三宅みやけ一生かずお

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みやけ いっせい

三宅みやけ 一生かずお
生誕せいたん 三宅みやけ 一生かずお(みやけ かずなる)[1]
(1938-04-22) 1938ねん4がつ22にち
日本の旗 日本にっぽん広島ひろしまけん広島ひろしま
死没しぼつ (2022-08-05) 2022ねん8がつ5にち(84さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう[2]
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしんこう 多摩美術大学たまびじゅつだいがく図案ずあん[3]
職業しょくぎょう デザイナー
受賞じゅしょう 毎日まいにちデザインしょう(1977ねん
ヒロシマしょう(1990ねん
フランス芸術げいじゅつ文化ぶんか勲章くんしょうコマンドール(1991ねん
朝日あさひしょう(1992ねん
紫綬褒章しじゅほうしょう(1997ねん
高松宮たかまつのみや殿下でんか記念きねん世界せかい文化ぶんかしょう彫刻ちょうこく部門ぶもん(2005ねん
京都きょうとしょう思想しそう芸術げいじゅつ部門ぶもん(2006ねん
文化ぶんか勲章くんしょう(2010ねん
フランスレジオンドヌール勲章くんしょうコマンドール(2016ねん
公式こうしきサイト mds.isseymiyake.com
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me ISSEY MIYAKE / AOYAMA

三宅みやけ 一生かずお(みやけ いっせい、Issey Miyake1938ねん昭和しょうわ13ねん4がつ22にち[4] - 2022ねんれい4ねん8がつ5にち)は、日本にっぽんファッションデザイナー[5][6][7][8][ちゅう 1]広島ひろしまけん広島ひろしま東蟹屋ひがしかにやまち現在げんざい同市どうしひがし出身しゅっしん[4][12][13][14][15]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

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広島ひろしま市立しりつ尾長おなが小学校しょうがっこう在学ざいがくちゅう7さいのとき被爆ひばく[4][13][14][15][16][17]広島大学ひろしまだいがく附属ふぞく東雲しののめ中学校ちゅうがっこう[18]広島ひろしま県立けんりつ広島ひろしま国泰寺こくたいじ高等こうとう学校がっこう卒業そつぎょう[15][19]小学校しょうがっこう高学年こうがくねんのときの担任たんにん先生せんせいで、えがたのしさをおしえてもらう[20]広島ひろしま美術館びじゅつかん岡山おかやまけん倉敷くらしき大原おおはら美術館びじゅつかんにもよくとおった[20]ルオーきだったという[20]周囲しゅういから「将来しょうらい絵描えかきになるの?」とよくかれたが、絵描えかきは貧乏びんぼうイメージがあったから、大人おとなになってからの職業しょくぎょうにしようとはかんがえなかった[20]。また当時とうじ被爆ひばく都市としはげますという意味いみでの宝塚たからづか広島ひろしま公演こうえんがよくあり、5さいじょうあねれてってもらった[20]当時とうじ宝塚たからづかのトップスターは、越路こしじ吹雪ふぶき乙羽おとわ信子のぶこだった[20]あね影響えいきょうおおきく、あね洋裁ようさい学校がっこうから『ヴォーグ』や『ハーパーズ バザー』などのアメリカファッション雑誌ざっしかえり、その写真しゃしんふですみ模写もしゃしたりした[20]しょうなかだか一貫いっかんして美術びじゅつ所属しょぞく[20]野原のはらから復興ふっこうする広島ひろしままち、とりわけかよっていた国泰寺こくたいじ高校こうこうちかくにあった丹下たんげ健三けんぞう設計せっけい広島ひろしま平和へいわ記念きねん公園こうえんや、建設けんせつに「なぜ原爆げんばくとしたアメリカじん広島ひろしまはしつくるのか」と[15]おおきな議論ぎろんんだイサム・ノグチ設計せっけい平和へいわ大橋おおはしデザインに「これがデザインか」と感銘かんめいける[1][8][13][15][21]。そりかえった「ひがし」のはしばしら先端せんたんには、生命せいめいあらわ太陽たいよう、「西にし」の欄干らんかんは、たましいはこふねすりがかたどられていた[22][23]東洋とうよう西洋せいようさかいえたノグチのデザインは、少年しょうねんみち決定けっていづけた[5][6][22]

多摩美たまみ時代じだい[編集へんしゅう]

高校こうこう卒業そつぎょう上京じょうきょうし、多摩美術大学たまびじゅつだいがく図案ずあん入学にゅうがく[3][24][25]あねからの影響えいきょうふく興味きょうみっていたが[8][20]1950年代ねんだい日本にっぽんでは、ふく男性だんせい職業しょくぎょう対象たいしょうかんがえられてなく[8][14]父親ちちおやをなだめるために多摩美たまみグラフィックデザインまなびつつ、服飾ふくしょくデザインをはじめる[13][14][26][27]在学ざいがくちゅうの1959ねん学生がくせいだったにもかかわらず、当時とうじかるられがちだった「ファッション」を時代じだい文化ぶんか象徴しょうちょうする重要じゅうようなものとしてとら[24]、そのうえでファッションデザインにかかわる自分じぶんたちのレベルアップが必要ひつようだとかんがえていた三宅みやけは、文化服装学院ぶんかふくそうがくいんくわさわデザイン研究所けんきゅうじょ在籍ざいせきしていた学生がくせいたちにもこえをかけ、有志ゆうし研究けんきゅうグループ「青年せいねん服飾ふくしょく協会きょうかい」をげる[24][28]ふくつくかただけでなく、デザインの歴史れきし文化ぶんかてき背景はいけいまなび、研究けんきゅうするための「青年せいねん服飾ふくしょく協会きょうかい」には以降いこう文化服装学院ぶんかふくそうがくいんなどの学生がくせいだった高田たかだ賢三けんぞうコシノジュンコ松田まつだ光弘みつひろ金子かねこいさおらがあつまった[24]夜間やかん文化服装学院ぶんかふくそうがくいん教室きょうしつりてくわさわ洋子ようこや『ハイファッション編集へんしゅうちょうらをまねき、勉強べんきょうかいおこな[24]。1960ねん日本にっぽん東京とうきょう)ではつ開催かいさいされた「世界せかいデザイン会議かいぎ」(メタボリズム)にさいして、建築けんちくインダストリアルグラフィックなど、色々いろいろデザイン分野ぶんやはいっていたのに、衣服いふくデザイン、ファッションデザインがふくまれておらず[7][15]三宅みやけ事務じむきょくあてに「なぜ服飾ふくしょくデザインをふくめないのか」という質問しつもんじょうした[7][8][15][24][29]委員いいんちょう坂倉さかくらじゅんさんや、文化出版局ぶんかしゅっぱんきょく局長きょくちょうこん井田いだいさおなどに手紙てがみし、最終さいしゅうてき衣服いふくデザイナーも参加さんかゆるされた[15][30]当時とうじ日本にっぽんでは服飾ふくしょくデザインは洋裁ようさいいで、ファッション外国がいこくからるもので、自分じぶんたちでつくすものとはかんがえられていなかった[15]三宅みやけはあまり重要じゅうようかんがえられていない衣服いふくデザインは、ぎゃくにやりがいのある仕事しごとではないかとかんがえるようになった[15]。そこにはすでに、衣服いふく時代じだいともうつろう「ファッション」として存在そんざいするのではなく、より普遍ふへんてきなレベルでわたしたちの生活せいかつ密接みっせつむすびついてまれる「デザイン」であるという三宅みやけ思想しそうれる[7]。デザインを日本にっぽん知的ちてき資源しげんととらえ、文化ぶんかとして社会しゃかい根付ねつかせたいというみは、三宅みやけライフワークになった[1]三宅みやけつねつぎ時代じだい見据みすえながら、あたらしいふくづくりの方法ほうほうろん可能かのうせいしめした[7]在学ざいがくちゅうの1961ねんだい10かいそうえんしょうだい11かい(1962ねん)と2ねん連続れんぞく現在げんざい佳作かさくにあたるしょう受賞じゅしょう頭角とうかくあらわした[31][32]以来いらい既成きせいわくにとらわれない自由じゆう発想はっそうのもと、独自どくじ素材そざいづくりからはじまる創作そうさく活動かつどうおこな[7]

1962ねん大学だいがく3ねんのとき、ライトパブリシティ半分はんぶんいていた関係かんけいから[20]同社どうしゃ知人ちじんにアートディレクターの村越むらこしじょう紹介しょうかいしてもらい[20]こわいものらずで村越むらこしに「ふくつくってみたい」とったら、村越むらこしから東洋とうようレーヨン(げんとう)1963年版ねんばんカレンダーよう衣装いしょう制作せいさくすすめられ[20]、これが最初さいしょ仕事しごととなった[5][7][20]とうレとはそのあらたな素材そざい開発かいはつとそれをかすためのデザインの模索もさくつづける[24][33]。すぐに横須賀よこすかこうこうから電話でんわがあり、資生堂しせいどうはるのキャンペーンの衣装いしょうや『はな椿つばき』の仕事しごとをする[20]だい1かいコレクションは卒業そつぎょうの1963ねん発表はっぴょうした「ぬのいし」で[5][30][34]三宅みやけふく視覚しかくてき創造そうぞうぶつであると同時どうじ純粋じゅんすい実用じつようてきアイテムでもあることをしめすため、これを東京商工会議所とうきょうしょうこうかいぎしょ発表はっぴょうした[26]三宅みやけ当時とうじ、デザインかいのスターとして登場とうじょうしてきたひとで、周囲しゅうい全員ぜんいん興奮こうふんしていて繊維せんい会社かいしゃスポンサーはいってショーをすることになった[34]。このショーにずみモチーフにした作品さくひんふくまれていたため、すべての準備じゅんびととのったショー当日とうじつあさに「ずみアウトローのものだから、当社とうしゃとしては同意どういできない」といわれた[34]当時とうじ広告こうこく業界ぎょうかいにファッションをやるひとがおらず[35]当時とうじ日本にっぽんではCoutureをまな場所ばしょもなく[14]ふくをどうやってつくっていいかからず、奇抜きばつふくをたくさんつくった[35]業界ぎょうかいじんには大変たいへんおどろかれ、日本にっぽんのファッションかい寵児ちょうじになった[29][35]

