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後藤ごとう文夫ふみお

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後藤ごとう文夫ふみお
ごとう ふみお
台湾たいわん総督そうとく総務そうむ長官ちょうかん時代じだい
生年月日せいねんがっぴ 1884ねん3月7にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 大分おおいたけん大分おおいた
ぼつ年月日ねんがっぴ (1980-05-13) 1980ねん5月13にち(96さいぼつ
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく政治せいじ学科がっか
げん東京大学とうきょうだいがく法学部ほうがくぶ
ぜんしょく 台湾たいわん総督そうとく総務そうむ長官ちょうかん
所属しょぞく政党せいとう無所属むしょぞく→)
緑風りょくふうかい
称号しょうごう したがえ
勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう
勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう
藍綬らんじゅ褒章ほうしょう
だいいちかい国勢調査こくせいちょうさ記念きねんあきら
配偶はいぐうしゃ 後藤ごとう治子はるこ
子女しじょ 長男ちょうなん後藤ごとう正夫まさお

内閣ないかく 東條とうじょう内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1943ねん5月26にち - 1944ねん7がつ22にち

内閣ないかく 岡田おかだ内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1936ねん2がつ26にち - 1936ねん2がつ29にち
天皇てんのう 昭和しょうわ天皇てんのう

日本の旗 だい46だい 内務ないむ大臣だいじん
内閣ないかく 岡田おかだ内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1934ねん7がつ8にち - 1936ねん3月9にち

内閣ないかく 齋藤さいとう内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1932ねん5月26にち - 1934ねん7がつ8にち

選挙せんきょ 大分おおいたけん選挙せんきょ
当選とうせん回数かいすう 1かい
在任ざいにん期間きかん 1953ねん5月3にち - 1959ねん5月2にち

その職歴しょくれき
日本の旗 貴族きぞくいん議員ぎいん
1930ねん12月23にち - 1945ねん12月18にち
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後藤ごとう 文夫ふみお(ごとう ふみお、1884ねん明治めいじ17ねん3月7にち - 1980ねん昭和しょうわ55ねん5月13にち)は、大正たいしょう昭和しょうわ日本にっぽん内務ないむ官僚かんりょう政治せいじ貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいん緑風りょくふうかい所属しょぞく参議院さんぎいん議員ぎいん内務省ないむしょう警保局長きょくちょう農林のうりん大臣だいじん内務ないむ大臣だいじん大政たいせい翼賛よくさんかいふく総裁そうさい東条とうじょう内閣ないかくにんしょうなどを歴任れきにん警察けいさつ官僚かんりょうとして「天皇陛下てんのうへいか警察官けいさつかん」を自称じしょうし、しん官僚かんりょう代表だいひょうられた。大分おおいたけん出身しゅっしん

経歴けいれき

1884ねん明治めいじ17ねん)3がつ大分おおいたけん大分おおいたまれ。だい高等こうとう学校がっこう卒業そつぎょう。1908ねん明治めいじ41ねん)7がつ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく政治せいじ学科がっか卒業そつぎょう

内務ないむ官僚かんりょう

同年どうねん11がつ高等こうとう文官ぶんかん試験しけん首席しゅせき合格ごうかく同年どうねん12がつ内務省ないむしょう入省にゅうしょう

1910ねん明治めいじ43ねん)12月、陸軍りくぐん歩兵ほへいだい72連隊れんたい入営にゅうえいやく1ねんはん軍隊ぐんたい生活せいかつおくり、兵役へいえきえる。

1917ねん大正たいしょう6ねん)5がつ欧米おうべい留学りゅうがく。1919ねん大正たいしょう8ねん)12月、帰朝きちょう同月どうげつ警保きょく警務けいむ課長かちょう。1920ねん大正たいしょう9ねん)9がつ大臣だいじん官房かんぼう文書ぶんしょ課長かちょう大臣だいじん秘書官ひしょかん兼任けんにん

1922ねん大正たいしょう11ねん)6がつ警保局長きょくちょう。1923ねん大正たいしょう12ねん)、関東大震災かんとうだいしんさい発生はっせいから6週間しゅうかんの10がつ12にち、警保局長きょくちょう辞任じにん

1924ねん大正たいしょう13ねん)9がつ台湾たいわん総督そうとく総務そうむ長官ちょうかん。12月より台湾たいわん総督そうとく交通こうつうきょく総長そうちょう心得こころえ兼任けんにん(- 1925ねん4がつ)。

1928ねん昭和しょうわ3ねん)6がつ - たいちゅう不敬ふけい事件じけん総務そうむ長官ちょうかん引責いんせき辞任じにん

政治せいじ時代じだい

1930ねん昭和しょうわ5ねん)12月23にち貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいんみことのりまかされ、終戦しゅうせんの1945ねん12月18にちまでつとめる[1]

1933ねん昭和しょうわ8ねん)、ゴーストップ事件じけんこる。どう事件じけんでは陸軍りくぐんたいして警察けいさつが「軍隊ぐんたい陛下へいか軍隊ぐんたいなら、警察官けいさつかん陛下へいか警察官けいさつかんである」(粟屋あわや仙吉せんきち)などといちかず、警保はたけしん官僚かんりょう陸軍りくぐんはげしく対立たいりつした。

1932ねん昭和しょうわ7ねん)1がつくに維会近衛このえ文麿ふみまろらとともに発起ほっき理事りじとなる。同年どうねん5がつ齋藤さいとう内閣ないかく農林のうりん大臣だいじん。1934ねん昭和しょうわ9ねん)7がつ岡田おかだ内閣ないかく内務ないむ大臣だいじん

