうじんダム技術ぎじゅつセンターへん日本にっぽん多目的たもくてきダム 直轄ちょっかつへん 1990年版ねんばん山海さんかいどう、1990ねん
  • 中部電力ちゅうぶでんりょくへん飛騨川ひだがわ 流域りゅういき文化ぶんか電力でんりょく』、1979ねん
  • 水資源開発公団みずしげんかいはつこうだんへん水資源開発公団みずしげんかいはつこうだん30ねん財団ざいだん法人ほうじんすい資源しげん協会きょうかい、1992ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 関西電力かんさいでんりょく前身ぜんしん
  2. ^ 中部電力ちゅうぶでんりょく前身ぜんしん
  3. ^ 1956ねん廃止はいし
  4. ^ 関西電力かんさいでんりょく前身ぜんしん
  5. ^ 現在げんざい関西電力かんさいでんりょくとは無関係むかんけい電力でんりょく会社かいしゃ
  6. ^ きゅう河川かせんほうしたでは、河川かせん管理かんり一部いちぶのぞ原則げんそくとして都道府県とどうふけん管轄かんかつしていた。
  7. ^ 現在げんざい河川かせんほうでは瀬戸せとダムはたかさが15.0メートル以下いかなので、ダムではなくせき該当がいとうする。
  8. ^ 現在げんざい河川かせんほうでは七宗ひちそうダムはたかさが15.0メートル以下いかなので、ダムではなくせき該当がいとうする。
  9. ^ 現在げんざい河川かせんほうでは上麻生かみあさおダムはたかさが15.0メートル以下いかなので、ダムではなくせき該当がいとうする。
  10. ^ 現在げんざい河川かせんほうでは大船渡おおふなとダムはたかさが15.0メートル以下いかなので、ダムではなくせき該当がいとうする。
  11. ^ 現在げんざい河川かせんほうでは名倉なくらダムはたかさが15.0メートル以下いかなので、ダムではなくせき該当がいとうする。
  12. ^ 木曽川きそがわ水系すいけいでは徳山とくやまダム揖斐川いびがわ)、味噌みそかわダム木曽川きそがわ)にいで3番目ばんめたかい。
  13. ^ 木曽川きそがわのほかに指定していされたのは北上川きたかみがわ江合川えあいがわ鳴瀬川なるせがわ最上川もがみがわ利根川とねがわ信濃川しなのがわ常願寺川じょうがんじがわ淀川よどがわ吉野川よしのがわ筑後川ちくごがわかく水系すいけい
  14. ^ 15箇所かしょのダム計画けいかく詳細しょうさいについては木曽川きそがわ#木曽きそ特定とくてい地域ちいき総合そうごう開発かいはつ計画けいかく参照さんしょう
  15. ^ 15箇所かしょ多目的たもくてきダム計画けいかく実現じつげんたのは丸山まるやまダムのほかは牧尾まきおダム王滝川おうたきがわ)と横山よこやまダム揖斐川いびがわ)の3箇所かしょだけであり、味噌みそかわダム木曽川きそがわ)と後述こうじゅつする岩屋いわやダムはどういち地点ちてんべつのダム事業じぎょうとして復活ふっかつする。
  16. ^ 発電はつでんようダムを取水しゅすいこうとして利水りすい利用りようする方式ほうしきは、群馬ぐんま用水ようすい綾戸あやどダム(利根川とねがわ)、ひがし用水ようすい落合おちあいダム愛知あいち用水ようすい兼山かねやまダム以上いじょう木曽川きそがわ)のれいがある。
  17. ^ 岐阜ぎふけん管理かんりする洪水こうずい調節ちょうせつ特定とくてい利水りすい下呂げろへの上水道じょうすいどう供給きょうきゅう目的もくてきとした補助ほじょ多目的たもくてきダム。1998ねん完成かんせい
  18. ^ いちれいげると神奈川かながわけん愛甲あいこうぐん清川きよかわむらみやダム中津川なかつがわ完成かんせいともな固定こてい資産しさんぜい収入しゅうにゅうにより、地方ちほう交付こうふぜい交付こうふきん交付こうふ団体だんたいとなっている。
  19. ^ 益田川ますだがわ漁協ぎょきょう飛騨川ひだがわ漁協ぎょきょう馬瀬川まぜかわ下流かりゅう漁協ぎょきょう共同きょうどう管理かんりしている漁場ぎょじょう
  20. ^ ただしりをおこなさいには管理かんりする漁協ぎょきょう入漁にゅうぎょけん必要ひつよう。また発電はつでんようダムは発電はつでんともな水位すいい変動へんどうはげしく、立入禁止たちいりきんしとなっている場所ばしょもあるため注意ちゅうい
  21. ^ 電力でんりょく会社かいしゃによって多少たしょうはあるが、電力でんりょく会社かいしゃ管理かんりダムの大半たいはんはこうした立入たちいり規制きせい措置そちっている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 社団しゃだん法人ほうじん電力でんりょく土木どぼく技術ぎじゅつ協会きょうかい水力すいりょく発電はつでんデータベース』2010ねん3がつ19にち閲覧えつらん
  2. ^ 飛騨川ひだがわ 流域りゅういき文化ぶんか電力でんりょく』p.375
  3. ^ 日本にっぽん多目的たもくてきダム 直轄ちょっかつへん 1990年版ねんばん』p.471
  4. ^ 日本にっぽん多目的たもくてきダム 直轄ちょっかつへん 1990年版ねんばん』p.473
  5. ^ 飛騨川ひだがわ 流域りゅういき文化ぶんか電力でんりょく』p.407
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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]