世界せかいでの活躍かつやく[編集へんしゅう]

しかしファッションを独立どくりつしたデザイン分野ぶんや認知にんちしない当時とうじ環境かんきょう苛立いらだち、1965ねんパリわた[6]オートクチュール組合くみあい学校がっこうÉcole de la chambre syndicale de la couture parisienne(サンディカ)」でまな[5][6][13][14]。1966ねんギ・ラロッシュのアシスタントとなる[8][13][14]。しかしオートクチュールは、いわばブルジョア社会しゃかい奉仕ほうしするような仕事しごと[20]、「これは自分じぶんのやりたい仕事しごとではない」とかん[20]ジバンシィでデシナトゥール(完成かんせいしたふくにする仕事しごと)にはいなお[13][14][20][36]。パリモードがオートクチュールからプレタポルテ移行いこうする時代じだい[24]実用じつようてき衣服いふくをデザインすることで、ひとかた表現ひょうげんするプレタポルテの若手わかてデザイナーたちはおおきなショックをけた。1968ねん五月ごがつ革命かくめい人々ひとびとて「こういうひとたちのふくつくりたい」「わずかなひとではなく、おおくのひとへのふくづくりをしたい」とおもさだめた[1][5][6][8]三宅みやけは「bourgeoisのためにふくをつくりたいとおもったことはない。ファッションは上流じょうりゅう社会しゃかいやオートクチュールだけのものではない。なにか、いままでにないもので、気安きやすく、値段ねだんたかくなく、日常にちじょう生活せいかつはいっているものを目指めざそうとめた」などとべている[8]からだにフィットしたヨーロッパの高級こうきゅうふくより、インドサリーのようにいちまいぬのにまとうほう普遍ふへんてき姿すがただとかんがえ、さらに「生地きじをできるだけてずに使つかうこと」をみずからにした[5][16][36]三宅みやけもり英恵はなえともにオートクチュールの文化ぶんかはだ数少かずすくない日本にっぽんのファッションデザイナーで[24]三宅みやけかえって「わたしはオートクチュールをまなびました。それはわたしにとって非常ひじょう教育きょういくでしたが、かれらはすでにそれを完成かんせいさせていました。わたしはそれをえることができなかった。だからわたしなにあたらしいことをするためにニューヨークにった。ヨーロッパのファッションとはちがなにかをかんがえなければならなかった」[13][24]、「西洋せいよう遺産いさん欠如けつじょ本当ほんとう利点りてんになりることを発見はっけんした」「ふくつくるにはスケッチをして、ぬのがあって、って、って、それでふくになるとおもわれている。それはいい方法ほうほうだけど、伝統でんとうてき方法ほうほうだ。すこ反抗はんこうてきかもしれないけれど、“べつ方法ほうほう”をつけるのはたのしいよ」などとはな[9][24]、それは三宅みやけ一生いっしょうをかけていかけるものづくりのテーマとなっていく[24]。パリで4ねん修行しゅぎょうしたのち[35]どものころからのあこがれもあり[20]、1969ねんアメリカニューヨークうつり、7ばんがいで、Geoffrey Beene仕事しごとをするなど既製きせいふく経験けいけん[5][13][35]三宅みやけ行動こうどうりょく際立きわだっており、後進こうしんデザイナーにおおきな影響えいきょうあたえた[16][29][37][38][39]

日本にっぽん帰国きこくの1970ねん、「三宅みやけデザイン事務所じむしょ」を設立せつりつ[5][8][13][26][40]以来いらい日本にっぽんから世界せかいいどつづけることを40ねんわたつづける[17][41]一貫いっかんして世界せかいたたかうためのじゅつとして意識いしきしてきたのが「つね現場げんばくこと」と、商品しょうひん提案ていあんするための「戦略せんりゃく」であった[41]翌年よくねん2がつにはニューヨーク市内しないのデパートに「イッセイ・ミヤケ」のコーナーを開設かいせつした[42]。1971ねんには死者ししゃへのオマージュとしてつくられた伝統でんとうてき日本にっぽんタトゥー触発しょくはつされ、ニューヨークで「タトゥーコレクション」を発表はっぴょう[9]

1973ねん日本人にっぽんじんデザイナーとして先陣せんじん[1][6][13][16][29][43][44]、「イッセイ・ミヤケ秋冬あきふゆコレクション」でパリ・コレクションはつ参加さんか[1][14][29][36]どう世代せだい高田たかだ賢三けんぞうらとともに1970年代ねんだいに、日本にっぽんという島国しまぐに国際こくさいてきなファッションマップにせる原動力げんどうりょくとなり[6][13][14][45][46]川久保かわくぼれい山本やまもと耀司活躍かつやくするみちひら[6][13][29][43][47]日本にっぽん素材そざいんだふくづくりにいどんだイノベイターといえばさんたくである[16]。1970年代ねんだい初頭しょとうから一貫いっかんして、日本にっぽん伝統でんとう素材そざいと、先端せんたんテクノロジーによる合繊ごうせんとをデザインで融合ゆうごうさせるクリエーションにいどみ、ファッションかいあたえてきた影響えいきょうはかれない[16]。「イッセイ ミヤケ」のショーは、パリコレのなかでも独特どくとくのポジションにあり[24]モデルのランウェイショーというよりもモダンアートパフォーマンスのようであり、おだやかで、清潔せいけつ美術館びじゅつかんごす時間じかんていたといわれる[24]。「イッセイ ミヤケ」がパリコレのなか特異とくいだったのは、"あたらしいデザイン"をおくつづけたからにならない[24]。1974ねん4がつのパリファッション・ウィーク外国がいこくじんデザイナーとしてはじめて出展しゅってん[6][13]のちにオート・クチュール・エ・ド・ラ・モード連盟れんめいのメンバーとなり[13]取締役とりしまりやくかいのメンバーとなった[6][13]西洋せいようの"構築こうちくてき"なふくづくりにたいし、日本にっぽんの"構築こうちくてき"なふくは、おどろきをもって世界せかいむかれられ、あたらしい時代じだい息吹いぶきとなった[48][49]三宅みやけはファッションにかんする西洋せいよう信念しんねん一貫いっかんして挑戦ちょうせんし、女性じょせいふくからだ輪郭りんかくわせてのみデザインされるべきであるというかんがえを否定ひていし、オーバーサイズでジェンダーレスなフィットを提唱ていしょうしていく[8][50]三宅みやけは、テクノロジーアート分野ぶんや自身じしん作品さくひんれることの価値かちだれよりもはや理解りかいしていた[51]。デビューとともにたか評価ひょうかた「Issey Miyake」は、その、50ねんちかくにわたって確固かっこたる地位ちい維持いじ[29]ちょうきにわたたか評価ひょうかるブランドは、ほんのいちにぎりにかぎられる[29]。1974ねん「ISSEY MIYAKE」のショップ1ごうてん青山あおやまにオープン[5]、1975ねんにはパリに海外かいがい1ごうてんをオープンさせ、おおきな成功せいこうおさめる[5][6]。1976ねん渋谷しぶやパルコ西武せいぶ劇場げきじょうで12にん黒人こくじんモデルだけを起用きようした「三宅みやけ一生かずおと12人ふたりくろおんなたち」とだいしたファッションショーをひら[13][24][29]。このことは今日きょう多様たようせいにつながる視点してん当初とうしょからっていたことをしめ[13][24]。1977ねん衣服いふくデザイン分野ぶんやはじめて毎日まいにちデザインしょう(1976年度ねんど受賞じゅしょう[29]。1978ねんには、存命ぞんめいちゅう衣服いふくデザイナーとしては、世界せかいはつ作品さくひんしゅう三宅みやけ一生かずお発想はっそう展開てんかい;ISSEY MIYAKE East Meets West』(平凡社へいぼんしゃ)が刊行かんこうされる[5]。"East Meets West"という言葉ことばはこのしょのタイトルに使つかわれてひろ使つかわれるようになった[34]。1979ねんコロラドしゅうアスペンで開催かいさいされた国際こくさいデザイン会議かいぎ のクロージングイベントで開催かいさいされたショー「Issey Miyake East meets West」は、デザイナーの野心やしん強調きょうちょうしたタイトルであった[6]三宅みやけふくづくりのコンセプトは、可能かのうかぎり「1ほんいといちまいぬの」から衣服いふく生産せいさんすることで[24][52]、このようなふくづくりは、従来じゅうらいのオートクチュールがたとは根底こんていから発想はっそうことなる"べつ方法ほうほう"[24]。それを初期しょきからささえたのが日本にっぽん合成ごうせい繊維せんい技術ぎじゅつ革新かくしんであった[24]衣服いふく原点げんてんである「いちまいぬの」で身体しんたいつつみ、“西洋せいよう”でも“東洋とうよう”でもない衣服いふく本質ほんしつ機能きのうう“世界せかいふく”を創造そうぞう[13][14][36]ぬの身体しんたいのコラボレーションというべきスタイルの確立かくりつは、1978ねん発表はっぴょうの「Issey Miyake East Meets West」で集大成しゅうたいせいされた。コンパクトに収納しゅうのうできてひと体型たいけいえらばず、しわにせず気持きもちよく身体しんたいにフィットする1993ねん発表はっぴょうされた代表だいひょうさく「プリーツ・プリーズ」はこれらの延長線えんちょうせんじょうにある[14][16][29][50][53]。フォルムをたもちつつも、からだしばらず、ひらたくたためるふく開発かいはつした[15]洋服ようふくでも和服わふくでもないデザインは、年齢ねんれい体形たいけい関係かんけいなくたのしめて、女性じょせいよろこびをあたえた[1]。しかも、世界中せかいじゅうひとがわかるかたち実用じつようせい個性こせいかせるうつくしさをそなえたふくは、おおくの女性じょせい支持しじ[1]。「プリーツ・プリーズ」はどこのくにのファッションの歴史れきしにもぞくさない三宅みやけ独自どくじのカテゴリーである[49]。その発見はっけんスカーフだった[9]とくメトロポリタン美術館びじゅつかんのCovid-delayed150周年しゅうねん記念きねんてん「About Time: Fashion and Duration in 2020」で展示てんじされた1994ねんそら円盤えんばんのドレスで有名ゆうめいになる[9][42][54]。1970~1980年代ねんだい日本にっぽん合繊ごうせんメーカーの飛躍ひやくときにあり、三宅みやけとうレなどをパートナーに最新さいしん技術ぎじゅつもちいたポリエステルナイロンといった素材そざいもちい、天然てんねん素材そざい主流しゅりゅうだったマーケットに"しん"をげかけた。これがこうだいヒット商品しょうひん「プリーツ プリーズ イッセイ ミヤケ(PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE)」誕生たんじょうへとつながる[24]。「1まいぬのらずにかたちつくる」そんな無理むり難題なんだいをあえてみずからにし、イノベーションちからりたことでポリエステルの製品せいひんプリーツのふくまれたとっても過言かごんではない[24]。プリーツにより、どんな体型たいけいであってもからだにピッタリで、しかもからだ凸凹おうとつ強調きょうちょうすることもない。いわばまんにんのいわばまんにんのためのオートクチュールの誕生たんじょうともいえた[24]。「プリーツ・プリーズ」は、国内こくない繊維せんい産業さんぎょういきあつめた素材そざい技術ぎじゅつに「ひとりひとりのための自由じゆうふく」という三宅みやけ独自どくじ発想はっそう[31]行動こうどうする女性じょせいのためにつくられた時代じだいせい世界中せかいじゅうあいされ[1][40]、2012ねんまで世界せかい27ヵ国かこく、435まんまいれたといわれる[16]ひろ視野しや社会しゃかい俯瞰ふかんしたものづくりは、多様たようせい重視じゅうしする今日きょう社会しゃかいにもフィットする[31]世界せかいもっと先駆せんくてきなデザイナーの一人ひとりとして称賛しょうさんされた[14]