1936ねん昭和しょうわ11ねん)2がつ二・二六事件ににろくじけん内相ないしょう官邸かんてい襲撃しゅうげきされるが外出がいしゅつちゅう無事ぶじ消息しょうそく不明ふめいとなった岡田おかだ啓介けいすけ総理そうり臨時りんじ代理だいり日間にちかんにわたってつとめる。

1941ねん昭和しょうわ16ねん)8がつ大政たいせい翼賛よくさんかい中央ちゅうおう協力きょうりょくかい議長ぎちょう。1942ねん昭和しょうわ17ねん)6がつ大政たいせい翼賛よくさんかい事務じむ総長そうちょう。 1943ねん昭和しょうわ18ねん)4がつ大政たいせい翼賛よくさんかいふく総裁そうさい。5月、東條とうじょう内閣ないかく国務大臣こくむだいじん( - 1944ねん昭和しょうわ19ねん〉7がつ22にち)。1945ねん昭和しょうわ20ねん)6がつ日本にっぽん林業りんぎょうかい初代しょだい会長かいちょう

戦後せんご

1945ねん昭和しょうわ20ねん12月2にちには連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれいから日本にっぽん政府せいふたい後藤ごとう逮捕たいほ命令めいれいされ(だいさん逮捕たいほしゃ59めいちゅう1人ひとり[2]Aきゅう戦犯せんぱん指名しめいされ巣鴨すがも拘置こうちしょ拘留こうりゅうされた。1948ねん昭和しょうわ23ねん)12月、起訴きそにより釈放しゃくほう。1952ねん昭和しょうわ27ねん)3がつ公職こうしょく追放ついほう解除かいじょ

1952ねん昭和しょうわ27ねん)に財団ざいだん法人ほうじん電力でんりょく経済けいざい研究所けんきゅうじょをつくり、原子力げんしりょく発電はつでんふく電源でんげん設置せっち尽力じんりょくした。

1953ねん昭和しょうわ28ねん)4がつ大分おおいたけん選挙せんきょから参議院さんぎいん議員ぎいん当選とうせん一期いっきつとめる。緑風りょくふうかい所属しょぞく

1956ねん昭和しょうわ31ねん)、日本にっぽん青年せいねんかん理事りじちょう就任しゅうにん青年せいねん育成いくせい貢献こうけんした。

1969ねん昭和しょうわ44ねん)11月、日本にっぽん青年せいねんかん理事りじちょう辞任じにん日本にっぽん青年せいねんかん名誉めいよ会長かいちょう

1973ねん昭和しょうわ48ねん)4がつ治子はるこ夫人ふじん死去しきょ

1980ねん昭和しょうわ55ねん)5がつ肺炎はいえんのため[3]96さい死去しきょ死没しぼつをもってせいさんからしたがえじょされる[4]

年譜ねんぷ

栄典えいてん

家族かぞく

長男ちょうなん法務大臣ほうむだいじん後藤ごとう正夫まさお次男じなん東京学芸大学とうきょうがくげいだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ後藤ごとう米夫よねお[9]

脚注きゃくちゅう

  1. ^ a b 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい、38ぺーじ、53ぺーじ
  2. ^ 梨本なしもとみや平沼ひらぬま平田ひらたじゅうきゅうにん逮捕たいほ命令めいれい昭和しょうわ20ねん12月4にち 毎日新聞まいにちしんぶん東京とうきょう))『昭和しょうわニュース辞典じてんだい8かん 昭和しょうわ17ねん/昭和しょうわ20ねん』p341 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  3. ^ a b 服部はっとりさとしりょう事典じてん有名人ゆうめいじん死亡しぼう診断しんだん 近代きんだいへん付録ふろく近代きんだい有名人ゆうめいじん死因しいん一覧いちらん」(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2010ねん)12ぺーじ
  4. ^ a b 官報かんぽうだい15996ごう20-21ぺーじ 昭和しょうわ55ねん5がつ20にちごう
  5. ^ 官報かんぽうだい1038ごう叙任じょにん及辞れい」1916ねん1がつ20日はつか
  6. ^ a b c 青年せいねんあゆ後藤ごとう文夫ふみお
  7. ^ 官報かんぽうだい2640ごう叙任じょにん及辞れい」1921ねん5がつ21にち
  8. ^ 官報かんぽうだい2858ごう付録ふろく辞令じれい」1922ねん2がつ14にち
  9. ^ a b c 日外にちがいアソシエーツwhoplus』「後藤ごとう文夫ふみお(ゴトウフミオ,政治せいじ)」のこう
  10. ^ 官報かんぽうだい10163ごう65-67ぺーじ 昭和しょうわ35ねん11月4にちごう

参考さんこう文献ぶんけん

評伝ひょうでん

外部がいぶリンク

ウィキメディア・コモンズには、後藤ごとう文夫ふみおかんするカテゴリがあります。

公職こうしょく
先代せんだい
山本やまもと達雄たつお
日本の旗 内務ないむ大臣だいじん
だい53だい:1934ねん - 1936ねん
次代じだい
うしおめぐみ
先代せんだい
山本やまもと悌二郎ていじろう
日本の旗 農林のうりん大臣だいじん
だい10代:1932ねん - 1934ねん
次代じだい
山崎やまざき達之たつゆき
官職かんしょく
先代せんだい
賀来かく佐賀さが太郎たろう
日本の旗 台湾たいわん総督そうとく総務そうむ長官ちょうかん
だい9だい:1924ねん - 1928ねん
次代じだい
河原田かわらだ稼吉
先代せんだい
湯地ゆち幸平こうへい
日本の旗 内務省ないむしょう警保きょくなが
1922ねん - 1923ねん
次代じだい
岡田おかだ忠彦ただひこ