「Issey Miyake」は、日本にっぽんファッションブランド草分くさわてき存在そんざい[13][14][16][43][55][56][57][58]世界せかいてきなブランドに成長せいちょうしたアジア最初さいしょのファッションブランドとなる[55]。それまでのファッションはパリやニューヨークから発信はっしんされて世界せかいひろがってく、その中心ちゅうしん西洋せいようじんだった[59]。そうでない日本人にっぽんじんにはふくのデザインなどできないという偏見へんけん差別さべつがあった[59]三宅みやけは、もり英恵はなえ高田たかだ賢三けんぞう川久保かわくぼれい山本やまもと耀司らとともに日本人にっぽんじんとして世界せかい進出しんしゅつ成功せいこう[59][60]とく三宅みやけ既成きせい概念がいねんくつがえ大胆だいたんふくづくりでおおきな衝撃しょうげき影響えいきょうあたえた[59][61]。アジアのデザイナーとしてはじめてフランスの一流いちりゅうファッション雑誌ざっしElle』の表紙ひょうしかざ[55]、「東洋とうようのデザイン」の代名詞だいめいしとなり[55]1980年代ねんだい日本にっぽん経済けいざいりょくとファッションりょく代名詞だいめいしともなった[7][14][32]。1980ねん~2000年代ねんだいフランス文化ぶんか大臣だいじんなどをつとめ、ファッションやデザインなどの後発こうはつ文化ぶんか国家こっか遺産いさん位置付いちづけたと評価ひょうかされるジャック・ラングは、「1981ねん当時とうじ、ファッションは『商業しょうぎょうせいたかぎる』として、映画えいが音楽おんがくなど文化ぶんかよりもかるんじられていたが(わたしが)ブル美術館ぶるびじゅつかんでのコレクション開催かいさい解禁かいきんしたり、『モードかいのアカデミーしょう』を創設そうせつしたりしたことで、かなり活性かっせいされたとおもう。三宅みやけからも『デザイナーたちがあらたな創作そうさく意欲いよく時代じだいだった。あなたがわたしたちにちからあたえてくれた』と評価ひょうかしてくれた」とべている[62]。また1980年代ねんだい日本にっぽん三宅みやけは、川久保かわくぼれい山本やまもと耀司とともに"DCブランド御三家ごさんけ"とばれた[48][63]三宅みやけ世界せかいでの活躍かつやくは、日本にっぽんにおける広義こうぎのファッション産業さんぎょう社会しゃかいてき地位ちいたかめた[64]

ファッションや文化ぶんか歴史れきし後世こうせいみも積極せっきょくてきおこな[31]。1973ねんにニューヨークのメトロポリタン美術館びじゅつかんた「現代げんだい衣服いふく源流げんりゅうてん」に衝撃しょうげきける[1]日本にっぽんでファッションは美術館びじゅつかんあつかうものではないとおもわれた時代じだいに、20世紀せいきひらいたデザイナーのふく保存ほぞんされ、しかもたんなる過去かこ遺物いぶつとしてあつかわれず、現代げんだいてき意味いみけがされ、あらたなものを原動力げんどうりょくになることをかんった[1]当時とうじ京都きょうと商工しょうこう会議かいぎしょふく会頭かいとうだったワコール創業そうぎょうしゃ塚本つかもと幸一こういちにこの展覧てんらんかい日本にっぽん開催かいさいしたいとつよはたらきかけ、1975ねん日本にっぽんはつ服飾ふくしょく展覧てんらんかいとして京都きょうと国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん実現じつげんした[1]。それが1978ねん西欧せいおう衣装いしょう体系たいけいてき収集しゅうしゅう保存ほぞん調査ちょうさ研究けんきゅうする京都きょうと服飾ふくしょく文化ぶんか研究けんきゅう財団ざいだん(KCI)の設立せつりつにもつながった[1][31][51]どう財団ざいだんおおくのデザイナーにとってかせない場所ばしょといわれる[31][51]どう財団ざいだん理事りじ深井ふかい晃子あきこは「近年きんねん経営けいえいにまでデザインという言葉ことば使つかわれるほど、デザインが重要じゅうようという認識にんしきひろがっている。三宅みやけさんはしあわせな社会しゃかいつくるためのデザインの重要じゅうようせいや、文化ぶんかとして根付ねつかせることをはやくからかんがえて行動こうどうし、先見せんけんあかりがあった」とひょうしている[1]。また三宅みやけジェンダーロールのパイオニアでもあり[14][65]、1970年代ねんだい当時とうじ80だいだったフェミニスト市川いちかわ房枝ふさえにモデルになってもらい、衣服いふく快適かいてきで、実在じつざい人々ひとびと自然しぜんうつくしさを表現ひょうげんしなければならないというメッセージをつたえた[14][66]市川いちかわが『アサヒグラフ』1974ねん10がつ1にちごう表紙ひょうしかざったときにていたふく三宅みやけデザインのものである[24]三宅みやけ影響えいきょうはオートクチュールメゾンをはるかにえてひろがり、ラテンアメリカでは、ジェンダーレスなファッションがいきおいをしているという[65]

素材そざいへの探求たんきゅう[編集へんしゅう]

1980年代ねんだいはいると、三宅みやけ関心かんしん身体しんたいうごきとフォルムの探求たんきゅうかう[5][9][43]。1980ねん、パリのポンピドゥー・センター上演じょうえんされたモーリス・ベジャールバレエ『カスタ・ディーヴァ』の衣装いしょうをデザイン[26]。その挑戦ちょうせんぬの以外いがい素材そざいたとえば、プラスチックかみワイヤーなどをもちいた意欲いよくてきなものだった[5][9][51]一連いちれん作品さくひんは「ボディワークス」と名付なづけられ、そのいちさくである「ラタンボディ」はアメリカの現代げんだい美術びじゅつArtforum』(1982ねん2がつごう)で表紙ひょうしげられた[5][9][51]衣服いふくデザインが美術びじゅつカバーストーリーとなったのは前代未聞ぜんだいみもんであった[5][51]。1984ねん世界せかいてき権威けんいのある「ニーマン・マーカス・ファッション・アワード」と「全米ぜんべいファッションデザイナー評議ひょうぎかいしょう」を同時どうじ受賞じゅしょう[67]。ノミネート理由りゆうを「もっと独創どくそうてき創作そうさく活動かつどうおこなった」とつたえられ[67]日頃ひごろしょうなど関心かんしんしめさない三宅みやけだいよろこびさせた[67]当時とうじ世界せかいてききていた"日本にっぽんブーム"は、三宅みやけ強烈きょうれつ個性こせいによる牽引けんいんがあったからこそで[67]強烈きょうれつ独創どくそうせい拠所よりどころに、一人ひとりみちきながら、日本にっぽんファッションかい主導しゅどうしてきたと国際こくさいてき評価ひょうかされた[67]三宅みやけ以上いじょうよろこんだのは、亀倉かめくらつよしさく磯崎いそざきしん横尾よこお忠則ただのり田中たなか一光かずみつら、日本にっぽんアートかい代表だいひょうするひとたちで[67]亀倉かめくらは「日本にっぽんのファッションが建築けんちくグラフィックならんで評価ひょうかされるようになった。あなたのおかげだ」とよろこびの手紙てがみさんたくとどけた[67]

三宅みやけわかころは、パリやニューヨークにんだが、なが東京とうきょう拠点きょてんとしている[8]三宅みやけは「日本にっぽんには、技術ぎじゅつ積極せっきょくてきれ、進歩しんぽとうと気風きふうがある。製造せいぞうメーカーのちかくにいれば、制作せいさく現場げんばかかわれるし、機械きかいってそのうごきからアイデアをることもできる。わたしにとってはそのほうのぞましい。またわかいスタッフと仕事しごとをすることで自身じしん刺激しげきける」などとべている[8]日本にっぽんではふくかたちにするのがデザイナーとかんがえられていて、つね海外かいがい情報じょうほうもとふくつくっていた[35]自分じぶんから情報じょうほうすということではなかったため、本当ほんとうクリエイターではない、はっきりした自分じぶん意図いとのあるものつくりたいと三宅みやけマテリアル日本にっぽんぬのるところへってらせて、染屋そめやってめさせ、それをパリにってってデザインした[8][35]三宅みやけ日本にっぽんのデザイナーが絶対ぜったい使つかわなかった剣道けんどう柔道じゅうどうのようなマテリアルを使つかはじめた[1][17]最初さいしょ日本にっぽんに「こういうかたで」「もっとやさしい風合ふうあいで」と注文ちゅうもんしても、趣味しゅみくらいにしかってもらえなかった。三宅みやけのデザインしたふくはパリではれても日本にっぽんではどこにもってないことがあった[35]。1980年代ねんだいコンピューター使つかってデザインをはじめる[8]日本にっぽん各地かくち素材そざい伝統でんとうてきわざと最新さいしんハイテク使つかったあらたなものづくりの追求ついきゅう長年ながねんのテーマとしてつづ[1][8][16][68]ルーシー・リーのボタンを使つかったふくを89~90秋冬あきふゆコレクションで発表はっぴょう。1999ねんイッセイミヤケのブランドを後進こうしんゆずったのち新規しんきプロジェクトに積極せっきょくてき[69]。2008ねん自身じしんのデザイン事務所じむしょないに「リアリティー・ラボ」と名付なづけた研究けんきゅう開発かいはつチームを設置せっち素材そざい研究けんきゅうすすめるなか帝人ていじんファイバー開発かいはつした、古着ふるぎなど不要ふようになったポリエステル製品せいひんをいったん液体えきたいにまでもど再生さいせいしたいと出会であい「英国えいこくまれのポリエステルは、戦後せんご日本にっぽん進化しんかさせた」というおもいもあり、2010ねんあきからのしんシリーズ「132 5. ISSEY MIYAKE」の素材そざいえらんだ[1][8]愛媛えひめけん松山まつやま工場こうじょうまれたいと福井ふくいって生地きじにし[70]石川いしかわけん白山はくさんなどでめ、東京とうきょうかたちにする[16][41]三宅みやけは「わたしふくだれかの一部いちぶになり、肉体にくたいてきにはその一部いちぶになる。もしかしたら、わたし道具どうぐつくっているのかもしれない。人々ひとびとふく購入こうにゅうし、着用ちゃくようしゃ創造そうぞうせいのためのツールになる」[9]、「わたしなにかをつくるとき、それは半分はんぶんしか完成かんせいしていません。人々ひとびとなんねんなんねんもそれを使つかうとき、それが完成かんせいします」[66]、「10ねんまえにデザインしたセーターを今年ことしのパンツでてもらいたい」などとはなしたことがあり[14][71]三宅みやけのデザイン哲学てつがくは、「やすく、かつ収納しゅうのうしやすいふくつくる」ことである[55]。このためほとんどのふくにポケットがいており、自宅じたく洗濯せんたくあらうことができる[13][24][50][55]三宅みやけは「ふく素材そざい無限むげんだいだ、なんでもふくつくれる」と[14]ココナッツつたからうままで、どんなものでもふく素材そざいになるとしんじていたため[10][45]、「イッセイ ミヤケ」はふくをデザインするまえに、まず「生地きじのデザイン」をおこな[55]生地きじのアプローチもまた革命かくめいてきなものだった[50]。また、三宅みやけのディレクションは、個人こじん創造そうぞうせい研究けんきゅうだけでなく、チームワークにも焦点しょうてんて、そのこと次世代じせだい人材じんざい育成いくせいつながった[13]次々つぎつぎおくしんラインのおおくがモノづくりの技術ぎじゅつ革新かくしん研究けんきゅうしゃ職人しょくにんたちの切磋琢磨せっさたくままれてきたものである[24]

愛用あいようしゃなど[編集へんしゅう]

1988ねん福岡ふくおかダイエーホークス(げん福岡ふくおかソフトバンクホークス)福岡ふくおか移転いてんの「伝説でんせつのガッチャマン・ユニホーム」を手掛てがけた[72]。1992ねん1992ねんバルセロナ・オリンピック競技きょうぎ大会たいかいリトアニア代表だいひょう選手せんしゅだん公式こうしきユニフォームをデザイン・制作せいさく[9][14]財政ざいせいてき余裕よゆうのないリトアニアのために、ミズノとうレなどに協力きょうりょくびかけ、45にんぶんのプリーツ加工かこうのユニホームを無料むりょう制作せいさくした[1]

Apple共同きょうどう創業そうぎょうしゃスティーブ・ジョブズトレードマークだったくろタートルネックは、三宅みやけデザインのもの[13][14][73]。ジョブズが盛田もりた昭夫あきお案内あんないソニー工場こうじょう見学けんがくをしたことがきっかけで[73]三宅みやけがソニーの従業じゅうぎょういんユニフォーム当時とうじとしては画期的かっきてきなデザインをほどこしているとき、アメリカにもどったジョブズは、Appleでもイッセイミヤケのユニフォームを採用さいようしたいと提案ていあんした[55]最終さいしゅうてきにはスタッフの反対はんたいにあって実現じつげんにはいたらず、ジョブズはイッセイミヤケに自身じしんのユニフォームを依頼いらい、ジョブズから依頼いらいけた三宅みやけは、タートルネック100まいを175ドルでつくったとつたえられている[14]。ジョブズは、生前せいぜん自宅じたく訪問ほうもんした伝記でんき作家さっかウォルター・アイザックソンにクローゼットのなかせ、「これがわたしふくです。わたしがこれから一生いっしょうるのに充分じゅうぶんりょうです」とい、なかには綺麗きれいたたまれたくろのタートルネックが100まい以上いじょうまれており、ジョブズはその言葉ことばどおり、その一生いっしょうくろのタートルネックとジーンズリーバイス501をごした[42][55][74][66]

漫才まんざいブームとき三宅みやけふく着用ちゃくようしてテレビに露出ろしゅつしたビートたけしは、「三宅みやけ事務所じむしょから『ウチのふくないでください』とわれた」というエピソードをちネタにしていた[32][75][76][77]。ビートたけしによれば、「三宅みやけ一生かずおだからたんじゃなくて、たまたま、これがいいとおもったのが一生いっしょうだった」という[77]漫才まんざい世界せかいかたちにうるさく、そのうちベストドレッサーしょうなどにたけしがランクインするようになり、表彰ひょうしょうしき私服しふく登壇とうだんすると権威けんいすじからクレームがるため、「これ三宅みやけ一生かずおなんです、タキシードよりたかいんです」とうと「じゃ、しょうがないな」となるため、意地いじでそのままつづけたという[77]

「イッセイ ミヤケ」の愛用あいようしゃとしてはに、ジョニ・ミッチェル[13][78]セリーヌ・ディオン[74]レディー・ガガ[79]ビヨンセ[58]リアーナ[13][78]ドージャ・キャット[13][78]ソランジュ[13][74]プレイボーイ・カーティ[80]ラッセル・ウェストブルック[13]ジャック・ラング[41]シャルロット・ペリアン[41]グレイス・ジョーンズ[13][45][27]メリル・ストリープ[78]ロビン・ウィリアムズ[27][58][80]モニカ・ベルッチ[78]メアリー=ケイト・オルセン[27][58][78]ケンダル・ジェンナー[80]スージー・メンケス[13]ウェンディ・ベケット[8]ザハ・ハディッド[14][78]キム・カーダシアン[78][81]ウェンデル・ロドリックス[81]Mura Masa [82]美輪みわ明宏あきひろ[1][83]小池こいけ百合子ゆりこ[8][84]楠田くすだ枝里子えりこ[83]ミッツ・マングローブらがいる[59][83][85]

文化ぶんか活動かつどうなど[編集へんしゅう]

1993ねん、フランスレジオン・ドヌール勲章くんしょうシュヴァリエ、イギリスロイヤル・カレッジ・オブ・アート名誉めいよ博士はかせごう授与じゅよ。1998ねん文化ぶんか功労こうろうしゃ顕彰けんしょう同年どうねん藤原ふじわらまさるともにA-POC(A piece Of Cloth)プロジェクトを開始かいし[5][8][9][15][48]コンピュータ・エンジニアリングにより、一本いっぽんいとから一体いったい成型せいけいふくつくすこの製法せいほうは、画期的かっきてきであり、ユニークな造形ぞうけいぬの無駄むだらすことができるとして注目ちゅうもくびる[8][15][40][49]。A-POCは着用ちゃくようしゃ簡単かんたんてて無限むげんリサイクルできるふくというプロジェクトで、デザインは機械きかいられ、衣服いふく模様もようエッチングされたながぬのはしらまれ、バイヤーは衣服いふくることからはじめる[8]ゆびつつ長袖ながそで半袖はんそでになり、ハサミると手袋てぶくろになる[8]ワンピーストップスになり、ベスト椅子いすになる[8]三宅みやけは「わたしたちはファッション(コミュニティ)ではなく、ひとけており、テクノロジーに魅了みりょうされている。人々ひとびと消費しょうひしゃになりました。かれらは自分じぶん服装ふくそう参加さんかする方法ほうほうわすれていました。A-POCはそれをおこないます。人々ひとびと自分じぶんふくつくることに参加さんかすることが重要じゅうようです」とべている[40]。「Issey Miyake」から男性だんせい女性じょせいのためのBao Baoバッグ[49][86]時計とけいフレグランス[49]いたるまで、12以上いじょうのファッションラインを開発かいはつ[74]、1999ねん10がつ自身じしんいたブランド「Issey Miyake」を後進こうしん研究けんきゅう専念せんねんした[6][74][17]同年どうねんべい週刊しゅうかんTIMEアジアはんにおいて、「今世紀こんせいきもっと影響えいきょうりょくのあったアジアの20にん」に、マハトマ・ガンディー毛沢東もうたくとうダライ・ラマ昭和しょうわ天皇てんのうらとともえらばれ[5]、「Beauty Maker(をつくるひと)」としてげられた[5][87]。2000ねん、パリ、ニューヨークで開催かいさいしてきた「ISSEY MIYAKE Making Things」てん東京とうきょう現代げんだい美術館びじゅつかん開催かいさい[40]同年どうねん、A-POCが衣服いふくでははじめてグッドデザインしょう大賞たいしょう受賞じゅしょう[29]。ファッションの分野ぶんやつね革新かくしんてきなデザインをつづ[87]アパレルという領域りょういきをやすやすとえ、デザインという幅広はばひろ領域りょういきで、多面ためんてきなクリエイションをかさね、それが賛同さんどう評価ひょうか結果けっかであった[29]。2005ねんだい17かい高松宮たかまつのみや殿下でんか記念きねん世界せかい文化ぶんかしょう彫刻ちょうこく部門ぶもん[52]、2006ねん東西とうざい文化ぶんか融合ゆうごう最先端さいせんたん技術ぎじゅつ追求ついきゅうによって、衣服いふく革新かくしんてき発展はってんおおきく寄与きよした業績ぎょうせきにより[15]だい22かい京都きょうとしょう思想しそう芸術げいじゅつ部門ぶもん[8][52][88]など数々かずかずしょう受賞じゅしょう。2008年度ねんどから2014年度ねんどまで朝日あさひしょう選考せんこう委員いいんつとめた。

2004ねん財団ざいだん法人ほうじん三宅みやけ一生かずおデザイン文化ぶんか財団ざいだん設立せつりつ、2011ねん2がつ1にちに、公益こうえき財団ざいだん法人ほうじんとなった[5]

2003ねん1がつ28にち朝日新聞あさひしんぶん夕刊ゆうかんにデザイン美術館びじゅつかん設立せつりつびかけるエッセイ寄稿きこう[8][89][90]おおきな反響はんきょうこし[89]おおくの賛同さんどうしゃ協力きょうりょくしゃ三宅みやけもとたかり、様々さまざま人々ひとびととのきょうはたらけによって[89]、2007ねん3がつ東京とうきょう六本木ろっぽんぎ誕生たんじょうしたふくあい施設しせつ東京とうきょうミッドタウンない併設へいせつされたデザイン拠点きょてん21_21 DESIGN SIGHT」(トゥーワン・トゥーワン・デザインサイト)をオープンさせた[1][8][15][31][89][90][91]三宅みやけが「21_21 DESIGN SIGHT」をオープンしたのは、日本にっぽんがクリエイティブな才能さいのう宣伝せんでんし、奨励しょうれいするのが苦手にがてだとかんじたからである[8]同所どうしょはデザインミュージアムではなく、あたらしいアイデアのフォーラムである[8]。1999ねん自身じしんつくげたブランド「Issey Miyake」を退任たいにんし、数々かずかずのデザイナーが三宅みやけ意志いし[5]。2022ねん今日きょうでも一線いっせん活躍かつやくする多数たすう後進こうしんそだてたのもおおきな功績こうせき[1][24][92][93]三宅みやけはその国立こくりつのデザインミュージアム設立せつりつ目指めざして運動うんどうつづけた[90]東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさいから4ヶ月かげつ2011ねんなつ三宅みやけは「東北とうほく底力そこぢからしんひかり」とだいした展覧てんらんかいを「21_21 DESIGN SIGHT」で開催かいさいした[24][94]三宅みやけは「東北とうほく各地かくちいきづくものづくりの奥深おくふか伝統でんとう優秀ゆうしゅう技術ぎじゅつは、日本にっぽん世界せかいをリードするしつたかさをほこっている」とかたった[24][94]

評価ひょうか[編集へんしゅう]

2010ねん11月、文化ぶんか勲章くんしょう皇居こうきょにて鈴木すずきあきら安藤あんどう忠雄ただお蜷川にながわ幸雄ゆきおらとともに受勲じゅくんした[18][13][16]、2010ねん9がつ28にち広島ひろしま名誉めいよ市民しみん[95][96]同年どうねん12がつ1にち広島ひろしまけん名誉めいよ県民けんみん[4]、2019ねん10がつ1にち名誉めいよ都民とみん称号しょうごうおくられた[40]。2016ねん、レジオン・ドヌール勲章くんしょうコマンドール[6][14][97]など国内外こくないがい勲章くんしょう受勲じゅくんしている[12][14]三宅みやけのコレクションは、ファッションビジネスのランウェイに登場とうじょうするのとおなじくらい頻繁ひんぱん美術館びじゅつかん劇場げきじょう舞台ぶたい登場とうじょう[26]美術びじゅつてき観点かんてんからも三宅みやけのデザインは、各国かっこく展覧てんらんかいなどでひろ世界せかい紹介しょうかいされ[6][13][15][51]、20世紀せいき後半こうはん特徴付とくちょうづける芸術げいじゅつとしてたか評価ひょうかされている[15]三宅みやけプラダ以外いがいで、the architectural press(建築けんちくメディア)にもっと引用いんようされている衣料いりょうひんブランドとされ[8]三宅みやけのlegacyは、国立こくりつしん美術館びじゅつかんニューヨーク近代きんだい美術館びじゅつかんメトロポリタン美術館びじゅつかんフィラデルフィア美術館びじゅつかんヴィクトリア&アルバート博物館はくぶつかんなどに所蔵しょぞうされている[5][8][42][45][53][98]三宅みやけオノ・ヨーコならんで世界中せかいじゅう認識にんしきされている数少かずすくない日本人にっぽんじん1人ひとりといわれる[14][59][87]

2022ねん8がつ5にちかん細胞さいぼうがんのため東京とうきょう都内とない病院びょういん死去しきょした。84さいぼつ[1][2]。 8月9にち三宅みやけつたえられると、世界中せかいじゅうのメディアが報道ほうどうした[13][14]リマ・アブドゥル・マラクフランス文化ぶんか大臣だいじんは「イッセイ・ミヤケは、うごからだれてまれるかたちのようなふく明日あしたかってはしうご現代げんだいからだげられ、つつみ、ねじれ、たたまれるきた素材そざいのようなふく夢見ゆめみていた」などと追悼ついとうした[6]フランス国民こくみん教育きょういく大臣だいじんなどをつとめたジャック・ラングは「イッセイ・ミヤケは神聖しんせい宝物ほうもつだった。今朝けさわたし永遠えいえんにやるせない気持きもちでいっぱいだ」と哀悼あいとうあらわした[6]。ブルーノ・パブロフスキー・オート・クチュール・エ・ド・ラ・モード連盟れんめい会長かいちょうは「イッセイ・ミヤケは偉大いだいなデザイナーであり、最新さいしん技術ぎじゅつ伝統でんとうてきノウハウ融合ゆうごうさせることで時代じだいきざんだ偉大いだいイノベーターでもありました」とひょうした[6]クリストファー・ケインは「三宅みやけたんなるファッションデザイナーではありません。かれ科学かがくしゃであり建築けんちくでもありました。かれふくたんなるファッションではなく、発明はつめい進化しんか頂点ちょうてんです」などとべている[13]ファッション工科こうか大学だいがく博物館はくぶつかんディレクターけんチーフキュレーター・ヴァレリー・スティールは「ルイ・ヴィトンマーク・ジェイコブスのずっとまえから、イッセイ・ミヤケはアーティストとコラボレーションしていた。かれはファッションとアートをマッチングさせるパイオニアだった」などとひょうした[51]。『ル・モンド』は「Isssey Miyakeの生涯しょうがいは、20世紀せいき後半こうはんのファッション史上しじょうもっと特異とくい作品さくひんひとつとして記憶きおくされる。かれたびは、創造そうぞうし、発明はつめいし、たびをし、ゆめて、芸術げいじゅつてきまたは技術ぎじゅつてきなあらゆる可能かのうなリソースをかれふくのために使用しようするのを夢見ゆめみたびだった。かれ野望やぼうは、ジーンズTてぃーシャツのような実用じつようせいとシンプルさをあたらしい衣装いしょう想像そうぞうして、すべてのひとのためにふくをデザインすることだった。かれつね自分じぶん職業しょくぎょう限界げんかいえようとしていた。そしてかれは、あかるいいろとプリーツ生地きじこのみ、どう時代じだい人々ひとびとのそれとは一線いっせんかくす、すぐにそれとかるスタイルであるシグネチャーを発明はつめいした」などとひょうした[1][14]。『ニューヨーク・タイムズ』は「日本にっぽんのファッションを世界せかいひろめた」[1]、『TIME』は「シャープなプリーツ、アバンギャルドなカット、signature fragrancesで名声めいせいきずいた日本人にっぽんじんアーティスト、イッセイ・ミヤケほどファッションイノベーション代名詞だいめいしとなったデザイナーはほとんどいない」[14]、『Vanity Fair』は「かれつよみは、美的びてきおよび技術ぎじゅつてき偉業いぎょうしん商業しょうぎょうてき成功せいこうえることができたことであり、ファッションはいろ、トレンド、ぶし問題もんだいえた」[13]、『The Art Newspaper』は「三宅みやけ過去かこ40年間ねんかんにオートクチュールやhigh-street dressの様相ようそうえ、コンテンポラリーファッションをコスチュームインスティテュートや美術館びじゅつかん回顧かいこてん定番ていばんにすることに貢献こうけんした日本人にっぽんじんデザイナーの革新かくしんてきなリーダーだった」[42]、『ArtReview』は「三宅みやけみずからを芸術げいじゅつだとはおもっていなかったが、アートとファッションの区別くべつむずかしくした20世紀せいき偉大いだいなデザイナーの一人ひとりとして記憶きおくされることはほぼ間違まちがいない」などと[45]、『¡Hola!』は「三宅みやけは20世紀せいき21世紀せいきもっと影響えいきょうりょくのあるデザインの天才てんさい」と[98]、『El Ideal Gallego』は「かれしえたことはファッション以上いじょうのものであり、プリーツと建築けんちくファッションの魔術まじゅつであり、素晴すばらしい才能さいのうち、日本にっぽんもっと重要じゅうようなクリエイティブであり、世界せかいもっとみとめられたひと一人ひとりだった」と[99]、『Slate』は、「Isssey Miyakeは、東洋とうよう西洋せいよう意図いとてき融合ゆうごうさせた20世紀せいき最大さいだいのデザイナーの一人ひとりであることに間違まちがいない。かれによって日本にっぽん間違まちがいなく世界せかいのファッションシーンの主役しゅやくになった。我々われわれかれにちふつはしとなったことをけっしてわすれない」[13]などとひょうした。フィリップ・セトンちゅうにちフランス大使たいしは「イッセイミヤケは、すべての分野ぶんや実践じっせん研究けんきゅう岐路きろきざまれた比類ひるいのない作家さっかです。デザインアイコンであるかれは、1973ねんにパリでファッションショーを開催かいさいした最初さいしょ日本人にっぽんじんスタイリストの一人ひとりでした。かれは"日本にっぽんでも西洋せいようでもないファッションをつくろうとした"のです。イッセイ・ミヤケは、日本にっぽんわたしたちにあたえてくれたもっと偉大いだいなパリのファッションデザイナーの1人ひとりでありつづけるでしょう。しん創造そうぞうてき才能さいのう芸術げいじゅつてき人物じんぶつ、そしてフランスと日本にっぽん文化ぶんか交流こうりゅうです。ちゅうにちフランス大使館たいしかんは、かれ記憶きおくかれ印象いんしょうてきなキャリアに敬意けいいあらわします」と追悼ついとうした[6]三宅みやけ世界せかいもっとられる日本人にっぽんじんデザイナーの一人ひとり[100]国立こくりつしん美術館びじゅつかんキュレーター本橋もとはし弥生やよいは「『三宅みやけ一生かずお』の名前なまえは、パリニューヨークだけでなく、インド東南とうなんアジアなどぜん世界せかいひろられています。かれのファッション業界ぎょうかいにおける功績こうせきは、たとえるなら、ソニーのウォークマン発明はつめい匹敵ひってきするものです」とひょうしている[55]はら由美子ゆみこは「パリで、日本にっぽんのファッションを世界せかいつうじるものと最初さいしょみとめさせたデザイナー。多様たようせい持続じぞく可能かのうせいなど、先見せんけんあかりがあった」と[1]稲盛いなもり財団ざいだんは「衣服いふくデザインは三宅みやけ業績ぎょうせきによって、まぎれもなく芸術げいじゅついち分野ぶんやであると認識にんしきされるにいたった。三宅みやけひと衣服いふく意味いみとありかた追求ついきゅうし、古代こだい伝統でんとう最先端さいせんたん技術ぎじゅつ西洋せいよう東洋とうよう造形ぞうけい衣服いふくなか融合ゆうごうした。さらに三宅みやけはその多面ためんてき活動かつどうによって、芸術げいじゅつ分野ぶんやにも多大ただい影響えいきょうあたえたのみならず、服飾ふくしょくデザインが現代げんだい芸術げいじゅつにおいてすぐれた表現ひょうげんりょくつメディアであると証明しょうめいすると同時どうじに、服飾ふくしょく生産せいさんという行為こうい自体じたい哲学てつがくてき行為こうい昇華しょうかせしめた」と称賛しょうさんした[15]日本にっぽん美術びじゅつ協会きょうかいは「30ねん以上いじょうにわたるデザインのなかで、三宅みやけ衣服いふく人体じんたい関係かんけい探求たんきゅうし、アートとファッション、自然しぜんとテクノロジー、イノベーションと伝統でんとうとく東洋とうよう西洋せいよう相互そうご作用さよう交差点こうさてんはたらいてきた。かれ実験じっけんてき伝統でんとうてき素材そざい使用しようし、アジアじんデザイナーとしてはじめてしんにグローバルになった」とひょうした[26]ジョルジオ・アルマーニは「東洋とうよう西洋せいよう過去かこ未来みらいあいだできる本物ほんもののイノベーターであり、だれにもまねできない」と称賛しょうさんした[1][13]ポール・スミスは「デザインかいしん予言よげんしゃうしないました。イッセイミヤケのおどろくべき創造そうぞうせい素晴すばらしい創造そうぞうせい無限むげん革新かくしんうしなうことはおおきな痛手いたでです」と追悼ついとうした[13][101]ジョナサン・アンダーソンは「かれのクラフトとテクノロジーへのみは、わたしたちのファッションの見方みかたえた」とはなした[24]コシノジュンコは、「素顔すがお孤高ここうだった。かれのデザインにはいと生地きじいちからつくるオリジナリティーがあった。とくにプリーツをやりつづけたことがおおきく、オリジナルになった」[32]ドン小西こにしは「もり英恵はなえさん、高田たかだ賢三けんぞうさん、山本やまもと寛斎かんさいさんとともに日本にっぽんのファッションをつくった重鎮じゅうちん一人ひとり感性かんせい大切たいせつにして衣料いりょうひんというものを芸術げいじゅつひんえた。デザイナーとしてだけでなくビジネスマンとして世界せかいむプランもかんがえ、当時とうじはいなかった"二刀流にとうりゅう"の先駆せんくしゃでもあった」とひょうした[32]横尾よこお忠則ただのりは「1970ねんごろは、ファッションはヒッピーカルチャーなどの社会しゃかい現象げんしょうむすび、思想しそうはじめていた。そこにけて発表はっぴょうしたのあるデザイナーが一生いっしょうさんで、最初さいしょ一人ひとりちかかったのではないでしょうか。川久保かわくぼれいさんや山本やまもと耀司さんも、そこにつづいたんだとおもう」などとひょうした[16][92]美輪みわ明宏あきひろは「合理ごうりてきやすく、いろがら洗練せんれんされていて、どんな場面ばめんでもられるふくだった。また一人ひとり天才てんさい日本にっぽんからいなくなった」と[1]深井ふかい晃子あきこは、「プリーツ・プリーズは登場とうじょうしてやく30ねんたったが、いま世界中せかいじゅうひとからあいされている。通常つうじょう1シーズンでわすれられるファッションとしては驚異きょういてきなこと。とき国境こっきょう人種じんしゅ階級かいきゅうえてられるユニバーサルデザインになった。流行りゅうこうではなく『ふく』をつくるとったかれおもいが実現じつげんされた。三宅みやけさんのふくは『うごくときれいにえる、うご彫刻ちょうこく』。日本にっぽんのファッションを世界せかいレベルにげた偉大いだいひとだった」[1][102]川島かわしま蓉子ようこは「三宅みやけした一連いちれん仕事しごとは、とお将来しょうらいからたときにも、デザインの歴史れきしなか脈々みゃくみゃくつづける、あるいは評価ひょうかされるにちがいないものが脈々みゃくみゃくつらなっている」などとひょうしている[29]安藤あんどう忠雄ただおは「現在げんざいから過去かこ、そして未来みらい見据みすえる視点してんち、ファッションというジャンルをえて20~21世紀せいき代表だいひょうする芸術げいじゅつでした」とひょうした[1][92]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

被爆ひばく体験たいけん[編集へんしゅう]

1945ねん小学しょうがく1年生ねんせい7さいとき広島ひろしまへの原子げんしばくだん投下とうかにより被爆ひばく[1][14]片足かたあし不自由ふじゆうだったのは原爆げんばく後遺症こういしょうといわれる[8][23]。「破壊はかいされてしまうものではなく、創造そうぞうてきで、うつくしさやよろこびをもたらすもの」をかんがつづけたすえ衣服いふくデザインを志向しこうするようになった[1][23]

2009ねん7がつ14にちづけの『ニューヨーク・タイムズ』への寄稿きこう (A Flash of Memory) [14][103]なか自身じしん被爆ひばく体験たいけんはじめて公表こうひょうした。三宅みやけは「破壊はかいではなく創造そうぞうできるものについてかんがえることをこのんできた」「『原爆げんばくびたデザイナー』というレッテルをられたくなかった」ことを理由りゆう被爆ひばく体験たいけんについては沈黙ちんもくつづけていたが[1]、2009ねん4がつにアメリカのバラク・オバマ大統領だいとうりょうプラハでおこなったかく廃絶はいぜつについての演説えんぜつ[104]が、「かたることに気乗きのりしなかった、自分じぶん内側うちがわふか場所ばしょうずもれていたなにかをました」という[105][106]三宅みやけ原爆げんばくについて「原爆げんばくいろ、いまでもイメージがかんでくる。いやないろだ」とはな[107]被爆ひばく体験たいけんかたることについて寄稿きこうなかで「個人こじんてきかつ倫理りんりてき責務せきむかんじている」とべている[1][105]

そしてA Flash of Memoryなかでオバマ大統領だいとうりょう広島ひろしま訪問ほうもんうながしており、これが2016ねん実現じつげんすることになった(バラク・オバマの広島ひろしま訪問ほうもん)。オバマへの土産みやげひんには三宅みやけ事務所じむしょがデザインした腕時計うでどけい万年筆まんねんひつえらばれている[108]

三宅みやけは1995ねん広島ひろしま平和へいわ記念きねん式典しきてん参列さんれつ。また毎年まいとし原爆げんばく投下とうか時間じかんわせて黙祷もくとうささげている[106]

活動かつどう[編集へんしゅう]

1970ねん 三宅みやけデザイン事務所じむしょ設立せつりつ

大阪おおさか万博ばんぱく参加さんかする2企業きぎょう1団体だんたい資生堂しせいどう日本にっぽんオリベッティプレスセンター、国際こくさい羊毛ようもう事務じむきょく)のコンパニオンユニフォームをデザイン

1971ねん ニューヨークで海外かいがいはつのコレクション発表はっぴょう

11月、株式会社かぶしきがいしゃイッセイ ミヤケ インターナショナル(現在げんざい株式会社かぶしきがいしゃイッセイ ミヤケ)設立せつりつ

1973ねん 73ねん秋冬あきふゆよりパリコレクションに参加さんか
1975ねん 1がつ、ブランド「ISSEY SPORTS」の発表はっぴょう

ニューヨーク、メトロポリタン美術館びじゅつかん主催しゅさい「Inventive Clothes 1909-1939」を「現代げんだい衣服いふく源流げんりゅうてん」として京都きょうと国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんにて企画きかく再現さいげん

塚本つかもと幸一こういち京都きょうと商工しょうこう会議かいぎしょファッション産業さんぎょう特別とくべつ委員いいんかい会長かいちょう当時とうじ)の協力きょうりょく実現じつげん。これをけ78ねん京都きょうと服飾ふくしょく文化ぶんか研究けんきゅう財団ざいだん(KCI)が設立せつりつ。)

1976ねん ショウ「三宅みやけ一生かずおと12人ふたりくろおんなたち」(東京とうきょう渋谷しぶやパルコ西武せいぶ劇場げきじょう大阪おおさか大阪おおさか府立ふりつ体育館たいいくかん
1977ねん 76年度ねんど毎日まいにちデザインしょう記念きねんショウ「Issey Miyake in Museum — 三宅みやけ一生かずおいちまいぬの」(東京とうきょう西武せいぶ美術館びじゅつかん

ショウ「Fly With ISSEY MIYAKE」(東京とうきょう明治めいじ神宮じんぐう外苑がいえん室内しつない球技きゅうぎじょう京都きょうと府立ふりつ体育館たいいくかん

1978ねん 「〈あいだ日本にっぽんとき空間くうかんてん参加さんか(パリ・装飾そうしょく美術館びじゅつかん、ニューヨーク・クーパーヒューイット美術館びじゅつかん
1979ねん ミラノではじめてコレクションを発表はっぴょう

べいアスペン国際こくさいデザイン会議かいぎ招聘しょうへいされ、ショウ「Issey Miyake East Meets West」発表はっぴょう

1981ねん ショウ「ISSEY MIYAKE IT'S SO NEAT」発表はっぴょう東京とうきょう明治めいじ神宮じんぐう外苑がいえん室内しつない球場きゅうじょう大阪おおさか大阪おおさか府立ふりつ体育館たいいくかん

日産にっさん・スカイラインのキャンペーングッズとして衣服いふく小物こものデザインをはじめる。

11月、なま活着かっちゃく「PLANTATION」を発表はっぴょう

SONY、神戸こうべポートアイランド博覧はくらんかいサントリーかんのユニフォームをデザイン

1982ねん 『Artforum』べい)のカバーストーリーに紹介しょうかいされる(執筆しっぴつ:イングリッド・シシー、ジェルマーノ・チェラント)

ニューヨーク、航空こうくう母艦ぼかんイントレピッドごうにて83ねんはるなつコレクションを発表はっぴょう。オープニングにてブランド「PLANTATION」を紹介しょうかい

1983ねん im(アイム)グループ設立せつりつ

イッセイミヤケオンリミット(IMO)設立せつりつ

1986ねん アーヴィング・ペンによる「ISSEY MIYAKE」コレクション撮影さつえいがスタート

『Time』(インターナショナルばん)にカバーストーリーとして紹介しょうかいされる(執筆しっぴつ:ジェイ・コックス)

1988ねん プリーツの仕事しごとはじめる
1989ねん 「Issey Miyake Meets Lucie Rie」てん企画きかく実現じつげん東京とうきょう草月そうげつギャラリー、大阪おおさか市立しりつ東洋とうよう陶磁とうじ美術館びじゅつかん

福岡ふくおかダイエーホークス初代しょだいユニフォームをデザイン・制作せいさく

1991ねん 1991ねん秋冬あきふゆパリコレクションにて、のちのPLEATS PLEASE ISSEY MIYAKEの原型げんけいとなるニット素材そざいのプリーツふく発表はっぴょう

ウィリアム・フォーサイスとフランクフルト・バレエだん公演こうえんうしなわれた委曲いきょく」のコスチュームデザイン・制作せいさく

1992ねん 香水こうすい「L’EAU D’ISSEY(ロードゥ イッセイ)」を発表はっぴょう

だい25かいバルセロナ・オリンピック競技きょうぎ大会たいかいリトアニア代表だいひょう選手せんしゅだん公式こうしきユニフォームをデザイン・制作せいさく

1993ねん ブランド「PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE」スタート
1998ねん A-POCプロジェクトをはじめる
2000ねん A-POCがグッドデザインしょう大賞たいしょう受賞じゅしょう
2001ねん 「ラディカル・ファッション」てん参加さんか(ロンドン・ヴィクトリア&アルバート美術館びじゅつかん
2004ねん 財団ざいだん法人ほうじん 三宅みやけ一生かずおデザイン文化ぶんか財団ざいだん設立せつりつ

「ダオメ Dahomey 1967: Photographs by Irving Penn」てん日本にっぽん民藝みんげいかん共催きょうさい

「21世紀せいき出会であい ― 共鳴きょうめい、ここ・から」てん金沢かなざわ21世紀せいき美術館びじゅつかん)にA-POC出展しゅってん

2005ねん 「ビッグバン 20世紀せいき創造そうぞう破壊はかいてん(パリ・ポンピドゥー・センター)にPLEATS PLEASE ISSEY MIYAKEを出展しゅってん

横尾よこお忠則ただのりとコラボレーション「横尾よこお忠則ただのり招待しょうたいするイッセイミヤケ パリコレクション 1977→1999」てん富山とやま県立けんりつ近代きんだい美術館びじゅつかん

2006ねん ニューヨーク近代きんだい美術館びじゅつかん(MoMA)の建築けんちく・デザイン部門ぶもんに「A-POC Queen」が所蔵しょぞうされ、同館どうかん新規しんきコレクションてんにて紹介しょうかい
2007ねん 21_21 DESIGN SIGHT開設かいせつ。ディレクターに就任しゅうにん

REALITY LAB. を設立せつりつ

2008ねん 21_21 DESIGN SIGHTだい3かい企画きかくてん「XXI c. — 21世紀せいきじん」をディレクション
2009ねん 21_21 DESIGN SIGHT「U-Tsu-Wa/うつわ — ルーシー・リィー、ジェニファー・リー、エルンスト・ガンペール」てんをディレクション
2010ねん 21_21 DESIGN SIGHT「REALITY LAB 再生さいせいさい創造そうぞうてんをディレクション

132 5. ISSEY MIYAKEを発表はっぴょう

2011ねん 内閣ないかく認定にんていけ、公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん三宅みやけ一生かずおデザイン文化ぶんか財団ざいだんへと移行いこう(2がつにちづけ
2012ねん 陰翳いんえい IN-EI ISSEY MIYAKE を発表はっぴょう
2013ねん 青森大学あおもりだいがく男子だんし新体操しんたいそう公演こうえん開催かいさい企画きかくおよびコスチュームデザインをがける(クリエイション・ディレクション・コレオグラフィ:ダニエル・エズラロウ/コスチューム:HOMME PLISSÉ ISSEY MIYAKE)<7がつ18にち 国立こくりつ代々木よよぎ競技きょうぎじょうだい体育館たいいくかん

HOMME PLISSÉ ISSEY MIYAKEを発表はっぴょう

2014ねん パリ・カルティエ現代げんだい美術びじゅつ財団ざいだん美術館びじゅつかん30周年しゅうねん記念きねんてん「Memoire Vives(きた記憶きおく)」へ陰翳いんえい IN-EI ISSEY MIYAKEを出展しゅってん参加さんか
2016ねん 「MANUS × MACHINA(機械きかい):テクノロジー時代じだいのファッション」てん出展しゅってん参加さんか。(ニューヨーク・メトロポリタン美術館びじゅつかん 5.5〜9.5)

IKKO TANAKA ISSEY MIYAKEを発表はっぴょう

2017ねん 「Items:Is Fashion Modern?」てん出展しゅってん参加さんか。(ニューヨーク近代きんだい美術館びじゅつかん10.1〜1.28, 2018)
2018ねん イタリアの建築けんちく「domus」(2018ねん4がつごう)にて、”Issey Miyake Session One”がはじめて紹介しょうかい

執筆しっぴつ:ミケーレ・デ・ルッキ 写真しゃしん:ジェイムズ・モリソン)

展覧てんらんかい[編集へんしゅう]

1983ねん 「ISSEY MIYAKE SPECTACLE: BODYWORKS」てん東京とうきょう・ラフォーレ・ミュージアム飯倉いいくら、ロサンゼルス・オーティス・パーソンズ・ギャラリー、サンフランシスコ近代きんだい美術館びじゅつかん、1985ねんロンドン・ヴィクトリア&アルバート・ミュージアム
1988ねん 「Issey Miyake A-ŪN」てん(パリ・装飾そうしょく美術館びじゅつかん
1990ねん だい1かいヒロシマしょう記念きねん三宅みやけ一生かずおてん TEN SEN MEN」(広島ひろしま現代げんだい美術館びじゅつかん

「Energieën(エナジーズ)」てん参加さんか(アムステルダム・ステデリック・ミュージアム)

三宅みやけ一生かずおてん プリーツ・プリーズ」(東京とうきょうひがしだか現代げんだい美術館びじゅつかん

1992ねん 三宅みやけ一生かずおてん ツイスト」(香川かがわ直島なおしまコンテンポラリー・アートミュージアム
1997ねん 「イサム・ノグチと三宅みやけ一生かずお アリゾナ」てん香川かがわ丸亀まるがめ猪熊いのくまつるいちろう現代げんだい美術館びじゅつかん
1998ねん 「ISSEY MIYAKE MAKING THINGS」てん(パリ・カルティエ現代げんだい美術びじゅつ財団ざいだん、99ねんニューヨーク・エース・ギャラリー、2000ねん東京とうきょう現代げんだい美術館びじゅつかん
2001ねん 「A-POC MAKING : ISSEY MIYAKE & DAI FUJIWARA」てん(ヴィトラ・デザイン・ミュージアム・ベルリン)
2003ねん 「なんなの?A-POC MIYAKE ISSEY + FUJIWARA DAI」てん東京とうきょう・Axisギャラリー)
2016ねん 「MIYAKE ISSEYてん 三宅みやけ一生かずお仕事しごと」(東京とうきょう国立こくりつしん美術館びじゅつかん 3.16~6.13)

受賞じゅしょう栄典えいてん[編集へんしゅう]

1977ねん 1976年度ねんど毎日まいにちデザインしょう毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ)(衣服いふくデザインの分野ぶんやでははつ
1984ねん 1983年度ねんどCFDA(アメリカファッションデザイナー協会きょうかいしょう受賞じゅしょう(3がつ1にち

1983年度ねんどニーマン・マーカスしょう受賞じゅしょう(4がつ6にち、アメリカ・ダラス)

1988ねん だい9かい国際こくさい文化ぶんかデザイン大賞たいしょう日本にっぽん文化ぶんかデザインフォーラム
1990ねん だい1かいヒロシマしょう広島ひろしま
1991ねん フランス 芸術げいじゅつ文化ぶんか勲章くんしょう 最高さいこうコマンドール受章じゅしょう
1992ねん 1991年度ねんど朝日あさひしょう朝日新聞社あさひしんぶんしゃ[109]
1993ねん イギリス ロイヤル・カレッジ・オブ・アート王立おうりつ芸術げいじゅついん)より名誉めいよ博士はかせごう授与じゅよ
1995ねん だい15かいきんはりしょう(La Aguja de Oro)受賞じゅしょう(スペイン・マドリッド)
1997ねん 紫綬褒章しじゅほうしょう受章じゅしょう
1998ねん 文化ぶんか功労こうろうしゃ顕彰けんしょう
1999ねん フランス リヨン大学だいがくより名誉めいよ博士はかせごう授与じゅよ
2000ねん だい32かい日本にっぽん芸術げいじゅつ大賞たいしょう財団ざいだん法人ほうじん新潮しんちょう文芸ぶんげい振興しんこうかい

デンマーク だい1かいジョージ・ジェンセンしょう(ツボウ財団ざいだん

だい18かい毎日まいにちファッション大賞たいしょう「ミレニアム記念きねんしょう」(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ)(過去かこどう大賞たいしょうを84ねん、89ねん、93ねん受賞じゅしょう

2001ねん カナダ、トロントのハーバーフロントセンター「世界せかいのクリエイティブなリーダーたち」14めいのひとりにえらばれ、カナダ総督そうとく当時とうじ)アドリエンヌ・クラークソンより授与じゅよ                              
2004ねん アメリカ オハイオ州立しゅうりつ大学だいがくウェクスナーセンターよりだい11かいウェクスナーしょう
2005ねん だい17かい高松宮たかまつのみや殿下でんか記念きねん世界せかい文化ぶんかしょう彫刻ちょうこく部門ぶもん〉(財団ざいだん法人ほうじん日本にっぽん美術びじゅつ協会きょうかい
2006ねん だい22かい京都きょうとしょう思想しそう芸術げいじゅつ部門ぶもん財団ざいだん法人ほうじん稲盛いなもり財団ざいだん
2010ねん 平成へいせい22年度ねんど文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょう(11月3にち皇居こうきょにて親授しんじゅ

広島ひろしま名誉めいよ市民しみん[4]広島ひろしまけん名誉めいよ県民けんみん[4]

2016ねん フランス レジオンドヌール勲章くんしょう コマンドール受章じゅしょう
2019ねん れいもと年度ねんど東京とうきょう名誉めいよ都民とみん顕彰けんしょう顕彰けんしょうしき10がつ1にち 小池こいけ百合子ゆりこ知事ちじより)[84]

イギリス ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツより名誉めいよフェローに選出せんしゅつ

出版しゅっぱんぶつ[編集へんしゅう]

1978ねん 三宅みやけ一生かずお発想はっそう展開てんかい - Issey Miyake east meets west』 平凡社へいぼんしゃ
1982ねん 『Katsu on Issey』 CBSソニー出版しゅっぱん
1983ねん 三宅みやけ一生かずお/ボディワークス』 小学館しょうがくかん
1985ねん 一生いっしょうたち』 旺文社おうぶんしゃ
1988ねん 『ISSEY MIYAKE: PHOTOGRAPHS BY IRVING PENN』 リブロポート
1995ねん 『ISSEY MIYAKE』 TASCHEN
1998ねん 『ISSEY MIYAKE MAKING THINGS』 AXIS inc.
1999ねん 『アーヴィング・ペン 三宅みやけ一生かずお仕事しごとへの視点してん もとめりゅうどう
2005ねん 横尾よこお忠則ただのり招待しょうたいする イッセイミヤケ パリコレクション 1977→1999』 美術びじゅつ出版しゅっぱんしゃ
2008ねん 『XXIc. - 21世紀せいきじん もとめりゅうどう
2012ねん 『PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE』北村きたむらみどりへん TASCHEN
2013ねん 三宅みやけ一生かずお 未来みらいのデザインをかたる』 岩波書店いわなみしょてん
2016ねん 『MIYAKE ISSEYてん三宅みやけ一生かずお仕事しごと もとめりゅうどう
『ISSEY MIYAKE 三宅みやけ一生かずお北村きたむらみどりへん TASCHEN
『Creativity is born 三宅みやけ一生かずお再生さいせいさい創造そうぞう清水しみず早苗さなえちょ パイ インターナショナル
2017ねん 『イッセイさんはどこからたの? ——三宅みやけ一生かずおひと仕事しごと小池こいけ一子かずこしる HeHe/ヒヒ

その[編集へんしゅう]

ドキュメンタリー[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 三宅みやけ伝統でんとうてきなクチュリエというよりは、プロダクトデザイナーのような作品さくひんにアプローチし、ファッションデザイナーというよりはたんデザイナー[6][8]あるいは「自身じしん活動かつどうはmaking things(ものづくり)」と名乗なの傾向けいこうがあり[9]、「現実げんじつ世界せかいひとふくつくることにずっと興味きょうみがあった」とかたっている[8][10]。また世界中せかいじゅう批評ひひょう三宅みやけはファッションデザイナーとはかんがえていない[9][11]三宅みやけすべてのひとのためにふくつくるというかんがえをち、これはファッションデザイナーにとってはアンチテーゼとなる[10]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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外部がいぶリンク[編集へんしゅう]